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2022/02/28/月曜日/日陰はまだまだ寒い晴〈DATA〉早坂書房/逢坂冬馬2021年11月25日発行2021年12月20日10版第11回アガサ・クリスティ賞受賞〈私的読書メーター〉〈こんなタイミングで読んでしまった。2.24翌日の混じり気のない明るい青空。戦火の街で空を見る人などいないだろうと胸蓋がる。本文384頁「オーストリア、ズデーデン等を領土的野心のままに獲得し、戦争を恐れる西側諸連合国がこれにひたすら妥協する姿勢を観測し続けた」ナチ政権はケーニヒスベルクの飛び地状態解消のため本土から東プロイセンへ至るダンツィヒ回廊を割譲せよとポーランドを恫喝。断固拒否されると正当性のかけらもない侵略に及び結果これが第二次世界大戦の勃発を招く。あの戦災、多大な戦死、何を学んだのか連合国側は。〉この本の感想をどう続けてよいものか。役どころを変えて現実が物語をトレースしているような錯覚に陥る。おまけに朝日新聞の多和田葉子さん連載小説が微妙に連打していて、もはや日常が溶けている。世界はみな百年単位のパンデミックを共に乗り越えようと不断の努力をしてきていたのではなかったか。ナチスもベルリンの壁も消えて、なおかつ地球温暖化の環境問題に取り組む新しい価値を持ち始めるのではなかったか。プーチン的人間が未だ生まれ来る土壌があるのか、旧ソ連は。彼と彼の側近らが退場すればトルストイやドストエフスキーの芸術大国ロシアは蘇生するのか。本書はナチスに対抗したソ連の女性スナイパーたちの史実に基づく人間物語だ。このような悲劇の重ね塗りをしないために、他国の言語を学ぶ、その人の名前で呼べる他国の個人と出会う、スポーツ的熱狂に陥らない、行動の目的を自分に問う、周囲は自分より賢いと常に自覚するなどなど、本書に散見される。自衛ということの範囲も思い知らされる。
2022.03.04
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2022/02/25/金曜日/穏やかな春晴れ〈DATA〉岩波書店/リチャード・チャーチ作大塚勇三訳1980年 岩波少年少女の本★1996年5月 岩波少年文庫〈私的読書メーター〉〈岩波少年文庫版で読む。オリジナルは1950年、文庫版は1996年。それにしては会話がいかにも古めかしい。いや、古めかしいのが好きな児童諸君もいるとは察する、現に私自身そのような子だったが…。おまけに最初の一行目「ワラビの海原」からつまずいた。ワラビという名の湾があるのだと勘違いしたのだが、海に例えたワラビは蕨であった。そもこの読書対象者よ、君知るや蕨?ただ少年5人の冒険そのものは彼らのパーソナリティとキャラクターの展開として読むと俄に興味深い。これが主題かも。本邦児童文学にそれを描いた作品あるかな?〉1980年に初訳されている。訳者の大塚勇三氏は私にリンドグレーンを思い出させる大好きなお人だ。しかしながら、文庫に落としたのは1996年だ。前年にはWindows95が出て、主婦もPCのグラフィカルユースを楽しみ、様々なトピックの会議室を覗き、世界から情報を引き出していた時代が始まっていたのだ。文中に見える「けぶり」って?気配のこと?そぶりのこと?これら用語の一つ一つを丁寧に手を入れないまま初訳を再利用したのであれば編集者の読書に対する横柄な態度が疎ましい。石井桃子さんは亡くなるまで推敲を重ねたのだ。さて、それはともかく。12歳前後のそれぞれに家庭の事情なども仄見える5人の少年が、洞穴の中を冒険する内にハプニングや危機、事故、感情のもつれなどを克服しながらサバイバルする物語は同年代の現在の少年たちにはきっと現実というよりはお伽噺に近いだろう。しかし、その冒険を通して彼らの変化しないキャラクターと変化していく、もしくは立ち現れてくるパーソナリティは今を子どもとして生きている人たちに訴えてくるものがあるかもしれない。恐らく家が没落の最中にある、冒険のための豊かな持ち物も自信もない憂鬱なジョージが徐々にリーダーとして現れたり消えたりする様子、その魂の立ち現れ。洞穴内を照らすカンテラはジョージのアトリビュートでもあろうか。はて、洞穴での人間劇は私にプラトンの洞窟の比喩を思い出させる。囚われの我らが理解するに至らないイデアについて。影を真実と捉える我らの知覚を超越したところにある、物事の本来あるべき姿、善そのものを目指すことの重要性。冒険を終えた物語の最後、ジョンが最初に一人で潜り込んだとき失くしたジャケットのボタンを、ジョージは「そうそう忘れないうちに」と言ってジョンに渡す。作者は物語中ジョージがそれを見つける場面は描いていない。善のイデアをボタンに象徴させたやり取りではなかろうか。
2022.03.01
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2022/02/18/金曜日/春めいた晴天でも夜寒し〈DATA〉株式会社講談社/石沢麻衣2021年7月7日第一刷発行2021年7月21日第三刷発行〈私的読書メーター〉〈凄い才能だと素直に驚く。詩人にして作家の出版デピュタントを寿ぎたい。宮城県生まれ、おそらく仙台で過ごした著者の、あの大震災から始めなくては自身の地平がぐらつく、そんな決意が偲ばれる。身体と精神に起きたことを地軸と時間軸を緩めたり歪めたりしながら、白い夏の光の中のゲッティンゲンの地に集合させた。漢字で記す月沈原はアルトドルファーの海のように青く凪いでいるが、あの日野宮は暴力的な黒い海に飲み込まれた筈が私を訪ね当地へ来る。彼は地中から発掘された帆立貝を手にする。水から土に還る巡礼のよすがのアトリビュートを。〉3.11の後、繰り返し映像に流れた津波に破壊される海辺の町の風景。漂流する家屋。何日かして職場に戻る通勤電車中、私の眼前の見慣れた風景はいつの間にか津波に襲われ逆巻く波に翻弄され街並みが飲み込まれ変化していく。私だけが静かに座っている。そんな心象風景に何度も襲われた。あの地震が何故ここではなく東北だったのか。家も生命も奪われたのが何故私ではなく彼らなのか。堪らず人伝を頼り、東北に住む女性に話を聞かせてほしいと初めて仙台を訪ねた。一斉に光の消えたその夜の恐ろしいまでの星空。天から降り頻る輝きはその日消えた数多の生命だと思う、と彼女は話してくれた。恐らく、その夜その空を同時に眺めた人だけが心に留めた光。ー ー私の背中から生えて来た小粒の歯。背中から生えたのは羽ではなく歯。あの夜目にした光が彼女の中で変容して肉体のうち最も貝に近く、そして再生されるものに成り、野宮は漸く彼女へ言葉として近づく。再接近の消失点へと。ゲッティンゲンにある太陽系惑星の模型。かつてあり今失われた冥王星の行方。それはこの街で誰かの手に寄るのか偶に場所を移し出たり消えたり。死者と生者の出会いも、濃厚になったりかそけくなったりの明滅。星辰の彼方の巡礼の旅へ、いざ往け野宮。あなた自身の帆立貝のアトリビュートを携えて
2022.02.24
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2022/02/12/土曜日/晴〈DATA〉株式会社河出書房新社/川本直2021年9月20日初版印刷2021年9月30日初版発行装画 TANAKA AZUSA〈私的読書メーター)〈うむむ。騙され戸惑い弄ばれ感疾走。川本氏は覆面作家アンダーソンの回想録である本書を訳すが、それは20世紀アメリカ文学の裏面史とも言える内容だった。1968年政治の季節、NBCトークショー「文学の今」の放映シーンが真に迫る。いや爆笑。ホスト役A・ウォーホル始めトルーマン、ノーマン、ゴア・ヴィダル(←未読)それにジュリアンら今をときめく作家の個性炸裂にM・ジャガーのシャウトが被る。放映に続くアクシデント迄がハイライトか、川本氏登場後ややぬるい。プルーストが小説で示した「書くとは何か」実はこれが小説の主題?〉パローレとリテラを象る二人、それはジュリアンとジョン。歌い踊るジュリアンと資料を収集し編集し記録するジョン。この二つの行為によって創られる小説というものを、評論家である著者が物語の中に落とし込んだ配置。著者でもある?ジョンのナラティブ、プルーストを踏襲した小説でありアメリカの一時代を活写した古今東西物語案内、といえるのかも。ジョンの「失われた時を求めてを読み終えた二十歳、最終章の『見出された時』に驚嘆した。小説は問いだと言われるが、プルーストは答えを出していた。失われた時を求めては難解だと言われるが、それは間違いだ。ここまで手の内を見せてくれる小説もありはしない。失われた時を求めては如何にして小説を書くか何故このように書かれたかについて書かれた小説だと読者は知るのだ。」この部分はジョンに被せた著者の独白のように思う。これはプルーストみたいに描いてみた小説。振り返ってみた歳月は第二次世界大戦終戦前から60年ばかりの、アメリカ文化を野蛮なものと低く見てパリやイタリアで過ごした、その一時代のアメリカ人作家の心象。さらにこの物語に深い陰影を与えたのがアレクサンドロスとへファイスティオンの額物語を、ジュリアン=アレクサンドロス若しくはアキレウスに模して、その土地へ赴かせた描写と現在進行形の二重螺旋構造だろう。この努力が、ジョンなる人物を骨太くしたと思う。この段落のアリアのような歌い上げは素晴らしい。フィリップス・エクセター・アカデミーとかユニオンスクエア側の書店とかサンタマリア・ノヴェッラとかジバンシーとかハリーズ・バーとかに幻惑されていると本質をこぼしてしまう。それらは音楽でいうトリルの如き、ジュリアンのドレスのフリル如きもの…と想像したところで、はっ!ジュリアンってあの大島弓子の「ミモザ館でつかまえて」の亜麗じゃないの⁈という思いが拡がる。亜麗って悪魔って字に似てる、と平凡な女の子である主人公がため息つく…(1.2.3では遅い)touで立て♪亜麗がブラウスのフリルを震わせてタンバリンを腰に当て歌い踊る、あのイメージが凄く喚起されるんですけど。あー記憶が靄る。大島弓子作品は現在別の場所に保管中で確認できない。やっぱりトリルもフリルも好きだわ。本に導かれ、『ブライスヘッドふたたび』『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』を逍遥したい。最終章には多田智満子さんへのオマージュが。ハドリアヌス帝は確か、ユルスナールをいくつか漁ったときに出会っていたのか。詳細を存じ上げず検索、ハイライトしました。こんな方がいたのか、彼女の書物にも当たりたい。
2022.02.15
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2022/01/31/月曜日/〈DATA〉株式会社岩波書店/岸惠子2021年5月1日第1刷発行〈私的読書メーター)〈確かに伝記だが数奇な人生は映画世界のよう。バレエレッスン後に初めて観た映画「美女と野獣」。関心は映画に向かう。瞬く間の人気女優絶頂期、川端康成介添えでパリ御屋敷のマダムに‥は、やはり収まりきれない彼女の知的好奇心の疼き。思えば2.26事件の日の朝のラジオ、異様な緊張。幼い彼女の最も古い記憶は彼女の知らないユダヤパレスチナイラク訪問へ地続きだった。空襲下、大人に従わず命拾いした後の「もう大人の言うことは聴かない。十二歳.今日で子供をやめよう」の決意のきっぷの良さも雀百まで踊り忘れずの有り体で美貌と相乗効果。〉本当に美しい魅力的な女性。パリの街角でこんな日本人女性に出会ったら、同国人である事に少しばかり誇りを持ちそう。バカバカしくあろうとも気持ちってそんなものなのだ。ケンゾーが熱狂を持って迎えられたパリで、才能は才能ながら、矢張り三宅一生の登場に溜飲を下げたのは、娘さんのデルフィーヌさんではなかったかと記憶する。そういう事を書いたりするのがこの方のストレートに正直で愉快なところだ。ケンゾーさんは不愉快だろうけれど。例えばTV番組のためにアフリカの村を訪ねた時の記述、「ないものはない。あるものを感謝を籠めて享ける、という、ゆったりとした謙虚さは素晴らしい。」などに彼女の気質が見える。川端康成の『花のワルツ』を読んでバレエをやりたいと思ったのも、「挫折してゆくバレリーナの切ない美しさに惹かれて」であって、決して舞台のスポットライトを一身に浴びる華やかさでないところが、私的共感度高い。話は川端康成に飛ぶ。前回読書会のテキストが彼の『乙女の港』だったが、ついでに川端康成をいくつか読んだメンバーが彼はヤングケアラーの走りだよね、みたいな発見をしていて面白いと思った。文字化し共有されたのに普遍化はされてなかった、ということか?子どもは更に幼い子の世話を主に女の子たちが担っていたのに、当たり前過ぎて社会問題にさえならなかった、ついこの前の時代。老人の世話に倦む思春期の少年、しかも知的な。再度カワバタ読むべしかな。閑話休題。卵を割らなければ、の比喩は別れた夫イブのプロポーズの時の言葉でフランスの諺らしいが、トーマス・マンの『デミアン』「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。」がやはり思い出される。私の思春期、この言葉はいつも脳内に鳴り響いていた。彼女は日本という卵から飛び出した。そして上流の家屋敷の卵からも飛び出し、アフリカや中東に飛んだ。そして娘家族とのメゾネットアパルトマンという卵からも飛び出し、再び横浜の家に戻ってきた。次に壊す卵の世界とは、この地上だろうか。白州正子が韋駄天のお正なら、岸惠子は韋駄天のお惠といえる。おふた方とも自由である。自立している。突拍子もないけれど基層に小さきもの弱きものへの思いやりがある。曲がったことが許せず、権威など無縁。そしてどことなし両性具有の美がある。これぞ日本の女の美、ではなかろうか。
2022.02.07
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2022/01/29/土曜日/朝は曇り〈DATA〉株式会社すぐ書房/カーリン・ブラッドフォード訳者 石井美樹子1991年11月20日初版第1刷発行1987年度カナダ総督賞受賞作品〈私的読書メーター)〈ナショナルギャラリーマストシーの一つ「レディ・ジェーン・グレイの処刑」。19世紀作の画名はレディだが英王室は最初の女王と見なすとか。離婚のためにカソリックから宗派替えしたヘンリー八世亡き後、教会、貴族大衆含め宗教的大混乱の中、嫡男エドワードは早世。姉のメアリーかエリザベスが後継、のはずが権謀渦巻く権力闘争の中、騙し討ちのようにジェーンが担ぎあげられる。学問好きでギリシャ語でプラトンを読み、何よりも信仰と王の義務と議会を重くみる、王侯貴族中最も教養と品位を持ち合わせた少女は16歳で処刑台の露と消えたのだ。〉読メで、小学生の時にこれを読み衝撃を受け、何度も読み返してはナショナルギャラリーの絵を見に行くことを夢見て、10数年後とうとう思いを果たした、と投稿されている方がいた。何かとの出会うことの妙味というか、運命的な決定的な瞬間を持てることの僥倖とはこんなことなんだろうと思わされる。私は背景も知らず憧れもないままにこの絵を何度か見た。未だに記憶しているくらいだから絵そのものが訴える力は感じたけれど、所詮それで過ぎ去ってしまった。この本を読むと確かにもう一度「レディ・ジェーン・グレイの処刑」をじっくり見たいなあと思うのだ。ケストナーが「何」で泣いたかより「どれだけ」泣いたか、それが重要だと『飛ぶ教室』の序で書いていたと記憶するが、例え原因は些細なことであっても激しく魂が揺さぶられる、そんな体験は決定的なことではないだろうか。そこに大人も子どもも高尚も低俗も差異はない。真実の体験のみがあるのだろう。
2022.01.31
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2022/01/25/火曜日/朝は日差し〈DATA〉株式会社筑摩書房/鶴見俊輔 関川夏央2011年8月10日初版第1刷発行〈私的読書メーター)〈対談?形式だし鶴見さんの語り口は平易ですすすと読めてしまう。しかしその中身は思索のための手掛かりが豊富で読者の関心に応じ、本の地点から幾らでも広がることができる。明治150年が巷間賑わしていた頃、そこに意識を当てた私の試み読書。それが関川さんと鶴見さんで語られているとは美味しい。天才的個人が作り上げた見事な樽としての明治国家という装置論。日露戦争が終わった1905年以降の下降、戦後変わったものといえば高文の私腹肥やす賄賂と氏は言うが更に公文書書換も加えなくてはならない。読みたい本ばかりか漫画も増えます。〉母親の正義の恐ろしい効果に慄然としたのは河合隼雄『あなたが子どもだった頃』の鶴見俊輔の段。裸の自分をここまで晒す人間力というか、彼の言う敗北の力というものがこの対談にも連なる。江戸末期に個人として立つ有能な人物が沢山登場した。この国の貧しさを知る彼らは篩ではない樽国家を作り上げ、ジャンブリーズと大洋に漕ぎ出した。しかし樽は「個人」を産まず、衰微は既に日露戦争後に始まったと氏はいう。樽の持続効果ほぼ50年、その後の退廃と大敗の百年を経て、とうとう原発事故に繋がってしまった。長州が欧州連合にこっぴどく負かされた下関戦争後、伊藤博文は急遽留学先の英国から帰国し、藩内で使えそうな洋食食材を探し集めて自ら調理し戦勝国側を饗応した。鶴見氏のいう敗北力とはこれらの行為を指すらしい。日露戦争後、日本人はこれを無くしていると。そういえば、かの芥川龍之介が海軍機関学校の英語教師だった頃、学生らに「君たちは負けることを学んでいないから自分が教えてやろう」という面白い授業を展開していたとどこかで読んだ。各国リーダーと対話など老人政治家のペルソナが思い浮かばない。中曽根氏のちゃんちゃんこ、その後彼らの友情?はつづいたのかどうか。少なくとも明治末から大正過ぎまでは魯迅や李登輝ら東アジアのリーダーが胸襟開いて付き合える大人がこの国にはいたのだった。エネルギー➕あわよくば国防という戦略の原子力発電所の事故。防波堤の高さ不足や冷却装置電源予備など専門家のアドバイスが無視されたのであれば、あれは人災になる。鶴見氏の言う樽は「東大、文科省、天皇制」であろう。鶴見氏が強く実感していた頃に比べれば随分様変わりしているだろうが、明治天皇や東郷平八郎、乃木希典、吉田松蔭の神社があるのが私には不思議。彼らはついこの前生きていた、ただの、失敗多い人間ではないなだろうか。罪は知らないが神ではないだろう。そこそ樽ではあるまいか。あの敗戦時が千載一遇のチャンスであったものを、樽に詰めとけとばかりにGHQが外から手前味噌なタガを締めて、のうのうのうのうゆらゆらりん、未だ何処かの水際をちゃぷちゃぷ浮かんでるんだな我らは。その樽を壊すのでもなく飛び出すのでもなく、樽の内側をしっかり見据えよと言った吉本隆明を鶴見氏は高く買うそうだが、今現在、見据え続ける余裕が我らにあるだろうか。他にたいへん重要だと感じた、鶴見氏を生かし続ける己の内にある悪について。この悪という癌は年をとるほどに小さくなっているが、ぽっかり消えれば自身死んでしまう、と鶴見氏が感得するそんな悪の存在。悪が自分か自分が悪か。あるいは悪を収容する器は悪に染みるか。デモーニッシュ。これに取り憑かれて初めて人生の深みも尊さも、いやさ信仰も芸術も度し難さも己のものとなって発酵するわけで、味わいそこにあり。コロナウィルスもそのうちそうやって飼い慣らしていく?ネガティブケイパビリティについて。今日的現在的病をつらつらと考える今日この頃。
2022.01.29
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2022/01/23/日曜日/朝から寒い曇天〈DATA〉株式会社文藝春秋/李琴美2021年6月25日第1刷発行第165回芥川賞受賞〈私的読書メーター)〈昨年の芥川賞作と思い出すまで、YA小説は久しぶりと読み進めた。著者は台湾出身で独学で日本語を学び2017年来日。えーそんな短時間で日本語で、更に先島らしき言語も駆使してノロの世界を創造したのか。主人公の記憶を無くした宇実のように大変な勉強家で努力家だ。地理的状況は物語後半で明かされるが、車や太陽光発電パネルが島にもたらされても時代特定できないのがユニーク。寄せる波のように繰り返される歴史、災害、パンデミックとマイノリティへの目配せがパラレル感を読み手に与える。鳥葬など上橋菜穂子的文化人類学テイストも。〉台湾はじめ南沙諸島辺りは、人も風景も穏やかで優しい感じがする。時に『首里の馬』みたいなとてつもない台風が来るけれど、確かにその傷跡は残すけれど、過ぎ去ればどこまでも青い空があっけらかんと広がるのだ。沖縄本島を訪ねたほんの3年ほど前、人のいない砂浜で立派な紳士と娘さんらしき人が夕なずむ海に向かい、膝まづいて祈りを捧げる姿に出会わせたことがあった。しんとして威厳があって、信仰というものが太古からこうして続いて来たのだと、こちらも居ずまいを正したことだった。沖縄とその周囲は祈りの島々だ。台湾の道教のお寺とは明らかに違う。神道の最も古い姿を留めているのではないかと直感された。彼岸花の咲く島で、島生まれの少女と島に打ち上げられた記憶の無い少女がノロになるために女語を学ぶ。ノロは島の歴史を語り継ぎ、薬草作りや葬儀祭事、神事を司る女性の集団だ。彼女たちの鉄の掟で小さな島は原始共同体のようなまとまりを持ち平和に暮らして来た。二人の少女も自らの意思でその道を歩み出す。ニライカナイの解釈が私には腑に落ちなくもあったが、著者の母語ではない言語という挑戦に拍手したい。
2022.01.24
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2022/01/21/金曜日/早朝寒し、晴〈DATA〉株式会社作品社/編者 安西篤子1991年11月25日第1刷発行1994年7月20日第4刷発行日本の名随筆 別巻9〈私的読書メーター〉〈1991年初版だからまだ31年。だのに、この古色然とした風貌内容を怪しみ、過年の電脳変幻世界が思われ眩暈する。エッセイ選者が実に気が利いている。矢張り卓越しているのは小林秀雄「真贋」だろうか。氏は良寛の「地震後作」の詩軸を得て得意満面、が良寛研究家の知人から越後の地震後、良寛はこんな字は書かないとばっさりやられる。で氏も名刀で掛け軸をばっさりバラしそれを肴に夜更けまで二人して酒を呑む。凄まじい。私の好みは井伏鱒二、加藤楸邨、自作土偶の話、猿投などか。実は先日良寛の地震後作を見たのだが果たして真贋いかに。〉芝木好子を読みたいと考えていたところ、この随筆集の中に彼女の名を見つけ喜ぶ。加藤楸邨発見の喜びも加わった。氏の「骨董夜話」は6つの掌編から構成される。其々タイトルを付し、初硯、もう一つの世界、からむしの昔、達谷の銘、月下信楽、掌中仏。それらには俳人らしく、氏の句も添付されている。全体がその表題に似つかわしい静けさと深まりをたたえ、同時に氏の人間的魅力が伝わってくる。長く身辺にある硯について。戦前の中国開封の古い城内で出会った軍人とのたった一度お茶を共にした出会いの、いわば形見として手渡された端渓硯。それが東京空襲の最中、一刻一瞬を俳句に凝集するしか明日のない日々の中に入り込んだというのだ。自分で求めたモノに非ずして、自らの生命にも等しい己が創作を描き付ける筆記用具、硯。ただならぬ関係だ。このような出会いは余程の縁を結んでなければ生じ得ない奇瑞であろうか。詩人は「一日が終わってさて夜を迎えるというような時、暗い机の前でしずかにこの硯の面を撫でていると、かつてこの硯を持った代々の人々の思いがひそかに胸中を去来する」ような気持ちを述べる。ー 初硯ひとひらの雪載りにけり初夢、初詣、初硯。取り止めのない日々に句読点を入れて、新たまる心のありようを寿ぐ我らの暮らしの中に不動のように思える、重持ちする石の硯。そこにひとひらの、まるで己が命の如く儚い雪が淡く触れる刹那、うたが生じるそんなふうに感得、鑑賞するのだろうか。「もう一つの世界」は、昼の生活では掴みきれないもう一つの世界を生み出してくれる枕の話。氏が墨台にしていた陶枕がやがて本来の用途に戻っていく様子が可笑しい。そういえば、ル・グゥインの『夜の言葉』ももう一つの世界につながるエッセイだった。「からむしの昔」 筆算として用いたらさぞや良かろうと骨董店の灰皿に執着するも商品ではないと断られてみれば、それ以上先へは進めない。ところがこれもちょっとお世話する件があり頂戴することになった。何の用途か誰も分からなかったのを鮮やかに開示したのは奥さまだった話。その反応が氏の教養や品性の健やかさを伝えて気持ちよい。「達谷の銘」 衝動のように湧き上がるギリギリ簡素な暮らしへの憧れ、そんな時日本の辺地やシルクロードなような乾燥地に出かけるという詩人の心。その100分の1くらいは私にもあり、荒波が寄せ来る、木も生えないような岩だらけの北の島嶼へ旅することを夢見る。氏の焼き物への好みもそのようであることが、次の「月下信楽」へと展開される。最終「掌中仏」、これもまた敗戦色濃い昭和19年、従軍僧となったお坊さんが別れ際に氏のポケットに入れたものという。何か託さずにはおれぬ、加藤楸邨とは人をしてそのように思わせる、そんな心のありようの詩人なのだろう。モノとの出会い、或いは骨董というものの本質を言葉を弄さず伝えるのは技量にあらずして、氏の心と見た。
2022.01.22
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2022/01/14/金曜日/都心は風の強い晴〈DATA〉東京創元社/著者ポール・アダム 訳者青木悦子2014年5月30日初版2014年7月4日再版創元推理文庫〈私的読書メーター〉〈ヴァイオリン奏者の娘が、殺された父のヴァイオリンを追う児童書『消えたヴァイオリン』が思い出された。ミステリーとしてはそちらが面白かったかも。釈然としないのが伏線の曖昧な所。冒頭で弦楽四重奏を楽しむ仲間の3人のボリュームに比して一人神父は早々と立ち消え、別途犯人は最終やや唐突に登場。それにあのストラドはどんな経路で?これは私の読みが拙いのか或いは読者の想像で補うのか、そこがミステリー。むしろヴァイオリン器楽のためのオマージュとして上等な味わいがあると感じた。真に音楽的なるものは天上の如く倫理を奏でる。〉著者は英国人。イタリア好きはドイツ人と思いきや、英国人もそうなのかも。偉大なるシェイクスピアはいたけれど、音楽家って英国に誰がいる?なのに、オックスフォードにル・メシーがある事実を著者はスコットという英国人登場人物を配して、コレクターとしてのイングランドという一面も描いたのではないか。大英帝国時、世界の富の三分の一だかなんだかのポゼッションが彼らの女王のものだったのだから。そういえばクレモナ。アニメ耳を澄ませば、の男の子が旅立つ街と記憶。以前お稽古事レッスンでご一緒した方のお嬢さんがクレモナでヴァイオリン職人目指して留学中、とお話を聞いたことがある。何でも18世紀以前の建物に寄宿して、そこにはレッスン室があり、お嬢さん自身ヴァイオリンを弾くので嬉しいとか。さて、今はどんな活躍をされているのかしらん。物語次回作では、オークションに影のように出てくるアノニマスな日本人ではなく、こんな東洋の女の子が事件に絡んで意外に活躍、なんてなると面白いのに!ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ヴェローナ、ボローニャ。かつて3週間ほど旅して回ったけれど、クレモナには行ったことがない。本書を読んで訪ねたいと感じたのだから観光ガイドとしても成功している。もしイタリア渡航の機会があれば、そことボローニャに再び行きたいな。
2022.01.16
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2022/01/07/金曜日/南の窓はうららかでも風少しあり〈DATA〉中央公論社/星亮一2003年12月10日印刷2003年12月20日発行中公新書1728〈私的読書メーター〉〈判官贔屓だ。敗者の歴史とその鎮魂であるお能が好きだ。従って心情的に会津藩士にどうしても肩入れするのだが、そのセンチメントを少し払い除けてくれる本書。慶喜の描き方はいささかステレオタイプと感じたが、会津藩周辺の民百姓がどのようであったかの資料調査が充実している。勝てば官軍の薩長同盟に対して負ければ賊軍の奥羽越列藩同盟。官軍とて所詮寄合軍、巻き返す機会がありながら、実践を知る参謀も武器も兵站知略も無く、最後は最新式銃大砲に向かい槍で突撃するしかなかった老兵や哀れ。而、これはその後日本全体が経験した事に他ならぬ〉江戸幕藩体制から明治薩長同盟への移行について、私が学齢期に学んだものは世界に冠たる平和な革命、といった教科書を黙読したくらいで、近現代史は遂に授業内で省かれていた。御一新から150年になる今から5年前辺りから、その当時について書かれた記録や物語を思い出したように読み継いでいる。ついこの前起きた国内戦争の内実は今の地平に繋がっているわけだから。本書はコンパクトな新書版だが、会津戦争の激戦地となった市町村の史料なども読み込み、激戦地の周囲の村々がどんな様子であったか理解が進む。一度戦争が始まれば、生命を落とすのはサムライたちばかりではない。会津では籠城に至ったが為に、城内の女子どもも生命を落とした事はつとに知られているが、領地の、武士階級ではない男たちもにわかに軍内に組織されていたのだ。また官軍の北進にある町々、村々は青天の霹靂のような災禍が襲う。蔵の保存食が供出され、女性らは兵士の慰みに駆り出され、挙句戦略の為に村ごと焼き払われる様が克明だ。浪江町はこの時にも辛酸を舐めている。民百姓が生き延びる為の選択は道理で、当然強い側に着く。間道や山道を案内し、薩長同盟軍を支援した村人たちのあった事は会津藩に手痛い敗戦を強いた原因の一つとなった。そんな地域は長年会津藩政に恨みを抱いた原因にあると言う。本書は画像や地図などの資料も豊富で読みやすく分かりやすい。ただ、やや会津藩に辛口のように思ったのは、白虎隊記念館資料紹介にあって、私の記憶に一番残っている資料は紹介されていないなど散見される点。260年も天下泰平の世で、城内にプールを設営し、水の中の実戦的な騎乗訓練を行うなど、他の藩にはみられない工夫もあった事実を忘れてはいけない。本書紹介、板垣退助が官軍の側から示した敬愛が幾らかの慰めでもある。同時に三浦乾也が蒸気船造船を仙台藩の元に成し得た後、仙台藩内の半目で冷や飯をかこつ事になった時期とも重なり、その際の仙台藩の仕打ちは私には酷く感じるが、著者は仙台ご出身で、矢張り地元に緩いのはご愛嬌か。
2022.01.10
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2022/01/02/日曜日/午後は温かい晴〈DATA〉株式会社新潮社/川端康成昭和56年12月20日発行昭和60年8月15日四刷川端康成全集第二十巻〈私的読書メーター〉〈初読みは13、4歳頃。この世界にすっかりはまり込み、わざわざ遠くの女子校に編入学したのだから人生を変えた一冊といえる。読み直してみると改めて洋子という少女の崇高さが胸に迫る。人間というものは生きた年数によって、或いはその体験の嵩で完成されるとばかりは言えぬとしみじみ思う。清潔さ思索の深さ思い遣り、といった情緒の種の良し悪しは生まれ落ちた時から既にその人特有であるように思う。一見恵まれたお嬢様洋子のクリスマスの贈り物を心から尊く受け入れる三千子、挫折を通し人間の価値、自分の過ちを認める克子、乙女ら伸びよ。〉〈〈私は人間は生まれつき善なる存在と捉える。それでも自身の重ねた馬齢を通して人間本質の善なるものが人間個々の魂的レベルにおいて位階がある、という実感を覚える。 そう感じたのは勤務先の中学で尊敬すべき図書委員の女子中学生に出会ったことが大きい。彼女は未だ15歳だったが40過ぎの私よりもとてつもなく大きな人間だった。 トラブル対処の彼女の対応は私など足元にもおよばない叡智の輝くもの。彼女の存在は凡ゆる差異を超えて尊敬しうる人間のあることを教え、その感激はいつも新しい。同時にいつも自分の小ささを反省させる。〉〉洋子と克子は、ミッションスクールの新入学生三千子の鞘当てで、感情をもつらせる。洋子は樹木の花を愛する人、克子は濃い紫の匂い菫を愛する人。洋子は賢く控え目で思慮深く、克子は活発、スポーティで自分の感情を全て外に発散させる。そんな彼女は欧米の少女とも対等に交際する。まるで完成された人格者のような洋子という存在、しかしなぜそんなパーソナリティを持ち得たか、洋子の家庭の事情も段々見えてくる。三千子は洋子を敬愛し夢中になり、周囲からも二人はエスの関係であると認知される。そんな二人が離れた夏休み、避暑地で偶然克子に会った三千子は、後ろめたさを覚えながら克子の魅力にも惹かれる。そもそも誰とでも仲良くしてはなぜいけないのか、と考えてしまう三千子…三千世界に咲く花の、匂い立つ艶やかさ、少女たち薔薇は生きている、劇中劇のような洋館の荒れた庭。嫉妬深く意地悪な、強い娘はその強さで自らの過ちを認め許しを乞う勇気、克己がある。その時未来は新たに洋々と開かれる。無垢なものが誤謬を犯し、贖うことで真理に到達する。洋子は見守る人、証言する人であろうか。いや矢張り幾ばくか嫉妬もし恐れもしたのだ。それでも洋子は矢張り遥か高みを行く人。この3人の乙女は3人で一人のパーソナリティかもしれない。其々のペルソナが知性、感情、意志を示すかのよう。物語を読みながら時に宝塚が演じる源氏物語の世界が展開しているような印象も。本作は中里恒子の原作を川端が手を入れた事が定説だ。さて。この本に出会った中学時代。好んで読んでいたのが、哲学入門とか貝塚茂樹の論語とか宮沢賢治伝記とか岡潔や寺田寅彦の随筆だった。その折、人格とは遺伝をベースに環境と教育で作られる三角形、といった表記に出会ったことをよく記憶している。授業で「獲得形質は遺伝しない」法則みたいなことも学んだ頃。数学や音楽の天才が耳に似た形態の渦巻官をもつことはよく知られている。今日では笑い話だが、19世紀にヨーロッパを席巻した人相学、骨相学では犯罪を犯すものの外的特徴に共通するものを学者が真面目に研究したという。音楽、スポーツなどには確かに遺伝上のアドバンテージがあるように思うが、三角形パーソナリティから考察すると、犯罪は教育、環境因子に因ると思う。盗まなければ飢える状況下では私も盗みを犯す。これ間違いない。ところで最近の知見では離婚遺伝子なるものが存在するという研究もあるそうだ。ほんまかいな。その研究者自身に離婚因子があるので、離婚に至らぬよう環境を予め徹底的に考え、時間や趣味のありようを工夫している、というのは知人から聞いた話。知るは防御なり。しかし、簡単に道徳や善から転び落ちる多くの私のような人間の中に、より困っている人のために自分の全てを差し出す驚嘆するような人がいる。多くを持ちながらまだ貪る人もいる一方で。この違いとは何だろうかを考えずにいられない。本当に人格は遺伝、教育、環境の三つだけだろうか。人間は身体と感情と知性だけで認識できるだろうか。私の実感としてある大きな問題は「輪廻転生」という考えだ。因果応報、撒いた種は自ら刈り取らねばならないは道理。それが時空を超えて私という人間の実体に刻印される、今ある生は過去のどかかでの果である、という考えは私に根強くある。ごまかせる、騙せる、そんなものなど一つも無いという実感がある。遺伝は祖先から連綿と受け継いだ命のバトンだが、全き私は幾度か生きた人生でその時その時の私自身が、行為思考の中に記して来た一冊の本のような、何と名づけるべきか、霊魂か。言わばヒトとしての血統とindividualな霊統。この二つを有しているのが人間ではないだろうか。人は全て平等、尊厳を有している。にも関わらず明らかに霊魂において高低がある。ヒットラーもマザーテレサもヒムラーもガンジーも等しく人間だけれど、人間として遥かな距離がある。乙女の港を読んでこんな思索の旅もした。年の始めに。
2022.01.08
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2021/12/31/金曜日/寒く風花舞う日〈DATA〉里文出版/益井邦夫1992年5月25日〈私的読書メーター〉〈隅田川沿い長命寺裏の案内板。それにある洒脱な都鳥デザインは三浦乾也作。陶工でありながら長崎研修わずか半年で得た知識で日本初の蒸気船を仙台藩下造船。江戸湾まで航海、船長も彼自身という。黒船を見て蒸気の仕組みに気づき独学でモデル作りするなど開明奇才の人物だ。幕府に海防造船を建じ得たのも乾也とその養父が一流の陶工で将軍前立ての腕があった事が大と思う。本書は乾也を中心に鎖国から開国へ至る日本美術の血脈を風雲急を告げる時代背景の中、足で得た資料を元に描き、乾也の反骨風狂振りが克明。黒船や遊女も愛した乾也玉。〉乾也は薩長を嫌ったという。まあ代々幕府御家人の倅で銀座生まれであるのだから左様だ。江戸っ子に田舎侍は嫌われ会津藩士は同情含めて愛された。そんな所以の輪王寺宮の反錦の御旗なのだろう。さて乾也の父親清七は笛の名手で舞台に出、芸名構えていたようだから、侍とはいえ扶持薄くもっぱら芸能活動で糊口を凌ぐ有様、乾也は生まれてすぐ里子に出されている。或いは母の産後の肥立ちが思わしくなかったか。そんな乾也を清七の実姉夫婦が引き取り、乾也は江戸に暮らす。養父井田吉六は陶工として初めて将軍家斉の柳営で席焼を行った名工だ。その手ほどきを12歳で受け、15歳で生涯の師、五世乾山西村ニュウアンと出会う。乾山流陶器法の修行を行い、乾の一字を貰う。24歳で五世から乾山伝書一式与えられ六世を襲名した。当人は師への敬慕尽きず同列に並ぶを謙って終生、乾也とだけ称す。そんな所に人柄が偲ばれる。若き改革者、老中阿部正弘がもう少し長生きすれば、乾也の力量はその後の幕府の運命さえ左右したかもしれない、日本人による初めての蒸気船造船を成したのだ。その後もこの国は乾也を用いるには余りにも保守的泥縄的近視眼的だった。時代がこれだけの人材を用意しながら残念なことだ。弟子や養子に慕われながらもその才は明治22年68歳で閉じた。乾也は蒸気船ばかりか国産の碍子一号を工場生産させ、当時国産が無く大変高価な煉瓦を自前で作り、ガス燈の必要性を訴え、復活させた伝統窯も多々である。殖産によって富国強兵を成し遂げ、進んだ文化を取り入れつつ幕末から明治へ、日本を対等な独立国とすべく乾也は東奔西走した。江戸っ子らしい短気直情と諧謔、弱い者への温かい思い遣り。乾也の焼いた言問団子の都鳥の絵や乾也玉のアクセサリーに、私はその性質を見るのである。
2022.01.03
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2021/12/21/火曜日/気持ちの良い晴〈DATA〉毎日新聞出版/加藤陽子2021年7月30日第1刷2021年9月5日第3刷〈私的読書メーター〉〈折々に新聞紙上では目にしたが『それでも日本人は戦争を選んだ』以来。先の本は課外授業的性格上、著者のエモーションは排除されたが本書は著者の人間像が熱く伝播する。例えば宮古島の夜の海に戦時中漂流した兵士を思い、古代大陸の進んだ文化に憧れ漕ぎ出る祖先を夢想、或いは女子大生時代の勘違い男子の話など。とはいえ日本近代史の積年の学問資料研究により鍛錬された専門家としての揺るぎない勁さが心棒にある。関心の範囲は驚異的読書外に漫画も劇も映画も。飾りじゃないのよ彼女のキャリアは、は、汎〜、私思うに彼女は今や貴重な愛国の人〉やはり注目は日本学術会議のメンバーから外されたことに関して加藤先生がどのような発言、態度を示したか、に集まるのだろう。もちろんそのスキャンダルにも触れている。先ず第一章、国家に問う〜今こそ歴史を見直すべき、で歴史の皮肉を指摘する。日本学術会議が生まれた背景は先の対戦で戦争協力した学者研究者の痛烈な反省に基づく、ということから始まり、戦前ノーベル賞候補でもあった科学者仁科氏の敗戦の総括を引いて、彼のいう英米科学者よりも日本人科学者の人格的に劣る所に注目したこと。並列の人文系代表にはなんと折口信夫を挙げているのだ。彼は東京大空襲の最中も大森だったかの住まいから一歩も逃げず同性愛を貫いた御仁だ。その折口の筆記した英米青年の十字軍的情熱についてこの戦争に努力したなら日本に勝ち目はないと見ていたことを記述している。そして導き出したのは「いかなる国家も主権の行使が普遍的な政治道徳を破るような場合、主権を行使してはならない」との人類ベースの価値だ。そのような価値判断の研究こそ歴史学者ではないか。そのバックボーンには憲法23上というものが存在している。戦後幾つの内閣府首相が登場したかしれないが、本来微動だにしないのがこのイデアであるのに、それがぐらついている今日の心許ない有様に愕然とするのは私のだけだろうか。加藤氏には潔さよりも強かさを身上として学者の道を歩いて頂きたく願う。
2021.12.23
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2021/12/18/土曜日/晴、朝寒し〈DATA〉文藝春秋/藤沢周平文春文庫1981年12月25日第1刷1999年3月15日第22刷〈私的読書メーター〉〈生涯に二万を超える俳句を表した俳諧師一茶。蕪村にも自然主義的な印象を覚える句があるが、対象と対峙してみせる距離がある気がする。一茶は目線が自然ローアングルで、貧しい生活に密着した繰言のような俳句生活だ。せんべい布団と白湯の侘しさをかこつ暮らしの地口。句会主人から頂く謝礼金目当ての地方巡業。そんな為体の裏にあった継子の悲しみ。貧すれば鈍する姿を容赦なく描く藤沢周平の一茶は共感しにくい人物なのにどこか離れ難く哀しい。瘦蛙や蠅や雀、虱を謳い芭蕉、蕪村、一茶と今の世に並べられようとは中ぐらいを越えたオラが春かな〉藤沢周平は闘病時代に院内で俳句の会に入り、氏らしく俳諧師の研究にも没頭したという。その中で、小動物に眼差しを向ける慈愛と諧謔の一茶のイメージが覆り、俗の俗なる強かな一茶の生き方に出会うのだ。働き盛りに様々な理由でまともに働けず、名もない地方出身の我が身と重ねた世間、風評の眺め方がいっときにせよあったかもしれない一茶と藤沢周平。見続け謳い続け書き続け、食うための技とはいえ二万句越え。この世に生きる悲しみ過ち不遇は何も貧しい者の上ばかりではない。露光、成美、さつ。実に一茶を形成したこれらの人。その関わりの中にきらりきらりと詩情が確かな輝きを放つ。さて、氏の好みとする句。【木枯らしや 地びたに暮るる 辻「うたひ」】うたひ、には言偏に風の文字が当てられている。うた、にとてもよい当て字だが変換しようも見当たらない。特にこの句は成美をして「…高く心を悟りて俗にかえるべしという芭蕉の教えは、今もわれわれ俳諧を志す者のお手本です。ここからどちらに傾いても、みなうまく行きませんでしたな。」と言わしめ、この句には、ほばこの正風が生かされていると思う。と続く。ここが物語上も藤沢氏の文芸の見方についても同時に重要なところではないだろうか。さらに次の句を好むとある。【霜がれや 鍋の墨かく 小傾城】原文ママ発見!鍋の炭が正しい。墨と誤植したので意味がよくつかめなかった。或いは初発はこの墨の字を当てたのかもしれないが、やはり炭としたい。傾城の美女が元か、傾城は遊女を指すらしいが未だほんの子どもなので、小・傾城なのだ。その子が川で鍋にこびりついたススを洗っている。霜枯れた灰色の風景の中、冷たい水に手は赤く鍋の炭は黒い。おぼこ顔はいつかは傾城の美女ならぬ遊女となるか流れ着く川の水の先、黒いススは川床に屈託し、と一茶の心が動いた目に映る。禅画を見るような、こんな素直な句が、私なんかは好みです。うまさうな 雪がふうはり ふわりかな名月を とってくれろと 泣く子かな
2021.12.21
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〈DATA〉新潮社/半村良1988年10月20日発行〈私的読書メーター〉〈荒唐無稽なSF作家イメージ半村さんの地金というべきか下町人情物語。何世紀と人間がぎゅうぎゅう寄り添い暮らしてきた街の横丁では世の東西を問わず、こんな風に洗練された人情の花がさく。河岸は違えどナントカ芸者の心意気、旦那の若い愛人が宿した更に別腹の乳飲み子を一人で育てながらの割烹経営。そこに出張る老人客も娘を案ずれど銀座クラブは敷居が高い。ちっとも似てない母娘の仲良く連れ歩く姿を半村さんの慈愛の眼差しが包む。お上が人との距離を取れとお達しの世情、期間が伸びれば我らの心の裡にどんな変化が起きよう、さても浅草は。〉諏訪市にある、とある神社社務所にて。「善光寺さんではコロナでご開帳を来年に繰り延べしましたけど、諏訪の御柱祭はコロナだろうが先延ばし無しです。寅と申の年には必ず開かれます。」この揺るぎなさこそ諏訪人の御柱にかける千年二千年の熱情というものだろう。二つの大社にそれぞれ二つの宮と命懸けのお祭り=お祀りは日本三大奇祭の一つとも。そしてまた本書主人公ともいえる地霊浅草には観音さまと聖天さまがいらして、江戸三大祭の三社祭もあるではないか。三柱の神様と人心をぎゅっと掴む華のある祭。諏訪の古い信仰、諏訪湖の龍神さまと浅草に降りたった龍神さま。長い年月人間の為すことを見てござる。おっと随分遠くに飛び跳ねたのは半村良効果か。
2021.12.20
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2021/12/10/金曜日/薄晴〈DATA〉河田書房新社/宮本常一河出文庫2011年11月20日初版発行2019年10月30日14刷発行 〈私的読書メーター〉〈日本人とはどういう人びとだったかを山を主題にフィールドワークした著名な本。かつて山小屋設営用の道具や材木を何十キロ、身長の何倍ものそれを背負って高山を登る人たちがあった。今では想像もつかない労役だ。修験道たちは出羽三山から高野山へ里に降りることなく移動していた。敗走の武士集団も山中へ逃れたが平地の人らしく棚田の水田に精を出す。しかし狩猟と採取が主体の山びとは移動が基本だ。炭焼きも木を求め山ごと移動する。木地や漆、樽の職人らの技術の伝播、縄文への想像も。体制から離れた日本人集団が少し前までいたのだなあ。〉電車内用と就寝前用のデュアル読書が常で、同時に読んでいたのが『浄瑠璃妻』。それに含まれていた創作「鷹」と本書の菅江真澄の逸話が何となくシンクロして興味深い。「鷹」の初めの一文には「それ古より鷹の羽を都に送りし習あり。出羽の国とはいい伝う。」とある。菅江真澄は江戸時代後期に中部東北の日本を訪ね歩き旅行記を書きスケッチをたくさん残した、紀行作家の走りのような人。彼は遂に故郷の三河に帰ることなく東北に骨を埋めた。『山に生きる人びと』によれば関西方面に旅をする人に託して故郷の友人に手紙を出した。その中には「天明八年十一月一日至る白井英一贈之、松前鶴の思ひ羽」とある。それらの文を託したのは山伏ではなかったか、と氏は想定している。実際「太平記」には山伏が遠方への通信伝達の役目を果たしたことが記されているという。山伏といえば羽黒山、出羽の国。故の「思ひ羽」なのだ。大阪新淀川の橋下の筵小屋のうす汚いサンカの娘が水浴び後とても美しく見えたことや律令時代から飛騨匠なる評価のあったこと樽発明による流通量の拡大の最大がお酒だったことなど人の関心の不変も興味深い。
2021.12.12
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2021/12/08/水曜日/夜半の雨〈DATA〉演劇出版社/鷲見房子昭和55年1月16日発行 〈私的読書メーター〉〈浄瑠璃作家鷲見房子さんの限定800部。ほぼ私家版とも言える本書は彼女の生い立ちとその創作浄瑠璃や詩歌などが行きつ戻りつしながら最後の幕引きまで、惚れ惚れとする文芸一幕だ。生まれし時よりの文楽三業の縁の濃さ、もはや浄瑠璃の神様に選ばれしお人という他ない。2作目だったか「宝暦治水噂聞書」あゝこれを文楽で是非とも観たいもの。この創作に纏わる話がまた浄瑠璃噺。「古書には浄瑠璃は『夜歩きの友』」とあるそうな。著者は夜道を人世に置き換え、浄瑠璃を「孤独な心を寄せるもたれ木」のようなという。芸能精進の孤高者を想う。〉山川静夫氏の『文楽思い出ばなし』に出てくる鷲見房子さんの預かり娘お染めの話。その全てが「娘『そめ』こと」の章で開帳される。鷲見さんと桐竹紋十郎との父娘のような交情の件は、これこそ私らが失ってはならぬこの国の美わし、と思う。紋十郎弁「この首(かしら)をなあ、弟子にやったら、そら喜びますやろ。おおけにいうてなあ。それではわての気イがすみまへん。昔と今は違いま。人形遣いになるまでの血イの滲む苦労を知ってくれてはるお人にもろてもらわんと、これと生死を共にした甲斐がおまへん。わての娘だす。その娘を奥さんのおうちへ嫁入りだん。」紋十郎は、戦災の炎の中を食べ物も何も捨ててこの首だけをリュックにしまい逃げ惑ったという。その命そのもののお染めを鷲見さんに嫁入りさせに来たのだ。それに答えて鷲見さんご主人の言葉がいよいよ泣けるのである。紋十郎は更にそれに応えてどれだけの用意をしたか。このように生きていきたいと思わせるだけのものがここにある。そしてこのエッセイに続けた短い創作の「炎」。雨風はこれを消しにかかるが…「炎は 炎自身が燃えたいとき 燃え上がる」と筆を措く。これ凄くない?この炎こそ芸の血脈、と言っているように思う。蘭医の娘、細香の話。番の鴛鴦の仲良き様を見て小石を投げつける、ままならぬ恋想いの才媛細香の歌に対する良き理解者たる鷲見さん。或いは「鷹」の冒頭、「それ古より鷹の羽を都に送りし習あり。出羽の国とは言い伝う。これだけでもう、物語が翼を持ち空に舞い上がるよう。昔話を創作した「たにし妻」。これはすぐにでも老若男女は向けて舞台で様々な演出可能と感じた。
2021.12.10
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2021/12/05/日曜日〈DATA〉平凡社/重森三玲2020年4月15日初版第1刷 〈私的読書メーター〉〈著者の自宅庭園訪問が叶わず。せめてもと本書を読む。いきなりお小言を賜る。床の書画、花卉の入れ替え、周囲の丁寧な清掃を説くが近頃の住宅は床どころか和室もない。しかし考えてみれば床とはよく考案された様式だ。誰もが忙しく家政の美麗を尽くせぬなら土井式お盆食事のように、ここだけは!を死守する二帖大庵床間9尺に濡れ縁付け、面前枯れた壷庭。そんな簡略な工夫もあるべし。桂離宮の鑑賞談は流石に息をのむ。庭における永遠性の文中、庭園発想の根源にある日本上古の自然崇拝のメタモルフォーゼ描写はまさに見立ての庭を眺めるよう。〉桂離宮の章よりー「われわれが最高に敬意を払う点は、建築と庭園(茶室や路地も含めて)の全てが完全に調和したものとして造営されていることである。」「その本来の美的構成が、茶の湯の極意を心得ているものでなくてはできないはずである。台子の曲尺(カネ)を中心として道具の扱いが秘事口伝の心得がなくてはあの建築と、あの庭との相関性は出てこない筈である。」それから具体的描写が続く。御幸道を進む敷石の直線と蒲鉾型の自由な小石敷は中門を前に線を外し、飛び石が南北線をほぼ示し、四つ目形敷石から古書院玄関の踏石の角へ伸ばす線。踏石は更に逆に振る配置など「台子曲尺の陰陽和合の『峯ズリ』の極意からのみ判断され」「当時の大茶人小堀遠州あたりでないとできない芸当」という。桂離宮作者が不明であるとして、後の資料「桂御別業記」の中の策定者及びその手がけた庭を連ねる。これがまた訪ねたい庭がぞろぞろと。続く章は修学院離宮。こちらは若い頃私も訪ねた。京都で一時お茶のお稽古に通ったときにお師匠さんから特別拝観券を分けて頂いて。秋の明るい日だったが、もはや夢の如く記憶も朦朧だが、その後のトレッキングの度にあの庭の印象だけが思い浮かぶ。それまで何度か訪れ特に感懐を覚えなかった嵯峨野祇王寺。それが10年ほど前のある日、小さな前庭を見て突如として雷に打たれる体験、ああこれは宇宙を写している!という体験が庭への畏敬の始まり。
2021.12.08
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2021/11/30/火曜日/夜から雨〈DATA〉文藝春秋/大島真寿美2021年8月10日第1刷 〈私的読書メーター〉〈前作『渦』は文楽=人形浄瑠璃愛の熱量が素晴らしいものだったので、比較するとやや温度は下がったか。登場人物が多くていささか散漫になったような憾。半二亡き後、その周辺にいた人びとのその後の20余年が描かれる。趣味人松へ、浄瑠璃から歌舞伎の立作者になった徳蔵、引退後に復活した専助、そして半二の娘おきみ。彼らの人生模様がそのまま浄瑠璃の楽しみ方、鑑賞の方便のように感じられる。特に専助のパーソナリティが光る。大島さんは男性の方が上手い。半二最後の本「伊賀越道中双六」の完成者、近松加作については岡本綺堂案も下敷に?〉この方のデビュー作だったか『香港の甘い豆腐』だっけかな←調べればよいものを生来の怠け者Σ(-᷅_-᷄๑)それのスカスカした印象から、往年の女優を描いた『いつか目覚めない朝が来る』だっけか、そして文楽にやってくるまで、色々体力も厚みも付けたことがかなり想像されます。専助の、生きてるんだか死んでるんだか自分でも分からないようになって浄瑠璃の深い波間で揺さぶられている内、なんやら若い人びとをちゃんと育て成仏していく様子が、ほんと楽しめました。このようにして彼岸への一歩が渡れたら、芸術に焦がれた人の本望ですやん。北斎の娘、シーボルトの娘、新島八重、半二に娘がいたかどうかは杳としてるけれども「父の娘」のティピカルなおきみが、小さくでも大変重い硯を徳蔵に託す、ということ。これはいわばイモムシの脱皮だろうか。父の娘の終わりを告げる春の予兆か。軽やかに生きて、亭主名人芸の料理読本絵巻かなんかものす吉兆どすなあ。
2021.12.03
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2021/11/25/木曜日/晴〈DATA〉光文社古典新訳文庫/バーナード・ショー小田島恒志 訳2013年11月20日初版第1刷2021年6月10日第4刷〈私的読書メーター〉〈ピグマリオンとはギリシャ神話登場のキプロス王のこと、って一体何度読んだかギリシャ神話。この名を忘れてた自分Σ(-᷅_-᷄๑)王は自ら象牙に理想の女性ガラテアを彫刻。アフローディテに祈り生命宿った彼女と結婚する。さて理想の女性は彫刻的美貌なのかとショーが自問したかは分からないが、物語では上陸階級の研究者ヒギンズが専門分野の音声、言語学を用い荒削りな下町の花売り娘イライザを彫塑し淑女に完成させる仕上。象牙と違い生身の人間には創造不能な魂ちゅうものがあり…英語への愛着と保守性階級性への皮肉がピリリと笑える。〉これの主題は結局のところ何か?ピグマリオンが作り出し結婚する理想の女性。美=善のギリシャ神話時代には外的美しさのみ期待すれば、自ずと善なる魂が付帯していた、或いは女に魂は不要とか?ショーは言う。ピグマリオンによって創造された女がピグマリオンを好きになることはあり得ない。その女にとってピグマリオンは神に等しい存在だから20世紀の擬ピグマリオンであるヒギンズは、知性と結びつけた言語で理想の女性を創造すべく賭けのゲームをする。賭けには勝利したが、結果二人は猛烈に反発し合う。言語磨きによって淑女になったイライザはヒギンズのスリッパを用意する女ではなく、淑女として扱われることを要求するのだ。せめても友としての。知的にも芸術にも人間に対しても深い洞察力を備えたヒギンズの母の存在。それゆえの絶対独身主義というヒギンズのねじれた女性崇拝も手強い。自分の表面をみてちやほやする男よりも横暴でやりきれないヒギンズの中に深みを知る分別のあるイライザだが、実生活では、ヒギンズがボロクソに言う、甘ちゃんに過ぎないフレッドと結ばれるのは当然の帰結なのだ。となるとこれのお題は、結婚相手を選ぶリアル、であるのか。『人形の家』かジェイン・オースティンか。窮乏していたショーをその境遇から救ったのは資産を持つ妻だったが、女優に熱を上げその彼女のために書かれた作品。
2021.11.28
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2021/11/23/火曜日/曇り後晴〈DATA〉中央公論新社/山本章子中公新書25432019年5月25日第一版第1刷 〈私的読書メーター〉〈日米地位協定。その存在を知ったのは、そして切実に感じだしたのは沖縄訪問の数年前からだ。この本は2年前出版されようやく昨日読み終えた。その両方が遅きに失したというべきか、いやこの歳月あって少しずつ露わになり一般者が正しく捉え出すことができた、と考えたい。本作で沖縄県駐留米軍の理不尽な振舞いが現在の日米地位協定に照らして合法性のない事が明らかになったのは逆に衝撃的だ。国民に向けては一見日本の権利が少しずつ拡大される印象を持たせその背後で占領時代の密約を残す為に合同会議がある、この罪深い国政を知ってほしい。〉ひめゆり平和祈念館へのアプローチ右手に彼女たちや兵隊、地域住民が潜んだガマ、が覗けるように展示されている。私はここを眺めた瞬間何かに魂を乗っ取られるような体験をした。嗚咽は半時間止まる事なくそこにしがみついたまま動くことも出来なかった。かわいそうに!かわいそうに!かわいそうに!漏れる言葉はそれだけ。戦争は嫌だ。地上で人間が持ちうる最大の価値は自由だ。わたしはそう思う。思想信条の自由、何者かに恐怖心を持つ事なく脅かされる事なく自身の考えを公言できる自由。それを国家は「緊急事態」の名の元に奪う。それは超法規な状況だから過去も現在もあり、未来もありうる。戦争と限らず甚大な災害もあるだろう。ところがこの国には更に米軍プレザンスのダブルスタンダードがあったのだ。しかもその密約ルールは平時においても緊急時の扱いだ。宜野湾市の普天間基地を佐喜眞美術館のスポットから見たら、誰しも思わずにいられない。こんな事態が我が祖国で許される事自体がおかしい、日米安保要らないと。憲法9条を護持しながら独立国として最低限の自衛を進めればよい、とその時考えた。この本はしかしもっと周到に冷徹だ。日米安保条約を残しつつ明文化されてない密約を全て排除せよ、と。日米地位協定の内容は重大な犯罪を犯した米兵、軍属を日本の法で捌ける道が開ける。ドイツ並みに占有権を縮小していける…いや、これは私の期待しすぎか?しみじみ思うのは、友人、仲間をもつことの重要性だ。アメリカのまともな人びとに日本の現況を訴え、共感してもらえる友人をアメリカだけでなく中東にもアジアにも持てるかどうか。本を読んでそんな事を考えた。戦力で圧倒するパワーよりも遥かに難しい。背景の異なる人との友情はそんなナイーブなものではないだろうけど、少なくとも人間として相手から共感してもらえる、そんな自分を磨いていく。そう決意する。
2021.11.26
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2021/11/14/日曜日/概ね晴〈DATA〉同文書院/石井美樹子1994年2月26日第一版第1刷 〈私的読書メーター〉〈著者訳の四大悲劇版に触発され愛とロマンスでバランスを。収録10編のあらすじと著者の解釈、解説という構成。さらりと見比べた後、男装の乙女と嫉妬に駆られやすい権力者と現実を正しく見る従者、行き違いや誤解、妖精や魔法使いのひとおし等などがフーガの如く。著者いわく「気が狂わなければ、恋などできはしない。恋愛という狂気の過程を経てはじめて、愚か者でなければ二の足を踏む結婚に至ることがてきる。」確かにねぇ、それが根本テーマか。性ホルモンに鼓舞される若さの勢いが無ければ結婚までは中々。ユング心理学引用は蛇足のようにも〉紹介作品・夏の夜の夢好きな作品、舞台で2度観る。・ヴェニスの商人私もにはシャイロックが辛い。異教徒は忌み嫌われる。ましてユダヤ人であれば…蜷川演出で猿之助が演じたシャイロックが忘れられない出来。・から騒ぎクローディオとヒーローのカップルを現代に置き換えれば、甘やかされてお勉強もできて鼻持ちならぬエリートと自分で考えることのできないお嬢さんの組み合わせ?今どきそんな人がいるかしらん。一方、ベネディックとベアトリスのカップルは対等な関係で、ユーモアが介在している点、好感度は高いし、これなら今の世にたくさん見出せそう。この二つのカップルでは、属性か本質か、が肝心なことと言われているようにも思う。愛は本質に従う。・お気に召すまま男装のロザリンド、すてき。「恋愛は狂気の沙汰で、結婚は愚行の極地であっても、シェイクスピアは恋愛と結婚の愚行に身を投じる若者たちを祝福してやまない。愛を全人間性に関わる経験とするこの認識こそ、ロマンスの伝統なのだ。」なるほど。寂聴さんはロマンス的人間でした、合掌。・十二夜十二夜とは顕現祭のこと、だった。・終わりよければすべてよし・ペリクリーズ舞台は今のレバノンやシリア、エフェソスなど私好み。ここでも王の嫉妬や疑念が不幸を招くが、忍耐によってより輝きを得る展開が晴れ晴れとする。・シンベリン・冬物語・あらし/テンペストこれも舞台で見た。石井美樹子さんはこれのキャッチコピーを「魔術に支配された理想郷」としている。これは言い得て妙だと思う。魔術に支配された理想郷とは、シェイクスピアにとって舞台に他ならない。シェイクスピアはこの本を最後に芝居に沸騰するロンドンを去り、生まれ故郷に屋敷を得てジェントルマンの仲間入りを果たす。島の囚人にして君臨者プロスペロの神的力は魔術書、つまり言葉の力によるものだったのだ。やがてプラスペロ自ら魔術師のマントを脱ぎ杖を折って海に沈めることを誓う。そしてただの人間に戻ってゆく。全能の指輪を火の山に埋めにいく『指輪物語』のフロドのようでもある。魔術とは捨てるもの、なのだ。芝居の最後、プロスペロの口上「わたしの魔法はすべて潰え去りました。わたしは、みなさまの前に裸の身をさらしています。どうぞみなさまの温かい拍手を持ちまして、わたしに自由をおあたえくださいまし。」そして著者はー自分がいかなる人間かを知っていれば、悪と共存してゆくこともできよう。愛と許しがあれば、悪の渦巻く人間界も生きるに値する。ーと結ぶ。
2021.11.16
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2021/11/12/金曜日/晴〈DATA〉講談社/鎌田浩毅ブルーバックス B-20022017年3月13日第2刷 〈私的読書メーター〉〈未発なのに既に名付けられている震災がある。それが西日本大震災と呼ばれるもの。百年周期、かつ三拍子の強弱。甚大な被害は3回に一度あり2035〜38年頃がそれに当たるという。東南海、東海、南海が連動するのではないかと予測されている。三連動地震が起きた場合の日本経済リスクは千年に一度規模の東北大震災をはるかに上回るだろう。そんな列島、時代に自分は生きている。今日のコロナ、明日の地震。否、千年周期は白頭山噴火も共振するか。津波、倒壊、火事は凌ど噴火に術なし。プレートとプラームのテクトニクス、溶解金属の極移動、学習〉ニュースや報道で地震解説の折にはよく耳にするプレート。内実がよく分からないまま、とにかく日本列島にはこの四つのせめぎ合いがあるせいで地震が多発する、という理解だった。しかしプレートがどのように生じ消失!するのかおぼろげにも理解できた。プレートテクトニクスの動きがパンゲアを分解して其々の大陸となり山や海が造られていく様しかもプレート水平移動だけでなく、プルームテクトニクスの上下の移動が熱と質量、水によってなされる。その際の熱移動で地球の外核液体金属を流動させ、地磁気の方向も強さも過去に頻繁に起きていた。それを戦前発見したのが松山教授であった。当時、日本の地質学地学研究は石油などの資源がらみで各国しのぎを削る中、トップランナーに加わっていた、など地政学も絡めて、地学の現場主義、本物主義、長尺な視野を述べつつ、災害をいかに減じるか、といった人命に関わる学問でもあるのだ。そして著者はいう。高校での学びでは数学は17世紀、化学は19世紀、物理と生物は其々20世紀前半と後半。これに対して地学は正に今世紀発見の学を教える教科である、と。これは刺激されますねー来たれ自然科学に好奇心強き若人よ、地学の門を叩け!
2021.11.13
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2021/11/7/日曜日/曇り後晴〈DATA〉河田書房新社/ウィリアム・シェイクスピア石井美樹子 訳/2021年5月20日初版印刷2021年5月30日初版発行 〈私的読書メーター〉〈『マクベス』を読む。この時点で返却の至時。高額でも買おうかしら。何でこんなに面白いマクベス⁉︎マクベスを焚き付けるのは三人の魔女だけではない。奥方の非道振りが当初凄まじい。奥方に弱腰を咎められ、魔女の予言を成立させるべく謀叛殺人を企み次々と血塗られていくマクベス。一度悪事に身を染めれば底しれぬ奈落に陥るしかない。人間の女故の脆さが結局狂い死に至らす奥方と女の股から生まれなかった烈将マクダフの妻子の忌まわの会話の対比。「綺麗は汚い」ならぬ「晴は曇、曇は晴」のスコットランド。森が城に迫り来る様、指輪物語彷彿〉"Fair is foul, and Foul is fair,"余りに有名なこのセリフは、ずっと「きれいは汚い、汚いはきれい」だと自分の中にヒモ付けられていた。真理を巧みに忍ばせた魔女の言葉遊び的イメージで。ところがなんとまあ、石井訳は変わりやすいスコットランドの天気を言っている、と。確かに一日に一年があるような変わりやすい天気は、アイルランドがもっと激しいにしてもスコットランドも十分そうなのだろう。ダイレクトに天候の変わり目を伝えつつ、これから先に生じる登場人物の毀誉褒貶を印象づける伏線にもなっている。そもそもマクベスの第一声が"So foul and fair a day I have never seen "なのだ。そこで三人の魔女は並列のfoul とfairをお手玉した?舞台のスコットランドを加味するなら、ゴルフの時にでも言えそうなセリフかしらん。いやいやひょっとするとマクベスの言葉が魔的なものと気脈を通じさせたかもしれぬ、こちらで鳴らせばあちらで響く。「気をつけよう、甘い言葉と暗い道」だ。この物語を猛烈に働く組織人間の出世物語にも翻訳可能なところは、人間存在の本質をとらえている所以。百年二百年で人間変わりっこない。千年二千年で少し変化するだろうか。趣味とか好きなものなんていうのさえ、案外3代4代掛けていつかの時代のその血脈に、ぽかっと現れてくるものなんだろう。マクベスは悲劇的な人物だが、物語の最後は悲劇的ではない。寧ろ私には好ましいエンディングといえる。
2021.11.09
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2021/11/3/水曜日/秋晴れ〈DATA〉河田書房新社/ウィリアム・シェイクスピア石井美樹子 訳/2021年5月20日初版印刷2021年5月30日初版発行 〈私的読書メーター〉〈四つの内の『ハムレット』を読む。本や舞台で何度も出会った、その度のモヤモヤ。その背景を知りたくば図書館架に幅広でシェイクスピアに纏わる資料が潤沢な結構な国なのだが。沙翁初心者の私は、この本でハムレットと沙翁の骨格、構造が能く掴めた。第一資料であるテキストの誤訳に対する訳者の誠実な行動に共感をもつ。17世紀前後の英国の情勢を巧みに世相の鏡となす舞台がクリア。言葉の羅列には今の世に向けた皮肉?と得心させるもの多く。人間の思考進化の無さに加え、王の鷹揚気高さも失った我らの悲喜劇は在るかないか、それが問題。〉シェイクスピアにアーサー王伝説がどんな影響を与えたか、なんていうのも『アーサー王と円卓の騎士』を並行読書中、気にしていた。私の読んだアーサー王テキストではアーサー王が大陸の戦地に赴くに際してロンドンの都市と王妃グネヴィアを甥のモルドレッドに託す。ところが、この甥は彼女を誘惑し結婚を迫り、王であると宣言する。さて、王妃はどう反応したか。王妃はこれを唾棄してロンドン塔に立て篭もるのだ。ハムレットより古い時代。騎士は騎士らしく勇敢で、名誉と高貴な女性に生命を賭して駆け抜けた。歌になり誉れとなった伝統も失われた当節に、ハムレットはいう。「二千人の命と二万ダカットでもこの藁しべほどの問題に決着をつけられまい。これはありあまる富と平和が生んだ腫瘍だ。内部で膨れ上がり、外からは原因がわからぬまま、死にいたる。」「乳を吸う前に、乳房に敬礼をしたたぐいだ。退廃した我らの世が猫かわいがりする、あんなやからを大勢知っている。流行の言葉使いとうわべの社交術に長けている。泡のような連中だ。世故に長けためざとい連中の間をはったりでくぐりぬけるが、試しに一吹きするとーー泡と消える。」「おお、神よ、ホレイショー、このまま真実が伝えられぬならどんな汚名を残すことになるか!きみがいつもわたしを大事に思ってくれていたのなら天国への旅立ちの至福をしばし遅らせ、この厳しい世で、辛いだろうが、きみの言葉で私の物語を伝えてくれ。」今現在のどこかの国の政治諸々の堕落に、真の歴史的考察を与えよとする学術、公文書を黒く糊塗する権力のやりたい放題への、ハムレット否、シェイクスピアの遺言か。
2021.11.06
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2021/10/29/金曜日/午後やや曇り〈DATA〉福音館/シドニー・ラニア石井正之助 訳/NCワイエス 画福音館古典童話シリーズ81972年2月25日初版1999年5月15日第26刷 〈私的読書メーター〉〈再読本。いつも初読みたいに読める私。とはいえここまで蘇りのない本も珍しい。ズバリ筋が掴みにくい。児童向け福音館の編集意向が仇となったか、物語の因果を損なってるカン←心へんに感。心ある編集者なら指咥えてゲームコンテンツに奪われる子どもを取り返さないものかは。能テキストが様々な古典芸能その他に本地垂迹されるような感覚でトリスタンとイズーなんかも今回は別途楽しむことはできたけれど。エレインBの生命掛けの愛に応えられぬランスロットの「心を束縛されない愛」も、同性ならば騎士として従い同行できたものをと嘆息。〉昨夕のリモート定例会本。参加6名。スマホ画面でおまけに発言したいウズウズも皆にあり、の状況は6名がマックスかなあ。英国でフランスで、アーサー王は沢山書かれていて、翻訳編集がそのテキストによって登場人物の印象が変わる、ということが理解できた。ガウェインとランスロットの2派に好みが分かれる。義理上、老婆と結婚するガウェインのエピソードがぐっとくる。この老婆、実は魔法にかけられていて1日のうち半分若く美しい娘になる。夜と昼、どちらが若い方が良いかを問われガウェインが何と答えたか。これ、フェミニズム的にフェアだと参加者喜ぶ。ところでテキストによれば老婆ではなく、醜いと美しいバージョンもある。あ、いま気づいたけれど、シェイクスピアの「綺麗は汚い」って原語ではfairではなかったか。ひょっとしてガウェインの、魔法女の花嫁が思い出されていたかも⁈円卓の円が象徴する望月。ここにパーフェクトに優れた騎士がパズルのようにピタリと嵌れば、後は崩壊するしかないのが万物流転の無常。ランスロットとガウェインの闘いは当に「真の敵は、汝に無限の勇気を吹き込む」死闘だった。後、ランスロットは修行僧となり清貧の内に生涯を終えた。これ、能の世界に並ぶテキストかと感じ入る。
2021.10.31
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2021/10/29/金曜日/美しい晴〈DATA〉岩波書店/山川静夫2017年8月23日初版第1刷 〈私的読書メーター〉〈初めて見た文楽は人形の動きに魅了され、三業の残り、太夫と三味線に気が回らなかった。曽根崎心中だったが手元に記録無しの粗忽者。著者山川氏はそこが凄い。歌舞伎ににはまった学生時代からの記録帳は大阪勤務時代に文楽を加え、そのメモには奥様との会話の一端も含まれる!文楽を演じる方、支える方の芸に賭ける血の滲む鍛錬に、観る側のかくあるべし学究努力があってこその本書の仕上。複雑な事情を抱える文楽の裏と表が実に分かりやすい。お染の頭を託された事を知った浄瑠璃作家のご主人が「それだけでは風邪をひく」の情の顛末、これぞ文楽。〉人間国宝四世、竹本津太夫への山川氏のインタビュー。「床に現れた太夫は、必ず語りはじめる前に床本をおしいただきますが、津太夫さんはどんな御心なのでしょうか?」これが巨体の津太夫の琴線に触れたか、「ほんまに人間ゆうのは弱いです…」と、吐露した言葉も途中絶句となり、人間国宝となってさえまだ及ばない、先代の父のように語れない口惜しさに号泣する段、ほろりとする。三味線の十世、竹澤彌七に「一番悔しかった事は何ですか?」文楽の役回りの、また当人の個性など諸々の勘所を押さえた問いが、山川氏の天賦の才か。彌七、答えて「そんなもん、悔しい事ばっかりですわ。いくらでもありまっせ!」延々2時間ばかり具に語り続け「人生って悔しい事の連続と違いまっか」と最後は穏やかに収まったという。山川氏はこの事を引き合いに『真の敵は、汝に無限の勇気を吹き込んでくれる』という言葉を紹介してくれる。含蓄がある。まるで円卓の騎士ランスロットとギャラハットのような。打ち倒す敵だけれどもお互い正義がある、ような。生き死にの意義をもたらすというか。誠の友よりも誠の敵を得られるが至宝かも。話は変わるけど、登場される方のおおさか言葉がほんにええなあ、ひらがなの生きたことばやなぁ。
2021.10.30
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2021/10/26/火曜日/小雨後晴〈DATA〉平凡社/岡茂雄平凡社ライブラリー2311998年1月15日初版第1刷 〈私的読書メーター〉〈先に読んだ『本屋風情』。再び彼の筆に出会いたく手にする。先と重なる小編も幾つかある中、有名な観光地、上高地の当て字の出どころを探索する第二部「詮索」が白眉といえる。出版事業を通して学問に奉仕する志しを立てた岡青年。間違いがあやふやなまま世に定着するを潔しとしない徹底振りが底知れない。出版事業で学問奉仕の志しを立てた氏だが、本念は画家になる事だったという。故の石楠花風狂、屑屋の爺さん章にはくすり。良いものが世に必ずしも顧みられず、小賢しげな者が要領よく凌ぐ浮世であればせめて高山の花か氏の筆に触れるべき哉〉あら〜推敲なき文章をインスタントに投稿するとこんな結果、の二度書き文章(´;ω;`)岡茂雄さんに叱られそう、ごめんなさい。この本では『本屋風情』で詳細に触れられなかった落雁除隊の背景が分かった。四囲を山に囲まれ育った少年が、山、高原で可憐な花や神聖な風景に出会う。彼の豊かな感性は美に出会い、心を震わせ生涯を定める。しかし裁判官の父を早く亡くし、母の負担を慮る心優しさは彼をして美術の道を諦め、陸軍幼年学校へ進ませる。そこを通過すれば自ずと職業軍人となるが、初日の授業からして自分は誤った進路を選んだとの自覚を持つ。それが米騒動に軍隊が駆り出されるに及んで、このような事態は警察機関が出動するもの、軍の任務でないどころか困窮している農民側を苦しめ利益を得ている米問屋を助ける所業には加味できない、と除隊される事決意する。その為のあれこれの工夫が涙ぐましい。長谷川如是閑に傾倒した一片が垣間見える。彼の山岳博物館構想を松本市が実現していたらどんなだったろうと想像しながら、お城周りを散歩し、鉢伏山を登ってみたい。
2021.10.27
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2021/10/18/月曜日/いきなり晩秋の晴〈DATA〉講談社/乗代雄介初出 本物の読書家 「群像」2016年9月 未熟な同感者 「群像」2017年7月〈私的読書メーター〉〈常磐線車両内が物語の主要舞台。大叔父を高萩駅最寄りの老人施設に送り届けるべく指名された私。親戚の噂ではこの大叔父、若い頃に川端康成から手紙を貰ったらしい。この道行で開陳されるかも、と私の期待も膨らむ。そこへ関西弁の男が隣り合わせる。男の、小説や作家への知識が半端でない事が分かるに連れ、大叔父の秘密は徐々に明かされる。折々にフローベルやフォークナー、太宰や川端、夏目に二葉亭、サリンジャーなどの作品や言動が挿話され常磐線のリニアに唐草模様が自在に絡む印象の文章論の一面も。他に「未熟な同感者」含む。〉中学生の時にたぶん母がジュニア小説集を私に買ったのだが、川端康成の『乙女の港』にすっかり惹かれて何度読んだかしれない。随分時間が過ぎてこれが女流作家のオリジナルをリライトしたものと知り、軽い裏切り感を覚えたものだった。私の記憶は何処かで捏造されて、それは野上彌生子作品と思い込んでいたのがこの本によって中里恒子と修正された。よかった。サリンジャーが『ライ麦畑でつかまえて』を書いていた時の状況、全然知らなかった。これは高校生の時に自分のお小遣いで買って、もうもう繰り返し読んだ。自身の職業倫理観を作った作品だと思う。ところで著者は社会学部で何の勉強をしたんだろうか?
2021.10.20
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2021/10/14/木曜日/曇りのち晴〈DATA〉講談社/2021年7月5日出版小林エリカ 著/川名潤 装丁〈私的読書メーター〉〈ホームズに同名作があるんですね。著者ご両親は共訳全集もある有名なシャーロキアン。お父様は精神科医でエスペランティスト。本作は四人姉妹の末娘リブロ=著者、の成長を育んだ家族史であり、同時に父亡き後10年に起きた東北大震災、原発事故、コロナと苦難続きの日本現代史の同心円も広がる。文章が驚くほど平易なのは技か持ち味か。短編「交霊」は興味深い。「降神z」で得た霊たちとの会話をクラウド保存していた母が死に、いま悪阻に苦しむ娘がそれを聴く。キュリー夫人に殆ど憑依していた名もなき女の、そのモノガタリを。〉コナン・ドイルがその晩年、心霊現象に惹きつけられたのは弟と息子の死が大きな要因になったことだろう。しかし当時の欧州は心霊大ブーム、マダムブラバッキーなどいわゆる霊能力者が縦横に活躍した時代でもあった。永遠不滅の霊魂の存在を信じることは欧州の伝統的宗教の考えからは外れるが、ダーウィン進化論などに啓蒙された当時の科学的思考とは相性が良かったのかもしれない。奇行にも思えるドイルの振舞いには個人的時代的背景があった。著者は、短編「降霊」の中で、その行為を日本に暮らす私たちの等身大の世界に折り畳んで、非常に上手く落とし込んでいると感じた。英国シャーロキアンツアーに、未だ少女であったエリカさんを連れご家族で参加したご一家の強い念を覚える。ツアー一向はスイスにまで移動し、シャーロック、モリアーティ最期の地、ライヘンバッハの滝まで赴く。バリツなる日本武術を体得していたお陰で滝から生還できたとしてシャーロックは復活する。その地に仮装で参加したツアーグループ。著者のお父様は日本人バリツ武術家スタイルだったというから、お仲間中の崇敬を得たこと想像に難くない。私も実はこのライヘンバッハの滝に、たまたま10年位前にケーブルカーに乗って行ったことがある。シャーロックモリアーティの闘いの板絵みたいなものが設置されていたと記憶するが、果たして今は?
2021.10.15
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2021/10/10/日曜日/朝のうち小雨晴、風ややあり〈DATA〉早川書房/1978年出版(本国1963年)ジョン・ル・カレ著/宇野利泰 訳〈私的読書メーター〉〈タイトルと本作内容は非常に意味を持つんだろうなぁ英語母語の人には。と思えど貧弱な私の英語力。決してstep inside and warm up を伺えない、もう一つの壁があり、それは人種、歴史宗教の壁、の読みに留まる。ベルリンの壁崩壊からぐるり一世代過ぎ、(東)はこぞって個人の豊かな暮らしへEU奔流。それももいつしか自国主義、権威国家へ飛沫しぶく今となっては東西冷戦や諜報活動は既に古典世界。国家間よりも国家を凌ぐ巨大産業の知的財産諜報活動が今日的だろう。がそれ故に尚、斃れていく人の真実と人間、が光る。〉物語の中で愚か故に尊い愛情豊かなリズというコミュニストが配役されている。彼女は英国の共産党支部から東ドイツの視察員に選ばれ赴く場面がある。尤もミステリーにおいて偶然の出来事、産物は殆どない訳で、その背景に驚くべき仕掛けがあるのだが、未だ彼女はそれを知らない。彼女という人間性をよく活写しているのが、東ドイツ滞在中の、貧しい一家の暮らしの中に見出す印象をかこつところ。「…僧団内の生活みたい、とリズは思った。修道院とかキブツとか、そういったものでの生活の楽しさ。腹はいっぱいにしないほうが、世の中がよくなるように感じられる。」あー、これがリズなのだ。それを理解した、若しくは必要としたのがリーマスでありフィードラーなのだ。これは最近行った展覧会に展示されていたミリアム・カーンの絵。この絵を観て何となく心に渦巻いたユダヤの表象。こんなシンプルで一目で伝える力量、果たしてカーンはユダヤ人だった。『寒い国から帰ってきたスパイ』は、英国諜報員のリーマスと親子ほど歳の開きのリズがほんのひととき男と女として心を通わす。理屈を超えて求めて止まない何か。人生一代二代で即席に出来上がるものとは異なる何か。どうしようもなく惹かれる血というか。それを分け合うユダヤ人の兄弟、姉妹の物語でもあった。かつてリズと愛称された美人女優がいた。誰だったか、リズの目はバイオレットとグリーンなのよ!と聞いたことを思い出す。私は長く彼女はユダヤの血が入った人、という印象を持っていたけど真実は分からない。彼女は何度も結婚離婚を重ね、その内2度繰り返したお相手リチャードバートンが、映画でリーマスを演じている、のもなんやら。ところで、小三治の訃報に今晩ふれた。今月のチケットを買っていたのに。悲しい。小三治曰く「人間の生きる永遠のテーマってのをきちっと押さえてますから落語ってね。人間として生きることがいちばん大切で素敵なんだ。」あーこれですとも!これ。リーマスも最後は人間として死んだ。リズのいない世界で彼は人間として生きられなかった、そう思う。
2021.10.12
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2021/10/03/日曜日/晴夜半突発の雨あり〈DATA〉扶桑社/2021年出版大倉源次郎 著/〈私的読書メーター〉〈能楽小鼓方大倉流宗家である著者の日本史観は記紀ではなく、能の謡曲からインスパイアされている。例えば「花筐」は武烈天皇後継オオアトベ皇子(諡は継体天皇)の寵姫照日前の物語。国史に越前時代の皇子実子の血は絶えたとあるが、能楽では姫は無事皇子の玉穂宮に連れ帰られる。著者は照日と玉穂の名から、継体天皇が大和に天照大御神と連作障害の無い進化した水田稲作を伝えたと推察する。「国栖」は乙巳の変前夜の大海人皇子の話だが、ここには皇子と吉野山権現信仰の賀茂、国栖民族の共闘が伝えられている等々。翁と八重山の秘祭、興味尽きず〉歴史は勝者の記録だ。よく考えてみれば能の主人公たるシテは大体がことの成り行き上、不遇を囲った人や霊魂が多いと感じる。いわば敗者から見る日本史。そういう視点から能楽を捉えてみると、何故その題材が選ばれたかなども想像が広がる。例えば、この国の芸能の始まり。それを今に伝えるのが能楽「玉井」であり、玉井が描くのは古事記の海幸山幸の物語だと言う。兄海幸にとって命より大切な釣り針を失くした山幸。何としても釣り針を返さねばと難儀していた。そこに手を差し伸べたのが海の王国のお姫様豊玉姫。美男山幸は愛され、秘宝を授かる。その魔法の珠の威力で結局海幸は弟の山幸に従うことになる。どのように従ったのかというと「顔に丹(に)を塗り俳優(わざおぎ)となり」芸能をもって仕えたのだ。それが芸能者のはじまりと古事記にあるそうな。私の記憶ではその部分が抜け落ちていた‥因みに山幸の孫が神武天皇。大和に侵攻しその地の豪族長髄彦に勝利した戦いが記紀にいう神武天皇東征。その後もこの地は度重なる宗教戦争?が頻発。聖徳太子を経て役行者により宗教的な寛解があった後、京に都を置いて千年の始まりとなったのが桓武天皇であると。大和ことばを苦心して漢語に乗せこの国の記録と為し、時の天皇に献上されたのは天武天皇の発令から数十年経った712年のこと。更にその40年後、東大寺大仏開眼供養の豪奢な祭は中国朝鮮の遥か遠くインドからも僧を招きその数一万、おそらく歌舞楽曲の楽人中に海幸子孫も大勢いたことだろう。ここに漸く、東海の果ての蓬莱の島が一国を構え、アジア世界に大々的にデビューお披露目を果たした。それが日本の始まりというのは卓見と思う。今年で1270年、案外若い国。というように能楽通し日本の国、形が見えるがじつはまだまだ奥行があり、遥か先はユダヤ教にも辿りつくそうな。とうとうたらり♪
2021.10.05
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2021/10/01/金曜日/台風雨〈DATA〉新潮社/1987年出版泡坂妻夫 著/〈私的読書メーター〉〈「ゆる言語学ラジオ」をたまに楽しんでいる。『ピダハン』は確かに面白く読んだ。これも水野氏が「えーなんだよこんな本、と思い読むのだけど最後の10ページで驚天動地」みたいな紹介をしていて、やっぱり驚天動地したくて読んでみた。「転んで(ミステリーの文脈ならトリックが看破されて?)笑わせる喜劇(読書を唸らせる作品?)は役者ならできる(ミステリー作家ならお手の物?)ただし立ち上がるとき笑わせたとしたら真の喜劇役者」との解説が実に実に穿っていると、読後分かる。いやはやこのパッケージが奇書なり〉考えてみると泡坂さん、これはワープロ(当時ですから)でしか書けないはず。しかし面白いことにKindleなんぞの電子ブックではこの楽しみは味わえない、というエッジが効いている。ところで、この本の冒頭は新興宗教団体教祖の著した「しあわせの書」の存在と教祖さまのエピソードとなっている。それから本文一章が始まるが、いきなりの下北半島恐山イタコの場面へと飛ぶ。そこへどこかの局の撮影クルーがやって来て、飛行機事故で死んだ芸能人の口寄せをしてもらう…あれ、これは6月頃見た野田秀樹の「フェイクスピア」とちょっと被りあり。野田さんもこれを読んでいたかも?なんぞと思った次第。
2021.10.02
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2021/10/01/金曜日/台風に伴う雨〈DATA〉ほるぷ出版/1985年出版市古貞次・小田切進編 日本の文学3/「五重塔・運命」幸田露伴〈私的読書メーター〉から〈ほるぷ出版「日本の文学」集で読む。就寝時の習し読書が慣れぬ文語体漢字で一向に内容が入らない。試しに起きて音読するとまあ。語調の流れの良さにびっくり印象くっきり意味内容すっきり。講談というのは経験ないがこんな感じだろうか。因縁曰の感応寺(出版57年前に天王寺と改名)五重塔の普請を巡る二人の大工の葛藤は前田愛氏の解説にあるようにギルド集団と個の芸術家のそれか。ゴッホ耳削ぎ事件を彷彿。塔いよいよお披露目の目前の凄まじき嵐の描写、猛るギリシア神々か上野戦争の予見でもあったか。造ると成すの妙を上人に諭されの満了。〉地図左上、旧感応寺寺領の西に隣接するような所に露伴旧居の銘板がある。そこからわずか200m南東に五重塔はあった。露伴が生まれた翌年の上野戦争のあおりで、一家は上野谷中神田を点々としたという。幼い露伴も当時の話を親族縁者から聞き及んだ事だろう。焼き払われた上野の森一体、この五重塔だけが奇跡のように屹立して、露伴ほどの筆のものなら「頌せん讃せん詠ぜん記せん」ものかは。
2021.10.01
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2021/09/26/土曜日/曇り時に小雨〈DATA〉平凡社/1974年出版岡 茂雄著/#図書館本、後購入〈私的読書メーター〉から〈本に縁あり名付けて本縁?ありがたや。素晴らしい読書時間は出版人岡茂雄氏の人間性故。大正昭和にかけ当にこれから盛大に花咲く斯学、人類学民俗学考古学或いは登山鳥類の、出版を通し顕となる大家お歴々の人物描写は計らずも、氏の人間を表す。軍人を辞め出版人となる動機は文末ようよう数行出てくるが、岡書院の堅牢な装釘と金銭省みぬ営業の不味さは軍人出自を彷彿。また現状の悪弊看過せず自分を勘定に入れず新規を即行動に移す軽やかさは生来の性か。熊楠に愛され阿南惟幾に直に乞われ軍復帰とは!岩波、筑摩、出版知識の愛心、信濃にあり。〉書名の本屋風情とは編集人として懇意にしていた柳田國男氏が、同席で写真撮影の時か何かに岡氏に発した言葉だ。名誉を重んじる士家の末裔とあれば当初肚にすえかねもしたものの、商人道に生きんとするものがこんな事ではいかんと反省もし、爾来之を座右としたかもしれない。その出版人の大いなる理想も敗戦色濃い中に倒れ、本屋風情にすら届かなかったことを晩年述懐している。学会の大人物と世間に知れ渡る人もその欲気殺気の揺れ幅には人として度し難い者多く、しかしながらその仕事のみは矢張り優れていると認めざるを得なくもあり。南方熊楠のような人間スケールは、あらためてこの本で生き生きと伝わりある訳だ。渋沢栄一嫡孫、日銀総裁、大蔵大臣、財界人にして民俗学者である渋沢敬三氏が岡氏を頼んで、有望な研究者に金銭支援した事はもっと知られてよい。敬三氏自身は擦り切れたシャツを着用し、私人として家族で移動するときの汽車は3等だったという。真の一流とはこんな具合だろう。事実を歪める事がどうにも許せない、岡茂雄という人の気性は何とも懐かしい、慕わしい。いくたびか泉下の父の顔が回顧された。氏は士家の出で明治の人で必ずしも父と同じくはしないけれど、山側に育ち軍に属し、(父は公務員だったが3度応召され曹長で終戦)一家の反対を押し切り商売人となった点など。氏の発意は学問であったが父のそれは宗教哲学であったと理解している。氏はそれでも郷に快く?迎えられたが、父は正門から出して貰えず、裏門から母親だけに見送られて家を出て以来疎遠で生きた。昔の人とはそんな風であったのだなあ。
2021.09.27
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2021/09/23/木曜日/晴、夏回帰〈DATA〉福音館書店/1970年出版カルロ・コルローディ著/安藤美紀夫訳/臼井都絵原題「Le Avveture Pinocchio」1883刊行#次回定例会お題本〈私的読書メーター〉から〈話の展開は突拍子もなくてまるで双六のよう。ナンセンス好きな、かつて子どもだった事を覚えている向きには好まれそう。斜めに読めば天路歴程の子ども版か放蕩息子の帰還かヨナの話、のテイストを持つキリスト教世界の説話物語の印象も。とはいえ大人向け後書きにあるように、イタリアの民族的土壌から生まれた人形劇や仮面劇が下敷とも思えば、もっと古層に根ざしたものでもあろうか。ものいうコオロギ、侍女のカタツムリ、空色の髪の仙女などの多彩な語り口。そして白眉はやはり操り人形のピノッキオが忽然と人間の男の子に転じる所。愛の魔法。〉な、訳だけど。ジェペット爺さんによって喋る丸太ん棒は操り人形に生まれ変わる。このお爺さんは貧しくて本物の暖炉もくべる薪も無い。壁に暖炉の絵を描いて寒さをやり過ごす。マッチ売りの女の子みたいに。そんなお爺さん、無鉄砲で脚を痛め腹ペコで帰宅したピノッキオに唯一の食事である梨を全部与え、脚を直し、おまけに無けなしのボロの上着を売払いピノッキオの教科書を買うようにそのお金を与える。もちろんピノッキオは教科書なんか買わない。「脳みそも木で出来てる人形だから」出奔した先の人形劇の親方が、貧しいお爺さんにあげるようくれた五つの金貨も、あり得ないお金儲けのうまい話に乗って結果全て失ってしまうピノッキオ。ピノッキオに殺されかけた「物いうコオロギ」が再びピノッキオに苦言を呈してくれたのにねぇ、ヒトは自分に都合の良いことしか耳にしたくないってこと?ありゃ、ピノッキオ=未熟な人間、かしらでは未だにあり得ない投資話に乗るのは「木の脳みそ」?尤もピノッキオは、手元のお金を増やしてお爺さんにもっとお金持ちになって欲しかったのだけど。優しい心が目覚めても、正しい知識が無いと機能しません。さて、窮地を救うのは「空色の髪の少女」がフクロウとカラスと物いうコオロギの医師にピノッキオを診させ、回復させます。砂糖は舐めたがるけれど口に苦い薬は飲みたがらないピノッキオに手を焼きながら辛抱強く介護する少女=仙女さま。仙女さまは母の愛の象徴?こんな存在がいれば世界のどの子どもも死なずに済むのに。詐欺で盗まれた不服を裁判に申し立てるも逆に罪人になり投獄されてしまうピノッキオ。腐敗した権力の元では法治なんて紙切れより軽く薄いのかもねえ。放免となるも苦難は続く果てに空色の髪の少女の家に戻り彼女の死を知り慟哭するピノッキオの心はここに完成?少女はグレートヒェン、死して妻多き魂を贖うあー際限なく続くピノッキオの双六活劇冒険。蛇を笑い殺したりロバとなって皮を剥がれたり。そしてとうとう、大海原のサメのお腹の中でジェペット爺さん再会クライマックス。最後のローソクも燃え尽き、暗いマックス!諦めるお爺さん、励ますピノッキオ、いつか負うた子に教えられ。マグロの背中に乗って海岸へと帰るオデュッセイア、ならぬピノッキオは心改めて身を粉にして弱ったお爺さんの世話を焼き、夜は刻苦勉励の日々。ようやく自分のボロ着を買い換えるくらいお金が貯まり、町に出かけるところで、仙女さまの侍女のカタツムリに出会い、仙女さまはすっかり落ちぶれ瀕死の状態である事を知らされる。新しい服のためのお金は全部カタツムリに渡すピノッキオ。あれ、ここで逆転が生じている。鏡面の右と左の鏡の立った地点は真っ暗なサメのお腹で見たローソクの明かりであったか。この物語が書かれたイタリアの歴史を見れば、お爺さんは国、仙女さまは国の魂かもしれぬ。真人間になるって心を持って自分の頭で考えること、と声かけてもらったみたい。案外真人間は少なくて操り人形の多い世の中なのかもと本を閉じる。あ、挿絵もとてもいい。
2021.09.23
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3021/09/16/木曜日/晴時に曇〈DATA〉筑摩書房/2021年出版田中克彦著/〈私的読書メーター〉から〈著者曰く「本書はアンチアルタイストが、熱烈にウラル・アルタイ説を説いた一冊」。確かにこんな意気軒昂は社交辞令としての忖度を身に馴染ませた平成学者には望むべくもない筆先だ。科学は西欧で生じその言語で揺籃されたから屈折語の印欧語こそ文法的に最大進化を遂げたとする言語優生思想はウラル山脈のこちら側でも膠着語モンゴルで起きていると。3領土分割のモンゴルで亜欧語ロシア語や孤立語中国語に入替えの愚は殆どジェノサイドであると。日本語を捨てようとした森有礼の考察は公平だ。膠着語日本語で考えノーベル賞受賞の益川氏に哀悼。〉エスペラント語が言語の祖型を英語に得ながら文法としては膠着語に従っていることの著者らしい解釈に妙に説得される。さて、そのエスペラント語。今一番読みたい本にランクインしている、小林エリカ『最後の挨拶』は彼女のお父様の回顧録らしい。お父様は精神科医にしてシャーロキアンの小林司氏で、同時に日本エスペラント会の重鎮でもあられたそうだ。エスペラント語といえば、宮沢賢治もまた熱心にこれに関わった。
2021.09.16
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2021/09/12/日曜日/曇り雨〈DATA〉河出書房新社/2021年出版アンナ・ツイマ著/阿部賢一 須藤輝彦訳原題「Probudim se na Shibuji」2018刊行〈私的読書メーター〉から「凄い作品を読んだかも。プラハの二十代作家が大正から昭和にかけての日本文芸作品を同時にものすのだから。主人公ヤナは村上春樹の本に出会って以来アニメ、コミック、三船敏郎に惚れ込み日本に取り憑かれる。大学図書館で発見した川下清丸の「『分裂』」みたいなプラハのヤナとシブヤに「想い」として留まる17歳のヤナ。プラハでは関東大震災や川越大火の資料に目配りしながら川下の『恋人』翻訳が続き、シブヤに呪縛されたヤナは仲代達也似のアキラの命を救う。日本留学を果たすヤナの恋人とアキラはヤナの「想い」を解き放つため窓を割り…」ーー物語は時間と空間、おまけにリアルとフェイクの複雑な層を持っている。一人の人間ヤナにおいてさえ、そのドッペルゲンガーは時間を経過しないまま、閾値である忠犬ハチ公から逃れ得ない。私たちが逃れ得ない時間と場所、それは1923.0901関東大震災なのか2011.0311なのか。私たちが逃れ得ない見た目と言語、それはアプリオリではない筈。私たちは何によって自分を自分とするか、他者を他者とするか。透明な壁であるところのガラス窓に風穴を開けた石。生者、死者、実在しない過去と現在の存在者、焼き払われた筈の古い原稿が実は遺されていた、しかしそれはフィクションを描いた架空の作品。これだけの層を為す物語なのである。ところで文中、アジア系細い目好きの主人公ヤナ、プラハ在住ティーンエイジャーがアジア人に手軽く出会えるのはベトナム人、との記述がある。2年前の9月、プラハを訪ねた。案内してくれた日本の方曰く、社会主義時代に受け入れたベトナムの人々のゲイテットコミュニティがプラハ市内にあり、チェコ人は余程なことがないとは入れないそうだ。ところがアジアン風貌である日本人はほぼノーチェックで、アジア食品を入手しているとか。案内人曰く、殆ど治外法権化しているそうでチェコ当局も及び腰であるとか…
2021.09.12
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2021/09/01/水曜日/寒い処暑、雨がち〈DATA〉早川書房/2021年出版ラリーン・ポール著/川野靖子訳原題「The Bee's」2014刊行〈私的読書メーター〉から素晴らしい本だった。蜂の口腔から溢れるフローのように余韻を味わいたいのに、積読本が控えていて、小さな光る盤←スマホ に奇妙な印←文字 を浮かべなければならぬとは。読後すっかり脳が蜜蜂化して身辺を匂いの流れや周波数で本能から眺め回すくらいに本の世界に浸りました。蜜蜂たちの階層コロニーとシスターフッド。女王に仕える巫女たちの聖句のような「受け入れ、したがい、仕えよ」「欲望は罪うぬぼれは罪怠惰は罪不和は罪」に確かに『侍女の物語』が重なるが、蜜蜂の生態を物語の大動脈に据えたことで力強いエロスの物語となっている。吉村昭の『蜜蜂乱舞』、百田尚樹がまともな頃書いた『風の中のマリア』なども思い出した。あと映画「ハニーランド 永遠の谷」など。何と言っても蜂蜜と蜂蜜酒も大好物
2021.09.01
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2021/08/28/土曜日/夜になって猛暑日未だ暑い〈DATA〉早川書房/2010年出版ジョン ハート著/東野さやか訳アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長篇賞/英国推理作家協会賞最優秀スリラー賞受賞〈私的読書メーター〉から読み出すとノンストップになるだろうなぁと恐れた結果の今朝の朦朧。小児性愛者、黒人奴隷、DV、ネグレクト、家族、クスリ、貧富、組織、宗教、自然地理、自由、信頼、疑念、正義、法、奇跡。思い浮かぶだけでざっとこれらの件名目録が浮かぶ。スタンドバイミーでありトムソーヤでありライ麦畑でありグリーンマイル、つまりこれはアメリカだと私が感じる風景だ。本書に流れているのは清新な宗教国樹立の志で故国を捨て新大陸にやって来た人びとの失敗や弱さが業となり、自分ばかりか愛するものを傷つけ失い、辛くも再生していく歴史の輪の物語だ。
2021.08.28
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2021/08/26/木曜日/頗る暑い一日データみすず書房/2012/ダニエル・L・エヴェレット/屋代通子訳〈私的読書メーターより〉原題「眠るなヘビがいるぞ」は、ピダハン語では「おやすみ」の意。アマゾンをどんどん南下した支流の支流沿いに独自の言語、文化で暮らす彼らは現在400名余り。彼らが消滅すれば当然その言語=文化も失われる。それはこの地上を映す鏡が一つ失われ、人類全体の豊かな彩りが消えることでもある。と、この本を読んで深く理解した。現地語訳聖書を用いて彼らをキリスト教化するミッションを負ったダニエルの30年に及ぶピダハンとの交流は驚き、慄き、感情を揺さぶる体験の連続だ。事に出会い異なる文脈で受け止める彼の柔軟性、翻訳こなれて佳作。本書半分は一般読者向けに言語論の現在をチョムスキー言語論の前後も加えつつ、パラダイムシフトになりうるかピダハン語、の様相。私自身はピダハンの幸福と江戸末期日本を訪れた欧米人が捉えた幸福な日本の子どもたちの笑顔が重なった。しゃにむに欧米化の廃仏毀釈、古い信仰ぶち壊し天皇現人神官立神社を打ち立てた明治発日本の混迷はどこで清算されうるのかを朦朧と考えた。
2021.08.26
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