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駄句には違いないが、そんな一年でもあったし、来年もそんな一年にしたいものだ。胃癌が見つかった時、「いやあ、ドクターはきれいな胃ですね~、と言ってたからさ、やっぱり俺のお腹は真っ白だったんだわと思ったんだけどなぁ」と言ったら、笑われた。今年のジョーク大賞にしてもいいかな、と思う。孫が来て、散々遊び、息子の嫁さんの実家でも、三歳の孫は存分にかまってもらい、嬉しくなりすぎて絶叫し、帰ってから一緒に風呂に入って、コロッと寝た。その後、娘とワインとビールを飲みながら、1時間半くらい話した。そういうことも久々だった。人生ままならないこともいろいろあるが、誰のせいにもせず、笑いのめして過ごす。やたらと説教したがるバカとはつきあわず、ぶら下がろうとしてくるヤツは追い払う。それができる程度には、普段は怠けず真面目に生活する。誰がどういう生き方をしようが構わないが、自分は自分の生き方で生きる。来年も、ぜひそうでありたい。
2019.12.31
弓をやっている人なら覚えているかもしれない。サングラスと水着の女性が、弓を持ち、背景に的があるポスター。そのキャッチコピーが「射抜くカイカン!」だったか「矢を射るカイカン!」だったか、なにしろ「カイカン」であったことは確かだ。どうも妙なポスターで気に入らなかったのだが、昨日、娘と孫が来る前に、三階射場で、とにかく真ん中に付け、真ん中を射抜く、という練習をした。4m位の距離ならさすがに、それができる。「当て勘」という言葉がある。例えば50mで、70m用の大的を貼って射てば、黄色には普通に入る。そうやって黄色を射る感覚を養う。それが「当て勘」。それと同じようなことを考えた。結構いい練習になった。ちょっけい2cmの10点の中に直径9mmの矢がスポッと入る。まさに射抜くカイカン!だ。その他、いろいろ工夫はしたが、その成果はまた後日。
2019.12.31
「晦日」とは「三十日」のことで、陰暦なら今日がそれだ。一年の終わりだから「大晦日」。今日は娘と孫が来る。いつもは正月2日に招いていただいていた息子の嫁さんの実家の新年会みたいな集まりも、仕事の関係で今晩となった。明日はアレルギー対応のおせちが届き、予約したオードブルなどを買いに行き、娘の旦那を空港に出迎え・・・弓の方も、4日の射場開きまで三階射場に放置状態。三階の存在はまだ孫には気づかれていないので、そのまま隠し通す。でないと、いろいろ片づけないといけなくなる。来年はもう無理かな、隠しておくのは。仕事の方は14日まで休み。こちらは、大体来年度のことは、おおよそ決まりつつある。自分の希望はかなりの程度尊重してもらえるから、ありがたい。このくらいなら、という時間で働け、何を、誰に教えるかも、希望すれば通る。それが職場の期待と一致している間は、働こうと思う。どちらにしても、今年もいい一年を過ごせた。来年もそうであることを願っている。
2019.12.30
といっても、自分のではなく、教え子たちのランチにつきあった。45歳、それぞれ仕事を持ち、大体は子育てを頑張っている。以前にも一度大きな規模のをやったクラスで、大体の顔は覚えている。ランチなのに3時間、いろいろな話があり、それぞれの人生が垣間見え、楽しいひと時だった。そういう会には、できるだけ顔を出したい。帰りがけ、スタンドで給油。灯油も10Lのタンクを満タンに。我が家の小さな玄関の方に30L分の灯油のポリタンクを置いている。玄関のファンヒーターだけが、カートリッジ式のタンクで週に1回くらい給油している。後は、ホームタンクから。これは一階と二階の居間のストーブが中心で、月2回の給油を頼んでいる。それから、クリーニング屋で、今年最後の受け取り。何かと師走はやはり忙しい。
2019.12.30
「貫く棒のごときもの」と続けば、虚子の名句だが、自分はそれほどの一貫した生き方などしていない。あるいは、この句自体が虚子自身のことではなく、自分を超えて流れる時間の強靭さを歌ったのかもしれないが、とにかく、今は「そんな生き方はできなかったなぁ」というため息とともに、年末になれば脳裏に浮かぶ句ではある。「貫く」というわけではないが、それでも、今年も来年も同じようなことを考え、他人から見れば、どうでもいいようなことをやって、その中で中途半端に悩んだり、いきがったり・・・そんなふうに生きていくのだろうなぁとは思うのだ。この歳になると、大きな変化は望まない。人生の方向性は大きく変わらない方がいい。妻と二人で同じ家に住み、毎日のように他愛ない軽口を応酬する。たまに、ちょっとは老けたがそう変わりもしない顔をした息子や娘と会って、こちらは数か月で別人になっているかのように思う孫におもちゃや服の一つも買ってやり、一緒に遊んで疲れ果て、帰ったらほっとする。同じ職場で、去年よりは少し短く働き、少し疲れ、やっぱり歳かな、と慨嘆する。射場に出かけ、何だかんだ悩み、仲間と話し、時々は遠征に出かける。そういう日常は、変わらずに続いてほしい。だが、やがて何かが変わっていくだろう。何かができなくなるかもしれないし、誰かを失うのかもしれない。去年今年は、そんな危うさの中で連続している。そこに「棒のごときもの」など求めようもない。
2019.12.29
次は、元号。生粋の元号反対論者ではないものの、元号の必要性を感じていない。そんな自分にとって、生前退位、新天皇即位の一連の出来事は、天皇の存在の危うさを露呈した。そもそも天皇とは何者なのか。「国民統合の象徴」というが、天皇自身は「国民」の一人ではない。彼は、参政権も、納税の義務も、居住の自由も、職業選択の自由もない。そして、いかなる政治的な発言も禁じられている。上皇は、生物学に人生の楽しみを見出しているが、おそらく心底、退位したかったのだろう。体力的な問題で「国事行為」をすることの困難を、決して直接的には言わず、ビデオメッセージの中に託することから、この話は動き出した。辞めたくても辞められない。息抜きもできない。自由と平和な社会の中で、一人天皇とその血族だけが、特別な桎梏につながれている。何だか気の毒にも思えるのだが、考えてみれば、自分の職業を自由に選択し、人生を万々歳で過ごしているような日本国民も、実際はいないのだから、同じことか、とも思う。そういう意味で「国民統合の象徴」というのであれば、皮肉のスパイスは相当利いている。ともあれ、退位した上皇、平成天皇の努力で、天皇は国民に好意的に受け入れられる存在へと変貌した。彼は戦争を開始する詔も出さなかったし、国事行為の他に、被災者の見舞いなどを精力的に行った。そのことが多くの国民に皇室に対する好意的感情を生んだことは間違いない。新たな天皇が、それを引き継げるかどうかは、やはり彼の個人的努力にかかっているのだろう。ただ、マスコミがやたらと「平成最後の」とか「令和最初の」という冠詞をつけて、テレビ番組や、年中行事の予告放送を垂れ流すのは、勘弁してほしい。普通に「今年最後の」、「新年最初の」とやればいい。様々な政治的立場に中立だというなら、元号を無条件に受け入れる態度は、その役割を自ら放棄していることにならないか。
2019.12.29
昨日の練習で、射場は射ち納め。3×5本ずつのセットを、6回。8点が続出し、ペースは270ちょっとくらい。まあ、しょうがない。とにかく、狙いをつけ、動かさずに引く。こんなシンプルなことが、なぜかできない。「下がる」といっても、無限に下がるわけでもなく、大体7時の7,8点では止まる。だとしたら13時8点くらいにまずつけて、そこから下がりどまったセンターで射てそうなものだが、それもできない。この1年、ずっとそれの繰り返しだった。ドローレングス、前後の重量バランス、リリーサー・・・いろいろととっかえひっかえやってみたが、すべてダメだった。来年も、引き続きこの課題が続く。明日、孫が来て、4日までいるので、三階射場はあまり使えないだろう。少し休養ということになりそうだ。
2019.12.29
1で「似非平等主義」と言ったが、それは終身雇用・年功序列的な雇用の体制が抱える本質的問題である。公務員はその典型的組織だ。まず、試験で一種、二種、すなわちエリートコースとそうでない者が振り分けられ、国と地方が振り分けられる。給与体系は最初の内はたいして違わないが、出世のスピードが全く違う。中途採用の道はほとんどない。一種に限っては全くない。しかし、22~23歳の能力が、そのまま40年も仕事に反映されるとは、普通は思えない。しかし、一種で通った者なら局長くらいには最後にはなるし、その後の天下り先もちゃんと用意されている。二種で通った者は、最後は一種なら40代では普通のポストである課長代理くらいが関の山で、天下り先などはあまりない。つまり、最初の振り分けがすべてで、その後の職業的人生は大体そこで決まってしまうのだ。二種の者は、あらかじめ排除されている。企業は、そこまで形式主義ではない。そんな建前を通せば、利潤が上らないからだ。しかし、ピラミッド型のヒエラルキーを上り詰めるためには、家庭生活を犠牲にした滅私奉公が、公務員以上に求められる。そして、最近は企業も、官僚組織も、非正規雇用で全体の収支の均衡をとっている。公務員の世界も業績評価(人事考課)が始まって、一律とはいかなくなってきているらしい。とはいっても、正規雇用の者たちは、やはり大体同じような給与が保障されている。隣の机に、自分の半分以下の年収で働く非正規がいる。これはあまり気持ちのいいことではない。半分以下の年収が、自分の仕事の本来の価格なのだと言われているようにも思えるし、非正規に対して何か罪悪感を覚えることもある。しかし、労組を含めて、そういう問題の解決を積極的に図ろうとはしない。「同一賃金・同一労働」ということは、自分と非正規の平均値のところで賃金は決まるのだから、正規にとっては賃金ダウンに他ならないからだ。そして、定年を迎える時に、正規と非正規は決定的に違う。それは退職金と年金だ。大卒では大企業でも公務員でも、平均二千数百万の退職金がある。非正規はゼロ。65歳までは、経過的措置によってフル年金の半分くらいの年金が支給される。もちろん非正規はゼロ。65歳になるとフル年金になって、専業主婦の妻と二人の合計なら平均で25万円の年金収入となる。単身でも大企業や公務員の部長レベルで、大体20万だ。非正規は国民年金をフルにかけていたとしても6万円と少し。大体は4、5万円台だ。夫婦二人で10万強。単身だときっちりその半分。やっていけるわけがない。経過的措置は三年ごとに1年遅くなり、来年の退職者は男性なら63歳からになる。しかし、再雇用賃金と合わせると十分暮らしていける。退職金でローンも清算しているだろう。正規雇用の者は、非正規雇用者に対して、結局のところは「排除」するメンタリティを持つ、いや、自分たちの生活を守るため持たざるを得ない。彼らを救うために、自分たちの賃金や年金が下がることには承服できないのである。それはそうだと思う。ただ、こういう世代がいつまで続くかは別の問題だ。知人の息子は退職金なしという規定の正規雇用に就くという。その分、給与は若干高いそうだ。積み立てNISAなど、政府は老後の資産を自分で作れという政策を推し進めている。退職金はここ20年くらい支給率、支給額とも減り続けている。そういう傾向が強まると、一つの会社に定年まで勤める経済的メリットはなくなり、転職が普通のことになる。そこで、もちろんステップアップの転職組と、有期雇用を打ち切られてより条件の低いところに流れていく組とが二極分化していく。要は、能力がなくてものうのうと勤め続け、それなりの安定した老後を手に入れるという人生設計が成り立たなくなる日が近い。その文脈で定年制延期を考えると、これは古い雇用環境を守ろうとする守旧派の最後の抵抗のようなもので、やがて「定年」という概念自体がなくなるのだろう。
2019.12.28
昨日は、整形に二人で行く以外は、特にやることもなく、まあ、一日中ごろごろしていた。夜に妻が、「さて我が家の資産はいくらかな?1円までピッタリ当てたら差し上げます!」というので、大体のことは予想がつくから数字を言うと、それよりもかなり多い額だった。去年は車を買い、今年になって、家をかなり大規模に直し、娘夫婦に新居祝いを上げ、沖縄旅行に行った割には減っていない。どうやら、そういう特別な出費を除けば、収支均衡といったところのようだ。がん保険の補填が大きかった。次年度以降、しばらく特別な出費はない予定だ。何泊かの旅行は漠然と計画はしているが、それほど豪華な旅行をするわけでもない。ということは、来年度以降、別に働くなくても、全然大丈夫ということだ。しかし、仕事も弓もなくごろごろしていたのでは、一日で身体を持て余すから、少しは働くのがいい。小人閑居にして・・・ということもある。
2019.12.28
ニュースによると、2022年度から公務員の定年延長が始まる法案が、来年には成立するようだ。65歳まで順次引き上げる方針で、給与は7割ほどとなり、再雇用とそれほど違わない。おそらく2032年度までで65歳定年制となり、企業もそれに倣うところが大半だろう。定年延長を考える前に、なぜ定年という制度があるのかを、考えてみたい。社会集団は家族とか近隣共同体などの自然発生的な基礎集団と、会社、学校など特定目的のために人為的に結成された機能集団に分けられる。官僚組織はもちろん機能的集団であり、「全体の奉仕者」として働くのが公務員だ。そこには国家、地方公共団体のさまざまな果たすべき役割があるのだが、ある年齢を区切って「定年制」を設けるのは、それ以上の年齢になると目的を達成するための役割を十分果たせなくなる、というのがその理由だろう。会社ならもっと話は単純で、60歳を過ぎると会社の第一の目的である利潤の追求のために「役に立たなくなる」年齢というものがあり、それが平均的には60歳なのだ、ということである。もちろんそこに大きく個人差がある。だから多くの会社は役員を定年規定から除外している。平均寿命が伸び、健康で働ける60代、70代は増えてきている。人口減少社会の労働力の補完として、この年代は恰好のターゲットだ。しかも、仕事に精通してる。若い世代より、体力はないが責任感はある。ただし、そこにも大きな個人差があることも忘れてはならない。心身がぼろぼろになって、それでも定年前なので働き続ける60代もいれば、意欲体力ともに衰えず、バリバリ働く70代もいる。それならいっそのこと定年制度をやめてしまった方がいいのではないかとも思う。現在の定年制の在り方は、新卒一括採用制度という職業生活のスタート時点での仕組みと、奇妙に符牒が合う。つまりは、何でも横並びにして、そこで平等であることを重んじる、「似非平等主義」が、その根底にあるのではないか、ということだ。
2019.12.27
昨日は、退勤後、射場に直行。3時から5時まで。最近は3本×5回を続けて射ち、しばらく休憩、というパターンでの練習が多い。それを4セット。休憩は何となく皆のタイミングが合い、ついついおしゃべりが長くなる。ストーブの前に集まるのだ。昨日、出勤前にカウンターの錘を半分にした。重量バランスはこれで前後がほぼ1:1に。いくらなんでも、今までのは後ろが重すぎる。それから、レンズのドットを少し大きいものに換えた。といっても、百均で買ったドットを貼っただけだが、これで十分である。もう少し大きいドットを買ってこようかと思う。以前は黄色がすっぽり隠れるくらいの大きさでやっていたこともある。練習テーマは、エイミング。とにかく一度はきちんと真ん中につける。そこまではできる。そこからズレないように、引き続けてリリース。しかし、この「ズレないように」というところが、なかなかできない。顔向けが改善し、同心円が左右方向に崩れることはなくなったが、相変わらず引くと下がる。これはピープ位置を変えたことではあまり効果はないようだ。今のところ、下がるのを防ぐには、押し手をふんばるほかない。下がりそうになると持ち上げる。しかし本当は、下がらないように、引き手の筋肉の使い方を変えて引かねばならない、ということは分かっているのだが、それができない。大体、15本中10点は2~4本。8点は各1本ずつ。まあ、点数的にはアベレージ付近。8点は12時でラインをわずかに外すものが多く、これは、むしろいい徴候だ。下がっていなさすぎるだけだからだ。逆に、確か1本だけあったが6時8点だと、ふんばれず下がっている。それは1本だけだったが、9点の中の相当数が6時9点。やはり下がっているからで、よくない。さて、どうしたら一度つけたエイミングを維持したまま引けるのか。射場練習は今年はあと1回。明日。もう仕事はないし、せめて6セット、できたら8セット120射は頑張りたい。
2019.12.27
今日が自分にとっては、今年最後の仕事。12:45~14:15、現代文講習。準備はもうしてあるが、念には念を入れて、もう一度確認してから出勤する予定。その後、射場に直行して練習予定。今年の練習は土曜日が最後。昼食は、さすがに昨日のロシア料理がずしんと重かったので、簡単にすませようと思っている。29日に卒業生たちとのランチのお誘いが一昨日入った。ちょうど空いていたので出席ということに。夜はきついが、昼ならたまにはこういうのも悪くない。翌日には孫が来て、といつものように慌ただしい年の暮れになりそうだ。
2019.12.26
子どもたちが、やっと寝てから、パジャマの上にコートを羽織り、物置に置いておいたプレゼントの数々を、そっと居間のカーテンの陰に隠して、朝を迎える。そういうクリスマス・イブを送ったのは、もう30年前のことだ。その子どもたちの子ども、つまり孫たちの一人は仮面ライダーのお面と服を着て、もう一人は何だかよく分からない無数のおもちゃに取り囲まれている。そんな動画が、北と南から送られてきて、二人で喜んで見ていたのが、昨日の昼。夜は、久々に外食に出かけた。15,6年前にやめたロシア料理店が、ロシア風居酒屋として復活したので、予約を入れておいた。母と子どもたちと一緒に行ったのが、確か最後だったように記憶している。魚とローストビーフなどがふんだんに盛られた前菜、ロシア風水餃子、ピロシキ、シチューのつぼ焼き、羊肉のシャシリック、ローズティ、最後は店のサービスでシフォンケーキ。妻と二人で、昔の料理や、クリスマスのこと、孫のプレゼントのことなど、話しながら美味しくいただいた。料理を運んできては、昔話につきあってくれた年配のウェイトレスさんによると、残念ながらボルシチはもう作っていないそうだ。ピロシキとシャシリックは、昔の方が美味しかった。息子はよく覚えていて、画像を送ると「懐かしい!」と返事が。娘の方はどうも記憶があいまいらしい。それよりも、1月3日にいつもの焼肉屋に予約を入れたことを、ことのほか喜んでいる。二人の性格がよく出ているな、と思った。今年は、妻と何回くらい外に出て、美味しいものを食べただろうか?10回以上はあったような気がする。たまに、そういうことがあるから、セミリタイア生活も悪くない。
2019.12.26
今年は、大学入学共通テストや教員のブラック労働、今朝の新聞では小学校教員の受験者が過去最低、小中学生の運動能力が過去最低など、教育をめぐる報道が多い年だった。今年の出生数は87万人。団塊ジュニアの世代は、ミリオン入試と言われて、センター受験者数が100万を超えると予想されていた(実際は、予備校が大げさに騒いだだけで、そうはならなかったが)。そのころからみると、子どもの数は激減している。「子育て」という家族機能が外部化し、0歳児保育は普通のこととなった。というか、自分の孫もそうだが、1歳まで待っていると、保育園は満杯で入れず、待機児童組に回ってしまうから、0歳保育に入れざるを得ないのだ。小学校はその延長線上にあり、教える内容は簡単だが、保護者からのクレームや、学級崩壊現象など、見るからにメンタル的に過酷そうな労働環境で、なり手がいないのも当然だ。しかし、公立校は、小学校だからといって、給与は低いわけではなく、考えようによっては中学高校のような部活動もないのだから、それほど残業や休日勤務はない。ここから透けて見えるのは、日本人がひょっとしたら「子ども嫌い」になっているのではないか、ということだ。手がかかる子育ては、保育園や学校に預ける。その保育園も学校も、教員の担い手がいない。手間と時間が恐ろしくかかるから、というのがその理由だ。近隣に保育園が建つのを嫌がるなどの動きも多かった。教育大学を卒業し、単に子供が好きだという理由で教師になった者はいくらでもいるが、彼らが定年の時期を迎えたころ、超氷河期と言われた就職状況は労働人口減少のために、超売り手市場へと好転し、教員の仕事は面倒で手間がかかり、成果が見えにくい、つまりは非常に魅力のないものに映りはじめたのだろう。元はと言えば「単に子供が好き」というどうしようもなくレベルの低い理由を、職業生活の中で成長・深化させなかった世代に問題があるのだが、それは置いておく。「単に子供が嫌い」という理由が、教員不足を招く社会の病理は相当に根深い。
2019.12.25
いつも座っているのは、今のダイニングテーブルの椅子だ。4人掛けのテーブルで、夫婦二人で使うのには十分である。居間には、後は3人掛けのソファと座卓が、この前買った緞通の上に載っているだけ。そこで、食事だけではなく、仕事の準備をしたり、読んだり、書いたり、PCに向かったり、いろいろしている。定位置は決まっていて、確か購入して5,6年になるが、今朝、いつも自分が座っている椅子が壊れていることに気づいた。脚と座面下の梁(?)の接合が外れていた。簡単に直せるかと思ったら、ボルトねじで固定されていて、ボルトが締められない状態だ。梁に穴があり、そこにボルトがある。通常のドライバーは長すぎて、その穴に収まらない。さて、困った。とりあえず隣の椅子と取り換えて座っていて、普段はそれで何とかなるのだが、どうするか。結構いい値段のダイニングセットなので、購入した家具店で修理を頼むというのが、一番無難な方法だ。セットごと買い替えるという手もあるが、基本的に気に入っている家具なので、この案は却下。値段も馬鹿にならない。一脚だけ、別の椅子を購入するというのも悪くないが、選ぶのが難しい。ひょっとしたら、弓の六角レンチで星型レンチがあるので、それの一番太いのなら使えるかもしれない。妻が起きてきたら試してみようかと思う。
2019.12.24
ここまで、自分や家族のことなどで、今年を振り返ってきたが、世の中のことに無関心というわけではない。自分と社会とは、マスメディアがつないでいるのだが、ちょっと気になったことを、いくつか書いておきたい。まず、スウェーデンの環境活動家の少女について。環境保護論者に、自分はある種の押しつけがましさを感じないではいられない。彼女の発言は特に単純に図式化されすぎていて、エコ・ファシズムの危険性を感じる。環境問題で地球が破綻する危機が目前だというのに、金儲けばかりやっている先進国の首脳に対する、切って捨てるような発言。確かに、日本も異常気象がこのところ続き、被災した方々はお気の毒という他ないが、それが温暖化の影響だとは、まだ科学的に証明されていない。科学は、原理的に「温暖化の影響ではない」ということを証明できないから、そのことに反論するのは難しいのだが、「強欲資本主義→温暖化→地球のあちこちでの異常気象・災害→環境破壊→人類の生存の不可能」というこれ以上ないくらい短絡した思考は、確かに十代の若者を誘惑するだろうが、それを利用するのは、環境保護論者という大人たちである。自分は環境保護反対論の立場には立たないが、それにしても、正直に思うのは「周りの大人に利用されないで、ちゃんと学校に戻れば?」ということだ。彼女自身、これ以上の学びを放棄して、膨大な費用をかけてヨットで海洋を横断して、強欲資本主義を攻撃する日々を送ることについて、どう思っているのか。彼女が自分自身の活動計画に則って日々を過ごしているとは、とても思えない。環境保護論者たちにとってみれば、彼女の口を借りれば、稚拙なエコ・ファシズムを十分主張できるのかもしれない。そして、マス・メディアは彼女の姿を垂れ流していれば、自身のリベラルな立ち位置を簡単に維持できる。しかし、彼女自身の価値は、エコ・ファシズムの記号的価値にすぎず、やがては消費されていく、つまり使われて、消え去っていうだけなのだ。その時に、何が彼女に残るのか。段々、攻撃的な形相になっていく彼女を見ると、何か哀れを感じずにはいられない。
2019.12.24
一昨日の練習で、ピープ位置について、ひとしきり話題になり、自分も気になりだした。それで、昨日、ピープ位置を上げて、射場に。確かに、覗きこむために頭を下げる、つまり頷くような動作を加えると、弦が鼻にかかって都合はいい。しかし、頷くという一動作が加わるのは、射のバランスにとっては、それを崩す要因を増やすことになる。それで、ピープを上げてみた。まあ、こういうことは、もう10年以上繰り返し、上げたり、下げたりしているので、一長一短だと分かっている。昨日は昼食を挟んで、二度射場に行ったが、二度目はやや下げて射った。深く頷くのではなく、目線を下げればピープは覗ける。15本ほど、黄色から外れない射を続けたところで終了。地区選手権の申し込み用紙に記入。全体の9番目で、随分と順位は下がったままだ。16人のちょうど真ん中。アウトドアもそんな感じだった。去年はトーナメントに出られなかったので、今年はそこが目標。だとしたら、まだやるべきことは多い。今年は28日まで。来年は5日から練習できる。
2019.12.23
今年の4月くらいに、「カテゴリー」というものが、そういえばあったなと思い、最初は「日々雑感」「練習日誌」「試合日誌」を立て、次に「評論」、しばらくしてから「随想」を立てた。それ以前の記事は、一部だけ「評論」にカテゴライズしておいたが、すべて「未分類」扱いのままで放っている。今年、最も多く書いたように思うのは「評論」で、88記事あった。しかし、実際は「日々雑感」が110、「練習日誌」が108。もちろん、文章量は「評論」が圧倒的に多い。「評論」では、自分の「思想」といえるほどのものではないが、生き方の基盤になっている「思考」を書き綴った。他の記事と違い、後から修正したり、加筆したりもした。近代的自我が綴る日記の本質は「再読と加筆」であると言った富永茂樹の評論があったが、まさにその通りである。近代的個人は自分がどのような人間であるかを、たえず確認しないではいられない。なぜなら、彼には共同体の中での安定した位置は、もはや与えられていないからだ。また、神による救済も信じていない彼は、自らが自らを救う他ないからである。デカルトが言った「我思う、故に我あり」とは、「我」とは「思う」ことによって作られる総体だという意味である。逆に言えば、思うことなしに自我は存在しない。そうであるならば、「我」が何をどう思ったのかについては、絶えず点検し、修正しなければならない。これが日記の本質である。考えてみれば、ノート一冊あれば、それで事足りるのであるが、検索・分類機能や、後からの修正がすぐできる機能が、非常に使い勝手が良いのである。でなければ、チェーザレ・バベーゼの日記のように「何月何日のところに・・・ということを追加」のような書き方をしなければならない。そして、誰かがこれを読み、反感を持ったり、共感したりすることも、少しは想定している。だが、そういうことにいちいち反応する気はないから、コメント機能は使っていない。1本の矢の軌道は、放たれてしまった後では、どう修正することもできないが、一つの文章は、書いてしまった後から修正することは可能なのだ。それは、通常は思考の微修正であるが、時にはドラスティックな転換でもあり得る。
2019.12.23
昨日の朝、出すべきものをすべて書いて、今年もどうやら元日配達に間に合いそうだ。セミリタイア以来、ぐっと枚数も減らし、今年は「筆グルメ」で住所印刷することもないな、と思い、表から手書きにしている。大体、妻と自分の合計で80枚。現役のころの3割くらいだ。欠礼状も多くなる一方である。中身は干支のデザインで、こちらの方は、いつも頼んでいるところで。おそらく、年賀状も失われていく習慣の一つだろう、せいぜい自分の子どもたちの世代までではないか。近頃は、そもそも、郵便というものをほとんど使わない。夏は出席、今回の正月欠席と返信した同期会の往復はがき、医療保険の請求、JAFの更新届、以上が、今年、自分の出したすべての郵便物だ。往復はがきにしても、日本全体の返信率は20%を割っているそうだ。ITは通信の面で、世界を大きく変えた。電話や郵便は、国家事業の主要な柱だったが、今は先進国では民営化し、経営難にあえいでいる。途上国では、巨大な投資額を要する電線網の設置をせず、携帯基地局を建てれば通信網は整う。人が書き、封書して、切手を貼り、投函する。それを人が集め、分類し、各戸に配達する。それを地域内なら1、2日、日本国内でも離島とかではない限り3、4日で、正確に行う。こんな人手のいるシステムは、いくら郵便代金を値上げしても、割に合うはずがない。年賀状も、その一つなのだから、日本郵便が国費を使ってPRしたとしても、いずれ消え去る。「年賀状、何通来た?」クラスの友達と、その枚数を無邪気に自慢しあっていた時代は、もう戻ってこない。
2019.12.22
試合で遠征したのは6回。うち1回は日帰りだから、10泊くらい。出場した公認試合はインドア3、フィールド2、アウトドア4。ざっとの概算だが、今年の出勤日数は130日。練習で射場に行った回数は、180日。つまりは、趣味>仕事という不等式が完全に成り立つ。だが、弓にのめり込んだという実感はないのだ。のめり込んだのは15年から10年前くらいの期間で、その時は地方記録を出し、全日の試合にも10回ほど出場し、地方選手権や東京インドアで連覇していた。朝に射場に行き、そこでの反省点を退勤後、射場で確認する・・・そういう毎日だった。今は射場に行っても、そう多くの本数を射たない。インドアだと100射以下が多い。要は、趣味も歳相応に楽しむという状態になってきたのだろう。これで、わずかだけれどインドア、アウトドア、フィールドとも、去年の記録を上回ったのは、上出来ではないかと思っている。射自体は、レフティのフォームの安定期にようやく入ってきた感がある。後は、これを少しずつマイナーチェンジし、72射同じフォームで射ち続けることができるようにするだけだ。全盛期(というほどのことはないのだが)の時代と競技形式が変わって、144射の半分になった。だから、まだもう少しやれそうな気がする。ここ、2,3年でせめて地区選手権では勝ちたい。レフティではまだ勝てていない。来年の計画は特にないが、九州遠征をどうするかだけはまだ決めていない。ラスベガスは、会場がホテル街から遠くなって、ショーを観たりが難しくなったので、あまり魅力がなくなった。後は、今年と大体同じ試合に出るだけだ。ただ、マスターズには出たいし、全国マスターズにも行ってみたい。昔、全日で同じ射線に立ったアーチャーと出会えるかもしれない。ともあれ、今年も一年、弓で十分楽しめたことに感謝したい。
2019.12.21
このところ、あまりよくないことが立て続けに起こっているのだが、そういうことは、ここに書いても仕方がないことだと思っている。まあ、自分や自分の家族の問題ではない。しかし、それでもなかなかしんどい。閑話休題昨日は、妻と一緒に行く整形の診察券を6時半に出してきた。ここのシステムは、何時何分という予約ではなく、診察券を出すと順番が告げられ、行った時に、診察券の順番が早い患者から呼ばれるというやり方だ。予約時間に行ったのに、前の患者が詰まってどんどん遅れていくよりは、よほど合理的だ。まあ、クリニックという小さな病院だからできるシステムだ。今回は15,16番。9時から診療が始まり、大体1時間8人くらいの患者の診療なので、11時くらいに家を出るのがいい。診察券を出した帰り、ガソリンスタンドの掲示が、軽油115円になっていた。昨日まで120円だったので、まだ燃料計は半分くらいだがこのタイミングで給油することにした。カード会員なのでそこからさらに2円安い。35リッターほど入った。さすがに冬は燃費が落ち、市街地走行だけだとリッター11kmくらいがいいところだ。妻と整形に行き、30分くらいで終了。その帰りに年金が振り込まれる銀行の記帳と、年末年始にはさすがに手元に現金が必要なので、いくらかおろしてくる。午後にもう一度出て、いつも行くコンビニに。ワインと日本酒を買う。12月いっぱい、5の倍数の日は3%分のチャージサービスがある。限度は5万円なので、4万円チャージ。これで1200円分余計にチャージされる。今どき4万円を銀行に何年預けたら、1200円の利子になるのか。多分10年?さらに、カードで買うと2%の値引き。だから使わない手はない。25日に、もう一度限度いっぱいまでチャージする予定。その他に我が家でやっているのは、生協の出資金の増額。これも年間の平均残高に対して、0.75%のポイントが加算され、出資金が増えていく。その出資金をおろすことも可能だ。まだ限度いっぱいではないので、せっせと増資している。給与の大半は共済の積み立てに回していて、確かこれは0.25%。とまあ、こんなふうにして、たいした額にもならないが、多分年間10万円以上はは何もしないよりかは、出費を節約して暮らしている。アメリカ人の特に若い世代は「SAVE MONEY」としきりに言うが、日本に来るくらいだから、そう貧しいわけでもない。だが、彼らにはペンション(年金)がないので、せっせと貯蓄に励んでいる。円高になればドルに換えて、少しでも増やそうとする。なにしろフローが年金を加えても、現役時代の30%程度なのだから、節約も大切な生活の知恵だ。
2019.12.21
そう丈夫という方ではないのだが、かといって、病気がちというのでもない。体力は、年齢相応だと思う。セミリタイアの3年目に、モルト型リンパ腫という癌にかかった。きっかけは、鮮血便で、かかりつけ医がとても心配してくれて、大腸カメラ検査を勧められた。紹介された医者は、地域では一番の名医ということだった。ついでにこの際、胃も診てもらおうと思い、紹介状にその旨も書いてもらった。それで、同日に大腸と胃のカメラ。大腸の方は、やや大きめのポリープが一つあり、検査で切除。精検に送ったところ、癌ではないということだった。「ただ、胃の方がね・・・」という話。「胃はきれいですね」と言いながら、カメラを入れていたので、そっちの方は全然心配していなかったのだが、「ん?」と思って念のため切除したら、モルト型リンパ腫という病理診断。通常、ピロリ菌が引き起こす癌で、胃の中のピロリ菌を除去すれば治る。ところが、ピロリ菌はまったく検出されない。稀にあるタイプだそうで、治療はごく初期なので、放射線治療ということだった。放射線治療は20回。胃の全照射。線量は弱い部類。最初の10回くらいは、特に何も感じなかったが、後半はちょっときつかった。それでも、それほど体重が落ちたりもせず、食欲も大きくは低下せず、終了した。その後の検査で「寛解です」と言われ、一安心。もちろん、これからも半年に一回は胃カメラ、一年に一回は大腸カメラでの検査が続く。こちらはがん保険適用となるから、負担は実質的にはプラス。ことのついでに、といっても何だが、肺、脳なども検査してもらったが、こちらも異常なし。そういうわけで、「一病息災」ということになりそうである。9月の選手権で、坐骨神経症が出て、後半はただ引いて射っているだけのような状態になった。帰り道は速ければ5時間で帰れる道のりを、7時間半もかかって運転してきた。なにしろ30分に一回くらい、車を停めて腰を伸ばさないとつらい。それ以来、妻がかかっていた整形に、週一回、一緒に通うようになっている。腰と膝の注射。今は痛まないのだが、なかなか患者を離してくれないタイプの医者で、やめ時を考えている状態だ。ただ、ちょっと間隔があくと痛くなるから、治療は効いているということだ。その間は、通い続ける予定。振り返ると、10年前の医療水準なら、胃の全摘手術だったところが、軽い治療で治ったのは、幸運としか言いようがない。現在でも、平気で10年前の水準でやっている病院はあるのだから、いい医者を紹介してもらったと感謝している。また、癌細胞の素のようなものは、見つかる3年から5年くらい前に形成されるそうだ。その話を聞いた時、管理職時代に血圧が上ったり、不眠になったりした時期があり、どうもそのあたりで今回見つかった癌の素は作られたらしい、と思った。結果から見れば、絶妙のタイミングで辞める決断をしたことになる。癌はもはや「死に至る病」(キルケゴールはそれを「絶望」と言ったのだが)ではなくなっているが、それでもやはり「死」というものを考えた。その時にまず思ったのは、俺が死んでも妻は何とか経済的にはやっていける、子どもたちももう一人前だから大丈夫、仕事も一線から退いていてよかった、というようなことである。つまり、自分の死によって誰も絶望的な事態にはならないな、ということを確かめようとした。来年以降も検査を受け続けるのだが、何とか今の水準の健康を保ちながらやっていきたい。
2019.12.20
家族は、三世代以上が同居する拡大家族と、夫婦と子どもだけという核家族に分類される。自分は核家族の家に、しかも当時は珍しかった一人っ子として育ち、結婚し、職業を得てからは、両親が資金の7割くらいを出して、二世帯住宅を建て、子どもたちが生まれてからしばらくは拡大家族というものを経験し、やがて、子どもたちが一人前になり、それぞれ別の地で職業を得、家庭を築くようになって、再び夫婦二人の核家族に戻った。推計によると2025年には単身世帯が全体の35%を超えるそうだ。その時に、まだ核家族でいたいものだが、それは何ともいえない。しかし、自分の家族意識は、三世代で住んでいた拡大家族時代にある。両親の墓参りには毎年行くが、単にそういうことではなく、いつも妻との話の中に、息子が研究者だなんてじいちゃんはびっくりするだろうとか、娘がやっと結婚したけど、二人ともひ孫には間に合わなかったなとか、俺の歳には両親はもう完全にリタイアしていて、しょっちゅう旅行に行ってたね、とか、両親は頻繁に登場するのだ。妻は、着道楽の母が遺した高価な着物を着て、茶会やお花の会に行くが、今年は18回着たそうで、新記録だとか。亡くなった途端に姑のものは全部捨てるとかいう話も時々聞くが、そういうことはまったくない。食器にしろ茶器にしろ、今でも使っているし、いいものを大事にしまっておかず、日常で使うようにしている。今年は息子夫婦に孫が生まれたのが2月。しばらく嫁さんの実家にいて、近いのでこちらも毎日のように会いに行った。11月に沖縄で、嫁さんの従妹の結婚式があり、そこで孫ともしばらくぶりに会えた。正月は帰って来られないが、来年もどこかで会うだろう。9月東京が今のところの候補。息子も新たな職場で2年目。ようやく研究職らしい仕事ができ、来年度は職位を上げる申請を出すということだ。娘夫婦は10月にマイホームを購入。大学からほど近く、駅から二つ目の地下鉄駅から5分くらい。120平米を超える広さのマンション。中古だが、立地、広さを考えれば十分いい買い物だった。その場所で新築だと、億ションが普通で、もう手に入らない。5LDKを、前の持ち主が設計段階でオーダーして、より広い4LDKに改装したものだ。その前の持ち主に、娘がいたく気に入られ、消費税分くらいは安くしてもらい、その分をリフォームに充てた。三歳の孫は、急速に話ができるようになり、会うたびに驚かされる。正月は、こちらはやってくるので楽しみにしている。新居祝いはもう上げたが、母が買ったクリスチャン・クルックの『丘の上の赤いトラック』というリトグラフがほしいというので、今度、車で行くときに積んでいこうかと思っている。いい絵だ。息子のところには、同じ作者の『海に浮かぶヨット』という小品をあげた。クルックはシャガールの弟子に当たる人で、30年ほど前交流のあった方から、大きなのを2点、小品を数点購入した。娘夫婦は、旦那さんは研究職。出張も多い。娘は、専門職のフリー。時給は随分といいようだ。また、歩合給の場合もあり、これはさらに稼ぎになるようである。二人の年収合計は、自分が一番高かった時に近い。ともあれ、娘と息子の家族は、孫も含めて大病もせず、それぞれ新たなこともあり、これからの人生である。妻と自分は、適当な距離感で仲良く付き合うというのが、老後の楽しみの一つだ。大病といえば、自分は一応大病をした。だが、今は寛解している。
2019.12.19
そろそろ、そういう季節になってきた。仕事もあと2週間で今年は終わる。定年になってから再雇用3年目。65歳になったので、その時点で、職場の再雇用義務はなくなる。だが、来年度は非常勤で、ほぼ今と変わらない仕事を続けることになりそうだ。この3年間が最も楽しかったし、いい仕事ができているのではないかと思う。やはり経験値が高くなることが必要な仕事なのだ。定年前の4年間は、仕事がマネジメントだったから、ちゃんとやったが、全く面白くなかった。準備に割と入念に時間をかけるようになった。やはり、その余裕があるのとないのでは雲泥の差を感じる。評価はいつも一番高いのだが、さらに高くなっているだろう。この仕事は、初めから志したわけでもなく、いわば成り行きのような形で39年勤めてしまった。だが、この仕事のおかげで、何とか家族を養い、子どもたちを育てることができた。二人で16年分、大学・大学院と進学したが、今の職業にそれが生きているのだから、自分たちとしてはよくやったなぁ、と思う。もう、他の職場に行く気はない。今のところで、やりたいことをさらに質を上げてやっていけたらそれでいい。生活のために働くということではない。そのことは本当にありがたいことだ。今週末が職場の忘年会。今年の忘年会は弓と職場の二つ。そのくらいがちょうどいい。自分と同じ身分の同僚には、そういう会には一切参加しない人間もいる。僅かな給料なのだからと割り切っているのか、それとも自己評価と到達した職位があまりにも違うので、憤然とした気持ちのままなのか。まあ、年に一回くらい、そういうことを忘れてバカ話に興ずるのもいいと思うのだが。とにかく、おかげさまで、一年間順調な職業生活だった。
2019.12.18
2本のボルトをカウンターの錘にしていたが、さすがにあまり格好もよくないので、頼んでおいた鉛板2枚を巻いて交換。重量は両方とも約200gなのだが、鉛板の方が後方に付けるので、重量バランスはさらに後方が重くなる。ただし、結局板をまっすぐ延ばせず、凸凹のまま貼りつけたから、格好の悪さは変わらない。それで射つと、以前より真ん中に付く。付いてから下がるのだが、そこを最小限に食い止めるために、何をするかを考えた。一つは押し手、手先には力を入れず、押す。最初の30射は、点取りをして277。最後に8点を射ってしまう。そこから、リリーサーをHBCに換えて、さらに40射くらい。STANよりは切れやすい設定にしてあるので、狙う前の暴発が時々はあるが、カチッからはわりとすんなり切れる。途中で、ピープサイトが少し高いのではないかと感じ出した。アウトドアと同じにしているので、下げた方がいいということか。下げれば、サイトも下がる。あれ?それだと50mの位置はさらに下げないとダメ?・・・何だかわけが分からなくなってきた。どちらにしても、引いてまっすぐ見るとピープの下に的がある。まっすぐの位置にピープを下げるとどうなるか。そのまま、サイトもある程度下がるから、的をまっすぐ見ることになるのではないか。これは、金曜日の宿題。明日の練習はするかしないか、微妙だ。練習後、右肩が少し痛い。ケアが必要だ。
2019.12.18
大分前に、こんなタイトルで随想の連載を、と思っていたら、「1」「2」を書いてから、コロッと忘れていた。まあ、よくあることだ。もちろん、現行学習指導要領のことなのだが、自分としては、この歳になって「生きる力」って言われてもねえ、とも思う。名実ともに高齢者の仲間入りをした自分にとって「生きる」とは何か大きな目標に向かって努力を継続することではない。そういうことはもうできないから老人なのだ。目標を何かしら持ったとしても、その実現までの生はまったく保証されていない。例えば、今から受験勉強して、東大にでも入って・・・卒業するころには70歳だ。どこも雇ってくれない。第一、そんな体力も知力もない。持てるとしたら、小さな小さな目標でしかない。来年も、今より少しだけ質のいい仕事をするとか、妻と少し長い旅行に行くとか、せめて今年よりもちょっといい点数を出すとか・・・その小さな目標すら、健康でないと達成できない。だから、健康には気をつかう。もちろんある程度のお金もないと達成できない。だから、小さな資産と収入だが、それはちゃんと管理する。つまり、生きる力とは、自分の歳では、「死なないようにする力」、「健康でいる力」、「何とか生活を維持する力」のことである。そのために一番必要なのは「リスクマネジメント」の力だ。医療保険の見直しをしてから、1年ちょっとでモルト型リンパ腫が見つかり、入院、放射線治療のための通院、寛解、その後の検査通院など、病院には結構な治療費等を払っているが、すべて保険でカバーできている。しかも、一般医療保険、がん保険とも終身、保険料が無料となり、同じ保障が続く。癌にならないに越したことはないが、もしこの保険に入っていなければ、100万くらいの持ち出しだったろう。結構な額だ。しかも、どの保険にも入れない。今の時点では、保険のおかげで、少し収支はプラス(というのも変な言い方だが)になっている。この前も、放射線科の診察があったが、「ちょっとお小遣い稼いでくる」と冗談を言って、行ってきた。検査結果の問題はまったくない。年金も遅れてもらうようにすると増えるということは分かっていたが、増やすと税金等も増える。いろいろと考えて、65歳の支給を申請した。来年度4月からは、職域加算部分もきちんともらえるように、仕事を非常勤とした。よく「老後」が心配で、と60歳代の人が言うのだが、65歳以上は「老後」そのものじゃないか、と思う。だから、例えば自分が平均寿命まで生きるとして、という計算はあまり意味がない。新聞の死亡広告欄は、知らないでいて不義理をしては申し訳ないので、必ず見るのだが、60代、70代、80代、中には90代、100歳越えなどさまざまだ。その中のどれに入ってもおかしくない年代なのだ。生きる力とは、自分たちにとっては「当面を生きる力」である。まあ、なるべく長く介護の世話にならず、子どもたちにも心配をかけず、自力で楽しく来年を迎えるというのが、今のささやかな目標だ。
2019.12.17
最近、妻がちょっとはまっているのが、ヤフオクだ。これまでに帯や、着物などを買っているが、これは新しいのを買うのがバカらしくなるほど安い。人間国宝が描いた柄の着物でも、十万円で買える。今は、着物など普通に着る生活をしている人などいないから、実は大量生産のブランド物の中古品の方が、ずっと高い値で流通している。あんなにみんなが持って歩いているバッグが、一点もののはずがないことは、ちょっと考えれば子どもでも分かることだが、それを持つことが自己実現なのだからしょうがない。先日、我が家に中国製緞通が届いた。居間には同じサイズのニトリのカーペットが敷いてあったが、それと取り換えた。4畳サイズなのでちょうどいい大きさだ。「クリーニング済み・シミ・汚れほぼなし」という中古品だが、シミは結構あって、何とかしたい。水拭きしただけで、少し落ちるので、丁寧に洗えば目立たなくなるかもしれない。素材もウール100%なので、何とかなりそうな気もする。場合によっては、クリーニングに来てもらってもいい。厚さは1.5cm。さすがにボリューム感があり、また全体の色合い、デザインも好みに非常に合う。値段はまずまずだが、ニトリと違って、こちらの方が本当の「お値段以上」だと思う。
2019.12.16
昨日の試合。30射だけの参加なので、非公認の試合としても、棄権扱いである。最初は8点、次も8点、3射目にようやく縁(ふち)の9点から始まった。このスタートでは270を割りそうな嫌な予感。次の3射は10-9-9で、第1エンド53。これなら、何とかなるかもしれない。その後、57-57-58-58と、かなりいい中りで、合計283。何とか出したいと思っていた280台が出た。30射中15射、ちょうど50%の確率で10点だった。右の時は、このあたりが最低限と思っていて、そこから10点が20射出るようにと思い、練習していた。まだ追いつかない。結局、7時8点辺りについている時が、一番バランスよく射てるので、センターを狙うことを諦めたのがよかったようだ。10-10-10は一度もなかったが、9点もセンターに近いのがほとんど。できれば、もう30射やりたかったが、妻を今年最後の茶会に送迎する約束だったので、帰宅。今年は、アウトドアで330が出て、インドアでも280。一応、目標の点数は達成したことになる。来年は、アウトドアで660、インドアでは560くらいが妥当な目標だろう。両方とも、一番いい30射を2回続けることができれば可能なのだが、そういう幸運はまずない。だから、30射のアベレージを上げていくことが大事。アウトドアで335、インドアで285くらいまで上げたい。それだと余裕で達成できる。来年3月まで、インドアシーズンだから、まず560を達成したい。技術的には、エイミングよりも射のバランスなのか、やはりエイミング優先なのか、非常に迷う。今年もあとほぼ2週間。そのうち5回くらいは練習できるだろうから、その中で追求してみることに。
2019.12.16
昨日は3射5回を1セットにして、5セット。最初の2セットは一度も9点を外さなかったし、10-10-9も結構あった。点取りはしていないが、多分280オーバー。ところが、次からはボロボロと8点が出だし、いつもの感じに戻ってしまう。これでは今までと何も変わらない。なぜ、持続できないのか、端的に歳のせいなのか・・・よく分からない。自分の中に、中らないことを受け入れてしまう自分がいる。まあ、こんなところかな、という感じだ。だからむきにならない。今日も、中途半端に30射だけ射ってもしょうがないか、と思い始めてはいる。
2019.12.15
昨日の記事にも書いたが、世の中はキャッシュレス時代にどんどん進んでいる。自分たちの最初のキャッシュレスは航空会社のクレジットカード。もう20年以上前の話だ。特に、子どもたちが大学に行ってからは、できるだけマイルを貯めるために、クレジットカードを多用していた。マイルの主な使い道は子どもたちの帰省費用である。今は、それも一社だけ、少しいいカードにしている。現役のころは、それでも財布の中に数万円の現金は常にあった。1000円を超えるランチは普通だったし、ある意味で贅沢をしていた。ただし、例えばブランド物の時計とか、バッグとか、スーツとか、そういうものには一切興味がなかった。大体、住宅ローンや車のローンを抱えている身で、ヴィトンのバッグなど持つのは、江戸時代の百姓が裃(かみしも)着て歩くような滑稽極まりない姿だ。いや、そもそも車だって、年収を軽く超えるような車をオートローンで買うのは、どう考えてもおかしい。要は「消費」でしか自己実現した実感の持てない、精神の貧しさの現れなのだと思う。それはともかく、やはりフローが圧倒的に減り、ストックを食いつぶすセミリタイア生活では、財布の中身は全然違う。今は1万円札があったり、なかったり。さすがに一枚もないと不安になるが、スマホ決済ができるので、もうそれもないだろう。職場で昼食を取る時は、基本は弁当。自分で作る。だから、まずくはない。ただ、お弁当男子のように凝ったことはしない。年に数回、飲み会はあるが、お義理のには行かない。まあ、地元協会や職場の忘年会などには出るのだが。後は、コンビニのプリペイの入金。5万までできて、年内なら入金時点で3%、来年6月まで買い物で2%お得になるから、12月の25日はぎりぎりまで入金しておく。ここではワインなどの嗜好品を必ず買うので、月に1万円は使う。日常的に使う小遣いは、このコンビニとDVDレンタルくらいのもので、あとはBOOKOFFに本を持って行ったついでに、二、三冊買ってくるくらい。本は、家に置いておくと本棚が満杯になるので、読んだらまたBOOKOFFに。どうしても読みたい本は書店で買う。日常的でない小遣い、例えば弓の道具、弓の出張会議、大会参加費、宿泊費等は貯金から。それも最近は一般道を使う方が多く、会員だと安くなるホテルチェーンを必ず使うようにしている。そういうわけで、使うお小遣いの額はずいぶん減ったが、それで別に不満はない。ただ、自分たちの世代より少し上の団塊世代は、依然として人口のボリュームゾーンであり、年金収入も下の世代より多い。だから、この世代は、国内消費の大きなターゲットになり続けている。最近のテレビコマーシャルは健康飲料・食品が非常に多いし、JRは特別な寝台列車を仕立て、ホテルはいかにも高級そうな料理を並べる。最近は豪華客船の旅がブームのようだ。しかし、いずれも三泊四日とか、バイキング方式の朝食とか、船旅でもちょっとだけ外国に寄って5泊のうち5泊とも船中泊とか、どこか貧乏くさい。そこに数十万から百万を超える価格をつけている。たまに、ちょっといいかなと思うこともあるのだが、中身を読むと食事や観光があらかじめ全部セットされていて、全然身動きが取れない。これでは昔と何も変わらない観光旅行だと分かると、これなら自分たちでプランを立てて出かけた方が楽しいということになる。「集団」で動くことを強要されるのは、やはり性に合わない。
2019.12.15
卓球は、一昨日、グランドファイナルで石川が世界王者に敗れ、五輪シングルスは平野かと思ったら、こちらもランキングは下の選手にコロッと負けた。そうなると、つい先週のノースアメリカンオープンで平野を破り、ポイントを逆転したことが効いて、石川が代表に決定した。男子は放映がなかったのだが、水谷が初戦で敗れて、丹羽が代表に。卓球はオリンピック代表の決め方が明確なので、観ていて面白いし、すっきりする。連盟の老人たちが、これまでの実績とか、わけの分からない理屈をつけて、1位の若手選手をベテランに変えたりすることは、いまどきは、やらなくなったようだ。いいことだ。高校の寮に卓球室があって、千本勝負などといって一晩中遊んでいたくらいだが、一応心得はある。温泉卓球よりは大分マシだと思う。バドミントンは、急速に強くなったから、中継があれば見る。今日は、弓の練習と重なる午後からなので録画してある。奥原のプレイスタイルが好きだ。身長が低い分、拾って拾ってつなげるというスタイルで、なんだか健気である。これは、一見誰でもできそうなスポーツだが、上手い人とやるとヘトヘトになる。向こうは全然動いていないのに、こちらだけがゼイゼイいうまで走らされる。スケートは、昨日やはり録画しておいて、昼寝後、夕食を食べながら見た。500で小平が100分の2秒差で勝った。ほんの1,2センチ足が前に出ていた。37秒台だったと思うが、確か清水や堀井のころの男子記録並みになっている。これは、靴の改良が大きいのだろう。自分は中学の時に毎日リンクの上にいたが、その当時のスターは鈴木啓一。500は、世界記録が40秒台だった。当時の自分は一番良くても50秒を超えていた。地区大会に出てもせいぜい3位くらい。足が痛くなるので、嫌いなスポーツの一つだった。
2019.12.14
昨日、病院で突然スマホに通信エラーが出て、帰りがけにショップに寄った。平日なのに何だかえらく混んでいる。しかも高齢者が多い。なんでだろう、と思ったが、とりあえず不調を説明し、SIMカードを交換、SDカードも交換したら直った。その折、勧められたのが、まず電力。COOPとかいろいろチラシが来ており、また電力会社も対抗策で少しは安くするような新契約を勧めているようだ。聞くと、電気料金が一か月100円、スマホ二台と、ネット通信料が向こう2年間、一回線につき毎月100円(3年目以降は50円)の値引きになるそうだ。まあ、たいした額ではないが、ひと月400円、1年で4800円。これならと思ってその場で契約。途中電力会社に、電話してその旨を告げる。電気料金は、スマートメーターを設置後、来月からの適用で、通信料に上乗せされる形で支払う。通信料はクレジットカード払いだから、結局それは従来通り。それから、もう一つ勧められたのが、スマホ決済。といっても、スマホに一定の金額をチャージしておいて、そこから決済するという機能。キャンペーン中で、3000円分が無料でチャージされているという。二台で6000円。ああ、結構大きいなと思って、それも頼んだ。チャージはやはりスマホ料金に上乗せするが、自分で額を決められる。帰りがけに、昼食を回転寿司で早速使ってみる。3000円のチャージ分で残高500円くらいになったが、結局ただで食べてきたようなものだ。こちらは5%還元があった。今までは、自分たちはクレジットカード払いか、プリペイカード払いくらいが関の山で、スマホ決済なんて、わけが分からないから、しないだろうと思っていたら、結構簡単なものだ。プリぺイと違い、結局は通信料と込みでのクレジット決済になるから、管理がしやすいし、その都度マイルが貯まる。しかも、対象店だと来年6月までは5%引きだ。自分がよく行くDVDレンタルショップも確か使えたような気がする。まあ、こちらは株主優待で常に半額だから、使えなくてもいいが。こういうふうになってくると、ほぼ現金を持ち歩く必要がなくなる。ただし、スマホのセキュリティをきちっとかけておくことが必要にはなる。また、誰も財布をちょっとおいて席を離れるようなことはしないが、今後はスマホも同じことになるということだ。その割には、席を取る時にスマホだけを置いている人がいるけれど、あれは不用心だろう。ところで、ショップに高齢者が多かったのは、曜日の関係で昨日が年金支給日だからだった。そんなことはコロッと忘れていた。そのうち記帳しに行かないと。こちらは、メインの銀行口座ではないので、下手をすると半年放置している。フル年金になったのだから、時々記帳してチェックが必要だ。国のやることだから、あまり信用してはいけない。
2019.12.14
10年前なら、昨日のように寒くても射場にいたと思う。しかし、昨日はどうにもやる気が出ず、直帰した。出がけに、ちょっと遠回りして、隣町の道の駅で、妻ともどもの好物であるアップルパイ(小さなホールパイだが、1000円でお釣りがくる、美味しい)を買ったこともあり、何かひと仕事したような気分になったこともあった。ついでに、息子夫婦に年末にいろいろと送ってやろうと思っていたが、そこに入れる地元のラーメンも買った。イカメシ、松前づけなど、向こうでは手に入らない息子の好物を用意している。正月も来られないので、まあ、おせち代わりということだ。今日は、さっき診察券を出してきて、整形に。後は、たらたらと、来週以降の仕事の準備などもしながら過ごす。弓の練習は明日。明後日の試合は、妻の茶会の送迎があるので、前半30射だけ参加する予定。できれば280を越えたい。
2019.12.13
よく、再雇用は同じ仕事をしても賃金は7割から5割と聞く。自分の場合は賃金は15%くらいだが、確実に仕事量が減った。時間的なことも勿論だが、それよりも仕事の種類が減ったことが大きい。現役の最後はマネジメントが仕事で、新たな就業規則を策定し、面談を行い、評価をし・・・とまるで現場の本質的仕事とはかけ離れたところにいた。理事会で、論戦を制し、組織の改変も断行した。しかし、雑多な事柄が次々と起こり、その処理に忙殺される毎日だった。これが本来の仕事と、まるで無縁に感じたのは当然である。無理矢理頼まれたトップ、理事という役割を当初の理事長との約束通り(というか、二度も断った後で、どうしようもなくなって、引き受ける際に自分が提示した条件通り)一期3年で「退職願」を出し、受理された、というより受理させた。それで、晴れて再雇用の身となり、本業に専念できるようになった。雑多な仕事の大部分がなくなったことで、本業の質は向上している。経済的なことを言えば、あと何期でもできたし、その方がリッチだったろう。なにしろ、就業規則上、定年から除外されている。しかし、ある程度の資産はあるし、負債はないし、生活の見通しは立っている、という状況で、やりたい仕事ができず、やりたくない仕事ばかりしているという数年間は、60歳前の数年間とは人生における重みが違う、と思った。それは妻も心から同意したことでもある。今は、雀の涙くらいの賃金だが、圧倒的に楽しい。いや、雀の涙でもいくらかは老後の人生の支えにはなっている。セミリタイアは、自分にとって仕事の質を上げる方向に働いている。
2019.12.13
今日は11時くらいに出勤。4時半退勤。それから、射場に直行し、1時間くらいは練習できる。明日からはまた4連休だから、ゆっくりと。前稿を書きすぎたので、まあ、日記はこのくらいで。
2019.12.12
これでもう3回目くらいだろうか、この話題は。今回は、記事の引用から始めよう。【朝日新聞DEGITALからの引用】(傍線 筆者) 2020年度から始まる大学入学共通テストで導入される国語と数学の記述式問題について、文部科学省は、来週にも実施の見送りを表明する方針を固めた。複数の関係者が明らかにした。採点者の質の確保や自己採点の不一致率の高さなどが課題となっており、現状のままでは実施できないと判断した。 記述式問題をめぐっては、約50万人の受験生の答案を採点するため、民間委託で8千~1万人の採点者が動員される。1短期間で正確な採点ができるか懸念があることに加え、2特に国語では自己採点が難しく、受験生が実力にあった出願先を選びにくくなるなどの問題点が指摘されていた。 3受験生らの理解が得られないとして、野党が秋の臨時国会で追及。与党内にも見直しや延期を求める声が高まっていた。 政府は11月1日に共通テストの柱だった英語民間試験の活用の見送りを表明している。もう一つの柱である記述式問題の導入見送りで、大学入試改革は振り出しに戻ることになる。(引用終わり)まず、「見送り」とは何なのか。「延期」でもなければ「中止」でもない。課題が解決されれば、やはり実施するから、とりあえず2021年の共通テスト実施は見送る、と読むのが、まっとうな読み方だろう。「延期」なら、いつまでということが明確でなければならないし、「中止」なら、もう記述式は共通テストではやりませんということだ。結局、そのどちらでもない「見送り」という語を選択したのは、判断の先送りということなのだろう。それで、問題になるのは、記述式が出題されるということを前提に、マーク式の問題自体も、かなり変質しているということなのだ。外部試験導入を「見送った」英語は、マーク式において「読む」「聞く」の2要素を測り、外部試験成績で「話す」「書く」の2要素を測ることになっていた。ところが、外部試験を見送ったのはいいが、マーク式では、その方針に変更はないとしている。つまり、従来のセンター試験で何とか入れ込もうとした「話す」(会話文形式の出題)、「書く」(語整序問題による作文問題)などはまったくないままである。しかも、「マーク」と「ヒアリング」は、従来200:50の比率だったのだが、2021年では100:100となる。これでは、まるで「家を建てるのは見送ったけど、今まで建てた柱と屋根だけは一部だけどあるから、壁は全然ないけど、家賃払って住んでね」と言っているようなものだ。バカらしいにもほどがある。同じことは国語にもあって、全文の要旨把握問題や内容把握問題が欠落したままのマーク試験になりかねない。つまり、記述式部分で測ろうとした学力?をマーク式では測らないという、センター試験に比べても極めて劣化した「共通テスト」になる。これも、予言しておくが、おそらくこの問題は今後クローズアップされ、何らかの修正が施されるだろう。それよりも、この記事で非常に気になったのが、傍線部を引いた3か所なのだ。(1)短期間で正確な採点ができるか懸念があるそれは、そうだろう。しかし、なぜ「短期間」なのか。元来、「新テスト」と一般には呼ばれていた時に、この試験は年に複数回行う、という前提ではなかったのか。確か6月、9月くらいだったように記憶している。採点に2か月もかければ、問題の質はおいておくとして、採点は可能だったのだ。つまり、大学入学試験を受ける資格試験のような位置づけだったのだが、それを大きく後退させ、センター試験と同じ日程でやろうとしたから、「無理が通れば道理が引っ込む」ことになったのである。(2)特に国語では自己採点が難しく、受験生が実力にあった出願先を選びにくくなるこれはセンター試験、その前の共通一次からおかしなことだと思っていた。大学入試センターは各大学に受験生の得点を知らせることができるのに、なぜ、受験生本人は自己採点を強いられるのか。まったく理解が出来ない。自己採点データは大手予備校に集められ、各大学の志望者得点分布が公表され、ご丁寧に予備校の記述式問題の結果とリンクさせて、合否を占う。高校の進路指導担当教師は、それを見てボーダーラインを把握し、進路指導を行う。まあ、言ってみれば受験産業の手先なのだ。(3)受験生らの理解が得られないとして、野党が秋の臨時国会で追及これが一番わけのわからない理屈だ。なぜ、選別する側が、される側の理解を得なければならないのか。どんな入試でも合否は峻別される。たとえ1点でも足りなければ不合格だ。それは、受験生本人にとっては、納得するのに時間がかかるが、諦めるしかないことだ。そもそも、受験は、大学受験に限らず、受験する側との合意形成に基づいてなされるものではない。選別する側は、選別する権力を持っており、それを行使するだけなのだ。権力を行使する側が、なぜ行使される側に阿るのか。犯人に理解を得られるように、警察は逮捕を行わなければならないのか。バカバカしい。こう考えてくると、すべてはこのあり方に集約されるのではないかと思える。それは、消費者に阿る販売者の態度なのだ。消費者である限り、どんな未熟な者であっても、全能感を得る。金を払いさえすれば「お客様」なのだ。だから、そんな理不尽なクレームでも通ると勘違いする。そういう未熟な精神の者を、ふるいにかけて、己の未熟さを痛感させる機会が社会的装置として必要なのだ。「受験者の理解を得られない」。冗談じゃない。優秀な知性の持ち主なら、努力さえすれば、たいていの試験には合格するし、凡庸な知性であっても、努力次第で、ある程度のレベルの試験には合格するのだ。その二つとも持ち合わせていない受験者に阿り、「理解を得る」理由など、どこにもないのだ。
2019.12.12
まず、昼寝ができる。これは、実にいい。例えば、今日は仕事は3時半で上がるから、4時半くらいから昼寝、というか夕寝となるだろう。時間は30分の時もあれば、2時間ぐっすりということもある。疲れは取れるし、一日が二度あるような気もする。「起床→仕事など→昼食→仕事など→昼寝→夕食」というサイクルにすっかり慣れてしまうと、現役の方には悪いのだが、たとえ9時5時の残業なしというホワイトな職場環境でも、何でそんな辛い労働に耐えていたのかと思うのだ。やはり、一日8時間も働くのは、自然なことではない。どこか無理がある。3年目になって、そう思えるようになった。最初のころは、何か物足りなく、空白の時間を埋めようと努力したりしたのだが、何のことはない、仕事の代償を求めていたのである。閑暇を閑暇として楽しめることは、セミリタイアがくれた最大の恵みだと思っている。昼寝は、その中でも最上のものの一つだ。
2019.12.11
狙わなければ中らない。当たり前のことだが、実はそれができていない。できていないことを認めるところしか始まらない。そう思って昨日は射場で、エイミングを意識の中心において練習。とにかく、サイトドットをセンターに付け続けることを目指したが、やはりどうしても下に。目の位置を少し遠くすると、多少は改善する。「目の位置を遠く」という意識は、身体をやや引き気味にすることになる。前に突っ込む悪い癖を矯正する。そうやって狙い続けることを主眼に、リリースは引き続ければやがて来ると思っていた。後ろの人が2本、ポンポンと射つ間、ずっと狙っていたこともあった。外すのは、何かの加減でエイミングの初期段階で発射してしまう時に限定されつつある。つまり、これを回避できれば9点は外さなくなる。明日もじっくりと練習予定。
2019.12.11
暇に飽かせて、駄文を綴るのが朝の日課なのだが、この日記の題名通り「セミリタイア」の日々を送っている。「リタイア」の度合いは、次年度はもう少し強まり、仕事が占める時間は多分、今の80%くらいになる。すでに定年前と比べると今が30%程度なのだから、まあ、たいして変わらないといえば変わらない。こうして、徐々に仕事の比率を減らしていく日々を綴っているのだが、そういう生活をもう少し一般化して考えてみたい。やはり、もう3年になるのだが、どこか腰がすわらない感じもするのだ。不安定なものを定義づけるのは、人間の本性であるらしい。もちろん誰かに勧める生き方という意味はない。というか、そういうことをしないのが自分の生き方である。ただ、自分のような生き方の場合、どういうことができるのか、またできないのかを書いてみたい。今までのような「評論」というわけでもないので、一応「随想」にカテゴライズしておくことにする。
2019.12.10
我が家の味、というほどでもないのだが、息子も娘も時々作るのが、サフランご飯。干したのを戻した椎茸、グリーンピース、豚バラなどをサフランの味付けで炊き込んだご飯だ。椎茸と豚バラとグリーンピースのバランスが何ともいえない。大好物の一つだ。別にお金のかかるご馳走でもないのだが、亡くなった母がよく作っていた。母のルーツは九州なので、そのあたりの食文化なのだろうか。そう言われてみれば、いかにも長崎や天草や佐賀のあたりの異国文化の香りがする。実際、「サフラン」はフランス語かオランダ語の外来語で、江戸時代、薬草として伝わり、明治になって大分で栽培が始まったということだ。多分、祖母か祖父が初めて食べたのだろう。自分の家以外では、それを作ったとか食べたという話は子ども時代以来聞いたことがないので、そう間違った推測でもなさそうだ。インド料理の一つだそうだが、多分かなり味付けが違うだろう。もう少し経ったら、インド旅行も考えているので、そちらのサフランライスも食べてみたい。多分、カレーの一種みたいな感じだろう。
2019.12.10
今週・来週は、通常通りの仕事を火水木で。金曜日は休みになったので、この日に整形。再来週は、22~26までが仕事。一日90分。25日には、妻と久々に復活したロシア料理の店を予約してある。27日から、来年1月13日までは冬休み。17日間だ。30日に娘と孫が来て、息子の嫁さんのところにいつものお呼ばれ。31日に旦那さんが来る。今年の年越しは5人で。
2019.12.09
気が付いたら、隣の的を射っていた、しかも2本。サイトが緩んでカタカタしたまま射っていた。等々。昨日の試合は、自分でも呆れるほどの大失敗で今季最低。まあ、それとは別に課題も鮮明になった。とにかく、エイミングからずれることなくリリースまで。そこにつきる。それは自宅でも十分練習可能なので、今日も午後からはそこを追求したい。通常の的では、練習にならないので、畳の目で、あるいはそこに小さなドットを貼ってやってみたい。まずはエイミングまで、そこで止めて、引いて、ずれたら下す。この反復でずれない力の入れ方をマスターしたい。
2019.12.09
射の感触は、すごくよくなった。以前のように、押し手が開くことがなくなった。相当重くなっているはずなのだが、持ち上げる時にはあまり感じない。エイミングは以前より改善している。矢も変えたので、サイトは少し下げた。肝心の中りはまだまだ、という感じ。やはり8点は出る。問題はフォームの一定性につきるのだが、特にアンカリングからエイミングにかけての一定性がまだ確立できていない。今日は今年最後の試合だが、まだまだ結果は出ないだろう。とにかく、新たな年を迎えるまでに、この重量バランスでのフォームをつくり上げたい。要は真ん中が狙えて、ある程度の範囲の中で、ある程度の時間の内に、発射できること・・・それだけ。
2019.12.08
子どものころは、厳寒の地で育った。暖房は石炭ストーブ。俗にいう「ルンペンストーブ」で、円筒状のストーブに石炭を上から入れて、焚き付けの薪、新聞紙を縒ったのをおいて、マッチで点火する。ストーブが真っ赤になるほど熱くなる、それが一家に一台の暖房機器だ。一日三回、いや厳冬期なら四回はストーブを取り換えて、炊き続ける。ストーブのある居間は、汗が出るくらい熱い。父が半袖シャツ姿だったのを覚えている。冬休みになると、取り換えたストーブの灰を庭に捨てて、新たな石炭を炭小屋(たんごや)からスコップで入れてくる、というのが子どもの仕事だった。石炭がなくなると業者がトラックで補充する。それ以来、部屋が寒いのには耐えられない。今は石油ストーブの個別暖房。一階居間はFFという強制排気方式。元の母の部屋も、二階の子どもたちの部屋もそうだ。二階居間は、集合煙突につながる煙突式。居間の隣りが寝室なので、一階にはストーブがない。二階寝室はFF式を一台。三階にも一台あるが、これは滅多に使わない。玄関はファンヒーター、さっき点けてきたところだ。三時間で自動的に止まる。一階トイレはパネルヒーター。風呂の脱衣所は、温風式の電気ストーブ。数えてみると一軒家に七台の石油ストーブ、他に三台の暖房機器。居間のストーブは、基本的に一冬中、炊きっぱなし。12月から2月、3月まではそうなる。給油はホームタンクからだが、半月に一回満タンにしてもらっている。400リットル。だから、なんだかんだと暖房費はかかる。ただ、これでもセントラル方式よりはかからないそうだ。一人で住もうが、二人で住もうが、暖かい暮らしは、それなりのコストがかかるのだ。
2019.12.08
基本的に引き尺とピープ以外、弓の設定はいじらない、というかいじれない。年に一回ストリングスの張り替えは、できる人に頼んでいる。どうしても最初はピープが狂うので、それはいじる。引き尺は、シーズン中に何度か。今回は、カウンターを重くして、下に付きがちなエイミングが改善できるかどうか試してみようと考えた。といっても、カウンター自体も自作品(自分はやっていないけど)なので、錘が付かない。それで、とにかく一度重くしようと考えて、ホームセンターで太いボルトを4本買ってきた。あとはアルミテープ。で、カウンターの先端の太い部分に、ボルトを2本付けて、アルミテープをぐるぐる巻きにして固定した。なんだか、小学生の図画工作レベルである。しかも、できの悪い生徒並み。三階で試射。確かに、エイミング時のバランスは変わり、少し下がらなくなったように思う。まあ、「ように思う」という程度だから、劇的に変わったわけではない。これで、失敗の射の中で最も多い6時8点がなくなってくれればありがたい。今日の練習テーマは、増量効果の確認。それから前回はダメだったが、少し重いエウリプスに、矢を変えてみて、一定性が向上するかどうかの確認。ということは、100射くらい必要かもしれない。
2019.12.07
今週は1回だけ勤務。まあ、来年は多い週で3回、少なければ1回、夏冬春は長期休み、ということになるから、こういう感じの一週間も増える。夏は、畑をいじったり、弓を射ったり、旅に出たり・・・結構やることはあるのだが、問題は12月から3月までの冬である。基本的に、どこにも出かけない。弓は一週間に3,4回。地元での試合がひと月に2回。それ以外は、仕事と家。ここ二日ほど、昼寝の時間が2時間ほどになってしまっている。もはやウトウトではなく、ぐっすりだ。起きた時に朝かと錯覚する時もある。これは、睡眠を昼と夜に分割しているようなものだ。それで、体調がいいかというと、そうでもない。なんだかしゃっきりしない。昨日は、一階を年末大掃除的にやったのだが、それでも2時間程度。後はクリーニングを出しに行き、帰りにホームセンター、給油。カードの新規申し込みをするキャンペーンで、2月まで7円引きだというから、それに乗っかる。いつもは4円引きなので、まあ、大きい。毎年4月から5月のアタマまでは7円引きになるそうだ。遠征のある時期ではないが、それはそれで嬉しい。今日は、弓の練習予定。
2019.12.07
昨日の練習は、どうも疲れ気味なので、3射3回を一回の単位として、それを6回、つまり54射。9射の中で8点がなかったのは一回だけ。10-10-10もあったのだが、どうもに8点を止められない。まだ、ちゃんとしたエイミングが出来ていない。同心円の横方向のズレは大分解消はできた。問題はグリップだった。今までより少し厚くすることで、右方向にズレていくのを、ある程度防げる。だが、縦方向がピタッとしない。カウンターを少し重くしてみようかと考えているが、手持ちの錘がない。手近なものを巻いてみようかと思っている。今日は、仕事は休みだが、自宅で少し。年末に向けて掃除も丁寧にしておきたい。それから久しぶりに三階射場に籠って、いろいろやってみることにする。
2019.12.06
今朝の新聞の一面トップ見出し。公明党幹事長が、文科大臣に導入延期を要請し、それに対して大臣は「重く受け止める」と返答した、ということに基づく記事だ。「政治家用語」の「重く受け止める」は、答申等に対しては「分かりました」という意味だが、野党や民間の指摘に対しては「分かったけれど、やることはやるからね」という意味であり、いわゆる「二枚舌」用語の典型である。が、今回は政権与党の幹事長の指摘に対する、担当大臣の返答なのだから、前者とみるのが妥当だ。だから、この見出しになったのだろう。本稿ではこの問題を先月取り上げ、18日の論考で、こう結んでいた。おそらく、国語記述式は、英語外部試験と同様、延期となり、「検討」の結果、実施断念ということになる。別に自分の先見の明を自慢するのではなく、最初からこの問題に関しては「無理だ」ということが分かっていたのである。参考記事に掲載された北大名誉教授の「(記述式問題は)各大学が個別に行うべき」という意見は、至極まっとうな意見であり、自分の意見もまさにその通りである。しかし、北大は一応旧帝大のはしくれなのだが、それにしてはセンター試験比率が高い。道外からの流入が多いのは、北海道人気だと勘違いしている向きも多いが、実はセンター試験得点で逃げ切れてしまう大学だからだ。学歴(正しくは学校歴)社会において、受験生は思いのほかリアリストである。付け加えれば、東大を除いて、理系の学部には二次試験に国語を課していないことも、改善すべき問題だ。記述式問題を導入したのは「思考力・判断力・表現力」を試すという意図だったはずである。そのことに異論はない。問題はそれを50万人が受験する共通テストでやろうとしたことである。それが無理なら、個別試験でやる、というごく当然の流れには、これも予想しておくが、絶対にならないだろう。理由は以下の通り。そもそも理系学部の教員は、言語的な能力に劣るケースが多い。今は、教員自身がセンター試験国語だけで、大学に入った者が多いからなおのことである。だから、自分の学部の入試に国語を新たに入れることには、後ろ向きである。彼らからすると、そこに哲学だの、社会学だの、わけの分からないことを議論する教員が関与し、入試のキャスティングボードを握ることは、到底承服できない。つまりは、「ムラ意識」丸出しの強い反対が起こるのは目に見えている。そして、大学の独立性の第一歩は、独自の入試を行うことに始まるから、文科省等の要請がたとえあっても、応じるわけがない。ついでに言っておくと、3・11が起こった時に「メルトダウンはしていない」と連日報道番組やワイドショーで断言した学者たちも、「原子力村」という、タコツボのような狭い学問領域で研究をしていた学者たちだ。彼らは、原子核反応については専門家の知見を持っているが、その研究の社会的意義、つまり研究がどういう方向で社会に貢献できるのかということについては、小学生並みの思考回路しか持ち合わせていないということが、あの時よく分かった。もし、彼らが「思考力・判断力・表現力」を試す試験をクリアして大学に入っていれば、少なくともああいう後から嘲笑されるようなコメントはしなかっただろう。そういえば、日本人のノーベル賞第1号となった湯川秀樹の文章は、達意の名文で、大学入試問題にもよく取り上げられていた。分かったようで分からない、人を煙に巻くような小林秀雄の文章よりよほどいい文章だった。とにかく、共通テストで記述式がなくなったことで、ワイドショーや野党は受験の公平性の確保だの、来年の受験生にとってよかっただの、鬼の首でも取ったような大騒ぎをするだろうが、それだけでは、深刻な問題は一つも解決しないということは、明確に述べておきたい。
2019.12.06
窓の外は、昨日から真冬の雪景色。今朝はこれから整形に診察券を出しに行き、妻と昼くらいにデパートに寄ってから、整形に。膝と腰に注射。その前に、雪かきを少し。帰ってから午後は射場に。寒そうだが、2時間くらいは射ってきたい。
2019.12.05
今月の勤務日数を手帳で確かめたら、あと11回。時間数なら30時間というところだろうか。その準備等は自宅でやるから、それを含めるとその倍60時間くらいである。まあ、楽と言えば楽。しかし、丁寧にやろうとすると、準備にはそれなりの時間がかかる。今週は昨日1回だけの勤務だが、自宅での仕事が多い。それが終わると、年末年始の休日が20日ほど続く。
2019.12.05
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