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ここ一週間で二回、夕食を担当した。昨日はズッキーニがメインのカレー、その前はチャーハン。まあ、誰でもできる料理だが、夏はやはり夏らしいものが並ぶ。我が家の定番は、夏野菜スープ。パプリカ、ピーマン、ズッキーニ、トマト、玉ねぎ、ジャガイモ、ニンジン、肉などを薄い塩味で煮ただけのいたってシンプルなものだ。今年は庭で豊作だったサヤエンドウが加わった。あとは天ぷら、茄子の素揚げ等々。デザートは赤肉メロン。地元の生協は、夕張メロンが市内で一番安く手に入る。この前はやや熟しすぎていたが、1個500円。昨日は780円で「ようてい」というのを買ってきたが、やはり夕張にはかなわない。その季節にその季節らしいものを食べる。当たり前のように思えるが、これもちょっとした贅沢なのかもしれない。
2019.07.31
65歳となり、自分も公式的には高齢者の仲間入りをした。考えてみると、自分が若い頃の60歳を越えた先輩方は、ずいぶん年寄りに見えた。平均寿命が延びたのだから、見た目年齢も、若くなるのは当然だろう。意識もそうなる。自分の感覚として、老人になったなぁというのはまだない。ひところアンチエイジングというのが流行ったが、あれはバカみたいだと思っていた。「歳を取っても若々しい・・・私には無意味なことに思える」正確には覚えていないが、小林秀雄がそんな一文を書いていて、その通りだと思ったことがある。ある程度の年齢を重ね、若い時と同じ感覚でいることを自慢したりするのは、無思想ということだろう。ただ一方で、「年寄りの知恵」などということは求められもしない時代にはなった。ITについていけない高齢者は多いが、最近はスマホも高齢者にずいぶん普及している。孫とLINEで電話をするのが、一番の目的だとか。テレビ電話など、夢のまた夢という子ども時代を過ごした自分たちの世代にとっては、信じられない技術革新だ。そういう機器の操作さえおぼつかない「年寄りの知恵」など求める人はいない。そもそもそういう知恵を求められる場としての、近隣共同体がなくなってしまっている。葬儀や、結婚式などの冠婚葬祭は、人によって考え方がさまざまで、他人が口をはさむことは、もはや「非常識」である。一種の世代論になるのかもしれないが、現代社会の「老い」の姿をあれこれと考えてみたい。
2019.07.31
今朝は結局1時間。60、50、40と12本ずつ射って、最後は50で7射。あまり、中らない。まだ、うまくつけられないし、下がり気味ではある。ただ、最後の段階では、極力修正しないように射ってみた。外れるが小さい。修正すると、うまく中ることもあるが、暴発する可能性が増す。その時の外れは大きい。さて、どうしたものか。夕方、もう一度。
2019.07.30
昨日は、朝に1時間半。フィールドのサイトを取るつもりが、サイトが段々下がらなくなってきたので、上下に一定しない。最初は大体上に矢はいく。思った以上にサイトがちゃんとついているのだ。まあ、一つのプロセスで、そのまま試合になりそうだが、自分としてはフィールドはお遊び感覚なので、サイトの一定化だけを追求することにした。今日もこれから一時間半。仕事の夏期講習が4日間ある。
2019.07.30
昨日は頸椎ヘルニアの手術をした病院に改めて紹介状を書いてもらい、脳検査に。自覚症状はないのだが、念のため。まあ、今年は65歳を機にいろいろな検査をと思っていた。その最初で引っかかってしまい、胃がんの診断を受け、ごく初期だったので放射線治療を選択し、これはおそらく完治している。来月初めにわかる。そういうこともあるので、脳疾患関係でもひょっとすると何か見つかるかもしれないとは少しだけ思っていた。レントゲン、MRI、頸動脈のエコー。大体、3時間はかかったが、やはりまったく異常はなく、3年前の画像とほぼ変わらない。1万円ちょっとかかったが、これが脳ドックだと最低3万、普通なら5万はかかる。高い病院なら10万。紹介なので、かかりつけ医にも結果は郵送される。医者のかかり方が健康年齢を大きく左右する。何か症状が出てから、何となく大きな病院だからといって行くのは、運不運の差が大きい。妻の知人はそれでひどい目に遭っている。大腸がんは見つかったが、PETもせず、一年後に転移が分かった。病院の大きさよりも、医師個人の資質によるところが大きい。ダメな医者は、分からないことを認めず、すべて自分で適当な治療をしてしまう。これから、胃や大腸は年一回、他の検査も必要なら随時、自分の身体状況を可能な限り分かるようにしておくことも、大切な老後の心得だ。
2019.07.30
ところで、なぜ自分がそのことをあまりいい感じで受け止めらず、「寄り添う」という言葉に違和感、もっといえば「欺瞞」を感じるかなのだが、一つは自分の思想が「近代個人主義」だからだ。今や「近代個人主義」は乗り越えるべき思想である。しかし、それに代わる新たな人間の在り方が、提出されていない。世界中が近代化を達成してしまった現代においては、前近代的な相互扶助システムに戻ることは画餅である。そして、自分の周囲の状況が「近代個人主義」の臨終期にあるのではなく、その誕生期に近いところにあるからだ。日本では、まだまだ「個人主義」と「利己主義」が混同されている。西洋思想が歴史として受容され、血肉化されていない。だから、「個人主義」が古くなっていない。自分には、近代的家族がおり、子どもたちもそれぞれの人生観に基づいて家庭を作り、職業を持っている。自分たち夫婦が、老後に世話になる気持ちなどないことは、彼らにも当然のこととして了解されているし、自分たちは自分たちの人生を経済的に賄うこともできる。その意味でもたれあっていない。といって彼らと疎遠であるわけではなく、今は主としてLINEでつながっている。先日も娘夫婦の孫が近所の夏祭りにでかけた写真と、息子夫婦の孫が「はいはい」の前段階のくるくる回っている動画や飛行機のように両腕と足をうつぶせで持ち上げているのをみた。もちろん、年に数回は会いに行ったり来たりする。自分たちとしては、この家族こそが「寄り添う」対象であるというよりは、すでに濃密な関係の中で「寄り添って」生きているのだ。また、自分は妻と相互的関係の中に生きている。一日の数時間を妻との会話で過ごす。そのような「相互的・直接的関係」こそが「寄り添う」ことの基盤あるいは実質であって、そうなれば、遠い他者を襲った悲劇に「同情」はするが、「寄り添う」ことはないのは当然と思う。もし、自分が妻に先立たれて、独居するようなことになったとしても、一人で生活できるうちはするし、それが不可能になれば適当な施設に入るだろう。もちろん子どもたちや孫たちとの良好な関係は保っていくだろう。そうやって自己の人生を自己の責任において生き、閉じることが個人主義者の生き方であり、誰に対してももたれかかろうとしてはいけないというのが、自分の信条である。誰かにもたれかかりたいと考えた瞬間、もうそれは近代個人主義者ではない、前近代を生きることになる。近代は、そこから必死の努力を積み重ねて生まれた時代である。そこを超えるならともかく、何も考えず、前近代に戻ることは、少なくとも自分にはできない。そして、そこを超えるには、自分はもう歳を取りすぎたと思う。無縁社会の中の孤独は、根本的には解決はできなくとも、顔の見える人間関係の中で生きることで紛らすことはできる。ただ、それが過剰な寄り添いであるのは、「紛らし」にもならないだろう、と自分は考える。家族、近隣、職場、趣味の集まりの中で、「顔の見える」人間関係の中にある・・・こういう人は、見たこともない他者に「寄り添う」ことを必要としていない。この項、了。
2019.07.30
「下がらない」ためにはローグリップで押し続ける。的に向かって前傾すると、下がる原因となるので、少し顔を引く。同心円のくっきり見える方向に引き、同時に10点のやや上にサイトをつけ、あとはカチッ→押す・引く→リリースまでを区切らず一連の動きと意識する。切れないと感じたら、最後は引き手の引きを意識する。昨日夕方、36射50mを射ちながら、考え、実践したことだ。たっぷり1時間。55が4回と51、52で323だったが、今までと違って点数は意識しなかった。結果として、ああ、そうかという感じ。大きなミスは多分2回。7点。暴発気味の「抜けた」射だった。今日はこれからフィールドのサイト取りに。
2019.07.29
過剰な「寄り添い」としかいいようのない行動が、今の世の中にはあふれている。前項で書いた歩道上の供花もその一例だ。なぜそうなるのか。「寄り添う」という言葉が登場したのは、東日本大震災のころからだった。いや、それ以前にも使われていたかもしれないが、おそらくそれは介護や医療という限定された分野の職業的態度として言われていたように記憶している。ところが、いつのまにか、普通の人が見も知らぬ他人に「寄り添おう」とし始め、その記号として例えば路上の供花が現れたのである。このことは「家族の解体」、「無縁社会」という現代の病理から出来する問題だ。つまり、普通に人たちが共同体の中で以前なら普通に行っていた「寄り添う」ことができなくなってしまったという状況がある。寄り添おうにも、その相手が身近にいない。独居している人のたいていの娯楽は依然としてテレビであり、そうでなければネットのさまざまな情報である。一日数時間、そうやって過ごしていれば、そこで展開される出来事、特に被災、犯罪被害などのニュースが、「我がこと」のように感じられるようになるのだろう。共同体の中で暮らしていれば、家族や親族、知人、友人、近隣の人たちを襲う悲劇こそが「我がこと」のように感じられることなのであって、テレビの悲惨なニュースは、それにどれだけ衝撃を受け、胸を痛めたとしても、結局は「他人事」である。これは、別に同情心が欠如しているということではない。そういう人の同情心は顔の見える身近な人々には、十分働いているからだ。だからこそ、「他人事」であっても、もちろん多少は気の毒に思う。何かお役に立つのならと考え、いささかの募金にも応じる。地元のある社長は、東日本の時、会社として1000万円の寄付をした。その会社が、最低賃金で社員を酷使する会社で、その事情を知る人は「そんなことより、自分のところの社員の待遇を何とかしろよ」と言ったそうだが、法人税の控除などのいろいろな理由があったのだろう。あるいは、その寄付が地元の新聞に大きく取り上げられるということもあった。そういうことが大好きな人物であるらしい。もちろん、決して「寄り添った」わけではない。多分に偽善的計算はあったのだろうが、しかし、1000万円は復興のために使われたことに違いなく、彼は十分「役に立って」いるのだ。少なくとも我々の乏しい財布から出た数千円の数千倍は役に立った。一般の人がせいぜい数千円を街頭で寄付するのも、それがどんな動機だろうが、「寄り添った」のではなく、「同情」し、「支援した」のである。そういう間接的つながりでは満足できない状況下で暮らす人たちが、直接的に「寄り添う」ことを望む。そう考えれば、過剰に「寄り添う」現代社会の風潮にも、一定の説明はつくかもしれない。
2019.07.29
今日は今月から妻が再開した英会話。友人とランチだそうで、まだ帰らない。自分は午前中はフィールド準備で山に。午後に帰って昼寝。それから洗濯物の取り込み。なれない肉体労働できつかったが、大分、回復したのでこれから射場にと考えている。テーマは、相変わらず「下がらない射」。まあ、30射もできれば十分。明日の朝練もある。明日からは5mおきの正確なサイトを取りたいので、今日の練習で何とかできるようにしたい。帰りがけに、久しぶりにビールでも買おうかと思うような暑さだ。
2019.07.28
一歩譲って、いや、そうではなく「気持ち」の問題として「寄り添う」のです、という反論があるかもしれない。それなら、分からないわけでもない。災害や犯罪の被害者は、報道されれば気の毒としか思えないし、それは「思い」をその方々に「遣る」こと、つまりその方々の身になって悲しみや憤りを感じることだ。それを「寄り添う」というのなら、それでかまわない。普通の人でも、数分の黙祷を捧げることならできるだろう。しかし、30分もしないうちに、日常の気分は戻ってくる。くだらないテレビをみたり、他愛ない冗談を言ったりして、その日を過ごす。それが日常というものだ。東日本大震災の時、知人にはいろいろと物を送った。復興した蒲鉾店から息子の結婚式の引き出物を注文した。職場でも募金があったから、財布から千円札を数枚寄付した。それは「がんばってね」という単純な思いからしたことで、決して「寄り添った」ことではない。できる範囲でできることをしたまでである。ところで、最近、ニュースを見ていて違和感を強く感じるシーンがある。例えば交通事故で複数の死傷者が出て、運転者は高齢者、などというニュース性の強い報道があると、その翌日に現場付近に献花をするあまりのも数多くの人たちの映像が必ず流れる。近所の顔見知りの人なら分かる。あるいは、同じ保育園に通っていた園児の母親なら分かる。わからないのは、これといった縁がないのに、他人事とは思えず花を供えるたくさんの人たちだ。テレビでみて、「気の毒に」とは誰しも思うだろうが、わざわざ花を手向けに出かけるのはなぜなのか。そういうと語弊があるが、「そうまでして寄り添わなければならないのは、何か理由があるのだろう」という感想を持つ。歩道にあれだけの供花が並ぶと、交通の妨げになってしまう。それほど強く同情したのであれば、匿名の香典を送るのがいい。たとえ数千円でも、それが供花の数ほど来れば、遺族も助かるだろう。ただそれはテレビ映像にはならないだろうが。「寄り添う」側の問題として、考えてみると、現代日本社会の病理の一端が見えてくるのだが、それは次回に。
2019.07.28
「寄り添う」という最近の妙な日本語は大嫌いである。何が「寄り添う」なのか。何だか気持ちの悪くなる言葉だ。競争社会の勝者が敗者にどう寄り添えるのだろうか。むしろ「同情する」と言った方が、まだしも正直な言い方だ。「同情」は神が人間に与える「憐れみ」であり、人間同士ならば「強者」が「弱者」に与える「憐れみ」なのだ。むろん、「同情」のドイツ語、Mitleidは「共苦」と訳すべき語意を持ち、英語simpathyは文字通り「同じ感情」の意味で、「憐れみ」とは違う。言葉の原義通りの「同情」は、同じ境遇にある「弱者」同士の間にのみ生じる感情なのだ。もちろん、日本語の「同情する」は、「可哀そう」という「憐れみ」の感情と同義で使われている。今、問題にしたいのは「寄り添う」ことと「憐れみの感情をもって行動する」ことは本当は違うことなのに、それがあたかも同じこと、あるいは連続すること(憐れみの情を持てば、自然と寄り添える)という決定的な勘違いを、ほとんどの日本人がしているように思えてならないことである。例えば、政治家が選挙で「被災者に寄り添った政治」を叫ぶとき、彼らは党内のリーダーであり、序列の上位者である。彼らが政治生活を投げ出して「寄り添う」ように生きる過疎地の仮設住宅に移住するはずがない。彼らの仕事は、災害に遭遇して不幸な人々の生活を、適切な予算措置をとって、できるだけ辛くないようにする、ということである。また、例えばマスコミが貧困を論じ、若いアナウンサーが「貧困に喘ぐ人に寄り添って・・・」などと簡単に言うが、彼らの収入は30代で1000万を軽く超えている。彼らが今、その席に座って、その声を電波に乗せて発信しているのは、彼らが格差社会の上位層の家庭に生まれ育ち、学歴社会の勝者となり、信じられない倍率の入社試験を突破した、紛れもない「勝ち組」に属するからである。彼らは、「相対的貧困」者などではなく、「相対的富裕」者なのだ。彼らの年収の80%を寄付して、自ら安いアパートに住み「相対的貧困」者の仲間として生きるかといえば、そんなことは決してできない。彼らの仕事は、貧困の実態を伝えることであり、視聴者に「寄り添え」と強要することではない。つまり、あらゆる場面で頻繁に発せられる「寄り添う」は、聞き触りのいい虚言であり、発信している当の本人が、その欺瞞にまったく無自覚なのだ。なぜ、こういうおかしな事態に陥ってしまったのか、しばらく論考を続けたい。
2019.07.27
今朝は6:00~7:30。どうやったら、狙い、切れるかを試行錯誤しながらも、一応サイトを取った。80cm的を使ったが、なかなかうまくいかない。どうしても押し手が下降する。引き尺なのか・・・一度帰り、妻を整形に乗せていって、迎えに行くまでの間にもう一度。60mで9射して、ノックを3本壊した。それくらい集中はしたのだが、うまくいったという感じはない。何となく、下がらないポイントのようなものは見つかった。狙って、引くのではなく、狙いながら、引く。つまり、サイトが的のセンターにつくように動く方向を定めて、そこに向かって引き、そして押す。それだと、朝に書いた「区切る」ではなく「連続する」射の動きを意識することになる。明日もこの辺を悩みながら追求することになるだろうか。いや、夕方、もう一回でもいいか。
2019.07.26
現実の世界は、例えば色のグラデーションのように、すべてが区切られることなく連続していく。しかし、人間はそこに区切りを入れて、ここまでは赤、ここからは橙などと呼称する。ここまでは、いわば言語論の常識であり、そこから言語の恣意性、ひいては言語なしには成立しない思考の恣意性を指摘する。だが、本当に区切られることのない連続世界、現実世界が正しいのか、区切ることでさまざまな有効性を手にしてきた言語の世界が正しいのか。それは「正しさ」の定義による。この「正しさ」がコト・モノの正しさであれば、現実世界は絶対的に正しい。しかし、この「正しさ」が倫理的意味での正しさなのであれば、区切ることは、少なくとも、大体において正しいとは言い得る。どうも、哲学的なところから始まってしまったが、現実は以下の通り。学期末で、担当の授業のまとまりを一応つけねばと、この2日間ちょっとバタバタしていた。『檸檬』は読み終わり、『山月記』は作者の意図についてのグループ討議の発表が終わり、『西洋近代の思想』はフランシス・ベーコンの経験論とルネ・デカルトの合理論を対比し、経験科学における純粋主観としての人間と、ボン・サンス(良識)を備えた、疑わしいものを排し、絶対的正しさに向かう倫理的主体としての人間を比較したところで終わった。やはり、「区切る」ことはいつも一定の有効さを持つのである。少なくともひとまとまりの何事かを教え切った、という手応えを持つことが、仕事のやりがいを生むのだと思う。これが、毎日、毎日マニュアル通りの仕事をしていたら、「区切る」ことはできなかったかもしれない。労働時間の終了は、一つの「区切り」には違いないが、明日からまた同じことが続くのでは、手応えは感じないだろう。主体的、能動的に区切るからこそ、達成感が得られる。さて、これから朝練。「区切る」意識は大切だ。今は、射のエイミングからリリースまでの一連の流れを、意識としてどこでどう区切るか、それが問題だ。
2019.07.26
張り切って出かけ、60mから。的は80cm。6射、10-10-9-9-9-8で55点。押し引きのバランスはうまく取れた。さて、と思ったところで、ポツポツと。しばらく様子を見ていたが、そう無理に練習してもしょうがない、と判断し、引き揚げた。
2019.07.25
今週は、エイミングが練習課題。フィールド公式戦が近い。50mなら、的の中心にサイトがついていなくとも、それが一定さえしていれば、そこそこ中る。今年もそのやり方でわずかだが、自己記録を伸ばせた。しかし、フィールドとなると目見当で射って中るはずがない。それで、とにかくサイトのドットを10点につけるように練習している。まだまだ不十分なのだが、それでも、今までの7時7点くらいではなく、6時9点くらいでは射てるようになってきた。やればできる。今までは、結局、楽に中る射になっていたのかもしれない。左へのズレは、顔向けに気づいて以来、なくなっている。問題は下へのズレだ。サイトが下がらないようにするには、押し手が下がらないようにするほかない。押し引きのバランスを、さらに強く押し、引いたところで実現すること。意識としては押し手を的の中心に向かってどこまでも押し続け、引き手がそれに負けないように、さらに後ろに引くこと。そういう努力をしながら射っている。今朝もこれから、一時間半くらい射場。それから9時出勤、5時退勤。昨日も10時出勤、8時退勤と2日連続で普通のサラリーマンみたいな労働時間になっているが、期末なのでしょうがない。それから、4日間休みだ。
2019.07.25
一昨日は、久しぶりにかかりつけ医と面談してきた。いつもは、妻と自分の二週間分の薬をもらうだけで、いわゆる「診察」は血圧を測り、体調を伝えるだけ。今どきは珍しい院内処方で、大体1時間もあれば、すべてが終了する。このドクターに紹介してもらった専門医の方は、胃がんをステージ1で見つけてくれた。医師の説明では「初期の初期」という状況で、手術の要はなく、放射線治療。それも終わり、後は精検の結果待ち。ほぼ100%治癒の見込みで、あまり心配していない。ところで、このところ、立て続けに知人が二人、ともに脳疾患がらみであることを知った。一人は急逝し、もう一人も他の症状もあり、いつまでもつか、という状況だ。亡くなった方は50歳前、もう一人も自分より3歳ほど上だが、まだ70歳前だ。それで、自分もこの際、脳血管のMRIを受けておくことにした。癌が見つかる前にはそれも考えてはいたのだが、癌治療が一段落したので、まあ、早い方がいい、ということに。それで、かかりつけ医に相談した次第。自覚症状はまったくないのだが、脳ドックだと自費負担。そこで「肩こり」、これは職業病みたいなものだが、それにかこつけて紹介状を書いてもらった。こういうのも、とてもありがたい。このドクターは、高校の先輩でもあるのだが、5歳ほど上で、温泉旅館の跡取り息子だった。その道には進まず、旅館はもう閉じてしまったが、その隣地に開業した人で、診察はとても丁寧だ。必ず触診をして、問診も時間をかける。母の肝臓癌もここで見つけてもらった。その時は方々にあたってもらい、国立がんセンターの名医を紹介され、ほどなく手術。おかげで母は、5年ほど長生きできた。娘と息子が大学生になるところまで見届けてもらった。以来、このドクターをもう20年以上頼っている。本人はいたってものぐさで、患者が多いと機嫌が悪い。9時に始まるのだが、10時半まで出てこない。このところ患者が増えたようで、10時ちょっと過ぎには出てくるようだ。いいところは的確な診断と、その時、その時で一番いい専門医にすぐに紹介してくれるところ。念のために、と思って脳検査を受けるのだが、たっぷり30分かけて紹介状を書いてくれた。頸椎ヘルニアの手術(これが原因でレフティに転向した)をした病院の院長に紹介してくれ、月曜日に診察、検査となった。7月の定期健康診断の結果も見せたら、悪玉コレステロールが基準値を超えていて、これは大変、ということになり、そちらもひと月分の薬が出た。心筋梗塞の原因になりかねないそうで、レントゲンも撮り、採血をした上で、一か月後、薬の効果をみてくれる。こちらも自覚症状はないのだが、食事指導もあり、どうやら昨日書いたちょっとした贅沢は、多少控えめにしなければならないようだ。特に脂肪、バター、ケーキ、クッキー、まぐろなどが要注意で、まあ、仕方ないかなと思ってはいる。
2019.07.25
昨日は、麻酔の胃カメラとなってしまい、帰宅後もあまり調子も良くなく、終日寝て過ごした。参院選は、予想通り、過去二番目の低投票率で、国民のシラケた気分を反映した。年金も、消費税も、改憲も争点とはならなかった。若い世代ほど保守政党の支持率が高い。不思議な現象だ。彼らは間違いなく年金も今より所得代替率は低下し、おそらく近い将来に20%の消費税を払い、下手をすると、自衛隊に入れば実質的には戦地に派遣される世代なのだ。そうならないために政治的問題意識を持ってもよさそうなものだが、現状に満足しているということなのだろうか。今朝は、雨の上がる出勤前に射場にと思っている。久しぶりに家事をしてくれる方が来るので、そこまでには家を出ないと、何となく落ち着かない。仕事も1時間で終わるが、午後は、昨日行くはずだったかかりつけ医に。今年は、メロンを随分と食べた。妻と歩いてスーパーに行き、メロンウォッチングと称して、「あれは、もうあがってしまってる(熟しすぎ)」だの、「この値段じゃ誰も買わないよ」とか好き勝手な論評をしつつ、まあまあの値段のを一個、3日おきくらいに買って帰る。一度に六分の一ずつ。ひと月以上そういう状態だから、もう12,3個は食べたかもしれない。さすがに他の果物がほしくなり、先日パインを買った。沖縄からパパイアもきた。メロンなど子どものころはとんでもない贅沢品で、まず口に入ることはなかった。代わりに「あじうり」。後からプリンスメロンというのが出てきて、それは庶民にも買える値段だったから食べていた。パパイアなど名前すら知らなかったし、パインはもっぱら缶詰だけ、本物は小学6年の時、宮崎に旅行して初めて食べた。考えてみると、自分たちの世代は、子どものころには考えられなかった贅沢がどんどん普通になっていった世代である。自動車もそう。父が最初の車キャロル360を買ったのは、確か小学2年か3年のころで、マイカー元年と言われた時だ。少なくとも月収の30倍くらいはしたのではないかと思う。それが、自分は学生時代以来十数台、マイカーを持ち続けている。軽自動車に何の抵抗感もないのも、世代的な感性なのだろうと思う。乗った車の半分は軽だった。今の車をあと7年は乗るとして、最後に買うのは多分軽自動車になると思う。エアコンなど東京でも普及していなかったのに、この辺りでも普通に見かけるようになった。使うのはせいぜい盛夏の一、二週間である。そういう意味では、毎日贅沢をしているという気分になれる世代である。その満足感は、今の状況が生まれた時から当たり前の世代では、決して感じられない。結局は、物質的なことだが、それも幸福の重要な次元なのではないか。
2019.07.23
といっても、仕事ではない。仕事はいつも土日月は休みだ。休むのは朝練。今日は胃カメラの予約が入っている。放射線治療の結果を確認するための検査だ。検査結果は来月初旬に分かることになっている。もともと治癒の可能性はほぼ100%と言われているので、心配はしていないし、胃カメラそのものも上手な医者なので、気が進まないことはまったくない。午後はかかりつけ医のところに行って、今度は脳神経外科に紹介状を書いてもらう予定。最近、知人や同僚が脳疾患を患い、一人は命に係わり、一人は軽くすんだ。できれば、自分も血管の詰まりなども、もしあったら事前に見つけて対処したい。血圧が高い、頭痛などの兆候は皆無なので、まあ、「転ばぬ先の杖」ということだ。朝練は休むが、かかりつけ医の医院は射場のそばなので、そこに行く前か後で30射くらいは射っておきたい。
2019.07.22
今の家は、長女が生まれた年、37年前に建てた。いろいろ不満もあるが、それだけの年数たいして問題もなく住めたのだから、まあ、そう悪くもなかったのかと思う。増築分を入れて50坪。もともと二世帯住宅だった。夫婦二人で住むには、広すぎるとは思うが、狭くて苦労するよりはいい。部屋数は8。各部屋に個別暖房の石油ストーブ。エアコンが4台、今年の夏は使う機会はそうなさそうだ。この前、ストーブを一台買いかえて、エアコンを2台クリーニング。今年は屋根と壁の舗装、居間の床の張り替えなど、やや大規模な修繕を予定していて、前回頼んだ大工さんに見積もりを上げてもらったところ。予定より100万以上高くなりそうだ。左官屋さんの見積もりはまだだ。妻と話してできるだけ不要なものをカットしていこうと思っている。なにしろ年金とわずかな給料で暮らしているのだから、そこから払うわけにはいかない。前から予定していた出費なのだが、やはり大きな額なのでスパッとは決められない。この家にあと何年住めるだろうか、とも考える。妻の健康年齢が平均として後10年。自分ならあと7年。しかし、健康を保ってできたら15年は住みたい。快適に住むには、やはり修繕は必要だ。結局、持ち家もマンションも維持管理には費用はかかる。
2019.07.22
アウトドアというのが、もともと苦手である。子どものころは自然の中で遊んだし、キャンプをしたりもした。しかし、高校くらいからどうもアウトドアが好きでなくなった。キャンピングカーは、誰もが一度くらいはほしいと思うらしい。自分もそういう気にもちらっとなったりもしたが、いや、こんな空間で寝たり、食べたりするなら、安いビジネスホテルの方がずっと快適だ、と考えてしまう。これは単純に好き嫌いの問題だろう。弓も、一番成績が出たのはインドアだったかもしれない。風や太陽というファクターに対処するのが苦手である。だから、弓の種目の中で最も苦手なのがフィールド・アーチェリーだ。山の中を歩くだけでしんどい。・・・とはいえ、今季最初で最後の公式戦が近い。いまだに5点満点時代の記録を越えられないのも情けないので、今日あたりから短い距離から大体のサイトを確認していこうと思う。80cm的でいいので、まずは20~60までを10mおきに。
2019.07.21
リリーサーのトラベルを少し長くした。まっすぐ引くと、固くてもスムースに切れる。大分長くして、それから少しだけ戻した。50mで大体は黄色に入る。今の段階では中りよりも、フォーム。型を作るには1週間、3000射くらいは必要で、とにかく我慢して射ち続けるほかない。今日は、妻のお茶会につきあうので、練習は朝2時間と思っている。
2019.07.20
カール・マルクスは資本家が労働者を、その生産物や彼の労働自体から疎外したと指摘した。同じころ、フリードリッヒ・ニーチェは、弱者の強者に対するルサンチマン(怨恨)がキリスト教道徳の本当の起源であるとした。時代は工業社会の始まりだったが、そこから大きく世界のパラダイムは転換している。現代の状況では、マルクスもニーチェも有効な思想となりえていない。にもかかわらず、格差是正を訴える、富の再分配を求めるいわゆるロークラスはその思想をマルクスに依拠し、格差是認を唱える新自由主義を支持するアッパークラスはニーチェに依拠しているように思える。しかし、どちらも、キリスト教が約束した永遠の生命などは語らないという点では共通している。彼らが改革しようとし、また現状として是認しているのは、あくまでも「この世」のことである。そうかといって彼らが仏教的な無常観やハイデガーの「死への存在」という人間存在の根本的規定を受け入れているかというと、そうではない。従って、彼らの主張はどちらも永遠の価値を目指しているようでいて、極めて刹那的であり、格差、格差と騒いでいること自体が彼らにとっては生の目的なのではないかと思いたくなるほどだ。ハイデガーに言わせればそういう世俗的なことに関心を奪われ、「ダス・マン(ひと)」として生活しているうちに、彼らは死んでいく。仏教的に言えば、この世に財を築くことの無意味さを悟らぬまま、彼らは転生していく。何だか小難しいことを書いてしまったが、私自身は「覚悟」のある実存主義者でもなく、仏教徒でもない。言いたいことをありていにいってしまえば、生きていればいずれはみな死ぬのだから、いい年をして老後の安心のために2000万は必要などと言って騒ぎ立てるのは愚かしいことだし、いつまでも生きていることはできないのだから、今の資産の寿命の心配ばかりして生きているのも馬鹿らしいことだ。そもそも老人なのだから、「老後のために」という目標を将来に向けて立てて生きようとすること自体が滑稽だし、みっともない。自分の帰属する家族や近隣、職場など「顔の見える」人間関係の中で、あまりトラブルを起こさず、トラブルメーカーには近寄らず、穏便に死ぬまでの何年かを過ごせば、それで十分ではないか。結論めいたことを言えば、格差社会は、人間が抱えている根本的不安を世俗的な不安にすり替えているのではないか、ということだ。
2019.07.20
昨日は、朝60mから。311で50~55まで。まずまずというところ。50mよりも、エイミングがつきやすい感じがする。昼は、昼食を回転寿司で取る前に、30分くらい時間があったので50m。58が出たが51も。しかし以前よりは狙えない・切れない状態は大分解消しつつある。やはり顔向けの気づきが大きい。同心円がずれていくという現象はなくなった。今はそれより前、ドローイングの一定性がテーマ。それがないと、結局エイミング精度がばらつく。今週、来週は金曜日もお休み。週3日になる。今日は5時くらいから射場。その後、午前に銀行、午後にディーラーに行くくらい。
2019.07.19
最近の睡眠不足は若い頃と違い、あまりに早く目が覚めてしまうことが原因だ。何とかしたいのだが、昼寝などで何とかなるので、早起き癖は治らない。今のうちはいいとして、朝練の季節が終わったらどうしようかと思う。できれば、6時間くらい眠り続けたいのだが・・・今朝もこれから1時間半ほど練習。妻の診察券を出しに行き、帰宅してシャワーを浴びてから出勤。練習は60mでHBCで射つ型を作ることがテーマ。
2019.07.18
パンチングはやはり治らず、トリガーレスに戻した。STANから、今朝はHBC。50mでは、昨日も58-55-56で上がったので、今朝は60m。フィールドの最長距離。大体50前後の中りだ。60mで324が安定的に出れば、かなりいいと思い、しばらくはHBCで60mを射つことにした。次の試合はフィールドなので、サイトも取らねばならない。
2019.07.17
昨日は30mを36射だけ。一度復活してしまうと、なかなかパンチングから抜け出せない。せっかくトリガーレスで一年近くやって、トリガーをトリガーレスのように使うところまでいったのだが、また逆戻りしていた。苦しくなると、最後でパンチングしてしまう。しかも、それでXに入るから始末が悪い。このまま続けると、やがてターゲットパニックがやってくる。それで、仕方がないので、もう一度トリガーレスでここしばらくは射つことにした。同心円のズレは顔向けの改善でなくなったから、また別の世界が見えてくるかもしれない。今日は、これから2時間程度、やはり30mで練習する予定だ。
2019.07.16
BLTというのは、ブレッド、レタス、ベーコンという具材の簡単なサンドイッチだが、朝、よく作るのは「BLHEC」。そんな一般呼称はないのだが、ブレッド、レタス、ハム、ゆで卵、きゅうりを挟んだサンドイッチ。パンの表面にバターを塗り、といっても冷蔵庫のバターは固すぎて一晩出しておく必要があるのだが、ゆで卵を作っている間に、他の具材をそろえておく。後は重ねて切るだけ。最近は、一週間に一回は作る。妻も喜ぶ。今朝は予定はなかったが、早く目が覚めたので、バターを出し、ゆで卵とコーヒーのお湯を沸かす火のそばで溶かし、今、パクつきながら早めの朝食。コーヒー、トースト、サラダ、ハムエッグでも同じなのだが、なぜかサンドイッチの方が、自分には贅沢な気分がする。1960年代、小学生の時に、当時としてはあか抜けていた母が、よく弁当に作ってくれたという記憶があるからかもしれない。デザートはヨーグルト。ソースは沖縄のハチミツと妻と採集した桑の実のジャム、それにバナナ半分。自分にとってはどれも贅沢なものだ。二、三日前は母の得意料理の一つだったサフランご飯を妻が作った。豚肉、干しシイタケを炒めて、グリーンピースとサフランで炊き込むだけの簡単な料理だが、これも安くて贅沢なものの一つだ。これは、息子も娘も作れる。親子三代の得意料理である。
2019.07.16
50mの時から凄い風だった。しょうがないからパンチングで射ったら、今季最低。30mの前に四脚が倒れ、これはもう続行不能ということで、中止に。まあ、よかった。今日はパンチングの悪癖を修正する練習。
2019.07.15
資産は、退職金、両親と叔母から相続した遺産などがあり、なかなか生活レベルは落とせないから、それを少しずつ引き出して生活している。だから、幸いなことに老後2000万円問題というのは、自分たち夫婦にとってはあまり問題ではない。今後の大きな出費は、今年は家の修理にかかる程度だ。それ以降は、そんなに持ち出しも多くならない。今、65歳となって、来年度から仮に無職となっても、生活のめどはつくのだが、好きな仕事をやめるということはない。できれば最低70歳まで仕事はしたい。職場もそれを許容してくれるだろう。自分の仕事の評価は高い。元気でいれば、お金はかかる。弓も射っていたい。美味しいものも食べたい。旅行もしたい。孫にもそれなりにしてやりたい。無際限ではないが、その余裕もある。そういう恵まれた立場の人間が、何をいまさら「老々格差」かという声も聞こえてきそうだが、自分はそれほどの金持ちではない。何かのサイトで見たのは、60歳時点での平均貯蓄額は2900万円だそうだ。もちろん数億以上ある人も中にはいるから、中央値は1500万以下だったように記憶している。その中で25%くらいの人が貯金100万以下だそうで、「格差」が問題だとしている。しかし、自分の数少ない見聞では、そういう人たちがなぜかローンで高級車を買ったり、家電を買ったりしている場合もある。我が家の家電はどれも10年選手以上の古さで、壊れもしない。多分安いのを買うから、機能が少なく壊れにくいのだ。車は去年程度のいい中古車を買って、弓の遠征ができるうちはこれに乗ろうと思っているが、値段は軽自動車の新車程度、といっても、いまどきの軽も200万近くはするのだが。家のローンは、もう20年以上前に繰り上げで返済した。塗装などのメンテナンスは時期を遅らせずやっている。今年はおそらく最後のメンテナンスになる。その都度、別の選択もできた。300万以上のいわゆる高級車も買えたし、家のメンテナンスではなく手持ちの資金で全面的な改築もできた。(そういえば増築はしたのだった。おかげで3階で近射ができる。)ローンを繰り上げ返済せずともよかった。しかし、その時点で繰り上げ返済したのは、子どもたちが大学進学を控えていて、そこから教育費支出が増えるのは目に見えていたからだ(しかし、まさか二人とも大学院に進むとは思っていなかったが)。つまり、自分たち夫婦は、決して「今、こういう消費を借金してしても、この先どうにかなるさ」とは思わず、バカな借金はせず、これまでやってきたのだ。株式投資なども多少はしているが、まあ、お遊びの範囲だ。身の丈に合わない贅沢をして、それで貯金がない、格差が問題だというのはちょっと話が違うだろうと思う。60歳になれば、ローンなど組めなくなりそうなものだが、年金といえども定収なので、それなりの額は借りられる。中には60歳前に駆け込みで借りたりしている。老後資産や年金収入の少ない人の中には、それは仕方がないでしょう、というほかない人たちもいるのだ。その人の生き方の問題だ。自分のライフプランの杜撰さを、いまさら制度の責任だと声高に叫ぶのはお門違いというべきだ。むしろ問題は、そういう自己責任に帰すことのできない人たちが一定の割合でいることである。この人たちの「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されていない場合があることが問題なのだ。自分のことを長々書いたが、そういう人たちが自分の周りには多い。いわゆる「普通の人たち」である。まあ、職場も近所も似たような人たちの集まりだから、自然にそうなる。息子も娘もそういう「普通の人たち」にどうやらなれそうなので、一安心している。
2019.07.15
これから、選手権を除けばアウトドア最後の遠征。現地は曇りだが、風が5~8m。丘の上なので結構風は強い。いろいろと練習してきた成果が出せればいいのだが。
2019.07.14
自分のことを言えば、平均的なサラリーマン生活を送ってきた。定年まで37年だった。最後は組織のトップとして、自分で定年を決め、その後の再雇用も自分が決めたルールに従って、週20時間でやっている。実際は、週12時間程度。長期の休みなどを考えれば週8時間、月30時間くらいの楽な勤務である。仕事は得意なことなので楽しい。実質的な平均時給は最低賃金の5倍くらいだろうか。社会保障には入っていて、特別支給の老齢厚生年金が、一般支給のそれに7月から変わる。併せて老齢基礎年金も支給される。数か月だが、妻の加給年金も。ただし、今の働き方だと職域加算分は全額カットされる。それでも国民健康保険に移行するよりは、妻がいる分割安だ。この前、年金を任せている銀行の社労士と1時間ほど面談し、年金についての自分の理解が正しいのかどうかを聞いてきた。概ね正しく、次年度以降も同じ働き方をした方が、何かといいだろうという結論に達した。もしそうなると、日常生活は年金と給与で維持できる。もちろん、大きな買い物とか旅行とか、孫に何かしてやるようなことは別会計だ。つまり貯金の取り崩しである。
2019.07.14
例の老後資金2000万円問題以来、老々格差の問題がクローズアップされてきた。若い人と違って、これから挽回というわけにもなかなかいかないのが、悩ましい問題である。自由主義経済の中で、格差があるのは当然なのだが、年金の額や資産額だけを取り上げ、不安があるのはけしからん、何とかしなければならないという論調自体が浅薄だと思う。少しずつこの問題を書いていきたい。
2019.07.12
昨日は40mを24射してから、50mの射線に。押し手が残るようになってきたのは、引き手の意識が変わったからだ。まず一応のフルドロー状態から、今までよりも同心円を意識して、正しい引きの方向、つまり矢筋が通る(と思われる方向)を探る。それが固まったら引き続けてエイミング。同時にリリーサーに親指をかける。それから、最後は同心円の多少の崩れよりも、しっかり引くことを優先して、発射。これができると、フォロースルーで押し手が的方向に残る。ちょっとでも押し手が開き気味になると、弓も押し手側に開いて落ちる。50mでは8点が最初は出ていたが、次第に黄色にグルーピングするようになった。最後の6射は、12時9点のちょうど真ん中にグルーピング。ちょっと高いのかと思い、サイトを3ピッチ上げると、残り2射は12時10点。フォームのバランスは崩れていない。今日は5時には射場に出て、30mでフォームをもう一度固めて、50mの予定。72射は射ちたい。明日はオーバーワークにならないように、用具確認と30射くらいに留めておく。明後日が遠征。
2019.07.12
昨日はまず30mで36射。344。赤はなかったので、まずまずなのだが、本当は50mでこのくらいでないとダメだ。10mだけ下がって40m。ちょっとバランスが崩れると、8点に外れる。24射で2本。押し手が右に開くフォロースルーが出ると、いけない。それを解消するのに必要なのは、押し手ではなくむしろ引き手の意識だと気づく。押し手はある程度の強さで的方向に押していればいい。そのベクトルをずらさず、つまり矢筋を通して十分に引く。これが狂うと、フォロースルーが狂う。つまって右に出るか、回って左か。30mよりもよくわかるので、今日はこれから40mを中心に練習。その後、年金の取扱銀行に行って、年金相談。相談して確認しておきたいことが数点ある。それから出勤。
2019.07.11
来週は海を渡っての遠征。親善交流試合。50m、30mというショートハーフ。昔は普通だったが、今では珍しい形式だ。30mは弓を始めたころの基本の距離で、これで300というのが一つの目安だった。今はCPなので350は射ちたいが、今の感じなら、目標は340台だろう。昨日は20mから30mまで距離を延ばした。30mで黄色を外すことはさすがにないが、せいぜい57,58くらいで、10点内にビシッとグルーピングはしない。まあ、それよりも、今のテーマはフォロースルーのチェック。押し引きのバランスが悪いと押し手が開く。そうしないために、どう押しどう引くか。今日はこれから1時間ほど。
2019.07.10
昨日は、ゆっくり寝てから、庭の草取り。ミニトマトやサヤエンドウはうまく育ってきているようで、肥料を追加。去年から始めた素人園芸だが、多少は楽しめそうだ。それから射場で的を貼り8mくらいからの近射。近い距離から、次第に遠くしていく予定。中りではなく、フォームだけを気にして射つ。安定的なフォームが、まだできない。まっすぐ立って、ピープを覗くときに首をまっすぐする。変えたのはたったこれだけなのだが、射の感覚が今までとまるで違う。今日は早く起きてしまったので、これから射場に。2時間くらいかけて、30mまで延ばす予定。
2019.07.09
一昨日の試合は、ひどかった。まあ、フォームを抜本的に変えているところなので、それは想定内ではあったのだが、午後は特に土曜日に射ちすぎたため、スタミナが完全に切れてしまい、赤や青のオンパレード。
2019.07.09
昨夜のコンサートは地元のロシア極東大学の設立25周年。そこにたまたま、毎年演奏に来ているヴァイオリニストと地元のピアニストのコンサート時期がぶつかって、記念演奏会となった。曲目はチャイコフスキーやプロトコフ、ラフマニノフなどのわりと有名な曲だった。ピアノソロが2曲。他は大部分がデュオで、ヴァイオリニストも評判通りの腕前だった。音が空から降ってくるような高い長音、空気を刻むような速弾き、どちらも見事と言うほかない。全曲聞き惚れているうちに、終演となった。前回のピアノコンサートはオールショパンだったが、こちらは完全にハズレで、発表会レベルだった。明らかに練習不足としか思えず、聴衆をなめているとしか思えず、休憩時間で早々に引き揚げた。やはり、同じプロでもこんなに違う。会場を出た後に幸福感に充たされるコンサートというのは滅多にない。
2019.07.05
昨日朝の練習から、顔向けを根本的に変えている。十分予想されたことだが、見えるが中らない。10点は激減し、8点までくらいのところに、ぼわ~っとグルーピングする。大体52,3という感じ。ミスが出れば50を切る。今のところの対策としては、最後までクリアーに見えることにこだわりすぎないことだ。発射の直前に顔向けを調整すると、大体外れる。最後は、同心円へのこだわりは捨てる。ズレがひどい場合はおろす。今日は、これから定期健康診断。朝練はしないが、ちょっとだけ出勤し、午後に射場に行く予定。久々にスコープを立てて射つことにしたい。
2019.07.05
昨日、久しぶりに息子夫婦とLINEで話をした。このところの大雨で、心配していたが、高台のマンションの3階で、山もないので土砂崩れの心配はないようだ。2年目に入り、娘も生まれ、生活も安定しているようでこちらとしても安心だ。前のところと比べると、職分は同じだが、研究費を含めて150万くらい、年収はアップしており、今度、自分が上げて持って行った車を、子どももいるので、少し大きいのに買い替えるとか。まあ、何よりだ。そのうち、マンションでも買うという話にもなるのだろう。娘夫婦も、子育ても何とかやっていて、こちらの方は、自分があげた車をまだ使っているが、生活は順調のようだ。こちらは試合がてらに車で行けるので、どうしても娘夫婦のところに行くことが多いのだが、少なくとも年一回は、飛行機を乗り継いで息子夫婦と孫の顔も見てきたい。いずれにしても、自宅に泊めてもらうことはせず、ホテル泊。そういうのは水臭いと考える人も多いかもしれないが、もはや別の家なのだから、親だからといって、当然のようにそこに泊まるというのは、自分の感覚ではあつかましい。ホテルもそんなに高いところではない。チェーンのホテルは部屋の作りが同じなので、ある意味、楽なのだ。もちろん、子供夫婦が孫を連れて帰郷するのは、我が家や息子の嫁の家であり、それは自分が育ったところなのだから、それでいいのだ。
2019.07.04
このところ、ずっとピープとレンズサイトの同心円が崩れたまま、射っていた。何で、そうなるのか。まず、引きの方向である、と思い、外側に引く意識で射っていたのだが、なかなか治らない。昨日「あ、これは顔向けだった」と突然気づいた。顔が的に向かって突っ込むことは、よくあって、十分気をつけていた。しかし、そうではなく、顔が前方向に、つまり射線の、自分でいえば、左方向にうつむきすぎているから、同心円が崩れるのだと気づいた。こんなことは、アーチェリーの基礎中の基礎であって、いまさらという感じなのだが、やや、意識としては「そっくり返って立つ」ことによって、完全に同心円の崩れは解消した。すると、嘘のように、ターゲットパニック、つまりどうしてもサイトがセンターにつかない状態もなくなった。「何だ、こんな簡単なことだったのか」と思った。夕方、もう一度射場に。一日二回。こんなことは数年ぶりだ。同心円も崩れず、サイトはセンターにつくのだが、なかなかグルーピングしてくれない。53とか52とか、8点が2本くらい出る。これは、一度フォームの土台を崩して、作り上げる作業なので、時間がかかる。この時点で、次の日曜の試合の記録更新は断念した。場合によっては300も出せないでで終わるだろうが、それはかまわない。土台をすっかり変えて、細部を安定させるまでは、少なくとも1000射以上は必要で、今の自分の練習量からいうと、2週間は必要だ。しかし、再開後でも20年以上やっていて、しかも、リカーブからCP、右射ちからレフティに転向して、今更のように、高校の時に最初に教わった「顔向け」のもう一つの意味に気づくとは・・・だからアーチェリーは面白い、やめられない。今日は、夜明けとともに射場に。その後11時ころ出勤。4時半まで仕事なので、5時に帰宅し、妻とピアノとヴァイオリンのコンサートに。ピアノは息子の知人の奥様で、凄いピアノを弾く。すっかりファンになり、招待券が偶然手に入ったので行くことに。ちょっとした差し入れも持っていく。招待されて、空手(からて)で行くのは失礼な話だ。
2019.07.04
昨日は、通院してから出勤。1時くらいに退勤。日常が戻ってきた。今日から、また朝練再開である。課題は最後のリリースまでじわ~~っと引くこと。前回の試合の最後の数エンドにその感覚がつかめたので、次の試合までにものにしたい。今日は、1時間だけの仕事だが、実際は今のトップにいろいろ相談を受けているから、もう少しかかるかもしれない。風がいいようだったら、帰りがけもちょっと射ってこようかと思う。帰宅後は昼寝。いつも通りのだらだらした日々だ。
2019.07.03
孫の運動会。父親と一緒に、SLの箱に入り、平均台を手を取ってもらって渡り、アンパンマンのマントをつけてゴールする。孫は朝からぐずっていて、入場の時からヒンヒン泣き、父親に抱きかかえられていた。二歳児なので、そういう子は他にも結構いる。スタートの合図が鳴っても、相変わらずしがみついたままで、SLの箱のなかも同じ状態で平均台まで。そこから、あろうことか、怖気づいた孫は、スタートラインに向かって敵前逃亡。観ていた人たちが一斉に笑う。逃げ足は二歳児にしては速かった。連れ戻され、だっこのままゴール。100人以上いた2歳から5歳の園児の中で「逆走」したのはただ一人。非常に思い出深い運動会だった。それを観てから娘夫婦の家で、昼食。携帯で撮ったビデオを一緒に観てたら「○○ちゃん、ニギたね~~」とけらけら笑っている。面白いやつだ。それから、自分は試合会場に。すべて高速だったので「逆走」に気をつけて、安全運転で。
2019.07.02
昨日、7時半、遠征から帰宅。孫の運動会も兼ねて、ということだったので三泊四日、1100km。コンディションはベストといっていい状態だったが、結果は鳴かず飛ばず。1回目 320-312=6322回目 310-312=6227点は数えきれないくらい、6点も全体で3本くらい。昨年の同じ大会は、630-620だったから、わずか2点ずつよくなっただけ。まあ、誤差の範囲である。これでは1100kmも走った甲斐がない・・・
2019.07.02
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