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個人は「負荷ある個人」として生まれるが、このことは何も否定的にばかり解釈される必要はない。この親の子どもとして、この国に、この地域に生まれてきてよかったと思える人も多い。実際、自分の周りにはそういう人たちが多かったし、今も多いのだ。虐待やいじめ、災害、貧困や将来不安など、マスコミはまるでお先真っ暗であるかのような報道ばかりするが、それはその方が視聴率が取れ、雑誌が売れ、検索回数が増えるからであって、「お先真っ暗」が事実として確定しているわけではない。「負荷ある個人」は、自らの出自である共同体をできる限り、自分にとっていいものにしていく努力をする。それが、自分の幸福に直結するからだ。そこには、個人と社会が何の仮説的理論も介さずに、直接的に結びついている。時に共同体は、個人を束縛する力として働き、個人はそこから逃れ、すべてを自分でまかない、自己責任を取る場へと出ようとする。そしてそこで敗残すると、社会が救済の責任を果たせと主張する。しかし、最初の時点で、もし個人が共同体を捨てずに、そこをよくしていく努力をすれば、彼の誰とも連帯できない孤独には陥らずにすんだのではないか。個人主義は確かに自己の意思決定を共同体的集団のそれよりも優先する。そして、集団の同調圧力には屈しない。だが、共同体的集団の中にとどまり、マージナルマン(周辺人)として、いわばその集団の「外れ者」として、その内にあり続ける。マージナルマンは実は集団が行き詰った時に、その集団をさらに大きな外部環境に適応させるダイナミクスにとって、不可欠の存在なのだ。サンデルらのコミュニタリアニズム(共同体主義)は、理性によってすべてを自己決定する「負荷なき個人」を西欧近代主義の生んだ幻影であるとし、個人は最初から共同体の「負荷ある」ものとして生まれる、と指摘する。そして「私」の個人主義は、この思想に賛成する。家族共同体の中で、「私」は誕生し、その中で次第にマージナルマンとして成長したが、今はその家族も代替わりし、子どもたちがそれぞれ別の地で、新たな家庭を築いている。だが、彼らとの共同体が消滅したわけではなく、家族意識は各自が持ち続けているだろう。全体としてその家族が、より良い方向に向かうことを願い、そのために努力をし、相互扶助をする。それが、家族という場においての「共通善」であり、サンデルが目指すものの一つだ。そこで「我を通す」ことが個人主義なのではない。それは、自分の属するあらゆる共同体についていえることである。職場もそうだし、趣味の団体もそうだ。国家をネイションステートとしてではなく、一つの大きな共同体ととらえているからこそ、見知らぬ土地の災害にあれだけの人がボランティアとして駆けつけるのだろう。しかし、個人が属する共同体は基本的には「目に見える」人々と形成されるものであり、個人がそこを素通りして、SNSやネット上の大きな共同体と直接に連帯することについての評価は、自分の中でまだ定まってはいない。おそらく、それはアトム化した個人の疑似共同体に今のところはとどまっているのではないかと考える。だから、そこは無秩序な場で、現代的な意味での共同幻想が生まれる場である。見方を変えれば、幻想の共同体にしがみつくことによってでも、人間は生きようとするのであり、そのことは個人にとっていかに共同体が必要かを、逆説的に証明している。
2019.11.30
「リベラル」という言葉は、何となく語感だけで意味を間違えている人が多い。もちろん語源は「リバティ」(自由)なのだが、同じ語源のリバタニアリズムとリベラリズムは、ある意味で正反対の思想だ。リベラリズムは、自由を実現するために、何よりも「公正」を尊重する。スタートラインにおいて「公正」が担保されない人たち、例えばマイノリティ、障害者などは、そのラインで「公正」の原理が働くような社会の仕組みを作る。就職、進学などで一定の障害者枠などがあるが、そのような「アファーマティブ・アクション」はリベラリズムを思想的基盤とする。そして、結果における平等は目指さないが、競争に敗れた者を救済する社会保障の仕組みは、前もって作っておこうとする。例えば、「オバマ・ケア」というアメリカ民主党時代の政策は、日本の国民皆保険制度のように、誰でも保険で医療が受けられる仕組みを目指していた。そのために「累進課税」という、ある意味で「不平等」な課税制度を認める。自分の努力の結果得た収入に、努力もせずにそれに見合う収入しかない人よりも、高い税率が課せられるというのは、見方によっては不平等な制度なのだ。リベラリズムが自己展開していくと、国家は「福祉国家」の様相を帯び始める。弱者救済には相当の予算が必要だから、消費税が30%でも40%でも、全体として国民がそこそこの生活ができるのだから、いいでしょう、という考え方である。さて、以上のように乱暴にまとめたリベラリズムを、日本ではその意味を知らず、何となく「進歩派」のように捉えている人が多い。つまり、現状を改革するのは「リベラル」だという意識が、特に団塊の世代で多い。しかし、日本の社会制度は、アメリカなどと比べるとすでに十分に「リベラル」な方向に寄っている。現政権はそれを若干リバタリアニズム的な方向に導こうとはしているが、全体として日本では、リベラリズムこそが政治の基盤的思想である。そして「私」の個人主義は、リベラリズムを支持しない。それは、リバタリアニズムと同様、その起源を社会契約論に遡るからだ。リベラリズムを唱えたロールズは、自分が社会でどのような地位や財産を得るか、まったく予測不可能な中で、どのような社会を形成するかを議論するという仮説を立てる。そこでは、社会の中で最も不幸な者への救済をが組み込まれた社会を作る、という結論を得るだろう。もし、自分が障害者として生きなければならない社会であれば、アファーマティブ・アクションによって救済してほしいし、高い医療費を払えない病気になったら、医療費用の上限以上は払わなくてもいい社会にしてほしいと誰しもが思うからだ。そのような「最少不幸社会」を実現するのが、リベラリズムである。しかし、社会契約論者たちは、根本的なところで間違っている。そのような、何も「負荷のない個人」として、そもそも我々は生まれてこないということだ。我々は、特定の文化の中に、特定の経済状況の中に、そして特定の家族の中に「負荷のある個人」として生まれてくるのだ。あるいは、特定の遺伝子情報の組み合わせを持つ人間として生まれる。だから、ロールズの仮説は成り立たない。我々が社会の中でどう生きるかについては、生まれた国や時代、家などで大体の可能性の幅がすでに与えられているのだ。「個人」は、実は何でも自由に決定できる存在ではない。その決定は最初から大きく制約されている。だからこそ、その決定を尊重すべきだ、というのが「私」の個人主義である。次回、コミュニタリアニズムと個人主義をめぐる問題を整理したい。
2019.11.29
昨日はかかりつけ医で、妻の分も合わせて二週間分の薬をもらい、その帰りに射場に。大体30本くらいは射ったが、8点は1回だけで済んだ。最後の顔向けがずれていて、そこを調整すると10点近辺には集まる。なぜ、ずれるのかが分からないので、今年最後のテーマにはなりそうだ。帰宅後、弓をケースに入れ、スーツケースなどにも3泊分の衣類を収納し、準備は完了。その後、仕事に。遠征旅行3泊を含め、来週火曜日までは休暇を取っているので、5連休。来週は水曜日だけが勤務だが、実際はあと1日くらいは行くだろう。そろそろ年末の片づけが必要だ。
2019.11.29
今年最後の遠征に向かって、明日出発する。数えてみると、今年の遠征は6回目。最初のインドア選手権はJRだったが、あとは今回を含めて、すべて車である。購入してからほぼ1年ちょっとで、走行は1万。現役の時は、妻も車を所持していて、病院や茶会などへの送迎もなかったが、1万2千くらいは1年で乗っていた。セミリタイア後は出勤日も半減なので、それにしては今年はよく走った。大体、遠征で半分弱。孫のところに2回ほどは出かけて、千キロちょっと、それらを除けば5千は走っていない。遠征と孫と会うのを兼ねたこともあった。今回もそのパターンで3泊。妻は連泊で押さえている。自分は、遠征先の1泊が挟まる。軽油で燃費は、通常で13kmくらい、遠征だと17,8kmだから、満足している。ただ、車体が大きすぎる。特に全幅1840は、駐車場などで気をつかう。次の車検までのあと1年は乗って、もう少し小さなサイズで、荷物も積めて・・・という車があったら買い替えるかとも考えている。その時は、娘夫婦に今の車をあげてもいい。なにしろ新居のローンで、車までは手が回らないようだ。いや、それでも一年以内くらいで買え替えるかもしれない。そうなれば、譲る先もないから、自分も今の車にあと5年くらいは乗ることになる。どちらにしても、雪道なので十分気をつけて、ゆっくりと行こうと妻と話している。今日は、今週最後の仕事が午後から。それまでにかかりつけ医に行き、薬をもらい、射場でちょっとは練習、荷物をまとめたり・・・
2019.11.28
「個人主義」と最も相性のいい政治思想は「リバタリアニズム」である。アメリカの共和党右派は完全にリバタリアニストの集まりで、トランプも日本の首相も、そこまで思想を理解しているとは思えないが、一応リバタリアニストに数えてもいい。リバタリアニズムは、ノージックらの唱えた思想で、訳語としては「自由至上主義」が一般的だ。起源はジョン・ロックの社会契約論に遡る。個人の権限として財産権を認めるかどうか、というのが社会契約論を二つに分ける指標だが、ロックはこれを完全に認め、ルソーは完全に否定している。ノージックによれば、「機会均等」というスタート時点での「平等」さえ保障されていれば、あとは完全な「自由競争」の結果において生ずる不平等は甘受すべきだ。これを国家権力が社会保障という目的で、例えば累進課税などの方法で所得再分配をしようとするのは、個人の権利への侵害にあたる、とする。現政権が消費税などのさらなる値上げには積極的だが、その一方で法人税は国際競争力強化のために上げるべきでない、という基本的政策のスタンスを取るのは、リバタリアニズムに基づくものである。しかし、この原理が推し進められると、社会のごく一部の層が富を寡占するという状況が生じる。昨日帰国したローマ教皇が「30人弱の富裕者の総資産総額と30億人の世界の貧しい人たちの資産総額がほぼ同じだ」という指摘とともに格差是正を訴えていたが、統計的な信頼性には問題がありそうだが、世界中で、そして日本でも格差が拡大していることは事実だ。問題はその格差の拡大が、もはやスタート時点での「平等」を保障できないところにまで到達していることだ。世界中で、初等教育を受けられない「国民」は現に存在している。幸い、日本ではそれは極めて例外的なケースであり、親の虐待等で学校に通えない子どもはいるが、それは別の問題である。問題は貧しくて、小学校にすらいけない子どもの存在は、社会に出る時に「スタートラインでの平等」つまり「機会均等」という民主主義の根本的原理に背くことだ。結論的に言えば、「私」の個人主義はリバタリアニズムには与しない。「自由」には一定の責任が伴う。その一つが「自己責任」だが、それとは別の「他者への責任」がある。すべて「自己責任」なのだから、一切の社会的救済を否定し、国家の機能を警察と軍隊に特化していこうとするリバタニリアニズムに賛成できない。ただし、人間には能力差も努力の差も、そして境遇の差もあるのは現実であり、人生の後半においてそれもこれも全部一緒にして「格差是正」を求めるのは間違っていると思う。完全な平等は、人間が個人を単位として生きており、他の生物と同じく個体差を持つのであれば、原理的に不可能である。同じ教育を受けても成績に差が出て、就職にも差が出て、同じ会社に勤めても出世には差があり、同じ時代に起業しても潰れたり、うまくいったりする。それは仕方のないことだ。そのことをきちんと認めた上で、スタートラインでの平等すら保障しえなくなっている現状を変えるべきだ。就学補助、給付型奨学金などの教育にはもっと予算を使うべきである。平等なスタートから生じた結果としての不平等あるいは不幸は、残念ながら認めざるを得ないのである。もちろん憲法第25条の「健康で文化的な最低限度の生活」は、保障されるべきであるし、現にそれで生活できている人も数多くいる。さらに、そういうセーフティネットを自分では見つけられない人たちへの支援は必要だ。問題は相対的貧困率ではなく、絶対的貧困に喘ぐ人たちを探し出すことだ。今の日本において問題なのは、自由競争に敗れた人たちが、まったく自己の責任を認めず、社会の責任にそれを転嫁しようとする態度であり、そういう人たちに阿って票を得ようとする多くの野党の姿勢である。自己の能力と努力で自由競争を勝ち抜いたものに対するルサンチマンからは、何も生まれない。私自身についていえば、自分は完全なミドルクラスであり、勝ち組でもなければ負け組でもない。そもそも、そういう基準で人間を測ることが不愉快である。ひょっとしたら、もっと多くの資産を形成できたかもしれないし、もっと多くの収入を得られたかもしれないし、年金などなくても悠々自適だったかもしれない。しかし、自分ではそういう道を選択しなかったのだし、自分の選択した職業生活では、ほどほどうまくいったのだから、別に文句はない。というか、この歳になって、そんな文句ばかりで暮らすのは馬鹿らしいではないか。次回は「個人主義」と「リベラリズム」について論じてみたい。これも「私」の個人主義が与する立場ではない。
2019.11.27
といっても、仕事の話ではなく、昨日の弓の練習。3本ずつ3回射って、2回分は休む。休みのうちに、次の3回のテーマを考える。最大のテーマはエイミング。意識すれば、大分センター付近にはつくのだが、意識しすぎると射のバランスが崩れる、あるいは切れなくなる。昨日は大体60本くらい、いや、もっと少ないか。練習での点取りは、もうやらなくなっている。点数に意識がいくと、テーマも何もなくなってしまうからだ。アーチャーにはいろいろなタイプがいて、たえず点数を大福帳のようなものにつける人もいるし、錘を足したり、引いたりしている人、30金なのに首を捻って唸っている人・・・さまざまだ。自分の場合は、典型的なリリーサージプシーで、調子が悪くなると取り換える。が、週末の遠征もあるし、もう一度STANでいくことにはしているが、これもやってみないと分からない。まあ、それぞれの楽しみ方なので、それでいいのだ。
2019.11.27
まだ、診察券を出しに行くのに1時間はあるので、日記代わりに思い出すままの雑記を。我が家としては珍しく、一昨日は家電を三つも新しく買った。一つはIH炊飯ジャー。もう夫婦二人なので、今の5合炊きの窯は大きすぎるし、最近さすがにちょっと調子が悪くなってきた。炊き上がると、保温スイッチが点滅し、もう一度押さないと保温にならない。窯の塗りがはげてきて、そこにくっついているご飯がパリパリしている。この際、ちょっとはいい性能の、と思って、近所のホームセンターで購入。あまけとして、ブランド米が3kgほどついてきたので、夫婦二人の一か月分くらいにはなる。もう一つはスティック式の掃除機。一階には普通の掃除機、二階にはスティックタイプの掃除機があるのだが、一階の居間の床を張り替えて以来、少しのゴミでもすごく目立つようになってきた。そのたびに、別の部屋の押し入れの下段に収納している掃除機を持ち出すのも面倒で、この際部屋の隅に立てかけておける充電式の掃除機を買おうということになった。同じ店で。それと今のテレビ用のDVD再生専用のプレーヤー。寝室にはあるのだが、今のは壊れてそのままにしていた。すべてセール品で合わせて4万弱。孫のところに一回行けば、安くて10万だから、なんだ、こんなに安いのなら、早く買っておけばよかったと思う。自分たちの世代は、3C、新3Cの時代で、テレビや冷蔵庫や洗濯機、自動車、クーラーなどが新しく家に来た時に家族で喜んだ記憶を持っている。そして、そういう新しいものは結構よく故障し、修理に出して大切に使っていた。だから、新製品が出ても、すぐに買い替えるという消費行動はあまりしてこなかった。我が家の冷蔵庫も洗濯機も、二台ずつあるが、両方とも20年前後は経っている。一番、買い替えが多いのはPCで、今使っているのも今年中には買い替える予定だ。
2019.11.26
高齢になると、これも当然だが生きる力は弱くなる。疲れやすくなるし、無理も利かなくなる。病気にもかかりやすいし、人と関わるのも億劫になる。だから、せっせと歩いたり、健康診断を受けたり、人間ドックに入ったり、あるいは趣味のサークルに入ったり、みんなそれぞれ努力している。自分の生きている時間をできるだけ長く保つこと、すなわち、個体保存は生物の本能なのだから、理性を持った人間としては、できる限りの知恵をそこに注ぐようなメカニズムが備わっているのだ。せめて孫が立派に成人するまでとか、払った分の年金を受け取るまでとか、夫婦なら配偶者の最期を看取るまでとか、いろいろ考えるのは、みんなこのメカニズムの働きといっていい。しかし、個体としての生きる力は確実に弱まっているのだから、それを躍起になって否定するのは、非理性的なことだ。健康産業はそこにつけ込む。いろいろなサプリが売れまくっているのは、高齢化社会ならではのことだ。理性といっても、それは脳機能のことだから、他の身体機能と同じで、それも次第に衰えてくるは当然なのだ。だから騙されやすくなる。先週の旅行は4泊だったが、疲労が抜けたな、と思うのに一週間かかった。練習も、休み休みという感じで、以前のように根を詰めて、という練習はもうできない。旅行にしても、一日はホテルの清掃を断って、寝ているというのが普通になってきた。遠征も前後泊にしている。試合が終わって、慌ただしく帰途に着くというのは、もうしたくない。大体、40代の時の60%、50代の70%くらいの力で生きている感じだ。仕事は現役のころの20%くらい。その分、ゴロゴロしている時間が増えている。まあ、家事もそれなりに分担して、こちらの方は現役の時の2倍くらい。妻も歳を取ったから、それは当然だろう。二週に一回くらい来てもらっていた家事手伝いの方も、腰を痛めて来られなくなったから、夫婦二人で家のことはしていこうということになった。今の担当は、一階の掃除。雪かきの方は相変わらず頼んでいるが、こちらもできるだけ自分でとは思っている。60代は60代なりに、70代になればまたそれなりに、とは思うのだが、仕事は60代のうちは今の70%くらいの感じで続けられればいい。弓の方も年に5回くらい遠征試合には行きたい。もう試合で勝つことを目標にしなくてもいい。行って、楽しんで射って来られればそれで十分だ。この歳になると、何をやってもあと何回出来るのかな、と考えるようになる。なるべく、長く楽しみたいな、と思うのも「生きる力」なのかもしれない。
2019.11.26
昨日は午前中、射場が開いたので、予定外の練習。中指トリガーも持ち出したり、いろいろ試したが、結局はSTANが一番安定する。たまに8点が出るが、10点もそこそこ。試合と同じでこちらも変わり映えのしない中りだ。今週は、金曜日に孫のところに出かけ、日曜日に遠征。今のところは、午後の部は棄権して、午後にはいったん孫のいる街に。妻と居酒屋というのが予定。今日と木曜日に練習予定だが、仕事もそれなりに詰めてやるから、練習もほどほどというところだ。まあ、遠征の楽しみはもはや弓だけではなくなっているので、あまり無理もせず、アベレージが射てればいいかと思っている。
2019.11.26
一昨日の試合。273-278-274。結局アベレージは275。何も変わらない。もう少し何とかならないものか。
2019.11.26
昨日は久しぶりに1時ころ射場に。この前から試しているカスケードで、出だしは10-10-9。その後も、10が1本は入る感じ。赤が出たら、少し休む。休んで、理由を考える。最後は20回近く赤ナシで射てた。この感じだと280オーバーなのだが、試合でできるのかどうか。とにかく今日は、カスケードで通してみようと思っている。
2019.11.24
「生きる力」を育むことが、現学習指導要領の柱であることは、周知のことだが、その背景には、個人化する社会の中で、人間関係に悩み、生きる力を弱めている子どもたちの存在があるのだろう。学校教育が、生きる力を育むような「力」をそもそも持っているのか、という疑問は一応置いておく。その上で、「生きる力」という教育目標は至極まっとうなものだと思う。というか、当然すぎて、それが目標になるのか、と思うのだ。その力は、生物として生まれた以上、人間ならずともすべてに与えられていて、人間の場合だけが、ただ生きるのではなく、どう生きるのかが問われるのだ。「生きる力」を育んだなれの果てが、大学入学共通テスト国語記述問題の試行テストで出題された、賃貸契約書をよく読んで、3月の急な転勤時に一か月分の家賃を払わなくてもいい方法を探してうまく立ち回る「力」を試すようなものならば、そこまでの10年間の国語教育の成果は一気に瓦解していく。ただ生きるのではなく、どう生きるのか。この問題を考えずに、ただ、ただ「生きる力」と号令をかけても、何をどうすればいいのか、さっぱり分からない。だが、前述の国語問題を見れば、おぼろげに「生きる力」がどういう力なのかは見えてこないでもない。国の政策は、相変わらず「経済成長」を主眼としているのだから、多くの国民にとって「生きる力」とは「労働する力」であり、しかも「コストの安い労働力」でなければ国際競争に勝てないのだから、「生きる力」は「低賃金で労働する力」ということになる。(もちろん、一部の国民にとっては「生きる力」は安い労働力を駆使して大いに「稼ぐ力」である。)「低賃金で労働する力」は同時に「低コストで暮らす力」であり、そうなると、賃貸契約書を熟読して、ひと月分の家賃を払わなくてもいい論理を考えつくというのも、立派な「生きる力」ということになるのだ。しかし、いやしくも高等教育を受けようとする人間の資格審査が、現代の問題を分かりやすく論じた文章の読解や、現代人の心の奥底を抉るようなストーリーへの共感ではなく、お役所の出した「都市景観条例」の条文を解読して、自宅の壁の補修で、市の補助金をもらえる可能性に思い至るかどうかを試すような、どうしようもなくくだらない試験でいいのか、と思う。この点で、義務教育と高校教育(後期中等教育)は、はっきりと違わなければならない、と自分は思う。前者は正確に読み、書き、話し、聞くことのできるための基礎知識のトレーニングに終始すべきである。それが十分でなくて、申請書類を読めず、あるいは書けずに経済的にも大きな損失を蒙ったという話は、最近でもよく聞くのだ。小学校で、自由作文など書かせている暇はないのだ。後者は、その目標を「批判的に読む」ことに置くべきだ。現代文は、何らかの意味での近代批判を含む文章がほとんだが、それを手本として、その文章自体を批判的に読むことができるかどうか、そこまで到達して初めて「高等教育」を受ける資格がある。彼らは、自分のみならず、同世代の人間がどう生きるかを考える能力を持つからだ。
2019.11.23
昨日は、職場から直接射場に、と考えていたのだが、気が乗らなくてサボった。そのまま家に帰り、テレビで相撲をみていた。朝から、どうも右足が吊りそうな気配があり、ああ、これはまだ沖縄の疲れが抜けていないのだな、と思った。昨夜は珍しく8時間ほど眠って、身体が軽くなった感じだ。「休むも練習のうち」というが、まことにその通り。多分、これからこういうことも多くなるのだろう。仕事も、来年度は少しは減るだろうが、かといって弓の練習量が増えるわけでもなさそうである。とすると、何か時間を潰せる趣味がもう一つ必要かもしれない。弓ほど熱中できなくてもいいから、気分転換になる趣味。今日は、家のことをいろいろ。それから、仕事の準備。昼食後に、ちょっと家で射って、昼寝してから出勤。7時くらいに帰宅という予定。
2019.11.22
サラリーマンをやっていると、毎年年末控除の書類が来る。今年は、沖縄に行く直前に「明日、机上に」ということだったので、帰宅したらすぐに、と思っていた。昨日は書きかけたが、妻の病院の時間が来て、中断。今朝、途中から書いた。「書く」といっても、一般生命保険料や介護保険料などのいわゆる生命保険、医療保険の証明書の証明額を写し、数式に当てはめて計算した額を記入するだけなのだが、これが意外に面倒だ。たっぷり1時間ほどかかってしまう。医療保険を見直し、なおかつ、癌が見つかった時点で、自分の一般医療とガン治療の保険料が無料となったので、初めて控除の最高額にならなかった。癌の方は寛解、来年1月に二度目の病後検診となる。そのたびに、通院保険が適用される。保険料が無料で、この病気以外でも保障は続くということなので、ありがたいことだと思う。外資系の保険会社だが、ちょっと面倒な請求手続きさえすれば、いい。現役のころ入っていた医療生命保険は、保険のオバチャンがそのたびにやってきて、ここに書いて、印鑑押して、と手取り足取りだったが、今思えば、少し詳しいことを聞くと答えられず、本部に問い合わせても要領を得ず、ということもあった。電話がつながるまで10分は待たされるが、外資系の会社の担当者は、打てば響くという適確な応答で、はるかによかった。最初からこちらにしておけばよかったと思った。保険料自体は、無料になる前でも夫婦二人で、半額以下になっている。年金でも保険でも、請求しなければ支払われることもない。請求を10年間怠ると請求権自体が「時効」となり、消滅する。民法の基礎だ。そんな大事なことをしない人が、少なくない割合でいるらしい。理由は面倒で先延ばしをしているうちについ、というのが圧倒的に多い。まあ、そんな額を請求してもねぇ、という資産家なら分かるが、どちらかというと収入も資産も少ない人がそうだという。今回の消費税値上げとそれにともなうキャッシュレス決済の優遇措置。地元のコンビニではコンビニカード決済をうまく利用すると、1万円入金した時点で1万3百円と残高が記載され、そのカードで税込1万円の商品をカード払いで買うと2%引き、つまり9800円がカードから引き落とされる。カード残高は500円。つまりは5%引きだ。驚くのはゴミ袋とかワインとか煙草とか、通常値引きの対象外の商品でもまったく変わらないということである。5000円程度を前もって支払う余裕もないならしょうがないが、どうもそうではない人も、このお得なシステムを使っていない。理由は「面倒」ということらしい。もちろん、500円くらいのことなら、1時間余計に働けば5000円にはなるから、という人ならわかる。最低時給近辺で働いているのに、このシステムを利用しない、という理由がわからない。入金3%上乗せは今年いっぱい、限度額は5万というから、最後に5万円ぴったり入れておこうと考えている。カード払いの2%引きは確か来年3月まで。
2019.11.21
起きてみると、数センチの積雪。風もあって、ちょっと吹雪いている。とうとう冬が来た。玄関のファンヒーター、トイレのパネルを入れ、今の室温設定は24度。今朝は、エンジンスターターで車を温め、冬用のショートブーツを履いて、出勤ということになるだろう。こうなると、やはり南の暮らしもいいなぁ、と思えてくる。しかし、ここで暮らしてきたし、いろいろ不満もあるのだが、職場や近隣や弓の仲間など捨てがたいコミュニティもある。なんだかんだ言いながら、今年も冬をここで過ごすだろう。今は、数か月、冬の間だけ暖かいところで過ごすこともできないわけではない。フルリタイアとなり、健康であれば、ちょっとだけ考えるのも悪くない。正月は南国で・・・
2019.11.20
昨日は、病院から帰宅後、4時くらいに射場に。テーマはもちろんカスケードが18mでもうまく使えるか。結果はビミョー。エイミングがうまくとれていない時の、発射、つまり暴発での8点は結構ある。しかし10点率は今までより少し高い。8点がなくなれば、280は射てる、と思い、いろいろと試したがどうもうまくいかない。結局、指の力を緩めたり、込めたり、というやり方では、どうにもならないと思い、最後は単にまっすぐ引く。指はどうなっていようが気にしない、というやり方に戻った。引けば、指は段々滑っていく。それでもエイミングは保持しながら、限界点近くで押す。さらに引く。発射。明後日、再度練習予定。
2019.11.20
昨夕、無事に帰宅。亡くなった父が旅先から帰ってくると、「ああ、うちが一番」と決まり文句のように、言っていた。その時は「なら、最初から行くなよ」などと思っていたが、今は父の気分もよく分かる。ホテルは快適だったし、向こうのご馳走を毎食のように食べて、2kgも体重が増えたのだが、帰りがけに、近所の生協で寿司とお稲荷さんを買って、夕食にしたが、これがやけに美味しかった。居心地も風呂も、やはり「うちが一番」。まあ、35年も住んでいれば、そうなのだろう。今回の旅行は、珍しく自分が一昨日の外出を休んで、妻がすべての接待に参加。「逆バージョンだ」と息子夫婦は驚いていた。自分も、歳は取るのだから、そういうこともある。息子は、今年度から国家試験の試験官もやっているそうで、専門家としての道を順調に歩んでいる。裁量労働制のいいところで、午前中に買い物などをすましてから出勤などということも多いらしい。給料も前のところより手取りで6万ほど多く、研究費は10倍でまったく持ち出しがなくなった。経済的には随分余裕ができたので、嫁さんは孫が1歳くらいまでは、家にいるそうだ。職位も、来年度には申請を出して、上がるようだ。夜、娘に電話。今日は仕事を入れていたようで、少し疲れていたようだが、孫は元気だった。今年も年越しに帰ってくる。アレルギー対応おせちを頼んでいる。孫のために、クリスマスツリーを飾っておこうかと考えている。さて、今日はこれから、整形に診察券を出しに行き、10時ころ出勤。1時ころに妻と待ち合わせて、昼食後、整形に。帰宅後、久々に射場に。旅行前に試して、感触の良かったカスケードが、18mでもどの程度使えるかの確認をぜひしておきたい。ともあれ、日常が戻ってきたということだ。
2019.11.19
昨夜は、息子夫婦と孫、息子の嫁さんの両親、自分たち夫婦という、二年前ならいつものメンバーでの会食。息子夫婦が鹿児島に行って、もう2年になる。 さすがに少し食傷気味の沖縄料理だった。今回は、初日に妻と二人で行った居酒屋が一番だった。不思議なことだが、妻と行くところは当たりが多い。あまり観光客は行かず、地元の人に人気の店をホテルで教えてもらう。沖縄料理といってもチェーン店みたいなところもあるし、昔から固定客でもっている店もある。食事中、土産が届いたと娘から電話。久しぶりにいとこ同士のご対面だったが、何しろ周りも騒々しく、ろくに話も出来なかった。娘夫婦のところには、月末に行く予定。ホテルも静かで、朝食はとても美味しかった。かりゆしの無料貸し出しもあり、毎日着ていた。さて、今日は昼前の出発。夕方には帰宅予定だ。まあ、結構な出費ではあったが、それ以上に楽しい旅行だった。旅行先で、倹約してコンビニ弁当なんて、つまらない。高くても、地元のいい店で食べたい。
2019.11.18
昨日は、昼に今回の主目的の披露宴。朝のうちに妻の着物を持って宜野湾のホテルに。その間、孫の面倒を見たり、息子とちょっと話したり。披露宴は、思ったより、普通だった。聞いていた話では、みんなぐでんぐでんに酔うのかなと思っていたが、それほどでも。ただ、余興にかける情熱はすごい。前回の嫁さんの祖母の米寿のお祝いでは、わざわざお母さんは2回、現地に踊りの練習に行った。息子は、エレアコのギターで歌い、上手い、上手いと褒められ、大学の教員と分かると、さらに驚かれていた。それはそうだろう。普通、大学の先生はピアスなんかして歌わない。やはり、沖縄も変わったのだろうか。それでも、ほとんど全員で最後にカチャーシーを高いステージ上で踊ってきて、沖縄らしい感じはあった。夜は花嫁のお母さんの実家主催の夕食会。っていうのがまたすごい。一族がそのために那覇のホテルに泊まる。さすがに少しバテ気味。今日は一緒に外出の予定だが、ちょっとパスしようかと思っているところ。すっかりバテて明日帰れなくなったら洒落にならない。まあ、どちらにしても、楽しかった。
2019.11.17
久々の沖縄、昨夜は自分たち夫婦、息子夫婦と孫、嫁さんの両親、弟の8人で、夕食。弟さんは、今、インドの日系企業で仕事。インドに出た企業のうち、9割はうまくいっていないが、そこは順調のようだ。久々の日本食を喜んでいる。孫は始終上機嫌。いろんな人に抱っこされ、写真に。息子の仕事や、弟さんのインドでの生活、いろいろな話が飛び交い、楽しい時間を過ごした。さて、今日は、今回のメイン、嫁さんの従妹の結婚式披露宴。
2019.11.16
久々の沖縄。向こうでのもてなしがすごくて、あまり自由時間も取れないみたいだが、まあ、お祝にかけつけるのだから、それはそれでいい。こちらは今日午後から大荒れの予想で、ぎりぎりのタイミング。ちゃんと飛べばいいのだが。
2019.11.14
随分長いタイトルになってしまったが、新聞記事の見出しである。こんな見出しで、意味が分かるのは受験生と高校教員のごく一部だけだろう。要は文科省が大学入学共通テスト国語の記述式の得点部分を、二段階選抜、いわゆる門前払いには利用しないでほしい、ということを各大学に要請する検討に入った、という記事だ。もし、この要請が現実化すれば、記述式の採点が不確実なものであることを、文科省自身が認めたに等しく、「自分で自分の首を絞める」愚か極まりない行為だ。自分の国語記述式に関する意見はすでに書いたので、繰り返さないが、記事によると、採点ミスで足切りされた生徒は二次試験に進めないので、ミスが発覚した場合でも救済措置が取れない、という理由だそうだ。つまり、ミスが起こることを前提とした措置であり、そんな試験をそもそもやる価値があるのか、ということである。おそらく、国語記述式は、英語外部試験と同様、延期となり、「検討」の結果、実施断念ということになる。まあ、よかったというべきか。
2019.11.14
一昨日の練習。旅行前の最終練習だったので、とりあえず試合と同じSTANで始めた。大体、275くらいのペースで、試合と変わらない。ただ、それ以上の精度が出ない。矢も変えてみたが、かえってよくない。それで、HBCを引っ張り出したが、これも同じ。設定がSTANと微妙に違って、カチッのタイミングが一定しない。とうとう最後にカスケードを引っ張り出した。現在、稼働できるカスケードは二台。両方黒で、シリアルナンバーで識別する。そのうちの一台で、たいして期待もせずに、射ったところ、押してから引くと簡単に切れる。ということは狙いを十分つけて、カチッと押し、後は引くだけ。トリガーレスと何も違わない。違うのは、カチッのタイミングを自分で決めることだけだ。そういえば、カスケードを使って、1300台を数回シングルで出した時は、最後の方は、カチッ→ポンッ、という感じで、押したらすぐに切れていた。あのタイミングと同じだ。押す時に、親指から動かすのではなく、フルドロー→アンカリング→さらに引く時に、握っている指全体、特に人差し指の握りを軽くして、リリーサー自体が滑る感じにすると、親指はボタンに触れる位置まで滑ってくる。その時に、エイミングを確認して押すと、ポンッと切れてくれる。ああ、こういう感じだったのかな、と思うがよく分からない。中りは10点近辺で、9点を外すような感じがまったくない。アウターの10点はみんな食っている。57くらいの感じだ。時間も迫っていたので、18射だけカスケードを試して終了。昨日、出勤前にもう一度カスケードの感触を確かめたくて、自宅で30射。やはり、すぐに切れる。指の握りを軽くし過ぎると、戻るのでそれだけに注意した。ここでも大体真ん中を射抜いている。今日、出発は12時すぎ。もう一度自宅で試してから、と思っている。自分ながら、欲が深い。
2019.11.14
早起きしてしまい、仕事の準備をしてから、書きかけの原稿を書き終え、まあ、もう少しPCに向かっている。今年もあと二か月弱。二番目の孫が息子夫婦に生まれたのが二月、未熟児だったが、問題なく成長している。自分は、ちょうどそのころモルト型リンパ腫が見つかり、ステージ1(実際は「初期の初期」という診断)で放射線治療が始まり、7月で寛解ということになった。頸椎ヘルニアの手術以来、自分としては二度目の大きな病気にかかった。両方とも早期の発見と治療ができて運が良かった。その後、これが最後かなと思いつつ、家の修繕をわりと大きな規模で行い、それが終わった頃に、娘夫婦がマイホームを購入した。65歳になったので、年金も満額出ることとなり、次年度からの勤務形態を非常勤とした。次年度は、妻との旅行などいろいろな計画を立てている。二人とも腰痛は大分調子がよくなったので、まずは国内からあちらこちらに。明後日の沖縄がその始まりかもしれない。来年度も少しは働いて、旅行の小遣い分くらいは稼ごうかと思っている。基本は、弓の日記だが、いろいろなことを書いてきた。そういう時間が生まれたこともあるし、書いておきたいという気分もある。さて、今日はこれから朝飯。整形に診察券を出しに行って、10時ころ出勤。昼に上って、妻と待ち合わせて昼飯。それから整形。夕方に、弓の練習に。
2019.11.12
私自身の拠って立つのは、紛れもなく「個人主義」である。それは、漱石が言ったように「俺は右を向くけれど、他の人が左を向いても構わない」という他者の個人主義を尊重する主義であり、「みんなが右を向いているのから、自分もそうしよう」という同調圧力には、時と場合によっては絶対に屈しない。それは、「他者依存」の正反対の立ち位置であり、基本的に自分のことは自分でやる。そういう自立した個人が集まってこその集団であれば、集団の価値を否定しない。それどころか、そういう集団に所属したいと思う。残念ながら、職業集団は、普通はそういう集団ではない。宗教の集団も違う。大学などの高等教育の集団は、そういう面も強いが、今は、そこに自立した個人があまりいない。個人主義に対する正しい意味での批判はいろいろある。個人の完全な自己決定は、確かに西洋近代主義の到達点だが、実際はそれは西洋文明というエピスメータ(思考の枠組み)に強要された思考であるとする構造主義や、個人はその自由に耐えられなくなって全体主義へと同調したのだというフランクフルト学派等、近代を超克しようとする一連の思想の流れは、一通り承知している。それでも、私が個人主義の立場を堅持するのは、自分の生を他者に委ねることへの嫌悪感があり、他者と溶け合うことで自らの生の意義を確認するということへの断罪感のようなものが強いからではないか、と思う。また、構造主義以降のさまざまな思想が、近代に代わる新たな価値を提示しきれていないということもある。批判は簡単だが、価値の創造は困難極まる。また、一方で個人主義の何たるかも学ばず、勝手にそれを利己主義と同一視し、やたら人のためにと言ってまわる輩への批判意識も強い。こういう意識から、例えば「孤独死」などの問題をなぜ大騒ぎするのか、とよく思う。それは、自宅で家族に看取られながら、穏やかに最期の時を迎えるのがいいだろうが、独居老人が自宅で誰にも看取られずに亡くなったとしても、それは別の死ではない。死は生の終焉であり、我々はそこに向かって生きていくのだから、むしろ問題はどう生きたか、である。また、「人は一人では生きられない」という誰しもが受け入れるであろう言にも、大きな欺瞞を感じる。現に人は一人でたくさん生きているし、誰とも会話もせず、一日を過ごすとしても、そういうことは不幸ではないと思う。文明社会の原理として、我々は自給自足の生活をしていないのだから、一人では生きていけない。その事実と、だから「絆」をという主張は、安易に結びつけてはいけない、と思う。自分の居場所を探したければ、探す。探せなければ、見つからないまま、一人で生きる。そういう人に、手を差し伸べるのは「おせっかい」ではないか、と考えてしまうのだ。一人で生きるのが嫌なら、何とか仲間を探せばいい。私は一人で生きられないのだから、家族でも誰でも私と関わるべきだ、というのは、自分は親なのだから、子どもは当然自分を尊重すべきだ、と言うのと同じである。「共生」の時代に、そういう考えはもう古いのだ、と言われるかもしれない。また、それを乗り越える思想もいくつか知っているが、そこに共感を感じない。いずれにしても、私の思想的到達点は近代個人主義であり、それが限界点であることもよく知っているのだが、せいぜいあと20年ほどの人生で、大きく転換するようなことはないだろうと考えている。
2019.11.12
年内には2回、公式戦に出る予定だが、その1回目。レフティでは去年11月の552というのが自己ベスト。右の時より20点低い。しかし、もうレフティも3年目。そろそろ右の自分に追いつきたいのだが、練習の状態では、270がやっとというところだ。第一試合 275+276=551第二試合 278+277=555辛うじて、二回目に去年の記録を越えられた。試射の時には、6射中4射の8点。それで、急遽リリーサーを第一試合の前半からSTANに変更。同じトリガーレスでも、こちらの方がいいように思えた。それ以降、8点は合わせて6射。変更前の2エンドで3射だったから、大分安定はしてきた。なぜか、最初に射つ一番下の的が3時方向に1点分くらい外れると分かり、最後の3エンドくらいで下的だけエイムオフ。おかげで、最後の3射は10-10-10で今季初の満射。9-9-9なら自己記録タイで終わっていた。それにしても牛歩の歩みである。右の時は、ある時すっとレベルが上がって、それで全日社会人やインドアなどに全部で10回近く出場できたのだが、今は、その気配もない。トップは290近いスコアを射ち続けている。全日でも勝てるレベルだ。右の時は何とかその領域が見え始めていたのだが、今は、とても届きそうにない。まあ、できる範囲で、せめて280は切らない状態にまで、次の試合ではもっていきたい。矢を変更し、少し精度が上がることを期待したい。往復560km。昨夜は9時前に帰宅。すべて一般道で燃費は18Lくらい、まずまずかなと思う。腰は大丈夫だった。今週は沖縄の結婚式があるので、木曜から4泊。自分も妻も、久々の沖縄で、楽しみなのだが、向こうの習慣で、夜はびっしり会食が入っている。もう少し、フリータイムがほしいのだが、まあ、ありがたい話だ。息子夫婦、孫にも久しぶりに会える。今日は休みだが、これも久々に寛解したモルト型リンパ腫の通院。胃カメラ検査の日程が決まるらしい。明日は練習日だが勤務+整形で、夕方にちょっと射つ程度になるだろう。そこから一週間は、弓はお休み。こちらの方も、旅行中はお休みということになる。
2019.11.11
話を戻そう。具体的例から始める。【傍線部】「近代理性主義に支えられた科学技術信仰は、すでに破綻してしまっている。」【設問】「どうしてそう言えるのか、70字以内で説明せよ。」【模範解答】「科学技術は、快適便利な生活をもたらしたが、一方で、原発、環境問題を引き起こし、人類の幸福を実現するとは信じられなくなっているから。」【採点基準】満点10点(1)科学技術が人類の幸福を実現するとは信じられないから・・・不可欠。まったくこの点に触れていなければ0点。(2)ただし、「科学技術が原発や環境問題を引き起こしたから」等の不十分な解答は、その程度に応じて、ー3点からー6点とする。(3)科学技術が快適便利な生活をもたらした・・・欠落ー2点(4)科学技術が原発や環境問題を引き起こした・・・欠落ー3点(5)誤字、漢字で書くべき表記のかな書き・・・一か所につきー1点(6)文末「~から。」等の「理由説明」になっていないもの・・・-2点・日本語として成立しない非文・・・程度に応じてー3点~-6点まあ、大体こういう程度の採点基準を作っておくのが普通である。【解答例1】科学信仰に支えられた近代理性主義は、原発、環境問題を引き起こし、人類の幸福を実現するとは信じられなくなっているから。この解答の場合、「科学信仰が近代理性主義を支える」という問題文とは逆の書き方になってしまっている。その点を除けば、(2)の基準が当てはまりー3~ー6点。単純な書き間違いだろうから、-3点。さらに(3)の基準で―2点。従って5点。しかし、「近代理性主義が、原発や環境問題を引き起こした」とは問題文には書いていないのだから、(1)の基準の適用で0点とみる採点者もいるだろう。つまり、同じ解答でも5点か0点。こういう場合、学校現場なら設問作成者にどちらの見方が妥当なのか、さらに前者が妥当なら―3点という最低限の減点でいいのかを聞けば、問題は一応解決する。ただし、問題文の傍線部からかなり離れたところに「少なくとも1950年代までは、科学技術と理性主義は切り離せないものとして、相互補完的に、その信仰を強化していったのだ。」という一文があった場合、話はまったく違ってくる。「科学技術」と「近代理性主義」が「切り離せないもの」であり、「相補的関係」にあるのならば、「科学技術」が「近代理性主義」を支え、「近代理性主義」が「科学技術」を支えたとも言えることになる。そうなると、解答例1は(1)、(2)の基準はすべてクリアしており、(3)の―2点の減点だけで、8点、ということになる。解答例1は、わりと多いシンプルなタイプだが、それですら、ここまで書いたように、非常に面倒な思考と読解の積み重ねがないと、採点できない。それが、受験者50万人、おそらく採点者は一次採点で少なくとも2000人(1人250枚)、チェックの二次採点は500人が確保できればいいところだろう。その数では、この程度のシンプルな解答に対しても0点から8点の採点誤差が出ることになる。アルバイトで採点者を確保する、とベネッセはいうが、アルバイト採点は時給ではなく、出来高制、つまり1枚につき○○円というような報酬になる。そうなると一次採点者は、できるだけ速く仕事を仕上げようとするから、疑問が出ても、とりあえず無視して仕事を終了させることを優先するし、二次採点者も(これは、学生アルバイトではないかもしれない)、せいぜい、同じ答案が5点か0点の間で議論が起こるだけで、どちらかに決着させるに留まる可能性が高い。しかし、もし設問者が正しく文章を読解していれば「何だ、これは別に間違ってないよ」ということになり、8点を支持するだろう。つまり、「共通テスト」で現代文記述の公平な採点というのは、土台、無理なのだ。各大学の個別試験でも受験者人数が多ければ、同じようなことは起きるかもしれないが、難易度が高いので、白紙答案も多く、また発表日程に余裕を持たせることが可能なら、対応できるだろう。【解答例2】近代理性と科学万能信仰は、我々の生活を豊かにしたが、同時に様々な問題を引き起こし、もはや科学が万能だとは言えなくなってしまったから。これは、かなり頭のいい受験生の解答である。多分、採点アルバイトの学生より頭がいい。これを「科学技術が人類の幸福を実現するとは信じられないから」という必須要素の脱落として0点にしてしまう、バカなアルバイトはいるだろうし、それを見落とす二次採点者もいるだろう。本来、この解答は(3)の部分を「さまざまな問題」と一般的に書いたのは不十分として―1点。つまり9点。十分、合格答案になっている。大分、字数を食ったが、50万人の記述式答案、しかも80~120字の記述が1問あるという代物を、公平に採点することの不可能性が分かっていただけたかと思う。この項、了。
2019.11.09
大学入試で、母国語の能力を試すのであれば、最も適切なのは記述、論述問題である。そして、最も不適切なのは、選択式問題だ。それは、例えば「次の文章の要旨を百字以内で書け」という問題と、「次の文章の要旨として最も適切なものを①~⑤から選べ」という問題を並べてみれば、すぐ分かることだ。前者が出来て、後者は出来ないという者は、ほぼゼロだろうが、後者は正解できるが、前者は全然できないという者は相当の確率で存在する。なにしろ小学生が解答しても五分の一の確率で正解となるのだから、センター試験は選択肢を故意に紛らわしくすることで、一定の不正解率を保とうとする。そのやり方はいろいろあるが、典型的なのは不正解の選択肢を大筋は正しく書いて、その一部だけに完全な誤読に基づく表現を織り交ぜるやり方、正解の選択肢を完全なものにせず、80%くらいの出来の表現で書いておくこと、などである。これは「文章の要旨を把握する」という本来の「読解能力」ではなく、各選択肢を比較して、罠にはまらないようにするという「注意力」を試しているだけである。さらに、把握した要旨を自分で言語化するという、母国語能力の一番肝心な点は、選択式問題では問えない。以上の理由で、記述式問題の大学入試問題としての適確性は明らかなのだが、それを「大学入学共通テスト」に導入しようということになると、話はまったく違ってくる。現代文の問題が成立するためには、文章の「筆者」と、それを適当なサイズに切り取って、空欄を空けたり、傍線を引いたりして作問する「設問者」、そして受験者が書いた答案を採点する「採点者」の三者が必要だ。通常の学校で行われる定期試験などでは、「設問者」=「採点者」であるが、規模の大きい試験では、複数の採点者が必要になる。その時に、採点者は、あらかじめ作成された採点基準に従うことを要求される。そうでないと同じ解答でも、採点者によって得点が違うという不合理が生ずるからだ。解答の中に必ず含まれていなければならない内容を解答要素と呼ぶが、その要素は通常複数である。大体20~30字の解答字数に対して一つの要素がある。だから100字以内という比較的長い記述問題なら4要素前後となる。通常は設問者はこの解答要素を、あらかじめ設定し、重要度によってそれに配点をする。例えば、解答要素aは10点中3点、bは2点、という具合だ。この辺りのことは、学生・院生時代にベネッセがまだ進研という会社名だったころ、通信添削や、模擬試験採点のバイトをしていたから、よく分かる。40代のころは、10数年間、当時まだあった旺文社模試の作問委員なども依頼されてしていたので、選択式問題の作成や、採点基準の作成なども経験している。まあ、結構いい副業ではあった。
2019.11.08
昨日、水曜日、息子の嫁からのラインで、息子がテレビの地方局で話している画面が突然送られてきた。何でも、保育園での保育士の暴言が問題となったニュースで、息子は専門家としてコメントを求められたらしい。スタジオではなく、研究室で取材を受けたそうだ。仕事も安定軌道に乗ってきたようで、何よりである。「へえ、専門家ねえ」と言って、妻と二度くらい見た。まあ、親としては嬉しいものだ。その後は、娘から電話。孫は「かくれんぼしよう!」と言ってカーテンの陰に隠れる。ビデオ通話で「かくれんぼ」が遊びとして成立するとは思わなかった。これはこれで楽しい。小さな画面でも、部屋が今までより格段に広いのが分かる。隠れる場所はたくさんある。さて、今日、木曜日だが、これから少し仕事の準備。10時に妻を病院に送って、そのまま出勤。年に一回はという乳がん検査だ。がんは予防法はないので、早期発見が取れる唯一の対策だ。やれることはやることにしている。仕事は今日は3時半終了なので、そのまま射場に。1時間半くらい、試合前のチェックを。
2019.11.07
マラソンはどうやら札幌で最初から決まっていたらしく、それならそれで、主催都市の東京の顔を潰さないようなやり方もあっただろうに、「合意はしない。妨害はしない」という都知事の発言で、一応収束したようだ。今後は札幌の準備が大変だ、と騒いではいるが、コースが決まれば、準備もそれなりに進んでいくだろう。そうなると都知事は「札幌は大変と思うが、決まった以上は頑張ってほしい」くらいの一言があった方が、狭量さをさらけ出さないですんだのに、と思う。我が家はホテルはちょっと無理かな、と思い始めている。娘夫婦の新居は街中近くで、多分コースも近くて、十分に広いので、そこに二、三泊世話になるという手もあるが、それはやらない主義だ。数万円のホテル代をけちって、生活空間に侵入されるのは、あまり愉快ではないだろう。そういうのを「水臭い」という向きもあるだろうが、我が子であっても、厚かましいふるまいはしたくない、というのは妻とも考えが一致している。これが、逆ならいつでもどうぞ、なのだ・・・子どもは親に甘えていいのである。親が子どもに、甘えたり、ましてたかったりしてはいけない。ということで、どうやら、マラソンはテレビ観戦になりそうだ。娘夫婦のところには、今年中にもう一度、妻は三泊、自分は日曜日の試合を挟んで、金曜、日曜の二泊で行くのだが、これからもそういう機会は、年に数回はある。別にマラソンに合わせて行くこともない。大学入学共通テストの方は、やはり今度は国語の記述式はどうなのか、という意見が出てきた。例の「身の丈」発言は、どういう文脈での発言なのかは分からないが、もし、自分の学力や親の経済力に合った大学を選び、その受験に頑張ってほしいという意味なら、まことにその通りだ。例えば普通のサラリーマン家庭では、とてもじゃないが、私立大学医学部などへの進学は、最初から無理なのだ。もし、我が家でそんな進路を子どもに取らせていたら、老後2000万どころの話ではなくなっていただろう。学費だけで5000万、諸経費を合わせると普通に1億はかかる。能力があれば国公立の医学部への進学はできるし、学費も6年で諸経費込みで、せいぜい500万ほどだろうか。これなら、中流家庭でも何とかなる。あるいは、野党の言う通り「身の丈」発言が「格差を容認する」発言だったとしても、自由主義経済は原理的に「自由」と引き換えに「結果としての不平等」はある程度は仕方がないと考えるのだ、ということを忘れてはならない。その代り「機会の均等」はできる限り保障する。今回はこの点で見逃せない不平等だということで、英語外部試験の導入は見送られていた。それは、自分も賛成する。さて、国語の記述の採点が、非常に多くの問題を孕むことは、前に書いたとおりだが、折を見て詳しく論じてみたい。ここで、せっかくの機会なのだから「共通テスト」がなぜ必要なのかというより根本的問題を、国民的に議論してほしい。そうなれば、「身の丈」発言も「怪我の功名」というものだろう。
2019.11.07
さて、そういう文脈で考えれば、「個人主義」は「集団主義」と対置される。もちろん我々が「個人」として生活するためには、何らかの「集団」の中にいなければならないのだが、そういう状況で、「個人」と「集団」のどちらが核心的価値なのかといえば、それは「個人」だ、というのが「個人主義」であり、いや「集団」だというのが「集団主義」だ。集団主義の論拠は、集団は個人を超えて存続していくという点にある。確かにその通りだ。私が辞めても、会社という集団は存続していくし、私が死んでも家族という集団は存続していく。しかし、そういう観点で言うなら、集団でもさまざまな存続の長さのレベルがある。家族は核家族化したのだから、その存続は場合によっては個人より短い。特に非婚化が進み、もはや核家族にすら属さない人にとっては、同居の場合は自分の親の死とともに、親から離れている場合はその時点で、家族は実質的に消滅している。会社だっていつ倒産するか分からない。集団主義は、そのことをよく思わない。集団主義の最も身近な例は「家族主義」だ。人間は家族を持つべきだし、その絆を失ってはならないとする。介護も家族が基本だと考える。一方、家族や会社よりも、国家や社会は長く存続する。だとしたら、家族や会社の一員であることより国家の一員であること、国民であることの方が価値が高い。なぜなら、国家の方が家族より、より高い価値を具現化できるからだ。制度としての介護保険などは、家族という中間集団の解体に由来している。いや、そういうならば国家より人類社会の方が長く存続する。そこにコミットする生き方を選択すべきだ。いずれにしても、その論拠の根底にあるのは、「私」という個人よりも「集団」の持続可能性を優先すべきだ、という考えだ。「持続可能で安定した社会」というのは近頃のはやり言葉だ。しかし、たった今書いたように、「生き方を選択する」のは「個人」にほかならない。個人の選択として、この社会に貢献するという選択もあり、家族を大事にするという選択もあり、家族とは縁を切り、社会ともつながらずに生きるという選択もある。その選択は、完全に自由である。そしてその責任は個人がとるほかない。我々はサルトルが言ったように「自由の刑に処せられている」のだ。「集団主義」はその選択を強要するという点で、「個人主義」と厳しく対立する。場合によっては、個人は集団に生殺与奪の権利を奪われている場合さえある。昔の話ではない、ヒットラーのドイツはそうだったし、戦前、戦中の日本もそうだった。個人の生命よりも、大日本帝国の存続が優先されたのだ。それでも集団のために命を捧げるという選択が、もし完全に自由な個人の意思決定であれば、個人主義はそれを認める。三島由紀夫の割腹自殺は、そうだった。しかし、それが集団に強要されたものだったとしたら、個人主義は絶対にそれを認めない。どのような集団であれ、それなしに個人は生きていけるのである。だから、どの集団に属するかも、個人の自由な決定でなければならない。
2019.11.06
昨日も退勤後1時間半の練習。公認が近いので、今のフォームを固めることを最優先にした。少し、押し手が開いた形での、フォロースルーになる。これは、これで今はしょうがないと思い、諦めることにした。そう思うと、押し手がまっすぐに残る理想形が突然数回続くこともある。開くと、左の黄色に。理想形は10点をだいたい射抜く。何とかなりそうなものだが、どこに意識を置けば改善するのかが、分からない。明日もう一度退勤後4時くらいから2時間弱は練習できるが、多分、それだけでは見極められないだろう。だから、今のところは10点に入ればラッキーと思うほかない。そういうまぐれが3本に1本出れば、それは今の自分には最高のラッキーである。それよりは、開いてもいいから、フォームを安定させ、なるべく8点を射たないように心がける方がいいような気がする。
2019.11.06
もう120年も前に、夏目漱石が、現在の学習院大学の学生たちを前に行った有名な講演の演題が「私の個人主義」だった。漱石は、英文学者としてイギリスに留学したが、その時の学問上の苦悩からやっとたどり着いた立場を、「個人主義」として語っている。その中に、「近頃、『自我』とか『覚醒』とか称して、何をしてもかまわないという符牒(意味)に使っているようでありますが、私が個人主義と申し上げるのは、これとはまったく違います」という趣旨の一節があるが、この状況は現在もまったく変わっていない。「個人主義」=「利己主義」という極めて浅薄な理解が、いまだに続いている。そのことを、まず論じなければならない。一般に「~~主義」とは、「~~」を核心的正しさとみなす、という価値観の表明であり、例えば「自由主義」は「統制主義」に、「資本主義」は「共産主義」に対置される。そのように考えれば、「利己主義」は「利他主義」に対置される。己を利することを核心的価値とするか、他を利することを核心的価値とするか。しかし、これはそう単純な二項対立ではない。例えば、資本主義経済の中では、誰もがより多くの資産の形成を目的として働いている。そこでは、ある程度、十分なフローとストックがあって、初めて「利他」の立場に立ち得る。マザー・テレサは何も持たない人ではなかった。資産家の娘であったからこそ、それを投げ出すことができた。フランシスコもそうだった。仏陀もしかり。彼らは、自身の資産を投げ出した後も、「利他」のための巨額の「浄財」を集め得るカリスマ性があった。首里城の火災があり、続々と寄付金が集まっている。熊本城の時もそうだったが、今回はそれ以上のペースだ。「ふるさと納税」が多いが、返礼品辞退率も高い。地元のニュースでも「何もできないけど、少しだけでも」という声が多かった。自分たちも、今月は沖縄に行くので、少しだけでも協力したい。こういう人たちは、自分の生活にある程度の余裕があるからこそ、多少の募金等の「利他」的活動に参加できるのであって、それより、毎日の衣生活、住宅ローンの支払い、子どもの教育費を優先しなければならない場合も多い。また、「利他」といっても、家族や友人のためにある種の支援をする場合もあるし、自分の帰属する集団のために支援する場合もある。いずれにしても、それは「できる範囲」での「利他」であり、つまり「己」をある程度「利」した上で可能になる「利他」である。つまり、「利己」の上に「利他」は成立しているというのが、現実の姿である。両者は二項対立ではない。実際、自らの生活が安定していなければ、利他的活動をする余裕はない。自分は、今は年金生活+再雇用という身であり、フローに関しては、定年退職前の30%程度の収入しかない。不足分は預貯金を取り崩しながらの生活だ。それでも、時間的にも、経済的にも多少の余裕を感じているのは、これまで積み上げてきたものが(それは必ずしも資産だけではなく、家族や友人との関係、自尊感情などすべてのことだ)、ゆるぎない形でそこにあると実感できるからだ。だから、「身のほど」に応じた利他的活動はできる。しかし、そのことは、第一義的な価値ではない。自分にとっての第一義的価値は、自分を形成することである。ニーチェは「教育とは結局自己教育である」と言ったが、まさにその通りだと思う。それは結局「利己主義」だという批判があるかもしれないが、自分の仕事自体が本来利潤を追求しない「利他的」な仕事であり、それを曲がりなりにも40年続けているのだから、その批判はまったく当たらない。単なる金儲けに人生を費やしたのではないのだ。
2019.11.05
CP弓の大きな特性の一つはレットオフである。滑車がフルドロー時には、弓の強さを60~80%カットしてくれる。自分の弓の場合、75%。ということは、少なくともエイミングの段階では、そんなに押し手・引き手をガンガンに張る必要はなく、ゆったりと、といっても引き戻されない程度の力で維持すればいい。どうも、その根本的なところを間違えていたかも、と一昨日の練習で気づいた。緩むことを警戒するあまり、最初から全力で押し、全力で引いていた。もっと楽に射とう、と、ふと思ってやってみたら、エイミングはできるし、同心円の崩れはなくなるし、いいことが多い。肝心の中りの方は、まあ、そこそこなのだが、バランスを崩すことが激減した。大体、9点の端っこではなく、いいところに入る。たまに10点。これは、まだまぐれの10点なのだが、今のところはそれでいい。今日は、仕事が変則で、朝から。しかし、昼が3時間空くので、その間、射場に行き、1時間以上練習可能だ。そういうわけで今日は「頑張らない射」の練習を頑張る。
2019.11.05
昨日の新聞記事では、英語だけでなく、新たに記述式問題を導入する国語、数学も見直しを、という意見記事が載っていた。それはその通りで、50万枚の採点を20日間という期間で、できるわけがない。できるとしたら、採点者を大量にアルバイトで雇う他ないだろう。つまりは、この業務を受注したベネッセが実施している模擬試験でいつもやっている方法である。模擬試験採点を見る限り、控えめに言っても「正確無比」とは程遠い。見直しの主張は当然と思う。特に国語では、採点者、設問者より頭のいい受験者が書いた正解と答案が、大きく減点されるケースは多い。また数学では、いわゆる別解答案が認められないことも多い。が、しかし、そもそも共通一次からセンター試験ともう35年くらい続いてきた「共通テスト」が、必要なのかどうかという議論がされるべきではないか。自分は共通一次前の受験世代で、国立大学は一期校、二期校という受験日程によって二つに区分されていた。旧帝大とレベルの高い一橋大、東工大、神戸大などはすべて一期校、それ以外は二期校だった。受験機会は二度あったが、一期校で受かればそれでおしまい。ダメなら二期校。それもダメなら私立大学、というのがオーソドックスな受験の考え方だった。試験問題はすべて各大学の個別作成。受験科目は、文系なら英国数+社会二科目+理科一科目、理系なら英国数+理科二科目+社会一科目。私立は文系は英国社。理系は英数理。つまり、大学の難易度が日程と受験科目によって歴然としていたのである。自分の記憶では早稲田や慶応であっても、今ほどの難関校ではなく、一期校がダメなら、やっと選択肢の中に入る大学だった。それ以外の私立は、「どこ?それ?」という感じで、おしなべてレベルは低かった。この序列化を解消しようとして導入されたのが「共通一次」という試験である。しかし、それは以前書いた「平等幻想」に支配された政策で、序列を排するどころか、各大学は共通一次の合格者平均点によって、より細かく序列化されたのである。センター試験では多くの私立大学がセンター試験枠を設けたから、さらに日本の大学全体が序列化された。しかも少子化が進み、大学進学率も頭打ちになったため、定員割れの私立大学(場合によっては国公立大もそうなる)が続出し、いわゆるFラン大、つまりボーダーフリー、受験倍率なしの大学が多く誕生した。そこにまで、「高等教育」無償化をしようというのが、現政権の目玉政策の一つだが、そのバカバカしさは前項で書いたとおりである。もし、それをするなら、今や私立大学とさほど変わらなくなった国立大学の授業料を、旧一期校レベルの大学だけゼロにすればいい。本当の意味での「高等教育」はそこでしか成り立たないからだ。そして「共通テスト」も、まったくそれを実施する意味が見出せないのなら、止めてしまった方がいい。現にレベルの高い大学はセンター試験の比率をできるだけ低くし、自前の個別試験で実質的な判定を行っているのは、前に書いたとおりである。そこに合格する受験生はもともとセンター試験など眼中にない。今なら、受験生も減少傾向で、採点枚数も少ないのだから、各大学が自由に問題を作成し、配点を決め、採点もできる。大学受験全体として見ても、余計な、そして膨大な手間が省けて、誰も困ることがない。英語の「話す力」が必要だと本気で考える一部の大学、学部であれば、「口頭試問」の二次試験を課せばいい。個別試験の一定以上の得点者しか受けられないのだから、数も少なく外部試験に頼る必要もなくなる。それでも、どうしても外部試験を使いたいなら、例えば英検1級取得者には「口頭試問」免除という特典を与えればいい。そうすることで、英語しかできない人間(こういう人間は実は結構いる)は、そもそも個別試験に受からないから、排除できる。これで、論じたいことは終わったが、「日本の大学は入試は難しいが、出るのは簡単だ。その反対に、外国のように誰でも入りたい大学には入学できて、卒業を厳しくすればいいではないか」という議論を聞くことも、いまだに多い。しかし、それは暴論である。例えば、東大に毎年1万人が入学して、3千人しか卒業できないというふうにすれば、最初から卒業できないのが分かっている学生のために、今の三倍の施設と教員が必要になる。しかも、大学は留年即退学ではないのだから、4年間以上を無駄に過ごす人たちが大量に生まれることになる。退学して24歳くらい、そこからもう一度自分のレベルに合った大学に行こうとする人は、少ないだろう。「卒業するのは簡単だ」というのは、実態を知らない人の物言いであり、実際に卒業できない人間も結構いるし、何より卒業も苦労しないでできるだけの学力を持った人間が初めから入学してくるのである。また、誰でも入りたい大学に入れる外国とはどこの国なのか。アメリカはまったく違うし、ヨーロッパはいまだに階級社会であり、倍率自体は日本よりずっと少ないが、それはいい意味で「分を知っている」からだ。大学教育は間違いなくエリート養成のためにあり、そこを出た人間は身を粉にして、社会のために働くことになる。「そんなしんどいことはごめんだ」というのが庶民階級の偽りのない気持ちなのだ。大学全入論者のもう一つの間違った考えは、受験勉強はただ大学に入るためだけのクソ暗記にすぎず、本当の学問にも、まして社会に出てからも何の役にも立たないというものだ。それは、まったく違う。高校で習う教科の本質を理解していなければ、いくら暗記してもレベルの高い大学には入れない。そして、その理解の上に大学での学びをすれば、社会で十分に役立つ。ただし、その「社会」とはそう主張している人の「世間」とは全く違う場所だ、ということだけのことである。
2019.11.04
昨日の練習で気づいたのは、自分のドローイングがアンカリングに向かって一直線に引いていること。そうではなく、顎の位置よりやや離れた方向に引き、引き切ってから顎につけるというやり方に変更した。そうすると、エイミングのズレが少なくなり、同心円の崩れもほぼなくなった。昨日の最後の30分で気づいたことなので、今日もう一度試してみたい。
2019.11.03
本稿を書きかけている最中に、英語外部試験の導入を、5年後まで実施せず、その間に抜本的見直しをする、という報道があった。札幌でのマラソンといい、この件といい、いったん決めたことをいとも簡単に反故にするのは、最近は珍しくもなく、ポピュリズムここに極まれり、という感じだ。とはいえ、この二つの件の変更、中止には自分は賛成する。本稿は英語の外部模試導入に関して論ずる予定だったので、まずはそちらの方を。今回の始まりは、英語の4技能、すなわち「読む・書く・話す・聞く」のうち、特に「話す」能力を、現在の入学試験では問うていないから、ベネッセがこれを見据えて作ったGTEC、昔ながらの英検などの外部試験を導入するというのが、大義名分だった。よく日本人は中学から大学まで10年間も英語を学習してきたのに、ろくに会話もできないという批判があり、それが大問題であるかのように言われ続けてきた。本当にそうなのか。小学生でも「英語活動」は「英語」として教科化される。いや、小学校では遅いとばかり、幼児教育の目玉として「うちの園では、ネイティブの先生が週に1回、英語で遊ぶ活動をしています」などという幼稚園は多い。このことに関しては、いわゆるバイリンガルとして成長してきた子どもが、実際は母国語の言語能力をかなり犠牲にしているという指摘が、木村美笛氏によってなされたが、ほぼ黙殺されている。そもそも小学校の英語教育の一つの到達目標が、「外国人に道を聞かれたら、教えてあげることができるように」ということだそうだ。バカらしい。第一、危ないではないか。外国人のすべてが善意の観光客だとでもいうのだろうか。道順など、スマホがあれば誰でも調べられる。それをわざわざ、子どもににこにこ微笑みかけて聞く、というのはどう見ても怪しい。もし、同じことを日本人がしたら、誘拐犯だと疑われる。自動翻訳技術は、飛躍的に向上していて、どらえもんの「翻訳こんにゃく」はもはや夢物語ではない。なのに、肝心の日本語能力を犠牲にしてまで、英語を身につけなければならないのか。大学入試で「話す」能力を試験するのは、なんのためか。もちろんグローバル社会の中で、国際共通語となった英語でのコミュニケーション能力がビジネスの場では特に必要だ、という理由が第一に挙げられる。しかし、ビジネスの場での「会話」は当然ビジネスのことである。つまりは「商売」だ。だとしたら、そこで使われる語彙量はそれほど多くはない。しかしその専門性の高い語彙は、経営学などを専門的に学ばないと、日本語で言われても分からない。それとはレベルが違うが、いつも利用するホテルチェーンでは、最近は専門でないスタッフが、中国語、韓国語、英語などでチェックイン等の応対をしている。これも、その場で使われる語彙や、先方の質問などが限定的だから可能なのだ。彼らが大卒かというとほとんどそうではない。フィリピンの教育に関するコングレスに行ったことがあるが、学校教育のことなら知っているので、話すことや聞くことにそれほど問題はなかった。彼らのメンタリティでは、情緒的なことはタガログで、論理的なことは英語で思い浮かべると聞いて、驚いた記憶がある。そういう自分の英語力は、特別な勉強をしたわけでもなく、高校や大学の英語教育の中で育ってきたのである。高校はカナダ系のミッション校だったから、校長のスピーチも英語だったし、校長室に呼ばれて英語でたっぷり叱られたこともある。この時は、相手が興奮していたからよく聞き取れなかった。しかし、自分が叱られる理由は分かっていたから、その言い訳を、英語で一生懸命しただけである。多分、毎週2時間、ネイティブのアメリカ口語授業(Spoken American English という教科書だった)で、「話す」力はある程度身についた。要はその力を大学入試で試す意味がどこにあるのか、ということだ。ある程度専門的な知識を学べば、それを英語でどう表現するかということは、教えさえすれば身につく。そういう授業を大学教育の中に組み込めばいいのではないか。その語彙は、例えば生物学を専攻する学生と、心理学の学生ではかなり違うだろう。しかし、いずれにしても、その土台にあるのは英語という言語についての構造を理解していること、その上でかなり長いエッセイの読解ができることだ。それは「文法」と「読解」である。つまり、現在の大学入試の英語で十分測れる。それに対して、「道案内」に毛が生えたような「僕はこういう映画を観たんだけど、あの俳優はとてもよかったよ」とかいうどうでもいい日常会話レベルの「話す力」を、なぜ大学入試で測ろうとするのか、まったく分からないのである。背景にあるのは、大学の大衆化だ。名前さえ書けば受かる大学がたくさんある。そういう学生はたとえ日本語でも、抽象度の高い語彙は持っていないから、英語でそういう話はできない。だが、実際に仕事の現場に立てば、英語でも中国語でも、それを使わないと仕事にならないというのであれば、必死に覚えるだろう。日本人が10年も英語を学んで話せるようにならないのは、そうしなくても生きていけたからだ。今は、そういう時代ではなくなっているのだから、別に大学に行かなくても、必要なら英語でも中国語でも話せるようになるだろう。大学入試共通テスト自体を実施する意義については、次回に。
2019.11.02
今日は、仕事は4時出勤8時退勤。昼寝をしてから出かけると調子がいい。その前に妻と整形に、6時半に診察券を出しに行き、順番をつけてもらう。20番以内だと昼くらいに行ってちょうどいい。
2019.11.01
昨日は、最初に30射連射で点を取ってみた。55-54-54-54-55=272。8点が5本、ということは10点が7本。やはり5mから狙うのとは大違いである。また、バックテンションも最初しか使えず、後はやはり当てることを優先して、フォームを崩しがちだった。10-10-8というのが数回あった。明後日からの3連休で何とかしたいのだが・・・
2019.11.01
さて、次年度から実施される「大学入試共通テスト」だが、基本的な骨格は、現在の「大学入試センター試験」と変わらない。世間は、変わったことだけを強調し、それが全体であるかのように騒ぎ立てるのが通例だが、そこは違うのだ。基本的にはマーク式の選択問題が主となり、それに若干の記述問題がプラスされる。その記述問題は、マーク式部分に完全に組み込まれるのではない。例えば、国語はマーク式200点に関しては、従来と同じ評論・小説・古文・漢文に各50点となっている。記述問題は、それと別枠で3題。こちらは、A~Eの5段階で採点される。それで、3問がA-A-Aなら満点、A-A-Bなら8割、などとなる。そして、ここからが肝心なのだが、この記述式問題に関しては、各大学がどう入試判定に使うかは、完全に自由なのだ。ある大学では「参考程度」という極めて曖昧な表現で、結局何も決めていないし、ある大学では点数化した上で、マーク式と合わせて得点率を決める。得点率75%なら、200点満点で150点ということになる。さらにそれ以前に、センター試験と同じく、国語なら国語の共通テストの点数をどういう比率で合否判定に使うかは、やはり各大学・学部に決定権があり、二次試験の配点が大きいレベルの高い大学では、国語の全体の比率が、二次の数学の大問1題分より低いこともある。東大が特にそうで、京大などの旧帝大では、二次配点の方が大きい。英語の外部試験に関していえば、そもそも参考程度であれ、合否判定に使用する大学は全体のせいぜい半分。使っても、例えば「出願資格」としていわば足切りの材料にしたり、「参考程度」であったりして、その比率は軽い。英語自体は、受験のキー科目であり、文系でも理系でもほとんどの二次試験科目となっているが、その中の「共通テスト」部分の比率は低く、「外部試験」得点となるとさらに低い。「外部試験」と大騒ぎしているマスコミは多分誰もこのことを知らないか、知っていても無視している。こう書いてくると、この制度の複雑さは一体何なのだ?と思うだろうが、それが当然だ。このわけのわからなさは、突飛な連想のようだが、年金制度に似ている。共通テストも年金も制度が複雑すぎて、ほとんど誰も理解できないのだが、とりあえず、自分に関わるところだけはしっかりと把握した上で、申請しないと支給されない、あるいは受験できない。そんな非生産的なことはやめよう、ということで、年金の方は、共済年金と厚生年金が一元化し、結局支給率は下がった。文科省は、シンプルな大学受験を共通一次試験時代から非常に複雑化する一方で、しかも受験生のレベルを下げている。これも一般には知られていないことだが、大学受験生の全体のレベルは信じられないくらい、各大学で下がっている。大事なのは「各大学」でというところだ。レベルの高い大学でも下がっているのである。理系では大学院進学が当たり前になっているが、以前の学部教育の水準が大学院の修士課程でようやくできるレベルになってしまっていると聞いたことがある。「受験地獄」という言葉は、いまや死語となっている。そうなると、たいした難しくもない大学で、参考程度にしか使用しない、英語外部試験の受験機会がどうこう・・・という議論全体が「バカみたい」に見えてくるだろう。大学受験を「お受験」のレベルで理解して、大騒ぎしているとしか思えない一連の「身の丈」発言をめぐる大騒ぎは、多分この一週間で誰も取り上げなくなるだろう。その全体を議論するとなると、制度が複雑すぎて、誰も見ようとはしなくなるからだ。しかも、年金問題と違って、テレビ視聴や新聞購読のボリュームゾーンにとって自らの切実な問題ではない。その世代は自分のように共通一次すらない時代に大学受験を経験した高齢者層であり、孫の小学校入学式くらいには喜々として参加するのかもしれないが、大学入試までは生きていないか、生きていてもちゃんと理解する能力はなくなっている。つまり、この話題は「地方で、予備校もなく、それでも一生懸命がんばっている受験生が、外部試験導入という暴力的な制度改革によって、大変な経済的負担を強いられ、受験機会さえ奪われてしまう」というテレビ視聴者の大好物である「お涙ちょうだい」的ストーリーにコメンテーターと称する正義の味方が憤慨してみせる、という「定型」には当てはまらないことが分かった時点で、それを消費しなくなるということなのだ。また、英語の外部テスト導入の本質を書くのを忘れていた。次回に。
2019.11.01
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