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高校時代のバスケットボールのOB・OG会を再編成するための発起人会があった。我々が高校生の時代といえば、もう50年近くも前のことであり、その当時は大阪府下の高校も100校を下回っていたという記憶がある。当時は、大学に進学された先輩が母校に来てコーチや基礎的なことを教えてくれたという記憶が今も鮮明にある。何度も書いた記憶があるが、当時の部員は、我々の学年で、7人ほどで、内1人は途中で止めて、実質6人で切り盛りしていた。ときに1年先輩や、後輩も入れて試合に臨んだことはあったものの、ほとんどは同学年の6人だけでの試合が多く、大阪府で準々決勝までしか進めなかったが、当時の大阪府のベスト5に同級生が2人も選ばれるなど、結構良い線を行っていた。その仲間も1人欠けたが、その他の同期生とは現在でも細々と交友は続いている。高校現役時代には、すでにOB会が存在して、卒業後OBとなってからも何度か母校を訪れたことがあるが、その後、世話をしてくれる人もなく、私自身も、岡山から千葉、東京と転勤を重ね、最後の数年間は海外に出ていたために、バスケットボール部のOB会がその後どのような経緯をたどったのかは全く知らなかった。このたび大阪に帰ることになって、手始めにバスケットの仲間と接触して、その後のOB会は、自然消滅的に無くなり、我々よりも若い世代が中心となって、新たに若いOB会を発足させたのだと聞いた。その若いOB会も何時の時点かで活動は活発でなくなり、何となく今日に至っていると言うことだった。以前はバスケットボール部に対して、学校からの援助も今よりは多く、何となく財政的にも寄付などを含め成り立ってきたようだが、今日の情勢は、それほど甘くなく、このままでは立ち消えになると我々の時代の先輩から声が上がった。我が高校のバスケットボール部の創部は、1922年に遡るのだそうだ。旧制中学時代のことで、我々が、府下の大会で準優勝以上を成してきた他の高校などは創立、70年周年とか80年周年とかで、未だに活動をしているということも聞いた。現在のクラブ顧問をしていただいている担当教諭からも、せっかくの歴史あるクラブを消えさせるのは惜しいと言う話もあり、このたび新しく規約を設け、新旧合同のOB・OG会を立ち上げることになった。梅田で集まって、立ち上げの準備会を行ったが、集まってくれた人は、女性2人を含め、8人であった。学校の先生をしている人が多く、行事などでなかなか時間が取れないと言うことではあったが、取り敢えず、立ち上げの総会の日取りと会則などを仮に決めて、全員に招請状を発送するという段取りまでになった。名簿上では、OBが610名、OGが270名と伝統があるだけに人数も多い。しかしながら、その内の100名程度は、住所が、最新でないものやら、不明のものが含まれているとのことだ。取り敢えず、対象全員に趣意書を発送する事にしたが、それでも入会するという人や、賛同する人の数は知れていると思う。私自身、こういった会合の役員を務めるなどと言うことは、かって無かったことでもあり、又得手とはしていないのだが、行きがかり上軌道に乗るまではということで、お世話をさせて貰うことにした。高校の現役時代に接触するのは、前後の2年間の先輩と後輩ということで、その後、母校に通うことがなければ、それ以前やそれ以後の人とはよほどのことがない限り接触がないわけである。今回も集まった面々は、後輩ではあるものの、社会的地位も確立して、なかなか立派になっている。運動部での先輩後輩のつながりは、一般の生徒などに比べると強いものがある。集まった中にもそれは強く感じられるものの、若くてもやはり出来そうな人間はそれなりの発言をする。僭越だが、任せておいても大丈夫との感触は持つのだが、ただ、忙しいという時間的な制約を如何に克服するかと言うことが少し気になった。取り敢えず今日の時点で決まったことを粛々と進めていくことで、高校バスケットボール部のOB・OG会を再興できればと考えている。
2009.09.30
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自由民主党の野党としての新総裁が谷垣禎一氏に決まった。対抗馬で立候補したのは、河野太郎氏と、西村康稔氏だったが、ほとんど下馬評通り谷垣氏には及ばなかった。河野氏は歯に衣着せぬ発言で、日本の政治を憂うると共に、自民党の老害体質を糾弾した。西村氏は当て馬と称せられ、大変不名誉なことと怒りを口にするものの、町村派からの刺客的存在であることは、明らかな感じである。ふたを開けてみれば、 総得票数 議員票 地方票 谷垣禎一 300 120 180 河野太郎 144 35 109 西村康稔 54 43 11 という結果で、年寄りは引っ込んで貰うという河野氏に対して、やっぱり「みんなでやろうぜ!」という谷垣氏が勝ってしまった。それにしても河野氏の自民党国会議員内での人気の低さ加減は想像以上であった。推薦人20人をやっと集めたと言うとおり、議員票は西村氏の43票を下回る35票でしかなかった。河野氏ははじめから議員票を当てにしていなかったとはいえ、地方票でも、西村氏に流れたわずか11票を取り込んだとしても、谷垣氏の180票に60票も差を付けられた形で、谷垣氏の「みんなでやろうぜ!」が圧勝したことになる。選挙前に3氏が選挙カー上で街頭演説を終えて、下で待ち受ける町村氏に迎えられたとき、町村氏は、谷垣、西村両氏とは固い握手を交わしたのだが、河野氏が降壇したときには、河野氏が差し出す右手に対し、握手を拒み、挙げ句の果てには小声で「人を中傷するのもいい加減にしろよ」と恫喝している。本人は小声のつもりであろうが最近の集音マイクは高性能で、その言葉をはっきりと公共の電波で全国に流されていた。あの、料理の使い回しで廃業した船場吉兆のささやき女将を思い出してしまった。河野氏は名指しで、町村氏の事務所(町村氏本人かどうかは分からないが)から、党総裁選では河野に入れるなとの電話があったと暴露、町村氏は、これを否定しているが、もしいわれのない中傷であれば、名誉毀損として当然法的手段に出るべきであり、そうしなかったということは、その事実があったからに他ならないと、我々国民は思うわけである。自民党の派閥はどの時点で切るかによって、その陣容は様変わりするし、今回のように多くの派閥の領袖が選挙で落ちると言うことになれば、その落ち着くところは不明であるが、今でも町村派と呼ばれる人たちが多数であるようだ。町村派の派閥の領袖の上のたんこぶみたいな森喜朗氏などが通ったと言うことは、私に言わせれば石川県民の良識を疑うと言いたいほどだ。2位の田中氏とはたかだか4000票ほどの差であるから変わったと言えば変わったように見え、流石の森喜朗氏も選挙終盤は心胆寒からしめたことであろう。勝った田中氏も、ホラー映画へのヌード出演等物議を醸しているわけで、その事自身議員の資格どうこうとは言わないまでも、何となく品格を問いたくなる相手である。(はやりの本的に言えば「議員の品格」と言うべきか)岡山で、姫の虎退治とかで当選した、「ぶってぶって」の姫井由美子氏を思い出させる。旧弊の老人に国政を任せるのも如何かと思うものの、かといって、ヌードやマゾも一寸考えものであるというところである。老害老害と言うが、果たして何歳をもって老害というのであろうか。また、若い人たちでというが若ければ若いだけで良いのだろうか。人間は人それぞれにDNAが違い、組み込まれた生命の期限も自ずと違っているが概して、歳を取ると物忘れがひどくなったり、耳が聞こえにくくなったり、目が見えにくくなるなどの症状が現れるものである。では何処で線を引くかは非常に難しいわけだが、因みに、今回の衆院議員で、70才以上は18人、65才以上は62人、60才以上となると140人もの人たちがいる。反対に40才以下の若手と言うことになると、91名という事である。その若手91名の内、自民党員は元総理の小泉子息他数名を数えるだけで、後は民主党ばかりである。これらの若手民主党に自民党のベテランは地滑り的勢いで敗北したのである。以前の選挙なら、楽々勝てたのにという人たちも多かったであろうが、今回は、そうはいかなかったと言うことで、自民党の総裁選挙=総理大臣という方程式は成り立たなくなって、長老達は、なりを潜め、傀儡的に党を操る側に回ったものと思われる。しかし、こういった意図が見え隠れする自民党はもう嫌だと言われているにもかかわらず、今回の総裁選挙となったわけで、清新さが一切見られない。谷垣氏は以前に総裁選で敗れているのだが、この後援会というか推薦者には、いわゆる老兵達が皆顔を揃えている。これでは、自民党が変わって「みんなでやろうぜ!」と叫んでも、国民はついて行かないだろう。次の参院選挙でも、このまま行けば、民主党が勝つと思われる。そのときになって初めて、気がつくと言うくらいに頭の中は50年の間すり込まれた自民党即与党という幻想を捨てきれないのではないか、と感じるほどである。これをもって老害というべきなのかも知れない。「みんなでやろうぜ!」が自民党の若手も入れてではあるが、過去のスラッガーも入れた、全員野球でやろうというのではなく、国民の声を良く聞いて、国民とみんなでやろうと言うことになって初めて自民党の存在価値と、二大政党としての意義が生まれてくると思うのだが。
2009.09.29
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父の眠る寺から郵便物が届いた。この間連れ合いに促され久しぶりに墓参りということで寺を訪れ、運良く住職の話を聞けてから、毎月信徒に送られている「如是」と呼ばれる浄土真宗の教えと、寺報のようなものである。今月送られて来た内容は、「歎異抄」第九条の若き唯円房と親鸞のやりとりを書いた部分で、唯円房が今更と思いながら二つのことを親鸞に聞くという段であった。その一つは、念仏を唱えてもいっこうに喜び(踊躍歓喜:ゆやくかんぎ)が湧かないと言うこともう一つは少しでも早く浄土に往生したいという気持ちが起こってこないことということだった。それに対し、親鸞も、「この不審ありつるに、唯円房おなじ心にてありけり」と応え、唯円房をいさめるどころか、私も同じだよと優しく諭すのである。また、喜ぶはずの心が抑えられるのはひとえに煩悩のためであるとも説かれ、我々のような、心をわずらわし、身を悩ませる欲望が備わっている煩悩具足の凡夫には他力に頼らなければならず、弥陀はそっくりこれを救おうとしておられると言うことを説かれているわけである。「大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらふ」と凡夫の往生は間違いないと保証されているわけである。歎異抄の第三条では有名な、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」というのがあるが、どんなに悪事を働いても人間は往生できるのだと言うことを教えているのではなく、善い行いをし、大いに修行をして、その結果で仏になろうとしている人達を仏教では善人(自力)といい、一方、自分でなんとかして仏になってやろう、という心を改めて、阿弥陀さまの力にお任せすることにして解脱しようとする者達のことを仏教では悪人と称してるわけで、悪人とは決して殺人や詐欺などをした人間を指すのではないと言うことだ。だから、念仏を唱えるしかないような煩悩具足の我々凡夫をも、阿弥陀さまは可哀想に思って、救ってあげようというもので、阿弥陀さまのお力にお任せする仏教上の悪人(不信心のもの?)こそが、一番浄土に往生するのにふさわしいということらしい。これを知ったときには私も一寸ほっとしたわけで、いかなる悪事や、どんな虚偽に生きた人間でも往生するのならば、こちとら真面目にしか生きられない人間などはあの世では、またまた浮かばれないと言うことになってしまうではないかという思ったからだ。いわゆる悪人というものはそれ相当に裁かなければならないというのが、現法治国家の精神であるからだ。やはりそういう人はあの世では少し小さくなっていて欲しいものだ。歎異抄は第一条から第十条までが親鸞の言葉で、第十一条から第十八条までが唯円の手になる異義批判ということである。従って、今回送られてきた第九条も親鸞の書かれたものである。第一条の前に、真名序という序があり歎異抄が書かれる目的や由来が書かれている。歎異抄の名は、「先師の口伝の真信に異なることを歎く」との意味である。親鸞の実子、善鸞が東国に起こった異端の教えを収めるため親鸞によって派遣されたが、これを収めることが出来ず、自らの称することが正説と唱えだし、親鸞により破門された事件があったという。今の政界における子供大事での二世議員の横行などは、この点を見習って欲しいものだ。こういった形で、歎異抄が書かれたわけだが、また、この「先師ノ口傳」の「先師」を法然と捉える説もある。そこでは嘆きの主体は唯円ではなく、親鸞となるわけだ。そもそも仏教とは532年に大陸から伝来したと教えられてきた。それが、物部氏の滅亡後、氏族の宗教から奈良時代に入り、国家的な宗教として元興寺をはじめとする南都六宗が起こる。鑑真和上の律宗などに代表されるようにこれら宗教は都市型のものであり、奈良の都には、東大寺や、唐招提寺などが建立されたわけである。これが次第に都市から山岳へと移り、平安時代の空海による真言宗(高野山)と最澄による天台宗(比叡山)が起こったのである。地方の豪族や民衆を対象とした真言宗に対し、独自の戒壇をもつ天台宗の流れをくむものとして、鎌倉時代の日蓮による日蓮宗と、法然による浄土宗がその後興るわけである。我が浄土真宗は、法然の流れをくむもので、ある意味、「歎異抄」は、難しい戒律の浄土宗に異議を唱えるために書かれたものかも知れない。私のように佐賀県平民(農民)出身のものには、難しい戒律などは到底理解できず、「南無阿弥陀仏」の六文字で救われるならそれが一番有り難いことだというわけだ。ところが、一旦「歎異抄」を紐解くと、その内容の難しさに、唖然としてしまう。真の意味で、これを理解しようとすれば、宗教的に論ずる前に哲学的な自分を確立していないと無理があるようだ。この浄土真宗はその後蓮如の浄土宗を経て、江戸時代前に西本願寺派と東本願寺派に分かれた。僧侶にその違いを問うたことがあるが、全く変わらないという。ただ教務(事務的な部分)の時点での相違だけのような答えである。宗教がお金に結びついたのはこの辺りからかも知れない。宗教法人は非課税という点から、雨後の竹の子の如く新しい宗教(といえるかどうかは疑わしいものが多いが)が林立してきた。姫が週間ダイアモンドの「新宗教(巨大ビジネス)」という冊子を買って見せてくれたが、神道系やキリスト教その他を含めなんと宗教法人として認証されている数は18万もあるという。信者数のランキングで見ると、神道系が6800万人であり、今回の衆院選挙で各地区に候補者を立てた「幸福の科学」が1100万人で2位だという。そして、政教分離を唱えているが、公明党の支持母体「創価学会」は830万人の3位を占めている。そこから10傑迄に、鎌倉時代まで遡ることが出来る古典仏教に属する宗派が、4つ入っているわけだ。なるほど巨大ビジネスである。人の心のよりどころが何処にあっても個人の自由ではあるが、新興の宗教の中には、巨額の寄付金(浄財と称するのか)を集め、目も眩まんばかりの豪壮な箱物(コンクリート造りの仏閣?)を建てているところがある。宗教法人に対する無税扱いは、この時勢なにやら違和感を覚えるのだが、この点だけは、誰も表だっては議論しない。私などは、正月に神道でもないのに、神社や寺にお参りすることがあるが、そのときでもお賽銭箱を置いているのだが、どうにもこの浄財の使途に考えが及ぶと、浄財を投げ入れることが憚れてしまう。弥陀のお教えは私の属する宗派では、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」で良いわけだから・・・。
2009.09.28
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中学、高校時代の友人であり、バスケットボールで共に過ごした友人が関西学院で、グリークラブに入部し、その110周年記念フェスティバルを開催するという葉書を貰ったので、出かけた。1899年に新築間もない講堂から男性四部合唱が流れたのがグリークラブの始まりだという。友人は関学に入ってバスケットではやっていけないということで、合唱を選んだようである。以来今日まで、合唱をし続け、今では、関学グリーのOB会である「新月会」に所属して演奏をするほか、地域の合唱団のリーダーとしても合唱活動を行っているようである。今回の110回のロゴは、11とその右に三日月をまあるくした中に塔と木を配したものをゼロと見立てて作られていた。関西学院は、プロテスタントのミッション系の大学である。呱々の声は原田の森で、今の王子動物園のある当たりで挙げたのだという。又校章である三日月のいわれは、新月が満月へと刻々と変化するように、関西学院で学ぶ者すべてが日々進歩と成長の過程にあることを意味すると共に、月が太陽の光を受けて暗い夜を照らすように、神の恵みを受けて世の中を明るくしてゆきたいとの思いを表わしているとのことである。余談だが、三日月は、イスラム教のシンボルである。月を行動の基点にしているイスラム圏では、三日月はその象徴であり随所に使われている。赤十字という世界的な、人道的活動を行う機関があるが、これが設立されたのは、1863年であり関学よりも旧い。このとき、十字というのはかつての十字軍を想定し、嫌われたイスラム圏では、新月をその紋章として「赤新月の標章」としてそれを採用している。サウジアラビアなどでは、モスクは勿論、病院でも皆この三日月の紋章を尖塔の先に掲げているのである。関学発祥より以前に決まっていた三日月のシンボルを何故関学が採用したのかは私にとっては謎である。関学がキリスト教のミッションスクールであることを考えると、イスラムの紋章と同じ新月を採用したことに対して、軽い驚きを持ったのである。トルコや、パキスタンなど三日月を国章にあしらった国は、例外なくイスラム国家である。関学の場合は学ぶ者すべてが日々進歩と成長の過程にあることを意味するとしているので、学生のためには三日月でも、その卒業生は新月会と言うよりはむしろ満月会と称した方が当たっているのではないかと感じたわけだ。新月会のパート構成者の中には、テノールで85才になられる方もおられるようで、各パートとも80前の人が最年長の会員になっておられる。我が同期の友人は、ベースを担当していて、構成員の中ではまだ中堅どころのようである。我々はまだ新月に毛が生えたようなものだが、85才とも成ればもう満月に近いのではないかと思うわけだ。今日のフェスティバルは、関学の高中部礼拝堂で行われたが、案内には、甲東園から近いように書いてある。徒歩で12分とあったので、まあ歩けるだろうと駅から歩いて向かったのだが、何しろ葉書に書かれた簡便な地図には、その高低差は記載されていなく、結構急な坂に、残暑を浴びての登り坂は堪えた。上り詰めると小高い丘というか、台地のようになっていて、近所には他の高校や中学などもあり、周りは閑静な住宅街であった。こういった学舎としての環境を見るに付け、最近では、京都大学や、京都工繊大学、龍谷大学などを訪れたが、皆閑静なたたずまいで、こんなところで学問にいそしむと、さぞかし立派な人材が育つのではという思いがする。私が通った大学では、教養学部の1年半を除いては、都会のまさに風紀の悪い、空気の汚れた場所で教育を受けたので、その差は大きいと、何時も感じるのである。話は飛んだが、フェスティバルでは、中等部から高等部、現役の大学グリークラブとその卒業生である新月会の個々の演奏と合同演奏である。勉強に忙しく、運動部と掛け持ちが多いという中等部の子供達は、10名程度であるが、高等部で30数名、大学は60名ほど新月会に至っては、名簿では100名を超える陣容であった。合同演奏で舞台に並んだ4列の数はざっと120-130人は居たであろう。そこから出る声は、迫力満点であり、素晴らしい演奏会であった。とは言っても坂道をたどり着いて疲れていたのか、前半の休憩までの曲はほとんど覚えていないくらい居眠りをしていたのであろう。一緒に来るはずだった連れ合いも、梅田までは来たものの、やはり駄目だということで、Uターンして帰ってしまったので、寝ていても横でつついてくれる人がいなかったせいもある。休憩時間をはさんでの後半の演奏は、全て楽しき聴かせて貰った。「海へ」という曲は、大海原の波の様子を力強く感じる、迫力のある合唱であった。中には、加山雄三の「君と何時までも」という聞き慣れた歌謡曲も含めて、楽しい企画となっていた。演奏会場になった礼拝堂は、7-8人が座れるベンチ式で、総員で何名の収容かは分からないけれど、二階の袖席を含めて超満員の盛況であった。演奏会が終わり、玄関を出がけに、友人と会い、素晴らしかった演奏会をたたえたが、何時も演奏会にかり出される同じ高校の同期生にも会い、しばし言葉を交わして帰途についた。連れ合いの様子が気になり、何回かメールで交信したが、姫が来てくれたと言うこともあり、またすぐに返事が返ってくることから、少し安心する気持ちになった。
2009.09.27
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「あすへの話題」は各界の著名人が思い思いの事を日経新聞の夕刊にシリーズで書かれているコラムで、昨日は日立製作所の小泉氏の「知的財産権」についてであった。特許制度はその代表的なものであるが、この特許は、元々「補償」という意味合いであり、先陣をかけて発明に苦労する人や企業は、リスクの高い投資をしているわけで、実用化後の一定期間、特許報酬で補償するという考えのものだ。従って、発明者が特許報酬に必要以上に固執することは、特許制度の精神に反する、と主張されていた。氏が紹介された、磁気共鳴画像装置(MRI)を発明しノーベル賞を受賞した、ポール・ローターバーという人は、「学術的な研究成果は人間の財産であって、個人が儲けるべきではない」との精神から特許は一切取らない方針であったという。また、キュリー夫妻もラジウムの発見で、特許取得について悩んだが、結局取得を止めることで、ガンなどの放射線治療を速やかに普及させる結果となった。氏自身も過去四百数十件の特許を出願してきたが、「これらは多くの人にお世話になった結果であり、個人への特許報酬は地味なもので良いと思う。」と結ばれていた。特許の価値で、個人に支払われる報酬が問題になって記憶が新しいのは、青色発光ダイオードの開発で日亜化学工業とその社員であった中村修二氏との係争である。司法は一審で、その対価200億円の支払いを命じたが、日亜化学工業の控訴で、結局、発明者の中村氏は8億円4000万円もの多額の報酬を得る結果となった。中村氏は小泉氏の主張とは全く逆の行動を取ったわけだが、正直私にはどちらが正しいやり方であるのか判断に苦しむ。私などが過去数件出願した特許などは、特許にも値しないものばかりだったが、特許の意味合いは、先行投資とリスクへの補償という意味で、数多く出すことを進められた。1件などは他社とほんの数日間の受理の差で、勝ったこともあり、もし、先に他社がその特許を先に取得していたらはじき出されるか、ライセンシーとして膨大なロイヤリティを支払う羽目になっていただろう。国内でもそういった熾烈な戦いがあり、どちらが先に特許を取得するかで、極端な場合会社の命運が掛かることもあるかも知れない。これが、海外相手だと、さらにその度合いが厳しくなるであろう。中国のような、なりふり構わぬ、海賊版の横行などは、目に余るものがあるが、何処かの知事が言ったように、「民度の低い国民性」依拠する故であることに間違いない。こういった、多数の無頼の民を相手にするのでは、法も何もあったものではないが、最近は中国もWTO加盟と言うことで、表面的には、これを抑圧する方向に動いているようだ。中国という国は、表面と実際やることとの差が180度違うことがある。中央政府は禁止の態度を取っているふりをするが、実際の現場では何ら規制もないということも大いにあり得る。あるテレビ番組で、中国人女性が、海賊版の件について感想を聞かれたとき、「日本もアメリカの真似しでここまでになったんでしょ、今中国はそれをやっているだけよ」との発言であった。全く無知蒙昧というか、その女性が中国の代表だとは必ずしも言えないだろうが、概して、考え方を代表していると考えて間違いないだろう。中国のえげつなさは、「SONY」を「SQNY」としたり「Shiseido」を「Shinseido」と書いたり「三菱電器」を「四菱電器」と称して、三より四の方が数が多いから良いのだという理屈や、「CocaCola」を「CacaCala」と称するなど、それはもう無法地帯というか、笑えてしまうほどだが、それでいて平気な上に、かの女性は「中国は発展途上国だから、みんなでガンバレ、ガンバレと応援して下さいよ」と冗談とも言えない言葉を発していたのである。最初の話題からそれてしまったが、特許取得に当たっては、相当額の先行投資を必要とし、日亜化学工業の場合も3億から5億円の投資を先の成果が見えない段階で出しているのである。中村氏の力を持ってして、巨額の売り上げを得ることになったわけで、その結果を司法が判断したのだから、それについては何も言うことはないのだが、中村氏の言うように、技術者軽視、会社の経営1番であることは、考えなければいけないと思う。発明や特許に対する対価が概して低かったのが、この件以降見直されたのはよいことだと思う。日本の会社は、技術者に対しての評価があまりにも低く、技術者はあまり自己主張をしない人が多い。自分が取り組んでいる課題を何とか克服しようと言うことに専心し、悪く言えば会社の経営や、社会の流れに疎いと言うことかも知れないが、ホリエモンなどのように金儲けに頭を使いすぎて、サイバーに似た世界で巨額の金を動かすなどと言うのは、製造業に携わった者の価値感としては全く考えられないことである。旧海軍文官上がりの父などは、かつて、「会社を設けさせて、その利益の一部を戴くのが、技術者のつとめ」的なことを言っていたが、敗戦退役後、特許を取得したのかどうか不明だが、ある発明で勤めていた会社に大いに貢献しながら、なかなかそれに見合う報酬を得なくても我慢強く生きていた姿を思い出して、複雑な気持ちである。
2009.09.26
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この10月1日で中華人民共和国は建国60周年を迎える。中国4000年の歴史と言うが、近代・現代を捕らえると、漢民族による明が滅び、満州人の清が日清戦争後滅んで、中華民国が成ったのが、辛亥革命後の1912年である。その後の列強支配や、第二次世界大戦を経て、再び漢民族により、1949年に国内戦において、毛沢東率いる中国共産党の中国人民解放軍が、蒋介石率いる中国国民党の中華民国軍に勝利し、共産主義政党による一党独裁国家である現在の中華人民共和国が成立し、台湾と福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治国土を制圧したのだ。私が1ヶ月間ではあるが、福建省の福州市に滞在したときに、路傍に立てられた看板に、毛沢東が国内戦のために国内の全土を行軍したその軌跡を書いた看板が立っていたことを思い出す。そのとき、巨大国家中国は私よりも若いのかと感じたのが印象だった。定かではないのだが、そのときは、毛沢東指揮下の共産党軍は広大な中国全土をくまなく回っていた印象を受けたが、その行動範囲には、西のウルムチ、南のチベット地区と、長江の発する地域の青海までは入っていなかったように記憶する。それまでも非漢族居住地たるモンゴル、チベット、ウルムチなどの支配を目論んでいたが、現在の中国の西半分等は、毛沢東は通ってはいないという事だ。しかしながら、その他の地域では、行きつ戻りつ、各所でゲリラ戦を展開して、最後には勝利するというような内容の看板だった。元々の発想は、清朝の領域をその範囲とすることであったが、どさくさに紛れ、満州国を併合、モンゴルを手にし、チベットを勝手に併合して、さらには東トルキスタンと呼ばれた、イスラム圏のウルムチまでもその傘下としてしまったわけである。これらをもって、既成事実とする所など、既得権益を主張する我が国の官僚天下りの発想の国際版でもあり、人間の陥りやすいところでもある。とにもかくにも、これらの既成領土と化した地域に触れると、中国は烈火の如く内政干渉だと騒ぐわけで、今や実質的にGNP世界第2位の地位を得るに至る超大国になっても、別な顔は、未だに途上国という面があるわけである。この両面を中国は巧みに使い分け、日本などからは未だに援助金がODNという形で流れ込んでいるのである。日本の援助の目的は、これら本来の中国へではなく、貧困地域への支援のはずである。しかし中国はこれらの援助を貧困地域の改善には使っていない。中国からすれば、西気東輸や西電東送などで知られるように、貧困地域の資源だけを本来の中国に送らせる、ガソリンタンクや発電所のような考えでしかない。青蔵鉄道なども、真にチベット地区のことを考えたものではなく、多量の地下資源と共に、安い労働力を東海岸に運ぶ手立てとして作られたものであり、またこれにより漢民族がこの地区に侵入し暴利を得るという構造になっている。こういった貧困の国民を大量に擁しながら、世界第2位のGDPを誇っているという意味は、貧富の格差が如何に大きいかと言うことを意味している。こういった中、中央政府は、民主的な手続き無しで、54兆円もの財政出動をして、景気を維持したり、8000億ドルを越える米国債を保有し、このカードでアメリカ及び世界を動かしているわけである。毛沢東時代は、現状を無視した、共産主義国家建設を掲げた大躍進政策で、2000万人とも5000万人ともいわれるが死者を出したり、紅衛兵で有名な文化大革命と呼ばれる悪政で、推計で約3000万人-約7000万人といわれる虐殺者を出した。現代中国政治を専門とする政治学者の中嶋嶺雄は中華人民共和国が建国後、起こした人民への弾圧・迫害・虐殺 行為など犠牲者総数は2億人前後に及ぶと推計しているというからその驚きは筆舌に尽くしがたい。これは日本の総人口をほぼ2回通り殲滅するに等しい数字である。その後、トウ小平の時代に入り、政治体制は中国共産党の一党独裁体制ではあるが、経済に関しては市場経済導入などの開放政策を取り、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。この間の急激な経済成長で一層の貧富差の拡大や環境破壊が問題を起こしている。なりふりを構わない、公害のまき散らしと、知的財産権など何処吹く風の、劣悪虚偽コピー商品の氾濫など、目に余る状態である。政治的にも、凶悪な性質の牙をあらわにした、1989年の天安門事件などでは、報道規制が引かれた関係で定かではないが、数万人が殺戮されたという記事もある。こういった目的のためには手段を選ばない、中華思想の国家が、来月で還暦を迎えるわけである。アメリカ離れをするわけではないが、親中派の「友愛」を旗印の鳩山民主党も、当然この辺の事情を踏まえてのことであろうが、ゆめ、全面的な信頼を置いて一方的友愛に走ってその手痛いしっぺ返しを食わないように肝に銘じて欲しい。中国は日本の10倍の人口を抱える国である。頭の良いのも10倍いれば、凶悪なのも10倍いると言うことである。、
2009.09.25
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今日は毎月一回行われる定例のゴルフコンペの日だった。今日のコンペは、我が同期の友人が、白血病から復帰し、9ヶ月のブランクの後に再登場するという記念すべきコンペの日である。友人は半年にわたる入院生活とその後プールなどでの体力回復のリハビリを続け、以前に連れ合いと先輩で復帰記念ゴルフを共にし、その後、高校時代の同期会にも参加しているので、復帰後のゴルフという点では、3回目である。100kgを優に超える体重は入院後20kg近く落ちたものの、再びリバウンドして、今はそれでも5-6kg近くは減量していると言うが、抜け落ちた髪も普通になり、見た目には病人であったことは感じさせないまでに回復している。初秋の候で、一頃より凌ぎやすくなったせいか、コンペは近来になく34名という多数の参加者があった。その中には、友人と同じく、ガン復帰の人もおられた。その方は膵臓ガンであったというが、3回ほど前から継続して参加されている。確か、復帰の日の組合せは私と一緒だったことを覚えている。今日の組合せは、また、ガン復帰の友人と、練習を良くされるという上手なご婦人の3人であった。場所は同じく高槻カントリーで、もうすでに13回通っている。ほとんどコースの状況は分かっているつもりだが、それでもバンカーの位置や、グリーンの様子など細かいことはその場所に行かないと分からないところがある。我々はインからのスタートで、2組目に出発した。3人で、しかも女性が1人いるので、レギュラーティーからは友人と二人だけのティーショットということになる。友人は元々入院前は、仕事の関係もあって、ゴルフを年60回以上はするという生活を送ってきたという。従って、常に80台で回り、時には80の前半でプレーすることもあったと言うから、尋常では歯が立たない。別にずるい気持ちではないが、彼が休んでいた9ヶ月の間に私は、相当数ラウンドしているので、この期にグロスで勝ちたいと思っていた。行きの車の中では、「今日は負けるかな」と彼は言っていたが、このコンペの前の最初の、連れ合いも一緒の復帰歓迎ゴルフでは、私が96と、彼の99を上回ったが、2回目の高校同期会では、彼は同じ99に対して、私は109を叩いてしまい負けていた。そんなこともあって、今回はまだチャンス有りと内心は思っていたのである。スタートの10番ホールでは、彼がトリプルを叩きこれはいけるかなと思ったが、前半の14番打ち降ろしの池越えショートでは、今までやったことがない左に引っかけ、谷底に落ちるOBとしてしまった。前の池を気にしたことは確かだが、思わぬ当たりに面食らった。ここら辺たりから私の調子は狂いだしたのか、16番ではティーショットはまずまずの当たりだったにもかかわらず、セカンドショットは、右に出て、OBかと思わせる感じだった。「突き抜けたかも」という同組夫人の言葉で、一寸気落ちして、暫定球を打った。何とこれは、明らかにさっき以上にOBコースを飛んでいった。「おい、落ち着け!」と友人の声が聞こえ、さらに2球目の暫定球を打った。最初のボールに希望を繋いで、山の斜面を探し回ったところOB杭の手前に私の第1球目のボールが有るではないか。「セーフだ!」と言って、3打目の暫定球を拾ったが、2打目は無意味になくしてしまった。セーフになった第1球も、打ちにくい山の斜面からで、一寸スタイミーな前方にある松の小木の間を割るようにしてグリーン横70ヤードまで付けてやれやれと思ったのもつかの間、詰めのアプローチで狂ってしまい、またグリーンを行ったり来たりと、上がってみれば、トリプルボギーとなってしまった。続く17番ホールでは、2ンドショットを今度は本当に左にOBしてしまい、これもトリプルボギーとしてしまった。前半最終ホールでは、ティーショットはお互いに良かったが、2ンドで、友人は左にOBとする間、私ままずまずだったが、最後の池越えで、かろうじて池は越えたのだが、坂道を戻って池に入ってしまった。友人も何故か、池に入れてしまい、私のダブルに対して、彼はトリプルボギーとなった。こんな風に前半私は53,彼は50と3つも離されてしまった。中途半端な休憩時間をはさんで、後半のアウトをスタートした。後半の私は見違えるような出来で、最初の2ホールはパーで上がり、3番ホールはボギーであったが、当然はいるべきパットを逃すなど、惜しい展開だった。友人は、敵に塩を送るわけではないが、私のパットの狙い方を逐一指南してくれて、そのため今まで多かった3パットは1回に減り、しかも1パットで入りそうな惜しいパットが多くなった。5番でも惜しいバーディーを逃し、7番では惜しくも外してボギーとするなど、惜しいパットが続いた。ダブルボギーとなったのは、8番のショートホールで、一寸当たりが悪く、手前のバンカーに入ってしまった。いつもなら簡単に出るバンカーショットを痛恨の2回出だす羽目となり、後半初めてのダブルボギーとなった。しかしながら、最終ホールではティーショットも2ンドショットも共に良い当たりで、残り140ヤードを5Iで軽く打つと、グリーン横の一寸した瘤の上に止まった。そこからパターを使って寄せるつもりが、ラインにのりそのままチップインバーディーとなった。今日初めてのバーディーであり、ロングホールではおそらくこういったことは過去になかったように思う。上がってみると、自己最高の41で後半だけでは43の友人に2ポイント勝ったが、トータルでは惜しくも1ポイント負けてしまった。タラレバは言っても始まらないが、前半のあの乱れのOB2回と池ポチャが、またOBまがいから救われたグリーン周りでもう少し普段通り落ち着いていたら、軽く1-2ポイントは減っていたはずで残念だった。しかし、私のハンディー友人の倍ほど有るので、これは優勝も可能だという話になり、しかも、前半53が後半41に改善され12の大波賞も有りそうだと言うことになった。ゆっくり風呂に入り、優勝の弁などちょいと頭をかすめたが、表彰式になると、何とグロス80で回った人がいて、ハンディキャップの差を考慮すると、2回前のコンペのように、またまたどうネットになり、ハンディーの多い私の優勝はなくなった。さらに12の大波は、その上手を行く膵臓ガンから復帰の方が14と言うことで、これも流れてしまった。途中に立てた、ドラ短の旗も、塗り替えられ、準優勝の他はバーディー賞を受け取るだけになってしまった。今回の準優勝で、ハンディーは20となってしまい、今後の優勝は少し難しくなった。ハンディーが1回で1ずつ上がるのを待たねばならないかも知れない。しかし改良の余地は、見えているため全て巧く運ぶと、まだチャンスはあると思っている。それにしても、ガンを克服した友人にグロスで負け、大波賞を期待したのをガン克服の人に負けるなど、逆を返せばガンは今や治る時代になり、現に治ってなお活躍している様子を見ると頼もしい感じを受けた。連れ合いの若い友人であり、今や私とも共通の友人の女性も乳ガンで闘病中であり、相当に回復したと聞いている。乳ガン発見から約1年になるので、もうすぐ今日の同期の友人達のように復帰出来てまた頑張れる日が近いことを期待すると同時に、必ず回復するという気持ちを強く感じた。
2009.09.24
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今日は秋分の日、シルバーウィークの最終日である。夕方、連れ合いを駅まで送る以外は一日中家にいて、久しぶりに集中して読書をした。シルバーウィークは、5月のゴールデンウィークに比べて、一寸短いという意味でのシルバーと言うようだが、いったい誰が名付けたものやら、私などは、月曜日に敬老の日があるからそれを含んだ週ということで、シルバーウィークというのかと当初は思っていた。しかしそれもつかの間で、そんな訳はないということが分かったわけだが、若い人たちというか世の中は全て、長い連休期間と言うことだけで、その休みがいかなる意味を持っているかを考えることは、最近少なくなったようだ。ハッピーマンデー制度とか言う、法改正で、重なる休みを解消するために、国民の祝日の一部を従来の日付から特定の月曜日に移動させ、休日を増やそうとする結果起こる連休である。移動された国民の祝日には、1.成人の日、2.海の日、3.敬老の日、4.体育の日の4つがあるそうだ。成人の日は小正月であり、元服の儀がこの日に行われていたというので、従来1月15日に行われていたが1月の第1日曜に固定された。海の日は明治天皇が「明治丸」による東北地方巡航から帰着した日で、その日は7月20日だったが 何時行幸が終わったかなど問題ではないと7月の第3月曜日に変えられた。敬老の日は奈良時代の元正天皇が養老の滝に御幸した日との説があり、9月15日だったのが9月の第3月曜日に変わった。そもそもこの日をもって敬老の日などと言うが、何をもって敬老と関係があるのかがよく分からないし、若者にはシルバーウィークを構成する、とにかく休みという意味以外はなさそうである。 高齢者団体が日付の移動に難色を示したと言うが、この意味も分からず、2001年に法律を改正して9月15日を老人の日、同日より1週間を老人週間としたというのだ。老人の定義はあやふやだが、後期高齢者を75才以上にしたときに、65才以上は前期高齢者になったと聞く。私も、もうすぐ前期高齢者になるわけだが、今回のシルバーウィークの中心を成す一つの休日として、扱われている。また、2003年には9月の第3月曜日(21日)が敬老の日と変わったわけで、その意味では9月22日は老人週間の2日目になるのであるが、連れ合いと友人の刺繍展を見に行くために電車に乗ったが、おそらく動物園に行くのであろう子供連れが、幅広いシートを占領し、私たち老人?に席を譲ろうなどとは一切考えていないようだ。地に落ちたこの倫理観を嘆くべきか、我々はまだ老人までは2ヶ月を残しているため、若いと見なされたのか、おそらくは子供連れは後者と考え、我々は有資格者ではないというとこら辺で納得する以外はなかった。体育の日は東京オリンピックの開会式 であった10月10日を10月の第2月曜日に移動したと言うことである。歴史的事実を動かしてでも連休を作るという考えは、変だと思うが、連休を作るといった観点からは、合理的というべきなのであろうか。また今年の敬老の日は9月21日(月)に改正された訳だが、天文計算上どうしても今年の秋分の日は9月23日(水)となるため、両日に挟まれた9月22日(火)が「国民の休日」となったのだという。変更された4つの祝日は、体育の日が若干の制定当初の意図とはずれているものの、他はいつでも良いという感じだ。特に敬老の日は、今になっては年中そうして欲しいと思う。秋分の日は天文学上昼夜の長さが等しくなる日と言われているため、これを動かすことには、いろいろと問題があるわけで、合理性を容れられない所以であろうこうやって、祝日を連続させて、働き過ぎの日本人を休ませようとした背景には、アメリカの意志が働いているという。彼らに、日本の事情が分かるわけもなく、例えば11月11日であるアメリカの退役軍人の日を11月の第2月曜日にしたらといった類であろう。しかし受ける方の日本人も、そのいわれなどはもはやどうでも良く、とにかく土日と連続してどれほど休みが取れるかの方が重要になってきている。このようにして、この週シルバーウィー期は起こり、狂気の民族大移動で海外旅行や、行楽各地への高速道路および新幹線の混雑が発生したわけである。その喧噪も、今日で終わり、明日からの通常生活が戻るわけだが、さらに明日と明後日の木、金に追加の休日を取り9連休にする人たちもいるのだという。我々の若い頃に比べるとなかなか考えられなかったことが、今は国を挙げて行われているわけだ。今日はシルバーウィーク最終日で、二十四節季で秋分に当たり七十二候で言う、初候である。「雷乃収声」(かみなりすなわちこえをおさむ)と称して、雷が鳴り響かなくなる候になったということである。これからは秋の夜長を、読書でもしながら、室内の暖かさを有り難く感じながら過ごす季節となる。読み始めた本は、NHKのアラビアの世界の講座の一貫で、10月から始まる、「文学から見る現代アラブ世界」に最初に紹介されたマフフーズの著書「バイナル・カスライン」である。マフフーズは、イギリス人にとってのディケンズ、ロシア人にとってのトルストイ、フランス人にとってのバルザックと並び称される民族作家であるとのことだが、如何せん、日本人にとって、中東アラブは遠い異国であったためその名を聞くことがなかった。また、マフフーズは第二次世界大戦後のエジプト文壇の第一人者であるということだが、今まで、私は、西欧側の文明から見たアラブ世界しか知らず、逆の側の視点から見る世界史は、如何様なものであったのか、すなわち旧宗主国であったイギリス側からのエジプトは知らされているが、エジプト側からのイギリスはどうだったのかを知る手立てになるのではないかと思っている。例えば、十字軍なども、西洋側からは、聖地を奪回する勇猛な騎士団との印象であるが、アラブ側から見た十字軍はそういった面とは違う側面を持っていたことがよく分かる。中東の括りはいろいろあるが、24ヶ国、4億3900万人を擁する地域であるという。日本の4倍近い人口を持つ諸国が、これからの多極化した世界の動きを左右する一つのキャスティングボードを握る事は必定で、現在でもすでにこれらの国々が、アメリカをはじめとする西欧世界の対峙点としてのスタンスを強固にしつつある。アラブという世界を又中東という世界を、今までになかった裏側から見ることが出来るかと、次月からの文学作品の講座を楽しみにしつつ「バイナル・カスライン」の上巻をやっと読み終えた。
2009.09.23
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月1回の歩こう会で連れ合いと共に知り合った人の刺繍展があるということで出かけた。その女性は、ゴルフの会にも出られているので、ほぼ毎月1回のゴルフと1回の歩こう会でお目に掛かることになる。連れ合いの方は、まだゴルフの方には参加していないので、この2月からの歩こう会で知り合ったという間柄である。歩こう会は、いろいろな経歴の人たちがおられるようだが、夫婦で参加されたり、寡婦になった方も参加されているので、結構女性達同士は気があっているようだ。この間も女性達だけで、おしゃべりとおいしいものを食べるために能登川に出かけたようだ。連れ合いはその中では一番若いのであるが、巧く話を合わすというか、聞き上手と言うことも有ってか、短い期間で良く溶け込んでいて、流石だなぁと思うことがある。今日の刺繍展も、女性達の中で話題にされていたらしく、そのとき案内の葉書を貰ったのがきっかけである。今日と明日開催される刺繍展は、阪急王子公園駅前の原田の森ギャラリーでの開催ということである。葉書には、その刺繍教室展の先生は傘寿を迎えての感謝の作品展だと書いてあった。私は来たことがなかったが、ここは王子動物園があるところで、シルバーウィークと言うことも有ってか、動物園目当てであろう、電車の中には子供連れの親子が大勢乗っていた。駅を降りて王子動物園の側を数分歩くと道路脇には、動物園に入ろうとする車が延々と続いていて、原田の森ギャラリーを遙かに超えて並んでいた。ここは元々県立の美術館であったのだが、阪神の岩屋付近に新しく県立美術館が出来たのを機に、分館ということになったようだ。連れ合いは何度か来たことがあるらしかったが、隣に修復中の神社がある、外見は薄汚れた建物だった。中に入ると真ん中のホールではなにやらイベントがあるらしく、派手に着飾った人たちが練習をしている姿にであった。刺繍展は東側の館で行われていた。館にはいると、壁一面に刺繍の作品が展示されていた。又、テーブルの上には、布に刺繍されただけの作品が置かれていたり、中には傘に刺繍したものも配置されていた。壁の作品は、装丁されて額に入ったものであり、こちらの方は見応えがあるものだった。さて、先ず知り合いの人を探したが、2階にいるかも知れないと言うことで、先に2階に上がった。知り合いの人は、同級生と話し込んでおられたので、軽く挨拶を済ませ、本人作の作品を教えて貰った。2階に1点、1階に2点の合計3点展示されていると言うことだ。このとき連れ合いは、梅田で降りて買った手土産を渡したのだが、梅田でわざわざ降りたのは、出かけるときに昨日、このために買っていた手土産を忘れてしまったからだ。2階の作品は、鶏頭やいろいろな花を積んだ花馬車を覗き込む親子や、駆け寄る子供達それを見上げる犬などが、メルヘンチックに描かれた何ともほのぼのとする内容だった。馬の茶色や周りの草花も、グラデーションが付いていて細かい作業であることを感じさせると共に、内容は何とも言えずほほえましい。これらの作品は最近のものではなく、20年も前の作品だといわれた。現在作成中のものは今年末の展覧会に出す予定だと言うことである。2階を一渡り見ていると、もう一人歩こう会のメンバーの女性が見に来られていた。しばらく会話して、先に1階の作品を見に降りた。1階にはコーナーに2作品が置かれていたが、1つは、豪華な衝立の中に入れられた立派なもので、昔作ったとは思えないように色が褪せてもいなく綺麗な色調を保っていた。家と道をこれもおとぎ話風に重ねた作品であり、一針一針が丹念に刺されていた。もう1点の壁に掛けられた方は、田舎の農家と田んぼをイメージしたもので、そこには川が流れていて、一寸見ると中国の墨絵のような風景を描いたものであった。真ん中に牛と農夫がユーモラスに配置された作品だった。他の人たちの作品には丹頂鶴や、小鳥をモチーフにしたもの、お城を描いたものなど、種々様々であるが、いかにも時間と根気がいりそうな作品ばかりであった。中には、端午の節句の兜を刺繍していたのもあって、姉も同じような図柄の刺繍をしていたことを思い出した。2階で出会った歩こう会の女性も一時刺繍されていたとかで、ほんの少し刺すのでもとても時間が掛かるのだと教えてくれた。とても自分には出来ない仕事だなぁと変なところに感心しながら見て回ったのだが、傘寿の先生はまだ刺繍をされているのだろうか、とにかく女性は何処か男性にはない根気を持っておられるようだ。そろそろ帰ろうかと、知人の女性に声をかけると奥でお茶でも飲んでいって下さいということで、もう一人の女性と共に奥で茶菓子を戴いた。ひとしきり話し込んで、作品展を辞去した。人生晩期になって、刺繍をしたり、ゴルフをしたり、時には歩き、旅行にも出かけられると言うことは、幸せな事だと思った。帰りは梅田で降りて遅い昼食を採ってから直接帰宅したが、連れ合いは夏ばて後遺症なのか元気がないのが少し気になるところである。
2009.09.22
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前回同じ連れ合いの学校の先生達と雨の中を三田27でラウンドして以来、同じ組でラウンドするのは3回目になった。今日は、「処暑」を終え、「秋分」の前の秋の初め、「白露」の候でさわやかに晴れ上がった青空で、前回と打って変わったゴルフ日和である。この前のお釣りを返して貰わねば、割に合わないという点では、望んでもないお天気になった。今日は、先生の会員コースであるベニーカントリーでのプレーだった。第一回目の時と同じコースで、多少はコースの内容も分かっているつもりだし、何しろあまり汗をかかなくても済みそうなのが有り難かった。ベニーカントリーは我がマンションの裏山に位置する。朝8時のスタートにも、十分余裕を持って出発することが出来、何より交通渋滞のことを考える必要は全くないのが有り難い。連れ合いと2人で、7時過ぎに出発し、スタート30分前には到着した。しばらくして、後のメンバーも到着したが、今日は敬老の日ということで、敬老の日コンペが開催されるようだった。人のことは言えないが、心なしかお年寄りの数が多い。開始前に打ちっ放しの練習が、無料で出来るのは、私が知っているところではここだけで、これが朝の体ほぐしにはもってこいである。十数発のドライバーを打った後、パターグランドで、パターの練習をし、スタートの時間となった。コースへ向かう道の脇には、キンモクセイが植えられ、甘い香りが、秋の訪れをなおいっそう感じさせた。連れ合いは左肩も痛むし、疲れが溜まっているようで、本調子ではないが、学校の関係者との約束でもあり、断るわけにもいかないと言うことと、やはりゴルフに魅入られてしまったことで、プレーすることになった。私のゴルフは、なかなか100を切ることが難しいと言うことで、これを目標に何時もプレーしている。出だしのアウト1番では、寄せのアプローチで、打ち切れずグリーンに届かなかったが、寄せワンでボギースタートになった。ところが続く2番のショートホールでは、少し右に出たかと思うとキックも悪くOBとなってしまった上、そこには池があり、高いボールを早速無くしてしまったうえ、打ち直しをバンカーに入れ、さらに3パットするなど散々の7であった。その後は、ボギーとパーで進んだが、6番のロングホールでは、ティーショットは、まずまずであったものの、2打目を力んでダフリ、3打目は芯に捕らえて当たりは良かったのだが、跳ねて左の池にこぼれ落ちてしまった。ここで、また少し調子を崩した。その後8番のロングホールでは、ティーショットもセカンドも良い当たりで、パーオンこそ成らなかったが、グリーンカラーからのパターでピン近に寄せ1パットのパーであった。私にとって、ロングホールでのパーはなかなか取れないケースが多いのだが、最近ロングホールでのパーも少しずつ可能となってきたのは喜ばしい。上がってみれば大きく叩いたホールは別として、3ホールパーで回ることが出来、49と50は切って100を切ることが見えたものの、絶好調とは行かなかった。パットも不調というか、何時も通りというか、3パットが3ホールもあり、出入りの多いプレーとなった。昼休みは、混んでいるせいもあって、1時間以上の長い休みとなった。アンダーシャツを脱いで、少し身軽になった。第一汗をあまりかかなくなったのは嬉しいことだ。私にとって汗と戦うことで、スコアは2-3は違うと感じている。後半のスタートホール10番では、ティーショットの当たりは良かったものの、見えないフェアウェイバンカーに捕まり、パーを取り損ねることになった。続く11番ロングホールも、途中、木に当たるなどして、ダブルボギーとなってしまった。後は、パーとボギーの間でパットも2パットで納まり、まずまずのゴルフとなった。それでもパーは2回、3パットも2回ということで、最終ホールなどは、セカンドを残り125ヤードから2オンに成功したものの、バーディーパットを外し結局は3パットとなったことは、極めて残念である一方、ゴルフはショットだけではないということを改めて認識した。それでも後半は、45で回ることが出来、トータルで94と近来にない成績となった。連れ合いのゴルフは、肩をかばっていることもあったが、7番アイアンは気持ちよく振れていた反面、ティーショットの当たりは快音が聞こえるケースが少なかった。それでも、時に良い当たりをしていたが、それがホールを通じて続くと言うことが無く、スコアには結びつかない。しかし、パットでは、ホールをかすめるなど、いつもよりは、惜しいパットが何度かあり、感覚をつかめば、もう少し良く成るであろうことが期待が出来た。何時も練習で出かける一庫と違い、グリーンが、まともなので、概してグリーンが早くなかなかホールに寄せるのは難しいようだ。終わって帰ってから、明細書を見ると、昼食料金の入力間違いがあり、早速ゴルフ場に電話して、差額を振り込んで貰うことにした。概して今日のゴルフは、問題点も見え、スコアも当初目標を達成することが出来たので満足であった。
2009.09.21
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最近とみに読書に掛かる日数が増えた。目が悪くなって、メガネ無しでは字が読みづらいことも一つの要因であるが、読書の出来る時間も減ったのかなと思う。仕事もなくなり、日頃は暇なはずなのだが、何かと時間を食われる行事が多い。外出するととにかく本を読む事は難しい。それでも電車で出かけるときには手提げ鞄の中に本を入れて行き、往復の車内で読もうとするのだが、居眠りが先で、何度持っていた本を取り落としたことか知れない。最近は、横で連れ合いが、落ちそうになると体をつついて起こしてくれるか、落ちそうな本を持ってくれる。それを2-3回繰り返して読書を諦めるというのが実体である。良くあるパターンだが、本の題名に惹かれて購入しても自分には荷が重すぎる内容であることが多い。私は何年か前に、本のリストをデータベース化し、読後の感想や、内容にあらまし、キーワードなどを書くように欄はこしらえたのだが、いっこうにその欄を使わなくなってしまった。読むだけ(中には字数を追うだけ)で精一杯となってしまったのだ。また、リストが壊れて修復したときに、読み始めの日や、読み終わった日が消えてしまったことがあるので、読書日数が記録されていない本もたくさんある。今持っている本は1000冊を少し超える程度だが、すでに読んでしまって、紛失した本もあるので、実際目にした本はもっと多いと思う。その記録の中で、読後感を「秀」「優」「良」「普通」「不可」そして「難」6段階に分けて記録してある。「秀」「優」「良」「普通」まではこの順番通りに自分が良かったと思う内容なのだが、「不可」は購入して損をしたと思う内容のないと感じたものである。そして、「難」はあまり内容が難しく、一行一行が何を書いてあるのか分からないといった感じを受けた本である。因みに買う前には自分が好きそうな書題を選ぶので、「不可」は2冊ほど有るだけだ。「難」は7冊有るが、こういう本でも字数を追っているだけだが、20日くらいで済んでいたものが、最近ではその倍以上を費やすことも稀ではない。とにかく時間がないのと、夜は、テレビを見ることでどうにも読書に集中できないからでもある。テレビを見なければいいのだが、単純になった頭は、能動的な読書よりも受動的に送られる映像の方が受け付けやすくなっているのであろう。「秀」と位置づけた書籍は23冊有るが、これらはもう一度読み返してみたいと思う本でもある。又、購入前にその本に抱いた興味の度合いのイメージを「超強」「中強」「小強」「並」と「希薄」の5段階に分けている。「希薄」な本を何故購入したかは今思えば分からないが、そのとき衝動的に買ったものであろう。さすがに「希薄」な本は数が少ないのは勿論のことである。さらに、読後に難解か否かで、「超難」「中難」「小難」「普通」「易」とこれまた5段階にそのときの気分で付けている。これらの難解度での読書日数にはそれほどの相関関係はないように思えるが、一番信用できないのは、読書日数自身の数字であり、読み終えた日にちから読み始めた日にちを単純に差し引いているだけで、通常は、それで良いのだが、中にはその間に全く読書をしていない日にちも入っていると言うことである。最近はそのケースが多いため読書日数も多くなっていると思われる。旅行に出ていたのか、とにかくおもしろくないから途中で放り出して、別の本を読み出し、又続きを読むとかで、実質的な読書日数でないものも含まれている。読み始めた本は極力続けて読むようにはしているが、より興味深い本を書店で見つけるとついそちらの方を優先してしまうケースがある。また、読みたいと思って購入した本なのであるが、とにかく読み始めたら時間が掛かりそうなものは敬遠していわゆる積ん読状態になっている本が180冊程度有る。その際たるものは、何と30年前に買った「世界教養全集」である。著名な作家により書いたもので、全部で34巻と別巻4巻でなっている。このうち読了したものはたったの6冊を数えるほどしかない。当時の本だから、600ページもある細かい字で書いてあり、それが何と350円なのである。今この内容の本を買おうとすれば、その10倍の値段が付いていてもおかしくはない。本が如何に高くなっているのかを痛切に感じる。その全集は最近の先進的な内容はない、古典と呼ばれるものばかりだから、一概に最近の本を評価することは出来ないが、全集に入れられた内容の一部が、装丁を変えて、文庫本などで出ていることがあるが、それも又高い値段が付いている。今も時々、それを読もうかと思うのだが、何しろ字が小さいので、裸眼ではとても読めないというのが実情である。さらに今頃は、本の内容で何か感動した内容があっても、そのときの興奮が、なかなか持続できないというか、すぐ忘れてしまうと言うことである。確かに良い本だったと思うのだが、さてその内容はというと、ほとんど覚えていないのである。歳を取ると言うことを実感する瞬間でもある。現在は、ゴルフの他にウォーキングなどする機会が多いが、これも健康のためであり、まさに世の中は、健康のために健康になるという風潮になっているようだ。読書等を続けていると、弱った足腰がさらに弱ってくるし、まさか二宮金次郎でもないから、背中にリュックをしょって本を読みながら歩ける道路などないし、又実際に歩きながら本を読む事は至難の業で、歩きながら読んだということは眉唾物だと思っている。歩きながら出来ることはせいぜい録音した音楽や、英会話を聴く程度のことにしかならない。おそらく死ぬまでに全て残った本を読み尽くすことは出来ないだろうが、健康との関係を勘案しながら、少しでも多くの本を読んでいきたいと思っている。それもあまり時間をかけないように出来れば良いと思っている。
2009.09.20
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アメリカのオバマ大統領が世界に発信した核廃絶の一歩が始まった。ミサイル防衛システム(MD)の東欧への配備を中止したのだ。疑心が暗鬼を呼び、年を経る毎に、核は、世界中に拡散しつつある。そのたび毎に核を含む戦争のための兵器の増強や、これを防ぐ手立てとしていろいろなことが考えられている。アメリカの真意は知れないが、東欧へのMD配備は、仮想敵国であるイランからのミサイル攻撃を受けた場合を想定し、これを防ぐための迎撃ミサイル基地を東欧のチェコに配備するという計画であった。ミサイル迎撃のシステムをMD構想と呼んでいるわけであるが、MDの方法は、先ずイランなどから弾道ミサイルが発射されたとすると、次にこれを感知するためレーダーで捕捉することになる。このレーダー基地は、発射基地とは別の所に配置されるが、今回の東欧配備ではこのレーダー基地はポーランドの隣国チェコに置かれることになっていた。得られたデーターを計算基地の大型コンピューターを使って、その軌道を素早く計算して、戦闘指令センターで、迎撃の実施を決め、ポーランドに配置予定のミサイル迎撃基地からの迎撃ミサイルの発射指示を出すわけである。計算された、仮想敵国からの弾道ミサイルの軌道に対し、これをどの時点で迎撃するかを決定し、戦闘司令センターから、迎撃ミサイルをどの方向に打つかを指令するわけで、それによって弾道ミサイルが着弾する前に空中で迎撃破砕するというストーリーだ。これに対しては、配備される東欧の隣国ロシアからの猛烈な反対があり、ロシアはこの構想の実施を止めない限り、核廃絶のためのテーブルには付かないという態度をとり続けてきた。ここに来て、アメリカはこのMD構想を根本的に見直し、取り敢えずは、ポーランドとチェコに配置予定の基地を廃止することに決定したのである。昨年夏にポーランドとチェコに対する配備契約は合意されているので、事前の動きは開始されているのだが、廃止という大きな決断をしたのである。ある意味、日本における八ツ場ダムの廃止の方向と似たものがある。せっかく契約したポーランドやチェコにとっては、アメリカのこの決定は、欧米の同盟関係にとっては好ましくないと表明している。何事も仕掛かったものを中止することは、なかなかもって勇気のいることである。アメリカは、このMD構想を世界規模で見直すことにしたと言うが、この構想を推進してきた、ジョージ・W・ブッシュ大統領の下で、陣頭指揮を執っていたはずのゲーツ国防長官が、今度は廃止の方向で動いていると言うことだ。トップが変わると、その意向で、いかようにも変わりうると言う典型的な例であろう。元々ゲーツ国防長官は、無所属であり、共和党員ではないということで、民主党政権のオバマ大統領の元でも留任したと言うことらしいが、こういった例は初めてのことらしい。リーマンショック以来アメリカの経済が破綻し、世界にその影響をまき散らしたわけで、その立て直し上も、多額のコストの掛かる、MD構想の見直しということに繋がったことも一因である。日本でも長年の、もはや当たり前的になっていた自民党政権が民主党政権に取って代わられ、いろいろなことが見直されている。このMD構想が即核兵器廃絶の決め手になるわけではもちろん無いが、核の超大国であるアメリカとソ連の核廃絶に向けての大きな一歩となることは期待できる。保有できる核弾頭の上限の決定とか、核弾頭の運搬手段の上限を決めるとか、核の廃絶については様々な問題があるわけで、奇しくもオバマ大統領自身が、核兵器の廃絶は難しいと吐露しているとおり、世界中の核が無くなるということは現時点では考えられない。実際の被爆体験国日本でも、おそらくその惨状を実際に体験した人は数が少なくなってきて、今のMD構想のように、核を想定した、戦闘はウォーゲームのようになって来ており、核による戦闘の結果をリアルに感じることは出来なくなっているのであろう。次期IAEAの事務局長となる日本の天野大使も、劇的な成果を期待すべきではなく、地道な核のない世界のために活動をしなければいけないといっている。イランの攻撃を想定した、東欧のポーランドや、チェコへの配備は、日本にとっての遠い世界の問題ではなく、現実にテポドンを気ままに発射する北朝鮮の弾道ミサイルの射程距離内にある我々日本人にとってもこの東欧の配備中止による余波は起こって来るであろう。仮想の敵国が、何時実際に行動を起こすか分からないということで、巨額の軍事費を費消し、国民の生活を顧みないのは、どの国に於いても共通の問題である。何故戦争が起こるのか、何故民族紛争が起こるのかそして何故、人はテロに走るのか、その結果もたらされる結果はすでに長い歴史の中で明らかだと思われるのだが、人類の英知を持ってしても、なかなか解決しない。今回のアメリカのMD構想見直しは取り敢えず、核デタントに向けた一歩として歓迎すべき事である。
2009.09.19
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NHK17~18世紀の美術(バロック~ロココ)の6回目(最終回)の講座があった。今日のテーマは「カナレットと18世紀のイタリア」についてであった。講義前の時間にプロジェクターに黄色い大きなひよこが川に浮かんでいる写真が写された。中之島に浮かんでいたもので、水都大阪2009年を記念してのオブジェらしく、オランダ人の作品だとかであったが、ひよこは可愛い顔をしているが、講師は、破壊的なものだという評価だった。今日の画家の名前についても私はあまり聞いたことがない人たちばかりであった。それというのも、18世紀のイタリアは、古代ローマ時代からの反映をルネサンスの頃までは伝えてきたが、すでに過去の影響もかげりを見せ、疲弊した域になっていたということで、周辺国家の人々はイタリアへは過去の栄光を見に行く場所としてとらえられていたということもあったからかも知れない。フランス人もそうだが、特にイギリス人はイタリアを好んだようだ。特に貴族階級は、過去の栄光を自らの地位の象徴的な意味と重ねる事を特に好んだようであり、中にはドイツのゲーテなどもイタリアを訪れている。肩が痛く、疲れたと言っていた連れ合いは、今日は、ぼんやり聴くだけで、ノートは取らないと言っていたけれど、始まれば、なにやらしっかりとメモしていた。紹介された作品は、セバスティアーノ・リッチの「罰せられたアモール」という天井画が最初で、リッチは、17世紀バロック時代のヴェロネーゼの影響を受け、絵画を学んだのだという。ローマ神話で名高き恋の神キューピッドが、射られた者を強制的に恋へ落す黄金の矢をいたずらに若く美しい女に放った為に災いが起こり、その罰として背中に生えた翼をむしられる場面を描いた天井画であった。画面上には女を射た恋の神キューピッドが目隠しをされ、その翼を月桂樹の冠を被った天使にむしられる姿が配されていた。ヴェネツィアのドッカーレ宮殿の天井をを飾る、パオロ・ヴェロネーゼ「ヴェネツィアの勝利」も対比のために併せて紹介された。アンドレア・ポッツォの「イグナティウス・ロヨラの栄光」では、建築と絵画の融合された絵画の妙を伝えていた。ディエプロのヴュルツブルク司教館の階段室の天井画が紹介された。ヴュルツブルクの司教館は、世界遺産にもなっているらしく、中央の飛び出た部分が、階段室となっており、階段室を昇るとそこには四大陸を表す絵画が天井一杯に描かれているというものである。聖職者である司教にしては、かなり豪華な建物に住んでいたというのは、この時代、司教はすなわち実質的な君主(領主)であったからだという。赤ひげ王と異名を取った、フリードリヒ1世、バルバロッサが花嫁となるヴェアトリーチェを運ぶアポロンの馬車を描いた天井画は、雲や、女性の着物の布などが決められた枠をはみ出して描かれるという手法が採られていた。絵画の中の犬は結婚の象徴であり、パステルカラーの柔らかなロココ風の絵であった。ディエプロの「眠るディナルドとアルミーダ」は十字軍を題材にした連作絵画の一つで、キリスト教側から見たイスラムのアルミーダは、悪魔として描かれ、十字軍の兵士を皆動物に変えるという魔術を使う。そのアルミーダが、十字軍兵士リナルドを動物に変えようとしたとき、その美男子ぶりについ恋に落ちてしまうという状況を描いたものであり、右に描かれた、ヴィーナスと左に描かれたキューピッドによって、その状況を確認することが出来るのだという。同じく、その後の「ディナルドとアルミーダ」では化粧するため鏡を覗くアルミーダに見とれるリナルドを右の方から仲間の兵士が救出しようとしている場面を表し、次の「アルミーダを捨てるリナルド」では仲間がリナルドを抱きかかえるように救出する場面を描いている。リナルドはここで、アルミーダを捨てるという題名になっているが、私には、仲間の兵士に無理矢理連れ去られるという風に見えた。真意のほどは分からないが、やはり宗教画であり、イスラムに屈すべきではないというキリスト教側の作品だと思わせた。これも、ディエプロの「マンドリンを持つ若い娘」は特に取り立てて言うほどの作品でもなく、そこら中に転がっているような作品だとの評価であった。ただ、何故にマンドリンを弾く娘が胸をあらわにしているのか、一寸したお色気サービスだとのコメントだった。とにかくディエプロは多作だったという。続いてカナレットの「カナル・グランデとサルーテ聖堂」の絵が紹介されたが、まさに、「うむ!」という感じだった。イタリアはヴェネチアのカナル・グランデは連れ合いと2年前の8月に訪れた場所ではないか。カナル・グランデは水の都ヴェネチアを結ぶ交通用の大運河でここで二人ゴンドラに揺られた場所である。このヴェネチアの風景画は、土産物絵画として旅行者の金持ちに好評で、カナレットは、こういった写真のように描かれたおみやげ物絵画の第一人者であったという。ベリーニの「サンマルコ広場の行列」はこれも見覚えのあるサンマルコ広場の古き時代の厳かな行列を描いたものであった。再びカナレットの「統領の船の帰還」でもサンマルコ広場の前のカナルに浮かぶ豪華なガレー軍船を描いた、統領の威厳を誇示する作品であった。背景には当然、今は美術館になっているドゥカーレ宮殿が描かれ、大鐘楼(カンパニーレ)や、我々の旅行時に集合目印とされた一対の塔もちゃんと描かれていた。この頃のベネチアの絵は明るく、これが後の印象派の絵に影響を与えたとのことであった。イギリス人やフランス人に好まれた精密で、華やか、且つ明るい作風であった。しかし、造船に携わっていた私にとっては、講師が、こういったガレー船を1日に1隻造るという説明にいかにも疑問を感じざるを得なかった。いくら何でも1ヶ月の間違いではないだろうかと思わせるような豪華船であった。同じくカナレットの「リアルト橋を北から見る」は16世紀にかけられた、ランドマーク的な橋で、当時大運河をまたぐ唯一の橋であったそうだ。この橋にも行き通ったことはあるが、北から見たこの橋は実は写真でしか見たことはない。当時のまま、現存しているのだと言うことだ。「奇想:パラーディオの建築のあるリアルト橋周辺」はカナレットが、有名な建築家パラーディオの設計した建物が、ここにあればこんな風になるだろうとの空想画で、サンジョルジオ・マッジョーレ聖堂も想定された絵画である。これも「奇想:4頭のブロンズの馬のあるサンマルコ広場」はサン・マルコ大聖堂前の広場を舞台とした景観であるが、描かれた四頭のブロンズ製の馬は、当時はこの場所に現実に存在したものではなく、カナレットの想像(空想)によって構成された。しかし、この青銅馬自体は存在しており、古代に制作されたと推測されている。その価値は非常に高く、ナポレオンがヴェネツィアを占領した際に持ち去ったという逸話も残されている。フランス人、ユーベル・ロベールの「ローマのファンタジー」は大神殿と馬と搭を巧みに混在させ、往時を偲ぶ作品としている。五賢帝の一人、トラヤヌスを上に戴くトラヤヌスの柱を背景に、これもローマ五賢帝の最後の人、マルクス・アウレリウスが騎乗する、騎馬像を配するなど、ノスタルジックな作品である。カナレットの「ノーサンバーランド・ハウス」はイギリス人がわざわざ招請して描かせたものであり、今はロンドン大学になっているそうで、講師の先生は、こういったことはとても羨ましいことだと、ちくりと日本の美術に関する貧弱さを嘆かれたようだった。イギリス人ターナーの描く「ヴェネチアを描くカナレット」はカナレットの明るさを受け継いだターナーがカナレットへのオマージュとして描いたもので、「ふわっと」した作風を好んだようである。ロンギの「サイの見せ物」はヴェネチアの風俗画で、地味ではあるが、生活の一こまを切り取ったもので、風俗の歴史画とでも言うものである。興行師が年老いたサイの抜けた角を持っている所を後ろで、ヴェールをかぶって見ている夫人は、高貴な人であってもこういった珍しいものを好んだという象徴である。ロンギの「踊りのレッスン」は当時社交に欠かせぬダンスを年を取った紳士から手ほどきを受ける若い娘の様子を描いている。踊っている最中に、娘の足元の形を指摘する老教師の左手指がおもしろい。最後のピラネージの「ローマの遺跡」扉絵は版画による、考古ファンタジーといえるもので、古代ギリシャの地や、トルコの古代ギリシャ遺跡を訪れた印象をベースに、ローマの街道をベースにこれらをオムニバス的に作り上げたものである。ルネサンスでは古代復興への関心が高まったが、18世紀になると古代ギリシャ、都市遺跡への関心も高まり、古代へのあこがれ、新古典主義へと繋がっていく。1期6回で2期目の12回(1年)にわたる美術の講座は、今まで知らなかった時代の絵画を解説されて、多くの知見を得たり、美術に対するいっそうの興味を引き出してもらえたことは楽しいものであった。今後の古典主義時代の講座にも新たな興味を抱いている。
2009.09.18
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連れ合いと練習コースの一庫ゴルフに行き始めて今日で17回を数える。奇しくも最初に出かけた日は昨年の9月17日であるから、丁度1周年記念ということになる。行き始めた当初は、ゴルフ場も、雑草が生い茂ったり、鹿の糞が随所に見られるゴルフ場とは一寸言い難い感じのコースであったが、経営者が変わり、クラブハウスの前広場をはじめとして、コースの手入れもだんだんと良くなってきている。グリーンは完璧とまではなかなかいかないが、これも一頃に比べると大きくなったり、一応の努力は為されているようである。しかしながら、パターのラインなどという高級なものはなく、今日も砂をまいて保全中のグリーンがほとんどだった。連れ合いのゴルフはといえば、初めて1年たって、そろそろ形にもなり、ここ以外にもちゃんとしたコースを含めると30回近いラウンドをこなしている。最近は左肩を痛めていることもあり、なかなか練習にも行けない。このまま続けることが肩にとって良い方向になるわけではないのだが、本人はゴルフをすることを喜びと感じているわけで、なかなか折り合いを保つことは難しい。とりわけ、一庫というコースはフェアウェイが狭く、崖があったり、池を越えたりが、多くて、初めてキャディ無しで行くのは難しいコースだ。姉に紹介されたときには、姉とその友人の二人で廻ったときなどキャディーを頼んだというが、今は、キャディーが付かない。我々の前の組は、3組が一緒に来たということで、男性の最年少者が70才だという事であり元気の良いのに少しビックリした。とはいうものの、昔取った杵柄であろう、それほど変なゴルフではなかったが、何しろ、前方がどうなっているかが分からないためもあってか、プレーの速度が遅いのには閉口した。又、後ろの組は男性の2人組であり、すぐに追いついてくるために、追い立てられるようでもあり、前が詰まっていて流れがどうしても滞りがちになり、待ち疲れすることも多かった。何度も書いたかと思うが、アウトの1番ホールは、左を狙わない限り、真っ直ぐに飛ぶくらいでは前方の崖から右側にOBになってしまう。今回も、どうかという方向に飛んだが、探しても見つからないし、探す時間もないくらい後ろが待っているので、出だしから、あまり良い感じではなかった。2番ホールでは、最後の短いアプローチをトップしてグリーンをオーバーしてお粗末なOBとする不始末。3番は、前方の池を気にして、4番ウッドで右方向となかなかリズムが取れない。前方左ドッグレッグでレイアップが必要な7番ホールでも、5番アイアンの当たりが悪く、前の谷に吸い込まれてOBにしてしまう有様だ。そんなこんなで、前半は50ということになってしまった。連れ合いも、肩をかばいつつ、ティーショットを軽く当てるときには素直な球が飛んでいたが、2桁スコアが2回も出るほど、なかなか前に進まないようだった。以前と比べて、残暑はあるものの、流れるような汗もでなく、気候は快適であった。何となく消化不良のままで前半を終わり、昼食時の1ドリンクサービスで、小グラスのビールを飲んだが、連れ合いは少しだけ飲んだだけだったので、結局2グラス分を飲んだことになった。大概ラウンド中は飲まないし、飲むと後半が乱れるケースが多いが、すでにこれ以上悪くはならないだろうという気持ちだった。後半の10番では、ティーショットの当たりは良かったが、山の急な土手に止まり、脱出するまでに、2打を要するなど、相変わらず2打目からの打上に苦労するのはいつもと同じだった。その他は、パー2つを含め、ほぼボギーペースで回ることが出来たのだが、やっているときにはさほどにも感じなく、まだまだ改善の余地はあると感じる気持ちが勝っていた。連れ合いも、後半は少し良くなったのか2桁は1回だけで、済んだようで、後半だけを見ると、一応ゴルフになっている感じで、自分自身のリズムを早く作って、肩の痛みから解放されるとスムーズなゴルフになるように思う。姉は何とかハーフ60を切るという目標を掲げているのだが、後半あごの深いバンカーから脱出できず、ギブアップしてしまい。わずかに60を切ることが出来なかった。年齢も我々よりは10才も上であることを考えると、いつもながらそのタフさ加減には感心させられる。近じか、連れ合いの学校の先生とのラウンドが待っているが、彼女の肩の痛さが私には分からないので、その方が気になってしまう。如何に好きになったゴルフとはいえ、肩を痛めてしまっては元も子もないのだからと思うのだが、連れ合いのゴルフに対する意気込みはそんなことではびくともしないという感じである。姉の歳になるまでは、出来るのだということの実証者と共にラウンドしているわけで、長くゴルフが出来たら良いのにと思いながら帰途についた。帰りの車の中で姉が、「いくら下手なゴルフでも、何回かは良いショットや、ロングパットなどが入るということがあるんで又ゴルフをしたくなるのよね」ということはまさに当たっているのかも知れない。スコアなどは2の次で、長く健康で、ゴルフ場を歩けるということが何よりもまして素晴らしいことなのかも知れない。
2009.09.17
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政権交代を旗印についに民主党政権が成立した。勿論のことではあるが、どの閣僚の顔ぶれを見ても、清新な感じがする。中に以前大臣を経験した人はいるが、ほとんどが万年野党だった顔ぶればかりであるからだ。鳩山首相の記者会見では、早速原稿無しでの演説となって新しい味を出そうと腐心の跡が見える。曰く、民主党が勝ったのではなく、国民が勝利したという当たりはさすがの配慮と感じられる。その言葉通り、国民が勝利したということが実感できる世の中になって欲しいものである。民主党が勝ったということであれば、当然小沢一郎の勝利ということであるが、事実そうであっても、国民の勝利と言い換えることで、なにやら国民は、今のところ自分たちが勝ったという気持ちにさせられていることは事実である。マスコミの愚かさで、時に1年生議員の行動をクローズアップしていたり、くだらない国会一番乗りを報じたり、中には、ヌードで映画に出演したことなどが、より多くの紙面を占めたり、時間を割かれているのには、相変わらず、視聴率や、新聞の売れ行き至上主義に支配されているようで、こちらはいっこうに刷新された気がしない。参議院での過半数確保のために、国民新党の亀井氏や、社民党の福島党首が入閣していることに違和感を覚えるが、これも小沢流の天下取りの布石であろう。最初は良いが、案外後になって、のど元に刺さった棘のようにならなければと危惧する。亀井氏に防衛相との話があり、流れたというが、今の段階では、正解だという気がする。必ずしも、対等の日米関係になるとは考えられないわけで、一部行きすぎた面の是正を図り、アメリカをして、日本は完全に従属的ではなく、言うべきは言う主権国家であると言うことを当然のことを知って貰わなければならないことは言うまでもない。しかし、あまりに先鋭的な、日米関係の主張を急に表面化することは、今の日本にとっては必ずしも得策ではないと考えるからだ。社民党の福島党首が自らの非力で、雇用問題に関する大臣の椅子を辞退したというが、元々、消費者・少子化相のお飾り(今まで何もしてこなかったという意味で)のような大臣の椅子が、似合っているのかも知れない。正論は吐けても、実際の状況を見極めて行動する知恵とは又別の問題だということである。彼女は優秀な頭脳と、素晴らしい主張をするのだが、現実面との整合性がなかなかとれないところを感じるからである。その他の大臣は、いずれも昔の社会党系から自民党系の人間まで、左右の集合体である。派閥とまで呼べるかどうかは別として、それぞれ異なったグループの出身である。今は組閣がなったばかりであるが、これら根柢に流れる問題が、どのように変化していくのかは注視しなければいけないと思う。それぞれの担当大臣は国民に約束したマニフェスト(政権公約)を果たすことが求められている。大変な難題を担当する大臣も多い。総理となった鳩山氏が初めての内閣故に、多少は違った方向に行くこともやむを得ないとして、大きな目で見て欲しいと言っている件について、国民の一人は、最初からそういったことをいうことは総理にあるまじき言葉だとのコメントがあった。鳩山首相としては、正直な言葉であろうが、為政者なるもの、そのような内面を見せることは、今から出来なかったことに対する予防線を張っているようで、決して良くはないと思う。国家戦略という、大上段な部署が出来、これがいったい具体的に何をするのかについてはまだ見えてこない。国家百年の計を決めると言うことなのか、戦略的にどの方向に行くのかを決めることなのか、ならば具体的には何を、という感じである。意志としては分かるが、これからどのように実務が為されるかという点が興味深い対米関係の方向性を決め、清新さを出しつつ同盟関係を維持するということを如何に処理するのかという岡田外務相や、年金のキーマンである長妻厚労相、天下り廃止等の悪しき慣行をどのように処理するかを求められる仙谷行政刷新相、ダムや、道路問題等、無駄なことはやらないでおこうとする前原国交相、地方分権などの問題を如何に処理するかの原口総務相等々、与えられた責務と、国民の期待も大きいものがある。国民新党のように、一つ郵政民営化の見直しを掲げた党から入閣した亀井郵政・金融相などは水を得た魚のように感じているところであろうと思う。こういった諸閣僚の所信は、今までと違って、役人が作った就任挨拶ではなく、党が公開したマニフェストに依拠して自らが作成しているため、それら所信に対する感想を求められた、鳩山総理も満足げな解答をしていた。さあ、いよいよことが実行に移りはじめた、今まで、ツーカーというか、なあなあというか、自分たちが主導してきた官僚にとっては、まずは様子見というところであろう。優秀な頭脳を持ち、難関を突破してきた官僚達のことでもあり、又実行部隊で多数の人材を要する役所が、既得権を手放したくないということは十分に考えられる。岡田外務大臣が、従わない官僚の罷免も可能な「大臣命令」という形で、「核の密約」の有無を明らかにしようとしているが、11月末までにこれがどうなるのかは、一番早く国会議員(国民の代表)と官僚の関係を示す試金石になるのではないだろうか。あれほど無いと言い続けた、自民党の元首相達や外務大臣達にとっても、もし有ったということになると、決定的な致命傷になるのは必定である。こういった旧癖を打破することや、又国民の目に見える形にすることでやっと真の民主主義に立ち返れるのではないかと感じている。当面マスコミも従来のように、仕組まれたシナリオを流すだけでは済まない、真剣な対応を迫られているわけで、取り敢えず100日間の新しい内閣の動きを期待を持って見守っていきたいと思っている。
2009.09.16
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NHK大阪文化センターでの2巡目講座の第6回目(最終)の講義があった。今日は、「キリスト教徒の暮らし」についての話題であり、アラブ社会に生活するキリスト教徒の話がテーマであった。この話は広範にわたる話であるので、1時間半ほどの短い時間で話し終える内容ではない。講師は、用意してきた簡単なレジメで駆け足で紹介をしてくれた。日本人などの間では、中東といえばイスラム教であり、イスラエルのユダヤ教などと同じく、キリスト教は欧米のものという感覚で捉えていることが多い。中東に出かけた欧米人が、そこにキリスト教徒を見いだすと、驚いて、何時イスラム教から改宗したのだと聞くケースもあるようだ。それは大いなる誤解で、元々イスラム教は後発の教義であり、それ以前には、キリスト教が支配的であったわけで、この話はまさに逆転していることになるのと同時に、そもそも、イスラム教は改宗することを禁じていて、改宗するということは死を意味しているということらしい。最初期のキリスト教で原始キリスト教と呼ばれたローマ時代の五大総主教座はローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアに置かれており、ローマ以外は、全て現在の中東諸国の中に存在する。こう考えると、中東にイスラム教が誕生する以前には、キリスト教徒が多くを占めていたことが納得でき、キリスト教徒からイスラム教への改宗が行われたというのが真の経緯である。原始キリスト教からエフェソス公会議でマリアを「神の母」というより「キリストの母」と呼ぶ方がふさわしいと主張したネストリウス派の分派に始まり、キリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を混合するものであるという考えを採るカルケドン派の発生等を経て、1054年にキリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分された。この辺りから、中東におけるキリスト教の複雑な背景が見えて来るが、これら中東におけるキリスト教教会には、コプト教会、エチオピア教会、アルメニア教会などが興り、さらには、東西の分裂後は、ギリシャ正教会や、東方典礼カソリック教会などに分派して今日に至っているという。従って、後発的な、ローマカトリックや、ルターによる宗教改革後イギリスに興ったプロテスタント側からの宣教による中東でのキリスト教改宗信者は稀少であるという。言語的にも、それぞれの教義が起こった地方の言語で普及してきて、その大部分は、シリア語やアラビア語であるという。私が、サウジアラビアにいたときに彼らが、コーランを読むときに最後に唱えるのが「アーミン」だったと記憶するが、どちらがどう影響しているのか、源は同じであることを感じたものである。いずれにしても、現在の中東における主流は、イスラム教徒であり、この地域に住むキリスト教徒は、マイノリティーとしての苦しさを味わっているというのが現状である。イスラム教徒の中のキリスト教徒やユダヤ教徒等はズィンミーと呼ばれ、イスラム教徒への批判はもとより禁止され、結婚の制限や、ジズヤと呼ばれる特別の税金を納める必要などの屈辱的なことが決められている。ムスリム国家である、エジプトでは人口の10%は、キリスト教徒といわれている。数にすれば約800万人がマイノリティーということになる。物理的且つ精神的な迫害を受けながらの生活も、800万人もいればそれなりのテリトリーが出来るが、コプト教などの少数派では、教義上、離婚も出来ない上、対象となる結婚相手も不足しているので、日に何十人という単位で、改宗や国外逃亡を余儀なくされているのだという。他にも十字軍と中東のキリスト教徒で、これを支援したマロン派の関係や、アラブナショナリズムとキリスト教、パレスチナ問題やレバノン問題など問題は多岐且つ複雑である。いずれにしても、中東におけるイスラム主義の伸張によって、様々な自由の欠如と移民の増加など、中東における伝統的宗教の多様性が失われているのが現状のようである。個々の問題一つを取り上げても何時間も要するような問題であり、なかなか詳細を理解することは出来ないのだが、中東にキリスト教の流れがあるということを包括に知ることが出来、且つそのキリスト教が中東におけるオリジナルであることだということはやはり少し驚きを感じた。アラブ人でキリスト教徒という著名人の紹介があったが、私の知っているだけでも、歌手のポール・アンカ、消費者運動家のラルフ・ネーダー、アップルのCEOスティーブ・ジョブズ、元アルゼンチンの大統領カルロス・メネムなどの人がいるということであった。
2009.09.15
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イチローが9年連続200本安打を達成した。日頃野球をあまり見ないのだが、この偉業には素直に脱帽する。あの野球発祥の地アメリカにおける、しかも大リーグ史上初の偉業である。これを日本人であるイチローが成し遂げたのだから、最近になくうれしい話である。日本の国技といわれる大相撲は、モンゴル勢や、諸外国勢にそのお株を奪われてしまったが、逆に野球というアメリカにとっては、神聖なスポーツに於いて後発国家である日本人がアメリカ人でもなしえなかった記録を達成してしまったのであるから痛快である。広角バッターで、安打製造器といわれ、打撃の他、強肩で、ライトからの稲妻のような返球でホームでタッチアウトという瞬間を何度も見たことがあり、あわやホームランという当たりを塀際で好捕したり、素晴らしいスライディングキャッチなどの広角な守備範囲で驚きのプレーを何度も見せてくれる。さらに足の速いことでも定評がある。今回の9年連続200本安打の200本目はショートに飛ぶ内野安打であった。ショートが少し深く守っていたところへ、あまり速く無いゴロが飛び、ショートが捕球して1塁に送球しようとしたが、送球を諦めるほどの俊足でイチローは1塁を駆け抜け、その瞬間に偉業が達成されたという、華々しさはないが、イチローらしい記録の達成であった。記録を生んだ瞬間には、観客はさほど多くはなかったが、ノーサイド的な拍手が球場に響いたようだ。日本ではよく見る、花束を持った女性が駆け寄り記録達成の選手に渡すなど一時その選手のためにわざわざ演出するというような行為は全くなく、彼の表情は淡々としていて、帽子を取って観客に軽く挨拶をしただけであった。彼にとっては、これも通過点の1つであろうが、偉大なる通過点である。こういったところは、今まででも見慣れていて、そのクールさがあまり好まれない向きもあるようだが、彼の心中は、どれほど欣喜雀躍としていたであろうかと推察した。この偉業の陰では、野球を始めて一貫して同じ姿勢で野球に対処したという報道が為された。野球を始めた頃のあどけないイチロー(このときはまだ鈴木一朗だったのか)の顔が、今では精悍な男の顔に変化している。WBCでの不調時には、スランプの重圧に悩んだようであるが、それをはねのけた全身で表す喜びの表情は今回は見られなかった。チーム野球の柱としての立場と、今回は、チームに貢献はしていても、記録自身はあくまで個人的なものであるとの意味の違いであろう。イチローの言葉の中に、200本を達成するとたちまち200本という数字が一人歩きをして、そこに達するまでの1本1本の積み重ねであることが消滅するのは寂しいと言っていた。目標の200に近づく段階の方が重圧もあるが、楽しいと感じたというコメントであった。どの分野でも、誰でも、偉業を為したときには、その偉業達成のみに焦点が当てられて、それまでの日々の努力はあまり顧みられない傾向がある。イチローはそのことを言いたかったのであろう。早くからそういったことを理解し、小さな事や、基礎的なことを淡々としかも着実に続けてきた結果がここに花咲いたと言うことであり、天才がのうのうとその天賦の才にだけに頼って得た結果でないことを彼は言いたかったのかも知れない。振り返って、自分には才能もないのに、唯々諾々と人生を送ってきたものだと今更のように反省することも多い。連続200本安打の記録は今まで、ウィリー・キラー選手が持つ8年連続というのだそうだが、大リーガーでも年に200本打つ選手というのは好選手といわれるのに、それを9年も続けてきたというのだから、改めてその偉大さに頭が下がる。昔に比べて打者に有利という野球環境ではあるかも知れないが、それを差し引いても手放しで賞賛を贈るに値する偉業だと思う。他の大リーガーに比べて決して大きくは感じないあの体でも180cmはあるのだという。それなのに、72kgというのは、どういった体調管理を行っての結果だろうか。まだ35才という事だから、野球人生ではまだまだやれるような気がする。連続ではないが年間200本安打では10年間たたき出したという、ルー・ゲーリックが居るのだという。イチローはひょっとして、これを連続で出してしまうかも知れない。アメリカに渡ったときは、卵などを投げられた球場で、今や、敵味方の別なくスタンディング・オベーションで迎えてくれるというのは、アメリカ人に、日本という国を最も良くアッピールする親善大使としての大きな役割を果たしているともいえ、月並みだが、日本人として誇らしく思う。
2009.09.14
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連れ合いの大学時代のコーラス仲間の演奏会を聴きに行った。大津の労音からスタートして年末にベートーヴェンの「第九」を唱う合唱団へと発展したという経緯を持つこの合唱団は今年で35周年を迎えるという。主に滋賀県下の団員からなっているようだが、中には近隣の府県からの参加者もいるとのことだ。今回は、団の名前を新たにして、10年になるという合唱団の第16回の定期演奏会だそうである。題名は「モーツアルト プログラム」ということで、今まで聴いたことがない作品がプログラムに書かれていた。名前の通り、全てモーツアルト作曲の作品で、「エクスルターテ・ユビテーラ」K165フルートとハープのための協奏曲 K299ヴェスペレK339より「ラウダーテ・ドミニム」「レクイエム」ニ短調 K626であった。合唱指導の先生は声楽家の方が指揮をされ、また、関西二期会会員や関西歌曲研究会会員の先生方もおられた。私の中・高時代の同期生であり、連れ合いの高校時代の同期生でもある友人も大阪の町内の合唱団に夫婦そろって参加されていると言うが、こちらの方は、少し柔らかな曲も取り扱っているようである。私の友人の方の合唱団は、7周年という事で、やはりベートーベンの「第九」を唱うのだそうだ。各地で、こういったコーラスの活動が盛んであるようだ。以前の会社時代も、年に1度年末にベートーベンの「第九」で合唱をするというためにだけ練習しているという人がいた。今回は、ベートーベンと違ってモーツアルトの作品集である。今回の演奏会もレクイエムがメインで、約1時間にわたる演奏時間だった。レクイエムとは「鎮魂歌」と訳されるが、古今、多くの音楽家がレクイエムを作曲しているようである。その中でも、モーツァルト、ヴェルディ、フォーレのそれは3大レクイエムと呼ばれるが、私は、モーツアルトのレクイエムしか聴いたことがない。モーツアルトは、ザルツブルグに生まれ、数々の名曲を残したが、作品には「K」の文字が付けられ、これをケッヘル番号と称し、 モーツアルトの作品を制作順に時系列で付けられたものであるとのことだ。余談ながら、ケッヘル番号を25で割り10を足すと、モーツァルトがその曲を作曲した年齢がわかることが多いということだ。レクイエムはK626であり、レクイエムを作曲中に亡くなったと言うからこれが最後の作品で、全部で626曲の作品を残して35歳の若さでの生涯だったことになる。まさに音楽に生き、音楽に死した人生であり、最後の作品となるレクイエムの作曲を依頼した人の名はモーツアルトには明かされず、この曲の完成前に死んでしまう。彼がリューマチにかかっていたことから死因はリューマチ熱だという説や、妻に言い残したように、対立派の作曲家に毒殺されたという説などがあるようで、とにかくこのレクイエムは、彼の手では完成しておらず、弟子によって完成されたものであるとのことで、ケッヘル626はモーツアルト自身への鎮魂歌になったようである。画家の世界も然りであるが、音楽の世界も、なにやらおどろおどろしいものが良く聞かれる、そもそも芸術家というものは、並の神経で、お遊び的に出来るものではないということなのだろうか、はたまた、芸術を追究していくと、そのようになるのであろうか、私にはよく分からない。哲学なども又然りで、今読んでいるが全く内容が分からないプラトンの「国家」なども、ある種こういった芸術家に通じるものなのかも知れない。話は相前後するが、この演奏会は栗東で行われたのだが、連れ合いの友人に贈られたチケットを持参して、どうせ栗東まで行くのなら、一寸足を伸ばして、近江八幡まで行って来たらと言う話で、車で30分程度先に走ったが、そこでは、有名な「日牟禮庵」で昼食のそばを採り、これも有名な「たねや」で、友人へのお土産を買っただけで、近江八幡ならここを見ておくべしと言う、掘り割りなどは、車で通りすぎるだけとなってしまった。昼食とお土産を買ってすぐにとって返したが、栗東についた時はまだ開演までは時間があった。近くのスーパーの駐車場に入れてぶらぶらしていざ入場しようとの段になって初めて、開演時間を30分遅く勘違いしていることに気がつき、最初の演奏曲は場外で聴く羽目になった。とは言いながら、連れ合いに言わせると、入場してからの私は、時々居眠りをしていたということで、横から肘をつつかれたのを2回は覚えている。連れ合いの友人の話では良い音楽を聴いていると眠くなるのだそうで、その意味からは、今日の演奏会はとても良い出来であったのだろうと思う。行きは、一般道を通って、近江大橋を超えていったのだが、帰りは、近江大橋当たりで混雑したため、名神高速を使った。一旦家の近くまで帰って、姫に連絡すると、夕食はまだだということで、また少し車で戻って、夕食を共にして、忙しい一日が終わった。
2009.09.13
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南フランスのプロヴァンス地方の紹介を主題にした番組をテレビで放映していた。プロヴァンス地方というと直感的には海岸を思い浮かべる。写真などでよく出てくるコート・ダジュール辺りだ。先日、連れ合いの友人宅に、絵画を頂きに上がったとき、アトリエの描きかけのキャンバスに布がかけられていた。連れ合いが頼んで、見せて貰ったのが、群生するひまわりを描いたものだった。このひまわりの群生する地方は南仏にあり、そこでデッサンしたものだという。正確な地名は聞かなかったが、プロバンスの辺りだという。とにかく辺り一面ひまわりで一杯なのである。他にもラベンダーが群生する地域もあるという。連れ合いの友人の作品は、ほとんど素人目には完成していて、写真や、テレビで見る映像を見てすぐそこだと感じさせるほどよくできたものだった。南仏へは、直接コート・ダジュール国際空港から行くことも出来るようだが、パリからフランスの新幹線TGVに乗っていく方法もあると言うことだ。少ししか写らなかった新幹線からの車窓であるが、日本の新幹線のような、切り開かれた都市を結ぶのではないから、どんどんと田園の風景の中に引き込まれるようで、何とも風情がある。テレビを見ているこちらとしては、ゆっくり車窓見せてくれれば、フランスに行かないまでも多少の臨場感があるのだが、ガイド役の若い女性の何とも、妙にハイテンションな声と、社内での車掌の変わった制服などを紹介するものだから、その点は少し興ざめである。例のひまわり畑についても、全面をカメラでパンしてくれればそれで十分なのであるが、いかに広大で、素晴らしいかを稚拙な形容詞を使って並べ立てるものだから、かえって興が冷める思いだった。元々ローマ帝国時代のフランスは、ガリア地方と呼ばれ、長髪の野蛮人の国であった。紀元前の時代であるが、それから約2000年で、かくも多くの世界中の観光客の耳目を集め、世界の観光のメッカになったのは、素晴らしいことである。コート・ダジュールには世界的に有名な都市、ニース、カンヌ、モナコ等がある。この地方は地中海性気候で、乾燥する夏季にはバカンスで訪れるフランス人や、太陽に恵まれない地域から日光浴目的で観光客が訪れるようだ。日本語に訳すと紺碧海岸というのだそうで、歌にもなった、フランスのリヴィエラというのもこの地方の固有名称になっている。くだんのひまわり畑やラベンダー畑は、アルル地方にあるようだ。近くには、ゴッホが描いた麦畑もあるのだという。西洋の印象派の画家達が、一度は訪れる地方のようだ。ゴーギャンも描いたプロヴァンスの山並みやなんと言っても近代絵画の父と呼ばれる巨匠セザンヌの生まれ故郷でもあるこの地方で、数知れず描き続けたサント・ヴィクトワール山等もある。連れ合いの友人も、この地方で、絵心をいっそう刺激されたのだろう。自分は中途半端だが、絵を描いたり、物を書いたりするときの気持ちは、一心にのめり込むようになり、しばし世事を忘れることが出来る。絵画を鑑賞するときは、まずその絵から受ける印象を大事にするだろう。そして、やがてその絵を描かせた画家の気持ちを知りたくなったり、風景であれば、その地を訪れたりしたくなるのであろう。いかんせん、日本の観光地は、ほとんど画一的で金太郎飴のようにおみやげ物を売る店がある。自然を自然のままに鑑賞したり、建造物をそのままに鑑賞はさせてくれない仕組みになっている。セザンヌの残した言葉で「私は左か右にちょっと動くだけで、何ヶ月も同じ場所で絵が描けると思う。」と言うのを聞いたことがある。山でも風景でも一寸視点を変えれば、いろいろに見えるものだという解釈で良いのだろうか。同じ対象を見ても、少し視点が変われば、また創作意欲が湧くと言うことかも知れない。
2009.09.12
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総選挙も終わり、今や組閣人事に大わらわの民主党である。誰を大臣にするかということで、いろいろな案が出ているようだ。それ以前に、民主党内の人事は、俺がやるという強い意向が反映し、小沢一郎の幹事長就任で、あっけなく終わってしまった。現在の幹事長である、岡田氏の意向などお構いなしの人事である。一方内閣人事は、鳩山色を打ち出すことで話が付いている風に見える。小沢氏は、鳩山氏の高校時代の先輩に当たると言うが、公の世界で、先輩後輩を表に出されては困る。ここで問題は、今回の衆議院で圧倒的な過半数を取った民主党も、参議院では単独で過半数を得られないという構図である。かつての衆議院でも自民党は、1999年の小渕政権以来公明党の数を借りなければ政権運営が出来ない状態が続いた。公明党の支持基盤は強かったし、何の定見もない政策であっても、与党の一員として、国土交通相などのポストは一時、公明党の指定席となり、その結果は無茶苦茶になってしまった。北側ー冬柴のラインでの国交省の4年間は、全く無為に過ぎたといわざるを得ない。小泉改革で、凍結したはずの高速道路もいつの間にか復活し、冬柴氏などは、高速道路に携わる皆さんの生活もあるからとか何とか訳の分からないことを言っていた。この期に、彼ら2人と党首である太田氏が落選したことは、公明党が、小判鮫的で、いかに無為無策であったかを露呈するものである。自民党の腰巾着的に維持してきた党としての根幹が全く否定されてしまったのである。小選挙区で、議席がゼロになるということは、本来の小選挙区制では全く受け入れられていないと言うことを意味している。全体でも議席数を10も減少させてしまったのだ。これと同じようなことが今起きようとしている。小選挙区で、3議席、比例で4議席を確保し、選挙前の議席数を何とか確保したとは言いながら、鳩山内閣で、主要ポストを要求する社民党の姿である。国民の生活云々は、まだ理解できるとしても、自衛隊のインド洋給油を即撤退せよとの意見は、あまりに外交を知らなさすぎるというものだ。民主党は期限切れを持って、引き上げると言っていることについても、アメリカ側の強い圧力を受けているのである。東大出の真面目な秀才さんの固執すべきところではないと思う。社民党は国民のわずか3%の支持しか得ていないと言うことを考えて欲しい。いたずらに後1人の数あわせのために入閣するのではなく、多様な意見を述べるという点に注力して閣内協力して欲しいものだ。国民新党に至っては、4議席有ったのが3議席に減っているのである。ここは郵政民営化見直しという点で一貫しているが、郵政民営化が悪の根源であるという観点での見直しは大いに議論して、是正していって欲しいものである。小泉政権が残した負の遺産である、2極化については、「友愛」の政治に期待するしかない。昨夜も、テレビで、大いなる借金を残した自民党議員が、民主党に対し、そんなばらまきをしたら財源が持たないだとか、勝手なことを言っている。誰が借金をこんなに膨らませたのか、自問する気持ちなどはないようである。政権誕生前の天下りや渡りの駆け込みが十数人もいるという。全く何をか況やであり、所管大臣(自民党)もこれを認めているという。いったい麻生総理の言った天下り根絶とはいったい何なんだろうかと思わせる。若手官僚には、そろそろ天下りに対する弊害の感覚が芽生えていると言うが、年老いて、金銭欲と名誉欲にくらんだ年寄りほど始末の悪いものはない。せめて老害と言われる前に自らの出処進退をきちんとして欲しいものだ。しかし、20代を含め30代の若い人ばかり目立つ今回の選挙当選者の結果を見るとき、若干の不安を感じないではいられないのは、自分も老害の域に入ったからだろうか。
2009.09.11
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恒例の歩こう会だが、夏の暑い8月が一回飛ばしになっていたので、ずいぶん久しぶりに感じた。7月の終わりに幹事をされていた先輩が、少し疲れたとか言うことで、幹事は、違う先輩に引き継がれた。私もその中では一番若いので、幹事を手伝うことになっているが、実質的にはまだ何もしていない。今日のコースは、京都北部を散策すると言うことになった。昼のお弁当も、パンを持参し途中のコンビニでおにぎりなどを買うことにしていた。10時に四条烏丸の地下鉄線の改札口に集合した。全員で17名であったが、いつも参加されるご夫妻は昨日までの旅行疲れで、今日はパスされたとのことだった。この日を楽しみに早めに帰ってこられたのだが、やはり疲れが取れないという話を聞いた。我々の高校時代の先輩である女性も、これが終わると明日からジパングで四国一周の旅行を列車でされるという。初日八幡浜2日目高知泊の2泊3日の旅行だそうだ。また、9月の末までに再びバードウォッチングを兼ねた旅行も待っていると言うことらしかった。四条烏丸から地下鉄に乗って、北の終点である、国際会館駅まで乗った。初めて地下鉄でこんな所まで来たのだが、出口を上がると、京都市内の喧噪から解放された、自然が待っていた。この地下鉄の反対側は、京阪の奈良まで相互乗り入れをしているようだ。木々に囲まれて、しばらく歩くと、国際会議場の偉容を回り込むようにして宝ヶ池に出た。若い頃に来た記憶はあるが、宝ヶ池がこれほど大きなものだとは知らなかった。1周すると1.5kmほどの軽いジョギングコースとなっている。さぞかし桜のシーズンには綺麗なことだろうと思いながら、桜の森を左手に見ながら歩いた。菖蒲園は素通りし、貸しボート屋の前を通り抜けて、西岸を歩くと、鯉に餌付けしている一角では、大きな真鯉や緋鯉がうねるように集まっており、なにやら不気味さを感じるほどだった。南岸では、馬を形取った一寸異形のオブジェが目を引いたが、京都市とグアテハラ市(メキシコ)が姉妹都市提携を記念として、寄贈された、「エスタンピーダ」という名称の作品だった。どうも英語でないその文字は、スペイン語か、南米系の名前だろうということで落ち着いていたのだが、後で調べるとガイドにはそう書いてあった。宝ヶ池を抜けて、北山通りを植物園の方に歩いた。北山通りに出るまでの通りには、小洒落たレストランが、ぽろぽろとあって、なかなか感じの良い街並みである。姫はこの辺りを良く自転車で走ったとか、さぞかしのんびりしたことであろうと、我が学生時代の、赤や紫のネオン街を抜けて通ったキャンパスとは段違いであると感じた。地下鉄の北山駅を少し過ぎて、植物園に到着した。ここでは、60歳以上の証明を見せれば、入園料200円が無料になる。帽子を取って、頭を見せただけでは駄目で、ちゃんと証明書を見せないと駄目だというところが、厳格でおもしろい。裏口からの入園だが、綺麗な花がプランターに植えられたり、直植のカンナなどの花が見られた。又ゴーヤの棚を見て、ゴーヤというのはこんな風になるのかということを知った。少し早めの昼食を中央休憩所で採った。南には大芝生池と称する広い芝生だけのスペースが広がっており、ゴルフ場に見立てて、向こうの大きなクスノキまでは何ヤードだろうかと目測し合った。少し早かったせいか、休憩所では、自前の弁当を開くなら端の方を使って下さいといわれ、一寸遠慮気味に弁当を開いた。しばらく歓談の後、観覧温室を見ることにし、西に歩くとここも、60歳以上は無料だとのことであった。なかなか配慮が良いなどと思いながら、入場すると、ラフレシアのアルコール漬けが迎えてくれた。見た目よりは広い室内を歩くと、熱帯植物が所狭しと植えられていた。中には、サボテンや、バオバブの木、ナツメヤシ(デーツ)の木、また果てはソーセージの木などが植えられており、結構楽しめた。植物の名前などとんと疎い私の場合は、ここにノートと鉛筆を持って日がな一日居ることで、相当に常識というものが付くだろうなと思った。正門側で、全員記念写真を撮り、加茂川のほとりを南下した。9月というのに、日差しは結構きつく、川沿いの道が今日の歩こう会では一番暑かった。加茂川と高野川が交わるその狭間に世界遺産である下鴨神社がある。ここでも、丁度北(裏)の方から神社にはいることになる。ここで、一緒だった先輩の女性は、明日の旅行もあるのでと先に帰られた。神社で参拝し、朱塗りの門をくぐり、参道を歩いた。参道一帯は糺の森と呼ばれる原生林でで囲まれ、新古今和歌集で鴨長明は「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れをたづねてぞすむ」と詠んだり、小倉百人一首で藤原家隆が詠んだ「風そよぐ楢の小川の夕暮れは御禊ぞ夏のしるしなりける」なども、この糺の森の神事にちなんだものとのことであるまた、連れ合いの説明では、この参道で流鏑馬の神事が行われるという。南の緋の鳥居までは、狭い道だが、馬が走りやすいように地道のままである。ここの両脇に観客が来るとしてさほど並べないなと思いながら、結構長い道を出ると、そこは出町柳で、加茂川と高野川が合流し、鴨川になる地点である。しばし最後の休憩を取って、そこで流れ解散となった。出町柳は、北へは京福電鉄で八瀬や、鞍馬・貴船に行くことが出来る。我々は、そこが終点の京阪電車で、3駅ほど下り四条に出て、買い物を済ませて、帰路についた。
2009.09.10
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丁度一ヶ月ほど前に連れ合いの友人が個展を開催し、それを見に出かけたが、その時約束していた絵画を戴きに洛西の新しい町に出かけた。桂坂小学校の近くだと聞いて、そこからの道順を教えて貰っていたようだ。連れ合い自身もそのお宅を訪問するのは初めてらしい。大体の位置は分かっているのだが、詳細は、その友人からのメールが頼りである。念のために機嫌の良くなった時点でナビに桂坂小学校を入れておくことにした。ところがどう間違ったのか最初桂川小学校と入れたようである。連れ合いが考えている方向とは少し違った道を指示しだした。洛西ニュータウンから国道9号線に出て、左に曲がるべき所を右だと称するのだ。取り敢えず、近道でもあるのかと、右に曲がるとさらに4キロ先を左折だとか言い出す。これは完全に違うと、9号線をUターンして友人に電話をかけること3回、ついに友人が近くのロータリーまで迎えに来てくれるという。軽2輪にヘルメット姿のその友人に案内されて、確かに桂坂小学校前を通り、それでも一寸複雑な、新興住宅街に入った。家並みも個性があり、道路にも花壇の石垣が少し突き出て、この道は車も通れるが、人が通るのが優先だよといった風情の感じの良い町並みだった。メインの道路が、外周を囲み、中の道は、少し複雑に作ってあり、車が簡単に通り抜けられないように車止めなどが設けてある。その車止めの前に駐車させて貰って友人の家に着くと、そのご主人もにこやかに出迎えてくれた。玄関先でと考えていたのだが、家に招じ入れられ、感じの良いガレージを横目に玄関を入ると、一戸建てならではの広いスペースが取ってある。新築ではなく、改造をしたのだと言うが、お二人だけの空間にしては贅沢すぎるくらいの広さである。コーヒーや紅茶のサービスを受けたが、どうやらコーヒーを入れるのはご主人の仕事らしい。ほどよい甘さのケーキと梨が出されたが、朝方、病院で、採血をした際に過去2-3回のデータを見ながら、「この数値はもう、糖尿病ですからね」と言われた医師の言葉を思い出し、一寸逡巡したが、量も少ないので、戴く事にした。今日採血しただけで、今までは前の結果を見ても、まあ様子を見ましょうかと言われていたのだが、今回は、どうも口調が違うので面食らった。全く自覚症状はないわけで、その旨を言うと、大体急におかしくなるものだと素っ気ない。取り敢えず、今日の結果が悪ければ、電話で知らせるし、近くの内科医を紹介すると言われる。何とも変な気分になって帰ってきた矢先であるが、出されたほんのひとかけらの甘さを抑えたケーキをむげに断るほどのことはあるまいと内心思った。ご主人は、府庁に勤められた後、定年退職後週1回大学で教鞭を執っておられるとか。後はテニスが趣味だとかで、女性ばかりのテニスグループに定年後の男性2人で加えて貰って、もっぱら日焼けを嫌う女性軍に従って、室内テニスやスイミングをされているという。連れ合いの友人は、もっぱら絵画が専門であるが、テニスにも参加されているという、婦唱夫随の良き夫婦関係が見て取れた。戴く絵画の話になり、2階の友人のアトリエに入れて貰ったが、そこには書きかけのフランスのひまわりの園を含め、数点が飾ってあった。もちろん玄関のホールや、階段の踊り場などには、京都の個展で見かけた、その友人が好きだという、花を全面に据えたフランスやイタリアの風景が飾られていた。描きかけのひまわりの園は、つい一両日前にテレビでまさに放映していた場所だと分かった。私が好きだと思っていたフィレンツェのドゥオモを中心に描かれた、街並みの絵は、すでに他の人が欲しいと言っているとかだったが、そのミニチュア版というか、少し小さめの絵を一緒にと付けてくださった。本命は、個展の時にこれが素晴らしいと連れ合いが言った「花梨」を描いたものだった。額は、個展の時と違って、この絵にさらにふさわしいものをとその友人が選んだものに入れられていた。色調も穏やかで絵と良くマッチした額であった。連れ合いと私の大学時代のことなどに話が及んだり、又その友人夫婦の馴れ初めを聞いたり、気がつくと夕方6時を廻っていた。遅くなったことを謝して、帰ることになった。後部座席にパターと、アプローチクラブを積んできて、帰りには近くのゴルフ練習場のミニコースを廻ろうと言っていたのだが、とてもその時間はなくなった。帰りは、すんなりといつもの道を帰ることが出来た。カーナビに間違って入れたのか、カーナビ自身が間違っていたのか、未だに疑問が残っているが、素晴らしい直筆の絵画を頂けたのはとても有り難いことだと思った。
2009.09.09
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今日もさしたることもなく、一日が過ぎた。午後、連れ合いの学校が引けてから、太郎君の出している鞄が京都の大丸の一角で売り出されることになったと言うことで、見に行くことにした。私などには全く分からないのだが、グローブに使う上質の革を使っての鞄だとかで、結構な人気を博しているようだ。確かに手触りが良いし、そういわれれば、何となくデザインも良い感じだ。連れ合いはお目当ての鞄の製品番号をメモしている。母親の特権を活かして、店からではなく、直接息子から手に入れようとの魂胆である。これも私などには出来ない芸当だが、そこで買わないのに何くれと無く店員の説明を巧く聞き出し、頷いている。そして、最後は、ではといって引き上げるのである。話は変わるが、3日ほど前に書いた、宗教の問題と絡んで、私には神話に興味がある。日本昔話など、身近なものはさほどでもないが、各国・各地に伝わる神話は、結構おもしろいと感じる。中でも、「ギリシャ・ローマ神話」は特別おもしろい。地中海に面したギリシャやローマは何となく神が居ても不思議ではないと感じてしまうのだ。現存はしていないが、世界の七不思議といわれる、今は神殿の基礎部分しか残されていない、オリンピアのゼウス像やロードス島の巨人像などロマンを誘うものがギリシャには2つも存在したのである。その中で、ふと連れ合いと行ったルーブル美術館の入口付近のカノーヴァーの作になる「エロスとプシュケ」の接吻の像を思い出した。思い返せば、その時は、2日目のルーブルとあって、疲れていて、窓際のベンチに腰をかけ休息を取っていた。そして、その前に「エロスとプシュケ」の像が配置されていたのだ。海外からの客にはたいそう人気が高いようで、常に黒山の人だかりであった。この神話は、多くの画家達によって描かれているようである。「アモールとプシュケ」と呼ばれたり、「キューピッドとプシュケ」と呼ばれたりしている。トマス・ブルフィンチの「ギリシャ・ローマ神話」に依れば「エロースとプシューケー」となっている。白雪姫などはこれを題材にしたのか、このプシュケは、3人娘の末っ子で、姉たちと比べ、それは大変な美貌の持ち主であったという。エロスの母親である、アフロディティー(ビーナス)が嫉妬するくらいに美しかったと言うから、大変なものだ。アフロディティーは、自分以上に美しいと評判である、プシュケの話を耳にして嫉妬したわけだ。早速羽の生えた息子のエロスを呼び、不埒なプシュケを懲らしめろと言う。美の女神であるアフロディティーのとんでもない言いがかりであるわけだが、エロスはそれに従い、用意した「苦い水」と「喜びの水」の内の「苦い水」をプシュケに飲ました。驚くプシュケのさまを見て動転したエロスが、持っていた矢で自分を傷つけてしまったのだ。その時「喜びの水」をプシュケの髪に降り注いだという。そして、エロスはプシュケの虜になってしまったのである。しかし、アフロディティーの恨みが溶けたわけではなく、プシュケは送葬の列のように岩山に追いやられ、嘆いていると、急にピュロス(西風)がいわゆる桃源郷に運ぶのである。はっきりとは書いていないが、これはエロスの工作であったように私には思われる。そこで、名も知らぬ夫が真夜中に来て夜明けに去って行くという。姉たちにそそのかされて、プシュケは、ある夜、顔を見ないという約束を破り、そっと夫の顔を覗き、愛の神エロスであることを知ってしまった。エロスは約束を破ったプシュケを怒り、宮殿も何もかもを消し去ってしまった。 (この辺りは鶴の恩返しに似ている)プシュケはその後、去っていった夫の行方を世界中をさまよって探したが、見つけることが出来ず、ついには、その懐に飛び込めとの助言の元、アフロディティーをたずねた。しかしアフロディティーにとっては、プシュケの美貌に対してはもとより、その虜になってしまった自分の息子のことで、とても協力する気にはなれなかったのだ。そこでアフロディティーは試練と言って、プシュケをいじめ始めた。試練は入り混じった穀物の山を1日で種類別に分ける(これには蟻が助けてくれる)、凶暴な羊から金色の毛皮を刈り取る(これには優しい河の精が羊たちを眠らせてくれる)、そして最後に黄泉の国の王妃ペルセポネから“美の箱”をもらってくるというものだった。プシュケは途中、湖に映った自分のやつれた顔に驚き、その“美の箱”を開けてしまった。プシュケはとたんに眠ってしまう。それは実は“眠りの箱”だったのだ。 そこへ偶然通りかかったエロスは、健気で純粋な彼女のことを見て愛おしく思い、彼女をオリュンポスへ連れて行き、ゼウスにアフロディティーとの仲裁を求めた。さすがのアフロディティーもプシュケの一途さを認め、2人は正式に結婚することを許された。プシュケは神の酒ネクタルを飲んで不死身になり、エロスと一生幸せに暮らしたという。何とこういった神話が、あのルーブルの作品の一つ一つに付随しているのだ。色の世界や、見てそのまま感動を得る印象派絵画とは違った楽しみがあると思う。宗教絵画や、古典の神話をモチーフにした作品の中には、そのベースとなるものがあるわけで、海外の人たちが、そのどれだけを知っているのかは分からないが、おそらくは、いわれを知って見ているのであろう。宗教画や、古典の絵を見る楽しみが増えるというものだ。
2009.09.08
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今日もほとんど外出することはなく、部屋でこのところ溜まった新聞に目を通した。今日もまだ暑い、そんな中、疲れたとは言いながら、連れ合いは、学校へ出かけていく。ゆっくりしていたいであろうに、やはり仕事を引き受けた以上は、と出かけていくのであるが、おそらく教壇に立つと、身についたはつらつさを取り戻しているのであろう。一度教壇に立つ姿を見てみたいと思うが、なかなか果たせない。新聞はそのほとんどが選挙の結果についての総括的な記事である。「政権交代」は日本に於いてというか、私の人生に於いては、本格的なものとしては初めてである。一部では、自民党は、内閣支持率を何とか高めようとの一点で、麻生首相の退陣の時期を見誤ったという目がある。なにやらお笑い番組の視聴率アップといった風潮は、芸能界、マスコミ、そして内閣にまでもという感じである。極端な個人主義ではないが、人は人、我は我といった、基本的なことが大切さを失い、とにかく大衆に迎合することこそが延命の唯一の手段であるというへんな風習だ。自民党は、自らばらまきと自称するに至った、高速道路1000円の時限的立法は、民主党の高速道路無料化によって上塗りされ、極端なばらまきと言わしめたほどだ。では財源はと自民党は言い、消費税アップは必至という。一報は、霞ヶ関の無駄をなくすことで4年間は十分にやっていけるとしている。自民党は過去に染みついた体質と経験から、演繹的にしか物事を考えられないのだろう。民主党大勝の結果が出ても、滑り込みで、天下りを許している。こういった政党は、もはや交代以外に発想を変えることは出来ないのである。今までもあまり愛想の良くなかった麻生総理のぶら下がり会見でも、悔しさとむなしさが前面に出て、むしろ哀れを催すのは何故だろうか。平家物語に言う、「奢れる者は久しからず・・・盛者必衰の理をあらわす」をまさに地でいった感じである。ぶれるぶれないと言った点が良く指摘されたが、麻生政権は、それ自身全くぶれたとは感じていないのである。ぶれるとは基本理念があってはじめて出てくる言葉で、理念信念がないところにブレなど起こることはないといった方が正解である。かつて「構造改革無くして景気回復無し」という小泉元首相も、所詮人間であり、世襲が問題になっている最中にいち早く、息子を後継にたて、それで改革を推進していると思っているのだろうか。そうではなく、彼は、単なるアジテートが巧い自分自身の理念に一直線だったから続いたのであろう。日本人はというか、洋の東西を問わず、演説が巧いリーダーは必ず成功している。ローマ時代のカエサルやオクタビアヌス、アレキサンダー大王、ナポレオン、さらにはヒットラー等々、事の善し悪しは別として、そんな演説に国民は酔いしれるのである。日本の郵政民営化で何が残ったのか、当時のマニフェストをかざして、全てがバラ色になると書いてあるが、悪くこそなれ、良いところは一つもないというのが民主党など大方の見解である。選挙後、落選した自民党議員の中に、本来は去るべき人間が、比例で復活していることに対し、若手を育てようという気持ちがないのかというようなことを述べていたが、これは、この落選議員の幻想であり、どんな大物と呼ばれる人もまず一番に自分しか考えていないと言うことの証である。陰で糸を引き、建設的なことを何も述べない自民党の元首相経験者などは、これからの野党としての自民党にとって、何の役にも立たないだろう。選挙中は、私が居なければ、この国は駄目になる的なことを言いながら、終盤追い込まれると私を助けてくださいという風に変わったという。国民は、貴方を助けるわけではないのだと言うことを理解していない。しかし有権者はまたしても彼の登場を許した。又、最後には、演説壇上で、はたと土下座した女性候補がいた。見事落選したのだが、土下座して1票を買おうとの心境になるほど、気持ちが動転していたとしか思えない。自民党事態が倦まれ飽きられてきたこの選挙では、方向的には結果は分かっていたが、まさかこれほどまでになるとは想像もしなかったであろう。いや、想像はしても、まさかとの緩みがあったように思われる。一方の民主党の新人議員であるが、143人にも上るこれら新人議員の力は未知数である。かつての小泉チルドレンといわれた人たち同様、これらは小沢チルドレンという名前で呼ばれていて、全てが小沢グループと言うことになる。この小沢氏の意見を取り入れないわけにはいかない民主党は、彼を幹事長に据えざるを得なかった。ここから先が、不安といえば不安の種である。小沢氏自身が、政党とは目的ではなく手段であると言い放っていることだ。16年前に発刊された小沢氏の「日本改造計画」をもう一度じっくり読み直す必要があるときが来たようだ。「ノーブレス・オブリージュ」「日米を基軸に平和維持」「国連中心主義」など、民主党の陰の実力者の意図を知る手助けになると思われる。表立つ鳩山氏、反小沢的な、岡田、前原、野田氏など選挙大勝後の民主党も一枚岩とは言い難く、脆弱な面を持っていることに注視しなければならないと思う。私個人としては、昔年の垢のような、既得権益との決別をもっとも期待するところである。清流は流れて初めて清いのだが、一旦淀みとなると、腐敗腐臭が起き、全てを駄目にしてしまうと思うからだ。
2009.09.07
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今日は3ヶ月おきの高校同級生のゴルフコンペが新宝塚カントリーであった。スタートは9時7分だというのに、特に張り切っているわけではないが、いつもの調子で朝早く出かけてしまった。インターネットによるガイドのアクセスマップに依れば、中国自動車道沿いの国道176号線からのアクセスが書いてある。中国自動車道の出口で言えば、豊中しかない。宝塚の方向からはいる道もあるようだが、不案内なので取り敢えず176号線を採ることにした。これがまたくせ者で、豊中で中国自動車道を降りるところまでは、伊丹空港に良く行く道だからどうということはないのだが、降りたとたんに、空港への道をクロスするように国道176号線は左との標識がある。ついハンドルを左に切って、中国自動車道の脇道から離れてしまった。どうやら176号線には新旧の名称で違ったルートがあるようで、私は旧ルートを採ってしまったようだ。その頃からやっと動き出したカーナビの声に左右されながら、右や左にハンドルを取ったが、なかなかアクセスマップに記載されている名称には出くわさない。取り敢えず、公共の名称では、阪急電車の山本駅というのが目印である。車の窓を開け、「山本駅へはどう行けばいいのですか」と道行く人に聞くと、幸いにも近くを走っていたらしく、すぐ道を教えてくれた。山本駅のガードをくぐると、後はゴルフ場の準備した地図通りに行くことが出来る。山手台という大きく開け、なお仕掛かり中のベッドタウンを通り、長尾山トンネルという比較的長いトンネルを過ぎると、猪名川町にさしかかる前に新宝塚の看板が見え、細い道をたどってゴルフ場に到着した。それだけ迷ってもスタートの1時間半前には到着して、連れ合いに早く着きすぎたという到着のメールを打つと、「でしょう!」と返ってきた。皆が集まり、3組12名でインからのスタートだった。スタートの10Hではアプローチでトップし、向こうのバンカーに入れたのを皮切りに、3パットをするなど、出足は良くなかった。このコースは、杉原輝雄が監修したと言うことだが、グリーンの早いことと言ったら、手がつけられない有様である。上りを打ってもカップを過ぎると、すーっと伸びてホールを遠く過ぎてしまう。なんと言うことだと、皆はぶうぶう言っていたが、私などは11H、12Hとも30cmのパットを3パットするという目も当てられないことになってしまった。そんなわけで、前後半を通じて、ショートホールの1パット2回を除く7ホールで3パットする憂き目にあってしまった。さらに、ティーグランドに立ってもどちらがねらい目であるかが分かるホールは少なく、これをキャディー無しに良くやったものだと思う。一旦上がりその先が見えないので取り敢えずはフェアウェイ真ん中に向かって打たなければならないわけだ。一度などは、フェアウェイ左気味への快打で、まずセーフであろう所に球は伸びていったが、何と、フェアウェイが段になっていて、あわやもう少しでOBかと思わせるホールであり、下の段のラフから打つといったケースもあった。ティーグランドに立つと白杭がやたらに目に付く、左だけかと思うと、右にもちゃんと白杭がある。要するにフェアウェイが狭いのと、山の傾斜を利用しているから、真ん中に打つとどちらかに偏ってボールが流れてしまうことも計算に入れなければならない所もあった。ショートホールで1つのバーディーと1つのパーを取った以外は、何ともおぞましい結果となってしまった。ティーショットは時々天ぷら気味になることはあったが、今日はそれに加えて、左に引っかけるやら、当たりが悪いのやらとにかく一定していなかった。セカンドも、時々ダフル有様で、OB2回で納まったのはむしろ良い方で、同じ組の友人は、左右にOBを同じホールで立て続けに出すなど、メンバー全員がどうも湿りがちだった。私などは、バンカー越えのアプローチは、特に問題にしていないほど練習してきたつもりだが、眼前のバンカーに3回も落とすなど、手が縮こまってしまっていた。私にとって199ヤードで、グリーン手前に大きな池がある最終の9番ホールは、セットアップするほどでもなく、また狭いグリーンにワンオンも出来ず、結局手前の池にポチャリと水しぶきを上げてしまった。ここのカートには優れたGPSが付いており、ボールの横までつけると、飛距離と残りのヤーデージが画面に出るようになっている。これは多少参考にはなったが、腕がこれに追いついていかないという感じである。ガンを克服した友人は、個人用に小さなGPSを持っており、それによると自分自身の球の残りのヤーデージが即座に分かるのだという。ずいぶん便利にはなったものだ。参加者全員ネットでのアンダーパーは出なかったように、なかなか難しいというか意地の悪いコースだと思った。私は高いハンディーのおかげで、大きく叩いたものの、5位という中間の成績であった。今日は、夏も終わりという独特の残暑が特に厳しい日差しで、少ししか持って行かなかった水分が途中で切れて、歩くのも大儀になってしまった。最後までカートを出来るだけ使わない主義で、コースを歩いていたが、さすがにばてて、最後の3ホールは、進んでカートに乗り込む始末だった。仲間のうちにも、ほどほどに元気の良い者もいるかと思えば、やや疲れが目に付く友人もいる。後どれだけこのコンペが続くか分からないが、ガンを克服した友人のように、ゴルフが出来る今が幸せだというそういった日々が私自身にやって来るのもそう遠くないのかも知れないと感じながら、その友人を送りながら帰途についた。
2009.09.06
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今日は昨日のドライブ旅行と明日に控えたゴルフコンペの中日で、何の予定もなく一日をごろごろと休養と体力回復ということで過ごした。こんな日も、ホラティウス式の「今を捕らえ」て生きているつもりである。サラリーマン時代から、それを卒業し停年という時を過ぎても、長年染みついた毎日忙しくしていると言うことでしか自分の存在感を感じなかったけれど、現在のように何もしないでいることも「今を捕らえている」と言うことだと馴染めるように徐々に気持ちを切り替えられるようになってきた。無宗教ではないが、とんと宗教心の薄い私が言うのも変だが、世界の三大宗教といえば「キリスト教、イスラム教、仏教」とされる。それぞれ信者数は、キリスト教が20億人、イスラム教が13億人、仏教が3億6千万人程度とされている。このほかにも、ユダヤ教があり、また信者数では仏教よりも多いとされる9億人程度の信者を持つヒンドゥー教等がある。その中でも、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教はアブラハムの宗教とも呼ばれ聖書の預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継いでいるとされる。仏教に於いては世界の創造主などが強いて居る訳ではなく、中には、大日如来が、宇宙の創造主とする説もあるし、インドの天の神ブラフマンを創造主とする考えの人もいるようだ。ヒンドゥー教のブラフマンに通じるところなのかも知れない。このブラフマンが意識の最も深い内側にある個の根源を意味するアートマンと合体した形でこの世は存在するという説である。このブラフマンが転じて「バラモン」になったという説もあり、いささかのにわか勉強ではとうてい真意を知るべくも無い。ある説によると、神を信じようが、創造主を信じようが、霊魂を信じようが、仏を信じようが、そんなことはどうでもいいことで、現在の結果は過去の原因によって起こった、未来の結果は現在起こりつつある原因によって生じるという考え方、見方を教えるのだという。概して、「サル」が人間になるという進化論などもってのほかという考え方である。その説では、我々は惑星間で種を繋いできたからという説明がついている。我々日本人が海外に出かける時にはほとんどが宗教の欄に仏教(Buddist)と記入する。ところがである。年の初めのお参りは三社参りなどといって神社に参る習慣がある。元々は、朝廷が伊勢神宮、石清水八幡宮、賀茂神社の三社に参ったことを期限とする説などがあるが、何故それで仏教なのかという不思議さである。もっとも、パスポートの欄に「神道」と書いても何の差し支えもないのだが、ついつい三大宗教の「仏教」と書いてしまう。この神道では、古事記にあるように、国造りは、太陽や月が出来はじめたころという所から始まっている。46億年前に宇宙がビッグバンで出来上がったとされることは、さらりと受け流しているのである。もっともその頃には現代ののような知見はなかったわけであるが・・・。それを元に、伊邪那岐神(イザナギ)の余分に突き出ているところで伊邪那美神(イザナミ)の欠けた部分を塞ぎ国を造ろうとなっている。まさに神道における人類創造である。ここには、ダーウィンの進化論など入る余地もないわけだ。アブラハム宗教と呼ばれる、キリスト教やユダヤ教では元になるのは聖書であり、私の理解では、ごく単純に旧約聖書を信じる民がユダヤ教であり、新約聖書を信じる民がキリスト教徒であると括っている。キリスト教徒であっても旧約聖書の考えは踏襲されていっているわけで、旧約聖書の創造記では、はじめに神が天と地を創造したと之もごく簡単に書いてある。神道における天孫降臨に当たる部分であろう。ところが、旧約聖書の創造記では、いわゆる地球の曜日を事細かに創造した過程が書いてある。光と闇を分けた第一日、大空である天と、地上の水を分けた第二日、その水の部分に乾いた陸を造り植物を栄えさせた第三日、ここで、光るもの、おそらく「太陽」と、闇を司る「月」を創造、昼夜、一年を分けた第四日、海の生き物、陸の生き物、空を飛ぶ生き物を造った第五日、地上に、野獣と家畜の別を造られ、それを支配し、食物とすべく神の形を模した人を造られた第六日、そしてすべての森羅万象を造り終えられた次の日を休息日とされた第七日。という具合である。アダムとイブが禁断の園を追われたこととのつながりはよく分からないのであるが、第六日辺りの出来事なのであろうか。せっかく人間を造りながら、禁断の試練を与え楽園を追放するなど、これら宗教の教えるところには多大な矛盾があるように思える。この休息日を、イスラム教では金曜日とし、キリスト教では日曜日としているわけである。年代的には、ユダヤ教が先行し、キリスト教がこれを追加修正することで起こり、イスラム教は、最新の預言者モハマドによって、これらを集大成したものであると、それぞれは言い張っているわけだ。日本における仏教の伝来も、またその後の発展も全ては基を一にするはずのものであるが、なかなか細かな点で折り合っていないのが現状である。それぞれの教義には良いことを書いてあり、うなずける部分が多いのであるが、何故に世界が、混沌としているのか、これが神のご意志によるものなのか、私には全く分からないが、これからも機会があれば、聖書や、コーラン、そして仏教の切り口として、取り敢えず歎異抄などを読んでいきたいと思っている。
2009.09.05
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旅の朝は特に目が早く覚める。まだ暗い内から目覚めたが、特にすることもない。一寸早めだが温泉に入ろうと出かける。ここの温泉は、午後3時のチェックインタイムから、翌朝11時まで夜通しはいることが出来ることになっている。少し早めかと思っていった温泉には、もうすでに先客がいるらしくスリッパがあった。上には上がいるものだと感心して、小さな露天風呂に出ると、その先客も露天風呂での半身浴を楽しんでいた。「雨は大丈夫ですかね」と話しかけられた。昨日の夜の雷鳴は、雨を運んできそうなのか、まだほの暗い空には、少し灰色が勝った雲が覆い被さっているようであった。「良い天気になると思いますが」と何の根拠もないが、感覚的に今日は晴れるだろうと私は応えていた。「どこから来られたのですか」と聞くとその先客は、京都からだという。私は、京都と大阪の間の町からだと名乗ったが、先客はプロの写真家で、この伊根には初めて来たのだと言うことだ。舟屋は日本中で伊根のここにしかないということで、知る人ぞ知るの場所だという。先客は、京都在住なので、京都周辺は良くカメラを担いで廻ると言われる。プロの写真家から見て、日の出と、夕暮れ、それに雨の日などが被写体としては優れているのだという。我々素人にもその感じは分かるのだが、如何せん光の取り入れ方など技術的な面に於いて、プロのようには撮れないのが現状である。まだ日の出前の露天風呂で話をしているうちに、そろそろ日の出も近くなったので、出かけてくるとその写真家は出て行った。入れ替わるように次の客が、風呂に入ってくるのが見えた。ここ、伊根の町は若狭湾に面していて、方角的には東の方を見ることになる。何処かこの周辺の山に登るときっと良い日の出が撮れるに違いない。昨日の夕日を撮ろうとしたら、もし晴れていても、丹後半島をその北端の経ヶ岬にまで回り込まねばならないだろう。朝風呂は実に贅沢なものである。小さな浴槽ではあったが、独り占めできる幸せをしばし味わって、一寸早めに外に出た。しばらくして連れ合いが出てきて、やはり朝風呂をゆっくりと楽しんだようだ。朝食は、7時半からということになっている、まだまだ時間があるので、少し明るくなった、宿の公共のベランダで、石のストゥールに腰掛けて二人で湾を眺めた。宿からは南の方角を望むことになるのか、せり出した半島が、のっぺらな海の風景を複雑な風情のあるものにしていた。遠くに見える、緑に塗装された桁の橋を帰りには通ることになるのだろう。朝食までのしばしの間を部屋で再びまどろんだ。朝食時には、食堂に当たる広間には待ちかねたように昨夜泊まった人のほとんどが一時に集まっていた。宿の従業員も大変だなぁと思いながら、連れ合いが、「この近くの方ですか」と聞く若い人は、一寸遠いところなので、寮に泊まっているとのことだった。食事も終え、宿で現世の状況などテレビで見て、出かけることにした。帰りは丹後半島の経ヶ岬を廻って宮津に戻ることも出来たが、一寸曇り気味なので、昨日来た道を帰ることにした。朝の海岸通りは、また、のどかで、さわやかであった。連れ合いが昨日言っていた、天橋立ワイナリーに立ち寄って、試飲の出来ない私に変わって、2種類を試飲し、一寸甘さを抑えたワインを購入した。そこを過ぎると、皮肉にも、お天気が良くなって、空は青さを増してきた。これなら、丹後半島を経ヶ岬を越えて一周するのも良かったかと思ったが、途中何処といって立ち寄るところもなさそうだから、このまま帰ろうと言うことになった。帰りはごく単純で、宮津から丹波綾部道路に入り、また国道27号線を今度は、丹波からいつもの京都丹波道路に入って、一気に沓掛まで出た。丹後は、京の都から遠いという意味で理解は出来るが、何故海に遠い内陸地方を丹波という「波」が付く名称としたのか、等と考えながら車を走らせた。「丹」とは元々赤土を表す言葉で、全国にはこの「丹」と名の付くところは多いようである。帰りはあまり早く着きすぎるので、京都手前の亀岡で、ゴルフのパター練習をする予定だったが、沓掛の終点の一歩手前である篠ICで降り損ねた。沓掛からUターンし、国道9号線を再び北上し、目的のゴルフ練習場に着いた。シルバーは2時間1600円という事で2時間の打ちっ放しをしたが、肩を痛めている連れ合いは、その間我慢強く待っていた。球は綺麗だし、広々とはしているのだが、疲れからか、思うように飛ばないので明後日のゴルフコンペが思いやられたが、何とか打撃練習を終わり、今度は、ミニコースといっても10-20ヤードの7ホールの寄せとパターの練習コースで連れ合いと一緒に遊んだ。小さなグリーンに乗せることは難しく、なかなか思うようにはいかないが、連れ合いはそれでも、実戦に似たコースは大いに練習になるという感想だった。なかなか寄せだけとかパターだけの練習場はないので、いたく気に入ったようである。昼食前から、昼食をはさんで、日が西に傾くまで打ちっ放しと、ミニコースで遊び、そこからは何時も通る、元来た道を家路についた。今日は、半分はドライブ旅行で半分はゴルフの練習という一日になった。
2009.09.04
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今日は朝、比較的ゆっくり丹後半島の伊根にドライブ旅行に出かけた。連れ合いは職場の仲間と何度か訪れているという。目的地は、「舟屋の里」と呼ばれる日本ではここしかないという舟屋という形式の建物を訪ねることと、海岸沿いの「油屋」という旅館に泊まることである。平日に京都の外れの沓掛迄出るのは、裏道を使ってすぐである。沓掛から、連れ合いの友人の別荘地である南丹市へは何度か行ったことがあり、京都縦貫道を通る。この道路は中途半端に出来ていて、京都丹後道路は丹後市で一旦一般道路に降りる。我々にとって丹波までは、いつものコースである。自動車専用道路を降りてすぐに「やまがた屋」という所を右に曲がってという風に連れ合いが助手席でナビゲートしてくれる。その通りの道を選んだが、なかなか国道27号線らしくない。カーナビはカーナビでどうやら西の舞鶴若狭道路に出させようとしていっそう混乱させる。一寸道を通り越して、違和感を感じ、「やまがた屋」まで戻ろうと言うことになり確認すると、やまがた屋だと思った店は、それとは違った店で、道路標識のずさんさで、国道27号線はほんの少し先の道を曲がるべきであったのだ。友人の別荘を訪れたときは大野ダムの素晴らしい桜の時期だったが、そこから日本海に注ぐ由良川に沿って国道27号線は走っていた。田舎道で、交通量も多くない。夏の海水浴場や、冬の蟹の時期にはそれでも渋滞するという。今は時期はずれ、前後の車の数もまばらである。そうこうするうちに、綾部市に入ると、また、有料道路が現れた。一般道路を取るのも自由であるが、せっかく出来ている自動車専用道路だからと入ったが、これが京都縦貫道路の北側の丹後綾部道路である。高速道路とは言い難い片側1車線の対面通行で、速度制限も70キロである。しかしこの道で行くと舞鶴方面を迂回して宮津方面に直線的に早く着くことが出来る。観光旅行でもあるのだから、そんなに急いで目的地に近づくことはないのだが、一旦ハンドルを握ると、なにやら一目さんとなるのがドライバーの心理である。宮津市で京都縦貫道路を降りるとすぐ天橋立である。私は小さい頃にどの姉と来たのだったか忘れたが、ここで、例のまた覗きをしたことがあるのをぼんやりと覚えている。近くに海軍工廠であった舞鶴があり、戦後のソ連からの引き揚げ者はここに戻ってきた訳で、二葉百合子の「岸壁の母」はここを舞台とした歌として有名である。私が造船時代には、ここ舞鶴にある日立造船の工場に委員会で来たことがあるが、その場所は宮津からは少し東に位置する。天の橋立で一旦休憩と昼食を採ることにした。観光地でいささか腹立たしいのは、駐車場の料金である。ここでは1回が800円と600円がある。どうやら600円の方は、昼食時に割引が無く、800円の方は1割の割引があるのだそうだ。結局800円の方に駐め、近くの「千歳」というところで昼食を採った。連れ合いの話では、繁忙期には、じっと待って、入れるかどうかと言うことらしいが、今日は我々二人の他客はいなかった。昼食後すぐ近くの「文殊堂」に参った。智恩寺山門という厳つく立派な門をくぐると、左に多宝塔が建っている。境内はさほど広くはなく、境内の木々には、なにやら小さな扇が逆さにたくさんくくりつけられている。それには「大吉」「末吉」などが書いてある。おみくじらしいが、単なるおみくじよりやはり高く設定してあるようだ。お寺でのおみくじは、お正月くらいで十分だと思っているので、素通りした。奥には、三人寄れば文殊の知恵というあの「文殊堂」が威容を誇っていた。近くによって見ると真言宗と書かれていた。我が浄土真宗とは時代も古いし、若干流れが違うのだなと思うだけで、通り過ぎてしまった。日本人は寺と見るとお賽銭を上げて祈るが、西洋流とかイスラム流に当てはめると、カトリックがプロテスタントに祈り、スンナ派がシーア派に祈ると言うことになるんだろうかと考えてしまった。まぁ、そういう意味に於いても、日本は平和である訳で、何処でどう祈ろうと、きっと御利益があるに違いない。そこから、大型船が通るときに廻って開くという、廻旋橋を通り、砂州に出てしばらく散歩した。ここを歩いて渡ると対岸の籠神社にいたり、宮津側の股覗きよりは素晴らしい笠松公園の股覗きがあるという。とてもそんなところまで歩く気にはなれないので、しばらくの散歩後、駐車場を後にし、車で回り込んで、その籠神社を通り過ぎ伊根方面へと車を進めた。しかしわざわざ股を通して風景を見ると言うことを誰がいったい考え出したのだろうか、等と下らぬ事を考えながら、若狭湾の海沿いに20kmあまりを走った。海に沿って車を走らせるのは気持ちの良いものである。伊根近傍になるとまた連れ合いの出番である。昔来た記憶をたどりながら、カーナビの案内も参考にして、伊根湾巡りの観光船乗り場に着いた。時間もぴったりで、観光バスの乗客共々、伊根湾を一周した。写真などでは、海から撮した舟屋という建物を見たことがあるが、本物を見たことがない。丹後半島の若狭湾側に面するこの伊根は、リアス式の海岸に守られるように波が穏やかで、潮の干満の差が少ないのだという。湾の左右にはその舟屋が軒を接して立っている。元々の住人は海岸線から少し引いたところに住んでいたそうだが、海路が交通手段のこの地方では、海にせり出して、舟の駐船場(舟小屋)を作るようになり、元々舟だけの置き場だったのをやがて人がその2階に住むようになって今日の舟屋の姿になったのだという。今では舟屋の数は2百数十軒になるというが、舟が大型化、モーター付きになったため、納まりきらない舟は海岸に係留されていた。カモメが飛び交う湾を1周して、今度は、宿屋の「油屋」に向かった。田舎の道で、迷うことなく宿屋に着いたのは、チェックインギリギリの3時過ぎだった。早速取り敢えず汗を流しに湯につかったが、思ったよりは浴場は小さく、ここに何十人も来たら大変だろうなと思った。夕食後、近くを少し散策したが、宿屋の他には何もなく、遠く西の空の落雷による閃光が、山越しに見えるだけだった。ドライブの疲れも若干有り、2度目の入浴後は、早めに床についた。
2009.09.03
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2000年も前のローマ詩人、ホラティウスの言葉であり、時々思い出す言葉である。ラテン語で「カルペディエム」と言うらしく、「その日を摘め」とか「一日の花を摘め」とかの意味になると言う。これを、将来のことは気にしないで、現在を楽しめという快楽主義、刹那主義の源泉と考えられている向きもあるようだが、しかし真実は違って、この大意は「日々の仕事に精を出すが良い。人生は短い。いたずらに先に望みをかけるのは宜しくない。今こうして話している間にも時は流れる。今日を捕らえよ。明日を頼むなかれ」と言うことだそうである。先のことは分からないのだから今の時間を大切にしてしっかり生きていけ、というのである。英文学者の外山滋比古は、原典に帰り、将来不透明なのだから今日をしっかり捕えよ、いま出来ることを先にのばすなとした方がおもしろい。と解説している。「明日有ると思う心のあだ桜、夜半に風の吹かぬものかは」の心で生きよと言うことに通じるという。また、吉井勇の「ゴンドラの唄」にあるように、「命短し恋せよ乙女、紅き唇あせぬ間に・・・」と言うことにも通じるものである。昔良く、「 Never put off until tomorrow what you can do today.(今日出来ることを明日に延ばすな。)」とよく言われたことを思い出しますが、イスラム圏や、南方の民族の間では、逆に、「Let's put off until tomorrow what you can do tomorrow.(明日出来ることは明日に延ばそう)」というケースが多い。受験勉強時代のように、「こうしなさい」とか「こうすべきだ」とか背中に義務を負うときには、「明日に延ばすな」が心を強制して、負担に感じることが多かったように記憶する。ついつい、明日でも出来るという感じで先送りしたこともある。その時はアラビア人やフィリピン人にでもなっていたのであろうか。しかし、ここで言うホラティウスの言葉は、「今を捕らえて」生きろと言うことで、義務感ではなく、積極的に今日できることを楽しんでやっていけという意味である。前にも述べた、親鸞聖人が出家されるときに「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んだように、明日ゆっくりこの桜を愛でようと思っていても夜中に嵐が来て全部吹き飛ばすことにもなりかねないと言うことである。私も、一歩一歩、着実に生きていくと言うことの大切さを感じる歳になったと思う。仏教詩人の坂村真民も同様の意味であろう「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」ということを言っている。また、瀬戸内寂聴も「今を切に生きる」といって、「切に」すなわち、「心をこめて」、今この瞬間を精いっぱい、丁寧に生きることが幸せにつながると説いている。洋の東西、また古今を問わず、言わんとするところは同じ意味ではないかと思う。その意味を感じ、そして、同感の気持ちを持つにはやはりある程度の年齢にならないと駄目なのかも知れない。ここで言う、駄目というのは真の意味の駄目ではない訳で、そう感じることが、先を見据えた気持ちになるから故の発想ではないかと思うのであり、若い頃にはむしろそのような抹香臭いことを考えずに生きている方がまともかも知れない。ホラティウスの詩の中にはまた、「私たちが話をしている間にも嫉妬深い「時」はすぎていく。」とあるようだ。では、なぜ「時」は人間に「嫉妬」するのだろうか。ただ飛んで行くだけで、何もできない「時」は、生きて、日々を楽しめる人間がうらやましいのだろう、と解説にはあった。私は、時が嫉妬しているように時を感じて生きてきたことはないが、ここで年齢=時が私をして、このような感慨を抱かせるのは、ホラティウス流に解釈すれば、「時」の仕返しかも知れない。その昔、「今を捕らえ」て生きてきたならば、ここに来て、「時」に仕返しをされることもなかったかも知れない。しかし、ここで、それを持ち込むと、またホラティウスの言うように「今を捕らえよ」という真意に背くことになる訳で、これから私に与えられた人生を、「今を捕らえて」充実した日々にしていくことで、こういった先人の教えを素直に受け入れることになるのであろうと考えている。戻らぬ「時」を嘆くより、これからの「時」を活かして「今を捕らえて」生きていこうと思うのである。
2009.09.02
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小学校時代の同級生から、昨日急に電話が掛かってきて、一度飲みましょうとの誘いである。一昨年の暮れに、担任をしていただいた先生が亡くなったのを忍ぶ会というのに本当に久しぶりに出かけてから、昨年の9月に誘いがあった同窓会で話をしたのが2回目の同級生からである。特別な用事がある訳でもなく、いつでも良いと言うことだったが、それではと、昨日の今日ではあるが、高槻の駅前で話すことになった。そういえば、その友人は今は、高槻の外れに住んでいると言うことを思い出した。何時でも良いと言うことで、一寸早いかと思ったが夕方4時にガード下の食堂兼飲み屋で落ち合うことにした。朝夕はずいぶん涼しくなったとはいえ、日中は未だ暑い。いつものように歩いていくことも考えたが、汗をかいたらその後が大変だと思い、電車で出かけることにした。店の前での待ち合わせと言うことで、例によって約束の時間より少し前に到着したが、当然友人は未だ来ていなかった。店の正面はまさに西日が直接当たる陰のないところだったので、近くのセンター街を散歩しながら、少し時間をつぶした。約束の時間に店の前に帰ると、友人は自転車でやってきた。そのまま店に入ったのだが、結構な人が入っている。どうやら、昼食時からオープンしているという店であった。左側にはボックス席があり、ここは連れ合いと高校時代の友人と一緒に食事をしたところだったが、右側はカウンターになっていて、昼間から各種のお酒を出すようになっていた。友人は、良く来るようで、ハーフアンドハーフのビールと唐揚げ、蟹の爪などを注文した。私も同じくハーフアンドハーフを頼んで久しぶりに会う友人と杯を合わせた。今年は、同窓会をする予定がないらしいので、どうしているかと急に思い立っての電話だったという。友人は、奥さんが介護士として未だ働いているので、朝5時半からの犬の散歩や、食事の支度などを逆転してやっているという。アウトドアが好きなようで、良く外には出るのだが、特に定常的にやっていることはないという。私の方は、幸いにも、ゴルフという柱があり、それに歩こう会とか、個人的なウォーキングなどに加えて、NHKの講座への参加などめいっぱい遊ぶ企画がある。さらに私も好きなのだが、連れ合いの旅行好きに便乗して、各地へバス旅行なども時々入ってくるから、暇をもてあますことはほとんど無い。むしろ、ゆっくり本を読みたいと思うが、何故か本を開くと居眠りが付いてしまう有様である。よくよく考えると、目が悪くなった分、めがねをかけて本を読むと言うことはかなり疲れると言うことが分かった。私には、連れ合いの孫と接する機会があり、幼児の感覚の鋭さなどと自然に接しながら時に感心したり、驚いたりしているのだが、友人には、二人の子供の両方に子供が出来ないと言うことで、孫はいないのだという。孫がいれば、ずいぶんと面倒を見るのが好きそうなタイプである。世の中、なかなかうまくいかないもので、人が生まれてから、どのように生きるかは、ある程度定められた道があるのではあろうが、時として人生のターニングポイントにぶち当たることがある。友人は、大阪市内の工業高校で化学を学び、住友化学系の関連会社に勤めたのだという。当時は組合活動華やかなりし頃で、反権力的方向に走っていったという。私のようなノンポリの生活を送ったのではわかり得ないことをいろいろ経験したようである。とは言いながら、我々二人とも、高度成長期に行き当たり、また、オイルショックなどを経験して今日になった訳であるが、それでも当時は今よりは未だ良かったという感慨の話となった。友人はそんなこともあって、入社以来選挙では共産系の候補に投票してきたが、今回だけは、民主党が推す社民の候補に票を投じたのだそうだ。この期に及んでも、おごりを捨てきれなかった、公明党の3羽ガラスがそろって落選したことを、私と同じく拍手を送っていた。自民党の大物が、次々と敗れているのを見て、彼らの政治感覚は、やはりおかしかったのだと言うことが証明された気がした。政治家の出処進退は、自身が決めることと言いながら、80に近い元総理の出馬で落選をし、やっと気づいて引退を決めるという無様な姿は哀れみを感じるほどであった。そんな話をとりとめなくしながら60数年を、生きてきて、今からどうこう出来る力はないが、出来るだけ健康でいられるようにとお互いに願った。友人も、早期に発見したために救われたという脳梗塞を経験している。最初に手がしびれ、次に顔面がしびれて、おかしいと言うことでCTスキャンを撮ったところそれが見つかったのだそうだ。昨日の先輩の話ではないが、人間60年以上も使い続けていると、パーツも傷むし、いろいろさび付いたりしても仕方がないことだというのを思い出した。友人もそのこと以来お酒をしばらく止めていたが、また復活して飲み始めたのだという。もはやこの年では、先に何があってもおかしくはないのだから、先を懸念するよりも、今を楽しく生きることが必要なのだと言う結論であった。小学校以来1年前にあった程度であるから、なかなか共通の話題は少ないものの、同じようにサラリーマンをしてきた共通の土台に立っての話は、結構時間のたつのを忘れさせた。近くに住んでいるのだからまた時々会いましょうと、約束して店を出た時は、まだ周りは明るかった。帰りの片道は歩こうかとも思っていたが、ついつい電車の駅に足が向いていた。帰って、しばらくすると、姫が夕食に訪れてきて、ロンドンのナショナルギャラリーの話や、裁判員制度について、熱っぽく語っていたが、いつもは起きて聞いている連れ合いも疲れて眠ってしまい、反対に、いつもは早々と眠る私の方が最後まで相手をするという珍しい事になった。
2009.09.01
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