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連れ合いの孫の幼稚園が企画した3日間のプール教室の今日は最終日に当たる。2人目の孫は未だよちよち歩きで目が離せない上に、今日はなにやら熱っぽいのだという。毎回プール教室からの送迎バスがあるので特に問題はなかったようだが、最終日は、保護者がプールサイドで、子供達の水につかる風景を写真やビデオにとって良いとのことで、母親に頼まれていたこともあって、連れ合いと二人で別途プールに向かった。少し早めの到着で、狭い駐車場にも未だ空きがあった。プールではすでに別の幼稚園児達が水と戯れている。待つことしばしで、どうやら送迎バスが到着したのであろう、新たな賑やかな声が聞こえてきた。どうやら1時間の行程らしく、しばらくして、中の子供達は誘導されて出てきて、孫達の幼稚園の園児が交代でプールサイドに集まった。皆小さいのだが、それぞれのスウィミングスーツに身を固め、なかなか華やかな彩りである。同じ幼稚園に通っている子供達でもすでに個人的にプールに来ている子供もいれば、今回が初めてという子供もいるようだ。その経験度に応じてとは大げさだが、5-6人のチームに分けられ、指導員の人たちがそれぞれに水に慣れさせることを主目的に教室は進んでいった。両肩に浮き袋を付けて、水の中に入り、プールの底には、すのこの台を置いて、足が届くようになっている。その台を斜めにして滑り台のようにしたり、指導員が一人一人抱き上げて少し深いところにおろすと言ったことが続けられる。それでも水を怖がる子供がいて、泣きじゃくっている一方では、嬉々として戯れている子供もいるといった状態である。私たちを含めてそうなのだが、驚くことにどの母親も(時には父親らしき人も)立派なビデオカメラを持って撮影していることだ。私も頼まれてビデオを何度か回したり、持って行ったカメラに収めたりしたのだが、世の中はずいぶんと変わったものだと思った。自慢ではないが、私が泳ぎを覚えたのは、中学校時代の臨海学校で、若狭湾の久美浜だったかに出かけた時だった。水になれることや、顔を浸けることから始め、やっと平泳ぎが出来るまでになったことを覚えている。当時は水泳教室などといったしゃれたものは無かったような気がするし、又あっても行けるような状態ではなかったと振り返ってそう思う。今の子供達は、恵まれているというか、早くからこういった機会が持てると言うことだ。しかし違う見方で言うならば、戸外で自由に土遊びや、水遊びが出来なくなって、いつも囲いの中で何かをさせられ、その企画のままに育っていかされるということだ。一夏たった3日の教室で泳ぎを覚えることが出来るわけではなく、麗しい記録がビデオテープに残っているだけの子供も出てきそうな気がする。そうこうしているうちに約束の1時間はあっという間に過ぎてしまい、孫達は着替えて外に出てきた。孫達が引き上げた後には、小学生か、中学生であろう、相当練習を積んだと思える子供達が、平泳ぎやクロール、それにバタフライと背泳をそれぞれ鮮やかにこなしていた。実は、私は、平泳ぎを最初に覚えたのだが、遠泳などの経験もなく、ただ泳げると言うだけで、クロールは真似事でやれる以外、背泳や、バタフライなどは出来ないのである。ここの教室の生徒達はすいすいとこなしている。やっぱり、専門家に一から系統的に教わるのが有効であることを感じた。こうして、今世界水泳でがんばっている選手達が生まれるのかと少々感慨深かった。私のゴルフも然りである。若い頃にちゃんとした指導者についてやっていれば、今時、力むこともなく年相応のゴルフが出来たであろうにと思った。プール教室の外に出ると灼熱の太陽が待っていた。帰りは、いつも歩く辺たりまで車で帰り、そこからは運転を連れ合いと代わり、歩いて帰ることにした。サンダル履きだったので最後少し足に食い込んだが、実際歩いてみると風があり考えたよりも心地よかった。帰ってみると歩数は、1万歩に少し足りなかったのは少し残念である。
2009.07.31
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一昨日薄い茶封筒が届いた。差出人は税務署である。又かと、いやぁーな気分になった。この間連れ合いに手伝って貰って確定申告をしたばかりである。又何かあるのかと、いろいろ考えを巡らしたが、連れ合いの予想で、この事だろうと見当がついたので、とりあえず今日行ってきた。どうやら税務署では、この8月からこういった税関係の問題について追徴などの受付を始めるのだそうで、今日なら未だ空いているからそれほど待つ必要はないとの話だった。私は、こういった類は、全くもって不得手で、連れ合いの助けを借りるしかすがるところはない。前回も、連れ合いのおかげで、高額の税金を取られるところだったのを最終的に1/10まで下げて貰ったという絶大な信頼がある。税務署といっても、その場所は我々の住む場所からは2市も離れたところにある。ちょっと歩いてと言うわけにはいかない。通常の道は混んでいるだろうと脇道を通り抜け、車を走らせたが、その脇道から通常の国道を交差して行かなければならず、その交差に3-4回の信号待ちをしなければならなかった。税務署の近くには市営の地下駐車場があり、すでに何台か駐まっていた。一番税務署に近い側のスペースに車を駐め、掛かりの机についた時は未だ隣で、おじさんが相談中だったほかは待っている人はいなかった。対面した女性署員は、丁寧な言葉で、「ご苦労様です」とか「ありがとうございます」という。たぶん遠路はるばるという意味や、納税に来て貰ってという意味であろうが、どんな丁寧な言葉も、税務署員からかけられてうれしいと感じることはあまりない。昔から、天引きであったのだから当然であるが、確定申告などしたこともないし、まぁ、俗に御上がしていることだからと、税に対することは全くの無知に等しかった。納税は国民の3大義務であることは知っているし、当然的確に収めてきたと言うよりは、的確に差し引かれてきたわけで、青色申告に該当するような働く会社以外で収入を得ることなどは基本的に禁じられていたのだから、この期に自分で申告せよと言っても手が出ないといった有様だ。しかし、昨今、御上というものがいかにいい加減であるかのケースを様々に聞かされている。受け付けてくれた人は女性で、手にはしっかりと自分たちが計算した資料を持っていて、こちらが提出した資料の数字と合っていることを確認すると、手早くあらかじめ税務署で修正した申告書を指しだし、説明をしてくれた上で、以前青色申告で税が還付されましたが、今回の計算で、少しオーバーするため前回の還付金プラス今回のオーバー分を納めてくださいとのことだ。予期していたこととはいえ、「何だ、取られるのか!」という気持ちになるのはやむを得ない。しかし決まりは決まり、間違っていないのは向こうの方だから、早速納付書を貰って、税務署のコーナーにある納税窓口で支払った。それでも連れ合いは一言「消えた税金にはしないでね!」というと、苦笑いした署員は、軽く頭を下げていた。このところ社会保険庁に行くことが多かったが、そこでの怒りに比べると、税務署での感情は恐れのようなものがある。帰りの車の中で、連れ合いと、昔の「赤紙」というものは、之くらいのショックでは済まなかっただろうななどと、比較的少額で、想定内の追徴金の支払いにやっと安堵の気持ちで帰路についた。朝、引いた簡易占いでは「中吉」となっていたし、この間の亀が又ベランダに帰っているのを見たので、それが良かったのかもと軽く言い合いながら、途中で、ささやかな希望を託し、期限が迫った「サマージャンボ」を購入し、私だけそこから歩いて帰ることにした。今日も連れ合いに助けられた一日であった。
2009.07.30
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今回のオバマ大統領らの中国との戦略的対話開始を見て、日本国民はどう思ったのだろうか。前に我々はニクソンショックというものを味わった。1971年にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが電撃的に発表した「二つのニクソン・ショック」のうち、ドルショックの方はこの際おくとして、第1のニクソン・ショックであるニクソン大統領の突然の訪中で米中国交樹立したことである。その時も友好関係にあった台湾を無視し、さらには日米同盟の強い(?)絆の日本にも何の前触れもなく突如北京を訪れ、当時の中国国家主席毛沢東と握手を交わしたのである。突如と言ってもエアフォースワンがいきなり北京に飛んだらおそらくはスクランブルをかけられるだろうから、事前のキッシンジャー元国務長官による根回し後のことであることは言うまでもない。当時日本をないがしろにして、と怒る者も一部にはいたが、大方はアメリカの言いなりであった。今回の米中戦略・経済対話の開催宣言も寝耳に水的なところがある。アメリカにとって、日本は都合の良い橋頭堡でしかなかった事を再び思い知らされたのである。中国が、昔、万里の長城を造っていたように、アメリカにおける極東の万里の長城の役目を果たしているのが今の日本だという感じだ。アメリカにとっての中国は、西戎であり北荻であったわけで、韓国ー日本ーフィリピンなどを結ぶと、之がアメリカにとっての万里の長城的になっているわけであろう。東西冷戦が終結して久しく、民主党の小沢一郎が、アメリカの太平洋における軍事力は、「第七艦隊だけで十分」との発言は、うがった見方であるのかも知れないがだんだんとそのような方向に行きつつある。これに対して自民党連中は、声を上げて非常識のそしりを浴びせているが、果たしてどうなのだろうかと言うことを今回の米中戦略対話の格上げと恒久的設立で考えさせられる。早い話が、昔の中国が、万里の長城を越えて、匈奴と直接会話をし出したというわけである。形骸的に残る万里の長城の一部である日本の役割は何になるのだろう。もちろん、米中が戦略会議を始めたからと言って、すぐさま仲良くなり、中国の北京や上海近くに米軍基地が出来るわけはない。そういった過渡的世界、特に日米の変わり目に来ていることはひしひしと感じる。中国という国は実に狡猾で、なりふり構わないところがある。元々13億人もの人口を抱えている国であるが、55の少数民族を抱えているとはいうものの、人口の90%以上は漢民族である。これらの人たちが、南下はもとより、世界中に華僑として展開して、多くの国では中華街を形成し、したたかに生きている。東シナ海における、排他経済水域の問題でも、独自の理論を展開し、日本の「楠」「白樺」「樫」などの日本油田に対して、「平湖」や「春暁」「天外天」などと独自の名前を付して、勝手に日本の資源を吸い取ろうとしている事でもわかる、したたかさの一面である。又、日本からの戦争被害国として多額のODAを得ながら、それを横流し的にアフリカ、中南米につぎ込み、直接石油や天然ガスの資源を吸い上げようとしている。日本の政府は、全くの対米追従外交であるが、そのアイデンティティは何処にあるのかと問いたくなる。基地を提供し、多額の拠金をし続け、しかも肝心の時にはいつも蚊帳の外である。日本にとってアメリカは一寸優秀な息子や娘を働かせ、上前をはねている親父のような存在である。元々、米中戦略会議の動きの背景は、アメリカの失政にあるわけだが、国家財政の立て直しのために発行した米国債の保有量が世界一となった中国を無視できなくなった点であろう。今までは、日本がその立場であったが、アメリカにとっては、所詮日本は、戦争で負かした国であるし、前述の万里の長城の一部なのである。ましてやりやすいことに、復興期から現在に至る迄、日本という国は、アメリカに直接文句を言ったことがない。もちろんこの国というのは正確にはこの国の政府がである。オバマ大統領も、外交辞令ではあろうが、アメリカと中国が21世紀を形成するもっとも影響力のある国であるといっている。日本という名前は全く念頭にはないのであろう。今まで、持国の正義は世界の正義、アメリカは世界の警察と自負して、日本の敗戦から、朝鮮、ベトナム、イラク、アフガンとテロ撲滅を旗印に、弱いところを相手に叩いてきたが、今回の中国は、かつての眠れる獅子時代の清国とは違い、相当に手強く厳しいものであろうから扱いも慎重である。自民党は責任政党だといい、外交を民主党に渡すのは心許ないと言うことを何度も聞くが、このような脆弱な物言えぬ国にした責任はどう考えているのだろうか。日本は、金も出すが、口も出せるという風には成れないのだろうか。内政はがたがた、外交は言いなり、私腹を肥やすだけの政党はもういらないと思うが如何か。
2009.07.29
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連れ合いと姉そして私の3人で瀬田ゴルフコースでゴルフを楽しんだ。今日は曇天で、今にも降り出しそうな天気である。しかし、前から予約していたこともあり、キャンセルするわけにはいかない。雨を覚悟での出発となった。私の町からは瀬田は北東方向で姉の家はその反対になる。いつもの練習コースである一庫は姉の家と同じ方向なので、朝ピックアップをしていってもそんなに時間的には変わらないが、今回のように反対方向となると迎えに行くのはロスになる。姉は、いつも遠くでゴルフをする時は宅急便でクラブを送るのだという。それももったいないので、前もって、用のある時に姉のバッグを持ち帰っておき、今日は身体ひとつで、電車で島本駅まで来て貰うことになった。姉の家からJRは簡単に乗り継げ、また島本駅が出来たことで、ずいぶんと便利になったわけだ。スタートは遅かったが、一寸早め早めと言うことで、ほぼ2時間前に待ち合わせる事になった。姉を迎えて、大山崎ICから名神高速道路に入った。ここからは、京滋バイパスもあるのだが、事前に調べるとどうやら京滋バイパスの方が高いようなので、名神高速で行くことにした。この辺りの、高速道路の料金体系がどうなっているのかよくわからない。それはさておき、ゴルフ場へ着いたのは1時間以上前だったが、スタート時間がおそらく最終近くだったためだろう、駐車場はほぼ満杯状態だった。どうやらコンペもあるらしく、それらしい会話をしながら集まっている人達もいた。日頃はあまりする時間がないパター練習も十分にすることが出来たが、目標のホールが限られていて、大勢の人がそこを狙うためボールが錯綜し混乱する始末だ。やっとスタート時間が来た。瀬田には東コースと、西コースさらに北コースとフルコースが3つもあり都会から近いこともあってなにやら人気が良いコースだそうだ。我々は、キャディーのつかない東コースのアウトスタートだったが、前の組は、若い男性4人で、ティーショットの出だしを見る限りでは、ドライバーの飛距離は相当なものだったが、中に、フェアウェイを大きく外す人もいた。我々の後続組も、我々がティーショットを終わる頃には後ろに見えてきた。どうやら、連れ合いの話では、甥を連れてきたおじさん夫婦の3人組のようだった。スタートホールから3ホールまでは連れ合いのティーショットも結構鋭くて、今までにないで出しであったが、3パットすることが多く、それがなければ私と並んでいるというゴルフだった。姉はと言うと1番ホールでバンカーに捕まって大叩きをするがその後持ち直したようだ。今日のバンカーのコンディションは最悪で、前日までの雨の影響で、砂が固まって、縁の方は流れ込む水の跡で、溝になっていた。私のゴルフは相変わらずのダボペース。ティーショットでは又スライスが出てきた。それほど大きくは曲がらないが、フェアウェイはキープできず、2ンドが打ちにくい。ここのラフは、結構深くて、ボールがかなり沈んでしまうところが多い。連続3ホールともアプローチでダフたり飛びすぎたり、又ほんの少しショートするなど、アプローチもまだまだである。アプローチで、気持ちよくグリーンに乗せられれば、スコアは飛躍的に?伸びるだろう。それに比べて、ショートホールでの5.6番アイアンでは、1オンが2回と、一寸こぼれたのが2回と比較的安定していた。そのため、パーが2回とボギーが2回で収まったのは良かった。さらにインのロングホールで、ドライバーも2ンドも今日一番の当たりだったのが、2ンドで落下した地点はフェアウェイなのに、グリーンとの間に大きな松の木があった。9Iで下をくぐるだろうと打ったボールが木に当たって、その後めちゃくちゃになってしまったのは、今でも口惜しい。おそらくイメージはパーだったのにと言うところだ。このコースは、案内にもあったようだが、すべてのホールのグリーンが砲台になっており、且つそれほど広くないところもある。一寸手前でも、奥でも、左右でもグリーン上に乗らないと下に落ちるということで、そのほんの少しのことが、スコアに影響してくる。連れ合いなどは之で相当苦労していたようだが、案外バンカーからの脱出はうまくいき、それもサンドウェッジではなくアプローチクラブでの脱出がうまくいくと一人納得している。はじめて1年もたたないのに、もうスランプと言うほどではないが、最初の頃巧く当たっていたフェアウェイウッドがトップばかりで、湿ってしまったと嘆く。その代わり、7Iが巧く当たるようになり、こつこつと前進していた。連れ合いが注力すべきは、ヘッドアップによるトップを無くすこと、それとパターの感覚をつかむことが必要だろう。近いうちにこの点をブレークスルーすれば、飛躍的にスコアアップにつながるような気がする。始めた頃には、途中打ち切りのホールもあったりしたが、それもなくなり、前半は、ゴルフらしくなってきた。我流で初めてあと2ヶ月で1年が来るが、3人で回るには遅延もなく、むしろ前の前の組がグリーン上でもたつくのを前の組が待つというパターンで、我々は、それをティーグラウンドで待たなければいけないという混みようだった。姉は、我々よりも10歳年上であるが、連れ合いよりは相当キャリアがあるので、歳の割には、まずまずのゴルフで、ティ-ショットも距離は出ないがフェアウェイをキープすることが多かった。喜寿が近い姉の当面の目標は、ハーフで60を切ると言うことのようだ。今回は惜しくも後半のインで最後にダブルスコアになってしまい目的は達することが出来なく残念そうであった。瀬田の東コースは、狭いフェアウェイもあるが、OBになるほどではないと思っていたのに、最終ホールで左に引っかけてしまい、山の中にボールが消えてしまった。その兆候は、17番ホールのティーショットから出始め、ドライバーも2ンドのフェアウェイウッドも極端な天ぷらになってしまったのだ。それが尾を引いて、18番ホールでの天ぷらボールが林の中へという最悪の結果になってしまった。未だにその理由がわからない。100を切ることが最後のOBで果たせなかったのは悔しかったが、ショ-トホールでの気持ちの良い当たりがあった一方、ドライバーの変調と、アプローチの稚拙さが気になるラウンドであった。しかし、心配した空模様も、曇天のままで降ることはなく、直射日光に曝されることがなかったのはラッキーだったし、雨が降り出したのも帰途についてからだったのは幸運だった。
2009.07.28
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朝、連れ合いに付き合って、いつも買い物をする、駅前(正確にはガード下)のマーケットに行き、貯まったチケットを元に抽選に参加した。朝早く、テレビでよく見る星座運も、別途いたずら程度に見る小さな簡易おみくじも、私の今日の運勢はあまり良くなかったので抽選するのを躊躇したが、連れ合いに背中を押されてがらがらをしに行った。チケット40枚で1回の抽選権があり、合計で6回引けることになった。私は過去にもこのような回転式で、玉の出てくる抽選をしたことがあるがたいていは白玉(外れ)が多かったので、今回も期待はしていなかった。それでも、一寸左に回転をさせ、一気に右に回すと緑の玉が出た、止めずに回すとあれあれと続いて2つ緑の玉が出た。さらに回し続けると黄色の玉が出て、担当のおばさんが、なにやら横に置いてある鐘を持ち上げてからんからんと鳴らし始めた。どうやら大きなのが当たったようで、近所のおばさんが駆け寄ってきて、「良かったですね」と言う。「いやぁ、どうもありがとう」と言いながら、構わずあと二回まわすとどうやらそれは外れのようだった。1等こそ当たらなかったが、私の黄色は2等賞で、緑の玉は3等賞だという事だ。商品券を貰って意気揚々と駐車場で待つ連れ合いの所に戻ると「よかった!」と喜んでくれた。別に自分のテクニックが良くて当たったわけではないが、なにやら誇らしげな気分になるから不思議なものだ。私たちはマンションの7階に住んでいるのだが、前日の朝、ベランダになにやら小さな亀らしいものがいると連れ合いが言うので、近づいてみてみるとなにやら甲羅が少し汚れた感じではあるが銭亀であった。こんな7階にどうして、どこから来たのかをいぶかったが乾いた身体に水などをかけて、そのままにしておいた。ベランダの端には排水用の溝があり、それはその階中を通して一本でつながっている。おそらくはその階の住人の誰かが飼っていたものが逃げ出したのであろう。持って降りて、地に返してやろうかとも思ったが、一夜そのままにしておいた。翌日見るとなにやらまだあちこち動いている風で、再び溝に入っていた。又背中や溝に水をかけて、様子を見ることにした。連れ合いはそのことを例に出して、亀が抽選で2等を当ててくれたのだというのだ。そういわれてみればそうだなとも思える。亀は吉兆であったのかも知れない。考えてみれば他愛のない話ではあるのだが、庶民の毎日というのはそういったことの積み重ねなのである。何かこのところうまく行かないことが多いと言っては、お払いをしたり、今日のように些細な亀騒動で、少しだけ喜んだりというのが正直なところである。それから、連れ合いの同僚が、病気で学校を休んでいるというのでお見舞いを届けに行くのに付き合った。長岡天神までは行かないが、その辺りに新駅が出来るという近くの団地である。一度行ったので、何となく場所と家の壁の色はわかっているのだがという頼りない連れ合いのガイドに、そこら中を回ってやっと、道路から少し入ったところにある目当ての家にたどり着いた。雨も降りそうではなかったので、帰りは、私一人歩いて帰ることにした。ここらから帰るとおそらく目標の1万歩にはなるだろうとの日頃の経験でそう思った。連れ合いも帰りに用があるというので都合がよい。分かれて歩き始めたが、車の多い西国街道を避け一本山側の比較的車通りの少ない道を選んだ。この辺りの道は何度も歩いたので、特に変化はなかったが、昨日友人のガン復帰祝賀会で飲んだアルコールを抜くのには都合が良かった。途中山崎聖天さんに参る歩く会の人たちと出会った。我々の年になると、こういった形で歩く人は多い。麻生総理ではないが、「65歳を超えた高齢者は働くことしか才能がないと思ってください」と青年会議所かの講演会で喋っている。正に我々のことを言いたいのだなという感じで、その後の釈明と、話の前後を勘案すると、譲って意図するところはわからないでもないが、いかにも稚拙な表現に、過去そうであったと同様、総理の品位に欠けるものであると思った。しかも、「この人達を使いこなすには・・・」という独特の優越意識に裏付けられた表現は、「官僚は使いこなすもので・・・」と同様、いかにも高飛車な、俗に言う上から目線であることに大いに不快感を覚えた。官僚を使いこなすことも、日米対等の意見を述べることも、北朝鮮拉致被害者も取り戻せず、あめ玉をばらまくだけで、ついには、盟友を何人も切る羽目になった裸の王様の最後の両院議員懇談会で見せた涙で、何処かの大学の準教授であろうか、おそらく韓国籍の女性が訳もわからず喋りまくるなかで麻生総理の涙を見て「はらっと来た」と言っているのを見て、何を的外れなと感じた次第だ。ともかくも、ウォーキングで自宅に帰り着いた時には、用事を済ませた連れ合いと殆ど同時の帰着であった。くだんの亀に抽選会のお礼をしようかとベランダに出たが、すでにそこら辺には姿が見えず、今度はどの家に小さな福を届けているのだろうかと思った。
2009.07.27
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高校時代のバスケットの同期生とその時代コーチをしてくれた先輩2人が来てくださってガンから完全復帰した友人を祝う会を行った。昨年の12月はじめに急性の白血病であると診断され、直ぐ入院というあわただしいものだったらしい。以来退院まで約6ヶ月を経過し、つい先月の初め無事退院することが出来、又その後の経過も良好と言うことで、高い抗癌剤を飲む必要もないまでに回復していた。聞くと俳優の渡辺裕之と同じ種類のガンだと言うことらしかった。渡辺謙と言えば、時々ゴルフ番組でテレビに出てきて、結構上手なことを思い出し、友人ももうすぐゴルフに復帰できることを期待している。ガンで入院した頃は、容易に面会も出来ず、メールでのやりとりが精一杯だったが、一度退院前に面会することが出来た。抗癌剤投与は、1回の期間が1週間ぐらいで、それを1クールというらしい。私が面会した時は、丁度最後の第4クールが始まる前の比較的安定した時期であったようだ。抗癌剤はガン細胞を攻撃するだけでなく、正常な細胞までも攻撃することになる。最近脚光を浴びているドラッグデリバリーシステム(DDS)と呼ばれる薬物輸送(送達)システムでは、病気の部位にだけ攻撃を加え、正常な細胞を壊さない、いわゆる副作用の少ないシステムが考えられていると言うが、未だあまり臨床には使われていないようだ。入院中訪れた時には、髪の毛はもちろん眉毛、睫毛に至るまで抜け落ちていた。それだけを見ると、いかにもガン患者という感じではあるが、身体は巨漢のままである。元々100kgをゆうに超えていたので、当時は、十数キロ痩せたとはいうものの、一般に想像するガン患者の憔悴しきった様子はなく、何となく治るとの安心感を受けたものだ。今日会った時には、髪の毛もほぼ正常に伸び、腕当たりの産毛も生えているようだ。しかし体重は少しリバウンドしていて、そこに集まった7人の中ではやはり一番大きな体格であった。一口に半年といっても仕事で忙しくするわけでもなく、遠い先に死の不安を持ちながらの入院生活は長いものであろう。このたび宇宙から若田光一さんが4ヶ月の作業の末地球に帰還するというが、宇宙ステーション建設というミッションを帯びていないなら、どれほど大変なことであったろうか。ガン患者の場合は、常に他部への転移だとか、良くなりかけても再発という恐怖と隣り合わせで生きていかなければならないわけで、その心理的な葛藤は、罹った者でないとわからないであろう。集まった同期生は、5人だったが、本来は6人いるはずで、一人は12年前に大腸ガンでなくなってしまった。今年辺り13回忌をするということだ。5人の内1人は今回のガン生還者、1人は、10年前くらいからか、筋ジズトロフィーで、歩くのがつらそうなのに、集まってくれ、今でも近くの建設会社で働いているという。もう1人は、これも未だ働いているということで、朝は4時起き、夜は、9時前に寝るというような生活を送っているらしい。毎週土曜日か日曜日には、家の周りの早朝ランニングを欠かしたことはないとのことだ。最後の1人は、毎週のごとくコーラスや、グリークラブの練習などで明け暮れているという。いくつの団体で活躍しているのか、とにかく寸暇を惜しんで歌っているとのことである。私はといえば、連れ合いのおかげで、ゴルフや、NHK講座、旅行などと、遊興三昧の暮らしをさせて貰っている。2人見えた先輩も、心臓ペースメーカーを入れながらゴルフをされたり、歩く会に出てこられたりと、まずまず元気にしておられる。心臓ペースメーカーを付けてからもう7年になるということだが、10年持つはずの電池がもう交換しなければならないとかで、しばらく入院するように言われているのだそうだ。もう1人は「歩こう会」を計画して来られた先輩で本日が古希の誕生日だという。以前に胃を3/4切除したとのことで、ガン生還の友人に比べても極端にやせ細っておられた。比較的近くに住んではいるが、皆それぞれに忙しく生活している様子で、そのこと自体が有り難いことだと思っている。3時間のとりとめない話ではあったが、それぞれの元気な顔を見ることが出来て、有意義な時間を持てた。幹事などというたいそうなものではないが、こういった会合を計画することが全くなかった私にとっては、まぁまぁの結果ではなかったかと思っている。
2009.07.26
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今日は日本三大祭りのひとつといわれる天神祭の本宮があった。あったと言うより、あったようだの方が正しい。大阪に帰ってきたのだからと言うことで、去年は、一度行こうかと連れ合いとも話したのだが、結局は、人混みに出るのは疲れると言うことで出かけるのを止めた。今年は雨の心配もあり、初めから行く予定はなかった。テレビで見ているとなにやら一寸泥臭いお笑いタレントが祭りを盛り上げようとしていろいろ好きなことを言っている。祭りそのものは、臨場感がないとさほど燃え上がらないものだが、テレビを通してみる祭りはやはり額に入れた絵画よりは落ちるものだと思う。大阪市の中心部を流れる大川で学問の神様と言われる菅原道真公の霊を祭るこの祭りのクライマックスはなんと言っても「船渡御(ふなとぎよ)」と呼ばれる道真公の霊が載る船が大川を下るときであろうか。その前に、豪華な衣装をまとった大行列が「チェーサージャー」の掛け声で打ち鳴らす太鼓を先頭に、みこしや太鼓などで約3000人が練り歩く渡御で始まるのだそうで、この「陸渡御」が大阪天満宮を出発、「陸渡御」を終えた集団が船に乗り込みクライマックスの「船渡御」に移行するのだが、心配された雨もそれほどの降りにならず夜空には約5000発の花火が打ち上げられた。花火が間歇的に打ち上げられる中を大川には氏子らが出す御迎船をはじめ企業や大学の奉拝(ほうはい)船など約100隻の船が行き交った。行き交う船には大勢の人が乗っており、企業の宣伝も又しっかりとなされている。この船団は、約2時間かけて往復約7キロのコースを航行し、水上ですれ違う船同士が、「打ちまーしょ」などと声をかけ合って独特の「大阪じめ」を交わし、一帯を埋め尽くした大勢の見物客は祭りの風情を楽しんでいた。私は、「大阪じめ」なるものを初めて聞いた。それは、打ちまーしょ 手拍子(二拍手)もひとつせ~ 手拍子(二拍手)祝おうて三度 手拍子(三拍手)だったか、それが、昔からずっと行われてきたと言うし、又大阪の商工会議所などの発会もこれが行われていると言うことだ。司会をしている女性タレントは、大きな声を上げるだけで、又、船との中継も現場での聞き取りにくさもあるのかどたばたした感じで、少しも感動は伝わってこない。下手なしゃべりよりも、船の行き交う様をじっくりと見せるとか「大阪じめ」を強要するかの如くやらせるのではなく自然に聞こえるところを撮るとか、他にやりようもあるのにと思いながら、見ていた。千年の歴史を誇るという天神祭の変遷を語ることもなく、ただただ、お笑い芸人が、がちゃがちゃとテレビではやし立てるだけの祭り、これが天神祭かと少し残念ではあった。お笑い芸人同士が問題を出し、これを答えるという形で、天神祭のいわれを少しは紹介していたが、祭りの依って来るべき縁起的なものを話さないのでは、とにかく祭りが先に有りと言うことで終わってしまうのではないかと感じた。打ち上げられる花火の数も約5000発とPL教団の120000発は別格としても、東京の隅田川の花火の20000発、びわこ花火大会の10000発にも及ばない日本三大祭りというにしては、花火の打上数に関しては、見劣りがする。そこを埋めるのが歴史的由緒ではないかと思うのだが、いっこうにその方の纏まった話は聞けない。雰囲気は若干伝わるものの、テレビで見る花火ほど、味気ないものはない。今日は、雨の心配があったくらいなので、外はそう暑くもなく、臨場感で祭りに参加した人たちは、凌ぎやすかったのではないかと思う。がたがたとうるさく言うテレビを尻目に、我々は本日の10000歩を達成すべく、ウォーキングに出かけた。
2009.07.25
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今日は朝から効率よく動き細々した用事を済ませた。メインは昨年9月に悪性腫瘍が見つかり、乳ガンの手術をした連れ合いの友人の自宅での闘病生活を見舞うことだった。ようやく平衡状態を保っていて、最終的な身体の調整段階である。連れ合いを通じて私とも良く行動を共にした関係なので、回復期にあると聞いて私もほっとする気持ちだった。また、私と連れ合いとの共通の高校同期生が、之も昨年12月に急性白血病と診断されたのは以前に書いたが、その彼は、6ヶ月のつらい闘病生活で、すっかり悪性のガン細胞は退治したということで、明日はその完治祝いに同期の仲間5人と高校時代のバスケットボール部の先輩で、今も、ゴルフや、歩く会でお世話になっている2人の先輩が集まることになっている。最近は我々の周りは癌の話で持ちきりである。不幸なことに、先にお見舞いをし、ようやく乳ガンを克服しつつある友人の母親にも乳ガンが見つかったと言うことで、来週そうそうに手術を受けることになっているというのだ。その母親のガンは早期に発見されたので、悪性部を除去をすることでさほど長引かないとは聞いたが、何とか二人とも良くなって欲しいものである。。彼女のマンションのホールで話を聞いている丁度その時とき、母親が天草から遠路はるばる到着さられたが、一見するととても元気そうで、私が持っているガンのイメージは全く受けなかった。母親も彼女と同じ病院で手術をすることにしているのだそうだ。昨日一緒にゴルフをした人の中にもガンを克服した人がいた。この方は膵臓ガンだったそうで、とにかくガンと宣告されても全く自覚症状がないというほど気がつかなかったと言うことだ。開腹手術後体力は落ちたと言われながらも、グロスは私より2つ良い成績で、さらに新しいドラーバーを購入して初めて使うのだという。ゴルフの会では他にも2,3人はガン復帰者がおられると言うことで、ガン復帰者だけで1組パーティーが組めるというような状態である。さらには連れ合いの別の友人にも乳ガンの人がいるのだという。連れ合い自身の母親もずっと以前にガンを克服されたとかで、周り中がガンで一杯の状態である。去年の5月には不幸にも連れ合いの親友であった女性が乳ガンのために亡くなられたのも記憶に新しい。この女性は発見の時期が遅れたためについに回復できず、空しくなってしまわれた。こんな風に周りはガンという言葉がいっぱいある状態である。今まで私自身の周りにガンという言葉はよそ事だと思っていたのだが、急に身近な言葉で、クローズアップされてきた。しかし、昔はガンを宣告されたら必ず死の恐怖と隣り合わせで不治の病気であったのが、最近は医学の進歩のおかげで、早期に発見することで、回復する方もおられるようになったと言うことは有り難いことである。今日見舞った友人もあと少しで良くなるであろう事を祈りながら、短時間のお見舞いで、辞することにした。話は相前後するが、見舞いに先立って、いつも月一回「歩こう会」をしているその中のご婦人方だけで、野登川での食事会に出かけると言うことらしく、その格安切符を買うというので、近くの金券ショップで少しだけ割安の切符を購入した。気持ちだけ安くなるのだが、世の中知ると知らないのでは、小銭といえども得をしそこねている場合があるということだろう。続いてはこの月末に家族でラウンドすることになっているので姉のゴルフクラブを、家までピックアップに行った。当日は、姉の家とは反対方向のゴルフ場でのプレーとなるので、いつもは迎えに行ってからだったが、今回はクラブを送る事にしていた。しかし、姉の家は、見舞ったガンの友人の家と1駅ほどしか違わないのでついでにピックアップすることにしたわけだ。なにやら、パターを新調したらしく、まだまだやる気は十分なようだ。クラブをピックアップした後、ついでに、大阪の市内まで車で乗り入れた。一気に南下する新御堂筋線は、出口の案内が、調べた名称でなく、考えるまもなく降りるべき出口を通り過ぎ、次の出口でようやく降りて、少し回り込む形になった。高架道から下に降りると何とか見た建物が多いので、感覚はつかめるが、一方通行や、車の数が多いのでとにかく疲れる。手直しを頼んでおいたブレザーを引き取り、連れ合いも夏用のブレザーを買って、そのビルの上で、中華バイキングの食事をしてからそうそうに駐車場を後にした。ある一定金額を買うと駐車料金が無料になる券を呉れるのだが、ゆっくりしているとすぐに超過してしまうからだ。帰りも新御堂筋線への乗り口を一寸回り道して見つけ、ようやく帰途についたのである。行きによるつもりのガンの友人のお宅訪問は、行きに連絡がつかず、この時になったわけだ。今日の行事は、皆済ませたかと細々した動きを振り返り、2つ忘れていることを思い出した。ひとつは、サマージャンボを買い一攫千金の夢を持とうという計画だったこと、もう一つは、無くした自転車の鍵が見つからないので、複製を作ることだった。サマージャンボはいつでも買えると言うことで、自宅近くに帰り、鍵の複製を作る間、近くの道路で停車して待っていたが、ひっきりなしに通る車に、よくもまあ、車が増えたことであると感心した。日頃になく、小刻みなスケジュールだったので、家に帰り着いたらいつもの倍以上疲れを感じた。しかし、懸案のことを一日ですますことが出来て、有意義な一日だった。
2009.07.24
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1ヶ月に1度行われる定例のゴルフコンペが今回は場所を変えて枚方カントリーであった。通常は高槻カントリーで行われるのだが、年に1,2度は枚方で行われるのだという。同じコースでは変化がないからというのだが、やはり、違ったコースに立つとなにやら浮き浮きするものがある。私の場合はこの54回を数えるコンペの内、今回の参加は11回目である。そのうち枚方での参加は今回で2回目であり、前回の成績は、目標の100を遙かに越えてしまっていた。あれから、連れ合いと共に練習場や、我々の練習コースである一庫CCなどへ行ったりして、実戦の経験を積んでいるので、今回は是非とも100を切りたいと思っていた。下手の横好きではあるが、ハンディーもたっぷり貰っている。このコンペは、4位以下は毎回ハンディーが1つずつ上がることになっている。この辺りで、普通にプレーできれば優勝も夢ではないと内心思っていたが、少し胴回りに余分な肉がついてきたので、腰の回転がぎこちなくなっているのを感じた。それ故に昨日は連れ合いを引き連れて、日食観察をも顧みず、その日が5割引の3時間打ちっ放し自由な練習場に行って練習した訳だ。その感触からすると、ウッドの打球の安定さがなくなっている。時々は納得する当たりもあったのだが、時々ではコンペには勝てない。3時間の打ち放しといっても、多くをアプローチの練習に割いたので、さほど疲れは感じなかった。今日、試合前のパター練習場で、私よりも年配の元気なご夫婦の話では1回の練習で300球は打つのだと言われて仰天した。ご夫婦ともハンディーは私より低いのは当たり前の感じがした。終了して結果を見ると、ネットが同じ70の人が3人いて、私もその中に入っていたが、多くのハンディーを貰っているので、順位は3位となってしまった。次回からは、少しハンディーが減り人並み+アルファといった程度になるようだ。調子はあまり良くなかったものの、結果は3位と成れたのはもちろんハンディーによるもの大であるが、振り返って考えると、多くの問題は残るものの、今までの自分のゴルフよりは比較的良い方だったからだと思われる。インの最終組でスタートしたが、今までに一緒に回ったことのない人が2人もおられた。ゴルフはメンタルなスポーツであるし、又そのメンタル部分が強く影響するのが私のゴルフである。スタートの10番ホールで、ティーショットはまずまずの右方向ラフでのスタートだったが、2打目を林の中に入れ、脱出に2打を要し、さらに3パットをするなどさんざんの出足だった。他の人はせいぜいダブルボギーで収めているのに私はダブルスコアであった。次の11番のショートはボギーで収めたものの、12番のロングでも又3パットと出足3ホールで、今日はもう駄目だと感じてしまった。今日は成績はどうあれ、ゴルフを楽しむ以外にないと決めてからは、何となく肩の力が抜けた気がした。再び15番のロングで3パットをしてしまったが、続く16,17番を連続パーであがれたのは大きかった。それでも終了すると前半の3パット3回が響いて、50と目標の100を切れるかどうかのラインになった。自分の感覚では、相当叩いているだろうなと言う気持ちがあったから、之くらいで収まったのはまだ良かったと感じたほどだ。いつもはスループレーでやることが多いのだが、今日は食事をはさむことになった。その時の話で、やはり私が最年少であることを知った。一緒に回ったことのあるいつも淡々とゴルフをされる人、癌から生還した人、それに私より2つ年上だという、万年青年のような陽気な人との日食や癌などの会話で、うち解けたハーフタイムを持つことが出来た。私は汗かきというジャンルを超えるほど多量の汗をかく。昼食中も上半身は、汗でびっしょりなっていたので、着替えをしたかったが、話し中に中座するのも気が引け、後半も同じシャツでプレーをすることになった。後半のアウトは、身体も慣れて1番ホールでは、2打目をバンカーに入れたが、脱出が巧くピン傍に付けることが出来あわや1パットというのを逃してしまったのは悔やまれるが、すべてのホールを2パット以内で収めることが出来たのはまずまずだった。林の中で、キンコンカンコンまたまた脱出に手間取った以外は、何とか通常のゴルフが出来た。ショートは、あわやオンというものばかりで、ニアピンは取れなかったが、通常より距離のあるショートだったのでまずまずの出来であったと思う。ドラコンもドラタンもニアピンもなく、さらにはバーディーもないという、残念な結果であったが、後半は49と50が切れ、小波賞の対象になった。しかし之も4人の対象者間のじゃんけんで負けてしまった。しかし結果は100をかろうじて切ることが出来、ハンディーのおかげで、ネットは70とトップの成績であった訳だが、同ネットの方が3人もおられ一番低いハンディーの方に優勝をさらわれ、結果は3位となったわけだ。優勝は、練習に行くとご夫婦とも300球は打つという人だったので、之は仕方ないと思ったのだが、私としては、前回の枚方での成績を上回り、目標の100を切り、3位以内で、次回のハンディーが大台を超える前に少しはましな数値になったので、3位の賞品でとりあえず満足した。私の友人が癌から復帰し、9月には又一緒に回れることになりそうだが、それまでに優勝しておくという約束を果たせるかどうか危うくなってはきたが、とにかく次回は是非がんばりたいと思った。徐々に新しい人と回る機会が出来、顔見知りが増えることは良いことだと感じながら行きよりはましな気分で家路についた。
2009.07.23
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今日は46年ぶりに日本で皆既日食が見えるという日だ。新聞紙上や、テレビのニュースでは大いに喧伝している。46年前というと、私は成人式を迎える前だったのだが、その時の記憶はあまり残っていない。おかしな事に、ろうそくの炎をガラスに当てて、黒くした物で太陽を透かして見たような記憶が残っているのだ。それももっと小さい頃だったような気がしている。その時感動したかどうかさえも覚えていないのだ。テレビでは、皆既日食を追いかけて、もう何回も見たという100歳のおじいさんがいたり、日食がきっかけでその後の人生が決定づけられたという方もおられたようだ。今日では、マスメディアの宣伝や、こういったイベントを巧く利用する旅行会社の企画があり、日本で、皆既日食が見られるトカラ列島や、硫黄島に日食を見に出かけるツアーが企画されたり、上海で日食をとのツアーもあったようだ。中には、新婚旅行を、日食を見るツアーとした新婚さんもいたようだ。それほどまでにしても見たくなるほど日食というのは素晴らしい天体セレモニーなのだろうか。良く聞いていると、日本の領土のトカラ列島の中の悪石島へは、飛行機を乗り継いで最後は漁船で渡るという時間のかかるところらしい。そこに住人の何倍もの人が本土から訪れると言うのだ。それなら上海に出かけた方がまだ早いし、お金もかからないだろうという気がする。それにしても悪石島などと何故そのような名前をつけたのだろうかという方を不思議に思った。結果は天候が悪く、雲を通しての観測しかできなかったり、辺りが暗くなることで間接的に日食を感じたと言うことになったらしい。それでも感動するという人たちが多かったと言うことだが、私には一寸その盛り上がった神経が理解できなかった。私と連れ合いは、正に日食が起こるという時期にゴルの練習場にいた。曇天だったし、誰も日食を見ようという動きの人はいなく、ただ淡々と遙かに小さな白球を打つのに一生懸命だった。しかし、日本でこの次に皆既日食が見られるのは26年後だそうで、おそらくはそこまで生きてはいないだろう事を考えると、もう少し、この宇宙の神秘に一生懸命になってもおかしくはないのだろうと思う。神の仕業か、偶然の一致か、宇宙誕生の結果、月の400倍の直径の太陽が、地球から見て丁度同じ大きさに見えるという事実の方に驚きを感じる。それ故に、ダイヤモンドリングや、プロミネンスと呼ばれる紅炎が、観測できると言うことに驚きを覚える。おとぎ話であったか、皆既日食をあらかじめ知っていた占い師が、予言して、周りの民から信奉を集め権威を高めたとかの話を聞いたことがある。テレビで映された、猿が見上げる日食の光景は、正にそのことを想像させるものだ。インドでは特殊な神話があり、日食を尊いものとして信奉しているというが、太陽が欠けるのを見ながら、あの汚れたガンジス川に入り、頭から水を浴びながら沐浴する姿は、どうにも異様な感じをうけた。「それでも地球は動いている」のガリレオではないが、昔に比べ、多くの知見を得ている我々でさえ、なお知り得たことはほんの少しなのだと言うことを改めて思う。さて、26年後の新聞やテレビではどのように報じられているのだろうか。
2009.07.22
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NHK大阪文化センターでの2巡目講座の第4回目の講義があった。今回は「男女の衣装」についての話だ。講師の先生はエジプトに留学していたと言うだけに主としてエジプトを中心としたアラブ民族の服装について説明があった。衣装の機能は、人間の身体を外環境から守るという実用的な意味と、社会的、宗教的、経済的その他着用者の属性を表す意味の象徴的な意味がある。日本人が和服を着るように、各国にも伝統的な衣装があり、民族毎に各種の服装を有することは周知の通りである。講座では特に中東における衣装の多様性と、根底に流れる共通性について述べられた。中東は、その昔、ササン朝ペルシャや、オスマントルコなど時代時代によって様々な歴史的試練を受けている。これら歴史的な要素と、地域的な要素、さらに最も大切な宗教的な要素で、服装の形も変化してきている。さらには、階層別、職業別などの要素も加わって、伝統的な衣装が、西洋化の波にのまれ、折衷し、そして新しい伝統を産んできたのである。日本においても、明治初期までは、ちょんまげと羽織袴であったものが、断髪し、背広を着るようになって、今や、ねずみ色か紺色のスーツが、サラリーマンの代表的な衣装すなわち新しい日本の伝統的民族衣装になったと言っても過言ではないだろう。イスラムにおける衣装の基本は、1.男女ともに華美でない。2.男女ともに恥部を露出しない。(性別により範囲は異なる)3.男女の性別の明示(男性の女装、女性の男装は不可)4.異教徒の服装や、シンボルの着用禁止であるという。日本に現状と比べると、日本が進歩しているのか、節操がないのか、とにかく大きな開きがある。特に、男性でも浴場で立派な物を隠さず歩くことなど考えられないし、トイレにおいても隣の人間に見られないようにするとのことである。女性の衣装では、中東、アラブ、イスラム教徒の独特の服装があり、その代表的なものは、スカーフとベールであろう。アラビアンナイトのへそ出しルックのベリーダンスのイメージは別として、砂漠の遊牧民であるベドウィン族の砂塵対策の必然からのものと、サウジアラビアや、革命直後のイランのように、今だに保守的なスカーフ(ヘジャブ)を纏っている国があるということだ。私がサウジアラビアのジェッダ空港に降り立ったとき、目だけを出した黒装束の女性を見たときには、なにやら鬼気迫るものを感じたものだ。サウジアラビアでは通りであまりアラブ女性の姿を見かけることはないのだが、それ以降見る人見る人が黒装束であることで、だんだんと目が慣れていったことは事実である。コーランにも、このように露出部分を限定するように書かれているようだが、神がマホメットに下した掲示が、順番通りではないことなどから、なかなかその部分を見つけ出すのは難しい。年かさの女性などは、目や手、足さえも、ベールや手袋、靴下などで覆い隠し、一切肌を出さない人もいる。遠くで食事をしている女性をかい間見ると、口に運ぶときだけベールをそっとたくし上げているのである。何とも不便且つ面倒なことであろうか。こういったベールやスカーフは女性蔑視であるという反面、イエメンなどの兵士での中には、黒いベールをかぶることによって女性も兵士としてやっていけるといった、顔を隠すことによって女性も社会進出が出来ているのだと言った、ややこじつけ的な論議もあるようである。今や、各国とも西洋化した流れの中に、ベールはかぶっているものの服装はかなり自由化されているようであるが、之もサウジアラビアなど特殊な国を除くものだろうと思われる。男性の服装では、特にターバンが取り上げられたが、ターバンも、宗教人であったり、イスラム教徒やユダヤ教徒であったりすることで色分けされていたのだという。トルコ当たりでは、いわゆるトルコ帽が、進歩的な社会人の中に取り入れられ、軍隊から官吏を経て近代的知識人に広まったとされる。古いタイプ(ターバンを巻く)の人達からは、その変化を嘆く声も聞かれたようであり、いつの世も、時代の変化による服装の変化は、前時代の者達にとってはいかがわしく見えるようだ。現代の日本の若者の間ではやる、破れたジーンズなどは、どう見ても奇異な気がするが、それはそれで市民権を得ているようだ。しかし彼らでさえも、公式の場や、結婚式などでは、それを着用するわけではないのだから、伝統の変化とまでは言えないのであろう。最後に、イスラム教徒が、ハッジで向かう聖地メッカでは、男は縫い目のない白い布2枚をまとい、靴は不可、頭をそり、かぶり物をつけてはいけないとの決まりがあるという。女は、特に規定はないようだが、白い服装で、この時は顔を隠さないというのが原則なのだそうである。聖地ではというか、神に祈る場合は、誰でも平等であるということらしいが、空港などで大挙した剃髪した男どもが、湯上がりのバスタオルを纏った姿でうろうろしているのを見るのも又奇異な気持ちであった。
2009.07.21
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今日は海の日という祝日らしい。私にとっては、毎日が日曜日のようなものだから、特にどうという感慨もない。海の日は制定当初では7月20日だったが出来るだけ祝日を多くしようとの意図か、2003年からは7月の第3月曜日となったそうだ。変更になったときは、サウジアラビアに駐在していたので、日本の祝日は全く対象外と言うことで、かの国の聖日である金曜日だけが休日だった。日本人は祝祭日を多くしないとどうしても働くといういわば働き蟻のようなDNAを持っているらしい。企業に勤めていて何年かすると年20日の有給休暇が得られる。そしてそれは、1年分に限り翌年に繰り越すことが出来る仕組みになっている。すなわち、働き盛りになると年40日の有給休暇を得ることになるのである。もちろん計画的に休みを取る人もいるが、そういった人はごく稀な部類にはいる。私などは、何処といっていくところもない田舎で生活していたから、休んでも何処も行く当てもないし、やはり土曜であれ日曜であれ会社に出かけることが多かった。世界からその異常な働きぶりをバッシングされるに及んで、会社の方でも特に「年休奨励日」なるものを設けて、強制的に休ませて、休暇の消化に努めさせた時期があった。それが100年に一度とか未曾有のとか言われる経済不況に見舞われ、四苦八苦しているわけだ。しかし、今では有効に休日を活用する人が増えているように思える。お盆や、お正月といった日本古来の節季とは別に5月のゴールデンウィークとかには、高速道路は何十キロもの渋滞となるのである。今日の海の日も土曜日を入れて3連休となる貴重な連休である。さらに拍車をかけるように、高速道路1000円で乗り放題というおまけまでついている。民主党が政権を取ったら本当に高速道路が無料になるのだろうか、という猜疑心があるからではないだろうが、自民党政権下の時限立法の高速道路1000円を有効に使おうとしている人も多いはずだ。土曜日は、姫がサンディエゴに出張するというので、車で送ってもらう約束をしていたようだが、高速道路の混雑が始まったので、断念して電車で空港まで行くことにしたようだ。私どもはといえば、遠くイギリスの片田舎で行われている全英オープンに半ば徹夜で見入っている始末。惜しくも石川遼選手は予選で敗退という結果になったが、同じ組で回った世界のタイガー・ウッズでさえも予選で敗退するというほどだからまあ仕方ないかという感じではあるが、よくもまあ、あのようなたこつぼバンカーや、ラフとも言えないような、藪を作ったりしたのだろうかと、コースのひどさに恐れ入る始末だ。タイガー・ウッズのボールがその藪の中に入り、何人もの人間が5分間探し回っても見つからないというひどさに、連れ合いなどは、もっと手入れすべきだと怒っている。いくら権威があるとはいえ、こんなコースを日本で作ったら、おそらく誰も行かないだろうなと思った。わざわざゴルフをしに行くのに、サバイバルな事までする人はいないであろう。しかしプロの世界、優勝賞金が1億2000万円であるという事なら又話は違ってくるのだろう。そんなさもしいことを考えながら、海の日は明けたわけだが、3日連続で徹夜状態が続いたので、最終日は、テレビの前でうつらうつらと小刻みに居眠りがつく。ふと目が覚めると、5アンダーだった選手が消え、最終的には、トム・ワトソンが首位になっているではないか。かのジャック・ニクラウスと戦って勝ったあのトム・ワトソンである。全英オープン5回の優勝だと言うから、もうすっかり過去の人かと思っていたが、何と未だ59歳だそうで、それにしては、顔のしわはもう70歳であるかのようだった。未だ私たちより5-6歳は若いわけだ。並み居る強豪に互してというか、それらを凌いでのトップ街道は素晴らしいと感じた。結果的には、プレーオフで、崩れて優勝を逃してしまったわけだが、その健闘は素晴らしいものだった。さて海の日だが、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを趣旨としているとのことで、世界の国々の中で『海の日』を国民の祝日としている国は唯一日本だけだそうだ。島国といえば、イギリスも、フィリピンなどもそうなのであるが、海洋日本の繁栄は、鎖国などで、海洋に囲まれている故に阻んできた過去があるのも又然りである。海がある故に造船という仕事に興味を覚えたのを思い出すが、今やその造船業がじり貧の憂き目にあることを思うと、半世紀というのは短いようでも長いものであると感じる。
2009.07.20
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連れ合いは昨日の自治会の夜店の後片付けのためにと、朝早くから掃除に出かけた。しばらくして帰ってきて、知り合いを通じて買って貰っていた当たり馬券の換金に行こうということになった。私は馬券を買ったことは1度あるくらいで、競馬場にすら行ったことが殆どないが、連れ合い達、学校の先生は、時々仲間の人に頼んでは買うことがあるそうだ。場外馬券場は、平日で出走がないときは、閉まっているようで、以前京都の場外馬券場に出かけたときには閉まっていたので、今日は、淀の競馬場へ直接行くことにした。淀へは京都に行くよりは近いし、確実だということもあり出かけたのだが、ただ勝ち馬の券を交換するだけなので、わざわざ駐車場に入らずに私が車で待っている間に連れ合いが換金してくるということになった。競馬場の周囲はなかなか車を止めて待つスペースもない。交通整理のために雇われた警備員の人たちが、大勢いて、競馬場の近くに停車することもなかなか難しいようだ。近くで連れ合いを降ろし、一寸離れたところで車で待機していると、やがて換金のついでにと小倉競馬の9.10レースの馬券を買って連れ合いは戻ってきた。競馬場では、その日、その競馬場で出走がない場合でも全国の競馬場で出走するレースの馬券を買えることを初めて知った。競馬場自身が、全国の競馬の場外馬券場になっているということだ。そのまま通常の道を帰りかけたが、途中のサントリー山崎工場で工場見学できるのだと前々から言っていたのを今日実行することになった。受付で聞くと、毎正時に見学案内があるといい、すでに多くの人が申し込んでいるようである。平日に一度見学を申し込もうとしたが、時間的に合わなかったので断念したことがあったが、その時はさほど人がいなかったように思ったが、今日はさすがに日曜日とあってか、午後1時に申し込んだ人たちは、大勢いて、二組に分かれての見学となった。連れ合いは生徒を引率して何度か訪れたようだが、私は初めての見学である。案内する側は手慣れたもので、若い女の人が、決められた見学の行程を手際よく案内して回る。中庭を抜け殆ど工場内の道かと思われる公道を渡って、別棟の工場内へと入っていく。最初は原料の紹介と仕込み工程で原料はもちろん大麦である。ガラスの向こうの大きな仕込み槽の中に、麦芽の破砕した物と温水を入れて長時間かけて、麦汁をつくるという。このために酒所も同じであるが、水のおいしいところが必須条件となり、ここ山崎の地が選ばれたと言うことであった。次なる発酵の工程では、仕込みで出来た麦汁を発酵槽に移して酵母を加えるのだという。酵母によって、ウィスキーの味も変わると言うことだが、酵母の数が何と数千種類にも及ぶと聞いてびっくりした。この段階から最終的に製品となるウィスキーの設計が始まるのだそうだ。発酵の槽はステンレス製の物もあるが、木桶槽も使われており、木桶槽は保温性にも優れ、蒸留所内に住み着く自然の乳酸菌もとけ込んで、その地独特の味わいになるのだという。次の蒸留工程では広い室内に、16基の蒸留釜がセットされており、その形もまちまちである。ストレート型、バルジ型、ランタンヘッド型の3種類があるそうで、発酵槽から送られた原液を、1200度の炎で加熱し、アルコールの沸点78度と水の沸点である100度の差を利用して、若いモルトウイスキーの原液である「ニューポット」を取り出すのである。この工程を、初溜と、再溜という2度の蒸留工程を経て造りだし、次なる貯蔵の工程に移行するわけである。正門の前や、中庭にオブジェとして置かれているのはこれら以前に使用されていた蒸留釜であるようだ。ニューポットは、未だ刺激臭の強い、いわゆるアルコールといった感じであるが、これを樽の中に寝かし込むことによって、琥珀色のウィスキーに変貌していくわけである。ウィスキーも寝かした年代が古いほど良いというわけのものでもなく、ある程度寝かして、その樽との兼ね合いで一番良い香りと味になったところで製品とされていくのだそうである。これらを利き酒(テイスティング)して、最高の状態を聞き分けるのが、ブレンダーと呼ばれる人たちで、一日に200-400ものテイスティングをこなすのだそうだ。ここ山崎工場では8人のブレンダーがいるのだそうだが、貯蔵倉庫に積まれた樽の山を見ると、之は大変な仕事であることが容易にわかる。貯蔵する樽も1種類ではなく、パンフレットにあるだけでも、通常のバーレル樽、ホッグスヘッド樽、パンチョン樽、シェリー樽と新しいミズナラ樽などがあるのだという。これらの樽が大量に置かれたひんやりとした貯蔵倉庫は特別な空調を施しているわけではなく、ここでも製造場所の環境のままに熟成していくのだとの説明があった。樽の側面は一様に白地で、製造番号と寝かした年などがプリントされていた。因みに製造番号NO.0001は1924年とあり、この地での最初のモルトを造り出した年と言うことだった。これらの諸工程を約30分かけて回り、最後には、ウィスキーの「山崎」の水割りが頂けるという段取りである。山崎の名水(マザーウォーターと呼んでいる)も同時に出されるが、さらには、新しく開設した、甲斐駒ヶ岳の蒸留所で出来る「白州」ウィスキーの水割りも合わせて提供される。隣の二人連れは、名古屋からわざわざ来ている人だったが、これを目当てに何度も通う近隣の人がいるとのことを聞き、なるほどという気がしないでもなかった。一寸良い気分になって、帰りは連れ合いの運転で帰り着いた。いつかは行こうと思っていたが、ひょんなついでに果たすことが出来たが、顔を覚えられない程度に常連になるのも良いかなと思った。帰り着いたら丁度、小倉の9-10レースがテレビで放映されていたが、こちらの方は、かすりもしなかったようで、世の中ままならぬものである。
2009.07.19
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今日は夕方から毎年恒例の自治会活動の夜店があった。自治会といっても180世帯ほどの小さな集まりであるが、連れ合いは今年、幹事の一人になっているために何かと気をもんできた。自治会の夏祭りと言うところだが、内容は、焼きそばやフランクフルトの販売、ビールやソフトドリンクの販売、当て物コーナー、金魚すくいもどき、輪投げなど限られている。連れ合いに担ぎ出されて、太郎と一緒に焼きそばの手伝いをすることになった。正式な開始時間は6時からで、終了は9時ということになっていたが、事前の準備もあり、特に焼きそばは時間が掛かるということで、4時から集まることになっていた。まだ炎天下だし、熱源の前で、おそらくは焼くという役回りのことも考えないといけないということで、着替えを持って3時半頃とことこと歩いて出かけた。会場といっても路地の一角を借りた狭い範囲である。全長でも50mあるかないかの短くて狭い場所であったが、すでに焼きそば用鉄板は大きな物2つと、横で肉を焼くための少し小振りの物1つがセットされ、なにやら準備を始めているようである。狭い道に横長のテーブルを置き、それを道の端にセットしているので、多くの人が焼く側に入る余地はない。うろうろしていると、その他の演し物のセットが始まったので、とりあえずそちらの仕事を手伝うことにした。そうこうしているうちに、焼きそばは焼き上がり始めた。そこで、そちらの方に移行して、一定量をプラスチックケースに入れる作業を手伝うことになった。2つの鉄板には、15玉ずつの焼きそばがいっぺんに載せられ、野菜はキャベツ、別テーブルであらかじめ炒めたお肉を加え、焼き上がりにソースをかけるという作業である。それを簡易プラスチック容器に正確に15パック分に分けて入れるというのだが、之がなかなか難しい。まずプラスチック容器は非常に薄く、1枚と思っていても2-3枚重なっていることはしばしばで、いちいち数を数えながら入れていったのだが、途中で混乱し、終わったと思ったら、パックが2枚重なっていて、焼きそばの方が足りないとか、逆に、もう容器は終了したのだが、焼きそばの方が余っているなどというケースが出てきた。しかし所詮は目分量、正確に計ってやるわけではないので、多少の多い少ないは仕方がないと思いながら分けていくと、それなりに出来ていくものである。去年の反省からか、今年は役員の分はあらかじめ注文を受け練習のために焼いて、その後一般売り出しの分を焼こうという、事前準備しておくということになったらしく、早めに何十個か焼いていると、においをかぎつけた人たちが、「焼きそば下さい」とやってくる。「すみません、販売は6時からです」と応対しながら、どんどんパックは出来上がってくる。之から細い道にずらっと並ぶのですよといわれていたが、実際に6時近くになると長蛇の列が出来た。人が並ぶ同じ側でパック詰めは出来なくなり、かといって道の端は人がもうこれ以上はいらないという位狭い。自然と販売の掛かりに落ち着いていった。太郎はなにやら、反対側の端で、ビニールパック入りの焼きそば用麺を15個分取り出してはほぐすという役目に落ち着いたようである。焼きそば1パックは100円である。どうやら金券(100円)も各家に配られているようで、それを一枚と後百円玉で、大概は3-4個買う人が多い。100円金券と百円玉を出して買っていく人は比較的やりやすいが、100円金券に1000円札を添え、3個と買っていく人には一寸手こずる。まぁ、算数は簡単なのだが、金券分を忘れてしまうことがあるのだ。それと、小さな集金箱で釣り銭を探すのは結構めんどうくさい。それに渡す前には割り箸を添えなければいけない。箸はいいよと言ってくれる人はなにやらほっとして、この人はいい人だなと思う。それが、次から次へと続くのである。出来上がった焼きそばをパックに入れる係の人も量が多かったり、少なかったりだんだんといい加減になってくるし、パックからそばがはみ出しても平気という状態に追い込まれていく。パック詰めする前には、赤いショウガと、鰹節を入れる係の人がいるのだが、最初は潤沢だったそれらの物も、最終頃には、無くなってしまい、パックを留める輪ゴムさえもなくなり、あっという間に400食ぐらいが数個を残して売り尽くされ、無くなってしまった。私はお金の管理と焼きそばの受け渡しをやっていたので、いつも下向き加減で、周囲ではいったい何が起こっているのか見る暇もなく、分からずじまいであった。時々幹事の人が生ビールを差し入れてくれたのでおいしくいただいた。時間は9時迄という事らしいが、8時前にはすべてが終わり、片付けに入った。連れ合いの孫達も遊びに来ていて、金魚すくいもどきや、当て物コーナーで大きなおもちゃの鉄砲のような物を当てて喜んでいた。連れ合いは、ちゃっかりとその当て物コーナーの係に納まって、椅子に座って子供達と応対していたようである。私はこういった自治会の夜店なるものに手伝いとして参加したことがなかったので、結構新鮮であったが、何事も段取り8分という事を感じた。多少の後片付けには付き合ったが、椅子や机の片付け等大物については遠慮して、先に失礼させて貰った。ささやかといえども夏の風物詩、こういった行事が、町内の融和を謀るのだろうなと、マンション暮らしには味わえない下町風情を味わった。
2009.07.18
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NHK17~18世紀の美術(バロック~ロココ)の4回目の講座があった。今日のテーマは「シャルダンと風俗画」についてであった。最初はフェルメールの講義の時に紹介された作品はホルンストの「歯医者」であった。風俗画は、この当時としては、生活を共有し、楽しむものとして世に出てきたと言うことで、17世紀に最初にオランダで人気が出てきたジャンルであるという。患者の必死な形相の中にもなにやらユーモアを感じるものとして描かれている。主題のシャルダンで最初に紹介されたのは、「コマを回す少年」であった。シャルダンは静物画の他にも世俗的な生活を描く風俗画でも多くの作品を残している。シャルダン自身は才能があったものの、当時のアカデミーには入会しておらず、自らの作品を持参して、入会を認められたということである。「コマを回す少年」ではコマは回り続けなければやがて倒れる訳で、いつも絶え間なく回す必要があるのと同じく人生でも学び続けなければいけないことを少年がコマと戯れる姿とラップさせて表すという教育的な問題を含めているとのことであった。身なりも上品なこの少年は、実在の銀行家で、資産家の息子であり、親がかくあるべきとシャルダンに書かせたものであるという。親の意気込みが入った肖像画でもあるわけだ。「食前の祈り」ではフランスの中流階級の普段の生活の一部が描かれている。食前の祈りをするのは、幼い男の子と決まっていたらしく、日々、そういった重要なことを、幼い頃から学ばせると言う意味があったようだ。男の子は女装しているので、一見女の娘のように見えるのだが、当時は、女の娘の方が、身体が丈夫であり、それにあやかるという意味や、男の子は悪魔に魂を取られるという言い伝えなどがあり、当時の女装風俗となっていたようだ。母親は、温かいスープを食卓に出しながら、男の子にお祈りをするように促しているという、作品自体は小さなものだが、市民の道徳的風俗画として、やがてやってくるフランス革命で、王や貴族だけでなく、市民も主体性を持って生活が出来る時代が来ることを予感させる絵でもあった。17世紀のヤン・ステーンにも「農民の一家の食事」という似たような作品があるが、シャルダンのものはそれより遙かに自然に描かれるようになった。「銀のゴブレット」はゴブレットとリンゴ、それとスプーンが入った鉢を描いた静物画であるが、筆使いといい、色彩の表現といい、絶妙なバランスを保っている。当時静物を描く画家は、歴史画家などに比べて一段低い目で見られていた。先にアカデミーに入会したとき自分の絵を携えていったというのが、この絵である。審査員は「素晴らしいフランドルの絵だね」と評したが、それがシャルダン自身の絵画とわかるや、すぐにアカデミーへの入会を許され、当時は歴史画家にしか許されなかったルーブル宮殿内に自室とアトリエを与えられるようになったということである。それ以来、シャルダンによって静物画への評価が一気に高まり、現代の静物画への門戸を開いた作品といえる。ボージャンの描いた「静物」は五感を表す対象物を一枚の絵の中に脈絡なく表現した作品である。もう一つ、シャルダンの「オリーブの瓶詰め」はオリ-ブの入った瓶や、ワイン、ナイフ、壺や、やはりゴブレットであろうか、テーブルに何となく置かれた対象を、形、素材の感触、絵の具と筆のタッチなどがしっとりとマッチしており、ディドロをして「シャルダンの魔法だ!」と言わしめた作品である。連れ合いもこの作品はとても気に入っているようで、ノートには☆のマークが付されていた。「朝の身支度」ではおそらく教会へのミサに出かける前の母親が娘の髪の手入れしている状態を捉えている。いわゆる貴族階級ではないが、生活が豊かになってきた富裕市民の生活が描かれており、外出前の身だしなみを通じて、娘にこうあるべきと教える道徳的教訓的なものが控えめに描かれている。これらの作品には、父親が描かれないのが普通であり、父親はさっさと支度を済ませて、こういった女性の作業が終わるのを静かに見ていると言うことなのであろう。この種の作品は買い手である男達の間では評判が良かったようである。「家庭教師」では当時の上流階級の家庭では、家庭教師を雇い、単に勉強を見ると言うだけにとどまらず、愛情を持って、厳しい躾もするという重要な役割を果たしていた。あのサウンド・オブ・ミュージックでトラップ家に雇われる修道女マリアなどは、当時の家庭教師の有りようを代表するものであろう。シャルダンの作品にも、どことなくそういった雰囲気が、感じられるものである。ここでシャルダンを離れ、グルーズの「農民の婚礼」が紹介された。結納金の革袋を持参した青年を中心に、横に花嫁が手を繋いで表現され、その花嫁には、別れの寂しさで、手を握る母や、同じく妹が描かれ、花婿の横には、金を受け取り、「まぁ、以後よろしく」とでも言った風情で椅子にふんぞり返っている父親と、その後ろには、花婿を値踏みする小姑そして、右端には、なにやら黒装束の町の公証人が見届けるということが画面一杯に描かれており、見ているだけでいらいらするような感じを受ける。シャルダンの風俗画の持つ気品が欠けているようである。同じくグルーズの「小鳥の死を嘆く少女」では鳥かごの上に死んだ小鳥を置き、いかにもそのことを嘆いているようにも見えるが、美しい少女が、男遊びをして、そのあげく処女を喪失したことの悔いを描いているとされている。現代のように、テレビでの芸能ニュースなどがない時代では、こういった作品は多く描かれ、その注釈として、4行や8行の文章で説明が書かれたものがサロンなどではもてはやされたらしいが、やがてはその底の浅さと共に廃れていく運命にあったようだ。洋の東西を問わず、又古今の歴史上も「他人の不幸は蜜の味」的なこういった作品は、風俗画でも低級な部類なのであろう。フラゴナールの「コレシュスとカロリエ」では、風俗画というよりは歴史画で、フラゴナール自身ブーシュに師事し、歴史画から始めている。古代ギリシャの悲劇を現わしたこの作品は、アテネに病院を建てる際の生け贄として美人(何故か生け贄は美人と決まっている)が中心に描かれ、それを殺す役である大司教が、この肌をはだけた美人に恋をしてしまい、自らの胸を短剣で刺すという構図である。こういった内容が好まれたのであろうか。フラゴナールは、歴史画家から風俗画家に転じて多くの作品を残しているが「思い出」では社交界に出始めた若い女性が、たちまち恋に落ち、人知れず大木の幹に好きな男のイニシャルを刻んでいるという絵である。全体に淡く柔らかい雰囲気の作品であった。フラゴナールとジェラールの共作になる「初めての一歩」は一人歩きし始めたその一歩を手を差し延べた母親が右側に描かれている。左には、乳母が立ち上がって歩こうとしている幼児を驚きと喜びの表情で見ている。当時は、日本の昔の皇族のように、自らの手で子供を育てるものではないというのが西欧でも常識であったらしい。この頃以降は、自らが育児になにがしか加担するということがはやり始めたと言うことである。こういった風潮は貴族の間で流行したという。フラゴナールの「水浴の女達」については省略する。フラゴナールの「ブランコ」は同じ作品名であるヴァト-のものとは違っていた。ヴァトーの作品は女性が乗るブランコを傍らでその恋人が揺するというものだったが、フラゴナールの作品は恋人が乗るブランコを見ている自分たちを描くように依頼した作品だが、ブランコを揺するのは、端に描かれた司祭であり、男性は、揺すられた恋人のはだけるスカートの中を反対側で覗き込むという構図である。馬鹿馬鹿しくも享楽的、退廃的でエロチックな作品であるが、これらの流れを見てもフランス革命は近いということを感じさせる。最後に紹介された、フラゴナールの「ディドロの肖像」は端正なディドロを描いた作品で、このディドロが、フラゴナールをアカデミーに招じ入れたということを思うと、特別の感慨で描いたことであろう。肖像画でも、少しポーズを取るこの作品にも連れ合いのノートには☆印がついていた。
2009.07.17
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1週間前の天気予報では、晴れ時々小雨であったのが、前々日には降水確率も低い曇りになっていた。それではということで、連れ合いと2人で一庫ゴルフに出かけることにした。前回もそうだったらしいが、通常料金に300円を上乗せするとナイキのゴルフコンペに参加できるという。このコンペは6月19日から7月31日までの間の成績をダブルペリア方式でその間の参加者の間のハンディーを決めるというやり方らしく「豪華賞品をゲット」という謳い文句に300円なら、ひょっとしてと思い今日はそれに申し込んだわけだ。客寄せのあの手この手の1つだが、ひょっとしたら何か良い物がゲットできるかも知れないという淡い期待で参加したわけだ。今日は、曇りだ等と言いながら、朝から晴れていた。最近の天気予報はほとんど当たらないというかずれる。素人としては、今、外がかんかん照りに晴れているのに、予報士が前線が押されて停滞し、雨が降ると言えば降るのではと思ってしまう。天気予報のせいか、今日はどうも駐車場の車も少なく、プレーをする人が少ないようであった。朝遅いスタートを選んだので、いつもの時間を見越して出かけたのが、途中道路が混雑しているところにかかり、到着したのはスタート予定のほんの10分前であった。身体をほぐす暇もなく、そのままスタートしたが、前はがら空きのようだった。後続もしばらくして後ろに見えたが、2-3ホールの間、姿が見えた他は、ゆっくりとやっているのか前も後ろも視界には見えず、我々2人だけで、圧迫されることもなくプレーすることが出来たのは幸いだった。最近は胴回りの「はみ肉」も増えた感じだし、このところ練習場にもご無沙汰している上、歩くことも満足にしていないから、案の定出だしは身体が回らなかった。それでも最初のホールはボギーで納めることができ、最初のホールでパーを取ることは今までにもあまりなかったのでまずまずの出足であったが、2-3ホールは湿ったままで、ティーショットが当たらない上に、バンカーからの脱出にも手こずる有様で、なかなか気分が乗ってこない。その後は若干持ち直してせいぜいダブルボギー迄で納める事出来たが、どのホールもすかっとした打球はなかった。少しは風があったようだが、やはり湿気ているので、前半終了間際には、例によって私のシャツはびしょびしょで、パンツまで汗が垂れるという状態になっていた。そんなわけで、連れ合いのゴルフを見ている暇もないほどだったが、何と4番ホールで、彼女は偶然の1パットもあり、パーを取ってしまったのである。どのホールも今までは大概簡単なミスを犯すのが、全くノーミスで、上がったときにはパーだというわけだ。始めた頃にはフェアウェイウッドが打てていたのに、最近はとんと苦手意識を持っているようで、今は7番アイアンが良い感じで打てているようである。尺取り虫までは行かないがこつこつと的確に飛ばせるようになっている。さらにグリーン近くからのアプローチも、昔は飛び越えたりしていたのが、アプローチクラブを有効に使ってグリーンに乗せることもだんだん数多く出来るようになった。ところがである、パターとなると、コントロールが全く利かないときがある。芝目を読むなどと言う高級なゴルフ場ではないのだが、傾斜や、距離感は少しは考慮するべき所をなかなか思いと身体がちぐはぐなようである。私は、人のことが言えるほどの腕前ではないが、彼女が3-4パットを連発するのを押さえたら、もっとゴルフらしくなるのにという感じである。ティーショットは以前から練習に多く取り入れていたので、時々当たり損ないがあるものの、すんなり飛べば十分な飛距離が出せてたいしたものである。後半私は、シャツも着替えて再出発したのだが、当然2-3ホールでもうびしょびしょになる。しかし身体が少し慣れてきたのか、大体がボギーペースで回ることが出来た。ここのコースはパー70でしかも全体に距離自体も短いが、非常にトリッキーで、一寸フェアウェイを外すとすぐにOBとなる極めて難しいコースである。飛距離の出ない連れ合いは、谷越えなどでは苦労をしているが、狭いフェアウェイでもそうそう外れる事もないのでスコアはまとまりやすい。現に二人とも前半よりも後半の方が良くなり、私は7つ、連れ合いは8つスコアを伸ばした。後半は、前の2人組の男性達が、特にバンカーからの脱出練習などをしながら進むという感じで、存分に練習場として使っていた。最終ホールにさしかかる頃、天気予報士に義理立てるように申し訳程度の小雨がぱらついてきた。前の組が真面目に進んでくれていたら、雨を回避できたのだが、小雨程度だったので、あまり気にもならず、返って涼しく感じたほどだった。私は来週定例のコンペがあり、連れ合いは、今月末に姉と3人でラウンドすることになっているが、もう少し練習をしておく方が良いという感触だった私に比べ、連れ合いの方は、なにがしか良い感触をつかんだようだった。「がんばれパター!」である。
2009.07.16
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最近は暑いとか、時々は雨が降ったりとかで、積極的に歩くことを怠っていた。今日も暑かったが、思い切って歩いてみることにした。1日1万歩を目標にしていますと、1ヶ月に一度会うお医者さんにはそういっているのだが、このところ1万歩を歩く日は少ない。1万歩というと、やはり之から歩くのだと心に決めてでないとなかなか達成されるものではない。意識せずに今日は一寸外出して出かけたと言うときにはせいぜい5-6000歩である。之が、近場で、ちょろちょろ用事をしたり、車で出かけたりすると3000歩までになる。明日ラウンドすることにしているゴルフでは、カートになるべく乗らないで1ラウンドして帰ると13000-16000歩を歩くことになり、汗もかくので丁度良い運動かなと考えている。家でごろごろしている時は0歩となるのだが、最近はその時でも腰に万歩計をつけていると、3-400歩は家の中で歩いていることにはなっている。残念ながら、その程度歩いて、普通にご飯を食べていると、下腹がどんどん出てくるのがわかる。最近は結果が怖くてヘルスメーターに乗ることもしていないが、どんどん体重が増えて、メタボになっていっていると考えてる。ゴルフのラウンドを終えて、風呂にはいるときは、運動をした後で汗もかいているので少し体重は減るが、なかなか理想的な体重になることはない。そんなことで、丁度銀行へ行く予定もあったので、いつもの道を一人、一駅向こうの高槻まで歩くことにした。慣れた道なので、目をつぶっても行くことが出来る位歩いたが、その期間自慢のi-PODを聞きながら歩こうと思って取り出すと、なにやら画面が明るくならない。携帯電話の液晶もそうだが、炎天下で見るとほとんど何も見えない。なにやら少しついているのだが、それが何かもわからない。歩きながら何度かやってみたが、どうも電池切れを起こしているようだ。仕方なく、鞄にしまって、ただひたすらに歩く。意外と暑いようでも外は風が吹いているので、歩くのにさほど苦痛は感じない。元々、サウジアラビアや、ドバイなどで炎天下に過ごしたことがあるので暑さをつらいと感じたことはない。通常40度を遙かに超えるところを、ホテルを基点に歩いたことを思い出す。そんな道路にはほとんど人っ子一人歩いていない。彼らは数百mの区間でも車で移動するのが当たり前となっている。従って変な外国人が、この炎天下を歩いていると言うことで、流しのタクシーの運転手が何度もクラクションを鳴らして、乗せようとするのを振り切っての歩行となる。何処を歩いても道は広く、車の数が少なかったので、歩行に支障を来すことはなかったが、日本では、車が通れる道路は、往来がひっきりなしで、しかも狭いため時々路傍に立ち止まって車をやり過ごす必要がある。それを嫌って、見つけ出しコースは、田んぼのあぜ道や、農業用道路を通るコースだ。ここだと、車を気にすることはないが、それでも川にぶつかるところでは、車の通る道路を渡るしかなく、その箇所100mだけは、車を気にしながらの歩行となる。又サウジの話だが、あちらは暑さが度を超しているので、出てきた汗がすぐに乾いてしまうという利点もある。その点日本は30度を超した真夏日で、しかも名目上は未だ梅雨の最中で湿度が極端に高い。噴き出る汗は、帽子をぐしゃぐしゃにしてタオルも使えなくなるほど汗でびっしょりになる。来て歩いた半袖のスポーツシャツも汗でぐっしょりだ。この汗をかくことを求めて歩いているのだとは思いながらも、目的地の銀行などにはいると、冷房で急に冷やされ、普段は気持ちよいと思うのだが、この時ばかりは、シャツの汗が冷やされて、なにやら早く出たくなるほど気持ち悪くさえなる。帰りはひょっとして音を上げるかも知れないと、電車で帰ることも考えていたのだが、一寸長めの一駅でも、歩数にすると8000歩ぐらいで、帯に短いわけだ。そんなこともあって、帰りも歩いて帰ることにしたのが、せっかく来た高槻だから、この際ついでに何かをして帰ろうなどという気持ちにはさらさらならない。又黙々と同じ道を帰るのだが、さすがに炎天下、通常は見かける散歩者も今日だけは見かけなかった。持って歩いたお茶のペットボトルも家に帰り着くまでにはすっかり空になってしまったが、帰り着いて16000歩となっている万歩計を見て、少しだけ達成歓を感じた。連れ合いは学校から少し前に帰っていたようで、歩いてきた私に少しだけビールを勧めてくれた。この一口が今までのウォーキングを無駄にするのだとわかっていながら、ついつい手を伸ばしてしまう私だった。あーぁ、之ではメタボ解消など夢の又夢である。
2009.07.15
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先月末から京都で始まっているルーブル美術館展にやっと出かけることが出来た。去年の5月に連れ合いとパリを訪れてルブール美術館へは2度足を運んだのだが、その広さと作品の多さに、全てを観られなかったのは勿論のこと、疲れてへとへとになったことを覚えている。今回は、前宣伝で門外不出のフェルメールの「レースを編む女」が初めて日本で出展されると言うことも興味を引く1つだった。贋作か否かを含めて全点でも37点しか描いていないフェルメールの作品は、日本でも一時ブームになり、書店の店頭で紹介本が多く出された。連れ合いも私もそれらの本は読んだが、実物は見たことがなかった。東京でフェルメール展があった時に、姫はちゃっかりと鑑賞してきている。その時も7-8点が展示されただけで、全点を同時に観ることはその所蔵している美術館が多岐にわたっているために並大抵のことではないらしい。朽木ゆり子が「フェルメール全点踏破の旅」を書いているが、彼が生まれたオランダを初め、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカとそれぞれの美術館に数点ずつ所蔵されていると言うことのようだ。確かNHKの講座でフェルメールが紹介された時も「レースを編む女」は含まれていなかったように思う。その作品は、第二室の真ん中くらいに展示されていて、ごく小さな作品であった。さすがに美術館展の招きの作品であるだけに、結構な人だかりで、近づいてみるためには少し時間を掛けて待たなければならなかった。正直、もう少し大きな作品だと思っていたので、一寸拍子抜けをした感じを受けた。朽木ゆり子や小林頼子も解説しているように、「レースを編む女」は女性が何かに集中しているという全体の感覚は同じ表現を使っていた。今回のルーブル美術館展は、副題に「17世紀ヨーロッパ絵画」とあり、1600年から1700年の作品が集められていた。目録によると今回の出品は全点で、71点あるとのことで、一つ一つをじっくりと見て回ると結構な時間が掛かる。たまたま、昨年から今年に掛けてNHKの17世紀の美術についての講座を受けていたので、名前を聞き覚えた作品も見られた。連れ合いは元々印象派が好みであるから、17世紀のこれら作品にはあまり惹かれるものはないのかも知れない。私も彼女の影響を強く受けているので、印象派の作品は、よく見る機会があるが、私自身は、宗教画はそれほどでもないが、レンブラントやルーベンス辺りの絵には何か惹かれるものがある。連れ合いに一寸心に惹かれた作品を目録に印していこうと言いながら見て回ったが、フェルメールの作品は別として、レンブラントの「縁なし帽をかぶり、金の鎖を付けた自画像」。あまり聞かない名前だが、モーラの「弓を持つ東方の戦士」(バルバリア海賊)、ルーベンスの「ユノに欺かれるイクシオン」、カルロ・ドルチの手による「「受胎告知 聖母」と「受胎告知 天使」、ドロストの「パテシバ」、作者は特定できない17世紀のローマ派と書かれた「聖ペテロの口述のもとに福音書を記述する聖マルコ」という作品は、奇しくも二人共に丸印を付けていた。作品を描くにはその時代背景が必ずあるわけで、作品そのものから受ける感動とは別に、そう言った時代背景を知っていることが、その作品に親近感や別の意味での感動をもたらすものだと思う。17世紀以前は全くの宗教画が全盛であり、我々キリスト教信者でない人間にとって、聖マルコ、聖ヨハネといわれても実感としてわき上がってくるものが少ないのは仕方のないことだろう。そう言った意味ではヨルダーンスの「4人の福音書書記官」に描かれた、白い服のヨハネを中心に、マルコ、ルカ、マタイを観ると、新約聖書の福音書を読むクリスチャンにとっては、足を止めてみることだろうなと思った。特にヨハネは黙示録で、「私は見た。子羊が第六の封印を解いた時、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり。月の全面が血のようになった。」などと聖書に書いているのだと言うことを思う時、どれほどの背景があり、神の使徒としてどのような意図で描かれているのかなど、背景をもっと知れば奥深く鑑賞できたのかも知れない。クロード・ロランの「クリュセイスを父親の元に返すオデュセウス」であったか、NHKの講座で、同じ人が描いた「シバの女王の船出」によく似た作品であることを思い出した。静物描写にも興味を持っている連れ合いは、デュピュイの描いた精緻な「葡萄の籠」に惹かれるものがあったようである。確かに、静物の配置と、精緻な筆遣いは、まるで写真に撮ったような正確さでバランス良く描かれていた。京都市立美術館は、歴史は古いが、出展の技術や、ディスプレイなど、さらには雰囲気も近代の美術館としては見劣りするようになったなどと昔を偲んで話ながら、71点の出展の内の数点を反芻しつつ帰途についた。美術を連れ合いと鑑賞すること自体が私にとっては、教えられることも多いし、とても楽しい一時である。
2009.07.14
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パソコンのことはある程度理解しているつもりだが、システムのことになると全く手も足も出ない。自分の頭の衰えと、パソコンの進化が丁度逆になってきているのも困る原因の一つだ。最近の車が電子制御になり、修理の意味でボンネットを開けても全く意味がないのと同じように、最近のパソコンは色々なアクセサリーが搭載されているので、最初に買った段階で、ハードディスク(HDD)の容量は、大部分システムやその他付属のおまけで占領され、ユーザーが使える部分はカタログに書いてある容量を大きく下回っている。そして「VISTA」になると特にそれが著しく感じられる。さらにセキュリティーにかかわることで使われている容量も馬鹿にならない。また、HDDは「C」と「D」とにドライブが分かれており、「C」にプログラムが入ると同様に、デフォルトで、ダウンロードしたりインストールされるのは「C」ドライブになるように設定されいる。その割には「C」ドライブの容量が小さいのである。容量がぎりぎりに近くなるとコンピューターの画面では赤い棒グラフで満杯に近いことを知らせてくれる。だからといって、容赦なく更新プログラムや、新しくバージョンアップされたソフト(今回の場合はインターネット・エクスプローラー)のインストールを勧めてくる。今日もその案内の画面が出て、新しくリコメンドされたソフトをインストールすべく指示通りにやっていくと、容量が足りないので3つのうち2つは失敗しましたと出た。みると「C」ドライブの容量は残りが数百MBになっている。こうなると手も足も出ない。今迄覚えていた、ディスクのクリーンアップをやっても幾ばくも空きが増えるわけではない。動きも極端に悪くなったが、それはドライブにデフラグをかけたからなのかどうかも分からない。因みにこのデフラグ「XP」の時は状態の変化が画面に出るのだが、「VISTA」では全くいつ終わるのか分からない状態が長く続く。画面の指示は、不要なプログラムを削除して容量を広くしろと言ってくるが、果たして、どのソフトが不要で、どれがどうかかわっているものなのか全く見当も付かないものが多い。一旦アンインストールをしてしまうと基本的には復旧は出来ないのだろうから、勢い慎重にならざるを得ない。「プログラムの追加と削除」で将棋やマージャンその他心当たりのあまり使わないソフトをアンインストールしたが、横文字で書いてあるものが、現在使っているものかどうか分からないものが多数有り、なかなかアンインストールする勇気がない。しかし驚いたことに、「プログラムの追加と削除」には136個のプログラムが対象として出ていて、その容量はたったの4.5GBなのである。その10倍の容量が「C」ドライブにはあることになっているのだが、「VISTA」がそのほかを全て占有しているわけではないだろうに何故1/10しか「追加と削除」の対象として出てこないのかも私にとっては謎である。容量の9割は一体何に使われていて、そこを整理することが出来ないのだろうか。世の中には、もっと軽く、容量を取らない「リナックス」というOSもあるらしいし、「グーグル」も新しいOS(Google Chrome OS)を投入しようとガリバー「マイクロソフト」に挑んでいるというが、長年使い慣れているので、システム自身を変えることはもう諦めている。さらに、「これに呼応してか、マイクロソフトも「ウィンドウズ7」を近々発売するというのだ。ウィンドウズが出てからも歴史的に長く、当初はバグばかりで泣かされたものだが、「ウィンドウズXP」では心地よく使わせて貰っていたのに、何故か上位の「VISTA」が出たので、最終版のつもりで買ったのが悪かった。コンピューターは超速の勢いで進化するとはいうものの、マイクロソフトが何を考えているのか全く分からない。メモリーが安くなったので、うんと大きな容量になっているから、一杯になることはないだろうとたかをくくっていたのだが、どうやら、新しいOSが色々な機能を付加したために殆どがそれに取られてしまっているというのが実感である。昔NECのカラーでHDD付きのパソコンが登場した時、容量は何とたった300MB(GBではない)だった。信じられないことだが、それでも当時は、こんなに多容量のHDDが一杯になるのだろうかと思ったものだが、あの感覚は何だったのだろうか。とにかく、色々なアイコンが、それも同じような検索エンジンなどが、我が社も我が社もと名乗り出て、知らない間にインストールされているという結果になっているようだ。より早く、より安全といわれれば、ついついインストールして使い勝手を良くしようと思うのが常だが、日頃使わない、あれば便利的なソフトなどは敬遠した方が良さそうだ。各ソフトは全て改良されているということは、容量は食うが、要らないことも出来るという感じの大容量化になっていることが多いからである。何とか整理し、空きを少し作ったが、いつ何時容量不足になるのか心配である。
2009.07.13
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高槻に一寸洒落たカラオケクラブがある。もうなるべくお酒を飲まないようにしようとしてから1年くらいご無沙汰をしているのだが、今日は、その店を始めて27周年と言う事で、記念パーティーがあり、招待チケットを貰ったので、連れ合いと二人で出かけた。パーティーは午後1時から始まる予定になっているが、午後一杯は、そのカラオケクラブに来る常連さん達のカラオケコンテストがありその喉を競うという趣向であったようだ。我々は、その店で歌うことはあっても、コンテストまで出るほどの度胸はない。そこで、夕方5時からのディナーとその後のショーを観るためにだけで掛けることにしていた。実はそのお店はt&Yといって、松竹のトップスターとして名を成した映画俳優の経営する店である。スターの座を降りてから、高槻に戻り、クラブを始めて27年経つというのだ。そのパーティー会場に集まった客はほぼ250名はいただろうか。店の馴染みの客は勿論地元の同級生なども来られていたようである。前回は2年ほど前に招待を頂いて出席したのだが、ショーの方はたいしたことはなかったような記憶がある。今回は、沢山の顔ぶれが揃っていたようだし、中でも俳優であったその経営者の息子達も参加してのステージもあり、2年前よりは充実していたような気がした。カラオケのコンテストを第1部としてショーは第2部と3部に分けてあった。第2部は、オムニバスショーであり、日本舞踊や、あまり名を知らない歌手がこれもあまり聞き慣れない歌を披露していた。その中にプロになったのかこれから成ろうとしているのか、息子達のショーも組み込まれていた。元俳優だけあって、我々よりは年が5-6歳上であるにもかかわらず、ハンサムでダンディーである。集まっていたその同級生に比べても遥かに垢抜けていることは一目瞭然である。トップスターであったことで示すように勿論背は高い。その背の高さを、息子達は越えているのである。DNAは争えないものであると思った。第3部は、一寸年期の入った歌手が歌いかつ喋るというスタイルであった。この歌手も芸歴32年というから、そう若くはない。車に一式を積み込んで地方を回っているとも言っていたが、その距離何と43万キロになるという。本当かな。しかし年期が入っているだけあって、歌と歌をつなぐおしゃべりはなかなか面白いものがあった。私はディナーショウなどには縁がなく過ごしてきたので、通常どういったことが行われているのかはよく知らないのだが、多分この時と同じように歌とおしゃべりを交えての構成なのだろうと想像した。あの中高年のアイドルといわれる「綾小路きみまろ」が間に歌を歌うか、「明石家さんま」があのしゃべりの途中で歌を挟むかといったようなものの地方版と考えればそう遠くはないのだと思った。ブレークした芸人と、こつこつと下積みを続ける芸人の差を垣間見るような気分だったが、デビュー以来32年間もこの道をやっているというだけあって、なかなかおしゃべりも堂に入ったものであり、タイミングと間の取り方は面白いと感じた。我々は夕方5時からの参加だったが、それでも終了までは4時間も掛かったわけである。芸能人というのはテレビで見るものと思っている私などは、ブレークを待つ芸能人の層は深いものだということを何となく垣間見た感じがした。招待されている身であることを考えると食事とフリードリング付きで4時間十分に楽しませて貰った夕べの一時であった。昼間出かけてくる時には、汗を拭き吹き駅から歩いてきたのだが、帰りは、シャトルバスがあることを知り、同乗して駅まで帰ることが出来たので涼しくかつ快適であった。
2009.07.12
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この2日間ほどお酒を飲み過ぎて一寸グロッキー気味だった。今迄は、家であまり飲まないようにしていたが、その反動というわけでもないけれど、高校時代の同期のメンバーとの会合と、大学時代の同期の会合が続いたので、一寸度を超しすぎたようだ。高校時代の同期会の店は、色々なお酒を置いてあるのが自慢の一つということで、本来、日本酒をあまり飲んだことがない私は、最初に行った時には焼酎を注文していたが、何だか自慢の日本酒を飲まないのは悪い気がして、前回ぐらいから日本酒を飲むようになった。今迄飲んできた日本酒がまずかったのか、一寸飲み過ぎると翌日に応えて、それが嫌で、焼酎を飲んでいたのだが、自慢の酒というだけ合って、この店の日本酒はとても美味しい。飲んでも飲んでも悪酔いしないという感じだったわけで、日頃飲み付けていない冷や酒を大きめのグラスでぐいぐい飲んだのは良く覚えているが、どうやら話していた内容がとぎれとぎれ覚えていないことが後で分かった。勿論連れ合いと一緒に帰って家に着くまではハッキリと覚えているし、誰と一緒の電車だったかも覚えているのだが、所々こんな事があったと聞いてもどうも記憶に残っていないということがあることが後で分かった。酔っ払ったというのはこういう事を言うのだろうが、過去、私は酔うと気分が悪くなるか、もしくは寝てしまうのが常だったので、そんな症状もなく飲めていたので、まだまだ自分はしっかりしていると思っていたのだが、どうやらそうでもなかったようだ。実際、愚にも付かないことを話していたのだろうが、所々何を話したか記憶から飛んでしまっているのだ。良い酒だから気分が悪くならなかっただけで、そう思って思い返すと、何回も何回も傍の友人達がグラスを一杯にしてくれていたような気がする。醜態をさらすことがなかったのがせめてもの幸いだったが、次回からは気をつけなければいけない。その次の日(昨日)の大学の同期会では、そんな良い酒を置いているところではないので、もっぱら焼酎にしたのだが、これも思い返してみると、一人面倒見の良い仲間が水割りをせっせと作ってくれるわけだ。「おい、○○」といって手を出して私の空になりかけたグラスをせっせと持って行っては、新しく波なみと作ってくれるという塩梅だった。その間私は初参加ということもあり、卒業以来初めて顔を合わす者が殆どだったので、私の卒業後の話や、今の連れ合いが、実は高校時代の初恋の人で、タイミング良く彼女を頼って帰阪したのだということなどを喋っていたわけで、そんな夢のような話をと皆が聞き耳を立ててくれるので、ついつい焼酎を飲み過ごしたのかも知れない。そんな風に2日間を酒浸りで過ごしたからか、今日はどんよりと身体がだるかった。連れ合いは、愛犬のため敷物を買うと行って出かけ、ついでに愛犬のシャンプーをして、伸びた毛をはさみで切ってやったようだが、夕方突然電話で、はさみで愛犬を傷つけてしまい血を出しているとオロオロした電話が掛かった。姫も同伴しているようだったので、まずは安心と思ったが、押っ取り刀で、近くのホームセンターで待つ連れ合いの所に自転車で急いだ。シャワーの場所はそのホームセンターにあり、都合良く薬局もあったので、薬と大きめの絆創膏で処置をして、愛犬もさほど痛がってはいないので少し安心した。シャワー途中で乾ききっていない身体を新しいタオルで拭き取ってあげるのが精一杯であるが、愛犬自身は大丈夫そうで、車に積んで、連れて帰ったのだが、何とも犬にとっては受難日であった。
2009.07.11
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卒業以来顔を出したことがない大学の同期会に初めて参加した。3ヶ月に一度第2火曜日にその時集まれる者が三々五々参集するシステムだという。一人だけのこともあり得るし二人の時もあるという。今回は、合計7名が集まった。場所は気楽に予約無しで集える大阪駅近くの弥生会館というところだ。JR西日本関係の宿泊可能な設備のようだが、かなり古い建物であった。さすがに誰も面影は残っているので、すぐ判別は出来たが、私の場合はスキンヘッドになっているので少し戸惑わせたかも知れないが、こちらから声を掛けるとすぐに分かってもらえた。卒業当時のクラスの人数は30名であったが、世話をしてくれる同期生に聞くとメールで連絡が付くのはその内の16名だそうである。後数人はどうやらメールは届いているようだが返事が来ないのでハッキリした消息は分からないとのことだった。その君は、別件があり大阪に来る必要があって横浜から駆けつけて来ていた。そんな遠くからは例外としても、奈良や神戸からわざわざ来る者有りで、結構楽しく話が出来た。話題は特別なことはなく、わいわいと取り留めない話をするということだったが、私は初参加と言うことで、卒業後何をしていたのかとを聞かれ、縷々話すうちに大阪に帰ってきたのは3年前で、新しい連れ合いと暮らし始めていることまで話をした。ほぉ、と一応に皆少し関心を示したが、その連れ合いが、高校時代に見初めた初恋の人であることに話が及ぶと、その話で、一躍時の人になってしまった。同期の中でもどうやらバツ2というのは私くらいで、今日は来ていなかったが、もう一人バツ1の者がいるとのことだった。そう言ったことで、酒の力もあり、なにやら、その話で一時は話題を独占するような始末であった。他の人の動静を聞く暇がないくらいだったが、3,4人はまだなんだかの仕事をしているようだった。殆ど交信がなかった上に、自分のことばかりを話したので、他の同級生が卒業後どんなことをしてきたのか、今何をしているのかをつい聞きそびれてしまった。今年10月に下呂温泉で1泊して特別企画の同窓会をするということになっている。まだ先のことで、参加表明の返信はしていないが、これを期に出来るだけ参加して行こうと考えている。これで、私の同窓会は、たまに声の掛かる小学校と、高校の有志が集まる会に大学の同期会と段々と幅が広がっていく。生徒や学生時代に共に机を並べて同じ時間を共有していたということは、その後どんな変化があったにせよ、一堂に会するとすぐその時代にワープすることが出来て、話がすぐに始められるという気さくさがある。今日は自分のことばかりを喋りすぎたようだ。次回からは、他の連中の話を聞くようにしようと思いながら、また通常はあまり飲まないようにしているお酒を2日連続良く飲んだので、しばらく控えないといけないと考えながらそれでも良い気分で帰途についた。
2009.07.10
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今日はメインイベントが2つもあった。1つは毎月行われている歩こう会で、前回雨天と言うことで早々と中止(延期)になっていたものだった。もう1つは夕方からの高校の同期会で、ゴルフをやるグループを中心にした集まりである。朝10時に梅田に集合、阪急神戸線で、夙川から支線である甲陽線に乗り換え一つ目の駅の苦楽園口に降りた。そこで先に待ち合わせていた人達と落ち合い、合計18名での人数となった。常連さんが3名は用があるとのことで欠席されたが、いつも来ない人が参加されるなどもあり、前回よりも人数は多かった。天気予報では小雨がぱらつくか、雨もあるというニュアンスだったので、傘を持参で参加したのだが、結局は湿度は高いものの、一滴の雨も降らなかったのは幸いだった。苦楽園口から、さらに北へ行くと甲山がある。その夙川沿いの道を河口に向かって下っていく、平坦な散歩道だった。夙川の両脇には、桜の木が沢山植わっており、花見シーズンにはとても混むとのことであった。夙川そのものは、細い川であり、河川敷もそう広くはない。河川敷を一気に河口まで下るというわけにはいかず、時々堤防の道路面まで階段で上がったりまた降りたりしなければならなかった。3kmも歩くと、さっき乗り換えた夙川駅を潜ることになる。夙川の途中の橋の下には大きな緋鯉が、3匹日光を避けるように日陰でじっとしていた。そこを過ぎて片鉾池に差し掛かり少し休憩を取ったが、蓮の花が沢山咲いており、ここにも鯉や、亀がスイスイと泳いでいた。さらにどんどん南下して、JRのガード下を潜りさらに国道2号線そして阪神電車と最後に国道43号線を潜ることになる。そこら当たりからは、海風がかなり吹いていたので、ガード下の日陰で休憩した時も心地よかった。前回中止となったのだが、実際には、雨は降らなかったので、数名の人が先に歩いていたようで、お目当ての菊池貝殻館は木曜日が定休日であるとのことで、そちらはパスし、西宮砲台跡を回り込んで、西宮大橋の隣の勝ち鬨橋タイプの橋を渡り、対岸で食事を取った。おにぎりの人もいれば、我々のような弁当を買ってくる人もいる。素人が造ったと思われるブドウ棚には、多くの青い実が垂れ下がっていて、日陰は涼しかった。ゆっくり休む間もなく、というか、食事を終えてもう歩きたそうな人が多かったので、そのまま歩き出し、回り込んで、ヨットハーバーまでてくてくと歩いた。ヨットハーバー近くの館には、堀江謙一氏が、太平洋単独横断や、世界一周に使ったヨットが記念として飾られていた。よくもまあ、こんな小さなヨットでしかも単独渡航をしたものだと、ヨットの小ささに驚いた。そこで、強引に交渉して、安くして貰った喫茶店で冷たいものを飲み、その足でひたすら帰途についた。その頃からは、風もなく、一層むしむしした気候で、歩くことよりも、汗を拭く方が大変だった。最後に、先陣争いで有名な西宮神社に参り、そこで散会となった。長年世話役をしておられた先輩が体力の限界とかで、世話役を降りられ、別の先輩が引き継いで下さることになった。汗が乾いて、白い潮を吹いているシャツでは、この後の同期の会に出るわけにはいかないというので、連れ合いは百貨店で、感じの良いシャツを選んで買ってくれた。てっきり夕方5時から開始と思っていたので、10分前にこれも同期生が経営する料理店を覗いてみると当然のことながら誰も来ていない。どうしようかと思っていると、その近くに銭湯があるという。昔ながらの町中銭湯である。下駄を借り、銭湯の近くの下着屋で、下着を買って、ゆっくりと歩こう会の汗を流した。湯上がりで、下駄を鳴らして帰ると、なにやらそこの住人になった気がした。銭湯を出て、店に戻った時から三々五々仲間が集まりだした。今日の名目は、店主である同期生が前回のコンペでホールインワンをしたことを祝すという名目の会である。後は色々おしゃべりをしていると、かねての手はず通り、急性白血病を克服した友人が、突如現れた。皆で、彼の生還を祝い、拍手でその闘病生活克服を慰労した。先に見えるものが完全に治るとの確信がないままの闘病生活は、どれだけ長く感じたろうか。よく頑張ったものである。集まった同期の連中に聞くと、矢張り色々身体を切り刻んでいるのも多く、この歳になればやむを得ないことかも知れないが、私にはガンからの生還は奇跡のように思えてならない。久しぶりにその友人の笑顔を見ることが出来てこちらも幸せ気分を貰った一日だった。
2009.07.09
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今日は一日中何もすることはなく家にこもっていた。最近は毎日1万歩の目標が途切れてしまう日が続いている。安定しない天候のせいもあるが、少し暑いと言う事を言い訳にして、足が外に向かないのが本当のところである。自宅を中心にほぼ歩けそうなところは全て歩いたし、もう何回も歩いているところもある。それと、明日は、定例の歩こう会があり、皆さんと一緒に歩くという計画があるため、今日の分は明日挽回できるだろうと実に安易な弁解を心の中でしていた。毎日、新聞を読み、スクラップするのが仕事のようになっていて、それが一通り終わるまでには結構な時間が掛かってしまう。新聞は1紙しか見ていないし、テレビと合わせて見ているだけなので、偏った感じを受けているのかも知れない。新疆ウイグル地区の争乱も、色々取りざたされているが、中国政府の強圧に起因しているところは、ほぼ確実だろう。誰もウイグル人の一方的争乱だと思う人はいないであろう。イタリアのラクイラで開かれているサミットから中国の胡錦涛主席が急遽帰国したというから、予期せぬ重大事であったのは確かである。というか、ウイグル地区の大々的デモは、この国家主席が不在になる日を選んで行われたのかも知れない。地球温暖化の問題や、核の不拡散の問題など、サミットでは今や中国を除いて議論しても始まらないのが現状である。にもかかわらず、胡錦涛国家主席が帰国したのはどれほどの意味があり、また主たる目的は何なのであろうかと思う。そう言った環境問題や、核の問題で、中国に不利な結論が導かれると言うことを恐れての帰国だとのいう意見もあるようだし、中国の人権無視の対応を非難されるのを嫌がったという説もある。何が真実かは不明である。結果的にそうなったことで、中国が時間稼ぎを出来たことはあるが、これは後付の議論だろう。中国での人権問題で、未だ未解決のチベット問題に加えて、もう一方の火種である新疆ウイグル自治区の独立阻止問題が噴出し、やおら火消しに掛かるというか、国内での対処と統制を一元化するために帰国したのであろう事の方が当たっているのだろう。夕方姫が食事にやってきた時にもこの話が出た。毎日夜遅くまで仕事をして時には夜中を過ぎることがある姫だが、今日は比較的早く切り上げられたようで、色々な話が出来た。工学博士の姫も、こういった問題については少し疎いようである。また朝早くから夜遅くまで仕事をしているので、なかなか時間が割けないのもあるのだが、かといって、面白い小説などはいつの時間かに読んでいるという技を持っている。さらには、ファッションや料理の本などは、良く読むらしく、ファッションなどでは最先端を行っているようだ。そんな中、「年寄りの冷や水」というのはどういう語源かという話になり、いざそう聞かれると、はたと詰まってしまう。老人に不相応な危険な行為や、差し出た言動をすることの喩える事だという漠然とした意味があることは分かっているが、語源的には、若いのもにはまだ負けないぞと、冷水をかぶっても平気だと言うことかと私は思っていた。勿論そう言った意味もあるようだが、どちらかといえば、昔江戸では隅田川の水は冷たくて、「冷や水売り」といって、流れの真ん中の水を汲んで売る商売が有り江戸っ子達は暑さ凌ぎにこの水を買ってよく飲んだのだそうだ。今では考えられないことだが、当時の隅田川の水は飲用に叶う程度のものであったらしい。とは言いながら、矢張り川の水であり、若い者なら胃腸を壊すこともないのだが、年寄りには、若干きついようで、腹を下したりしたそうだ。そこで、年寄りが、年齢も考えず、隅田川のの水を買って飲むこと、つまり、抵抗力の弱った事を顧みずまだまだ、わしは若いのだと見栄を張り、年寄りが生水を飲むと腹を壊すことから出た言葉とする説もあるとのことを知った。同様のことわざに、「老いの木登り」「年寄りの力自慢」「ずくなしの冷や水」等という言い方もあるらしい。私もそろそろこの領域に入ってきたので、あまり無理をしない方が良いかなと考え始めている。私のバスケットの友人は、朝冷水をかぶり、近くをランニングしていると言うことだが、もうそろそろまさしく年寄りの冷や水にならないようにしなければと思ったりした。
2009.07.08
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麻生太郎ほど日本の今の自民党国会議員を代表する代議士はいないであろう。しかも第92代現総理大臣である。選挙の洗礼を受けずに総理大臣を続ける第3代目になる。過去の遺産を背負って、その過去の遺産を当の本人は否定しているにもかかわらず、何の拍子にか総理大臣という重責を担っているのである。総理になる時は、べらんめぇ調で、歯切れが良く、歯に衣着せない明快な総理として歓迎されたのも束の間、支持率はどんどん下がる一方で、歴代内閣の最低をも更新したかという状態である。自民党内部も最早一枚岩ではなく、戦々恐々としていることであろう。つい3日前の静岡知事選挙では、麻生総理を初め自民党幹部は、ついに応援演説のために静岡入りをしなかったというか、させてもらえなかったと言うべきであろう。この時の坂本候補は、応援のため壇上に立つ女性議員(野田聖子消費者行政担当相、小池百合子元環境相)を、自民党議員としてではなく個人的な友人がたまたま議員であるかのごとく自分は自民党とは一線を画していると言いたげであった。坂本候補は、おそらく自民党にかき口説かれて、静岡県知事に立候補したのであろう。その時には、かくも無惨な敗北を記するとは夢にも思わなかったはずである。もし現状のような状態で、立候補を打診されたらおそらく参議院議員の職を辞してまで挑戦したとはとても思わないからである。この意味でも麻生総理は掛けた梯子を外したことになる。鳩山邦夫前総務大臣の時もそうであった、この時は、自ら梯子を取り去ったのだが、今回は、本人の意図せざる所で梯子を持って行かれた形なのであろう。麻生総理は閣議で、閣僚に時間の許す限り静岡で応援をと指示したらしいが、及ばなかった。民主党は分裂して候補を2人も立てたにもかかわらずだ。首相は僅差(1万5千票)であると例によって口を曲げながら応えていたが、民主系のもう一人の候補の結果を加味すると何と35万票もの大差の結果となったわけである。ここでもあくまで俺は正しいと言いたかったのだろうか、極端な甘さが目に付いた。一時は早期解散を逡巡していた民主党側も現時点では押しの一手である。しかしどれだけ窮しても、麻生首相は、「私が、しかるべきに決める」として頑として解散時期を明かさない。解散権は総理大臣の専権事項であると言うことになっているが、名目上は天皇が内閣の助言で行うことになっている。このことを盾にというか、最早解散権と、人事権しか行使する力のなくなった王様が、まさに権力にしがみついているという不安定な内閣である。自民党の今の隠し球は、東国原知事と橋下知事の担ぎ出しであろう。もうなりふり構わないというか、他にこの潮流を変える手だてはないのである。私は応じたからといって、流れが変わるとは思わないのだが。民主党党首の相次ぐ献金の疑惑について、唯一のあがきのように暴き出して、自民党に有利に運ぼうとしているようだが、叩けば埃が出るのは自民党の方ではないだろうか。小沢氏の献金額が多いから問題で、二階総務会長の方は額が少ないからおとがめ無しとは一寸合点がいかない。50歩100歩の反対ではないだろうか。世襲議員の問題も次回の選挙の争点になるだろうが、自民はこれを是とし、民主は基本的に否とする立場が明確になった。世襲議員必ずしも悪とは言い難いが、安倍、福田、麻生と歴々の2世、3世の総理大臣が、これほどまでに腑抜けで、役立たずであると言うことから見直すべき点は多いと思う。現時点でマニフェストが決まっていないという事についてはこれもどうかと思う。自分の党がどの方向に向いているのかを明らかに出来ないと言うことだけではなく、どんな飴を付け加えたら国民が舐めてくれるだろうかを計っているとしか思えない。今回の選挙は、流れ、風の他に、こういった議員自身の資質を本当に国民が見抜くことが出来るかどうかに掛かっていると思う。
2009.07.07
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中国でまた大きな暴動が起こった。新疆ウイグル自治区政府が発表したところによると、この暴動で少なくとも140人が死亡し、828人が負傷したとのことだ。新疆ウイグル自治区政府といっても中央共産党から派遣された党員の支配下にあるのだが、この発表は検閲された結果なのであろうか。また、初歩的な調査によると、暴動では260台以上の車が放火され、203軒の店舗と14軒の民家が破壊されたとのことであり、BBC放送もこの騒動は1898年の天安門事件以来の大事件であると報じている。最初は整然とした2-300人のデモであったものが、1000人以上の群衆が集結したという。中国当局によれば、この10月に建国60周年を迎えるに当たって、周辺各部族の独立を目的とした各地での蜂起に対しての取り締まりを強化しているという。新疆ウイグル自治区はアフガニスタンで軍事訓練を受け、国際テロ組織から資金も提供されているとされる新疆の独立を綱領に掲げる「東トルキスタン・イスラム運動」などの組織が活動しているとして特に神経を尖らせているのである。中国の国家プロジェクトの西部大開発である南水北調、西電東送、青蔵鉄道と並び西気東輸は中国西部の天然ガスを中国東部沿岸地域に輸送する大構想であり、既に完成し、第二期の工事も計画されている。正に、新疆ウイグル地区はそのまっただ中にあるわけだ。新疆ウイグル自治区のタリム油田などで採掘された天然ガスを、タリム盆地から東部沿岸地域までパイプラインを建設して上海などの大都市に採掘したガスを送っている。この事業で潤っているのは、先頃争乱があり、今もしこりを残している、チベットのチベット自治区への青蔵鉄道の恩恵を、チベット民族が享受していない構造と似ている。全ての富は、中国の多数民族である漢民族が吸い上げているのである。中でも共産主義に名を借りた、特権階級以外は、殆どその恩恵に浴していないというわけで、この体制は、どこかの国の格差社会を遥かに凌ぐ構造体質である。浅学であり、多くを知らないが、元々中国の歴史からすると、あの有名な万里の長城は何のために造ったのか、中国そのものを、当時周囲の脅威を、東夷・西戎・北荻・南蛮と呼び、さげすみ恐れた蛮族から自らの身を守るためにあの驚異的な長さの防衛長城を築いたのではなかったのか。それが、いつの間にか、石油や、地下鉱物資源などを得んがためにその頂上をも越えて隣国を侵し、併合してその版図に加えたものである。シルクロードで中国の西の始点といわれる玉門関は、万里の長城が途切れたさらに西方に位置し、漢の時代の入り口(出口)とされていたところである。すなわち、その西部に位置する土地は、漢=中国のものではなかったはずである。井上靖の「敦煌」や「楼蘭」、「西域物語」に出てくる土地は、中国としては描かれていない。ソ連が崩壊し、周辺諸国が独立したように、これら中国の漢民族により無理矢理併合された諸民族は、分解して独立の機会を与えられるべきである。匈奴の末裔、フビライハンの版図が今やモンゴル1国になったことを考えると、あまりに異民族に自由を与えない中国の中華思想は、この機会に何とかならないものかと思う。弓矢や刀を持ち、馬で戦争をした時代は終わったのであるが、今やそれに変わるIT化の進歩により、虐げられた民族が自決できる手段は、これらの手段を通じて当局の不正や不平等そして搾取の状況を共有し、内部からの瓦解と世界世論の立ち上がりを待つしかない。今後ともチベットと合わせ、新疆ウイグル地区にも注目していかねばならない。中国は清国時代にあまりに強大な版図となりすぎたので、この際、春秋時代や、三国時代の範囲にその領域を狭めるようにすべきであろう。
2009.07.06
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北朝鮮がまたミサイルを発射したと報道があった。昨日午前に3発、午後に4発の合計7発を連射したという。江原道安辺郡の旗対嶺(キッテリョン)という、ほぼ韓国に近い日本海側のいつもの発射場所かららしい。方向こそ自国の沿岸沿いの北東海域であるが、航続距離の比較的長い中距離ミサイルのノドンであるのか短距離弾道ミサイルのスカッドであるのかはまだ良く分かっていないという。勿論ノドンであれば、日本は楽々その射程圏内である事は以前の試験からも明かな所であるが、スカッドミサイルなら、ぎりぎり日本に届くかどうかと言うことになるが、韓国は丸呑みされる距離になる。日本を含め韓国も安穏としてはいられない。新聞によれば、北朝鮮は毎年アメリカの独立記念日に合わせて、このような示威行動を取るのだという。理由はどうあれ、近所迷惑千万である。理由として、アメリカとの直接対話を求め、経済制裁網を解かせるためであるとか、金正日の健康が優れなくて、息子の金正雲に後を継がせたいため、その成果を金正雲の手柄としたいというものまである。同時に平壌放送では、異例のコマーシャルが流れたという。内容は、明治初期のような感じのビールのコマーシャルで、何と3分近いものであったという。北朝鮮の役者が、美味しそうにビールを飲み干している画面がテレビ放映された。日本でのビールのコマーシャルは各社各様に各々のブランド毎に力を入れているようだが、北朝鮮でもビールがあるのだと言うことだろうか。ところで誰が一体飲むというのだろう。将軍様は健康状態が悪いから止めた方が良いし、後は軍部と政府いやならずもののボス連中が飲むためのものでしかないはずだ。北朝鮮の歳入は約3280億円だという。4月に人工衛星だと偽って航続距離確認のために発射した「テポドン」は約290億円すると韓国政府は見積もっている。これだけでも約1割近くを消費しているのだ。さらに5月の核実験では数百億円を使っているというし、これだけを見ても、北朝鮮の国防予算約520億円を超えているとも言える。今回の一連の7発のミサイル発射を含めると約700億円を費消したことになるとのことだ。これは経済の打撃と言うことだけでは済まないと言うことだ。裏で、援助をしている国があるはずである。国防費をこれだけ使っても、まだまだ国民はビールを美味しく飲めると言うことが言いたいのだろうか。あまりに稚拙で、誰が考えても成り立たないことは明かである。時々放映される北朝鮮潜入レポートの画面からは、全く無気力な国民の姿しか伝わってこない。以前に、軍か警察の横暴に抗議する市民が映し出されたことがあったが、その後その市民がどうなったかは知れない。スカッドが拡散したのは、旧ソ連が友好国に軍事援助として輸出したことに始まり、北朝鮮はそれを入手分解して自作できるようにし、かつ到達距離の長いノドンやテポドンまでに発展させたのだという。これらスカッドの使用例は、第四次中東戦争に始まり、イラン・イラク戦争では双方でスカッドの射ち合いになり、またソ連のアフガニスタン侵攻では2,000発に及ぶミサイルが発射されたといわれている。他にも、最近では湾岸戦争で改良型スカッドをあのサダムフセインのイラクがサウジアラビアに45発、イスラエルに40発が発射され、チェチェン紛争でもロシア軍が使用している。湾岸戦争のあの花火のようなスカッドの撃ち合いは、遠い国だから比較的冷静に見られたけれど、これが日本海を挟んでとなるとたまったものではない。何故アメリカは、北朝鮮をピンポイント攻撃しないのだろうか。朝鮮戦争に始まり、ベトナム、イラク、湾岸、アフガンとその正義感を振りかざしているのに何故、ならず者の北朝鮮だけはお目こぼしなのだろうか。金正日は早く亡くなって、その後のどさくさを期に解決を図ろうとしているのだろうか。こんな時期にいくら拉致した者を返せと言っても、日本の政府の要求など何の力にもならないと言うことだろう。
2009.07.05
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日経新聞の「世界を語る」で、久しぶりにサウジの元石油相であったヤマニ氏のインタビューを見た。この人の名前は私にとって忘れられない人の一人である。造船会社に勤めていた頃、この人が出てくる前には、全然気にもかけていなかったが、この人がOPECの中心人物として、サウジアラビアの、ファイサル前国王の絶大な信頼を得て登場した時から始まる。当時の新聞やニュースで、この人の名を聞かない日はなかったと記憶する。ずっと過去の人かと思えば、未だ79歳で世界エネルギー研究所を主唱しているという。第一次オイルショックが起こってトイレットペーパーを押し入れ一杯に買い込んだ当時の課長補佐のことが今も忘れられない。それほど強烈なパンチが遠く(昔は本当に遠く感じた)異国の地で起こったのだ。第四次中東戦争で、OPECが石油の価格引き上げと、イスラエルの禁輸を決定したことが影響して、日本では、石油製品が異常に高騰した。数ある商品の中で、トイレットペーパーも石油に関連しているのだと言うことをこの時初めて知った。それまでの石油価格は、当時石油メジャーと呼ばれるエクソン、モービル、シェブロン、テキサコ、ガルフの米資本とイギリスのBPそして英・蘭のロイヤル・ダッチシェルで独占して決められていた。いわゆる先進国談合である。しかし之に風穴を開けたのがOPECすなわちヤマニ石油相だった。私など、石油の値段はそんなものかと思っていたときに、それまで虐げられていた産油国が一斉にのろしを上げて価格の決定権を握ったわけだ。そこであわてた、旧石油メジャーは中東を当てに出来ずと言うことで、一斉に世界中で石油資源のありそうな所を探し始めたというわけだ。そして、インドネシアや、ブラジル沖、北海などその他いろいろあるのだろうが、海底石油鉱の掘削に力を注ぎ始めた。そして私の造船会社にも洋上掘削用石油リグの発注が舞い込んだ。もちろん日本の各造船会社は、この特需というものの恩恵を一時的に受けたわけだが、元が石油ショックであったと言うところまで当時は気が回らなかった。私の造船設計の仕事は、一般商船からこのときがらっと石油掘削リグ関係の設計に様変わりした。いわばヤマニ氏は私の人生の転機の人であったわけだ。氏が言われるように今の石油業界は極めて不透明かつ、不純な形で石油価格が決められている。需要と供給といった純粋な市場原理で動いているのではなく、何処かの金転がしによるヘッジファンドが値段を良いようにつり上げ又下落させている。そういった関係で、当時OPECが価格に対する影響力を70%ほど持っていたものが30%まで落ち、今はそれが40%にまでは回復しているという。しかしすでにOPECが価格を牛耳るまでには至っていないというのだ。最近では、ロシアが各地で石油やガスの掘削を強力に進めており、なかなか落札先が決まらないようだがイラクの潜在的油田やガス田に国際的な関心が集まり掘削権の入札が行われている。また、南米では、ベネズエラが、チャベス大統領の肝いりで中南米を持国の豊富な石油資源でまとめ上げ反米の気勢を上げている。ブラジルでも超深海の油田であるプレサル油田にその関心が集まっている。といった状況下にある。しかしここで、ヤマニ氏はアメリカのオバマ大統領が推進するグリーンエネルギーによってやがて世界のエネルギー構造はドラスティックに変わるであろう事を予言している。曰く、太陽光、風力、原子力発電、水素エネルギーなどだ。一方、たびたび起こる、もう石油(化石)資源は底をつくというピークオイル論は、そのたび毎に塗り替えられ、コストと技術力でまだまだ採掘可能な時代は続くと述べている。しかし、「石器時代は石がなくなったから終わったのではなく(青銅や鉄など)石器に変わる新しい技術が生まれたから終わった。石油も同じだ。」という下りは考えさせられるものがある。今日、現実的には、今キーポイントを握っているのはイランであり、天然ガスの保有量は世界でロシアに次ぐ2位であるという。ロシアが、ウクライナや、南オセチア問題で、パイプラインを意図的に封鎖し、欧州を干上がらせたように、イランも又、ホルムズ海峡を握っているため、ここを封鎖することにより、原油価格は一気に1バレル200-300ドルというとんでもない価格に跳ね上がることも視野に入れなければならないと言うことだ。強硬派のアフマニネジャド大統領がどうやら続投するようだし、イランの動向と共に、アメリカのオバマ大統領の動きが、今後とも注目される。
2009.07.04
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2030年までに核兵器をゼロにしようとの9ヵ国の有識者委員会が発足したという。常に有識者はこのような委員会を立ち上げる。そのこと自体は大切な動きであるから歓迎すべき事である。日本にも、「世界平和アピール七人委員会」なるものが脈々と受け継がれているようだが、こちらは政治に関与していない人達が中心になって提言していくと言うことらしい。私の記憶に残っているのは湯川秀樹氏がそのメンバーであった頃で、その後どうなったのか余り良く知らなかった。死亡などで欠員が出た場合は適宜補充して常に基本的に7人で委員会を構成していると言うことのようだ。しかしその動向や活動内容は不明にしてよく分からないのが現状である。各々の道で頂点を極めた人達の集まりであっても、意見の合わないことや意図するところが違うとなかなか統一するのも至難の業であろう。これに政治が絡むと全くと言っていいほど、何もかもが空しく思えるようなことが起こってしまう。たった一人の狂気にあおられて、その後は力による粛正などで、段々とものが言えなくなり、最後には大量の殺戮である戦争行為を始めてしまうのである。こういったことは、人類が発祥してから何度となく繰り返されてきたのだが、それを学習する力が、人間にはないのだろうかと思うほど、何度も何度も同じ轍を踏んでいるのである。核兵器に関しては、戦術的核と戦略的核があるのだそうだが、この度のグローバルゼロ協定はどちらも含めてのことであろう。この委員会は勿論政治がらみのことで、アメリカ、ロシアを含む核保有国に核を持たないドイツと日本が加わっているのだという。他の参加国は英国、フランス、中国、インド、パキスタンで合計9ヵ国の参加だそうだ。日本からは福田前首相と佐藤元国連大使が参加するという。日本は唯一の被爆国であり、どれだけ核の恐ろしさを世界に発信することが出来るかと言う意味で、若干の不安感がある。南アフリカや、リビアは既に核廃絶を行っていると言うことであるから問題はないとして、また旧ソ連圏のベラルーシ、カザフスタン、ウクライナも核自体をロシアに返還したと言うことだから対象外としても、北朝鮮の参加は望むべくもなく、イラン、シリア、イスラエルなどの保有疑惑国の参加がない限りは、到底成果は求められないであろう。とはいうものの、多数の核兵器を保有するのは、ロシアでありアメリカである。これら2国間ではSTART(戦略的核兵器削減)を結んでは破棄しながらも1991年から今日まで16年掛けても劇的な削減まではいっていない。2030年までには21年あるわけだが、よほど腹を据えて掛からないと到底おぼつかないであろう。アメリカはオバマ大統領が積極的であるので、ある程度の期待は持てそうであるが、途中で投げ出す福田さんでは、日本の唯一被爆国としての惨状を伝えきれるのかどうかが疑われる。ロシアも、原油頼みの経済が万能で無くなった今、核兵器の廃絶に向け軍事予算を削減したいところであろうが、アメリカのMD計画(ミサイル防衛計画)に拘泥してなかなか歩み寄る気配がない。東欧にMDが設置されても核兵器が1300~1500発程度あれば先ず大丈夫だろうと、そこまでの削減が設定しているらしい。MDというのは、正にミサイルが飛んできたらこれを打ち落とすという防衛の目的だろうと思うのだが、これがあると攻撃のミサイルを削減できないというのは、本末転倒のようで納得がいかない。まああれこれ門外漢が言っても仕方のないことだが、私の生きている内や、孫子の生きている内は少なくともどこかで核兵器が使われたと言うことのないように願っている。
2009.07.03
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週間天気予報では今日は朝から雨が降る確率が高いと言うことであった。前日も昼から雨の確率は高いと言いながら午前中から昼過ぎまでは晴れていた。既に九州、中国地方では集中豪雨であるとも報じている。私と連れ合いは前回も雨の中ラウンドした経験があり、連れ合いなどは、炎天下よりも少しくらい雨の方が涼しくて良いというほどだから、とりあえず、グリーンに水が溜まるほどでなければやろうと決めていた。問題は姉の方である、天気予報では雨だから、どうしようかと逡巡しているので、朝出かけるまでに行くかどうかの電話を貰うことで昨夜は寝た。夜にどれほどか降ったらしいのだが、朝は曇ってはいるものの空は明るみが差して降っても少量だろうと思われた。気象予報士ほど当てにならない者はない。近くのおじいさん(おばあさんでも良いのだが)の背中がかゆくなれば雨だとかいった風な予報の方がよく当たる感じだ。我々も素人予報を信じ、3人揃ってラウンドすることにした。ラウンドの当初は雲があって涼しいくらいだったが、時々は晴れ間も見え、暑くなるほどの良い天気だった。例によって雨の予報の一庫は、来る車も少なく我々がトップスタートだった。その後には、天気予報を見ながら、今日参加を申し込んだという夫婦連れが後を追ってきた。こちらは3人後ろは2人で、常に追われる感じだったが、それでも連れ合いも姉も、そこそこに回ったので、迷惑を掛けると言うことはなかったが、私の方は、出だしから、あちこちにボールが飛んで、なかなか思うようにいかなかった。身体がほぐれていないスタート直後は特に切れが悪く、ティーショットが安定しない。隣のコースのしかも池に放り込む(多分)様なことや、ショートアイアンでのダフリなど、目も当てられない気負いが所々にあった。矢張りアプローチで中距離からのグリーンオンの確率は低い。必ず、グリーンエッジかグリーン傍のラフに落ちてしまう。時にはバンカーにも。この1打がもう少し正確なら、飛躍的にスコアは改善されると思っているのだが。ティーショットで、自分では良い感じに振れたのだが、球を見失ってしまいロストにしてしまうほど情けないことはない。曇天の雲に隠れたり逆光の時は特に注意しなければならないが、それにしてもフェアウェイにあれば見つかるはずで、結局はあまり良いショットでなかったのかとも思ってしまう。アウトの最後は、力尽きたのかグリップがゆるみ、ティーショットは飛ばず、フェアウェイウッドもトップし挙げ句はガードバンカーで2回叩くなど散々であった。食事にワンドリンクが付くサービスがあり、久しぶりにビールを飲んでインに向かったのだが、身体がほぐれたせいかアウトより格段に良い結果が残せた。それでもパー5の3打目、ここぞ3オンをというときに、気負ってミドルアイアンをダフリ、敢えなく、4打目も乗らずさらに3パットと、撃沈してしまった。一庫は距離が短いだけに、スコアは良く出る。(何しろパー70)しかし、ここでラウンドをしているとフェアウェイが狭いので右左に触れることは多少矯正されるようだ。アウトより9つスコアを伸ばせたと言うことは如何に朝一の身体のほぐれが無いことかなと思う。連れ合いの方は、多少のおまけはあるものの、段々ゴルフらしくなっている。アウト1番では身体が回りきっていないのは同じだが、2、3、4番のティーショット等は目も覚めるような飛距離で、それも4番の一寸した谷越えのホールではやっと届いた今迄に比べ、遥かに前方のベストポジションに白球を運んだのだから驚きである。スーパーショットの後にありがちな、気負いだろうか、その後はめちゃくちゃになって本人もしょげていた。往々にしてそう言うものである。悪いことよりも良かったことをイメージする方が良いと思う。ショートアイアンのアプローチがとても良くなり、ダボで納めたり、距離こそ稼げないものの、着実にミス無く、ボギーで納めるホールなど、随所に光るものがあった。矢張り課題はグリーン上で、未だにパットの感覚がつかめないようだ。こればかりは、体得する以外にどうこう言うことは出来ないが、距離感は別にしてライン(せめて傾斜)をもう少し慎重に見定めて欲しい。本人は、今はミドルからショートアイアンに力を入れているので、そのうちフェアウェイウッドにも幅を広げ、グリーンはその後だとの意向のようである。老齢になって初めて10ヶ月、そろそろゴルフになりかけているこの時期は今迄のことをおさらいして、もう少し考えるゴルフに進むべき時かと思う。本人やる気は十分で、帰ってパソコンで何をしているのかと見ていると、安いゴルフ場を探して早速予約しているのである。え!我々より10歳も年長の姉のゴルフは、もうまとまってしまっているので今更どうこう言っても矯正できるものでもないが、時々ティーショットで素晴らしいのを打ったり、寄せやパターではちらっと良いものが見られる。しかし、前回の私の参加する定例ゴルフの前の組の姉弟のお姉さんの方は何と82歳だそうで、的確にティーショットを軽く飛ばしているのを見ただけに、もう少しがんばれるのだと勇気を貰った。ゴルフは力ではなく、個人個人の力量で楽しくやればいいのだ。ともう少し先になったら思えるようになるだろう。個人的には、少し疲れた感じはあったものの、全体には天候にも恵まれとても楽しい一日だった。
2009.07.02
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高校時代のバスケット部同期の友人が白血病から無事生還した。この機会にその友人を囲んで、同期だった5人で会食をしようと言うことになった。というのも、闘病生活中にメールで励まし続けた連中と会いたいと言うことで、私がその声かけ役をしたと言うことだ。我々の高校時代のバスケット部は黄金時代で、何人もの先輩が来校してコーチをしてくれたことを思い出す。同期だったのは、7人いたのだが、残念なことに一人は、他の6人と比べて技量が少し落ちたので、何となく卒業以降会っていない。さらに一人は、50代にガンで早逝してしまった。その頃の私は関東地方に転勤していた関係もあって、壮絶な闘病生活など詳細は知らない。従って今同期の仲間は5人を数えるまでになってしまった。60歳も半ばになると、色々なほころびが出てくる。5人のうちの一人は壮年期に筋ジストロフィーを患い、何とか回復したものの自分一人での歩行がやっとという感じの身体になってしまっている。早期にサラリーマンをして辞め自営業をして巧くいかず、現在でも近くで建設会社の仕事をしているという。さらに今回白血病からの生還者だ。私が関西に戻ってきた時に、ゴルフの会に招じ入れる役目をしてくれたのだが、わずか3回ほど同じ組でラウンドしただけで、昨年の12月12日、異変に気づきその日のゴルフの約束をキャンセルして医者に診て貰ったところ血液内科の方に回されて、白血病である事とが判明、うむを言わさず即入院となった次第だという。全く寝耳に水という感じだったそうだ。朝、歯を磨いてふと太ももを見ると赤く充血しているのに気づき、ある種異変を感じて医者に行ったのが良かったというのだ。早期発見ということもあり、苦しく吐き気のする、何回もの抗癌剤投与の回数(クールと呼んでいた)を経て、この度ガン細胞は残っていないといわれたのだそうだ。そうは言いながら、半年か1年おきに検診を受け、10年単位で再発の危険と戦わなければならないことは他の患者と同じ事だという。この君は高校時代はバスケットの技術は一番巧みだったと言っても良いが、就職してからは、部署が悪いのか付き合う仲間が多かったのか、その体重は100kgを遥かに超えていた。そんなこともあって、一度許されて見舞いに訪院した時も痩せたと言いながら、我々よりは遥かにどっしりとしていて、いわゆるガン患者という感じは受けなかったのだ。後の一人は、今もまだ夢を追い仕事に励んでいる。この君も、付き合い下手であり、何度も職場を変わると同時に、また転居が好きな奧さんと一緒にあちこちを転々としていて、今はやっと私のマンションの淀川の向かいの八幡市に落ち着いているようだ。何と毎朝水垢離をしたり、石清水八幡宮の周りを早朝ランニングしているようで、驚きである。最後の一人は、大人しい性格のリードオフマンだったが、中学から始めたバスケットボールは高校時代止まりで、私が同じ中学で、途中から入部したのだが、結局は私の方がバスケットボールに関しては長く携わることになった。というのも、彼は関学に進みグリークラブの魅力にとりつかれ、学生当時はカナダ遠征などもあり、合唱一筋の人生となり、現在では、OB会を含め、地方住民のコーラス部を立ち上げてその責任者になるほどの力の入れようである。働いている2人の内1人は夜8時頃まで仕事をしているので、ウイークデイはなかなか時間が取れないとか。コーラスの友人は、少し遠い事もあり、また土曜日はは来るべき演奏会のために練習で離れられないとかで、結局消去法で行くと今月末の日曜日しか接点はなくなってしまった。気の合った5人の仲間の時間を調整するだけで、結構時間が掛かる。今迄、私は幹事と言うことを経験したことが無く、どちらかというと遠方を理由にとか、参加をためらう方であったが、今回調整を試みて、世話役の大変さを思い知らされた。今でも趣味が同じだとか、対外活動をしていなければもっと話は簡単なのだろうが、未だ現役2人、趣味を越えた文化活動家1人等まだまだ枯れていないので、調整も大変なわけであるが、考えてみれば、元気で生活していること自体がとても恵まれているのだということを感じている。もう誰もバスケットボールが出来る身体ではないが、若い多感な時に同じように炎天下で汗を流したり、水をぶっかけられたり、苦しい練習をしてきた仲間だという親近感は何よりのものであることを感じている。苦しいガンの闘病生活から生還した友人をみんなで心から励ましてあげたい。
2009.07.01
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