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夕方から2時間英会話サークルに参加した。昨日の玉野、倉敷への長距離ドライブで、連れ合いは調子を壊したようだ。今日から2学期の授業が始まるのに覇気が無く、なにやらつらそうであった。とはいうものの、授業に穴を開けることは出来ないので、ギリギリになって出かけていった。私の方は、このところ外出が多く、読んでいない新聞が溜まっていたので、これらにざっと目を通した。新聞もその気になって深く読むと結構な時間が掛かる。溜まったときには、つい流し読みをしてしまうので、内容は頭に残らない。今日の新聞は、見ずに出かけていて、選挙の結果は一昨日の車の中で、結果の動向を聞きながら帰っていたので、地滑り的な民主党の圧勝を見ていたが、はっきりとした数字は未だ把握していなかった。今朝の新聞では、「民主300超、政権交代」の文字が躍っていた。夕刊には、確定勢力が掲載されていて、民主308、自民119、と全議席408中の単独過半数を遙かに超える議席数を民主党が獲得していた。50数年、一寸した撹乱時期はあったものの、本格的に自民が大敗したのは初めてのことで、選挙前からの自民党の動きに嫌気をさした有権者の心の動きが反映された結果となった。投票率も、自民の古株が望む、無党派層は家で寝ていてくれればいいと言うのに反して70%近い高い投票率であった。それにしても、大物政治家としてならしてきた自民党の柱のような人物が、次から次へと敗北しているのを見て、時代は確実に変革を求めていて、現在の状況に閉塞感を持っていることが如実に表れた。すでに80を前にして、自民党のかげりを感じながら出馬した人で、まともに残った人はいないのを見て、これが、自民党の体質で、これほどまでに世の中をなめた雰囲気しか感じ取れないのかと改めて、腐りきった体質を感じた。総理大臣を経験した中で、今は何をやっているのか分からない、海部氏などは78歳にもなって出馬していたこと事態がおかしいと思った。これから先何をしようとしているのか全く見えない。河野洋平氏などのように引退を早々と宣言した人は未だ有終の美を飾ることになったが、後は、見苦しく、選挙のはじめには、俺がいないとこの地域は駄目だという高飛車な調子から、終盤には何とか私を助けてください等という有様を見て、どっちが助けて欲しいのか、貴方が出てこないことが国民を助けることになるんだよと言いたい人たちの多くが落選し、比例で救われるといった不名誉な結果に甘んじていたようだ。もうすでに終わった、福田、森の両首相経験者は、比例で救われたものの、いったいこれから何をしようというのか、彼らの頭の中の構造は、今未だ55年体制の延長でしかないと言うことなのであろう。多くの古参議員が落選する中、公明党のトップと言われる3人がこぞって落選していた。私個人としては、この結果はもっとも胸がすかっとするものだった。政教分離を唱いながら、正に宗教団体の代表で、特段の政策もなく日和見的に与党側に付いていて、今その泥船と一緒に沈んでしまったのだから。政治家であればこそ、未来を見据えて、100年先をを論じるのが理想であるにもかかわらず、現状の維持を小手先で守ろうとし、自己保身に汲々としたなれの果てを見るようである。若いから出来ない、経験がないから出来ないというのなら、明治の英傑達は何も出来なかったはずであり、旧藩主として納まってきたあの老害の今よりもっと厳しい時代を変えたのは、これら将来を憂えた若き精鋭達ではなかったのか。民主党は、その高邁な理想で勝利した訳ではないことをまた理解しておかなければいけないだろう。いかにも若く、本当に国民の代表として適任なのかどうか未知数の人間がたくさんいるようにも思われる。その地域に自民党の老人がいると言うだけで勝ち抜いた人たちは、これから先、大いに勉強をして貰わないと、単なる陣笠になってしまうようでは、看板が、自民から民主に変わっただけに終わってしまうだろう。取り敢えずの大変化の兆候を、望ましく思いながら、夕方、先輩が主催する英会話教室に「まぁ、いっぺん顔を出せよ」と言うことで参加させて貰った。講師というか、中心で教えてくれる人は、ベラルーシ出身で私の母校の後輩に当たる大学院に通う若者であった。何でもよく知っていると言うだけあって、いろいろな話題に花を添えてくれるが、ベラルーシというのは、旧ソ連系で、白ロシアと言われた所である。当然英語圏ではないのだが、母国語はもちろん、ロシア語も堪能なのであろうし、英語もしっかりと話す。集まったお歴々は、素晴らしい経歴の人たちではあるが、英語となると、なかなか思うようには話せない。この意味するところは何なんだろうと何時も思う。話す内容がなければ単純な会話だけでは駄目だと言うことであるのは分かるが、今回の選挙(Vote)についての話題になっても、この大変革をどう思うのかについて、的確に自分の意見を英語で話すことが出来ないのである。陸続きでせめぎ合い、ロシアとポーランドに国土を分割され、我々日本人が想像も出来ないような状態を経験しているからなのだろうか?それとも彼自身がエリートで、海外に留学できると言う特別な存在なのかはよく分からないが、いずれにしても英語を必要として使い始めたのと、英語くらいは教養としてやっておきたいという、内なる必然性の違いなのかと、感じながらの2時間のサークルだった。
2009.08.31
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岡山にある母の墓に参ることになった。最近では2年半ほど前に連れ合いと訪れて以来、玉野の母の墓に参ることはなかった。母が亡くなって1年後の昭和57年(1982年)に墓を建立した。当時は未だ玉野に永住するだろうとの思惑もあり、近場にと言うことで、墓を建てることになったのだ。いろいろな事情で、父の眠る大阪に一緒に入って貰うことが叶わなかった。それ以来ずっと気にはなっていたが、千葉への転勤に始まって、出向先から、海外駐在さらに東京に転勤その後も海外駐在とめまぐるしく環境は変わった。別に忘れていた訳ではないが、墓を管理するお寺と交わした契約書に永代使用権と言う文字があり、中身をあまり見ないままに、安心していたずらに時を経過してしまった。この前、連れ合いと母の墓参をしたときも、お寺には行かず、墓所に参るだけで終わったため、特に変化を感じなかったが、1週間ほど前に、連れ合いの所に電話があり、墓石に永代使用権が剥奪されるという旨の張り紙がしてあるという連絡が入った。驚いて、お寺に電話をかけたのだが、何と恥ずかしいことに契約書には、毎年管理費を払うことになっていて、それが全く滞っていると言うことで、5年を経過するとその権利を失う云々とある。住所を何度か変更したり、海外駐在の期間もあったりで、お寺にはいちいち住所変更の届けをしていなかったのだが、墓を建立してからは何度か墓参をし、10年間は墓地の近くの寺に届けた住所に住んでいた訳で、その間1回の督促も受けたことがなかった。従って、私の頭には、母への不義理とは別に、墓所は守られているという思いこみがあった訳だ。元々、私には田舎というものが無く、自分の住んでいるところが故郷であった私にとって、墓地というものに関する強い思い入れはなかった。そんな不義理にあまり重きを置かないで育ってきたのであり、私にとって、父が最初の身内の死であるから、先祖がどうなっているかも分からず、自分の行く末にも特に何のこだわりもなかった。父が亡くなり、やがて母が亡くなったときに、事情があるとは言いながら、合祀できなかったことだけが心に何時も引っ掛かっていた。そんな矢先の通報である。あわててお寺に電話をしたり、契約書なるものを見直したりしたが、どうにも私の落ち度の方が大きい。しかし、こちらにも10年間何の督促もなく且つ今になって何故との事は伝えた。住職も代替わりして3代目とかで、先代や先々代はおおらかであったのであろうか、このような結果になってしまったようだ。現住職も分かりの良い方で、経緯を話し、寺側の対応も考慮して、過去の墓地管理費を納めることで、墓地を存続することが出来ることになった。内容はほとんど変わっていないと言うが、新しい契約書に切り替わっているとのことで、この際墓参もしていないこともあり、連れ合いに促されて、姉を伴い玉野の霊園と、お寺を訪問して事を一度に済ますことになった訳だ。お寺さんと会う約束を今日の1時から2時の間と決めていた。日曜日の高速道路は混雑が予想されるので早めに大阪を発つことにし、姉の家に8時半に迎えに行き、9時には高速道路に入った。中国道から、山陽道を経由して倉敷JCTから瀬戸自動車道に入り、瀬戸大橋手前の児島ICで降りたが、途中心配した渋滞もなく、ごく快適で、早めに到着できた。児島は元々漁港であり、そこで昼食の回転寿司を食べたが、ネタが新鮮で、想像したよりおいしい昼食が採れた。その足で、玉野までは約30分ほどだが、先に墓に参るように連れ合いに促され、途中で、これも連れ合いの気遣いで花を買い墓前に備えた。墓地は、山の斜面を切り開かれて建っており、坂の下に車をおいての上りは少しきつかったが、心配した張り紙は寺側の配慮ですでに取り除かれていた。お参りを済ませてお寺に着いたのは1時半で、丁度良い時間であった。住職は、3代目という事もあり、未だお若い方であった。寺の社務所に通されたが、そこには寺に似つかわしくないパソコンが置いてあった。最近は檀家の整理など、パソコンの力を借りなければならない時代であるようだ。今までの放置を詫び、新しい契約書と交換して、溜まっていた支払いを済ませた。またこれも連れ合いの心遣いで、お布施を包み母の法要を依頼した。電話で事前に打ち合わせていたし、丁寧に断りを入れたので、事はスムースに進み、最後に本堂にお参りするよう促され、焼香した。前に一度訪れた寺の内部とは相当違って、内装もきらびやかで、相当手が加えられているようであった。「善人なおもて往生する、謂わんや悪人をや・・・」歎異抄にある親鸞さんの教えを思い出し、私のように、仏事をおろそかにするものでも、往生できる、浄土真宗に感謝した。取り敢えずというか、最大の目的を果たしてお寺を辞去したのは2時半頃であった。せっかくここまで来たのだから、このまま帰るのも勿体ないと思い、倉敷の大原美術館にまわることにした。玉野から倉敷までは約30分である。駐車場に止めて、美観地区を行くと、さすがに大勢の観光客が歩いていた。倉敷美術館へは連れ合いと何年前に来たのだろうか、その時、別館は確か工事中で閉館されていたが、今回は、すべてがオープンされていて、お目当てのエル・グレコの「受胎告知」の絵の前にに真っ先に行って、椅子に座り込み見入る連れ合いであった。私と姉は、最初のルノワールの「若い夫人の肖像」から順次見ていったが、モネの「積みわら」や「睡蓮」、ルオーの「呪われた王」や「道化師」など日頃良く目にする絵画以外にも、ムンクの「吸血鬼」やルドンの「鐘挽守」など初めて目にする作品も多かった。地下の部屋には、カンジンスキーなどはまだしも、シュールレアリズムの作品が展示されていて、これらはもはや私の範疇を超えているとほとんど素通りしてしまった。気になったことを済ませた安堵感で、ゆったりと鑑賞することが出来たし、美術館を出てから、連れ合いの好きな「エルグレコ」という美術館からほど近い喫茶店で、一寸苦めのコーヒーをいただいた。十分堪能して、帰途についたが、帰りは早島から山陽道をひた走った。予告通り、神戸JCT当たりから13kmの渋滞だった。案の定、じわじわと進んでいると、前方3kmで接触事故とか悪いことは重なって、さらに渋滞は長引いた。それでも、宝塚を過ぎる当たりからは通常通り走れるようになり、豊中・池田のICをおり、姉を送ってからは、いつものコースで、無事自宅に戻ることが出来た。今日のすべては連れ合いの動きから出来たことで、有り難いことだと横を見やると、さすがに疲れたのか目を閉じていた。支えて貰っている自分を感じながら、出来るだけ起こさぬように静かに運転した。
2009.08.30
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かねてから最近活動のない高校時代のバスケットボール部OB・OG回を再興しようと、先輩と二人で、母校のバスケットボール部の顧問の先生を訪問した。元々は半年より以前に、クラブの顧問をしておられる先生から、バスケットボール部の現役生徒を支援して欲しいとの要望が先輩の所に来たのが発端である。従って、最初に母校に出かけたのは半年も前のことである。その時は母校が同じである連れ合いもこの件には直接関係ないものの、母校の変貌を見ようと一緒に出かけた。我々の時代にはすでにOB・OG会が出来上がっていたが、特に会則もなく、会費も取らない自由なもので、やがて有名無実になっていた。半年前の話の中ではすでに、若い人が新たに立ち上げているOB・OG会が出来ているのだと聞いた。しかしその会も活動はあまり活発ではなく、現実的には、有名無実に近い状態らしかった。他の有名高校などは、80周年の記念集会をするなどという話もあり、ここで、我が母校も実質的に活動しては如何かという流れになっていたようだが、これもなかなか軌道に乗らないというのが真実の所である。半年前の訪問以来、すでに2回、若いと言ってもそこそこの年齢のOBの方と会合を持ち、一応の路線が決まったと言うことで、通知を受けていたが、その後設立総会を予定している日が近づいても、案内が廻ってこない。市内の超忙しい中・高一貫学校の教諭をしておられるそのOBの方が事前会合では会長を引き受けるという事になっていたようだ。先輩は、動きが止まったために、気をもんで、今回の訪問となった。理由が分からないが、会長予定のその先生は、やはり忙しいのであろう、顧問の先生からも確かな情報は得られない。一旦約束をし、立ち上げ総会の期日まで決めておきながら何の音沙汰もないと言うことに関しては、一般常識では考えられない。忙しいのであれば、事前にその旨の連絡があってしかるべきであると私などは考えてしまう。その点を確かめようかとすると、先輩は何故か忙しいのだろうから、問い合わせて、波風を立てない方が良いと慎重な姿勢である。問い合わせたい気持ちをそこでは控えた。と言いながら、先輩自身も問い合わせることもしていないので、真相は分からないままであった。今回は、設立総会の趣意書と、会則の案を作成しての訪問であった。先輩と、母校のOBではないが顧問をしておられる先生それと私の3人で、設立趣意書案の文章や会則案などを検討し、少し手直しをすることになり、持ち帰った。その設立趣意書では、一般的なことを書いているのだが、発起人として、先輩を含め数名のOB・OGの名前を連ねた。行きがかり上、私と、今はガンから復帰した同期の友人も名前を連ね、後は、くだんの会長を引き受けると言っていた、忙しい先生やその同期の奥さんも名前を連ね、さらに若い人につなげるために数名の若いOBの人の名前を書いた。今日の話では、内々に、会長や副会長を誰にするかという別紙をつけ、発起人に事前にそのつもりになって貰うべく同封することになった。会長には若い方の会で会長をしていたという超忙しいと言われる学校の先生をしておられるOBの人を据え、会計には、以前の話ではやる気であったその奥さんとし、旧い方の会を代表する意味で、私に副会長という割り振りとなった。先輩は、設立を見守り、軌道に乗るまでを援助するという意味で、幹事とし、私の同期生は、病気上がりで、大変だろうと同じく幹事という話になった。対象の人数は700人くらいいるようだが、実際の印刷作業、宛名書きなど実務に関する詰めが為されないまま、話が四方八方に飛んで、取り敢えずは、設立趣意書と会則の手直し、そして別添の役割分担を私が作成して、顧問の先生に送り、同意を得てから、会長をお願いする予定のOBの先生に送るという手はずまでを決めた。印刷などは顧問の先生がやると言われ、金銭的な援助は、旧の会費の残額(何故か、学校の方から寄付があったのか少し残っていた)とは別に先輩が手助けをすると言うことまでは決まっている。取り敢えず、それで走り出し、実際の宛名書きなどの作業は顧問の先生を通じて考えて貰うという雰囲気で会談は終わった。帰って連れ合いに話すと、病気を理由で、それまでの流れに反して、同期の友人を幹事とするのはおかしいと言うことになり、急遽、同君を副会長とし、私が幹事として全面的にバックアップをすると言うことを個々に電話でお願いと修正をして、本日の会合の締めくくりとした。明日は、岡山に行く用があるため、帰宅後早速訂正文の作成をし、行動を起こさなければいけない。十人十色とはよく言ったもので、こういった内容をまとめることでもなかなか難しいのに、実際に新しいOB・OG会がスムースに立ち上がるのかどうか、少し不安である。
2009.08.29
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6ヶ月の長きにわたって入院し、闘病生活をしてきた同期生が、今年5月に退院した。その後、ウォーキングやプール内での歩行などで体力回復に努めてきたようだ。そしてやっと今日念願の復帰ゴルフを先輩の計らいで共にラウンドすることになった。先輩と同期生である我々はバスケットで指導したり、されたりの間柄である。その3人に、連れ合いも一緒に廻ることになっていた。病気回復の同期生は連れ合いもよく知っているし、先輩とは、別途歩こう会で、奥さんともよく知る仲である。先輩が会員の高槻CCで朝8時17分スタートである。「私などまだまだ」という連れ合いを促してのガン復帰のお祝いゴルフである。ガンに犯される前は、大変な数のゴルフをこなしていた同期生は、入院中一時体重は落ちたものの、退院後再びリバウンドしてか、見てくれはお腹が出て、病気上がりとは思えぬ位の風格である。もっとも、肩の肉や、筋肉は落ちていると言いながら、なかなかへこまないお腹をさすっていた。私は、彼によって、先輩が主催するゴルフコンペに入会させて貰ったのだが、入った初回は、雨のせいもあってか、箸にも棒にもかからないゴルフで、ブービーとなり、慰められたものだった。その時の彼は、80台のスコアで、ティーショットも豪快に飛ばすし、バーディー、ニアピンなどの賞も貰っていた。その後1度一緒に廻っただけで、彼はガンの告知を受けた。即入院と言うことで、多大な苦痛と闘いながら、6ヶ月の闘病生活に入った。ガンという名前から、なにやら暗いものを感じたが、急性であり、早期に発見したことや、丁度良く会う薬があったとか、いろいろな幸運にも恵まれて、この5月、予定通りの退院となった訳である。また一緒にラウンドしようとの合い言葉に、メールでのやりとりを行ってきたが、ついに今日という日を迎えることが出来た。私はもちろん感無量であるが、彼の心はいかばかりかと推察した。連れ合いも同級生だと言うことで、何かと気を遣ってきたので、ゴルフの腕は別としても、一緒に回れることを心待ちにしてた。今日の連れ合いのゴルフはどうなるのだろうかとの心配はあったが、気遣いの素晴らしい先輩が付きっきりで指導しながら回ってくれたので、私はある程度自分のゴルフに集中できた。彼の復帰第一打は、まずまずで、1番ホールは共にバーディーで上がることが出来た。このとき、先輩はダブルボギーであり、それで少し本気を取り戻されて、後は、いつも通り、80台のスコアーをキープされていた。同期の彼は、ほとんど7割方の力でやっていたのだと思う。出来るだけカートに乗ることを心がけ、疲れないようにしていた。私は例によって、カートをあまり使わないで歩くことに集中したが、時々、彼に大丈夫かと声をかけるものの、彼は、ここまでこられて、ゴルフできるという喜びに浸っていて、また回れる自信が出来たよと言うことだった。9ヶ月も実戦を離れていたのだけれど、一旦身についたゴルフは、なかなかのもので、アプローチの距離感や、パターの寄せや読みに若干のブランクは感じられたものの、ティーショットの球の鋭さはまだまだ健在だった。本人が言うように、やはり手打ちになって引っ張るという、体をかばうのは仕方のないことだ。私は気楽なパーティーでもあって、出だしがボギーの連続で収まる何時にない出来だったので、結構良いスコアを続けられた。「君、巧くなったなぁ」という友人の言葉にもまんざらでないものを感じた。5つのパーの内、ロングホールでの2つのパーは、今までにないことで、3回の3パットや1回の何でもないOBなどはあったものの、友人にグロスで勝つことが出来た。病気上がりを相手にとも思うが、彼が本格復調したら、決して及ばないだろうから、今の内という気持ちもあった。来年は、ゴールドティーからの権利があるという先輩のすさまじい向上心には驚かされた。その歳で、プロにレッスンを受け、打法を改善したと言われたが、そのティーショットのすごさと言ったら今までに見たこともないプロ並みの飛距離であった。パー5の最終ホールでは一度も2オンをしたことがないと言われたが、これを何と右ラフからバーディーオンするほどティーショットの飛距離はすごかった。そんな先輩に、助言を受けながらの連れ合いは、それだけでプレッシャーではあったろうが、素直に受け入れて、ある程度の緊張感の中でのティーショットや、7番アイアンは、順調に前に飛んでいた。後半はばてたようだが、一貫して、パターの感がなかなかつかめないようで、相変わらずグリーンを行ったり来たりする場面が見られた。連れ合いもなんと言うこともないところでのOBで二桁を叩いたようだが、後は、4回のダブルボギーと、極めつけは、最終ホールのボギーであった。池越えの最終ホールはグリーン周りで私がもたついたのとは対照的に、連れ合いの打つ球はすべて快打で、最後の池越えグリーンでは、少し奥に飛びすぎたがこれも良い当たりで、結果はボギーと私と並んだ。とにかく楽しくゴルフが出来、ゴルフ後の歓談でも、ガン克服の友人もわき上がるうれしさをかみしめているようだった。良き友人、良き先輩そして良き連れ合い、どれを取っても今日は素晴らしい一日であった。もちろんゴルフのスコアも良かったのだけれど。
2009.08.28
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2003年に使われはじめたBRICsと言う名前がだんだんと前面に出てきはじめた。BRICsとは経済発展が著しいブラジル (Brazil)、ロシア (Russia)、インド (India)、中国 (China) の頭文字を合わせた4ヶ国の総称である。2008年当時カナダを除くG7の15%程度でしかなかった経済規模だったが、やがて、之も2050年頃には先進国を上回ると予測されている。すでに、中国の躍進はすさまじく、GDPに於いては世界第2位の地位を占めるに至っている。ロシアが、その資源力を背景に途上国からすでにG8でいわゆる先進国の中に組み入れられている。この国は、どうしても旧ソ連の共産主義体制を思い起こさせるし、地政学的に遠いという事もあった、軍事面での事の他は、なかなか中身がよく見えてこない。ブラジル日本にとってはまだまだ遠い国である。隣国の中国は、様々な問題で、日本と関わってきており、何人もの人が中国に関する本を出版し、また、人権問題でも大きく取り上げられるのでかなりな部分は我々に知らされている。何しろこの4国は、国土面積で世界の29%、人口では42%を占めるうえに、経済成長率でも毎年6%を超える成長を遂げている。また、この4カ国とも石炭・鉄鉱石・天然ガスなどの資源大国である。中国などは、対日海底油田に関しては日本側の資源にまで手を出したり、強引にアフリカなどに資源の利権を確立するためになりふり構わない進出ぶりである。ロシアも、対ウクライナに石油供給のバルブを閉め、EU諸国は、ロシアを経由しないルートで石油やガスを導入しようと躍起になっている。ブラジルについては、日本から遠いこともあり、たいした情報量は無いが、最近は、インドのことが多く紙面を飾るようになった。この4国は便宜的に括られたものであるが、今後の世界の版図を決めると言う点では大きな意味を持つ国々である。おもしろいことに、宗教的には表向きに大きく括ると、中国は儒教、インドはヒンドゥー教、ロシアは正教会、ブラジルはラテンアメリカの文化圏に属し、なんの宗教的つながりもない。日本と違って、これらの国々では多様な民族が住んでいて、細かくは宗教的にも種々多様である。人口的には、ロシアは年々日本と同じく人口減と予測され、ブラジルは暫増、表向き一人っ子政策を続けている中国に対して、何の規制もないインドはやがて、2040年頃には世界一の人口大国になると予想されてる。かつてのイギリス統治下で、インドという現在の大国の礎が築かれたが、パキスタンを代表とする、国境近辺での紛争が一時休止的な様相の中、このところのインドの経済発展ぶりはすさまじいものを感じる。東南アジアの発展を期すメコン地域開発と呼応して、メコン・インド産業大動脈構想もある。また、内陸部の首都ニューデリーとアラビア海に面した世界でも屈指の大貿易港ムンバイを貨物専用鉄道で結ぶ産業大動脈構想も具現化しつつあり、2015年にも開業すると言われている。二桁の九九等で紹介されるインド式算数だとか、一時、インドのシリコンバレーと呼ばれたバンガロールなど、インドでは、特徴的な都市が多くあるし、また之から発展するべき潜在能力は高い。今日の新聞には、ものづくりとして立国するインドに関する特集が始まった。これに類した記事は今に始まったことではないが、着実に前に進むインドの姿が紹介されている。また片隅ではあるが、インド最大級の油田も生産を開始し、来年までには日量12万5000バレルまでの原油生産にはいるという。一見輝かしいインドだが、日本以上に格差が大きいことは大いなる悩みであると共に、歴代政権が取り上げ解決しようと試みるインド独特のカースト制度など、まだまだ根本的解決をしなければならない点が多い。 とりあえず、アジアの一員としてのインドの動向は之からますます目が離せない。今の日本は、山積する問題は皆、ネガティブなことばかりで、スケールの大きな話は何一つ無い。何も、道路や、橋、さらには天にも届く建造物だけが、華々しいものではない。ここらで、人間の内面を豊かにする心豊かな国作りをはじめても良いのではないか。外国の人が、訪れたくなるのは、神社仏閣でだけではなく、四季を有する自然の美しさや、人の心の温かさ、そういったものに目を向けなければ、資源もない、産業も空洞化する国に、明日は訪れないかも知れない。
2009.08.27
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今日も家でのんびりした。伊勢志摩へのゴルフ・ドライブ旅行を終わって、太郎の車と取り替えていたのを交換に出かけた。太郎君は今日から、マニラへ数日出張だという。一方、姫はロンドン出張中である。帰りは同じ土曜日のようだが、着く空港は関空と成田→伊丹と違う。私が若かった頃に比べると隔世の感がある。海外出張といえば、水杯とは行かないまでも、同じ課の人間が皆総出で見送りしてくれる位なイベントであった。それから30年もたたないうちに、世の中のグローバル化が進んだというか、国内で製造業を続けるにはコスト高になって、世界で戦えないようになってしまったというのが本当であろうが、海外出張はそれほど珍しくはなくなった。水が高きから低きに流れるのと同じで、生産コストの安いすなわち人件費の安い国に生産を委託するケースが増えてきたわけである。海外に出て行けない所はいわゆる正規社員ではない派遣社員といわれる雇用不安定で、給与も低い社員を使うのである。太郎の場合は、ベトナムにも進出していると言うから正にグローバル企業である。造船なども所詮、鋼板を切断、組み立て溶接するだけの労働集約的産業である。もちろん各部門部門で行き当たる技術的問題は多岐にわたるが、それを解決した技術を流出させてしまえば、後に残るものは何もなく、ただただ安い賃金で働く方が製品価格も安くなり客もその方に流れるのは必定である。こうして、日本から韓国、そして中国へとその居を移していったわけである。仕事が集まり、潤沢なお金が入ると働く人たちの給与も上がる。その結果、コストが上がるという結果になる。そしてまた次なる人件費が安い国に移っていくという繰り返すのであるが、果たして何処まで行くと留まるのであろうか。私が関係した造船会社の場合は、東南アジアではインドネシアを対象にして技術援助をしていたことがあったが、その後どうなったのかはよく知らない。今日は買い物に出かけたが、安い日用品の殆どが、中国製や、台湾製であり、中にはタイ製なども見かけるほどで、何処がどう違うのか日本製というのはなかなか見つからない。見つけると必ず同じような中国製の品よりも値段が高い。感覚的には、例えば鍋などでは使っているうちにすぐ柄がぐらぐらするとか、着る物は色落ちや、縫い目のほころびなどが起こるいわゆる上等な品ではない。そのことを知って使うなら別に問題ではないのだが、廃棄されるサイクルは遙かに早くなってくるので、結果的には廃棄量が増え、地球を早く汚してしまうことになってしまう。日本人はつくづく贅沢になったものだと思う、その昔、米が潤沢に食べられない時代には「外米」と称して細長いぽろぽろなインディカ米を食べていた。それが今では、「コシヒカリ」「一目惚れ」・・・等炊きた時に米粒がたつほどのほかほかのおいしいお米が食べられる。しかし、そうなった今は米離れが大きくなったという。着る物も、気に入った柄やスタイルのものが安い値段で手にはいる。一頃誰もが一度は持ちたい、身につけたいといったブランド品を誰でもが持つことを求めて、ただ1枚のタグのために高い金を払っていた時代があった。今ではどうやら大勢はそうでも無くなっているようである。ファーストリテイリングのユニクロ製で、880円のジーンズが出てきた。買う側も、何度も洗濯し、日常使う物だから、それで十分というか、安くて機能が同じであれば、高い、従来のリーバイスやエドウィンなど買う必要がないのである。 もっとも、高い仕立てのジーンズをわざわざ石ころと混ぜてドラムに入れごろごろ回して、傷を付けたり破れたものをファッションだと言って着ているのだから、この辺の嗜好の変化は我々にはなかなか理解出来ないのではあるが。最近は旧来の固定観念を捨てきれない者は置いて行かれるという感じで、これが老いると言うことの初歩段階かと考えてしまう。
2009.08.26
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今日は1日、旅の疲れもあって、家の中でごろごろしていた。衆議院選挙が公示されて、テレビで話す内容も、話題が限られてくるので、目新しいニュースがなければ、当たり障りのないことや、お笑い芸人ががちゃがちゃ愚にも付かないことをやっているだけである。酒井法子が、その夫が、また押尾学が麻薬をやっていたと言うことで、いろいろと物議を醸しているが、有名人であることからか異常に細かくしかも長く追っている。それだけ他に話題がないということなのか、奥が深いと言うことなのか・・。マスコミもそうだが、警察という所も、世間的に関心を引きそうな有名人がらみのこういった事件はやりがいがあるようだ。一方、明らかに違反であり、証拠なども探せばぞろぞろ出てくるような問題でも、相手が、名もない小企業の問題であれば、相手にもしないものである。そんなことを憂いても仕方のないことだが、麻薬や覚醒剤は、確実に一般の市民や、学生に浸透していると思われる。麻薬にもいろいろ種類があり、マリファナは合法的な国もあるようだが、日本ではもちろん違法である。何故、タバコが違法でないのかは、国の財源の一つであって、専売していた流れが多分にあるし、これを違法とすると大混乱になるからであろう。私はたばこを吸わないが、「俺は絶対に止めない!」という愛煙家がいる。その喫煙場所もだんだんと狭められ、室内では吸えず、ベランダで吸う「ホタル族」のような人種まで出てきた。ガンの発症率が高くなるとか、体に悪いと言うことが喧伝されても愛煙家は全く意に介さないどころか、「俺の命だほっといてくれ」、という感じである。麻薬や、タバコには常習性があり、たばこと生命の長さの因果関係があるといわれても、止められないのと同様に、話は全く異なるが、地球におけるCO2排出も地球環境にいかなる影響を持つかについては、排出ガスを出し続けていながら、規制をしていこうという地球人類の思惑は、たばこを吸いながら、その本数を減らしていこうという努力に似ている。日頃目にしながらじっくりと見たことはなかったが、一度、たばこの自動販売機を見ることがあった。その中には昔懐かしいブランドもあったが、そこに含まれるタールの分量に差があるのを見てびっくりした。数mg含むものから、0.1mgのものが有り、中にはタール分のないものまであったように記憶する。未成年者に吸わせないように、「taspo」というカードが要るとか、「喫煙は20歳になってから」とか「たばこの吸いすぎにご注意ください」とか、どう考えても良いことが一つもないように感じるのだが、無くなる方向にない。地球温暖化の元になるという、温暖化ガス排出を規制する「京都議定書」を巡って、その後いろいろな取り組みが行われている。「京都議定書」を批准しなかったアメリカも、オバマ大統領のグリーンニューディール政策により、やや前向きになったと言えるのだろうか。エコ素材を使いCO2など温暖化ガス排出を少なくすることは確かに前向きだが、二酸化炭素の地下貯留で、排出したCO2ガスを地中深く埋め込んで処理しようというのは、本当に未来に禍根を残すことがないのだろうかと思う。「生命は地球の内部で誕生した」と言う説がある。無機質研究所のその説では、「地下の高温高圧下で生まれたタンパク質などの有機高分子が太古の時代の地球のプレート沈み込みの際に、プレートの上部が剥がれ、陸地側に付着した、その付加体の中に存在して、その後地表に出現・・・」とある。二酸化炭素を閉じこめる深さにも依るのだろうが、無理矢理に地球全体に散らばったCO2を集めて、限られた何カ所かに無理矢理詰め込んでは、何か予期せぬ出来事が起こる可能性は否定できないと思う。また別途、排出枠を金で買い取り、途上国や貧困国に与えられた平等なCO2の排出枠を先進国が買い取るというシステムで、これをまたビジネスのモデルにしようとの動きである。これに関しては、私にはどうしても理解できない。発展する(一見便利になる)のは我々で、あなた方はそのまま居なさいと言うのに似て大変身勝手な論理だと思う。もちろん日本もその身勝手な側ではあるのだが。アメリカがどう動くか、そしてGDPで日本を抜いて第2位になろうとしているかの身勝手な国、中国がどう出るのか、こういった大国の意向一つで、地球はいかようにも変貌するであろう。南太平洋のツバル国の消滅問題や、エルニーニョ、ラニーニャ、ゲリラ豪雨かと思えば広域な干ばつ、そして思わぬ熱波や寒波が地球の至る所で同時発生的に起こっている。また地球温暖化と言いながら、2000年から2050年の温度変化予測では気温は上昇する傾向とは言いながら、当面は寒冷化に向かっているという報告もある。こういった予測も、高速コンピュータが出したシミュレーション結果であり、いかなるプログラムにいかなるデータを入れたかによって違った結果になるのは必定である。我々としては当面、権威がこれを行い発表しているのだから信用するしかない訳である。光合成でCO2を必要とする森林も、温暖化で砂漠化したのか、無謀、無計画の開発により砂漠化したのか、とにかく植林することを怠ったために生じた砂漠は世界的にとどまる所を知らないようである。星の王子様で有名な根っこが空を向いて生えている様な形のバオバブの木も、若木が減少し、危機に瀕しているというし、世界4位の面積を誇る巨大内陸湖だった中央アジアのアラル海もソ連時代の「自然改造計画」の下に始められた大規模灌漑計画で枯渇し始め、現在ではその広さも1/5程度になっているという。かつてアラル海の漁港であった場所が砂漠と化し、そこに小型鋼鉄船が幽霊のように砂の上に置き去りにされている写真を見て、地球全体の将来を垣間見るような気がした。
2009.08.25
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今日は、朝から楽しみにしていたゴルフである。姉の友人は5時には目を覚ませていたようである。私も5時半には目が覚めた。車庫に入れた車を外に出したり、なんだかだ、準備をして、昨日買ってきたパンとコーヒー、ブドウや、スウィーツなどで軽い朝食を済ませた。いつもの通り、朝出たゴミを近くのゴミステーションまで出しに周り、そのまま、ゴルフ場へ向かった。別荘からゴルフ場へは、ほんの数分といった感じで近い。8時17分アウトスタートという所を1時間前には到着した。まだ駐車場には車は数台しか止まっていない。エントリーの記帳を済ませると、ボール一個と、本日フリーコンペがあるとかで、登録スコアシートを貰った。準備運動もそこそこに、パター練習場でしばらく練習したが、後になって考えると、ストレッチや、屈伸運動などやらなかったのは良くなかったのかも知れない。次々と先にスタートする人たちのカートが、2ー3台くらい先行した後、我々の順番になった。女性3人とだから、常に私が一番先にティーショットをすることになる。その第1球を今朝方、頂いた飛びそうなボールで打ったが、体が回りきらず、右前方のすり鉢の様になっている藪の中に消えてしまった。ひょっとしてと探しに走ったが、他の人のボールを沢山見つけたものの自分の打ったボールは見えなかった。もう少し探すべきだったかなと後悔しているが、まあ、仕方のないことだと諦めてプレーを続けた。いきなりのロングホールはまだ体が慣れないので、グリーンまでが遠かった。しかもグリーンでは3パット。2打罰を加えて9つと大叩きしてしまった。2番ホールもティーショットは天ぷら気味で、途中受け型の斜面に救われるなどしたが、今度はアプローチが短すぎる。3番のショートでは左に飛んで、あわやOBかと暫定球を打ったが、その暫定球は右にオン、行ってみると、結局は左の初球も懐が深い斜面に残ってセーフであった。しかし後のアプローチが悪くパーは逃した。4番は最初左ドッグで、そこから右へドッグレッグとくねくねコースだ。左ぎりぎりかセンターを狙わないと攻略は難しいが、私の打球は、真っ直ぐ右の深くまで行ってしまった。そこからかフェアウェイに返すべく低く8Iでパンチショットをした。そこから軽々アプローチかと思いきや、一寸上がりすぎてグリーンには届かなかった。ここでもダボ。5番は、打ち下ろしで、左に木が見えるが、その辺から左ドッグである。左にでたボールは運良く木を通り越して跳ねたのか、前方のフェアウェイにあった。ティーショットがまさかそこまで飛んでいるとは思っていなかったので、試みに木の周辺から打った2打はオンした。正式の球は残りピッチングでの距離だが届かずに又ダブルボギーだ。6番は打ち下ろしで打上のコース、ティーショットはフェード気味で距離も出て良かったが。打上のアプローチはまたまた届かずの3連続ダブルボギーだった。7番も極端な打ち下ろし、右に出て、OBまがいの隣のコースとの境目だったが、そこから2オンした。ここで始めたパーを取る。ここで、掛かりの人が来て前の組に近づけてくださいという。後ろから追われているのでもなく、時間もかかりすぎてはいない。ただ気分だけが悪くなった。8番、大きな池が眼前をふさぐショートホール。池に惑わされることがあまりなくなったので、思い切ってスウィングするもグリーンには惜しくも乗らず、カラーの部分で止まった。パターでピン近くまで寄せ、パーを取った。連れ合いはここでは妙に緊張するらしく、あらぬ方向に球を飛ばしていた。前半最終の9番のロングホールはティーショットも2打目もまずまずの辺りで、アプローチも良く3オンしてパーを拾った。昼の休憩は、スルーでも出来る時間であったが、無理に昼食を採り、11時10分の時間通り出発した。10番は真っ直ぐな打ち下ろし、ティーショットは天ぷらで、フェアウェイまで届かない有様。2打目が木に救われてOBを免れるなどで何とかパーオンしながら3パットのボギーだった。11番は超打ち下ろしだが、一寸距離のあるショートで、7Wを選択した。もう数センチ飛べばオンのはずが、逆にて前のバンカーに落ちる。この数センチの差は大きく、ダボになってしまった。12番左目に飛んだが当たりは良く、さらにラッキーにも跳ねてフェアウェイ真ん中まで出てきた。ここで2オンをと力んだのであろう5Iでざっくりと地球を削ってしまった。アプローチは良く乗ったが、又ボギー。13番は184YDと長めのショート。4Wでトライしたが、少しショートしてしまった。8Iのピッチアンドランで乗せたものの、またまた3パット。パットは難しい。14番ティーショットは、真っ直ぐ飛んだが高めだったので不本意である。2打目で右のラフに入れ、そこから木下をくぐるようにオンしボギーで収まった。15番ど真ん中の良い当たりで、気持ちの良いティーショットだった。上りの残り100YDを少し残す位置からの2打は右の山裾にそれてしまった。その後は何とかリカバーしてボギーだった。16番は、ティーショットが、右の傾斜部に落ちてフェアウェイ真ん中に戻る良い結果だった。残り140YDがグリーンを捉えず、左にそれ、アプローチがピンに近くより1パットでパーを拾った。17番は距離は短いが、打ち出し前方の崖は、心理的に応える。さすが、女性ティーはその崖を越えた向こう側だ。高めに上がったティーショットは崖を楽に越えたものの、それほど距離は出なかった。2打目は右ドッグレッグの打ち上げて、思い切り降ったら、3段グリーンの中段にオンした。ピンは3段目の右端ぎりぎりに意地悪く切ってあり。又3パットになってしまった。最終の18番は直線のだらだら上りのパー5だ。ティーショットの当たりはまずまずと思ったが、フェアウェイ中間のクロスした溝のようなラフ部に捕まり、そこから一寸打ちにくい球をヒットして前方のフェアウェイに運ぶことが出来た。残り180YDを4Wでグリーンに乗せ、パーで終わった。前後半とも50を切る結果に、いろいろ問題はあるものの、一応満足した。連れ合いも、ティーショットは、殆ど巧く飛ばしていたし、アプローチはかなり良い結果を出していた。途中は最近もっぱら7Iで刻みながら持ってゆくが、ここでフェアウェイウッドが使えるようになれば、飛躍的にスコアが上がるだろうと思う。バンカーで頑なにSWを使わないとか、ロングパット2つも決める割にパターのタッチが不安定である。力の抜けた、スマートなスウィングの時にはうまくいっているが、前方に目標や池のような障害物があると、必ず緊張し、先にボールの行方を知りたいのであろう目が早く離れてしまうのは、何とか強力な意志で直す以外にはない。姉は、前後半とも60を切ると、ジュースを奢ってくれると言っていたが、前半57なのに後半61と惜しくも達成できなかった。少し風邪などで離れていた姉の友人は、今日は、かなりしっかりと飛ばしていたが、やはりマイペースであることに変わりはない。高齢の二人が頑張っているのはなかなか結構なことである。スコアカードを提出して飛び賞に当たらないかと願いつつ、風呂で汗を流し、ゴルフ場を後にし、近くの伊勢志摩ロイヤルホテルでしばし休憩した後、帰路についた。伊勢道路はくねくね道で、後部座席の姉は気分が悪くなり、伊勢について、連れ合いと座席を替わり、伊勢から高速道路を一気に吹田まで帰り、高速料金は3500円か3800円であった。姉たちを降ろし、いつもの一般道を経由、これもいつもの店で夕食を採って、帰り着いたのは9時になっていた。
2009.08.24
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伊勢志摩にゴルフ旅行のため出掛けた。姉とその友人、それと我々2人の3回目の伊勢志摩ゴルフクラブへのゴルフ旅行だ。あまり早く着いても観光する時間もないし疲れるだけなので、今日は午後1時出発と言うことにしていた。家から、姉の家までは、一般道路を使って1時間と踏んでいたが、一寸出遅れたことや、普段よりも車が多かったこともあって、到着は少し遅れてしまった。姉の友人の所へは30分近く遅れで到着したが、電話で連絡してあったので、外で待たせることはなかった。姉の友人はいつも一人で立っておられるが、この時は杖をついたご主人が見送りに出て来ておられ、少し挨拶を交わした。若い頃にはゴルフも良くされていたらしくクラブは何セットも買い換えられているのは別荘に置いてあることからもよく分かる。また、若い頃は良く釣りをされたらしく、これも別荘の壁に魚拓が飾ってあるのを見てもなるほどと頷ける。太郎一家は小豆島に出かけている。少し大きめの連れ合いの車を交換して使っているので、今日は太郎君の車で行くことになっていた。レクレーショナルヴィークル車はゴルフバックを4個積んで荷物を積んでも楽勝で、4人の乗る座席もゆったりである。いつも通り、少し複雑な吹田ICから名神高速道路に入り、我が家の近くを通過、大山崎JCTから京滋バイパスに入った。今日は日曜日で、高速道路1000円の日だから料金的には相当お得になっているはずで、都市圏の問題がよく分からないので、インターネットで調べると、2050円と出ていた。大山崎からの京滋を、瀬田で再び名神を少し走り、草津ー草津田上JCTを新名神に入った。この道は、部分開通と言うこともあって立派な道路には勿体ないくらい、交通量は少ない。極端に橋脚の高い橋や、最先端の橋が並ぶ。このうちの数橋は私も関係したことがあるので懐かしい。交通量が少ないので、ついついスピードが出そうになるのを押さえて、快適にひた走る。亀山JCTで、注意しないと間違いそうな細い連絡道路を右に折れて、伊勢自動車道にはいる。この道は相当年季が入っているのであろう、結構古びた道路で、且つ交通量も多くなる。そのまま名阪国道との分岐点を通り過ごして南下する。どうも、大阪からの近道は名阪道路の方かとも思うが、高速道路が続いている訳でもなく、くねくねした山道を通ると言うことで、ついぞ名阪国道なるものは使ったことがない。安濃SAで足腰を伸ばすために一寸休憩をしてトイレを済ませた。熱いお茶のサービスを受けて、再び南下した。津ー嬉野ー松阪を次々と過ぎ勢和多気JCTを伊勢方面に取ると、程なく伊勢である。今回は、連れ合いの進言を入れ、伊勢西では降りず、終点の伊勢まで走った。表示料金は1850円だった。計算方法が分からないがまぁ、安いから良いか。。降りた直ぐのジャスコで明日の朝食のパンなどを買った。そこからは、又車で、約30kmの志摩市まで伊勢道路を通る。この伊勢道路、出来た当初は有料であったらしく、姉の友人が教えてくれる。山道はくねくねして、途中に離合の場所もなく、細々と続いている。少し渋滞があった。このままずっと渋滞かと不安に思ったが、しばらく行くと故障車が、ハザードランプを点滅して道をふさぎ、片側通行になっていた。当時の道路の考え方がこんな事を予測して無く、離合スペースもないようで、考えが及ばなかったようだ。その場所を過ぎると、通常通りすいすいと走れた。さて夕食は何処でと言うことになり、別荘へは向かわず、鵜方の方に南進した。魚料理が食べたいと言うことで、それではと言う姉の友達が鵜方でよく通る道路脇に「こゆき」という店があるというので、狭い鵜方の町を一回りしたがそれらしい所は見つからなかった。結局は、「こゆき」ではなく「小粋」だったそうだがそれにしてもそんな名前も見つけられなかった。仕方ないので、丁度泊まった交差点に魚を食べさせる店があり、急遽そこで、焼き魚を食べた。店を出ると大王崎まで約9kmと書かれた、灯台に似せたタワーが目に付いた。折しも夕日が西に傾く所だったので、大王崎で夕日を見られるかという話で、ついでに車を走らせた。大王崎とは名前を聞いたことがあるものの、位置関係はよく分からなかったので、道案内通り走ったが、着いた所から灯台までは少し歩かねばならず、誰も歩いて行こうとは言わなかった。ここが大王崎だと確認しただけで、再び車を返し、パールロードまで帰り、そこを「スペイン村」方向に走った。目当ては楽しみのスペイン村横に併設されている「ひまわりの湯」という立ち寄り温泉だ。ここでは、慣れたもの、一般車進入禁止の標識もものかわ、奥まで車を乗り入れ、1時間半の入浴を楽しんだ。私は一人なので、サウナと水風呂3回をこなし、一寸ぬるっとする温泉にもつかりドライブの疲れを取った。そこからは、赤い橋で名高い的矢大橋を過ぎると、別荘はすぐである。ビールを飲み、早めにぐっすりと寝た。
2009.08.23
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東海道新幹線が開業したのは1964年のことだった。その後、山陽新幹線、東北新幹線、上越新幹線等と次々と開業し、日本国内の移動時間はだんだんと短くなってきた。私が岡山に奉職してから、1972年に新大阪駅-岡山駅間で山陽新幹線が開業し、東京への出張が、夜行列車による1泊出張から日帰りの出張に変わり、労働強化になった、などと言っては利用していた。現在では、2025年に首都圏-中京圏間で営業運転開始する予定の、最高581km/hを記録したリニアモーターカーが計画されている。私が子供の頃には、親父達は鉄道のことを「省線」と称していて、やがて「国鉄」と変わっていったことを思い出す。それがやがて、1987年に分割民営化され現在の「JR」となった。私が今住んでいるマンションからは、ほんの目と鼻の先に阪急電車と並行して新幹線が走っている。もちろん同時に重なって走るのを見ることがあるが、その早さの違いは、実に目を見張るものである。もう一つは、通る度に音が大きく、すこしいただけないのだが、マンションのすぐ裏には東海道本線が複々線で通っている。道路と共に、鉄道も、いわゆる族議員の圧力と相まって、新幹線の拡充が図られているところである。近い将来には、過疎化の町も新幹線で結ばれるようになるであろう勢いである。東海道新幹線の0型もこの間やっとその任務を終えてリタイアしたが、こういった日本国内の鉄道車両の市場は意外と少なく年2000億円程度であるという。最近では、中国、台湾をはじめベトナム、ブラジルなどでも高速鉄道化が推進され、またインドではアラビア海に面する世界的にも大都市の港湾都市、ムンバイから首都ニューデリーに至る貨物専用の鉄道が計画されている。こういった海外における鉄道の普及が日本の鉄道産業の大いなる支えとなっているようで、世界規模での鉄道関連産業の規模は2016年には20兆円に達するとも言われている。2000億円が単に車両だけであるから、一概に比較は出来ないが、相当な市場といえる。BRIC’Sの内のロシアの鉄道事情はよく分からないが、総延長8万5500kmを有する大規模なものである。日本の総延長1万9639kmと比べると、国土の広さを度外視すると4倍近くあることになる。ブラジルでは鉄道はそれほど発達しているようではないが、リオデジャネイロ-サンパウロかんを高速鉄道で結ぶ計画がある。また、インドの鉄道は今でも国有であり、総延長は6万2000kmを超えて世界的にもアメリカ・ロシア・カナダ・中国に次ぐ第5位を誇っている。中国では、北はハルピンから南は深せん迄と、西へは蘭州や成都へもと届どかせる鉄道高速化が計画されている。また最近のベトナムの動きにも目を見張るものがある。メコン総合開発とリンクしてか、日本の新幹線網にほぼ匹敵する、ハノイーホーチミン間の1500kmを高速鉄道化しようとの広大な計画があり、その中で、フエ-ダナン間の90km区間を先行着手するような計画が進行している。グローバリゼーションとかグローバル化が叫ばれて、早30年となるが、島国日本の少子化と手詰まりから、海外に活路を求めない企業は今や無いといっても良いほどである。もちろん鉄道だけでは無いが、鉄道はインフラの大きな要素の一つである。昔ODA関連で、ジンバブウェに6橋のコンクリート橋をドネーションする仕事に就いていたが、文明が未発達な国がたどる最初のインフラはやはり道路と橋かも知れない。それが進んで、大量輸送を可能とする鉄道の必要性が増し、グローバル化が進んでいくものである。昔は、個別の自動車輸送に頼らず、「モーダルシフト」と称し、航空機や、トラックから、大量輸送の鉄道や船舶に切り替えるという動きがあったが、この点での端末(接点)の受け渡しがなかなか進まず、その後進展しているようには見受けられない。私のマンションの前を通る東海道新幹線では、昼もそうだが、夜は貨物列車が10フィートにコンテナを積んで走っているが、多くは連結した台車車両の長さに比べ、ほとんど積載していない状態をよく見かける。CO2排出量が少ないという鉄道をもっと有効に使えないネックは何処にあるのかを真剣に考え整備すべきではないだろうか。高速道路、道路と叫んでいる道路族は、今回の選挙でいかなる方向に向かうかは分からないが、私がサウジアラビア滞在時に感じた、いわゆる発展途上国でのトラック輸送は想像に絶するもので、渋滞と言っても半端なものではない。かの国は、砂漠で覆われているために、ペルシャ湾に面する東海岸から紅海に面する西海岸への約2000kmを鉄道化することもなかなか難しいようだが、狭い国土とはいいながら、日本では、貨物の運搬に今ひとつの考慮があっても良いのではないかと感じている。
2009.08.22
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NHK17~18世紀の美術(バロック~ロココ)の5回目の講座があった。今日のテーマは「ホガースと18世紀のイギリス」についてであった。この辺りの美術史については学生時代を通じて詳細なことを教わった記憶がない。元々美術なるものに目を開かせてくれたのは連れ合いであるから、若い当時は19世紀の後半からの印象派以降についてが主たる芸術だとの理解であった。私自身は、古典派の時代の作品も嫌いではなく、前にも述べたが、ギリシャ・ローマ神話に源をなすこの時代の絵画にそういった神話の具現化という点での興味を持っていたことは確かである。しかし、所詮文化の違いで、絵画から、当時の時代背景を深読みすることは出来ないため、もちろん多くを知ることは出来なかった。この講座で、ルネサンス時代からバロックにかけては画家の名前や作品の名前を知っているものがだんだんと出てきて、それなりに美術というものが好きになり始めることとなったが、本日の講義にあった、ロココ時代の作品は、自分にとっては隘路のようなものであり、ただ、バロック美術の硬さに、多少の軽妙さときらびやかさを付け加えたものとしての理解程度にとどまっていた。「ロココ美術」という名前から受ける私の印象は少しきらびやかという味付けがあるとの漠然とした感覚であった。今日の講義の冒頭、18世紀のイギリスでは大陸から浸透した芸術は風土上あまり根付かず、芸術家を産むには適切でなかったという話があった。その点ではフランスにおける王侯貴族の華やかさを受け継いではなく、一応フランスに似せた「王立アカデミー」を設立今日に至っているとのことである。また、私の解釈だが、やがて七つの海を支配するイギリスがヨーロッパ諸国の軋轢を越え、世界に覇権を唱えだした初めの頃に当たるため、芸術方面に割く時間的余裕がなかったのかも知れないと感じた。従って以下の画家の名前は私にとっては始めて聞く人たちばかりである。ゲインズバラの描く「アンドリュース夫妻の肖像」は当時のイギリスの大地主の様子をロココ調に表現しているとのことで、通常真ん中に描かれる肖像画は少し左端に追いやられ、むしろ、田舎の大地主であるとの半面と、アンドリュースが小麦の改良を成したという意味合いからか、小麦畑や、広大な領地を誇示しているような作品である。ゲインズバラの作品では夫妻と犬を描いた「朝の散歩」や未来に立ち向かう一寸太り気味の少年を描いた「ブルー・ボーイ」が紹介された。アンドリュースなどをジェントリー階級と称したようだが、正に大英帝国の支配者階級の雰囲気が良く描かれている。ロバート・スマークが設計したと言われる、コレクションでは世界に冠たる大英博物館も、フランスのルーブル美術館のような魅力を感じさせないのは、芸術に対する歴史的背景が異なるためかと思う。建物自身もギリシャのパルテノンに似せた建築様式が採られていて、当時のイギリスのギリシャへの憧憬が見て取れる。レイノルズとも呼ばれる、ジョシュア・レノルズが描く「三美神に犠牲を捧げるレディ・サラバンベリー」や「ヒュメンの像を飾る三美神に扮するウィリアムモンゴメリー卿の三人の美人姉妹」は共に古代ローマ・ギリシャへのあこがれをベースに描かれており、ギリシャ・ローマ時代の神話に登場する三美神と呼ばれる女神にモンゴメリー卿の三人の姉妹をオーバーラップさせて描かれている。三美神とはボッティチェッリの「春」やラファエロの作品にも描かれているローマ時代の「愛」、「慎み」、「美」を司っている象徴的神である。また、レノルズの「悲劇のミューズに見立てたシドンズ夫人の肖像」のシドンズ夫人は悲劇のミューズと共に描かれ、作品は、正装して芝居を見る構図となっている。アリストテレスの曰く「人びとが悲劇を好むのは感情を浄化するためであり魂のカタルシスである」とのごとく、恐れを通して感情を表現している。この絵は、ミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂の天井画に描かれている「イザヤ」を念頭に描かれているという。レノルズの「レディー・キャロライン・ハワードの肖像」などにも見られるように、当時は、こういった肖像画が好んで描かれている。ゾファニーはドイツ人で、ロンドン王立アカデミーの創立メンバーの一人でもあった。彼の「ウフィツィ美術館の特別室」はイタリアにあこがれていたが行けなかった王と王妃のために、ウフィツィの大勢の人と、多くの名画が飾られている八角形の部屋を描いたものであるという。芸術作品と言うよりは、オムニバス的に研鑽を積んだ憧れのイタリアを王と王妃のために描いたものである。次のホガースガが描く作品は連作となっており、「当世風の結婚・○○」をテーマにし、○○の部分が最初から「結婚の契約」、「結婚後しばらくして」、「藪医者を訪ねる伯爵」、「伯爵夫人の朝の化粧」、「伯爵の死」、「伯爵夫人の自殺」で完結している。これらの作品は、風刺画として描かれ、版画として、売り出されたようである。中身は、芸術と言うにはあまりに雑多で、むしろ、現代の週刊誌や写真集的な要素があったものと思われる。絵の概説は、家柄はよいが金に窮する伯爵の息子と、お金は持っているロンドン市会議員ではあっても貴族ではない男の娘を結婚させるという1作目。結婚はしたものの、夫には不倫相手が居て、浮気して帰宅した夫を待っていた妻が流し目を送るが「もう駄目だと」夫の傍に落ちている折れた剣で表現し、左の端にいる老執事は請求書の束を抱え、これも、もう駄目だとあきれて去ろうとしている。犬も、夫の袖に隠した、女性が寝る時に髪の乱れを防ぐボンネットと呼ばれる愛人が被っていた帽子を鼻でかぎ分けているというおまけまで付いている。さらに加えて、奥のダイニングルームには、聖人像の絵画と並べて、カーテンで半分隠した、ヌード絵画が垣間見える。うるさいほどの盛りだくさんな風刺内容を持った2作目。実は、伯爵の愛人とその子供も梅毒に罹っており、その二人が、いかにも藪医者の所を訪れていて、二人には、梅毒の症状である赤い発疹などもリアルに描かれているという3作目。当時の貴族は領民の陳情を時には風呂に入りながら、また、朝化粧をしながら聞くという習わしであったという。実にふざけた話ではあるが、その場面を描き、右端では、貴族が、愛人を仮面舞踏会に誘い、左端では夫人が朝化粧をしている状態で領民の話をアシスタントの弁護士と共に聞いているといるのだが、この二人も不倫関係にあるという何とも複雑な4作目。やがて、夫人とその弁護士が薄汚いラブホテルで密会している所に伯爵がこれを知り、打ち果たそうと剣を持って乗り込むが、返り討ちに遭うという絵で、床には仮面と共に血塗られた剣が落ちていて、一方、窓からこそこそと逃げ出す弁護士、夫の傍には、床に付きたった使われなかった夫の剣、夫人は死んだ夫の伯爵に懇願するように手を合わせるという何ともやりきれない5作目。そして、夫が死に、不倫相手の弁護士も処刑されて、すべてを失った夫人は毒をあおって自殺する。その遺体の指輪を勿体ないからと抜き取る夫人の父の市会議員と、梅毒のために足に装具を付け子供が母親を覗き込む、傍らでは、年長の召使い頭が、下級の召使いに横柄な態度で、何故自殺というような事になったのかを詰問する姿があり、右端には、餌ももらえなかったのであろう、やせ衰えた老犬が何かを食べているというお粗末さの最終6作目。講師は、昼のテレビの2時間ドラマ等で、犯人が最後に崖っぷちで、すべてを白状し、やがて、崖から飛び降りるという、現代の日本の番組に似た結末に当時のイギリスの人達は何かしら納得したものがあったのではないかとの見解を示された。私もそういって番組を見ることがあるので、何とも興味深く、何だ、3世紀前にも同じ事が人の心にはあったのかなどと美術の講座とは思えない雰囲気であった。ホガースはまた、「ローマ総督フェリクスの前のパウロ」を描いているが、ローマ軍にとらわれ鎖に繋がれたままの姿で神の教えを説く聖人パウロには威厳はなく、やはり、自分に向かない作品を描くことの無理さ加減を呈していた。しかし、最後に紹介された、ホガースの「エビ売り娘」は若い娘の明るく、生き生きした表情を捉え現代の美術に慣れ、ある種、絵画に対する固定的常識を持った私にとっては、一瞬を切り取ったこの作品にはほっとするものを感じる。講師はこれを「しゅうさく」と言われたが、「秀作」なのか「習作」の意味なのかよく分からなかった。アラン・ラムゼーの「画家の妻」はスコットランド生まれで、イタリアにも留学したという、国王ジョ-ジ3世の宮廷画家であったが、描かれた妻は、後妻で、その妻の表情には、高名な画家に描かれるといううれしさと、夫に見つめられる気恥ずかしさ、そして幸せ感がその表情に良く出ている。女性の幸福感が読み取れる表情の豊かな中に緻密な技巧も織り交ぜた魅力的な絵である。最後のレイバーン作の「アラステア・マクドネル大佐」はナポレオン戦争の最中、フランス軍がロシアに侵攻し傾き始めた頃の作品であり、描かれた大佐はカーネルと表現されていることから陸軍の5-6000人を束ねる連隊長クラスの高い位であり、ナポレオンに絶対イギリスの土は踏ませないといった決意が表情に良く表れた作品である。スコットランド兵の服装はイングランドのそれとは全く異なり、古風な変わった服装であって、キルトの長さは脚まで、足には脚絆のような長靴下を履き、革靴を履いている。講師が、何故に現在の日本の女子高校生の制服が、キルトから派生したスカートであり、一方、海軍のセーラー服であるのか分からないと言っておられた。そういえばそうだなと思いながら、本日の講義は5分前に終了した。
2009.08.21
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今日は第55回の定例ゴルフコンペがあった。残暑厳しいとはいいながら、高齢の参加者は29人にもなった。すべてが私より1歳以上年上だと聞いている。それだけでもたいしたものである。その中に女性の参加者は3人おられる。そのうちの2人は結構強者で、1人は、女性相応と言えば失礼だが、やっておられる。そのうちに連れ合いも参加すべしと、督促されているが、なかなか本人の腰が上がらない。キャディー無しの、アウト3組目にスタートを組み込まれた今日のチームは元々4人であったが、都合で一人抜けられてしまった。その人は口数は少ないが上手で、且つ飛ばし屋の小柄な人である。当然その方のハンディーは低く、エチケットリーダーになる予定であったが、欠席と言うことで、何故か今回は、私がスコアの報告をしなければならない羽目となった。と言うのも、他の2人のうち1人は私と同ハンディーの女性で、もう一人は82歳になられるシルバーティーからの大御所だからである。82歳の人とは以前同チームであったが、その時は負けた覚えがあり、今回始めて同じ組となった、1歳上と聞く女性は、なかなかの腕前と、口が達者だと聞いていた。私も少しずつ慣れては来たが、スタート時はやはり緊張する。ここ高槻CCのコースはアウトもインもだらだらと上り勾配になっている。今日はアウトスタートで、何とかボギーオンしたのだが3パットとダブルボギーと惜しい結果になってしまった。後数センチのズレで1パット、パーも可能だったのが、こんな結果になる。結構グリーンも難しいのである。その後にパーオンした時も、ピンから遠いこともあったりで、3パットを4回もやってしまった。その代わりという訳ではないが、オンすべきところがショートしたりする場合が多く、6回の寄せ1パットという具合に、なにやら定まらないゴルフとなってしまった。さらに1ロストボールを含め、考えられないショートでのOBと打上ミドルホールでの大スライスで、打った瞬間にそれと判断できる、隣り合わせた最終ホールにまで落ちるという大OBとOBを2回もやってしまった。ショートでのニアピンと、バーディー1回では追いつかない失策である。後半のインが始まる前の40分の休憩で、今まで無かった1ドリンクサービスに、事もあろうか、前半の成績が少し良かったのについ緩み、ビールを注文してしまったのが凶と出たのかも知れない。OBは後半のインに集中したのだから。私の目標は、とにかく100を切ることと、ハンディーをせめて10台にしたいという事である。前回、同ネットが3人となった時にはハンディーが多いため3位に甘んじたが、ハンディーは3つ下がった。それが惜しかったと言えばその通りで、何処かで改良点が1打位良くなることはあったのにと思ったものだ。前回は少し距離の長い枚方CCであったのだが、そこでも100を切った訳で、今回は、前半は46と、楽しみな成績であったのだが、後半の崩れが利いて、100は切れたものの、順位は12位と真ん中辺りで収まってしまった。同組の82歳の人は、シルバーティーからと言いながら、ティーショットはぶれずに真っ直ぐ飛ぶし、アプローチも正確で、パットも素晴らしい。ハンディーを考えたら、当然優勝と我々3人の中では計算しながら回っていた。昼の休憩時間になにやら、他の組に38で回った人がいるという話が聞こえてきたが、後半はそんなにうまくいかないだろうと、上がるまでは、同組の82歳男性の優勝を信じていた。ところがである、前半38のその人は後半はさらに延ばして37であったという。グロス75は既にプロ並みの成績であり、ハンディーを考慮しても、ネット1打差で、82歳の人は2位となってしまった。しかし、グロス75も素晴らしいが、82歳で、コースを回ると言うこと自体がうらやましいことであり、あやかりたいと思いながらプレーした。もちろんその年には親父もお袋もなくなっていた訳だから、私にとっては特に驚異的に思える。7月と8月にはゴルフ場のサービスで、昼間のワンドリンクに加えて、アウト、インの各茶店でのペットボトルの清涼飲料水1本のサービスがある。それに加えて、アウト、インにサイコロ状の氷がクーラーボックスに配置してあり、ビニール袋に入れ、冷やしながら回れると言うことだ。7月は枚方CCだったので気がつかなかったが、それを82歳の人は知っていた。と言うことはと聞いてみると、つい2日前に回ったと言われる。他のコンペとたまたま重なったとは言われていたが、何と、2日に空けずのラウンド、しかも夏場のラウンドをこなしたと言われるのである。これにはさらに脱帽せざるを得なかった。一方、同組の女性はアウトの1番と9番、インの18番で崩れてはいたが、ティーショットもだんだんと良くなり、もうハーフ回ったら調子が出るのではと言うくらい、皆若く、気力が旺盛である。私は常に出来るだけカートに乗らないようにして、歩いているが、後半の18番で、少し足がつりかけ、終了後のお風呂では左足が本格的につってしまうなど、他の年上連中には話せないほどに、皆気力も若い。70に手が届く人が、ゴルフ場のフロアーで安売りしていたドライバーを購入する姿を見て、まだまだやる気十分なものを感じた。普通年寄りが若い人からエネルギーを貰うと言うことは聞くが、ここでは、お年寄りの方から、パワーと希望を貰うことになる。次回は、この会に引き入れてくれた、同期の仲間が白血病を克服して参加する予定になっている。これまた楽しく、うれしいことだと思う。
2009.08.20
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今日は、先輩と同期のメンバー3人で、有名無実になりつつある高校時代のバスケット部のOB・OG会の再編成を企画するために集まった。事の起こりは、現顧問をしておられる高校のクラブの先生から先輩に宛てた1通の葉書によるものらしい。その葉書の内容は、「現役の選手達も頑張っている所だが、財政的に逼迫して新しいボールを買うお金にも窮している・・・云々」という内容であったようだ。気の良い先輩は、ボールも買えないとは情けないことだ、と心配されたようだ。私は、その先輩のおかげで、定例のゴルフコンペに参加させて貰っている事もあり、そのコンペの始まる前にそのような話を持ち込まれた。一度母校を訪問すべしと言うことになり、何故か私の連れ合いも一緒に行くことになった。連れ合いは、もちろん高校での同期生であり、学校に奉職以来、バスケットボールの監督をしてきたという経歴を持っていると言うこともあって、一度在校時代から様変わりした母校を見てみようと言うことになった。阪急沿線から見える高校は、電車からでも変わったと言うことは分かるが、私は一度昔の校門に当たる所を見に行ったことがある。旧校門は、裏門として残っており、私たちが学んだ、校門を入って直ぐの木造3階建ての校舎は既になく、そこはグランドに化していた。昔の大まかな配置は、旧校舎の奥に付属の校舎があり、その向こうに川の水を引き入れた10mの飛び込み台を備えたプールがあって、さらにその南側に大きなグラウンドがあったのだが、現在はそれらが全く逆になり、南側の方に正門が移されていた。訪問した時は、裏門(元の正門)を確認してからぐるっと回り込んで新しい正門の方に回った。立派な正門と、中庭も広々と取ってあって、ロータリー形式になっている。校舎はもちろん木造から、すべてコンクリート製に変わっていて、我が学んだその校舎は既に無い。訪れたその日は、現役選手と先輩との交流試合をすると言う案内もあって、直接体育館を訪れた。そこで目にした、ボールボックスには、結構良いボールが沢山入っている。「ボールを買うのにも窮している・・・」と言っていたが、結構あるじゃないかという感覚だった。我々が練習をし、試合をした体育館は、校舎の片隅に組み込まれた、薄暗い所であり、その体育館も狭く、バックボードから壁までの距離が極めて狭いという、変則的なものであった。勢い練習の一部は、屋外で行われることもあって、ボールのいくつかは、土の上でドリブルするなどしたために表面の皮が剥げているというものもあった。しかし前回放校した時には、そんなボールはもちろん一つもなく、皆磨かれた当時の我々としては十分すぎるような感じのものばかりだった。時代は確かに変わっている。そんなこんなで、顧問の先生の話を聞くことが出来た。その先生の出身高校は別であり、これから呼びかけようとする、OB・OG会には直接関係はないのだが、少し以前に、当時我々をコーチしてくれた別の先輩と、OB・OG会再編の話をされたようだ。それが頓挫していることから今回の動きとなった。OB・OG会再編には単なる名簿上の会員と言うことではなく、年会費を徴収しなければ続かないという話から、再編に関する趣意書と、試案として作られた会則のたたき台を貰って、私がまとめることになった。今回話した同期の仲間は不幸にも、急性白血病の病床からやっと解放されたばかりである。また、先輩にお願いする訳にも行かず、おはちは私の所に回ってきた訳である。以前の訪問から、しばらくして、私たちより若い卒業生が、やはり他校で教員をしており、バスケットの面倒も見ているという好都合の先生が居ることが分かり、一度会って話をして、その先生が中心で準備会を開くという段取りになっていたのだが、待てど暮らせど、案内はなく、ついに予定していた日になってしまった。先輩も乗りかかった船というか、昔大学での同様なOB会を切り盛りしていたことから、この期に立ち上がったと言うことんのようだ。聞けば、現在の高校ではバスケットボールの人気は結構高く、部員数も多いと聞く、我々の時には交代要員もままならないことから比べると雲泥の差である。それに大阪府下の他の有名高校のバスケット部では、既に100周年とかの話があるとかで、我が母校の伝統を守りたいという気持ちも大いに働いていると思う。若い人は忙しいであろうが、その人達が中心にならなければ、継続することには無理があると思いながら、そのために開く準備総会のための書類作りを仰せつかった訳である。たまたま高校時代に運動部に在籍すべしと半ば義務感で入部した人も多いだろうと思う中、一度バスケットから遠ざかった人が会費を納めてまで、後輩を応援するだろうか?等と思いながら、これも乗りかかった船であり、意を尽くしてみようと考えている。
2009.08.19
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NHK大阪文化センターでの2巡目講座の第5回目の講義があった。今日は、「食生活」についての話題であり、「食文化から見たアラブ・ムスリムの社会」という副題が付いた内容であった。「衣食住」とは言うが、人間まずは「食」から始まると言うことであり、アラブの「食」に反映するものとして、・自然環境・生活態度・・・・・・・食材などに関するもの・宗教・・・・・・・・・・・・・・コーランの教え、断食など・政治・ナショナリズム・・・・・・オスマントルコ帝国下のものと、非トルコ的な要素・グローバリゼーション・・・・・・人、物、金の拡散などの要素がある。中東の食文化の地域的特徴として、マグレブ地方、エジプト、シリア、湾岸などに大別されるようだが、しかしベースはほぼ同じものであるという。有名なものとして「コーヒー」が上げられる。これは元々アラビア語の「カーワ」からなまって「コーヒー」となったものであるという。他にも良く聞く名前で、アーモンド、サフラン、ソーダ、キャンディ、等々アラビア語から来た名前のものが多い。中でも、アルコールなどはアラビア語が元であり、ヨーグルトなどは、ブルガリアの特産物のように思っていたが、何とこれもトルコが発祥だと聞いて驚いた。地中海圏の食文化としては、まず「麦」や「オリーブ」が上げられる。地中海を介してアラブ圏と面していたギリシャや、イタリアなどでの「トマト」は意外に遅く、ここ100年くらいの間にアラブ圏に流入したとのことである。又アラブ圏は西アジアの食文化の影響を受けている。紀元前9000年、世界最古のメソポタミアにおける農耕地帯での「麦」「豆類」がまず上げられる。そこに、砂漠地帯独特のオアシス文化としての「ナツメヤシ」に、牧畜に適した「羊」が加わる。ラクダなども時には食べられたようだが、あまりポピュラーではないようだ。そういえば、ラクダの乳を売っている所があったが、素人が飲むと下痢をするとのことで、止めた覚えがある。これらの発祥のものに、宗教上の制約や、政治上のタガ、そして近隣文化圏との交流によるグローバル化などで、今日のアラブ圏の食生活は成り立っているとのことである。2日ほど前の日経新聞に紹介されていたように、金融の市場などでも問題となっている、イスラム独特の考え方がある。すなわち、イスラム法(シャーリア)に照らしてハラール(合法)かハラーム(非合法)かという視点である。シャーリアには、人間の行為を5つのカテゴリーに分けられることは前に講義で聴いた。1.義務、2.推奨、3.許容、4.忌避、5.禁止である。1-3迄がハラールと称されるものであろうか、特に食物でハラーム(非合法)とされている代表的なものに、「酒」と「豚肉」があるが、その他にも、「死肉」「血」「偶像に捧げられた動物の肉」などがあるという。「酒」については、お祈りの時に酔っぱらっていてはいけないとコーランには書かれている所から、昔は、飲まれていたようであし、酔わない美酒として、天国では楽しみの一つであると書かれている。「肉」なども、アラーのために祈りを唱えて屠ったものは可とされ、又禁止されているものでも、無理矢理に食べさせられたものは罪に問われない慈悲深いアラーであると言うことらしい。海産物も食べることは禁じられていないことがコーランに書かれている。ただ、祈りの礼装の時に陸上の獲物を食べることは禁じられているとのことだ。もう一つ大きな縛りは、「ラマダーン」(断食)である。これにも「サフール」と言って、日の出前に食事を取る時間を設けて、食べ、再び寝るといういわば合法的、抜け道的なことが行われているという。コーランに依れば、ラマダーンも病人や、旅行者は別な日に時をずらせてやればよいとされ、「アッラーは汝らになるたけ楽なことを要求なさる」と寛容な所を見せている。私などは、それくらい寛容なら、何故ラマダーンを強制するのかが未だに分からない。また、アラブ(特に砂漠に住むベドウィンなど)ではもてなしの文化があり、さまよえる旅人などに対しては3日はもてなさなければならないことが書かれているとかで、とにかく奢り、奢られる社会なのだそうだ。砂漠ではそうしないと即、死を意味するもので、そのもてなしの行為はやがて自分に返ってくることもあるという考え方であり、「情けは人のためならず」と言うことらしい。私は「アラビアのロレンス」での一場面で、ピーター・オトゥール扮するロレンスをもてなす、オマーシャリフのベドウィンの長を思い出した。その他、男が食べ終わった食事を女が食べるという、性差による差別的な食事、外国企業(マクドナルドなどの米企業)やユダヤ教の資本によるイスラエルからのものへの拒否反応はあるものの、これらは表向き拒否されてはいるが実情は徐々に浸透しているとのことである。私が居たサウジなどでは、ジェッダだけで作られ、売られている「アルバイック」と呼ばれる、正に「ケンタッキー・フライドチキン」に似たものを食べていたし、ピザなども常食していた。コーラなども彼らが好んで飲む飲料であった。こういった、アラブの食文化は、日本にも上陸しており、各地でそれを食することが出来るとの紹介があり、又インターネットではアラブ料理のレシピが紹介されているという。食に関しては、写真で見て、造り方を聞いて、こんな味だと言われても実際に食する以外は、その本来の姿は見えないと言うことで、受講者の中には講義終了後、紹介された店に行ってみようと話す人たちが居た。
2009.08.18
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昨日の気持ちを引きずりながらではあるが、かねて約束していた大阪南港ATCの「大恐竜帝国」に連れ合いとその孫とを伴って出かけた。4歳の孫は恐竜に興味を持っている。と言うか、何でも興味を持っている中の1つが恐竜なのかも知れない。しかし我が家に来ると、時々恐竜に関する本を見ることをせがむので、やはり興味を持っていることは確かだ。そこで、やがては恐竜展に連れて行ってあげればと思っていたが、大阪のATCで「大恐竜帝国」なるものをやっていて、今月一杯だと言うことで、急遽連れて行く話がまとまった。私と連れ合いは二人とも恐竜にロマンを感じている。3年ほど前に私が千葉に出張の折り、連れ合いと幕張で「恐竜博」を見に行ったことがあるが、その時の規模は大きかったものの、動画での説明もあったが、化石が多く、そのようなイメージでは小さな子供には面白くなかろうという気がしていた。現在も幕張では「砂漠の奇跡」と称する恐竜博が行われている。実は見に行きたいところではあるが、千葉までとなると億劫で、今回は見送りと言うことにしていた。大阪南港で「大恐竜帝国」を開催していることは最近知ったのだが、東京と期を一にする開催になにやら薄まったものを感じていた。いざ、孫を連れて行くとなって調べてみると、どうやら、3歳児から有料と言うことで、子供目当てのものだと言うことが分かると共に、化石ばかりを展示した、子供には興味の湧かないものばかりではなさそうだった。宣伝文句に、「骨格」と共に、模型展示の「恐竜の森」という文字があったからだ。化石を組み立てた恐竜の大きな模型は、それだけで、4歳の子供に想像させ、感動させるのは少々無理があるけれど、模型で肉付けされていれば、その大きさに少しはインパクトがあるかも知れないと思った。朝9時半に迎えに行くと、もう既に大きなリュックを背中に背負って待機していた。お母さんに持たされたお小遣いを入れたお財布を首からしっかり掛けている。おもちゃは小さいのが1個と、ジュースを飲むためにと言い渡されているらしい。いかにもしっかり者のお母さんである。私もATCへ行くのは初めてで、どの辺にあるのかからインターネットで調べた。なにやら、橋下知事が府庁を移転させたがっている、WTCの近くであることが分かった。行き方を見ると、JRで大阪まで出て、環状線で弁天町で地下鉄に乗り換え、さらにコスモスクエアでニュートラムに乗り換え一駅目のトレードセンター前に出るという方法と、大阪で西梅田まで歩き、本町で乗り換えてコスモスクエアからニュートラムに乗るという方法があるが、いずれも乗り換えが多く大変である。結局我々は、阪急で梅田まで出て、大阪駅から環状線で弁天町を経由、コスモスクエアでさらに乗り換えるという道順を採った。何と、「阪急」→「環状線」→「地下鉄中央線」→「ニュートラム」でトレードセンター前にて降りるという4つの違う路線を乗り継いだ訳だ。こんな不便でアクセスの悪いところによくぞまあ、府庁を移転させたいと考えたものだと、一寸あきれてしまった。少なくとも「地下鉄」と「ニュートラム」は乗り継げるものかと思っていたのに、何と乗換駅は階が違うという有様だった。コスモスクエア手前で、孫が急にトイレに行きたいといい出し、抱きかかえるようにして駅の端まで急がなければならない程、トイレは、なにやら辺鄙な端にしかなく、あまり充実ものではなかった。何とかたどり着いたトレードセンターからの「大恐竜帝国」会場までの道順もスマートではなく、くねくねとした店の並ぶ所をかいくぐり、案内に何度か聞いてやっとたどり着く有様で到着したのは、何と家を出てから、2時間半も経過していた。それはそれ、いろいろ改良して貰うとして、やっとたどり着いた「大恐竜帝国」に入る前に簡単な食事を採ったが、孫はもう早く恐竜を見たくて堪らない。本当の展示会場の入口を入る所から、既に興奮は始まっていた。最初は化石を組み立てた骨格の展示が続いたが、それなりに興味を示すものの、やはり想像がつかないのか、興味半ばという感じだった。ところが後半は、巧妙な模型化された恐竜の想像体が展示されていて、それが又精巧に動くのである。それには孫と言わず近くを通る中学生までが、「本物か?」と言わんばかりの迫力であった。小型肉食恐竜で、羽毛の生えた「ベロキラプトル」は小さいながら鳥の祖先を思い起こさせ、草食動物であるが背中にとげを持ち、一寸厳つい「ステゴザウルス」は、足も巧妙に動き思わず孫が「生きてる!」と叫ぶほどだった。孫の好きなのは、大きな頭に飾りと3本の角を有する草食動物ではあるが、一寸厳つい「トリケラトプス」だった。一寸大型の肉食恐竜が相対して展示され動いていたが、その怖そうな動作よりもやはり「トリケラトプス」の方に目が向いていた。そういえば、道中「トリケラトプスはいるかな?」と言っていたので、いて良かったと思った。「プロントサウルス」とも呼ばれる「アパトサウルス」も草食で、結構大型であるが、頭を器用に振って愛嬌を振りまいていた。しかしなんと言っても、そのブースに入る前から大きな吠える声が聞こえていた、「ティラノサウルス」が圧巻だった。3年ほど前にスペインで発掘された「チュリアサウルス・リオベデンシス」の37mもの体長や、やはり、30mを越える「スーパーサウルス」には長さでは及ばないものの、これらが草食である反面この「ティラノサウルス」は「暴君竜」とも呼ばれるほど気性の荒い、肉食恐竜である。しかも頭が極端に大きく、長さも15mを超えるという半端でない姿が、口を大きく開けたり、首を大きくひねったりする姿は、観客のみんなを惹きつけていた。もちろん孫もその例外ではなく一寸怖いが、興味をそそられている風だったのはもちろん、連れ合い自身も何とか良い形を携帯のカメラに収めようと必死になっていた。その「恐竜の森」を出ると、後は商業主義のプレイランドとおもちゃの模型売り場である。孫はひとしきり遊び、模型のおもちゃ売り場では、お母さんから「小さいのを一つ買っても良い」と言われているらしく選ぶうちに一寸大型のを見つけそれが欲しいらしい。レジに持って行く前に「やっぱりお母さんは小さいのなら良いと言っていた」と躊躇を示した。ちゃんと躾けられて微笑ましいが、当事者となった連れ合いは、一寸ぐらいは良いよとここは、お婆ちゃんの甘さを発揮して、孫の気に入ったのを購入していた。それから会場の入口で、ゴム製の急な滑り台や、トランポリンで遊びたいと、一寸怖がるかなという懸念をよそにたっぷりと遊んで孫は大満足の様子であった。(こっちの方に興奮したのかな?)自分たちももう一度見たいと再度、「恐竜の森」を歩いたが、孫はなにやら化石の所は今度は怖いのか、目をつむって通り過ぎた。孫の頭にどの程度恐竜が残るのだろうかと思いながら、会場を後にしたが、地下鉄に乗る時には疲れたのか、ぐっすりと寝込んでしまった。本町での乗り換えで、御堂筋線まで孫を抱いての距離は長かったが、それ以降は、孫も目を覚まし、私が、少し居眠りをしていたのを見て、孫は連れ合いに「よく寝ているね」と言ったそうだ。「おまえはどうなんじゃ!」と微笑ましく思いながら、家路について、玄関で母親に会うや否や、今日の出来事をほとばしるように喋っていたとは後から連れ合いに聞いた。不便な場所だという以外は、とても楽しい連れ合いの孫とのふれあいだった。
2009.08.17
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今日は何もすることのない一日で、外の空気も吸うことがなかった。日曜日はテレビを見て過ごすことが多いそんな一日だった。しかし夕方、突然母の墓地のことに関する電話があり平穏な気持ちが吹き飛び気がかりになってしまった。母の墓地のことを書くには、まだ気持ちが整理できていないし、結果も見えていないので、少なくとも、本日のブログは書くことが出来ない。*他愛のないブログでも、書くことには心身的にエネルギーが要る事を知った。後日このページが埋めることが出来たらとは思っているのだが。
2009.08.16
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消えた年金記録でかまびすしい、その年金が2ヶ月に1度振り込まれる。もう少しで、前期高齢者になる私にとっても年金は命綱である。暑い中ではあるが、電車一駅を歩いて振り込まれた銀行へ引き出しに出かけた。宙に浮いた年金記録が5000万件(国民の半数近く?)あるという驚くべき結果が発覚した2年半前から今日に至るまで、いまだあやふやのまま推移している。国家的詐欺集団である社会保険庁の責任を声高に唱える人がいても、一向にその責任を追及することはない。私が記憶している元社会保険庁の長官、下村健は日歯事件の年金問題のことは知らないが、収賄罪に問われ、有罪判決を受けている。しかし早いもので、今年の末にはその執行猶予も解けるようである。また、元社会保険庁長官の正木馨などは、手書きの年金台帳の破棄を命じたり、はたまた厚生省の役人時代には薬害エイズの非加熱製剤の輸入継続を続けさせた、まぁ極悪人である。その本人は反省して居るどころか、いわゆる天下りの渡りを繰り返し、その報酬と退職金が、合計で2億9000万円以上に上ることが明らかにされている。過去の不祥事が明らかになった今でも、年金に関わったこれら社会保険庁のトップの責任は誰一人追及されていない。最近選挙が近くなって、にわかに麻生総理のテレビコマーシャル登場が増えた。そこでは、「子供に夢を、青年には希望を、お年寄りには安心を」もたらす「責任力」政党だと宣伝している。何処が責任だ!と言いたくなるのは、この年金問題だけではない。あなた方の愚政を重ねた結果今日があるのではないか。特に、この年金については、誰一人責任を取ることもなく、むしろ長官自らが下手人である悪行についても責任の追及がないのである。元社会保険庁長官達が、退職金を返還したとは聞いたことがないし、一般の、それこそ消された年金の当事者が困窮しているにもかかわらず、それぞれに天下り先が用意され、今でもぬくぬくと優雅な生活を送っているのである。何処が「責任力」なのか聞きたい。このコマーシャルを聞くたびにその白々しさに開いた口がふさがらないのである。年金の計算方法については、これは全くブラックボックスである。コンピュータに入力したら出てきたからと言うだけで、その入力自身が正確なのかどうか、おそらく誰もチェックはしていないのだろう。一方、国民年金保険料を払っていない国会議員は最初「だんご3兄弟」と言われたがその名付けの親とも言うべき人物も実は未納者であったりして、ついにはずるずると何十人もが未納と判明した。これに代表されるごとく、日本では、みんなで渡れば怖くないであって、悪事も団体で行われるとうやむやにしてしまわれる。汗を拭き吹き、歩きながらこういったことを考えていると、やがてこの国家的詐欺集団も解体して、日本年金機構とやらに名前を変えて、過去のことは水に流そうと言うことのようであり、そんな小手先のごまかしで、積年の過ちが解消されるとは思えないと言う、お先真っ暗な気持ちになる。「中福祉、中負担」などと格好の良いことを言っているようだが、北欧に見られるような、「高福祉、高負担」であっても問題がない社会には成れない日本の体質は、自分だけが良ければそれで良いというなにやら、自己中心的な国民性にあるのかも知れない。国家公務員の上級試験を通った者は、中国における科挙の試験に通った者のごとく、永久に何をしても裕福に暮らせるのだという、いびつな教育を行ってきた結果ではないかという気がする。これは単なる技術屋で終わる自分自身への嘲笑かも知れない。汗だくになり、近くのトイレを借りて、シャツを着替えて、銀行での手続きを終え、再び同じ道を帰った。
2009.08.15
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連れ合いの息子、太郎のお嫁さんの誕生祝いをレストランで行った。連日の墓参りで、少々疲れ気味の連れ合いだったが、親父さんの昔からの知り合いが経営する、感じの良いビストロを手配していた。長年続いているそのこざっぱりしたレストランの名は、イタリア語で「ひまわり」を表すという名前で収容客数は多くないものの、なかなか雰囲気のある感じの良いお店で、店の中にはそれとなくひまわりの装飾が見られた。その店の奥に連れ合いが予約した席は用意されていた。お嫁さんは、すでに2人の子供を持つ堂々としたお母さんである。食事に集まったのは、その子供、すなわち連れ合いには孫に当たる2人と連れ合いと太郎それに私の6人だった。連れ合いの孫はすでに上は4歳で幼稚園に通っている。下は1歳を越えすでに自分で歩くことが出来る。お嫁さんはいわゆる専業主婦であるが、日々子供の成長に驚かされたり、喜んだりの毎日を送っているようである。太郎の方もなかなか思いやりがあって、家族サービスは欠かさない真面目な父親のようである。ことある毎に、このようなお誕生会を持ったり、動物園に連れて行ったり、又自分の好きな野球に一緒に連れて行くというような子煩悩さがある。今時の平均的な日本の家族なのかと思うが他の家族を知らないだけに何とも言えない。ただ、私自身の同時代を考えると、少しうらやましい感じがするほどである。私は自分の誕生日と言って特別誕生日会などというものをして貰ったことは記憶にない。幼い時には、何かおもちゃなどを買って貰ったかも知れないが、長じてからは誕生日と言っても単なる通過点に過ぎず、何年かに1度の運転免許証の更新日くらいの感じで過ぎていった。私自身は兄姉が9人という事で、私が生まれる2年前に長兄を亡くしたと聞くが、もちろん両親合わせて、同時に10人がそろうことはない訳で、又揃ったとしても、時期も時期、いちいち誕生日を祝っていたのでは、大変であったのだろう。勢い、我が家では誕生日を祝う風習などは起こらなかったのも道理である。良くテレビなどで、誕生日に歳の数だけケーキにローソクをたてて吹き消すというシーンがあるが、それは、ドラマの中の出来事でしかなかった。最近は核家族化が進み、日頃離れた場所で暮らしているので、こんな機会に家族が集まると言うことは良いことなのかも知れない。お嫁さんが大台に乗ったと言うことで連れ合いも高級なレストランでのお祝いを奮発したようである。考えてみれば、日本人男性の平均寿命は80歳として、誕生日は80回来るという訳である。その時々の誕生日をどんな感慨で過ごして来、又過ごしていくのだろうか。私の場合は、お嫁さんと同じ歳に連れ合いから、息子、すなわち太郎が描いた「パパの顔」が印刷された年賀状を貰って、なんだか複雑な気持ちになったものだ。レストランの片隅では、その太郎の息子(孫)が、ノートに鉛筆で、お父さんの顔を描いているのを連れ合いがまあるく仕上げるように指導している姿を見て、かの年賀状もこうして手を取りながら描かせたものだったのかなぁ、等と考えて感慨深かった。確か、その時の太郎の絵も、今描いている孫の絵も、同じ歳でのお絵かきであるが、正直に見て、太郎の方が、少し巧く描けているようで、連れ合いの指導はなかなか厳しかったのかも知れないといろいろなことを想像した。この連れ合いの孫達が、将来どんな道を歩くのかは知れないが、今の延長線上で健やかに、強く、優しく育ってくれることを望んでいる。年の違わない男二人兄弟だから兄弟げんかもあるだろうが、基本的には仲良く助け合って育っていって欲しいものである。お嫁さんは、もちろん初めての体験を、同じママさんグループが助け合って、試行錯誤しながら頑張っているようで、時々連れ合いに指導と言うほどではないかも知れないが、助言を求めている姿は麗しいものだと感じる。「お母さん、これからもよろしくお願いします」と言うことが素直に言える芯は強そうだが優しいお嫁さんである。早速その4歳の孫を大阪の恐竜展とかに連れて行くことになりそうだ。
2009.08.14
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気にはなっていたが、長年果たせなかった父の墓参をした。大阪を離れ、各地を転々とし、お盆だと言っても墓参りをすることもなく今まで過ごしてきた。私が還暦前後のお盆の時期には海外に出ていたりしたこともあって、なかなか果たせなかった。もっともその気になればいくらでも行動することが出来た訳だが、別な事情もあり、なかなか足が向かなかったというのが実情だ。このたび、父が眠る墓所の近くに帰ってきたということと、連れ合いに背中を押して貰ったことてやっと腰を上げたような状態だ。父の墓はアパート形式の納骨堂にある。地下1階、地上2階建て構造になっている納骨堂の2階に父の墓はあった。恥ずかしいことだが、以前一度来たことがあったが、いつ来たのかも定かには覚えていない上その場所さえも忘れてしまっていた。たまたま帰ってこられた住職に会うことが出来た。前に来た時に受けた感触と若干違っていた。この納骨堂は計画時反対側につくる予定であったそうだが、そこだと駐車スペースに近いが、本堂に足を運ぶこともなく、無関係に墓参することが出来るので、総代の人の意見を入れ、わざわざ今の場所に位置を変えたのだそうだ。現在の位置だと、車で墓参する人も、必ず本堂の前を通らねばならず、それが重要なことだとのことであった。納骨というように、「お骨」を大切にするのはごく自然なことではあるが、死んでしまった人にとってはそれはどうでも良いことで、どう扱うかは、生きている人の考え、感情にとってより重要なことになるという話だった。「縁」と書いて、「えにし」と読むが、この「縁」は何も「お骨」だけに限らなく、故人が生前に使っていた品物であれば、時計などでも良いし写真等でも良いという考え方なのだそうだ。航空機や船舶の事故などに遭遇した人の「お骨」は当然回収できなくなる訳で、そのことと同様に、お墓に「お骨」が無いと言うことはさほど重要なことではないとの教えであった。私自身が年を取ってきたので思うことだが、墓を造って、お参りもしないと言うことであれば墓をつくる必要もない訳である。住職の話では、京都の五条の大谷廟ではなにやら集合的に団体で供養してくれるところがあるという話であった。無縁仏の集まりようなものではないらしいが、死んでしまえば皆同じ、仁徳天皇の巨大な前方後円墳の様な墳墓でもあるまいに、広大な地所を永代使用し、子々孫々に残してみても、所詮は空しいものである。私の宗派は浄土真宗であると言うことになっている。と言っても、親父のように生前に法名を受けた訳でもなく、親父がそうだから、浄土真宗なのだという程度の曖昧なものだ。そういう意味では世襲かな?等と変なことを考えてしまう。そこで一寸調べると、院号や、位号などは付けないのが普通であるらしい。親父の法名にもそれはない。どうせ、佐賀の田舎の百姓の出である、そんな立派なものは付かないし、この世で大いなる貢献をした訳でもない。まして、浄土においては一切の衆生は平等であるという教えがあるのだから、浄土では、いかに功成り名を成した者でも、普通のつましい生活を送って来た者でも、皆平等のはずである。各所の墓所に見られる「○○院○○大居士」などと言うものは、宗派が違うか、現世に生きる者の見栄でしかないようだ。最近少し勉強したイスラム教でも同じように神の前では平等であり、「イラーハ・イ・ラッラー」(神は唯一ただ一つ)で「アラーハ・アクバル」(神は偉大なり)と言うことらしい。従って、ドバイやアブダビの首長などは、お祈りをする時は、親しく民衆と共に同じ場所で行うという話を聞いた。この機会に少し「歎異抄」を開いてみた。第三章に「善人なをもて往生とぐ、いわんや悪人をや」と言う有名な下りがある。「善人」と「悪人」が逆ではないかと思うが、そのことにも親鸞は触れ、詰まるところ、自力で善を行い往生するのではなく、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)を唱えることによって衆生は救われるのだとの教えなのである。ここでの「悪人」には仏を賛嘆することなくその反対のことをしている人という意味で、通常の犯罪人とは違うと思われる。浄土真宗の本尊は「南無阿弥陀仏」という「名号」であると説かれている。仏として彫られた木像ではないのだそうだ。私は少し誤解をしていたようだが、浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」が本尊であり、決して偶像崇拝ではないのだと言うことのようである。この点は、イスラム教徒などと同じ考え方のようでもある。とりあえず、目的意識を持たず、ただ一筋に弥陀の本願に帰依して念仏することが求められている。と言うかそれで十分であるというのだ。墓参などはそのうちの一つの行為であり、浄土にいる人たちをその時を機会として、自分の心に浄土の人を思い起こさせるための行為であるという風に理解できた。
2009.08.13
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造船業界のことは、時々新聞に取り上げられるが、過去の記事は大体否定的なものが多かった。私が入社した頃は、私が知らなかったのか、それとも本当にまだ日本の造船業界が重厚長大の基幹産業として持てはやされていたのか、今となっては大いに疑問な所があるが、造船は鉄鋼と並ぶ日本の基幹産業であると胸を張っていたものである。造船と言えば、船を造ることであってそれ以上でもそれ以下でもない。地球の7割方が海であり、日本は特に島国な訳で、貿易、通商に船は欠かせないという単純な発想で、造船は廃らないと短絡的に思っていた。その後、追従が激しく、日本を脅かす韓国や中国の参入で、日本の造船業はだんだんと世界におけるシェアを奪われていった。学生時代はともかくとして、造船会社に勤めた頃良く聞いたのは「今韓国とはどうなんだ?」という質問だった。造船は多岐にわたる技術の総決算であるが、一旦マニュアル化されて、安直な造り方を知ってしまえば、それほど難しい仕事ではなくなる。日本の技術がどんどんと海外に流失してしまえば、労働力として安い賃金で働く国と競合できる訳はない。船の種類も、穀物を運ぶバラ積み貨物船や、油を運ぶタンカー、さらに鉄鉱石を運ぶ鉱石運搬船などがあるが、これらは、1度開発して定型化されると殆ど高度な技術力は無くても造ることは可能である。従ってこの種の船は、韓国や中国でつくる方が安価であることは間違いなく、日本のシェアは必然的に低下する。一般貨物をばらばらに運ぶ貨物船時代もあったが、その後は荷物をあらかじめコンテナに分けて積載し、そのコンテナ毎運ぶ流通システムへと変化したが、その当初は、甲板部に巨大な開口が必要な、コンテナ船の設計は、海上での波浪による船体のねじり強度を確保する点に於いて、難度が高く、一時日本の優位は揺るがなかった。その技術も韓国などがキャッチアップするに及んで、次に需要が高まったのが、LNG船である。当初はそれほどまでには持てはやされなかったが、今は石油などに比べてCO2排出の量が少ないとあって、LNG船が脚光を浴びるに至った。今日の新聞記事には、日本の各社がそのLNG船の性能を競うという結構大きな見出しだった。その記事の中にも、現在運行するLNG船の世界シェアは韓国が50%弱で、日本は30%を切る状態であった。もはや誰も日本が造船大国などとは思っていないだろうが、過去に造船に関わったものとしては寂しい限りである。何年か前には、TSL(テクノスーパーライナー)という、従来のコンテナ船のほぼ倍の速度である50ノット(時速約90km)で航走する海上での新幹線とも言うべきハイテク船が、造船7社の共同開発として注目を浴びたが、3-4年前から、その開発はどうなったのかとんとニュースにならない。アメリカに端を発する世界不況で、自動車業界は大打撃を受けたが、そのあおりで、造船業界では、自動車運搬船がだぶつき、また、中国当たりの需要の冷え込みなどから、鉄の原料である鉄鉱石を運搬する鉱石運搬船の運航も少なくなったようである。もちろん一般貨物の流通は極端に減少し、コンテナ船のヤードは閑古鳥が鳴くほどに寂れてしまった。日本の造船会社でも、殆ど、純粋に造船の占める割合は少なくなっている。トップを行く三菱重工は、その割合が2割強であり、私が関係していた会社ではその割合は高いが、依然4割を下回っている程度である。高度な技術を問われるLNG船と言えども、すでに韓国のシェアが勝ってきているのである。この先日本における造船という名は消滅するであろう。もっとも、韓国も人件費の高騰で、中国の勢力に押され、やがては東南アジアへと移りゆく運命にあると思われる。すでに、大学では、「造船工学科」ないしは「船舶工学科」などの名前では学生は集まらず名前を変えている。所詮、経験工学であった、船造りが、他の新興国を差別化できものでもなく、コストの大部分を占める、人件費の安い国がその優位を占めるのは必然のことであろう。その昔、海洋大国で、世界中に覇権を持っていた造船大国イギリスのように、日本における造船という名は風前の灯火のように思われる。誠に残念なことではあるが、その基礎となる技術を多方面に活用できないかと考えるこの頃である。
2009.08.12
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地震と台風が一緒にやってきた。お盆を間近に控えて、日本の大動脈とも言える東名高速道路の静岡県牧之原市付近で上り車線が法面を洗われ、無惨にも崩落した。さらにテレビではリアルに路面がさらに崩れる映像までも放映していた。それを見て、路面(アスファルト)の厚さはいかにも薄いような気がした。さらに、どうしてこのような地盤が脆弱な箇所を路線に選んだのかを不思議に思った。第一線の技術を持つ日本の、さらにおそらくは名神高速道路に次ぐ日本でも2番目に作られた東名高速道路である。技術の粋を集めて路線の設定をする際は、地盤の様子や諸々のことを考慮に入れて出された結果ではないか。それがあのようにいとも簡単に崩落し、日頃安心、安全と思っていたアスファルトで固められ不動と思われた路面が、映像で見たところ20cmにも満たない厚さで、その直ぐ下には、何とも脆弱で崩れやすそうな赤土なのである。見たところ特に盛り土をした風でもなく、山を切り開いた切り土でもないと言う普通の箇所であるが、崩落したことから考えると、自然の地形では山の状態で、そこには密集して木が植わっていたように見受けられる。一方、震源地である駿河湾のほんの近傍にある浜岡原発では、廃止措置準備中の1号機、2号機および定期検査のため停止中の3号機は稼働して無くて、特段の問題はなさそうだが、稼働中の4号機および5号機も自動停止して、放射能漏れの心配はないとの報告が出されている。この事を本当に信頼して良いものだろうか。浜岡原発では過去に4号機の建設に使われたコンクリートについて、材料納入会社の元従業員の材料品質に関しての虚偽報告について、内部告発があったことを思うとにわかには信じがたい。120ガルで運転停止を設定したシステムは4号機の163ガル、5号機の426ガルを関知して停止したと言うことで、それ自体は正しく機能しているものと思われる。ただ、同一場所で4号機よりも後に作られた5号機においての応答が2.6倍もの差があることが気になるところだ。浜岡では、1,2号機の廃止に伴う代替として新しく6号機の設置が計画されているという。 そもそも、この辺りは、安政時代の東海地震に始まり、地球表面のプレートが複雑に絡み合っているところで、フィリピンプレートの滑り込みによる地震がもっとも心配されているところであり頻繁に地震の起こりやすいところである。その大型の東海地震は100年から150年周期で起こるとされている。このような日本でも有数に危険な場所に原発を作ること自体大いに疑問である。振り返って、このような地形的な危うさを持つ場所での高速道路の見るからに脆弱な設計・施工は、人為的災害と言うことも考えられるのではないか。専門家による設計条件や、地質条件の考察を望みたいものだ。一般の人間にとってはもちろんのことであるが、国土交通大臣はおろか、専門と言われる官僚に於いてさえ、大手ゼネコンが出してきたデータを検証することは出来ないだろうし、そのことは、姉歯事件でも十分に類推できることである。これは天災だから仕方がないと、人々は諦めてしまう。と言うか、諦めざるを得ないと言うことだろう。今回は、以前からの雨の累積や、台風による集中豪雨の影響で、地盤がゆるみ云々と、地震との合併症のような形で捉えられ、理解されているようであるが、ここは一つ道路設計の基本である、地質調査がどうであったのか、必要に地滑り対策を要した箇所ではなかったのかなどの目で見直して欲しいものである。お盆の帰省ラッシュを控え、ただただ復旧することが第一義で考えていると、又同様の事故が起こらないとも限らないのではないかと危惧される。
2009.08.11
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以前から約束していたゴルフの日だった。最近の天気予報はあてにならない。2-3日前までは、雨が降る気配はなかったが、どうも最近の様子では台風接近の余波を受けて雲行きが怪しくなっていた。例によって、近隣地方では豪雨で、土砂崩れとかというニュースが流れているものの、窓外を見る限りでは、時々薄日すら差したり、天候は意外によい状態だ。前日も軽い夕立程度はあったものの、その方が直射日光の下でプレーするよりも返って涼しいだろうくらいの感覚だった。天気予報が雨という中、今日はとりあえず、支度をして出かけた。出発時は未だ雨は全然降っておらず、東の空は薄明かりが射すというほどの天気だった。早めに出かけ、名神から中国自動車道に入り神戸JCTを過ぎて直ぐの神戸三田ICで高速を降り、三田の街を通り過ぎ、30分ほど走ると丘陵地帯に入り目的の三田27GCに到着した。スタート予定時刻よりも1時間あまり早く着いた。日曜日でもあり、高速道路1000円乗り放題もあることだし、といろいろ考えるうちに出発時刻が考えていたよりも早くなってしまったからだ。さすがに6時台は一般道路も車の数は少なく、すいすいと走れ、高速道路に乗ることが出来た。高速道路に入る少し前から、雨滴がフロントガラスにつきだしたが、それも大したことはなく、高速道路でも多少雨らしい雰囲気ではあったが、まずまずの感じであった。しかし、ゴルフ場に着く頃には、少し小雨が気になる程度には降り始めた。一緒に回る連れ合いの学校の校長先生たちは、スタート時間の少し前に到着した。その頃から、本格的降りも予想される感じで、ゴルフカートには、雨よけのホロがかぶせられた。雨で、キャンセルする人が増えるだろうとの予想に反し、今日はたて混んでいた。スタート地点までカートで行くと未だ前には3台ほどが待機していた。前方フェアウェイにもプレーする人があり大変な混みようである。我々の組がやっとスタートできたのは、スタート予定時間を30分も過ぎてからのことだった。連れ合いなどは最初から雨具に身を包んで、さらに傘さしでプレーに臨んだが、私は、このくらいの雨ならと、雨具も、傘を差すこともなく出発した。しかし、2ホールを過ぎる頃から、雨が激しくなり、フェアウェイに水がたまって、クラブが水に喰われて思うように球が飛ばなくなった。特にアプローチでは、微妙なコントロールが出来ず、ダブルスコアを叩くことになり、その頃から、スコアシートは雨でびしょびしょになって、スコアを鉛筆で書けなくなった。予備に貰っていたスコアシートに続きを書き込みながら進んだが、何とも調子が出ず、なかなかすかっとした当たりが出来ない。もちろん初めてのコースで、キャディは居ない中、前方の何処がどうなっているのか分からないと言うこともあり、攻略は極めて難しかった。フェアウェイのアンジュレーションも半端ではなく凸凹しており、真っ直ぐフェアウェイに沿わなければ、たこつぼのような所に落ちるとか、フェアウェイ真ん中にグラスバンカーがあるとか、なかなか難しいコースである。すっかり調子を狂わせ、前半で2度のOBを出してしまった。それに加えて、グリーン上では、短い距離にもかかわらず、何と4パットをするなど、考えられないうちに雨の前半が終わった。今日はそんなこともあろうかと、着替えをもう1装束持ってきていたので、昼食前に全身を着替えた。午後のスタート時間は、聞き間違えたのか相手が言い間違ったのか、10分のズレがあり、後部一組を先に出させる羽目になってしまった。後半のスタート頃は未だ雨が残っていたので、今度は上半身のカッパと、傘を使用してのスタートにした。それでもトリプルボギーのスタートで3ホール目にはロスト1回とOBが重なり大叩きでこの時ほど、パー5の距離の長さを感じたことはなかった。そのうちに雨は上がり、傘の必要もなく、カッパも脱ぎ捨ててのプレートとなり、ボギーが3ホール続くまでに回復した。ところが、最後のショートホールでは、スコアブックのヤーデージが191YDと有り、長いなぁと思ったら、ティーグランドにはスコアブックのフロントティー相当の153YDとあり、若干混乱した。それでという訳ではないが、左の池に気を取られ、当たりが湿ってしまい、全くのチョロ状態で、手前のグラスバンカーに捕まってしまった。そこから、思いっきりひっぱたくと今度は、左手前のバンカーに落ち、SWでのリカバーもグリーンをオーバーするなどショートホールでの思わぬダブルスコアになってしまった。思い返すに今日は、2打目はどういう訳かバンカーに吸い込まれるケースが多かった。下が湿っていた事による距離の不足がそうさせたのかも知れない。それを振り抜くほどの力はないという訳だ。続く8番ホール(17番ホール相当)では又OBで今度は極端にアドバンテージなるプレ4で始めて、ダブルボギーで収まる。この差はいったい何なんだろうと思う。なまじ打ち直していくよりは、プレ4でやった方が、スコアが良くなるのだ。力が抜けた最終ホールでは、ティーショットの当たりは良かったものの、落ちた所のライが悪く、その後右往左往して、結局又ダブルスコアとなってしまった。前半よりは良くなる環境にもかかわらず、前半より3つもスコアを落としてしまい、さんざんな結果となってしまった。コースは長い、とは聞いていたが、途中のおかしな表示もあったりで、どれが本当かは分からないが、やはり感覚的には長く、又フェアウェイが雨で水たまりが多かったことが、こうなった原因であろうと、納得するしかなかった。連れ合いも2桁を数えるホールが1/3もあり、結構疲れたようだったが、時折クリーンなドライバーショットや、アイアンでの良い当たり、グリーン近くでのアプローチが巧く決まったので、それなりに満足しているようであった。校長先生も飛ぶ時は飛ぶが、考えられない失敗もあったりで、私よりはもっとスコアを崩していた。しかしながら、やる気は十分で、又近いうちに近場でやりましょうと言いながら分かれた。
2009.08.10
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原爆投下の日に相前後して核兵器の話や、非核三原則の話、核の戦争抑止力等々の話がかまびすしくなる。初詣のように、1年ごとに初心に振り返ると言うことは良いことなのかも知れないが、いつも線香花火のような扱いをするマスコミにとっては、単なる年中行事で、新聞記事を埋め尽くす材料でしかないのは残念である。非核三原則は核を「持たず、造らず、持ち込ませず」と言うことだが、最後の持ち込ませずでは、すでに当初から日米両政府の間に密約があったという。アメリカ本国と、当時のライシャワー駐日大使との間で意見が食い違ったようだが、ライシャワー元大使はこの密約の存在を証言し、日本中に火が付いた。アメリカ本国は伏せておくべしとの意向を、当時の大平首相は「アー、ウー」とか言いながらうやむやにすることを認めてしまっていたから事は大きくなった。核を積んだアメリカの艦船が日本に立ち寄ることも持ち込みだとする意見が大勢を占める一方、寄港するだけで核兵器は上陸しないので、持ち込みにはならないと言った奇妙な論理がまかり通るようになった。物事は段階的に変わっていく、ライシャワー元大使さえ、寄港するだけだからと認めていたものが、大使を通り越して、アメリカ本国と日本と、日米両軍との間でこれも密約であり、陸上輸送を想定して、核兵器が日本国に陸揚げされていたというのだ。民主党の鳩山氏は、核兵器を搭載した米艦船の寄港などを日本政府が黙認する密約を米側と交わしていたとされるこの問題について、「政権をとったら(密約)文書の所在を明らかにしたい。その中で(非核三原則見直しの)結論を出したい」と述べたが、その真意は、「オープンな議論」をして認める意向のようである。当然、社民党の福島党首あたりからの反発が予想されるが、一旦政権に付くと言うことは、こういった過去に本音をぶち上げていたことをそのまま続ける訳にはいかなくなるということだろう。もちろん自民党の元副総裁で、未だ影響力を持っているのかと疑う御仁の山崎氏も、「北朝鮮の脅威の問題や米国の核抑止力をどう考えるかの議論はあってしかるべきだ」と発言したり、さらに超タカ派で名を売るジャーナリストの櫻井氏等は、「北朝鮮の核ミサイル開発は単なる外交カードではなく、目的は韓国を武力併呑する際に米軍の介入を阻止することだ」と指摘し、話し合いで核開発を放棄することはないとして抑止力の強化を求めている。又、日曜日の「たかじんのそこまで言って委員会」に於いても、「核兵器は廃絶は出来る」とのお題目だけを唱える、なにやら変なおじさんが出てきて、皆の総スカンを食っていた。居並ぶ委員会のメンバーは、核兵器の根絶は無理だというのだが、核兵器は根絶できなく、お互いの核の所持はその核の不使用のためだという考えを示していた。これに対して、その変なおじさんは、「被爆体験国のみんなが声を上げれば可能だ」的な発言しかしないわけだ。これにはどうにも具体性が欠け、絵に描いた餅でしかない。念仏だけで、世界の核兵器が抹消されるならこれに越したことはないというのは誰もが考えることであろう。そうそうに立ち去った(退場させられた)ようだが、正に核兵器廃絶をいかに行うかの理論的な工程表を示せないままの、非核論者が、ああいった発言を繰り返すようでは、どうにも分が悪い。核兵器の使用は誰でもが悪と知っている(と思う)、が普遍的なものであればいいのだが、現実に、太平洋終結に於いて、核の使用は不可避であったというか、やむを得なかった。と言うことをアメリカ国民の6割近くが今も考えている訳で、偶発的に奇人・変人がこれを行使する可能性は全くゼロではなく、その連鎖で引き起こされるであろう核の乱舞は地球人類を、何回か絶滅するほどになっていると言うことだ。「核を造らない、持たない、持ち込ませない」と言うだけで、後はどなたかよろしくと言うことではなく、唯一被爆国家である日本が、核に対する論議を尽くし、非核化に向けて、大国アメリカのオバマ大統領に並ぶ発言力を持った世界の非核化に向け努力するべきではないだろうか。今がその絶好のチャンスではないだろうか。
2009.08.09
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高校同窓生の内の7人ほどの会で暑気払いを行った。いつも会場は決まっていて、之も高校時代の同窓生の切り盛りする店である。ゴルフ仲間の集まりも時折そこを使って行われる。店の入口や店中は、お世辞にもしゃれたとは言い難いのであるが、魚介類が新鮮で旨いというのと、他店ではなかなか飲めないという酒が、ふんだんに飲めると言うことであるが、一人10000円の会費は一寸応える。飲み助であれば言うことはないのかも知れないし、また私のようにメタボを気にしない人はふんだんに出される料理は、どれもおいしく頂けるだろう。とは言いながら、皆ハッピーリタイアをした人間ばかりである。歳も歳だから、多くを食べられず、どうも残し気味になってしまう。鱧に梅肉と鮎の塩焼きに始まって、酔っぱらって名前を取り間違ったか知れないが、岩ガキと言うのか、通常の何倍もある大きな生牡蠣や、刺身の盛り合わせ、さらにはウニ、甘鯛、マグロ三種の鮨、さらには鱧とイカだったかのフライ、そして松茸と鱧、玉葱を出汁で煮たものなど、とてもすべては食べきれなかった。酒はと言うとすべて冷酒であるが、あまり名前を聞いたことがない、おそらく銘酒であろうものが5本ほど1升瓶で並べられて、順番に勝手についで飲んでいくという趣向である。私は日頃日本酒を飲まない。元々は、日本酒は飲み過ぎると醸造酒独特の二日酔いに悩まされた経験があるからだが、ここの酒は高級だからか、二日酔いをするほどのことはない。もっとも若い頃のように、泥酔するほどは飲まないのではあるが。順番に飲んでいけばいいと言う5本の1升瓶の冷酒をすべての種類飲み終わる頃には、特に酒が強いわけではない私は、もう酩酊してしまっている。元々この会は、7年ほど前から、夏の鱧の時期と、忘年会の、年2回程度をやってきているのだという。連れ合いともう一人女性の同窓生の他は、男性である。今年まで仕事をしていたという友人もいたが、皆、今はそれぞれに趣味の世界で生きているようだ。ゴルフの話もその一つだった。ゴルフは連れ合いも始めているので、話が結構盛り上がった。暇が出来たし、之から新しく始める奥さんと2人でゴルフを再開したという友人もいた。その奥さんはまだ50代半ばなので、まだまだ時間があるような気がするが、連れ合いは、去年の9月から初めてゴルフクラブを握ったという超ビギナーのゴルファーである。上達のスピードが求められる。私自身のゴルフ歴はと言うと、始めたのは20代であったと思うので、もう足かけ40年近くはやっていることになるが、少しやっては、才能の無さを感じ中断し、少しやっては中断するというやり方だったので、いっこうにスコアは纏まらない。我流でやるには限界があるようだ。しかし、アフリカ駐在が終わるとき、もう日本ではやることもないだろうとクラブを売り払ってから封印してきたが、再びドバイで仲間が出来、無聊を紛らわすために通ったのが今回のゴルフ再開に繋がり今では趣味ということになってしまった。野球の話になると、中には隠れ巨人ファンはいるものの、やはり大阪、阪神のファンが力を込めて喋っていた。孫を伴っての観戦など、野球ファンは根強い。プロ野球を実際に球場で見たことのない私は、すでに話について行くことは出来なかった。中には介護ボランティアをしている者、謡や、仕舞などの古典芸能に入れあげている者など、たった7人ではあるが、多様な趣味の世界に生きている。私も、大阪に帰って来てからは、周りに癌でなくなったり、その癌を克服したりする人たちが増え、違った難病の話など聞くと、身体が動く限りは、楽しく過ごそうという気になっている。高校を卒業後、それぞれの道でキャリアを積んできた仲間が、幼かった3年間を共有したことだけで、今また、親しく語り合えるのは、有り難くうれしいものである。今日は、淀川の花火大会の日であった。結局、花火を見ることはなく、4時間余をその店で歓談して、又フグの時期の年末に会おうと約束して、それぞれの帰途についた。
2009.08.08
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連れ合いがかねてから観たいと言っていた映画を今日は2本連続で見ることになった。ハリーポッターはシリーズ物であり、最初の映画から見ているか、出版された本を読んでいないと経緯がよく分からない。連れ合いは、第1作の『ハリー・ポッターと賢者の石』から始まって、第2作『ハリー・ポッターと秘密の部屋』 、続いて第3作の『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』さらに、第4作『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』 、第5作『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』まで、映画や、DVDですでに観て知っているのだ。今回の『ハリー・ポッターと謎のプリンス』はその第6作目になるのだという。映画の終わりには、もうすでに小説は出版されている第7作目の『ハリー・ポッターと死の秘宝』の映画化がなされ、上映の予告日が宣伝されていた。そのうちの何作かは私も観たのかも知れないが、タイトルだけは知っているものの内容はおぼろげにしか覚えていない。イギリスの児童文学作家J・K・ローリングが2005年以来発表を続けたファンタジー小説で、何故かこのシリーズが発売されると発売日には長蛇の列が出来るという人気作品である。今回は、黒い雲(悪魔3人)がイギリス主要都市を大混乱に陥れるというとてつもない魔法から始まった。元々荒唐無稽なファンタジーであるところに魔法が加味されているから、話はどんどんと飛躍する。ハリー・ポッターの魔法魔術学校の教師で、寮監を勤める悪役顔のセブルスがどうやら、謎のプリンスと言う設定になっているようだった。「Half Blood Prince」とは異父(母)兄弟という意味がある。このセブルスはハリーポッターの両親とは同級生で犬猿の仲だったという想定だけにハリーポッターに悪意で接するいわゆる悪役である。ハリーポッターは特別な学生と言うことで、ランブルドア校長と、なにやら「分霊箱」を探しに行くが、やがて、常にハリーポッターに目をかけてくれていたこの校長も死んでしまう。又生き返るかどうかは自由で、何しろ魔法の世界であるから、死後の世界と現世を自由に行き来できるようになるのであろう。第7作目の『ハリー・ポッターと死の秘宝』ではどうやら、悪役セブルスが校長になると書かれているようだ。若く可愛かった、ハリーポッター役の少年やその友人達も適当に年を取り、一寸太った感じだ。次作はこのままの配役で続けれれるのだろうが、このままの配役での映画化はもはや限界かという感じである。続いて観たのが「アマルフィ 女神の報酬」である。全編がイタリアで撮影されたということで、ローマもふんだんに出てくると言うし、世界遺産でもあり、映画の題名の、アマルフィはイタリアの南部カンパニア州のコムーネ(都市)の名前である。我々の旅行では近くのナポリまでしか行けなかったが、あの神秘的な青の洞窟のあるソレント半島の南東、サレルノ湾に面するアマルフィ海岸の中心地である。もちろん観光の拠点であるが、周囲を断崖絶壁の海岸に囲まれ、小湾の奥に位置する小規模な浜に作られた港から、断崖上に向かって形成されている白壁と、カーキ色の街並のコントラストは地中海そのものを代表するような絶景である。アマルフィの起源は古代ローマ時代にまで遡り、海洋に面した自然の要塞のごとく、複雑な地形に囲まれており、外敵の侵入を撃退するのに適していた。ナポリ公国から独立を宣言してアマルフィ公国となった当時は他のヴェネツィア、ピサ、ジェノヴァ諸国と並びイタリアにおける四大海洋都市国家であった。その後も、イスラーム勢力との抗争のなかで、徐々に勢力を拡大させていき。イスラーム軍を海戦で撃破し、ビザンツ帝国からカプリ島を譲渡されたといった歴史的にも重要な都市である。映画にも出てくる寺院や、モスクなどは、ここが、イスラム社会といかに交流していたかを如実に物語る。イタリア南部の地中海がアフリカ、マグレブ地方のイスラム勢力との闘争と商業上の交流の舞台であったことは、このアマルフィの地理的条件からも容易に想像が出来る。物語は、クリスマス直前のローマで天海祐希の扮する矢上紗江子の子供である少女が誘拐され、犯人との交渉を続け、身代金と引き替えに少女を奪還しようという、お定まりの誘拐事件かと思いきや、奥には深い訳が含まれていた。クリスマス開催予定のG8の会合に日本の外務大臣が来ると言うことだが、この外務大臣はかつて、架空の共和国支援のためと称して、援助を行って、表向き成功させて大臣にまで上り詰めた経歴を持つ。しかし、この時の支援金は、共和国側の軍部にすべて流れその弾圧の結果、日本人一人を含む大勢の人が殺される事態となったという訳だ。その経緯を知りつつもみ消した外務大臣を許せないと、暗殺計画を練った佐藤浩一扮する元商社マンの藤井昌樹が仕組んだものであった。某共和国で殺された日本人というのはこの藤井の妻であった。最初はこの誘拐事件に偶然巻き込まれた、織田祐二扮する外交官がイタリア警察と表になり裏になり関わっていくというものだ。この黒田外交官はいったいどういう権限を持つのか想定があやふやである。本国外務省の特命といえども、駐イタリア大使や参事官も一目置かせる男として描かれている。海外において特命全権大使を越える権限を有する外交官など居る訳がないのに、日本のジェームズ・ボンドのような仕立てである。まぁ、とにもかくにも、この外務大臣の薄っぺらな外套ははぎ取られ、辞任に追い込まれると言うことになる。私などは、実際の日本においても、外交機密として、公表されないこういった事態が他にもたくさんあるような気がしてならなかった。こう言った伏線は最終段階まで明かされないため、少女の誘拐が、最重要問題として生きて帰ってくるのかどうか、気をもむところは、一般の誘拐事件の対応とあまり変わらない緊張感で物語は進んだ。ローマや、アマルフィーを多く観られたことは想像通り良かったが、G8のパーティで歌う、ソプラノ歌手サラ・ブライトマンの澄んだ声も印象に残った。
2009.08.07
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この10日に連れ合いの勤める学校の校長とゴルフをすることになっている。そのための練習というわけではないが、再び姉を誘って、連れ合いと3人、一庫で練習ラウンドをすることになった。姉と連れ合いとは、先月の28日に瀬田で共にラウンドしたばかりである。今日の天気予報は、曇りで降水確率は40%だと言う。天気予報はいつもあまり当てにはしていないが、炎天下でプレーするよりは、曇りで、少しは雨が降る位が涼しかろうというねらいで、強行することにした。姉に声をかけるのをためらったのは、年齢が年齢だけに、バテてしまわないかと言うことだったが、結果は何のその、我々二人の方が最後にはあごが上がってしまい、姉は疲れたとはいうものの、元気であったことだ。夏の暑い日や梅雨時のうっとうしい日、さらには冬の寒い日などはゴルフなどしたくないという人が多いなか、この3人はいつでも平気といった感じである。この日は、梅雨もやっと明けたが、蒸し暑さは大変なものである。しかし私が予想した通り、客の数は少なかった。雨が降るとか、局所的には雷を伴った豪雨があると言う直前の天気予報だったので、尻込みした人は多かったに違いない。時折練習を交えて、進んでも後続に追われることは殆どなかった。一庫は最近経営者が変わって、コースの手入れがだんだんと進んでいる、何ホールに1台かは、芝を刈るトラクターのようなものが轟音を発して動き回っている。せめてボールを打つ時くらいは静かにして欲しいものだが、何台かは、平気で動いたままであるのは気になる。ゴルフは、ほんの数ミリの違いで、打球のゆくえが何処に行くか分からないと言った微妙な点がある。ボールに集中できない騒音は、少しいらつくところである。山の斜面の芝を刈り込んでいるところは、ボールが容易に平らなところに出てきやすいのでこれは助かる。グリーンも広くなって、芝の状態もまずまずであるがやはり完璧というわけではない。私の場合は、前回の終了時と同じく、打ち出しの2ホールのティーショットは天ぷら気味であった。朝が早く起きたからか、身体が回りきっていないことを感じる。そう思って、事前に毎回柔軟体操やストレッチなどを十分にやっているつもりなのだが、未だ生ぬるいのであろう。フェアウェイウッドもこれといって会心の当たりはなく、どうも湿っていた。やはり、蒸し暑さにはかなわない。3ホール目を過ぎる頃から汗が噴き出し、帽子からぽたぽた落ちる汗が気になる。スコアシートも汗に濡れて、端がぼろぼろになる。フェアウェイからのミドルアイアンでのアプローチショットが届かなかったり、時にダフってしまうなど内容は見るべきものが無かったが、一方では、ショートアイアンはまあまあで、ショートホールは殆ど1オンできたのには手応えを感じた。さらに短い緩やかな打ち下ろしのミドルホールでは、ティ-ショットで残り50ヤードまで飛ばしたものの、アプローチををトップしてしまい、グリーンを少し越え奥の浅いOBラインをわずかにオーバーしてしまうなど、つまらない結果となってしまった。連れ合いはと言うと、慣れたコースと言うこともあって、腕は少しずつ上がってきている。しかし相変わらずのトップ気味のボールは、距離と高さが出ず、始めた頃に無心で打っていた時に比べて精彩を欠くところが多かった。身体自体が硬直しているのか、もう少しゆったりとした構えと気持ちで打つことで、この点が解消されれば、スコアは飛躍的に上がると思われる。個々の技術はそれからだと言うことかも知れない。しかし、ミドルアイアンは、正確にボールを捉え、距離もある程度にはなっており、アプローチも綺麗な弾道でグリーンを捉えることが出来るまでになっている。腰から上の手打ち状態の範囲では、大体出来るようになっているのを感じた。苦手のパターは、時々とんでもない強さになったが、2回ほどロングパットを巧く沈めることが出来て、この感覚を覚えていて貰いたいものだ。姉のゴルフは、もう固まっているのだが、今日のティーショットは連れ合いのを越えるケースも多く、驚くべき体力という前に、気力の旺盛さを感じた。私は、インの10番の打上が特に苦手で、今回もトリプルボギーを叩いてしまい。アウトではまあまあの成績が、トータルでは100を切ったものの、パー70のコースを考えると、決して喜ばしい結果ではなかった。来るべき10日の対決に若干の不安を残したが、まぁ、この程度が実力かと諦めている。前半が終わって、パンツからズボンまで汗でびっしょりになったので、ズボンを除き全身着替えたのだが、やはり、後半が終わるころには、再び水をかぶったように汗が噴出した。さすがの蒸し暑さに、後半の最後2ホールほどは、その暑さと湿気のため、グロッキー気味であった。しかし、ゴルフに出かけられるうちが華と、3人とも頑張っている。
2009.08.06
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64年前の明日、広島、長崎と相次いでに原爆が投下された。この悲惨な出来事を引き起こしたアメリカの現大統領オバマ氏は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として、米国には行動する道義的責任がある」と核廃絶に向けて強いメッセージを発している。アメリカ政府のかつての強行派には無かった踏み込んだ発言であると思う。第二次世界大戦の太平洋戦争と呼ばれる戦局を集結させるためにと、投下させたと言われる原子爆弾は、一方では、アメリカがその効果、威力を実際にテストして、当時のアメリカの威力を世界に誇示するために行われたとも言われている。そのための直接の犠牲者は20万人遙かに越える。「投下の瞬間、しばらくして、閃光が走り、街の上空は黒い油が沸騰しているようだった」、とB29、エノラ・ゲイの元航法士は証言している。その時思ったのは「これで戦争は終わる」だったのだそうだ。又、原爆投下直後の米国民の調査では、何と85%が広島・長崎への原爆投下を支持していたという。そして、4年前の調査でも6割近くが未だに原爆の投下を支持しているのである。遠くにいて、自分に危害が及ばない限りは、どんなことでも言えるし、考えられる。かくいう私も原爆投下の1年前に広島近くの呉で生まれたのだが、その悲惨さを実感することはなく、親類縁者の話を聞いたり、広島平和記念資料館で写真を通じて知るばかりである。被災国の国民であっても直接の痛みを感じないで生きて来られたわけで、想像するに、おそらく当時のアメリカでは、この原爆投下が悲惨な戦争を終結させ、遠く異国に出兵している兵士達は故国に帰還し、家族と暮らすことが出来たのだ、と言う類の教宣活動と、マスコミの後押しがあったものではないかと思うわけだ。そのアメリカでも、現在では「何故原爆を落としたのか」という批判の声が戦争を体験していない若者の間で起こっているという。アメリカが最初に大量破壊兵器を造り、且つ使用したのだ。それも我が日本に対してである。その後、これに対抗するために、旧ソ連が開発所有し、ロシアに引き継ぎ、イギリス、フランスが 保有そして、中国が保有するに至った。非人道兵器の連鎖がアメリカを基点として起こったわけだ。そして、インドが隣国パキスタンへの優位を誇示するため核開発を行ったのに呼応しパキスタンでも核を持つことになった。そして現在、イスラエルが保有しているという可能性が大で、強硬派のアフマニネジャド大統領を強引に承認したイランでも開発を続けると対アメリカを想定して宣言している。一方では開発を断念したリビアや保有していたが廃棄した南アフリカなどがあるものの、他にも核に対する疑惑のある国は存在する。北朝鮮もその一つで、この卑劣集団(敢えて国とは呼ばない)は皮を切らせて骨を切る的な一歩間違えば実際に核兵器を使いかねない危険な集団である。これを後押ししている国は明らかに中国であり、ロシアであると思われる。アメリカも、この集団が自国まで及ぶ長距離弾道ミサイルを持つにいたって、やっと核の脅威を少し感じ始めたのであろうか。もしこの集団が、破れかぶれとなって核ミサイルを使ったらどうなるだろうかと言うことは、説明の必要もないくらい自明である。そしてその理由は、自分たち集団が生き延びるためにはそうすることが必要だったと集団全員が言うことだろう。それが後の祭りとなることを知ってか知らずかである。遅ればせながらでも核廃絶に向けて世界にメッセージを発信したオバマ大統領を応援したいと思う。大統領自身、この難事業が、自分の生存中に完全に行われるとは考えていない。核兵器の保有数で、自国の安全を守ろうという核抑止力に、どれほどの意味があるのであろうか。すでに現在の核爆弾の威力は、かつての広島、長崎の何倍もの破壊力を有するという。その後の放射能による汚染を考え、子々孫々に及ぼす影響を考えたら、地球温暖化など言っている場合ではないほど、地球は不毛の惑星になってしまうだろう。超二大国アメリカと旧ソ連の時代が終わると共に、世界は多極化を迎えた。それにより、地域の紛争が世界中で起こっている。パレスチナとイスラエルの先の見えない紛争を始め、ロシアのグルジア侵攻、アフガニスタンの紛争、中国のチベット、ウィグル族の民族紛争、ミャンマーの軍事政権の横暴、イラクの相変わらずの政情不安、ハイチの政情不安、ソマリアの無政府状態の海賊横行等々など枚挙にいとまがないほどである。よもやこういった地域紛争に核兵器を使うことはあり得ないとは考えるが、何が起こるかは分からない世界である。人間の英知と聡明さの限界が問われているようであり、神様は遠くで、次はどの駒を動かそうかとチェスの盤面を見て楽しんでいるのであろうか。
2009.08.05
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連れ合いの大学時代の友人が京都で個展をしているというので出かけた。今日は昨日までの反動で、特に夏真っ盛りと暑い。今日ばかりは私も頭に直火は堪らないので帽子を忘れずかぶって行った。最近はあまり行くことも少なくなった京都河原町行きの電車に乗り、駅まで歩いてきた暑さから、連れ合いは、着いてからバスに乗ろうとか、地下鉄に乗ろうとか言い出す。場所は、寺町通り御池下る、東側のオプトギャラリーと書いてあるではないか。バスが個展会場前で直接止まるわけでも、地下鉄の最寄り駅からも結局は同じくらい歩かなければならない。やはり一番の近道でアーケードが付いている寺町通りを歩いた方が楽だと納得し、河原町で下車、寺町通りを歩いて上った。アーケードで直射日光が遮られてしのぎやすくはあったが、やはり外は暑い。お昼前だというのに、店は之から開店準備をするところが多く、所々、すでに開店している店からの冷房の冷気が有り難かった。鳩居堂の斜め前にそのギャラリーはあった。連れ合いがドアに手をかけると中から、直ぐに歓迎の声が聞こえた。すでに中では別の友人が座っていて、ひとしきり挨拶を交わしていた。私はその2人とも初対面であるので、挨拶を交わしたが、その後も女性3人は絵を見る前に話に花が咲いていた。私は、こういった個展には連れ合いに連れて来て貰う以外はあまり経験がない。全部で40作程度の絵画は、18年前から書き始めた作品の一部であるという。ここに出品されたのは、この2年少しの間に描いたものばかりという説明があったが、すごいパワーだなと感心した。静物が多く、特に花が好きだと言われるその人の作品には、紫陽花の絵が多かった。近所の庭に咲いたという紫陽花は特に質感色合いともふんわり、ゆったりした感じが巧く表現できていて、色遣いも穏やかで私は好きだった。どうやらその絵はすでに売れているとのことであった。それとは対照的に、妖艶な感じがする色遣いと筆のタッチで描かれた彼岸花の絵は、同じ作者の手になるとは思えないほど目を引きつけるものがあった。連れ合い達は彼岸花の絵が気に入ったようである。見に行くまでの連れ合いの友人評からは、一寸した主婦の手慰みかという思いだったが、作品のすばらしさに、連れ合い自身も感心していた。今までも個展はされていたようだが、都会に出展するのは今回が初めてのようで、ご本人も相当気合いが入っているように感じた。イタリアを旅行した時に書かれた、ミラノのドゥオモ近くのガレリアを描いた風景画は絵画そのものもしっとりとして素晴らしく思ったが、それ以上に我々もそこに立っていたことを思い出し懐かしさを感じた。また、フィレンツェの町並みを俯瞰した作品もヨーロッパの風情が伝わり、品良く仕上がっていた。さらに、ヴェネチアの水路を行くゴンドラの絵も懐かしく見ることが出来た。一方、フランスのロワール川の畔の部屋の窓から見た、街並については、我々は行ったことがないのだが、かくもあるのだろうという表現になっていた。この人は花がとても好きで、そんな窓辺の真ん中には、どんと花が据えられている。聞いてみると「風景だけなら誰でも描かれているので、私の個性を出すために大好きな花を中心に据えている」とのことだったが、少し不釣り合いなまでに花が大きくが描かれているのは、背景の町並みの良さを削減してしまうのではないかと思った。花梨を描いた絵、鈴蘭を描いた絵など、なるほど花が好きなことはよく分かったし、特に紫陽花の花の色合いを見事なまでに表現している絵が何点か有り眼を楽しませて貰った。手慰みも18年となると之はもうすごいもので、趣味の世界を脱していると思った。こういった作品を継続して書かせる原動力に関心もした。そうこうするうちに、もう一人の友人が来られ、それはもう賑やかな画廊と化したが、その友人というのが、踊りを舞わせれば京都屈指の人らしく、英会話もぺらぺらで、今は個人で事業をされているという人だった。連れ合いなどは、「また貴女の舞い姿を見たいわ」などと言っていたが、踊るのもお金がかかるらしく、簡単にはいかないようだ。1時間ほど居たであろうか、三々五々見えるお客さんもいる中、最後に4人の女性同級生で好きな絵をバックに記念写真を撮ってから、記帳などさせて貰って、個展会場を後にした。絵を見ている間中は快適な空調の中にいたが、一歩外に出ると昼を少し過ぎていて、一層の灼熱の風が身体を覆った。歩いて帰る道では、時々絵画に触れることは、なかなか良いものだと思いながら汗を拭き拭き帰った。
2009.08.04
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昨日は夜が比較的遅かったのだが、旅先の朝は特別早く目が覚める。5時頃からごそごそし始め、5時半には起床した。連れ合いを誘って、6時からだという朝風呂を、10分前に出かけた。予想通り、すでにお客が入っている。私もすぐさま露天風呂に入った。昨夜は暗くて周りは何も見えなかったが、朝は天気が回復していて、木々の向こうには、女神湖がはっきりと見える。小原庄助ではないが、朝湯は気持ちが良い。ゆったりと独り占めの露天風呂の心地よさを感じていると、6時を過ぎた頃には律儀な客が、子供連れなど次々と入ってきた。少々賑やかしくなってきたので、一寸早めに上がることにした。一寸したソファーで連れ合いの出るのを待っていた。何処のホテルも鍵は大体1つだが、時々2つ渡されることがある。今回も1つだったので、待ち合わせをしないと部屋に入れない。しばらくして、連れ合いは出てきた。部屋に帰ってゆっくりする暇もなく、7時から朝食が一斉に始まる。遅れてはならじと列を成し、バイキング形式の朝食を採る。朝食後ホテルの庭を少し歩いたが、白樺を見つけた連れ合いは、若い頃に白樺の木の皮を葉書にして、私に手紙を書いてくれたことを思い出し、私も懐かしい気がした。8時にホテルを出発、8時半に車山高原の別のホテルで残りの人をピックアップして、旅行2日目の始まりだ。霧ヶ峰に到着したが、時間もなく周りの風景を見るだけに終わったが、若い人は下調べが良いのか、一寸遠くの散策道まで足を伸ばし、小さな湖を見てきたという。そこでおみやげの桃を買った。後々、桃の食べ放題があると聞いていたが、家に持ち帰る分をと買ったわけだ。9時半頃に八島湿原通過し、和田峠経由しておそらく諏訪湖の周辺を回り込んだのであろう半時間もすると岡谷ICから名古屋方面の中央自動車道に入った。直ぐに岡谷トンネルがあり、しばらく行くと、岡谷JCTでここを名古屋方面に入る。そのまま南下し、飯田山本ICで降りた。こんなところで降りるのは初めてのことだったが、次の天竜ライン下りの船の桟橋がこの近くにあるという。リンゴ畑が左右に続く道をしばらく走ると、ようやくその桟橋についた。飯田線、天竜峡の近くの乗り場から、天竜下りの船に乗る、人数が多いので、2隻に分乗しての川下りだ。今日の天竜川は水かさが通常よりも多く、流れも急そうである。ガイドの歌う、「ハァー天竜下れば ヨーホホイノサッサ しぶきに濡れてよ 咲いたさつきに エー咲いたさつきに 虹の橋 ホンニアレハサノ虹の橋」の名調子に聞き惚れながら、船頭が打つ投網で捕れた、1匹のうぐいをこれも船頭の合図で飛んできた鳶に投げ与えていた。昨日は雨で、濡れながらの下りだったようだが、本日はカッとするほどの晴天、また、通常なら1-2km下ってから、また元の桟橋に戻るところを、水かさが多いせいか、今回は10km下った長瀞橋が見える飯田線の唐草駅までのラッキーな川下りであった。天竜川は諏訪湖に源を発し長さ213km、静岡県の浜松で太平洋に注ぐ、日本で9番目の大川だという。この辺りは両岸とも人跡未踏の奇岩景観で、全流域の丁度半分当たりの所に位置するようだ。唐草駅から再びバスで、元の天竜峡まで戻り、飯田市内の水引の郷として有名な店で昼食を採り、近くのお菓子の飯田城とやらでしばし買い物をしたりした。昼食後直ぐに桃の食べ放題と言うところに向かったが、何と、説明する農家の人は日照時間が少なかったため、未だ実は固く、その場で食べてもあまりおいしくないと言うことで、一人頭5つ袋に持ち帰ることになった。前に買った桃と合わせるとそれだけで十分に重い。私は、その場でも柔らかそうなのを2つ食べたが、少し固いものの結構おいしかった。下道を豊田方面に向かい、最後のイベントである、天空の絨毯を見る富士見台ロープウェイ乗り場に着いた。山麓駅はすでに800mの海抜である。山頂は1400mの海抜だから、600mの高低差でではあるが、全長は2500mである。通常のロープウェイと違って、山の稜線に従って、上がっては又下がるという特異なロープウェイだった。山頂駅から少し下り目の緩やかな斜面を降りると一面に綺麗な花が咲いていた。ヘブンズそのはらと言われるだけあって天国もかくあるかという感じだった。一行の中には花の絨毯ではなく、マットのようだという人もいたが、山の上にこのような綺麗な場所があることに驚いた。さらにそこから1600mの展望台に上るロープウェイがあったが、あまり上る人も少なく、時間的な制約も考えて、そこまでとした。高原の店では、牛乳とソフトクリームを頂いたが、日頃飲まない牛乳は濃くて冷たくとてもおいしかったし、ソフトクリームも又、格別おいしかった。帰りは、緩やかな斜面を降りた分、リフトで上がる方法があり、それに乗って足下の絨毯を愛でつつ再び長い下りのロープウェイに乗ってバスの待つ駐車場の山麓駅まで下った。帰路についたバスは、近くの園原ICから中央自動車道に入り、直ぐに来た時同様、全長8490mの恵那山トンネルを抜け一路、養老SAでの休憩地まで走った。養老SAに着く直前の夕日はとても大きく、真っ赤な見応えのあるものだった。そこから、名神の桂川SAで、最後の休憩を取り、我々の家の横を素通りして、梅田の出発点に戻った時は、9時を少し過ぎていた。最後に又雨がバスのフロントガラスを濡らしていたが、到着時には何事もなかったかのように晴れ、重い桃を抱えて家路についた。初日の少しの雨を除けば、十分に旅を満喫できた。
2009.08.03
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今日から2日間信州の旅に出かけた。旅行者の企画したツアーに参加するバス旅行だ。朝早く目が覚めたが、出発は何故か8時半と思いこみ、余裕を持って上牧を7時の電車に乗ったつもりだった。各駅停車で朝の混雑を避け、途中で急行に乗り替えることもせずゆっくりと座って梅田までついた。念のためにと電車を降りてから工程表に目をやると何と8時出発ではないか。すでに時間は8時10分を回っている。「そんな!」といいながら集合場所へ急ぎ走った。駅から待ち合わせ場所までは結構距離があり、その間に連れ合いは緊急の連絡を入れていた。集合場所に着いたのは殆ど20分を過ぎていたが、添乗員の方が駐車場の入り口で待っていてくれた。すんでの所で置いて行かれるところだったが、待ってくれていた乗客の人たちもとがめる風でもなく、ホッ胸をなで下ろした。参加する人たちを見ると、お年寄りもいるが、若いカップルや、子供連れといった多彩な顔ぶれだった。新御堂筋線を北上し中国縦貫道の吹田ICから高速道路に入った。あいにくの曇天と、時折降る雨に車窓の風景はけむっていた。9時頃に真正面に近江富士が現れた。多賀SAで第1回の休憩をとり、米原JCT、一宮JCTをそのまま東京方面に走り、小牧JCTで中央自動車道に入った。しばらく行くと、東海環状自動車道の土岐JCTが出来ているのを知った。恵那峡SAで2回目のトイレ休憩をすます頃には、どうやら雨の心配はなさそうな雰囲気となった。一旦昼食のため、駒ヶ根ICで降りて、近くの食堂で、一斉に昼食を採った。その頃には雲間から日も差し、結構暑い夏が戻ってきていた。1時間ほどの昼食時間が済むと再び、駒ヶ根ICから中央自動車道を北上し、中央自動車道の最北端を通過、南下して小淵沢ICで高速道路と別れを告げた。しばらく走って、清里開拓の父と言われるポールラッシュ博士が開いた清泉寮で草原を見ながらソフトクリームを食べたが、とてもおいしかった。また、近くの国定公園の一部をなす朱色の東大沢橋を見たが緑の背景に朱の大橋はとても美しかった。山の天気はくるくる変わる。またしても雲が出て、せっかくの八ヶ岳を見ることは出来なかったのでそのまま清里駅に向かった。小海線に乗り日本の鉄道の海抜最高点を通るのも今回の旅のメニューのひとつだ。一頃はけばけばして観光客も離れたという清里駅は、今はそれなりに落ち着いた風情を取り戻しているとの連れ合いの説明であった。清里駅から次の野辺山駅までの一駅を小海線に乗った。最高点の標識を過ぎて、野辺山駅に到着するのはほんの数分のことだった。野辺山駅は標高1345.67mと日本一海抜が高い。ここらは、連れ合いが、大学時代に地学のフィールド実習で良く来たと言うだけあって、ていねいに説明をしてくれた。そこからは一路蓼科のホテルに向かった。山道をくねくねと走る眺望の良い景色ではあったが、運転手泣かせの狭いところもあり、大変なドライブ旅行である。ホテルは、2つに分かれており、3000円のオプションで少し良いホテルに泊まれるというので、我々はそちらの方を選択した。最初に車山高原の通常のホテルで一部の客を降ろし、我々の泊まる女神湖の畔のホテルに向かった。到着したのは、夕方6時を過ぎており、休む間もなく夕食を採ってから、おもむろに露天風呂を楽しんだ。露天風呂は大きく、湯質も良かったが、雨が少し降っていたようで、明日が少し心配された。また、夜は何としても、全英女子ゴルフで宮里を応援しようとテレビを見ていたが、2人とも結局そのまま寝込んでしまい、気がついた時には水泳が始まっていて、眠気を押さえることが出来ず、ベッドに入った。
2009.08.02
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今日はいつも歩こう会でご一緒する皆さんの中のご婦人方だけで、なにやら琵琶湖方面に昼食とおしゃべり旅行をする日だ。JRでの小旅行といった感じで、連れ合いはお仲間に助言された格安切符を買って、というか私がついでの時に買ったのだが、それを使ってのほんの近距離の日帰り旅行のようだ。その切符は発駅が高槻で、着駅が能登川までのものだったので、何の拍子か当日は高槻まで送ろうかと言うことになった。JRで一駅を戻れば済むことだが、高槻まで戻るのにその切符が使えるかどうかと言う何でもない疑問にそれではと送ることになったわけだ。連れ合いは、どんな近距離でも歩くと言うことはしなかったようで、自転車さえもつい最近乗り出した始末。私が歩こうというと、足には自信があるといって、特別嫌がらないのに通常の歩きに関しては抵抗があるのだそうだ。現に、毎月行われる今日のご婦人プラス男性軍による半日程度の歩く会には嬉々として参加をするのだ。そんなこんなで、高槻まで車を走らすことになった。朝方、出発前には光さえ出ていたのに、途中から進行方向になにやら黒雲がたれ込め、急に雨が降り始めた。ワイパーを全開しても前が見づらいくらいに降ってきた。せっかく之から旅行するのに大変だろうとは思うものの、とにかく高槻駅に着く頃は、篠突く雨のようになっていた。5人ほどの私設ツアーだが、連れ合いはどうやら最年少である。日頃から歩こう会に参加させて貰っているので、話もし、和気藹々ととけ込ませて貰って、この日を心待ちにしていただけに、この雨はどうなるのかと一寸心配であった。駅に送り届けて、帰路も、バケツをぶちまけたような雨が続いた。おそらく北九州や、防府の雨は之よりもっと酷いのだろうと一寸想像してみた。帰って、車を駐車場に止めてからマンションまで、その時何となく持っていたタオルでしのぎながら小走りに駆け込んだのだが、エレベーターで上がって外を見ると、もう雨は小やみになっていた。どうやらゲリラ豪雨というのはこういった類のことを言うのだろうと思ったが、今回の連れ合い達の旅行は何とかうまくいきそうなので、まぁよったと一寸安堵した。一人になったら、何をしようかと言うことのひとつに、近所のウォーキングがあったのだが、それは雨がいつ又降るかもわからないので止めて、本を読むことにした。しかし、その前に貯まった新聞を読む方を先にしたものだから、直ぐに昼が来てしまった。昼は作り置きのカレーを食べるようにと指示され、そのように考えていたが、一寸めんどくさくなって、残っていたパンやお菓子に手を出してしまった。之がメタボ対策としては最悪とはわかっていてもついつい止められない。冷蔵庫にあったビールに手を出さなかったことは、意識の何処かに未だ規律を守るという毅然としたものが残っているのだと勝手に自分を評価した。そうこうするうちに、テレビで、石川遼が首位を走るサン・クロレラ クラシックが始まって、それに釘付けになってしまった。強豪を相手に12アンダーの首位を独走しているのである。とてもその立ち居振る舞いを見ると17歳だとは思えない風格と威厳さえ感じられたが、彼が登場した時にあるアナウンサーがはにかみ王子と名付けたことから、ハンカチ王子に次いで王子ブームになったのだ。しかしその片鱗は、インタビューの時に少し感じられる程度で、本人はとてもはにかみどころか、アグレッシブな挑戦ゴルフを展開している。明日が最終日だが、並み居る強豪を抑えてのトップ通過であった。彼には豪快さと共に小技の技量もあり又運も味方に組み入れている。ビアスの「悪魔の辞典」によると、運命とは「愚者が失敗をしでかした時に持ち出す口実」だそうで、彼の場合は運命などというものではなさそうだ。そうこうするうちに、本を読む暇もなく、連れ合いから京都に着いたとのメールが入った。さぞかしおみやげが一杯で、迎えに行かずばなるまいと又島本駅まで車を走らせたが、おみやげは、おみやげ話の他は腹を空かした私の夕食の総菜だけだった。しかし、よほど楽しかったのか、嬉々として喋る話に力がこもっていた。心配した天気も回復し、さほど支障がなかったことはラッキーだった。
2009.08.01
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