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このところ急にドバイ・ショックの話題が新聞紙上を賑わしている。ドバイは言うまでもなく、アラブ首長国連邦(UAE)の一首長国である。UAEは7つの首長国から成り立つ連邦国家であるが、UAEといえばドバイという風に考える人が少なくない。それは、この首長国の野心的経済政策に起因していると言える。UAEはアラビア半島のペルシャ湾からその出口であるホルムズ海峡に面していて、その面積は日本の約22%程度である。UAEの最大首長国はアブダビ首長国で、アブダビがUAEの全面積の80%を占めていると言うことから考えても、残りを1/6したよりは少し大きめの第2の首長国が如何に小さな地域であるかは容易に分かる。それがドバイ首長国ということになる。2007年の世界の石油生産量では第8位がUAEであり日量291.5万バレルを排出する石油生産国である。しかしながら、この石油は、そのほとんどが、アブダビの広大な砂漠の油井から生産されるだけで、ドバイ首長国からはあまり石油は出ないのである。我々の考え方からすると、同じ国だからアブダビもドバイも同じ扱いで、同じ予算ではないかと思うのであるが、連邦国家とは、どうもそういった感じではないようである。例えば、ソ連邦が崩壊して、今は、昔のロシア連邦となっているが、やはり連邦国家で地方によっては地方独自の政策があるようだ。連邦国家とは、例外はあるが、比較的広大な面積を有する国が多く、複数の国家、またはそれに相当する強い行政上の権限を有する政体の集合であり、それらが1つの上位政府によって統治される国家様態であるということで、今日本が希求する、地方分権連邦制の国家と似た面がある。それ故、当然連邦を形成する国家は独自性を有しているわけで、アメリカなども連邦国家の範疇に入り、地方分権を重視され、州法なども独自の異なったものがある。ドバイ首長国は、ドバイ市以外は砂漠であり、ドバイ首長国=ドバイ市なのである。このような環境から、この国の生き方として選んだのが、金融や流通による立国である。先に述べたようにUAE全体の石油生産量は世界第8位であるが、ドバイ自体のGDPに関与するオイルマネーの割合は、何と約6%程度しかないのだそうだ。ドバイに駐在した時に買った地図によるその説明を読んだときには、ゼロが一つ足りないのではないかと疑ったほどで、その説明の続きには、この値はここ数年のうちにもっと割合を下げるであろうとのことだった。その地図を買ったのは2年少し前であり、当時の街は大改造中であり、地図を買ったその次の月には、すでに新しい地図がいるといわれるほど変化が激しい街であった。現にインドから来ていた運転手君も、ある日、急に一方通行になったり迂回させられるので、とまどっていたことを思い出した。何しろ世界中のクレーンの30%はドバイに来ていると言われるくらいに、ビル群が建ち並び摩天楼が競うように上に上にと伸びていく最中であった。この事は前に何処かで書いた気がするが、とてつもなく巨大な投資が、ドバイという比較的小さな街に集中的に流れていたのである。私がいた頃すでに完成間近だった、ブルジュ・アル・ドバイという高さ800m超の世界一を目指す巨大なビルや、今は、先行開通しているという、ドバイから私が通っていたアブダビとの境界であるジュベール・アリを結ぶ無人ライトレール、さらには、現在のドバイ空港の数倍もあるような新ジュベール・アリ空港、オリンピックを誘致しようとの目論見のスポーツランドや巨大なゴルフコース、その他の各種レジャーランド等々である。その後も、これはもう調子に乗りすぎているのではと思われる、高さ1kmを越すドバイ新タワーが計画されていた。さらに海岸には、北から、椰子の実型をした海上都市である、高級レジャー兼滞在型都市のパーム・デイラ、現在もリゾート高級ホテルが林立し、七つ星とも言われる最高級ホテルのブルジュ・アル・ドバイの沖合にも、同様の椰子の実型海上都市パーム・ジュメイラを、さらに、流通の拠点で、多くの保税倉庫があり、近くに新空港も計画されている海岸線には、同じくパーム・ジュベール・アリが建設中であった。又最北の埋め立て地パーム・デイラとパーム・ジュメーラの間には、世界地図を形取って埋め立てをしようとする、ザ・ワールドと呼ばれるとてつもない計画も進行していた。本ブログのサウジ時代その1に小さな地図を載せているが、そこにもわずかに見て取れる。こんな風に2008年に進行中のプロジェクトは、総額で、1兆ドルであるとも言われていた。そんな中、裏千家の家元が、ドバイに乗り込み、お茶の手ほどきをしていた新聞写真があり、滑稽であった。というのも、例のオバキューの白い服(トーブ)を着ての御茶事であるのがユーモラスに感じられたからだ。そして、去年の後半から急激にドバイの経済変調が謳われ始め、ドバイ証券取引所での株価は正につるべ落としに落ちていったのである。箱物にうつつを抜かす何処かの国と同じく、バブルの崩壊の端緒が見え始めた。このほかにも、中東への貢献(お金儲け)といって、日本から、海水淡水化の事業や、大学設立の支援なども行われてきている。ところがやはり、目立つのは、箱物であり高い建物、土地の造成、地下鉄などの鉄道である。これらを仕切っているのが、政府企業であるナキールや、エマールと呼ばれるデベロッパーである。ナキールを傘下に持つドバイ・ワールドや、勿論美味しい絵に見えるこれらの計画に、日本で追い出された大手ゼネコンなどが関与しているわけである。勿論海外の投資家達も、これに群がっているのもうなずけるところだ。これらの中に、不動産会社のリミットレスという、正に制限無しで儲かる(進化する?)といった名前の会社があるのも又事態を反映しているようで面白い。そこにこの度のドバイ・ワールド、ナキールによる返済猶予(モラトリアム)依頼の宣言である。ドバイの債務総額は何と、800億ドルにも達すると言うが、この両社だけの債務を見ても590億ドルになるというのだから驚きである。いけいけ、どんどんが、この度返済を待ってくれと言い出したから、大混乱が発生した。連日の新聞はこれを書き立てている。ビルに自らの顔写真を大きくはめ込んでいる、ドバイのムハンマド首長も頭の痛いところであろう。日本を含む海外の投資家などもこの事態をどうすべきか、内容が見えないだけに手の打ちようがないらしい。アラブには、3つのIBMがあるということは何処かで書いたが、1つはインシャ・アッラー(I)、2つはブクラ(B)、そして3つめはマレシ(M)ということだそうである。ムハンマド首長も、今は、インシャ・アッラー(神の思し召しのままに)と言っているのだろうが、そのうち、明日は何とかなるというブクラ(明日)に変わり、最後にマレシ(まあ、こうなってしまったから仕方ないじゃないか)で終わらないようにして欲しいものである。そうはいっても、まだ望みはないわけではなく、UAEの首都であるアブダビ首長国では場合によっては、オイルマネーをつぎ込んでも良いよと臭わせているらしい。大阪が干上がりそうだから、政府(東京)が手助けしようと言うことに近いかも知れない。しかしアブダビも、債務を全部被るとは言っていないし、もっと内容を透明化しろと言っている。今回、日本での事業仕分け人がこんな時役に立つのではないかと思う。「1kmもある高いビルを建てて世界1になる必要がありますか? 2位では駄目ですか?」という風に・・・。また、もう1つの望みは地政学的に、中東や南西アジアにおける平和の拠点として、ドバイという位置が、へその緒になるが如き立場にあると言うことで、不安定な、イランやアフガニスタンなどの労働者対策の受け皿になっていることからして、そのままに捨て置くことは、さらなる中東地方の混乱を増長しかねないという国際的観点からの配慮である。インシャ・アッラー。
2009.11.30
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今日は3ヶ月おきに開催する高校同級生のゴルフコンペの本年度最終回がベニー・カントリーであった。ベニーカントリーといえば、我が住み家の裏庭のようなもので、正式ルートは高槻方面からのようだが、我が家から裏山になるルートを通っていけば、10-15分で行ける距離であり、これ以上便利な場所はないというゴルフコースである。ゴルフ場への裏道というのも、山の頂上付近に京都西山三山の一つである紫陽花の寺としても有名な通称、柳谷観音という「楊谷寺」があり、そこまでの道はかなり広い山道になっているわけで、そこから少し細い道が、ベニーカントリーまで繋がっているのだ。殆ど山の頂上に開かれたゴルフ場で歴史はかなり古いらしい。ゴルフ場の宣伝では、「京都市内を一望する山岳コースだが積極的なコース改造に取り組み、フラットなレイアウトを実現。谷越え・池越え・打ち下ろしとチャレンジングで楽しいゴルフが堪能できます。」とある。実際にレストランと浴場から京都タワーが遠望できるし、京都西山が眼下に開けている。さらに、「乗用カートを導入しました」とか「ベントグリーンになりました」とか書いてある。その昔ゴルフがバブルの時に作られたコースなのであろう、乗用カートのない時代からの、一応名門コースということになっている。友人の一人は昔から利用していたということで、聞いてみると、昔のキャディーはかなり横柄なところがあり、クラブなども取っていただくという感じだったようだ。値段も現在の2倍以上はしたというのに、自分たちは何様だという感じになったということもあったようだ。その友人は、昔を思い出しながら「コースが変わっている」と時々口にした。ゴルフ場の宣伝にもあるように、「積極的なコース改造」が成されているようである。一度などは、友人が、右が狙い目だと言ったが、どうも違って左の方からが攻めやすいといった変更もあり、とまどったこともあった。いずこのゴルフ場も、最近はゴルフ層の変化もあり、その集客のために、様々な手を考えると共に、グリーンの改造や、コースの手入れなどに余念がないようである。玄関前で出迎えるバッグ受取の人たちは、年配の人が多い。おそらくゴルフなどとは今まで縁遠かった人たちではないかという感じだ。昔は十分だったのだろうか、ここはフロントが一寸小さい。それに比べると、ロッカールームは結構な大きさである。私がここでプレーするのは3回目で、今日の成績は劣悪そのものだった。最初の2回は、連れ合いの学校の先生と一緒にラウンドしたのだが、第1回目は、コースも分からず、おたおたしながら、100をオーバーという結果だったで、2回目は、幸運も手伝ってか同じメンバーで100を楽々切ることが出来た。最近はようやく100を切ることも出来るようになったが、この同級生コンペに限っては、5回の参加にも拘わらず、1度も100を切ったことがないのである。さらによく調べてみると、その5回中でも最悪のスコアであることが分かった。さらに、メンバーの内の一人は、3回同じ友人がいた。別のそこらが影響しているわけではないのだが、土建屋をやっていた、その同期生は、場数を沢山踏んでいるようで、なかなかしぶといゴルフをする。昔私が入社したての頃、ゴルフ好きの上司が、ゴルフ場で「握る」とか「チョコレート何枚」とか言っていたのを思い出したが、一寸した賭をやるわけで、その分、1打1打真剣になるようである。そこへ行くと賭け事は全く苦手で嫌いな私などは、そういった経験も少なく、ただティーショットが思い通りにクリーンにヒットすれば嬉しく、アプローチがピン近くにオンするのが楽しいと言うだけの単純なゴルフなので緊張感が足りないのであろう。又、最近は、パターが全くノーコントロールで、1m足らずのパットがことごとく外れてしまうのである。今まで、テレビでプロがグリーン上でパットをするのを何気なしに見ていて、あんな短い距離を何故外すのかと思っていたが、身をもってその難しさを感じるようになった。今日は、スタート時間が早く、7時20分という事で、遠路の友人は、5時頃の電車に乗ってくるとか、寝坊しかけたとか様々であった。天気予報では、午後か夕方には降るかも知れないと言うことだったが、天候だけはかろうじて持ってくれた。インスタートでのみんなのティーショットは、誰もそれほど大きなミスはなく順調に滑り出した。当たりが悪いセカンドから、アプローチはナイスオンとピン近に3オンを果たしたが、短いパットを外しボギースタートであった。これが、本日というか最近の自分のパターの全体を象徴しているようなものだった。その後も馬鹿馬鹿しい4パットを3回、3パットを3回とグリーン上だけでも、5-6個はスコアを落としたことになる。2ホール目のロングでは谷越えで、メンバー3人ともOBとしてしまい、その後の当たりも湿って、3パットと最悪のダブルスコアであった。そのほかにも池ポチャが1回と、スコアは悪くなるばかりである。池に落とした右ドッグレッグのロングホールは、若干打ち下ろしであるが、私としては本日最高の当たりで、他の2人を遠く置き去りにするティーショットは爽快なものだったのだが、セカンドのレイアップを少しショートして、そこからの池越えで当たりが悪く池に放り込んでしまったわけだ。頭に血が上っていたのであろうか、その時も4パットで、一体何をしているのかというちぐはぐなゴルフであった。どうもティーショットがスライスして右方向に出る、1度は隣のコースとの際から木を越えて出そうとしたが、もう少しのところで木に当たってしまったり、前半の最終ホールでは、2打目までは普通だったのが、アプローチで、ちょろちょろとなかなかグリーンに乗らないばかりか、グリーンを往復するなど散々な結果であった。午後には盛り返そうとしたが、アウト1番での4パット、さらに、3番のミドルで喘ぎながら乗ったグリーンで又4パットしてしまった。次のホールは多少右目だがメンバーよりは良い当たりで、フェアウェイを捕らえた気持ちの良いティーショットだったが、2打目の当たりが少し悪く、グリーン手前のあごの高いバンカに目玉のように突き刺さった。1回では出ず、2回目もグリーンには乗らずにスコアはかさむばかりだ。その後も同じような調子で、1度は、ドライバーも良く、且つ2打目でオンするバーディーチャンスもあったのだが、パットがノーコンで結局3パットのボギーとなるなど、全く良いところがなかった。上がってみると、10年ぶりの優勝という友人はグロスで91だった。同じ組の2人とも、勿論100は切っていたが、全体に低調で、高槻カントリーで何時も同じく回る友人などは、バンカーで5回叩いたとかでハーフ60を久しぶりに叩いたと言っていた。その友人はつい最近同じコースを88で上がったそうだから、とにかくゴルフは水物なのかも知れない。グリーンのアンジュレーションもさることながら、フェアウェイの凹凸がかなりあるので、このコースでやるなら参加しないという声も聞かれた。私は練習コースで一庫ゴルフを使っているが、コースのアンジュレーションは慣れているつもりだが、あそこはパターの練習にならないのが難点だと思っている。それにしても、最初から最後まで、頭の先端部がもやもやし、眠気が何時までも覚めない感じの日だったが、それが前日に接種を受けたインフルエンザの注射によるものかどうか分からない。多分それが原因なのであろうと思うことにした。日曜日に結構高い金を払ってやった結果が、あまり楽しくない結果に終わってしまった。次回は3月頃だという。年金生活者にとって、毎日が日曜日なのだから早く平日にするようにしないものかと思っている。
2009.11.29
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高校時代のバスケットボール部OB・OG会を再結成するための最後の打合せに母校を訪問した。年内にも再結成しようと、案内状を出したが、対象人数が800人あまりあり、その中でも、宛先不明で返送されたものが数十通もあったということだ。結局15%程の120人が趣旨に賛同するという返事が返ってきたようだ。しかし、そのうちでも、総会当日に参加できるのは。その1/4の30人という程度である。特に平成生まれの若い人や、現在大学在学中の人は忙しいのか、興味がないらしい。どうやら集まる連中は、年寄りの方が多いようである。私たちが卒業後、大学時代は、あまり参加しなかったような気がしているので、あながち無理もないことであろう。就職した頃には何回か、岡山から大阪までOB会に出席のために帰ってきたことがあった。それも段々音頭を取る人が少なくなり、しぼんでしまったようだ。高校時代にレギュラーで活躍していた人は、それなりに楽しい思い出があるのだろうが、控えの選手で、よほどのことがない限りは、なかなか試合に出られないとなると、クラブ活動を続けていくインセンティブが無くなるのも道理である。さらに、レギュラーであった人も、バスケット部で有名私立大学などにはいると、高校時代のプレーが通用しないことが歴然とし、勢い足を洗ってしまう人も少なくないだろう。私は、幸か不幸か、国立の大学で、差ほど強くないチームであったので、続けることが出来、人数が少ないので、最後はキャプテンまでやらされた。大学を卒業して就職しても、地方の岡山では、際だった巧いプレーヤーもいないため、そこでもバスケットを続けることが出来た。そこまで続けていても、今となってはバスケットボールそのものにはあまり未練を感じていない。年齢を考えると当たり前のことかも知れない。私などは、バスケットボールは自らがプレーをして楽しむものであり、コーチや監督をするほどの才能も無いし、ただ観戦するだけのスポーツではないと思っている。今回の発起人の一人であるというか、そのリードオフマンの先輩も私と同じ境遇で、就職してからもずっとバスケットボールをやり続けたそうである。この先輩は、大学時代のOB会の会長を長く務められていて、このほど、大学の方は後進に譲られたそうだが、今度は、高校時代のOB・OG会の立ち上げをしようと言う意気込みである。この度、先輩に同行し、母校を訪問し、孫とまではいかないが、年若い息子や娘のような連中のプレーを見せて貰ったが、自分が高校時代に比べると、随分上達しているようにも見える。我々は、少ない人数で、大阪府下ベスト4に2度なった経験があるが、その時の参加校は確か98校であったように記憶する。現在はと聞いてみると250校もあるというから全く驚いてしまった。それではなかなか頭角を現すことが出来ないだろう。しかしながら、中学校もそうらしいが、高校生の間では、バスケットボールは人気のあるスポーツなのだそうだ。そういったことから、部員数も、玉石混淆ではあるが、多く、我々の時代たった6人で試合を切り盛りしていたことを考えると、随分裕福な感じがする。この時期は、すでに3年生は、受験勉強に入っているので、それまでの3年生部員10数名は減っていると言うことである。高校時代といえば、3年間であり、まともにいけば3年間に顔を合わした人以外は、あまり多くの世代を知らないわけで、同窓同部出身といえども、なかなかお互いを知らないし、ましてや、同期の人数が、20人を超えるような大所帯になっている今では、一人一人が何を考えているのかなかなか計りがたい。今回動いている同窓のOB・OG会が、単発の花火で終わらないようにするために、もう少し成り行きを見なければならないと感じている。
2009.11.28
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カルザイ大統領が2期目の政権を迎えた。アメリカの政権がブッシュからオバマへと変わり、イラクの問題を総括しないまま、うやむやのうちにアメリカ軍の駐留地点はイラクからアフガンに力点を移している。冷戦が終わり、民族意識や、宗教的対立などが表面化した現在では、古き良き時代(?)の西欧諸国による植民地主義はとうに成り立たなくなっている。アメリカは、それでも資本主義と自由と民主主義を希求して、世界のあちこちで、旧来の形式ではないにしろ、その覇権を維持しようとしているように映る。アメリカが今、息巻いているのは、2001年の9.11同時多発事件がその発端である。かの事件は正に世界中を震撼させた。その実行者は、自ら声明を出した、アル・カイーダである。アル・カーイダが起こったのは、30年ほど前になる1978年のソ連のアフガニスタン侵攻にはじまる。この時点では、アメリカは、ソ連に対抗するためパキスタンなどとともに、ムジャーヒディーンと称するイスラム義勇兵に反ソという視点で、肩入れをしていた。この時点では、アメリカとアフガニスタンの利害が一致していたと思われるが、ここでイラクのサダム・フセインによるクウェート侵攻で湾岸戦争が起こるに至って、サウジアラビアに基地を持ち、常駐することになったアメリカ軍に対し、ムジャーヒディーンは反米意識を高めていったのである。オサマ・ビン・ラディンはサウジアラビアの富豪として、大きくこれに関与するわけだ。私がサウジアラビアのジェッダに駐在していたときに、関係する会社への通勤では、オサマ・ビン・ラディンとはすでに縁が切れているとは言うが、ビン・ラディン財閥の工場の私設道路を毎日の通勤に使わせて貰っていた。サウジアラビア政府は、すでにオサマ・ビン・ラディンとの関係を否定しているが、サウジアラビア国民にとっては、アメリカに対抗できる人物として未だに根強い支持者がいることは事実である。我が国の大臣を歴任した現首相の弟の「友達の友達はアルカイダ」という、野放図な発言の意図がどういう所にあったのかは知らないが、オサマ・ビン・ラディンはサウジアラビア人の中では英雄なのである。タリバンは、ソ連のアフガニスタン侵攻によって惹起されたのだが、元々「神学校の生徒」という意味である。このタリバンは、単に反ソというだけではなく、天然資源は元より、耕作地も少ない上、旱魃に悩まされる不毛の地の多い、アフガニスタンの飢餓と貧困が生み出したものである。最初は解放軍的要素もあってか、民衆に歓迎され、一応、選挙によって一時政権を取ったが、それもつかの間、徹底的なイスラム原理主義に基づくとされるアフガニスタン国民に対する、過酷なまでの弾圧と迫害により、また、古代遺跡群のバーミヤン石窟を爆破するなど国際的な顰蹙を買うまでになった。この後を受けたカルザイ政権である。カルザイ氏は、最初はタリバン政権にも関与していたが、袂を分かち、大統領を1期務め、現在2期目に入ったところである。この人は「パシュトゥーン人」である。この前から、「アーリア人」という本を読みながらこの辺りのことを少し学んだが、「パシュトゥーン人」も「アーリア人」の範疇にはいり、その末裔である。良く聞く、インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン系の人たちを「アーリア人」と呼ぶらしい。それが別れて、インド系とイラン系になるわけで、そのイラン系は又、イラン高原に生活する人たちと、中央アジアにその居を持つとされる人たちに別れて、今日に至っている。「パシュトゥーン人」は、元々イラン系アーリア人遊牧民で、6世紀に忽然と姿を消したそうだが、10世紀にイラン高原東部に復活したとある。ササン朝ペルシャが、オスマントルコのテュルク系に征服されて、その影響で、イスラム化して生き残った勢力で、この人達は、アフガニスタンは元より、パキスタンの西部にも沢山いるわけである。アーリアという中には高貴なという意味もあるらしく、戦前のナチスのヒトラーが、自らを高潔なアーリア人種の末裔として、主にユダヤ人である非アーリア人をエスニック・クレンジングしたことにも繋がるのだという。このような話は、連綿と続くわけで、ここでは、カルザイ政権2期目の問題である。タリバン勢力が復活する中、アメリカも、無限の関与はすべきでないとする方向にあるらしい。このカルザイ大統領にも、汚職の疑惑があり、洋の東西を見てもこの種の話は至る所に存在する。ある意味では、カルザイ大統領は、アメリカの力を利用しつつ、自らの財を蓄積することにあるのではないかとの見方も出来る。また、アルカイダの掃討は、アメリカや、カナダ、ドイツに任せておいて、中国は、アフガニスタンの銅鉱山の開発で自国に有利な資源確保を目論見、インドも、眠れる資源の獲得やガスをインドに導くパイプラインの建設構想に走っているという。そこで、一体日本は、何を考え何を目的にしてアフガンの支援をするつもりなのであろう。民族の闘争や、宗教的な軋轢もあまり経験しなかった日本人は、ただ単に善意の民生支援で、事が済むと考えているとしたら少し甘いのではないか。善意の支援の裏では、中国のように、アフガニスタン政権幹部への贈賄などの問題も内在しているわけで、善意の支援がどこまで届いているのか見極めると同時に、歴史的な流れをしっかりと見据えて、国際的対応を図るべきである。
2009.11.27
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第58回目になるゴルフコンペに参加した。いつもの高槻カントリーである。前回は、大叩きをして、31人中28位と散々であった。何がどうだったのか分からないが、ずっと以前の自分に返ってしまったようだった。今回は、少し練習しておこうということで、連れ合いに促されて、姉と2人で同じコースを回ったが、これもあまり冴えず、その1週間後の一庫での練習コースも、同様の結果であった。納得がいかないということで、有馬温泉に出かけるその日の午前中に、そそくさと近所の打ちっ放し場に練習に出かけた。その日は、案外とドライバーは当たりが良かったものの、フェアウェイウッドが湿ってしまった。最後は諦めて、アプローチの練習に専念したが、今ひとつ納得は出来なかった。そんな中、今回の参加者は当初32名を予定していたのが、スタートしたのは28名で、1名が途中帰宅ということで最終的には27名であった。私のパーティーは、いつものように同期の友人と、ハンディーシングルの人、さらにすい臓ガンを克服した人の4人である。同期生も白血病を克服し、ガンを克服した人2人で、「ガン、ガン行くぞ」と冗談を飛ばしていた。もう一方のシングルハンディーの人は、8月頃に自転車で正面衝突しかけ、かばった右手を地面についたときに手首を痛められて、バンカーや深いラフでは痛むと言われていた。しかしドラーバーだけはあまり関係がないとのことで、とにかくアウトの最後尾でスタートした。同期以外の2人とも我々より3才年上だと言うことだ。シングルの人と回るのは初めてなので多少緊張した。やはり聞きしにまさるロングヒッターで、最初から度肝を抜かれた。私はというと、1番の打上ミドルホールで、2打目を、グリーンに乗せようと力が入ると同時にヘッドアップをしてしまい、考えられない空振りをしてしまった。全くボールにかすりもしないのである。一瞬カット熱くなる感じだった。こんな時きっと血圧も上がっているのだろうと、自分でも分かる気がした。そのホールは、皆パーの所、ダボになってしまった。その後もパーオンはしないが、寄せワンに付けるものの、短いパットがことごとく外れてしまう。5番ホールまでに3回はイージーパットを逃してしまう結果になった。パットの感触と方向がどうにも身についていない。一度は、傾斜のグリーン奥につけ、下りだが、30cmの距離で、普段ならOKされるところを、同期生は許さなかった。そこは軽いタッチでクリアは出来たのだが、なかなか手厳しい。それにしても、シングルプレーヤーのティーショットは惚れ惚れする。軽く、20-30ヤードは置いて行かれるのはしょっちゅうだ。又セカンドショットの正確さは目を見張る。長い距離を2オンするときなどは、見ていて、これだけ打てたらゴルフも楽しいだろうなと思う。オナーは大体が、その人が取る。8番のショートホールで、たまたま私がパーを取れたときに、その人はバンカーに入れ、痛めている右手をかばって、1回では出せず、乱れてしまったときにやっとオナーを取れた。しかし、前半最終のロングホールでは、3打目で、グリーン近く50ヤードまで付けたのだが、何を思ったのか。ピッチングでフルに近いショットがおまけにトップ気味に入ったからたまらない。グリーンを遙かに越えての痛恨のOBとなってしまった。終わった後で、「おまえ何やってるんや」と同期生に言われてショボンとなる。痛恨のトリプルで、50となってしまった。30分休憩の後インのスタートとなった。見違えるほどの出来で、3連続パーで上がることが出来た。12番のグリーン前にクリークが走る、名物ミドルでは、皆さんが良い当たりをする中、当たり損ねて、フェアウェイまで届かずラフに入ってしまった。そこからの第2打がグリーンを捕らえたのである。私にとっては快挙だった。次の13番のミドルまでは私がオナーである。そのホールは私が何時も右にスライスしてOBを良く出す所である。同期生は、左を狙うようにと、スタンスを注意してくれたが、一寸グリップが緩み右に出てしまった。その後の2打目はまずまずとして、30ヤードほどのアプローチをショートし、又70cmほどのパーターも入らないという体たらくである。そこからオナーを明け渡し、パーとボギーで進行したが、最後から1ホールの17番ミドルではバンカーに入れてしまい、簡単に出ると思ったのが2度叩き、2度目も出るだけと言うことで、後半初めてのトリプルボギーとなり、消沈してしまった。それでも、最終ロングホールのティーショットは右方向のラフではあるが、まずまずの当たりだったが、セカンド、サードとも当たりが悪く、すきっとしなかったものの、池越えで、グリーンをオーバーして返すピッチエンドランがピンにぴたりと付き、ボギーのトータル44で終えることが出来た。ハンディを引くと1オーバーパーである、どうかと思ったが、結果は4位と賞品をもらえる圏外になってしまった。タラレバではないが、空振りとOBさらにはショートパットが決まっていれば、と考えると、一寸悔しい気がした。帰りの車の中で、同期の友人が、「太郎でなく次郎でいかないと」というアドバイスをくれた。太郎とは、乗せタロウ、入れタロウであり、それをするとヘッドアップする。次郎とはジロっと見ろと言うことで、球から目を離すなと言うことらしい。今度はそこに気をつけようと思いながら帰途についた。
2009.11.26
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昨日読みかけの本を取り落として寝込んだまま、朝の5時前に目が覚めた。天気予報では、朝方少し雨が残るかということだったが、昨日の夜から降り出した雨はすでに止んでいるようで、窓外は濃い霧が一面に周囲を覆っていた。昨夜、寝る前まで見えていたすぐ隣の新築中のホテルの現場で動いていたクレーンも先端部分がわずかに見える程度の濃い霧であった。朝は5時から入浴可と決められた温泉に浸かりに行った。さすがにこの時間は一番乗りだったが、数分のうちに何人かの客が入ってきた。皆私同様歳を取った人たちばかりのようである。霧は掛かっていても天気は良くなりそうだし、朝入る温泉も又格別である。ふと小原庄助の歌を思い出した。「朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上潰した、あーもっともだ、もっともだ」というあれである。私は酒はあまり飲まないし、朝寝もしない、たまに温泉に朝浸かるくらいなら大丈夫かと思いながら、朝湯を楽しんだ。もっぱら露天風呂の赤湯を中心に透明の湯の方にもかわりばんこに入った。先に入っていた人よりは長くいようとしたので、日頃よりは、長い時間湯に浸かっていた。私のスーパー銭湯での定番は、サウナがあれば必ず1回は入ると言うことだ。今回も一寸低めの95℃程度のサウナに入って、12分時計を見ながら、10分で外に出て、水風呂にはいる。いつもなら、これを2回か3回繰り返すのだが、温泉地では、1回だけにした。部屋に帰って、部屋毎に差し入れられている新聞に目を通した。日頃見る日経新聞と違い、読売新聞は、紙面は少なく、字は極度に大きかった。他の新聞も同様に、過去の字と比べて字は格段に大きくなっている。読者が読みやすいようにとの理由のようだが、私には、情報量を減らして、新聞社が楽をしているとしか思えない。しかし、この歳になると、昔のように字が小さいと一寸読む気がしないことも確かだ。そうこうするうちに、テレビを付けると、いつもの番組である。折角温泉地に来て、テレビを見るのもどうかと思うが、見ていると、テロップで、「このテレビはアナログ放送で、2010年には見えなくなります・・・」と流れる。ずっと以前から同じ事を聞いているし、スマップの草薙君がコマーシャルを降板させられたのも地デジの件だったなと思い出した。朝食の時間が来て、食堂におりたが、バイキングスタイルの朝食は、何時も変わらない。いろいろな品が並んでいるので、ついつい食べすぎになってしまいそうだが、昔ほどはがつがつしなくなった。いつもの朝はパン食なので、今朝は和食を中心に野菜を多く取るようにした。十六殻米という響きもなにやら健康に良さそうなので戴くことにした。最近は、やたらと健康のことを考えるようになったが、生活習慣病の宝庫といわれているので、気持ちだけは注意をしている。朝食後しばらく部屋で休んで、再び温泉にトライした。最上階の浴場は、展望が素晴らしいし、霧もとっくに晴れ、絶好のお天気となっていた。同じように、赤湯、透明湯、サウナのサイクルを済ませて、体重計に乗るが、朝食を済ませたばかりなので、変化はなかった。11時のチェックアウトまでは、まだ時間がある、持参した「アーリア人」という本の途中から読み始めた。堅い本を温泉地に持ち込むのもどうかと思うが、温泉地では温泉に入る以外能がないので、暇をもてあましてしまうのだ。性格的にか、ゆったりと流れていく時間そのものを楽しむようにはなかなかなれないものだ。アーリア人とは、古代オリエントとイスラームを繋ぐものであるということで、イラン高原、中央アジアや、コーカサス(カフカス)山脈、メソポタミア、パミール高原からインドに掛けての王朝の変遷や、モンゴルの勢力などが、入り交じっての複雑な様相が書かれている。ペルシャ人(現イラン)、アラブ人、パシュトゥーン人(アフガニスタンやパキスタン)等の成り立ちや、ヨーロッパに派生したアーリア人優越思想のナチスに至るまでを解説してある。現在アメリカが駐留強化しようとしているアフガニスタンの生い立ちなどが良く分かり、あの地帯のきな臭さの歴史的一端を垣間見ることが出来た。そうこうするうちに、チェックアウトの時間が来て、帰りは、ホテルの送迎バスで、有馬温泉駅まで出て、来たときとは違って、遠回りではあるが運賃の安い北神電鉄の元からの路線で、新開地まで出る事にした。車窓に見える山並みは、心なしか色づきが繊細では無い気はしたものの、山に織りなす紅葉のグラデーションを十分に満喫することが出来た。新開地からはごく簡単に阪急線の特急に連結しており、瞬く間に梅田まで帰り着いた。梅田で下車して、今年の運命というか、来年の運勢を決める恒例の「年末ジャンボ宝くじ」売り場に急行した。初日の混雑ほどではないが、チャンスセンターは、長蛇の列で、買った宝くじの袋に、当たりますようにと朱印を押して、持ち帰った。年末には210人の仲間入りが出来たらいいのにと願いつつ・・・。
2009.11.25
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今日は午後から1泊の予定で有馬温泉に出かけた。私が有馬温泉に出かけるのはこれが3度目である。過去2回は連れ合いと2人で車で往復した。1度目は、サウジアラビアから帰った時で、日本の温泉がこんなに良いものかと久しぶりの温泉が有り難かった。2度目は、夏の終盤で、シーズン中ではなかったので、差ほど混んではいなかったように覚えている。車では、近くの高速道路のインターチェンジから、温泉地までは1時間程度で着く。今回は、紅葉のシーズンでもあり、道路の混雑も予想され、また一度は電車で行ってみようということになった。普段見る、電車の中吊り広告には、「紅葉の有馬温泉に来ませんか」と誘うように、格安セット切符の説明がなされている。日帰りを想定したそれらの切符は、一泊すると使えないという仕掛けになっているようだ。仕方なく、正規の料金で行くことになったが、初めてのコースで、下調べをしたら、なにやら二つのコースがある。最寄りの上牧駅から、梅田を経由し三宮までは阪急電車である。その先が、新開地を経由しぐるっと遠回りするコースと、地下鉄と北神電鉄の相互乗り入れを使ってショートカットするコースである。時間的には、ショートカットの方が随分早いので、行きはそのコースを通ることにした。三宮から地下鉄で一駅北上すると新神戸駅である。神戸近辺の人達は新幹線を利用するのにこの線をよく使うのであろう。そこから先は、谷上駅まで、北神急行電鉄で、6km近くの途中に駅が無く、ひたすら突っ走る地下鉄道で行く。地上には、森林公園や、西六甲ドライブウェイなどがあるようだが、一切そんなことは見えず、距離のひたすら長い地下鉄なのである。地上に上がったと思えばそこは、もう谷上駅で、従来の北神電鉄の線と合流する仕掛けになっている。そこから、三田行きの列車に乗り換え、途中の有馬口で再び支線の有馬温泉駅に向かう。有馬口駅から東に向かう有馬温泉駅までは実にローカルな支線で、たった一区間だけであるが結構紅葉が美しい。電車の中で、同年配か、少し若そうな男性達は、姫路城の帰りのようで、有馬温泉には良く来るような話を声高にしていた。有馬温泉駅から目的の有馬グランドホテル迄は、地図で見る限りでは目と鼻の先である。健康のためだ、歩こうかということで歩いたのだが、距離は短い割に、結構急な上り坂である。建物は見えてるが、回り込んで登らねばならず、ホテル内の道路に入ってもそこからまだ坂道は続いた。やっとホテルの玄関に着いたら、おそらくは駅から歩いてくる人などいないのであろう「お知らせいただいたら、お迎えに上がりましたのに」と出迎えてくれた。運動のつもりだったが、一寸予想より急な坂道であった。部屋にはいると取り敢えず、すぐに温泉に向かった。有馬温泉は、この間、大学の同窓会で訪れた、下呂温泉と、群馬県にある草津温泉とで日本の三名湯の一つを成している。関西の奥座敷といわれるだけあって、温泉地の格としては、下呂温泉よりも上の感じがした。かの豊臣秀吉も愛でて、何度も通ったといわれるだけあって、近くには立ち寄り湯的な「太閤の湯」などもありなかなかの賑わいである。有馬温泉は「金泉」と呼ばれる赤湯で有名である。赤湯といえば山形県の赤湯温泉があるが、こちらの泉質は、ナトリウム・カルシウムなどの塩化物泉とアルカリ性単純温泉であり、本来の赤湯ではないのだそうだ。山形の赤湯の名前の由来は、歴史的な逸話で、源氏の兵士達がこの温泉で傷を癒した際、傷から出た血でお湯が真っ赤になったことから、赤湯と呼ばれるようになった、ということなのだそうだ。それを聞くと一寸入るのをためらいそうになる。それに比べて、有馬の赤湯は、多量の鉄分が混ざった温泉なのだそうで、関西の奥座敷という地位を保っていられるのも、この赤湯のおかげだということである。実に1000年以上も湧出し続けているとのこと、さすがに日本三名泉の一つであると感心した。この鉄分を含む温泉は、湧出するまでは無色透明なのだそうであるが、一旦空気に触れるとたちまち酸化して、この酸化鉄が湯の花になり、それで錆びたような色の濁り湯になるということだ。酸化した段階で少し効能は落ちるのだそうだが、それはそれ、皆有り難そうに赤湯に浸っている。この他にも銀泉という炭酸泉も湧出していて、こちらの方は、無色透明の湯である。かつてはサイダーとしても使われたりしていたようだが、今は、湧出量が少なくなったとはいえ有馬温泉のもう一方の看板の炭酸泉源泉である。これらの効能は、神経痛や筋肉痛に始まって高血圧症や動脈硬化症等にも効くとあって、今の私にはもってこいの湯であるが、大体の温泉では、こういった一般的な効能はあるようであり、どれほどの実効能があるのか、分からない。湯治という言葉があるが、これは少なくとも1週間程度滞在しなければ効果はないようで、1泊ぐらいでたちまち効果が現れると考えるのは甘いのであろう。そんなこともあり、私は、温泉に来たときには1日に必ず2回以上入ることにしている。しかし、温泉効果というものは絶大であり、浸って上がったときの爽快さと身体のほぐれは、なにものにも代え難い。よくぞ日本に生まれけりという感じであるが、紀元前のローマ時代から風呂はあったというから、洋の東西又古今を通じて、温泉というものは人間にとって優れた癒し効果があるのは確かなようである。ここの露天風呂からは、北東方面に六甲カントリーのゴルフ場が見え、暖かく晴れ上がった空の下、カートが動く様が遠望できると共に、豆粒のようなゴルファーがかろうじて肉眼で確認できる。日が落ちてからのロビーのコーナーでは、生演奏の音楽を聴きながらくつろげる広大なスペースがあり、日頃は味わえないゴージャスな気分に浸れた。寝る前の一風呂を終えて部屋に帰り、読もうと思って持参した本の数ページを読むか読まないかのうちにコトリと気持ちのよい眠りの中に落ちていった。
2009.11.24
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連れ合いの親しい友人で現役の中学教諭をされているお宅を訪問した。桂にあるお宅を訪問するのは初めてのことだが、この先生は美山にご主人の実家を改造した別荘を持たれており、そこには3度ほど伺ったことがある。今回は桂の本宅の居間を改装したという事で招待を受けた。他に同行したのは、連れ合いより少し若い英語の先生と、昔一緒の学校だったこれも英語の先生の2人で、私を入れて、4人であった。訪問したお宅の近くには、連れ合いともう一人同僚の先生が停年退職すると言うことで、送別会をして貰ったときに訪れた小さなレストランがある。私は、その時に初めてご主人ともお会いしたのであるが、気さくで、休日は、野球のコーチをしておられるという、なかなか忙しそうな人であった。訪問する前に、今日は勤労感謝の日で、休日だから、ご主人が居られるかどうか聞いたが、はっきりしない。息子さんは1人は居るという感じらしいが、どうやら男性は私1人という事になるようだった。別にその事自体は問題ではないのだが、集まる女性は、みんな学校の先生であるわけで、勢い話は学校のことや、生徒のこと、共に学校で働いていたときの思い出話になる。初めのうちは、話に乗っていける内容なのだけれど、勢い学校での核心の話になってくる。特に連れ合いは、一旦停年退職後、再度要請されて勤めているので、過去の思い出話に花が咲くわけである。特に美山にご主人の実家を改造した別荘を持たれている今回お招きいただいた先生には、以前にもその別荘に招かれてバーベキューを楽しんだことが、両三度ある。美山町は、面積がとても広くて、藁葺きの里山で有名な場所も近くにある。大野ダムの素晴らしい桜を観賞に出かけたこともあるし、雪の里山に行ったこともあるが、美山の別荘の方は、雪が降ると大変らしく、話に聞けば、家がすっぽりと雪で埋まるような状態で、2階の窓から出入りすることもあるのだと言う。ご主人も同様だが、そこからでは、通勤できないので、本宅は桂にあるということだ。今日訪問した女性の英語の先生達とは桂駅で待ち合わせをして、用意していた地図を頼りに間違うことなくたどり着けたが、地図がなければ一回では来られそうになかったかも知れない。近くには三宮神社があり、その高い木に囲まれた神社のすぐ近くである。迷わずに来られるかどうか心配して、呼んでいただいた先生は、買い物ついでに桂駅近くまで出てこられていたようだが、連れ合いは携帯に入ったメールを見落として、お宅に着いてから分かるという有様だった。外壁の改装が終わる予定であったのが長引いたとかで、お宅は緑の養生シートにすっぽりと覆われていた。そのことは行く前に聞いていたので、返って目印となり、簡単に見分けることが出来た。次男の大学生と、後で出てきた大学院生の息子さん達は、おとなしいが、女性の中に混じって案外物怖じしない様子だった。私も、ご主人が居られることを期待していたが、今日も野球の試合で出かけられているとかで、不在だった。鍋をつつきながら、シャンパンをごちそうになり、電車で行ったので、ビールも少しよばれた。連れ合いは、理科の先生だが、同行した2人の女性先生は、共に英語の先生である。若い方の先生とは、以前に何度も会っているが、このところ少し会っていない。ずっと若い頃には、スペインに留学した経験があるなかなかしっかりした先生である。もう一方の先生は、ご主人が、絵を描いていると言うことで、連れ合いなどは、その個展に行くのが楽しみだという事も以前から聞いていた。この先生も意欲的で、話もなかなか熱を帯びている。海外の日本人学校に3年間赴任されていたようで、SARSの時などは大変だったようである。そこら辺までは、相づちを打ったり話の中に入り込めたりはしたのだが、段々と私には分からない、昔話が始まったわけで、なかなか付いていけないと思っているとついウトウトと寝込んでしまったようだ。日頃はあまり飲まなくなったアルコールが少し入ったのと、リビングが床暖房に改造されていたので、足元の方からぽかぽかとして、気持ちが良く眠りが着いたようだった。しばらく女性同士の談笑があったのであろう、連れ合いが私を起こしたときには、3時間少し経過していたようである。我々はそこで、夕刻、姫を迎えに伊丹へ行く用もあり、一足お先に失礼した。ご主人が居られなかったことは残念だったが、後で聞くと、野球の試合後の打合せの会を止めて飛んで帰って来られたようだが、一足違いだったようだと連れ合いにメールが入っていた。買い物を済ませ、少し休憩をして姫を迎えに伊丹空港に向かった。今日は休日だが、思いの外、道は混んでなく、スイスイと茨木を越え、池田に向かう線に入ったが、そこで千里中央を抜ける手前から大渋滞に巻き込まれた。遅々として進まず、すでに伊丹に到着したと、姫から電話があったときには未だ先の様子が見えなかった。箕面方面からの道路の合流地点を少し過ぎると、そこで事故のため3車線を1車線に絞っているということが分かった。これが原因かと分かったが、かなりな事故であったのか、何台ものパトカーが止まっていた。そこを過ぎると、又スイスイと車は進み、姫を少し待たせたが、帰りは逆に、かつてないほど道路は空いていて、往きの半分ぐらいの時間で帰宅することが出来た。今日は東奔西走ではないが、結構忙しい一日だった。
2009.11.23
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インド最大の都市ムンバイで起きた同時多発テロから26日で1年が経つ。新聞記事では死者が164人となっていたが、当時のAP通信などによると「死者は195人、負傷者は約300人に達した。」との報道もあった。22人(26人)の外国人の中には1人日本人商社マンが含まれていた。今回のイエメンの邦人誘拐事件は、今なお解決していないが、こちらの方は技術者とある。国を挙げて救出して貰いたいものである。ムンバイの同時多発テロは、デカン・ムジャヒディン(聖戦士)の犯行と言われていたが、聖戦士が聞いてあきれる。ムジャヒディンはアラビア語で「ジハード(聖戦)を遂行する者」を意味するもので、イスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのことを指し、決して一般市民を殺戮するものではない。これを、最近ではイスラム過激派の民兵を指して使うことが多い。本来のムジャヒディンは怒っているに違いないと考えるのだが。インドでのテロ事件は、2005年にニューデリーの繁華街で同時爆弾テロで59人死亡、カシミールで車に爆弾が仕掛けられ10人が死亡、2006年にはヒンドゥー教徒が35人殺されたり、通勤電車が駅で爆発を起こし少なくとも187人が死亡したこともあった。さらに同年、西部の都市で爆発があり、37人が死亡、石油関連施設付近と市場での同時爆弾テロで12人死亡、停車中の列車爆発で10人死亡のテロ、そして、国営石油会社の地下ガスパイプラインの爆発テロがあった。2007年には北東部、アッサム地方の分離・独立を掲げるアッサム統一解放戦線(ULFA)の仕業と見られている、移住農民ら69人を就寝中に射殺する事件や列車の炎上で、67人が死亡、北東部の野菜市場のテロで5人死亡、南部ハイデラバードの公園などの爆発で43人死亡、裁判所狙い連続爆弾テロ、弁護士ら13人の死亡があった。2008年にはいるとヒンズー教寺院近くでの爆発で61人死亡、西部地区で短時間に20回以上の爆発があり68人死亡、南部バンガロールで7回連続爆発で1人死亡、ニューデリーの連続爆破テロで21人死亡、また12カ所連続爆発66人死亡、と今回1年を迎えようとしているインド同時テロの164人の死亡事件である。こういったテロの多い国であっても、国土が広いからかインド人はビックリしないようである。「インド人もビックリ」とはよく使うが、それは相当ひどいことなのかも知れない。新聞記事の中には、「テロ?みんな5日で忘れるさ」と言ったIT企業の営業マンもいたとか、また「被害者を思うと悲しいけれど、ムンバイは立ち止まらない」とかの声が聞こえるようだ。事件の現場であるレストランカフェも有名になり「事件のお陰で商売繁盛」と喜んでいるという。テロを活力に変える云々とあるが、私はそうは思わない、結果そういうことになっていても、自らに降りかからない限り、自らの親戚、知人等に関係なければ、おそらくは、こういった感情でいられるのだろう。5日で忘れるというのはいかにもオーバーかも知れないが、事件の後がすっかり片付けられて、痕跡が亡くなったら、おそらく誰も思い出すものはいないであろう。11億人の国民がいるインドを、だだ一つの国家だと言うことで、みんなが悲しみや、喜びを共有しているとは限らない訳で、その事件は、11億分の1にしか映らないのであろう。同じく人口最大の国、中国で炭鉱事故がまた起こった。今回は黒竜江省での事故で、42人が死亡したと報じられた。中国における炭鉱事故は、枚挙にいとまがないほどである。日本では、中国の炭鉱事故は、せいぜい小さく載せられ、簡単に扱われるだけである。その後のフォローもないから、一体何人が、犠牲になっているのかは窺い知れない。中国はエネルギー消費量の3分の2を石炭に依存している上に、中国のGDP上昇に伴って、中国のエネルギー消費量は近年急増しているのが現状である。中国には13億人の国民がいるわけで、石炭を消費することに依るCO2排出国でも、アメリカに次いで世界第2位となっている。国民の生活改善を図るためにはCO2を排出しなければならず、またこの結果、自然災害の増加や穀物の減産、さらに畜産への打撃により、全国民13億人の食糧が脅かされかねないといった悪循環である。日本も、黄砂などによって中国の被害をまともに受けている。こういった一翼を担う、石炭採掘はおそらく安全面でのさしたる対策もなく進められているであろう。その結果として炭鉱事故を呼び、多くの犠牲者を出し続けているのである。これらの事故は、今回は黒竜江省で起きたが、炭坑の多い地方で多く発生しているのであろう。過去河南省、遼寧省、山西省、貴州省等で頻発している。中国には約1万6000の炭坑があるがというが、その90%が小規模炭坑だということで、技術的なことはもとより、安全管理レベルの低さが事故につながっているといわれる。事故の数では大型の国有炭坑の8倍にも達するという事だ。もし小規模炭坑の事故発生率を国有炭坑なみに減少させることができれば、年間の事故死者数を2500人も減らすことが可能になるのだという。人口の多い国故に事故やその死者に対する考え方が希薄だとは思われないが、中国は、こういった炭鉱事故が起こる度に、改善や善処を唱いながら、直接の管理者をスケ-プゴートにして更迭し、乗り切っているのが現状である。幸い日本では、オウム真理教以来大型テロは聞かないし、石炭はすでに殆どが閉山されているので、類似の問題は起こらないだろうが、西日本鉄道事故などの対応の仕方は正に中国的であるといわざるを得ない。
2009.11.22
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このブログ「新生のらくろ君Aの館」を初めたのが2004/08/23で現在までの総アクセス数は48,569件で、これは、平均一日に25件のアクセスがあったことになるそうだ。開設日数は1,917日でその間の日記記入率は37.3%であると、楽天さんが計算してくている。5年経過したことになるが、その間、海外に駐在したときには長く休んだりしていたので、日記の記入率は差ほどではない。その前にも、別名でブログを書いていたのだが、それを加えたトータルは何年になるか忘れてしまった。以前、2004.09.13にこのブログで、「地球上の水」と題して無茶苦茶な理屈をこねたことがある。一体地球上の水はどれくらいあるのだろう。ということから、地球の直径(D)は赤道面で約12756kmであり、海の平均深さ(d)は3.795kmである事から解きほぐし、海水の容積(Vs)が2×10^24リットルであると計算した。その当時、人間が一日に使う量は、生活水250リットル、飲料水2リットルといわれているので、現在の世界人口46億人が消費する量(W)は、W=252×46×10^9で1.159×10^13リットルと計算したのである。この消費量を日数で割ると、4.728×10^8 年となる。因みに、これは現在の世界の人々が、毎日海水を使い続けても、むこう4億7千280万年は水は枯渇しないという計算になるといった計算だ。その時の世界の人口予測では、2050年にはインドが爆発的に人口が増え中国を抜き去るので、全体で93億7000万人になると予想され、その数字で計算しても、人類は、2億3千210万年の間、水の心配はない?事になる。と書いたら、早速、ある人から、コメントが付いた。【計算が合っているかどうかの前に、大きな誤解が有ります。人間、動物、植物が摂取した水分は、全て水又は水蒸気の形で排出されます。例えば人間の場合、大小便および汗として、又生活廃水として、地球環境に放出され、再び海に返ります。従って、宇宙空間への放散を無視すれば、地球上の水(氷を含む)の増減はありません。】というものであった。遊びで書いた内容だったが、全く言われたとおりであると、この反応に一寸感動した覚えがある。11/19の新聞では、国連人口基金(UNFPA)の発表した世界の人口は、すでに68億人を越え、68億2940万人になったという事だ。2008年に比べて、約7970万人の増加なのだそうである。全体の伸び率は、1.2%であり、アラブ諸国の増加率は、最も高く、4.4%で、これに次いで、アフリカ2.3%、北米1.8%だという。逆に少子化の日本は、70万人減少して伸び率は0.5%の減少であり人口は1億2790万人なのだそうだ。国別首位は、まだ中国が1位で、13億4580万人、インドは11億9800万人なのだそうだ。この時日本の人口は1億170万人に減少しているだろうとのことである。そして興味深いことに、2050年の世界人口予測は、91億5000万人に達すると言う記述であった。以前の、2004年の予想では、2050年にはインドが爆発的に人口が増え中国を抜き去るので、全体で93億7000万人になると言うことだったのに、今回の国連人口基金の予想は、それを2億人も下回っていると言うことだ。2億人といえば、2004年当時で言えば4%、現在で言っても3%の誤差である。このくらいの誤差は当然考えられるのであろうが、世界の先進国では、間違いなく高齢化が進んでいて、2050年では日本は40%近くが、前期高齢者ということになるようだ。その頃私が生きているわけはないのだが、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカなどいずれも65才以上の対総人口比は20%を越えると言うから、世界中はお年寄り場まかりに成ってしまっているのだろう。こういった背景の世界的な人口の急増、産業の著しい発展によって水需要が増大しており、現在、アジア、アフリカなど31カ国が水の絶対的な不足に悩んでいるのである。また、今後の人口増加に伴い、2025年には食糧不足はもとより、48カ国で水が不足すると見込まれ、非常に深刻な問題となっている。石油など化石燃料が地球上に偏在している事に比べると、内陸国家は別としても、世界中は海に囲まれていて、地球温暖化により、北極海の氷が溶け、水位も上がり、ツバルが沈むと言うときに、水(海水だが)が不足すると言うことはどうにも合点がいかない。やがて来るであろうスノーボールアース(全地球凍結)や大地震による地殻変動により陸地の沈没が起こるかも知れないと言うときである。これらがいつ来るのか、又来ないのか、今生きている人が心配することではないのかも知れないが、海水などの水(H2O)を飲めるようにする技術は、思うように進まないのだろうか。
2009.11.21
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新古典主義の時代の代表画家ダヴィッドの2回目の講義があった。今日は前回の続きということで、追加の資料は1枚だけが配られた。殆どがダヴィッドの作品の紹介である。最初に紹介されたのは「ソクラテスの死」である。この作品は、古代ギリシアの有名な哲学者であるソクラテスが異神信仰を広めて、人々を堕落させたと告発され、法廷で、弁明をしたが有罪は覆らず服毒自殺を命じられ、最後には毒杯に口をつけ自ら命を絶ったとされる場面を描いた作品である。あの「悪法といえども法は法なり」と敢えて、死を選んだのは有名である。昔読んだ小冊子「ソクラテスの弁明」はこの事だったのだろうか。画面中央のソクラテスは弟子や牢番などの支持者に囲まれながら魂の不滅についての説教を終え、今まさに毒杯を手にせんとするソクラテスが配されており、天を指差す指は真理を表すとのことだ。また画面左側には目頭を押さえ悔し涙をこらえソクラテスへ毒杯を手渡す牢番と、事の成り行きを諦観し、ソクラテスに背を向け瞑想するプラトンが描かれ、画面右側には死を目前にして、なお冷静なソクラテスとは対照的に感情のままに師との別れを悲しむクリトンなど弟子らの姿が配されている。なお、悪妻で有名なソクラテスの妻クサンティッペはもうこの場所にはいないのである。本作品のテーマは、当時の指導者らが犯していた不正に対する批判的精神が込められていると解釈されている。弟子達が勧める、逃亡をし生き長らえる事より、理想と信念のために崇高な死を選択したソクラテスの姿には、後のフランス古典主義における英雄崇拝の側面を見出すことができる。この作品はサロン出品時には大きな反響を呼んだということである。「マラーの死」は、ダヴィッドの友人で同胞である、フランス革命において指導者的立場で革命を推進したジャコバン派の有力政治家ジャン・ポール・マラーが、対立するジロンド派の美しき女性擁護者シャルロット・コルデに暗殺された場面を描いた作品で、当時の最高権力機関である国民公会の依頼により制作された作品だ。マラーは新聞等で当時の執政を激しく攻撃するなど、下層階級層からの支持も多かった政治家であるが、持病の皮膚病に苦しめられていた。その皮膚病が悪化し、治療と緩和のために硫黄風呂へ浸かっていた時、「伝えねばならない重要な情報がある」と言って近づいてきたシャルロット・コルデに刺殺された光景を描いた作品である。画面中央で、浴槽の中で力なく倒れるマラーの右腕は、だらりと垂れ下がって描かれている。これは、私が連れ合いと見たヴァチカンのサンピエトロ聖堂にある、ミケランジェロのピエタのキリストが槍に刺されて死んだ時の腕の配置と同じであり、この手法は神々しい姿を表すものとされる。またその姿には古代の悲劇的情景にも通じる革命の英雄的印象を見る者に与える。マラーの左手にはシャルロット・コルデが持参したのであろう血の付いた嘆願書が握られており、浴槽からだらりと下がった右手には羽根ペンを持っており、さらにペンの左側にはマラーを刺殺した際に使用したと考えられるナイフが1本落ちている。また画面最前景へ配されるペンとインク壷が置かれた木箱の側部には「マラーへ、ダヴィッド、2年」と記されており、本作品にはダヴィットの亡き友人に対する哀悼の意が読み取れる。「リュクサンブール庭園」は政治活動中に反対党のジロンド党によって閉じこめられたとされるリュクサンブール宮殿から見た庭園を描いたとされる作品で、唯一とも言えるダヴィッドの風景画であるが、最近では、本当にダヴィッドが描いたものかどうか疑問視する向きもあるとのことだ。「サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト」はイタリアに侵攻するフランス軍がアルプスを越える際のナポレオン・ボナパルトの姿を描いた作品で、ダヴィッドは生涯でナポレオンの肖像画を8作手がけているが、本作はその中でよく知られる作品である。愛馬に跨るナポレオンは悪天候下の強風で馬のたてがみも自分の赤いマントも靡く中、右手を掲げ、兵士たちを鼓舞しながら、当時は考えられない、アルプス越えを果敢に指揮しているもので、ナポレオン専属の画家に描かせた作品である。絵画の下部の岩には、かつてアルプス越えを為した、ハンニバルとシャルル・マーニュの名前と共に自らの名前を刻ませ、フランスの英雄として自らを鼓舞・宣伝したものである。しかし、実際のサン・ベルナール峠越えはこの絵とは違い、天候にも恵まれる中、防寒具に身を包み、山道に強いロバに乗って越えたことが明らかとなっており、本作には英雄としてのナポレオン像を示すというプロパガンダの側面が大きい。ダヴィッドはナポレオンにポーズを要求するものの「肖像画は似る似ないではなく、偉大さが伝わればよい」と拒否され、代役にポーズを取らせ制作された想像の産物である。ナポレオンの睡眠時間の短さはつとに有名であるが、彼のもう一つの肖像画としての「書斎のナポレオン」は、朝まで仕事をしていて、これから閲兵に行こうかとするときのものである。背後の時計は午前4時過ぎを示し、左手に見えるろうそくは、すでに消えかかりつつあることで、そのことを表現している。この絵で、青年時代の精悍さとは違って、落ち着いた時期の少しメタボになったナポレオンをダヴィッドは絶妙に描いている。この作品は敵方のイギリス貴族によって制作を依頼されたものだとか。「皇帝ナポレオン一世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」はルーヴル美術館でも最大級の大きさであり、ナポレオンの戴冠式での状況を描いた作品である。ヴェルサイユ宮殿にこのレプリカがある。私と連れ合いがパリを訪れたときに両作品を見たのだが、ルーヴル美術館の作品は我々を圧倒した。想像以上の大きさもさることながら、全体の調和が実に素晴らしかったからである。この作品はルーベンスのアンリ4世が戦場に赴くとき妻が描かせたという「マリー・ド・メディシスの戴冠」を思わせるが、作品のすばらしさと、豪華さは、本作品の方が遙かに凌ぐ。本場面は実際の式の様子より脚色され描かれている。まず、出席していなかったナポレオンの母親を描いていることや、皇帝ナポレオンが自身で戴冠する姿で描かれる予定であったものが、妻ジョゼフィーヌに戴冠する姿に変えられ、また、無理矢理出席させられたローマ教皇は、戴冠を祝福しているような仕草に変更されている等であるが、当時のナポレオンの権力の強大さを見せつけられる作品である。レプリカであるヴェルサイユ宮殿の作品も現地で見たのだが、作品は同じ大きさであるが、ただ、左に立つ女性3人の服装の色が違っているなどとは、観光ガイドをしてくれたその時の女性に聞いたものである。フランス革命を支持しナポレオンを支持していたベートーベンが作曲した交響曲第3番「英雄」はナポレオンに捧げようとして作曲した作品だが、後日、ナポレオンが、皇帝となり、権勢を欲しいままにする独裁者になるに及んで、ナポレオンに捧ぐの文字をペンで消したといわれている。「鷲の軍旗の授与」はナポレオンが戦いに臨む自分の各軍隊に、鷲を戴く軍隊旗を捧げる様を描いたものだが、幅10mの大作ではあるものの、命令書をかざすその先に描かれていたはずの勝利の女神の絵が何故か消されていて、中途半端な作品となっている。フォンテンブローの敗戦からエルバ島に流され、脱出してワーテルローで戦うものの、100日天下で、再度敗戦の後セントヘレナ島で終わった英雄ナポレオンの亡骸は、我々も訪れたパリのアンバリッド廃兵院の中央に安置されている。グロに依る「アルコレ橋上のボナパルト将軍」は27才の若き颯爽とした司令官時代のナポレオンの肖像画であり、今でいうかなりイケメンで描かれている。オーストラリア軍とにらみ合いの膠着状態の中、橋の向こう側に橋頭堡を築くべく、危険を覚悟で、部下を鼓舞し、先頭に立って渡る姿で、こういった軍才は、陸軍幼年学校時代の雪合戦で、仲間を指揮して勝利するという、幼年時代からの才能でもあったということだ。これもまたグロの、「ヤッファのペスト病棟を見舞うナポレオン」はエジプトに遠征する際に通ったシリアのヤッファでペストに冒された将兵を部下がハンカチで口を覆う中、素手で患部に接触し、慰めるという図である。これは、サンタンジェロ・イン・フォルミス修道院聖院にあるキリストが手を触れて患者を治癒するということに擬して作られたもので、ナポレオンの勇気と慈愛を表現したものである。再び、ダヴィッドの「テルモピュライのレオニダス」はヘロドトスの「歴史」に書かれた、ペルシア戦争の一つテルモピュライの戦いを描いた場面であるが、スパルタ(ギリシャ)はテルモピュライでペルシア遠征軍を食い止めるために、時間稼ぎを行うことになっり、レオニダス王が率いる先遣隊300のみで戦う時の一場面である。スパルタ軍は全滅するまで戦ったわけだが、古代ギリシャの表現は、オリンピックの絵にも見られるように聖なる物は裸体で表現するという考え方があり、ここに描かれた兵士は、すべてが裸体で表現されている。当時兵士の間のホモは美として公然と認められており、その姿も描かれている。この絵は、トルストイの「戦争と平和」で有名な、ナポレオンがロシア遠征に敗れ、没落していく時代に描かれたもので、当時ジンクスとしては、「イギリスには足を踏み入れられない」「ロシアに行くと必ず敗れる」すなわち、撤退時に自らの街を焼きさらに奥地へと逃げ延びるというロシアの作戦をこのテルモピライに重ねたのでであろうか。チャイコフスキーの曲にも、最初にフランス国歌を入れながら、最後にロシアの民謡を取り入れるなどの作品があるという。「セルジア夫人とその息子の肖像」はダヴィッドの妻の妹で、弁護士夫人であるセルジアの自然な表情と、甥に当たる少年の恥じらい気味な姿を描いたほほえましい作品で、家族ぐるみ、親しい関係で行き来していた様子が垣間見られる。このようにダヴィッドは、歴史的な大作ばかりではなく、こういった優しい表現も可能であった画家だということがわかる。「レカミエ夫人」はカウチェに横たわる、社会の華といわれた銀行家の娘の姿を妖艶に描いているが、画家の言うことを聞かないモデル(レカミエ夫人)に業を煮やして、未完成のままであるというが、古代ギリシャ風の白衣に包まれた夫人の姿態と、水平と垂直の線がきっちりと絵を安定させたものにしている。ジェラールも同じように「レカミエ夫人の肖像」を描いているが、こちらはプロイセン公の息子であるアウグストがこの夫人の大ファンであり、描写の線もなめらかで、柔らかく描かれており、プロのモデルを使って、顔だけすげ替えた所謂ブロマイド的なものであったようだ。「ヴィーナスと三美神に武器を取り上げられるマルス」では、ナポレオンが、エルバからセントヘレナへと流され、自らもベルギーのブリュッセルへ亡命するというダヴィッド晩年に描かれた作品で、ナポレオンを軍神マルスに擬したのであろうか、平和の女神三美神により兜や武器を取り上げられ、花冠をかぶせられる構成となっている。絵の中心には、平和の象徴のハトが配せられ、キューピッドがサンダルのひもをほどいている姿も描かれている。この作品は、ナポレオンが失脚し、自分も亡命中とはいいながら、決して惨めな生活ではなく、すでに80才を迎えているダヴィッドが、かくも力強い作品を残していることに大いなる驚きを覚えた。
2009.11.20
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今日は5年ぶりに免許の更新講習を受けた。前回までは旧い免許証にパンチを明けて、返却されたのだが、今回は新しい免許証と交換と言うことで、旧い免許証は返してくれなかった。どこでも同じだが、講習の行われる場所は、警察の隣の交通安全協会である。ここの活動も今ひとつ良く分からないのだが、以前は、有無を言わさず更新講習費用に組み込まれていた年会費400円はさすがに入会希望者だけが払うようになっている。そのことを話すと、他所はそうかも知れないが、大阪は前から別々に取り扱っていますという。そんなわけはないとは思いながら、更新講習費用700円也の収入印紙を買った。交通安全協会の年会費は、1.交通事故防止用広報資料や子供、高齢者に対する安全教育などの費用2.交通安全活動の啓発資料3.年2回実施している交通安全講習会の日程などの通知費用などに使用しているという。そして入会の特典としては、1.免許更新のお知らせ2.新しい免許証入れの配布3.免許証用写真代の割引4.優良運転者表彰のために必要な安全講習会の日時、場所の通知5.各段階の優良運転者表彰の申請時期と・申請方法の通知等となっている。どれ一つ取っても、必要のないものばかりである。交通安全協会の存在とその活動費用の年会費の収入と、交通事故の件数や、死者が相関関係を持っているのかどうか疑わしいのである。要するにあってもなくても交通事故や死者は関係なく増えたり減ったりしているのではないかと言うことだ。私は交通安全協会に入会していないが、免許更新のお知らせは来た。硬めにパウチングされた免許証に、免許証入れは全く必要ない。写真代の費用をよく見ると、町中では700円で済むものが、何故か安全協会では1000円になっている。高めにしておいて割引とはどういうことか。また、私もそうだが、優良運転手として表彰して貰うことで何の特典があるのか、そんなものを家に飾ったといって感心して尊敬してくれる人など全くいないであろう。現に更新講習についても、優良運転手にまで、儀式的な講習をする必要があるのか、たった30分の講習で、質疑の時間などもなく、淡々とわかりきったことを言うだけなのだから。敢えて、知りたいのは、旧の道交法からの改正点だけである。危険予知運転とか、歳を取ったらどうだとか言うことは先刻知っていることであり、又知らなかったという人に対して、この程度の講習を行ったからといって改まるものではないと思う。大阪府下では出会い頭の事故が全国でも一番多いとか言われても、その説明を聞いたからといって、来年は最下位になるといった性質のものではない。交通違反を1回でも起こしていると、30分の講習が1時間に増えるし、さらに点数を重ねると、さらに長く、そして免停とか、取り消しになるのだそうだ。では、交通ルールを守り、思いやりの精神で、慎重に運転してきた人たち、所謂優良運転手に講習などは必要なく、むしろその分、違反者に実のある、もっと多くの時間を割くべきではないか。要するに交通安全協会そのものが無駄なのである。今、国会では事業仕分けを行っている最中であるが、この明らかに警察の外郭団体である交通安全協会の存在そのものは、警察OBのための天下り先としての存在価値しかないのではないかということで、廃止すべきではないかだと思うのだ。講習は場内を右と左に分けて行われた、左側の人は優良運転手で、30分コース、右は軽微違反者で1時間コースである。30分たつと、左側の我々は帰って良しと言うことで、右側の人達には引き続き30分お話があるようだ。しかし、終わってからの質疑応答はないわけで、全くお仕着せの、講習であり、理解させ徹底させようという意志などは全くないのである。これが昔は2年ごとにあったので腹が立ったが、まあ5年も経てば、様子も変わっているかと思うのだが、体制や仕組みは10年1日の如く変わっていない。紙芝居が、パソコンのプレゼンテーションに変わったくらいだろうか。終わって、そそくさと帰りかけたが、帰り道で制服警官にあったので、駐車禁止の標識について聞いてみた。内容は、駐車禁止の標識の前後何mが駐車禁止なのかということだ。下に矢印がある。右矢印は、ここからと言うことで、左矢印はここまでということだが、両方矢印や、矢印のない標識もある。質問の内容は、両矢印や矢印無しの前後どれだけの区間が駐車禁止なのかということだ。その警官は、曖昧で、駐車禁止は、「市や町の告知」で決められているので、明確にはそれによるのであり、高槻市は、もうどこも路駐は持って行かれますよとずいぶん荒っぽい。時間もなかったし、立ち話なのでそれ以上得るところはないと思い別れたが、どこにも駐車してはいけないということであれば、一層、標識は要らなく、特にここは駐車可と言うところだけにすれば安く付く上に、なんと言っても道路端に突っ立ったポールが安全で円滑な交通を妨げているではないのか。さらに、さび付いて何を書いてあるのか分からない標識も数多ある。都市美観の上からももう少し考えて貰いたいものだ。高槻に出てきたついでに連れ合いと待ち合わせ、JTの研究所に併設されている「生命誌研究館」(無料)を訪れた。昆虫やDNAなどの説明が成されていたり、神経細胞の先端研究の紹介などがビデオで見られるようになっている。あまり時間がなかったので、一通り見て回っただけだが、JTの地域フィランソロフィーとしては立派なもので、今度ゆっくり見てみたいと思いながら次なる映画「ゼロの焦点」を見るべく映画館の方に向かった。テレビで「点と線」を見て松本清張作品では2作目であり、生誕100年を記念するキャンペーンの作品である。3人の著名女優陣がそれぞれの個性を出しつつ織りなす人間ドラマの背景には、昭和30年当時の戦後から復興期の日本の世相を反映した奥深い内容で、物語の底流には、戦争が引き金となって、やむなくどん底の生活を余儀なくされた女性達の、はい上がるための必死の生活の中で、殺人事件を重ねるというもので、日本がアメリカ軍であるGHQの占領下における、無力感と、戦争がこれだけ人間をゆがめるのかという一方、あくまでも人を信じて生きてきた女など、その生き様は詰まるところ人それぞれの人間性によるものであるということを感じた。結婚相手の真実を知らない新妻、過去を捨て生まれ変わろうとして、つき続ける嘘、そして、そんな世を生きて生き続けていくために守り通す秘密。ドラマは、そんなどうしようもない運命に翻弄されていく主人公達に、真実のあるべき姿や、嘘はやがて暴露するのだと言うことを教えているようでもある。主人公の1人である新妻は、結婚直後に夫の失踪ということに直面し、この謎を解くべく物語を巧みに誘導していくという役回りである。その失踪した夫を軸に、他の2人の女性が共通点を持つという絡み合いである。この物語は、単なるミステリーというだけではなく、戦争が残した別の意味の傷跡をえぐり出している。映画館の中は、平日の昼だということで、当然のことながら、年配の人たちが多かったが、他の映画に比べて、観客の数が多いのに驚いた。映画が終わったのが3時過ぎで、外は青空も見え、比較的暖かかったので、久しぶりに、私だけ自宅まで歩いて帰ることにした。
2009.11.19
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連れ合いの誕生日に食事でもしようと言うことにしていたが、一寸伸びて今日軽く昼食を採ることにした。連れ合いはすでに前期高齢者になっている、が私には、まだ少し間がある。いずれ同じ月に前期高齢者の仲間入りをするわけだが、この数日間は大きい、と私だけが思っている。前にも書いたが、私は、子供の頃から誕生日を祝うと言うことをあまり経験したことはなく、今までただ淡々と歳を取ってきた。正月は、世界の一部を除いて、世の中の人があまねく祝い、心を新たにするときであるが、誕生日は、その人固有の日と言うことであり意味は違うのだが、誕生日の方はやや軽視されていたようだ。いずれもそうだが、その機会は、一生のうちにも100回は先ず来ないのである。そう考えてみたら、365日に1度訪れて、まあ、80回程度そんな日が来たときに祝うというか、自分を振り返ったりささやかに生まれてきたことや、生きている喜びを感じたりすることも悪くはないという気がしている。むしろ、そういった気分になれるという心の余裕があることが、何よりも幸せなことなのかも知れない。すでに誕生日の前に、太郎君一家と、姫達で、我々二人分のお祝いの食事会をして貰っている。連れ合いの孫の、4歳と1歳半の子供も一緒だったが、考えてみると、下のちびちゃんが、1歳半になったとか、又4歳になって幼稚園に通っている上のお兄ちゃんを見ていると、幼いときの時間は、とても早く流れているようだ。前に、「ジャネーの法則」の事を書いたが、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例するということなのだそうだが、第3者が、見る場合には、子供の成長が目に見えて違うのに、高齢になるに従って、日がな同じ事をしているように見え、どう変わっていったのか、多分しわは増えているのだろうが、マクロに見ると変化があまり感じられない。こちらは何時までも若いと思っても、子供もすでに青年の域を脱した段階では、運動能力についても、てきぱきとこなす仕事の面に於いても、すでに親を凌駕している点が多い。たまに見る孫が可愛いというのは、その成長に驚かされることも一つの要因であろうかと思う。数日前から、折悪しく、太郎君一家のお嫁さんと2人の子供が相次いで新型インフルエンザにかかって大変な状態になっているという。ついに身近にもという感じだが、連れ合いは、手助けしたくても、学校の先生という職業柄なかなか出来ず、お嫁さんの方も、感染を気にして、自ら隔離状態で、3人分苦しんでいる。この年になると、昔の香港風邪などの影響下で、知らず知らずのうちに免疫力が付いているのかも知れないが、連れ合いも、気をもむばかりで、部屋にはいることは出来ず、手作りハンバーグや果物を玄関先まで運んだり、食料品を届ける位で、気をもむばかりだ。遠くで見守るしかない状態で、一寸気になりながらも、二人だけのささやかな誕生祝いの食事をすることになった。場所は、2年前の何時だったか正確な日は忘れたが、京都阪急の最上階で、見晴らしの良い席である。我々は若い頃に知り合ってから、紆余曲折があり、私は、スキンヘッドになり、連れ合いは、時折一部白髪染めを必要とする年齢になったわけで、世に言う、共白髪ではなかったが、40数年の隔日が、本当に存在していたのかと思わせるような、落ち着いた気持ちの良い時間が過ぎていった。ガラス張りのその食事処は北を向いている。一寸邪魔っけなビルが正面にあるものの、眼前には、1200年、悠久の古都京都の町や北山から、東山に至る風景が心を癒してくれる。この年になって、まさかこんな日が来るとは、考えもしなかったのだが、今ここに紛れもなく二人でいるという現実を、なにやら運命的に改めて感じた。一寸見えにくいが、窓の右手、すなわち東の方向には、知恩院や、一寸無理をすると二人でよく歩いた八坂近辺が見られる。右斜め前にはどうやらあの辺が南禅寺で、その向こうに見えるのは、黒谷から、真如堂であろうか、定かには確認できないが連れ合いと目で追った。そして、霊峰比叡山が見える。そんな景色は、我々が経てきた経験を何とも感じさせないように昔からずっと同じ風情で続いているのだろう。今日は、気象予報では、今までになく、最高気温が差ほどに上がらず寒くなるとは言っていたわりに暖かく、この時期、例年であれば、山々が赤や黄色に紅(黄)葉しているのだが、まだ緑が多く残っており、本格的な冬の冷え込みは、まだまだの感がある。CO2による地球温暖化のせいなのだろうか。子供の成長・変化の速さ、それよりは緩やかな我々世代の変化なのだが、そんなことは目じゃないほど遙かにゆったりとした流れで地球環境の変化が、起こりつつあることが、なにやら実感として感じられた。京都は我々の前栽であるかの如き場所である。今思い返せば、よく二人で歩いたものだと思う。だからといって、この間「歩こう会」で訪れた智積院など、寺社の中に入ったことは数少ない。ただ二人で歩いて話をしているだけで、どれほど歩いても疲れないし、時のたつのが腹立たしいほど早かったこと思い出す。そんな疲れを知らなかった二人だが、その日は、昼食をするだけのためにここに来たのだからと、友人から教えられた、画廊へ行くこともせず、マンションの1室で喘ぎ苦しんでいる太郎君のお嫁さんと、その二人の子供のために、地下でケーキと鰊そばを買って帰ることにした。ひととき、40数年前にワープしていた私の心は、そんな現実に帰ると、人の繋がりと、生きている今の自分が、あの時諦めなくて良かったという風に、有り難く感じられるのであった。
2009.11.18
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文学から見るアラブ社会の第2回講座があった。今日は、スーダン文学のアッタイイブ・サーレフ作による「北に還りゆく時」である。NHKの今回の一連のアラブ文学講座の作品は、1部を除いてすべて姫が大学から借りだしてくれたものだ。取り敢えずそれを一括借りて貰ったので、私がこの本を読んでからすでに1ヶ月がたっていて、内容はあまり覚えていなかった。予定通り読み込んでいく連れ合いに内容を聞いて、そんなことが書いてあったのかとか、そういう意味だったのかという風にあらすじが分かる程度の読み込みしかしていなかった。文学というものには縁がないと思っていたし、今も、どちらかというとドキュメンタリーな作品しか読まないので、紙背や行間を読み取ることは出来ない。その点連れ合いは、文学に対しても優れた能力を持っているので、しっかりと解説をしてくれる。この本には作者の若い頃の顔写真以外に一切の絵や、図などはない。こういったところも私が日頃見る本と違って、文学らしいなと私は思った。スーダンの首都ハルツームの北でナイル川に沿った小村つまり、作者が生まれた村が舞台なのであるが、その場所は当然この辺りと言うことで、実際どこなのかはっきりとしない。作者はその後スーダンに帰り住むことはなかったようで、今年の2月に80才でなくなったという事だ。私の頭を混乱させた原因の1つは、この作品が、「私」とムスタファー・サイードという2人のスーダン人男性を巡るもので、物語の中の「私」に、ムスタファーの物語がはめ込まれているという、劇中劇のような形を取っていることである。題名の「北に還りゆく時」の北についても、最初は全く分からず、スーダンの北なら、エジプトか、作品中の「私」が留学していたロンドンなのかと言うことから読み解くのに苦労をした。講師の説明で氷解したのだが、それはナイル川の北岸という意味を持っているのではないかと言うことだ。スーダンを南北に縦断する大河ナイルは単純に南北に流れているわけでなく、首都ハルツームで、エチオピアから流れ来る青ナイルと、南部ウガンダの方から流れる白ナイルとが合流し、その下流である北方で、エジプトに入る前の正に作品の小村のある場所では、河が大きく蛇行し、東からほぼ西に流れる場所がある。その北岸の作者の生まれた村を指すのだと言うことだ。講師は、ナイルの流れと風景を撮影したビデオを紹介してくれたが、それは、緑豊かな、ココナツの木が茂る場所であった。おそらくは、ナイルの河岸に沿った場所なのだろうし、その写真はひょっとしたらエジプトであったのかも知れない。スーダン北部には、ヌビア砂漠があり、小村は、ヌビア砂漠に掛かるところのようでもっと砂漠化しているはずだ。物語は、「私」が7年ぶりに英国留学から故郷に帰ったところから始まる。そこで、50がらみで美男子、村にも溶け込んで有能な、ムスタファー・サイードを知るのだが、このサイードも又英語が堪能な、知性豊かな男だと知る。ここら辺りが、作家自身と「私」とムスタファーが入り交じっていて、読む側にはかなり難解になっているのではないかと思う。スーダンのこんな片田舎に、留学帰りの「私」と同じような教養を身につけた男が居るのかとの驚きの中、問いただす「私」にムスタファーは「私」にだけ驚愕の過去を話す。ムスタファーはハルツームで生まれ、幼い時、神童の如き俊才で、学問を磨くためにカイロに出、さらに高等教育を受けるためにロンドンに渡ったというのである。ロンドンでは24才にして大学講師を務める一方で、次々と英国の若い女性や、人妻を誘惑し、自殺に追いやったり、人生を狂わせたりする放蕩生活をするのである。この辺りから作者の言わんとする、植民地主義の被植民地に対する報復のようなものを感じさせた。形の上では、西洋が、アラブ・アフリカを征服しているが、自分アラブは、西洋を征服しているぞというメタファーであるとも取れる。自殺に追い込んだ若い女性とは、ありとあらゆる手練手管を用い、香水や香料などをたきこんだ部屋で、赤・青・黄色の小さなランプを灯し、大きな鏡を見ながら過ごすのだが、その時ムスタファーは一度にハーレムの女すべてを征服するが如く感じるのだった。そんなある日、若い女はムスタファーに「神の呪いを」と書き残し、ガス自殺するのである。そういった中、ジーン・モリスという女性のみが、彼の意のままに成らず、ムスタファーに敵意と人種的な侮蔑で接するのである。こういった二人の複雑な心理的状態の中、憎悪と関心が入り交じり、ついにこういった関係に疲れたジーンの方から結婚を申し出る。この辺りは、西欧という社会の動かし難い傲慢さが代表されているのか、又心理的な異常さとその葛藤は、フロイトの影響を受けた面があると言うことで、私のような読者にはなかなか奥まで読み込むことは出来ない。こうして最初の妻になったジーンに対しても、愛憎相半ばした関係は続き、猟奇状態でしか燃え上がらないという異常さの中、身体を重ねているその時に、ムスタファーはジーンの白い乳房の間に、短刀を深く突き刺し、殺してしまうのである。それがあたかもジーンの望みでもあったかのように、そしてそんな時に初めて悦楽の境地に入ることが出来るのである。その殺人における裁判でも、ジーンの近親者を含め、多くの人の寛大さで、殺人を犯したにも拘わらず、彼は7年の後に出獄、ついに故郷のスーダンに帰ってきたというのである。スーダンに帰ってから、ムスタファーはその後、現在の妻であるビント・マフムードと、2人の息子を残して謎の失踪を遂げる。30年ぶりのナイルの大洪水に、流されてしまったのかとのことになるが、遺体も発見できず、曖昧になってしまう。ムスタファーは、二人の息子の後見人に「私」を指名していたようで、かつ、ビント・マフムードの後見人にもなっていたようである。こういったことは、過去の日本でもそうであったのかのように、アラブ社会ではごく当然のことだったのかも知れない。「私」はすでに結婚している。アラブ社会では、4人までの妻をもてることになっているが、「私」のような西洋に学んだ知識人には到底受け入れられない制度と思うようになっている。一方、村のひひ爺で、70才になろうかというワッド・ライスがビント・マフムードに求婚するのだが、これは、寡婦になったビント・マフムードに対しては、アラブ社会の常識的な行為であるわけだ。女は男の所有物的発想の中で、友人が「私」に、ビント・マフムードも好意を寄せている、おまえが結婚すれば、一番良いのだと言われながら、「私」も好意を寄せてはいるビント・マフムードだが、結婚に迄は踏み切れない。西洋に学んだ「私」にとっては、それは重婚という犯罪なのだ。結果的には、アラブの常識が通り、父親の指示もあって、ビント・マフムードはワッド・ライスの妻となるわけである。そして、襲いかかる年老いたひひ爺のワッド・ライスを妻になったビント・マフムードがナイフで、滅多刺しにしてしまい、自分も自殺するのである。ここは、彼女の失踪した夫、ムスタファーの殺人事件とダブるような感じである。事件をハルツームで聞いて飛んで帰った「私」が知ったのは、非難されているのは、ひひ爺の方ではなく、ビント・マフムードの方であったと言うことだ。村では、旧弊が支配し、オールド・イスラムの考え方が、正当であると言うことに対する作者の批判的主張も垣間見られる。「私」は最後に、ムスタファーに託された鍵を使って、ムスタファーの秘密の部屋にはいるのだが、そこは、英語の書物ばかりがぎっしり詰まる純英国風なムスタファーのかつての英国でのハーレムそっくりのたたずまいであり、そこで「私」は自分のアイデンティティーを揺さぶられる気がするのである。その時、ムスタファーが示すように、一つの文化圏からものを見るだけでは不十分であると言うことの示唆かといった感覚を受けとるのである。「私」はそういった過去のムスタファーの遺物を焼こうとしたが、それはせずに、水泳でもして気を静めようと素っ裸で、ナイルに入り「北」へ向かって泳ぎ始める。しかし渦巻くナイルの南北の中間で、溺れかかり、自分は今、どこにいて南か北かどちらに帰属しているのかと自問しながら、何故かふと煙草を吸いたくなり、混沌の状態から秩序や生の方に戻るのである。そして、自分は今、生を選び、出来うる限り良き人たちと共に生き、自分が果たさねばならない義務を果たし、人生に意味がある無いには関知せず、許すことが出来るならすべてを忘れようと、まるで神の如き心境になる一方、現実にはありったけの力を振り絞って叫ぶのである。「助けてくれ。助けてくれ。」この作品からは、多種多様なことが読み取れる気がする。我々が、経験していない被占領下における生き方。帝国主義と植民地主義に対する罪悪の告発。西洋文明への畏敬とそれに対する憤りに似た気持ち。イスラム社会の旧弊に対する自虐的気分。人種主義下でのねじれたコンプレックスの逆視点からの報復的征服感、ポストコロニアリズムなどの要素である。スーダンと言えば、今やダルフール紛争であるが、過去にも、オスマンの傀儡であるエジプトの支配から、イギリスとの共同統治下を経てやがて独立に至るという複雑な国際関係の中、自国民の意志以外で動かされてきた北アフリカ、アラブ世界の生い立ちを知るには絶好の書のように感じられた。
2009.11.17
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連れ合いは、まだ肩の痛みが治らない。晴れ間を縫うように、今日も姉とその友人の3人で練習ゴルフに出かけた。共に後期高齢者であり、目前に前期高齢者を控えた私とのトリオは、傍目にはどう写っただろうか。この、後期高齢者のご婦人方は、私が居なければ、ゴルフクラブを宅急便で送ってでもゴルフをしに行くつもりだったようだ。連れ合いの「ご奉仕だから行ってあげなさい」との言葉に押されて、車で迎えに行き、送り返すということになった。私の癖で、ゴルフ場に少し早めに着いた。私は、朝一番だと身体が硬直していてなかなかクラブを振り切れないので、着いたらストレッチと、ドライバーの素振りをすることにしている。その後、パター練習をするのだが、この練習コースのグリーンは、はげちょろけと言うか、整備が今ひとつというところが多く、純粋にパターの練習にはならない。何度も書いた気がするが、オーナーが変わって、大分手を入れているようで、徐々にではあるが改善されている。コースに1つしかなかったグリーンも、数ホールで新しく2つめのグリーンを設ける準備をしている。後期高齢者である両ご婦人には、特に柔軟体操や、ストレッチをして貰いたいのだが、なかなか外に出ようともせず、スタート前のボールとかティーの準備もゆっくりとしている。姉の方はそれでも、素早く準備して、パターの練習にいそしんでいる。その友人は、姉より1つ上らしいが、実に鷹揚で、のんびりしている。私は、せっかちな方だから、ティーグラウンドで、前の前の組を送り出す頃から、見ている。前の前の組の若い2人連れの男性は、2人ともティーショットで、右にOBして、プレーイング4まで、寂しくカートで出発した。前の組は、男性が1人と、女性が2人の3人組だった。当然男性がリードして連れてきたのかと思ってみていると、男性はティーショットを当たり損ないのチョロであり、次に打つ女性は、男性ティーから打ち、しかも男性と遜色ないところまで飛ばしていた。もう一人の女性も男性ティーからトライしていたが、こちらはミスショットで、フォーム的にも普通の女性プレーヤーであった。さて私たちの順番になり、いつもOBが多いスタートの1番ホールでは、OBになる右を避け左を狙ったが、真っ直ぐに飛び、落下地点の傾斜で、フェアウェイ右ギリギリに落ちていった。それでもそのロングホールはパーで上がれたのはラッキーだった。続く2番では、これも小気味の良い当たりで、フェアウェイをとらえたが、落下地点が悪く、真ん前に大きな木がグリーン方向を遮っていた。プロならフックボールでかわすのだろうが、そんな芸当は勿論出来ない。一寸低めに出るようにと打ったが、案の定、木に当たり、直下に落ちてしまった。そして、ここから3パットのスタートだ。良くない。3番ホールを終了して、姉の友人が、サンドウェッジ(SW)がないと言い出した。どうやら、2番ホールで、どうなるか分からないからと、数本のクラブを持って歩いていたようだが、束にして置いたクラブの内何故かSWだけがないのだという。どこに置いたのかを忘れているというので、さすがに、取りに帰ることは諦め、近所で整備している人に伝えたが、それがスタートマスターに伝わることはないと諦めながら進んだ。続く4番では、山裾越えに2オンを狙ったが、当たりの感触は良かったものの、ボールがどこに飛んだか分からない。元より見えないと言っている姉は当てに出来ないが、その友人が左に飛んだという方向を探しても見あたらない。ロストになってしまった。どう考えても納得いかない気持ちを払拭できないまま次のホールへ進むことになった。2人は、差ほど飛ばないのだが、行き先は全く認識していない。しばらく前に歩いて、「私のボールはどこ?」と私はキャディー代わりを勤めなければならない。こんな風に、2人のキャディもしながら、自分のボールの行方は自分で追うしかないのだが、頭を残すと言うことと反する行為は、少し気になるところだ。いつも苦手な、打上左ドッグレッグの7番ホールでは飛びは差ほどではなかったが、かなり満足行く攻め方が出来た。次の8番ホールは、ここの名物ホ-ルの一つで、極端な打ち下ろしであり、200ヤードぐらいの所に巨大な池(谷)があり、その前にセットアップして2オンを狙うのがローカルルールとされている。私はセオリー通り、理想的に攻め、2オンこそ成らなかったが、チップインもあわやと思わせたが、結果はボギーだった。姉たちは苦労して、何とか池を越えて、さあアプローチに入ろうとしていたそのすぐ傍に後続のボールが「ドン」と落ちてきた。後続は、男女の2人組であることは知っていたが、どうなっているのかと後ろを見上げると、今打ったと思われる男性が居るではないか。むかっと来たが、声は届かない。危ないなぁと言いながら、姉は気にして、スコアをさらに落としたようだ。午前の最終ホールが終わり、昼食を食べて、時間通り、後半のスタートに向かった。前の組の男性は、どうやらOBらしく、これに反して上手な方の女性は、男顔負けの所まで飛ばしていた。私たちの番になったが、私のボールは、右の傾斜部で悪い方向にはね、打上のフェアウェイを逆送してきた。そこでも2打目を終えて、姉の友人がアプローチに掛かるときに又後方から、ボールが飛んできて、すぐ後ろに音を立てて落ちた。又あの男性だ。ビックリするほど飛ばすのはよいが、それならそれで、前が空いてから打つべきといらいらしながら、次のホールに向かった。次のホールは、又極端な打上であり、前の組も、もたもたしている。じっと待ってから打とうとすると、後続の男女2人組が来た。姉の友人が、危ない旨クレームの口火を切ったので、私も、良く飛ぶのは分かるし、巧いのも分かるが、マナーだけは守ってやってくれという旨を注意した。しかし、そのホールに限って、姉の友人は、ティーがないとか、クラブの選択がどうとか、もたもたしている。さらに、当たりも悪くグリーンを越えてからも返しで又坂に打ち落とすなど、散々いつもより一層下手なところを見せてショートホール9つという成績で上がったのだが、その友人は、我関せずである。私は、クレームした以上、早くこのホール終わらないかなと、手早くホールアウトしてイライラしながら待っていた。やっと次の12番ホールに移動すると、さすがにもたもたしていた前の組も居ない。私もティーショットは当たりが良かったが、右方向へ狙うべきを誤って左のバンカーに入れてしまった。ここからは、グリーンは山裾が被っているのでスタイミーである。近くまでは行くだろうと5番アイアンで打ったら、前方のあごに当たってバンカーから出なかった。2番ホールの木の時は、下目を狙って木に当たり、今度は上がると思ってそれほど高くないバンカーの土手に掛かってしまったわけだ。ゴルフはままならない。それを引きずってか、力んで、次の谷越えショートホールでは谷に落としてしまった。その次のサービスホールでも軽く2オンと思っていたのが2打目をショート、3パットと、バーディーかパーがダブルボギーに変わった。次の15番ホールも又名物ホールで、谷を越えて、その後打ち下ろしで、そこから左ドッグレッグである。懸念していた、右スライスのOBとなってしまった。こういうときには必ずと言っていいほど3パットも同時にやってしまう。どこに持っていって良いか分からない怒りで、半分やけくそである。勿論自分が非力なのが原因ではあるが、どうにも気になることが多すぎる。最後から2番目の17ホールでも、短いショートホールを、谷に落としてしまい、これでOB3回となった。良い成績が出るわけはないと自嘲しながら、最終ロングホールも、そこそこだったがやはり3パットで、ダボ上がりだった。天気は時々太陽が顔を出すほどで、寒いと感じたときも少しあったものの、雨も降らずに終われたことはラッキーだった。また、前半が終わったときにコースマスター室に姉の友人のSWの件を伝えていたので、途中追いかけてきてくれ、手元に戻っていたし、自分も老人なのだが、敬老ゴルフとしては、一応の成果があったことになる。早く連れ合いが良くなってくれたら、愚痴もこぼしつつ回れたのにと、耳の遠くなった姉に大声で話しかけながら思った。
2009.11.16
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原始のヒトが、他の動物と一つ違うのは、火を扱うことを知ったことであるとよく言われる。その、他に秀でた人類が、今や大変に技術を身につけ始めている。再生医療である。私は、連れ合いと一緒に、「幹細胞・iPS細胞・再生医療のビジネスへの糸口」という専門家との意見交換シンポジウムに行ったことがある。正直、ビジネスがどうの、専門家と意見を交換するなどと言った大それた考えではなく、単純に、iPS細胞とはどういうものかと言うことを知りたかったのと、もっと言えば、今をときめく山中教授という人を一目見ようとのミーハー的な意味の方が強かった。残念ながら、山中教授は来られていなかったし、難しいことは分からないが、とにかく、再生医療に直に触れた気になれた、とても良い機会だった。「胚性幹細胞」またの名を「ES細胞」は、体のどんな臓器や組織にも成長する能力を備えた細胞で「万能細胞」とも呼ばれる。人にあっては、受精卵が分割を始めて間もない初期の胚(はい)を取り出して培養することができ、やがてはクローン人間を作ることも可能なのだという。ゲノムの解読は1990年から米ベンチャー企業のセレーラ・ジェノミクス社が独自に解読を始め、2000年6月に解読を終了した。今や、日常生活や殺人事件などのドラマで、DNAを鑑定と言う言葉は、すでに耳馴染みになっている。そのDNA(デオキシリボ核酸)というのは、遺伝子(ジーン)と染色体(クロモゾム)の合成語であり、生物の細胞に含まれるすべての情報でその数は30億個もあるのだという。今、大きな問題となっている足利事件などは、初期のDNA鑑定の脆弱さを利用した事件として、世を騒がせている。あれから20年近くが経過し、今や、ポストゲノムとしての、再生医療が、華やかな脚光を浴びている。当初は、臓器の再生医療などにつながる、受精卵や、胚の研究をどこまで許すのかという議論が成されたようだ。その結果は、イギリスのみ研究は容認されているが、日本は、米、独、仏などと共に、より規制色の厳しい内容となっている。卵子から核を取り除き、ES細胞を培養して拒絶反応のない胚を再び母胎に戻せば、クローン人間になるわけだ。日本では、クローン人間を作ることを法律で禁止している。孫悟空が、お尻の毛を取って、ふっと息を吹きかけると、多数の孫悟空が出来上がるという類である。物語としては、面白いのかも知れないが、現実に自分と同じクローン人間が多数排出したら、如何なものだろうかと言うより、空恐ろしい気がする。しかし5年前に、日本でも、基礎研究に限定して、ヒトクローン胚の研究を容認することになった。だだし、クローン人間そのものを造ることは依然として禁止されている。クローン胚を培養して、将来的には、人の「神経」「筋肉「骨」などを再生しようというものである。一方、個人個人に合った医薬の開発という意味では、iPS細胞は有効に使えるようであるし、現に、そういったビジネスは動き始めており、体質により効果が異った医薬を造る道筋が出来たということだ。「アルツハイマー」「コレステロール低下」「乳ガン」「ぜんそく」「白血病」などである。ES細胞は、前述したように、着床寸前の段階の胚から、胎児の体のすべての元になる細胞(核)を取り出し、多能性を保たせたまま培養して増殖するものである。従って、ES細胞の問題点は、そこからもし臓器を作って患者に移植するとしたら、それは他人の細胞だということであり、ゆえに通常の臓器移植と同じく拒絶反応の問題があるわけであり、倫理的にも議論のあるところである。一方、iPS細胞は、既にできあがったその人自身の体の、分化した細胞を取り出し、そこに数個の遺伝子を人工的に組み込むことでES細胞と同じような多能性を持たせるというもので、いわば他人の細胞を借りずに、自分自身の細胞を増殖し使用するということで、倫理的なハードルを越えたものである。これを最初に行ったのが、山中教授ということになるわけだ。幹細胞の研究も並行して行われているようで、素人には大変わかりにくい面がある。人の肝臓・すい臓・脊髄などの幹細胞をマウスで増殖するとか、猫の肝臓を豚で増殖し、ネコに返すとか、いろいろな研究が行われているようである。iPS細胞が、ダウン症に光明を与えるとか、ガンへの対応として、患者自身の免疫細胞を取り出しガン細胞のみを攻撃することをターゲットにした細胞を特殊培養し、体内に戻しガン細胞のみを攻撃すると言った具合である。これらは、まだ動物実験の段階であり、マウスやチンパンジーなどで行われている。最近では犬のiPS細胞が作成されたとも報じられている。また、最近では、人間の臓器の大きさに、より近い豚等が有効なデータを得やすいということで使われている。今日の日経新聞では、人の血糖値の高い(インシュリン分泌の低い)遺伝子を豚に注入し、受精させ、クローン子豚を作り。成長交配を繰り返し、わざわざ糖尿病の豚を量産し、人間に対する効果の見極めをしようとしている。豚の臓器の大きさが人間と似ていて、血糖値も人間に近いということが豚が選ばれたのだそうだが、豚にとってみれば大きな迷惑であろう。万物の頂点に君臨するのがヒトだということからの発想であるが、こういった動物実験に関する法的な整備が成されているのだろうが、とかく海外からは、日本人は動物虐待をしていると見られがちなようだ。クジラの件、イルカの件、クロマグロの件などもこういった流れなのかも知れない。特にクジラの件では、牛を食いたいだけ食っておきながら、クジラは駄目だという、エキセントリックな紅毛碧眼の輩の言い分はなかなか理解しがたい。純粋な再生医療とは言えないかも知れないが、最近、慢性的に移植提供ドナー不足の対策として豚の臓器を人に移植する、遺伝子導入動物を用いた異種移植が進められ、すでに海外では、遺伝子導入型の豚が、移植用に開発・飼育されているという。これが進むと、あらゆる臓器などが、ヒトでないものと置き換えられ、どこまでが人間で、どこからが豚で、どの部分が猿なのか分からない得体の知れない物体が地上を闊歩することになるのかも知れないと考えるのは私だけだろうか。
2009.11.15
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鳩山民主党政権になって初めて、アメリカの大統領が訪日することになった。アメリカ側からすれば、日本の政権交代に非常な猜疑心を持ちながらも、日本そのものに関しては差ほど大きな問題は無いと考えていると思われる。いつもの、アメリカ大統領が新しく就任した際に、世界を視察して回るという、親が参観日に子供の様子を見て回るという類の、根本的なスタンスと何ら変わらないように感じられる。大統領にとっては、アジア歴訪の1つであり、地理的条件から日本を最初に選んだという感じであろう。アメリカの日本に対する関心事は、一に、日米同盟を如何に考えているかであり、その点は、大きな路線変更はないわけだから、ことさら事が荒立つことはないと思っているであろう。鳩山首相は会見を、「力まず、気負わず、平常心でやりたいと思う」と述べている。ゴルフも同じだが、その気持ちが一つでも崩れればミスショットに繋がるが、グリップや最初のアドレスで、大半が支配されると言うことも考えないと、300ヤード近くまで、ボールは飛ばないだろう。首相の言が、ロングホールのティーグラウンドからアイアンを使ってこつこつ攻略するという意味では困るのである。しかし結果は、予定していたとおり、OBはしなかったが、狭いフェアウェイをキープするためにロングアイアンでボールをフェアウェイに置きに行ったという感じの何の魅力もないものになった。何もかも先送りで、日米同盟に関しては、進化・発展を確認しただけで、1年掛けて考えようというものだ。沖縄の普天間基地の問題は、「早くせんといかんな!」と言うことだけで、「Yes We can」となったのかどうか。アジアにおいて、日米同盟が基本と言いながら、アメリカは太平洋地域に、厳然としたプレゼンスを強く伝えてその中心的位置を得たいと考えている。また、オバマ大統領の演説骨子は、「核のない世界」「地球温暖化の抑制」「世界経済の回復」そして「中国の重視」それから「北朝鮮の6ヶ国協議復帰」と言うことであり、日本の「アフガン支援」が民政支援であることを評価しているようだが、内心は違うと思う。取り敢えず、新政権同士、最初から棘のある話はしないでおきましょうと言うことであり、先ず来日したことだけに意義があったとしなければならないだろう。過去のアメリカ大統領の訪日を見てみると、南北戦争の英雄で第18代のグラント大統領が明治時代に来日したのが最初のようで、浜離宮で明治天皇と会見し、増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹したとある。安保の生みの親である、第34代のアイゼンハワー大統領は、来日反対デモに参加していた樺美智子さんが圧死するという事件が発生したため取りやめとなった。この時までは、まだ日本人のパワーに強いものがあったと思う。第37代のニクソン大統領に至っては、来日した記憶はなく、2つのショックを与えただけだった。第1のショックは日本を飛び越え中国へ電撃訪問したこと、第2のショックはドルと金との交換停止を宣言し、ブレトン・ウッズ体制の終了と変動為替相場制の開始を告げたことだ。この時は、日本の存在などは毛ほども考えられていなかったと言うことだろう。今も昔も変わらないだろうが、戦勝国が、敗者を守ってやっているのだという考え方が底流にあると思われる。あなた方が使った「原子爆弾」が我々に敗戦をもたらしたのであり、オバマ大統領はそれを廃絶しようとしているのだから、日韓を「核の傘」で守るというのは、どうも矛盾していると思われるのだ。第38代のフォード大統領は現職のアメリカ大統領として初めて日本を公式訪問し、昭和天皇と謁見したのだが、これはあくまで儀礼的な域を超えていなかった。続く第39代のカーター大統領は、オバマ大統領と同様、後にノーベル平和賞受賞を受賞しているが、来日時に周到な計画の下、夫人と共に六本木の焼き鳥店へ表面上は「ふらりと」お忍びで来店した事になっている。この大統領は、「弱腰外交の推進者」と言われながらも、大統領辞任後中東和平の問題などで活躍したと思っている。俳優上がりの第40代大統領レーガンは、米国民に人気があった強いアメリカを標榜する大統領であり、超大国ソ連の喉元に食い込むような地勢的条件の日本を、それ故重宝した。当時の中曾根首相とは「ロン・ヤス」と呼び合う仲と言って、日本の新聞ももり立て、中曽根首相などは、大国アメリカのボスと親しくなったと得意満面であったが、まんまと、三沢基地の増強を始め、日本におけるアメリカのプレゼンス向上に寄与した。そのためもあって、レーガンは現職のアメリカ大統領としては最多の三度にわたり日本を公式訪問しているが、日本との貿易摩擦に対しては一貫して強硬な姿勢をとり続けた、アメリカにとって都合の良い大統領でしかなかった。第41代のジョージ・W・ブッシュ大統領 (パパ・ブッシュ)は来日したが、当時の宮澤首相主催の晩餐会で嘔吐し、椅子から崩れるように倒れた様子を世界中に報じられた。この時も、日本政府は、慶應義塾大学病院を手配したが、アメリカ側は、ただのインフルエンザに過ぎないからとこれを受諾せず、アメリカ大使館の医務官が対応するなど、日本人の医者を、又日本人そのものを信用していない様は、どこが日米友好関係なのかと失笑したものである。第42代のビル・クリントン大統領に至っては親中国の傾向が極めて強く、中国を今後の主要な貿易相手国と位置づけ、日本などの同盟国には貿易問題などでやたら厳しい態度を取った。在任時の訪中の際には日本に立ち寄ることなく帰国したことで、日本は「ジャパン・パッシング」と非難した。若くて活動的であるとの印象だったが、ニクソンに見られたように、現実・合理路線というか、日本など目ではないと言うことを明らかに感じさせた大統領だった。後半は、日本慰撫に勤めたが、そうそう性格が変わることはない、北朝鮮との間で核兵器の開発放棄と引き換えにKEDOを発足させたのだが、結果的に北朝鮮の核武装の防止に失敗した。アメリカの威光が通じずと言ったことを印象付けたものだ。その付けを今なお引きずっているわけだ。第43代のジョージ・ブッシュ大統領(子・ブッシュ)は、「ロン・ヤス」にあったように、元首相小泉純一郎との個人的な繋がりを「ジョージー純一郎」と呼び合っているのだとアピールしている。しかしながら、公式には、日本を軽視していたことが明白で、退任直前にブッシュは盟友としてトニー・ブレアらに大統領自由勲章を授与したのだが、真の友であり、日米同盟の要であると言っていた、小泉純一郎には、この勲章は贈られていないのである。このファーストネームで呼び合うことなど、どうでも良い事であり、今回も、「バラクー由起夫」と呼び合ったとか、アメリカ人と、アメリカで生活していた者が、私的に話すときなら、こんな事は当たり前のことで、ことさら相手をどうこう思うと言うことには当たらないというか、公式と私的なことは全く別問題である。マスコミのあおりすぎも目に余る。知日派で、アメリカを代表するリベラル派の国際政治学者として有名なジョセフ・ナイ教授をもってしても、日本の民主党幹部とのかつての会談で、「オバマ次期政権下で(日本の)民主党が安全保障政策でインド洋での給油活動をやめ、日米地位協定などの見直しに動いたら反米と受け止める」ときな臭い鷹派的発言をしており、この人が駐日アメリカ大使にならなくて良かったと思っている。アメリカを遠ざけるなら、さらに高いコストが掛かるぞと脅しているのであるから。アメリカ、ホプキンス大のケント・カルダー氏も、「思いやり予算」のカットは、すなわち「核の傘」に入れてあげられない事だよと言っている。一方中国の、米国研究センター長は、日米同盟は好むものではないが、既成の事実として受け止めているし、鳩山政権がしっかりと対応すれば、最終的にはアメリカは日本の主張を受け入れるだろうと言っている。世界のどこにも日米同盟を揺るがすものは無いとも言っている。ここで、前自民党の政権下で、「アメリカのポチ」とまで言われてきた対米追従外交に風穴を開けなければ、その機会はもう来ないであろし、日本のアイデンティティーに関わる問題だと思う。韓国の前首相韓昇洙氏は、「韓国が米国を必要とするのは、北朝鮮の核問題を解決することだ」と述べて、主張がはっきりしている。日本も「北朝鮮の核の脅威」の排除に対する応分の負担は当然のことであるが、拉致被害者を取り返すことに、ただ笛や太鼓を後方で鳴らすだけのアメリカであるなら必要はない。また、アメリカの真に求めるアフガン支援に民生とはいえ50億ドルも拠出することが、日本への見返りになるのかどうか疑問である。アメリカが他国に介入し続け、成功した例はない。テロの驚異は、アメリカの攻撃・爆撃等による報復も、その前提になっている、敢えて共同して火中の栗を拾うことに意義があるのかどうか、日本人自身が判断しないといけない。アメリカは勿論、世界中と仲良くやって行きたい、グリーングローブを守って、この地球という楽園を、虫眼鏡を使って見てもどこでも平和で幸せであると感じられるものにしたいと思う。
2009.11.14
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サウジアラビアの有数な工業地帯ラービグに世界最大級の石油プラントが完成した。サウジアラビアでは、東岸のペルシャ湾に面したジュベイル工業地帯と、西岸の紅海に面したヤンブー工業地帯がある。ラービグは私の駐在していたジェッダと北のヤンブー地帯との丁度中間地点にあり、ジェッダからは、160kmくらい離れている。ジェッダ駐在時に、すでにラービグの話は聞こえていたので、休みの日に運転手君に頼んで、どんなところか見に行ったことがある。「サウジアラビア時代」にも書いたが、とにかく殆ど車が通らない、片側3車線の高速道路を北にひた走る。ジェッダの街を出ると、ラービグに着くまでは、殆ど砂漠で、辺りには建造物はほとんど無い。着いたラービグの町も遠くサウジ・アラムコのプラントの影が見えるだけで、町自体は、とてもひっそりとしていて、我々が泊まるようなホテルは見られなかった。とはいうものの、私も来たことがない上に、当時はスーダン人の運転手だったから、どこがどうなのかは分からなかったが、今回完成した石油プラントのある辺りは、見当が付いた。「ペトロ・ラービグ」と呼ばれる今回の石油化学プラントは住友化学と、サウジのサウジアラムコが合弁で、1兆円を投じて建設したものである。私は名前を知るだけで、このプラントには関係はしなかったのであるが、とにかく巨大な施設である。私の人生を左右したのはサウジアラビアであるという事をまた思いだした。至る所でこの感想を述べているのだが、「風が吹けば桶屋が儲かる」といった婉曲な関係ではなく、直接的に波を被ったことを、最近になって特に感じる。端折っていえば、造船を志した私が、サウジアラビアなどがOPECを形成して、世界に攻勢に出て、現在は統廃合されているが、昔のセブンシスターズと呼ばれる、石油メジャーとの確執により、石油の輸出制限が起こり、石油メジャーはリスクヘッジとして新たな石油ソースを求めることになる。これを契機に石油メジャーは、中東などに頼らず、世界中の深海から石油を発掘するために石油掘削リグの発注を始めた。これらの事情から私は、リグを設計するために、一般商船設計の道から路線を変更を命じられ、石油掘削リグでも、深海専用の半没水石油掘削リグの設計に携わることになった訳だ。そのまま続けば、世に何隻ものリグを排出していたであろうが、たった4隻、延べ5年のリグ設計を終えた頃にぱたりとリグの引き合いは途絶えた。これはOPECによる原油価格政策失敗の反省として、現在のような、市場連動型の価格決定方式を採用し、中東というか、OPECからの石油の供給が安定的に期待できるようになったためである。メジャーも、投機的石油掘削リグに頼ることなく、石油を安定的に得られるのであるから、山師的リグそのものが、不要になったわけである。私を含め、意気揚々と石油掘削リグに携わっていた者達は、一瞬の方向転換に、それぞれ職場を変わらざるを得なかった。元の商船設計に戻っても、大して魅力的な仕事は残っていない。その当時は珍しくもなくなっていた、自動車運搬船や貨物船を1隻ずつ設計した後、クレーン船などを手がけた。このクレーン船では、建造途中で、シアーズ折損という事故を起こしてしまうわけだが、この事は「造船時代」に書いたとおりである。これが一因で、造船設計の職場を離れることになったのではないかと思っている。その後、造船界は、未曾有の不況に陥り、漁業取締船など、アルミを使った高速艇を手がけたりした。アルミは比重が鋼の1/3であり、明確な降伏点のない材料の挙動を学ぶのに苦労したけれど、やがてそれも飽和状態になってしまった。私が造船所に入社して以来、不況も何度か経験したが、それでも、建造船台や、艤装岸壁で大型船を建造中であっり、接岸していたのだが、まるで1隻も船影が見えない時期がやってきた。そこから私の変節が具体的に始まり、研究所から、事業開発と言いながら、後発の駐車場設計などを経て、ビルの鉄骨にたどり着いた。しかし、しばらくの後、これも折からのバブル崩壊で、鉄骨のトン当たり単価が30万円にもなろうかという値段が12-3万円を切るような事態となり、事業部そのものが消滅した。鋼構造橋梁部の隅に席を置き、生産管理などをやりながら次の職場を待つ身となり、何故か、ODAのコンサルタント会社である日本工営へ出向、フィリピンからジンバブウェへと海外駐在が続いたのである。その後、日本に戻り、今度は、コンクリートに手を染め、PC(プレストレスコンクリート)橋梁の緊張端部の固着装置を設計、施工することになった。コンクリートを手がけるのも初めてのことであり、鋼と違った独特の挙動を勉強する事になった。その後再び、縁があり、サウジアラビアでの鉄骨製作管理(エクスペダイターと称す)を行うことになったわけである。中国でのわずかな期間や、その後のドバイでのエクスペダイターの仕事が続き、よもや、私を造船(一般商船)から方向転換させたその元凶の国に戻って仕事をするなどとは、予想もしなかったことである。中国での仕事以外は、サウジでもUAEでもカタールのラスラファン地域の石油プラントの仕事であったが、今回の「ペトロ・ラービグ」は純粋にサウジアラビア内部のプラント設備であり、サウジのますますの発展に寄与することであろうし、日本のサウジでの足がかりを強化することになるであろう。私が住んでいた、活況からいえば最大の都市といえるサウジ第2の都市、ジェッダ近郊では、今回のラービグの他、その北のヤンブーなどでもプラント工事が進められ、サウジの東と西で潤うばかりのようである。私がいた頃からジェッダに隣接した北部に「脱石油」を目指して巨大な多機能都市「アブドラ国王経済都市」の建設計画も聞いたが、その後どうなったのだろうか。私の運転手をしてくれていた、サウジ生粋のベドウィンを父に持つ、英語の達者な学生が、つい最近、今年の末には結婚するというメールが来たのだが、その後どうなっているのだろうか。彼が言うには、毎日寝ていても、1万バレルが湧いてくるのだし、税金はない、高速道路も勿論無料、ガソリン代もリッター18円程度だったか使い放題で、その上地震もないしと言っていたが、ただこの国の暑さと、砂漠には、よくまあ我慢している事だと思ったものだ。所変われば、考えも変わる。だだ彼は、石油で得た利益は、すべて国民のために使われているわけではなく、4000人ほどの王族によって、独占されているのだと言い、「アリババと40人の盗賊」ではなく、「アブドラと4000人の盗賊」と言って笑っていた顔が懐かしい。
2009.11.13
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恒例の歩こう会で、京都の東山の南を散策した。昨日は雨だった。その雨の中で、明日は晴れるから決行すると世話役をしている先輩から電話のついでに確認があった。かなりな英断だなと思っていたが、明けてみると今日はとても良い天気だった。朝、なんだかだしているうちに、出発が少し遅くなったが、集合場所のJR東福寺には3分前に到着することが出来た。京都駅で奈良線に乗り換えるのだが、奈良線は、一番新幹線よりの8.9.10番線になっている。東海道線に比べるとレトロな車両である。京都から一駅が東福寺、まだ京都のなかである。集合したのは、16名だった。何時も夫婦で参加される常連の方は前日まで旅行していて、天気が悪かったので疲れが出たとのことで、参加されず、いつもより少なめの参加者だった。東福寺駅から線路に沿って少し南下すると、すぐ東福寺だ。ここは、2年前の同じ頃連れ合いと紅葉を見に来たことがある。最近は温暖化の影響なのか、2年前よりは紅葉の度合いが少なく、緑の葉っぱのままの木もあったり、緑と赤のグラデーションがあったりと、また別の美しさが見えた。調べてみると2年前は11月17日で、1週間足らずの差はあり、人に聞くと、日1日というか、時間単位でも紅葉は進むのだという。朝1番に乗り込んだので、比較的空いていた。皆さんに付いて「通天橋」を通り、庭を1周していつもの、記念撮影をした。私は2回目なので差ほどの感慨はなかったが、初めての人は、感動していたようであった。さすがに京都五山に数えられるだけあって、広大な敷地を有するこのお寺は、三門が国宝に指定されている。「絹本著色 無準師範像」も国宝というが、今回もそれがどこにあるのか確認せず通り過ぎてしまった。方丈の庭を見たかったが、ここも別料金と言うことで、なにやら世知辛い気がした。結局はそこも外観を見るだけで、通り過ぎた。今回は通天橋から開山堂へ抜け重要文化財である開山堂の縁側に腰掛け、綺麗に掃き清められた庭園を見て、くつろいだ。今回は寺周りが主眼ではないので、本堂から、三門、東司、禅堂を見ながら、あまり奥の方までは入らず、東福寺を後にした。通天橋は有料だが、下流の臥雲橋は無料であり、そこを抜けて、取り敢えず東大路まで歩いた。東大路に出る途中の奥まった霊運院の入口の道路の小さな地蔵3体を見に皆さんを案内した。思案する地蔵、怒る地蔵、しょげる地蔵である。ユーモラスな地蔵は皆さんの笑いを誘っていた。東大路を北に歩き、有名な店で、豆を買ったり、漬物屋に寄ったりと、ぶらぶらと歩いて、京都女子大学への通学路途中の「里」というレストランで智積院に入る前に昼食を採った。京女の学生もよく使うところなのだそうだ。食後しばし談笑して、智積院を拝観した。私も連れ合いも、近くは良く通るものの、中までは入ったことがない。先ほどの東福寺は禅寺で大本山とあり、こちらの方は真言宗で、総本山とある。大本山と総本山の違いがどこにあるかなどと考えることもなく、入場料を支払い、先ず長谷川等伯一派による、国宝の障壁画が収められている宝物殿に入った。そこはそれほど広くない一間の板張りであった。四面に長谷川等伯の「楓の図」や「松に秋風の図」、等伯の息子で26才で早世した、久蔵の「桜の図」さらに弟子達による「雪松図」が一面に描かれていて、相当な迫力であった。宝物殿を出て、講堂を回り込み、裏口から講堂に入り、名勝庭園を見た。庭には、歩く庭、立ち止まってみる庭、座ってみる庭があるのだそうで、この名勝庭園は、座ってじっくりと見る庭なのだそうだ。築山にはサツキなどがふんだんに植え込まれているので、5月頃はもっと楽しめるとのことだった。畳敷きの講堂内から見る庭園にしばし癒されて、大書院などを周り、墨絵による数点のふすま絵を鑑賞して、智積院を後にした。智積院は、近年火事にあったそうで、建物は、新旧取り混ぜたものになっているとのことだった。智積院を出て、三十三間堂に一旦集まって、そこで解散となった。今日の歩こう会は、あちこちで立ち寄ったり、寺を回ることに重きを置いたために、距離的には大して歩いていない。そこからは、めいめい、すぐ帰る人や、三十三間堂に何十年かぶりに訪れる人もいたが、私たち二人は他の3人の方と京都近代美術館に行くことにした。折しも「ボルゲーゼ美術館展」が行われていて、ラファエロやカラヴァッジョが見られると言うことと、今上天皇の即位20周年を記念して、本日は入館料が無料であると言うことだったからである。ラファエロの作品は「一角獣を抱く貴婦人」という1点だけであった。カラヴァッジョも「洗礼者ヨハネ」の1点であった。作者不詳の「ゴリアテの首を持つダヴィデと従兵」とか、ボッティチェリとその弟子による「聖母子、洗礼者ヨハネと天使」など、ルネサンスから、ゴチックの前半に至る絵画が展示されていた。我々がNHKの美術講座で、去年の第1回目と2回目辺りに習ったところであり、興味を持って見て回った割には、作品数が少なかったことが、少し残念だった。他の作品には、エッケ・ホモの「この人を見よ」とかパリス・ボルドン の「ヴィーナス、サテュロスとキューピッド 」さらには、ヴェロネーゼの「魚に説教をするアントニオ」、アントニオ・パルマの「 放蕩息子」など、あまり名前を知らない作家の絵画が多く、期待をしていた割には、少し拍子抜けした感があった。鑑賞後、館内の喫茶店で、歩こう会のメンバーの方と話が出来たことの方が、楽しかったとは、連れ合いの評であった。しかし雨間の良いお天気で、楽しい秋の行楽をさせて貰った。
2009.11.12
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今日は連れ合いの孫が通う幼稚園の祖父母による参観日なのだそうだ。親の参観日は又、別途あるのだそうで、運動会や、文化祭等、幼稚園とは言えないくらいの多彩な行事である。と言うか、私の場合は、幼稚園嫌いだったということか、人見知りするためか、今になってはその理由が分からないのだが、幼稚園に通うのが嫌で、誰かに担がれて入園のため幼稚園にまで行ったが、逃げて帰ってきた記憶があるのだ。どうも前後関係から、そうなった状況が不自然なのだが、事実幼稚園には通っていない。その幼稚園が、どこだったのか、十三時代なのか、すでに当時、府下の茨田町(今の鶴見区)に移ってからなのかも定かではない。だから、その当時の幼稚園で何が行われていたのかも知らないわけで、当時から祖父母の参観日があったかどうかについても知らない。連れ合いの孫の入園式には、みんな揃って出かけたのだが、祖父母だけの参観日などというものに、そこまで何故必要なのかという抵抗感があり、パスさせて貰い、代わりに幼稚園まで送り迎えだけをすることにした。孫の、嫁さん方のお祖母さんというには少し若すぎる祖母さんだが、その祖母さんと連れ合いを乗せて、幼稚園まで出かけた。近くには駐車場がないので、幼稚園からJR線路を挟んで、反対側の山崎駅郵便局の前で、本を読みながら待っていたのだが、昨晩から寝ていなかったので、何度も本を取り落とし、結局読んだのは数ページにしかならなかった。行きがけの車で、お嫁さんのお母さんが私の後ろに座ったのだが、聞こえてくる声が、お嫁さんとそっくりなので、一寸錯覚するくらいだ。聞き分けると多少声に年季が入っているのが分かる程度によく似ていた。送り届けて、約1時間が過ぎたのだろうか、携帯で、呼ばれて、連れ合いたちが帰ってきた。孫も一緒であり、もう一人の同じマンションに住む友達と母親も一緒だった。連れ合いが明日の歩こう会のためにと、手土産のおかきを買うといって、皆で長岡天神の小倉山荘まで付き合うことになった。明日、本当に晴れるのだろうかと思うくらい、思い切り雨が降っている。7人掛けのワンボックスなので、孫と友達は後部の座席とトランク部分を行ったり来たりの大暴れ状態である。彼らが今日作ったのは、プラスチック製のコップを上下に付き合わせ、間に孔の明けた紙を挟んで貼り合わせ、中にドングリを入れるおもちゃで、中のドングリを全部紙の孔から別のコップに移すというゲーム道具のようだった。そんな単純なものであるが、車に乗っている間中かちゃかちゃとそのゲームに熱中しているようだ。連れ合いが店で買い物をしている間中、車の中で待っていたのだが、男の子同士の仲良し遊び仲間なのだから、一寸慣れると、もうどたばたと車の中で大騒ぎである。この調子で、小学生に上がるまでに、友人たちとのコミュニケーションを取っていくわけで、小さくして社交性を身につけていくのであろう。振り返って私の場合は、その幼稚園に行かず、どうしていたのだろうかと、なかなか思い出せない。そんな仲間が沢山いて、結構遊ぶのには事か欠かなかったように思っている。でも社交性の無さは、その時の後遺症かも知れない。昔は、すぐ近くは田んぼに囲まれ、土埃のする道で、車も少なく、変なおじさんや、おばさんが居るわけでもなく、気ままにどこで遊んでいても、今ほどの危険はなかった。一昨日も書いたが、今時は、変質者が多いことや、道路を隊列良く歩いていても、車がつっこんできて園児や、児童が殺傷されることが、特に珍しくはなく起こっている現状を考えると、隔世の感がひとしおである。私も道路を歩いて何時も感じるのだが、あの意地悪い電柱はどうしてあんな風に通行のじゃまをして立っているのだろうということだ。それと、時速制限や駐禁の標識である。基部を曲げて少しは考慮しているつもりかも知れないが、全く持ってじゃまなのである。電柱を無くし、地中に埋めることが如何に美観は基より、安全面での改善になるか知れない。少し昔、電柱を立てるために、下請け業者が、側溝の中に電柱を据え付けたことで話題になり、わざわざ立て替え直すという珍事があったが、私は、その業者の誰だか知らないが、ブラックユーモアを感じてしまった。獣道に毛の生えたような道路に、時代と共に車が増え、砂塵が巻き起こるのを止めるためにアスファルトを敷いただけというのが、今の一般道路である。車と人の交錯を当時は考えていなかったということは明らかである。国道が車であふれ、一時は知る人ぞ知る、昔の街道である西国街道であった脇道にも車があふれ、離合さえも難しい箇所が随所にあり、人には、無節操な歩道とも言えない側溝状の敷き板の上を歩かせて、交通事故が起こらないわけがない。私が玉野で奉職していた時代に、車馬が通る道を人も歩くのだが、当時の為政者は、その当時としては、贅沢すぎると思われるほどの、目一杯幅広い道路を造ったのだそうだが、人口も増え、市バスが通る様になってから、バスの離合がやっと出来るということになり、その人の回想録に「隔世の感がある」という言葉を見つけたときに、やはりその当時の偉いお方も、たいした先見の明があるとは言えないのだと失笑した覚えがある。今の幼稚園は、園のバスがあり、その点は少し安心なのだが、園児のバスとて、運転手次第だし、そういった意味では、心配の種は尽きない。逆の意味では、こういった時代を生き抜くためには、このような矛盾に満ちた経験をしながら、その問題点を考える事が、必要なのかも知れない。観光で有名な海外の都市では、すでに電線は地中に埋められている。日本でも、一部そういった動きがあり、都市美観と、人と車の分離なども真剣に考えられているところもある。地方の為政者たるものは、目先のことだけに追われることなく、狭い国土(地方)を如何に便利が良く、且つ安全に、しかも美しくするように考えるべきだと思う。孫達を友達と一緒に、マンションで降ろしたが、子供の笑い声と快活さだけはおそらく昔も今も、そして未来も同じように明るく元気なものであろう。
2009.11.11
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連れ合いの肩の痛みがまだ完治しない。ゴルフをするには、良い季節になってきているのだが、一緒に回ることが出来ない。連れ合いは、自分もやりたいゴルフなのだが、我慢をして、何時もコンペが開かれる高槻カントリーで、練習がてら回ってくることを勧めてくれる。とは言っても、私が個人的にゴルフを誘い合わせて行く仲間はいない。従ってゴルフの練習は、一人であり、一庫のような練習コースは連れ合いと、姉とその友人という組合わせでやってきた。最近は、連れ合いの肩の具合がまだ治らないので、勢いコースに出ることも少なくなった。今回は定例コンペに参加しているお陰で、平日限定優待券なるものを貰ったので、姉と二人で、練習がてらラウンドすることにした。姉の家に迎えに行ってからまたゴルフ場に帰ってくるということで、遅いスタートをお願いして、朝少し早い目に姉の家まで迎えに行った。朝の時間は数十分早いとあまり混雑無く走れるが、少し遅くなると混雑する。早めに出たので、うんと早めについた。取って返して、高槻カントリーに着いたのは、スタートの1時間も前だった。今日は、沢山のコンペが入っているようで、大勢の人が、パター練習グリーン周りにたむろしていた。姉がロッカールームからなかなか出てこないと探していると、すでにパターグリーンで、練習に余念がない。見習うべき姿である。私は、柔軟体操やストレッチをしてから、ドライバーを数回素振りすることにしている。朝1番は、体も硬く、体が回っているようでなかなかクラブを振り切れないからである。その後にパターの練習をするのだが、何時も、これがあまり熱心ではない。ここでの練習やタッチの感覚がラウンドでは非常に大切なのだが、パターだけの練習というのはどうも長くは続けられない。そうこうするうちにバッグがカートに積み込まれ、前の組はスタートであるインの10番ティーに向かっていった。我々の後にカートはないのかと思ったが、結局はさらに2台がついてきた。すぐ後ろの若い男女の2人組は、どうせ大したことがないだろうと高をくくっていたが、始まってビックリするくらいよく飛ばすことが分かった。前の組は適当なロートル4人組であり、ティーショットでチョロをするなど、お世辞にも上手とは言い難かった。しかも女性も1人入っているので、出だしから、進みが悪く、待たされることが多かった。自分の打球はそれほど飛ばないだろうと思うものの、万が一ナイスショットをすれば、前に打ち込むことになりかねないので、勢い連続してリズム良く打つことが出来ず、待つことが多くなる。ゴルフはメンタルなスポーツであり、理屈が分かっていても身体が動かないとか、同じように振っているつもりなのに当たりが全く違うことがある。さらに、「待ちチョロ」という言葉があるが、前がグリーンを空けるまで第2打地点でじっと待っていて、いざ空いたというときに打つと、力んでしまうのであろう、チョロしてしまうことである。今日はこういったケースが多かった。人のせいにする訳ではないが、前が早く終わり、後ろがのろのろ来るというのが、私にとっては理想的であるのに今日は、全く逆になってしまったのだ。後ろの若い男女は、想像していた以上に巧いのである。男性は、若いからパワーがあると言うだけではなさそうで、下手をすると私が2回打った地点までティーショットが飛んでくるのである。女性の方もなかなか飛ばす上に、小技もなかなか出来る感じである。2ボールでもあり、早くホールアウトして、常に前を待つ間に後ろから追われるという圧迫感があった。その上に、自分の技量の無さが、時々顔を出す。姉が私より10才年上であり、飛距離は出ない上に、ミスも多いが、それでも我関せずとプレーを楽しんでいる。我々も2人であり、決してプレーが遅いわけではないが、前の詰まりは如何ともしがたい。姉自身は全く意に介していないのだが、私の場合は、そういう雰囲気の中では、どうしても気が散ってしまい集中できないのだ。姉にはヘッドアップしないように何度も繰り返し注意しながら、自分の番になると、やはりボールの行方を追っていて、グリーンが捕えられないとか、チョロしてしまうことが多くなる。そんな調子で、インの最終17,18番ホールでは、短いアプローチで入れなくてもいい池に入れたり、引っ張りすぎてOBをするなど、とても湿ったゴルフになってしまった。今日の天気予報では、午後遅くに雨という予報であったが、午前中は適当に曇っていたが、暑くも寒くも無く天候のせいには出来なかった。前半を50を遙かにこれる体たらくで、昼食時、料金に入っていた食事の他、ドリンク券を貰ったので、日頃はセーブしているビールを飲んだら身体がほくれるかと、飲んだ。後半のアウトは、ダブルボギーが2回あった他は、すべてボギーだったので午前中よりもだいぶ良い成績のやっと40台ということで終わった。何時も相性がいいロングホールでは、グリーン前に池が待ち受けているのだが、ティーショットもセカンドショットも共に会心の当たりで、グリーン右の少し池が切れている側の手前10ヤードくらいに運べて、3オンは間違いなく、しかも寄せワンで、バーディーが取れるかもと意気込んだのだが、何のことはない、軽く当てた球は、ヘッドアップのため、手前の、普通なら入れるのも難しい池の中にポチャリと落ちてしまい、結局は、がたりと崩れて、2パットと罰打1のダブルボギーにしてしまった。ほんの少ししたことが、大変な目に遭うという、典型的な例になってしまった。姉には、頭を上げるからトップするのだから、決してボールの位置から目を離さないようにと何度も言いながら、自分は全くそれが出来ていないのである。あわやバーディーかというのがダブルボギーであり、この差は非常に大きく、結果が悔やまれた今日最大のホールかも知れない。事前の練習場では、ティーショットやセカンドのフェアウェイウッドが不調であったが、逆にじっくりと練習し、まずまずだったショートアプローチだったのに、本コースでの結果はまるで反対の結果が出てしまった。グリーンで勝負する以前の問題で、あと少しがなかなかグリーンに乗らないときのいらだちは、全体のリズムを変調させ、終わってみたらタラレバばかりである。実にゴルフは難しいものだとつくづく思った。帰りは、ゴルフ場から降りた、高槻駅近くの道路沿いのマクドナルドまで、わざわざ連れ合いが待っていてくれて、姉を送るのに一緒に乗り合わせてくれた。天気予報で、今日は夕方から降水確率40%となっているとおり、我々が後2ホールを残す頃から少しぱらつきだしたが、結局はホールアウトするまで本格的な雨は降るのを待っていてくれて、さして濡れることもなく、回れたことは、ラッキーであった。振り返って、ゴルフの不手際ばかりが思い出され、せっかくの紅葉を愛でることが出来なかった未熟さが、毎度のことながら残念である。しかし、後期高齢者になった姉と一緒に曲がりなりにも回れたということは、それはそれで幸せなことだと思った。早く連れ合いの肩が治って、少なくとも3人で、ラウンドできること願っている。
2009.11.10
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今日は連れ合いが肩の治療に通う整形外科の送迎以外は、一日中、家を出ることはなかった。昨日も、全く外出をしなかった。最近では稀なことである。一日中、家にいると、テレビを見る機会が多くなる。特に日曜日などは、朝の討論会や、昼過ぎの「新婚さんいらっしゃい」、そして、関東では放送されていないという、「たかじんのそこまで言って委員会」続いて、「ゴルフ中継」は、大概、男女が別々のチャンネルで、ラップしたり、引き続いたりして放送される。夜はNHKの大河ドラマといった風に殆ど本を読む暇もないくらいに見続ける事になる。昨日は、その後、特別番組で松本清張原作の「点と線」が2時間45分にわたって放送された。日曜日家にいると間違いなくテレビ漬けになってしまう。方やニュース番組はと言うと、「酒井法子覚醒剤」「34才詐欺容疑女」「鳥取不審死」「島根女子大生バラバラ」「英国人女性死体遺棄」こういった番組を少しずつ、判明した段階で、重ねて何度も何度も放映され、それはどのチャンネルも同じ内容である。これら一連の事件は、覚醒剤を除いては、いずれも猟奇性のものばかりである。いちいち内容を知りたくないと思う程に各局が金太郎飴の如く、放送を続けている。正に重箱の隅をほじくるが如きである。そして、こういった事件が、集中的に起こるのも珍しい気がするし、其れ以外の、単なる殺人は日常茶飯事である。これが現在の日本の現状なのか、とおぞましい気持ちになる。その一つ一つを取り上げてもテレビやラジオと同じ事の繰り返しだから書いても仕方のないことだが、何時の時代から、こういった事件は多発するようになったのだろうか。昔に比べて、人の命が安売りされていること、死体を毀損したり、切り刻むということがまるで当たり前のように起こっているわけだ。ここ数年間にも、記憶にあるバラバラ事件は、「埼玉・愛犬家連続殺人」「山梨バラバラ殺人事件」「兵庫・尼崎バラバラ事件」「新宿の若い男性のバラバラ遺体」「女子短大生の切断遺体」「茨城の切断遺体遺棄」「東京・足立区バラバラ遺体」「江東区マンション神隠し殺人事件」等、数々ある。私などは、殺人は勿論最大の悪だとは思うものの、弾みや、一時の逆上で、人を殺してしまうことはありうると考えられるが、こういった衝動的な殺人等は概して、案外小さく扱われるか、その事実を淡々と伝えるだけである。しかし、信じられないことは、自分が殺した相手を鋭利な刃物や、のこぎりを使って切り刻むという残虐な行為が平然と行われている現実である。全く信じられないことが、次々と起こっているのであり、おぞましいことである。日曜日に放送のあった「点と線」は猟奇的では無く、東京駅の列車ダイアを使った、綿密に計画された実に巧妙な完全犯罪を狙った内容である。素朴で一徹な一警官が、心中事件という結論に疑問を持ち、殺人事件と見破り、解決していくのであるが、こういった作品の殺人は、物語(ストーリー)での殺人であり、当たり前のように何ら疑問を持たなくなっている。この警官は、人1人、(この場合は2人であるが)の命の尊さを、思うあまりに真実を追究するというものだが、その裏には、悪徳政治家や、官僚の姿が見えると言うストーリーだ。じゃまになる人間を抹殺するという行為は、善悪を論議しないなら一応筋が通っているが、バラバラ事件は、主目的は、証拠を隠滅することであろうが、人の体をバラバラに切り刻み、ゴミとして捨てたり、遺棄するときの心境は一体どう言うものなのかその心理状態を聞いてみたい。そういった犯人の心情としては、一旦殺した相手はもうすでに人間ではなく、一個の物体であり、大きいままでは始末に悪い物体ということなのだろうか。一片のためらいもなく、機械的に作業が出来るものなのだろうか。一見、犯人の普通の風貌の裏には、そのような残忍な顔が隠されていると言うことに驚くが、その驚きが、今や、驚くに値しないことであると言うことに再度驚くのである。江東区のバラバラ事件などは、女性を「性の奴隷」にするのだという妄想に駆られ、犯行に及んで、逮捕前に堂々とカメラの前に現れて、蕩々と喋っていた姿を思い出すと、こういった類の犯人は、どこにでもいるし、自分の傍にもいるかも知れないという心配が現実のものとなるおそれを感じる。最近の、「英国人女性死体遺棄」での犯人は、整形を繰り返してまで、逃げ延びる執念があるそのエネルギーを何故殺人に向けたのかは、やがて明らかになるであろう。こういった類の場面では、大概の場合、殺人時の精神状態が問題にされる。弁護士などは、何とか、異常な状態であったとするように画策するのであるが、心神喪失状態での殺人は、その罪を問われないというのも奇妙な気がする。現代社会は、そういって、精神に異常を来すことが以前に比べ多くなったとしたら、たまたま殺人の相手に選ばれた人こそ大変不幸だと言うことで終わってしまう。それほど物騒な世の中になってしまったと言うことであろう。一見、特に奇異な点も無い隣のあの人が実は、そんな人だと考えたら、ぞっとするのは私だけであろうか。現実に「英国人女性死体遺棄」の犯人は、私の住む隣の市である茨木市に潜伏していたと言うではないか。ひしひしと、迫ってくるような気がするし、よそ事だということで済まなくなっている。最近の犯罪の数自体は、かつてより減少しているそうだが、こういった凶悪事件は逆に増加しているのだと聞く。通りすがりの人を疑いながら歩く世の中になってしまったのか、人を人とも思わない鬼畜のような犯人や、それを減刑したり、無罪にまでしようという弁護士が居ることにまた別の違和感を持つ。大阪で裁判員になる確率は秋田の4倍で約3000人に1人という事らしい。私が裁判員になったら、間違いなく、人非人なる犯人に極刑を科することにし、根絶する以外にないと思っている。犯人が更正する云々はあまり期待出来ないと思うからだ。死刑廃止論者は、自分の身内なり、子供を殺されたらどう反応するのだろうか。そんな場合でも、犯人は生きる権利があり、更正して世の中に出すのが妥当だと言えるのだろうか。何時も疑問に思っている。最近の猟奇な、誰でもいい殺人事件や、身勝手殺人事件、そしてバラバラ事件について、憤りを感じながら、報道を見ている。
2009.11.09
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明日11月9日はベルリンの壁が壊されて20周年になる。第二次世界大戦終了後アメリカに招かれた当時のイギリス首相チャーチルが、アメリカのフルトンの大学で、「バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまでヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされた。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパの歴史ある首都は、すべてその向こうにある。」と言う演説を、行った。かつての連合国の一員であるソ連のスターリンの面前でである。これに対し、スターリンは、「連合国のなかに不和の種をまき、その協調をさまたげようとする危険な行動」とチャーチルを非難した。これ以降東西の冷戦が始まったわけである。スターリンについてはその非道さと悪辣さは、至る所に書かれている。戦争以外でも、虐殺や、処刑、流刑と称して何千万人もの命を奪っている。また、戦前は日ソ中立条約を結んでいたが、終戦間際になって、一方的に、その条約を破棄して、対日宣戦布告をし、日本が敗戦するに及んで後も、停戦を無視し、南樺太・千島・満州国への攻撃を継続させ日本の領土を少しでも多く略奪することを画策し、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作った。ソ連軍はかつての枢軸国の領域の多くを占領し、東欧諸国は、完全にソ連共産党の直接支配下に囲い込まれた。特にドイツは連合国(米・英・仏・ソ連)に分割統治されることになったが、冷戦の波及で、ソ連が東半分を独立した国家として宣言させるに於いて、東西ベルリンを隔てるために長大な155kmにおよぶコンクリートの分厚い壁が出来上がるに至るのである。万民が平等であり云々という名の共産主義において、何故か君臨する独裁者。ロシアのツァー時代よりもなお恐ろしい独裁者であったスターリン。一人の狂気とは片付けられないのは、同じ時代のヒトラーに於いても同様である。ヒトラーは民族の純潔性を狂信し、アーリア系民族以外を劣等人種としてこれを抹殺しようとしたのである。このナチス政権でのホロコーストによって殺害された犠牲者はユダヤ人に限らず、ロマ人、スラブ民族、共産主義者、ポーランド人、身体障害者、同性愛者などにもおよびその数は、900万から1100万人に上ると考えられている。スターリンと優劣付けがたい凶悪な人間である。違いと言えば、ヒトラーは、自国民以外を殺戮したのに比べ、スターリンは殺戮したほとんどが自国民である。共通点は、狂人で、大量殺戮者と言うことであろう。同様の例としては、クメール・ルージュの名で知られるカンボジアのキュー・サムファンや、ポル・ポト等による200万人近い虐殺である。これにもアメリカの影響が背後にある。中国の共産党の初代指導者、毛沢東も、農民を無視した短絡的工業化である大躍進政策を発動し、その大失敗により発動後数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出したのだが、自国民のことであり、強烈な情報統制のため、あまり知られていない。また、毛沢東はその後も、文化大革命で、紅衛兵による大量の殺戮を指導し、その犠牲者の合計数は数百万、数千万とも言われている。これも、大量殺戮者の横綱級なのである。このほかにも、ルワンダのフツ族によるツチ族の大量虐殺(ジェノサイド)で、少なくとも80万から100万人が虐殺が行われたとされている。これも裏で糸を引くのは、旧宗主国であったベルギーである。未開の国を自国の都合の良いように操作し、互いに戦わせることにより、自らは傷つかずに、他国を支配しようとした結果である。スーダンのダルフール地域でのアラブ系民族による非アラブ系人、数千人が殺され、100万人以上が難民化し、隣接するチャドに流れ込んで国際紛争の様を呈していることなどがある。さらに、オーストラリアのアボリジニの強制同化政策であるとか、トルコのアルメニア人虐殺等のジェノサイドは、未だに世界の各地で起こっている。東西の冷戦が終わり、ベルリンの壁は崩壊し、壁の一部が、博物館に飾られて早20年が経過したが、今度は、世界中で民族同士の諍いが、沸々と起こっているのである。それに加えて、核の脅威が、大国だけに留まらず、世界中に拡散することになった。現にテロで騒々しい、イランや、パキスタンでも核を保有しているという。また、隣国北朝鮮では、正に日本を視野に入れた核開発が、すでに完成の域に達していると言う極めて危険な世界情勢になってきている。オバマ大統領による核廃絶宣言も、単にノーベル平和賞を与えられただけで終わってしまう可能性がある。評論家の一部には外交では決着のつかないテロリストに核が渡った時を懸念しているが、アメリカがテロ支援国家の指定から北朝鮮を意図的に外した意味が分からない。かの国は私に言わせれば、国家と言うよりは、地球上の一部を領土として支配するテロ集団であるとしか考えられないのだ。ポーランドの映画監督である、アンジェイ・ワイダ氏も言うように「危険なのは偏狭なナショナリズムを掲げる極右思想の台頭」だと指摘している。あれほど痛恨の念で謝罪したドイツに於いて、ベルリンの壁は崩壊したものの、「ネオ・ナチ」などが台頭しているという。人間というものは如何に愚かなものであるかをこの機会に見直してみる必要がある。
2009.11.08
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この11月は、連れ合いと私の誕生月である。お互いの誕生日は9日ほどしか離れていない。共に前期高齢者の仲間入りということになるのだが、連れ合いの子供達が誕生日を祝ってくれた。私の場合は、過去に誕生日だといって家族で特別なことをした記憶はない。おそらく自分が忘れているだけなのかも知れないけれど、当時は外食する習慣など無かったので、特別な記憶がないといった方が正しいのかも知れない。もちろん9人も兄弟がいた訳だから、両親を合わせると11人にもなりとても一々やっている余裕がないというのが正直なところだったのだろう。そんなことで、自分が関わる誕生祝いの会ということは、何か晴れがましいものを感じる。誕生日というものは1つの通過点であり、その人自身の重要なエポックの日ということだが、日本人だけを考えても同じ日に生まれた人は約30万人もいる訳で、全体的に見れば別にどうということはないわけである。誕生日の前と後で人間は変わるものではない。変わるといえば、人間の細胞60兆個の内、一日で変わるのは3000億個なのだそうで、この計算で行くと200日で体の細胞はがらりと変わり別人になるという錯覚になる。しかし、そこらは、巧く引き継いでいてくれる訳で、私という者は誕生日の後先で、本質的に変わらない訳である。200日で入れ替わるというのはあくまで、平均値であって、皮膚細胞と血液、臓器、神経などの部位によってそれぞれ違うのである。因みに皮膚などは約1ヶ月で全く新しくなるということで、爪や垢などを考えると納得がいく。このように、平均値ではあるが毎日少しずつ細胞は変化している訳で、誕生日だけが、その2倍、3倍変わるということでもない。自分というものがこの世に生を受けたという意味から、特別な意味があり、それが将来は、余命の勘定の元になるのである。若い頃はもちろん、壮年期では余り余命などということは考えないのだが、データとしては、ちゃんと出ている。もちろん平均値としてではあるが、65歳がそのターニングポイントなのかどうか、老人と呼ばれる時期にさしかかった事は事実であろう。「若く見えますね」とか「お若いわぁー」などというときは必ず、老人ということが頭の中の前提にある訳である。中学生や大学生などを捕まえて同じ事はいわない訳で、「若いくせに」とか「近頃の若者は」ということばの中には、もっとしっかりせんかい!という意味が込められていることがあるくらいで、「老い」ということは全く前提にはない訳である。2000年から世界保健機関(WHO)では「健康寿命」なるものを健康測定指標として取り入れているとか。健康寿命とは平均寿命から日常生活を大きく損ねる病気、けがなどの期間を差し引いた年数だということで、私の両親のように、長生きできても、晩年、寝たきりなどの状態になっての長生きは、ただ生物学的に生きているというだけで、生活の質(QOL)が違うということなのである。健康余命の専門的な計算方法は知らないけれど、たまたま、年齢が65歳における平均余命と、健康平均余命の数値を見つけた。それによると、あくまで平均値であることを断っておかないといけないが、我々65歳の平均余命は、私で、18年ほど、健康平均余命では13年ほどであるという。女性の場合は、その値が、各々23年と16年となるのだそうだ。日本の平均余命や健康平均余命は、いずれも世界一だそうで結構なことであるが、私の場合、健康で生きられるのは、78歳迄ということになり、よく生きて83歳だということになる。もちろん、之からは健康に留意しながら生きていく事になる訳だが、両親が79,80でそれぞれ逝き、その晩年を考えると、78歳と83歳の5歳の差は一寸微妙な感じである。今日は、連れ合いの子供達や孫達と一緒にテーブルを囲んで、祝って貰ったのだが、テーブルには赤いキャンドルが飾られていた。周りにも所々キャンドルがついている所があり、そこは、誕生日を迎えた人たちがいる席なのだそうだ。テーブルの横では、生のピアノ演奏があり、「ハッピー バースデイ トゥ ユー」が弾かれていた。健康余命を延ばす事を意識したためでもないが、アルコールをなるべく断っているのだが、勧められるままに、赤ワインを2グラス頂いたので、ほんのりと良い気分になった。実際の誕生日までには、数日を残しているが、65年過ごしてきた中で、こんな気持ちで誕生日を迎えられたことは、初めてのことであり、とても心温まるものだった。
2009.11.07
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今日は連れ合いは自治会の大掃除の道具点検だと言うことで出かけた。私の方は、そろそろ近づくゴルフのラウンドに備えて練習場に行くことにした。二人の時間が少しずつずれるので、連れ合いは、その後一人で映画を観ることにしたようだ。「サイドウェイズ」である。と言っても、昨日観たのはオリジナルの洋画で、今回のはそれをリメイクした邦画なのだそうだ。サイドウェイズと複数形では、形容詞で1横に向けた、とか2遠回しの;回避的な、という意味があり、単数形では、名詞で「わき道, 裏通り;歩道」などとある。この映画の意味するところは、「寄り道をしてこなかった男たちへ」と言う副題がついていることからどちらかというと、名詞の方の意味に近く、それが2人での行動と言うことから、「ズ」という複数形になったものと思われる。要するに人生を寄り道した二人と言うことなのであろう。人生を1本道で来た人はそれはそれでハッピーだと思うが、余儀なく寄り道をさせられることもあり、自分の意志の届かないところで寄り道することもあるわけだ。無理矢理に道を曲げられたときは、何故1本の道を歩けなかったかを恨むと共に、一直線に歩く人を羨ましくも、ねたましくも思う。こういったことは、仕事を終えて、自らを振り返ったときにその1次評価が下り、死んでいくときに最終評価が下るのであろう。とは言っても、人はそれぞれ、価値観も違うので、人が感じる幸せは、案外その人にとっては、満足のいかないことなのかも知れない。映画の話だが、昨日見た洋画オリジナルは全米でアカデミー5部門に輝いた作品と言うことで、それを模した日本版が出来たようだ。連れ合いは、その違いを是非見たいという気になったらしい。私は、元々邦画はあまり好きでないのでパスすることにした。邦画では、国語の教師が、売れないシナリオライターに変わり、親友もプレイボーイから結婚を控えたちゃらんぽらん男に変わっているものの、ストーリー的には全くの復刻版であるようだ。撮影もアメリカ、カリフォルニアのワインの聖地ナパ・バレーでの展開であるところは、全く変わらない。アメリカの風景に触れるという点では見なかったことを残念に感じた。しかし、ストーリー展開もほぼ同じで、後は日本の個性派俳優の演技力と言うことらしい。私は、元々、大スペクタクル映画が好きで、人間の心の機微をえぐるように感じなければならない映画は苦手なので、この手の作品は、あまり得手ではないのだ。「ワインは分かち合う飲み物」という主人公の言葉があるそうだが、何もワインに限ったことではなく、人生というのは誰かと、何かを分かち合いながら進むものだと思う。分かち合っているつもりが、何故か独りよがりになるとか、1本のワインを全部一人で飲み干して、酔っ払ってしまうなどと言うことが人生では起こりうるからややこしいのかも知れない。私はというと、いつものゴルフ練習場で打ちっ放しの練習である。打席数の少ない練習場で、幅も狭く、奥行きは段々細く、且つ距離はネットまで100ヤード一寸と言うところだ。受付は薄暗く、黙って記帳すると黙って、コインを渡してくれる。これはいつもの通りだ。意外とこの時間にしては混み合っていた。入口に近いところが、1打席空いていたので、そこで打つことにした。平日の3時までは、球数80球で550円であり、こんな所でも一応入場料300円也を取る。取り敢えず、2コインだけ投入し、計160球を打つことにする。この160球の内、白色のまあ新しいと思われる球は半分で、後の半分は、薄汚れた球である。汚れた球ばかりの練習場もあり、また、真新しい球ばかりの所もあるが、それぞれに値段が違う。はじめは、ショートアイアンから体慣らしで始めるのだが、ショートアイアンは、それなりに狙った方向と距離が出るようになった。段々に番手を挙げていくが、ミドルアイアンでは、一寸思ったとおりにいかなくなる。その後、ウッドを持って振り回すわけだが、これが、スライスして手に負えないときがある。今日は、体の調子も今一で、おそらくは姿勢も良くないのであろうが、それでもなかなか巧く当たらない。時々は、会心の当たりとなるのだが、続かないのだ。連れ合いが居るとそれなりのアドバイスをくれるのだが・・・。ふと前後の打席の人たちを見ると、年寄りが多いのは当然だが、中には若い人が練習をしている。それぞれ独特のフォームで打っているのだが、やはりフォームが素直な人は巧く飛んでいる。どこがどう違うのか本を読んでも実戦してもなかなか体得できない。入口近くでは、レッスンプロに教えを乞う人もいるようだ。こっちはあくまで我流であるから、ボールの行き先はボールに聞いて貰わないと分からないというのが現状である。今日のウッドは打つほどに嫌気がさし、早々にウッドを諦めて、ショートアイアンの練習に重きを置いた。160球を打ち終えたときの空しさは、何なのだろうか。車だからとぼとぼではないが、同じような気持ちで、帰途についた。帰りに、自転車の空気を入れる部分の「ムシ」を変えて貰うのを頼んでいたが、出来上がっていて、前後で400円だった。昔より高くなっているように感じたが、この店は、空気を入れるだけでも、50円也を取るところである。まあ、そんなものかと帰ったが、連れ合いに言わせると、まだまだ予想より安いと言うことだった。しばらくして帰った連れ合いに聞いた映画の話が、最初に書いたようなことだった。今日は比較的平凡な日だった。
2009.11.06
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高槻に出る用事があり、そのついでという感じで連れ合いと映画を見ることになった。映画館に向かう途中で、友人夫妻に偶然出会った。映画開演の時間が迫っているので、急ぎ足で映画館に向かう途中である。私たちが彼らの側を追い越したのだが、どちらも気がつかず、なにやら後ろで聞き慣れた声がするので、振り返ると、巨漢の友人夫妻が居たというわけだ。バスケットボールの同期会で連絡を取り合っている最中でもあったので話し込みそうになったが、映画開演までの時間がないということで、話途中で別れることになった。今回は通常観る映画館の姉妹館のようなところで、駅からは少し離れている。所謂封切り映画館とは違った、ちょっと特異な映画館である。私たちが観た「サイドウェイ」は2004年のアメリカ映画で、現在封切られている日本映画の「サイドウェイズ」とは違う。(しかし題名はやはりSidewaysと複数形であるべきだ)物語は、小説家志望の中年国語教師マイルスと彼の大学時代からの悪友ジャックが、マイルスの小説が一応の完成したのと、ジャックの1週間後の結婚式を祝して二人でワイン・ツアーとゴルフ三昧の気ままな男二人旅をするという内容である。マイルスは2年前の離婚のショックからいまだに立ち直れないでいるうえ、ようやく書き上がった小説も、正式に出版されるかどうか、出版社の返事待ち状態である。そんな風采が上がらないダメ男も、ことワインに関してはソムリエ顔負けの深い知識と愛情を持っている。一方のジャックは、かつては、テレビ・ドラマにレギュラー出演するほどの人気タレントであり、それを武器に女性を口説き落とすというプレイボーイである。この映画は、恋愛には不器用な国語教師マイルスと不動産屋の娘との結婚を控えた、落ちぶれたタレントである悪友ジャックとの自動車旅行中の話であり、マイルスは、人生の憂さをワインに夢中になることで粉らわせようとする一方、結婚を控えているのだが、女あさりを主な目的と位置づけるジャックの、性格も真反対の親友達の珍道中である。未だに別れた妻の陰を引きずるマイルスの気持ちが旅の途中で出会った、ワイン好きの魅力的な女性マヤにだんだんと惹かれていくのだが、直接的な愛情表現が直に出来ず、二人で会っても、ついついワインの蘊蓄を語ることになってしまう。マヤの方も、別れた夫の真実味の無さを払拭するため、ワインの勉強することに注いできただけに、二人はワインという媒体で絆を強めていくという設定である。そして、ラストは、旅行後のジャックの表層的な結婚式の披露宴で、マイルスは別れた妻の現在の夫と会い、彼女がすでに妊娠していることを知る。いったんは忘れようとしていた行きずりの女性だったはずのマヤから、彼の素朴さに惹かれる彼女に乞われるまま渡していた、彼の自作小説に対する評価を自宅電話の伝言メッセージで聞き、マイケルはマヤの家のドアをノックするというシーンで終わる。人生のピークを過ぎたダメ男にもささやかな希望の光が訪れるという、ワインを絡めた渋いラブストーリーである。物語は、カリフォルニア州サンディエゴから始まり、サンタバーバラ、サンタマリア、ロスアラモス等カリフォルニアワインのワイナリーがふんだんに登場する。昔、連れ合いと観た映画「風と共に去りぬ」の舞台は、ジョージア州アトランタであったが、ブドウ畑の風景は酷似している。ブドウ畑はどこでもこんな風景なのだろうなとは思いながらも、当時の「風と共に去りぬ」に一瞬ワープする感じであった。カリフォルニアにしろ、ジョージアにしろ、アメリカ南部の気候は地中海性気候とよく似た環境で、ワイン作りには非常に向いているのであろう。ワインといえば、昔はすぐフランスをイメージしたものだが、ワインは何もフランスに限ったことではなく、世界中で製造されているのである。フランス、イタリア、スペインが上位を占めるが、本作品のアメリカワインは世界でも4位の生産量を誇るのだという。映画にも出てくるが、シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニヨン、ピノ・ノワールなどの高級ワインを産出することでも有名なようである。私が今までに飲んだワインは、主に南アメリカ産だった。ジンバブウェに駐在したときに、差ほどワイン通とも思われなかったが、青年海外協力隊経験者の人から勧められたのがきっかけである。その人の曰くは、チリワインも美味しいのだそうで、出張帰りに沢山買い込んで商売をしたなどという話も聞いた。ワインの良さが分かろうが分かるまいが、ただ飲めばいいと言うときには、山梨ワイナリーで作られた、一升瓶入りのロゼをよく飲んだものだ。南アやチリは生産量で世界の10傑に入っているが、驚くことに中国でのワインの生産も馬鹿に出来ないようである。一人当たりの消費量は、やはりヨーロッパが多く、アルゼンチンなども多いようである。日本の女優で、ワインの風呂に入るとか言いながら、通を気取っているが、ワインの何を知っているのか、ちゃんちゃらおかしい気分になる。ワインは飲むもので、ワイン風呂に入るなどは言語道断である。何を勘違いしているのかとむかむかする。牛乳風呂とでも勘違いしているのであろうか。日本人はとにかくプロパガンダに弱い、最近でこそ、様々なツールによる情報を公平に得る機会があるのだが、とにもかくにも商売気に支配されるテレビなどによる情報を鵜呑みにして平気で信じる傾向にある。その昔の、大本営発表で手ひどい仕打ちを受けた人が少なくなったからなのだろうかと思っている。その一つがボジョレヌーボーがある。これが解禁したと毎年大々的に放送がある。私などに言わせると、それがどうしたという感じである。では、ボルドーは、ブルゴーニュはどうなんだと言いたい。この映画に出てくる、カリフォルニア地方ではカベルネ、シャルドネ等はほとんどのワイナリーで作られているが、近年この地方では、シラー、グレナーシュ、ヴィオニエなど、ローヌ地方の品種を手がけるワインメーカーが増えているのだそうだ。一方でマイルスのお気に入りであるピノ・ノワールはフランスのブルゴーニュと気候が酷似してこの地方のワイン畑で採れる非常に優秀なブドウから出来ているのだそうだ。映画の中で一貫しているワインという共通項は、映画制作者自身がワイン好きを思わせる。映画に出てくるワインは、必ずしも最高のワインを選んだものではない。ただ、単純においしいと感じたものなのである。私もそう思う。皆が美味しいと言うから美味しいと思うのではなく、自分自身が美味しいと思うものが美味しいのだと。マイルス秘蔵の時価1000ドルは下らないという1961年物のシュヴァル・ブランやマヤが最初にハマったという1988年物のサッシカイア、ジャックのお相手役のステファニーが4人で飲もうとしたとき、それだけは開けないようにと念を押したリシュブールなど、ワイン・マニアに取っては垂涎のブランド名であるらしい。ピノ/カベルネ論争を、マイルスとジャックのキャラクターの設定に巧みに絡み合わせているという評があったが、ワインを表する独特の言葉に、「アセンブル」(渋い)、「エーグル」(酸っぱくなった)、「ロンドゥール」(まろやかさ)など多数があるが、この映画を見終わっての感想は、slightly bitterでかつthe bittersweetという感じである。ゴルフ三昧という設定で、広大なゴルフ場も出てくるが、映画のように気軽にゴルフを楽しめ、カートで自由にフェアウェイを走り回れる、外国の広大なゴルフ場を羨ましく思った。
2009.11.05
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最近の東南アジアの躍進は、目を見張るものがある。140年前に我が国はちょんまげを落とし、散切り頭を叩けば文明開化の音がするといわれてこの方、幾多の戦争を経てきた。その最大の第二次世界大戦の終戦時に我々は生まれた。我々が就職し、勤勉に働いて、今日の時代を迎えているわけであり、私などは、「鉄は国家なり」の思想をすり込まれ、今は、流行らなくなったが、「重厚長大」に命を捧げてきた。といってはオーバーだが、何の疑いもなく、鉄を使った構造物こそが、物づくりだという風に短絡的に考えていた。経済的環境とか、「マクロ経済」「ミクロ経済」などといわれても正にちんぷんかんぷんであった。就職して間もなく、パーソナルコンピューター(パソコン)なるものがで始めた。それまでは、会社には、人間より大切に空調された部屋にでんと座った大型計算機IBM360が正に神秘のコンピューターであった。当時を振り返れば沖電気の「OKITAC」という電子計算機もあったようだ。これらの数十倍の能力が現在のパソコンにはあるわけだが、当時は勿論インタラクティヴなものではなく、バッチ処理で、大量作成のパンチカードを夜中に計算機に掛けて、翌日わくわくしながら成功した結果を待つというのが日常であった。大概その期待は裏切られ、またバグを探してはその夜、計算機に掛け直すという連続であったが、最終的に思ったようにアウトプットが得られたときの感動はひとしおであった。そのパソコンも、長足の進歩を遂げ、今やパソコン無しには仕事も出来ないくらいになってきている。当時は、助っ人であったはずのパソコンが、名前をITと変えて、今や主客転倒といわんばかりの状態になっている。その境目に時期には牧野昇の「製造業は永遠です」とか飯田庸太郎の「技術ひとすじ」等を読んでは、その通りだ、などと言っていたのが、いまは、池澤直樹の「ナノテクが日本を救う」などと変わってきている。確かに、当時想像もつかなかったことが現在は起こりつつあるし、また起こっている。正に隔世の感があるわけで、当時よく「近頃の若い者は」などと聞いたものだが、あれは、悪い意味もあるのだが、概して年寄りのひがみであったのかも知れないと思う。さて、そんな昔、日本で起こっていたような状態が、現在の東南アジアで起こっているのである。当時後進国の範疇にあった日本が、今や先進国の中に入り、それなりに遇されている。今まで原料を輸入し、日本で加工して、財を成していたのが、今や、日本の内部で物づくりをすることではペイできなくなってきている。衣料品を始めあらゆるものが中国製か東南アジア製になっているので、たまに日本製を見つけると奇異な感じがするくらいである。少し昔は「BRICs」と呼ばれ、ブラジル、ロシア、インド、中国に焦点が当たっていたが、今では、マスコミの造語ではあるが、「VISTA」と呼ばれる、ベトナム、インドネシア、南アフリカ共和国、トルコ、アルゼンチンも注目されているのだそうだ。格差は依然、厳然とはしているが、表層的には、世界は平準化されてきていることは間違いのない事実であろう。海外に出て分かることは、大げさに言って、世界から日本を見れば、日本人は、すべて車製造会社の社長くらいに思っている節も見られる。あたかも、我々から見て、サウジアラビア人はすべて油井の何本かは持っていると考えるのに似ている。彼らには、日本で、職にありつけない人がいるとか、ホームレスの人がいることなどとは、とても考えられないのである。サウジでは、そういった下層の仕事をする人間や、ホームレスは自国民ではなく、東南アジアからの人であり、ソマリアなどからの難民なのである。欧米社会では昔から、「ノーブレス・オブリージュ」と言う考えがあり、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという基本的な道徳観がある。高い地位や身分に伴う義務で、貴族など高い身分の者(大金持ちもか)にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方で、もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意味であるらしい。サウジアラビアなどのムスリム社会でも最も重要とされる五つの事柄のひとつに、「ザカート(お布施)」と呼ばれるものがある。要するに、富者は、貧者に施しをする必要が求められているのである。儒教は中国が発祥で、日本人もこの思想で育ってきたのだが、儒教における「仁」や 「義」、 「礼」に言われるように、人を思いやったり、利欲に囚われないで、なすべきことをすること、人間の貴賤・上下関係で守るべきをまもると言う約束があったが、今その発想は霧散してしまったのか見あたらない。 今の日本には、残念なるかな、こういった、基本的な思想の欠落する時代が、長く続いた。そして、人間は「ゆで蛙」のようにその環境にどっぷりと慣らされてきたのである。そこに、この平成の維新である。早急に最良の結果が出てくるとは思えないが、着実に旧弊を排除していくことを期待している一人である。財産を持って死ぬわけにはいかないので、一旦得た利を子々孫々に残そうというのが、政治家をはじめとする世襲である。明治の英傑の如き、私利を捨て、国が如何にあるべきかを訴え行動した、志士たちは、皆若くして亡くなっている。それに比べ、国会議員を長年勤めることで、銅像が建つことだけを目的として唯々諾々と議員であり続けた御仁や、それを「先生」と呼んで選び続ける郷土の風土など、近代国家といえなかったことが、今回やっと少し前進したかに見える。しかし、親の意向だけで当選した若輩者が、明日から自分が天下国家を動かすが如き発言をしているのを聞くと、むかっと来る。若いからどうこうと言うことは当たらないのだが、その態度、言動の端々に不遜なものを感じるのは、私だけだろうか。話があらぬ方向に飛んでしまったが、東南アジアの発展はすさまじく、IMFの調査によると、2010年には東南アジアのGDPがユーロ圏を越える成長を遂げる公算が大であるという。また、同年には、中国のGDPは日本を抜くと言うことである。今、東南アジアでは、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、ラオスのメコン川流域5カ国にまたがる広域開発構想としての「メコン地域開発」や、カンボジア、ラオス、ベトナムの国境付近の「開発の三角地帯」が計画されている。タイ、カンボジア、ラオス、ベトナムを横断する「東西回廊」「南部回廊」と呼ばれる物流網を、日本からの円借款で整備しようとしている。また、メコン川流域とインドをインド洋を介して結ぶ「メコン・インド経済回廊構想の具体化を支援する計画もある。ベトナムの新幹線構想や、バンコク、マレーシア、シンガポール、フィリピンなど東南アジア都市鉄道整備計画も着々と進んでいる。海に目を転ずれば、海の経済圏開発と呼ばれる、BIMP広域開発がある。東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟するブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピンの4カ国が来年から、島しょ部を中心とした広域開発を本格化する計画だ。これにも日本が加わるべく計画中であるという。昔の日本の製造業の底力をここらで復活させて、東南アジアの盟主の座をいやしくも中国にさらわれることの無いようにしたいものである。企業で働く技術者はもとより、政治家に求められる資質は今こそ重要になってきている。
2009.11.04
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中学・高校時代の友人の謡と仕舞の発表会があるというので、連れ合いと一緒に、大阪能楽会館に出かけた。去年も文化の日に行われたもので、毎年恒例のようである。古典芸能にはオンチの私だけれど、大阪能楽会館を訪れるのはこれで2度目である。何年に建てられたのか、相変わらず古い建物で、内容は古典でも外装ぐらいは、それらしくしたらと言うのが会館に入る前の感想である。能舞台は三方が吹き抜けの一辺が約5.5メートル四方の取り立てて何もない平面の床である。この中で、あらゆる能や、狂言も行われるのである。過去に、何回か書いたことがあるが、私も中学時代には、文化祭の時に、仲間と3人で狂言の「ブス」のシテを演じたことがある。狂言と能は当然違うわけだが、舞台はどうやら同じなのであろう。揚げ幕からの橋がかりといわれる廊下、その廊下に3本の松が等間隔に置かれている。アト座と言われる後部の板場の前に先ほどの本舞台があるわけだ。この中の装飾は、館内なのに屋根付きの廊下と、屋根付きの舞台の他、後部の壁には松、向かって右手は竹3本が描かれているだけの質素なものである。とにかく、この5.5メートル四方の舞台の上で、何でも演じなければいけないわけであるし、吉本新喜劇や、普通の芝居とは違って、背景は一切変わらないのである。幕間暗転もなく、ただひたすら、同じ場所で同じ背景で演じるわけである。友人は2つの項目を演じた。1つは、「素謡」(すうたい)と呼ばれる中の、「松虫」である。「素謡」とは舞も囃子もなく、謡いだけで演ぜられるもので、セリフが書かれた「謡本(うたいぼん)」と呼ばれるものを木製台の上に置いて、朗々と節を付けて歌うわけである。友人はもう一人と二人でこの題目を演じていたのだが、自分の出番ではないときには、袴の中に手を差し入れて、待つというものだ。しかも、板の床に座布団もなく正座するのであるから、さぞかし足もしびれようと思うのであるが、さすがに出てくる人は、一人としてしびれを切らしたような人はいないのにまた感心する。「これはこの辺りに住まいいたす・・・・」とかで始まり、「伝え聞く白楽天の盃を並べて、・・・」、「如何に人々酒を召されそうらへ・・・」などと、その状況を謡と抑揚で観客に伝えるのである。この「松虫」は後で調べたところ、(違っているか分からないが)阿倍野に鳴く松虫を聞きながら亡くなった男とその友人の友情を描いた、俗っぽく言えば、男の同性愛を主題にしているということらしい。男の友情を、秋の野に鳴く松虫の音色の託して表現した曲だとの解説があった。この「素謡」での決まりなのか、最後には切り戸という、御茶時のにじり戸よりも少し大きな右側の戸口から4人の人が音もなく入ってきて、2人の謡の演者後に座るのである。そして、「虫の音に連られて帰りけん・・・」、「松風寒きこの原の、草の刈り根の・・・実りの~・・よもすがら・・・」等と謡って終わるのである。全くの素養無しには、内容も分からず、まあ、ロシア語か何かで歌う日本語混じりのオペラを聴いているようなものである。友人の最初の出番が終わり、次の出番の「仕舞」までは少々時間があるので、ずっと見るのも大変と、連れ合いと、梅田の街を昔のようにデートして歩き、最近出来たビルの最上階のスターバックスで、コーヒーと紅茶を楽しんだ。2人で昔々の、40数年前には「こういったオープンカフェ的なものはなかったね」などと話したのだが、ドバイでも連れ合いとスターバックスに入ったし、もはや世界を席巻している感じである。この店は、大変な人気のようで、私たちが、時間を見て出る頃には、待っている若者達は長蛇の列を作っていた。一寸待たせて悪いことをしたかなと思いながら、後半の友人出演の能楽会館に急いだ。会場にはいると、2つ前の演題である素謡の「景清」であった。観客席で、出番を待ちながら、復習をしている友人の肩を叩いて、激励すると、次の番囃子の「安宅」を見るためにと謡曲集である、「観世流謡曲100番集」を「これを見ると少しはわかりやすいよ」と言われて渡された。「安宅」は弁慶が、義経を打擲してくぐり抜ける奥州安宅の関での有名なくだりであるが、謡曲集には段落もなく、時々飛ばして謡うようで、どこをどう謡っているのか、ついて行くのに苦労してしまうところが多かった。そして、友人の出る「仕舞」の「屋島」が始まった。去年は何を舞ったのかは忘れてしまったが、一カ所扇を開くときに一寸手間取ったと反省していた事は覚えている。素人目には全く分からなかったが、今回は、凛として、舞台を縦横に使って舞う様と、朗々吟じる様は、この1年の精進を思わせるものがあった。「屋島」と言えば「打ち合い刺し違う」というところが見せ場らしく、舞台をツツツとすり足で突っ走っていき、太刀に見立てた扇で一撃くらわせ、さらに、とどめと、思いっきり突き刺すという所が山場らしい、見ているときは分からなかったが、所作も、気迫も、そういえば十分だったように後になって振り返った。何事も多少の「先達はあらま欲しきこと」である。などと兼好法師の言葉を思い出した。
2009.11.03
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連れ合いの孫と3人で阪急神戸沿線の王子動物園に出かけた。今日は雨で寒波が来るかも知れないと言うことで心配していたが、昨日の雨も朝方には止み、少し曇り気味だが、何とか持ちそうな空模様に安心した。王子動物園には先頃カバの赤ちゃんが生まれたとのことであり、雌雄が未だ判別しないため、名前はついていないのだという。連れ合いは、テレビ放映で、その赤ちゃんの可愛い姿を見たと言うことで、孫と言うよりは、自分の方が赤ちゃんカバを見たかったのであろう、この動物園行きを楽しみにしていた。思えば、私は動物園に行くのは何年ぶりであろうか、ドバイに駐在し、一人無聊をかこっていた時、動物園があるというのでついでに行ったが、規模も小さく、猛獣類は居ないなど、とても小規模のものだったのを思い出す。かの国では、ラクダはふんだんに見られるが、暑さに耐えられる動物しか居なかったようだ。孫と連れだって外出するのは8月に恐竜展に出かけて以来のことである。体につり合わぬ大きなリュックを背負ってマンションから降りてきた。少し寒くなるかも知れないと言うことで、一寸重装備である。電車の中でリュックの中身を見せて貰うと、着替えと、何故か動物の絵本が入っている。何でも「持っとく!」というだけあって、用意は周到である。「ねぇ、これを見て」と言って取り出したのは、小さな冊子に動物を貼り絵した簡単な図鑑である。地球のゾーン別に生息する動物をおそらくは、母親と一緒に貼り付けていったのであろう、所々後ろの形とはずれて貼ってあるが、ちゃんと動物図鑑が出来上がっている。孫は動物好きで、以前にも家族で王子動物園といわず、姫路のサファリなどにも出かけたことがあるとかで、動物に関してはとても物知りである。早く行きたいと言いながらお手製の図鑑でいろいろと説明をしてくれる。座っていくために一旦梅田まで出て、トイレを済ませて、神戸線に乗り換え、王子公園前で降りた。降りてからもトイレに行くなど、今日は何回トイレに通ったことだろう。今日は、少し寒い上に、通常の幼稚園は開いているらしいが、孫の通う幼稚園は飛び石の関係かお休みであるという。おそらく、動物園は空いているだろうと思っていたが、黄色い帽子や、赤い帽子を被った、園児の遠足であろうか、なかなか賑やかであった。「あと何個駅があるの?」と気もそぞろで、やっと動物園のゲートに到着である。小学生以下は無料と言うところは良いが、兵庫県在住の65才以上は無料というところがにくかった。65才には後一歩だが、如何せん大阪府の在住であるからいずれにせよ該当はしないのがなんだか恨めしい。入園すると、先ず腹ごしらえと言うことで、園内の食堂に入った。動物園の近くには適当な食事どころは見つからなく、メニューの少ない中、カレーを食べた。これから動物を見ようという割には、孫はゆっくり食べて、結構平らげた。食事後、これは連れ合いの意向で、先ずカバの赤ちゃんに直行した。母親のカバと2頭で濁った水の中で悠々と泳いでいた。カバの赤ちゃんはこの8月11日に生まれたばかりと言うが、未だに雌雄がはっきり分からないのだという。従って名前はまだついていない。水中を回転したり鼻で水草をすくい上げたり、可愛い仕草をしながら母カバにまとわりついている。願わくば、陸上に上がって、よちよち歩きでも見せてくれたらと期待したが、陸には上がらなかった。次に孫はシマウマが見たいという。途中のカンガルーや、ワラビー、ダチョウなどを見ながら、シマウマを探したが、園内道路が工事中で来た道を逆戻りするなどして、なかなか見つからない。それもそのはず、厩舎が新しくなったのか、シマウマが慣れないため、よしずで囲っている中にシマウマのおしりが見えた。しばらくすると、よしずの間からシマウマが顔を見せてくれたので、孫も安心したようだ。次はオオカミが見たいという。順番だからということで、先にキリンを見ようと、キリンの囲いへ行くと、マサイキリンはすでに昇天して居ないという。小屋は空っぽだった。「次はオオカミが見たい」とオオカミを探すが、なかなか見つからない。途中の夜行性動物・は虫類棺も順番だからと入り、ナマケモノの、怠けた姿を見ながら、連れ合いは、「あれで本人達は怠けているわけではないのよ」と説明ともつかず、孫につぶやいていた。結局探し当てた、オオカミの区画もすでに昇天して空だった。ツキノワグマやヒグマなどの所から、孫は、やにわに持参の手製図鑑を取り出し、説明銘板に書かれている文字とその姿を図鑑と対照させ、曖昧な連れ合いの説明に対し、逆にじっくりと説明していた。ゴリラや、オランウータン、チンパンジーなどはもう慣れているのか、あまり動かず、ニホンザルだけが激しく動き回っていた。孫に、お猿と君は一番近いお友達だよと言っても、さすがにきょとんとしている。まだ、ダーウィンの進化論は早すぎるかと思った。カバに比べて比較的綺麗な水の中を3頭のアシカがスイスイと泳いでいたのを楽しそうに眺め、隣のホッキョクグマのところでは、ごろんと横になっていたシロクマが、起き上がって動き出したので、水中にざぶりと飛び込むのを連れ合い共々じっと待っていたが、ついに水に入ることはなかった。パンダ館では、1頭は部屋にいて寝ていたが、1頭は外で、笹の葉をむしり取りながらむしゃむしゃ食べていた。想像していたよりは白い毛はすっかり茶色っぽく変色して、仕草の可愛さに比べて、もう一寸風呂に入れよ!という感じだった。一つの動物集団を見て、次の区画に移るときには、孫は「次は、動物のおもちゃを買おうね」と、「遊ぶところで遊ぼうね」という言葉が出てくる。常に我々が忘れないようにティーチインしている。とは言いながら、巨大なゾウを見、猛獣の館に来ると、興味津々の目つきになる。虎やヒョウなどは、例によって、同じ行動パターンで動き回るのだが、2階の窓部分で見ていると、鼻先を窓に付けるまで迫ってくるので、なかなか迫力があった。最後にフラミンゴの群生を見てコアラ館からカワウソなどの小動物を見てまわり、羊にえさをやる場所では、孫はおそるおそる、手にしたエサを差し出していた。ひとしきり見終わって、やっと念願の遊園地で、何かに乗ると言って選んだのが、ピカチュウのなんて言うことはないゆりかごのような代物である。その後、馬にまたがるメリーゴーラウンドを独り占めして乗って満足していた。私と連れ合いは、「何で、あんなピカチュウみたいなしょうもないのを選んだの」と同じお金で、もっと良いのに乗れたのにと、とてもおしい気持ちをぶつけたのだが、当の本人はけろりとしているばかりである。もはや子供の感性には戻れないことを感じた瞬間だ。そして念願のおもちゃ売り場である。じっくりと時間を掛けるものの、なかなか絞り込めない。出かける前に、お母さんから、「小さいのなら買って良いよ」と言われていたようだが、粘って連れ合いの許可があればと基準が緩められたようで、盛んに思案する。まだ、よちよち歩きの弟にも何かを買わなければという気持ちも何処かにあるわけで、動物園に来た真の目的はこれにありといわんばかりに熱心に思案している。時間を掛けてやっと買った、シマウマと、カバの親子(子カバの方は、連れ合いが自分が見たかったのでというつもりもあってか、サービスして付け足したようだが)に落ち着いたようである。何度トイレに行ったか分からないくらい、夕方には一寸冷え込んだが、昔に比べ、一人でちゃんと用を足せるようになっているので付き添うだけで楽になった。子供の成長は早い。きっと彼が大きくなった時には、こっちが、付き添われてトイレに行く羽目になるのかと考えてしまった。帰りもまた梅田経由であったが、梅田駅構内の喫茶店で、我々はケーキを食べたのだが、孫は豪華クリームあんみつの絵を見て「これ!」という。ウェイトレスのお姉さんが、優しく「あんこが入っている大人みたいなので良いの?」と確認したのだが、「これでいい!」と毅然としている。電車を降りてその喫茶まで眠そうだったので、往きと同じように、だっこして行ったのだが、アイスクリームを食べて元気になった孫に、アイスクリームを「一寸分けて」といってみたら、一旦は、スプーンで沢山すくってくれた。しかし、「アイスクリームを食べて元気が出たのだから、後は自分で歩くんだよ」と言うと、心なしか、アイスクリームの量が減ったような気がした。せっかくリュックに入れてまとめていた、さっき買ったおもちゃの袋を自分で持って歩くという。連れ合いが、「カバの赤ちゃんを持ちたいなぁ」と言うと、単純に渡すのではなく、「一緒に持っとこ!」と袋の一方を渡し、手を離さない。やはり、「持っとく」精神は、ここでも生きていて、なんだか分かるような気がした。
2009.11.02
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生まれて初めて図書館で本を借りた。今まで図書館へ行ったことは何度もあるが、本を借り出すことはなかった。読みたい本があれば大概無理をして買っていたこともあるが、大体不特定多数の人が借りている本を手にするということに違和感を覚えていたのかも知れない。さらには、読みたいと思っても時間的な制約とかで、なかなか読めないこともあり、貸出期間が気になるとどうも落ち着かないと言うことが借り出す気持ちをためらわせたこともある。国会図書館のような所は、貸し出しをしないので、ただ珍しい本を手にしたり、静かなので、くつろぎに行ったことはある。今度借りた図書館は町内のもので、蔵書は差ほど充実しているとは言い難いが、読みたかった本は昔の本で、書店では、在庫が無く、買うとしても取り寄せなければならないという代物だったので、ひょっとしたらあるかも知れないと思ったからだ。中東に関わるNHK講座を受講しだして、講師の専門である文学の講座となったため、その講座で取り上げられる本を借りたかったのである。通常であれば、私の場合、文学のジャンルは、昔ならいざ知らず、最近では素通りして、意識して書店の棚を覗くこともない。6回に分けて講義される内容は、それぞれ中東における作家の作品を取り上げている。その内の1回分だけ、姫の大学の蔵書にも見あたらないというので、仕方なく町立の図書館に一縷の望みを託す羽目になったわけである。書店で取り寄せることも可能なようだったが、ダメ元で、初めて図書館で訪ねてみることにしたのである。すると巧くしたもので、訪ねた図書館では置いていなかったが、ネットワークを使って大阪府立図書館から取り寄せられるという。閲覧だけなら国会図書館のものでも取り寄せられる仕組みにはなっているということだ。さすがにIT時代である。早速モロッコの作家ファティマ・メルシーニの「ハーレムの少女ファティマ」を取り寄せて貰うことにした。町立図書館にない本は、いざという時に、すぐ手に入らず、申し込んで1週間程度待たなければならない。取り寄せ先から図書が届くと、個々に電話がある。それから自分の都合に良い日で出来るだけ早く取りに行くという段取りである。さらに貸出期間は2週間と決められていて、もし2週間を超えるようなことがあれば、電話などで延長を依頼することも出来るらしい。まぁ、無料で本を借りて読むことが出来るのだから、あまり贅沢は言ってられないが、結構面倒で、心理的にも圧迫感を感じる。NHK講座で取り上げられる6種類の本は、一部アラブの文学全集を成しているものもあり、勿論新刊本ではない。以前に1回目の講座があり、取り上がられたのは第1次世界大戦の頃のエジプトについての物語であった。その時のブログに講座で取り上げれられる、本の種類や国名を記載しているが、作品は中東国家の多岐の国にわたっている。我々はややもすると中東=石油、テロと言った単純な連想ゲームになってしまうが、その石油、テロは今なお我々の生活に密着して関連している。日本でも時々テロ行為が起きるが、今は、パキスタンや、アフガニスタンでその悲惨な事件が毎日のように報道されるのを見る。それが何故中東で多く報じられているのか、そのルーツを知る上でも参考になるかも知れない。石油に関しても、何時の時期に、サウジや、イラクに集中的に出始めたのか、それは、地球の成り立ちによるもので、小説を通じてはなかなかうかがい知ることは出来ないが、一介の砂漠の民や、小さな漁村の集落が、石油を通じて世界を動かすまでになった、その元はどういった生活だったのか。今回借りてきたモロッコの作品は、これから読むのだが、子供の頃流行った歌で、「ここはチュニスか、アルジェリア、どうせカスバの夜に咲く・・・」とか「ここは地の果てアルジェリア・・・」などで知っているつもりの北アフリカの日本から言えば、アルジェリアよりもさらに、西の果てに位置している。カスバが城塞を意味し、アルジェリアカスバが世界遺産に登録されているということも初めて知った。モロッコといえば、かの地中海への喉、ジブラルタル海峡に面した要衝を成している。映画で有名になったモロッコ最大の都市、カサブランカがあるが、今度の本「ハーレムの少女ファティマ」はカサブランカから東に入ったモロッコ王国北部の内陸都市フェズに隣接した旧市街地メディナでの話らしく、この辺りはかつてはイスラム王朝が首都とした街である。オスマントルコに圧されるまでの全盛期のイスラム王朝は、北アフリカは言うに及ばず、ジブラルタルを越え、現在のスペインをも支配する巨大な帝国を成していた。レコンキスタで、キリスト教徒が、スペインを奪回するまでは、スペインのバスク地方より南部は、イスラム圏であったわけだ。自らはコロンブスでもなく、マルコポーロでもないので世界中を探検して回るわけにも行かず、書物で得る知識しかないのだが、私が中東というところに関わる仕事をさせて貰ったおかげで、芋づる式にこれらの知見を得ようとしたのである。日本の常識は世界の非常識などといわれるが、島国日本が、その島内部で帰結できる時代はすでに遠い昔の話になっている。BRICsといわれる、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)も大切だし、最近では、VISTAの造語で知られる、ベトナム(Vietnum)、インドネシア(Indonasia)、 南アフリカ共和国(South Africa)、トルコ(Turky)、アルゼンチン(Argentina)なども経済的に注目され始めている。これらとは別に、今世界的なCO2問題の化石燃料の代表格である石油や、自爆することが、神へ近づく近道であるかのように嬉々として死に向かうテロ事件の温床である中東の本質を知る上では、昔からのこの地域の歴史的背景を知ることもまた必要ではないかと思う。3-4冊の小説を読むことでそれが達成されるとは思わないが、世に出回る様々な中東に関する書物の副読本的に読めば、少しは理解が深まるのかも知れないと言ったところが本音である。
2009.11.01
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