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今年も今日でお仕舞いになった。今年もいろいろなことがあり、瞬くうちに年の瀬となってしまった感じだ。全体的印象では、あまり明るいことがなかったというのが、毎年の感覚であるが、良いことはすぐ忘れてしまうからかも知れない。これと言って仕事が無くなると、世の動きに疎くなるものだが、それでも某か忘れられないことがある。ジンバブウェのムガベ大統領は、独裁者で有名となったが、経済問題で「金がないなら刷れば良い」といって、100兆ジンバブエ・ドル(Z$)紙幣の発行をし、且つ、1ヶ月も経たないうちに、1兆Z$を1Z$とするデノミネーションを実施した。私が居た頃でなくて良かったと思ったが、正にギャートルズ的な国である。我々日本が無償でドネーションした橋梁6橋は、その後どうなったのだろうかと、ふと思った。アメリカとロシアの人工衛星どうしが初の衝突事故を起こし、それによる宇宙のゴミであるスペースデブリが、微細のまで含めると数千万個有るかもと言うことを知った。怖くて宇宙には行けないと思った。アメリカに黒人初の大統領が誕生し、「核兵器のない世界の平和と安全を追求する」と表明する傍らでは、北朝鮮が長距離弾道ミサイル「テポドン2号」の改良型を発射し、1段目が秋田県沖の日本海に、2段目は東北地方上空を通過し、太平洋上に落下する始末である。そしてその後も2度目の核実験を堂々と実施している。同盟国アメリカよ、何とかしてくれないですか。また、メキシコ発祥の豚を起源とする新型インフルエンザが何時しか、人間同士によるインフルエンザ感染の事例が報告される迄になり、WHOはパンデミックとされるフェーズ6までの引き上げを宣言した。最新のデータでは既に、世界中で約120万人以上が感染し、1万人近くが死亡しているという。 新型インフルエンザの猛威は既に、我々の近所にまで影響が及び始めているが、ワクチンさえ手に入らないという状態で、忘年会の時一緒だった薬会社を退職した友人は、輸入ワクチンは「危ないぞ」と教えてくれた。北朝鮮に対して宥和的な姿勢の太陽政策を進めていた盧武鉉前韓国大統領がご多分に漏れず、金権疑惑がらみで自殺したが、日本を初め世界では、マイケル・ジャクソンが自宅で心肺停止状態となり亡くなったことの方が大きく受け止められている。政治家の替えはいてもマイケルの替えは出ないと言うことなのだろうか。国連の世界人権宣言などどこ吹く風、人権意識の乏しい中国はチベットに続きまたもや、ウイグル自治区でのウイグル族と漢民族の民族対立を背景に起こった暴動騒乱で200人近い死者、1700人以上負傷者を出した。それでも他国の非難に対し、あくまで内政干渉だと言い張り、首謀者数名の死刑をすでに執行している。解決をずるずる先延ばししていた、2年前に起こった、メタミドホス入りギョーザ事件については、つい最近、捜査態勢をさっさと縮小してしまった。こちらの方も早い幕引きだ。日本が過去の戦争犯罪について、和解を求めても、何時までも引きずり「中国には、戦争問題を水に流すほど大量の水はない」とまで言っていたのにである。アフガニスタン大統領選ではカルザイ大統領が再選されたが、ここもジンバブウェとそう変わらない体制のようで、選挙に不正があったのは勿論だが、イスラム原理主義タリバンに対する姿勢が米欧との関係と合致しての続投となったようだ。来年は、戦争を悪と認めながら、イラクからアフガンに軸足を移したアメリカに日本がどこまで追従していくのかが問題になるであろう。なんと言っても日本人にとっての大事件は、8月30日の第45回衆議院議員総選挙で、政権交代を標榜していた民主党が絶対安定多数を上回る308議席を獲得して第1党に躍進したことであろう。これによって、途中多少の変化はあったものの、自由民主党は1955年の結党以来、初めて野党という立場に立ったのである。私は、これを歓迎した。なぜなら積年の膿を絞り出してくれそうな気がしたからである。自民党も相当腐ったもので、未だに旧弊が永田町を跋扈しているという。「天下り」「利権」「既得権益」これらの言葉はもう聞きたくないのである。西洋では、「ノーブレス・オブリージュ」という言葉がある。一般には、「財産、権力、社会的地位の保持には責任が伴うことを指す言葉」である。この言葉の概念は、新約聖書「ルカの福音書」の12章48節にある「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」という言葉に由来しているという。小沢一郎の著書「日本改造計画」にもそれは引用されている。だからというわけではないが、私は、現鳩山由紀夫首相とその母親の献金疑惑には疑問を感じるのである。約12億円の俗に言う「子供手当」に対し、判明したから6億円の納税をするから良いだろうという言い訳振りに対してである。これは、弟の邦夫議員にも同額渡されていると言い、さらには姉にまで額は不明だが渡されていたという。弟の邦夫議員の、「税金を納めるから良い、俺は兄貴と違う」など、全く「目くそ鼻くそを笑う」の類の言葉をはいている。全く何をか況やである。全額、日本の恵まれぬ人にお渡しするという位の禊ぎをして初めて物を言って貰いたい。どこに「ノーブレス・オブリージュ」があるのか。これは貧乏人の私だけのひがみであろうか。9月から10月にかけて南太平洋付近で立て続けに巨大地震・津波が発生した。ジャワ島のマグニチュード(M)7.2を皮切りに、サモア近海での(M)8.3地震、スマトラ沖の(M)7.6地震、そして次の日にもスマトラ島の(M)6.6地震、さらに、バヌアツ沖(M)7.8地震と同日のセレベス海の(M)6.7のいずれも巨大地震である。津波による被害も甚大で特にスマトラ沖の地震では死者が1000人を遙かに超えると報道された。 これは民主党が天下を取った驚天動地の結果でもあるまいが、集中的に南太平洋で起こっていることが恐ろしい気がする。次は、日本の東南海地震かと空恐ろしくなる。これから戦争を拡大しようとしている、オバマ・アメリカ大統領にノーベル平和賞が贈られるなどは、核の密約をしながら平気の平左で、ノーベル平和賞を受賞した我が佐藤栄作元首相の例もあり、笑えない冗談である。「核なき世界」「国際協調」「対話路線」と言っただけで、ノーベル賞になるのだったら、ひょっとしたら、私でも貰えたのかなと思ってしまう。エチオピアのアジスアベバ近郊のアファール地域において、以前発見された「ルーシー」と名付けられた猿人よりもさらに古い、人類最古の先祖に当たる可能性があるラミダス猿人の化石が全身骨格がほぼそろった形で、約440万年前の地層から発見された。「アルディ」と名付けられたと言うことだが、ルーシー」も「アルディ」も共に女性だと言うことであり、昨今、男性が草食化して来ているそうだが、440万年前も女性の方が強かったのかなと思った。この1年、私にとっても目が離せない1年であった、来年こそは、天変地異もなく、せめて人為的な仕業で、疲弊することのないように願いたいものである。
2009.12.31
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父が眠る千里山の寺から月報「如是」が届く。我が家の宗派は浄土真宗である。父がそうだったからそうなのであって、その先祖がどうだったのか迄は全く知るところではない。友人のようにクリスチャンに改宗したり、サウジにいたからと言って、ムスリムになろうという気もない。まあ、日本人だから仏教かと言うところである。事情があって、長年行かなかった父の墓参りを今年の盆に訪れたのだが、その時、住職と面談することが出来、爾来、寺が発行している月報「如是」が送られて来るようになった。奇しくも「如是」とは連れ合いの最初に奉職した学校の名前でもある。それが仏教に由来するのかどうかまでは聞いたことがないが、一寸「如是」の意味を調べてみた。「如是」とは十如是というのが元のようで、仏教語である。勿論、一般的に「そのとおり」と言う意味もあるが、「このように」という風に、経文の最初に使われる言葉であり、釈迦の言葉を信じて従うという意味をも含むとされている、経文の重要な要素なのだそうだ。クリスチャンが「神の御名において」とか、「神に帰依する者」を意味するムスリムが「アラー・ハ・アクバル」(神は偉大である)というのと同じような言葉かも知れない。 また、十如是とは、天台宗の中心的教義の一つで、現象こそが真理にほかならないことを示し、「法華経」の法華経方便品に説かれる因果律であって、十というのは相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟(ほんまつくきょう)をいうのだそうだ。その相は形相、性は本質、体は形体、力は能力、作は作用、因は直接的な原因、縁は条件とか間接的な関係、果は因に対する結果、報は報いであり縁に対する間接的な結果、本末究竟は、相から報にいたるまでの9つの事柄が究極的に無差別平等であることをいうのだそうだ。つまり諸法の実相、即ち、この世のすべてのものがこの10の種類の存在で成り立ち、理解できると言うことらしい。これは難しく、禅のような境地になる。しかし、浄土真宗は最澄の起こした難解な天台宗から、浄土宗の法然に引きつがれ、その法然を師としながらも、「他力本願」「悪人正機」という教えで、親鸞が寄り広く流布するために、理解しやすくした宗派である。時々「歎異抄」を拾い読みする。「悪人正機」を全く理解していなかったことが良く分かる。そこで、第三章を引用しておく。悪人は俗に言う罪を犯した人ではないということである。ここからは、野間宏の「歎異抄」の抜粋であり、パソコンで写経をするようなつもりである。第三章一、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善(じきさぜん)のひとは、ひとへに他力をたのむこゝろかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土(しんじつほうど)の往生をとぐるなり。煩悩具足(ぼんのうぐそく)のわれらは、いづれの行にても生死(しょうじ)をはなるゝことあるべからざるをあはれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因(しよういん)なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。これを素のまま理解することはやはり難しい。そこで訳文も拝借する。一、善人でさえもなお往生をとげることができる。だから、悪人の往生は、もう言うもおろかなほど、きまりきったことなのである。ところが、どうしたことか、世の人々はだれもがこう言っている、「悪人だって往生するのだ。まして、善人の往生はうたがいない」と。この言いかたには、一応、いかにも理由があるかのように考えられる。しかしじつのところ、これこそほ本願他力によってひとは救われるという根本的な趣旨に反したものなのである。なぜかというと、自力で善の行ないを積み重ねようと志す人は、いちずに他力を頼りとしとおす心に欠けてしまうので、どうしても弥陀の本願からはずれざるを得ない。しかし、たとえそのような人であろうとも、自力にたよる心をすぐさまあらため、もっぱら他力を頼みとすることが出来るようになるなら、やはり真実の浄土に往生をとげることができるのである。ところで煩悩のすべてを一身にそなえているわれわれは、たとえいかなる修行に励もうと、生か死か、善か悪かといったさまぎまな迷路から完全にぬけ出ることなどできるはずがないのである。弥陀は煩悩のそなわっているもののこのような事情を心底からかわいそうに思われて、あの願をお立てになったのである。その弥陀の本願の真意というのは、生死・善悪の迷いにいつもとりこにされているわれわれ悪人をひるがえして成仏させることにあるのである。だから、もっぱら他力を頼み申しあげることのできるわれわれ悪人こそは、最も往生するにふさわしい人間なのである。まさにいま言ったこのような意味で、「善人でさえもなお往生する、ましてや悪人は……」と、わが師親鸞はおっしゃったわけなのである。ということで少しは分かったような気がする。わが師親鸞とあるのは、「歎異抄」は、親鸞の弟子の唯円の手により、親鸞の教えをまとめたものだからである。親鸞自らの手による、略名「教行信証」は漢文で書かれていて、非常に難解であり、当時の学者もこれを理解する者は少ないと言われるほどであり、私などは見たこともない。ここで、「他力本願」と「悪人正機」を理解するための注釈を加えて置いた方が良いと思う。まず、善人とは頭脳が俊秀で写経・読経を通して仏の教えに近づき、また、財力に富んで寺や仏像を建造・寄進するなど、よいことをして、仏を讃嘆できる人。という意味である。またここでの悪人とは自分から進んで物心ともに仏を讃嘆することが何もできず、むしろそれに反するようなことばかりを犯す、その罪深さに気づいている人。なのだそうである。そして本願他力とは弥陀の本願を信ずることは、自力のすベてをすてて他力をたのむこと。つまり、本願と他力は全く同一でなのである。最後に、自力作善とはこうしたら往生成仏できるのではないかと思い、自分の力でさまざまに行なうこと。だという。このように見れば、悪人即ち、あまり信心深くなく、それは良いことでは無いなぁと思いながら過ごしている小心者で、貧乏な私のような者が、即ち往生を遂げると言うことを意味し、さらに親切なことに、自分でもがいて苦しんで何とかしようなんて高邁なことは考えず、ただひたすらに「なまんだぶ」を唱えて、他人様(弥陀)におすがりするだけで良いのだというか、むしろそうしなさいというのであるから、この不信心な私にとっては、格好の宗派といわざるを得ない。一寸かじってこのようなことを言うことは、宗教への冒涜かも知れないが、毎週教会に通ったり、懺悔をしなければいけないクリスチャンや、日に5回もお祈りをしなければいけないムスリムに比べると、「なまんだぶ」だけで済む自分はハッピーなのかも知れない。
2009.12.30
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今は私にも恒例になった高校時代のこじんまりした同窓忘年会に参加した。私がこの忘年会に参加するのは今年で3回目になる。今は7人になったこのミニ同窓会は、同窓生の店に集まるので、合計では8人という事になる。今日は出かける前に調子を崩してごろごろしていた連れ合いも、現金なもので、夕方には参加することが出来るまでになっていた。それでも集合時間に間に合うギリギリに出かけることになった。天六の駅で、私より新しく参加した中学時代からの友人とばったり出会い、そこから、数分の店まで、談笑しながら歩いた。もう全員揃っているかと店内に入ったが、先に来ていたのは1人だけで、それから1人、1人と増え、最後の女性が到着したのは、開始時間とされていた時間から30分経過していた。この会は、5時頃から三々五々始めるという雑把なもので、着いた順に飲み始めるというしきたりである。最後に到着した女性は開口一番、「29日はきついわ」ということだった。年末まであと3日というのは、やはりどこの家も気ぜわしいものだが、お寺さんの彼女は、仏様のお身拭い等でてんやわんやと言うことらしい。我々のマンションと違って、掃除する範囲も随分と広いだろうから想像しても大変さが分かる。隣のテーブルも忘年会らしく同程度の人数分の用意がしてあった。7人だけのテーブルはこじんまりしている。横に3人と向かいに4人とで十分に話が届く範囲である。お寺さんの女性の他は、先生の連れ合い、電気会社を終えた友人、土建会社、製薬会社、そして商事会社と造船屋だった私の7人衆である。高校時代は同じ学校で学んでいたとはいえ、別々の道を歩んできた面々である。今や、話す内容は、健康の話と、現在やっている趣味や活動についてが主になる。隣に座った、製薬会社を今年6月に退職した友人はたまたま同じビルでNHK講座を受講しているという。聞いてみると英語の講座で、講座名は、「The world we live in」という名だそうで、テキストは使わず、ニュース、習慣、文化など何でも自分自身が興味のある話題を発表し、皆で話し合うというフリートーキング形式なのだという。話す内容は多岐にわたり、話の中から新しい語彙や表現を覚え、また意見を述べる練習をすると言うことらしい。日常表現の習得と、現在に通じる英会話ができるというAdvancedレベルなのだそうだ。彼の場合は、足かけ20年を海外で生活してきているので、英語そのものには、全く問題がないだろうし、話の内容も流石と思わせるほどの見識を持っている。定員は10名程度らしく、そのうち4名が男性で後6名は女性であるという構成にも驚いた。男性が時事英語を話すというのは、仕事柄を考えると理解は出来るが、女性が多いというのはどういう事だろうかという印象だった。どうも昔人間の考え方なのかも知れない。話題の例としてあげられた「アルビノ殺害事件」などは、初めて聞く言葉でとまどったと言うが、黒人の中で、色素欠損の人が殺され、切り刻まれて、それが数十万円で売られるのだそうだ。「アルビノ」(白子)の体には特別な力が宿るという伝統的な考えから起こった事件で、近年、東アフリカのタンザニアやブルンジで多くの人が殺害されたという事件なのだそうだ。私としても初めて聞く言葉であったが、さすが理科の先生である連れ合いは、その言葉を知っていた。英語でそのような話題をどう語るのかということはとっさには出てこないだろうし、多岐にわたって話題の内容を理解していないならば、ただただ聞くだけと言うことになりそうである。英語の達人といえば、中学時代からの友人で、世界に冠たる電気会社を退職した友人は、姫の5月の国際学会で司会をお願いするほどの腕前であり、彼もニューヨーク駐在が長かったようだ。今は、仕舞や謡に打ち込んでいると言うことで、我々も既に2回彼の勇姿を能楽会館で見せて貰った。彼の発表会は、無料であり、友人に言わせると「見ていただく」というスタンスらしい。従って、驚くことに、見に行くと言うだけで、お弁当が付いてくるのである。この話を披露すると製薬の友人もそれは良い是非行きたいという話になった。一方では、ただほど高いものは無いとか言っていたが、そう言った土建屋出身の友人は、私と同様、同じ高校同期で、関学グリーのOB会にいる友人の演奏会をこれは、有料でチケットを買わされている。「俺達は良いカモだな」と笑いながら話していたところ、仕舞の友人は、逆に行ってみたいと言うことだったが、演奏会当日は、別件があり、日にちが折り合わず、今回はパスすることになったようだ。しかし、1回行き出すと掴まるぞとまた笑いになった。商事会社の友人は、結構面倒見と気配りがある。2つに分けた「てっさ」の皿の一方が早くなくなると、こっちにあるよとか、途中で、外に出てミカンを買ってきて帰りにみんなに持たせるとかするのである。今度、春には高校全体の同窓会の吹田支部を立ち上げると言うことで尽力しているという。選挙目当てかどうかは知らないが、こういったことや、老人センターなどで、いろいろボランティア活動もしているとのことだ。土建屋の友人は、現場育ちではなく研究所育ちなのであろう、なかなか穏和な人柄で、このミニ同窓会を主唱している。ゴルフで一緒になる同級生と同じ会社の出身らしいが、ゴルフの友人は現場の方に配属されていたらしく、あまり接点はないようだ。高校時代は優秀な頭脳を持っていたが、受けたい講座があるということを高校時代に既に決めていて、尊敬する教授が居るその大学へ進むという事を決めていたというしっかり者である。連れ合いの親友であるもう一人のお寺さんの女性は、昔と少しも変わらない若さを保っているので、一寸見には同級生であるという感じがしない。連れ合いなどは勿論良い意味だが、魔女だという風に表現するほどである。同じ高校でも、勿論出身中学校はそれぞれ違っている。何故か校歌の話になり、私が、中学校の校歌ではなく、讃歌を覚えていると言うことで、妙に感心された。私も何故か、中学校だけは、校歌よりも讃歌の方を覚えているのである。勿論、小学校校歌も、高校の校歌も、大学の寮歌も覚えている。そんなことは自慢にもならないのだが、校歌にはその学校のある位置が織り込まれていて、当時の風景を思い起こすのに有効な手段である。私の小学校と高校は、場所は変わらないが、様相はすっかり変わっている。中学校と大学の学部は、場所も変わってしまい、その時の校舎の面影などは校歌を通じて頭の中に残るだけである。そういった風に、変化していく中で、我々も共に前期高齢者となり、仕事から解放され、趣味や遊びに没頭が出来るわけである。仕事から隔離されたときには焦燥感に似たものがあったのだが、今や、仕事が無くなった事の虚脱感は薄れてなくなってしまった。いろいろ、とりとめのない話になるのだが、違った経歴や違った趣味趣向でありながら、根っこは、高校という所で結ばれているわけで、みんなの顔を見るとき、ふと高校時代の姿を思い出す瞬間がある。これが同窓の良いところかと、感じる瞬間である。友人の経営する店での、夏の鱧の会と、冬のこのフグの会は、そういったことを実現する有意義な機会である。隣の友人も、年齢と共に体のことを考えて、食を控えていて、歩くことを努めて行っていると言うことだが、今日だけは揚げ物も良いだろうと、フグの揚げ物に舌鼓を打っていた。私も、気の置けないこの会では、いつものことだが、今日も少し飲みすぎて、(現在書いているのは明日と言うことになるわけだが)殆ど何を話したのか、どういった経路で帰ったのかを忘れてしまうほどである。我々の忘年会もこれで終わりになった。明日からは、正月のための買い物と掃除が待っている。
2009.12.29
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夏に雨の中でゴルフをした三田27GCに2度目の挑戦と言うことで、連れ合いの通う校長先生達と再びラウンドすることになった。連れ合いは前回は一緒に回れたが、今回はまだ肩が痛むので、プレーはせずに、一緒に付いて回ると言うことになっていた。前回は土砂降りだったし、ゴルフなんてものではなかったので、今回こそはと期待していたのだが、1週間前からの天気予報では、本日の天候はあまり芳しくはなく、晴時々曇りが曇り時々晴に変わり、最後の予報では、1時雨という風に変わっていた。今回もあまり良い条件ではなさそうである。安いゴルフ場ではないので、キャンセルは利かないだろうし、何しろ現役の先生方は多忙であるため、おいそれとランドするチャンスがないから、雨をもいとわずと言うところであったようだ。朝、例によって早く目が覚めてしまい、外を見ると小雨がぱらついている。しょぼしょぼした雨なので、やがては止むだろうと期待はしていた。今回は9時42分スタートと少し余裕を見て貰っていたので、朝は、7時過ぎに家を出れば十分だったし、出発時には、曇天ながら雨は既に止んでいた。前日は買い物だとか、今年最後の不燃物廃棄の日だったので、有象無象をゴミステーションに何度も運んだりして疲れていたので、今日は初めから、大山崎経由の名神高速道から中国縦貫道を使っていくことになった。朝の時間の高速道路は、大体時間通りスムースに流れる。そのためか、2回目で分かっているはずの道だが、一寸迷ってしまったにも拘わらず、スタートの1時間少し前には到着した。既に先生方は到着されていた。冬の曇り空は寒いし、その上少し風もあったので、汗かきの私にも、防寒着が必要だった。前回は、出かける時点では、薄日が差していたが、途中から雨滴がフロントガラスにつきだし、スタート時点では雨が本降りになっていたのとは逆に、今回は、スタート時点から途中粉雪がぱらついたが、段々といい天候になってきたのは助かった。それでも、風は強く、太陽が隠れるとウインドブレーカーが必要で、日が射すと少し暑くなり脱ぐという繰り返しであった。前回はサウスコースからイーストコースの順で回ったが、今回は初めてのウエストコースからサウスコースのラウンドとなった。ウエストは初めてだったが、このゴルフ場はことのほかバンカーの多いコースであることに気がついた。前回はその事を気づく余裕さえもなかったということであろう。前回は確かブルーティー(レギュラー)だったが、今日はくじで先行を引いた先生が、ホワイト(フロント)から打ち出した。おかしいなと思ったが、まあ、私は高齢者だから良いかとそのまま続いて打った。1番は、ティーショットも良く、2オンこそしなかったが、フェアウェイウッドもまずまずの当たりで、やはり天気に依るのかなぁと感じていたが、それからアプローチはダフルは、寄せたボールはパットでミスするはで、パーは確実と言うところボギーとなってしまった。最初は、その程度でまずまずの出足かと思われたが、その後がいけなかった。2番ではバンカーに入れ1度で脱出できずグリーンでも30cm程度のパットをミスするなどトリプルになった。さらに3番では、左全面を覆うフェアウェイ・バンカーが気になり、打ってはならないスライス球で、右の山の中に入れOBとなった。OB球を確認に行ったが、自分のボールは先生が見つけてくれた。その山の中には山ほどOBボールが散らばっていた。そのホールはプレ4からやり直したが、ことごとくトップやミスで、ダブルスコアとなり、そこでテンションは完全に切れてしまった。4番もダフリ2回の3パットとこれまたダブルスコア、5番のパー3でも1オンせずやっとボギーでほっとした。5番のロングではティーショットもセカンドもうまくいったが、3オンを狙って3打目をダフリ、その後3パットとまだダボだった。続く6番ショートはグリーンに届かないのはまだしも、7Iでピッチアンドランを狙っての寄せワンのつもりが、力加減が狂い、グリーンをオーバーしてしまった。すかさず連れ合いの「何をしてるの!」の声が飛んできた。グリーン往復のトリプルだ。次こそはと、気を取り直すのだが、7番ホールでは、ドライバーの当たりは良いが、傾斜のフェアウェイを転がって大きなバンカーに捕まった。何ともはやこのゴルフ場は、落とし所が限定され、その他は皆バンカーのようで、フェアウェイもアンジュレーションが大きい。まんまとコースの作戦に捕まってしまい、バンカー脱出先からのショットもグリーン手前のこれまたガードバンカーである。このゴルフ場にはどれほど砂を運んだことだろうと、変な感心をしてしまった。前半最後のパー5、ドライーバーも今日一かと思わせる快調さだったが、少し前屈みのセカンドは一寸トップ気味の、ゴロの様な球で、残り100ヤード少しの所に止まった。9Iで軽くと思った球は、トップして、また左のガードバンカーに入る。見れば、左のフェアウェイに平行にある大きな池の中には、水が澄んでいて、打ち込まれた球がタイルのように底を埋め尽くしていた。サンドウェッジで一寸遠目にオンし、2パットで、ボギーの終了となった。ボギーで始まり、ボギーで終わる。途中もその程度であれば、良いのだが、如何せん大きく50台半ばになってしまった。昼食もそこそこに、というか、このゴルフ場、やたらに詰め込みすぎて、昼食の時間も他のゴルフ場に比べて短い。前半のプレーも前の4人組に初心者が1人いたのと、その前もどうやらもたもたしているので、毎回ティーグランドで待つことになり、ゴルフの調子が狂ってしまい、低スコアになった大きな原因であると感じた。前の組の初心者もブルーティーから打っていたので余計に待つことが多かったのかも知れない。午後は、前回、回ったことのあるサウスコースである。1番もバンカートラップでボギースタートで持ち直すかに思えたが、2番のロングで、2打目まではうまくいったものの、3オンを狙ったミドルアイアンが当たらず、グリーンに届かなかった。何の変哲もないアプローチショットで、右シャンクのOBとなり、加えて3パットの2桁台のスコアになってしまった。ここで再びテンションが切れる。3番は午後1といわれるくらいにドライバーは良かったが、フェアウェイウッドをチョロし、100ヤードのアプローチも届かず、寄せた30cm程度のパットも決まらずで、ダボとなってしまった。4番ホールもフェアウェイバンカーに泣き、苦労して、最後はピン側に付いたが、何とそれを無造作な3パットで、トリプルを叩いた。連れ合いに三半規管が狂っているのではとか、目がプラナリアになっているのではとここでも散々なコメントを戴いた。続く、5番の打ち下ろしショートホールでは、前の組が、その前の組を待っているという詰まりようだった。連れ合いと女性の先生は、丁度茶店があったので、中で暖を取り、甘酒を飲んだようだ。私はその間、短いアプローチの練習をしていた。グリーンが開いたので、右の大きな池が気になりながら、打ち降ろしを、少し左に引っ張ってグリーンを外してしまったが、直前の練習の成果が出て、ピン横に乗せ1パットのパーを取れた。後にも先にもこのパーが1回だけである。次の6番はティーショットは少し当たりが悪く、セカンドは乗らないばかりか左の巨大なあごの高いバンカーに吸い込まれ、1回では出ず、ダボとなった。カートに積んである、ホール・バイ・ホールの案内書には、入りやすいバンカーで、あごが高く、難しいと書いてあった。分かっていても、あれだけ大きかったら入ってしまうのではないかと納得した。7番ホールでは、今まで良かったティーショットが急に乱れ、左に引っかけて、隣のコースと仕切りのカート道の手前の崖下まで落ちた。その前は、ずらっと木が並んで、前方が見えないほどである。真横に出すにも木がじゃまだったので、一か八か前方に向けて打ったのだが、案の定、木に当たってその直下に落ちた。そこから泥沼で上がってダブルスコアになった。最後のショートホールである8番では、強烈なアゲンストで、先生は1オンに成功したが、私の球はアゲンストを考え番手を上げていたので、距離は良いものの、一寸のところで右へぽろりと砲台グリーンからこぼれ落ちた。アプローチでは乗ったが、グリーンの急な斜面で、下りの端の方まで流れていった。そこで、また3パットとしてしまい、愕然となる。ほんの30cm程度が、明暗を分ける日だ。最後の9番ホールでは、太陽が出てしかも逆光で、前方の打球を追えない状態だった。右からせり出している谷は差ほど被ってはいなく、あまり気にならなかった。オナーの先生もナイスショットであったが、私の球はさらに良い当たりで、今日一番の快音だった。それでも自分では見えなくて、カートを進めるうちに残り120ヤード程度に付いていて、表示から逆算すると220ヤード程度飛んでいたことになる。大満足であった。しかし、2オンを狙った2打は届かず、次のアプローチもヘッドアップでダフルという緊張の無さで、1パットで終われたものの、ボギー終了となった。3-40cmのパターが入ったことで、こんなに喜んだのは初めてだった。それほどパターの感はずたずたになっている。連れ合いは、沢山着込んできたとはいえ、強い風が吹く中、あまり日が射さなかったので、寒かっただろうなと思った。最後に肩の痛みを確かめるように、2打程スイングをしてみたが、やはり万全ではなさそうだ。結果は、雨の日の前回成績より良くはなっていたが、今回は白ティーだったことを考えると、どうだったのだろうかと思う。プレーを終わり、風呂に入って、また、暖かくなったらやりましょうという言葉を聞きながら、帰路についたが、もう、辺りは薄暗くなりかけていた。それでも今日一日雨らしい雨に見舞われなかったのだけでも良かったとしなければならいのだろう。高速道路を来たとおりの道順で帰った。
2009.12.28
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いよいよ今年も最後の週となり、年の瀬という雰囲気になってきた。昨日、印刷を終えた年賀状の仕上げで、各人にコメントを書き投函しなければならない。連れ合いは、昨夜遅くから書き初め、朝方まで掛かって、何枚かを残し仕上げに集中していた。私も、枚数は少ないけれど、差し出す相手の一人一人の顔を思い浮かべながら、今年1年をどんな風に過ごして来られたかなども併せて考えながらコメントを書いていく。順風満帆に過ごしている相手を予想して書くのは極めた易しく、話題も明るい調子で書けて良い。一方、訃報通知を貰った人には、年賀状を出すわけにはいかないと前から思っている。一方の考えでは、不幸があった側は、自ら年賀することは差し控え、喪に服するという意味で出さないのは当然だが、訃報を貰った側からの年賀は年の初めを祝うだけだから出しても良いのだという考え方もあるのだという。その昔、塩月弥生子さんなどが、作法の本を書いていたが、それには、このような場合、ぴったりと来る作法は書かれていないようだ。要は、喪中の報を年末に貰った場合、年賀状(赤い郵政会社製)で、悔やみの言葉を出して良いかどうかについてである。塩月さんの例文として「ご服喪中に付き、年頭のご祝詞を差し控えさせていただきます。」とかと書いて出す例があるから、やはり赤い年賀状は「年賀」という、「賀」が付いているので、駄目なわけで、一般の葉書を使うべしと判断している。これが昂じて、一般の葉書を出すことさえせずに、喪中葉書をくれた相手に対しては、今年は出さないと言うところで留まっているのが現状である。喪中葉書を貰いながら、哀悼の意も表さずに、1年欠状してしまうという結果になる。ある友人は、2年続けて不幸があり、向こうからは2年続けて、喪中の葉書を貰ったのだが、こちらは2年間も年賀状を出さないケースがあった。たまたまその友人とは、その間に会うこともあったので、話すことが出来たが、それがなければ、2年という間、どうなっていたのかが分からない事になるわけだ。私も前期高齢者になったので、会社時代に世話になった大先輩などは、後期高齢者や、80才を過ぎた人たちも居られる。現在どんな生活をされているのかは、今年来た年賀状で判断して、想像するしかない。概して若い人の年賀状は素っ気なかったり、賑やかだったりいろいろな表現がある。といっても私が相手にする若い人は既に壮年が殆どなのだけれど。さらに若い人たちは年賀状そのものを出さないケースが多くなっているという。その大部分は携帯電話などによるメールで済ますと言うことだそうだ。例の、「明けおめ」である。最初は何のことかと思ったが、「明けましておめでとうございます」の略だと聞いて、一寸ビックリした事を覚えている。勿論その後に、云々と続くのだろうが、「明けましておめでとうございます」と書く(打つ)のがそれほど面倒なのだろうかと思ってしまう。そういえば、東北地方の人は、寒いからか、口を大きく開けて喋らないで、しかも言葉数は少ないと聞いた。例えば、「これを召し上がれ」というのは、「け、け」で最初の「け」は「これを」という意味で、後の「け」は「食いなさい(食べなさい)」の意味だという。また、「こけ、こ」というのもあり、最初の「こけ」は、「ここへ」であり、後の「こ」は、「来い(来なさい)」といった風である。それだけで、良く通じるものだと思うが、決まり文句ならそれで済むと言うことだろう。しかし年賀状(メール)で「明けおめ」では味も素っ気もないだろうにと思うのだが、年寄りの戯言か。毎年合わない人との年賀状でのやりとりは、その人と交誼があった昔の状態の延長を想像して書くわけで、勿論、長い年月の変化を正確に想像することは出来ない。本当に義理けだの年賀状は、極力無くしてしまったのだが、長年会っていない人には、どう書くべきかを考え込んでしまうこともある。又、私の場合、会社時代には、正月出社早々に会う人たちには、あまり出さなかった。会って挨拶をすればいいからと思っていたものだ。年賀状が必要なのは、1年に1回か、2-3年に1回か、時々は会うが、定期的ではない人に適当なのではないかと思う。年賀状が別の意味で、生存通知になっていることを除けば、それで良いのかも知れない。年賀状で、「今年は是非会いたいですね」などと書くときは、本当に会って顔を見ながらしばし話したいと思いながら、その時、書くわけだが、毎年その願いは叶わずに同じ事を書いている年が続く場合がある。多くの年賀状を書くことは、ある意味煩わしいと思うこともあるが、また年が変わるのだと言うことを改めて感じたり、あの人は今どうしているのだろうかなど思いをはせる良い機会でもあるわけだ。年賀状を書いている最中に、帰阪以来世話になっている先輩から電話があった、「君の所に年賀状を出したが、今帰ってきたよ」という内容。どうやら住所の番地、番号を書き忘れたと言うことらしい。「君は有名人だから、マンション名だけで届くかと思っていたよ」と冗談を言われていたが、郵政会社は、25日までに出してくれないと元旦の配達は保証できないなどと事前予告があるから年末の忙しいときに出す風習となったのだろう。まあ、それでも宛先の番地、番号が書いていない物は配達のしようはないのは分かるのだが、山口県の例のように、年賀状誤配達で、年内に「明けましておめでとう」が届いたといった事は、何とも笑えないものであり、民営会社になって何をやっているのか!といいたくなる興ざめなことである。こういったことのないように努めて貰いたい、それがサービスの充実と言うことだろう。鉄道会社が事故を起こして、多数の人命を損なったということとは違って、軽微だという考えであるなら大きな過りである事を肝に銘じて欲しい。こういったシステムの過ちや、人為的ミスの積み重ねが大事故に繋がることは、どの部門に於いても同じなのであると思うからだ。
2009.12.27
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今年も年賀状を作る期限が来た。郵政会社の要請では、25日までに投函して欲しいというが、なかなか、こちらも雑用が多くて期待に添えない。それでもなるべく早めにと計画より1日遅れで作成に取りかかった。私は昔から、年内に出すことにしていて、結構早めに取りかかるのだが、出す枚数は限られていた。会社在籍時代も、余程の人でないと初出の日には会うのでなるべくお互いに書かないことにしていたし、昔からの友人でも、儀礼的な相手には余り書かないようにしてきたので、それほど多くは書いて来なかった。その上、病気や、海外滞在などで、全く書かない年もあり、そんな年が2回続くとさすがに相手もよこさなくなる。そんなことがあって、出す枚数も、極端に少なくなり、50枚程度で十分な時もあった。それでも大阪に帰ってきて、今は少し交流が増えたので、70枚程度に増加した。最低、兄弟や親戚縁者に出すのと、ごく親しい相手に出すだけで、ことさら多くは出さない。それに数年前までは、宛名はもちろん、裏面も簡易毛筆で、一人一人の顔を思い浮かべながら一言ずつ書いていったので、簡単といえば簡単だが、味気がないといえば味気ないものだった。ところが、最近は手書きで出す人は少なくなり、返って私の手書きでの年賀状を評価してくれる人もいた。多くの年賀状は、市販のもので、必ず干支が入っている出来合いの年賀状を、そのままぶっきらぼうに送ってくる人もいるし、それに一寸コメントを書き込んでくれる人もいる。一言のコメントはやはり少し和む。そういった類の人とは、年に1度の生存通知案内のようなやりとりになっている。最近は、パソコンが普及したので、パソコンで、写真など添付するなり、年賀状作成ツールを使用して、のカラフルで、賑やかな内容のものが増えた。特に年若い夫婦などからは、自分たちの子供の成長を写真に撮り送ってくるケースも多い。○○は何歳で、△△は何歳になりましたという言葉が添えられている。微笑ましいといえば微笑ましいが、子供のことよりは、その若い人が元気にやっていることの方が嬉しい。中には正月に必ず一家の写真を印刷して送ってくる人もいる。写真用の一寸分厚い葉書を使っているので、なにやら重量感がある。親しい友人の中には、何色刷かの木製版画で、綺麗な芸術作品を送ってくることもあった。之などは、毎年大事に取っておくのだが、最近はその友人達も体の調子が悪くなって、芸術作品は届かなくなったのは残念だ。何通かは、去年(すなわち書いている年)一年間を振り返り、今年の抱負を述べて、今までと、之からの人生の意義を書いてくる人もいる。わざわざ一家の活動状況を1枚の葉書に書く人もいるので、その一家の生活振りを窺い知ることが出来るというものもある。ある種の情報開示である。訃報通知だが、年末には必ず届く。これは、余り来て欲しくはないのだが、毎年欠けたことがないくらいに来るのだ。私自身は、両親が高齢になってからの子供なので、もうずっと以前に両親の訃報は出して久しい。生い立ちに書いたように9番目の末っ子なのだが、幸いなことに、戦時中、私の生まれる前に長兄が亡くなった以外には、兄や姉たちは皆元気でいるようだ。この訃報通知を受けると、こちらからも出さないのが常識かと、選別をして、記録に残しておき、その年は出さない。ある人は、2年続けてご両親を亡くされたとかで、訃報が2年続いてきたことがあり、従って、年賀状も2年連続で来なかったし、出さなかった。寂しいことである。昔は、父や母がとか、家内の父や母がというのが多かったのが、気がついてみると、兄や姉がという訃報が増えているのに気づき、今年は、妻がというのまで送られてきたので、あまりに早い特殊なケースとはいえ、徐々に私もそんな日が近づいているのだなと感じる。とにもかくにも、年賀状を書くということは、面倒な仕事ではあるが、ある意味では、疎遠な先輩・後輩達や、友人達と年1回会話を交わす手段の日本の良き風習なのかも知れない。大阪に帰って来てから3年半がたった私は、もう既に大阪から4回目の年賀状を書くことになったのだが、その時から、連れ合いの年賀状も一緒に作成するということになった。連れ合いは、中学校の教諭を退職したものの、現在でも頼まれて講師として学校に関係しているので、扱う年賀状の数は半端でない。私の出す数の3倍を軽く越えている。学校関係者や、卒業した生徒さん達も大勢いるので、なかなか数が減らないようだが、それでも一頃よりずいぶん減ったというから驚きである。その一人一人にコメントを書いて出している。彼女は、自分で構想を練り、写真を選んで、それをパソコンで処理して印刷するのが私の役目となっている。今年は、孫2人の顔写真と孫と出かけた恐竜展のスナップを選んで作成した。そういえば干支のトラは入れず、今年の干支は、「ステゴザウルス」ということになってしまった。宛名書きも、パソコンなら便利である。但し、思うような配置にならないし、字体も何となくよそよそしく、相手に失礼なような気もするが、それはそれ、我慢して貰うしかない。少なくなったとはいえ、私の分と含めて300枚もの宛名を手書きする気力は残っていない。私の年賀状は、前にも書いたが、手製の簡易毛筆であったが、いつの頃からか、パソコンでの作成に変わった。独自のスタイルという物は特に無いので、時には旅行の写真だとかを添えるのだが、ここ何年間かの年賀状は、自分が描いたスケッチをパソコンに取り込んで、パソコン上で色つけをして出している。稚拙な絵ではあるし、パソコン上での色付けの面倒な事はあるが、せめて年1回の通信だから、市販の何の変哲もない印刷物に一言よりはましだろうと考えてのことだ。もちろん空白は残しておき、近況を書けるようには配置している。大急ぎで、連れ合いの分と私の分の裏面と、宛名書きを作成し終わったときには、夜も更けていた。コメントを書くのは明日にして、明日中には投函したいと思っている。気になる年末一大事業の完成だ。
2009.12.26
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民主党が衆院選挙に勝って、戦後初めて、保守勢力が政権を明け渡すことになった。さぞかしリベラルな党として、日本の国が変わるのかと思った人たちは多かったに違いない。戦後ずっと続いた55体制が驕慢と怠惰の末、敗れることになって、私も多少なりとも溜飲が下がり、某かを期待していた。今やっと選挙後3ヶ月を経たばかりであるから、何とも言えないのかも知れないが、既に来年度予算が決まる段階で、多くの部分が見えてきたように思う。鳩山総理が誕生した頃から、なにやらうきうきしたことばかりが伝えられていたが、蓋を開いてみれば、マニフェスト(政治公約)は破られるは、前政権と同じような構図が見えて来るはで、大いにがっかりしている。日本の諺に「おたまじゃくしが蛙になる」というのがある。変わったことは変わったが、いっこう変わり映えがしないという意味である。2代政党が確立しているアメリカなどでも、政権交代時には大騒動になるのだが、見ていて手慣れたものである。議院内閣制のイギリスでも、保守党と、労働党の政権交代で、差ほどもたついた感じは受けないが、今回の日本は、半世紀間、ぬるま湯に浸かってきたところからの蝉変(ぜいへん)であるから仕方のないところもあるかと多少ひいき目に見ていた。しかし、日本の場合は諸外国と大きく違うと言うことが分かった。現在の民主党はといえば、全くの寄り合い所帯である。衆議院の数こそ308議席と圧倒的な地滑り大勝になったが、まだ参議院では過半数を占めるに至ってないので、内閣の編成もいびつな結果となり、民主党以外の、国民の代表がたった10人しか居ない政党である2つの連立与党に牛耳られている有様である。国民新党の亀井代表などには、鳩山総理が閣議に臨むときに亀井氏に深々と頭を下げるなど、如何に政治の世界での大先輩といえども、「私が政府だ」とまで言われながら、良いように差配されている。社民党の福島党首には、米軍基地問題で、全くかき乱されている。これらの問題はすべて参議院での多数派工作のためであり、民主党としては、今は堪忍の時と我慢しているのであろうが、何事も最初が肝心である。因みに民主党308議席の内、新人が一部鞍替えを含め150人と半数に及ぶ。年齢でも、27才から始まり30代の人が約50人と極めて若い。若いからと言って即、駄目だということにはならないのは明治の英傑達の年齢を見ても分かるが、今回のひよこ集団は全くの、選挙テクニック故の誕生と、自民党自身の自爆による結果であり、多くを期待できない、所謂陣笠と言うことだ。元々歴然とはしていたが、岩手の口べたを売りにした小沢一郎の闇将軍の支配するところであることが国民の目により一層明らかにされてきた。多くの人はそれを知り、マスコミも知りながら、巧く手玉に取られていると言うところであろう。小沢の幹事長就任決定然りである。当人の公設秘書による西松献金疑惑問題も、党首を降りることでうやむやにされようとしている。この国は三権分立といいながら、気骨のある司法は存在していない。また、立法の府の長である各議院の議長は、年功序列の上がりのポストであり、多くを期待できない。もっぱら行政の長たる総理が主役である。その現総理が、現在では、傀儡ではないかといわれるほどに脆弱である。小沢幹事長との二重権力構造だと揶揄されているが、私などには、小沢一極体制であり、鳩山首相は、単なる見せかけ、傀儡総理だと理解している。従って、何事も、即座に決定することが出来ず、必ず、小沢一郎の影がつきまとい、その決定を仰ぐ形で物事が決められている。首相の決断力の無さ、リーダーシップの無さを今更のように嘆いているようだが、元々そんなものは無く、有ると思っていた人は幻想を見ていたのであろう。そこにもって来て秘書の「偽装献金」による在宅起訴である。実母から提供された何と12億6000万円もの大金の虚偽記載である。このお母さんは、ブリジストン創業者の娘で巨額の遺産を有している。「親が子供の事を心配するのは当然でしょう」とか何とか言って、毎月1500万円もの大金を兄弟や姉に均等に与えてきたというのだ。普通の親が心配する、下宿での生活費の足しにとか、本代の足しにとか言った額ではないのである。因みに年収1500万円もの給与を取っているサラリーマンは日本にどれほども居ない。百歩譲って、その事を、知らなかったという事を認めても、6億円余の贈与税分を後払いすると言う事で、チョンにしようとしているのでは間尺に合わない。例え年老いたとはいえ、母親も日本国民である。日本国憲法の何たるかを知らないわけはない。日本国憲法は第9条だけではないのである。その第30条には「納税の義務」という項があり、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う」とあるのだ。未必かどうかは知らないが、憲法を犯し、納税を免れようとした母を持つ人が一国の総理であっては、我々は困るのである。ただ「恵まれた家庭に育ったのだからご免なさい」では法治国家を守護するトップであり得るはずがないではないのか。民主主義の根幹に拘わる重大な問題である。「金持ちなんだから、自分のお金なのだから・・」では済まないのである。かつて野党時代には、自民党の加藤議員やその他の議員に対して、「秘書の不正行為は、議員本人の責任であり、即刻辞任すべきだ!」と声高に追求していたあの言葉はどうなったのか。軽く会釈程度に頭を下げることで続投をしようとしている。全く許し難いことである。自分の金をどう使おうと勝手であるということかも知れないが、我々サラリーマン経験者は、給与からは容赦のない源泉徴収を受け、自らの預貯金の利子や配当があったりして、一寸余分のお金が入ったときには年末の青色申告で、きっちりと税金を取られていくのである。よもやこの不正献金疑惑がなかったら、そのままずるずると、うやむやになっていたのであろうか。検察も検察で、一方の公設秘書を略式起訴で済ませるとはいかなる判断なのか。そもそも、略式起訴とは「100万円以下の罰金や科料に相当する軽微な犯罪が対象で、検察官が簡易裁判所に略式命令を請求する。」ということで、非公開による書面の審理だけで、刑を言い渡すのである。100万円は、我々には大金でも、12億6000万円に比べたら、ゴミのようなものであろう。それも内々の処理でおしまいになるわけだ。それで、首相にはお咎め無し(不起訴)とのことである。元々、指導力もなく、この国をどう導こうなどと言った高邁な理想もない総理なのだから、さっさとおやめになるのが、美学ではないかと思うのだが。その上、お金はたっぷりあり、我々のように老後の心配も一切無く、どこにどのように寄付をしようか位を考えて下さった方が世のため人のためになると思うのだがどうだろうか。国民が期待しているのは、そういった軟弱で、優柔不断であるにも拘わらず、不正を知ってもなお、頑として退かない所にだけ強い意志を表明できる首相を持つ民主党ではなく、清新な形で、自民党の55体制の膿を出し切らせる民主党なのである。実質トップの小沢幹事長は既に西松建設献金疑惑で、トップには成れない(とそう思っている)ので、第3の人物が待たれるのだが、中心が腐ったところから排出される人物では困るわけで、この際政界再編をし、完全な形の「保守」と「リベラル」を明確にする時期に来ているのかも知れない。鳩山総理には、予算も、一応の決着が付いたし、予算成立を機に退席される方がよいのではないかと思う。誰かのように地位に恋々としても、国民はそれを望んでいないことぐらいは、聡明な総理のことだから分かるんではないかと思っている。
2009.12.25
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年末も迫ったが、28日に、今年最後のゴルフに誘われているので、練習を兼ねて姉と、いつもの一庫ゴルフに出かけた。今日は、連れ合いは、肩の痛みがまだ取れないので、プレーはしないがついて回ることになった。天候を気にして、1週間前から週間予報に注視していたが、1週間前には曇り時々晴で、降水確率30%ということや、その時非常な寒気があったが、それも緩み、最高気温は12℃という予想だった。それが、晴時々曇り、降水確率20%と回復方向になったが、昨夜は、気象予報士の顔を立てる程度に、少し雨が降ったらしく、地面が濡れていた。今朝、念のために天気予報をチェックすると、晴で、雨は降りそうになかった。ただ朝方の霧はいつもよりひどく、一面ミルキーな雰囲気である。私より10才年上の姉は、やる気満々であり、少々の雨くらいなら決行するとの意気込みである。このエネルギーはどこから来るのかと思うくらいである。といってもゴルフのスコアは私以上に良いわけではないが、ただただ白球を打つのと、ゴルフ場を歩くのが好きなのである。今日は、連れ合いも一緒にカートで同行するという。何時も通り、約束の1時間前に姉の家まで迎えに行く。スタートを遅い時間にしておいたのだが、姉の家を回るので、自宅を出るのは、7時半頃になる。何時も通り、社会試験中という、若干値下げの、それでも400円の箕面トンネルを通り、ゴルフ場に向かう。相変わらず、開発中の箕面森町は、空き地がなかなか埋まらないようだ。それを横目に見て、友人が住む町を通過し、ゴルフ場に着いたのは、スタート30分前である。我々のカートはすぐ最前線に置かれ、その後も2ボールのカートが何台か続いていた。ここは、2ボールでも回れるが、400円エキストラを取られる。昔は無料であったのだが、整備が進んだ頃から追加料を取るようになった。到着してから、パターの練習や、体慣らしをする暇も無く、ティーグラウンドに立った。今日は、連れ合いがフォアキャディーを務めてくれるが、何と第一打は左のあらぬ方向に飛んでしまった。これは練習と、2球目を第1打として、ラウンドを開始した。1ホール目は、体も回らず、相変わらずの下手くそゴルフだが、1パットのボギースタートだ。ここは、距離が短いので、スコアは参考にならないのだが、その分フェアウェイといえどもアンジュレーションが大きく、平坦な場所が少ないという難しさがある。2ホール目は、ティーショットと2打目のフェアウェイウッドは会心の当たりで、グリーンこそ捉えられなかったが、1m手前までに着いた。でもその後が元の木阿弥、簡単なアプローチをトップして、グリーンを駆け抜けた。カット来て、グリーンに乗った後も、6つもパットを叩いてしまったのだ。これで今日のすべては決まったのだが、如何に精神的なことが支配するかを痛切に感じたし、いい加減にプレーすることが、とんでもない結果になることを感じた。その後は、練習場でフォームを自分なりに変えて、ドライバーが安定し、少し飛距離が出るようになった気がしたことが、実戦でも活きた。4番ホールでの、ドライバーもまずまずで、残り135ヤードを2オンするなど、パー4でパーオンすることが出来るようになった。でもその後のバーディーチャンスを活かせず、3パットとなるなどは、元の自分になってしまうのだった。その後も何故か、アイアンはトップすることが多かった。このゴルフ場は、と、ゴルフ場のせいにするわけではないが、グリーンは元より、フェアウェイの芝も俗に言う絨毯のようではなく、こけむした感じのところが多い。下が固そうでダフルと、大変で、つい腕を引き気味になっているのかも知れない。とにかくアイアンの当たりがいつもより湿っぽかった。その結果、ついに打上左ドッグレッグの7番ホールでは、右からせり出した崖の下に当たり損ないの球が落ちてしまい、OBとなった。ここは距離は短いので、十分パーは取れるし、バーディーも取れるところなのだが、未だに3回程度しかパーを取ったことがないのである。苦手なホールの一つだ。8番ホールの打ち下ろして、その先、巨大な池越えの名物ホールでは、前の組に初心者が居るらしくもたついているうちに、体が冷え、初球は当たり損なった。練習で打ち直した球は、狙い通りの場所に落ちた。その先、最初のボールをこれも練習で打つと巨大な池に吸い込まれてしまい、後から打った球の方は、グリーン右横のカラーに落ちた。コンペでも2回打つことが出来れば、違うだろうなと思いながら、このコースならではの練習球の良いとこ取りをした。最後のホールも、ティーショットはまずまずだったが、フェアウェイウッドですごいダフリをして、姉からも力が入っているねと言われる始末。昼食はプレー費に入っているが、プレーしない連れ合いは、追加料金で、たこ焼きとコロッケを食べる。午後のプレーは12時50分スタートだが、前の組が女性を含む4人で、後ろが2人組と、丁度具合が悪い。待たされ、急かされる心境だが、このゴルフ場には慣れているので、それも図々しくこなしていく。後ろの2人組は、それを承知でか、後半は遅めにスタートしてくれたので、一寸余裕が出来た。その分グリーンに上がってからは、連れ合いに、パターの練習をする時間が出来て、時々後続の見えないところでは、傾斜の上からとか、下からとか、曲がり具合などのパター練習をすることが出来た。インのスタート10番では、ここも超苦手意識抜けない、難しい2打目が打上の砲台グリーンで、その前に大きなあごの高いバンカーがある嫌なホールである。2打目のフェアウェイも、アンジュレーションがきつく、つま先上がりに左足上がりといった具合で打ちにくい。このホールでは2オンした記憶がなく、従ってパーを取ったことのないホールだ。午後もトリプルの出だしである。11番の打上ショートは1オンせず、不満足ながら1パットで、パーは拾えた。12番では、ティーショットが良いところに落ちたが、セカンドが一寸ショートして、2オンならず、3打目のアプローチでまたトップする悪い癖が出た。セカンドで、乗ればパーだが外れればトリプルと何と落差の大きいことかと何時も終わって感じる。13番のお椀のような谷を越えてのショートでは、1打目が良い当たりの手応えながら、逆光で球が見えなくなり、2打目を正として、ピン遠くにオンした。ここで見えなくなった球は、まさかOBではないだろうと思うだけに、不思議で仕方がない。長いパットをピン近まで寄せここもパーとした。1打目は無視である。14番の短いサービスホールも、今日は、ティーグランドが後ろになっていて、一寸勝手が違ったが、そのせいか、落ちたところが、左足下がりの打ちにくい場所で、引っかけたボールはあわやグリーン横の小さな池に入るところだった。グリーン越えのアプローチがうまくいき、ボギーで納まった。ここは、1度バーディーを取った覚えがある。次の15番は、先ず谷を越え、落ちたところから超打ち下ろしで、セカンドが落ちた先から左にドッグレッグという、まあこのゴルフ場の1番の変てこりんなホールである。ティーショットがそこそこ飛べば、ロングだから、打ち下ろしのこのホールは案外パーが取りやすいのかも知れない。姉などは、最初の谷が越えられないので、先ず前方の急な傾斜を降りたところからのプレ4となる。今日の私は、ティーショットが理想的な位置に落ち、セカンドのフェアウェイウッドも最短コースにクリーンヒットで、残り、60ヤードと、バーディーチャンスかと思われた。連れ合いも、期待の声を上げてくれたまでは良かったが、アプローチを2度もしくじり、バーディーチャンスが、ダボになった。気を取り直して、次の16番ホールではティーショットも好位置まで飛ばし、2打目の打上も2オンに成功、バーディーもあわやと思ったが、これも、3パットでパーも逃し、ボギーに終わった。次の75ヤードしかも超打ち下ろしのショートでは、最初の球がトップ気味でグリーンを越えてしまった。後続が来ないのを良いことに2打程練習したが、アプローチアイアンでフェースに乗せると、結構高く上がり、共に手前のバンカーに捕まってしまった。練習場で、80ヤード手前に落ちるとおりの結果かも知れない。最初の球を正として、ボギーとした。最終ホールは、これまた、第1打は、右に飛び、OBではないと思うが見つからない。これを無視して、暫定球を正とし、これは、いつもより少し遠目に飛んだ。こんな時も、最初の球が気に掛かっているのか、セカンドは「ど」が付くほどのダフリでちょろっと前方に進んだだけだった。サードショットはクリーンに当たり、最後の打上100ヤード余を残すところまで付けたが、遊んでしまって、やっと6打でオンする始末。後味の悪いトリプルとなってしまった。姉は120を切るのが目標で、前半の55は上出来だったが、後半は9つも増え、トータルでは120を切ったものの、不本意そうであった。姉はそれでも楽しそうであった。年齢を考えると、たいしたものだと思うし、何時までも一緒にプレーが出来たらいいのにと願うと共に、早く連れ合いの肩が治り、がやがやと3人で回れたらいいのにと考えながら、それほど寒くもなく、風も吹かない好天気に満足した1日であった。一緒について周り、殆どカートに乗らずに歩いた連れ合いは、疲れたのか、帰りの車で、居眠りをしていた。この日に限り、御堂筋線は大渋滞で、普段よりは1時間近く余計に時間が掛かってしまった。28日の連れ合いの学校の先生とのラウンドの練習になったかどうか、そして、当日の天候はどうかなど考えながら、帰途についた。
2009.12.24
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今日は急逝した友人の夫人を偲ぶ会をということで、毎年の忘年会を兼ねた形でいつもの、これも友人がやっている天六の店に集まることになった。私とその友人の関係は高校の同期生であり、高校時代には勿論存在は知っていたが、3年間ともクラスも違い、彼はテニスをやり、私がバッスケットボールをやると言うことで、高校時代にはあまり接点はなかったように思う。私は大学を卒業すると共に、大阪を出て、同窓会にも顔を出さなかったし、通信もなかったのだが、3年半前に、大阪に帰ってきて、バスケットボール部の同期の友人の紹介で、仲間内のゴルフコンペに参加させて貰って以来の付き合い復帰である。このゴルフの会は、昔からずっと続けていたらしく、先月の末に参加した時には既に141回を数えるほどの歴史をもっている。コンペは原則3ヶ月に一回のペースで行われてきたというので、単純計算でも35年の歴史を持っていると言うことになる。この度、夫人を亡くしたという友人は創成期からのメンバーであり、彼とは1回だけラウンドを共にしたことがあるのだが、背も高く、体格もがっしりしていてドライバーなど相当に飛ばす男である。ティーショットでは何時も置いて行かれることが多く、体格の良さを羨んだものである。口数はあまり多くはないようだが、初めからのメンバーであることから、なかなか発言に重みがある。バスケットボールで同期だった友人とゴルフコンペを創成した彼とがたまたま同じ会社に入社し、同じフロアーで働いたと言うことから、私は、バスケットボールの友人を通じて参加メンバーに招じられたという具合である。前回のコンペは、11月の末だったが、創成期の彼が優勝をした。成績もグロスで91と、私などは未だに届かないスコアだった。優勝の弁も淡々としていて、力みも無く回れたので優勝することが出来たと普通に喋っていた。会った当初より若干スマートになった感じの創成者の久しぶりの優勝に皆も拍手を送ったものだが、その時彼は既に夫人を亡くして、1ヶ月を経過していたのだと言うことを年末になったやっと知った訳だ。年末に、ほぼ例外なく毎年届く訃報通知が送られて来る中に、彼からの葉書が入っていた。通常は亡き母がとか亡き父がとか年齢的には順番という感じの訃報であるが、彼の場合は違っていた。貰った私は驚いたが、彼は、最後のコンペが終わり、その後、訃報通知を出したことになる。計っていたわけではないだろうが、コンペの優勝の弁を述べるときには、知っていた仲間は2人だけで、そのほかは、まだ誰も知らなかった。知っていた一人は創成期からの彼の友人で、その友人もコンペには参加していなかったので、その場では、たった一人が知っているだけだったようだ。この2人以外には伝えていなかったようで、その事は夫人の願いでもあったようだ。今年の1月には連れ合いも参加して、新年会で会ったのだが、その時参加された夫人からは元気で明るい感じを受けたものだ。その折には、連れ合いとも良く喋ったようだ。以前から、具合が悪いと言うことはあったらしいが、新年会に参加された時には、まだ病気に気づかず明るく振る舞われた事になる。それから急激に変調が来て、医者の戸を叩いたときには、既に余命3ヶ月との宣告を受けたのだという。非常にショックなことである。その後病院の手厚いケアもむなしく、コンペの前月になくなったのだという。何とも信じられない気持ちだった。夫人は、我々よりも2才年下と言うことで、まだまだ若すぎる死であった。時折新年会や、忘年会などには出られていたようで、明るい性格で、みんなのマドンナのような存在であったらしい。偲ぶ会に集まった皆は、今回の早世にショックを隠しきれないようであったが、特に、事前に知らされていた2人は、言い出すことも出来ず、つらい思いであったと述懐していた。というのも、夫人の要望で、病気のことは伏せて置いて欲しいとのことであり、病気を知ったその2人の友人や、親戚さえも病院への見舞いは固辞されたのだという。葬儀も家族だけの密葬と言うことで執り行われたようだ。従って、訃報届けで夫人の逝去を知った者が殆どで、忘年会の予定が、急遽夫人を偲ぶ会を行うことになったというわけだ。常の忘年会よりも、参加者の数は心なしか多かったようだが、夫人を亡くした友人は、遺影を持って挨拶をした。遺影の夫人は数年若いときの写真であったようだが、夫人が生前にこの写真をと指定していたと言うことだ。華やかな服に、少しふくよかな感じの明るい表情だった。挨拶する友人は、夫人の病気の経緯を淡々と語っていた。勿論病気を知ったときには、相当のショックを受けたという。当然のことであるが、体の変調を知ってから、夫人は長い間、我慢をしていたようで、医者に行く前には、足腰が立たないほどに弱っていたという。余命は幾ばくもないと宣告されたのだそうだが、病院側の篤い手当で、9ヶ月間病床にあったのだと彼は言っていた。その間に、その友人は、心の整理も徐々についていったのであろうか、亡くなった後のゴルフのコンペでは何事もないかの如く参加し、振る舞ったわけだ。おそらく夫人が背中を押して参加させていたことなのだろう。この年末のコンペでの優勝は、亡くなった夫人が、そろそろ優勝しなさいと、後押しをしてくれた結果であろうと皆で励ました。彼も、夫人を亡くしてから、1ヶ月間、2人以外には伏せていたという事から解き放たれた気持ちからか、淡々と喋っていたが、とても私などの真似の出来るものではないと思った。もし私がそんな立場になったら、おそらくは塞ぎ込んで立ち上がれなくなるであろう。彼は気丈だなぁと感じた。「今は一人での生活か?」との問いに、どうやら息子さん夫婦と同居しているらしい。それなら、少し安心だと言うことだが、心が平安になることはないだろう。彼が、ビルの管理人を続けていることも良いことだと思った。女性の平均年齢は、男性のそれより長いことになっている。勿論平均値での話であるが、私などは、是非そうあって欲しいと願うし、またそうでなければ、その先どうなるのか自分でも自分が分からない。彼の内に秘めた気持ちまでは分からないが、表面的な落ち着きと平静さに、感心するしかなかった。挨拶の後は、徐々に忘年会的な雰囲気になって、食事と会話で賑やかしかったが、最後に幹事役の一人が、夫人を亡くした友人への一言を30秒程度で話してくれということで、全員が某かを喋った。皆が早すぎる死を悼む言葉の中に、生前の夫人を知るものは、一応に驚きの気持ちを述べていた。誰かは、我々もやがて逝くんだが、でも、あまりにも早いという言葉に、そうだ、我々もやがて逝くのだと言うことが、そろそろ現実味を帯びる年頃になりつつあることを改めて感じ、私のバスケットボールの仲間だった友人が12年前に既に亡くなっていたことや、他のも、病気その他で、既に亡くなった同期生の事などを思い出した。黙祷。
2009.12.23
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今日は、先月採血をした、検査結果を聞きに行く日になっていた。昔は医者に行くのがそれほど嫌いではなかったが、最近はどうも足が重い。別の病院に通っていたのだが、どうも血圧が高いうえ、血糖値も高止まりである。それにメタボの中性脂肪も多いと、どうやら生活習慣病の3種の神器の兆候があるといわれた。近くの内科でこまめに見て貰った方が良いと言うことで、近所の内科専門医に掛かることにして、そこで、血液を採取され、今日がその結果を聞きに行く日なのである。開院は9時からとなっているが、早めに出かけると大概15分前から診療が始まる。医者は、若いし、近所では評判が良いようだ。しかし最近の医者らしく診療の仕方は機械的である。ここでは、先ず電気式血圧測定器で血圧を測ることになっている。医者はパソコンを横に置いて、私のデータを画面に出し見ている。おそらくこの血圧器のデータはそのままパソコンに送られて記録されるのであろう。何時も最初は高めにですので、今日は3回計ったが、依然としてどうも高めである。血圧は、体の状態を反映すると同時に、精神的なことでも上昇する傾向があるということを聞いた。心理的動揺や緊張で感情が動揺すると上昇する事もあるというのである。 俗に白衣高血圧とか言うのもその一つである。そのほかにも、肥満でも高くなる傾向があり、男性は女性よりも高いとか、起床時にも高くなるらしい。また、食後は上昇し、運動した後も一般的に上昇する。以前に医者に言われたが、入浴後は血管も若干ゆるむのか、適温であればわずかに低下する傾向にあるという。そのほか、寒冷時には上昇する傾向にあるという。あまり気が強くない私は、精神的な上昇、と朝早いための寒さによる上昇、多少メタボであるための上昇分を見込んでも若干高めの結果なのである。医者が「高いですね」というのを聞いて、思わず、「先生、この器械はちゃんとキャリブレートしていますか?」と言ってしまった。どうもこの医者の器械で計測したときには10~15%高めに出る傾向があるように思うのだ。昔ながらの水銀柱で計る血圧計では、多少低めに出るし、近くの町民センターに備え付けられている血圧計ではもう少し低い値が出るからである。高齢も血圧を上げる要因であるから、どうとも言えないが、最近1年間は高いと言われ続けている。従って高血圧症なのであろう。コレステロールには「善玉」と「悪玉」の2種類が有るのだそうだ。「コレステロールが高くて・・・」等と言うが、もともと、コレステロールは体に不可欠な脂質成分であり、その中でも「善」「悪」2種類があるのだそうだ。「悪玉」の方は、LDL(Low Density Lipoprotein)と表され、どうやら比重の低い方なのだそうで、この、LDLは肝臓のコレステロールを体の隅々に運んで行く役目なのだそうだ。そして、この値は、70~139mg/dlの範囲が正常値とされている。しかし、過去にこの値を計測した経験がない。コレステロールの検査といえば、総コレステロールか、「善玉」の方だけであった。その、「善玉」コレステロールはHDL(High Density Lipoprotein)と表され、高比重の蛋白質なのだそうである。こちらの方は、体の隅々の血管壁にたまったコレステロールを抜き取って肝臓に運び、動脈硬化などの防止に役立つので「善玉」と称されているのである。そして、この「善玉」の標準値は、現在では、40~86mg/dlとされているが、私が昔受けた検査結果などを見るとこの標準値は、30~85mg/dlという時代もあった。医者は何故標準値が変わったか迄は説明してくれないが、この1mg/dlの差がどのように影響しているかは分からない。私の場合、「悪玉」は標準値内だが、「善玉」が昔の標準値ではOKでも現在の標準値では低すぎるというのだ。まあ、様子を見ましょうと言うことになった。私としては、適度の運動と食事の節制を続けるしかない。TG(TriacylGlycerol)と呼ばれる中性脂肪は脂質・糖質・アルコール等の取り過ぎや肝臓病・糖尿病で高くなるとあるが、アルコールをあまり飲まなくなった私は、所謂食べ過ぎのためか、それとも血糖値から来るものか、これが標準値に比べて大きな値となっている。次に前回問題になった血糖値だが、値は依然として高いものの、過去1カ月間の血糖コントロール状態を反映する指標であるHbA1c(ヘモグロビン)の値が5割ほど劇的に低下していたのである。依然、糖尿病という範疇ではあるものの、注意して生活した効果が反映されたようで良かった。今回の値は、5年前から何度か検査してきた中でも最も低く、私としては近来まれに見る快挙である。食事に気を遣ってくれた、連れ合いのお陰と感謝している。ところが、尿酸値が、近来になく少し高い値を示している。美食をしたわけでもないし、人体の生理変動で、多少は数値が変わることもあるらしく、様子を見ることになった。とにかく、現代の医学は、コンピューター管理であり、検査至上主義でもあるため、ほんの少しでも基準値を超えると、アラームが出る仕掛けになっている。良い医者は、検査値と過去の経験とをかみ合わせるのと同時に、患者個人個人の体質までも理解して判断を下せるようでなくてはならないと思う。診察が終わり、この間、連れ合いの孫と3人で出かけたときに、夕食をしなかったことで、近々一緒に行こうという言葉を孫はしっかりと覚えていて、その約束を果たすために高槻まで出かけた。おばあさんと言われるのを嫌う連れ合いであるが、この孫に対しては、極めて甘く、且つおばあさん丸出しの可愛がりようである。予定外のポケモンのおもちゃを買ったりして、帰ることになったが、私は、運動第一と途中で車を降り、徒歩でマンションまで帰ってきたのだが、別れて、孫と連れ合いは、又近くで、おもちゃ付きのハンバーグセットを買って帰ったとか。今私は、病気にならないためにせっせと人生の終盤を送っているが、この幼い孫は、そんなことはどこ吹く風、日に日に成長している。滑らかなほっぺたを触りながら、何と素晴らしいことかと思う。そんな事を考えながら、マンションへのたんぼ道をせっせと歩いたのであった。
2009.12.22
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アメリカのフェルミ国立加速器研究所などの国際チームが「暗黒物質」らしい粒子を発見したという記事が新聞に出ていた。私には暗黒物質とは何か、ということから分からないのだが、説明によると「暗黒物質」とは、「ダークマター」とも言われ、宇宙の約1/4を占める物資なのだそうだ。素粒子の5~6倍も存在しているが、光を発したり吸収したりしないので、正体は分かっていないということらしい。分からないのに存在しているというのは、何とも奇妙に聞こえる。光を発していないということで、勿論光学的に観測できるものではなく、且つ、人類が現在、既知としているいかなる物質とも反応しないし、現在保有する計測器では、その存在を捉えることはできないということなのだそうだ。光も放たず、その存在すら、確認することが出来ない物質、即ち架空ともいえる物質なのであり、未だに不明なのだということであった。何故そのような物質が考えられたのか素人には分からない。特に私などは、可視的な物は理解できるが、目に見えない頭の中だけに存在し、理論的には存在するという類のものについては、全く想像も付かないのである。そういう意味で、「暗黒物質」というのは非常によいネーミングだと感心する。私などにも何だそれはと思わせるからである。ここで、錆びた頭で、元素について習ったことを思い出すと、2006年の元素周期表には、原子番号111迄の元素が記載されている。その後、新聞などで、これまでで一番重い113番目の元素を理化学研究所が発見し、「ジャポニウム」とか名付けたとある。さらに現在では原子番号116までの元素が合成されているらしいが、それが表示された新しい元素の周期表をまだ見たことがない。周期表の説明では、どうやら地球上に元から存在する元素は原子番号92迄で後は合成された元素のようである。その中で、地球上の体積の80%近くを占める元素が窒素(N)なのだそうである。地球上とは、大気圏までの範囲を言うことかと理解している。また、この窒素はあらゆる生物の蛋白源であり、アンモニアからアミノ酸に返還して利用することが食糧危機解決の方法として考えられているのだという。窒素は地球における大気圏内の80%を占めているのだが、今問題にしている「暗黒物質」は宇宙全体の1/4を占めているという。即ち宇宙の25%は何物だか分からない物質であるというのだ。窒素は元素であり、不活性のガスである。このように地球上で既に何らかの解明が成されている元素が116有ると言うことであり、窒素はそのうち体積で約8割方を占めると言うことである。一寸奇異な気もするが、貴金属は別として、その他の金属などは、体積ではたいした部分を占めていないのだと言うことであろう。元素の定義はその昔、「純粋な物質で、いかなる方法によっても2種以上の物質に分けることができない」とされていたが、物質を構成している最小単位の粒子として、原子の概念が導入されて、この原子が、元素の性質を規定する基本的なものとなったわけである。暗黒物質は粒子で成り立ち、正体が不明の物質で宇宙に某かの形で、存在しているのだという。地球上で、正体が判明している原子からなる元素とは別の物質が、宇宙には存在するのであろうし、そのすべてが解明されているのかどうかは分からないが、解明されていない「暗黒物質」と呼ばれるものが25%もあるというのである。我々が必要とする酸素は、地球上で約20%を占めていると説明されている。しかし、別の説明では、太陽系において、酸素は水素、ヘリウムに次いで多い元素であり、相対重量比では水素は酸素の1000倍もあるという。それでは、計算が合わないではないかと思うのだが、どうやら、重量と質量の差が原因なのか知れない。この程度が私の理解するところである。「暗黒物質」など、物の本に依ればいろいろな書き方をしていて、私如き凡人が少々時間を掛けても理解の及ぶところではないし、又理解させようとしても分からないように書かれているのである。その程度の知識しかないので、「暗黒物質」が40年も前から存在が予測・立証されていたなどとは、思いも寄らぬ事である。新聞の記事も、今回の発見が世界最初の発見だとするにはサンプル数が少ないために断定は出来ないとされている。その正体が解明できれば、銀河や星ががどのようして誕生したのかを知る上で重要な手がかりになるとされ、直接観測されれば、ノーベル賞級の成果だということである。「暗黒物質」の提唱はスイスの天文学者であるとか、オランダの天文学者であるとか言われているが、なにやら銀河系が、存在するのは、お互いに引き合う力と遠ざかろうとする力のバランスに依っているとの考えで、銀河の存在が分散せずに存在するのは、どうやらニュートンの万有引力により平衡を保って居るのと同じのようであり、間に「暗黒物質」が存在しないと釣り合い上、平衡しないからなのだそうだ。この間、ノーベル賞を受賞された小柴昌俊さんが検出されたニュートリノなども、この「暗黒物質」といわれる仲間であるようだ。ニュートリノが質量を持つことが確認され、質量を持つと言うことは、粒子が宇宙を光速で飛び回っていたのが質量によって動きにくくなったと言うことらしい。動きが速いと言うことは質量が小さく、動きにくいと言うことは、質量が大きいと言うことで、いかにも凡人の頭で納得しやすい説明である。今回検出した可能性がある粒子は「WIMP」と呼ばれ、冒頭に述べたように、電磁波では検出できない粒子からできている「冷たい暗黒物質」なのだそうだ。極低温のゲルマニウム検出器で検出されたと解説されている。エネルギー的には、これら、既知の素粒子や、暗黒物質を除いた7割以上が、ダークエネルギーと呼ばれるものなのだそうである。それでは、宇宙に於ける殆どのエネルギーは、その存在さえも確認されていないと言うことになるわけだ。また、137億年前のビッグバンにより宇宙が誕生したとされるが、この時飛び散ったニュートリノなどの諸粒子の挙動が完全に把握できれば、宇宙の誕生の解明と共に、宇宙の終末をも予測できることになるのであろう。このように宇宙物理学の世界では、解明されていることの方が少ないと言うべきかも知れない。紀元前7世紀に、ターレスは万物の源は「水」であるといい、さらに「空気」が根源とされ、ヘラクレイトスは、「火」が万物の源とした。そして、我らがアリストテレスは、万物の具体的根源は、「水」「土」「空気」「火」であるとした。今から考えれば、随分大ざっぱで、科学と言うよりはやはり哲学のジャンルである。それはたった2500年前のことである。私など凡人には、137億年という年数に対して、たった2500年という期間はあまりにも小さく、且つ工学的には誤差の範囲といっても良い感じである。しかし、今日もたゆまず、宇宙の解明の多くの人が挑んでいることを考えると、次に何が出てくるのだろうかと少しわくわくした気持ちになる。おそらく私が生きている間に殆ど新たな発見や進展は見られないだろうが、こういった事を考えているときに、如何に自分が取るに足らない存在であるのかという気持ちになると共に、この宇宙で生きているということに対する何とも言えない神秘性を感じざるを得ないのである。
2009.12.21
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最近の新聞では、中国企業による海外M&A(合併・買収)が急増しているという。世界のM&A総額が、ここ3年連続して低下し、今年は、5年ぶりに低水準になるという中、中国のM&Aはこのところ増加している。一昨年の2兆5000億円から、昨年は少し下火になっていたが、今年は3兆円を超す勢いであるという。件数も一昨年の110件に比べ、今年は170件に迫ろうかという具合に、5割を越えて、正に鰻登りに増加している。この中で、大きな動きは、勿論資源関連企業のM&Aである。中国は、共産主義国家であり、企業は元々すべて国営であった。石油資源関連では、ペトロチャイナ、シノペック、中国海洋石油(CNOOC)があり、これら3つの会社で中国の石油採掘から精製・販売までの殆どを手がけていて、「三大中華メジャー」として知られる。このところ、通称シノペックと呼ばれる国営の中国石油化工集団公司はスイスの石油会社アダックスを約6500億円で買収し、また、ペトロチャイナと呼ばれ、民営化されたという中国石油天然気集団もシンガポール石油を約900億円で買収したとある。シノペックも、ペトロチャイナも共に売上高は18兆円、14兆円と、とてつもなく巨大であり、従業員数でも共に40万人を超える規模である。日本で比較できる会社では、せいぜいトヨタなどのトップクラスに相当するかそれ以上の会社だと思って間違いない。何しろ13億人もの人口の国が国策として行動する会社である。一旦こうと決めたら行動は早い。これから先も中国の企業、即ち中国に乗っ取られる企業は増加するだろうと、大方は見ている。本来すべてが国営であるはずの中国にも、市場経済の導入とか言いながら、一部資本主義形態を採用し、民間会社が、国策で作られている。こういった民営企業にもM&Aの動きが活発になっているというのだ。私が、以前に良く通っていた、電子機器や電化製品のラオックスも中国小売り大手の蘇寧電気集団に27%の株式取得を許してしまった。あのGMの戦車のような乗用車ハマーのブランドも中国が買収することで合意したという。銀行・証券関係は内容をよく知らないが、香港や、カナダの銀行を買収する動きなのだそうだ。世界のM&Aの水準が、2年前にピークを迎えたときから、約半分に減っている中、中国だけが突出して増加していることに違和感を覚える。また、中国のIT最大手の聯想(レノボ)集団が日本のシステム開発会社SJIを傘下に入れ、これをスパイ的に扱い、日本のシステムを自社傘下の企業に提供せしむるというところまで来ている。このように、世界は狭くなり、中国の足下の対象は、日本の企業の取り込みにあるとの見通しである。中国は今回のCOP15に於いても新興国だと言い張り、CO2の最大排出国であるにも拘わらず、削減に対して、量的な国際的コミットメントはせず、甘い基準で乗り切ろうとしている。このように、対外的に、新興国だと言うときには、内陸部の農民の悲惨さを例に挙げるのだが、対外的には、なりふりを構わぬ居丈高な行動を取るのである。考えてみれば、愚かしいことで、我が国の中国に対する態度の軟弱さというか、信奉に近い朝貢外交は目に余るものがある。誰かが、日本は正に共産国家になり、政府よりも党が権力を持つに至ったと評していたが、小沢一郎がこの国を破滅に導く隠然とした力を持ち行動を開始しはじめているようである。国のトップにして、このような体たらくであるから、一企業がいかに頑張ってもたかだか知れている。小沢は前回訪中時に、胡錦濤に握手までして貰ってと、おそらくそれ以来手を洗っていないのではないかと言うくらい、有り難がっていた。今回は、総勢600人、自らの子分を143人も引き連れての幼稚園児の園外学習的中国訪問の引率をしたのである。これを持って、国民は如何に屈辱的な気分になったか知れない。折しも、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を放映中である。戦争を賛美するつもりは毛頭無いが、そして物語が美談として書かれていることを差し引いたとしても、秋山好古ー真之兄弟やその他明治の英傑の志や行動は大いに学ぶべき所があると思う。そこに描かれた、大国、清の外見はどうあれ、内部の腐敗が、精神清冽な日本に敗れたと言うところであろう。今の中国に比べて興味深い。ところが、今回の日本の闇将軍小沢は、その腐敗した中国におもねることおびただしいのである。これを批判する「保守」を考えるといった名目でのテレビ放送「たかじんのそこまで言って委員会」のメンバーを見て驚いた。新型インフル対策でWHO警戒レベルをどうするかで、対策会議を開いていたさなか、妾の女性と熱海に国会議員の特権である、無料パスを堂々と使用しグリーン席で、ゴルフや飲食旅行に出かけていたあの鴻池祥肇がいけしゃぁしゃぁと出演しているのである。さらに、右翼団体関係者を名乗り、弁護士資格がないのに交通事故など、もめる示談交渉をするような男を雇ったり、給与支払いを架空計上して不正申告していたという西村真悟迄もが出演しているのである。こんな連中を出演させるテレビ局もテレビ局だが、それに安倍元総理が出演し、熱く「保守」を語るのである。どのようにかみ合わせるのか、なんと言っても違和感がぬぐえないのは私だけだろうか。鴻池に至っては、船に関係したことがあると言い、日本を船に例え、「長年走っていると船底にカキやフジツボが着くので、この際ドックインして、民主党にそのカキを取って貰って、その後又自民党が船長になればいい」とか言っていたが、自分自身がその取り除かれるべきカキであることをすっかり忘れているのには恐れ入る次第である。右を向いても左を見ても、真っ暗闇ではありませんか、侠客、鴻池の家に生まれたのなら、もっとすぱっとした行動は取れないものかと、蛙の面に小便だとは思いながら、見ていた。M&Aの話からそれてしまったが、中国企業のM&Aは即ち、中国国家によるM&Aなのである。パナソニックがサンヨーを合併したり、ファミリーマートがam/pmを吸収したりするのとは訳が違うのである。中国国家が、他国を併呑しようとする現れなのであり、三菱自動車に出資するプジョーとか、スズキに出資するVWとも又違った意味合いを持つと考えなければいけないと思う。現在、日本の優良企業であるソニーの最高経営責任者(CEO)はハワード・ストリンガーという英国人であるし、日産のCEOもカルロス・ゴーンというフランス人である。日本には、国際社会で経営を担う傑物は居ないのであろうか。まぁ、経団連の会長が、企業の何たるかを知らず、従業員を牛馬の如く考え、自分と自社の商売と金儲けしか考えない御手洗会長では、この国の産業界も先が見えているとしか言えない。
2009.12.20
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今日は思いの外良い天気になった。少し風が強いので、外に出るとぐっと冬らしい。連れ合いが薬を貰うということで、車で同行したが、車の中にいる限りでは、とても暖かくて気持ちの良い日だった。一方では、雪の便りも本格的に聞こえてきて、スキー場もどうやらほっとしているらしい。年の瀬も迫り、2009年もあと20日あまりを残すだけになった。海の向こうのコペンハーゲンでは、国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)が尻切れトンボのように終わった。しかし、報告を聞いた鳩山首相は、何とかいったということで喜んで「よかった、よかった」と言ったという。どこがどう良かったのか意味が分からない。2013年以降の地球温暖化対策の新たな枠組みについて「政治合意」を採択したなどと伝えられたことが良かったというのだろうか。物を決めに行って、物事が決まらず先送りになって良かったとは、鳩山首相らしい表現である。鳩山首相のことを「ナマコのような人」と表現した評論家がいた。何を言ってもふにゃふにゃしてつかみ所がないと言うことからだそうだ。先の国連では、威勢良く、日本がリーダーシップを取って、2020年には1990年比で25%、CO2を削減すると大見得を切った。あの瞬間は、「おう、日本もいよいよ起き出して、世界をリードするのか!」という感覚を持ち、各国も日本に一目を置いたようなさわやかさがあったと感じた。当初から、そんなことが出来るわけがないと言うことで、冷ややかに見る向きもあったが、これが政治主導だと言わんばかりの勢いを感じたものだ。ところが、25%削減するという数字だけが先行して、その具体的な内訳は何ら示されていなかったわけだ。前自民党政権では2005年比で、CO2を15%減らす目標を掲げていたが、この数字の綾が良く分からないのでよくよく読むと、現政権が言う、1990年比25%減というのは、2005年比に読み直すと、30%減に相当すると言うことらしい。簡単に言うならば、現民主党政権では、前自民党政権の倍、CO2の排出量を削減すると言うことを宣言したわけだ。欧州と同程度の削減目標をぶち挙げた、産業先進国日本に対する評価は高まり、注目は当然集まるわけだが、如何せん、産業界との摺り合わせはおろか、どういった内容での削減なのか殆ど説明が成されず、数字だけが一人歩きをしている。マスコミや専門家、それに悪のりした評論家などは、様々な憶測と私見を述べている。1.森林の吸収、海外からの排出権購入でもせいぜい10%減が良いところではないか。2.25%減なら、鉄鉱、セメントなどの生産量を2割方減産しなければならない。3.原発を真剣に考えないといけないが、社民党などは反対するだろう。4.電力消費は産業界で45%、家庭で55%であり、太陽光発電等で家庭排出を減らすべきだ。5.中国の効率の悪いセメント生産等のCO2排出に日本の技術を提供し、資金援助をすれば減少する。6.所詮温暖化は、21世紀の問題で、22世紀には、核融合、深層地熱、太陽利用などで解決できる。7.産業を犠牲にすると、雇用も税収も減ずる。福祉、教育への影響も甚大だ。8.これまでの、排出権購入にかけた費用を技術開発に回せば、どれほど有効だったか知れない。9.25%のぶち揚げはインパクトが有り良い。国内削減(真水)だけでなく残りは排出権を買えばよい。10.25%減で家庭の負担は36万円増になると言うが、エコポイントなど活用して対処すべきだ。概して、専門家や、評論家は25%減を評価しているが産業界は慎重というか、戦々恐々である。勿論、専門家や評論家は、直接の責任がないからであり、産業界は、例えば製造カット2割などと言う結果になったら倒産増加も必死になるであろうからだ。それにしても、アメリカの対応はどうにも合点がいかない。あれほど、世界の警察よろしく、世界中を戦乱の中に巻き込んでおきながら、事CO2の削減となると、全く消極的なのである。率先して、削減に力を注ぐべき立場であるのにと私などは何時もそう思う。如何にアメリカという国が、国内の産業界に弱いというか、産業界の大物が政界に進出しているのかが如実に分かる。2005年時点のCO2排出量はアメリカが21.4%、中国が18.6%と群を抜いて多く、続いて新興国でこれからCO2を出しまくるぞというインドも4.2%である。これに反して、日本を含むG8の中で、アメリカを除く、7ヶ国の排出量合計は、20.3%とアメリカ1ヶ国の排出量を下回り、中国のそれと殆ど変わらないと言うことである。これら、垂れ流しの国3ヶ国が、消極的である以上、このCOP15が成功したとは言えないと思うのだが、鳩山首相は「よかった、よかった」と言ったのだそうだ。裏では、25%減とか、大きいことをぶち挙げて、一応注目を集めるのには成功したし、国内の産業界からは、先送りすることで当面は攻められないだろうし、めでたしめでたしと言ったところではないだろうか。とにかく「最後は私が決めます」と言いながら、なかなか決めない先送り首相の面目躍如と言ったところである。正にナマコ首相の所以であろう。地球温暖化が、CO2とイコールの意味で捉えられているが、南米沖の太平洋に起こる、エルニーニョ現象であるとか、反対に気温が低くなるラニーニャ現象とか、又、太陽の黒点活動による問題であるとか地球温暖化には、他にも様々な要因が考えられる。中国は餃子問題をもう既に過去のものとしているし、少数民族の人権無視や、石炭の掘削に対する事故でも、人命を軽視し、ただただ生産だけに血道を上げ、闇雲に国力を上げようと血眼になっている国である。間接的に、じわじわと訪れる地球温暖化などについては知ったことではないと言うところが本音なのかも知れないのである。中国から飛来する黄砂一つ取っても、中国内陸部の開発に伴う砂漠化が、温暖化を促進し、雪解けが早まっていることなどを挙げる専門家もいる。日本へ飛来する黄砂は、ますます時期が早まる傾向にあり、被害を被る我々にとって当面の大きな問題である。暖冬と言われながらも、冬が寒く、スキー場に雪が降ることをむしろ喜ばねばならないのかも知れないし、近い将来「雪って何?」と言う子供が存在するという時期が来るのかも知れないと考えると、一寸怖い物を感じる。
2009.12.19
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今日はジェリコーとロマン主義についての講義で標題の講義ではもう既に3回目になる。ジェリコーは1791年生まれで、1748年に生まれたダヴィッドの新古典主義に続いて起こったロマン主義を代表する画家である。アングルから継承し、アカデミーで教鞭を執るといった道を歩んだ、ダヴィッドに対して、ジェリコーは一風変わった人生を送り、32才の若さで落馬事故で死ぬまでに系統立った仕事はしなかったということだ。これをロマン主義として集大成したのが、ジェリコーの7才年若い後輩のドラクロアであり、ジェリコーとドラクロアとは交友関係にあった。ドラクロワについては、次回からの講義になる。ジェリコーはフランス革命以後の世代に育ち、大金持ちの家に生まれたのでお金に不自由はしなかったようである。ジェリコーはそんな環境もあって、無類の馬好きであったという。現代でいえば、格好の良いスポーツカーが好きな若者に似ていると言うことである。従って馬を飼ったり、馬に関する絵画が多いのはそのためであろう。最初に紹介されたのは、「近衛騎兵隊の士官」で、元々の題名は「D氏の肖像」ということだ。ジェリコーの友人でデュードネというフランス士官を描いた作品であるという。この作品は彼が21歳の時に描き、サロンに初出品して、しかも金賞を取ったという。ナポレオンが席巻した時代には、各国にある著名な美術品はすべて略奪され、ルーブル美術館に集められたがその後殆どが返却されたが、現在もそのルーブル美術館にこの作品はある。この作品は馬を主体にその躍動感を表現した生き生きした内容で、すべてが斜めの線で構成されている。ダヴィッドの「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」が凍り付いたような、静的な彫刻を思わせる感じで描かれているのとは対照的であり、ダヴィッドもこれを見て感銘を受けたという記録が残っているという。この、斜めの線を使う技法は、17世紀の画家ルーベンスの「マリード・メディシスの上陸」などの影響を受けているというが、筆のタッチは荒っぽいところがある。当時のフランスでは、ある考えが起こるとそれに反する考えや意見がアンチテーゼとして台頭するのが常であったようであるが、日本の画壇に於けるような陰湿ないじめという感覚はなく、作風の違いはお互いにぶつけ合いながら議論し合っても、日常の生活では友人であり食事を共にするなどというものであった。例えば、音楽家ブラームスがブルックナーと意見は違ったが、共に食事をする仲であったと言ったことが紹介された。「戦場を後にする傷ついた士官」では、ナポレオン戦争で敗れた、士官が、これも馬を引きながら最前線から離脱する弱々しい姿が描かれている。しかも、「近衛兵・・・」の絵に見られたサーベルを雄々しく抜いた姿とは違い、剣を杖にしているある意味ぶざまな格好である。この作品もサロンに出品されたが、作品としては素晴らしいものの、入賞しただけで、厭戦感のためか、評価はあまり高くなかったようである。当然国家的戦争を鼓舞する内容ではなく、敗北を描く内容に共感する向きは少なかったということであろう。当時の戦争は、現代の総力戦という形ではなく、非戦闘員は巻き込まないというか、戦争をする職業軍人を一般の人たちが見物に行くというような時代であったため、作品としてももてはやされ無かったのかも知れない。「水道橋のある風景」では、ジェリコーも当時はお定まりのローマに行ったという事を示す作品で、ローマ賞などは受けていない平凡な作品であるとの講師の紹介である。ジェリコーのローマ行きは、ある種の逃避行であったともいわれる。ジェリコーは、実の叔母と恋愛に落ち、叔母との間に子供まで作ったが、そのことを清算するためにローマに逃げたという身勝手さの行動だったというのだ。そういった意味でか、講師もこの作品を評価しなかったし、ローマに行った証拠品としての意味しかないと言うことだった。さて、私が連れ合いと見たルーブル美術館にでかでかと飾られている「メドゥーサ号の筏」が紹介された。この絵の背景は、1816年、当時の仏領だったアフリカのセネガルに400名の兵士を乗せて入植しようとしたときのことである。メドゥーサ号は浅瀬に座礁してしまう。通常座礁時には、船体を軽くするために捨てられる荷物はすべて捨て、船体を軽くして、潮を待って離礁するのが常識だが、当時の船長は、自分の私物である多数の高級ワインの樽を捨てなかった。そのため、結局、船は転覆を余儀なくされるのだが、この時も、救命ボートは250名分しかなく、これらはすべて士官に振り当てられ、残った下級兵の150人は、船体にある材木で、筏を造り漂流するという結果となった。この筏も、初めは、かいを有する救命ボートに曳航されるが、荒れた海で、無情にもボート側からこの曳航綱を切断され文字通り漂流するのだ。13日の洋上漂流の間に、食糧もなくなって、互いに殺し合って、人肉を食べるというカニバリズムも起こり、後に救助された、たった15人の中の船医がこれらを暴露して大問題になったと言うことである。この絵は、正に助けられる漂流13日目であろうか、遠く救助の船影を見て、手を振る筏上の人たちと、その様子を描いた作品である。この最終作品に至るまでには「筏上の暴動」など、数多くの習作が描かれており、ダヴィッドが描いた死が、国家の大義名分による死であったのに対して、ジェリコーの描いたこの死は、世俗的、運命的なものであった。この作品はサロンに出品されたが、さすがにフランスでは大賞は取れなかったという事である。この作品をイギリスの興行師が借り、イギリス各地で大好評を受けるなど、敵フランスの恥部に喝采する気分であったのだろう。ジェリコーはこういった、少しグロテスクな絵に対して興味を持つという癖もあり、死体を描くことも多かったと言う。又、現在は少し形態を変えているが、パリーダカールという過酷なラリーの背景には、フランスは、車ででも、セネガル(即ちアフリカ)の首都ダカールまでも攻め込める力があるのだということを誇示するために始まったと言う説明もあった。ジェリコーは又一風変わった絵も描いている。精神病を患う患者の肖像画である。これは、当時精神医学が未発達で、精神の病は即ち悪魔の仕業ぐらいに考えられていた中、科学的にこれに取り組むために精神科医の依頼を受けて描いたものであるという。目の焦点が定まらない「盗みの偏執狂」だとか現在でも居そうな疑り深い目をした「妬み偏執狂」のお祖母さん、さらには昔は自分が偉かったという昔を思い出してか、それとも勘違いで自分を偉い軍人だと思っているのか、「軍隊式偏執狂」などの作品を残している。これらはいずれも精神病(中には今日の認知症)に罹患した患者の特徴を誇張ではなく又偏見としてでもなくありのままに描いている。ジェリコーの美意識のもう一面を示した内容と言っていいのではないか。無類の馬好きのジェリコーの絵で私が思い浮かぶ、「エプソンの競馬」はブルジョア趣味で、イギリスに馬を買い求めに行ったときの作品で、馬の商人の依頼で描かれた作品だという。この絵の馬は両足を前後に思い切り伸ばしたように描かれている。私も奇異に感じてはいたが、馬が走るときには決してこのような状態にはならない。ジェリコーが独特の手法で、馬の躍動感とスピード感を表したデフォルメである。こういった馬好きが高じて落馬事故に遭遇したのであろう。講師は、車好きで、交通事故に遭い若くして亡くなったジェームス・ディーンを比喩として話していた。この後は、新古典主義に対抗する形でロマン主義を形成し、ジェリコーの影響を受けた画家の作品の紹介があった。ジェリコーの親友のヴェルネが描いた「へスティングの戦いの後でハロルドの遺骸を見つけるエディス」は、イギリスのアングロ・サクソンの征服王であるハロルド王がノルマン人との戦いに敗れた戦場で、イギリス側の修道士達が、その亡骸を探すという場面を描いたもので、ハロルド王の恋人であるエディスを伴って見つける瞬間を捉えた作品である。新古典主義は、古代ギリシャに回帰することが多いが、この作品は中世にベースを置き、斜めの構図を使っている。コニエに依る「レベッカとボワ・ギルベール」はこれも中世を舞台に、十字軍とイスラムの戦いをモチーフにしている。コニエは、この作品で、ローマ賞を受賞し、以後、トントンと出世し、国立美術学校の校長まで務めたという。しかしながら国立美術学校に入学さえ出来なかった、セザンヌなどの評価の方が後世では高いという芸術は皮肉な一面がある。この絵は、私が幼かったときに読んで感動した「アイバンホー」の一場面だそうで、当時のことは忘れてしまったが、レベッカという名前は覚えていて、妙に懐かしい気がした。馬の足の描き方が、ジェリコーの「エプソンの競馬」に似ているところは、ジェリコーに影響を受けたことが窺い知れる。シャセリオーの「テピダリウム」は古代ローマのポンペイ遺跡で発掘された浴場からヒントを得て描かれた作品だが、画面となるテピダリウムは浴場から出て休憩する部屋を意味するのだそうだ。この部屋は、ガンダーラ美術にも見られる化粧漆喰のストゥッコと言う技法も描かれている。テピダリウムの中で、くつろぐ、半裸や、全裸の女性達が描かれていて浴場が如何にローマ人の憩いの場所であったかをよく示している。私も、連れ合いと、暑さの中回ったポンペイの遺跡で、今は薄汚れた、テピダリウムの中に入ったことを思い出した。最後はレーマンの「フランツ・リストの肖像」である。リストは現代までで、最も優れたピアニストであると言われている。ルービンシュタインやホロビッツなどを孫弟子に持つリストは、現在活躍する名ピアニスト達のすべてが、リストの系列を引くというほどの偉大な人物であったようだ。若い頃は、女性のアイドルだったと言われ、コンサートでは常に成功を博し、女性の失神者も出るほどの盛況であり、この点では、モーツアルトが、コンサートを開くが成功しなかったというの比して、大きな違いである。しかし、人生半ばで僧籍にはいるなど、晩年は、必ずしも幸福ではなかったようだ。そんなリストの若い頃を描いたレーマン作の肖像画は、いかにもアイドルと言われるに値するような、端整な顔立ちを黒装束に身を包んだ姿で描がかれている。そして、いかにもピアノの魔術師と言われたことを象徴するかのように組んだ左手の指が美しく光を当てた形で表現されている。絵画を見るためには、その背景を知ることが必要であり、又それを知ることで、絵画の鑑賞の仕方も変わるものだということが良く分かった。講義が終わって、連れ合いは、講師の先生が書かれた「ヨーロッパ中世美術」という新書を携えて、先生の署名を貰ってくれた。
2009.12.18
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久しぶりに連れ合いの孫と梅田まで出た。勿論連れ合いも一緒である。今日は、昨日よりさらに冷え込んで、この冬1番の冷え込みだったのだそうだ。風邪を引かないようにしっかりと着込んでくるようにお母さんにお願いしておいたので、しっかり着込んで出てきた。いつものように、リュックを背負っている。要らないでしょと言っても、何時も持ってくる。電車の中で、持ってきた本(今回はポケモン)を広げて遊ぶのである。今日は、寒いせいかことのほか電車が空いていて、車両半分は我々の貸し切り状態であった。何やかやと持ってきた絵本を見ながら楽しんでいるうち、もうすぐ梅田という手前で、淀川を渡る。孫は、上流方向の景色が何となく好きなようで、渡り終わるまでじっと外を眺めていた。最初に孫がその風景を見て言った「綺麗だね」という言葉に連れ合いは一寸感動したようで、毎回淀川を通るときは、川面や風景を見たり、見せたりするのが楽しみなようだ。そういえば、水無瀬から梅田の間にこういった広い風景はなく、改めて、我々の住んだ時代とは違うことを感じる。水無瀬駅の改札は、一番京都寄りにある。ゆっくりと階段を上がっていると、電車がやってきた音がした。別に急ぐこともないのだが、さぁ乗ろうと孫の手を取って階段を駆け上がるのだが、とても元気である。前に聞いていたが、最近は階段が好きで、マンション7階の自宅まで階段で上りたがるので付き添うお母さんは困ることもあるようだ。急いで飛び込んだので、当然車両の最後部と言うことになる。だから空いていたのかと思ったが、全体に乗客は少ない。梅田で降りるときは、何とはなしに近くの階段を下りたので、なにやらいつもとは違う茶屋町方面の出口しかない。日頃通った事のない通路を上がったり降りたりして、前の方に歩いていった。今日の主たる目的は、ポケモンに出てくる、小さなキャラクターおもちゃを買うことと、その後は、恐竜の本を買うことである。夏にも一度、一緒に来て買ったことがあるので、売り場は良く分かっていた。ポケモングッズにはいろいろな形をしたキャラクターがあるようだ。例えば、私が覚えているのでは、亀が背中に木を背負った「ハヤシガメ」とか一寸愛らしいお猿の「ヒコザル」とか、中には何処がリアルなのかと思う、「リアルガー」と言うのもいる。こういったキャラクターを売っているコーナーがちゃんとあるわけで、一つ一つは、現代風に言えばそれほど高価ではないとのだろうが、何しろ数が多いので、全部揃えたら大変な額になりそうだ。何しろコーナー一面に吊られているわけだから。子供が沢山群がっているかと思いきや、それほどでもなく、中には、スーパーで買い物をするときに持つ黄色いかごを持って一つ一つ真剣に選んでいる、大学生並みの年齢の男がいる。正に真剣にどれを選ぶか悩んでいるようなのである。孫の方はと言えば、棚の背が高いので、上の方は見にくいから時々抱き上げて見せるのだが、「これとこれ」と素早く取って、殆ど迷いがない。この決断力はどうしたことだろうと、大学生のような男の顔とつい見比べてしまった。前回もそうだったが、3個までは買って良いという連れ合いに「え、良いの?」と言いながら最後の1つも簡単に選ぶ。家にも同様のキャラクターがあることを知っているので、重複していないかと確認するように、「持っているのと同じじゃないのか?」と問うが違うのだそうだ。これだけのキャラクターをすべてではないだろうが、すでに持っている物とそうでない物の区別が付くのだと言うことに一寸した驚きを感じる。私などは、本が好きで良く本屋で題名を眺めるのだが、これは読みたいなと思って2回も既に買っている本と同じ物を買った覚えがある。それから比べるとたった4才で、たいしたものである。決められた物をさっと選んだら、すぐレジに行って袋に入れて貰うと、後のおもちゃ群には殆ど興味を示さないのも不思議なくらいである。先ほどの男はまだ選択に迷っている。孫はなにやら遊びたいと言うのだが、遊ぶ施設はない売り場なので、簡単に諦める。この辺りの切り替えはたいしたものである。ついでに併設されている店を回って私のジャケットの適当な物がないかと探してみたが、殆ど素通りで次の目的地である本屋に向かった。その前に、少し疲れて、ジュースを飲みたいというので、近くの一角で、腰を下ろして、ヨーグルトの飲物とアイスクリームのようなものを食べた。本屋に着く途中で、連れ合いは、買い物をすると言って、少しだけ寄り道をする間、孫と2人で、本屋に到着、「さあ、恐竜の本」を探そうと言うことになった。孫は恐竜が好きなようで、夏に大阪ATCであった「大恐竜展」に一緒に行く前から、私の持っている恐竜の図鑑を見るのが楽しみなようで、連れ合いが今日クリスマスのプレゼントに買ってあげようと決めていたようだ。店員に場所を聞いて行って見ると、結構沢山の種類があり、全く幼稚な本から、幼稚園児用とそれより少し上の年齢対象のものまで各種有る。殆どが、セロファンの包みで覆われているので、店員に頼んで、いくつか中身を取り出して貰った。なにやら、見る方向によって絵が少し変わって見える工夫した本もあって、孫はそれが良いというのだが、いかにも薄っぺらで、その場しのぎのような代物だったので、私は必死に分厚いけれど内容の沢山書いてある方を勧めた。ひらがなのルビを振ってあるので、何とか読めるだろうという本を、いろいろ説得して勧めたのだ。曰く、「あんなちゃっちい本は、一寸読んだらもう面白くなくなるよ、こっちの本は、少し難しいけれど、今でも平仮名が書いてあるので読めるし、一寸大きくなってもっとお兄ちゃんになってもずっと面白く読めるよ」と言った具合である。ある種洗脳されて、私の薦める本に決まったところへ、連れ合いが現れた。急にトイレに行きたいというので、一緒に行って帰ってくると、連れ合いは、「私の思っていた本はこっちの方なの」と大人用のコーナーに導いていった。そこには、ナショナルグラフィックの出している恐竜の本が置いてある、内容は、少し違うが、それも先ほどの学研出版の本と同様、平仮名のルビ付きである。「こっちの方が良いと思うよ」と今度は連れ合いが洗脳する。さっきまでの努力は何だったんだろうと思いながら、孫は、同レベルのその本に、納得した。レジで、クリスマス用にと包装を頼むときに、孫が選んだのは赤い色の包装紙で、赤いリボンだった。「男は青だろう!?」というのは最近は流行らないようだ。包装を待って手にしたその本は、なかなかセンスの良いものだと感じた。さあ、用事が済んだと言うことで、少し時間が早いが、帰途についた。その時「喉が渇いた」というので、スポーツドリンクを選ぶ孫にそれを飲ませ、電車に乗り込んだ。その時はもう既にお昼寝タイムは過ぎていて孫は少し動作が緩慢になっていた。帰りの電車も行きほどではないが差ほど混んでいなかった。3人掛けのシートで、横にならせて寝なさいと言うが、なにやら、私の膝に乗り、私にもたれかかるようにして寝始めた。膝に掛かる適度な重みと、だっこした孫から伝わる暖かなぬくもりを、私自身も快く感じるうちに水無瀬の駅まで着いた。だっこして駅に降り立ったが、この前よりも少し重くなっているのを感じた。連れ合いの「歩こうね」という言葉に最初、首を横に振っていたが、階段の所に来て、自分で歩くことに同意した。帰り道で連れ合いが「あっち(学研の方)の本よりこっちの方が良かったでしょ」と半ば自分の洗脳状態を確認したが、「うん」と言う孫の顔に連れ合いも満足そうだった。そんなやりとりのうちに、すっかり夕食を採って帰ることを忘れたことを思い出した。そういえば時間が中途半端だったからなとは思いながら、孫が「喉が渇いた」というのがその合図だったのかなと2人で後で悩んだ。孫はお母さんに会うなり「今日は何も食べてこなかった!」と言ったそうで、なにやら画竜点睛を欠く一日だったねと話し合った。
2009.12.17
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京都大学の卒業生による公開講座と言うことだったが、京都大学には関係のない私だが、講演の名前につられて、はるばる出かけた。連れ合いは、京都大学に少し通ったことがあるので、まんざら関係がないというわけではないが、私が行くというので、まあ付き合いで付いてきてくれたという具合だ。講演のタイトルは「危機に立つ人類・地球・文明」と言う内容で、講演者は勿論京大の卒業生である元最高裁判所長官である山口繁氏だった。場所は前にも太陽の黒点に関する講演で訪れた京大吉田講堂である。以前はそんなに遠い気がしなかったが、急に寒さが増してきたせいか、少し眠かったせいか、今日の道のりは以前より遠い気がした。会場にはすべてが京大卒業生かどうかは知れないが、以前の講演の時より多数の人が見えていた。氏は経歴から見て喜寿を迎えられたお年のようであるが、大変お元気そうであり、退官後法曹関係とは一切関わりなく生きてこられたとのことである。もっぱら、散歩中のゴミ拾い、小学生の登下校の見守りなどをして過ごして居られるとかである。現在は、志賀直哉や武者小路実篤らも住んでいた手賀沼の近くに住んで居られるのだそうだ。冒頭、中央(即ち東大か?)に対する京大の反骨精神で育ったと、京大のエートスが自分を作り上げてくれたと、会場の皆さんにか自分にか知れないがエールを送っておられた。講演の内容は、標題の通りであるが、配られたレジメの副題には「未曾有の危機の時代に於けるパラダイム・シフト」となっていた。パラダイムは科学史上の概念であり、一般には「模範」「範例」を意味する語だが、氏は、おそらく、拡大解釈した「認識のしかた」や「考え方」、「常識」、「支配的な解釈」、「旧態依然とした考え方」などの意味合いで使われたのだと思う。要するに、現在社会の環境問題についても、演繹的な物の考え方ではなく、発想の転換をしなければならないという意味ではなかったかと思う。折しも地球環境問題で、COP15がコペンハーゲンで開かれ、各国の代表が喧喧諤々と自国の国益に準ずる見解を押しつけ合っているようであるが、氏は1992年の国連環境開発会議のリオ宣言を引用され、若者に対して、「すべての人類が、持続可能な開発」をキーワードに「清貧」、「足ることを知る」を軸に、自然と人間が共生を図ることの必要性を冒頭述べられた。ローマクラブを引用され、「成長の限界」と、その先の「人類の危機」と言うことから説き起こされた。現在の化石燃料に頼る状態と、工業生産の発展、人口の増加、食糧危機、天候の問題などを考え合わせて、「ワールド3」というコンピューターモデルでのシミュレーションによると、いずれの場合も、100年以内に地球上の成長は限界点に達してしまうと言うものだ。いわく、1.工業生産・人口増加が幾何級数的に増加→食糧不足などで死亡率上昇2.新資源の開発があったとして資源を2倍に仮定する→汚染拡大、人口増加→食糧不足→死亡率上昇3.資源2倍、有効汚染対策実施→農耕地の都市化→食糧不足→死亡率上昇4.資源2倍、汚染対策実施、土地の生産性アップ→生産急上昇→やはり汚染が鰻登り→死亡率上昇と言う具合である。この「ワールド3」というシミュレーションの内容の何たるかは知らないが、なるほどと思う反面、現時点での単一的ファクターを固定したこのシミュレーション自体に問題がないとは言えなくないが、取り敢えずは、100年内に人間は地球上では生きていけないという悲観的な結果しか得られないのである。破綻に対する対策としては、工業面では、工業に投資する量を資本が減耗する量まで落とすこと、人口面では、死亡率と同じ率まで出生率を引き下げていくということで「定常状態」に導くことが必要と結論づけている。そのようにして、地球を救うしかないというのであるから、極めて悲観的と言わざるを得ない。因みに日本が今目指している方向は、産業の面でも、人口の面でも真反対の行動を取っている、即ち地球滅亡のお先棒を担いでいるという結果になる。私が感じたのと同じく、この発表後の反響は、杞憂に過ぎないとされたようだが、この一連の報告書である「成長の限界」によって、地球の物理的容量と人類の発展とがせめぎ合う問題を明確にし、人類の社会への貢献が如何にあるべきかを考える緒を開いたという。いろいろな要素、観点からこれを分解してみると、1.人口世界の人口は1987年に50億人を突破現在ではすでに67億人(実際は68億を超えている)に達していると言われ「飢餓人口」は2009年には過去最悪の10億2000万人に達するといわれている。又化石燃料によるCO2は30%以上増大し、大気汚染により世界では毎年200万人以上が幼児期に死亡しているという。2.気候地球平均気温は1906年から0.74℃上昇し、今世紀内には、シナリオ(条件の違い)によっては1.4℃から4℃の上昇が予想されている。これは世界の平均気温であり、これがとてつもないことは、私たち人間の平均体温がたった0.5℃上がるとどうなるのかを考えたら容易に想像が付くことである。温度上昇は、マラリアの増加、下痢などを増加させるという。又オゾンホールの拡大による、有害紫外線の影響も尋常ではなくなる。気候温暖化による海面の上昇で、数百万人が、移住を余儀なくされたり、海水酸性化で、生態系の変化と食糧の安全保障に問題が起こる。3.食糧土地の生産性は40%程度はアップするものの、この結果は、土地の豊饒さの劣化を招いたり、化学物質の多用により汚染がさらに増加し、人体に悪影響を及ぼす。又食糧の生産高は、現状でもすでにピークに達しているが、今後は人口増加などで、需要は2.5倍から3.5倍に達するという。4.水利用可能な水の減少により、2025年までには、世界で18億人が安全な水の供給を受けられないという結果となり、世界人口の2/3は新鮮な水を求めた何らかのストレスを受ける状態になると言う。別の観点からは、魚の需要も毎年1.5%の割合で増えると予想されておりその結果は漁獲許容量の2.5倍にも達するとされ、とてもマグロのみ我慢するというような訳にはいかないと言うことだ。5.生物生物種も急速なスピードで絶滅しつつあり、両生類で30%以上、鳥類12%、ほ乳類についても23%がすでに危機に瀕していると言う状態である。こういったことと相まって、遺伝子に異常を来し、食糧の安全にも影響すると共に、文化の多様性も急速に失われるという結果を招くとされる。すでに世界の6000語の言語の半数以上は危機的な状態で、今世紀のうちに全言語の内90%が滅びるという説もあるという。正にブリューゲルの描いた「バベルの塔」以前の状態に戻るのかも知れないわけで、この点では、世界共通言語となればいいのではと単純に考えるわけにはいかないのだろうか。これから先は、抹香臭いことや、哲学的視点の話になるわけで、連れ合いは、興味を失った様子であった。子供達に理科を教えている最中にあるので、こういった現象は、当然のこととして理解もし、教えもしてきているわけであるからだろう。講師は、「持続可能な開発」に対するのはガバナンスだという訳だが、そのガバナンスがままならないことが、現在の問題点であり、COP15を取ってみても、総論は賛成であり、地球が危機的状態になると言う事は理解しているのであろうが、足下の国益がどうなのかという、世俗的なことで議論が宙を舞っている感じである。生命が誕生したのは38億年前であるという話になり、生物間の相互依存から、ダーウィンの進化論の話になるわけで、生物は相互依存と同様に相互背反で生きてきた弱肉強食の世界でもあったわけだ。ヒトだけが、雑食性になり、チンパンジーを出し抜いて肉食による脳の巨大化を成し、他の生物を考えることにより支配し、今日に至っているわけである。今後は、極端に言えば、少々汚れた水でも生き残れたり、CO2を物ともしない生物がこれからの世界で生き残るようになるかも知れない。講師はあくまで、人間を対象にしての話で、至極当然なことではあるが、人間が出現してからの今日までの期間は、生物誕生からの期間を見れば、瞬きほどの期間でしかなく、ヒトに取って代わる生物がこの世を支配することになるかも知れないわけである。最後には、やはり、「人類革命」は畢竟「精神革命」に有りというわけだ。合理主義・実証主義を克服した「科学革命」を経て、やがては、神の存在が、追いやられ、個人至上主義・理性至上主義・科学万能主義を生み、自己破滅のルートをたどり始めたのではないかと言うことのようだ。ここで講師の言う、「パラダイム・シフト」の導入が必要になり、成長依存を放棄し、「足りるを知る」と言うことの必要性が出てくるのである。もてる者が、一層その持ち物を増やしたいという気持ちを捨て、あまねく人に分散することこそ必要となると言う考え方は、社会主義礼賛のようにも聞こえるが、共産・社会主義の中にも市場経済が導入された如く、その反対の道として、資本主義のあり方に、社会統制理念なる概念が持ち込まれなくてはならないのではないかと言うことではないかと私は感じた。「持続可能な開発」は過去の所謂「箱物礼賛」の物質的発展ではなく、心を大切にする「精神の進化」という帰結になるのではないだろうか。足るを知り、あまねく人に分散するという辺りは、鳩山家などの人たちに聞かせたい言葉であると感じた次第である。
2009.12.16
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文学から見るアラブ社会の第3回講座があった。今日は、パレスチナ文学のガッサーン・カナファーニー作による「ハイファに戻って」である。この作品も、現代アラブ小説全集の中に収められていて、他にも「太陽の男たち」をはじめ7つの小作品がオムニバス的に入っている。作者は、1936年、英国委任統治下のアッカに弁護士の息子として生まれ、ヤ-ファ(現テルアビブ)に学んだ、パレスチナを代表する作家の一人であり、一時、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の公式スポークスマンを務めたが、36才の若さで、テロリストによる自動車爆破事故に巻き込まれ亡くなった。物語の背景は、イギリスの統治が終わるその年に、ユダヤ人のベングリオンによって、イスラエルの一方的建国宣言が成された。この時起こった、アラブ・イスラエル戦争によるアラブ側の敗北で、彼自身は、故郷を追われることになる。この辺りの実体験をベースに「ハイファに戻って」は書かれているようだ。アッカは、ハイファに近く、現在はイスラエルの領土になっているが、地中海に面した美しい街のようで、2001年には世界文化遺産に登録されている。アッカは、アラブ流にはアッコと呼ぶ方がふさわしいのかも知れない。カナファーニーはイスラエル建国後も、パレスチナ人が人口の3分の1を占めるという街である。その後も、この辺りは、中東の火薬庫と言われ、最近になっても、小競り合いが続く、風景とは裏腹な危険な地帯である。アラブ民族主義者運動ANMは後のPFLPとなるが、カナファーニーはその創設メンバーのハバシュと行動を共にしていた。我々も戦慄を感じた、日本赤軍による当時のテルアビブ空港乱射事件の約1ヶ月後に、イスラエルのテロ組織により自らの自動車に仕掛けられた爆弾により暗殺されるという、数奇な運命を持つ。講師の説明にもあったのだが、彼は本来、敵であるイスラエル人に対しても「人間的に」描くことや「シオニスト文学」にも理解を示したと言うことだった。小説が書かれた時代背景を考えると、敵を賛美するようでもあり、およそ考えられないことであったと想像される。イスラエル文学の何たるかを知らない私にとっては、どうコメントすべきかを知らないが、彼即ちパレスチナ難民の生き様を、この「ハイファに戻って」という小作品から知り得たことは大きな意味を持つ。歴史上、数多くの事件や、出来事を学ぶことはあっても、その歴史の当事者の口から体験を元にした内容を知ることはあまり機会のないことである。歴史の一つ一つの事象も、文学者によって咀嚼されて伝えられることで、なお一層リアルに肌で感じることが出来るのだと言うことを知った。理学、工学では律しきれない理屈の隙間に、鋭く光を当て、内面をえぐり出すようなことは、文学というツールや、心理学や哲学の部門でのみ可能なのではないだろうか。当然この物語を知る上での基礎知識である歴史的背景は、知らなければ理解しがたいのであるが、現イスラエルに於けるパレスチナとの確執が何故に誘起されたのかを、その根底から知ることは甚だしく困難である。何故にユダヤ人が排斥されることになったのか、そして世界中に離散したのか、さらに、何故イスラエルという国が出来上がったのかについて知らなければ、現在のイスラエル・パレスチナ問題を理解することは出来ないだろうし、この一連の膨大な背景は、短時間で語り尽くせるものではない。19-20世紀の初めにロシアで起こったポグロムから講師のパレスチナ問題の糸口は話し始められた。その後、これに対応して、ユダヤ人によるシオニズム会議が開催されるなどあり、第一次世界大戦後の世界列強によるオスマントルコ帝国支配下だった中東の後処理について取り決めた、サイクス・ピコ協定という列強(イギリス、フランス、ロシア)の身勝手な統治形態から端を発する。パレスチナ地域は列強の分割統治とするとしたが、この協定の裏では、バルフォア宣言という形で、イギリス政府の公式的方針として、パレスチナ内部に、ユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)を建設することに同意し、その支援を約束していたのである。このように、一方で、アラブ人独立の承認を約束し、他方ではパレスチナ内での国家建設を目指すユダヤ人への支援を約束するという、このイギリス政府の矛盾した対応が、現在に至るまでのパレスチナ問題の遠因になっているといわれるが、これら当時の大国に翻弄された、パレスチナ人の生活ぶりの一端が窺い知れる。日本に於ける満州国建設の例など、全くの他人事ではないが、今なおくすぶり続けるイスラエルとアラブの抗争は、こういった歴史的立場に立つと、大国の横暴の最たるものの結果として捉えることができる。その後も、ドイツによる反ユダヤ人法の成立など、ユダヤ人に対する徹底的弾圧と殲滅を意図した動きに、ドイツ占領下のフランスその他の国からの移民が、地中海や陸路を伝って、パレスチナに押し寄せたわけである。その後の第二次世界大戦後が起こり、やがてイギリスによるパレスチナ委託統治が終了したのを期し、周辺アラブ諸国はイスラエルの殲滅を目指してパレスチナに攻め込み、第一次中東戦争を起こしたが、逆にイスラエルが全パレスチナの領土の80%を占めるに至った。この時逆にパレスチナ側に大量の難民を生むことになる。その後、ナセルによる第二次中東戦争で、シナイ半島や、スエズの奪還などあったが、第三次中東戦争(六日戦争)でおそらくは裏で糸を引くアメリカの支援の元イスラエル空軍の活躍もありあっけなくイスラエル側の大勝利に帰結し、その領土をさらに拡大することとなった。このように、めまぐるしく変わる領土の境界の中、ヨルダン川西岸の街に住むパレスチナ人のサイードとその妻ソフィアが第一次中東戦争直前の1948年エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で起こったユダヤ人によるパレスチナ住民の大量虐殺事件等、ユダヤ人による数多くのパレスチナの村や町の襲撃のため、昔住んでいたハイファを逃げるように脱出したのだが、その時、不幸にも我が息子ハルドゥーンを一緒に連れて逃げることが出来なかったのである。幾度かの戦争の末書き換えられたイスラエルとパレスチナの境界線上のマンデルバウム門も、第三次中東戦争後は、イスラエルの支配下となり、国境チェックポイントとして必要が無くなった。それまでは、その東側の街、ラーマッラーからハイファへの行き来はこの門で遮られていたのだが、図らずも、イスラエルに負けることによって、その往来が自由になるという皮肉な結果になった。夫婦は、灰色のフィアットに乗ってハイファに向かうのだが、着いたハイファの街は、かつて、避難を余儀なくされた自分たちの街ではありながら、周りの状況はすっかりユダヤ化してしまっており、昔の我が家はあるが、そこには、おそらくホロコーストを逃れてであろうか、ポーランドから移住してきたユダヤ人一家が住んでおり、やむなく残した息子ハルドゥーンは、その夫妻に育てられ、ドウフと名を変えすっかりユダヤ人になっているという現実を知るのだった。そしてドウフは、生みの親であり、自分自身がパレスチナ人であるにも拘わらず、育ててくれたいわば敵であるべきユダヤ人夫婦の方を選ぶのである。この辺りのやりとりは、とても私などが簡単に咀嚼して書くことは出来ないが、昔から、「血は水よりも濃い」と言うことを思う反面、このような局面もあるのだという事を知ることになった。この物語では、20年という歳月が過ぎているわけで、且つ置き去りにしなければいけなかった息子ハルドゥーン(ドウフ)は、生みの親を知らない幼児であったことなど、なにやら中国残留孤児との話にも結びつくような、過酷な状況だと感じた。終わりの会話の部分で、ドウフがサイードに向かって言う、「あなたが思慮深く、分別のある人間が振る舞うべきであるように、行動していたなら、このようなことは皆、起こらずに済んだのです」といい、かつ「あなた方はハイファを出るべきではなかった。もしそれができなかったのなら、いかなる代価を支払おうとも、乳呑児をベッドに置き去りにすべきではなかった。そしてもしこれもまた不可能であったと言うのなら、おめおめとハイファへ帰って釆るべきではなかった。あなたはそれもまた、不可能だったと言うのですか? 二十年が過ぎたのですよ。二十年が。その間あなたの息子を取り返すために何をしたのですか? もし私があなたの立場にあったら、私はそのために武器をとったでしょう。武力に勝る手段がありますか。なんて無力な人たちなんだ! なんて無力な! 彼等は重い鎖にしばられて身動きもできず、進歩することなどないのだ。二十年間、ただ泣いていたのですか! 涙では失った老を取り返せないし、奇蹟をおこすこともできないのです。地上のすべての涙を全部集めたところで、両親が見失った子供をさがすための小さなポートさえ浮べることはできないのです。あなたは二十年間泣いて過した。それが今、あなたの言いたい事ですか。これがあなたの役立たずの、なまくらな武器なのですか?」と長広舌をぶつのである。これに対して父親サイードは、今は心の離れた、ハルドゥーン(ドウフ)に言うのである。「・・・人間というものは、売手と客が肉の曜詰を交換するように、世代から世代へとひき継がれてゆく血や肉のことではありません。私はただ究極的にはあなたが人間である、と規定して話しているのです。お望みならユダヤ人としてでも良いし、あなたが望むいかなるものであっても良いのです。しかし、あなたは物事を、それがそうあらねばならないように理解しなければなりませんよ。私はあなたがいつかこれらのことを理解してくれることと思いますが、その人間が誰であろうと人間の犯し得る罪の中で最も大きな罪は、たとえ瞬時といえども、他人の弱さや過ちが彼等の犠牲によって自分の存在の権利を構成し、自分の間違いと自分の罪とを正当化すると考えることなのです」不幸にして離ればなれになったという境遇ではあるが、パレスチナ人であるとか、ユダヤ人であるとかの前に、人間としての本質を突くこの父親サイードの言葉に、息子はうなだれ聞き入るのである。しかしそこにはもはや息子はいなかったということを悟り、サイード夫妻は現在の故郷である、ラーマッラーに帰って行くのである。物語の本質は何なのか、何処にあるのか、人間の機微は、こうしたことも、過酷な戦争で、ゆがめられていくものであり、この物語として、決してハッピーエンドを期待するわけではないが、それにしても人為的な発端で起こったことが、その後のむごい現実の社会を作り上げているのだということを感じざるを得ない。最後にカナファーニーはサイードの口を借りて、「ハリードが発っていてくれたらと思うよ・・・」とハルドゥーンの弟に当たる、自分たちの息子がやはり立ち上がって戦って欲しいと言うことを妻に言わしめるところで終わっている。講義が終わった後、受講した中の有志と講師の先生とで、尼崎にあるエジプト料理店「ピラミッド」を訪れて、持ち込みのお酒と料理でいろいろな話をしたが、講師を除いて男性は私だけであり、女性群の攻勢にたじたじとしてしまった。それぞれに中東を旅行したり、中東に友人が居てアラビア語を少ししゃべれるなど、中東に興味を持つユニークな人たちとの会話は楽しいものであった。
2009.12.15
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今日は今年最後の新聞の休刊日である。この新聞休刊日は1956年までは年2回だったそうで、その後、年3回、年4回と増え、現在は毎月実施されるのだそうでだ。新聞の電子化が進んでいると言うことも聞いた。書籍も電子化されるという取り組みもある。デジタル化が叫ばれ出してから、こういった媒体も、電子化の方向にあり、古いタイプの人間には、情報は待っていては入らないと言うことになり、デジタル・ディバイド化が始まると懸念されている。パソコンだけには限らず、ITの情報端末機器を有しない者は、ニュースにすらありつけないと言うことになり、富裕な者はより富裕になるし、貧乏な者は、ズーッと貧乏のままでいると言う仕掛けである。世の中がすべて格差社会になると言うことであろう。前に新聞社に聞いたことがあるが、インターネットで配信される新聞には、一般のニュースはあるのだが、個人の論評とか、ある種コラムは出ないと言うことらしい。紙の新聞では、重大ニュースは、何段抜きとか、第一面に白抜き大文字で書かれて、読み手にかなりショッキングに伝わるが、現在の電子新聞では、すべてが同列で、せいぜい主要ニュースをまとめている程度であり、内容の重大さは、読み手側が自分自身で読み取る以外にない。興味のある標題を自ら見つけて読んでいくことになるが、紙の新聞に比べて情報量は遙かに少ないと思う。事件などは実に淡々と事実のみを伝えるというのが大半のようだ。さらに深読みをしようとすると、なにやら無料会員になれと言う煩わしい手続きを経なければ見られないという仕掛けになっている。写真などのサービスや、動画などについても、イギリスのBBCやアメリカのCNNなどに比べると、格段にお粗末である。昔から日本には、「寄らしむべし、知らしむべからず」との発想があり、今回の、「核持ち込み」などの密約についても、完全に戦時統制下のままであり、空恐ろしい。このような意味では、中国の言論統制を糾弾するというようなことは、とても出来ないのではないか。夕方のテレビで、ベルリンの壁が壊れた経緯と、その時のハンガリーの状態を「世界遺産」という番組で放送していたが、国境を守る警備兵にしても、隣のオーストリアには入ることを許可されなかったのである。それは、西側を知れば、今まで知らされていなかった多様な物資と多様な選択が可能だと言うことが分かるのを恐れたためであるという。正に今なお、北朝鮮で行われていることと同じ事が行われていたというのが現状で、洋の東西を問わず、同じ道を歩んでいることになる。一頃に比べると日本人はおおらかで、許容する心が広くなったのではないかと思う。と言うか、もう立ち上がれないところまで来ているのかも知れない。既得権益を得た所謂勝組は、そのままの状態を維持したいのは当たり前の感情だろうし、格差社会での負け組にはもう、立ち上がる気力も財力もないと言うことなのかも知れない。愚にも付かない評論家や、コメンテーターと名前を付けて貰ってテレビ出演している人たちも、恵まれた範疇に入っているのだから、問題点は理解しているのかも知れないが、一切行動に出ようともせず、ただただ「困ったものですね」と言うに留まっているのである。話は飛んだが、インターネットでニュースを見るにしても、有るところから簡単に踏み込めないようでは、そうまでして、知りたくはないと、途中で断念することが多い。それも紙の新聞が健在だからであろう。これが、紙の新聞が廃止され、媒体が、インターネットによる配信とテレビだけと言うことになるのかも知れない。もう少し深くつっこめば、少しは見方も違ってくるのかも知れないが、当然のことながら新聞には購読料が必要なように、あるところから先の詳しい情報を知りたければ、有料になると言うことになるだろう。新聞の閲読に対する調査が行われているのを見ると、新聞を毎日読むという人は全国で70%程度の人たちなのだそうだ。男女の差で言うと、男性は80%を越え、逆に女性は60%に届かないという結果のようである。また年齢別に見ると新聞を毎日見る人は、20歳代の約40%であるのに対し、30歳代以上では急激に70%台となり、その後、漸増して、70歳代では、ほぼ80%の人が毎日、新聞を読むと言うことである。その代わりというか、女性の方がテレビを見る人が多いとの調査もある。また、日本人の場合テレビの平均視聴時間は約5時間で世界で一番テレビをよく見ているという結果もある。これだと、寝ている時間と働いていない時間以外はほとんど休みなくテレビを見ているという勘定になる。70代以上の人たちは1日5時間以上テレビを見ているという結果もあり、無職や主婦、農林漁業者も同様に長時間視聴しているのだそうだ。この結果は何となく頷ける気がする。私の知り合いの言では、定年退職後は何もすることが無くなったので、新聞は隅から隅まで、又テレビもよく見るという人がいる。それくらい自らが積極的にやると言うことが無くなってしまったと言うことなのかも知れない。ところが、10代、20代の人たちはテレビ離れをしているという。この人達は、読書もしない、テレビも見ない、では一体何をしているのだろうか。テレビはと言うと、現在はアナログ放送であるが、2011年にはすべてデジタル放送に切り替わるという。情報量も多くなり、双方向のインタラクティブな見方も出来るようになるようだが、一般の人にとっては、そんなことはどうでも良いことなのかも知れない。私も停年退職してから、終日テレビを見ているときがあったが、ニュース番組を取ってみても、朝、昼、夕方、そして夜と、最低でも日に4回は同じ事を放送しているのである。さらに土曜日はと言うと、それらを総復習して、再度まとめて教えてくれるのである。其れ以外は、昔はやらなかったかすれたようなドラマを流している。コンテンツとして、疑問を感じる内容ばかりなのである。さらにさらに、ニュースの解説のつもりなのか、いろいろな芸能人や、訳の分からない人たちが、わいわいがやがやと、それらについてコメントするわけで、聞いていて、又見ていて、何のメリットも感じないし、うるさいばかりである。ではそんなテレビなら見なければ良いではないかと思うのだが、外出から帰ると何故か癖になった如くテレビのスイッチを押しているのである。自らを分析するに、どうやらBGM的に聴いているのである。音がないと何となく寂しいという感じなのかも知れない。その中にほんの少し、新しいニュースがあるのかも知れないと思う心も働いている場合もあるのだが。そういった調子で、テレビを付けている場合が多く、視聴率が云々と、積極的にその番組を見ようとしているばかりでは無いことの方が多い。最近のテレビは、録画機能が付いているから、タイムリーに見られない人はそういった機能を使えば良いのだが、みんながみんな録画機能を備えたテレビを見ているわけではなく、ついつい付けっぱなしでいる場合が多い。私などは、読書をするときには、耳障りなので、消すことにしているが、見たい番組があるときには、予約する機能があり、これで予約すると見たい番組の時に自動的にテレビが付いてくれるので助かる。最近の宣伝では、どのようにコントロールしているのか、途中で寝てしまってテレビを見なくなったとき、自動的に消えるというテレビも発売されているようだ。これだと、消し忘れて寝ても、又外出しても自動的に切れるので便利であろう。テレビは一過性、新聞は、ある程度振り返ることが出来る、そんな点も新聞の良さかも知れない。新聞が配達されない日は何となく手持ちぶさたな気分になるのは、もうすでに私も老人の域に達したという確認なのかも知れない。
2009.12.14
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今から書くことはどうでも良いことで、又脈絡無くなるかも知れない。不善を行っている気はないが、小人閑居して、何時も大したことの無いことを考えている。私がどう考えても、世の中どう変わるものでもないし、影響力はゼロだからだ。ところが、一国の首相や、その道で、功成り名を遂げた人たちは、一寸したことでも大きく扱われる。人は皆平等であると言うことは、頭では当然のことと思いながらも、ちゃんとそうでないことをわきまえている。2日ほど前の新聞では、日本人が何処からこの国にたどり着いたか、すなわち同じ人類から「日本人」になったルートを研究した論文がアメリカの科学誌「サイエンス」に発表されたとあった。人類のルーツは20~10万年前にアフリカで進化し、アフリカを発したホモ・サピエンスであると言うことは確定的であるらしいが、日本人はアジアの諸民族と同じく、数万年前にインドからタイ付近を通過、中国から韓国を経て来たか、インドネシアを東進したりして辿り着いたということらしい。こういった内容はすでに周知の事実のように思っていたが、今回の発表は、日本人などアジアの国際チームが1900人ほどのDNAを分析した結果得られたのだそうで、その点が新しいということかも知れない。こういう研究を聞いたり読んだりするのはとても興味のあることであるが、残念ながら、今の私の生活には一切関係がない。話は変わるが、日本の教育について考えるというテレビの番組があった。「ゆとり教育」に対して「詰め込み教育」という対峙的論争もあった。聞いてみるといろいろな考え方が有るのだなぁと妙に感心してしまった。要は一筋縄ではいかないと言うことだ。日本人が日本人でなくなり、多様化した、日本人A種、日本人B種などが出来てきたのであろう。これは進化なのだろうか?サウジアラビアにいるときに、大学生のハッサン君に聞いてみた。彼が言うには、初めの頃は、日本人は中国人や韓国人と全く区別は付かないと言い、さらには予想もしなかったが、フィリピン人とも見分けは付かなかったそうだ。当時、フィリピン人の技術者が私のカウンターパートであったのだけれど、いわれてみればサウジ人には、彼も私も、同じように写るのかと妙に感心したことがある。ハッサン君は、私と話していくうちに、日本人と中国人、韓国人とははっきり違うと分かったという。何処がどうとは表現できないが、確かに違うといい、やはり日本人は勤勉で正直、厳格だと言うことになった。否定的な表現でないことで安心したのを覚えている。お互い様で、我々日本人から見るとサウジ人も、カタール人も、バーレーン人も、オマーン人も、クウェート人も果てはエジプト人や、スーダン人等とも区別は付かない。しかし彼は、同じ黒いベールを被っていても、同じ白いオバキュー姿のアラブ人でも即座に国の名前を当てることが出来るようだ。我々が、顔を見て、韓国人や、中国人だと言い当てる程度以上に分かるようである。未だにフィリピン人との区別が付かないという点では引っ掛かるが、おそらくは、中国系フィリピン人との区別は付かないと言うことなのだろう。また、ジンバブウェにいたときには、最初に空港に着いた段階では、どれもこれも同じに見えた黒人も、色の違いや特徴が分かるようになった。丁度、ショナ族と、ンデベレ族の2人のジンバブウェ大学卒の技術者と一緒に仕事をしたのだが、彼ら2人は確かに違うようだった。しかし、南アで出会った黒人と、ジンバブウェの黒人と、ケニヤに出張したときに見た黒人の区別は、私には、全くつかないのである。そして、その時には、この人達のルーツと私のルーツが同じだとはとても思えなかった。さらに、イギリス人やフランス人、又イタリア人やスペイン人等々の西欧人や西欧からアメリカ大陸に渡り新しくアメリカ人と名乗った人たちについては何処がどう違うのか、全くと言っていいほど分からない。アフリカを起点として興った人類は、何故移動を開始したのか良く分からないが、移動することで、某か知恵を身につけ、進化していったのではないかと考えると、遠く、日本にまで辿り着くためには相当の経験と知見を得ていたのではないかと思われる。日本人はその意味では素晴らしく進化した人種であるはずなのだ。しかし、日本は万世一系の天皇が統治するなどと他愛もないことが、ほんの半世紀前までは言われていた。この事は、日本人のルーツがアフリカであることを否定したものであり、サウジのハッサン君が私に言ったように、「貴方はサルから分岐したのかも知れませんが、私はそんなことはありません。私の祖先は人間です」というのに似ている。彼は、ダーウィンの進化論を全く受け入れないのである。これが、所謂サウジの最高学府で学んでいる学生の答えなのだ。故にそういった教育は全く成されていないと言うことだ。しかし、昨今の日本の大学生に、同じ質問をしたらどんな答えが返ってくるのか、興味があると共に、ますます愕然とするのではないかという恐れも感じる。漢字が読めない大学生はまだしも、工学部の学生が、分数を理解できないという現実を知らされたからである。英語が出来ない(と言っても限度があるのだろうが)ノーベル物理学賞を受賞した人がいるわけで、一概には言えないが、分数が理解できない人はやはり工学部ではなく文学部辺りに在籍していて欲しいと思うのは私だけだろうか。私が生まれた頃から1960年頃迄の4年制大学の進学率は8%前後だったがその後急激に増えて、20年前には1/4が大学に進学し、現在では大学進学率は50%と2人に1人と言うことになっている。このように、大学への進学率は年々増えて、高等教育を受ける機会が増えたことは誠に喜ばしいことだと額面上は考えられるが、実体はどうもそうではないのだ。高学歴化社会にはなったが、中身は低能力社会なのである。勿論、昔の旧制高等学校が現在の大学教養学部に相当し、現在の大学院が、昔の大学と言うこととなり、教育界のデノミと言うことなのかも知れない。それでも、50%もの進学率の学生は、余程のことがない限り、卒業はさせられるわけで、そうなると即ち「学士」と言うことになるわけである。基礎の出来ていない学生に1年間でおおよその社会的知識を植え付け、又3年になると就職活動で1年を費やすので、結局、実際には2年しか学ぶ機会はなく(これも真面目にやっての話だが)、4年制の大学は短大と同じ機能しかないというのが本当のところらしい。人生は長くなり、フォルクスワーゲンとの資本提携を進めている、ススキ自動車の会長が言うように、50年前と比べれば、今の年齢は7掛けだと言うことだから、その論法では私もまだ40才台である。働く時間も、学ぶ時間も増えたと言うことだ。大学を、高校と読み替え、大学院を新々制大学と読み替える時期なのかも知れない。他国との比較が良く例に挙げられるが、日本ほど、他民族、多人種国家の意向や、成り立ちを知らない能天気な国民性もないとおもう。最高学府中の最高の大学を卒業した「友愛」の鳩山総理も、オバマ大統領との会談を望みながら拒絶される有様で、会ったからと言って、「仲良くしましょうね」とだけ言うようなことでは、単なるメッセンジャーボーイの役にも立たない。これが日本人的発想なのかとあきれてしまう。昔から、御坊ちゃま育ちだから、お母様にどう教わったのか、自分の言うとおりに世の中は動いてくれるという発想なのだろうか。妙に親しみのある形で登場しただけに、昨今の言動の豹変?には全くついて行けないと感じるし、段々と鼻につくようになってきた。教育改革などと言う前に足元から見直す必要があるのではないか。教育とは、人に成すものではなく、自らに課するものと考えれば、自ずと方向が見えると思うのだが。アジアの新興国や、発展途上国は、教育をもっとハングリーに考えている。教育の機会は与えられるものではなく、もぎ取っていくものだという思想であるようだ。誇れる日本人になりたいと思うし、誇れる日本人になって欲しいと思う。
2009.12.13
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YYと映画を見に出かけた。このところ映画づいてしまった。土曜日の高槻映画館は日頃になく盛況であった。休みとあってのことだろうか、よくよく見ていると、1つの映画に集中しているようで、その映画は、「ONE PIECE (ワンピース) FILM STONG WORLD」と言うアニメ映画である。この日もその映画だけは、満席となっており、明日も満席なのだそうだ。たかがアニメ、されどアニメか、最近の若者の趣味というのは分からない。我々は、パンとコーヒー、紅茶を購入し「パブリック・エネミーズ」を見ることにした。あの「パイレーツ・オブ・カリビアン」で知ることになった、ジョニー・デップが主演する映画で、アメリカの「社会の敵NO.1」と呼ばれた銀行強盗団のリーダーの話である。時は1933年であり、1929年から始まった世界恐慌の最中である。映画のはじめにも、世界は恐慌であるが、銀行強盗にとっては黄金時代だという説明で始まった。ドイツとオーストリアの関税同盟に対するフランスの経済制裁によって、オーストリア経済の弱体化が引き金となり、その影響で、当時世界の金の大半が集まっていたアメリカでの株価大暴落を誘い、それが世界恐慌につながったとされている。(現在のFRBバーナキン議長は違った見解であるという)そんな時代背景であり、世の中はすさんでいた。主人公のアウトロー、ジョン・デリンジャーはインディアナ州インディアナポリス出身のギャングで実在の銀行強盗である。映画のタイトルは。「パプリック・エネミーズ」とあり、FBIから「社会の敵NO.1」と指名され飽くなき追求を受けていた。社会の敵とは言われたが、紳士的な立居振舞いと鮮やかな銀行強盗の手口で、大衆及びマスコミの注目の的となり世界恐慌ですさんだ暗澹たる世相の中、義賊的な人気を持ち合わせていたようだ。ジョン・デリンジャーが最後にクラークゲーブルの映画を見るシーンがあるのだが、ジョン・デリンジャーは主役であるジョニー・デップとクラークゲーブルを混ぜ合わせたような、結構ハンサムな男であったようだ。ジョニー・デップが主役に抜擢された理由が分かる気がした。ジョン・デリンジャーは、幼い頃の母の死により、父親が再婚する頃から反発し、悪の道にはいるようになる。友人に持ちかけられて、近所の食料雑貨店を襲うが、逮捕される。そして、インディアナ州クラウンポイントの刑務所で服役するが、8年半後に仮釈放される。これが生い立ちである。刑務所暮らしの間に、知り合った、同郷の仲間達に銀行強盗のテクニックを学び出所後、彼らと共に強盗稼業を開始する事を決意した。映画は、1933年、仮釈放されたデリンジャーが、受刑中の仲間数人を脱獄させる所から始まる。彼はその後度重なる銀行強盗をするが、銀行にいた客からは金を取ることはせず、「銀行の金を取るのが仕事だ」という辺りで、義賊的な一面を見せ、民衆に迎合される一面を持つようになる。彼の手口は、強盗はするが人は殺さないという点にあり、逮捕されたとき、マスコミから強盗に要する時間はと聞かれ、「きっかり、1分40秒」と広言するなど、マスコミを喜ばす材料も提供した。この他にも、「金は金持ちから奪う」、「100回逮捕されても、100回脱獄する」、「無用な人殺しはしない」、「仲間は絶対裏切らない」、「裏切り者は断じて許さない」、「絶対に嘘はつかない」そして、「今日が最高なら明日は考えない」などのセリフを残している。生まれ故郷のインディアナを皮切りに、隣のオハイオ州、西は「OK牧場の決闘」で有名なアリゾナ州ツーソンまでと、銀行強盗と逃亡の繰り返しであった。その間に知り合った、一人のインディアンとの混血女性ビリーに惹かれ、彼の強引で一途な愛に二人は、お互いに惹かれていくという色添えである。人は殺さないと言うが、脱獄の時には、看守を殺している、そして最後の仕事である、イリノイ州のシカゴの銀行を襲った時、銀行に駆けつけた警察との銃撃戦の際、警官1名を射殺してしまう。それ以前からマークはされていたが、それ以来、警察側の逮捕に向けての、攻勢が一挙に高まる。州をまたぐ犯罪に対し、現FBIも初代長官フーバーはジョン・デリンジャーを「社会の敵NO.1」と指定して、「デリンジャー特捜班」を設けて逮捕に躍起になる。最後には2人のガールフレンドとシカゴ近郊の映画館で上映中のクラークゲーブル主演のギャング映画「男の世界」を見に行くことになった。このガールフレンドの1人であるアンナはルーマニアからアメリカに移住し、当時違法の売春宿を経営していたが、FBIによるルーマニアへの強制送還という脅しに恐れ、FBI捜査官と内通、デリンジャーの情報をFBI捜査官に売っていた。内応の合図は、アンナが派手な「赤いスカート」を着る事だった。彼女と並んで映画館を出るジョン・デリンジャーは、背後から忍び寄るFBIに5発の銃弾を浴び死んでしまう。この時、ジョン・デリンジャーが「撃たないでくれ!」と言ったとされているが、この射殺に対する民衆からの非難のためか、担当捜査官は後に自殺するという結末であった。アメリカは世界的大恐慌の最中のこの時代は、世の中は乱れきっており、同様の銀行強盗で勇名をはせた、ボニーとクライドの「俺達に明日はない」はルイジアナ州や、テキサス州の同時期に起こっている。ジョン・デリンジャーが、5発発砲された銃弾のうち3発が命中したのに対し、ボニーとクライドの方は、150発を超える銃撃で80発余りの銃弾を浴びて射殺された映画の場面を思い出す。この時代はまた、密造で巨利を得るアル・カポネを追い詰め、禁酒法のもと「アンタッチャブル」で有名な、エリオット・ネスら捜査官の活躍もあった時代ある。世界の恐慌はこういったことをアメリカで引き起こしていたと言うことかと改めて思った。連れ合いは、自治会があると言って帰宅したが、私は続いて「イングロリアス・バスターズ」を観た。この映画は、かつてのイタリア映画「地獄のバスターズ」を焼き直したものだと言われているが、物語は、1941年第二次世界大戦中のナチス・ドイツ占領下であるフランスの片田舎に、「ジュー(ユダヤ人)・ハンター」の異名をとる、ナチス親衛隊(SS)のハンス・ランダ大佐が訪れるところから始まる。国外逃亡を図ったユダヤ人達、4家族の内1家族は、そのフランス人農家の床下に声を潜めて、隠れている。非情な言葉の追い込みで、ついにフランス人農夫は地下に隠れているユダヤ人一家のことを告げさせられる。ランダ大佐は部下に命じて、マシンガンで床下を激しく掃射するのだが、一人、娘のショシャナはすんでの所で、ランダ大佐の目こぼしで生き延びる。一方、「イングロリアス・バスターズ」と呼ばれるユダヤ系アメリカ人を中心としたナチス殲滅の命を帯びた、連合軍の特殊部隊のレイン中尉が率いるメンバーは、次々とナチス兵を各地で血祭りにあげ、アパッチ族の血を引くレイン中尉がアパッチの方法に倣って頭皮を剥いでいた。また、ナチの中でも、頑強に抵抗する将校を、バットで殴り殺すという悲惨な行為を見せ、部下の軍曹に、ナチが作戦展開中の場所を示させて次々と殺戮を重ねていく。その軍曹は、この作戦の生き残り証人にとするべく釈放され、やがては、ヒトラーに報告し、ヒトラーを激怒させると言うことになる。ヒトラーのあまりに漫画チックな顔は、本来可笑しさはあるものの、悲惨な話の中では笑えない。大量のユダヤ人を無差別に殺戮しながら、自分の部下であるナチの兵士が殺されることには異常になると言う神経は、やはり何処かおかしい。この映画に出演したフランス人はナチに迫害された人たちであり、ドイツ人将校を演じる俳優もナチに迫害された人たちである。その他も、オーストリア出身とかスペイン人とかで構成されたキャスト陣は、どんな気持ちでこの映画に出演しているのだろうかと思った。ナチスに家族を殺されやっとの思いで逃げ延びたショシャナはミミューという名前で、パリで映画館主になっていた。時は1944年6月という設定であるから、私が生まれる少し前のことである。映画館主となっていたミミューは、パリでナチス首脳部の集まるドイツ国策映画特集の企画を組み、その裏で復讐の牙を剥く。そして、「イングロリアス・バスターズ」もまたその劇場での爆破作戦を練ると言う具合に映画は進行する。映画興行を通じて、ミミューはドイツ軍の英雄で映画好きのフレデリックに強引に言い寄られることになる。このフレデリックは、イタリア戦線で300名を超す籠城兵を殲滅されたということから、兵卒ながら、ゲッペルス宣伝相の気に入られていた。このナチスのプロパガンダ映画のプレミア上映の話は、すでに収容人数の多い別の映画館で行われる予定だったところ、フレデリックのゲッペルスに対する具申で、収容350名程度のミミューの映画館に変更することになった。映画の内容は、フレデリックの戦績をドキュメンタリータッチで描いた「祖国の誇り」であり、フレデリック自身が登場している。この活躍の映画化で、ドイツ人の士気を鼓舞するために、ナチの総統ヒトラー、ナンバー2のゲッペルスなどナチ要人のすべてが、小さな劇場に集結する。その事実をつかんだイギリス軍はナチス諸共その映画館を爆破すべくレイン中尉率いる「イングロリアス・バスターズ」を動員する。連合軍側は、イギリス人の将校をドイツ人二重スパイのブリジッドと接触を図らせるが、そのやりとりは、地下のバーであり、いざというときには、行動が非常に難しい場所であった。ドイツ将校に変装し、情報を聞こうとするのだが、近くの席では兵卒の子供が生まれたとの祝いで仲間で騒いでいるのと鉢合わせになる。そこに居合わせたゲシュタポに、ドイツ語のなまりを問い詰められ、やがで事態が発覚、壮絶な撃ち合いとなる。二重スパイのブリジッドだけは何とか助かるが、足を負傷し、靴をバーに置いてきてしまう。何食わぬ顔で、プレミヤ映写会に出席するが、足のギブスをめざとく見つけた「ジュー・ハンター」のランダ大佐に見破られ、別室に連れ込まれ、置いてきた靴で、本人であることを確認すると、絞め殺してしまう。この辺りの、言語の問題や、心理的やりとりなどは、戦争映画ではないと感じさせる。アルド中尉とは別に、ミミューもナチスに対するリベンジを考えていた。狭い映画館にナチス要人が入ったところで、外からドアに鍵を掛け、スクリーン裏で、燃えやすい多数のフィルムに火を付けることによって、館ごと消失させてしまおうという計画だ。その計画は見事的中、ナチスは敢えなく壊滅するのだが、ランド大佐は、計画を見抜き逮捕したアルド中尉にアメリカの司令部とコンタクトさせ、この計画に自分も初めから加わっていたことにさせて、亡命先と金を要求し、自らの保身を計るのである。しかし、最終場面で、これらはすべて反故にされ、余生を送るべき島でナチの軍服を脱ぎのうのうと暮らすことを許さないレイン中尉によって、額にハーケンクロイツのマークを刻み込まれるのであった。つい最近まで、ナチ狩りというのが行われていたようだが、その後どうなったのか、このハーケンクロイツのマークが額に刻み込まれていない限りは、判別は難しいであろう。ナチの暴虐は今更書くこともないほどだが、目には目を的な発想でのこのストーリーは、戦争の悲惨さから派生するものを伝えているような気がする。
2009.12.12
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地球温暖化の話が世界中を巻き込んで議論されている。現在、第15回の気候変動枠組条約締約国会議がデンマークのコペンハーゲンで行われている最中である。略称をCOPと言い、Conference of Partiesの頭文字を取っている。従って今回の会議はCOP15と言うことになる。と言うことで過去に14回地球環境、特に温暖化について世界で議論されていることになる。第1回のCOPは1995年にドイツのベルリンで開かれているが、その準備期間として、1992年にアメリカのニューヨークで国連気候変動枠組条約(UNFCCC)が採択され、2000年までに1990年レベルに温暖化ガスを削減する、と言うところから始まっている。我々に馴染みが深いものになったのは、COP3、すなわち1997年12月11日に京都の国立京都国際会館で開かれた第3回の所謂、地球温暖化防止京都会議からである。そこでは、地球温暖化の原因となる、温室効果ガスである二酸化炭素 (CO2)など6種類のガスを削減し、削減率を1990年を基準として2008年から2012年までの期間中にこれらガスの合計排出量を少なくとも 5%削減することを目標に各国別に値を定めて達成することが決められた。ところが、各国の事情もあり、削減するという目標が逆に増えるというノルウェー、オーストラリア、アイスランド等の国も現れ、中でも、世界最大のCO2排出国であるアメリカは、この議定書自体を批准せずに離脱するという有様であった。時のアメリカ副大統領アル・ゴアは批准を推進し、この功績で、ノーベル平和賞まで受賞したにも拘わらず、クリントン、ブッシュ両大統領とも国内産業界からの反対を受け結局アメリカは批准せず、京都議定書を拒絶したのである。最近ようやくその政策に変化が出始めたようであるが、アメリカの横暴は、こういったところにも歴然としている。地球のことを考えているのかと思えば、そうではなく、自国の有利だけを考えるというものだという歴然とした証拠である。排出ガスはすなわちCO2削減という風に単純化され、CO2削減がその元凶のように言われ始めている。何でもかでもCO2を削減すれば事はなるという方向で世界中のベクトルは動いているようである。ところが、少数意見ではあるが、武田邦彦氏の「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」とか、槌田敦氏の「CO2温暖仮説は間違っている」などの、真っ向から温暖化の原因がCO2にあるとの考えを否定する向きもある。武田邦彦氏等は、良くテレビにも出演しているので、馴染みの顔になってしまった。CO2温暖化に疑義を持つ人たちは、これらの人たちだけではない。勿論これらの人たちの考えは間違っていると反論し、「地球温暖化問題懐疑論へのコメント」と題して、CO2温暖化説を正当づけるの反論(正論?)も又存在すると言った具合で、素人の我々には五里霧中と言うことになる。昨日の日経新聞に、「温暖化データ改ざん疑惑」というコラム記事が掲載されていた。地球温暖化の研究で有名なイギリスの大学で、気温データが改ざんされていたというのである。疑惑というのは、アメリカの教授が、1999年の国連世界気象機関の報告書に掲載した過去1000年の気温グラフを一部改ざんし、気温は下降していたこともあるのに、上昇を続けていると発表していたのである。元々は、イギリスの古気候学者のマイケル・マン教授が木の年輪から過去千年以上の気温変化を見積もった結果、気温変化が19世紀以降の急激な上昇カーブを示していたグラフを発表した事に始まる。このデータは人為的な操作が行われたのではないかとの、議論を呼び、この「ホッケースティック曲線」と呼ばれる曲線への疑義として「ホッケースティック論争」が起こったのである。この「ホッケースティック曲線」が呼び水になり、19世紀以降の地球温暖化は、すなわち人間活動の結果に起因すると言うことを強く印象づけ、ベースはこれから始まったのだと言うのである。この結果、CO2が悪者になるわけだが、果たしてそうなのかという疑問が再び提起されたことになる。この、「改ざん」は、アメリカのフィル・ジョ-ンズ教授が、「気温低下を隠すトリック(策略)を終えた」という委員宛のメールがコンピュータから流出した事で発覚し、アメリカのウォーターゲート事件になぞらえて、「クライメート(気候)ゲート事件」という新語も生まれている。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)では今も、「近年の気温上昇の原因の大半は人間活動によるもの」と結論づけてはいるが、CO2が増えているにも拘わらず、ここ10年の気温上昇は止まっているなど新たな知見も出ていると言うことで、今後ともさらなる論争が起こることが示唆されている。今年の2月には、地球の気候は当面「寒冷化」に向かっているという記事もあった。2005年から0.2℃程度低下しているグラフが添えられていた。その図には、IPCCが予想した温度では、0.2℃程度上昇し、それは、2025年には0.5℃は上昇するとある。ここで、2000年のCO2排出基準をキープできれば、2025年でも0.1℃程度の上昇に抑えられると書かれている。また別の日の記事では、東大などで計算したスーパーコンピューターの結果によると、2025年には、気温は0.3~0.4℃の上昇だとある。これらが如何にスーパーコンピューターでの計算結果と言えども、どの様なプログラム内容なのか、どんなデータがインプットされているのかによっては違った値が出てくるわけである。素人は、ただただ、権威のあるところが出した、権威のあるコンピューターで出てきた答えを鵜呑みにするしか無く、議論が分かれていることに疑義を感じないわけにはいかない。一方では、全球(地球)凍結は、億年の単位で起こるとも言われているので、そんなとき排出ガスを如何に規制しても何の役にも立たないわけであり、経済変動でも、いろいろな波があるのと同様、どんなきっかけで、上昇経済が恐慌になるか分からない時代である。そんなことが分かっているのか、今回のCOP15で温暖化ガスの削減目標を日本や欧州では1990年比で2020年には25%減としているのに、アメリカ、カナダ、等はわずか3%減だと言うし、オーストラリアなどでは、13%増もありうるということである。クジラに血道を上げて抗議するくらいならCO2を何とかしろと言いたいところだ。また今日のテレビでは、タイのバンコク近くの海岸の都市が、海水の水位が上昇したために、食品を売る店が膝上まで水に浸かると言った状態なのだそうである。これと同じ現象が、南太平洋やインド洋、カリブ海などに浮かぶ発展途上の島嶼(とうしょ)国にも起こっており、近年ツバルなどの国は消滅する危険があると聞くと、ますます混乱してくるのである。
2009.12.11
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第59回目になるゴルフコンペに参加した。私はこの会に入って16回目のコンペになる。ゴルフ場はいつもの高槻カントリーである。7月の枚方カントリーで、初顔の人達と同じ組になり、若干、ほどよい緊張感があったのか、高槻カントリーよりは距離が350ヤードほど長いにも拘わらず、ようやく100を切って回ることが出来た。それから3回のコンペで徐々に成績を上げ、その後3試合とも100を切ることが出来ていた。ところが10月のコンペで、どうしようもない大叩きをしてしまった。先月のコンペでは、再び90台で回れて、あの時の不調は何かあったのかという感じだったが、今日も、又100の壁に阻まれた。今回は参加人数が少なかったので、あわよくば優勝のチャンスはとも思ったんだが、前々日の打ちっ放し練習では、ドライバーの当たりは、それほど悪くはないと思ったのだが、フェアウェイウッドが、湿ってしまってその気持ちを引きずってのコンペとなった。結果は、悲惨にも18人中の15位であった。それでも最後の飛び賞に掛かったから良いものの、31人中28位と散々であった前々回と同じく、メーカーから数えて4番目の成績になってしまった。やはりこの辺りが私の限界なのであろう。練習をしながらも、どうすれば改良できるかと言うことを体得していないため、少しスコアが良くなっても、又元に戻ってしまうのだろう。今回は、私にとって一人だけ新しい人が加わったが、その方とは歩こう会で一緒になることもあり、まんざら知らないわけではない。後の二人は、私よりハンディーの多い先輩と、同じハンディーの女性であった。この組では、初めてスコア取り纏めの役になるという、高ハンディー者同士の組合わせであった。5組あるトップで、最初の予定はアウトスタートだったが、今日は午後から雨が降るとの予報もあり、早く終わろうと前が居ないインからのスタートになった。朝1番のティーショットはうまくいかないのが相場であるが、私は最初のスタート組のトップを引いてしまった。2番手の組は、低ハンディーの飛ばしや揃いである。その人達が見ている中のトップでのティーショットはやりにくかった。何時もと同じく、体が回りきらないためか、右のカート道を越えるラフに曲がってしまった。それからも、苦手意識が出ていたフェアウェイウッドでダフリ、さらに焦って、次のアイアンでもグリーンを捕らえることが出来なかった。ダボスタートである。女性のみパーで上がっていた。次のショートは、何時も苦手意識がある。距離は短いのだが、まともに飛んだことが少ないのだ。今日の打球もなにやら自分には分からなかったが、キャディーは、暫定球を打てと言う。一体どこに飛んだのかと見に行くと、右の藪の中でかろうじてセーフであった。そこから木の枝をくぐり抜け、バンカー越えのグリーンには乗らず越えてしまった。これまたダボ、と言った調子で始まった。3ホール目は、サービスのミドルだが、なんとここで、同組の女性がバーディーを取った。ここでの女性のバーディーは、1ラウンド分の無料券がもらえるホールであり、この女性は、出だしから2連続パーでの後のバーディーである。そのことで、女性は勢いづいてしまった。私の当たりは依然湿っぽく、クリーンに当たらない。この辺りからキャディーの目はその女性に掛かりっきりのようになり一寸気に掛かっていた。そこから先は今度は、初めて一緒に回る男性が連続パー2回とその後のバーディーと調子を上げてきた。ハンディーを考えると、この調子でいくと、今回の優勝はこの男性かと思えるようになってきたようであった。私にとっての魔の13番ホールでは、何時も右に出して、なだらかな崖に落ちるとすぐOBとなっていた。今日は、予め左に向いて打つと、結果はフェアウェイセンターに落ちた。何時も同行する同期の友人が精密検査で来られなかったのだが、彼の忠告がここで活きたわけである。ところがこのホールで、先輩の第2打が左に出てOBとなってしまった。そこまではどうしようもないのだが、キャディは、跳ねた音がしたから大丈夫そうですというのだ。その時私は打球を見てなく、飛んだ方向が右か左かも分からなかったのだが、左と言うことで探しに行くと、隣のコースに落ちるOBだった。後からのこのこ来たキャディに「あれと違うのか」というとやっと降りていって、OBを確認した。キャディのお粗末さがここで決定的になった。次のショートでニアピンとバーディーを取ったのは優勝を伺えるかという男性だ。私を含め後の3人は、ボギーであった。それまではまだ良かったが、次の、15番では、ドライバーも快音はなく、フェアウェイウッドも、ちょろちょろする上、最後のアプローチでトップしてグリーンの向こう側にOBしてしまった。暫定球でも、グリーンを捕らえることが出来ず、結局ダブルスコアになってしまった。そこまでは、今まででも良くあることだが、OBボールを探しに行ったキャディは、ろくに探しもせず、見あたりませんという。グリーンにやっと乗せて、私が小走りに探しにいくと、道の向こうに落ちているではないか。この時は、さすがに、むかっと来た。ここでキャディへの不信感は又増長して、プレーにまで響くくらいになった。はじめから当てにはしていないキャディであるが、そこからはキャディを無視することにした。他の人が打った球でも「一寸右方向で、バンカーに入ったかも知れません」とか平気で言うのだが、私は遠くまで見えるので、バンカーに入っていないことは良く分かる。いい加減なのである。これで良くキャディがつとまるものだとあきれる。思い直して、次のロングでやっとパーを取ることが出来た。順当なパーではなく、アプローチで3オンはしなく1パットでやっとの事だった。最終ホールもフェアウェイウッドが湿ったものの、最後のアプローチショットがピン横に付いたにも拘わらず2パットと2回目のパーを逃してしまった。20分程度の休憩の後、後半をスルーで出発した。出だしは4人とも左に引っかけて大体同じ位置のラフに落ちた。そこからグリーンまでは似たり寄ったりだったが、何と私はここで4パットしてしまい、後半盛り返す気力をすでに失せさせてしまった。くだんの女性は、2番ホールから連続4ホールパーと絶好調で、普段口数の多いその女性はますます絶口調になった。キャディーもますますその女性にくっついて歩くようになり、誰のためのキャディーかと、不愉快さはつのる。4番のショートホールで後半初めてのパーを取ったが、何時も得意とする5番のロングホールでは、ティーショットが火花が散るほどのダフリで、左に引っかけ、この時はフェアウェイウッドがまともに当たり、残り130程度のラフにまで持って行けた。2人がグリーン手前の池に打ち込む中、私の第3打はグリーンを捕らえたものの、下り勾配の上段に付けたため、距離感をつかめず3パットになってしまい、パーを逸した。次の6番では、どの打球もまずまずで、本日3回目のパーだった。難易度の一番高い7番ホール405ヤード、パー4では、ティーショットの当たりは良かったと思ったものの、同行の男性に20ヤード近く置いて行かれた。そこでもセカンドのフェアウェイウッドが、これも当たりは良かったが、右に出てしまい、あわやOBかと暫定球を打った。探しに行くと、どうやらセーフである。木の中のボールは出して良いとのことだったので、少し出して打ったが、やはり前方の木が気になり、ラフに食われたりして、結局ダボだった。と言うかダボで納まったと言うべきか・・・。8番のショートホールでは、当たりは良いかと思ったが、やはり芯は少しずれていたのであろう、途中から右にスライスし、失速してグリーン手前のバンカーにつかまり、ここもダボであった。最終の9番ホールでは、これもスライス気味に右方向に飛び、崖に当たって、多分戻ってセーフだとキャディが言う。どうせプレ4があるホールだから、打ち直すこともなく、右山に直行した。この時もキャディは探しに来ようともしないで、フェアウェイに落ちた女性の球を見て、次の方向などを教えている。遠くから、「ありませんか?多分セーフだと思ったのですが」という声が聞こえる。「こっちに来て探さんか!」と思いながら、近くの先輩が一緒に探してくれ、白杭の少し手前の落ち葉の陰に見つけ出してくれた。こういったあわやOBという場面が何度もあったが、1度だけのOBでしのげた。それにしても今日のキャディは、最悪、劣悪であった。キャディ評価のシートには、すべて悪いと記入したことは言うまでもない。支払いには、2310円のキャディフィーが付いていた。お金を取られて、こんな不愉快な思いをさせられたキャディは初めてだった。午後雨が降ると言われながら最終まで持ちこたえたのがせめてもの幸いであり、飛び賞の賞品を貰って、すごすごと帰途についたが、途中からぱらぱらと雨が降り始めた。
2009.12.10
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久しぶりに連れ合いと映画を見た。サイエンスフィクションというか、全体には漫画の様な娯楽映画であり、地球上の土地全体が水没するという想定で、スケールは結構大きい。連れ合いはあまり好きではなさそうだったが、付き合ってくれた。メキシコ、ユカタン半島に栄えたマヤ文明が話の発端である。マヤ暦では2012年12月21日から12月23日頃に一つの区切りを迎えるとされ、その時一旦、人類は滅亡するという説がベースとなっている。マヤ暦による終末論である。一方、21世紀初頭のオカルト雑誌や予言関連書などで、1999年のノストラダムスの大予言でも終末論を取り上げられている。新約聖書マタイ福音書の25-15~22にそれらしきことが述べられている。預言者ダニエルによって語られたあの「荒らす憎むべき者」が聖なる所に立つのを見たら・・・で始まって、ユダヤにいる人は高みに逃げよと言い、・・・その時には、世のはじめから、今に至るまで、未だかって無かったような、又これからも無いような、ひどい苦難があるというのである。このように聖書にも、終末に近いことを暗示したところがある。これはノストラダムスに依れば、世界最終戦争を予告したものであるとの解釈として取り上げられているが、これはあくまで人為的な問題であって、この映画の対象とは少し違うようだ。ともかくも、冒頭マヤの人たちは、この人類滅亡を信じて大量自殺を図ると言うところから始まる。この人類滅亡は予め一部の学者によって知られていたが、一般には機密事項とされていた。ところが、偶然にも地球の危機を知ってしまう売れない作家で、リムジン運転手ジャクソンが必死に家族を守り通すという一貫した人類愛、家族愛によって貫かれている。来るべき2012年の3年前である2009年、太陽のフレア活動が活発化し、地球ではコアが熱せられた結果、3年後に世界は終わりを迎えるという、驚愕の事実をいち早く察知した地質学者エイドリアンは、すぐに米大統領主席補佐官に報告をする。ここで、エイドリアンは黒人であり、大統領も黒人となっている。首席補佐官は白人という設定になっている事は何か意味があったのだろうか。この事実は、やがて世界各国の首脳と一握りの富裕層にだけ事実が知らされ、この天変地異を如何に克服し、その後の種の保存のために、人類を存続させる一大プロジェクトが極秘に開始される。この辺りは、創世記の「ノアの箱船」を彷彿とさせる。そんな動きなど当然知らされていない、2012年のとある日、売れない作家のジャクソンは、離婚した後、時々会うことになっている子供達とキャンプしにやってきたイエローストーン国立公園で、湖底に沈む巨大な研究施設を発見すると共に、政府の奇妙な動きを目撃し、地球が滅亡に向かっていることを偶然知ってしまう。しかし、この危機を知ったときはすでに遅く、天変地異は、地球上の至るところで起こり始めていた。イエローストーンの異常な噴出と呼応するように、かつてない規模の地震、噴火、津波が大都市ロサンゼルスを始め世界中で起こり始める。連鎖的に、あらゆる天変地異が世界各地に次々と襲い掛かり、もはや地球上に逃げ場は亡くなるのだが、CGをふんだんに使った、いわばこの映画の見せ場であろうが、断層の亀裂から、大都市が、得も言われぬすさまじさで、次々と道路や、橋、ビル群が崩壊していくのである。この辺が漫画チックなのであるが、ジャクソンがリムジンを運転して逃げるその後ろから次々と道路が崩壊していくのだが、巧みに車はそれをかいくぐるのである。しかも近隣の車はことごとく壊されているにも拘わらずである。車では逃げ切れないと悟ったこの家族は、何故かセスナ機を手に入れる。セスナ機を運転したことがないジャクソンだったが、かつての妻の現在の夫が数時間のシミュレーションの経験があると言うことで、とにかく飛び立つが、これも倒れ来るビルの狭間を巧みにくぐり抜けるという神業なのである。主がノアを箱船に導いたように、この家族は、この時のノアであったのかも知れない。セスナ機が、安全な高度まで上がったとき振り返った、大都市は、斜めに崩落して、海中へ没するという劇的なシーンである。地球上何処に行っても遅かれ早かれ同じ運命になるであろう事から、地質学者エイドリアンの友人で、インドの科学者が残した地図の示す所に脱出するための船が建造されていると言うことが分かり、そこに向かって大型機に乗り合わすのだが、どうやらこれはロシア機で操縦士もロシア人である。すんでの所で滑走路が崩落している直前にかろうじて、地上から舞い上がることが出来るのだが、船が造られているというその場所はこれも何故か中国である。ところが、その大型貨物機では航続距離が足りない。途中の太平洋のハワイで給油すべく着陸しようと試みようとするが、ここも火の海である。やむなく海上に不時着覚悟で飛ぶと、今度はラッキーにも地殻変動で、2000余kmほど、中国が近づいているのである。近づいた中国の山間部のアイスバーンのような箇所に着陸を試みるが、まともにはいかず、機長以外は搭載してあった、ベントレーに乗って後部ドアから飛行機外に脱出し、機長は、崖っぷちで機体が止まったと安心したのも束の間機体もろとも谷底に落ち炎上してしまう。やっとたどり着いた、中国の大型船3隻ほどに、選りすぐられた人たちが乗り、一般の労働者や、金のない者は、置き去りにされると言うことになる。旧約聖書の「創世記」の6章-9章に書かれているように、神は、増えすぎた人類を一旦全滅させ、新たに創造すると言うことで、神に従順なノアを選んで、ノアに方舟を作らせるのに似ている。ノアの方舟には、主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せたのだが、全く滑稽なことに、この映画でも、寒い山の上を、ヘリコプターで、つり下げられた、像や、キリンが同時にその船には積み込まれようとしていたことだ。あれでは象もキリンも凍え死ぬなぁと思いながら見ていて、おかしかった。運んでいたのは中国の空軍であった。最後には、エリートだけを積んでハッチを閉めようとする米国大統領首席補佐官に対して、地質学者エイドリアンは人類愛を一席ぶつのである。これに感動して、ロシアを始めEU諸国や、日本もちょっぴり賛同の意を表し、ドアは開かれ、一般民衆は、船の中に駆け込むのである。この時、10億ユーロを使って乗船の権利を有していた金満家も、子供を助けて、自らは、不運にも海に落下すると言うことになる。ここは、金だけがすべてではないということを言いたかったのだろうか。乗った後は、タイタニックを思わせる状態になる、8800mを越すエベレストが、頂部を残して海に沈み、それが迫ってくるのである。ドア開閉の大きなギアに何かが挟まってドアが閉められず、それを取り除くのに又ジャクソンが活躍すると言うことになる。エベレストに衝突する直前で、船に後進(アスターン)が掛かり、無事、平穏になった海に出ると言うことになる。その後の地殻の変動で、もはやエベレストが世界一高い山ではなくなり、南アフリカのドラケンズバーグ山脈辺りが隆起して世界一の山になるとのことになり、やがて水が引いて、そこに上陸するべく航海すると言うところで映画は終わる。正に人類発祥の地はアフリカで、再出発もアフリカからとでも言いたいかの如くである。漫画として見に行った映画でも、一貫した家族愛や人類愛に対する意味は理解できたし、いろいろな神話的な要素も加味され、脈絡のないところや、滑稽なところもあったが、2時間40分ほどの間、飽きることはなかった。
2009.12.09
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昭和60年の日経新聞の十選というコラムに栗田勇さんの「私の名僧図十選」が掲載されていた。それ以来この日経新聞の「十選」の欄は必ず見るようにしている。いろいろな画家や評論家、大学教授などが、執筆されている。西洋画には、肖像を描かせた絵画が数多く描かれているが、日本画では限られているという。徳川家康や、豊臣秀吉などの武将の肖像画はポピュラーになっているが、僧侶の肖像画となるとあまり見なかったので、この十選に選ばれた僧の肖像画は、興味深く読ませてもらった。神社仏閣に行っても、私のような凡人は、信心する心が強いわけではなく、建物の偉大さや、庭の美しさに等に、ただただ見とれるくらいが関の山である。この十選に選んだ基準は良く分からないが、とにかく選ばれた順に見ていった。第一番目は「明恵上人樹上坐像」である。これは、京都高山寺に所蔵されている国宝だという。歌にも詠われた、栂尾にあって、神護寺から川添いに1000メートル程北に進んだところである。この辺りは紅葉で有名なところで、つい先頃までは観光客で埋まっていたことであろう。この、明恵上人の図は松が二股に割れたその根元に座禅を組みながら瞑想している図である。軽く目を半眼に閉じた、穏やかそうな表情である。だが、何のために松の枝の上なのかは分からない。朴歯の高下駄を脱いで、わざわざ松に座っているところを見ると居心地が良かったのかも知れない。明恵上人は平安時代に生まれて、鎌倉時代の新宗教に与しなかったという。南都六宗に発した華厳宗の内部改革に力を注ぎ、座右の銘として、「阿留辺幾夜宇」(あるべきようわ)を置き、釈迦の原点に立ち戻ろうとしたとある。第二番目は「希玄道元」で、一般には道元禅師と呼ばれる鎌倉時代初期の禅僧であり、曹洞宗の開祖としてつとに有名である。私は、彼が晩年に希玄という異称を用いた事をこの時初めて知った。他にも諡を多数持っており、仏性伝東国師等とも呼ばれている栗田氏は、空海の画像と驚くほどよく似ていると評されているが、私は、空海の方が、若干穏やかで優しい男のように写る。空海は道元とは違い大先輩と言うことになるが、空海の真言宗は、都市型宗教から山岳宗教へと移行し、さらに末法思想が出始めたときである。道元は、その末法思想の中から、極楽浄土の信仰を掲げて、曹洞宗を開いたわけである。私もそうだが、今や剃髪はスキンヘッドと名を変え、僧侶でなくても頭を丸めているが、逆に、ふさふさとした頭のままでいる僧もいる。同じ体格、同じ顔つきであれば、似てくるのも又当然なのかも知れない。道元が表した著に、87巻に及ぶ「正法眼蔵」があるが、我が道が唯一正しい道だと確信して生涯を掛けた男の顔はこのようなものかと評論されていた。第三番目は「蘭渓道隆」である。蘭渓道隆は南宋(現在の中国四川省)から鎌倉時代中期に渡来した禅僧で大覚派の祖となった人である。諡号は大覚禅師という。日本人ではないらしい。宋風臨済宗を広めたとあり、執権北条時頼の帰依を受け、建長寺が創建される時その開山となった人であるが、とてもそんなやり手のようには見えない華奢な体つきと、顔もうらなりのような風采である。私が知っているのは臨済宗=栄西ということだが、中国風な規律の厳しい純粋禅を確立したのはこの蘭渓道隆であるという。そういわれて見直してみると、なかなか芯の強そうな面が表情に表れている。第四番目は「白雲慧暁」である。この僧のことは、全く知らなかったし、簡単には調べられない人である。肖像画を見る限りでは、眉毛が濃くどちらかというと垂れ目であり。剃髪した頭は後部が異常に突き出している。我々が「歩こう会」で訪れた、今や紅葉の名所となった東福寺の開祖円爾の跡を継いだそうで、この人ににらまれると一寸異様な気がするだろうというほど、私には異形のように見える。こういう絵を鎌倉時代は「似絵(にせえ)」と称していたようで日本では「形」を描くのではなく「相」を描くのだそうである。第5番目は「親鸞上人像」である。これはもう我らが親鸞さんである。と言うのも、一応、我が宗派は「浄土真宗」であり、親鸞上人はその開祖だからである。ここに描かれた顔は、死後約五十年後、「安城の御影」を元に描かれているらしく、一寸イメージにそぐわないというところである。法然に師事し、浄土宗をよりわかりやすく一般民衆に普及させるために、「如来の本願力」である他力本願を唱え、ただひたすら「南無阿弥陀仏」の六文字を唱えれば、極楽浄土は保証されると説いている。七面倒な理屈は要らないので、無知な者にとっては、いとも入りやすい教えである。歎異抄にある「善人なおもて往生とぐ、いわんや悪人をや」と言う「悪人正機」の「悪人」が罪を犯した人という意味ではなく、自ら進んで仏に帰依する心が無く、あまり熱心でない人のことをいうのだと知ったとき、まさしく私のことだと安堵したのを覚えている。しかし歎異抄の教えはそう簡単なものではない。一休禅師が、親鸞の200回忌で「襟巻きの暖かそうな黒坊主 此奴が法(のり)は天下一なり」と興味深いことを言ったということだ。第六番目は「一遍上人」である。ここまで見てくると、僧の顔は誰も似たり寄ったりの形相であるように感じる。落ち着いて涼やかか、グイと睨んでいるかであり、笑顔はない。この、一遍上人は「時宗」の開祖であり、「遊行上人」と尊称されるように、ひたすら歩き回って、説法したという僧である。猫背で歩く姿を描いた肖像画は鬼気迫るものを感じる。この人は、やはり「南無阿弥陀仏」を唱えるのであるが、「賦算(ふさん)」といって念仏に加え「決定往生六十万人」と記した札を配って周ることと、踊り念仏とで民衆を惹きつけ、極楽浄土へと導いた人である。出家、還俗、出家を繰り返し、男女の恩愛に悩み、知行の諍いで、人を殺したこともあったと言うから、より人間らしい。また、「捨聖(すてひじり)」と尊称されるように、「捨ててこそ身が立つ」と言うのが彼の信条であったようだ。第七番目は「無窓疎石」である。この人の肖像画を見ると、優男で、端正な顔つきをしている。道元や空海の顔つきとは違って、どちらかと言えば、蘭渓道隆系の顔である。鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧である。高僧に対して朝廷から贈られる諡号の1つであり国師の諡を歴代天皇七人から贈られるという傑物であっり、特に南北両朝から帰依されるという人物であった。京都嵐山の駅を下りると、すぐの天竜寺の開祖でも有名である。建仁寺や南禅寺さらに、建長寺など多くの寺に在籍し、苔寺で有名な、京都の西芳寺の開山ともなった。この顔とたたずまいなどを見て、ここまでの業績を収めたと言うことは相当の切れ者であったことは間違いないが、権謀術数に長けた人ではなく、宗教的天才であったと言える。「脚踉下のことは、指陳する能わず」(肝心の足元のことはとても口に出して言えない)、とこれまた、俗人には理解しがたい言葉を残している。第八番目は「日蓮聖人」である。この人には、三つの代表的な像があるとされるが、晩年の面影を描いた作を見ると、眼差し大きく、福耳である。これぞ、日蓮というイメージとぴったりの感じがする。鎌倉時代から、浄土思想に反発する形の法華経で、今日まで続いている。日蓮と名乗るまでは、現在の千葉県鴨川市の清澄寺にて修行を重ね、比叡山にも遊学し、身延山を寄進され身延山久遠寺をも開山している。浄土教の信仰を捨てて法華経の信仰に浸ることでのみ、現実の世界は仏国土になることができるという思想の元、法然や源空の説く浄土教を禁圧して「法華経」に帰依しないならば、国内に内乱が起こり、他国から侵略を被るであろうと、「立正安国論」を著した。計らずも、蒙古襲来を予言した形となったが、ただただ、「南無妙法蓮華経」の七文字を唱えることで、法華経の神髄に迫るというものであった。妖術とまではいかないが、自身を予言者の如く振る舞い、又自らがキリストの如く受難することで、自身を選ばれた人として過ごした奇怪な僧である。第九番目は、「一休宗純」である。室町時代の「臨済宗」の禅僧である。一休さんと言えば、我々には、くりくり坊主の小僧さんで、極めてとんちの利く人として親しんできた。京都の生まれで後小松天皇の落胤といういうが、表された肖像画は、髪は生え放題で、髭面の一見汚らしい僧に見える。所謂なりをかまわぬ無精髭面である。男色はもとより、仏教の戒律で禁じられていた飲酒、肉食また女犯を行い、盲目の「森侍女」という側女がいたりする、およそ僧にあるまじき行動の人であったらしい。この人が何故に、とんちの一休さんになったのか、その繋がりが分からない。徹底的の僧俗の虚栄心を嫌ったようである。しかし、このような人であっても、死に際に「死にとうない」と世に未練を残したと言うから、分からぬものである。最後の十番目は「大愚良寛」である。江戸時代の曹洞宗の流れを汲む僧である。この人も、子供達と手鞠をつくなどの親しみやすい逸話で我々の良く知るところである。やせ形のへの字の太い眉で、あごはしゃくれていた。生涯寺を持たなかったと言うことから、一遍上人のように全国行脚をしていたのであろう。風采は上がらないが、読経の声は素晴らしかったという。69歳の時に29歳の貞心尼に慕われたというのはそこら辺からかも知れない。乞食坊主というか好々爺的世俗僧の如き感があるが、学問好きで、内向的、さらには神経質で、病も良く煩ったようである。人間の真実にこだわり、僧の偽善を憎んだと言うから、一休宗純が如き人であったようだ。やはり、高みに止まって高邁な理想を論ずるよりは、人間味あふれる方が庶民には親しみやすく、一休同様良寛も、子供好きの逸話が残ることもうなずける。その他にも、いろいろ魅力的な僧が居るが、以上10人が選ばれていて、順不同であるが、なかなか味のある僧侶達であると私も思う。
2009.12.08
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イタリアの食品大手パルマラットの創業者で元会長のタンツィ氏がピカソやゴッホ、モネ、セザンヌらの絵画19点を隠し資産として隠匿していたという。これらの価値総額は1億ユーロ(約133億円)にのぼるのだそだ。 正当に購入し個人で持つことは特に問題はないのかも知れないが、屋根裏部屋などに隠されていたと言うから、脱税したものであろうし、いかがわしいルートで手に入れたものかも知れない。本人は、自らの所有を否定しているようだが、司法当局は資産隠しの疑いで本格的な捜査に乗り出したとある。摘発されなければ、すんでの所で、ロシアの富豪に売却されるところだったという。司法当局は、資産隠しという点で追求するだけで、世界的な芸術作品としてどうこうすることはないのだろう。絵画といえども、需要と供給の中で成り立っているわけで、如何に個人的に素晴らしいと思っても人気や実力のない画家の手による作品なら、たいした問題にはならないのだろう。ところがタンツィ氏が隠匿していた絵画の画家はいずれも巨匠と言われる人たちばかりである。中には、モネがフランスの避暑地プールビルで描いた作品があり、その価値は1千万ユーロ(13億円)であるという。人間は、先ず生まれて数年で、所謂出来る子とそうでない子に振り分けられる。学校の試験の点数で、一番最初のふるいに掛けられるのである。それから、平均的に出来る子の部類にはいると、次は良い大学、高等教育を受け、立身出世を考えることになる。そうすることで、個人的な生活が安定することを望むからである。高等教育を受けなくても、多額の金銭が入るのであれば、その道を歩むことも又自由である。多額のお金を手にすると、今度は名誉が欲しくなるのである。後世に名が残ることを考えるのか、自分の孫、子のためにそうするのか、その心理的な心は計り知れない。このタンツィ氏はどう考えていたのかは知らないが、ロシアの富豪に売れば133億円入ってくるわけだから、あくまでお金の段階なのであろう。タンツィ氏が創業し、日本もビスケットなどの菓子類を輸入している、パルマラット社は、牛乳やバター、チーズなどの乳製品と、その加工食品を主に扱っていて、2003年には子会社が巨額の粉飾決算をし、140億ユーロ(約1兆8600億円)の負債を抱えて破綻して、現在再建途上にあるという。タンツィ氏自身も、すでに市場操作などの罪で2008年に禁固10年の判決を受け控訴中だということだ。また、パルマラット社は2006年まで、中田英寿選手が在籍した、サッカーのセリエA「パルマAC」の親会社だということでもあるようだ。 これらの隠匿絵画により得られたお金は、会社再建のために使うつもりだったのかも知れないが、それにしても、買おうとしていたロシア富豪は、一体どういう風に扱おうとしていたのだろうか。倉敷に大原美術館がある。倉敷の名家に生まれ、紡績業を営んだ大原孫三郎が事業で得た富を社会へ還元することの一貫として美術館を創設し、社会貢献をはたしているものだ。また、2人の息子への子供手当が両人とも十数億円にもなるという、献金か、贈与か分からない日本の総理や閣僚経験者の母親の夫である石橋正二郎氏も、ブリジストン美術館を創設し、社会貢献の一貫としている。久留米市の石橋美術館も石橋が寄贈したものであるようだ。企業のと言うか、企業人が、財を成した後のお金の使い方は、その個人の自由であるが、財の隠匿や、不明瞭な、献金か、生前贈与などは全く頂けない。国の方向を決める為政者としては、必ずしも清貧である必要がないが、虚飾にまみれるのだけはして欲しくないと考える。そうでなければ、途上国や、新興国のレベルになってしまい、パルマラット社の タンツィ氏と全く同じレベルの話になってしまうからだ。政権を取る前の民主党が、自民党の金銭面での腐敗を追及したのに、自らが、同じ立場になったときには、全く変わらない行動を取っている。要するに、民主も自民も、大きくいえば、日本の為政者は国民の方に目が向いていないということなのか、国民の実態を知らないということなのか、実に情けのないことである。タンツィ氏の場合は、乳製品で得た企業のお金を絵画に替え、それを転売しようとしているわけで、2重に許されない気がする。隠匿し、売り払おうとした絵画の中には、ピカソ、ゴッホ、モネ、セザンヌの作品があるという。私としては、キュビズム時代に入ったピカソの絵画については、あまり関心がないのだが、印象派の先駆けである、モネの作品や、印象派も後期に入った、セザンヌやゴッホの絵画に対しては、どんな作品であるのか見てみたい気がする。特に、モネがフランスの避暑地プールビルで描いた作品は13億円に相当する絵画だということだからではないが、モネがプールビルで描いた作品に、現在シカゴ美術研究所に収蔵されている「プールヴィルの断崖の上の散歩」という作品があり、この作品の一貫かと思われ、当時の妻であるカミーユ・ドンシューをモデルにした「散歩、日傘をさす女性」がこの絵にも描かれていると言うことからより一層見てみたいのである。タンツィ氏が隠匿していた時価133億円と言われる作品は、金額がどうだからというわけではないが、どういった作品なのか、興味のあるところである。
2009.12.07
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今日の新聞にラクダの食糧化が再評価されているという記事があった。エジプトで食用の需要が増加しているというものだ。ラクダにはヒトコブラクダとフタコブラクダの2種類あることはよく知られている。私はラクダは砂漠とは切っても切れない生き物だということで、てっきり、サウジアラビア辺りが発祥の地と思っていた。考えてみれば、砂漠は世界中にあるわけで、なにやら、現在個体数が一番多いのはオーストラリアなのだそうだ。オーストラリアといえば、カンガルーということになるが、このカンガルーが増えすぎて、人に害を与えるまでになったので、食用化が進められているのだということだ。それと同じく、オーストラリアではラクダの食用化も進められているという。我が国には、砂漠と呼ばれる所は、箱庭程度の鳥取砂丘があるくらいで、勿論観光客相手にラクダを無理矢理飼っている程度である。勿論動物園では飼育されているのであろうが、この間連れ合いの孫と行った王子動物園には居なかったような気がする。日本ではやはり珍獣という部類にはいるのではないだろうか。それが、エジプトでは牛や馬の如くというか、逆に牛や馬より数が多くラクダが居るわけである。このラクダの元々の発祥の地は、2500万年から1200万年前の北アメリカであるという。勿論これらはラクダの祖先ということで、ウサギほどの大きさのプロティロプスやヤギほどの大きさのポエブロテリウムなどであったという。化石からは、現存するラクダよりもはるかに大きい個体やガゼルのように華奢なもの、木の葉を食べるのに適したキリンのような背の高い個体もいたようである。1200万年前頃から南米のラマ種と、アジアや中近東のラクダ種に分岐したとされている。さらに、ヒトコブラクダとラマの間で交配した雑種のキャマと呼ばれるものまでいるのだという。一寸驚いたのだが、ラクダは人類のグレートジャーニーの真反対に、北アメリカからベーリング海峡を渡ってアジア、中東そしてエジプト辺りに移動してきたようである。アジアではフタコブラクダであり、ヒトコブラクダはアジアにもいるようだが 中東や、アフリカが中心である。私は、南米には行ったことがないが、ラマやグアナコ、ヴィクーニャやアルパカ等はラクダと同じルーツなのだそうである。野生のフタコブラクダの個体数は、世界中で800頭しかいないとされているようで、絶滅危惧種に指定されている。私が中国の福建省に滞在していたときの動物園には、体のでかい、なにやら黒ずんだ風格のあるフタコブラクダが飼われていた。そのコブも隆々としていて、首から垂れ下がる毛は房々としていて、年齢も相当いっていたようであった。それに比べると、サウジアラビアや、ドバイで見たラクダは、ヒトコブラクダで、フタコブラクダに比べて若干色は薄く小柄であった。それというのも純粋な、野生のヒトコブラクダはすでに絶滅したとされているようで、現在のヒトコブラクダは家畜化された種とのことだ。この家畜化されたラクダは、一般には運搬などの使役に使われていたのだが、数が増えたためか、物価の上昇も手伝って、ラクダまで食べるようになったのか、とにかく現在は多くのラクダが食糧用に取引されているのだそうだ。サウジアラビアにいた時には、ラクダの乳を売る店はあったが、肉まで食用だとは気がつかなかった。ラクダ乳も、慣れた人なら良いが、初めての人は下痢をするなどと言われ「どうです、飲んでみますか?」といわれたが、及び腰になってしまった。ただ、ラクダ乳は牛乳に比べてビタミンやカルシウムが豊富で、値段も倍以上するらしい。中国人は四つ足なら机以外は何でも食べるというくらいだし、むしろラクダのこぶは珍味として重用されているという。フランス人はカタツムリを食べ、日本だって馬肉や、カエルなども食べるんだから、ラクダは立派な食糧になりうる事は想像できる。新聞記事によると、エジプトは年間10万頭以上ものラクダをスーダンやジプチ、ソマリアなど緑豊かな国から輸入しているようで、その9割が食用なのだそうである。サウジでは、一番よく食べられている肉は山羊や羊のようで、牛肉はあまりお目にかかれない。勿論イスラム教だから、豚肉などは全くお目にかかれないのである。ラクダの肉は、羊などより安く、約7割程度の値段ようだ。日本での鶏肉的感覚である。ラクダと言えば我々は、すぐに砂漠を行く隊商を連想する。ラクダのこぶは水をためるタンクだとか聞いたこともあるが、実際あのこぶは、脂肪の塊だそうで、ラクダは1度に80リットルから最高で140リットル近くもの水を飲むが、その水は、すべて血液中の赤血球中に蓄えられるのだそうで、普通なら赤血球が破裂するところ、ラクダはこれに耐えるだけの機能を有しているのだそうだ。またこのラクダは気分屋で、危険なときとか、気に入らないときには、くさい胃液を相手に吹きかけるから注意を要すると聞いた。ドバイで出勤中の工場近くにやってきたラクダが、車の窓に顔を近づけてきたので、思わず窓を閉めてしまった。さらに気分屋の面は、年に1度だかに、群れを外れて1頭でうずくまることがあるという。その時何を考えているのか知らないが、近寄ることは避けた方が無難なのだそうだ。砂漠の船と称されるように、重い荷物を担って、酷暑や乾燥に対する強い耐久力を有し、特に長期間にわたって水を飲まずに行動できるなどの特技を持つラクダも、上野動物園長だった中川志郎さんの本に依れば、歩くことによって魚の目が出来ることがあるという。ラクダに魚の目とは一寸信じられないことだ。ラクダは普通、側対歩と呼ばれる、同じ側の前足と後ろ足を同時に上げる歩き方で歩くため、乗っている人は左右に揺れが大きく船酔いならぬラクダ酔いをするらしい。加速度が付くにつれ、揺れが少なくなると言うことだが、「月の砂漠」の王子様とお姫様は、ラクダ酔いに強かったのかも知れない。房総半島の御宿にこの月の砂漠の像があるが、あれほどしゃなりしゃなりと乗りこなすには、結構技が要ると思われる。私に取って、ラクダはやはり珍しい動物であったので、サウジの土産にと、ラクダの皮で作ったスリッパを買ったが、スリッパの全体がラクダの皮ではなく、ほんのお飾り程度に使われているだけのようで、スリッパそのものも扁平で歩きにくい代物だった。これも食糧用にと肉を取った後の皮の利用だったのかも知れない。
2009.12.06
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高等学校時代のバスケットボール部OB・OG会の再設立総会があった。話の発端は、桜の候だったと思う。母校のバスケットボール部の顧問をしておられる先生から、部の窮状を訴える葉書が先輩宅に届いたことから始まった。それまで、昭和44年度卒業生くらいまでは、すでにOB・OG会なるものが存在していたが、実質的に休眠状態になっていた。私は、大阪を離れ遠隔地での勤務に就いていたので、その後のOB・OG会がどのような経過をたどったのかをよく知らなかった。いずれにせよ推進していた人が年を取って、余り活動が頻繁に行われないようになっていたようだ。その頃から、旧い先輩の名前なども知る人のいない平成時代となり、一時、それ以降の若い人達だけで、新しくOB・OG会を名前を一新して設立したようである。年寄りなどどうでも良い、というか、偉そうにするだけの存在だということであろうか、昭和年代に卒業していた人たちは除外されていたようである。何とも寂しい考え方であると思ったが、自らがアクションを起こさないで、文句を言うことは出来ない。やがて、活動していた若い人たちの会の方も、だんだんと活動が沙汰止みになってきたようだ。そして、新旧両会は共に有名無実になってしまったようである。そこに顧問の先生からの葉書が舞い込んだという状態だった。顧問の先生は、我々の母校とは関係なく、たまたま赴任先が我々の母校であり、学生時代からバスケットボールをやってこられた関係で、バスケットボール部の顧問をされているという教諭である。府下の旧制中学時代から続く高校では、バスケットボール部創部80周年とか85周年とかが盛大に行われるとか、また部誌も大変立派なものが仕上がっているとのことであった。それら他高校の記事から推察しても我が校は少なくとも創立86周年目にはいるという老舗である。顧問の先生曰く、これほどの伝統を持つクラブにOB・OG会がないのは寂しいことですとの一言に、先輩も心を動かされたのか、私と同期の友人とで、とりあえずの発起人として、若い世代の世話人を務めていた人たちに声を掛けたのが今回のはじめであった。若い会の代表をしていた人は、我々よりも20年は若手であり、今正に働き盛りである。中学や高校の教諭をしておられる方が案外多いと言うことに少し驚いたが、私などには未知数だった、学校というところが思いの外、大変なところで、多忙であることは連れ合いなどの話などで十分理解出来ているつもりであったが、約束の日までに、返事がないとか、今回のOB・OG会設立の賛同者や総会への出席者の人数が何人なのかは、問わないと答えが返ってこないという有様で、余り積極的な姿勢が見られない。自分では若いつもりである我々も、実際に行動を起こしたり音頭を取るのは難しい面がある。自分は年を取ったとは思わないが、若い人から見ると、すでに前期高齢者であるということから決して同次元の仲間だとは思ってもらえないところがある。かといって、総会に出席した人で、平成時代の卒業生の出席は極めて少ないのも現状である。高校時代はバスケットボールを好んでか、しかたなくかやってきたのだが、高校を卒業するとすっかりバスケットボールは忘れてしまうという人も少なからずいる。むしろ中には、もう勘弁してくれと言う人までいるのだ。集まってくれた先輩や、少し下の後輩を見てはっきり解ることは、年度別によって結束の堅い年度と、全くそうでない年度があるということだ。今回発起人の筆頭と成られた先輩の年度は、結束が良く、またその1年下の年度も遠く東京、神奈川からわざわざ参集されるほどの良い関係である。もっとも、「死ぬまでに今度いつ会えるか解らないからな」とかいいながら集まられたようであるが。我々の年代も結束は堅い方である。6人いた内、1人は早世し、1人は仕事の関係があり、欠席したが、4人は集合するという具合だ。また4年下の連中も、結構結束が堅いようで、同年代の前後の連中とは年に1度会合を開いているということである。今日出席された最長老は、75歳に成られる人であった。同級生で、すでに亡くなった人や、脳梗塞で言葉が出しにくいという仲間の紹介をされていたが、幾ら年を取っても、高校時代にバスケットボールをやっていたということ、そして、こういった同窓の会に呼ばれるということのうれしさを語られていた。中に、私が現役時代に指導を受けた諸先輩も散見され、自分としても懐かしかった。いずれにしても、こういった会合に出てくる人と、出てこない人は必ず別れるもので、800人ほどのOB・OGを数える中で、行方知れずで返送される人が20数名有り、返送者の中でも、総会の趣旨に賛同する人は126人と少なく、今日参加された方は、32人という事だった。果たして、この会が、どのように継続されていくのかについては、若干の不安要素がある。それというのも、若いといっても、壮年ではあるが、そういって中枢を担うべき人の熱意に掛かっている。直接指導を受けたり、共に語り合ったりしたことがあればまだしも、年の離れた人同士は、全くの他人と同様であるからで、そういった意味で、特に平成卒の人たちの参集が少なかったのは、前途多難な思いがした。卒業した学校にノスタルジックなものを感じるようになるのは、ある一定の年齢に達してからのものだあろうか。その中でも同じクラブで、共に汗を流し、苦しい練習を耐えてきた仲間は実に得難いものだと思うのだが、それも人それぞれに違った感覚で受け止められるようである。そういったことを感じる以前の、若い人たちは、世の中の多様化と共に、高校時代のクラブのOB・OG会にそれほど重きを感じていないのではないかと思われた。年末のこの時期には受験のため、3年生はすでに引退という形で、進学勉強に没入している。その点昔はというか、私などは3年生でもクラブ活動をしていた記憶があり、高校時代といってもわずか2年での関わり合いに成らざるを得ない現代っ子は、その関係を密にしようとしても自ずと限界があるのかも知れない。しかしながら、再設立総会としては、何とか様になり、和気藹々のうちに閉会出来たことは喜ばしいことである。
2009.12.05
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昨日は、読み終えた「まなざしのレッスン」について書いた。絵は好きな方であり、手慰みに小さいながらもスケッチなどを試みたこともある。しかしながら、絵を描くこととか絵を商売の対象にするなどとは勿論考えたこともなかった。4ヶ月ほど前に連れ合いの友人が個展をするというので京都の画廊を訪れたことがある。自分にもこういった絵が描けたら楽しいだろうなと思う気分になったが、個人の個展での絵画は、歴史上の名画とは全く趣を異にする。それでもその人の好きなように描けるわけで、そういった意味では自己主張の対象でもあるわけだ。気に入った絵を戴いて、今も部屋に飾っている。絵のある空間は何かほっとする空間でもある。絵画を本格的に描くということの奥深さなど到底知ることは出来ないが、確かに何処か私の感覚とは違うのである。私などの漫画のような絵は、個人の絵画という点までも到達した段階では到底無いのだが、絵を描くときには一心不乱になる。しかし、私などの場合は、寸毫の思想もなくただ風景を写実するのに腐心するだけなのである。「まなざしのレッスン」は「その1」と言うことで、続きがあるように末尾には書かれていた。正確に言うと、美術に興味のある人は次回からの講義も受けられたいといった趣旨のことであったように思う。と言うことは、「その2」は美術史的には、新古典主義からロマン主義を経て写実主義などの時代の絵画講座ということであろう。当然バビルゾン派時代や、写実主義から印象派に至ることも解説されていることが期待できた。その後もこの講座は、アール・ヌーボーやフォーヴィズム、表現主義などからシュールレアリズムなどに至るのであろうが、調べてみる限りでは、残念ながら続きの講座本は出版されていないようである。美術・芸術には作家の主張や思想が盛り込まれているが、一貫している真実(そこに描かれている主題)は同じであっても、鑑賞する側の好みは違ってくるわけだ。あの画家の絵は好きだけれど、こちらの画家はどうもというふうに、画家毎に括る場合とか、絵画自身を対象に好き嫌いを述べることもある。絵画と呼べるかどうかは分からないが、人類が最初に描いたのは、フランスのラスコーの壁画かスペインのアルタミラの壁画に見られるような、収穫対象の動物の絵だったのであろう。それから絵画がどのように変遷してきたのか浅学で良く分からない。西洋美術史のはじめとされているのは12世紀前半ば位からである。それから19世紀初頭まで、最初は神話画や宗教画が描かれ、神の権威や、時の為政者の権威を助長する道具として使われていたような気がする。それから、ルネサンスを迎え、絵画に表現やポーズを取り入れた心理学的表現がされるようになる。バロック時代には直線的な荘厳さの表現の中に、感情に訴える動きや明暗が取り入れられ始めた。その後、ロココ時代にはいると繊細な華麗さや曲線の多用が見られた。現在のNHK講座は正にこの後の新古典派からロマン主義に至る所を受講しているわけだ。その後の写実主義などを経て、今まで色彩を地味に扱ってきた中で、急に華やかな色が登場し、対象をあるがままに写実するのでは無く、画家がその時感じたものを強調して鮮やかに描き出すという印象派にと移っていくわけである。その後のフォービズムや、キュビズム辺りまでは何とかまだ少しはついて行けそうな気がするのだが、最近のシュールレアリズムなどになったり、ボディーペインティングなどの、ジャンルになると、一体何をやっているのか、正に狂気としか私には思えないのであるそんな個人的な好みは別として、今日は連れ合いと一緒に、京橋のアートバザールにおじゃました。元々その気はなかったのだが、ゴルフの先輩の知り合いだとかで、何のきっかけか、紹介され、葉書を1枚いただいたので、半ば仕方なく出かけることになった。梅田まで出て、大阪の環状線に乗り京橋迄の道のりは、私が学部時代に毎日通ったルートである。もうそれは、40年も前のことであるが、環状線の車両や、各駅の汚さは、この間、時間が止まっていたのではないかと疑うほどに昔のままに汚く、洗練されていないままであった。ここを通る度に思うのは、こんなところで学んでいたのだからろくな者にはならないのも当然だなという思いである。車窓の風景も確かに少し高いビルが建ったのかということとか、京橋駅が、京阪線や、地下鉄の乗り入れなどで様相を一変している以外は、昔とあまり変わった印象はうけなかった。我が学舎はすでに千里丘陵に移転しており、あの雑踏の中の昔の校舎跡はNTTのものとなっていた。わかりにくいポンチ絵の案内図を頼りに歩く京橋の裏町も、お世辞にも綺麗だとは言えない。京阪線の南側など通ったことがないのだ。その道を葉書と立て看板も頼りに歩いて行くと、そのバザール会場はあった。小さなビルの2階の狭い会場で、絵画を少し、アクセサリーを少し、陶器を少しと、バッタ市のような様相であった。主催者の女性と顔を合わせ、確かに来ましたよというところで、私の先輩に対する役目は終わった。連れ合いは、これも義理でか、安い陶器を購入していた。飾られている絵画には、2人とも全く興味はなかったが、比較的大きな額の中に、大根や白菜などの野菜が力強く描かれた絵があった。その絵が、女主人のお母さんの作品だと言うことを聞いて、最後にそのお母さんにお会いしたが、何と92才であり、体も顔の艶もとても90才を超えた方だとは思えない程の元気さであった。勿論腰もぴんと伸びていた。そのかくしゃくとしたお母さんは、今100号の魚づくしの絵に挑戦して居られるという。感心した。バザールに来て、唯一良かったと感じたのは、その1件だけだっただろうか。汚い街の狭っ苦しい一角である。これが洒落た街の小綺麗なところであれば、お茶の一杯でも飲んでいこうかとの気になったかも知れないが、花器を購入しただけで、そこそこに、おじゃました。まだ時間は早かったが、連れ合いも試験の採点が待っていることもあり、長居は無用とそうそうに帰宅の途についた。
2009.12.04
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姫が借りてきた「まなざしのレッスン」という西洋伝統絵画の解説本を読んだ。この本は、東京大学教養学部の総合科目「美術論」での講義内容10回分を元にしたとのことである。初めて西洋絵画に本格的に触れる大学生を相手に、絵を見る楽しさを伝えたいとの趣旨で書かれたものである。現在、私は連れ合いと「ヨーロッパ美術の輝き」というNHKの美術講座に通っている。この講座は、最初「17世紀の美術」から始まって「17から18世紀の美術」に続き、現在のは3回目で19世紀の美術についてである。今まで、何気なしに絵画を見てきた私にはうってつけの講座ということだが、今回の解説本は、17世紀以前の美術に関することを補完してくれており、絶好の解説書のように思われた。しかしながら所謂西洋絵画の概説という類ではなく、絵画一つ一つの具体的な見方、イメージの読み方を指南した書である。収納解説された作品は14世紀から19世紀までの作品で、全部で187作品である。勿論今回受講している講座で解説を受けた作品も含んでいる。ジャンルとしては、神話画から宗教画、寓意画、肖像画、風景画、風俗画そして静物画という括りで解説されている。西洋画と言えば、何と言っても底流はキリスト教である。まず最初に紹介されているのは「受胎告知」である。多くの画家が、いろいろな手法と解釈でこの絵を描いているのだが、それぞれに違った表現となっている。これは、新約聖書「ルカの福音書」に記載されている平坦な文字を絵画として可視化するものであるから、その表現は様々になるわけである。要は天使ガブリエルが、処女であるマリアの所に来て、神の子すなわちイエスを身ごもったという事を知らせる下りであるわけだ。「受胎告知」で親しんだ作品としては、連れ合いと訪れた、イタリアはフィレンツェのウフィツィ美術館で観たレオナルド・ダビンチによる作品や、ボッティチェリによる作品などがある。従って、神話画については聖書を知ることが必要になってくる。次に必要な素養は、ヘロドトスの「歴史」やホメロスの「イリアス」「オデュッセイア」また「ギリシャ・ローマ神話」などの神話や歴史書と呼ばれるもである。ルーベンスによる「パリスの審判」はギリシャ神話に由来するが、神々の王であるゼウスが、三人の美しい神である、ゼウスの后「ヘラ」と勇ましい女神「アテナ」さらに、美と愛の体現者を自認する「ヴィーナス」の3人の内、誰が一番美しいかを決めるとき、自らはその裁定を避け、トロイアの王子で羊飼いのパリスにゆだねると言う場面の絵である。三人の美しい神によるパリスへのいろいろな工作の果て、パリスが選んだのはヴィーナスであり、以降ヴィーナスが美の女神と呼ばれるようになったということである。パリスを審査員とする、所謂ビューティーページェントが行われた時の様子と考えればよい。これで、ヴィーナスは自分が選ばれたらスパルタの王妃へレネをパリスに与えるとの約束をしていたが、パリスは人妻であり人妻を拐かす事になる。これが原因で、ギリシャとトロイア間のトロイア戦争になったというものである。さらに、このヴィーナスが嫉妬したという、美少女プシュケに対して息子のキューピットをけしかけ、不埒な小娘を懲らしめておやりというわけで、いろいろ画策するが、やがては、このキューピットとプシュケの2人はめでたく結ばれるという物語がベースになっているのがジェラールによる「プシュケとキューピッド」である。「プシュケとキューピッド」の接吻の像はルーブル博物館で観た作品などもある。またガラヴァッジョによる「ナルキッソス」も、ギリシャ神話に登場するが、ただオウム返しにしか答えられなくされた、エコーとの物語など、絵画の背景を知ることによって、違った味わいが出てくる。こういった神話の域から、宗教画に発展していくわけである。カラヴァッジョなどによる「イサクの犠牲」では、旧約聖書に基づき、神がアブラハムに対し究極の試練とテストを課し、自分の息子を生け贄にせよと迫る場面で、アブラハムは、躊躇無く子供のイサクを屠ふるろうとする絵となっている。これなど、キリスト教の神に対する忠誠を究極的に喧伝したかの如くなっており、神は何もそこまでしなくても、と言う気がする。レンブラントも同様の内容を違った視点から描いている。ミケランジェロの「アダムの創造」では、神ゼウスが初めて人間「アダム」を作り、それに命を吹き込んでいる様を描いている。創世記に依れば、鼻から息を吹き込むとなっているが、作者ミケランジェロは、指を通じて生命を注入するという独自の解釈をしている。そしてミケランジェロによる「原罪と楽園追放」では「異時同図法」という手法が採られている。「異時同図法」とは、異なる時間を一つの構図の中に描き込む手法であり、背景を同じくする1画面に主役が重複して登場し、連続した動作を表現して、絵画に動きを持たせる手法なのだそうである。同じ絵画に同時に何度も同じ人物が描かれているのに注意しなければならない。巨漢戦士ゴリアテを倒しグロテスクな首を切り取った英雄ダビデ王は、イスラエルの2代目の王となるが、部下の妻であるパテシバを見染め、部下を過酷な戦地に出して戦死させ、まんまと寡婦となったパテシバを手に入れるのである。何とも昔から残酷な上司はいるものだ。ダビデ王が、見初めた時、宮廷に来るようにパテシバに手紙を送ったのだが、この時、人目を忍んでダビデに会いに行くパテシバを描いた、サルヴィアーティの「ダビデの元に向かうパテシバ」でもこの「異時同図法」の手法が使われている。プッサン作の「ソロモン裁判」では、母親2人が、子供を取り合う大岡裁判の西洋版で、ソロモン王による生きた子を二つに分けてそれぞれに与えるという裁定に実の母親が身を引き、正しい母親が分かるといった、こちらは日本よりは一層血なまぐさい感じの裁きである。こういったように神話に近い旧約聖書時代の作品から、新約聖書の時代の作品へと内容が写っていく。レオナルドダヴィンチの「最後の晩餐」はあまりにも有名である。この絵は、我々がイタリアでいろいろ観た、従来のフレスコ技法ではなく、テンペラ手法で描かれている。フレスコ技法は、砂と石灰を混ぜて作ったモルタルで壁を塗って、その上に水だけで溶いた顔料で、絵を描く方法で、壁が乾く前に顔料を塗っていくという方法であり、テンペラ手法とは、金箔を塗り下地を作るとかの作業があるが、ポプラ材に、卵黄を混ぜた顔料を塗るという方法でありこちらは油が混じっているようである。「最後の晩餐」では、イエスは、パリサイ派のユダヤ人の陰謀の手先として、ユダの裏切りを告知するが、その時の弟子達の表情と仕草がいちいちよく考えられて描かれているのである。こうしてでっち上げ、告発されて、やがて十字架を背負ったキリストがゴルゴダの丘に向かう絵が生まれ、その続きとしてキリストの様々な磔刑図が続き、それから、キリスト降架図へと続くのである。次に寓意画に移り、「四季」「四大陸「四大元素」などが象徴的に絵画として表現し始められる。四季の中ではボティチェリの「春」が代表的な作品で、右からニンフのクロリスが西風のゼフュロスに無理矢理絡まれたり、中央にはヴィーナスとキューピッド、さらに、「貞節」「美」「愛欲」を示す三美神、そして左端に三美神の先導役のヘルメスが配されている。ルーベンスの「四大陸」ではヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカをそのアトリビュートの動物たちと共に描いている。これを見ただけでは、どのように四大陸なのか判断することは出来ないであろう。広義の「歴史画(物語画)」として有名な、ラファエロの「アテネの学堂」では古代の哲学者や数学者、天文学者などを一同に書き入れ、大きくは、上段部分を「精神科学」下段部分を「自然科学」としてまとめている。有名な人たちが一堂に会することはなかったであろうが、観る方にとっては、何とも名状しがたい感動がある。肖像画では、世界でもっとも有名であろうかという「モナリザ」が紹介され、3/4に体の向きをねじり、その体の向きよりさらに少しねじった顔の向きなど細かく表現されていることが分かる。この絵は紛れもなく、後の肖像画の手本となったのであろう。他にも肖像画を好んで描いたレンブラントの肖像画も紹介されている。私には、面長で正面を向いた画面一杯のデューラーの肖像画が何か惹きつけるものがある。風景画では、ライスダールの「ヴェイク・ベイ・デュールステーでの風車」やフェルメールの数少ない風景画である「デルフトの眺望」など、私の好きな作品である。ライスダールの作品には風車や海に浮かぶ船などはすぐに目にはいるが、解説を受けなければ分からない2羽の鳥が雲間に飛んでいるのである。風俗画を代表するといえば、私はフェルメールを挙げる。日常の作業と光の導入、何気ない日常生活を精緻に描いている。作品の数が少ないということもあってか、フェルメールを好む人は多いようである。またブリューゲルの「ネーデルランドの諺」には、100に近い諺を絵としてオムニバス的に表現していることを初めて知った。系統立てて描かれているようでありながら多くの諺を絵によって表現しているこの絵には驚きと感動さえ覚えた。例えば、青いガウンを夫に着せる「妻の欺瞞」とか豚の前にバラをまく「豚に真珠」とかがそれぞれ意味を成して描かれているのである。静物画については、差ほど感銘を受ける作品はなかったが、アトリビュートとして表現されている頭蓋骨の意味が、「死を想え(メメント・モリ)」と日本語では言われているが、「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味の警句であると言うことも初めて知った。今までは、何故に果物などの静物にドクロが描かれているのかということも全く分からなかったわけで、勉強になった。これは、「カルペ・ディエム」すなわち、前にも書いた、ホラティウスの「今を捕らえよ」ということに繋がるのだということだ。西洋人の死生観を観るような気がする。ホルバインの「大使たち」というえの中央にもデフォルメされたドクロが描かれている。だまし絵的に描かれているが、これも、メメント・モリの教訓を入れたものであり、死を忘れるなと大きく警告している中、左のカーテンの隙間からキリストの磔刑像がわずかに覗かせることにより救いも同時に描かれているというのだ。他にも多くの作品が紹介されているわけだが、どれもただ観るのとは違って視点が得られ、大変意義のある本であった。私が大学時代にこういった講義を受けることが出来ていたら、絵画を見る他の下も倍増していたのではないかと想う。工学部であった私には、とてもそんな余裕など無かったのかも知れないけれど・・・。
2009.12.03
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先月の末、あのアメリカのスリーマイル島でまたしても原子炉1号機から微量の放射能が漏洩するという事故があった。しかし、作業員150人は一時避難をして、重大な事故にはならなかったようだ。この時、アメリカの原子力規制委員会によると、「建物内の空気中の放射能汚染を測定する警報が鳴り、施設内にいた全作業員に対し放射能検査を行ったところ、数人の被ばくが確認されたという。被ばく量は人体に影響するほどではなく、周辺住民への健康被害の心配もないとしている。」と言う通り一遍の発表である。このスリーマイル島と言えば、1979年3月28日、原子炉2号機で、炉心部が一部溶解する事故(メルトダウン)が起きて、外部に放射能漏れており、アメリカはこれを受けて慎重になり、その後、原発は新設されていない。それでも現在は103-104基の原発が稼働中であるという。この時の事故は、世界中に喧伝され、各所で検証されているが、炉心給水ポンプの故障が発端で、燃料棒が折れ、弁の閉鎖や故障により云々とある。さらには、判断ミスが起こりやすいシステムと、アウトソーシングによる運転員の故障に対する誤判断の誘発による作業ミスがその原因とされている。所謂ヒューマンエラーが絡んでいる。この時は、妊婦や子供を優先的に避難させたが、結局は近隣住人2,000,000人が避難をするという大事件となった。アメリカに於ける総供給電力に対する原子力発電の割合は20%程度であるという。これに対して現在、日本で稼働中の原子炉は55基あり、総供給電力の30%近くを占めているという。アメリカは約50%を石炭火力発電が占めているのに対し、日本では、石炭石油などの化石燃料は70%を占めているという。さらにエネルギーの自給率は4%程度と、低いと言うよりも全く海外依存なわけである。アメリカの原子力発電所の1基当たりが影響を及ぼす面積は、国土が広いこともあって、単純割り算で約9万km2であるのに対し、日本のそれは、約7000km2と1/10にも満たないわけである。すなわち逆に言えば、1基が事故を起こしたときの影響が10倍だという事である。スリーマイル島がペンシルバニア州にあり、たまたまニューヨーク州や、ワシントン州に隣接しているから余計に問題になったのだが、日本はそれより過密に原発が存在している。かのチェルノブイリもウクライナのキエフに近いが、こちらの方は、言うに及ばず、その被害の甚大さは、史上最悪のものであった。この場合は4号炉が、動作試験中の電源に切り替え時、責任者の不適切な指示や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発したと言うことである。又、ここでもヒューマンエラーが介在している。日本でも、2004年8月9日の死者5人、負傷者6人を出した、美浜原発の炭素鋼製蒸気配管の破断による事故は言うまでもなく、原子炉の本質である臨界事故によって東海原発で死者2人を出している。さらについ昨日、浜岡原発3号機で、濃縮廃液貯蔵タンクの点検作業中、補助建屋内の4カ所で、高濃度の放射性廃液53リットルが漏れる事故が起きたとの報道があったばかりである。この原因については、「配管を流れていた廃液が何らかの理由で逆流し、排水弁からあふれたという。今後、逆流を起こした原因を詳しく調べる。」としている。この場合も、何らかの人為的ミスによる事が考えられるし、もしそうでない設計上の問題であれば、さらにゆゆしき問題である。こういった国内の事故については枚挙にいとまがないわけで、その時必ず公式発表で言われるのが、同じ論調である。今回は、「21人が最大0.05ミリシーベルト被ばくしたが、健康への影響はないレベル。」であると言うことだ。要するに漏れたけれど、問題ないよと言うことで、もみ消しの方が先に立っている。原子力を総括する部門の抜本的対策が成されていないと考えざるを得ない。ヒューマンエラーは必ず起こる。ハインリッヒの法則を持ち出すまでもなく、重大事故の直前のこういった事故の底辺には、多くのヒヤリ・ハットが存在し、事故のピラミッドの底辺では、多くの問題が山積しているはずである。原子力発電は安全だ、さらにCO2を出さないクリーンなエネルギーだと、世間ではもてはやされているし、現に原発を放棄したドイツなどでも、再び原発を有するようになっている。さらに近隣の、中国では、原発健造のラッシュであり、日本の企業もこれで儲けようと虎視眈々である。あの中国の毒入り餃子事件だけを考えても、中国人によるオペレーションが、まともにいくとは到底考えられない。中国の炭鉱事故の続発を見ても、CO2削減のために、主力が石炭から原子力に置き換わったとき、その危険性は中国国内の惨事には留まらず、黄砂同様、日本もまともに放射能の影響を受ける事になることは必定であろう。スリーマイル島の原発も建造後30年を経過しており、日本でも美浜原発や浜岡原発などすでに同様の年月を経過している原子炉が沢山ある。40年以上経過した原子炉の廃炉は行われているようだが、現役の原子炉についても十分な点検と、作業員の徹底的訓練を望みたいものである。いきなり原発を廃止せよ、他のエネルギーで代替せよと言うにはあまりにも現実離れした意見であることは分かっているが、核融合による発電なども、もっと早急に実現できない物かと考えるところである。
2009.12.02
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今年も師走になった。満年齢と数え年が良く分からなかった時代から、もうこれで生まれて66回目の師走である。新年は新年で気持ちを新たにするわけだが、師走になると、この1年、何かやり残したことはないかと追いかけられる気分にもなる。1年を24に分けた節季で言うと小雪と言うことになるらしく、それをさらに3等分した72候と言う分け方では、次候の「朔風払葉」と言い、その意味は「北風が木の葉を払い除ける」という時期なのだそうだ。これを中国の宣明暦で称すると「天気上勝地気下降」と言い、意味は「天地の寒暖が逆になる」と言うことで、こちらの意味はあまり良く分からない。1年を究極5日ごとに区分して、その有様を表現した昔の人の知恵である。今年の初冠雪はすでにあったようだが、都会ではあまり季節感がない。初冠雪の時期も年々遅くなっているように感じる。一方、赤道直下の国や地方では余程の高い山がない限り、雪などというものは見たことがないであろう。年中夏であり、常夏と言われる所以である。往々にして、そういった常夏の国は経済的に恵まれないことが多い。東西問題は、旧ソ連を中心とする社会主義諸国である東側とアメリカを中心とする資本主義諸国を形成する西側との間の政治・軍事的対立を基調とする諸問題をさして言う言葉だが、南北問題は北半球を主とする先進工業国と,低緯度地帯および南半球にある発展途上国との貧富の格差がもたらす政治的・経済的諸問題を総称していう言葉だ。どうやら、概して、豊かな国が世界地図上の北側に、貧しい国が南側に偏っていることから南北問題と呼ばれているようだ。日本は、北半球に属し一応先進国である。四季があり、それも24節季、72候ときめ細かに自然環境は変化する。従って木には年輪が出来、人々は寒いときに気を引き締めたり、暖かい夏を謳歌できたりと変化が楽しめるわけである。ところが南国に行くと、年中日本で言う夏な訳で、衣類も腰巻き1つで十分だし、路上生活者が、凍死することなどあり得ない。何故南の国の人たちは、貧しいのだろうか。フィリピンにいたときにふと考えたことがあったが、確かにマニラなりセブやドゥマゲティなどの都会では、貧富の差を大きく感じるが、田舎は貧しいなりに、手近にはバナナ、マンゴー、パパイヤなどがあり、ココナツも取れて、海岸沿いなら新鮮な魚も食べられるわけだ。その地方に限定してみると、必ずしも貧困で喘いでいると一括して括るわけにはいかないような気がしていた。要は、そういった生活しか知らない人たちにとって、近隣の仲間と楽しく時が過ぎるのを、極端に言えば自分の年齢さえも分からないまま一生を終えると言うことで満足している訳である。ところが、このグローバルと呼ばれる世の中になると、遠く地球の裏側や、南北問題でいいえば、北の裕福さを嫌が上でも知ることになるわけである。王制や、共産主義や、独裁者は隠蔽し続けてきたことが、徐々に明らかにされて、何故我々だけがと言うことに気づくのである。人間が進歩していくと言うことはどういう事なのだろうか。ダーウィン的に言えば、心の問題は脇に追いやられて生物的な進化になってしまう。リチャード・ドーキンス的に言うと、これに文化的要素が入ってくるわけで、これは貧困とも関係することになる。昔の所謂南の貧しい人は、ダーウィン的生活をし、時間軸では長い期間をかけて、少しでも便利なように身体が順応し、改善し進化していったのであろう。ところが、北の裕福と言われる人たちは、本当に進歩したと言えるのだろうか。勿論全体的に見たとき見た目の生活が良くなっていることは歴然としているが、今はすでにその域を通り越して、贅沢が過ぎ、カオス的な状態になっているのではないか。昔は継ぎ当て上着やズボンで満足していたが、今は、700円台のジーンズだとか、一回着たら捨てても惜しくない物だとか、要りもしないおまけの品だとか様々な全く不要と思われる物が氾濫しているように思われる。そういった物でも、貧困な国の人にとっては、十分な贅沢品なのであって、その格差はますます広がっている。知らなければいいことを知ったばかりに、妬みや嫉みが出てくるのであるし、比較をするから自らが貧しいと思ってしまうのである。例えば、小泉・竹中改革で、国全体の力を上げようとし、それによって落ちこぼれた人間は、上がった国力で面倒を見るというのが発想ではなかったかと思うのだが、全く中途半端に金持ちが太っただけで、その金持ちは、握った金は離さないというますますの貧富格差が拡大しただけに終わった。最近ではその手法について、亀井ー竹中の論争があったようだが、両者共自説を曲げずに終わっている。小泉改革の前には、これに真っ向から反対する植草がいたが、この植草は、妙な性癖のため失脚してしまった。今日本が、まともに動いていると思っている人は少ないと思う。55年体制がやっと崩壊し、奢っていた、自民党は下野して、今民主党によりその過去の膿を絞り出されようとしている。いくら絞り出しても、当時というか、問題を起こした「悪い奴ら」に責任を取らせることは出来ない。日本は何と甘い国なのだろうかと思う。それ故に良いのか、反対党で、悪い奴は粛正するという海外の何処かの国の方が良いのか、とにかく無責任な(当初は良しと思ってやったことかも知れないが)連中がのさばって、何の心配もなく闊歩しているというのが私の感想である。この度の仕分けで、ODAの無償供与部分が1/3削減される答申となった。日本の政府開発援助(ODA)の規模はすでに、2001年に世界第1位の座から転落している。何故世界1でなければいけないのか、国内に疲弊した人たちを多く抱えながら、ただで、他国にお金をくれてやると言うことはどういう事か。建造物、橋、道路等を無償で造ってあげるわけだが、これは税金で、実際のドネーションが行われる間に、どれだけのコミッションが抜かれているか、どれほどゼネコンが儲かっているか、PCIの汚職などに見られるように、多くの巨大な悪を生んでいる。無償の額を元に戻し、再び世界一になりたいのなら、本当に日本の国内が充実したときに復活すればいいと思う。外交下手と言うか、外交では赤児のような日本が、金を如何に積んでも、国際的な評価は十分に成されず、発言権が上がるわけではない。歴代の総理も適当にあしらわれているだけで、国連に於ける安全保障理事会の常任理事国にさえなりきれないのだから、無駄金としか言いようがない。貧しい国の国民を助けるのはよい、中間で利益を得る輩が困るわけで、それ以前に国内でODAを求める人たちがいることを忘れないで欲しい。
2009.12.01
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