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世間的にはもう12月だが、私の日記ではまだ11月30日となっている。この日記自体が一日遅れの更新となっているので、時系列的には問題ないということだろう。気分はまだ11月なのだが、12月なので気分も一新したいところだ。思えば今月は予定が詰まっている。帰省しなければならないし、年末調整もしなければならない。忘年会の幹事もしなければならないし、新年会の幹事もリザーブされているというわけだ。面白いことなんてほとんどない。要するに雑務ばかりがたまっているというわけだ。考えると鬱になりそうなので今回は現実逃避するとして、明るい方向へ話題を持っていくとしよう。まずは12月になった矢先に髪を切ることにした。随分長くなっていて目にかかることが鬱陶しかったので、この機会にばっさりいくことにした。しかしあまりオシャレなところを知らない&そういうところが似合わない私としては、学生時代から贔屓にしている美容院に行くことにした。どうも新しいところを開拓するというのは勇気がいるものだ。保守的な日本人の典型らしく、いつものところへ向かった。しかし今日は休日ということもあってか、予約は一杯だった。危機を感じて電話予約に切り替えたのだがそれも時既に遅く、結局2時間も待たされることになった。ただでさえ学生時代に行っていたところなので、今住んでいるところからは遠い。地下鉄でわざわざ出向いてきたので時間が空いても帰るわけにはいかず、2時間をその場で潰すことにした。思えば休みの日に出かけるというのも久しぶりだ。しかも近くじゃなく、ちょっと遠出するというレベルのものは本当に久しい。目的は軽いが時間は重い、そんな状況にちょっとだけ心が弾んだものだった。とは言ってもどう時間を潰していいのかわからない。いくら昔馴染みのところとは言え、一人ではすることもないというものだ。1年経つと馴染んでいるところも少しは変わるものだ、その変化にちょっとだけ時間の経過を感じ、どうしようか考えた結果、本でも読んで過ごすことにした。本を買うというのも結構久しぶりだ。自分の生活、特に食生活の方を充実させようとするあまりに趣味のレベルに介入することが極端に少なくなっていたからこそ余計にその衝動に駆られてしまったというわけだ。善は急げ、思い立ったが吉日がモットーの私としては、本屋の方へ歩いていった。幸いにして贔屓にしている美容院は繁華街(あくまで比較)なので、全てにおいて物が揃っている。思案した結果、本を買ってマック(マクドナルドのこと(笑))で読むことにした。昔よく行っていたショッピング街をうろうろしたり新しい服や香水を眺めているうちに残り待ち時間は1時間になっていた。急いでマックに行き、 コーヒーを飲みながら本を読んでいた。この時間が私は大好きだったことに今更気づく。そしてそれだけ心を亡くしていたことにも今更気づいてちょっとだけおかしくなった。なんだこんなことでも幸せを感じられるんだと噴出してしまったものだった(笑)それからは思考が加速していった。ショッピング街で見たソファーをいつか買おう、そして天井から吊り下げるタイプの間接照明を買おう、あぁ、あの木製の棚は素敵だな、そんなことを考えていた。もしかしたら半笑いだったかもしれない。物凄く怪しいことうけあいだ(笑)楽しい時間はすぐに過ぎてしまって、ようやく髪を切れる時間になった。店に行くとやっぱり混み合っていて、すぐには切ってもらえなかった。やっと私の番がまわってきたので、注文を告げた。今回はばっさりいく予定だった。その時渡した会員証を見て、前に切った時から5ヶ月も経っていることに気がついた。なるほど長くなるはずだ。気に入っているのだが、いつ課長に文句言われるかわかったものではない。惜しい気もするが、切ってしまった方が合理的だ。なので今回は思い切って15センチほど切り落とした。今は妙にすっきりした気分だ。あれだけ長い髪が気に入っていたのに、切ったら切ったで気にいるとは現金なものだ(苦笑)なかなか新鮮な日だった。まったりと外に出かけてのんびりと過ごす、予定は詰めすぎない。間隔を開けただけ時間の過ぎるのもスローになるものだ。いい日だった、久々にいい日だったと言える。12月で忙しい時だが、ベストな滑り出しになったのは言うまでもない。
Nov 30, 2007
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今日は引越しの日だ。今までお世話になった道具の中で持っていくものと置いていくものを選ぶ日でもある何故引っ越すのかは今でもわからないきっと何かの契機だったのだろうと推測できる大きな車に荷物を目一杯詰め込んで新しい部屋に到着した荷物を一通り部屋に運び入れておいて後は私が好きなようにそれを移動させるだけとなった見たこともない部屋でこれからの生活を始めていく適度な緊張感と大きな期待感そんな気持ちが大好きだったもう引越しは3回目なので慣れたものなのだがいつもこの感情には楽しませてもらっている兄の手伝いもあって準備はすぐに済んだもう明日からでも一人で暮らしていける環境が整ったしかし私には気になっていたことがあった引越し当初なので綺麗にしておいた洗面台台所のシンクトイレ髪の毛が落ちているのだ気になって何回も掃除機で吸い上げたのにしばらくするとまた髪の毛が落ちているまぁ引越しの手伝いをしてくれた誰かのものだろうと思いあまり気にしないようにしていた引越しの準備が終わり、手伝ってくれた皆さんにもお礼が済んでいざ一人で住むことになるのだなと思っていると兄だけは今日私の家に泊まっていくことにしたいと言い出したまぁたまには兄弟水入らずっていうのも悪くはないまた色んな話をしようと思っていた夜話をしていた兄も寝てしまい、私も眠っていた頃何かの気配を感じて目が覚めた気のせいだと思いまた寝ようとしたが喉の渇きを覚えて洗面台に向かったそこには夥しい数の髪の毛があった怖くなってそれを急いで流してトイレに駆け込むとそこにもまた床に散らばる髪の毛髪の毛髪の毛…怖くなって兄を起こした兄は寝ぼけているようだったが、私が事情を説明するとやっと起きて一緒に来てくれた完全に流せずにいた髪の毛を見ると兄は「きょう、髪の毛はちゃんと流しておかないと駄目だろうが」と逆に怒られてしまったどうやら兄には私自身の髪の毛に見えたようだった誰の髪の毛かわからない、この家はおかしいそんな風に言っても兄にはわかってもらえなかった事態は解決したとばかりにまた寝てしまった兄を尻目に私は怖くて眠れなかったすると小さな物音がトイレの方でした怖いのでちょっと距離をおいて様子を見ていると消したはずの電気がついていて何かが動いているのが見えた怖いながらも動いているものに近づいて声をかけたすると動いているものは…というところで目が覚めた(笑)我ながら気持ち悪い夢だと思う。一体何が伝えたいのかわからない系統のものだった。しかし一笑に附するにはあまりにもリアリティのある点もまた存在していた。夢の中で出てきた部屋の説明で「見たこともない部屋」と表記したが、そこには若干の差異がある。確かに部屋のどの部分も見たことがなく新鮮な部屋だったのだが、件のトイレだけは私の部屋にあるものと同じだったのだ。勝手に電気がつき、夥しい量の髪の毛がばら撒かれていたトイレ。誰もいないはずなのに何かが動く影を見たトイレ…それが私の部屋にあるトイレと同じだったのだ。出来れば一番夢であって欲しかった部分がリアルであったというのはちょっと寒気がしたものだった。今晩トイレに行く時には気をつけよう(汗)
Nov 29, 2007
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舌が痛い。この痛さはなんだろうと思うくらいに舌が痛い。全ての事象には原因があって、そして結果が生まれる。ということは、この舌の痛みも何かの原因があってこそだと言える。しかし今のところ思い当たる節は1つしかない。それは先日食べた饂飩があまりにも熱くて火傷しそうになったということだけだ。だがよく考えてみると、饂飩を食べる時は舌を使うだろうか?例えばコップからお茶を飲む場合、そのお茶はどのような経路を辿って飲み干されていくのか、はっきり説明することが出来るだろうか?ただ「飲んでいる」の一言で片付けてしまいがちだが、詳細な通り道はわかりにくことがほとんどだ。饂飩の場合も同じで、麺とスープが舌を経由したかどうかなんて覚えていない。なので饂飩が原因だということは考えにくいことだ。まぁ目が痛い時も鼻が痛い時も「大概のことは放っておけば治る」という古きよき時代の慣わしを受け継いでいる私としては、結局放っておくことになりそうだ(笑)私は鉄棒の逆上がりが出来なかった。クラスでは出来ない人がいたものの、でもほとんどの人は出来ていた。でも私は出来なかった。きっと出来ないんだってもう信じ込んでいたんだと思う。でも練習をたくさんした。父さんに手伝ってもらったり、母さんに逆上がり用の紐を作ってもらったり練習に練習を重ねてようやくできるようになった。この話は本当のことだ。私は本当に逆上がりが出来なかった。というよりも、小さな頃は運動全般が苦手だった。田舎に生まれ、田舎で育ったという環境は第三者的に聞くと「野山をかけまわっていて元気」というイメージかもしれないが、実際そうでない子はたくさんいる。まぁ自明だが(笑)私もそうでない子の一員だったというわけだ。出来ないことを出来るようにするということはとても難しいことだ。これは他の動物にはない特性であり、人にしか許されていない成長するということなのだから。パソコンでもどんどん進化するとは言うが、それは既存のシステムから更に進めた…つまり処理速度や容量を増やしたというだけで成長だとは言いがたい。機能だって、もともと可能なのだがそこまで使いこなせていなかったものを引き出しただけであって、それは成長というよりは汎用性が上がっただけだという解釈が出来る。人の成長はそれとは異なるというわけだ。出来ないこと永遠に出来ないということがないように、繰り返し練習すればいつか出来るようになる。出来るとまでいかなくとも、最初よりは上手くなることはある。今私の仕事にまさに言えることだ。今私の職場には圧倒的に仕事が出来ない人がいる。それはまだ入って日が浅いということも関係しているかもしれないが、第三者の目から見ても明らかに仕事の能率は悪いと言える。仕事が出来る人からすればそのように上手く出来ない様子はイライラするようで、よくその人の悪口を聞くことがある。しかし私にはどうしてもその人を責めることが出来ない。私も同じようなものだったからだ。初めから全てを完璧にこなせる人なんていない。誰だってぎっこの時代はあるだろうし、その時に教えてくれた先輩のおかげでスムーズに仕事が出来るようになったことだろう。そのことを忘れ、新人に対して「仕事が出来ない」と怒るのは違うのではないだろうか?私の考察では、仕事が出来ないと怒る先輩ほど自分が新人だった時に要領が悪い傾向にある。自分が要領が悪くて仕事がなかなか覚えられなかったから先輩に怒られた、嫌な思いをした。だから自分が上の立場になった時には同じような後輩がいると潜在的に自分が受けていた扱いと同じものをしてしまうというわけだ。虐待されて育った子どもが親になると自分の子どもに虐待してしまうのと同じということだ。人は自分の過ごしてきた環境を決して忘れない。優しく暖かく育った環境ならば、その人物の性格にそのまま影響することになる。優しく丁寧に教えられて仕事を覚えた人は後輩にもきっと優しく教えることだろう。辛辣な意見や罵声・悪口の中で育った人材は将来的に現場を閉塞させていく原因になることも考えられる。家庭教師をしていた私にはそのことがよくわかる。叱られて覚えたこともまたしっかり覚えていることかもしれないが、優しく教えたこともまた強烈に残っているものなのだから。今日も先輩が新人さんの覚えが悪いとぼやいている。もしもそこで私が一言言える権限をもっていたとするならば私が言う言葉は1つだ。半分は貴方のせいなのでしょう?
Nov 28, 2007
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世の中には文系と理系の人間がいる。こう言うと国語が得意な人間が文系の人間で、算数や理科が得意な人間が理系の人間だという勘違いをされそうだが、そういうことではない。要は物事を考える場合、情緒的に考えることが出来るかどうかということで線引きすることが可能になる。例えば文系と理系を見分ける方法として有名なものには手品がある。手品の番組はいつの時代も結構な流行もので、よく取り上げられることがあるのだが、その番組に出てくる手品を見る姿勢が文系と理系では大きく異なることになる。文系の人は自分で全くタネがわからない手品に遭遇しても「へぇ、不思議なこともあるものだな」と感じる傾向が強い。しかし理系の人にとっては手品には必ずタネがあるに違いないのでそのタネを見破ろうと躍起になる傾向が高いということだ。それは手品に然り心霊写真に然りUFOに然りだ。つまりは不思議なことをそのままにしておくのが文系、不思議なことがあると絶対にその不思議を不思議のままにしておきたくないのが理系だという切り分けが可能だということだ。これは絶対の真理ではない、あくまでその傾向が強いというだけのことだ。あしからず…。そういう私は明らかに文系人間だ。UFOや心霊写真などは自分がわからない範囲のことでも「へぇ~、凄いなぁ」で済ませてしまうことが多い。自分の考えていること、自分で理解できることが世の中の全てではないということは自明のことだ。情緒的な考え方が出来るのが文系の人間のいいところだと私は思う。しかし理系にもいいところがあって、理系の人は不思議なことにで出会った時にそのことを深く考えようとする。自分でわからないことを考える時というのはとても素敵な時間で、そのような時間を多く持てる理系の人というのは得をしていると思うこともあるということだ。前置きが少し長くなってしまったが、ここからが本題だ。先日仕事の暇な時間帯に、少し面白い話が出た。いつも面白い話をしてくれる先輩が、みんなが仕事場に集まっている時にある話をし出したのだ。いつも面白い話をしてくれるので今度はどんな話なのだろうと私もわくわくして、やっていた仕事をそうそうに切り上げて話に参加することにした。内容は人間の意志についてだった。例えば貴方の目の前にスイッチが2つあったとしよう。そのスイッチのどちらを押すか、それは貴方の意志が決定することだ。スイッチを押すということを念頭に置けば、貴方には全部で4つの選択肢が存在していることになる。1:向かって右側のスイッチだけを押す2:向かって左側のスイッチだけを押す3:両方を押す4:両方押さないその意志の決定は勿論貴方が行うことだ。尚、スイッチを押した時にどのようなことが起こるのかは今回は考えないことにする。つまりスイッチを押すという行為だけをピックアップするということだ。どのスイッチをどう押すか、それは絶対に貴方の意志によって決定されることだ。誰かに決められたものではないはずだし、貴方が直感的に決めたスイッチを押すことになるだろう。しかし…それは本当に貴方の意志だろうか?それが今回のテーマだ。精神論と銘打ったのにはここに原因がある。要するに「人間の意志が人間自身が決定していることなのかどうか?」ということだ。選択というのは今まで生きてきた人生で数え切れないほど行ってきたものだろう。レストランに行って何を食べようか、今日のおやつは何にしようか、ドライブに行くのにどこに行こうか等‥そのような選択があってこそ今の自分がいるわけだし、その選択が間違っているかどうかは別として、誰かに指図されて行ったことなどないはずだ。しかし意志が自分の中で行われているかどうかを証明することは不可能だ。何故ならば意志の決定というのは脳下で行われていることであると「思っている」からだ。もしもその脳で行われていることを第三者の関与で統率されているとしたなら…私達は考えている「ように」操作されていることになる。自分で決めて出した答えが、誰かの操作によって決められた「当然の結果」だとしたなら、これは結構怖くなってくる話だと感じる。それをうけて今これを書いているのだが、これを書いている私もまた自分の意志で書いているのだろうか?書かされているということはありえないと思いたい、自分の意志で決定していることだと思いたい。しかしそれを実証することも証明することも出来ない。ゲームのキャラクタのように、ただ操作されるだけのひとつの存在だとしたら…人間の価値などそうないのかもしれない。しかしわからないから面白い、そのような考えもまた答えの出ないものなのだから。文系人間である私がその問いに対する答えを出せないものだと諦めたのは…この内容を書いた時だった(笑)
Nov 27, 2007
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仕事をしている夢を見た。変にリアリティのあるもので、私は今の職場で仕事をしているのだが、通常やっている仕事に加えて新規業務が仲間入りするということで、その仕事の概要を説明してもらっていた。内容としては簡単で、間違えようがないほどの稚拙な内容だった。新規作業はいくつかの工程を経て行われるもので、その業務を行うにはまず前提条件を達成しなければならない。例えば時間を前提にしているものであれば、夕方何時以降だとかそういうことだ。そのような決め事は新規作業に限らずどの作業にもあるもので、特にそのような前提条件があることをおかしいことだとは思わなかった。そして説明も終わりいよいよ実践するという段階になったのだが、そこで問題が生じた。新規作業にはいくつかの工程があると書いたが、その工程にはそれぞれ番号が振られていて、その番号にしたがって行うというものだった。その番号というのが13・15・17・19という4つの数字になっていた。しかし新規作業は全てが一度に適応されるというわけではなく、曜日毎にやる作業、つまり番号が割り振られているのだ。私は事前に説明を受けた通りに実行しようとした。その日は15の作業を行うはずだった。しかしそれを行っている最中に先輩からストップがかかった。「おい、きょう!それは今日はやらないはずだぞ?」そう言われて行おうとしていた作業を見てみたが、しかしおかしいところなどどこにもなかった。なので何がおかしいのか問うてみたところ、私がやろうとしているのは17番だということだった。簡単なので間違えるはずがないと思っていたのだが、改めて見てみると13・15・17・19の作業の見分けが全くつかなくなっていた。同勤の先輩はすぐにわかっていて作業を行っていたのだが、どう見ても見分けがつかない。夢なのでその光景ははっきり覚えている。私が見ていた光景というのは、要するにお皿が2つあり、そこにはそれぞれ水が入っている。2つの皿を見ただけでどっちがボルビックでどっちかエビアンかを当てろと言われているようなものだった(苦笑)何故みんなが出来て私が出来ないのか、それが悲しくて必死に覚えようとしたのだが、しかし状況は上記の通りだ。わかるわけがない。そこで夢が覚めた。この夢が一体どのような意味を持っているのかは私にはわからない。最近になってごくごく些末なミスをしてしまったことを気に病んだ結果見た夢なのかもしれない。疲れているのだろうか?別に今の仕事が嫌だというわけではない。ただひとつだけ文句を言うのならば、夜勤があるということだけだ。それが大きく生活リズムを狂わせる誘因になっているのは自覚している。しかし嫌だからといってしなくていいのでは仕事にならない。私達が日々快適に過ごせる裏には夜勤を毎日のようにやっている人や、ホワイトカラーにはとても出来ないような肉体労働をしている人だっている。そのような人たちがいるおかげで私達の快適な生活は守られているのだ。なので私が今の仕事で夜勤をしていることにも必ず意味はある。しかしながら意味があることとそれを望むことは別次元の話だ。意味があるからしなければならな理由にはならない。私が本当に夜勤を望んでいるかと言えば、そこは胸を張ってそうだとは言えそうもない。しかし仕事だから割り切らないといけないこともまた自明のことであって…。結局はいつもそのジレンマに苦しんでいるということなのだろう。冒頭のような夢を見てしまうのも仕方ないことなのかもしれない。思えば私は社会人になったものの、未だ温い考えを持っているのかもしれない。学生からすぐに仕事を始め、今ではそれが日常的にすぐ横に存在する立場になったとてまだ完全に消化できたわけではない。つまりは学生気分が抜けていないのかもしれない。こればっかりは頑張ったとてすぐに改善されるものではない。自覚を持った仕事を心がけることが今の私に出来る唯一の策だと感じる。まぁそんなわけで、心労はすぐには改善されないということがわかった。最近では仕事に行くということにも気負いがなくなったし、むしろリラックスした気持ちで仕事に臨むことも可能になった。このような夢はきっとそのうち見なくなるだろう。この類の夢を見て自分の置かれている状況に苦悩しなくなる方がよっぽど健全ではないと思うのは、私がまだ未熟だからだろうか?笑
Nov 26, 2007
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昨日の日記は私の集大成となった。文字数はなんと今までで最高の9183文字。書く側はいいかもしれないが、読む側の気持ちを一切無視した文量になってしまった。まぁあれは私が今まで書いてきた拙いこのブログのいつも中心にあった事象であり、私を形成する要素のひとつでもある。綺麗に纏められないので何度も何度も加筆した結果がそれだけの量になってしまったというわけだ。最後まで読んでくださった方にはお礼を言いたい気分だ。それとは打って変わって今回は普通の内容になってしまって恐縮だが…先日面白い漫画を見つけた。私の現場には書庫と呼ばれる休憩室のようなものがあり、そこには一応全員分のロッカーが置かれている。私のロッカーもあるのだが、普段仕事の時に着ている制服以外には別に入れるものもないので、普段はからっぽになっている。そのロッカーは基本的には制服さえちゃんと入っていれば何を入れても媒体以外は問題ないとされている。なので多くの先輩方は夜勤の休憩中の暇をつぶすために本を入れている。書庫のルールとして、誰のロッカーも勝手に開けてもよく、ちゃんと元に戻しさえすれば問題ないことにされていた。各言う私も先輩方のロッカーに入っている本には色々お世話になった。暇潰しにはもってこいというわけだ。しかしロッカーに入る許容量があるのと同じように、その中に入れられる本というのも限られてくるものだ。持ってきた本を持って帰るのが億劫になるように、一度持ってきた本はロッカーの住人になってしまう確率はかなり高いと言える。最初の方こそ知らない本ばかりでわくわくしたのだが、最近になるともう飽きてきたというのが正直なところだ。なので先輩が新しい本を調達しようと近くの本屋まで走って適当に本を買ってくることも多かった。そのおこぼれを預かっているずるい私がいるというわけだ(笑)先日いつものように既存の本に飽きてしまっていた先輩が、また新しい本を買ってきていた。本とは言ってもほとんどが漫画だ。しかも1巻からじゃなく、4巻とか11巻とか中途半端なところから買ってきはるので、読むにも読めないというものだ。その中に唯一1巻からあるものがひとつだけあった。それはさいとうたかを著の「サバイバル」という本だった。これがどの程度認知されているのかはわからないので、一応軽く補足をしておくと…大地震に遭遇し生き残った少年、サトルが過酷きわまる環境の中で生き抜こうとする姿を描く (wikipedia引用)というものだ。さいとうたかをさんと言えばゴルゴ13があまりにも有名だ。しかし他の著書はほとんど読んだことがなかった為に、興味が沸いて休憩時間を利用して1巻を読んでみた。内容の方は上記の通り、大地震で生き残った少年サトルが自分しかいない無人島で一人っきりで生きていく姿を描いているものだった。その世界観は異質なものだと思っていたのだが、よく考えてみると実際に起こっても不思議ではない事象であることがわかる。昨今地球温暖化に起因する異常気象が多く観測されている。漫画の中の地球は海抜が60メートル上昇してほとんどの都市が水没した姿が描かれているのだが、あながち漫画の中だけの話だと一笑に附することは出来ないように思える。しかもこれは1976年に連載されていたものらしい。その時代からこのようなことをある意味では予見していたのだから、或いは先見の明と呼べるかもしれない。10分くらい読むつもりだったのだが、気づけば読み耽っており、1時間あった休憩時間をまるっぽ(「まるっぽ」って方言だろうか…)使ってしまった。私が読んだのは2巻までなのだが、3巻からが猛烈に気になって気になって、後の仕事に支障が出たのは言うまでもない(苦笑)この漫画はただの空想ではない、サトル少年に起こったことは将来的に本当に起こることかもしれない。そう思うと、ちょっと背筋が寒くなった本だった。
Nov 24, 2007
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この内容は先日の内容を見ておかないとわからないことであるし、それ以上に私という人間を以前から知っていなければわからない内容だ。そのことを踏まえた上で見ていただければ幸いだ。朝4時に目が覚めた。この爽快感は今までにそうあったものではない。今日は会える日だ。この日を一ヶ月以上前に画策していたものの、その一ヶ月を心待ちにしていたものだった。確かにこの日は過去の全ての事象に結論を出す日だ。なので嬉しい出来事だけだというわけではない、それを思うと手放しで喜べるようなものではないのだが、しかしそれ以上に適度な緊張感と期待感で鼓動は高まっていった。約束の時間10時、いつもの場所で待っていた。いつものように案内板の前の石垣のところに腰掛ける。これではまるであの頃と同じような気がする。それが少し面白くて噴出してしまった。しばらく待っていると彼女はやってきた。偶然か否か、彼女は最後に会った時と同じような格好をしていた。最後にとてとてと走ってくる姿はあの頃のままだった。その瞬間に1年のブランクを感じていた私はいなくなっていた。まずはいつものように例の公園に行くことにした。この公園は私達が会う時にはいつも行っている場所で、思い出も多く詰まっている場所だった。それだけに二人の間には暗黙の了解があり、無意識にそこに向かっているといったそんな感じだった。彼女は出会い頭私の髪の毛を見て驚いているようだった。それもそのはず、会うという約束を取り付けた時に、私が髪の毛を切るのを面倒くさがっていたことを話すと、長い髪の毛の私を見たいと言ってきたからだった。前髪は鼻を超えていて、後ろの髪は束ねられるほどになっていた。そんな私を見てちょっとだけ噴出している彼女を見ると、ここに帰って来たのだということを実感したものだった。そんな彼女の髪の毛も随分長く伸びていた。恋をしている女の子は綺麗なものだとその時実感した。まずは最初に2時間ほどその公園で話をした。いつものような他愛ない話、1年前と何も変わらないような話…他から見るとつまらないものだったのだが、それでも私は楽しかった。充実した時間を過ごしたと思う。次にお昼を食べることにした。場所はいつもの場所、注文したのもいつものものだ。別に変わったものなんて必要ない。これが私達の流れであって、自然なのだ。前々から約束していたお互いに嫌いなものを食べるという罰ゲームも加わり、その場は大いに盛り上がることになった。時間は1時半、どうしようかと思った結果、私はあることを思い出した。今回の邂逅に置ける約束は全てで3つあった。それは私の新しいメガネを買うことに付き合ってもらうこと、そして彼氏とどうなっているのかを聞くこと、そして最後はけじめをつけることだった。3つ目は私の中だけの約束だった、否約束というよりもむしろ決意に近いものがある。しかもデターミネーションレベルのものだ。まずは1つ目の約束を叶える為にメガネを売っているお店を探した。しかし駅前にあるメガネ屋さんはほとんどが高価なものばかりで、はっきり言って手放しで買えるほどの金額ではなかった。なので雑貨屋さんのような気軽な感覚で買い物が出来るところを探していてよしんばあれば買うという方向に決めた。結局すぐにオシャレな雑貨屋さんが見つかり、いざメガネを探すということになった。自分に似合うものというのは自分ではわかりにくいもので、一人で決めるには中々難しいものなのだが、二人で決めると案外すんなりいくようで、彼女が「私らしい」といったメガネを買うことにした。値段もお手ごろだったので、私はまた伊達メガネ族に戻ったというわけだ。このメガネは私の初めての彼女との思い出だ、大事に大事にしようと心に誓った。緑フレームのメガネは私の宝物になったというわけだ。その後は…私が何気なく言った今年挑戦してみたいものとして白いパンツがあるという話に食いついて白いパンツを目を輝かせて探し、見つけたら試着をしろとせがみ、履いた私をみて笑っていた。苦手のチョコレートケーキを懸命に食べる私を嬉しそうに見ていた。公園で行われているイベントを二人でぼんやり眺めていた。陽の当たる芝生に座って靴紐の結び方を教えてもらった。上手く結べない私を楽しそうに眺めていた。温かい飲み物を買おうと店に行って梅昆布茶をノリで買ってしまい、飲んだ私のリアクションを見てウケていた。大きな黒いサングラスをかけている私の似合わなさに二人で大笑いした。ミルクシーフードカップヌードルを見て失笑した。私の渡した紅いネックレスを持ってこれをどうしたらいいのかと困っている彼女に私の蒼いネックレスと交換しようと言うと素直に交換してくれた。沖縄土産のストラップをくれた。私の誕生色ではなかったものの、綺麗に光る玉を見て嬉しくなった。公園のイルミネーションを二人で眺めながら進路や恋の話をした。色々ありすぎる。彼女にとってはどうかわからないが、私にとっては最高の息抜きだった。最近仕事が上手くいっていないこともあってか軽い愚痴も言ってしまったが、しかしそれを黙って聞いてくれる彼女のいる空間はやはり慣れ親しんだものだった。私と彼女はもう1年も前に別れている。しかしその後もずっと密に連絡は取り合ってきたし、仲良くやってきたつもりだった。彼女の方は既に私のことを恋愛対象として見る気はなかったものの、しかし私にはまだ淡い気持ちが残っていた。恋愛というのはいつだってそうだ、振られた方が未練が残るものだ。その未練は楽しかった思い出に比例する。どうでもいい人ほどすぐに忘れてしまうものだ。私の中に残っているその思い出からくる未練は、はっきり行って1年程度ではなくなるものではなかった。出来ることならまた私に振り返って欲しい、そう願ったことも数え切れないほどあった。その一縷の望みが今回の旅の原動力になったことも正直に言うと少しだけある。こんなこと彼女には恥ずかしくて言えないのだが(笑)そういう観点で途中までは一緒に過ごしていた。しかし私が彼女のことを心から諦めてふっきれる出来事がイルミネーションを見ている時にあった。それは寒い公園でイルミネーションを二人で見ながら色々な話をしている時だった。山梨の冬は寒い、ともすれば京都よりも寒いかもしれない。そんな中だだっぴろいところにポツンと置いてあるベンチに座っているのだ、寒いに決まっている。彼女も寒そうにしていたので、私は彼女の手をとって握り私のジャケットのポケットに入れてあげた。ちょっとびっくりしたようだったのだが、その握った手を彼女は楽しそうに話しながら解いた。本当に些細なことだった。彼女もその行為に気づいていないようだった。そこで私ははっきり気づいた。もう彼女は私を恋愛対象として見る価値はないものと思っていることを。正直に言ってしまえば、そんなことには半年以上も前から気づいていた。彼女には私よりも数百倍大切な彼氏がいるわけだし、もしも戻ってくるのならすぐにでも戻ってくるだろうということも。しかしそんなことはわかっていたのに信じたくなかった、嘘だと思いたかった。一縷の望みをかけていた、本当に大好きだった。その想いを込めて握った手を彼女は無意識に解いた。極めて自然に、極めて当たり前のように。わざと解いたなら冗談に出来る。でも無意識ならもうそれは心の代弁だ。友達として見られているならそれも幸せだ。私は彼女の本当の想いに気づき、決心し話した。これが私のけじめだと思いながら。そしてここからが私の再スタートだと感じながら。話している内容に関して彼女は驚きもしなかった。きっとこれは彼女が1年前にした経験と同じものなのだろう。私は馬鹿だ、人生で初めて出来た彼女との別れを容認するのに1年もかかってしまった。でも遅すぎるとは思わない、それが私の彼女に対する想いの裏づけなのだから。それからはむしろ前より明るく色々なことが話せた。友達として見ることを決意してこの旅に赴き、そしてその望み通りにことは運んだ。本当ならば予想していたはずなのだが、それでもやはり心は沈むものだ。しかし妙な躁状態になっていたのだろう、その時の私はきっと今までで一番楽しく話していたことだろう。その後は二人で思い出が詰まったメロンパン屋さんに行ってメロンパンを食べた。これはいつも二人でいる時には食べていたもので、私は今のところこれ以上に美味しいメロンパンに出会ったことはない。多分しばらくは食べられないと思うと淋しいが、その分ちゃんと味わっておこうと思ったものだった。その後もなんだかんだと話しこんでいたのだが、そろそろ彼女が家に帰らなければならない時になった。自転車を停めていたところまで送っていってあげた。最後に彼女が自分で停めた自転車がどこにあるのかわからなくなって必死で探すというハプニングがあったものの、それでも別れの時は来た。きっと明日はない、これが彼女として接する彼女との今生の別れになるだろう。帰りしなに彼女が「やっぱりこれが似合うね」とメガネを触ってきた時には思わず友達としては超えていけない線である抱きしめるという行為をしてしまった。あの頃は何度となくやってきたことだが、しかし今の私では簡単には出来ない。きっと最後の抱擁になるだろう。勿論彼女から私の腰に手が回されることはなかった、そんなことはわかっていた。あの頃いつもしていた彼女の香りがほんのりした。落ち着く香りだ。そして手袋の中で冷たそうにしている彼女の手を取り、握手した。思えばそんなことをしたのも初めてかもしれない。そして一言「ありがとう」きっとこの一言が言いたかったのだろう。思えば全ては私の中でのいい思い出であって、決して彼女が誰といようが消えない最高のものになるはずだ。これだけの思い出をくれた彼女に対していくらお礼を言っても言い足りない。その想いを全て込めて言った、ありがとう。彼女は小さく答えてくれた、その時にこそ私の3つ目の約束は成就された。彼女は自転車で帰って行った。私はなんとも言えない気分だった。悲しいわけじゃない、辛いわけじゃない、むしろ積み上げていた積み木が見事お城になったような、そんな気持ちのいいものだった。私は今緑のフレームのメガネをかけていて、胸には今は紅いネックレスがある。携帯電話のストラップには黒く光る玉のストラップをつけている。今までつけていた蒼いネックレスとは対でいて、恋愛の想いを当初は込めたつもりだった。しかし今は違う。友情を誓う証、それがネックレスの新たな使命だ。手元にある二人を友情で支えてくれる何かになってくれればいいと切に願うばかりだ。燃えるような紅は俺に似合うだろうか?静かで冷静な蒼は彼女の手元にいった。そう、まるで青い鳥を指し示すかのように。紅と蒼の再会は俺達の再会になるはずだ。忘れ物は完成された。ありがとう。R、君は最高の人だ。無感動な俺を変えてくれたのはきっと君なんだよ?君に永遠の幸あれ
Nov 23, 2007
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仕事が終わった。この時を心待ちにしていたものだった。というのも、今日の仕事明けをもって私は長期休暇を得たからだ。それを利用して小さな小さな旅行を慣行しようと思っている。目的地はそう、お馴染みのあの場所だ。よく考えてみればあの地に足を踏み入れるのも1年ぶりだ。全てが砂塵の楼閣だったことを確認したあの日、あの日以来私があの場に足を踏み入れることはないと思っていた。しかし、それは私の心の弱さであって、そのままフェードアウトしてしまうにはあまりにも悲しいことだということに気づいた。だから今回の長期休暇を利用して再びあの地に赴こうと思ったのだった。 仕事も終わり家でまったりしていたのだが、荷造りを済ませているといい時間になったので出かけることにした。以前に行った時には鈍行電車でのんびり行ったのだが、それは別にゆっくり行くことが好きだというわけではなく、ただ単にお金が無かったからだった。今回は社会人として働いているということを有効活用して、新幹線で行くことにした。本当は鈍行電車の待ち時間が長かったからなのだが、まぁ綺麗な言い分も必要だというものだろう(笑)あの頃と同じように一笑出来るお土産を選び、あの頃と同じように電車に乗り込む。ただ違うのはいつもより少し早い電車だというだけだ。あの頃と同じようにわくわくしながらもどこかドキドキしている気持ちを抑えることが出来ないのが子どもらしいところだと言える。いつもよりも早い電車であっという間に富士山が見える駅まで来た。関西は生憎の天気だったものの、関東は気持ちよく晴れているようで、富士山も綺麗に見えた。関西在住としては富士山を見る回数も多いので感動もあまりしなくなっているのだが、久しぶりに見るとやはり壮観で感動したものだった。ちなみにその感動というのは日本一の山を見ての感動ではなく、またこの場に帰って来たのだという感動だった。あの路線、とち狂って帰れるだけ帰ろうと先走った結果寒い中始発を待ったあの駅は何も変わっていなかった。1年前は改修工事をしていたあの駅も今では綺麗に整備され、オシャレな雰囲気を醸し出していた。田んぼや田舎チックな家しかない風景は何も変わっていなかった。何も変わっていない。変わったのは私なのだろうか?目的の駅に着いた。山梨県甲府市甲府駅南口、あの頃の場所にようやく私は帰って来た。季節が季節だけに駅前はイルミネーションで輝いていた。京都と似たような気候である山梨なのだが、明らかに日没の時間は山梨の方が早い。気温も寒く、山麗地であることを認識するには十分だった。一年前までは小さな駅だったのだが、今回来てみると物凄く大きな駅に変貌していた。しかも私がいつも利用していたホテルは工事の為に休みになっていた。またあの安っぽいホテルに泊まれると楽しみにしていたのだが、これだけは計算外だった。まぁ駅前なのでホテルなんて山ほどある。新たなホテルに新たな思い出を築くのもありだろう(笑)今日は辿りつくまでが目標なので、久しぶりに駅前の範囲だけを散策することにした。何度も何度も来たはずなのに1年という月日の長さを改めて痛感することとなった。それにしても山梨は寒い。十分に着込んできたはずなのに、体が悲鳴を上げている。これはあまり出歩くのもいけないと思い、新たに発見したホテルに逃げ込むことにした。そのホテルの一室で今これを書いているのだが、それにしてもこのホテルは酷い。まずはシャワーが凄かった。お風呂に入ろうと思ってお湯を出したのだが、中々お湯が温かくならない。私はシャワーは熱いくらいがちょうどいいので、あくまで私の適温にする為に温度調節のスイッチを探していた。しかしそれが見当たらないので絶望して温いままのシャワーを浴びることにしたのだが、次に浴びた時には適温になっていた。これは流しっぱなしにすれば温度が上がっていくタイプだと思い、今度こそお風呂に入ろうと思っていたのだが、しかしお風呂に入っている間シャワーの温度はどんどん上がっていき、遂には浴びられない温度になってしまった。シャワーというものは文明の利器なので、出来ればシャワーを付ける時には温度調節をオプションにして欲しいものだ。しかもドライヤーもついていないしテレビの写りも悪い。しかしこのホテルにも見上げたところはあった。それは寝巻きがパジャマだったことだった。しかも青のストライプ…可愛い♪男の私が着るのは似合わないが(笑)さて、明日はいよいよこの旅の本番だ。また尖塔の下でメロンパンを食べながら語り合うことが出来るだろうか?屈託なく笑う君が待っている、あの場所はまだ君との思い出で埋め尽くされているはずなのだから。さて…忘れ物を取りにいくとしますか♪
Nov 22, 2007
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そろそろ半袖で寝るのにも辛い時期になってきた。私には変な癖があって、どんなに寒くても窓を全開にしないと気が済まないというものだ。これは誰に話しても訝しそうな顔をされるわけなのだが、どうにも一人暮らしを始めた時に何とはなしにしたことが習慣化していると言えるかもしれない。一人でいる限りは特に弊害もないだろう。風邪を引かないように注意することだけが唯一の難点か(笑)風邪と言えば、私の職場は風邪を引くことがタブー視されている。風邪の気配を感じたら係長に言えば何のひっかかりも無しに休ませてもらえることが出来るらしい。「らしい」と言ったのは、実際にしたことがないからだ。しかしそのような休みを満喫できるのも私をはじめとする平社員だけだという話を聞いたことがある。何故風邪を引いてもすんなり休ませてもらえるのか、それは私が働いている建物に関係している。私が働いている建物は基本的には電波を壁構造的にシャットアウトしている。それは外部電波が入る環境だと支障をきたす可能性があるからだ。私の仕事場に限らず、情報サービス業という業界はセキュリティに関して異常なまでに固執する傾向にある。扱う財が無形であるが故のジレンマというか、兎に角形がないからこそ余計に万全の体制で挑む必要があるというわけだ。なのでもちろん1Fにも関わらず窓はないし、空気の入れ替えも行われない。時計を排除してしまえば、今が朝なのか夜なのか、天気が良いのか悪いのかすらわからない状態だと言える。真賀田四季の気持ちがちょっとわかるというものだ(笑)故に風邪を引くと恐ろしい状態が待っている。以前に主任クラスの方が風邪を引いても自分の仕事があるからという理由で無理に仕事に来ていたことがあった。しかもマスクをしていなくて、通常作業中でも咳を連発していたものだった。そのせいかどうかはわからないが、次の日には同勤者に、そしてその次の日にはまた同勤者に…といった具合で風邪がどんどん感染していった。しかも人体を経由しているので感染力は倍化していき、恐ろしい力を持ったただの風邪の菌になったというわけだ。風邪の菌伝染後半期になると、ほとんど全員が瀕死状態に陥ったものだった。なので私の仕事場にはセキュリティよりも風邪の菌のシャットアウトが重要とされているというわけだ(笑)そんな現場で働いているからこそ余計に風邪には気をつけなくてはいけないのだが、どうしても長い間してきた癖というのは治らないものだ。まぁこの癖のままにインフルエンザを引いたとするならば、きっとやめることだろう、それだけは勘弁蒙りたいものだが(笑)風が冷たい冬が来ると思い出す部屋に転がるのはあの頃の残存粒子そして思い出の品君は今どうしてるのかな?なんてクサいことも言えるくらいに淋しい私がここにいる(苦笑)
Nov 19, 2007
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私の会社には最低人間がいる。私はその人の直属の部下ということになっている。そのことが鬱で仕方ない。基本的に私は外部不干渉な人間だ。だからと言って引きこもりだというわけではないし、喋らないで隅っこに群生しているような人間でもない。ここで言った外部不干渉とは「何らかの原因で嫌いになった場合」という前提条件が存在している。私は人のことをそう簡単には嫌いにならない。それは同じことを相手も感じているかもしれないからだ。人間完璧なんて存在しない、誰にも必ずと言っていいくらいに欠点はあるものだ。たった1つの欠点をついたところで、それはどうしようもないことだ。だからそれくらいは許容できるだけの器は持っていたいと常々思っている。それは私自身が凄い人間ではないことに起因している。以上の点を踏まえた上でも、その先輩(仮称B先輩)は私にとって悩みの種でしかない。まずは性格が歪んでいるということだ。人の欠点を言うだけの人ならば多い、私もその傾向はあるからだ。しかし私が言うのははっきり言ってあげた方がいいこともあるからだと思っているからだ。だがB先輩が言う相手の欠点は、明らかにそのことで人を貶めようとする作為が感じられる。私がこの現場に来た時からその片鱗は見せていたものの、それでも私は自分と同じ種類の人間なのだろうと思い込もうとしていた。しかしその期待はあっさり裏切られ、結局B先輩は人の欠点を面白おかしく周りに触れ回っていくような最低の行為を楽しそうに行う人だった。そして次に、無駄に上昇志向が高いことだ。上昇志向が高いことはとても良いことだ、それがないと会社でも頑張れないしヒューマンスキルを磨く点でもいい方向に動くことが多いファクタであることは自明だ。しかしB先輩の言う上昇志向はその上昇志向の指し示す場所からは遠いような位置にある。つまり端的に言ってしまえば口だけなのだ。その先輩がよく言うのが「俺は年収1千万になる」ということだ。その言葉を聞く度に「また始まった」と思ってしまう。年収1千万になることは容易ではない。いきなりポンと年収1千万になることがありえない事象であることが自明であるように、それだけの稼ぎを叩き出そうとするにはそれだけの努力が必要になってくる。だからこそさぞ仕事は頑張っていると思われるかもしれないが、しかしそんなことはありえない。仕事が始まっても私のような下っ端がいると下っ端に仕事を任せて自分は何もしない、そして簡単な仕事を随分と時間をかけて行いさも今日も仕事を頑張ったみたいな感じでいるのだ。そんな光景を見る度にいつもため息が出る。努力なくして大いなる年収を稼ぎ出そうと夢ばかり見ているということは小学生にだって出来る。小学生の男の子が将来消防士になりたいと言っていること以下だ。出来ないからこそ言っているかもしれないのだが、出来ないと線を引いている段階で既に負け組みに入っていることに気づいて欲しいものだ。最後に上司に取り入ろうとする考えが丸出しだということだ、これが私には一番不快に思えて仕方ない。その関係で部下にはいい顔をしようとする。要は偽善者なのだ。私の仕事場には掲示板というものが存在している。その存在理由は、仕事や業務関係のことでわからないことがあれば書き込んでいき、それを上司や質問の答えがわかる方が回答を書き込んでいき業務を円滑に進めようとする意図によってあるものだ。その掲示板は現場にいる全ての人が見ることができ、結構な頻度で更新がかけられているツールでもある。その掲示板に時々上司からのお達しがあるのだが、そこによく書き込むのがB先輩だ。しかも困ったことがあったらなんでも相談して下さいね^^みたいなことを書き込むのに、そのことに困っている人がいたらそれを見て喜んでいるという最低ぶりだ。最近あったことなのだが、宴会の幹事がある先輩に決まった。店の日取りや人数の把握、予算の算出など諸々のことを決めなくてはならず、しかもその先輩は幹事役に慣れておらず困っていたものだった。その勅命が上司から降りてきた時、真っ先に掲示板に書き込んだのがB先輩だった。文言はわかっての通り上記と同じものだった。しかし困っている先輩を尻目にいつも「どうするつもりなんやろなぁ~♪」と助けるつもりゼロで嬉しそうに事の成り行きを見ている様子ははっきり言って最低の一言だった。助けるつもりも皆無なのにそのように書き込む意図、それは明確なものだ。要するにそのように「部下にも優しい人材」ということを上にアピールする場として活用しているだけなのだ。上司に上手にアピールすることは大切なことなのかもしれないが、それはあくまでそれに見合っただけのことをしているかということが前提だ。虚偽の書き込みで上司に取り入るなんて最低の行為だ。私の価値観とは正反対を行くものだといってもいい。きっと今の現場が解散になるまで分かり合えることはないだろう。悲しきかな会社は共闘体制を敷かなければならない。嫌いだから関係を絶つということは不可能に近いものがある。他の先輩は良い方ばかりなのに、B先輩だけが鬱で仕方ない。会社という法人で無ければ一生敬遠したい人種の1人だ。まぁしかしそれでもやっていかなければならないのは事実だ。出来るだけ近寄らないようにしたいと思っている矢先の今日・明日・明後日・明々後日の同勤だ。胃が痛くなるくらい鬱なのだが、それも仕事だ仕方が無い。イライラすることも多いだろう、バカにされることも両手の指では数え切れないほどあるだろう、しかし仕事なので仕方ない。今日は10日分の精神的労力をもって仕事に挑むとしよう。これが終われば連休が待っている。それだけを支えに仕事に行くとしよう。終わればあの場所で待っている人もいる、頑張ろう♪
Nov 18, 2007
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木枯らし一号発動らしい。季節としてはいつもより早いということはなく、むしろ例年並だと思う。去年も確かこれくらいから徐々に寒くなっていっているような気がする。これからが本当の冬の到来だ。思えば京都というところに住んでおきながら、今年の紅葉がどうだったのかを知らない。おそらくまだなのだとは思うが、まだにしても遅すぎる。もしかしたらもう終わっているのかもしれない。毎年紅葉のスポットをテレビで嫌というほどやっているのだが、今年はそれも見ずに終わっているのかもしれない。それだけ忙しいということなのだから、いいことかもしれないのだが、同時に淋しくなるものだ。心を亡くしていくというのはこういうことが萌芽なのだということに気づいたものだった。どうやら今年は正月に実家に帰れそうだ。昨年までは色々と理由をつけて実家に帰ることは無かったのだが、帰れるのに帰らないのと帰れないから帰らないというのには大きな隔たりがあるということを、今年のお盆の時に知った。私の現場は仕事のシフトを2ヶ月間は先取りして決めている。普通の仕事にはシフトなんてないのだが、私が属しているところのように普段から夜勤をしなければならない仕事だとこれは当たり前のことのようだ。取りあえず仕事に行くと上司から「明日は夜勤だから♪」と言われたところで予定が合わないという事象が発生してしまうように、夜勤というのは予定を大きく狂わせる作用がある。自明かもしれないが、そこは前々から予定を組んでおく必要があるということだ。そしてその関係なのだが、シフトを組む上で休日希望というものが存在している。これは有給休暇とは違い、どの日に休みたいというのを一応進言できるシステムになっている。これも普通の会社とは違うところだと思う。日勤ベースで考えるとそのようなシステムは不合理だし、なにしろ休みたい日というのは人それぞれ似通ってくるということにも起因している。例えば12月で言うと、クリスマスがそれにあたる。彼女さんや奥さんがいらっしゃるとどうしてもクリスマスは休みを取りたいと思うものだ。シフトを組むということがマクロで自動決定できないことを考えると、そのあたりの休みはなるだけ事前に知っておきたいと思うものだ。なので、休日希望は組むシフトの月の前の月の12日までとされている。それくらいの余裕は持たせたいということなのだろう、ちゃんと社員のことを考えているシステムだと言える。私は別にいつを休みにしたいということは無かった。別に休みをとってまで何かしてあげる伴侶がいるわけでもないし、それを使う意味も見出せなかったからだ。しかし今回はその休日希望を思い切って年末年始に使ってみることにした。今まで使わなかった分累積するものではないものの、それでも実家暮らしではないということを上層部も憂慮してくれるだろうという一種の甘えだ(笑)一応通ったようなので、今年はどうどうと実家に帰ることが出来るというものだ。考えてみれば就職したこともそれが京都市内であることも地元の友人には告げないで出てきた。会社の関係上仕事内容は一部の人しか…それこそ両親さえ知らないこともあったので、その報告も兼ねていると言ってもいい。仕事に就いてから数ヶ月してやっと自分が何をしているのかを報告するというのも中々親不孝者だと言えるかもしれない。友人は銀行員や教師ばかりなので、そのことが後ろめたかったというのも事実だろう。年末年始はがばっと休みを取ったので、その時にでも仕事の話を両親にし、そして友人とお酒を酌み交わしながら仕事の愚痴でも言い合おうと思う。今から楽しみだ♪休日希望が所詮「希望」であるということは、つまり一ヶ月に決められた休みの数を無理やりまげたことになる。つまり大型の休みを希望してしまうと、そのしわ寄せはあるべき休日にまで食い込むことになる。上記の通り休みをとった結果は、クリスマス勤務ということだった。世間が甘い雰囲気に酔いしれている時に私は端末を眺めてキーボードを叩いていることだろう(苦笑)まぁ毎年毎年クリスマスは一人ぼっちなので、何かすることがある方が気が紛れてマシだというものだ。同じく伴侶のいない先輩方とそれなりに楽しく仕事をしておこうと思う。あぁ、こんな私を拾ってくれる心優しい方はいませんか?笑
Nov 17, 2007
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いつもの休みがいつもの休みではないことがたまにある。今日は会社の飲み会に付き合うことになった。どうも今回の飲み会のテーマが私が会社に抱いている不満を聞きだすことらしかったのだが、別に私はそこまでの不満を会社に抱いているわけではない。給料もそれなりで文句をつけるほど少ないわけでもないし、待遇としても悪くはない。それは私がアルバイト上がりの給料しか経験していないからこそ今だけそう思うのかもしれないが、守ってあげなければならない人も今のところいないし1人で生きていく為にはこれくらいで充分という金額は貰っているつもりだ。対人関係においても問題があるようには思えない。だから別に不満と呼べるほどの不満は持っていないつもりだったのだが、それでも先輩方からすれば何か不満を抱いているに違いないと思っているようだった。というのは名目で、ただ飲みたいだけなのだろうと推察できる。まぁ誘ってくれるのはありがたいことだ、ここは素直にのっておくことにしよう。集合場所は四条、時間は19:00。いつもの場所に集まって適当な話をかましつつ、メンバーが全員集まって飲み会はスタートした。最初の方こそ一応の名目である「私が会社や現場に抱いている不満」というテーマで話し始めたのだが、いつしか話題は会社の方向性と恋愛の話に変遷していった。今回の飲み会は私を含めて4人だったのだが、そのうち2人は伴侶持ちであって、更にそのうちの1人はその存在が怪しまれている人だった。いるとは言っているものの、それでも本当にいるのかどうかはわからない、そんな状態だからこそ余計にイライラするというものらしく本当にいるのかどうかを追求する質問、よしんば誘導尋問が展開されることとなった。今回の飲み会のテーマである不満や疑問は5分で忘れ去られてしまったというわけだ(笑)まぁ根掘り葉掘り聞かれるのは好きじゃないから、そういう意味では標的が変わって良かったものだった。しばらく飲んで食べてを繰り返していたのだが、伴侶がいるかどうかという話が随分な派生の仕方をして、軽い喧嘩のようになった。言い争いをしている中心人物が2人とも自分の意見が世界の意見というような頑なな自分主義であることから起こったことなのだが、お互いに自分の意見の正当性を認めないので、やんわりとした会話がいつのまにかお互いの意見を罵倒し合うような殺伐としたものに変わりつつあった。これはまずいと思ったのだが、それでもその光景を見ていたもう一人の先輩は一人でお酒をゆっくり飲んでその様子を眺めるという高みの見物をしていたので余計にことはややこしくなっていった。このような精神論の上での言い争いというのは誰か止める人がいないとどうしようもない。第三者の介入は平和的解決には必要不可欠だからだ。しかしそれを出来る唯一の先輩の現実逃避によって場の雰囲気はどんどん悪くなっていって、挙句には店員さんに悪い絡み方をするわ、声のボルテージが段々上がってきて他のお客さんに迷惑をかけるわで随分な惨状になっていた。面白いものが見れて酒も旨いというような感覚で見ていた先輩もそろそろやばいと思ってきたのか、空気を入れ替えようと店を変える提案をした。争いの当人方は話し合い(という名の口喧嘩というのが正しいのだが)が途中になったので不満そうだったのだが、しかしそこは大人の振る舞いということでなんとか諦めたようだった。2次会をカラオケにしたのだが、そのカラオケでみんなで楽しく歌っている途中飲み会で話題に上がったものがなぜかぶり返されてきて、結局またカラオケボックスの中でも居酒屋と同じ話題が同じテンションで繰り返されることになった。私はと言うと、そんな結論のつかない話題に対していつまでも言い合っているところが馬鹿馬鹿しく思えて5分でフェードアウトしており、そのカラオケボックスには天野月子さんの曲が29曲も入ってるじゃん♪と違うことを考えていた。このように場の雰囲気を考えないで自分の話だけを繰り返す人というのはどこの世界にもいるものだ。このような人達に一番効率的なのは仲裁に入ることではなく、見ないようにすることだ。議論をしているのが自分達だけになってしまうと途端に議論熱は冷める傾向にある。薪をくべないといつか火は消える理論と同じだ。最終的には私が偶然持っていたペンを使ってカラオケ屋の白い机の上に自分の理論を展開し始めた。なんと絵を書き出したのだ。これはまずいと思っていると、もう一人の先輩が「なんか面倒だから抜け出さない?」と言い出した。天野月子さんの曲チェックも終わって退屈していた私はそれに同意し、結局は議論している二人を置いて店を出てきた(笑)置いてけぼりを喰らったのでさぞ怒っているのかと思ったのだが、後に電話してみると、二人仲良く二人乗りをして帰ったそうだった。まったくこの会社の人間関係と酒乱ぶりはまだまだ未知のところが多いということがわかった。このことを通して思ったのが、絶対的に合わない人間というのは存在するということだ。議論は自分の意見のぶつけ合いだと言うが、そこには多少の譲歩の猶予は存在する。自分の意見だけを純粋にぶつけていたのでは議論は平行線を辿る一方だし、いい結果も得られないというものだ。私は自分の意見に普遍性を見出しているわけではないので、相手の意見のいいところも汲み取るようにしている。それは歩み寄っているということもあるが、その意見がどのような経路で導き出されたものなのかトレースできるからだ。だから議論は面白いと思う。しかし上記のような人には議論は通じない。結局のところそれが「苦手」の始まりだと言える。カラオケ屋さんの机がどうなったのか、それは最後までわからない。しかし酔っていた勢いでなまじ店員さんとフレンドリーになったことを考えると、これは一種のテロだと感じたものだった(笑)
Nov 16, 2007
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小さい頃は全てが親の中で行われていることだったご飯を食べに行く時もそう遊園地で遊ぶ時もそう出かける時もそう病院に行く時もそう全ては親の中で行われていることだった何をするにも親がお金を出してくれてそしてそれが当たり前のことだと思っていたでもそれが違うとわかったのは今こうして自分で働いて自分でお金を稼ぐようになった頃だった。それは当たり前にあることではなく、親の愛情のなせることだとわかった。当たり前ではないことを当たり前だと思っているうちは人は子どものままだ。当たり前のことを与えてくれる人の存在、そしてそれを受け取る側の気持ちの変化…その両者を体感できるようになってこそ一人前の大人だと言えるだろう。私は今こうして仕事をしている。家賃も勿論自分で払っているし、自分の生活にかかるお金は全て捻出している。それは特に見栄を張るようなことでもなければ、偉いことでもない。大人になれば誰しもがしなければならない必然であって、そのような生活をしていることを誇りに思ったことは一度だってない。しかしその逆は言える。自分が生きていく上で支えてくれる親の存在、それはあってありがたいものであっても邪魔なものではないはずだ。しかし親がいることが当たり前のことでは決してない。親がいなくて育った子どももいるだろうし、未だに親の脛を齧っている人もいるだろう。未だに親の脛を齧っている人にしてみれば、そうやって近くに親がいて身の回りのことをしてくれることは当たり前のことかもしれない。しかし、それは違う。無くしてから気づくのでは遅すぎる。そのことは親が当然のようにいる環境にいたのでは絶対に経験できない考え方だ。自分の住んでいるところが好きか嫌いかを問うた時、どちらの答えもほぼ半々存在するだろう。地元の空気が合わないだとか、地元の空気が合う、それは人それぞれだからだ。しかしそれはその場所にしか根を張っていないからこそ端的に好きだとか嫌いだとかいうことしかわからないに過ぎない。誰も自分のことを知らないところまでいって1人で生活してみる、その上で地元に帰った時にこそ先ほどの質問の真意はわかるというものだろう。上記2例からわかるのは、依存しているかどうかということだ。誰だって何かに依存して生きたいと思うだろう。何故なら、それが楽だからだ。お金であれ人であれ、何かしらに依存している環境ほど楽なものはない。しかしそれでは何も生まれない。誰かに何かしてもらいながら生きている。世話をしてくれる人がすぐ傍にいる。それはありがたいことなのかもしれないが、物事の本質は非常に不透明になる。私は今年で23になるのだが、今のところ明確に誰かに依存しているつもりはない。それは淋しいことなどではなく、大人として当たり前のことだと思う。20歳を超えれば成人なのだから、自分の生きていく上で掛かる経費くらいは自分で落として然るべきだし、そこを頼るのは甘えだというものだからだ。私はそういう人間が嫌いだ。いい歳をして誰かに生活のお守りをしてもらうなんてまっぴらだ。社会で生きていく上ではそのようなことは必須だし、何よりそのようなことを恥ずかしいことと思えない精神が理解できそうもない。何故こんな話をしたか、それは私の職場が非常に濁っているからだ。30歳も過ぎているというのに両親の住んでいる家から出ようとしない、それは恥ずかしいことではないだろうか。確かに長男や家の都合で出られないこともあるだろうし、仕事場が通勤圏内であればわざわざそんなことをする必要もないだろう。しかし何事も経験だ、誰にも寄生しないで一人で生きていくことも自分を大きくするファクタの1つであるという考え方は間違いではないはずだ。
Nov 15, 2007
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警備の仕事はどの仕事よりも一番辛い気がする。先日夜勤の休憩時間に外の休憩所でぼーっとしていたら、警備のおじさんがやってきた。見回りのようだったのだが、私がいるのを見つけると笑顔で寄って来て何やら話始めた。時間が午前3時を回っているということで私も少々疲れていたのだが、何故だか嫌な顔が出来なかったのは、きっと警備の仕事の大変さを知っているからだろう。思えば警備の仕事は基本的孤独だと言える。仕事というのもは慣れてくるとルーティンワークになってくるものだ。それはどの仕事でも例外ではなく、慣れれば慣れるほどにその内容の異質さに反比例して効率的にこなすことが出来るというものだ。私の仕事もそうで、夜勤の長い拘束時間ははっきり言って普通じゃない。普通の商社に通っている人や日中の仕事をしている人にとって、17時間の勤務と聞くと歓迎する意見なんて出ないだろう。私も今の仕事を始めた当初は現場のシステムを聞いた時に自分に出来るかどうかを不安に思ったものだが、流石に何ヶ月もやっていると慣れてくるものだ。それと同様に、警備の仕事は基本的に孤独なのだが慣れてくるとその孤独も普通に思えてくる。誰とも話さないで9時間以上も同じ場所に座ったまま(企業の夜勤に於ける警備とは代替そういうものらしい)というのは異質に思えるのだが、慣れはそのような事象まで普通にしていくようだ。そんなこともあってか久しぶりに話せると思ったのだろう、おじさんはマシンガントークを展開してきた。話している内容の9割は仕事に対する愚痴だったのだが、まぁこういう風に聞き役になるのは慣れているので頷きながら聞いていた。思えば私はいつもこんなスタンスのような気がする(笑)自分の会社に賊が侵入する。電気の供給がストップして仕事が出来なくなる。そのような事象でこそ警備の仕事は本領発揮というものである以上は契約している会社に何事もなければ平和だというものだ。平和だということは何もしないでただ座っているだけだということなので、結局は暇だと言えるのだが、通常時の暇な時誰とも話さないでただ座っている苦痛は計り知れないものだ。私の仕事も長い拘束時間なのだが、1人で仕事をするという状態はありえない。そのことを思うと、このように警備のおじさんの相手をするのも私達の仕事かもしれないと思ったものだった。何もない平和な日が一番だということだろう。今日は黒*さんから頂いたバトンをやろうと思う。テーマは上記タイトルの通り。毎度の挨拶ながら面白くなるかどうかの保証は一切ない(笑)基本に忠実に…いってみよう♪ちなみにこのバトン、言葉遣いは普段のものにしなければならないらしい。ちょっとギャップを感じるかもしれないが、一応普段どおりの言葉遣いでいこうと思うので、関西弁だということを踏まえた上で見て頂ければ幸いだ。● タイトルに書いた食べ物は好き?嫌いじゃないけどぜっっったいに無理。甘いものをこれだけ食べると多分発狂するかもしれん(笑)● 今、熱い?寒い?ちょうどいい感じ。これくらいの気温が続くとかなり快適● 髪を切りたい!でも恋人は長いほうがいいって。さてどうする? じゃあ長いままで♪● 最近はまっている音楽は?感想は?最近に始まったことじゃないけど天野月子。感想は何度も書いたからあんまり詳しくは書かないけど、聞いたことない人は兎に角一回聞いてみて欲しいものかな● 今年のバレンタインあげた?貰った?今年に限らず一回も貰ったことない_| ̄|○● 馬に乗りたい?乗った事ある?乗ったことないので乗ってみたい。きっと気持ちいいんやろなぁ● 福引に当選!アメリカとヨーロッパどっちがいい? ヨーロッパで色々な建築物を見たい。街並みとか綺麗そう♪● 好きじゃない人に告白されちゃった。どうする? 今の自分にはありえなさそうなシチュエーションだけど、もしあったらきっと断りきれないと思う。それにその人のことをよく知らないのに振るなんてことは出来ないような気がする。お互いに付き合うということでいいところも悪いところも知っていけるんやないかな。それでダメなら友達に戻れるくらいの甲斐性は一応持ってるつもり。● ワニ、クワガタ、ピラニア、飼うとしたらどれ?部屋の大きさから考えてもクワガタが限界かも。でも魚も好きなのでピラニアも捨てがたい。● ラジオをつけたら知り合いの名前が呼ばれた。それは誰?質問の意図がわからないけど、まぁ友達の誰かだろう。● 好きな異性のタイプは? ちっちゃくてそれでいて一途な子。タイプを決め打ちしているつもりはないので、好きになった人がタイプだということもできる。自立している人がいいってのもある。● ドリアン食べた事がある? あれを初めて食べた人は凄いと思う。果物にはない異質な臭さがある、勿論味にも。最初食べた時は灯油を凝固させて飴にしているかと思ったくらいだった。口に入れて体が拒否した初めての食べ物(笑)● 空を見上げてそこにあるのは・・・。防火用のスプリンクラー● 学校(職場)で異性の先輩に呼ばれちゃった!何用?!交換媒体の確認(笑)● 好きな色を第5位まで答えよう 蒼・紅・白・黒・緑● これは名作だと思う漫画を3つ答えてください。最終兵器彼女 今のところこれが1位彼氏彼女の事情 ちょっと切なくなった電影少女 これもまた切ない系だから好き● 焼き肉としゃぶしゃぶ、どっち派? さっぱりしている方が好きだからしゃぶしゃぶかな● 宇宙人はいると思う? 悪魔の証明になるけど、いない理由がないのでいると思う。● 米英に捕まった、何を要求された? 米英ってなんですか?● ズバリ!私は・・・淋しがりやの甘えん坊● 今欲しいもの3つ 時間・お金・好きな人● 今したいこと3つ 時間を気にしないで寝たい・お金を気にしないで生活したい・好きな人と一緒に過ごしたい● 今年のクリスマスは、誰と過ごすことになりそう? いつも通り1人か、仕事をしているかどっちかかな● バトンをうけとってくれそうな7人指名して受け取ってくれないと凹むので、これを見てくださった方誰か● その人たちを色で表わすと?臙脂色。受け取ってくれるという優しさを表現してみた(笑)まぁこんなものだろう。質問が質問だけにちょっと端的な意見になったのはご愛嬌だ(笑)見返してみると、どうも私は淋しがりやな気がしてならない(苦笑)
Nov 14, 2007
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京都の繁華街、四条界隈の河原町烏丸辺りに フリーハグの方がたまに出没するらしい。 私はテレビを点けないし、ニュースもそこまで観ないので卑近なワイドショーを観ることもなく、世間のゴシップには非常に疎い存在になっているのだが、それと同時に世間でブームになっているものに関しても完全に無知だ。なのでこの「フリーハグ」というものがどのようなものなのか知らなかった。これは会社の先輩に聞いた話なので本当かどうかわからないのだが、フリーハグというのはそれなりの生息数になっているらしい。 きっと世間的には認知されていて、今更説明するのもバカげているかもしれないので説明は割愛するが、こういう種類のスキンシップが今の日本に生きていることがちょっとだけ嬉しかった。しかもフリーハグは男性よりも女性の方が多いという話を聞く。時代は変わったというものなのだろうか。 思えば男性と女性を比べると、男性の方が明らかに保守的なような気がする。結婚1つをとってみても、男性は今までと変わらないで仕事をしていればいいのだが、女性は専業主婦になったりして、ある意味では自分の立場が危うくなってしまうことになる。そのようなことでも愛する人の為ならば仕事を投げ打つという美学が生きていたのだろう、昔までは。 専業主婦になるということは仕事を辞めるということなのだが、同時に自分のしたいことを摩り替える行為である。一見美学に感じるかもしれないが、その実家に収まってしまうという保守的な面を持っている。 しかし昨今、女性は結婚しても普通に働いているし、むしろ専業主夫という言葉が出来たくらいで、家事や育児を男性がする時代もきているようだ。それというのも育児における社会制度が以前よりも随分と進歩した為なのだが…などと言い出すと論点がずれてしまいそうなのでこのあたりで切り上げて… 家庭に収まることが保守的だという考え方が出来る以上、その反対、女性の社会進出の動きは保守的とは対極にある概念だと言える。家で家事や育児をしているという行為を侮辱するつもりはない、それを無償でやるのだから愛の成せる業は凄いというものだ。しかし端的に見てしまえば、その行為は保守的だという解釈が出来る。その観点から話をするのであれば、女性の社会進出はやはり元来が保守的ではない女性の必然の道のように思える。いつまで経っても男性が女性の本当の意味での「強さ」に勝てないのはこういうところに起因するのだろう、実感するというものだ。 話を元に戻すと… フリーハグというのは日本の古来からの風習ではない。最近になって新しく出来たスキンシップの方法の1つなのだが、新しいものを受け入れられるかどうかというのも保守的か否かが多いに関係してくることになる。男性よりも女性のフリーハグが多いということは、女性の方が新しくて面白いものに物怖じしないで飛び込んでいけるような革新的な考え方を持っているという証拠になるわけだ。 男尊女卑なんて古い考え方だ。個の性質を理解することこそ本当の意味での等身大の人間の許容であって、男尊女卑を掲げてそれにすがっているような社会はまだまだ未熟だということだ。強い女性、保守的じゃない女性、私にとってもそのような女性は確実に魅力的に見えるというものだ。
Nov 13, 2007
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貴方が見えるいつも大人っぽくてそれでいていつも素敵な言葉を紡ぐ貴方貴方の声が聴こえる困った時を察知して声を聴かせてくれる本当は強がっているけどとても嬉しい何故貴方が遠くに住んでいるのか時々考えることがある近くにいたらすぐにでも逢えるのに淋しがっている貴方がちょっとだけ可愛く思えたのは私も淋しかったからなのだろういたいけの中の貴方はまるで綺麗な人形のようだ思い出のように綺麗な写真のように私の中に積もっていく遠方で今日も頑張っている貴方体調壊さないように頑張ってるんだろう今日もお疲れ様♪
Nov 11, 2007
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いつものお弁当屋さんで買い物をしている時のこといつものように適当にチョイスして買おうとしたのだが店のおばちゃんがコロッケをサービスしてくれた。これだけ、たったこれだけのことなのだが何故だか凄く嬉しかった。痩せの大食いの私としてもこのコロッケは計算外で食べられるかどうか悩んだのだがおばちゃんの好意を無駄にする方が嫌だったのですっかり食べてしまった。いつも贔屓にしているこのお店は「京都で一番安いお弁当屋さん」という触れ込みでお弁当を売っているところだった。ちゃんとしたおかずとご飯に一品の惣菜がついて250円(税別)だ。社会人とは言ってもまだまだ貧乏路線から抜けられない私としては、こういう類のものは非常に助かる。昔学生だった頃は近所のアットホームなコンビニで、売れ残りのお弁当を狙って買っていたものだが、その代替財が出来たというわけだ。毎日とまでは言わないまでも、よく通っているお店なので、お店の人も私の顔を覚えているようだった。ただそれでもまだサービスしてくれるという段階までいかないので、出来れば完全に顔を覚えてもらうようになるまで通う必要がありそうだ。ちょっと違うかもしれないが、「マスターいつもの♪」でお弁当が出てくるというのも悪くない。まぁ毎日同じものを食べるというのはそれなりにしんどいものなのだが(笑)今日は休日出勤だった。今月は私の研修の為にほとんどの休日が仕事に充てられることになっていた。休日の仕事は平日の仕事に比べて若干違う作業が入ってくること、そして平日ほど何度も何度も経験することが難しいことも相成って、今月だけで詰め込んでしまおうという算段のようだった。まぁ今月一ヶ月だけをしんどい思いをすればいいだけなのだから、そう辛いものでもない。おかげで11月が始まってもう10日経つのだが、曜日の感覚は完全に崩壊してしまった。時々職場以外の誰かと話す時は曜日を言われても何日なのかピンと来ないことの方が多くなってきたくらいだ。見事なまでに浮世離れしたわけなのだが、まぁそれも職業病と言えばそれまでかもしれない。ちょっとはカッコいい病になればと思う今日この頃だ。そんな今日の仕事だったのだが、今日は恋愛ごとにはセンサーが異常に働く先輩との日勤だった。なんだか嫌な予感がしていたのだが、仕事が始まった瞬間くらいはやることが多くのんびり話すこともなかったのだが、お昼を過ぎた頃、暇になってきた時間についにそれはやってきた。「なぁ、何人くらいと付き合ったん?」「彼女欲しいって思う?」「なんでモテへんの?」そんなような質問がまるで矢のように飛んできたものだった。私が懇切丁寧に答えているのに味をしめたのかどうかはわからないが、その先輩はもっと突っ込んだ話をしてきた。恥ずかしい思い出なのであんまり多くは語らなかったものの、今の私の状況を見て先輩はこう言い放った。「出会いは確率や!多く動いたものがそれだけいい思いをする」全くその通りだと思う。しかし私が恋愛に臆病になっているのもまた事実だ。告白しても断られたことしかないし、好きになった相手に尽くそう尽くそうとし過ぎてダメになったことなんて積んでいけば山のようにある。なんだか納得いっていないような顔をしている私を察してか、その先輩は恐ろしいことを言い出した。なんでも今度の休みにでも京都駅周辺にナンパしに行こうと言い出したのだ。私はそういう類のことが圧倒的に苦手だ。しかし断るのも先輩の顔を立てることにはならない。なので私は渋々了承した。因みに以前に合コンを組んでくれたのもこの先輩だった。後輩を想って色々してくれるのは嬉しいが、どうも的が外れているような気がする。というわけで今度の休みに京都駅周辺に出没することになった。興味のある方はお誘いあわせの上来てみては如何だろうか?面白い光景が見れることは請け合いだ(笑)もう自棄です_| ̄|○
Nov 10, 2007
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よくこのような話を聞く。例えばある上司の態度がおかしいだとか、教え方・怒り方が不条理だとか。そういう現象は何故起きてしまうのだろうか?誰だって会社や組織に属している。そしてそのような会社や組織に属するということは、誰しもが右も左もわからない状況からスタートすることを意味している。会社や組織が1人で成り立っていることはありえないことであるように、自分が属し始めた時には必ずと言っていいくらいに上司がいることになる。そして仕事を覚えていくということは上司から指導を受けるということだ。価値観というもの、個の考え方が人の数だけ存在しているという事象を鑑みても、自分と全く同じ考え方、立場を理解した上で指導してくれる人が必ずしも存在しているとは言い難い。つまり自分の価値観とは全く正反対の価値観を持つ人がいてもなんら不思議ではないということだ。何も知らない、全くわからない、そんな状況を察して優しく教えてくれる上司ならばいいが、仕事が出来ないことを疎ましく思う上司だっている可能性もあるというものだ。私自身がそのような立場を経験することが多く、上司という存在しかいたことがないからこそ思うかもしれないが、最初だから仕事が出来ないことを仕方ないと思って優しく接してくれる上司もいれば最初だかた仕事が出来ないということを疎ましく思う上司がいるということに不思議な感覚を覚えることが多い。これは別に私が新人だからそう思っているわけではない、このように感じるそもそもの原因は私の後輩、つまり唯一と言っていい私よりも後に入ってきた新人さんの扱いを見ていると思うことだ。今回のテーマはそこにある。はっきり言ってしまえば、その新人さんは仕事を覚えるのが遅い。私が決して早いわけではないのだが、どうしても新人というのは新人同士比べられることが多い。私は有能ではないので、人並みの速度でしか仕事を覚えられないのだが、明らかにその新人さん(仮称ランさん)は私よりも少しだけ覚えるのが遅いような気がする。だからかもしれないが、私を含めて仕事をしているような状況でもランさんについての噂はよく聞くことがある。14人もいる現場で私がいる時でも噂が聞こえてくるということは、かなり悪い意味で話題を独占している存在になっているということだ。気になるのは、その噂が悪い噂だということだ。ランさんは上層部には嫌われている。きっと私も似たような感情を抱かれていることだろう、それは比較仕事が出来ないからだ、それは仕方がないことだと思う。しかしそれよりも明らかにランさんの風あたりは強い。それは同じ立場にいる私ですら同情してしまうほど強く…そして根強いものになっている。「あいつは物覚えが悪い」だとか「あいつのマナーはなっていない」だとか、言い出すと本当にキリがないようなものになっている。しかしそのようなある種の悪口を聞く度にいつも不思議に思うものだった。会社というのは人の出入りがあってこそのものだ。人の出入りはある意味では会社のレベルの高さに繋がる事象であるというのが自論だ。そこには色々な人がいて、仕事を覚えるのが早くマナーにも長けている人もいれば、それらが少しだけ足りない…今時の学生上がりような人も当然存在はするわけだ。上司として必要なスキルは、自分の培ってきたスキルを継承することにあって、人を選ぶことではない。大切なのは仕事を覚えるのが遅いことをけなすことではなく、遅いならば遅いなりにどうやったら効率的に仕事を覚えてもらえるかを自問することにあるのではないだろうか?その上司が新人の頃だってきっと仕事を覚えるのが遅いと疎ましく思っている上司がいただろう、そしてその事実に気づいたら自分は有能ではないと落ち込んだこともあるだろう。それならば、その時落ち込んだ自分と同じ気分を味わわせるのが上司のあるべき姿ではない。覚えるのが遅いということを理解しようとする姿勢、そして温かく見守ってあげるのが本当の上司のあるべき姿だと思う。ランさんが入ってくる前、私も確実に同じことを思われていた。悔しかったが、業務知識をもってすれば勝てないのは自明だ。だからランさんが入ってきたことで矛先がランさんに向いたことを喜ぶというよりも、少なくとも私は拙いレベルでの上司かもしれないので上記に挙げたような行動は絶対にしないでおこうと誓ったものだった。仕事は確かに低いレベルでだがランさんよりも私の方ができる。出来ないということに目くじらを立てるのではなく、出来ない頃の自分を見るように己の上に立つ資質を鍛えるものとしてランさんには優しく接そうと思う。勿論厳しくするところは厳しくしないといけないが(笑)上司に出来ない人を馬鹿にする人がいる上での部下のあるべき姿はこうだと感じる。私自身が馬鹿にするタイプの上司のいる環境だからこそそんな上司になるのはまっぴらだからだ。今日も仕事中にランさんの悪い噂があった。でも私はそこには参加しなかった。それは偽善や情けではなく…私が一番ランさんの気持ちがわかるからだ。責めるだけでは変わらない、文句を言っているだけなら誰でも出来る。現状を良い方向に変えようという志は、会社という組織では必須のものだ。後輩が出来てから、私は少しだけそのことを学んだ。
Nov 9, 2007
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コンビニの入り口の前にあるミニ横断歩道のようなものはどのような意味があるのだろうか?一旦物事を考え出すとその答えをある程度自分の中で納得できる形にまで練らないと気がすまない私としては、この謎は多いに不思議なものの部類に入る。何故コンビニの前に横断歩道が必要なのか?コンビニの前は危険なのだろうか?地元にコンビニがないこともあってか、都会に出てきてコンビニを日常的に見かけることが多くなるとこの疑問は更に深みを増したものだった。散々悩んだ結果思いついた答えが「目の前に箱があれば開けようと思う。目の前に扉があれば開けようとする。その原理の応用で横断歩道があれば渡ろうと思ってしまう、その心理を利用したコンビニの戦略ではないか?」というものだった。こんな馬鹿げたことを大真面目に考える辺りが天然だと言われる所以かもしれない。最近になってやっと答えがわかったのだが、逆に言えば最近まで上記の考えに疑いをもっていなかったということになる。どうやら私はかなり一本筋の曲がった人間だということかもしれない(苦笑)仕事場での私のキャラがどうもおかしな方向にいっているような気がする。一般的に右も左もわからないところに行くと人は萎縮する傾向にある。本来が明るい人でも大人しくなってしまい、自分の素を出せないということは結構よくあることだ。それが仕事の場となると傾向はより顕著になっていくというものだ。私の場合も例外ではなく、もともとがはっちゃけるタイプの人間ではないことも関係してか、何事にも保守的な暗い性格だと勝手に位置づけられているようだった。実際にそのような声を聞いたわけではないのだが、それでも空気から感じることがあるように、鈍感ではない私はそういう流れを敏感に感じてしまうというものだ。このままではいけない、そんな気がする。だからと言って無駄にはしゃいだり、バカなことが平然と出来るほど育ちを疑われることが出来るわけではない。なので私はある作戦に出た。その名も「ツインテール作戦」だ。今私は髪の毛を伸ばしている。それには特に深い意味もないのだが、前髪だけならもう鼻を超えようとしているくらいだ。似合う髪形がわからない、そういう背景も相成ってか髪の毛を切る頻度が世間一般の男性よりも少ないこと、そして以前書いたかもしれないが髪の毛が伸びるスピードが早いことも影響してか数ヶ月で凄い長さになってしまった。私の仕事場は人と会うことがほとんど無いために、それほど髪の毛の長さにはこだわっているわけではない。だからこそ出来る唯一の遊びだと思って私は髪の毛を伸ばすことにした。勿論それが全てではない、一因に過ぎないことは自明だ。先日笑いについて書いたかもしれないが、自己主張の強いボケはスベる事象と紙一重だ。なので自然且つ面白い形を求めた結果が…仕事中にツインテールで過ごすというものになった。もう結構何回かやっているが、あまりのバカバカしさに結構なウケをとれている。若干、否かなり私のキャラとは離れた存在になりつつあるのだが、仕事場には何も期待していない分捨てるものは何もないといったところだ。面白い人材として受け入れられるのもまた一興というものだ。髪の毛が短いとゴムで縛ると違和感があるのだが、ある程度の長さになるとゴムで縛ってもしばらく経つとわからなくなる。今日の夜勤ではツインテールのままコンビニに買い物にいこうとして冷や汗をかいたものだった(笑)まぁそういうこともひっくるめていいキャラ作りをしようと思う。これは私の一種の冒険だ(笑)ツインテール姿の写真でもアップしようかと思って写真を撮ろうと思ったのだが、あまりのバカバカしさに自分で笑えてしまった。まぁそんな写真が見たいという奇特な方もいないだろう、早まらなくて良かった(笑)
Nov 7, 2007
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もうめっきり冬の匂いがし始めた。11月も初旬、思えばこの時期にこれだけ空気が冷たいというのも珍しいような気がする。これは紅葉の季節が楽しみだというものだ。できれば誰かと見に行きたいものだが、このような私に付き合ってくれる人はそういないだろう(笑)紅葉が綺麗な見ごろを迎える条件としては幾つかあるのだが、その条件を今年は満たしているような気がする。なので今年の紅葉は特別楽しみに出来るというものだ。紅葉が綺麗になる条件としては、おおよそ2つが挙げられる。1つ目は天気のいい日が多いことだ。これには日照時間が関係しているようで、日照時間が多いほど紅葉は綺麗に紅く染まるらしい。例年に比べて若干雨の多かった今年なのだが、夏が過ぎた頃辺りからは晴れの日が多かった。なので期待できるというものだ。2つ目は朝や夜と日中の気温差が大きいということだ。これは何の影響があるのかは浅学故知らないのだが、確実に紅葉に影響があるファクタのようだ。これも秋頃からの急激な気温の変化を見れば期待は募るというものだ。去年は暖冬ということもあって気温の変化は著しくなく、そのせいで若干だが紅葉の見ごろに影響が出たようだった。今年はそんなことはないようなので、俄然綺麗な紅を拝めそうだ。一人で行くにはあまりにも淋しいが、心のどこかには留めておくとしよう。先日のことだった。いつものように家路についていたのだが、ふと気になる声が聞こえてきた。私の家は京都市の中でも随一の大きさを誇る通りから一本奥まったところにある。京都市内の傾向からして、大きな通りから一本奥まったところには住宅が密集していることが多い。私の住んでいる地区も例外ではなく、昔ながらの長屋を始めとする家が連なっていた。私の住んでいるマンションの前には小さな美容院があり、その横には小さな家が建っていた。そこは今や珍しい拡大家族が住んでいて、ちょうど2世帯住宅に近いような家族構成だと思う。思うと表記したのは実際に見たわけではないからだ、おそらくこの推察は間違っていないだろう。そこの家では小さな子どもが2人くらいいるらしく、夕方になるといつも楽しそうに道路で遊んでいる姿をみかける。しかもそこには必ずと言っていいくらいにおじいちゃんがいて、その様子を微笑ましそうに見ていたものだった。そのような古きよき時代の様子を私もまた微笑ましくみていたのだが、その奇妙な声はその家から聞こえてきた。家に着いてスーツを脱ぎリラックスした格好をしてベットに横になった時、いつものように子どもがおじいちゃんと一緒に遊んでいる声が聞こえた。いつものことなのだが、その子どもは凄く楽しそうな声をあげて遊ぶ。その声ははっきり言って狭い住宅街には少々大きすぎるのだが、子どもの無邪気な歓声というのはそこまで耳障りではないというものだ。むしろ私にとっては田舎を思い出すのでちょっとだけ癒される空間だった。その日もいつものように子どもが歓声をあげて遊んでいた。いつもの流れだと思いちょっとだけ田舎を思い出しながら目を瞑っていたのだが、その子どもは何かをおじいちゃんに伝えようとしているような感じだった。ここからは事実を忠実に再現しようと思う、私が聞いたそのままだ。子ども「あんなぁ~、おじいちゃんおじいちゃん!お母さんなぁ~おじいちゃんのこと嫌いやんねんて☆」……最初は聞き間違いかと思った。しかし何度も何度もお母さんがおじいちゃんを嫌っているということを連呼する子どもにおじいちゃんは明らかに動揺しているようだった。子どもの無邪気な発言が純粋故の凶器と化す瞬間を見てしまったような気がした。子どもというのは考えが浮かぶとそれを言っていいのかどうかを吟味しないでそのままストレートに言葉にしてしまう傾向がある。私も昔、それも6歳か7歳くらいの頃、父さんが友達の女の人と仲良さそうに話しているのを見て「お父さんが浮気してるよ♪」と大声で言ってしまったことがあった。この時の父さんの狼狽ぶりは凄いものだったのは後になってからわかったことだった。これと同じことを何十年の時を経て客観的に見てしまったというわけだ。誰しもが本当のことを言われるのは辛い。しかし本当のことでも気を遣うという気持ちが見えると余計に辛いこともあるものだ。しかしそれよりも更に辛いのは「悪意のない指摘」だ。悪いことを言おうとしないままに突かれて痛いところをもろに突いてくるのは純粋故の罪だと言えるかもしれない。その後件のお母さんが出てきて、微妙な空気が流れたことは言うまでもない(苦笑)子どもは子どもらしくとは言うが、少しくらい耳年増でもいいものかもしれないと思った出来事だった(笑)
Nov 6, 2007
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好きなアーティストは?と聞かれれば勿論天野月子さんだと断言できるが、好きなお笑い芸人は?と聞かれると好きなアーティストを答える時よりも更に断言できるほど好きなお笑い芸人がいる。テレビには疎いがお笑いに関しては異常に詳しいという根っからの関西人の私だからこそ、多くのお笑い芸人を見てきた。しかしここ最近ではどうにもパッとしない感じがする。ピン芸人は楽器を持ってあるあるネタに走ったり、全く意味不明なことを叫ぶだけの人まで平気でテレビに出ているといった次第だ。はっきり言って面白いを「籠の中で何かしている動物が面白い」というある意味では学術的な面白さと勘違いしているのではないだろうか?これではお笑いが某ネタ番組のようになってしまうような気がする。あの番組は本当に酷いと感じる。面白いということの本質を理解しないことが番組に参加できる条件だと最近では本気で思うようになってきた。と、まぁその話はいいとして…。私が好きなお笑い芸人はラーメンズだ。これはもう譲れないところだと言える。ラーメンズは某局の単位がキロバトルの番組に出ていた頃から知っていて、その頃から面白いと思っていた。何と言うか、毛並みが違うような気がした。確かに面白い、2人ともかなりの才能を持っていると思う。だが、それだけではない何かがラーメンズにはあるような気がする。私の意見など素人の浅知恵かもしれないが、笑いは面白いことを言うだけではない。笑いとは想像と間だと感じる。言い方が面白い、キャラがいい、そういうのも確かに面白いのは面白い。しかしキャラに固執してしまうと、必然的に芸の幅が狭くなる。所謂一発屋というのはそういうなれの果てだと思う。あるあるネタだけを言うだとか、特定のキャラだけを演じ続けるのは面白くて人気は出るかもしれないが、その熱は思ったよりも長続きしない。それに面白さが前面に押し出されているような体のいい笑いは、想像力を掻き立てない。基本的なスタンスは別のところにあり、時々散りばめるくらいがあるあるネタは本当の意味で面白さを発揮すると感じる。そういう意味ではラーメンズは凄いと思う。否、凄すぎると言ってもいい。論理的な小林さんと破天荒な片桐さん、この2人の紡ぐ舞台は論理的でありながらもどこかずれている、そこが堪らなくいいのだ。何と言うか、個人的に憧れる。特に小林さんの存在は凄い、私の中ではかなりカッコいいレベルに入る。私はカッコいいだけの人は嫌いだ。カッコいいのは確かに持って生まれたものかもしれない、見た目のカッコよさはどうしても得られないものだ。しかしそれだけの人には何の魅力も感じない。それは私が中身を重視する考え方をしているからかもしれないが、少なくとも外見の何十倍も中身が重要だという考え方は間違ってはいないはずだ。そういう意味でも小林さんの凄さは見た目のカッコよさだけではない。カッコいい故に2枚目の役も演じるが、3枚目の役もはまり役として出来る。ラーメンズはネタの全てを小林さんが書いているのだが、あの面白さを1人で紡ぐ才能も素晴らしいと感じる。そして背が高い。私が描いている「カッコいい男性像」まさにそのままなのだ。悲しきかな、ラーメンズの認知度はそこまでないというのが現実的なところだろう。どうしてもいいものというのは表舞台の思いっきり中央には出てこないというのが世の常だ。出来ることならばラーメンズの舞台「TEXT」を見て欲しいものだ。透明人間・条例のネタならばどこかの動画サイトにもあるはずだ。あれを見ても面白くないというならば、或いはラーメンズの世界観が自分にフィットしないということだろう。しかしあれを見て面白いと思う人は多いと信じている。是非ともオススメだ。価値観とは個人の財産だ。自分の価値観に絶対的な普遍性があるということはありえない。よって他の人が面白いというものを歯牙にもかけないということは私の中では存在しない概念だ。面白いかもしれないが自分には合わない、そういう評価しか出来ないことの裏返しかもしれない。しかしラーメンズの面白さに比べれば某土曜夜にやっているネタ番組の出演者は比較するだけでも失礼というものだ。次元が違うと言える。願わくば同じようにラーメンズファンがいることを切に願う。マイノリティでも構わないのだが、同じような考えの人がいた方が私としても社会適合だと胸を撫で下ろせるというものなのだから(笑)
Nov 5, 2007
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少しだけ眠って目が覚めた。お風呂に入るのを忘れていたことを思い出し、お風呂にでも入るかといそいそと準備を始め、いざ入ろうとお風呂の前の洗面台の鏡をなんとはなしに見た時に、私の顔は酷いものだということを改めて実感した。目の下のくまが本当に酷い。ただでさえカッコいいとは別ベクトルにいるのに、くまのせいで余計に惨めになっていた。夜勤の仕事は辛いと言うが、それは体力的な面だけではなく精神的な面でも作用することなのだと気づいたものだった。最近忙しい。ゆっくりとコーヒーを飲みながらブログを更新するという時間もなかなか取れないでいる。それは自分個人に仕事を振られるようになったからだ。ある程度の業務知識を持っていると、作業は一気に効率化するが逆に言えば惰性化することでもある。なまじわかっているからこそ刺激と言うか適度な緊張感を持って仕事をすることが出来ないということはよくあることだ。まぁ私は未だ業務に於いて圧倒的な知識があるわけでもないし、知らないことが出る度に先輩に聞いたりしているので緊張感はいつまで経ってもなくならない。しかし今の時期だからこそ個人的に仕事を振られるというのは嬉しいことだ。少なくとも「使えない奴」というレッテルは免れたということでもあるからだ。私の振られた仕事、それは後続で新しい人が入ってきた場合、業務に対する知識が全くもって0でも仕事のノウハウを理解できるようにするというマニュアルを作るというものだった。私も新人のペーペーの頃はそのマニュアルに非常にお世話になり、今でもたまにお力を拝借しているというものだ。それは普通のA4用紙にパンチで穴を開けて大きなバインダーに閉じたような…ある意味ではレポートみたいな形で仕事場の片隅に保管されているのだが、その量といったら膨大の一言で片付けられないものだ。なにしろ業務全てがそのレポートに集約されているのだ。中に綴じられている紙の枚数だけ仕事をこなしているということになるわけだ。そしてどんどん新しい仕事が追加されていくのだが、そのスピードとマニュアルを作るスピードがイコールになっていない。そこにそもそもの問題がある。実際レポートが仕事の全てを網羅しているかというとそうではなく、足りない部分なんて山ほど存在している。現に私がこの仕事場に配属になったのが6月なのだが、7月から新規で追加された業務も存在している。勿論そんな時期に追加されたからこそ、マニュアルなんて存在しない。その7月に追加された仕事のマニュアルを作ること、それが私に振られた仕事だった。これでも一応4ヶ月はこの現場にいるので、それくらいの業務はもう完全に覚えてしまっているのだが、マニュアルを作るとなると話は別だ。例えば計算をすること、文章の意図を理解すること、それはそのまま国語や算数の知識に応用することが出来るが、それはあくまでそうする基本的な「方法」を知っているからだ。全く0からのスタートは本当に難しい。家庭教師上がりの私はそのことを痛いほどよく知っているつもりだ。単純な計算ほど教えるのが難しい、短い文章の読解ほど教えるのが難しいのは今や私の中では常識だと言えることだ。しかし今回はそれよりも更に難しい課題だ。なにしろ何も知らない人に対して書いてある内容だけで仕事のやり方を教えるものを作らなければならないのだ。それは自分の感性で書いたとて完璧になるものではない。人それぞれ疑問点は違うのだから、出来るだけ万人にわかりやすいマニュアルを作らなければならないわけだ。口頭ではないというのがネックだ、家庭教師のスキルが役に立たない_| ̄|○仕事を振られた日、一応試作だけでも作っておこうと端末に向かったのだが、これがまた難しい。どのレベルを掘り下げるか、そしてどこは省略すべきか…などなど考え出せばキリがなくなってくる。しかし今までに存在しているマニュアルは全てA4用紙一枚くらいに仕上がっている、しかも内容も省略することなく重要な点は確実におさえてあるという完璧さだ。私がまだ右も左もわからない頃はよくお世話になったマニュアルなのだが、私でもわかるということはやはり完璧な作りなのだと痛感した。試作を何回か作って先輩に見せても、私がこの現場にいて当然のように持っている知識がいつのまにか紛れ込んでいてしまい、初心者にもわかりやすい内容だとは言い難いものになることが多かった。思いはなかなか伝わらないというわけだ、喩え私が当たり前のようにわかっていることでも。何度も何度も試行錯誤した結果煮詰まってしまって、結局まだ完成していない。期限は15日までだ、出来るかどうか不安になってきて…そして仕事も完全に余裕があるわけでもないのでその2つが相まって睡眠時間は急激に少なくなり、冒頭のくまが出来てしまったというわけなのだろう。これからも骨身を削った仕事は続きそうだ、その分やり甲斐はあるが♪
Nov 4, 2007
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革靴が結構ガタがきているような気がする。思えばもう数ヶ月間毎日はいているわけなのだが、仕事場に行くまでに結構な距離を歩くことも関係してか否か、かなりガタがきている。これはそろそろ買い替えかもしれないと思う反面、たった数ヶ月で革靴を買い換えないといけないという状況が少し面白くも感じるものだった。これがスリッパならまだわかる、しかし革靴となるとかなり丈夫に作られているはずだ。それを履き潰すというのは相当の負担を与えないといけないだろう。それを行うだけの会社までの距離と会社での運動量かと思うとかなり苦笑ものだ(笑)スーツは男の着こなしという言葉があるように、スーツが似合ってこそ社会人として1人前というような印象を受ける。スーツは全然似合わなくって子どもがちょっと背伸びをしているように見えた私のスーツ姿だが、最近では普通に受け入れられるようになってきた。これも社会に溶け込んだ1つの実感なのだろうと思う。カッコいいかどうかは別問題だが(笑)カッコよくない原因は革靴が痛んでいるからかもしれない、やはり早急な措置が必要だろう。人の為に何かしてあげるのが好きだ。今の私はとても非力な存在だ。だからこそ自分のできることなんて限られているかもしれない。でも私が出来ることで誰かが喜んでくれるなら嬉しい。きっとその笑顔を見ることが私の幸せなんだと思う。考えてみれば私には特別な存在の人はいないものの、それに見合うだけの信頼関係を築いている(あくまで主観)人達が男女問わずいることに気づく。その人達には私が相談することもあれば、相談されることもある。そうやってお互いに信頼関係を形成しているからこそ悩みを共有できる存在になるというものだ。そして私に悩みを言ってきた人が私に何かを言うことでちょっとでも負荷が小さくなって楽になってくれる、話を聞いてくれてありがとうという言葉が返ってくる…そのような状況がたまらなく好きだ。願わくば悩みなんて全部払ってあげたいと思うのだが、前述したように私のできることなんて限られている。だからこそ最も成すべきことを言ってあげられなくて歯がゆい思いをしたことも何度もあった。でもやっぱりこのスタイルが私には一番合っているような気がする。きっと近すぎると存在に耐えられなくなってしまうのだろう、相手が。だからこそそうやって人の為を思っていくのが私にはぴったりなのだと思う。昔は街行くカップルを羨ましそうに見ていたのだが、今はそうでもない。仲良く手を繋いで歩いているということはその2人は上手くいっている証拠だ。愛し合ってるからこそ上手くいっているのだから、幸せなのだろうなと微笑ましく思えるようになった。これは諦めなのか何なのかはわからないが、凄く穏やかな気分で毎日を生きられるようになった。悟りと言えば仰々しいが、近いものがあるかもしれない。また冬がやってくる。寒さで淋しさも倍増するこの時期だが、私を信じて悩みを打ち明けてくれる、或いは色々と楽しそうに話してくれる人がいるだけで淋しさも和らぐ。私はきっと恵まれた人なのだろうと思えるようになっただけでも少なくとも2年前の私よりは成長したところなのかと思うのもまた事実だ。信頼はルックスに比例しない、これが今年発見したテーマの1つだ。
Nov 2, 2007
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秋の夜長っていうのはもう終わったのだろうか?考えてみればもう冬の到来のような気がする。毎年思うことなのだが、夏が終わってから冬が来るのが早すぎるような気がする。暦の上では今は当然のように秋だし、それはもう1ヶ月以上前からスタートしていることなのだが、どうにも腑に落ちないというか実感が沸かないという感じだ。気温が一定に保たれて過ごしやすい気候だというのがこの季節の特徴なのだが、今年の秋は例年以上に気温が乱れに乱れているような気がする。むしろこれでは夏や冬の方が安定しているのではないかと思えるほどだ。まぁそれにしても秋は風流な季節であるという認識を持っているので、一番好きだ。紅葉が始まれば楽しいことも増えてくるに違いない。毎年そう思いながらもそうでもないことが多かったが、懲りてないのもまた毎年のことのようだ(笑)1人でいることが非常に多くなった。いいことなのかどうなのかはなんとも言えない。きっと淋しいとかそんな感情は慣れすぎて薄くなっているのかもしれない。考えてみれば私はいつも1人だ。仕事場に行けば誰かとは話す、世間話もするし他愛ない話もする。でもそういう意味での「1人」ではない。もっと深い意味での「1人」だ。一般的に秋口から冬にかけての季節は人肌恋しいものだという傾向にあるようだ。無論その傾向は秋口(とは言っても今年はそれもわかりにくいものだったが)にはあったような気がするが、どうにも毎年のそれに比べて薄かったような気がする。これは大人になったというよりは…むしろ諦めに近いものがある。この季節の折、11月を迎え更に気が引き締まるのを感じつつ、1つ決心しようと思う。そう、禁煙だ。以前私は禁煙に挑戦し、見事打ち砕かれたことがある。それはきっと吸い続けることの方がやめることよりもメリットが大きかったことに起因しているかもしれない。いい加減なアドバイスや、適当な言い方で禁煙を勧めてきた人ももういない、ならばやめる意味なんてないのではないか、そのように考えて本数は減ってはいるものの、それでもやめようとしなかった。しかし契機というものはいつ訪れるかわからないもので、不思議とすんなり禁煙しようと思ったものだった。それはびっくりするくらい簡単で、それでいて当たり前のように自然に私の近くにあったものの影響だった。まぁまずは煙草の箱とライターと灰皿を景気よく捨てるところから始めたわけだ。まだまだこれから苦労することも多いかもしれないが、自分からやめようと思ってやめるのと、誰かにやめてくれと言われるのでは全く違う効果があるから不思議だ。俗に禁煙すると太るだのイライラするだのと言うが、そのような効果が何時現われてくるのかが若干心配なのだが、2日吸わないだけで久しぶりに吸った煙草が不味く感じる私はそこまでの依存度はないように思える。今日も仕事だったのだが、そこまで煙草が吸いたいとは思わなかった。むしろ吸いたくないとまで思ったものだった。この調子でいきたいものだ♪まぁしかしそのようにスタートしたものの何日か経つとすぐに吸ってしまう意思の弱い人間はどこにでもいるものだ。全てにおいて自分に甘えを抱えることは良くない。それは成長を阻害する因子でしかない。注意されてもやめられないのならば、もうその人に未来はない。廃人のように生きていくがいい…というのは極論だが、兎に角意思の弱い人間というのは必ず存在する。今確固たる意志を持って宣言したとて、私も何時転んでしまうかわからない。だが、この宣言だけは大いなる気持ちを持って望もうと思う。何事を成すにもまずは小さなことからだということだ。今のところまったく吸いたくない♪順調順調^^
Nov 1, 2007
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