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あの頃私は1人だったどうしてみんな私のことをわかってくれないのだろう?どうして上辺だけの付き合いを求めるのだろう?どうしてみんな社交辞令ばっかり言うんだろう?そんなことばかりを考えていたでもそれも当然だった何故なら私が「自分」を出していなかったから本当の私を隠していたから何もくれない人には何もあげないように私がそのような扱いを受けるのはある意味では当然の出来事だったむしろ自分だけが被害者だという見方をしていたわけだからあの頃の私は最低だ何もあげないのに何かを必死で欲しているなんて…あの頃一番欲していたもの、それはそばにいてくれるということ笑顔で笑いかけてくれる人がいるということくだらない話でもうんうんって聞いてくれる人がいること淋しい時に抱き締めてくれる人がいることこう見るとなんだか女の子みたいだけどやっぱりそういうのは憧れるわけで自分をさらけ出した時1人の女性が私のそばにいた自分としては頼り甲斐とか男らしさとか発揮したかったけどその人は私をあるがまま受け入れてくれた自分をカッコよく見せよう、自分を大きく見せようと思うことそれが如何に無意味なことかその人から学んだ本当に自分を見てくれている人というのはその人の本質を見ている損得勘定なしでそういう意味では私もその人の本質を見ようとしていた等身大の彼女を彼女は私の中で最高に魅力的な人世界で一番大切な人だ昔の私の殻を破らせてくれたさらけ出した自分をそれでも受け入れてくれたそんな彼女に私は恩返ししたい彼女の本当の意味での親友になりたいお兄さんには…なれないかな(笑)彼女は私にとって永遠のidolo
Jun 30, 2007
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がちゃっぱたんこれが普通の家の玄関の扉の仕様のような気がする。前に住んでいたアパートも勿論そうだったし、実家の機構もそうなっている。前にも書いたが、玄関の扉の音が段々大きくなっているような気がする。気にならないと書いたものの、2階や3階の玄関が閉まる音まで自分の部屋で察知できるというのはあまり気分のいいものではない。これまた以前に書いたのだが、音がする以上は原因がある。建物の基礎構造が弱いという要因も勿論あるのだが、原因はわかっているので対処の仕様もあ、しかしそれを行うには様々な問題がある。私の家のパーツの中で一番騒音を出しているのは部屋と部屋の間を間仕切っている扉なのだ。そのたてつけが悪いというよりも、レールで滑るようにすべき機構の溝が大きすぎて、扉が柱にジャストフィットしていないのだ。なので少しの振動でがたがたなってしまう、そういう原因だということは入居3日でわかった。ならばそれを取り外せば問題解決になりそうなものなのだが、それがそうもいかない。確かに何度かその扉を外そうと試みたことはある。実際に何度も外した。しかし外したところで置く場所がないのだ。扉とは言ってもキッチンの引き出しのような大きさのものでは勿論ないし、言ってしまえば玄関の扉サイズのものだ。部屋がいくら広めとは言っても扉を2枚も置いておけるほどのスペースがあるとは到底思えない。外さないと煩いし、外すと邪魔になる。なんだか八方塞の匂いがしてきたというわけだ_| ̄|○結局のところこの問題をスムーズに解決するには1つしかない。私が我慢すればいいだけの話なのだ。昔から我慢することには強い方なので…まぁ家にいる間くらいは我慢しておいてあげることにしよう(苦笑)今日は今日とて仕事だった。今のところ社会で言う「普通の」働き方をしているので、午前9時に出勤して午後6時にあがるという生活をしている。実質8時間労働というのは学生の頃の自分からしてみればかなり頑張っている方だと思うが、不思議なものでアルバイトの時の仕事よりも辛いと感じることはない。それは日々新しい仕事を覚えてそれを一人でこなした時の達成感が大きいからかもしれない。アルバイトは所詮刹那だ。どんなに長くそこにいたとて経験を買われることはあっても、将来的に自分の立場が有利に働くことは稀だ。言い方は悪いかもしれないが、アルバイトとは使い捨ての人材だということは保険の観点からも言えることなのかもしれない。だからこそ仕事に対するモチベーションも違う。アルバイトとは責任を放棄してその代償として安定を失っているもので、仕事というものは責任が付随する代わりに安定を得られるという両極端の存在のように思える。今の仕事が合っているかどうかを今判断することは非常に難しいのだが、それでもがっつり8時間働いて苦ではないということはそれなりに気に入っているのだろう。これがルーティンワークになれば、もっと心に余裕が出来るかもしれない。今は仕事を覚えるのに一生懸命で周りがよく見えていないが、きっと落ち着く頃には周りが少しずつ見えてくるのだろう。そんな中で少しあった軋轢が今日のテーマだ。私の仕事は日常的、大きな意味で言えば1週間同じことを繰り返している。しかしながら1週間同じことをしているというのは毎日同じことをするという意味ではなく月曜日にはこの仕事、火曜日にはこの仕事というように曜日毎にする仕事が違うのだが、マクロで見ればその仕事は言ってしまえばルーティンワークのようなものだ。しかしながら同じことだけをしているわけではない。イレギュラーで入ってくる仕事の処理もしなければならない。私の会社ではそういうものはその仕事が完了した時点で上に報告しなければならないという制度がある。1日にどれだけあるのかは季節によりけりなので一概には言えないのだが、その報告には報告書という書面ですることがある。その他勤務報告書・残業報告書・問題報告書と報告書関連は山のように存在している。新人の私がそれをやることは今のところないのだが、ちゃんと私専用の報告書も用意されている。それは新人教育用の業務報告書だ。それは毎日どんなことをして何を学んだのかを書くものなのだが、それを上司に提出した時に色々なことを言われた、今日のタイトルテーマはここだ。私は業務報告書をあたかもこのブログのような書き方で書いてしまったのだ。それは単純に私にとってはそれが一番書きやすい形式だからだ。しかし上司に言われたのが「お前の報告書は堅い」ということだった。業務報告書は上だけでなく様々な人が目を通すものなのでこのブログのような書き方は本来冷たいイメージを与えてしまいがちなので敬遠されるのだが、私はそんなこととは露知らずいつものノリで書いてしまったというわけだ。後からそのことについても教育されたのだが、報告書は基本「です・ます」口調にするべきで、誰かに話しかけているように書くのがルールだということらしい。よく考えてみたら、もし自分が上司だとして入社2週間の新人が「この部分はこうすることが肝要だ」なんて書いていたらあまりいい気はしないだろう。何故私がそんな書き方をするのか、それには少しだけ理由がある。勿論このブログをこの書き方で書き続けたこと、その書き方が楽なことがあるのだが、他にも理由があるのだ。文というものはその人なりが見えてくるものだ。これは極論かもしれないが、簡単な内容を簡単な書き方で記すことは誰にでもできることだ。私は自分が書いた内容があまりにも中身のないことだということに気づいていて、それをそのまま記してしまうと、バカみたいな報告書になることがわかっていた。例えば「今日は~がありました。そこからこんなことを学びました。」「今日は~があった。そこから得たものは~だった。」この2つの意味は同じ文章があったとしよう、例が悪いかもしれないが、どちらが賢そうに見えるだろうか?思ったままを話し言葉で書くと往々にして中身の薄いものに見えてしまうというのはよくある出来事だ。自分にとって楽な書き方を出来ないのは少しだけしんどいことだが…しかしこれもルールなので少しずつ順応していくことにしよう。完成した「です・ます」口調の報告書を見てため息をつく日々は続きそうだ(笑)
Jun 29, 2007
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仕事もそれなりに軌道に乗ってきた。その日、私が勤務している時間にやらなければならないことの全体の流れもなんとか把握できたし、イレギュラーで入ってくる仕事がどんなことを求めているのか、それを解決するにはどうしたらいいか等のこともぼんやりとだが理解できるようになってきた。今になって考えてみると、入りたての頃は仕事がちんぷんかんぷんだったのだが、それなりに数をこなしてみると段々仕事の意図がわかってくるものだから不思議だ。高校生の頃、私は仕事をしている自分を想像することが出来なかった。それは漠然とした将来の自分を描けるほど自分の未来へのビジョンが固まっていなかったということも一理あるのだが、それ以上に社会の一端を担うということが大変なこと過ぎて自分一人の力ではどうしようもないことだと考えていたからだ。ある社会人の方がこう言っていたのを今でも覚えている。「学生は勉強することが仕事なので、毎日学校に行くこともある意味仕事だ」と。私はその言葉を聞いて不思議に思ったものだった。確かに学生である以上は勉学に勤しむのが生活の基盤になっているのだが、それにしてもそれで生計を立てることなど無理な話だ。勉強を生業にしている人も存在していることはしているのだが、それでもほんの一握りだ。それを思うと学生という立場が仕事をしているという観察は少しずれているように思えた。この頃の私はちょっと痛かったのかもしれない_| ̄|○仕事をするということは勉強をすることとは違う。いくら勉強を頑張ってもそこに労働の対価として賃金が発生することはないし、そこには何の契約関係も存在しない。義務教育から抜けてそれでも勉強するということはある意味では学校側と契約関係を結んでいるのかもしれないが、それでも雇用側・非雇用側という関係ではない。学校に毎日行くということが労働なら、学生は世界で一番待遇のいい仕事なのかもしれない。そんなことを考えていたからこそ、余計に自分に仕事は出来るのかと疑問に思うことが多くなってきた。目から入ってくる情報では仕事をしている人は確かに存在しているが、それは私にとっては「とてもできのいい人」という映り方しかしなかった。それほどまでに仕事が出来るということに尊敬の念を持っていたのだ。その観点で今の私を見てみると…高校生の頃よりもそれなりに社会に順応してきているように思える。毎日私は出勤し、そして一般的労働時間をこなして家に帰ってくる。今にしてみれば当たり前且つ凄いことをしているという感覚はないのだが、冷静に子どもの頃の私の考えに則ってみるのなら…私は所謂「とてもできのいい人」になっているような気がする。結局物事というのは自分の手の届かない位置で動いているからこそ不安になったり憧れたりするもので、そこに手が届く位置にくるとなんということはないということなのかもしれない。同じような例に子どもが大人に憧れるということがある。私も子どもの頃は大人に憧れていた。大人はなんでもできるし色んなことをよく知っているし、とっても偉い存在なのだと思っていた。しかしいざ私が一般的な大人と呼ばれる世代に仲間入りすると…持っている考えも趣味も思考も何もかもが子どもの頃に持っているそれと変わりないということに気づいた。結局のところ…大人というのは外郭を成す部分のことを指すのであって、内面的には人生一環して変わらないものなのかもしれない。大人だ大人だと憧れるのは…やはり子どもにとって大人が自分に手が届かない位置であることに起因する憧れから来ているのだろう。そういう意味で言えば…早く大人になりたいとか言っている子どもが一番子どもっぽいのかもしれない。なんのことはない、自分の精神部分以外が社会に順応した姿、周りに順応した姿、それが大人の本質なのだから。冒頭の仕事の例と同じようなもので私個人が持っている考え方として、恋愛もそうだった。私は女の子と正式に付き合ったことがほぼない。そのまま22年間生活していると、必然的にこんな考えが浮かんでくるものだ。「世の中の付き合っている人は凄い。みんな素晴らしい人ばっかりなんだなぁ」と。私の人間的な魅力が足りないからそこに惹かれる人がいないのはよくわかる。しかし私以外の私の周りの人はいとも簡単に伴侶を見つけているので、私の中の常識が揺らぎ始めている。彼氏なり彼女を見つけるってそんなに簡単なのだろうか?私にとっては、自分の好きな人が自分を好きでいてくれるという状況が既に奇跡だ。そんなことは滅多に起こらないことだと思っているし、今のところ私が遭遇していない状況だと言える。しかし世の中の付き合っている人達は、一意の感情で付き合っているわけでは決してない。付き合っているという形をとっている以上は相思相愛であることは大前提だし、その形がとれないと付き合うという段階までいけないと思っている。ということは…私の周りにいる人達はみんな上記に挙げた「自分の好きな人が自分を好きでいてくれる」という状況に遭遇しているということになる。私はそれが凄いことだと思えて仕方ない。人には分相応不相応という言葉がある。私にとっての分相応はどのようなものなのかはきっと一生かけてもわからないかもしれない。しかし、仕事にしても付き合うことにしても…自分はこれが相応だなんて思いたくない。今日のテーマはそういうことで♪ちなみに…今日仕事帰りに高校生のカップルを見かけた。男の子の方は制服なのだがズボンをダラリとずらしていて、シャツも襟元が開き過ぎだろうと思うくらいにオープンだった。片方にピアスを空けていて髪の毛もなんかカッコいい風だった。女の子の方も制服なのだがやはり茶髪でピアス、スカートは異常に短く、化粧をしているようだった。襟元もだらしない限りで、見ている方が情けなくなる格好だった。そんな二人が手を繋いで道路の真ん中を歩いていた。どんな経緯があって付き合っているのか、そしてその二人の本質はどうなのか、それは誰にもわからない。ただ、その二人を外見だけで判断するのなら、こんな付き合いならしない方がマシだと心底思えるほどだったとはっきり言える。
Jun 28, 2007
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今回の内容は前の続きだ。何故続きにしたのか、それは結末が面白いとか衝撃的な内容というわけではなく、単純に私のポリシーに反する文量になったからだった。確かに長い文章というのは一見して高いクオリティのように見えるかもしれない。しかし一貫したテーマを最初から最期まで念頭に置きながら文章を展開することは考えている以上に難しいことだ。いつの間にやら論旨がずれていたり、脱線した内容が結論を結ぶようなこともそう珍しくなく起こることだ。内容を伝えるということを一番に考えている以上は、そのような危険性を含んだような構成にはしたくない。1回に纏めることは簡単だが、それでは気が済まないという極めて一意の考え方に基づく前半後半システムとなったわけだ。こういうところに変に気を遣ってしまうのがAB型の典型である私のような気もするがまぁそれも仕方のないことなのかもしれない(笑)では続きを…今日の業務が終わる頃には行きたくなくて行きたくなくて仕方なくなっていた。結果的に私が導き出した答えというのは、場の雰囲気を壊してしまうのではないかという懸念だった。合コンと言えば様々なゲームをする場だと聞く。果たしてそのノリについていけるのか?上手く立ち回ることができるのか?堂々巡りの考えに嫌気がさしてしまって考えを遮断するものの、それでもやはり業務をしながらもなんとなくそのことばかりを考えてしまう。しかしその場で女の子に引かれるよりも、先輩の方々に「つまらんヤツ」というレッテルを貼られてしまう方がよっぽど怖い。だからと言って行ったとしても待っている結果は目に見えている。そんな齟齬に悩みながら仕事をしていた。しかしながら自分の中のジレンマを片付けられないまま仕事が終わり、先輩に電話した頃にはもう引くに引けないところまで来ているということで変に開き直っている節も無きにしも非ずだった(苦笑)そんなわけで全く根拠のない自信を持って集合場所に行くことにした。集合場所に着いてみるとそこには今回の男メンバーの1人である岡島さん(仮名)が待っていた。岡島さんは私と同い年でありながらもその職場での仕事の経験が1年あって、社会的な立場としては上にいる方だった。研修の頃にも結構お世話になっている方で、同い年だからタメ口になってしまいそうなものだが、仕事もできるという観点でも私は尊敬していた。その岡島さんと今回の合コンがどのような経緯で開催されたものなのか話していた。岡島さん曰く、元宮さんが今回の幹事のようだった。様々な理由があって女の子はその関連からチョイスされているそうだった。まぁ私には知りえない世界なので「そうなんですか」と適当なことを言っていたら、もう1人の男メンバーである野村さん(仮名)がいらっしゃった。野村さんの紹介については割愛するとする。何故なら…あまり知らないからだ(笑)そうこうしているうちに元宮さんが女の子のメンバーを連れてやってきた。私はいきなり見るのも失礼だと思い目も合わせることもできず先に歩き出してしまった。やはり初対面の女の子とは目も合わせることができないなんて子どもだと自覚しながら…。数分歩いたところでやっと目的のお店に着いた。そこはどこにでもあるような普通の居酒屋だった。予約をしていたらしくそのまま全員が入っていき、そして遂に合コンは始まった。先陣を切ったのはやはりというかなんというか…野村さんだった。ありきたりな自己紹介的なところから入っていく戦法のようだった。しかし女の子的にはそこは軽くいなすような感じだったらしく、序盤から野村さんは凹む結果となった。そこで男性メンバーの中で一番偉いポジションになる元宮さんが仕切ることとなった。次々と自己紹介的なものが進んでいったのだが、遂に私の番となってしまった。私はちょっとどもりながら名前や自分の立場を告げるのが精一杯だった。これでも自分の中ではかなり頑張った方だったが、女性陣からの反応は見事なほど冷たいものだった_| ̄|○最初はお互いに緊張していたものの、お酒が入ってくると打ち解けてくるようで、みんなが楽しそうに話をしだした。しかし私はいつも通りのスタイルでい続けた。勿論そうしようと思ったのではなく、あくまでそれが私の一番楽なスタイルだからだ。黙っている私を気遣って元宮さんや野村さんが私に話題を振ってきたが、どれも満足のいく答えではなかったと自覚している。リアルの私を知っている方ならわかるかもしれないが、私は圧倒的に社交性に欠ける、しかもそれが人数に比例する。大人数であればあるほど自分が出ない性格らしい。しかしそんな私にも転機が訪れた。なんと来ている女の子4人のうち3人が私の地元に非常に近い位置から出てきたということがわかったのだ。つまり私含め4人が同じようなところが地元だというわけだ。それを聞いていても立ってもいられず、急に元気になった私はそこに住んでいる人しか知りえないローカルトークにはなを咲かせた。今思えばその時が私のピークだったかもしれない(笑)その後も野村さんが悪酔いして女の子に引かれるわ、岡島さんが無理して盛り上げようとした結果失笑を買うわ、元宮さんは完全にフェードアウトするわで散々だったが、それでも最終的にはかなり打ち解けて盛り上がることができた。私はと言えば、最初の沈黙に比べれば少し話した程度だが、それでも楽しかったことは確かだった。そこでお開きとなった。外に出て皆さんが携帯電話の番号を交換しているのを横目に、私は1人少しだけ遠いところで座っていた。いくら打ち解けてもそういうことは苦手なのは変わりない、先輩方はアクティブで凄いなぁなんて思いながらその様子を眺めていた。勿論誰とも番号は交換していない。きっとそれが私なのだろうと思いながら。。。結局酔いのうちに提案された二次会は決行されず、その場で解散となった。女性陣が帰っていった後、男性陣は勿論どの子が好みなのかという話になった。私は正直顔で女性を判断するほど子どもではないつもりなので…今回のように一期一会の出会いではどの人がいいかなんて決められないのだが、それでも先輩方の手前、1人の名前を挙げておいた。それを聞いて妙に元宮さんがニヤリとしているのが若干気になったのだが…まぁそれはいいとしよう。汗その後は男性陣の反省会と親睦会を兼ねてボーリングに行くことにした。元宮さんは用事があって帰ってしまわれたので、3人で行くことにした。野村さんと岡島さんの好みの女の子がかぶってしまって争いが勃発していて、それがそのままボーリング勝負に雪崩れ込んでいるのを横目に見ながら私はずっと今回の合コンのことを反芻していた。確かに毛嫌いしているほど面白くないわけではないが、今回はかなりレアな事例だと言える。偶然同郷の人がいたから盛り上がれたものの、もしもそんなことがなければどうなっていたのかわかったものではない。否、普通は同郷の人なんてそうはいない。それを考えると私はついていた(?)のかもしれない。合コンが楽しいかどうかは異性と話が合うからという意見も確かに存在しているが、私はそうは思わない。私なりに思うのが…気が合う同じ性の人が多くいる方が必然的に合コンは盛り上がるような気がする。きっとどの子が好みで、次はどうして…という話し合いをするのが楽しいのだと素直に感じた。そうではないという意見もあるかもしれないが、少なくとも私は男性側にも女性側にも恵まれていた合コンデビューだと感じたものだった。だからってまたしたいというわけではない。付き合いの合コンが上手くいった、それだけのことだ(笑)
Jun 27, 2007
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というのもそこまでのことではない。一般的な私の年齢ではとっくに経験している方も多いし、熟知なさっている方にしてみれば至極当然のことなのかもしれない。兎に角世の中の基準というものがよくわからないので抽象的な言い方しかできないが、これくらいにしておくとしよう(笑)ことの発端は朝のミーティングの後に起こった。いつも通りどのようなことをしているのかいまいち掴みきれないミーティングにいるだけで参加していると、ふと見知らぬ先輩の顔があることに気づいた。主任が「きょう、まだ挨拶してないだろう?」と言って紹介してくださった方は、私の属する課のリーダーである元宮さん(仮名)だった。もう慣れてしまった挨拶をした後に聞いたのだが、この方は齢24歳にして現場リーダーになっておられるという生粋のえりーとで、この配属先の中でも1・2を争うほどの実力者であらせられるようだった。そのような偉い方に今までどうして会わなかったのかというと、それは少しだけ私の会社のシステムに関係している。私の属している配属先のシステムとして一番大きなものに「24時間体制」というものがある。どのような業種で何をしているのかは敢えては言わないのだが、もし何かの弾みで機械が止まってしまうと恐ろしいことが起こってしまうのだ。それは個人の責任であれば懲戒免職は免れず、それだけにはあきたらないで損害賠償が生じるという非常にソフトな問題を孕んでいる。なのでそれを防ぐ為の措置として24時間体制というものが敷かれているというわけだ。24時間体制ということは、その仕事場には常に誰かがいることを意味しており、つまり大雑把に言えば昼の勤務と夜の勤務の2分割制度になっているということだ。上記のような重要な部分を担っている我が仕事場において、人員を置くにしても入社1年目やそこらの新人に毛が生えた程度(私もその一部だが)の人を寄せ集めたとて状況として楽観できるものではない。非常事態が起こった時にそこにいる人達が全てテンパってしまうようでは問題解決は見込めないからだ。そのような理由でベテランというか、仕事のイロハを熟知している方を常に配置するようにしているというわけだ。私が今属しているのは主に昼の業務の方であって、夜の業務にはまだ携わっていない。それももう少し慣れれば入ってくるものなのかもしれないが、今のところは1日の仕事の大半のウェートを占めるお昼の仕事を覚える方が先決だと見なされてお昼の業務に邁進しているというわけだ。説明が随分と長くなってしまったが、件の元宮さんは夜の仕事の現場責任者ということで…仕事場に入って2週間が経ちながらもお昼の仕事のみに従事してきた私にはお会いする機会が無かったというわけだ。そんな元宮さんだが、何故か今日はお昼の仕事の方にいた。ご多忙な方なのですぐに帰られてしまったのだが、帰り際に私がなんとか間に合って挨拶をしたという次第だ。私が挨拶をした時、元宮さんは何故か私の顔をじっと見て…一言こう言った。「きょう、合コンに来ないか?」これには驚いた。まだ会って数分しか経っていないのに速攻で合コンに誘われてしまったのだ。何故まだよく知らないような私に声をかけたのかという理由を元宮さんはおっしゃっていたのだが、その理由については敢えて付記しないでおくとしよう。そう言っていただけるのはとてもありがたいことなのだが、その事実を私自身が認めていないからだ。たまーーーーーーーーーーーに言われることはあるのだが、それさえも私は信じていない。否、Rに言われた時だけは信じたし嬉しかった(笑)いきなりお会いした方からの直々の指名だ。これを断ることは容易だが、その後には「付き合いが悪いヤツ」というレッテルを貼られてしまう可能性も否めない。できれば人間関係は円滑に、そして波風立てないのが私の主義だ。なのであまり気は進まなかったが合コン行きを了承した。ここでちょっと脱線して…何故私が合コンを嫌うのか、それには理由がある。まずはあの雰囲気がどうにも好かないのだ。「あの雰囲気」とは言ったものの、実際に経験したことはない。ただテレビや友人が語っている様子を見たり聞いたりしている限りはそこまで好ましい状況だとは思えない。私はお酒を静かに飲むのが好きだ。他の人が盛り上がったりしているのを少し離れたところから見ながらお酒を飲む、それが私のノーマルのスタイルだと言える。それは賑やかなのが苦手というわけではなく…初めて会う方とフレンドリーに話せるほどのキャパがないことに起因している。いきなりフレンドリーに話されるのは多いに結構なのだが、いきなりフレンドリーに話すことは私にとっては至難の業だ。尚且つそのような場では変に自己紹介とか趣味の話とか…妙に作られたような儀式的なものがあると聞く。そのようなものを変ににこやかに出来るほど私は器用ではないつもりだし、そういうものから遠い位置にいると自覚している。二つ目にそのような雰囲気だからこそかもしれないが、そのような雰囲気を壊すのが嫌だということだ。合コンに来ている方を一意的に見るつもりは毛頭ないが、往々にして男女で楽しく飲もうというコンセプトのもとに集まっていると言える。そしてよしんば意気投合すれば連絡先を交換するという交流の場あることが多い。そのような場では総じて盛り上げ役という人が存在し、場の雰囲気を楽しいものにしている。楽しいということは一般的には話が盛り上がることを意味している。それは絶え間なく話が盛り上がっていき、俺も私もとどんどん相乗的になっていくものだ。そこに上記のようなスタイルを持つ私が入っていったらどうなるだろう?私が全く喋らないことにいい印象を持つ人などいないだろう。それはそのまま楽しい空気を壊すことに繋がる。私が嫌われることには特に問題はないが、同席している方に迷惑をかけることは絶対に避けたい。なので私は合コンというものがどうにも苦手だ。このブログを長く読んでくださっている方がもしいらっしゃればわかるかもしれないが、私はお酒の席で立ち上がって「では…出逢いにかんぱ~い!!!!」と率先して言うタイプではない。なので必然的に大人数での飲み会では存在感があるのかないのか非常に曖昧な存在になってしまうというわけだ。私のスタイルはきっと少人数でこそ意味があるものだと分析しているが…そんな脆弱なスタイルではいけないと思っていたのもまた事実だ。なので気は進まなかったが、先輩と場の立場を立てる為、そして自分のスタイルを少しでも前に持っていく為に参加を希望したというのも一理ある。それから業務終了まで私は悶々としていた。どう振舞ったらいいのか、何を話せばいいのか、キャラを崩壊させる必要はあるのか、先輩に不満を持たせないようにするにはどうしたらいいのか、そんなことばかり考えていた。おかげで簡単な業務をミスしそうになって焦ったものだった。しかしながらお昼を過ぎた辺りからこう考えるようになった。「百聞は一見に如かず」という言葉があるように、1度くらいは合コンとはどんなものなのか知っておくのも勉強になるかもしれない。そこで得た知識が自分をどう変えるのかはわからないが、接待・付き合いのない社会生活など有り得ないのだ。それにもしかしたら楽しいかもしれない。そんな甘い考えで参加した私は痛い目をみることになるのだが…それは今回の内容が長くなってしまったので明日に持ち越しだ。
Jun 26, 2007
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仕事場が寒い!!こんな時期にこんなことを言うのも変なのかもしれないが、実際問題かなり重要且つ死活問題だと言える。寒いの意味にも多くあるが、勿論普通の意味での「寒い」だ。そんなわけで今回は環境的な話になる。まず私が配属されている会社で一番目立つ部分は…セキュリティが厳しいことだ。一般的な会社のセキュリティの問題がどうなのかわからないので一概には言えないが、まずはカード認証をしないといけない。玄関の扉を開けるのにまずはカード認証、そして入館手続きを踏むのにまた入館端末にカード認証をしなければいけない。その後に警備員に鞄の中身を見せて、そして荷物をロッカーに預けないといけなくなる。セキュリティ関係の都合上携帯電話の持込が禁止されている。オフィスに入るにはそれなりのことをこなしてからということになる。携帯電話を何故持ち込んではいけないか、それは情報漏洩を防ぐ為だ。昔は携帯電話を持ち込んでも良かった。それは携帯電話が文字通り「電話をする・メールをする」という機能しかなかったからだ。今の携帯電話はカメラが標準装備されており、情報をカメラに撮って持ち出すのではないかという危惧があるようだ。個人情報保護法の遵守に重きを置くような昨今だからこそ余計にそういう面が煩くなってきたというわけだ。ちなみに入館した段階から携帯電話の電波は入らないようになっている。携帯電話を持ち込んでも、メールが出来ないのだから…情報漏洩を本気で考えていない以上は「やりすぎ」だと思うのが普通だと感じた。しかしながら、今の世の中何事においても「やりすぎ」ということはない。だがそういうものを見てふと思う…。綿密に組まれたセキュリティほど逆に悲しい。そこまで自分は何もする気はないよという表明をしなければ認めてもらえないなんて悲しすぎる。全ての人を疑うようなセキュリティ制度を「凄いな」とは私は思えない。この会社だけがそうではない、全ての会社で標準的に行っているからこそ…余計に世相を表しているように思える。それはそれとして…いざオフィスに入ると外との温度差に驚く。確実に10℃は違いがある。空調がハンパではないほどたくさん付いていて、24時間一定の温度に保っているから当たり前と言えば当たり前なのだが、それにしても慣れるまではかなりきつかった。では何故空調がたくさん付いているのか、それはOA機器に熱を持たせない為だ。パソコンをずっとつけっぱなしにしている方がいればわかるかもしれないが、OA機器というのはつけっぱなしにすると思いのほか熱を持ってしまう。それは個人のパソコンにとっては微々たるものなのかもしれないが、企業のパソコンにとっては少しでも危険なファクターがあればそれを排斥しようとするもので…それによってバーストしました♪では済まない問題になる。なのでそれを防ぐ為に、多くの空調が必要になるわけだ。穿った言い方かもしれないが、企業にしたら人間よりも機械優先なのだ。人間よりも機械が快適に過ごせるように出来ているというわけだ。それによって人間が寒い思いをするというのは機械を安全に稼動させる為には些細なことだというわけだ。その辺りのことは慣れてくると妥協できることなのかもしれないが、どうにも今はまだ慣れそうもない(笑)パソコンが約50台、コピー機が10台、しかもドットインパクトプリンタが2台もあるという趣深いセッティングになっている。その他にもそれに付随する機械が多くある。私が浅学だからかもしれないが、見たこともないようなものも多くあった。それら全てを使いこなすだけの知識が早急に要求されるというわけだ。ちなみに…この会社に入って良かったことが1つある。それは正式に稼動しているWindows Vistaが見られたことだった。まだまだ問題が多くあるらしいが、パッと見ではかなり良さげに見える。全てにおいてXPよりも進んでいるように見える一面、遊び感覚で使う以上のスキルで用いる場合、その汎用性には驚くことばかりだ。はっきり言えば使いにくい。初見では読み込みバーの違いしかわからないが、プログラムを組んでいる中井さんの姿を見ていると、その使いにくさがありありと伝わってくるようだった(笑)一応言っておくが、Windows Vistaが嫌いなわけではない。いい面も多く知っているつもりだ、なのであしからず(笑)
Jun 25, 2007
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お金を貯める為の手法というのを滔々と語られること約1時間、趣味とお金の関係について語られること1時間、女性関係について語られること1時間…。なんのことなのかわからないかもしれないので解説しておくと、仕事中に先輩と話したことだった。先輩としては30歳を手前にして働くということがどのようなことなのかわかり始めてきたからこそ…余計にぺーぺーで何も知らない(ように見える)私に色々なことを教えてくださろうとしているのだろう。それ自体はありがたいのだが、素直に喜べないところがあるのも事実だ。私に今一番必要なものは気持ちのいいゆったりとした椅子に座ってそのようなことをまったりと談笑を交えて話すことではなく、仕事を覚えるということなのだ。仕事の内容的には明かすことができないのだが、専門的な技術を伴ったものだ。それを人格を見られたので嬉しい半面、技術職だけにやっていけるかどうかわからない複雑な気持ちを孕んだ(と思われる)社長のゴリ押しで技術もない私をとってしまったということを後悔させるというのも気分がいいものではない。今週一週間配属先に行って少しずつ仕事を覚え始めているのだが、仕事の関係上シフト制というのが功を奏してか否か…毎日違う先輩を顔を合わすことになる。こう言っちゃいけないのかもしれないが、正直話しにくくて何を考えているのかわからない方もいらっしゃる。仕事は数人の少数精鋭が基本なので、長いスパンで考えると全ての方とある程度つっこんだ話ができるところまで親密になっておく必要があるのだが、今のところごくごく限られた方としかそうはなっていない。色々な性格が生きている中で、自分の性格一つで全てに折り合いをつけるのは非常に難しい。そういうものには往々にして引き出しの数が要求される。一応私はこれまで人と衝突することなく生きてきたある意味では面白みに欠ける人格なのだが、どうしても仲良くなるのが難しい性格の人というのは存在する。それは寡黙な方だ。私自身そこまでおしゃべりで爆笑しまくっているような性格ではない。例えば飲みに行ったとして、大人数であればあるほど端の方の席で静かに飲んでいるような性格なのだ。それを寡黙と呼ぶのかどうかは定かではないが、明るく騒がしい性格ではないように思える。私がそうだということは…ある意味では私を取り巻く友人は私が寡黙な方を苦手と思うのと同じ感情を抱いているのかもしれない。そう感じると、まるで自分を見ているようで…そして自分を相手にしている友人の感情を垣間見たようで少しだけブルーになった。それを通して思ったのだが、性格というのは歯車のようなものだ。よく喋る人とよく喋る人というのは一見して相性がいいように思えるのだが、実際にその場で話している状況を見ると必ずしもそうではないように思える。確かに性格を超えた生理的な部分で合う合わないはあるかもしれないが、それを度外視しても尚…なのだ。よく喋る人の考え方としては、自分の話を聞いて欲しいというのがコミュニケーションの前提にある。勿論全てが全てそうだというわけではないが、その傾向が強いと言える。そう思うと、お互いが自分の話を押し通そうとするとそこで衝突が起こってしまう可能性がある。寡黙な人同士の場合も同じことが言える。寡黙な人はあまり話さないのでイメージが悪いかもしれないが、そのような人は決して人との交流が嫌いだというわけではない。私自身がよく喋る人というよりは静かな方なのでわかるのかもしれないが、寡黙系の人は相手の話を聞きたいという欲が強い。そうなると寡黙な人と寡黙な人の組み合わせでは、寡黙視点ではまず話を振ってくれないと会話が前に進まない。そうなるとお互いに苦手だという印象を抱いてしまう可能性がある。まぁでも人との触れ合いというのは面白いものだ。よく喋る人でも寡黙な人でも、必ず自分の殻を破る「鍵」は存在している。それは趣味の話であり思想の話であり…往々にして自分の好きな話であることが多い。同じ属性の人間には自分を知って欲しいと思うのが世の常であり、仲間意識を感じることがある。私が冒頭で「引き出し」と言ったのはそのような意味だ。その観点で話をすると、仕事場には非常に多種多様な「鍵」を持った人がいる。パソコン、インターネット、オンラインゲーム、テレビゲーム、車、自転車、競馬、競輪、競艇、スロット、パチンコetc…。兎に角多くの「鍵」が存在している。私としても遊びと名の付くものは女性関係以外はほとんど全てを経験しているつもりだ。なのでどんな話でも取り敢えずは人並みのトークは出来るつもりでいる。実際にギャンブルと旅行の話で随分と盛り上がることが出来た。結局のところ人というのは同士を探している生き物なのかもしれない。同じ志、似たような趣味、そのような人を探し求めているのかもしれない。しかし決して揺るぎない事実として、自分と全く同じ感性を持った者は存在しないということを明確にわかっておく必要がある。うーん…結局何が言いたかったのかよくわからなくなってしまった_| ̄|○散逸する考えを取り敢えず打ち込んでみたらわけがわからなくなってしまった。まぁ…なんだろう、若い頃に多くのことを経験しておく方が社会人という人生の大半を過ごすところでは役に立つことが多いということ…だろうか?そういう意味では、今までの経験は無駄ではなかったと思えるから不思議だ(笑)
Jun 24, 2007
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久しぶりの休日、何をして過ごそうか色々と思案した結果…やはり家のことをすることにした。これは1人暮らしの時と何も変わらない休日の過ごし方だ。学生の頃と今、立場的には随分変わったものの、やはり根底にあるものは何も変わらないのかもしれない。無為な過ごし方にかけては右に出るものはいないような…意味もない自慢もできそうなくらいだ。できれば色々とやりたいことがあるのだが、如何せんそれにはお金が伴うことが多い。様々な面でお金が多く必要な時期だけにそれだけは避けたい。ゆったりと過ごせる生活が私に今一番必要なものなのかもしれない。仕事を覚えることで精神的にいっぱいいっぱいだからこそ余計に余計なことに心を傾けるのも避けたいところだ。自分の為になって尚且つ有意義なことと言えば…やはり私には家事しか残っていない。掃除をしたり洗濯物を干したりワイシャツをクリーニングに出したりお風呂とトイレの掃除をしたりと…まるで主婦のような家事が待っている。家事をすること自体それほど苦ではないし、自分の居住スペースが綺麗になっていくのは気持ちのいいものだ。しばらくの間はそのようなことをして休日を過ごすことにしよう。時系列的には少しだけずれるのだが、今日やっとインターネットが復活した。ブログ的にはだいぶたくさん更新した後にこのことを書くのもおかしなことなのかもしれないが、私的にはタイムリーなので書いておくとしよう。久しぶりにインターネットが繋がるということを短い期間に3度も経験しているので…いつもまわっているサイトに目を通すのが大変だ。しかし楽しみにしている分、それが一気に読めると思うと…それもまた良しだ。まぁたまにはで結構なことなのだが(笑)ではタイトルテーマへ無人島が1つあったとする。その無人島にA君とBさんがいたとする。無人島はその名の通りA君とBさんしかいなくて二人が生きていく為には魚を釣ってそれを食べて生きていくしかない。A君は釣りが上手で1日に16匹の魚を釣ることができる。Bさんは魚釣りが少し苦手で1日に8匹しか釣ることができない。A君とBさんは無人島に着いた時にある約束をしていた。それは釣った魚は平等に分け合って食べようというものだった。しかしその約束が交わされた時A君はBさんの魚釣りの腕を知らなかった。次の日、2人は魚釣りをした。結果は勿論A君が16匹、Bさんが8匹、合計24匹だ。最初の約束通り、2人はそれを平等に12匹づつ食べることにした。しかしその生活も長くは続かなかった。最初は仲良しだったA君とBさんは不仲になってしまった。上記の話は私が大学生の時に何度も聞いた話だった。以前に書いた「村祭りとお神酒」の話とこの話は通ずるところがある。どちらも公共経済学の分野だからだ。ところで…どうして二人が不仲になってしまったのか。それは少し考えればわかることだ。例えば貴方がA君だとして…自分が16匹釣ったにも関わらず12匹しか食べられないと知ったらどう思うだろうか?思いやりのある方ならあまり釣れなかったBさんにあげることをよしとするかもしれないが、悲しきかな状況が状況だけにそれを容認できるはいない。釣ってもあげなくてはいけないのならば、真剣に釣ることをやめるだろう。一方もし貴方がBさんだとして…自分が8匹しか釣れなくても結果的に12匹食べられるという状況で自分も頑張ろうとするだろうか?もしも仮に自分が釣らなくても合計は16匹なので、自分が釣っただけの魚は何もしなくても食べられる計算になる。そうなると必然的に努力することをやめるだろう。A君にしてみたら頑張っただけ損、Bさんにしてみたら頑張るだけ無駄、そのような状況がどんどん二人の心を蝕む。やがて二人は魚釣りをやめてしまう。これはただの例ではない。これと同じことがスケールは違えど、世の中では起こっている。このことからわかることは、最適な分配の仕方が難しいということだ。後発発展途上国にODAを送るという例でもよく見える事象である。日本を始め、発展途上国は後発発展途上国にODAを付与している。それは支援をしてあげることでその国の発展を促すという効果があり、どの先進国も率先して行っているものだ。しかし過剰に付与しすぎると後発発展途上国の人々は、自助努力をしなくても他の国が支援してくれるので結果的に努力しなくてもいいと勘違いしてしまう。支援におんぶに抱っこになってしまう。それでは永遠に自助努力での経済発展は見込めない。自助努力を促しながらも、その手助けをできるようにODAを付与する。それが本来あるべき姿にも関わらず現実はそうはいかない。結局のところA君とBさんが怠惰に走ることなく魚を仲良く釣れるようになるには2つの方法がある。それは公正な分配を2人が一緒に考えるか…第三者の介入があるかだ。2人が仲良く魚釣りができる日がくれば…或いはそれ以上の効果をマクロレベルで発揮できるかもしれない。それくらい簡単な例でありつつも重いテーマをもったものらしい。これが私が公共経済学を専攻しようと思ったきっかけだった(笑)
Jun 23, 2007
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雑誌に載っている創作料理のお店このような誘い文句で人気を博している創作料理のお店をよく雑誌等で見る。まぁ雑誌で見るとは言っても、病院や公共の場での待合室に置いてあるものを見る程度だ。雑誌を買うという習慣がない私には、そのような場でしか雑誌を見ることもない。実際のところ雑誌を読むのが好きかと言われれば、そう好きでもない。待っている無駄な時間を潰すものとして置いてあるものを置いた方の意図を察するかの如くただあるがままに…読むだけだ(笑)話が少しずれたが、ここからが言いたいところだ。創作料理という言葉は一昔前にはそこまで認知度がなかったものの、今のブームには確実に乗っているように思える。それだけ人気の高いものであるが故に「創作料理」という言葉が当たり前になっているような気がする。だからこそ不思議に思うことがある。料理というものはどういうものか。それを考えてみれば私の言いたいことがわかるかもしれない。料理というのは勿論料理をする人がいて完成するもの、若しくはその行為のことだ。料理に必要なものは厳密には料理と呼ばない、それは食材と呼ばれ、それを加工することを料理と呼ぶのだ。ここまで言わなくても賢明な方ならおわかりだろう。つまり料理は創作する過程で生まれるものなのだ。その考え方に沿うのならば…創作料理というのは意味が重複していることになる。つまりは「私のマイブーム」だとか「目には見えない」だとか「骨付きカルビ」などという言葉と同じ用法でできていることになる。しかし創作料理はその店のシェフのオリジナルで既成のものとは異なるからこその創作料理だという考え方もある。だが、それは大きな間違いだ。何故なら今普通にある料理でさえも誰かが考案したからこそ普及しているのだ。つまりは全ての料理が創作料理であって、創作料理という言葉はやはりおかしいことになる。だからなんだと言われても困る。こういうことを考えるのが好きなので仕事中に思いついたことを書いてみたというだけだ(笑)つまらないことはうけあいだ(笑)ではタイトルテーマに…。1人暮らしを再開してからというもの、私にはある日課が増えた。それはEXCELで家計簿をつけることだ。誰かが見張っているという環境、私にとっては実家で暮らしているという状況では無駄遣いは出来ない。それはお金の管理をされているという意味ではなく、無駄遣いをしてしまうと目を光らせている人がいるという存在が大きい。それは私が堪え性のない性格だからかもしれないが、おおよそこのような性格の人はいるに違いない。つまり逆に言えば、誰も目を光らせていないという一人暮らしの状況ではお金に糸目をつけず何かに費やしてしまうという状況はことのほか起こりやすい。なので私は家計簿をつけることで無駄遣いを一切省くという目標を立てることにした。実は学生時代の1人暮らしの頃も家計簿をつけていて、そのおかげで随分無駄遣いが減らせたという実績があった。より無駄遣いを省かないといけない社会人だからこそまた復活させた自分に課した課題というわけだ。これが思いのほか上手くいっている。持ち金を残り日数で割って一日に使える金額を算出し、その金額を下回るように生活する。このやり方だと一日の無駄遣いの額がはっきりとわかるのでモチベーションに繋がる。ここで予め付記しておかなければならないのが…けちではないということだ。自分で言うのも難だが、私はけちな人が嫌いだ。リアルの私を知っている方ならわかるかもしれないが、交流の場ではお金に糸目をつけないようにしている。楽しく飲みたい時や大きな会を開いた時などはパーっと使うようにしている。だからこそ普通の生活の時は極力無駄遣いを省くようにしているというわけだ。これは自分の好きなことにお金を使う為の節約法だというわけだ。他人から見たらわけがわからないし男らしくない癖だと思うかもしれないが、私自身結構この癖は気に入っている。マクロが使えたらもっと便利に家計簿をつけられるのだが…今のところそんな知識がないのが残念だ。しかし今の職場はそういう意味では学ぶことが多いのが嬉しい。なんと言ってもプログラムを組んで実際に動かし会社の運営プログラムにしているような人がごろごろいらっしゃるようなところなのだ。盗みたくても盗めない知識というのは素直に憧れるものだ♪
Jun 22, 2007
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革靴というのはどうしてあんなに中の靴箆の素材がつるつるなのだろう。そのせいで随分と妙な目で見られたことがあった。就職活動をしている時のことだった。その頃は就職活動の面接を受ける為に市内まで車で来ていた。何度も書いていることかもしれないが、それなりに長い時間を運転して目的地まで辿り着くのだが、その時には力を込めて運転しているので足にも多少の汗をかくというものだ。そうなると、車から降りて歩き出した時に少しだけ汗をかいた靴下と滑りの良い靴底が相成って…歩く度にキュッキュッと可愛い音がなるというわけだ。始めは子ども用の可愛いサンダルを履いた子どもが後ろから付いて来ているのかと本気で思っていたので、知らない顔で普通に歩いていたのだが、誰もいないところを歩いていてもキュッキュッなるので気づいてしまった。これじゃあ年齢の割に子ども用の音がなるサンダルを革靴の中に仕込んだ知能犯だと思われてもやむなしだ。それと同じ状況がまさに今も起こっている。会社まで多少の距離があるので健康のことも考えて歩いているのだが、その時にも行きはまだいいが帰りになると踏み出す度にキュッキュッいうので堪らなく恥ずかしい。しかも家から会社までが歩いておよそ30分程度のところなのだが、今の季節の蒸すような暑さも相成って…えげつないことになっているのだ。しかも通勤に通るのが結構大きな通りなので、その恥ずかしさも倍増するというわけだ。中にうーるが入っている革靴があれば即買いだ。ただそれだと悪くなってしまう勢いが増してしまうこともうけあいだ。価格的にもきっと今よりも高くなってしまうだろう。まぁこの際うーるなんて贅沢は言わずにタオルでいいから…もう恥ずかしい目に遭わせるのはやめてほしい_| ̄|○テーマへN○Kの料金を踏み倒すということが一時期流行った。それは勿論いいブームではなく、悪い兆候だと言える。まぁそのバックボーンには○HKの不祥事が次々と露呈されたということがあるので、信頼を勝ち取ることを最優先させなければいけないこの業界では全くもって考えられないような事象ではない。尤も、踏み倒すということ自体はいいことでは当然ない。しかしNH○の料金徴収が任意であるというところから、このようなことは不祥事が露呈してもしなくても規模の問題でどこかでは起こっていることだと言える。もし仮に観ているにも関わらず踏み倒している人がいたとしても…それは実際にN○Kを観ているか観ていないかという判断は誰にもできないことだ。つまりはそのような料金体制を敷いた側に責任の一端があると言える。ことN○Kで言えば、不祥事のことも相成って、仕方のないことのように思える。しかしながらN○Kは思い切ったことをしようとしているらしい。なんでも視聴料を支払うことを法制度化しようとしているということだ。これは思い切ったというよりも、むしろ呆れた策だと言える。N○Kが国営放送ではないということは自明のことだ。つまりは一般的に無料で放送をしているテレビ局と位置は違えど同じ立ち位置にいるものだと思われる。今当然のように見ているテレビ曲が急に視聴が有料だと言ってしまえばどうなるだろう?さして「一般的に」人気のないN○Kだからこそさほど問題にもなっていないが、これはかなり危険な思想だと言える。テレビを新しく買ったとして、消費者はそのテレビにどんな局を入れるかの選択肢を事実上持ち合わせていない。入る局の違いは地域による周波数の違いという微々たるものでしかない。その中には当然のようにN○Kが入っており、選択の余地のない消費者は観た観ていないの有無を言わさずお金を要求されているのだ、テレビの局が映るというだけの理由で。それが自由意志のうちはまだ良かった。しかしそれがもしも法令にされるとなると…それを法令にすること事態が法を犯すことに他ならない。公然と押し売りをしていると言っても過言ではない。そうなると一体どのようなことが起こるのか…それは自明のことだ。まず起こるのは踏み倒していた人が本気でN○Kを観なくなるということだ。観た瞬間からお金が発生するのならば絶対に観ないでおこうと妙に意固地になってしまうことが想像できる。そうなると視聴率の観点でも受信料を法整備することはいいことではないはずだ。義務化というのは義務という言葉が入っているからこそ、それに付随する概念は全て正しく意味のあることであるべきだ。それが達成されてこそ始めて受け入れられる義務化だ。言うことを聞かないから押さえつけるのでは問題は解決しない。否、力で押さえつけられるだけの権利を持っているのかが根本問題か。。
Jun 21, 2007
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やっとのことで仕事の配属先が決まった。私の会社は少しだけ制度が変わっていて、本社にいるのは総務だけということになっている。これは前にも書いたかもしれないが、入ってみるまではそのような制度が敷かれていることは知らなかった。課にも依るのだが、基本的には色んなところに行くことになる。それが一般的で誰も文句は言わない。それは様々な理由からわかることだ。簡単に言ってしまえば、通勤するところが本社ではないことが有利に働く人と有利に働かない人の比率が今のところ前者の絶対数が多いからだろう。会社がアルバイトのように出入りの激しいところではないという特質上一朝一夕で変わるような制度ではないのかもしれない。そもそもにおいて私の会社がそのように多少の距離のところに出向してもらうという産業を基盤にしているからだ。しかしながら怪しげな会社ではないことは自明のことだ。それはS課の方々を見ていたらわかる。なんだかんだ言いながらその会社で長い期間過ごしてきた中でも、今のように明るく話しているところを見ると、捨てたものではないと思ったからだ。まぁそんなこんなで今日で仕事も3日目となった。未だ研修生活は変わらないが、それでも少しずつ仕事を覚えていくのが楽しくもある。そんな今日この頃だ。そんなわけで今日の本題へ。少し前にこんなニュースがあった。中国のどこかで多くの虎の中に生きた牛を放して虎がその牛を狩る様子を車の中で人が見ているというテーマパークがあるというものだった。それより少しだけ前に、中国はディズニーキャラクターを無断模倣してウォルトディズニーに訴えられかけてすぐさまそのようなキャラクターを撤廃したという事件があった。このことから見えてきた「一般的な」批評の多くは肖像権や知的財産権という概念がないのだろうか?ということだった。そんなことがあったからこそ先ほど挙げたことも「またあの中国が…」という風に捉えた日本人が多いのかもしれない。関連付けるということで中国を悪者のように扱うような報道がされたことも事実だ。しかし私はそうは思わない。むしろそれはこじつけであるように思える。勿論ディズニーキャラクターの模倣については絶対悪だ。それは法律にひっかかることである上に、そのようなキャラクターを苦心のうちに創り上げた先人に失礼だというものだ。そのことは報道のされ方は別として、糾弾されることに対しては特別不思議に思うことではない。しかしくだんの牛の件に関しては日本人がとやかく言える立場にはないように思える。それは日本だけなのかどうかわからないが、独特の文化が関係している。実際に見たことはないが、ある寿司屋では当然のように行われているものとしてマグロの解体ショーというものがある。私にはあれが中国のテーマパークの牛と同じように思えて仕方ない。勿論こんなことを言えば「全然違うではないか?」という方がいらっしゃるのも重々承知している。しかし私に言わせれば何が違うのかわからない。マグロはもう既に死んでいるのだからという理由は通じない。死んでいるものをあのように大衆の面前でしかもショーという形でばらばらにすることは正しいことなのだろうか?それこそ生き物を冒涜する行為に他ならない。また「マグロは普通に食べられているから」という理由も通じはしない。それを言うのならば牛の方がよく食べられているし、どちらも人間が捕食するという意味では同義だからだ。しかもマグロの解体ショーは名前に露骨に「ショー」という言葉が入っている。堂々とそんなことをしていながら、自分達には非がないと思っている精神がとても信じられない。こんなことは当たり前過ぎてわざわざ言うのもバカバカしいことなのだが、解体すること自体を悪いと悪いと言っているわけではない。ああも公衆の面前で「ショー」という形をとらなくても、どこでだって解体はできるし、そのような手法をとらなくてはいけない理由なんて…所詮「一般的な」人を喜ばせる為のお金の絡んだエンターテイメントに過ぎない。棚に上げるということは大変カッコ悪いことだ。くだんの中国のことを本気で責めているのなら…その人がその裏でマグロの解体ショーを喜んで見ていないことを祈るばかりだ。そんな概念に同工異曲なんて存在しない。
Jun 20, 2007
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住み心地のいい部屋に越して来たと思ったのも束の間、実は大きな問題を孕んでいることに最近になって気づいた。地域的にどうしても地価が高くなってしまって、賃貸をはじめとする不動産関連は値段がつり上がるということは悲しきかなよくあることだ。勿論「悲しきかな」というのは私を含めた消費者からの意見であって、需要側の意見では決してない。需要側にしてみれば美味しい産業であるし、供給だけは決して止まないのが不動産だ、それを考えると消費者は損をしているような気がしてならない。賃貸物件で一番ボロいところは、大学の周りに店を構えているところだろう。学生がいる限り賃貸物件はどうしても必要になってくる。遠くから通うくらいなら近くに住もうと思うのが一般的であるし、そこを上手くついた産業であるように思える。引く手数多になると必然的に価格は逆競争的になるものだ。少しくらい値段を上げても学生がいる限り需要は確実に確保しているのと同義だ。しかしここで問題になるのが「学生がいる限り」という部分だ。最近は少子化にも歯止めがかかりつつあるものの、それでも幾何級数的に出生率は上がってはいない。むしろ緩やか~な算術級数的な増加に過ぎず、それはつまりいつかは大学進学する子どもの数が出生率に比例して減ってくることを意味している。そうなると…きっと今ほど大学近辺の不動産も高くなくなるだろう。その時の価格というものが密かに楽しみな妙な私である(笑)関係ない方向に論点がずれてしまったのだが、本当に言いたいのはここからだ。私の家は市内でも有数の地価の高いところに位置している。ワンルームで7万円くらいはざらにあるし、むしろ会社の近くに住むことはその条件を飲んだ上でのことだと覚悟していた。しかし探してみると何故か一番いいポジションにとても格安な物件があった。しかも周りが軒並み7万円台だというのに私のアパートは48000円だった。しかも7万円というのはあくまでワンルームの話であって、私の部屋は1DKにも関わらず48000円なのだ。それを思うとかなり掘り出し物の物件な気がするが…そこに決めてから私はどこか懐疑的な心境だった。明らかに怪しい…。もしかしたら幽霊が出るとかこの部屋で自殺者が出たとかいう噂があるのかもしれない。しかし霊感の弱いというのが功を奏してか、今のところ「深夜2時頃ふいに目が覚めた。窓からは薄ぼんやりと外灯の灯りが差し込んでいる。ふと気配を感じ部屋の隅を見てみた。勿論誰もいない。なんだ気のせいかと思いまたベットで寝転がっていた。うとうととし始めた頃、なんとなく背中に悪寒が走った。目は開けてはいないが、明らかに目の前に何者かの気配を感じる。おそるおそる目を開けるとそこには…」的な経験はしていない。つまりはかなり普通の物件だということだ。なんだ当たり物件を引いたんだと思っていたのだが、実はそうではなかった。それというのも家に帰って来て玄関の扉を開けて…靴を脱いでドアを閉めると、突如轟音がした。始めは本気で地震かと思って身構えていたのだが、どうもそれ以上は揺れないし、地震ではないようだった。最初は上の階でどたばた騒ぎでもあったのかと思っていたのだが、そうではないようだった。しばらくしてもこのような現象は続いた。しかもベッドで寝ているだけの時でも時々なった。これは所謂ラップ現象かとも思ったのだが、答えは案外近いところに転がっていた。要は部屋の構造が弱いのだ。先ほど1DKと書いたのだが、1DKということは居間とキッチンが別れているという意味だ。一般的な1DKというものは、居間とキッチンで構成されている。その部屋の仕切りには必ずといっていいほどに扉がついているものだ。その間仕切りの扉が極端に緩く作られていて…玄関の扉を閉める度に轟音となって響くというわけだ。私が住んでいるのはアパートなので、同じ構造の部屋が横にいくつも連なっている。ということで、横の部屋で玄関の扉が閉まる衝撃でも私の部屋まで轟音が響く、ベッドに寝ている時でも轟音がするというのはこういう仕組みというわけだ。玄関の扉を閉める度に轟音がする。これは慣れてしまえばなんということはないが、慣れるまでは非常に不愉快なものだ。なるほど、これが安い原因かと思っていたのだが、実は更に原因があった。私が引っ越したのは休日であったのですぐには気づかなかったのだが、平日になると車や人が行き交う音が相当煩い。冒頭に書いたように、私が住んでいるのは地価の高いところだ。一般的に地価が高いところというのは街の中でも比較的賑わっているところであることが多い。となると必然的に騒音も比例して大きくなるというものだ。窓を閉めてしまえば大分遮断されるのだが、それでも今の季節窓を閉め切るというのは自殺行為だ。これはまぁ学生時代に住んでいた家も学生ばかりが住んでおり、深夜までバカ騒ぎをする隣人や、出かける為に午前4時にバイクをふかす人もいたので我慢できるのだが、それでも静かな環境で、特に田舎で暮らしてきた人には耐え難いもののように思える。建築学的によろしくない作りと騒音がこの家が安い由縁だということを今更ながらに感じ出している。しかし事の真相が判明したところで、それも大した問題ではない。何故なら晴れて社会人になって家にいる時間も極端に減ったからだ。この物件の唯一無二の欠点さえ不愉快に感じなければ、最高の物件だと思う。今の立場だからいいものの、きっと学生時代に住んでいたら1年しないうちに引っ越していたかもしれない(笑)ちなみに、それに関連して…賃貸物件に敷金と礼金が家賃の2ヶ月分ざらにかかるのは京都だけだと聞いたのだが、本当だろうか?本当だとしたら、やはり京都は住むところではない(苦笑)以前に山梨の物件を見た時に格安だと思ったのは…私が相当「汚染」されているからなのかもしれない_| ̄|○
Jun 19, 2007
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先週のことだった。ちょうど仕事の合間に雑談する機会があって、会社の先輩とお話をすることがあった。新人社員が入ってくるとその会社に何故入ったのかとか、どういう趣味なのかとか根掘り葉掘り聞いてくる先輩というのはどこにでもいるものだ。私がいるところも例外なくいらっしゃって、文字通り1週間をかけて様々なことを聞かれた。私としても色々なことを話して自分を知ってもらおうという意欲はそれなりにあったので、聞かれたことには素直に答えていった。しかしその中で、話が恋愛のことになると…1つの質問に異常にひっかかってしまった。その質問というのは私が遊んでいるか遊んでいないかという話だった。勿論それはカラオケにいくとか映画にいくとか野球をするとかバスケをするとかいう類のものではなく、女性関係についてだった。つまりは合コンだとかアッチ系の遊び場に行ったことがあるかないかという話だったのだが、勿論私はそんな経験がなかった。そのことを先輩に話すと「若いうちは遊んでおかないとダメだぞ?」と言われてしまった。先輩の手前「そうですね、もっと遊んでおかないとダメですね~」と当たり障りない答えを返したのだが、心の中では腹が立っていた。何故遊んでおかないとダメなのだろうか?そんなことを経験しなくても大人にはなれるし、それをしておいたからといって有利に働くことがあるのかどうかと疑問に思ってしまう。私はそっちの遊びを達者にしている方ではない、しかし今の自分の人生に足りないものがあるとは思っていない。確かに女性の方と接する機会は人よりも少ないかもしれない、しかしだからと言って自分の今までの足跡を後悔したことはない。今のままの自分でも少しずつだが好きになりつつはあるし、それにその物事に全てをかけるにはあまりにも稚拙だと思うからだ。異性と常に接していないとダメというのはとてもプアーな考え方だと私は思う。まぁそれが大事だということもよくわかる、完全否定するつもりはないが、それを大切にしているということは…結局は異性関係に人生を費やしているということに繋がる。気持ちは口をついてでるということはよくある、それがたとえ無意識でも。私の友人でもそういう人がいる。異性と接していないとダメ、伴侶がいなくなってしまうと新しい伴侶を必死で探してしまう、そんな人だ。今の年齢で自分の地位を確立しているということは稀だ。自分で稼いで自分だけの力で生活していくということは自分の親が当たり前のようにしていることだからこそその難しさがぼやけて見えるかもしれないが、それでもその当事者となってみると…予想以上の難しさが見えてきて、当然の地盤を当然のように確立するのは至難の業だ。そう考えると、ある意味では自分の立ち位置を正確に把握しなくていい若いうちに遊んでおけということはわからないでもない。しかし私に言わせれば、若いからこそ自分の立ち位置をしっかり把握する必要があると思う。出逢いなんていうものは自分からがつがつと貪欲に探しにいくものではないというのが自論だ。何人と付き合ったとかどれだけ遊んだかを自慢するような大人には絶対になりたくない。それが人生の厚みを示すなんて…まっぴらだ。それも大事だが、もっと大切なものなど人生において山ほどあるはずなのだから。
Jun 18, 2007
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梅雨の晴れ間は貴重だ。いつもいつもじめじめしていて洗濯物が乾かないのがこの時期のストレスだ、それを考えると晴れ間というのは本当に貴重なものだ。しかもそれが休日となると、それは絶好の洗濯日和を意味する。そんなわけで今日は気持ちいい晴れだったので洗濯をした。会社に通いだして未だ研修中なのだが、それでも毎日スーツを着て出社していることには変わりはない。この時期仕方ないのかもしれないが、会社から帰ってくると部屋の中が暑くて暑くて仕方ない。なので今は帰ってくるなりお風呂に入ることにしている。それは私が患っている病気に関係していることだ。これは面白い話ではないし、私個人の病気の話なので気持ち悪いと思うかもしれない。そう思われた時点で読むのをやめていただいて結構だ。まだタイトルの内容は書いてはいないのだが、私自身そこまで重要だと思っていない節も…ままある(笑)私の病気は汗をかいてはいけない。それがすぐに皮膚に反応して炎症を起こす。それは体の見えない部分だけではなく、症状が酷くなった時には見える位置にもあらわれてくる。冬は乾燥、夏は汗と…私の一年は休まることを知らない。夏の症状はちょうど今の時期くらいからあらわれだして、放っておくと随分な状態になってしまう。なので夏場はシャワーを浴びる回数が冬に比べて格段に上がるというわけだ。はっきり言ってしまえば面倒な病気を患ってしまったと思うことの方が多い。この病気がなければどんなにいいかと思ったこともあった。この病気のせいで背中も炎症が進み海にも行けなくなってしまった。私としては一向に構わないのだが、周りの人に迷惑をかけるわけにはいかないからだ。しかし何の心境の変化か、昔は随分とそのせいで腹が立ったのだが、今はそうでもない。この病気を患っていることにも何か意味があるのかもしれない。まぁそれも含めて私を形作っているというような抽象的な感覚もなんとなく感じるようになってきた。外見が醜いからこそ中身を見てもらいたいという…まぁなんというか…深い意味での向上心だ(笑)では前置きが長くなったが、本題へ。これは以前に書いたのかどうかよく覚えていない。ログを見ればわかるのだが、しかしながらそれも結構な量になってきたので、全てに目を通すのが極端に面倒になってきたという原因もある。まぁ見れば済むだけの話だが…これを書いている時はインターネットに繋がってはいないので確認のしようもない。なので書いたかどうか懐疑的になりながら書くことにしよう。電車はいまやある地域を除いて普及している。バスほどではないにしても、それでも遠距離を移動する手法及び近距離を移動する手法として日本に留まらず世界レベルで広まっている文化だ。京都市内も例外ではなく…多くの電車が走り回っている。これは関西ローカルしかわからないかもしれないが、京都には大きなものとして・ 阪急電車・ 京阪電車・ 嵐電・ 地下鉄2本・ 近鉄・ JRぐらいが走っている。このうちメジャなものは阪急と京阪とJRくらいだろう。近鉄にかんしては名前に「近畿」と思いっきり入っているのでメジャではないとは思うが、それでも関西在住者にしてみたらかなりメジャなものだ。その他にも路線別にわければそれこそかなりの数になるのだが、元締的なニュアンスで言うのならばこのくらいの大別で間違ってはいないように思える。ちなみに嵐電というのは正式名称はわからないが、一応短い区間を走っている路面電車だ。名前を見てもわかるように、京都の名所である嵐山に向かう電車で、北野白梅町(でわかる方がいらっしゃったら凄いが)-嵐山間を走っている。昔アルバイトの関係で嵐電に乗ることも多かったのだが、この電車のホームがまた凄い。今まで多くの電車に乗ってきたのだが、運賃の払い方がわからない電車に乗ったのは初めてだった。もしかしたら自分が乗車しようとした駅だけがそうなのかと、乗りながら駅ごとに様子を見ていったのだが、悲しいことに全ての駅が同じクオリティに仕上がっていた。駅には申し訳程度の屋根とベンチが2つくらいしか置いていない。ホームのすぐ横に踏切があって、しかもそこには道路の都合上遮断機が付いていない。つまり道路を通行している人は電車が来るか来ないかをニュアンスで横断しなければならないという危険性を孕んだ乗り物だと言える。一方阪急電車というのは、京都と大阪を繋ぐもので、通勤ラッシュに用いられることが多い電車だ。そのせいもあってかどうかわからないが、電車の種類で「特急」と区分けされるものが兎に角多い。アルバイトの関係でよく阪急に乗ることがあったのだが、乗り慣れるまではJRの癖で普通料金で特急に乗ってはいけないのかと勝手に勘違いしていたものだった(苦笑)特急が来ても、乗るべきか乗らざるべきかを悩んでいた私はかなりイタイ子だったような気がする。JRに比べてお値段がお安いのが魅力だ。遠い区間になると、およそ1.8倍ほどJRの方が高いということもざらにある。それを思うと地方ローカル電車というのは庶民の味方だと思ったものだった。前置き2が随分と長くなってしまったのだが、今回の内容は先ほどあげた電車区分けにある「京阪電車」の途中の駅から分かれる…何線だったかよくは覚えていないが、もっともっとローカルな沿線にある電車の名前についてだ。その沿線は新幹線なんて勿論通っておらず、一番早いのが特急だった。そこの特急には名前がついていて、確か「織姫」といったような気がする。特急織姫というのはなかなかオシャレなものだ。熱海から東京へ行く快速電車にもそう言えば名前がついていた。確か快速ACTYだったと思うが。これはこれで中々素敵なものだ。阪急の「K特急」とは大違いだ。それにしてもK特急の「K」ってなんだろう?また話が脱線した_| ̄|○そしてその沿線には織姫と対を成す彦星という電車も存在している。名前だけを知っていたので時間帯をわけて名前を分けた特急が走っているのかと思いきや、路線図を見てびっくりしてしまった。なんと彦星は準急でした♪女性を優遇するような風潮がメジャになってくる中、結局のところ男尊女卑の精神が色濃く生き残っている中でこのネーミングセンスは素敵過ぎる。女性が特急、男性が準急…しかもローカルオブローカルの準急なんて普通と差を探すのが難しいくらい近似しているものだ。実質一番早いものと一番遅いものとが対になっているという秀逸さだ(笑)はっきり言って乗ることなんて考えられない区間を走っているので、一生乗ることはないのかもしれないが、それでもそのようなネーミングに裏づけされた内装であるとか、それに関係する内容が付記されているのかもしれないので1度くらいは乗ってみてもいいような興味も少しだがある。今のところ私が想定しているのは身延線のワンマンと特急の違いくらいに思っている。まぁこれもローカルな話なのだが(笑)というか関西在住で身延線を語るというのもきょうび私くらいだろう(笑)
Jun 17, 2007
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まだなんとなくお酒が残っているような気がする。朝起きてもふわふわしていて…どうにも気持ちがしゃっきりしない。しかしながら所謂「二日酔い」にはならなかった、何故だろう?そもそも二日酔いになるのはどんな時なのだろうか。一般的には飲みすぎた時だとされているが…そういう意味では前日の私は明らかに飲み過ぎていた。それにも関わらず二日酔いにならなかったということは…前日の私の飲みは私の肝機能やアルコール分解効率の観点から考えても限界まで飲んだわけではないのだろうか。二日酔いになる定義のようなものがあればわかりやすいのだが、これは風邪の引きやすさを定義づけるのと同じくらい一律にするのが難しいことだ。物に対する抵抗力というのは個々で全く異なるからだ。二日酔いをするという経験は今のところまだない。しかしどんなものなのか興味がある。今のところ私がなったことがなくて興味があるものがまた1つ増えたというわけだ。ちなみになったことがなくて興味があることに二日酔いが入るまではその総数は2つだった。骨折とは鼻血がそれだ。一般的には普通に経験することなのだが、私は幸か不幸か経験がない。経験者曰く骨折に至ってはかなりキツイということらしいが…どうにもピンと来ない。まぁよく考えてみれば、骨が折れることなく鼻血を出すことなく生きていくのが一番だ。インターネットは最早メディアの一角を担うものとしてあるのだが…タイトルにもあるようにそれを今人気のWiiにも搭載しようというCMがある。しかしそれを見ていて猛烈に不思議に思うことがある。今回のテーマはそこだ。そもそも何が問題なのか、それはWiiにインターネットが搭載されるということの詳細情報を見る為にはあるサイトにアクセスしないといけないのだ。インターネットはパソコンを持っていれば須らくできるものではなく、プロバイダとの契約が必要になる。最近ではゲーム機でもインターネットができる時代になったのだが、それにしたってデフォルトでインターネットができるわけでは決してない。テーマ的にはそこに焦点を当ててもいいのだが、まぁ今回は一番最近に出てきたのでWiiに焦点を当てたわけだ。インターネットがWiiでできるというCMを見ていると、Wiiにインターネットが搭載されると天気やニュースがリアルタイムで見られるという利点があるらしい。しかしよく考えてみると…別にWiiに繋げなくてもインターネットがあればリアルタイムの情報などいくらでも得ることができる。しかもその情報を見る為には「インターネットのサイトを見る」必要があるというのだ。これを本末転倒と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろうか?確かにWiiは持っているがパソコンは持っていないのでインターネットがしたくてWiiをインターネット対応にしたいと思う人もいるだろう。パソコンは普及しているとはいってもまだそれなりの値段がするし、パソコンを買う目的の多くはインターネットをするということを念頭に置いているということを考慮すると…Wiiの方がお財布的には優しいかもしれない。しかしもしもそのことを考えてWiiをインターネット対応にしているのなら、その情報をどうしてインターネットのサイト上でしか見られないようにしたのだろうか?ゲームを打っている店頭にパンフレットを置いたりした方が確かに設備投資はかかるかもしれないが、効率的に思うのだが…そういうものではないのだろうか?どうにも大手企業の戦略がわからない凡人の私だ_| ̄|○
Jun 16, 2007
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1週間の研修がようやく終了した。考えてみれば研修らしい研修は入社して2週間目にしてようやく行われたような気がする。それだけ主任以上のクラスの方を教育係にまわすだけの人的余裕がないということなのだろう。それは人材的な困窮を意味するが、逆を返せばその穴を埋めるという役目を私に期待しているという意味でもある。そのように期待されてしまうとどうしても頑張りたいと思うのが私だ。自分のすることで他人が喜んでくれる、それがとても嬉しい。期待されるということは私にとってこれ以上ないほどの待遇だと言える。それというのも今までのアルバイトではずさんな扱いを受けていたというのも原因かもしれない。いて当たり前、個々の力に期待しない、そんな環境で殺伐と生きてきたからこそ余計に期待されるということに喜びを感じる。まぁ本筋とは関係ないのでここらで割愛して…私はいつもお昼を1人で食べている。それは別に1人が好きだというわけではなく、単に休憩時間に総務の方々が大勢部屋にいらっしゃるという雰囲気に馴染めないからだった。どうも自分以外が全て女性だという雰囲気が日常ではない以上、お昼の時間くらいは1人で過ごそうと決めていた。それに総務の方々にしてみても、きっと女性ばかりいる中に1人だけ男がいるというのもあまり気持ちのいいものではないはずだ。場の雰囲気を一番に考える私としては、やはり身を隠すのが一番だと思うわけだ。そのような考え方からわかるように…未だ総務の方々との間に良好な関係は築けていないような気がする。いつも仲良くしたいとは思っているのだが、どうも機会がない。出会いに関して機会がないというのは言い訳であるように、それが出来ないでいるのは結局は自分のせいである。それがわかっていながらも…どうしてもまだ女性に自分から声をかけることが出来ずにいる臆病な私だ。しかしながら絶好の機会が巡ってきた。総務の方々が一斉に退職することが決まったのだ。この退職には私が知りえない、否知っているのだが活字にしたくないような様々な事情が渦巻いている。それはある意味では社会の負の部分であり…そして悲しきかなどこにでも存在するものでもある。そんなもの無くなればいいと総務の方々が退職なさる時には本気で思ったものだが、それを無くすことは世界から二酸化炭素を無くすくらい難しくて途方も無いことなのかもしれない。まぁそれに関しては私情を述べたところで現状は何も変わらない。それならばせめて気持ちよく送り出してあげよう、それが会社の役職の方々の総意だったようだった。そんなわけで盛大に送別会(歓迎会含む)を開催することになった。その計画は前々から、それこそ私が在籍していた頃からあったのだが、総務の方々に事前に知らせてしまってはサプライズがない。なので直前まで内密にことを運ぶということになった。今になって思えば、まことこの会社の方々は家族精神の強い方ばかりだ。去り行く社員を気持ちよく、入ってくる社員も気持ちよく、それがモットーなようだ。そして今日がその送別会(歓迎会含む)だった。仕事の期間中もそのことが楽しみで、あまり仕事にも集中できなかった。しかしながら私がしている仕事というのは、会社の運営には1μも関係ないので、浮かれていても放置されていたのだが(笑)話は少しずれるが、私の配属先が決まった。それが来週からなのだが、今本社に通っている方々とも今日でお別れということになった。なので今本社勤務の部署の中の一番偉い方である高橋さん(仮名)が私の送迎会を行ってくれた。とは言ってもその部署の方々とお昼をご一緒するというこじんまりしたものだったのだが、今までにそんなようなものをしていただいたことが無かったので感動した。やはり仕事はアルバイトとは違うということをこの部分でも感じたものだった。同席したのはS課の高橋さん(仮名)をはじめ、中井さん(仮名)、井上さん(仮名)、真山さん(仮名)と私の5名だった。5人で連れ立ってラーメンを食べに行った。そこは京都でも有数の名店で、味もさることながら、私なんかを気持ちよく送り出す為にこのような会を催してくれた高橋さんの厚意に感激した。食べたラーメンはいつもよりも美味しかった♪ここで少し話が脱線するが、私が本社勤務の時期と時を同じくして本社勤務になったS課は会社にとってもとても特殊なもので…はっきり言ってしまえばエリート集団だ。しかし偉いにも関わらず皆さんがとても気さくで…すぐに馴染めた。課が違うので邂逅も刹那なのだが、しかしながら配属先が決まるまでの1週間、とても楽しく過ごせた。主任の高橋さんはとても気さくで…新人の私にもとても優しくしてくれてすごくいい人だった。仕事のノウハウもしっかり教えてくださって感謝の気持ちでいっぱいだ。中井さんは優しいお兄さんという感じで、それでいて話を私のレベルに合わせてくれるという優しさも持っていらっしゃるナイスガイだ。仕事をしている姿がカッコよくて憧れた。井上さんはスレンダーで長身でスーツのとても似合う美人さんだ。仕事もバリバリこなしながらも私ににこやかに話しかけてくださるので、私だけが黙っている時間はほとんどなかった。真山さんはこの課のエースでいらっしゃるようで…知識もスキルも素晴らしいものだった。私が見てもちんぷんかんぷんで詳細は全くわからないのだが、それでも圧倒的に凄いことをしているのは一目瞭然だった。それだけではなく喋りが秀逸で…その方が喋れば私はいつも笑っていた。仕事も出来るしトークも凄い、はっきり言って完璧な人だと感心したものだった。真山さんには多くのことを教えていただいた。仕事場でうまく立ち回る方法も真山さんに教えていただいた。感謝してもし足りないくらいだ。そんな優しい方々と研修をしていた。そして今日、その方々と一緒に送別会(歓迎会含む)に出かけることになった。その方々とお酒を交えて話してみたいというのが一番にあった。仕事も終わり、送迎会(歓迎会含む)の会場に向かった。見たこともない方々が多く集まる中、果たして上手く話せるだろうかと不安になっていたのだが、緊張していたのは最初だけだった。他の課の方々皆さんにビールを注ぎながら自己紹介をしていて…気づいたらもう色んな席についてトークをしていた。話も盛り上がると共に進むアルコール、先輩の方々に注いでいただく度に雰囲気を壊すのも嫌なので飲み干す私…。はい、結局潰れちゃいました_| ̄|○思えば人生の中で一番飲んだかもしれない。はっきり言ってこれを書いている今でも何杯飲んだのか思い出せない。確実にピッチャー1杯くらいは飲んだと思う。ザルな方からすれば大したことはないと思うかもしれないが、私は缶酎ハイ1本で顔が真っ赤になってしまうくらいに弱いのだ。そんな私がピッチャー1杯飲むとなると相当なものだ。それほどまでに楽しくて楽しくて…こんなに楽しかったのも久しぶりなような気がする。しかしながら結局潰れてしまったので…最終的にはトイレの住人となってしまった。今となっては二次会を蹴って私を家まで送ってくださった先輩方に迷惑をかけてしまったことをもの凄く反省している。飲まないことも空気を壊すが、飲み過ぎて潰れてしまうのも空気を壊すということを中井さんからのメールで痛感した今日この頃だった。しかしながら不謹慎かもしれないが…なんとなくそんな感じが社会人になったと強く感じた出来事だった。これからは宴会にも強くなろうと帰りのタクシーの中で心に誓った。それにしても楽しかった。S課の方にはもう会うことはないかもしれないが…私にとって初めてお会いしたデキル方々でそして気さくな方々で…研修期間の最高の思い出になった。総務の方々とも仲良くなったのだが、もう退職されるのが残念でならない。会社機関の上層部はともかく、役職の方々、主任の方々、リーダーの方々、全ての方がいい人で、そんな会社に入れた私は幸せかもしれない。来週から頑張ろうと誓った出来事だった。
Jun 15, 2007
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今日の午前11時をもって京都市内は梅雨入りを迎えた。例年に比べると1週間ほど遅いらしいが、そう言われても去年の梅雨入りの時期なんて気象関係の仕事に携わっていないとチェックしている人なんていないだろう。どちらにしても日本の歴史が始まって以来欠かさず訪れるのが梅雨だ、それを考えると多少時期がずれようとずれまいとマクロ的には影響はないように思える。梅雨になれば須らく雨は降るのだ、渇水でもこの時期に取り返すという意味では待ちに待った梅雨入りかもしれないが、それ以外で喜んでいる人は…ごくごく稀だろうと思われる。私にしてみれば職場に配属されるのがもうすぐなわけで…それを思うと通勤の煩わしさが1つ増えたという程度にしか認識していない。実家の方では田植えも終わって、ここからが厄介な時期なのだろうと想いを馳せるも、生憎と他のことに気を揉む暇などない今日この頃だ。まずは仕事が1番なのだから。それに関連したのが今日の内容だ。はっきり言ってこれは私1人の仕事の報告で済む問題ではない。まぁ悲しきかなどこにでもあることで…そして社会全体にしてみれば大きな問題なのかもしれない。幸いにして私はまだ当事者ではないのであまり深くは考えなかったのだが、来月には私も同じことを考えているかもしれない。そう思うと完全な他人事ではないので気を引き締めたものだった。しかしながらこのことは非常にナイーブで…且つ前述したように大きな問題であるので、具体的なことは敢えて書かず抽象的な言い方でお茶を濁そうと思う。それほどまでに怖くて…大きなことなのだ。今日の仕事終わり30分前、私以外の全ての社員がある一箇所に呼ばれた。厳密には私と同期の2名は呼ばれていないのだが、なんとなくそれだけで危機感を感じた。基本的に私の在籍している会社は小さなビルに本社を設けているところで…働くフロアは2階層にわかれている。事務関係が固まっている階層と、他の部署…そこには決まった部署があるわけではないのだが、その時本社勤務になっている部署が活動する階層の2つにわかれている。私が今のところ在籍しているのは後者の部署で、時間帯も時間帯なこともあって総務も業務終了しており実質残っているのは私達のフロアにいる人間だけとなっていた。そんな中私以外の全員が召集をかけられた。これは何かあったと思うのが普通だろう。一般的に問題を起こしてしまったらその当事者のみが呼ばれ、それに関係していない人達には内密にことが運ぶことが多い。しかしながら逆に1人だけ残されるというのも不安だ。いい話であれ悪い話であれ自分だけが知らないのだ。この状況が非常に不安を煽った。早く帰ってきて~と思いながらずっと待っていた。しばらくすると全員が帰ってきた。全員が一様にあるものを持っていた。それは今の私には関係ないもので…それでいて非常に重要なものだ。そこからがフロア全体を覆う殺伐とした空気の始まりだった。聞いてはいたものの、非常に怖い。何が怖いかと聞かれれば、今ならこう答えるだろう。力…と。まこと力というものは高いところから低いところへと影響を及ぼすものだ。強い者から無条件に与えられる「力」というものは拒否を許さない。ある意味それは素手でのび太君がジャイアンに挑むような…無謀な物事を意味している。その力に抗うだけのものは誰一人持っておらず如何に個々の力が矮小であるかを思い知る。素手でジャイアンに勝つために、のび太がすべきこと…それには力を真正面に受け止めずいなし且つその物事から逃げない為の結束力が必要になる。力を持ってして力を押しつぶすことも可能ではあるが、それでは根本的な解決にはならない。憎しみが憎しみを新たに生むだけだ。のび太はスネ夫と協力すればジャイアンだって怖くないだろう。それぞれが別々の思想で生きているから協力しないのだ、同じ志を持てば力に挑むのは結束しかないということに気づくはずだ。こんな言い方しか出来ないが、賢明な方ならなんのことを言っているのかわかっていると思われる。私だってまだ社会で生きていきたいので…こんな書き方でもここに書けたことを直接書けないジレンマの捌け口にした感は否めない。もしかしたら今現在力に捻じ伏せられている人もいるかもしれない。もしもそんな方がこれを見たら…まぁ共に頑張りましょうとしか言えない_| ̄|○
Jun 14, 2007
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目覚まし時計の音が煩くていつも無意識ながらに枕の下に携帯電話を隠そうとする。いつも携帯電話のアラーム機能を目覚まし代わりにしているのだが、これがまた音量設定が出来て非常に使い勝手がいい。余談だが、携帯電話のアラームで目覚めるのは風水学上よろしくないということらしい。運勢的なことはよくはわからないのだが、取り敢えずダメなようだ。風水学には詳しくないし、格段重要だとも思っていないので特に気にしないで毎朝携帯電話のアラームで起きている。もしも風水学の運勢的に良い方向性を念頭において生活するなら、ワンルームに暮らしている人は必然的に運勢が悪いということになる。何故なら、寝ているところから台所が見えるのは運勢的によろしくないらしいからだ。確かにワンルームでも故意に台所を向かないように寝ることは可能かもしれないが、それが運勢にどう影響してくるのかはわからないし、そんな些末なことで運勢が悪くなるのなら現代には向いていない易学だと思う。それが私が風水に重きを置いていない理由だ。しかしながら別に風水を否定するつもりはない。信じるも信じないも個人の自由だからだ。子どもがおもちゃを飲み込んで窒息状態になってしまい病院に運ばれるという事件が多く報道された時期があった。よく考えてみればその時期以降に子どもの口に入る可能性のあるものに対して食べ物以外の全てのものを対象に規制が強まったような気がする。げんにお菓子の乾燥剤に始まり、全ての食べられないものには「食べられません!」という表示がされるようになっているように思う。それは安全上やむをえない措置であり、子どものいない大人からしてみれば「こんなもの食べるわけないだろう」という考えを、そして小さな子どものいる大人には「そうするのが当たり前だ」という風潮が強まってきたような気がする。考え方に若干の誤差があるかもしれないが、概ねこのくらいの考え方で間違いはないだろう。私のいる会社にもそのように表記されたものがあった。それが子ども用なのかどうかはわからないが、会社が子どもの出入りするところではない以上はやむなく表記されたもののような気がする。そのものというのがトイレの芳香剤だったのだが、確かに口に入れようと思えば入れられるくらいのサイズだった。しかしよく考えてみると、そのような当たり前の表記でも矛盾を感じることがある。物が食べられるか否かは別にしても、何でもかんでも口に入れてしまう年齢というのはおよそ3歳くらいまでのような気がする。その部分には若干年齢の差異があるにせよ、大体平均としてそれくらいなような気がする。そのような幼児と呼ばれる子どもが「食べられません!」という文字が読めるだろうか?漢字を理解できるというその世代の子どももいないではないにせよ、圧倒的に読めない層の方が多いように思える。なのでこのことから導き出せる答えは…食べてはいけないという漢字が読めるくらいなら食べないでしょ…ということだ。最近子どもを対象にしてどんどん安全化が図られているのでそのようなものにしたのかもしれないが、それにしてももっと合理的な考え方があったのではないかと思えて仕方ない。まぁしかしそれ以外に方法があるのかと問われると困るのだが…それにしても「やった」という満足のみでそれ以上の策を講じないのはどうだろうか。
Jun 13, 2007
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仕事終わり、ふと家の周りを歩いてみる。考えてみれば忙しない引越しをしてすぐにそのまま仕事に入ったので家の周りに何があるのかわからないままでいた。仕事を始めてから1週間、わからないことだらけであくせくしていて…心に何も余裕はなかった。ただ会社に通って仕事をしてそして寝るだけの1週間だったように今となっては思える。そんな中でも少しの時間が経てば心にも余裕が出てくるようで、今回の散策はそんなふとした思い付きからだった。スーツに革靴、鞄を持ったままの散策、出かけるには洒落ていない格好かもしれない。でも「思い立ったら吉日」がモットーの私としては家に帰ってから着替えてまた出直すというのが酷く億劫に思えた。歩いてみるとやはりというか、予想していた通り何もないばかりの町で便利という言葉からはかけ離れた街並みだった。京都市内の中心と言えばそれなりに都会チックなイメージがあるかもしれないが、それでも私の家の周りにおいてはそんな流れは皆無だった。ちっちゃくせせこましく乱立する家、それは一目には窮屈で息苦しい家のように思える。しかしせせこましくも乱立する建物の多くは昔ながらの長屋で、家の趣きも趣味のいいものだった。まぁ趣きがいいというのは私個人の意見であって…見る人が見れば気持ちのいいものではないかもしれない。昔から京都で過ごし、寺院・仏閣に興味がある私ならではの年齢不相応のリアクションかもしれない。一通り歩き回った挙句に、結局ただ歩いただけで家に帰りついた。スーツを脱いで私服に着替える前にお風呂に入った。最近は暑くて暑くて仕方ないのだが、私は新人なのでクールビズも対象外というわけだ。今後も暑苦しいスーツを完全装備で会社に通わなければならないので…スーツが汗を吸い込んでえらいことになりそうな懸念もある。今度の休みにクリーニングに出してあげよう、きっとスーツだって休みたいはずだ。私と同じで社会人1年生なので…緊張しているかもしれない(笑)帰りしなになんとなく気分で買ってきた惣菜を食べながら最近導入されたばかりのテレビを観ていた。でも私の生活にテレビはそう必要なものとも感じない。なんだろう、昔はテレビっ子だったのに…今はなければ困るものでもないような気がする。友人に触発されて付けてみたものの、やはり今の私には必要ないように思える。その後遠くに住んでいる友人と電話で話した。話では今度ライヴをするらしい。なので私にも来て欲しいというお願いの電話だった。それ以外においても結構久しぶりに話したので話題も尽きず盛り上がった。友人は様々な事情で私が就職したことを知らなかったので、このさい報告したら自分のことのように喜んでくれた。ライヴには仕事の関係で行けるか行けないかわからないが、行ければ是非に行きたい。学生の頃の私ならば即答していたのだが…行けるか行けないかわからないのが心苦しい。しかしながら不謹慎かもしれないが、そのような「予定が未定」という状況が嬉しくも思えた。なんとなく自分の時間が流れているのだと認識したからだった。暇ばかりを持て余していた頃の私より、少しだけでも大人な私がそこにいた。ご飯も終わって火照った体を冷ます為にベランダに出た。涼しい風が吹いている。2階から見える風景もごみごみした街並みが邪魔をして星がよく見えない。田舎にいた頃は満天の星空がよく見えたものだった。田舎育ちの私としては星が綺麗に見えない風景というのは少しばかり残念なのだが、こうやって自分の中の当たり前を切り捨てるのが大人になることなのかもしれないと思う。階下には仲の良さそうなカップルや家路を急ぐサラリーマンが忙しなく歩いている。仲のいいカップルというのはよく見かけるが…心に余裕のない頃の私はそれが酷く羨ましく思えたものだった。誰かが傍にいないと寂しくて死んでしまいそうになる、それが本来の私だった。しかし今ではそのような光景を微笑ましく見ることが出来る。自分の中でどんな心境の変化があったのかはわからないが、何かすっきりとした整理されたような気分だ。勿論彼女が欲しくないわけではない。昔ほど欲しくて欲しくて仕方ないということがなくなったという意味なだけだ。これだけ素直になっているのも珍しいかもしれない。会社に通って帰ってきてご飯を食べてすぐ寝て…そして朝起きてまた会社に行く。そんなサイクルで生きている私だが、そこまで悪いようには思えない。昔の私は忙しいことを何より嫌った。しかし今、これだけ落ち着いている。大きなくしゃみが出てしまった。隣の部屋の人に聞こえたかもしれない。そんな些細なことを気にしている自分にちょっとだけ笑ってしまった。それが何故かツボに嵌って、しばらく1人で笑いを噛み殺していた。こんなことで笑ってしまうなんて関西人失格かもしれない(笑)明日は得意先の課長と営業部長との面接の予定が入っている。今日も早く寝ることにしよう。ロマンスもサプライズもエキサイティングもないのだが、こんなことで終わっていく1日にさほどの不満もない私は…今満たされているのかもしれない。これが小さな幸せなんだろう。
Jun 12, 2007
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ずっと1人で家に籠もっていたので久しぶりに外の空気が吸いたくなった。確かに毎朝出かける時には外の空気を吸っているのだが、それはあくまでウィークディのことであって、休みの日にはまた別の話だ。今週は諸事情があって休みが1日だけになってしまったのだが、それでも久々の休みを満喫したいと思ったものだった。フリーターの頃は毎日が休みのようなもので休みのありがたさがわかりにくくなっていたのだが、こうして休みが定期的にしか訪れないような境遇になってしまうと…改めてその良さがわかるというものだ。京都市内を去ってしばらくだったのだが、結局京都市内に残ることを決めた友人と久々に会ってみようと思った。性格の不一致上そこまで会いたいと思っているわけでもなかったのだが、なんとなく気の迷いで送ってしまったメールに見事食いつかれた悲しい結果だと言える。一度言い出したことを引っ込めるほど優柔不断ではないつもりなので、結局会うことになった。約束の時間になり、何ヶ月かぶりに会ったのだが、彼はやはり何も変わってはいなかった、見かけも性格も。私は時々何故この友人と友人でいるのかを不思議に思うことがある。自分で言うのも難だが、私と彼は圧倒的に違う人種だ。それは観念的なものであり…そして決定的なものでもある。私は自分自身で判断した性格が自分の全てではないとは思うが、それにしても彼ほど損得勘定で生きているつもりはない。この行動における自分の利益は…と考える人生ほどつまらないものはないと彼を見ていていつも思う。そのような考え方はあくまで私の想像であって彼の外見と本質とはまた違うものであるのかと以前は思っていた。しかし私が彼に以前問うた質問で彼の本質が見えてきた。それがまた彼を遠ざける要因になったのかもしれない。実際自分の進退を決定付けた実家への帰省のことを今の段階でも彼はまだ知らない。私が問うた質問というのはこうだ。ちなみに彼には随分前から彼女がいて…それに関する内容だということは予め付記しておく。私は彼がお金に関してシビアだということはわかっていた。彼が友人に何かを奢るということは非常に珍しく、逆に不気味に思えるほどだった。その裏に何かあるのではないかと疑心暗鬼に陥ってしまうほどの衝撃的な事件だと言える。そんな彼は彼女と一体どんな風なデートをしているのか…それが気になって、敢えてそこに切り込んでみた。もしも彼が私達男友達と同じような扱いを彼女にしているとしたら…結構なレベルで彼女がかわいそうだと思ったからだ。私だって出来れば他人のプライベートには足を踏み入れたくはないが、これは長年の謎、はっきり言って不思議で不思議で仕方のないことだった。この時私はある意味禁忌を犯してしまったのかもしれない(笑)だがしかし…興味という名の誘惑を断ち切れず私は聞いてみた。私「彼女とのデートの時はどっちがお金持ってるの?」彼「自分だな」ふむ、ここは男らしいということか。まぁ払うから男らしい、払わないから男らしくないというのは少し違うような気もするが…まぁ次だ。私「じゃあクリスマスとかイベント毎にはプレゼントあげてる?」彼「あげてるよ」ほほぅ、これはナイスだ。もしかしたら彼がお金にシビアだというのは杞憂だったのかもしれない。私が知らないだけで彼はまともな性格なのかもしれないと思いながら次へ。私「大体そういう時っていくらくらいのものをあげてるの?」彼「大体1万円くらいかな」これもかなり優秀な方だ。というよりもここまで聞いて私は彼の像を数年ぶりに修正しようとしていた。お金にシビアなのは私に対してだけで…他の友人にとっては普通なのだろうと自分の先走りに反省しつつ一応最期の質問をしてみた。私「じゃあ(自分以外の)男友達にもそんな風に奢ってる」彼「ありえん」………ええっ!!!やっぱり彼は私が思っていたままの性格だった。彼女に対してはプレゼントを定期的にあげることで自分と恋人関係でいてくれるという「打算」でお金に糸目をつけないようにしており、男友達には奢っても何も「メリット」がないので奢らない、彼の答えからは自然にそのような考え方が浮き彫りになってきた。結局彼は損得勘定で生きている人格なのだ。わかってはいたのだが…改めてわかると少しブルーになったものだった。私はそんなこんなで損得勘定を度外視した付き合いをしているような気がする。こんな友人でも友人として何年も付き合っているのが明白な証拠だと言える。もしも私に彼のような損得勘定があったならば、すぐにでも切り捨ててしまって差し支えないように思える。まぁこんな友人でも友人の1人には違いないと家でくつろいでいる友人を見てふと思った。京都市内に住んでいる友人ももう彼だけになってしまった。会社での歓迎会や送迎会も多いので彼と遊ぶ機会も少なくなってくるような気もするし…私は社会人、彼はフリーターという少しのタイミングの差も生じていることだ、また今度にでもラーメンでも奢ってあげるとしよう。ラーメン一杯で凄まじく喜んでくれるので…それが彼が友人たる所以かもしれないと今更ながら思った。やっぱり人が喜んでくれるのは嬉しい♪況や寝転がりながら「ココア飲みたいなぁ~」と暗に要求している友人でも…だ(笑)
Jun 11, 2007
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変な夢を見た。この夢は今までに見た夢とは少し違うような…そんな感じだった。目が覚めてしばらくも自分がどうしてここにいるのかわからないといった具合になって、少しだけ現実離れしていたかもしれないと思ってしまった。まぁそれにしてももう過去のことだ、たかだか夢くらいでテンパったりはしないし、気持ちをぶり返させるわけにもいかない。夢というのはその願望があるから見るわけではないということは既知の事実であるし、欲望がそのまま夢になるのかと言えばそれはありえない。夢占いという概念があるように、夢にはそのものを見る精神状態というものが大きく関係している。例えば何かに追いかけられる夢であるとか、体の各所が何度も出てくる夢だったりであるとかであったとしても、メイン的に見る夢がどのようなものかでその意味は変わってくる。夢を見ないようにすることは出来ない。自分にとって都合の悪い夢を見ないように出来る機械があればかなり需要も得られるような気もするが、人間の脳に関することはまだわかっていないことも多いので、難しいだろう。しかしもしもそんな機械が出来れば一番に買うかもしれない(笑)自分自身で足りない部分を把握するということはとても大切なことだ。その部分を補うも放っておくも自分自身であることを考えると、足りない部分を補おうとすることは自分の中で改革が起きないと不可能だと思われる。私が足りないと思っているのは思いやりの心だ。人のことを本当に思っているのならその人の為に厳しいことでも言ってあげないといけないのだが、どうにもそれが出来ないような意気地なしなように思える。あの人のここはいいんだけどここがいけないんだよなぁと心の中では思っているものの、キツイことを言ってしまえば自分が恨まれるのではないかと怯えてしまって結局言えないままになってしまうことが多い。よく考えてみれば私を取り巻く人は私にそこまでいいイメージを抱いていないだろう、冷静に考えれば本当のことを言うくらいで失う信頼感なんてないのかもしれない。本当のことを言わないよりも言った方がいいに決まっている。而して指摘は押し付けを孕むこともある。自分はこうした方がいいと思うことを指摘するのは自分の思想を押し付ける形になってしまう可能性がある。一般的にシチュエーションにおける立ち振る舞いの教科書があるわけではないし、それがもしもあったとしてもそれは文字通り「教科書どおりの対応しか出来ない人間」だと思われてしまうことを意味している。自分自身がいいと思ったことをアドバイスレベルで言うのが一番いいということだろう。それが言うべき相手に感謝されるか否か…それは今はわからないことなのかもしれない。効果は徐々にが世の常だからだ。思えば最近こんなことばかり書いているような気がする。だからなんだと言われてしまうと非常に困るのだが…もともと論理的というよりも感性的に生きているので、こういうことをよく考えてしまうという私だ。ちなみに…この内容を考えて文章化する為に構想を練っている間中、アパートの下に黒塗りのベンツがずっと停車していた。どこの誰のものだかわからないが…なんとなく怖い(笑)
Jun 10, 2007
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なんとか一週間を過ごすことが出来た。この1週間でしたことと言えば雑用くらいしかないものの、自分は新人で何もかもの雑用をやらなければならないという緊張感、そしてアルバイトの時には感じることのなかった責任の付随ですっかり疲れてしまった。しかしまだ休むことは出来ない。それは月例ミーティングがあるからだ。私は一応仕事にはまだ従事していないものの、それでも仕事上のミーティングがどんなものなのかを理解しておく必要があった。先輩の優しさなのかどうかはわからないが、取り敢えずは休日返上で出席することにした。よく考えてみれば仕事が本格的に始まればもっと疲れてしまって月例ミーティングにも参加することが困難になるかもしれない。そういう意味では今のうちにどのようなものであるのか知っておくのも悪くない。勿論これは後付けの概念であるが…(笑)前にも書いたかもしれないが、私が今勤めている本社にはあまり部署が置かれていない。多くの部署が存在していることはわかってはいるのだが、それが本社で機能するということはなく得意先の会社に一時的にだが置かれているというのが現状だ。なので各部署はいつも本部がどこにあるのかわからない状態で、一応の認識の方法としては会社で一番立場的に偉い人が在籍している会社の部署が事実上のその部署の本部ということになる。会社の得意先の全てを把握している人がいないように…私もまた全ての部署の本部が置かれているところを理解しているわけではない。なので私が今一番接する部署は私の業務からは一番遠いかもしれない総務ということになる。なんとなくおかしいような気もするのだが、私は今総務の管理下に置かれているということだ。本社に部署がないということはデスクもないということだ。そうなると本社のスケールも必然的に省スペース化になる。ある意味部署が散っていることは固定資産税の免税対象を見越した処理なのかもしれない。なかなか憎い知恵だと言えるかもしれない(笑)ミーティングをするということは全ての部署の偉い人が集まるということだ。一度も見たことがないのでその辺りも若干興味があり、そして自分の置かれる課の主任を見ておくという任務でミーティングに参加した。しかし参加してみてわかったのだが、ミーティングでも全ての人が集まるわけではないらしい。それは役に立つ人ほど休日出勤のニーズが高くなってしまう、或いは平日に有給消化した社員が休日に詰めるという作業のせいもあって、出られる人だけが出るという有志的な扱いになっているようだった。幸いにして私の課の偉い人には会うことができ、顔を覚えてもらうことは出来たのだが、それにしても未だ謎の部署も多く存在している。忙しいということはそれだけ会社にとって大きな意味を成しているところということだ、会えなかったのは残念だったが、それでも会社の方針の見直しと同じ課の方々を紹介していただいたことは私にとって大きかった。課別の報告が済みそうになった時に、何故か舞台に私が呼ばれた。何を話すべきなのかわからないでいると、私の課の主任が「今期から我が課に配属になったきょう君です。何か挨拶して?」とおっしゃられたので多くの人に見つめられながら挨拶した。内容に関してはとても固くて面白みの欠片もないものになったが、なんとなく歓迎されているような感じだったので良しとしよう。何故こんな稚拙な挨拶で拍手喝采で歓迎されたのか…それはしばらくしてからわかることになるのだが、まぁこの時の段階ではまだわからなかったので…別の機会にでも書き連ねていくとしよう(苦笑)
Jun 9, 2007
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月が綺麗だ。あれから随分時が経ったけど外に見える月だけはあの時と変わらないなんて情けないなんて女々しいそれでも今はあの頃より大人になったんじゃないかな?あの時薄暗い部屋で僕の蒼と君の紅が約束を交わしたその約束はもう反古されたのかもしれないけど僕の胸ではまだ輝いている刹那の邂逅その後はいつも短いケーブルで繋がっていた拙い恋今はもうなくなったのかもしれないその絆それでも僕は君を想うだって君は僕にとっての…
Jun 8, 2007
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いつかは君に認めてもらえる日は来るのかな?いつかは君が特別なんだよって言える日が来るのかな?いつかはくるくる回りながら楽しそうに先を歩く君に追いつけるのかな?いつだっていつだって僕といる時は笑ってる君「またすぐに会おうね」ってもうあれから半年が経ったけど出会った頃から君は何にも変わっちゃいないやっぱりいつも笑ってる
Jun 8, 2007
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信号待ちが異常に長い。ローカルトークで申し訳ないのだが、これはかなり不満に思っていることなのでこんな小さな場所で文句を言わせてもらう。こういう形でしか文句が言えないところが私らしい(笑)いつもいつも思う、堀川通りと烏丸通りの間、特に御池両替町通りの信号は長すぎる。家から歩いて順調に会社に向かっているのに、御池通りを基点にして堀川通りから烏丸通りにかけての細かい通りの信号が長すぎるのだ。京都市内の道は他県の道と違って圧倒的に一方通行の数が多いところだ。その関係上全ての細かい通りに歩行者用の信号が付いているわけではない。1本目の通りに信号があれば2本目の通りには信号がないといったような一つおきに信号が配置されているような仕組みになっている。だからこそ余計にスムーズに歩いていて信号に引っかかるとイライラするというものだ。しかも朝のラッシュ時で人が多いところでの長い信号待ち…もう地団駄踏むとはまさにこのことかもしれない。そもそも京都は車社会ではないはずなので、車を優遇するような信号の数はやめて欲しいものだ。しかし私が車で京都市内を移動することがあれば、車をないがしろにした道路事情に憤りを感じるような気がする。そう考えると、まこと人とは身勝手な生き物だと思えて仕方ない。ここのところ本社勤務が続いている。今日は仕事に関する内容だ。正直な話、私が今現在している仕事は本来私がするべき仕事ではない。それは私がまだ仕事に従事していない素人だからだということに起因している。本来やるべき仕事をやる為にはまずは研修を受けなければならない。しかし様々な要因が関係してその研修が滞ってしまっているのだ。先延ばし先延ばしになった結果、未だ実践登用されるまでに至らず本社で雑用の毎日が続いている。しかしただ雑用をしているわけではなく、PCの移動や部屋のレイアウトの変更、契約書面の確認の合間にこつこつと勉強をしている。それもただただ意味もない勉強をしているわけではなく、業務内容に関係した資格の勉強に邁進しているわけだ。しかし業務時間が休憩含みの9時間あるのだが、その時間いっぱいに勉強するというのもしんどいものだ。どこかで憩いが欲しいと思っていたのだが、身近なところに憩いが待っていた。私の会社は規模としては大きいのだが、本社の大きさは企業の大きさを反映したものではなく、こじんまりしているものだった。多くの機関があるにも関わらず、その部署が大々的に区画整理されているのかと言えばそうではなく、本社にあるのは総務だけとなっている。総務と言えば事務関係の部署で、当然ながら仕事に従事しているのは女性であることが多い。諸々の理由があって今期から総務を一新するということで、今現在は新人の総務が仕事の引継ぎを行っている。私が本社勤務をしているということで…休憩時間には私と総務の女性が同じ部屋で休憩することになる。そんな折、1人の総務の女の子から声をかけられた。他愛のない話を軽くしたくらいなのだが、それでも窮屈な勉強を長くしている状態の私には嬉しい出来事だった。その日からというもの、お昼休みにその女の子と話すことが唯一の楽しみになっていた。その女の子も私と同じ22歳で、しかも話を聞いているぶんには今までかなり箱入りな人生を送ってきているようだった。一人暮らしに憧れていること、料理があまり得意ではないこと、今までの仕事のこと、様々なことを話した。私としても今までのアルバイトで女の子が一緒だった職場はなかったので、華がある職場というものに聊か感動したものだった。たったそれだけなのにお昼からの勉強にもやる気が出るから不思議だ。超単純な性格なのかもしれない(笑)まぁそんなこんなで勉強をして定時に上がるのが今のところの私の仕事であり日常だ。ある意味では専門学校かそこらと変わりないようにも思えるが…得意先の社長さんや専務がちょくちょくいらっしゃるのでそうそう気を抜いてもいられないというものだ。本格的な仕事が始まるまではまだしばらくはこの体制が続きそうだ。まだ仕事をしているという実感はないのだが、それでもこれで給料を貰っているのでしっかりやらねばならない。本格的な仕事の報告ができるのは…もう少し先になりそうだ(笑)
Jun 7, 2007
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最近雨が降ることが多くなってきた。じめじめする季節というのはそれだけで気分が滅入るようになってくる。洗濯物が乾かなくなるというだけではなく、窓を閉め切っていることで部屋の中の空気まで悪くなってしまう。梅雨の時期の洗濯物の干し方にはいつも頭を悩ませることになる。部屋に干すと匂いが残ってしまうしなによりも生乾きになってしまう可能性がある。かと言って外に干してしまうと乾きが遅くなってしまう。服から中途半端に嫌な匂いがするままに出かけるというのはあまり気持ちのいいものではない。どう干したら効率的に乾かすことができるのかを知りたいのだが…いかんせん誰しもが悩んでいる内容であるような気がするので問うたところで意味がないように思える。幸いにしてまだ本格的な梅雨の時期には少しの間時間がある、その間によく乾く方法を考えておくとしよう。今日は洗濯機が家に来た。今までの家ではコインランドリーがアパートに常備されていたのでそこにその都度お金を入れて洗濯をしていたものだった。コインランドリーはえてして構造が簡単なものを使っていることが多い。それ故汚れを落とすという観点では少しだけ力の劣る部分がある。確かに家に洗濯機を置いて洗濯物が出てそれがある程度溜まる度に洗濯をするのと、それと同じ条件をコインランドリーで行った場合ではどちらが価格的にお安く済むのかを考えてみると…やはり水道代の関係から家に洗濯機を置いた方が効率的だと言えるだろう。しかしながら前の家ではそれが出来ない理由があった。それは洗濯機の持ち込みが禁止だったからだ。なので私は1年中、それこそ梅雨が本格化する時期も遠くにあるコインランドリーまで通ったものだった。しかし今回住む家は洗濯機を持ち込んでも良かった。それはよくよく考えてみたら普通のことなのかもしれないが、しかし私にとっては画期的なことだった。ごくごく当たり前のことなのに「これで遠くまで行かなくても…そして小銭がない時でも洗濯が出来る♪」と感動を覚えたものだった。家賃における水道代は家賃に込み込みになっているので文字通り洗濯はやりたい放題というわけだ。しかしいざ洗濯機が来てみると、思わぬ問題があることに気づいた。洗濯機の取り付け方がわからない_| ̄|○給水ホースだの排水ホースだのアースだのとごちゃごちゃとした線がたくさん付いていて、もう意味がわからないようになってしまった。その上苦労して取り付けた結果勇んで洗濯しようとすると水道から水が漏れ出すし、槽に水が溜まらなくなるし、排水のスピードが遅いしでもうてんやわんやだった。今までは極端な話、お金を入れるだけで洗って脱水までしてくれていたので、自分で設置するという状況にテンパってしまったわけだ。オートメイションというのは時としてアナログに勝てない部分があるようだ。だからこそ人の手は大切なのかもしれない。まぁ結局用意していた洗濯物が正常に洗えて干せるようになるまで恐ろしく時間がかかってしまった。まぁそれでも部屋にいる横で洗濯が出来て、そしてそれが終わるとすぐに干せるという環境はなかなか素敵なものだ。これくらいのことで感動してしまう辺り…少しだけでも自分の中で改革が起こっているのかもしれない(笑)嫌われるということは人生の中で誰しもが経験することだ。誰にでも好かれる人になれればそれに越したことはない。しかしそれは事実上不可能だと言える。例えば誰にでも優しくて親切な人がいたとする。その人は親切にした人や優しくされた人にとっては「いい人」なのかもしれないが、その人の大切な存在、即ち伴侶にとっては「いい人」ではないかもしれない。自分だけが大切にされているわけではない、それは自分だけが優しくされる特別な存在ではないことを意味している。自分だけに特別に愛情を注いでくれるからこその伴侶だ、それなのに自分には特別感がない。それを「いい人」と呼ぶかどうかは…難しいところだろう。その他にも一般的には長所であることが短所になることも多いに考えられる。物事を論理的に考えるということは一般的には長所だ。特にその舞台が会社などのホワイトカラーである場合、それは優位に働く。場面ごとに置かれた状況の正確な把握及び問題点の想起、その解決策の明示など多くのシチュエーションで効力を発揮する長所だと言える。しかし物事の論拠を明確に示し問題点を追求するということは疎まれることも多くある。それがくどいと思われることも珍しいことではない。それは短所だと言えなくもない。つまりは長所は裏を返せば短所だということだ。その概念がある以上は全ての人に好かれるということは不可能だというわけだ。而して人というのは好かれたいと思う生き物である。私は今確実に嫌われている。それは世の中の全ての人というようなネガティブな考えではなく、確実に数名から嫌われているというものだ。それは悲しきかな当たり前のことであって…それでも私にはとても辛いことでもある。特に何をしたわけでもないのだがなんとなく嫌われている、それが私かもしれない。それは自分の意志とは関係ないところで起こった極めてソフトな問題、だからこそ余計に自分の性根について考え込んでしまう出来事でもある。怒らせてしまって嫌われたということはかなりある。しかし怒らせようと意図していないで怒らせてしまうのは極めて遺憾だ。どうしたらその人には許してもらえるのだろう?こんなことを問うている時点で人間としてどうかしていると思わないでもないが、それでも時々わからなくなる。その人の為を思い少々キツイことだが言ってしまったことも多々ある、それで憎まれることは特に構わない。もともと立派な人間などではないのでそんなことは気にしない。しかし…私が何をしたのだろうか?何もしていないのに嫌われるのはキツイことをその人の為を思い敢えて言った結果嫌われるよりも何十倍も辛いものだ…
Jun 6, 2007
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今朝も早く目が覚めた。毎朝7時にはばっちり目が覚める。夜は長く、しかも何も音がなるメディアがなかったのでネットが復活したと同時に自分自身昔何を書いていたのか振り返ってみたことがあったのだが、昔ブログを始めた当初は7時に起きるなんて非常に稀だった。なのでその都度「今朝は珍しく早く起きた。とは言ってもお昼ごろの起床なので一般的な起床時間とは程遠いものだ。社会人の方が見たら怒るかもしれない」という記述をしていたことに苦笑したものだった。いざ自分がその社会人という立場になってみると、ある意味お昼まで寝ているというのは幸せなことだということに気づくから不思議なものだ。つい1ヶ月前までは随分とぐーたらな生活をしていたということを再認識したものだった。状況が変われば人はいくらでも変われるといったところか、確かに7時に目が覚めて辛いと思うこともあったが、それでも顔を洗って歯を磨いてコーヒーをいれてスーツに着替えて外に出てみると気持ちのいいものだ。これはぐーたらな学生時分では考えられない心境だったのかもしれない。やはり規則正しい生活というのはいいものだ。今更だが(笑)環境が変わるということは大きな変化を及ぼすものだ。以前に住んでいたアパートが大学の関係上比較的田舎にあったこともあって、今住んでいるアパートの周辺が都会であることに気づく。京都市内の中でも所謂オフィス街の近くなので閑散さについては申し分なく問題外なのだが、それでも交通の便や利便性については飛躍的に上がった。その分賃料についても飛躍的に上がりそうなものなのだが、そんなことはなく以前のアパートよりも5000円高い程度に納まっていた。部屋の間取りも部屋の設備も今の方が圧倒的に使い勝手が良く、住みやす過ぎてやはり1人暮らしの良さを噛み締めているといったところだ。相変わらず友人関係については皆が遠方に勤めていることもあって希薄になりがちなのだが、それでも地元にいた頃に感じていたコンプレックスはなくなった。これで皆が1度に集まって飲み会をした時にも肩身が狭い思いをしなくても済むというものだ。話が若干脱線した。。朝、会社に向かって歩いていると、自転車の前の籠にクリアケースを詰めた学生を見ることが多い。友人と合流して今日の講義や宿題についての話題に花を咲かせているところを見ると、時々寂しい思いになるから不思議だ。つい先日までは自分もそうだった、そう思うとなんだか大人になってしまったんだと再認識するからだ。このある種の寂しさというのは高校生を見ると余計に大きく感じる。あの頃は何も考えずに、兎に角目の前のことに集中していたものだった。「今日は1日だから英語の授業は出席番号的に当てられるなぁ…」「今日の昼休みはテニスをしよう、昨日はバスケだったから♪」「今日は4時限目に体育あるから購買は混むだろうなぁ…」とかそんなことばかり考えていたような気がする。責任、しがらみ、人間関係、ノルマ…そんなものを考えなくてもいいのはある意味幸せなのかもしれない。しかしそんな懐古的になっても今が変わるわけではない、そういう負の感情はシャットアウトして今日も会社に行く。こと人間関係においては私は恵まれているのかもしれない。いい人ばかりが会社にいる。新人のペーペーの私にでもきさくに話しかけてくださるし、会社内でもとても居心地のいい空気が流れている。やはり社長がいい方のところは当たりなことが多いというわけだ。今はひたすらに勉強をすることが業務なので全てをわかったような口は到底きけないのだが、それでも会社に通うことが嫌ではない。研修の一環としてマナーや電話応対の基礎を学んでいる毎日なのだが、ある日ふと自分でも笑ってしまうことがあった。その日は親から荷物が届く予定だったのだが、偶然仕事帰りが遅くなってしまって荷物を受け取ることが出来なかった。玄関に不在票が刺さっていたので荷物の行方をはっきりさせる為にその会社に電話したのだが、今まではそういうところにかける電話でもぶっきらぼうに話していたのに、自然にもの凄く丁寧な言葉で話してしまった。「~でよろしいでしょうか?」とか「お願いいたします」といったような口調で終始荷物がいつ届くのかを受付の方と話し合った結果、向こうと同じくらいのタイミングで「失礼致します」と言ってしまった。まことマナーとは怖いものだと思ったものだった。意識はしていなかったのだが、きっと今までは気づけなかったアポインターやオペレーターの苦労が自分が研修を受けてわかったからかもしれない、その部分は成長したところなのかもしれない(笑)
Jun 5, 2007
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朝早く起きた。昔からそうだった、枕が変わると睡眠が浅くなるのは私の悪い癖だ。変に色気づいて低反発枕にしたのがいけなかったのかもしれない、低反発故にデフォルトの枕の固さが気になって気になって仕方ないといったところだろうか(笑)それにしても低反発枕というのはどうしてあんなに人気があるのだろうか?果たして寝やすいだろうか?しかし需要が高いというのはつまりは人気があるということだ、私がマイノリティかもしれないのであまり追及しないことにしよう。今日は早く起きて逆に良かった。初仕事の日だからだ。最初のイメージというものがその人のイメージを決定付けるものであることを人一倍理解しているので、遅刻なんて愚かなことはしないように入念に準備を整えて会社に向かった。まぁ結論から言ってしまえば…私はまだ一応仕事に使える人間ではないということだ。それはやはりその会社の「コンセプト」を完全に把握していないことに起因している。これからは研修の生活に入るのだが、まだまだこれからだ。社会人として恥ずかしくないように、そして誇りを持って仕事をできるように邁進しようと思った初日だった。概念的な「頑張る」ということ、それは即ち生きることと同義だ。頑張らないで生きることは出来ない。親の脛を齧ることで子どもは生きているのだが、自分と親が同じラインで生きているということは人類学上ありえないことだ。自分が生きているどこかで親は確実にいなくなる。自分を支えてくれている人がいなくなるということは一つの区切りであるとともに、そこからは誰にも頼れない、つまりは「頑張る」必要がある。どんな分野においても「頑張れない」と嘆く人は必ずいる。その大きな要因はおおまかに以下の通りあるように思われる。1つはその物事に対して興味が持てないということだ。興味のないことをだらだらとやっていても捗るはずもないし、そもそも頑張ろうとも思わないだろう。やりたいこと・好きなことに関しては頑張れるのに、自分の興味のないことが少しでもあると頑張れなくなるということは珍しいことではない。しかしそれを責めることは出来ない。何故ならその人の興味のある分野での力の発揮は目覚しいことが多いからだ。どこか欠落している分、好きなことには人一倍のめりこめるといったところだろうか。人の才能もまたゼロサムだということなのかもしれない。要はその人が向いている方向にナチュラルに方向転換してあげれば解決できることだ。尤も簡単ではないのだが…。こちらは善の動機だ。一方悪しき動機というのもある。それは頑張らなくてもいい「理由」を探しているということだ。「これがあるから頑張らなくていい」「これがあるから楽ができる」そのような感情に根ざした考えというものはえてして卑しいものだ。頑張らなくて世の中で生きている人なんていない。誰もがその人の器量に見合っただけの努力をして今を生きている。しかし頑張らなくてもいい理由を探していて頑張っていない人というのは、目の前にある問題から「逃げる」ことしか考えていない。ある意味その目の前にある問題から逃げる為に頑張っているという捉え方が出来ないわけでもないが、それはあくまで負の動機であるので…決して褒められたものではない。私が派遣のアルバイトをしていた頃、辛い仕事に従事していた頃があった。得意先の会社の一番偉い方が非常に怖い方で、しかも理不尽なことですぐに怒る人だった。私は何度も何度も怒鳴られたし、役立たずだと罵られたことも何度もあった。他の同僚も何度も怒られているようで、仕事場には常に怒声が響いていたほどだった。そんな環境であるせいかどうかはわからないが、何人もの人が辞めていった。仕事の途中で逆ギレして帰っていった人もいたくらいだった。しかし私はそこで帰るようなことはしたくなかった。何故ならばお金を貰うということは頑張らないといけないことだからだ。甘やかされてお金が貰えるのなら誰も苦労しない、それは仕事にも全く同じことが言える。自分が悪くないのに…相手が間違っていることを言っているのに…それでも自分が謝らないといけないという状況、それに嫌気がさすことは日常茶飯事だろう。しかしそこであっさり辞めるか辞めないかで人間性が見えてくる。そこで辞めていく人は口を揃えてこう言う「自分には向いていない」何故その仕事が向いているかいないのか完全に理解できないうちから自分で幕を引いてしまうのだろうか。それは自分が辛い立場に立ちたくないからだ。確かにそのアルバイトで私は星の数ほど嫌な思いはした。しかしその会社の一番偉い方だって四六時中怒っているわけではない、私が間違いを犯して怒られたこともあった。今になって考えるとあの仕事をしていたおかげで怒られるということに対して特別なことだという考えがなくなったのかもしれない。会社に入社して一度も怒られないで退社する人なんていないだろう、怒られるということが特別、つまり嫌なこと、ひいては自分を辛い立場に置きたくない、つまりは歯を食いしばる、頑張るということから逃げているということだ。理由なんて無数だ。環境、年齢、そのようなものを自分の武器のように繰り出しているうちはその人はどこにいっても頑張れない。今現在楽しそうに働いている人でも若い頃は確実に苦渋の1つや2つはあったろう、それを歯を食いしばって頑張ったからこそ、自分を信じてきたからこそ今笑って楽しそうに仕事が出来ているのだ。「楽しくやる」ということを念頭に置くからその理想とのギャップを感じてしまう、それが楽を求める今の若者に蔓延している病気のような気がしてならない。何事においてもそう、やってみなければわからない。物事の真理は総じて奥深く…そしてその物事の真理が自分を裏切ることはない。一生懸命にやってみた結果、やっぱり向いてなかったと思うことは少ないだろう。確かに仕事などにおいては結果論だが向いていなかったということはあるかもしれない。しかし仕事以外の部分、即ち同僚と夜遅くまで飲んだこと、馬鹿騒ぎをしたこと、その部分まで「自分には必要なかったこと」と切り捨ててしまうにはあまりにも寂しい。楽しい思い出は辛かった思い出と表裏一体だからこそ更に光り輝くというものだ、それを考えれば自分が一生懸命に尽くしてきた会社が100%向いていなかったなんて誰にも言えないはずだ。頑張ること頑張らないといけないことは「頑張る」という観点で言えば同義だ。自分の今挑んでいることが好きで好きで仕方ないから頑張っているのと、家族や大切な人を支えていく為、生きていく為に支えていくことは感情的な部分で異なるかもしれない。しかしそれと頑張らないこととは必ず同義ではない。何かと理由をつけて逃げている以上、そのことをやらないでいい理由を振りかざしている以上、楽な方向へ楽な方向へと流されている以上、どんなに頑張っていると主張したところで…その言葉は砂塵の楼閣に過ぎない。
Jun 4, 2007
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こうやって書くのも随分久しぶりなような気がする。たかだか一ヶ月弱書かないだけでここまでタイピングスピードが落ちることと、何度も書き直したこの草案が纏められない文章力の低下に驚くばかりだ。まぁしかしそれでも以前の途絶に比べたら今回の方がスパンが短いこともあって…少しずつになるかもしれないが、環境と心境の変化について順を追って解き解していこうと思う。それには更新が途絶してからまたこうやって書き始めるに至る経緯が大きく関係している。まずはそこからだ。そもそもにおいて全ての事象が急に動き出しすぎたのだ。途絶する前の内容に関しても少しだけ触れているかもしれないが、面接に行ってから採用の通達が出るまでがあっという間だった。初めてその会社の門を叩いたその日から1週間も経たずに全ては円滑に…そして驚嘆のままに決まってしまうこととなった。確かそのようなことを以前に書いたような気がする。しかしその段階でいくつか書かれていないこともあった。1つは採用に至るまでの条件の掲示だった。私はてっきり即採用という形になっていると思っていたものの、蓋を開けてみればそこには1つの条件が発生していた。この規則を守らなければ正社員として迎え入れる気はないというのが会社側の返答だった。その条件というのが「早急に住むところを決めること」というものだった。なんだそんなことかと最初は思っていたが、何かの契約書に捺印を迫られたり、保証人になれといった類のものとはまた異なり、それはそれで大変なことだということが徐々にわかり始めてきた。それは実家から会社までの絶対距離だ。何度も何度も書いているように、私は京都市内の面接を受けに行く度に車で片道3時間半という距離を移動していた。その結果頂いた内定(仮)はそのまま実家から通えないことを意味している。直前になって内定(仮)を蹴るようなことがないように敷いた会社側の対策なのかもしれないが、それにしても上記の「早急」というところが私を苦しめた。「何日までに」とはっきりと告げられた方がまだマシだ、早急ということになると部屋を決めて引越しをして会社にコンスタントに行けるようになるという段階を自分のさじ加減1つで行わなければならないということだ。自助努力というものにはその物事に対する意志が感じ取れるという考え方があるように、私は一刻も早く住むところを決めてそのまま入居してしまい会社にやる気があるところをアピールする必要が出来たわけだ。そこで我が家(実家)では大忙しとなってしまった。1週間のほとんどを実家と京都市内の往復だけで過ごしたほどに家にいる時間は短かった。幸いにして家族全員が車を運転することができるのでそこは交代で事なきを得たのだが、今思い出してもキツイ1週間だったように思える。そんなこんなでこの日は引越しとなった。準備もろくすっぽ出来なかったこともあって、足りないものがあったら現地調達というなかなかナイスな骨子のもとに引越しは決行されることとなった。保証人や連帯保証人、大家さんとの食い違いなどの苦労を経てようやく引越しは終わった。前置きが長くなってしまったのだが、ここからが私がこうして空白の日のブログを埋めようかと思った理由だ。引越しも終わり両親も帰り1段落ついたところであることに気づいた。今回の引越し、自家用車の普通車と軽トラックの計2台に荷物を詰め込んだのだが、そこには冷蔵庫を始めとする大きな荷物が幅を利かせていたので…乗らなかった分の当初持っていくはずだった私個人の荷物は今後順を追って郵送されることとなった。つまりは最初に生活していくだけの生活必需品だけが今回の移動の対象になったわけだ。冷蔵庫や服やベッドやテレビなどは生活必需品なので欠かすことはできない(テレビに関しては私は後でもいいと言ったのだが、どうしても両親が聞かなくて不本意なスタメンとなったわけだが。笑)ものが正式メンバーとしてトラックに乗り込むこととなった。そして私の部屋においてあったもの、例えば小説だとかコンポだとかは第2陣にまわされてしまった。そんな状態で無事引越しも終わり、退屈なのでテレビを点けようとスイッチを入れたのだが、テレビが全く映らない。おかしいなと思い何度も何度もチャンネルを切り替えてみても映像は一向に私のもとには届けられなかった。これは妙だとテレビの周りを見渡してみると…まぁ当然の帰着だが、テレビ線がなかった。なんだ線が繋がっていなかったのかと思いそれを挿そうとしたのだが…どこにもない。いくら探してもテレビ線はどこにも見当たらなかった。そこで私は迂闊だったと気づいたわけだ。前の部屋はテレビを生協で買ったのでテレビを据えつける工事をしてくれたお兄さんがテレビの線を携行して持ってきてくれていたのだ。前の部屋では当たり前だったのだが、よく考えてみると大家さんがそこまで気を利かせてくれるなんて思うこと自体驕りだというものだ。もっとよくよく考えてみると…確かに前の部屋にもデフォルトでテレビ線は…ついていなかった_| ̄|○テレビは使い物にならないと早急に諦めた私はラジオを聴くことにした。もともとはラジオっ子なのでラジオを聴いている方が落ち着くというものだ。しかしまぁこの願いも叶うことはなかった。理由はもう既に掲示済みなので説明は割愛する_| ̄|○パソコンも勿論引越ししたばかりなのでインターネットにも繋がっていないし、ビデオも勿論置いてきた、八方塞というわけだ。なので私はこのブログを何の音もない静か~な部屋で書いていたというわけだ。今は勿論インターネットも繋がったし、こうやってまたブログを始めることが出来ているので満足だ♪書き出しとしてはこんなものでいいだろうか?後のことは後に任せる私らしいあまり難しく考えないスタンスでつらつら書いていこうと思う新天地1日目だった。
Jun 3, 2007
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私の就職活動が終わったと同時に…狭い世間は機敏に動き出した。とは言っても町全体に広まるほどのへヴィな田舎ではない。そこまで極端ではないが、何故か私を小さい頃から知っているグループにはすぐに情報が知れ渡ることになった。以前にもブログに書いた幼馴染の友人も何故か私が内定をいただいた次の日には知っていたし、いつも飲み会をする面子の半分以上はもう既知の事実のようで、田舎の情報網の凄さを思い知ったものだった。嬉しかったのはその幼馴染の友人が私の就職を祝って飲み会を開いてくれたことだった。飲み会とは言ってもいつもと同じ面子、同じ場所、同じ時間帯といつもと何一つ変わらないものだった。しかしその会がだべる為ではなく私の就職祝いだということに凄く大きな意味があるように感じた。私にもそのように祝ってくれる友人がいたことに素直に感動したものだった。その次の日である今日も送別会的なことをしてくれて、新しい門出を祝うとともに、少しだけ寂しそうに思えたものだった。考えてみればこっちに帰って来てからの生活は少しだけ変わったものだった。現状だけ見てみれば職もなくフリーターとして存在していたわけだが、それでも温かい友人関係と温かい家族の存在が大きかった。気ぜわしく生きているような大学生活から一気に田舎のスローライフのような生活様式になってしまうと最初こそ不便性にイライラすることもあるのだが不思議とそれに慣れてしまうとその環境でも上手く楽しむ術を見つけるので面白いものだ。休日になると大昔にやっていた釣り竿を奥の納戸から引っ張り出して竿やロットの調整をしながら実際に釣り糸を通してみてもういつでも魚が釣れるような状況にしてみたりもした。勿論今時流行りのバス釣りなんてオシャレなものではない。餌を付けて浮きの動きに合わせて魚を釣り上げるという昔ながらのものだ。私は小学生の頃には魚釣りがそれなりに上手いことでそれなりの範囲でそれなりに評判だったのだが、その頃の感覚を思い出すようで懐かしくなったものだった。ある時はパズルを持ち出してきて一心不乱にパズルを組むようなこともあった。昔からそのような地味な作業の繰り返しといったようなものが好きで、パズルも1000ピースを越えるものでも結構短い時間で仕上げるほどのものだった。自分の手の届く範囲に必ず空きを埋める為の答えがあるという合理性が好きだったのだ。そんな生活が長くは続かないことも勿論わかっていた。私がここにいることはいつかはここを出ていかなければならない準備をするということを意味している。結構好きになりつつある土地を離れる為の努力を好きな土地でするというのは皮肉なものなのだが、それでも私が去年に成せなかったことを成す為にはそれくらいの努力はして然るべきだと思える。友人にも送別会をしてもらったし、家族には新しい生活の為の準備を多くしてもらったし、もう至れりつくせりとはこのことだと思う。ここまでしてもらった恩は仕事をばりばりして元気な姿を見せることで返すべきだと心に誓った。明日…厳密には今日私は京都市内へと出発することになる。もしかしたらこの2ヶ月間のように家族と一緒に生活するのもこれで最期かもしれない。そう考えると人生の長さを考えてしまうと共に、両親の健在が必然ではないということに気づく。簡単な線引きと考えていたが、意外にこのターニングポイントは大きなものなのかもしれない。ついては先日も記載したように、またこのブログは休憩に入ることになる。それはまた新しい家に着いて生活基盤を確立してからインターネットに繋ぐ環境に持っていくからだ。最速でも2週間くらいはブログを更新できないままである可能性が高い。下手をすると前回の休憩並に空いてしまうかもしれない。こそこそと更新するのが好きな私としてはかなり由々しい問題だと言える。まぁしかしネット生活を疎かにするということはそれだけリアルが充実しているということだ。今度また戻ってきた時には書くことが多すぎてネタに困らないだけの大きなお土産を抱えて戻ってくるとしよう。もうほとんど部屋には何も残っていない。18年間生活してきたこの部屋から2回目の旅立ちだ。殺風景な部屋の真ん中にポツンとPCが置いてあり、そこの前に私が座っている。テレビも電気も点けずに月の明かりだけが薄く部屋を照らしている。空気が綺麗だから本当に月が綺麗だ。今宵は静かに夜が更けていくことを願ってやまない。なんとなくそんなセンチな気分だ。では皆様、またお会いする日まで^^
Jun 1, 2007
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