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家にいる時は基本的に裸だというのはおかしな癖なのだろうか?確かに誰かいる時は自重して服は着ているが、1人でいる時は大体上は着ていない。夏や冬が一番その傾向が顕著に出るようで、冬でもたまに上を着ない時がある。それにはちゃんとした理由があって…ってそんなことを知りたい人なんていないだろう。そのようなことを公共の場に書く事自体が既にデリカシーがないと言われる所以かもしれない、気をつけよう。。先日夜勤中に先輩と話をしていた。その日は特に忙しいわけでもなく時間がゆっくり過ぎていて、暇な日だった。ある程度の世間話を終えた後、ある話題が出た。そのことで随分と夜勤メンバー含めてヒートアップしたものだった。それというのがテーマにもあるように「区別と差別の違い」だ。今回はそのことについて書いてみようと思う。例えばお皿の上にリンゴとバナナとキウイとパイナップルがあったとしよう。この果物を任意のわけ方、端的に言えばくじ引きで分けるという行為、それが「区別」であり、好きなものと嫌いなものに分けるという行為、これが「差別」だ。この2つの概念に何か違いはあるだろうか?一意的に見ると、区別と差別では差別の方が悪い印象を受けがちだ。差別というと、もうのけものにしているようなニュアンスが含まれているからだ。しかし本当にそうだろうか?そのことについて話し合っていたわけだ。暇な時、しかも夜勤の時になるとくだらないことでも盛り上がるから不思議なのだが(笑)よく職場や学校などの場所で、好きな人と嫌いな人の話をすることがあるだろう。どのような現場にも優しくて気さくな人もいれば、ぎすぎすした関係しか築けないような人もいる。そのような人達を自ずと「分ける」ということをしてしまうことはないだろうか?それは悪いことではない。人間は感情をもって生きている、好きや嫌いは人それぞれあるだろうし、そのことを否定することは誰にも出来ないからだ。しかしそのようにカテゴライズしてしまうことを「これは差別じゃない、区別だ」という人がたまにいる。私も少し苦手な先輩に「この現場の人のことはどう思う?」と聞かれた時には、困りながらも無難な人選によって「区別」する。しかしこれは本当の意味では「区別」ではない。例えばVBAで組んだマクロに1から10までの数字を2つのグループに分ける作業を命令した場合、それによって分けられた数字は区別されたものなのか差別されたものなのかどちらなのだろうか?おそらくほとんどの方が区別されたものだと思うだろう。それは間違いではない。しかし「同じグループに存在するもの」を「2つのグループにわける」ということは差別でも同じことが言える。では何が違うのか、それは感情だ。好き嫌いというのは生きている上で必ず存在するものだ。好き嫌いを排斥して何かを見るということは出来ない。つまりは任意で区別をしているということは、いずれは差別に繋がるということだ。区別が善、差別が悪ではない、人間において物事を「幾つかのグループにわける」ということ自体が将来的なベクトルで差別に繋がっていくことになるということだ。勿論最初から自分は差別しているという認識が出来る時もある。それは会社の中で嫌いな先輩がいるだとか、苦手な食べ物があるだとかそういう時だ。いいものがあって、悪いものがある、こういう状況だからこそいいものを扱う時には「区別」を用い、悪いものを扱う時には「差別」を用いて「区別」を良心的な意味だと捉えてしまいがちだが、それは逃避に過ぎないというわけだ。その話し合いは結構長い時間進んだのだが、最初から上記意見を述べていた先輩は異端扱いされていた。しかも自分の意見が理解されないということでかなり腑に落ちない顔をしていたのが印象的だった。私はというと、最初こそ「区別」と「差別」は別物だと思っていたが、よくよく突き詰めてみるとその先輩が言っていたこと…つまり上記のような意見が正しいのではないかという風に思えるようになってきた。今では考えに革新的な何かが起こり、上記の考えに落ち着いたというわけだ。休憩時間に私のところに来て「なぁ、やっぱり区別と差別は一緒やって!」と尚も言っている先輩は中々面白い人だと思ったものだった。その先輩が議論の途中で「区別している時点で差別しているのと同じだ。区別が差別に繋がらないのは感情のない取捨選択のみなんだから」と言っていたのが強烈に残っている。全くその通りだと感じる。その先輩は完璧な理系人間だからこそ理解されない、自分の意見が通らないことに気持ち悪さを感じるのだろうと思う。私は生粋の文系人間なのだが、その気持ちもわからないでもない。だからこそこの先輩との議論は面白くて仕方がない。この区分けは区別でも差別でもないはずだ(笑)
Oct 31, 2007
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あれから一ヶ月…どうしてもちゃんとしようと心に誓った。報告書は書いたし反省もした。あんなことは二度とごめんだと思っていた矢先…またやってしまった。仕事でミスをした…。思えば何故あんなことをしてしまったのか未だにわからない。私がミスをした経緯を書いていこうと思うが、勿論専門的なことを書いてもわかるわけがないので、掻い摘んで簡単に説明していこうと思う。書くべきか書かざるべきかを悩んだのだが、やはりここは私の心を書いていく場所であるので、このことは避けては通れない事象だと言える。私が前回してしまったミスというのを10段階のミスレベルで表記するならば、レベル3くらいのものだった。業務に支障が出るとは言ってもちょっとだけ細工をしてもらうくらいのレベルの迷惑であって、私のミスによって本格的に業務に支障が出るということはありえないレベルのものだった。私の会社にはミスをする人が多い。それは別に無能人間が集まっているということではなく、むしろ私が属している会社の仕事がヒューマンエラーを起こしやすいところだと言えるからだ。なので課目標も、ミスをしないことを徹底するようなものが毎月挙げられるし、できるだけヒューマンエラーを根絶しようという業務体系を組んでいこうと努力しているようなところだった。前のミスの時にも書いたかもしれないが、私の会社ではミスにも格付けが存在していて、一番酷いミスをするとその会社の京都支部の事業部長のところに報告書を持って謝りにいかないといけなくなる。他にも査定に大きく響くのは自明だし、尚且つ信頼という面でもかなり失墜することになる。私がちょうど今の会社に入って初めて現場に挨拶に行った時にもそのような大規模なミスは起こったようだった。そんな背景だからこそ余計に気になることだと言えた。だから私は絶対にミスをしないようにしようと心がけた。この会社でミスをするということがどのようなぞんざいな扱いを受けるかということは嫌というほど見てきたつもりだし、その仲間入りをすることだけは避けたかったからだ。しかし私は一ヶ月前にミスをしてしまった。それによって会社の中での査定、評価がどのように下がったのかは容易に想像がつく。これは新人だからという理由では片付けられない問題であると言えるからだ。そしてその時に反省し、次に繋げないという誓いを立てたからこそ今まで頑張ってこられた。しかし…今回またミスを犯す結果になってしまった。結果だけで言ってしまえば、今回のミスは前回のミスに比べて非常に軽い。レベルで言うと0.5くらいのものだ。なのでそのミスをしてしまったことを正直に告白し謝罪をした先輩がそのミスによって失われてしまったデータを3時間くらいかけて復旧してくださった。勿論私は見ていただけではなく、ちゃんとそのデータの復旧を手伝っていた。1分間で1000件の情報が流れる端末で怪しいと思われるスポットを7分間分確認していたくらいだった。しかし先輩はその何倍もの労力を使ってデータを復旧させた。どれくらい大変なことかというと、東京ドームにBB弾が40個落ちているので、全てを拾いなさいというくらいの難しい命題だと言える。その中で私が手伝えたことと言えば、1塁ベース付近を捜したくらいの些末なものだった。その先輩は業務を私よりもスピーディーにこなしつつもその作業を頼んだわけでもないのに私の為にやってくれた。心から感謝したものだったが、それで私のやってしまったことが消えるわけではない。私がやってしまったデータの消去、それは夜勤中に行ってしまったことだったのだが、データは見事復旧された。それは翌日出社したサブリーダーにその旨伝えることにした。ドキドキしたのだが、サブリーダーは私が新人だということ、そしてミスは誰にでもあるということを考慮した上で「あんまり気にするな、これからどうするかだろう?」と優しく笑ってくれた。夜勤中ずっとどうなるのか、業務影響は出るのかと胃が痛い思いだったが、これでなんとか少しだけ楽になることが出来た。しかし私のやってしまったことは消えない。偶然優しい先輩だったから良かったものの、規律を重んじる先輩や課長のいるところでやったらもう報告書レベルでは済まないことになっていたのは火を見るより明らかだ。そのことを通して思う。私は普通の人間だと思っていた。今までアルバイトをしていても仕事は普通に出来たし、特色ある人間ではないとは思うが、別に不具合のある人間だということは考えたことも無かった。それは与えられた仕事を「普通に」「卆なく」こなすことが出来たからだ。今まではそれで上手くやってきた。しかし今回2ヶ月で2回もミスをしてしまった。神がかり的な偶然でどちらも軽微なものだったのだが、しかしこれが業務に打撃を与えるものではないからといって楽観するほど私は愚かではない。否、愚かではないかもしれないが、むしろ私は使えない人材かもしれないと思った。原因究明をするということは再発防止としては必ず必要なことだ。事故があった道にガードレールを設けるように、地震で倒壊してしまいそうだった家に耐震設備を設けるように。しかし人間においては再発防止案を確固たる形でとることはできない。ミスを根絶することは不可能かもしれない、それはある意味ではロボットと化してしまうことと同義だからだ。そんなことは人間である以上は不可能な事象だ。慣れによる甘え、これが一番の原因だ。なれた作業だからスピーディーに出来るという利点はあるかもしれないが、その分緊張感は失われることになる。そこが当面の私の無期限課題だ。客観的に見ると同じことを2回繰り返していることになる。同じミスを2回するというのは無能な人間の証拠だ。私は無能なのだろう。今日は少しネガティブな日記になってしまったが、考えを巡らせるには充分な時間があった為になんとか復活することが出来た。ちょっとはマシな自分に変わる為に明日からは気を引き締めていこう。追伸:夜にも関わらず突然メールしてごめんなさい^^;
Oct 30, 2007
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初音ミクって誰ですか?もしかしたらこんなことを言うと怒られるかもしれないが、しかし知らないものは知らない。これは純粋な知的好奇心というやつなのだろう。インターネットをしていると時々この「初音ミク」という言葉に遭遇することがあるが、しかしその正体は未だ知らないままでいるというわけだ。この情報化社会において知らないことなど介在しないかもしれないが、もしかしたら興味がないから知らないだけなのかもしれない。まぁさほど重要なことではないということだ、前置きとしてはちょうどいいくらいかもしれない(笑)ではテーマへ。器とはどういう意味だろう?主に使われるものとしては何かを入れておく為の道具という意味であり、それが転じて物質的なものではないものに対する力量を指す言葉としても使われることが多い。今回は別にサラダを入れておく為の器について話をするつもりなど毛頭ない。勿論扱うのは後者、抽象的な意味での器の方だ。人間の器というものは、果たして定量的なのだろうか?この命題は私が1人で考え事をしている時や、暇な時になんとはなしに考えてしまうテーマだ。根本的なところが簡単なだけに、このような精神論に通じるようなテーマは非常に奥深い意義を持っているような気がする。人間の器の大きさは自分で推し量ることは出来ないものだ。その大きさは評価する第三者の存在があってこそ成立する概念であるし、そもそも誰かと自分がどう違うのか、どこが違うのか、そのような観点から始まることでもある。つまり器は比較に起因するということだ。ある人にとっては耐えられないような事象でも、違う人にとっては別になんとも思わないということもある。このことから、他人からの比較・評価で成り立つ概念であるにも関わらず、宿す本人にはそれを正当に評価するだけのキャパシティは持ち合わせられない不思議な概念だと言えるわけだ。器は生きてきた環境に起因するというのが私の自論だ。先ほど書いたような第三者からの評価を基準にする器の大きさで考えると、きっとお金持ちのボンボンのような人よりも一般家庭でも愛情深く育った人の方が人間的な器は大きく魅力的な人物になる可能性が高いと言えるだろう。器の大きな人間になるにはどうしたらいいのだろう、時々思う。私自身自分の器が大きいだなんて大それたことは言えない存在なのはわかっている。自分の現在やっていること、そして過去やってきたこと、それらを総合して考えてみてもとてもじゃないが立派な人間だとは言い難い。そういう意味では私は兄を尊敬している。全てにおいて兄に勝てるような気がしない。それが器が大きいということなのかどうかはわからないが、少なくとも私よりは全てにおいて器が大きいと思う。私と仲良くしてくれるのもまた、そういう意味でもあると思うからだ。下に兄弟がいて年齢を重ねても仲良くできるということは結構大きなことだ。結局何が言いたいのかよくわからなかったのだが、器を大きくすること、それは容易ではないということなのだろう。僻み・妬み・嫉妬…このような感情はやはり器の成長を阻害する因子でしかないと言える。まだまだ計量カップ級かなぁ…_| ̄|○
Oct 29, 2007
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私の家はよく人が集まる効果があるようだ。それは単純に私に魅力があるとかそんな次元のことではなく、むしろ私の性格が関係していることだ。要は家族やそのレベルの近親者においてそこまでまめに連絡をしたりする方ではないということだ。家族とはもう半年は会っていない。しかしながらその間会っていないという理由で電話をかかさずにしたり、時々はメールを送ったりするようなことを私はしない。そういうものは親の立場としては欲しいものなのかもしれないが、どうにも「私は元気でやってます」というような報告はこまめにするものではないというのが私の自論だ。もしかしたら面倒だということもあるかもしれない。と、言うよりも自己分析では両親が過保護過ぎるからこそ余計にそのような両親から早く独り立ちしたいという反骨精神の表れかもしれないと思っている。両親にメールするよりも友達にメールすることの方が多い。まぁ多いとは言っても頻度のレベルであって、世間一般で言うところの多いでは決してない。それを証拠に、私の携帯電話のメール受信ボックスは1000件までメールを一時保存しておくことが可能なのだが、一番古いメール、つまり1000件目のメールは5月のものなのだ。それほどまでにメールという機能を活用していないという証拠だとも思う。友達が多くないことの証明でも…あるのだが(苦笑)そんな状態が続いたからこその帰着なのかもしれないが、兄がまた遊びに来ることになっていた。今回は私の家がまた新しく変わってからまだ一度も遊びに来ていないからという理由らしいが、半分は嘘だろうと思っている。たまに遊ぶくらいはよくする兄弟だと認識しているので、こういう機会は大切にしたいものだ。兄が来た時は最早定番となっていることが1つある。それは鍋をするということだ。前回遊びに来た時も確か鍋をした記憶がある。鍋というのは食べたくても、それを一緒に食べてくれる人がいないと美味しさも半減してしまうというものだ。その理論はよくわかるので、ここは兄の我侭に付き合うとしよう。私としてもたまには栄養のあるものを食べたいと思っていたので、その提案は非常にありがたいものだった。二日間の予定で滞在していたのだが、特に鍋以外に何かしたという記憶は無かった。しかしそれ以上に色々な話ができたのが大きかったと思っている。恋愛の話、仕事の話、プライベートの話、昔の話…兎に角色々な話をかなり長い間していた。鍋をしたのは2日目のことなので1日目は2人して居酒屋に行って飲みながら話をしたのだが、話は尽きることは無かった。よく考えてみると、兄弟でサシで居酒屋に行って飲むというのも中々しないことのように思う。そう考えると、他の兄弟よりは仲がいいのだとは思う。兄の恋愛話にアドバイスをするという兄弟逆転の図式も今回もまだ健在だったことも関係しているだろう(笑)思えばこうやって居酒屋でお酒片手に恋愛の話や様々な話をするというのも初めての経験だ。それだけオトナになったということなのだろうと思うが、私としてはちょっとだけ嬉しいと思うことがあった。兄は2歳年上だ。つまり私よりも2年間早く仕事に就き社会人として活躍することになる。ということは、私が学生の頃でも何かと金銭面でも懐の厚さが違い、その方面でもなにかと迷惑をかけることがよくあった。しかし今回は違う、私もようやく兄と同じ土俵に立てたというものだ。兄弟2人ともが社会人で今こうして居酒屋でサシで飲みながらちょっとだけ青春染みたような話をしている、この構図はむず痒いような…とてもいい空間だったように思う。兄だからこそ言えることもあるし、他の男友達とは違う私が出せるというものだ。先ほど兄は帰って行った。駐車料金が高いだのなんだのと文句を言いながら帰っていくのはいつものことだが、こうやって私の不毛な休日が意味のあるものに変わっていくと思うと、兄がわざわざ遠い私の家まで遊びに来てくれることを感謝しなければならない。まぁ、面と向かっては言えないのだが(笑)
Oct 27, 2007
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久しぶりにマックに行った(関西ではマクドと略する)何故私が関西人のくせにマクドナルドのことを「マック」と略するのか、それは東京に旅行に行った時のことが影響している。その時にはある人と待ち合わせをしており、その待ち合わせの場所というのがマクドナルドの前だった。生憎と待ち合わせをしている人と会うまでに時間があったことも関係してか、高校生らしき人達がマクドナルドに入っていく光景を何度も何度も見ていた。その時にマクドナルドに入ろうとする高校生らしき人達はみんな「マック行かない?」と綺麗な標準語で話しているのが聞こえた。そんなくだらないことかと思うかもしれないが、案外何時間も何時間もその環境にいると、マクドナルドのことを「マクド」と呼ぶのに違和感を感じるというものだった。なので私はマクドナルドのことを未だに「マック」と略してしまう癖がついてしまったと言える。普段生きてきた環境の方がその東京旅行の時よりも当然長いわけで、そんな短い期間での慣れが22年間の実績に勝てるかどうかとお思いかもしれないが、しかしそれはそれで不思議な巡り合わせによってマックという呼び方は固着したと言える。まず私の生まれ育って18年間暮らした地元がマクドナルドがないような田舎だったということが関係している。マクドナルドというものをテレビのコマーシャルでしか見ないような都会の象徴だと思っていたということから、マクドナルドのことを関西ではマクドと略することも当然のように知らなかったし、身近にないという理由から声に出してマクドナルドのことを呼ぶこともなかった。なので稀なのは稀なのだが、もしも呼ぶ時にはマクドナルドと普通にフルネームで呼んでいたような記憶がある。なのでマクドという略の仕方も市内に出てきてからもそこまで浸透している呼び方ではなかったというわけだ。加えて大学生活にご飯を一緒に食べに行くような友達も、京都を始めとする関西出身者というよりも遠くの方から来ている人が多く、むしろ私にとってはマクドよりもマックという言い方を聞く機会の方が多かったことも関係しているかもしれない。ちょっと前置きが長くなってしまったが…そんなマックに行った時の話だ。今はどうやらキャンペーンをやっているらしく、行ってみるといつものセットが290円で売っていた。別にそこまで好きな存在ではないのだが、安いというところに素直に惹かれてしまい、1セット購入することにした。適当に選んで出来上がるのを待っていたところ、横のレジにすらっとした高い身長のフランス人っぽい人が来た。京都は言わずと知れた観光の名所、特に海外からの観光旅行者がよく来るところとして有名だ。なので外国の方を見る機会はかなり頻繁で、珍しいものではないのだが、しかしその男性のカッコよさが気になって注文したものが出来上がるまでなんとなく見ていた。すると店員の人がやってきて、注文を何にするのかをバリバリの日本語で聞いていた。これがある意味では観光地ならではの凄さだと思う。外国の方を相手にしても自国の言葉を押し通す辺りが慣れているというものだろう(笑)もしかしたら店のマニュアルにもそう明記してあるかもしれない(笑)するとそのフランス人風の男性は一瞬困ったような表情をした。もしかしたら日本語がわからないのかな?と思っていると、そのフランス人風の男性は「じゃあソーセージエッグマフィンで♪」と物凄く綺麗な日本語で言った。これには驚いた。どんなに達者な日本語を話す外国の方でも、英語の単語になると若干日本語のイントネーションからネイティブの発音になってしまうものだ。日本語は日本語ぽく話せても、英語になると地になってしまうということがよくあることなのだが、しかしそのフランス人風の男性は「ソーセージ」も「エッグ」も「マフィン」も日本人の発音と同じくらい日本語日本語したイントネーションで注文していた。おそらくこんな現象がそこかしこで見られるのも京都くらいなものだと思う。奈良や鎌倉ももしかしたらそうかもしれないのだが、やはりそれでも京都のそれよりは少ないように思える。綺麗な日本語を話す外国の方を見るとちょっとシュールな気持ちになるのは私だけだろうか?繁華街を歩いていると、日本人と同じくらいの比率で外国の方には会う。駅前留学よりも海外の言葉にふれる機会が多いというのもこの街の特徴かもしれない(笑)
Oct 25, 2007
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髪の毛が伸びるスピードが異常に早い。髪の毛が伸びるのが早いのが男性ホルモンか女性ホルモンかどちらかのホルモンが多いと怒る事象なのかは定かではないのだが、しかしそれにしても20歳を超えた辺りから髪の毛が伸びるスピードが尋常ではないほどに早くなってきた。蝋燭は消える前にこそ一番強く燃え上がるものらしい。虫は捕食者に捕らえられて今にも命尽き果てる前にこそ一番抗うらしい。……そういうことなのか!?汗今ちょっとした負のブーム到来である_| ̄|○では今日のテーマへ(汗)新紙幣を普及させようという動きって必要なのかと思うことがある。最近とんと2000円札を見なくなった。それは今に始まったことではないのかもしれないのだが、確実に存在する事象のような気がしてならない。思えば2000円札はかなりアウェイなポジションからの船出になったような気がする。2000年というミレニアムな時に記念に何か残そうとして作られたのが2000円札なのだが、様々な理由から使用は極端に少なくなっていったように見える。まずは自動販売機を始めとするオートメイション化されているものに対して2000円札を利用可能にする労力があったことが挙げられるだろう。1000円札は当たり前のように自動販売機では利用可能なのだが、5000円札は使えない。では2000円札はどうするのか?そのような議論は確実に行われていたものと推察できる。煩雑なこともあってか、きっと今の自動販売機では2000円札は使えないだろう。入れてみようにもその2000円札が圧倒的に普及していないので試しようがないという体たらくだ。しかし今2000円札を推奨しているところが1つ存在している。それはコンビニのATMだ。ATMでお金を下ろす機会が多くなってくると、千の位を下ろす時には必ずと言っていいくらいに2000円札が混じってくる。あれは一体何の意図があって行われていることなのだろうか?はっきり言って意味がないように思える。推奨だとしてもかなり微々たる効果しか得られないだろうことは自明だ。それにお金を扱う全ての機関に言えることなのだが、2000円札をお釣りとして渡さなければならない状況においては、大体の場合店員さんが「2000円札が混じりますが、よろしいでしょうか?」というようなことを言う。これがどうしてもおかしく感じてしまって仕方ない。例えば1000円で978円の品物を買った場合、ちょうど店側が10円玉をきらしていて全てを1円玉でしか支払えないという状況(実際には考えにくいが)だとするならば自然だ。普通に渡すよりも硬貨の量が多くなってしまうのだから仕方が無いというものだ。しかし10000円で2500円のものを買った場合、5000円札1枚と2000円札1枚と500円玉一枚の計3つで片付けられる分、従来の2000円札がない場合と比較しても明らかに合理的だ。なのにその額を支払う時には上記のような断りを入れてくる。これは明らかに2000円札をお金として認識していないということの表れだろう。同様に、友人同士のお金の貸し借りでもこのような事象は見受けられる。4000円貸していた、若しくは借りていた場合、それを返済する時に2000円札を混じらせると「それは嫌がらせか?」というようなリアクションをされる。これも考えてみればおかしな話だ。やはり2000円札はかなり異端な存在として認識されているというのが現状だろう。ルックスとしてはかなりオシャレ(比較論でだが)な方なのに、それに見合うだけの扱いをされないというのは悲しいものがある。カッコいいのにもてない人ぐらい悲しいことだ。それを思うとコンビニのATMで2000円札を優先して出すというのはせめてもの普及活動の一環としては微笑ましいものだと思えるから不思議だ。むしろ合理的に払おうとしている機械に対して疑問を感じること自体がこれを書いている私自身が異端に感じているということなのだろう(笑)新しい紙幣を作るという発表があった時、まず私が一番に思い浮かべたのが50000円札だった。全てのお金は1と5で形成されている。1円と5円・10円と50円・100円と500円…といった具合だ。それなのに10000円だけ伴侶がいない。なので新しい紙幣を作るという一報を聞いた時には確実に50000円札を作るものだと思っていた。何故紙幣は上限を作るのではなく、下限に目をやるのかが不思議だったので、この機会に抜本的な紙幣改革を行うのだと勝手に妄想していたというわけだ。しかし現実的に考えてみると、これはよしんば作ったとしても恐らくは2000円札以上に普及しなかっただろうと推察される。圧倒的に汎用性がないからだ。お金もデジタルの時代に移行しつつある。こうやってアナログな方法で金銭のやり取りをする時代ももしかしたら長くは続かないかもしれない。そう考えると、今日の当然の摂理のように紙に価値を持たせるということも意外に古風でいいものだと思えてくるから不思議だ(笑)
Oct 24, 2007
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何にも予定がない。まぁいつものことだが(笑)そんなわけで今日は何の予定も無かった。前日にちょっとキツめの夜勤を終えていたこともあって、家に帰って来てからは爆睡だったのだが、目が覚めてからは何かしなければと焦ったくらいだった。確かにその爆睡には12時間以上寝たという意味が込められているのだが、よく考えてみると珍しいことではないと思えるようになった。それくらい、私の体はもう今の仕事のシフトに浸っているということだ。素直には喜べないが、まぁ悪いことではないだろう。何をしようか迷っていたら、実家からメールが来た。また荷物を送ってくれるようだった。私の母はそうやっていつも何かあると(と言うか何もなくても)荷物を送ってくれる。しかもいつも決まって食料だ。否、食糧だ。余談だが、食料と食糧の違いを言える人はいるだろうか?これは数少ない知識の中で、私が大学で学んだことの1つだ。食料とは主食以外の食べ物全般を指し、食糧とは主食を含む食べ物全般を指す言葉のようだった。「しょくりょう」という言葉が日本語なので、必然的に食糧という言葉の指すものは米製品とパンを指す言葉になるのだろうが、私の主食は米でもパンでもなくパスタなのだ。主食というのは一般的な主食を指すのか、それともその人のバイオリズムの上での主食を指すのかはわからないが、若しも後者の意を持っているとするならばかなりフレッキシブルな言葉だと言えるかもしれない。お米だけが主食であり、それ以外を考えることも出来なかったような時代に出来た言葉が多様化の現代にも通用するということ、むしろそれ以上の意味を持っているというのは凄いことだと思う。先見の明だとしたら言葉の紡いだ人は相当の切れ者だと言える。まぁそんないつもの私らしいことを考えながら荷物が来るのを待っていたのだが、指定の時間になっても全然来ない。16~18時指定だったのだが、もう18時5分前くらいになっているのに一向に来る気配がない。すると荷物の回収センターの方から電話がかかってきて、オペレーターらしき女性の方が申し訳なさそうに遅れる旨を伝えてきた。しかし私はできるだけ優しく構わないという旨を伝え返した。それは別に向こうが下手に出ているからではない、私が社会人になってそのような仕事で自分のせいではないのに遅れるというようなことを伝えなくてはならないということがどれだけ鬱なのかを知っているからだ。だから、せめて指定の時間を遅れても、目くじらを立てないだけの心の余裕を見つけることが出来た。これは結構大きな成長だと思う。仕事をする側になると見えてくる概念も違うということなのだろうか。結局荷物は1時間半遅れで来たが、配達のお兄ちゃんは悪びれるような素振りもなかった。まぁ現実はそんなものだろう(笑)来た荷物を開けると目一杯詰め込まれたであろう食糧がわんさか出てきた。いつもながらにこの量を見ると呆れてしまうのだが、しかしこれも私の身を案じてくれている両親の気持ちだと捉えると無碍には出来ないというものだ。早速食べたものだった(笑)味が違うのはきっと気のせいではないはずだ。後はまったりと過ごした。テレビを点けないのはいつものことだが、今日は下を行き交う車の数も少なく、静かな夜を過ごした。こんな日もたまにはいいかもしれない、客観的に見ると不毛な休日かもしれないが、たまにはいいだろう。月が綺麗だ。空気が透き通っていて、気持ちがいい。もう秋だ、秋になると京都は魅力を帯びる。明日は仕事だが、究極夜勤だ。初めてなのでどうなるかわからないが、しかし始まる時間が遅いのでほとんど休みみたいなものだ。天気もいいし、洗濯でもして過ごすとしよう。不毛に思えることも意味がある、そう感じた休日だった。
Oct 23, 2007
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最近ブログに、変な書き込みが多くなっている。まぁありきたりな風俗関係のものがほとんど、と言うか100%を占めているわけなのだが、何故今になって増えだしたのかがいまいちわからない。一応1年半以上は続けているわけなのだが、今のようなレベルで風俗関係の書き込みが掲示板いっぱいになることは今回が初めてだ。なので毎回日記をアップする前に消しているのだが、これがまた面倒で仕方が無い。アクセスブロックや書き込み制限の機能もそろそろ本格的に導入すべきではないかと思えて仕方が無い。消す手順を恐ろしく早く実行している辺り慣れなのかもしれない、慣れって怖い(汗)日本の景気は回復傾向にある。一時期こんな話を聞いたことがあった。今までの日本の景気は踊り場の状態であって、どちらに転んでもおかしくないような状況だっただけに、上りに転じたことは喜ばしいことなのだが、しかしその言葉に疑問を持つ人も多いのではないだろうか?確かに日本の景気はマクロレベルでは回復しているのかもしれない。しかしながらそれは大きな語弊を孕んでいるということもまた事実だ。例えば100人の人間によって日本経済が成り立っていたとしよう。そのうち50人はお金持ちと呼ばれる家柄で、もう半分の50人は普通の家柄だとする。例えば何かのきっかけでお金持ち層の50人全員が大きく事業展開したり既存事業で大儲けをしたとしても…それは庶民層の人達の仕事内容の結果に左右されることなく、景気は回復したとされる。お金持ちが儲けて、庶民が現状維持。このような状況でもマクロで見れば景気は確実に回復していると言えるのだ。どうもこのような図式が今の「景気回復傾向」の本当のところのような気がする。「自分は仕事をしていて、その会社も別に何年も前から特に業績が上がっているわけでもボーナスの額が増えたわけでもない。しかし景気は回復していると言っている、なのに自分はその影響を受けていないような気がする」きっと社会にはこんな人で溢れているような気がする。景気が回復したからといって末端まで潤っているという考え方は決してラディカルではない、むしろその考え方をもっていてもなんらおかしいことはないというものだ。なので現状は変わらない、それはそのまま上層の潤いのみの景気回復を示唆しているというものだ。私の仕事は情報サービス業金融部門だ。金融部門なので、誰がどこでどれだけのお金を借りたのかという「情報」を商売にしている。なので本気で犯罪を犯す気になれば、ビデオカメラなどのAV機器を持ち込んでその情報を撮影し、然るべきところに出せば莫大な金銭を得ることが出来るような現場で仕事をしている。誰がどこでどれだけのお金を借りたかという情報は知ろうとしなければ知れないのだが、そのうち何人が借りたお金を返せなくて法的措置をとられているのかということまでわかる。そのような人のリストが毎日のように膨大なデータとして送られてきて、それを週1で纏めて提出するという仕事もあるからだ。随分と前からこの現場にいる先輩の話によると、そのデータの数は10年前に比べるとかなり減ってきてはいるが、しかしそれでもかなりの量になるということらしかった。減ったという理由は、その作業のオートメーション化が進んできているというだけで、別にお金を借りる要素がなくなったというわけでは決してない。その数が減っていないということを景気が回復したということとイコールにすることは一意的過ぎて出来ないことなのかもしれないが、現にそのような情報を扱う仕事をしていると、お金を借りたにも関わらず返すことが出来なくて法的措置をとられる寸前の人が未だに膨大に存在していることに景気の回復が末端まで行き届いていないということを感じざるを得ない。仕事柄とは言っても切ない気分になるものだ。本当に景気が回復しているのならば、そしてそれが末端にまで行き届いているのならば、私の現場の仕事はもっと減るはずだ。それだけが全てではないので廃業にはならないのだが、しかし仕事の優先順位上重きを置いている仕事が1つ無くなるくらいのことは起こるような気がする。そうなって初めて景気が回復し始めたんだなと実感できると思える以上、今の状況を手放しで喜ぶことはできない。これは揶揄ではない、結構マジな話なのだ。今の仕事場ではリアルに末端の金銭状況がわかるのだ、だからこそ変化のない状況に杞憂を感じるというものだ。
Oct 22, 2007
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「運も実力のうち」という言葉は運以外の実力がない人の作った唯一普遍の逃げ道だ。そもそも実力というのは分野によって様々に分類されることになる。その分野に特化した人が初めて実力という言葉を使っていいという考え方が通念であるべきだし、むしろ努力をしていない人が実力なんて持ち合わせていないというのもまた道理のはずだ。なので運でしか勝負できない人が使う言葉、それが「運も実力のうち」だと思う。それに本来ならば「運は…」と表記すべきなのに「運も…」と表記しているあたりがどうも逃げを打っているようにしか思えない。誰にでもあるもので、そして時と場合によってパラメータの異なる要素にまで実力という言葉で片付けてしまおうというのが逃げに聞こえるというものだ。運というのは本当は0から何かを生み出す実力ではないというのが私の自論だ。運は厳密に言えば経験則の延長であって、本当に何もわからないまま適当に選択した結果がいい結果になったからといってそれが運だということではないような気がする。そういう意味では一般概念における運はもっと崇高な存在であるべきだし、本来の意味で使われるのは不本意だというものなのだろう。まぁ私には一般的な運はあまり備わっていないようだが(笑)先日ある友人と話をしていてちょっとだけ話題になったことがあるのだが、それが今回のテーマだ。タイトルにもあるように、このことは私にとってもかなり前からの疑問であり、且つ知っている方がいたら是非に表現してもらいたい概念だ。ではテーマへ。ぴーたん…移動速度が二倍で、主に地下4階から12階くらいにまで出現する。戦闘の意欲はなく、ただ逃げるだけの存在で、倒すとおにぎりを落とす。経験値は低めだが、ぼうれい武者に憑依させて飛びぴーたんにしてドラゴン草で…というぴーたんではなく、食べ物の方だ(笑)マイナなネタで申し訳ないのだが、わかる人だけ笑っておいてくだされば幸いだ(笑)私がその食べ物と出会ったのはちょうど1年と8ヶ月前、神戸南京町の小さな中華料理屋だった。一応それまでに前知識としてぴーたんがどのようなものなのかは知っていたものの、知っている知識をいくら引き出したとてその料理が美味しそうには思えなかった。まず見た目がかなり食欲を失わせる傾向にある。確かにただの卵だと言われればそれまでかもしれないが、色がもう…なんだかそこら辺に落ちている卵を拾ってきてお皿に盛って出していると言っても過言ではないような色をしている。その時点で既に私の人生におけるベクトルにはぴーたんはきっと絡んでこないだろうと思っていたのだが、しかし逆にそうやって凄いルックスや不味そうな感じを見ると興味が出てくるというのも本音だ。チャンスが巡ってきたのが1年と8ヶ月前、ちょうど遠方から友人がやってくるということで、神戸で遊ぶことになっていた私は、その友人と一緒に入った中華料理屋でぴーたんと合い見えることになった。その友人曰く、ぴーたんを以前に食べたことがあったのだが、どうにも味の表現に困る食べ物らしかった。なのでその友人にぴーたんを食べて味の表現をして欲しいと頼まれていたということもあって、初めてその場で食べたのだが、まさにその友人の言う通り…私も困ってしまった。旨い不味いのレベルにはもういない存在だと思ったのを鮮明に覚えている。私は一応23年、その頃でも21年は生きているので、食べ物の味を漠然なアウトラインでもおさえることは可能だという自信は持っていた。しかしぴーたんはそんな私の21年のキャリアを崩壊させるには充分な相手だった。根本的にそのお店のぴーたんがよろしくなくて味の評価がしにくいんだと最初は思ったが、しかし友人曰くどこでもそう変わりはないということだった。もしかしたら最高級の中華料理のお店のぴーたんは絶品なのかもしれないが、貧乏育ちの私としてはきっとそんなところでぴーたんを食べるなんてことは相当先になるだろうし、そもそもそれが実現する頃にはそんなことは忘れている可能性だって否めない。何がどう旨いとか、どこらへんが不味いという表現はできなかったものの、敢えてその味を表現するならば…なんか残念な味だということだ。ニュアンスでしか旨い不味いの線引きが出来ないというのがもしかしたらぴーたんの真骨頂なのかもしれないが、しかし腑に落ちないのもまた事実なわけで…。そんなわけで、ぴーたんを食べたことがある方にお願いしたい。あれってどんな風に味の表現をしたらいいのだろうか?どうも言葉が足りなくてぴーたんに対していい評価をしてあげられない私に代わってぴったりの表現をしてくださる方を募集したい。特にあの白身のぷるぷるのところの味の表現を期待しています(笑)
Oct 21, 2007
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寒い。もう涼しいというレベルではない気温になってきた。確かに最近はどんどん気温が一定になっているのだが、それにしても今日の気温の変化は大きなもので、寝ていても久しぶりに布団をかぶってしまったものだった。もうそろそろ布団も冬用のものを用意しなければならない時期なのかもしれない。それに伴って部屋の装いも冬用のものにシフトしていこうかと思うのだが、如何せんそれには結構な時間がかかる。まぁ今日の仕事が夜勤なこともあって、それが明けたら部屋の掃除も兼ねて冬の装いに変えていこうと思う。まだまだ気温が一定にはならないのだが、しかし用意しておくに越したことはない。このように季節の変わり目にいつも思うのだが、部屋にいる時の窓の開閉にいつも悩むというものだ。窓を閉め切っていると暑いとまではいかなくてもなんだか落ち着かないので窓を開けるのだが、窓を開けると開けるで冷たい空気が入ってきて寒い思いをするというものだ。それならば窓を半分だけ開けるといいと思うかもしれないが、それこそが風の原理の盲点で、空気の流れ口が小さければ小さいほど微風でも強い風になるという所謂「スリットの法則」が適用され、半分開けても寒いという結果には変わりがない。どっちにしてもこの時期は我慢が必要だということなのかもしれない、まぁ仕方がないことなのだが(笑)今日は今日とて仕事だった。いつものように仕事に行ったのだが、今日は少し苦手な先輩と2人での勤務だったので嫌な予感はしていたのだが、案の定気分良く仕事が出来る雰囲気では無かった。まずは私の恋愛事情やらプライベートやらを根掘り葉掘り聞かれた。ただ聞かれるだけなら別に構わないのだが、それに対していちいち文句を言ってくるのが面倒だった。人には様々なバックボーンがあるのだから、自分が生きてきた環境だけが全てではない。自分以外の生き方や環境の違いを「異端」と認めてしまうのは簡単だが、許容できないというのは器の問題になってくる。その先輩は25歳なのだが、25歳になるまでずっとぬるい環境で生きてきた人の考え方はこんなものなのかということを学んだという意味では収穫だったが、それがスキンシップになったかと言えばそれは違う。頭の悪い後輩を演じるのも一苦労だというものだ。別に何か変わったことがあったわけではないのだが、なんとなく気分が滅入るというのはこのことなのかもしれない。最近病気が再発してきた。これは子どもの頃から患っていた病気とはまた別のものなのだが、しかしこの病気が再発するとかなりブルーになる。もともと患っていた病気も、最近になって発症した病気も、どちらも実害はほとんどない。うつるということはないし、ただ私が気をつけていればいいだけのものなのだが、しかしそれを見た時の人の奇異の表情が嫌で、私はこの病気のことを頑なに隠し続けていた。このことを知っている人は少ない。むしろこの病気のことを言えた人は未だかつて一人しかいないのだ。その人はそのことを認め、そんなことは気にしないと受け入れてくれたのでとても嬉しかったのを覚えているが、しかし全ての人がそうではないことは自明だ。なので私はもともと患っていた方の病気の存在は隠していた。しかし最近になって患いだした病気の方は、普通にしていても目につくところに現われだしたものだった。なので、私は常に絆創膏を張って目につかないように努めているのだが、逆にそれが目立つようで、よく人に聞かれることになる。普通とは違う、病気を持っている、それだけで異端だと見られてしまう扱いにももう慣れたのだが、時々少し悲しくなる。やはり外見で判断される要素というのは思いのほか大きいようだ。治す手立てがないわけではないのだが、それにも時間がかかる。植えつけられたイメージを払拭するには更に時間がかかるというものだ。なんだかネガティブになってしまったが、これでも明るく生きている方だと思う。明日はつまらなくも素朴な疑問でも書いてみよう、ちょっとは明るくしないと読んでくださった方まで暗くしたのでは私の気もおさまらないというものなのだから(笑)
Oct 20, 2007
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雨…やはり雨が続いている。折角やった洗濯物も心持気持ち良さそうには見えない。やはりお日様が好きなのは洗濯物も同じだということなのだろう。することがない休日というのは時間の流れがゆっくりだ。まるで忙しく働いている時の半分の速度で進んでいるようだ。それはそれでいい、忙しい時間があっという間に過ぎていくことを考えると帳尻が合っているということなのだろう。上手く出来ているものだ。久しぶりにご飯を作ろうと思った。ここのところ自炊をしていなかったので、まな板や包丁が完全にベンチウォーマーと化していた。どんな名器も使わなければ朽ちていくというのは本当らしい。折角だから使ってあげようと思ったのだが、いざ買い物に出かける気分でもなく、また簡単に済ませてしまった。最近はこんなことが多い、まぁこれも男の独り暮らしの運命なのかもしれない。料理が出来ると便利だというが、料理が出来ても料理をするだけの時間がなければ同じことのように思える。今の私にとっては時間というものがひどく大切な存在に思える。23歳、なってしまえば早いものだ。思えば20歳からの日々のスピードは10代の頃のそれよりも早くて焦ってしまう。何か形になるものを残す、存在の意味を証明する、そんなような大きな目標があるにも関わらず、20歳から3年経った今でも何が残っているのかわからない。きっとこのままではどんどんダメになっていくような気がする。仕事にやる気を見出すというのもあるが、根っからの淋しがりやな私は何か糧となるものが欲しくなる。何かを護る為に働く、誰かの笑顔の為に働く、そんな理由で働ければきっと凄くやる気に満ちた生活が待っているような気がするが、今の私にはそんな気配は微塵も感じられない。日々が早い。驚くほどに早い。このままでいいのか、ふと考えることがある。今の仕事は楽しい。時間が不規則なことを除けば最高の職場だと思っている。しかしながら会社的に先があるとは思えない。一般的民間の会社よりもきっと私の会社は手ぬるい。ある意味ではぬるま湯に浸かっているようなものだ。それだけに今の会社の存続を期待してしまうが、素人目から見てもこの先はないように思える。勿論私だって今の会社に骨を埋めるつもりなんて毛頭ない。できれば今の会社をステップに出来れば最高だと思っているが、しかしビジョンがない、スキルがない。とりあえず今は目先の仕事を片付けていくことで将来の不安を払拭しヒューマンスキルの向上を目指すとしよう。休みなのに仕事に行くということにも慣れた。1人で過ごす休日にはもっと慣れた。一言も声を発さない日が何日かあることには更に慣れた。声が聴きたい、君の声が。1日だけでもいいから飛んできてって望みはちょっと滑稽かも。
Oct 19, 2007
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今日は生憎の雨だ。洗濯や掃除を予定していただけに、この雨は痛すぎる。考えてみれば私の休日の予定のほとんどは晴れが前提でないと出来ないことばかりのような気がする。なので雨になってしまうと一気にぐずってしまい…結局やる気がおきないことになってしまう。まぁ洗濯や掃除に関してはやる気がないということで片付けてしまうとどんどんと堆積してしまうものなので、そうも言っていられないのが現状だ。前の部屋もそうなのだが、部屋干しできないということがこれほどまでに不便だということに気づかされるというものだ。絶対的に価値のあるものとは何だろう?その答えは人それぞれだろう。物に価値を見出す人もいれば、抽象的な概念に価値を見出す人もいるかもしれない。お金だと答える人もいるかもしれないが、お金はいつまでも変わらないであるものではないような気がする。なので絶対的な価値があるものだとは言い難い。勿論これは私の考えなのだが。私がこの質問に答えるとするならば、その答えは間違いなく「信頼」だ。信用されること、そして相手のことを心から信用することは絶対的で普遍的な価値があると信じている。そもそも人間関係においては信頼が一番の中枢であり、今の友人関係・職場関係が築けているのもそれのお陰だという部分は多いだろう。まぁ友人関係ならいざ知らず、職場関係には「信頼」というよりも「打算」や「妬み」という因子の方が大きく影響していることもあるのだが。そういう純粋でない、否もしかしたらある意味では純粋かもしれない概念で渦巻いている時点で私には肌に合わない場所だと言えるのだが。信頼される、信用されるということは難しい。媚びて得たものは薄氷のものに過ぎず、何かのきっかけを経て破綻してしまうことも多い。私が信頼したのに、相手は仮初の信頼を返してきて表面上は上手くいっていて何かのきっかけで破綻した例は何度もある。それは私が信頼に足る人間ではないということを意味しているのかもしれないが、しかし信用した相手に同じ信用を求める行為は出来た人間だけに許される特権なのだろうか?私は違うと信じたい。見返りを求めるのではなく、純粋に信頼した心にはそれに応えるだけの信頼が返ってくるのが本当のところだと思っているからだ。そういう意味では私には確固たる信頼をおいている人がごくごく少数しかいない。1人は名古屋に住んでいるバンドマン(名古屋というと怒られるかもしれないが(笑))で、もう1人が言わずとしれたRだ。この2人だけは知り合ってから長い時間が経つが、未だに色褪せない信頼をおいており、彼らもまた同じだけの信頼関係を返してくれる。とても楽で居心地がいい空間だと言える。友達100人いるって感じの人にはどれだけキャパの大きな信頼があるのかと羨ましく思うことも時々あるが、或いはこれは私の器に合っただけの信頼の量だと思えるのもまた事実だ。そう考えると、信頼とは絶対的でありながらも量が決まっているものなのかもしれない。それを増やす方法は…今のところ想像もつかない。多くの人から普遍的な信頼が得たいとは思わない。そんな聖人になりたいなんて一欠けらも思えない。しかし、私を信頼してくれて、そして力になってくれる・力になってあげられる、そんな関係の人が1人でもいれば私には満足だ。過ぎたる器を求めるのではなく、等身大の自分を真っ直ぐに見た上での意見だ、驕りではないはずだ。お金なんかよりも信頼が欲しいと思えた雨の休日だった。雨はまだ止みそうにない…。
Oct 18, 2007
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今日から3連休♪とは言っても世間的には全くもって平日である17・18・19日の連休なのだが、最近は仕事でもトラブルが多く落ち着くことのなかった日だっただけにこの3連休は非常にありがたいものだと言える。トラブルだけなら結構頻発しているのだが、私ももう3ヶ月、ほとんど4ヶ月のキャリアがあるというわけで、その対応も半分くらいはしなければならなくなった。それだけに疲れた感も前より大きいというわけだ。本当ならばめくるめく楽しい3日になっていたのだがそれも無くなってしまったので、失意のうちに過ごそうかと思っていたのだが、そんな折に会社の先輩からの提案で、集まれる人は集まって飲み会をすることになった。傷心中の私としてはありがたい話だ。そんなわけで飲み会をしたのだが、場所は某有名焼肉屋ということになった。それは別に私がお金がないことを考えてとかではなく、むしろただ駅から近いというだけのつまらない理由だった。しかし久しぶりにお酒が飲めるし美味しいものが食べられるだろうと楽しみにしていたものだった。いざ飲み会が始まってみるとなかなか盛り上がって…仕事の話やプライベートな話も頻出してかなり盛り上がったのを覚えている。その中でも仕事の話が一番盛り上がって、どの先輩が仕事をしないとか上司のこの部分が嫌だという典型的な話になった。私はまだこの会社のこの現場に配属になってからそう日が経っていないこともあってそのような話はあまり出来ないことも関係し、ずっと肉を焼く係りに徹していた。勿論聞き耳は立てていたが(笑)それを通して思ったのだが…どのような仕事でもやはりそりの合わない人というのはいるものらしい。現に今の現場でも私が苦手とする人が2人いる。その方はもう生理的に私と合わないことが第一印象から匂いだして、そして最初に一緒に勤務になった時にその考えは確信に変わった。何と言うか…ゴシップを流す人というのが私は嫌いだ。前の日記にも書いたかもしれないが、私は人が困るようなことに尾ひれ背びれをつけて面白おかしく人に話すような人が嫌いだ。それが事実ならネタだということで流せるのだが、事実無根のことを広められるのは本当に心外だ。今はその人とは表向きにこやかに話しながらも恐ろしいまでにドライな関係を築いている。プライベートでは絶対に交わりたくない人の1人だと言える。まぁそれでも仕事をしているということは苦手な人との付き合い方も考えなくてはならないということだ。嫌いだから極端に避けるとか、話もしないようではただの子どもなので、私も仕事上の付き合いと割り切って色々な話は振っていっているつもりだ。それがヒットしているのかどうかは今でもわからないが、それでも私の現場の中での評価はそれなりだと自負している。間違いでなければいいが(汗)その私が苦手としている人も含め、今回はかなり際どい話題が連発した。これは新人の私に聞かせるべきではないのでは?とちょっとはらはらしながらも、肉が綺麗に焼けるにはどうしたらいいのかを考えることで、先輩方から飛んでくるオールキラーパスの話題を深く心に刻まないようにしていた。幸いにして私がその飲み会の場の一番下っ端だったので、肉を焼いたり皿を片付けたりする係りは全て私が一任していた。それが無ければ今頃思想的に疑心暗鬼になっていたに違いない。楽しいが恐ろしい場とはこのことなのかと痛感したものだった(笑)その後はその店から近いという理由で私の家に集合した。その時もお酒を交えて色々な話をしたものだった。ある1人の先輩が私のブログを見たいと言ったり午前2時にも関わらずカラオケに行こうなどといったり、部屋の物色をしたりとかなり挙動不審な動きをしていたのだが、まぁしかしたまにはこういうのも楽しいと思えた。私はいつも1人だ、それを思うとこうやって飲み会に混ぜてもらえるだけでも幸せだというものだ。今も1人の先輩が私の横で熱心に本を読んでいる。かなりクールな先輩なので声がかけづらいのだが、そんな中でもブログを更新している私は熱心な…否ディープなブロガーだと言えるかもしれない(笑)
Oct 17, 2007
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最近は夜が非常に涼しい。やはりもう10月も半ばだということで気温が秋のそれに近いものになっていっていることがそもそもの原因なのかもしれないが、しかしそれにしても何故気候が地球温暖化の影響でおかしくなっているという話が出て夏が冷夏になったり、冬が暖冬になったりすることがあっても春と秋の気候が根本的に変わることがないのだろうかとふと疑問に思うことがある。少し考えてみればそれは当たり前のことで、夏と冬の気候が少し変化しただけで何故ああも取り上げられるのかと言うと、単純に「暑い」「寒い」というファクタが他の季節に比べて少しだけ顕著になっているのが普通であり、そのファクタの平均値がいつもよりもおかしいということを察知した段階で「異常気象」で片付けるという風潮があるからだ。そういう意味で言えば春と秋は気温の特徴的なファクタはないので、もしかしたらその年の気温が去年のそれよりも低かったり高かったりしてもただ気づかないだけなのかもしれない。基準となる年の気温を精確に測り、それに則った平均を算出するならば、或いは春も秋も異常気象だと言われることがあるかもしれない。しかしそれはあくまで数値的な概念であり、人が直に体感するものとはまた違うことになる。たとえ基準となる年の気温から3度変化が生じたとしても、体感的に感じなければないものと同じだし、結局は人間の感性に起因する問題となるわけだ。それを思うと、人間の感性なんてものはあてにならないほど抜けているという考え方が出来る。今日の話は少し路線が違うのだが…一般的に小型化するのと汎用化(この場合は新製品を作るという意味)するのではどちらが難しいかというようなことを時々考えることがある。例えばPCの新しいOSを開発し、それを搭載した新機種のPCを作るのと、既存のPCを多分野に知らしめる為に小型化するのではどちらが難しいかと言った具合だ。では考察を…。新しいものを作るということはそのものの今までの経緯を踏まえた上で新しいものを作る必要性が出てくる。その行為はとても困難なもので、参考に出来る資料というのが全くなく、そのものが該当するカテゴリのみ一致させるだけという暗中模索的な開発をしなければならない。つまりPCであれば「それがPCである」ということだけは外せない要因だが、PCの機能や処理速度については全く新しいものを乗せないといけなくなる。この部分の開発に於いては過去にどんなものがあったのかを参考にすることは出来ない。もしも参考にしてしまったのなら過去にあったシステムに似通ったものが出来てしまうし、何よりもそれは開発するという観点からもあまり望ましい行為だとは言えない。むしろ開発における新しいアイディアというのは全く関係ないほかの分野から導かれることが多く、刺激を受けるという意味では同じものから学ぶべきではないということの証明になっているとも言える。一方小型化においては、外の部分の開発がメインの課題となる。システムや機能においては既に確立しているものを使えばいいだけだし、それ自体を搭載する筐体を小型化すればいいだけなので簡単に思えるかもしれないが、それも大きな間違いではある。そもそもある1つの財を完成させたとしても、それがまだまだ小型化できるという余裕をもってして完成させるということはありえない。完成した時点ではそのものの大きさを限界まで小さくしようという意図があるわけだし、逆に言えば小さくできるものを大きくするメリットなんてどこにも存在しない。その段階から、全く同じ機能を有した小型化を図るということは、えてしてシステムの変更、内部装置の見直しが必要となってくる。小さくしても大きかった頃と同じだけの馬力を出すことが可能なのか、汎用化することが可能なのか…そのような観点が重視されるのは必然であるし、それに応えられるほどのものを作ることが最優先される事項であることは自明だ。従来5の大きさで稼動していたものを3の大きさで稼動させるということは、内部のシステムの見直しをしなければならないこと…それはある意味では汎用化に近いものがある。結局のところどちらが難しいとか簡単とかは区別することが出来ないように思える。どちらも似通った概念であり、表裏一体でもあるということだからだ。便利になり小型化できれば確かに最高なのかもしれないのだが、小型化するのは必ずしもいいわけではない。小型化とは往々にしてそのものを持っているという意識が薄くなるものだ。例えば携帯電話1つをとってもそれはわかる。発売当初の携帯電話はそれを持っているという意識が必ず付随してくるほどに大きかった。肩から提げるタイプなので、むしろそれがメインの荷物になるということもしばしばだったと想定できる。しかし今の携帯電話はどうだろう、鞄の中に入れてしまえば、それをちゃんと持っているという認識は出来るだろうか?恐らくこっそり誰かが鞄の中から携帯電話を盗みとっても気づかない人がほとんどではないだろうか。そのような観点からも小型化には様々な問題があるということがわかるだろう。私が前々から思っていることは、小型化するのであれば…特に身近に持ち歩くものを小型化するのであれば、それが持ち主から離れた段階で電波を発するようなシステムが出来ればいいと思う。それならばなくしたと思うのもすぐに気づくことが出来るし、なによりも大事なものであればあるほどに重宝する機能だと言える。まぁそれも問題があるのは自明で、家に故意に置いてきた場合と、道端で落としてしまった場合を区別するにはどうするのかといった切り分けが非常に難しいということだ。その問題を解決できたとしても、もの自体が機械化しているという意見には抗うことが出来ないような気がする。持ち運びが便利、様々な用途で活用できる。これが小型化の真骨頂であり、小型化を図る上で忘れてはならないのが汎用化だと思う。どちらも両立できれば最高なのだが、しかしそんなに上手くいくほど簡単なことではないということは自明だ。小型化と汎用化を図るということは、現状では満足できないという人の向上心、悪く言えば業の成せるものだと思えて仕方ない。
Oct 16, 2007
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何やら大きな物音で目が覚めた。夜勤の前の貴重な睡眠時間なのだからあまり阻害sて欲しくないと露骨に不機嫌な目覚めとなってしまったわけなのだが、しかし状況はそんなに悠長なものではないということがすぐにわかった。最初は夢でも見ていてその続きなのだと思っていたのだが、どうやら違うようだった。どう考えても実際の世界で何かと何かがぶつかる音がしたのだ。しかも誰かが大きな声で言い争いをしているところまで展開されている。これはただごとではないと瞬間的に察知した私は言い争いをしているであろう窓の外に出てみた。するとそこには今まさに白熱した戦いをしている2人の姿が見えた。片方はタクシーの運転手で、もう片方は会社員のようだった。そう、事故なのだ。まぁわからないでもない。考えてみれば京都市内のタクシーのう念は少々粗すぎる。客を素早く目的地まで運んであげようという精神は汲み取ってあげられるのだが、しかしだからと言って危険な運転をしていい理由にはならないはずだ。車線変更は唐突だし、信号待ちからの見切り発進もかなりソリッドだ。「安心して」という観点ではかなり及第点をあげがたい雰囲気なのだが、もうそんな環境に慣れてしまうとそれが普通に思えてくるから不思議だ。まぁそれはいいとして…。言い争いをしているもう片方の会社員らしき人物はバイクに乗っていた。金髪のロン毛でかなりたちの悪そうな(勝手なイメージなのだが)雰囲気だった。いちゃもんをつけようものなら実力行使も厭わないような見掛けだった。街で会ったら知らんふりしたいような風貌だったと言える。しかも見るところによると、明らかにタクシーの運転手の前方不注意による接触事故のようで、幸いにして両者に怪我はないものの、それがまた事態をややこしくしているようだった。それで金髪の会社員風の人が凄い剣幕で文句を言っているというような状況だった。しかもタクシーの運転手も自分は道路でのマナーはしっかり守っていたと譲らない様相だった。はっきり言ってやったやらないの水掛け論になっている感も否めなかった。通行人もかなり訝しそうな表情で見ていたのが印象的だった。これはきっと人間だけに許された話し合いという平和的な解決は見出せないだろうなと半ば諦めかけていた頃、なんと金髪の会社員風の人の方が急におれた。きっと急ぎの用事でもあったのだろう、それとも面倒くさいと思ったのかどうかは定かではない。確かにタクシーの運転手もつ欲は出ていたものの、非があったのは自明だった。言い争いに巻き込まれた以上は折れるのも癪だということでお互いに引っ込みがつかなくなっていたところに絶対におれないと思っていた被害者の方からの平和的解決案が提示されたというわけだ。被害を受けたのは自分のはずなのに無かったことにしたい、私はこの精神に感服した。実害を考えてもかなりの痛手であろうし、そんなことはあまり自分から言い出せないものだ。結果的にこの事故は無かったことにされ、少々の謝罪だけでタクシーの運転手は解放された。きっと心の中ではかなり安堵していたことだろう。その気持ちはちょっとだけわかる。金髪の人が全て悪いというわけではないが、様々なところでトラブルの原因になることが多いことからたちが悪いという印象を勝手にもっていたが、その認識は改めなければならないと思ったものだった。それはもう1ケース似たような事象を目撃したことにも関係している。それはある日の仕事の休憩時間に見たものだった。その日、いつものように休憩時間に外でまったりと休憩していた。そこに同勤の先輩もやってきて和やかに世間話をしていたのだが、その時にその事件は起こった。私達が休憩していたところからほど近い道路、その道路は国道1号線で片道3車線の比較的大きな道路だったのだが、その道路の歩道に近いところをゆっくりと自転車で走っていたおじいさんが急に転倒したのだ。昼間だというのにかなりお酒を飲んでいるようで、こけてもなかなか起き上がろうとしなかった。心配になってかけつける人も誰もいなく、都会の人情というのは薄れていく一方なのだなとその都会の人間関係の希薄さに染まりつつある自分を感じていたのだが、そこに手を差し伸べたのは金髪で自転車に二人乗りしていたカップルだった。まずは明らかに短すぎるスカートと金髪の髪をかなり長く伸ばした彼女の方がおじいさんに「おっちゃん、大丈夫なん?」と声をかけた。それとほぼ同時に彼氏の方もそちらにかけよっていった。2人がかりで抱き起こされたおじいさんは「大丈夫や、ちょっとこけただけやし」と何度も繰り返し言いながらおぼつかない足取りでふらふらしながらそのカップルにお礼を言っていた。この光景を見て心が和んだ。こういう人もいるのだなとちょっと嬉しくなった反面、見ていただけの自分が酷く腐った人間だということを実感したものだった。反省_| ̄|○見た目だけで人と判断するのは早計だということはこのような些細なことからわかるものだ。ルックスなど外付けのオプションに過ぎず、見た目と本質は別の評価基準により形成されているといういい例になったというところだろう。むしろこの場合はこのカップルのような行動を私達が見習うべきなのだが。。恥ずかしい限りだ。。私は外から見える印象としてはかなり大人しくて面白くもなんともないようなイメージを持たれているに違いない。言ってしまえば「普通」なのだ。しかし本質的な私を知っている人からすればそんな人間ではないことはわかるだろう。なのでそのことから導かれる結論は人は見かけによらない♪(常識なのだが)ということだろう。間違いではないはずだ。しかし実際のところは「怖そうなお兄さんと話してみたら結構面白い人で話しやすかった」という例はあまり聞かない。わかっていることでも実際に行えるかどうかは別問題だということも…また自明なのだ(笑)
Oct 15, 2007
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家の近くのセブンイレブンの店員に嫌われている(涙)それというのも別に理由なく言っているわけではない。家から近いという立地的に活用することも多いコンビニとしてはローソンとセブンイレブンがあるのだが、それぞれの店員の態度が明らかに違うのだ。ローソンの店員さんは親切で丁寧でサービスも行き届いている素晴らしい方ばかりだ。一時コンビニアルバイトはローソンが一番ルール面でキツイという噂を聞いたことがあったが、なるほど、その効果はいかんなく発揮されている結果だと言えるかもしれない。ここでちょっと脱線するが…。京都は異常なまでにローソンを愛して止まない傾向にあるようだ。コンビニは多くあれど、ローソンの数が群を抜いて多いというわけだ。一度見て笑ってしまったのが、京都駅の前のローソンだった。そこは別に何の変哲もないローソンなのだが、なんとその向かいにもローソンがあるのだ。これには度肝を抜かれてしまった。競合する他店のコンビニがあるならまだしも同じ系列のコンビニをもう一軒作ろうという精神に驚いてしまったものだった。まぁ冷静に考えてみるとパッと見は同じ2軒のローソンかもしれないがその中でも生存競争というのは熾烈に行われているものだ、駅前という立地はコンビニにおいてかなり重要なウェートを占めることになるのだから、その激戦区に名乗りをあげた以上はたとえ同じ系列の店だろうとも競合相手としてあるに違いない。むしろ同じ店だからこそ切磋琢磨の精神が息づいていると言えるだろう。一方セブンイレブンはと言えば、こと私の家の近くのお店はかなり抜けているところが多いと言うか何と言うか…兎に角私だけかどうかはわからないが、店員の態度が違う。以前にも書いたことがあるのだが、そのセブンイレブンの店員にはよく「秘技天空落とし」をお見舞いされることがある。一応説明はしておくが、天空落としとはお釣りを高い位置から落とすように渡す方法のことだ(笑)一般的なルールとしては、渡す方の手とは違う方を客の手の下に添えて落とさないように丁寧に渡す方法がメジャだ。それはコンビニのアルバイトをしたことがある方ならレジ打ちの次に大事な項目としてあるものだ。つまりこれはコンビニのアルバイトにおける必須科目だということだ。しかし慣れてくるとマンネリ化してくるというのはどの分野にも言えることで、段々手抜きになってくるものだ。慣れれば慣れるほどに既存のルールは形骸化し、ある意味では「自分のやり方」が確立されることになる。そこには若干、否かなりの私情が混じることになる。効率のいい方法を模索するというのはいい意味での変化ではあるが、やらないといけないことを端折るのが悪い部分だと言える。そのセブンイレブンの店員さんは何故か女の人が多いのだが、今のところ女の人の店員さんの時には100%の確率で天空落としをお見舞いされてしまう。これをされると男としてはかなり凹んでしまうものだ。男性の店員さんならばそうまで凹まないにしても、異性の店員さんにそれをされてしまうと自分が酷く汚れた存在であることを再認識してしまうというものだ、こんなことを考えてしまうのは私だけだろうか?コンビニでのやりとりというのもオートメイションにすることは可能だ。全てを機械化してしまい、買った商品の代金を機械に投入しお釣りを自分で受け取るようにすれば人件費もかなり削減できるし、何よりもその方がヒューマンエラーも起こらなくなる。現代の技術をもってすればそんなことは容易だ。しかしそれをしないのは、そのような制度を作るほど暇ではないのか、それとも人と人との触れ合いを大切にしているかのどちらかに起因していると思う。もしもコンビニ業界にも人と人との触れ合いを大切にしているという精神があるのならば、せめて買い物をする時くらいは不快な思いをさせないようにするのが本当のプロではないだろうか?小さなことかもしれないが、こういうことも大切にしていかなければならないことだと思えて仕方ない。だからかもしれないのだが、手を添えて「お釣りをお確かめくださいね♪」と言ってくれる店員さんがいるとかなり嬉しくなる。別に大したことはされてはいないのだが、それだけで気分が良くなるのは事実なのだ。そんな当たり前が希薄になるのも…現代の風潮の1つなのだろうか。
Oct 14, 2007
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という言葉が好きだ。まぁどうでもいいが(笑)それはそれとして、最近少し面白い発見をした。それはカレーにチーズを入れるとなかなか面白いものが見れるということだ。いつものようにトッピング満載のカレーを仕事の休憩中に食べていたのだが、しかし今回は油っこいものばかりではなく珍しくヘルシー(カロリー的にはさしてヘルシーでもなんでもないのだが、豚カツやハンバーグに比べるとマシという意味)なものが出た。カレーは正統派中の正統派を愛する私としては、カレーのルーの仲に野菜以外の何かが入っているという時点で食べるのにかなりの冒険心を必要とする課題だと言える。はじめに言っておかなければならないのは、私は別にチーズが嫌いなわけではないということ、むしろ好きな部類に入るということだ。その物体のファーストインプレッションは最悪だった。凶悪なほどに粘り気を持ったルーに、得体の知れないものがところどころに浮かんでいる。食べ物ではないということをこれほどまでに前面に打ち出している食べ物も結構珍しいと思ったほどだった。逆に自然界ならばこれ以上の擬態は存在しないほどのレベルだと自負していいだろう(笑)他のトッピングの量もなかなか油断ならないものだった為にそちらに集中してしまいこれ以上チーズ入りルーをイジることは出来なくなってしまったのだが、しかし生粋の関西人である私が何故そんなにツッコミどころ満載のものをこうも簡単に手放してしまうのか…それはもっと別の意味で強大なトッピングが存在しているからだ。きっとCOCO壱マスターの方ならピンと来るかもしれないが、所謂日本の朝食の風物詩というアレだ。そのものとルーが混ざった時の感覚に比べればチーズ入りなど痴れものと化してしまうことうけあいだ。その招待と味の報告はマクロで登場次第随時行うことにしよう。それをトッピングしたカレーを自ら頼むほど私は冒険家ではないし、きっとマクロでのチョイス以外は一生そのマッチングに出会うことはないと自信も持てるほどだ。だからこそ関西人の血が騒ぐということもあるのだが(笑)それにしても最近は涼しくなってきた。夜になると昼間の気温が嘘のように一気に冷え込み、半袖のシャツでは寒いくらいになってきている。このように少しだけひんやりとして…それでいて夏の匂いも少し残っているような瞬間が結構好きだったりする。冬のそれには勝てないのだが、それにしても2位か3位は堅いところだろう。私の中では「海を見るなら夏の夕方」「朝靄のかかる時が一番清々しいのは冬の朝」という2大巨頭が存在している。これらを超えないまでもかなりいい線をいっている風景というのはそうそうない、だからこそ出会った時の感動も大きいというものだ。そんな夜だったからかどうかはわからないが、なんとなくベットに寝転がって考え事をしていた。次の日の仕事が日勤なので早めに寝て次の日に備えなくてはならないのだが、なんとなく寝付けなくて結局そのまま寝ることもなく仕事に来てしまった。その為にいつも朝に書いているこのブログを今日は仕事場のPCで書いているというわけだ。休憩中だから部屋には誰もいなかったのだが、これがばれたらちょっと問題になりそうでスリルがあるというものだ♪まぁPC関係に詳しい人達ばかりが集まっているような会社なので、履歴消去くらいの裏工作では誰が何をしていたかなんてすぐに特定されてしまう。見てもなんのことかわからないだろう、よしんば見つかったとしても「自作の小説ネタ」ということにしておこう(笑)それにしても自分のPC以外を使うとその手に慣れていない感が堪らなく不思議に思える。そもそも漢字の変換から押し癖まで全く異なっているキーボードとの出会いが新鮮だ。私のPCは少しだけ変わっていて、まずはどこのブランドにも属していないというものだ。アルバイトをしてお金を貯めマイPCを買ったことも関係しているのかもしれないが、当時の私は最新型のPCを買うほどのお金はなかった。なので最低限の装備さえ付いていればいいと稼動する限界の容量しか積んでいないPCを買ったものだった。FDも入れられないし、お供悪いし処理速度も遅いと…はっきり言ってPCと呼べる限界のようなものなのだ。しかもノート型なのだがキーの配列が若干おかしく、エンターキーの右横にページアップとページダウンのキーが付いていて、よく間違って押してしまう。この配列に慣れない人(というか私以外全員だと思うが)が使えば数秒で「使いにくっ!!」ということが確定しているような配列なのだ。それも含めてかなりイタいPCだと言える。そんなじゃじゃ馬なPCをもう2年以上触っていることもあってか、今ではそのキー配列ではないと打ちにくくて仕方ない。慣れてしまえばどうということはないとはよく言ったもので、今現在こうやって打っている内容も何度も何度も打ち直しをしているというような体たらくだ。やはり我が家が一番スピリッツということなのだろう(笑)今日はなんだか雑記チックになってしまったような気がする。別に何か書く事があったわけではないのだが、しかし誰かの気配を敏感に察知しながら書くということを考えるのは思いのほか難しいということがよくわかった。そろそろ休憩時間も終わりだ。これを書いていることがばれないようにこっそりプリントアウトして、そしてwordを使った痕跡を一応綺麗に消しておいて仕事に戻るとしよう。日曜日の日中は仕事が少なくて楽なのだが、今は先輩を1人仕事場に残している状況なのでそこまで楽観的にぽちぽちとキーを叩いている場合ではないということだ。たまには中身のないブログもいいだろう、何も面白いことがない私にはぴったりな内容だったかもしれない。面白いことは欲するが、面白いことがない、この葛藤はまた別の機会に追記することにしよう。
Oct 13, 2007
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夜中も2時頃だというのに歌を歌っている人がいる。しかも外でしかも何故か宇多田ヒカルの「First love」しかも男の人が(笑)そういう人は結構な確率で遭遇するのだが、そのような人に限って自転車に乗って音楽を聴きながら走っていることが多い。自転車に乗りながら音楽を聴くと歌ってしまうということなのだろうか?私はそんなことをしたことがないから経験則からは語れないのだが、昼夜問わずに大声で歌いながら走っている人をよく見かけるということは、そのような効果は否めないのかもしれない。そういう観点で見ていると、自転車に乗りながら歌っている人を見るのは面白い。気分が高揚するのだろうか?今日は夜勤の日だった。日勤を4連続くらいこなしていたのでいきなりの夜勤はそれ専用に体を作っていくのが苦労するのだが、まがりなりにでも夜勤のある仕事を3ヶ月もしていると不思議と慣れてくるもので、思っているほど苦労することもなかった。それはある意味では仕事用の生活バランスになってきたとも言えるのだが、逆に言えば世間で言うところの「一般的」からはどんどん乖離しているという証拠でもある。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、まぁ少なくとも今の仕事をしているという段階では悪いことではないと思う。それにしても今日は退屈な日だった。普通私のような立場の人間は仕事において「退屈」という言葉を使うべきではない。それは学ぶべきところも多く、毎日が勉強であるからだ。確かにこの数ヶ月間は毎日なにかしらの新しい業務に従事し、それを覚えようと遮二無二なっていた時期だった。早く覚えないと現場に迷惑をかけてしまうだとか、それくらいは覚えないと役立たずになってしまうといったようなある種の焦燥感で仕事を覚えていた感は否めなかった。しかし今となっては通常、つまり何のトラブルもない状態の仕事には支障が出ないところまできている。現に上層部もそれを認めているらしく、昼夜問わず私はもう1人として扱われている。「何も起きない」という前提であればもう立派な要員の一人であるという認識を持ってもあながち間違いではない地位にいるということだ。しかし私はまだまだひよっこだ。トラブルが起こった時にもそれ相応の対応を軽くこなせるレベルには到底達していない。仕事場にはある程度のトラブルを想定して、どのトラブルにはどう対応すべきかを記したファイルが何十冊と置いてあるのだが、それらの研修というのはそのトラブルが「実際に」起きないと何の意味もない。その状況下にいざ立ってみないと緊張感も焦燥感も生まれないからだ。確かに机上での勉強は幾らでも出来るかもしれないが、それとこれとはまた別の話だからだ。理論や立ち回りだけを勉強したとてそれが本当に生かせるかどうかは実戦経験に裏打ちされたものがないと一気に乏しいものになってしまうというわけだ。そういう意味では私の現場は非常に不安定な位置であることが言える。前述したトラブルに関するファイルが何十冊も置いてあるのは決して過去に起こった事象を記しただけの過去の遺物ではない、今も実際に起こりうることだからこそそのトラブルに対応できるようにする為のいわばバイブルなのだ。つまり、私の現場はイレギュラーなことがよく起こるところなのだ。今まではイレギュラーなこと以外の、極めて普通のことを一生懸命に覚えてきたのだが、それもなくなってくると勉強する内容は必然的にイレギュラーなことになってしまう。そうなると、それが起こらないことには勉強するチャンスがないということになる。つまりそういうことだ、昨日は何もなかった。普通の夜勤だったのだ。こう言っては怒られるかもしれないのだが、何もない平和な日というのは私にとっては少々拍子抜けしてしまう。別にトラブルが起こって欲しいと願っているわけではないのだが、それにしても今の時期をこうだらだらと過ごしてしまっては意味がないように思えて仕方ない。同じことを繰り返すとどのような事象でもそれは「作業」になってしまう。マンネリ化するというのはこういうことだ。今のところ私は何もない平和な時間を享受できるほどの仕事的知識の余裕はないようだ(苦笑)最近夜勤が明けても眠くなくなってきた。これも慣れだろうか?平気で24時間以上活動することも多くなってきた。慣れって怖い(汗)
Oct 12, 2007
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晴れ、気持ちの良くなる天気だ。昨日は目の日だったらしい。それというのも、10月10日を横にすると目の形になるからというが、もうそこまで来るとこじつけのレベルに達しているような気がする(笑)そういう観点で言うのならば、毎日が何かの日らしい。何かが作られたとか、日本若しくは世界で初めて何かがされた日というのが記念日になるのだが、1年365日が何かの記念日ならば記念日の意味はなくなっていくような気がする。まぁこと昨日においては記念日というよりも、目のことを特に大事にしようという日なのだろう、教訓的なことだ。目と言えば、私は高校の頃から目が悪くなっているような気がする。特に理由があるわけではないのだが、強いて思いつく理由を探すのであれば、PCを買ったことかもしれない。PC=お金持ちという貧乏ったらしい考え方をもっていたので、自分でPCを買えたことが嬉しくっていつもいつも触っていた。そのツケが今になってきているような気がする。加えて今の仕事はPCを相手にすることが多い。そのことも加味すると目が悪くなっていくのは最早必然かもしれない。そして私は妙な憧れがあった。それはメガネをかけたいという願望だった。小さな頃から遠くのものをよく見るという環境、つまりど田舎に育ったので目は良かったし、周りにも極端に目が悪いという人もいなかった。なのでメガネをかけている人は稀少だった。「メガネをかけていればインテリっぽい」とか「メガネをかけているとカッコいい」という考え方が出てきた辺りは私の子どもらしさ故なのだが、それでもメガネに憧れた時期は確実に存在した。なので私は一時期伊達メガネをかけていた時期があった。その伊達メガネもあるところに置いてきてしまったので今はないのだが、しかしその伊達メガネが必要もない程に目が悪くなっているような気がする。今度メガネ屋に視力を測りに行こうと思う。視力だけは他の追随を許さなかった私としては、その分野が下がっていると凹むのだが、それでもメガネの必要性が出るときっと嬉しいと思ってしまうに違いない。我ながら現金な性格だと言える(笑)そんな隠れメガネファンな私のブログが今日の段階で見事50000ヒットを迎えた。これは偏にアフィリや風俗情報の宣伝を含めて見て下さった方のお陰だと思う。ここに篤く感謝の念を示したい。これからもまたつまらない内容なのだが、書き続けていければ幸いなのだが…ここで50000ヒットの企画の1つとしてこのブログの終わりを示しておくとしよう。ブログというものがエンドレスである以上は、どこかで終わりを見出さなくてはならない。だからと言って「ネタがない」だの「時間がない」ということは理由にしたくない。このブログは私が大学生の頃からアルバイトの経験を経て大好きな人と出逢い、そして別れフリーターになるも、仕事を見つけて頑張っているというところまで書いている。それならば私自身で線引きをするとなると、このブログの終わり、それは…結婚だ♪それなら絶対に終わらないじゃんという声が聞こえてきそうだが、しかし私はそれでもその点を最終ラインに据えようと思う。これは私の人生の目標であるし、それに好きな人と一緒にいるというのも私の人生の目標でもある。結婚したらこのブログは終わり、この精神で頑張っていこうと思う次第だ。さて次に恒例のキリ番なのだが、今回のキリ番は…また誰かわかりませんでした_| ̄|○しかもiモード_| ̄|○色々と考えていただけに、この結果は非常に残念だ。思えば20000・30000・40000と、誰だかわからない人に踏まれ50000こそはお気に入りのどなたかに踏んでいただきたいと思っていたのだが、しかしそれも叶わなかった。これでは50000ヒットの挨拶まわりが出来ないというものだ。思えばキリ番挨拶なんて10000の時に一度したっきりで、それからは誰にも挨拶できない状況になっているような気がする。これはめぐり合わせの偶然だと言っていいのだろうか?(汗)強いて一番近いところを踏んでくれた方を挙げるのであれば、それはお気に入り登録させてもらっている「きょっぴぃさん」なのだが、それにしても49998だった。次は55555ヒットだけに、気が遠くなるほど待たないといけなくなる。それを思うと、出来れば50000で決めておきたかった_| ̄|○まぁ過ぎたことを気にしても仕方がないというものだ。50000なんてほんの通過点に過ぎない。アクセス数を気にしているわけではないのだが、しかしそれでもアクセス数が順調に伸びていくとそれはやる気に繋がるというものだ。これからもつまらないことしか書けないとは思うが、精進していこうと思う。最後に私の大好きな作家さんの言葉で締めようと思う。一般に上ることは下ることよりも容易い難しいのは上り詰めることであるいい言葉だ。まさにそうだと思う。そういう意味では私もどの分野でも上り詰めてはいない。ブログにおいても上り詰められるように努力していこうと思う。まぁそんなわけで…このブログ、明きょう止水これからも不肖のブログとしてここにあり続けようと思うので、よろしくお願いしたします♪
Oct 10, 2007
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久しぶりのいい天気だ。ここのところ雨が続いていたからかもしれないが、このいい天気はとてもありがたい。休みの日ではないのに洗濯を敢行したものの、予定外の雨が続きなかなか洗濯物が乾かない中でのこのような天気はきっと洗濯物にとっても気持ちのいいものになっているに違いない。3連休明けで世間の皆さんはまた仕事や学校が始まったと憂鬱になっているかもしれないが、その3連休にフル稼働していた私は今日が休みだ。どうにもそのような休日制度を見ると世間とは逆行しているようで、今も頑張って働いている方からは顰蹙を買いそうになるが、しかしこれもまた休みの中でも会社の営業を助けたご褒美だと思えば気が楽だ。夜勤が続きすっかり健康的な生活とは無縁になりつつあった体の毒を抜く日に使うとしよう♪今日が休みということは昨日は仕事だったのだが、4連続の日勤の最後の日である昨日はとてもごたごたしたことが多かった。それというのも、3連休の期間中は一般的な仕事はゆっくり…まるでロッキングチェアーに座るが如く休憩していたのだが、その弊害が営業日になって出たといった具合だ。様々な方面でトラブルが多発した。私の会社は少し複雑な構造になっており、私達が全員で雇われているさながら親会社は有名な某金融関係の会社なのだが、しかしその中に私達と同じく常駐している会社は本当にたくさんある。それは恐らく説明したところでわかるかわからないか紙一重な会社もあれば、とても有名な会社もある。この業界に詳しい方から言わせれば、ホスト系とサーバー系を扱う会社ならでは構造だと言えるのかもしれないのだが、しかしこの業界が、否社会人が初めてな私としてはわからないことがいっぱいだ。私の会社の中に常駐しており、且つかなりの知名度を誇っている会社というのにIBMやHP、NECなどがある。昨日のミスはこの中の管轄のどれかで起こった、それだけ言っておこう。私は新人だと思っていたのだが、もうすっかり会社の中では認知された存在らしく、トラブルが起こっても自分の力で解決しなければならないスキルを要求されているようだった。それが昨日の事象ではっきりわかった。入社して3ヶ月弱でトラブルの対応をするというのは早いのか遅いのかわからないが、しかしそれが出来れば一人前なような気もする。なので今後はどんどん任されていくことになるだろう。その過程で思った、それが今日のテーマである「会社の体質」だ。基本的なことを言うと、私達の仕事は監視だ。つまり喩えるのならば、子ども達が休み時間にグラウンドで遊んでいるのを見守っている先生のポジションに近いものがあるわけだ。もしも子ども達が遊んでいる最中に怪我をしてしまったら、その子のところに行って怪我の具合をよくよく観察し、そして病院に連れて行く必要があるのならその手配をし、救急車を呼ぶ必要があるのならそれも行う。その際に子どもがどのような怪我をしたのかを病院の関係者に事細かに説明する義務も有している。私の仕事におけるトラブル対応というのは、この「病院に連れて行く必要があるのならそうする」という部分にあたり、決して自分で治したりはしない。それは治療を放棄しているのではなく、その方面に専門的な知識を求められていないからだ。治療を行うことは私達の範疇を超える事象であり、且つ会社としての協力体制を覆すことになりかねないからだ。持ちつ持たれつとはこのことなのかもしれない。昨日起こった事象もまさにこのようなことだった。病院に連絡するということはもう私も先輩が連絡をしているところを何度も見てきたので知っていた。一人前として見られたいということも関係していたかもしれないが、今回の子どもの怪我の連絡を私だけで行うことになった。しかしここでおかしなことがたくさん起こった。私達は多くの機械を使っている。サーバーも会社毎にばらばらだし、どこでトラブルが起こったかによってその連絡先は様々になる。昨日トラブったところは明らかに某外資企業のところだったのでそこに連絡をしたのだが、しかしその会社の体質に驚いてしまった。何に驚いたのかというと、その会社の線引きの強さだ。私はただトラブルが起こった時間にその機械を使っていましたか?という質問をしただけなのだが、その会社からの返答は「私達の会社がですか?」ということを強調していた。私としてはどこの会社が使っていようが知らないが、その会社は少なくともトラブルが起こった機械を統括しているのだから自分の会社の人間云々ではなくトラブルが起こった機械の使用状況が聞けると思っていただけに、そのような返答には驚いてしまった。協力会社として存在していないところへの問い合わせで上記の返答が返ってきたのならまだわかる、しかし私達がどのようなトラブルがあったから連絡をしているのかわかっていながら、自分のところの会社が関与しているかどうかだけに固執した返答をするというのは企業としてはどうかと思ってしまった。関係ないならどうぞご勝手に、ではその機械を取り扱う責任問題に発展するようなことだと真剣に考えてしまった。結局そのトラブルというのはトラブルがあった機械を統括しているまた別の会社の真摯な対応によって問題がないということがわかった。結果論から言えばなんともないような事象だったのだが、しかし私の中でわだかまりが残ったのも事実だった。トラブルは色々なところから起こってしまう、例えばシステムの不具合だとかヒューマンエラーなどがそうだ。ヒューマンエラーは矯正可能だとしても、システム上不具合が生じてしまうことは避けられないことだ。それに対する対応は協力会社間では密に行って然るべきだと感じる。きっと私が問い合わせた時に対応してくれた方は自分の意思のもとに前述した回答を出したものではない、会社の中の一員だということを考えるとその可能性はありえない。なので担当の方がその回答を出したのは会社の方針、ひいては会社の体質の問題だと言える。会社の体質というのは絶対に存在するものだ。それが良いか悪いは一概には言えないのだが、それでも何か起こった時に我関せずなんて子どもの喧嘩に親が入っていくのとはわけが違うということをわかってもらいたいと思ったものだった。結局その時には私はトラブルがあった機械を統括している2社に電話で盥回しにされてしまった。自尊心とは何時如何なる時でも持ち続けていくものではない時として歩み寄るのもまた自尊心であり、社会の一員としての立ち回りではないだろうか?
Oct 9, 2007
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久しぶりの雨だ。いつものことながら雨が降ると気分が滅入る。大学の頃は、特に単位に余裕が出るような時期になるといつも雨が降るだけで憂鬱になり、大学に行く気もしなかったものだった。まぁそれは私の大学が山の上にある意味では隔離された状態であることにも起因しているのだが、それ以外にも高校の頃に比べて講義1つ1つにおける束縛感が薄れていることも関係しているのかもしれない。どちらにしても雨にはあまりいい思い出がないというわけだ。今日は久しぶりに夢を見た。最近は疲れているのか体調が優れないこともあって、夢を見ない日が多かったのだが、今日は面白い夢を見た。その内容というのがどうにも欲望をそのまま具現化していることのように思えるもので、はっきり言ってくだらないで一蹴可能なものだと言える。今でもはっきり覚えている、テーマは「森要芽」だ。場面は学校なのだが、どうにも懐かしい感じがする。こうこうというよりもむしろ中学の頃の教室に近いようなものがあるような気がするが、しかしよく見てみるとどこか異なる。見たこともいたこともないはずの教室なのになんだか懐かしい、そんな不思議な気分だった。その日はちょうど新学期が始まる日で、クラス替えのようなイベントをしていた。自分のクラスをどうやって把握したのかは知らないのだが、しかし直感的にクラスがわかり教室に入っていって自分の席に座った。周りには知った顔ばかりで「また一緒になったね」なんて言葉もよく聞こえてきた。その中でも私の席の周りには本当に実在している友達ばかりがおり、あぁ、この席は前にもなったなぁよ夢の中でデジャヴを感じたものだった。少なくとも記憶を司る器官によるものがデジャヴなのであながち間違った表現でもないだろう(笑)そんな中、教室の片隅に見知らぬ女の子がいるのを見つけた。私は元来奥手なので、初見の女の子に自分から話しかけていくなんてことは出来ないのだが、しかしそれでもその見たこともない女の子は何故か知っているような気分だった。ここがとても不思議なところだったと言える。その日の行事も全て終わりいざ帰ろうとすると、先ほどの見知らぬ女の子が一緒に帰ろうと言い出してきた。最初に見たことも接したこともないはずなのに何故か気になっていた私はそれを了承した。一緒に帰るとは言ったものの、それでも前述の通り奥手な私は別に話しを盛り上げることもなくただ一緒に帰っているという感じだった。きっと私なんかといてもつまらないだろうなぁと感じたものだった、それを結構強烈に覚えている(汗)そこから経緯は曖昧になり…次の場面では私の部屋に2人でいた。別に何を話すわけでもないのだが、何故だか経緯がわからなくなる前と後ではその女の子との親密度に変化があったようで、2人で寄り添っていたのを覚えている。ただ寄り添って何も話さない、ただそれだけなのだが全てがわかった気がした。あぁ、きっとこの人と付き合うことになるんだなと直感的に感じた。その時にその女の子の名前を聞いたのを覚えている。彼女はちょっとはにかみ上目遣いになりながらこう答えた。「私は森要芽だよ」次の日(夢としては一連なのだが、次の日になっている)に学校に行くと、一緒のクラスのはずだった彼女が別のクラスになっていた。まぁその時点で夢だと気づくべきだったのかもしれないのだが、しかしどうしても昨日のことが気になって、私は彼女を探した。しばらくして彼女が見つかった。なんだか妙な表情をしているのが少し気になったのだが、それでも私は彼女に尋ねてみた、昨日の話(その話というのがいまいちわからない、そんな話をした覚えもないのだが)が本当なのかどうかを。彼女は照れながらそうだと答えた。ここから推測するに、私達はきっと付き合おうという話をしたのだと思われる。これで私にも晴れて彼女が出来たというわけだ。次の日からの生活が楽しみで楽しみで仕方なかった。というところで夢は覚めた。あの夢は何を意味しているのだろうか?一意的に考えると彼女が欲しいというものだろうが、どうにもそれだけでは片付けられないものがあるように思えて仕方ない。その願望が夢として具現化したのかもしれないのだが、私は夢に見るまでに欲しているわけではない、それも一応語弊がないように言っておかなければならない。それにしてもこの夢は別の意味で印象的だった。こういう類の夢はたまに見るのだが、それでも既知の人物か、全く情報も何も知らない人物が出てくることが多かった。しかし今回は具体的に名前もわかっているわけだし、何よりもその女の子の外見的な印象もはっきり覚えている。髪はショートで栗色のストレートだった。背丈は153センチくらいで、ちょっと細めの体型だった。まぁ言ってしまえば外見的には私の好みのタイプなのだが、しかしそれにしても鮮明であるが故にその人物が実在しているのかどうかが非常に気になるところだ。もしもこの先「森要芽」という人物に出逢って、しかも夢のままの人物だったなら、私はそこに運命を感じることだろう。そんな人物がいつ現われるのか漠然と考えながら、今日も暇だった仕事中にその人物の表情をよくよく思い出していた3連休最後の仕事だった。
Oct 8, 2007
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世間的には3連休らしいが、私には関係ない_| ̄|○ネガティブな始まりだったわけだが、しかし本当のところそこまで凹んでいるわけではない。9月の2度の3連休も仕事だったし、その流れで来てしまえば連休が仕事で潰れてしまうことにも慣れるというものだ。むしろ、皆が休みたいと思う時期に駆り出されることで私が仕事に参加している分、誰かが連休を満喫できると思えば気が楽になるというものだ。本当にそう思えるかどうかは度外視して(笑)連休中の仕事がどうかということに関しては、なかなか面白い経験が出来ているという答えが出来る。なにしろ私達の仕事は一応「情報サービス業」に属している為、所謂普通の仕事とは違いカレンダー通りに仕事のスケジュールが組まれている。つまり、昨日、一昨日と非常に暇だったわけだ。何もしないで椅子にもたれて2時間ほどボーっとしていることもしばしばだった。これで給料が貰えているかと思うと後ろめたいので何かしようと思っても、実際のところ何もすることがない。することはあるがボーっとしているのとは定義的に異なるということになる。何故こんなに暇なのかは私の業種に関係している。もしかしたらこの言葉で私が何の仕事をしているかわかってしまうかもしれない(別に隠すつもりもない)が、仕事で扱っている業種はこれを読んでいる方必ず一度は経験したことがあるものに関係している。貴方はお金をどこに預けていますか?それを下ろすにはどうしますか?つまりはそういうことだ。この機械は平日にしか動いていないイメージがあり、休みの日には稼動していないという印象を持っているだろう。しかし裏話を言うと、休日でもそれらは動き続けている。一般的に、このような所謂お金を下ろす機械というのは、平日にデータを取り休日にバックアップを取るということをしている。なので私達の平日の仕事はデータを取ることのお手伝いをしているということになる。その数は膨大で、仕事も忙しい。しかし休日はバックアップをしている、つまり記録をしているだけなので、やらないといけないことも一気に少なくなってしまうというわけだ。平日比8割減といったところだろうか、決して大袈裟ではない。まぁそんなわけでここ2日間過ごしたのだが、しかし問題は連休が潰れたとかそんな次元ではないところで起こった。この連休の仕事は全て日勤だったわけだが、その前までは4連続くらいで夜勤をしていた。夜勤をするにはそれなりに体力が必要で、睡眠時間の補充は勿論、バランスの取れた食事時間を保つ為に、生活リズムとは異なる時間に食事を摂らなければならない。普通に朝食や昼食を摂るような時間に食べていたのではお腹が空いてしまうというわけだ。なので、4連続夜勤の時にはしんどくならないように、リズムも夜用に変えていたのだが、いきなりの日勤ということで作り上げたバランスは見事崩壊してしまった。まぁ夜勤と日勤を繰り返すような仕事はアルバイトで経験済みなのでそこまで体調に変調をきたすようなことはないのだが、それでも楽にバランスを入れ替えることは困難だ。一般的なサラリーマンが一般的な仕事をする時間の仕事がこんなにもキツイということを改めて痛感し、そして自分の仕事の特異性に苦笑したものだった(笑)そんな背景と、前述したように暇だったこともあってか、ある提案がなされた。それは以前のブログ「高いカレー」で書いた内容をもう一回しようというものだった。今月は特に大きな支出もなかったので、これも先輩と後輩のふれあいだと思い、了承したのだが、しかし今回は阿弥陀クジを作る手間は存在しなかった。それは仕事場の端末のデスクトップに置かれたあるツールが大きく関係している。くだんのブログで書いたかもしれないが、私達がその時カレーの阿弥陀クジを作っているところを興味深そうに眺めていた先輩が、「それをVBAで作ってやろうか?」と言っていた件、それが見事現実のものとなってしまった。エクセルのファイルで名前が「COCO壱マクロ」というものが今現在私達の仕事場の端末の中に存在している。それを作った先輩は冗談半分だったかもしれない、もしかしたら自分が巻き込まれないことを察してそんなものを作ったのかもしれない。それというのも、その先輩は10月1日をもって配属先が変わってしまったのだ。これは良心から来たプレゼントではない、明らかに負の遺産だ(苦笑)私が知らないだけでもそのマクロが活躍したシチュエーションは多くあるらしい。それを証拠に、私達の休憩場所にそのマクロを使って注文したレシートが今でも誇らしげに飾ってあるからだ。その額を超える注文は今のところ来ていないという暫定チャンピオンという意味だろうか?そのレシートには3人で9250円という破格の値段が記されていた。私がこのことをネタにして書いたブログの時は、4人で6800円だから、今そのレシートは見事ゴミ箱行きとなってしまったようだった。なんとも短い政権だった(笑)そんな背景があったので私としてもそこまで気が進まなかったのだが、しかし場の雰囲気を壊すわけにもいかない、私も参加することにした。私のメニューは結局・ ご飯500グラム・ 辛さ1・ チキンカツ・ ビーフカツ・ チキン煮込み・ ツナというなかなかこってり系のものになってしまった。何よりもこれだけのトッピングにご飯が500グラムというのが信じられない。お値段的にはお手ごろなのだが、いかんせん量が多い。しかし残すのも勿体無いので全部食べきった、その結果…お昼からの仕事に影響がでまくった♪眠くて仕方なかった。2時くらいが一番ピークで、この時のことはよく覚えていない。先輩の話ではPCを触りながら寝ていたということだった、平日なら許されない行為だろう、休日で良かった(汗)まぁそんなこんなで楽しく仕事をしている。これならば3連休だからといって家で不毛な時間を過ごすよりも建設的だろうと思う。今の仕事は話しやすい人も多いし、仕事の内容や性質も私に合っていると思う。上を目指す野心もちょこっとだが出てきた。これからもこんなバカなことをしながら仕事を頑張ろうと思った出来事だった。
Oct 7, 2007
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半分の月が見える。目が覚めたのが夜だった。仕事の疲れもあってか、休みだと言ってもずっと寝ていた。またやってしまったと思いながらもしかし空腹には耐えられずに何かご飯を食べようと思った。冷蔵庫を開けても何も入っていない。両親が持って来てくれた梨が2ついつものように置いてあるだけだ。本当に私の持っている冷蔵庫は意味がない。冷やすものがほとんどないからだ。まるで私のようだ。気持ちはあっても相手がいない。いても振り向いてはくれない。昔はそれで随分と悲観したものだが今はそうでもない。開き直ったわけじゃなく、これは私が変わったところだと言える。勿論いい意味で。約束があった。夜にお話しましょう。この約束だけは忘れていなかった。やがてやって来た君はいつものような明るい声だったけど随分久しぶりだと感じた。それだけ時間が過ぎたかもしれない。私にとってのその時間と君にとってのその時間は多分その時間の持つ価値が違う。私は考え方が明るくなっただけで、立ち位置は何も変わっちゃいない。君の伴侶は元気にしてるだろうか?今でも君を大切にしてくれているだろうか?上手くいっていることを告げられた時初めての感情が芽生えた。嬉しいはずなのに喜ばないといけないはずなのにちくりと胸が痛くなった。鉄仮面の私が揺らいだ瞬間かもしれない。今になって考えてみると私は無感情な人間なのかもしれない。悲しい話や感動する話で泣いたことなんてないし祖母や祖父の死にも泣けなかった。それでも君のことになると話は別のようだ。会えない淋しさで夜の長さを感じたこともあった。帰りの電車で泣きそうになったこともあった。君の涙にもらい泣きしそうになったこともあった。全部覚えてる、忘れるわけがない。今でも時々思い出す。でもすがっているわけじゃない。いい思い出だ。未練がましいと言われればそれまでかもしれない。今はいい友達なのだから私も成長しなければでもやっぱりすぐには忘れられない。でも迷惑はかけられない。だから私は忘れないでおこう。楽しかったことも辛かったこともあった。だから忘れないでおこう。君との思い出は私の一生の宝だ。半分の月が見える。なんだか笑っているようだ。君がいつも笑っているのなら私はそれだけで幸せだ。青い鳥なら元気です久しぶりにこういうものを書いた気がする。思えばこのブログが出来た当初はこんなようなことばかり書いていたので、今更に昔のものを見ると赤面ものだ(苦笑)しかし言葉で伝えることが億劫で、恥ずかしいことでも平気で言ってしまう私らしいとも言えるわけだ。まぁ「君」というのが誰なのか、長く読んでくださっている方ならわかるだろう。このブログは「君」との刻でもある。まぁ今回のものは見て笑ってくれたらそれで満足だ。本当の気持ちを書くとこんな風になるのかと客観的に見ても恥ずかしい限りだ。
Oct 5, 2007
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よく振ってからお飲みください。この表記をいつも開けてから気づく(笑)よく考えてみれば、よく振らないといけない飲み物というのは結構限られている。例えば果肉入りのジュースとか、加糖のコーヒーはその部類になる。コーヒーは例えば缶の状態でそのままおいておくと砂糖の成分が下の方下の方へ沈殿していくので飲む前によく振らなければならないことはわかるのだが、果肉入りのジュースの方はよくわからない。ジュースの中にもろに果肉が入っているのだから最初によく振ったとしても飲んでいる過程で絶対に果肉が沈殿してしまう結果になるような気がする。要は自己満足の世界なのだろうか?缶の見えるか見えないか微妙な位置に「よく振ってください」と書いておいたから大丈夫だという考え方は最早古いと思う。真に消費者の意見を取り入れるのならば、果肉入りのジュースならそれ、加糖コーヒーならば、よく振らなくても均等に成分が行き渡る方法を考えるべきだ。まぁ一朝一夕ではないかないこともあるだろう、わからないでもない。先日仕事でミスをした話を書いたかもしれないが、その余波は仕事の時間にまで影響している。まぁ別に今となっては起こってしまったことだし、恐ろしく気にしているわけでもないのだが、しかし勤務時間外の拘束はキツイ。私の会社ではミスは2段階にわけられる。その線引きは「直接お客様に影響があるかどうか?」と「業務影響があるかどうか」の2点に集束している。因みに前者だと、私の行っている会社の一番偉い事業部長のところに自分のしでかしてしまった内容を纏めて上層部で何度も査定にかけられた報告書を持って謝りに行くという恐ろしい行事が待っている。生憎と私がしてしまったミスというのは本当に軽微なものだった。業務影響も一切ないし、強いて言うならば他の部署にちょびっと迷惑をかけてしまったというレベルのものだった。先輩方も「あんまり気にするなよ?」と励ましてくれたのだが、今になって思うと、この程度のミスで良かったと思う。もしも最初のミスが事業部長のところに謝罪に行くという通称「一発KO」の代物だったのならば、もう私の首は綺麗に飛んでいたことだろう(苦笑)それを思うとミスをしたということを自分の身に刻み付けるという観点でもちょうどいいくらいの規模だし、何よりも多少の業務知識を持っていた私への戒めになったとも考えられる。冷や水をかけられるということはこういうことなのかと改めて実感した出来事だった。話は少しだけ変わるのだが、私は今年の社内の忘年会の幹事に選ばれた。どうも社内での私の評価がいまいちパッとしないし、そんなものにも興味はないのだが、そのような役回りがまわってくるのが早すぎるような気がする。それはしっかりしていると評価されているのか汚れを押し付けようとする勢力があるのかはわからないのだが、幹事に選ばれたのならばしっかり遣り通そうと思う次第だ。しかし普通に幹事をやっても全く面白くないし、何よりもサプライズに欠ける。なので私は後2ヶ月で先輩方に大きなサプライズを企画している。恐らくだが、先輩方で私がこのブログを書いているということを知っている人はいないだろう、なのでここだけでこっそりその真相を暴露しようと思う(笑)まだ計画中なのだが、おおよその概要はもう決まっているのだから。一般的に会社レベルでの忘年会というのは、小料理屋でコース料理を注文して飲み放題もつけてわいわいがやがやというのが相場となっている。料金設定も大体2500円から5000円くらいのもので、そこまで高くないのが一般的だ。勿論私もそのような普通のところをチャーターして忘年会をやることになるのだが…その会費をそのまま集めても面白みがないので、そこで一捻り加えようと思っている。まずは料金設定を1000円にする。つまりは全員1000円払うだけで忘年会が敢行されるというわけだ。勿論そんなことをすれば差額は私が持つことになるのだが、しかしその差額分自腹を切ってでも行うだけの意味が私にはある。まずは先ほど書いたミスの件だ。このことは社内にもそれなりの迷惑をかけてしまったのは事実だし、再教育の手間はサービスで片付けられるほどのものでは決してない。その部分での負い目ということもあるのだが、私が密かに画策しているのはそこではない。ずばり!人間性の観察だ。例えば友達3人でご飯を食べに行った場合、普通はそのご飯代を割り勘にする。3人で4500円なら1500円割り勘といった具合だ。しかしここでもしも誰かが自分が4000円持つと言ったらどうなるだろうか?残った2人はきっと「ラッキー♪」と思うだけだろう。しかしこれに類似したことを会社内のイベントで行うとなると話は別だ。私は何度も書いてきたが一番下っ端だ。つまり私に対しては「後輩だからお金も少しは持ってやらないと先輩の面目が」という考え方が少しは生きている環境ということになる。そこで明らかにありえない金額設定の忘年会をした場合…後輩にそんな身銭を切らせるようなことは出来ないと本来の料金設定分を払うだけの「度量」があるかどうかをそこで見るというわけだ。私の予想では半分の方は勘付いて払ってくれると踏んでいるが、しかしもう半分の人は払わないような気がする。つまりこれは私が仕掛けたブービートラップ兼よしんば上手くいった時の罪滅ぼしだと言える。1年目の人が払わないで2年目の人が払ってくれたというような状況が出来るかもしれない。或いは1年目の人が払ったのに2年目の人が払わないということもあるかもしれない。どちらにしても面白い統計が取れそうで今から楽しみだ。私はケチが胡瓜の次に嫌いだ、その評価は私の内部査定に大きく影響を与えそうだ。取り入るという考えは微塵もないのだが、しかし会社内で仕事をしているだけでは見えてこない概念がそこからにじみ出てきそうだ(笑)そう考えると幹事という汚れ役も楽しめるということかもしれない。否、それくらいしないとやってられないという部分もままある(苦笑)
Oct 4, 2007
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どうでもいいことでもどうしても気になってしまうことというのは誰にでもあることかもしれない。私の場合はそれが非常に些細で、仕事における場でそれを実感することがある。一般的に漢字の読み方というのは1つしかないはずだ。音読み訓読みというカテゴリはあるものの、しかしそのように読み方を分けることはしていても、同じ文字を二通りの読み方をするということはそうないことだ。例えば最初に書いた「些細」という漢字、これは誰がどう読んでも「ささい」としか読めないし、他の読み方は存在していない。しかし漢字は面白いもので、本来の読み方は他にあったのだが、間違った認識で読まれ続けていつしかそれが大多数になり本来の読み方にとって変わるということがある。そのような漢字は思いつくだけでもそこそこあるのだが、私が仕事で感じるその軋轢の原因になっているのは「重複」という漢字だ。この漢字は貴方ならなんと読むだろうか?結果がわかる前に予想するのであれば、おそらく2つの読み方で意見が半々になると思う。本来の読み方をちゃんと勉強した人ならわかるだろう。言い方は悪いかもしれないが、私よりも年上の方はきっと正しい読み方が出来るかもしれない。しかし私と同じ世代、そして私よりも下の世代になるとこの漢字の読み方がちゃんと出来ないということがこと私の現場では蔓延していることだ。大真面目な顔で間違った読み方をしているのだから不思議だ。私は昔から漢字が大好きだった。基本的なカテゴリとして部首や辺があるのだが、それだけで数多くの漢字を表現し、その中での奥ゆかしい意味を込めた漢字も多いので、その世界には小学校の頃から魅了されてきた。なので正しく漢字を読もうという意識が人一倍強く、そのせいもあってか「重複」も普通に読んできた。なのでそのように重複が読めない人がいることが不思議だったのだが、調べてみると間違った認識がそのまま一般通念として固着したという珍しい事象の漢字であることがわかり、面白く感じたものだった。ちなみに言わずもがなかもしれないが「重複」の本来の読み方は「ちょうふく」だ。説明することも今更ないが、物事が重なるという意味の熟語だ。しかし今や、この漢字は「じゅうふく」と呼ばれる時代になったようだ。これを正しく読めないことは学がないこととは同義ではない、それはある意味では時代の波に乗っていることと同義なのだから。と、このように、調べてみるとそれなりにあるから不思議だ。ちょうど私の好きな作家さんのサイトでも以前に同じことを書いていたのだが、そこを読んでみるとよりわかりやすく解説してある。その中での私も間違えていた概念として「固執」「独擅場」がある。「重複」についてなんのかんのと偉そうなことを書いていたのだが、当の私も「固執」「独擅場」を間違って読んでいた1人だった。そもそもこのレベルにまでくると、学校側の教育制度が推進しているような気がしてならない。「固執」の本当の読み方は「こしつ」ではなく「こしゅう」であり、「独擅場」の本当の読み方は「どくだんじょう」ではなく「どくせんじょう」らしい。ここまで来るともう完全に取って代わられたというイメージしか出てこない。読み方が難しいという考え方が背景にはあるのかもしれない。誰かが間違ったのが流布したのか、それとももっと大きな力が働いているのかはわからないが漢字は正しく読んで然るべきだというのが結論だ。もしかしたら日々ごくごく当たり前に使っている漢字にも別の、否本来の読み方があるのかもしれない。それを思うと余計に漢字に興味が沸いてくるのは私だけだろうか?(笑)
Oct 3, 2007
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思いのほか引きずっているようだ。先日に仕事でミスをした話を書いたと思うが、そのことがどうにも私の中で消化できないものとして鬱積しているようだった。それが影響してかどうかはわからないが、昨日から今日にかけて見た夢は全てそれに関連しているものだった。バリエーションを変えて見てしまうということはそれだけ見えないプレッシャーを受けているのかもしれない。仕事というのは自分の身近であり、一番生活における時間を費やすところだけに、そこで起こったことはもろに心情に変化を与えるというものだ。往々にしてそれはモチベーションであるとか心理的作用であることが多いのだが、しかし今回はマイナスのベクトルに働いた結果だと言えるかもしれない。これは何にでも言えることなのかもしれないのだが、自分でせいで起こしてしまった失敗というのはその処理に時間がかかる。それが今回のことで一番痛感したことだ。この経験は非常に貴重なものだと言える。なんとはなしに漠然と「大変なもの」とされていることが実際に自分の身に降りかかってくると、そのことの重要性が改めて認識されるし、自分を中心として事象が展開されるのだから否がおうにもその影響の大きさを肌に感じることになる。勿論自分だけではなく、直属の上司や会社全体にもその影響は波及していき、結局のところいいことなんて1つもない。なのでこのミスから学ぶべきところは非常に大きい。まぁ夢で何度も見るということは、睡眠でも追い詰められているということなのだろう。ちょっとだけ鬱だ_| ̄|○先日ベルギーにてある事件が起こった。それはまたあの京都での惨殺事件と同じような類のもので…一言で言ってしまうのであれば模倣犯だ。その事件は白人の惨殺死体があげられたというもので、それ自体はそこまで珍しいものではないのかもしれないのだが、ニュースでやっていてまたこの類のニュースかと思っていたのだが、しかし他の事件と違う点が1つだけある。それは被害者のそばに落ちていたとされている手紙だった。そこに書かれていたのは「私はキラだ」というものだったらしい。これによってあのアニメが規制の対象になることは止められない事象なのだろう。まぁ当然と言えば当然の流れであるが、それが正義なのかどうかは私は疑問に思えて仕方ない。そもそも、何のメディア的な影響力を受けないと仮定しても殺人は起こる。怨恨・金銭的トラブルなどなど、人を傷つける理由なんてメディアの影響力と因果関係はないわけだし、その原因を追究すると卑近なものに収束することになる。確かに殺生をテーマにしたエンターテインメントはそれなりに多いし、それの影響を受けて模倣犯的な存在が出てくるのも、それを放送するという段階である程度は加味しておかなければならないことなのかもしれないのだが、しかしそれを恐れていては何のメッセージも送れない。そのようなものをテーマにすることでもっと深い感情を伝えたいということだってあるだろうし、人間の深層的な心理に影響を与えるものを伝えるには殺生をテーマにすることもまた1つの表現の方法だからだ。それにそのようなものはドラマでもありふれているくらいに当然に私達の身の回りには存在しているものだし、そのような事件があったからといって一意の理由で表現の自由を規制するのは早計ではないだろうか?確かにあのアニメには負の要素が高いという噂はよく聞く。社会現象にまでなったのだから、同じような事件が起こってしまう可能性が懸念されていたということもよくわかる。しかし仮にそのようなものをモチーフにした事件が起こったとして…真に言及されるべきはそのアニメではない、その事件を起こした犯人であるはずだ。どう言い訳したとて、そしてどんなに言い逃れをしたとて、その事件の犯人の罪は軽減されるものではない。私は今まで警察の厄介になるような事件は起こしたことがない、だからかもしれないのだが、殺生を行ってしまう人は、心に寂しさを持った人だと思う。表現の方法は数多あれど、そのような負の行動でしか自分を表現することが出来ない。注目されたい、もてはやされたい(まぁこの時点で若干でなくても歪んでいるのだが)という気持ちが世間で注目されているものと組み合わせてはどうだろうかという安易な考えと結びついてベルギーの事件は起こってしまったと思える。これはひぐらしの時にも書いたのだが、事件が起こってしまう背景とアニメの存在の間に因果関係は存在しない。むしろアニメに影響を受けた犯罪の数倍、否数百倍の犯罪がそれ以外を契機に起こっているのだ。一意の感情がどれだけ無意味かは自明のことだろう。なんだか私の好きなアニメばかりがこんな影響を受けているような気がしてならない。そしてそのアニメが好きな人の意見を言わせてもらうと、別に殺生があるから好きなのではないということだ。そのアニメを放映することが殺人予備軍を増やすという考え方がもしもマジョリティならば、それはとんだ国家だと言えるかもしれない。
Oct 2, 2007
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季節は秋、今日からは10月だ。日々気温も安定してきて、今日はと言えばもういい天気だ。暑くも寒くもないこの時期はとてもいい季節に思える。私はと言えば、どうにも季節の変わり目もっと細かい括りで言うならば、月日の1日には特別な思いがある。別に何の思い入れがあるわけでもないのだがしかし、何故だかいいことがありそうな気分になってしまう。その月の計は1日にあるという言葉もあるようにノートの一枚目を綺麗に書ければそのノートは大切にしたくなる。そんな気持ちで私はいつも1日に臨んでいる。そして今月の1日目、私は…仕事でミスしました_| ̄|○これはあまりにも痛手だった。ミスをしたこともそうだが、そんなことよりも何よりも、私の手腕に期待してくれている上司の方々の信頼を失ったことの方がショックだった。しかもそれは夜勤の比較的早い段階で起こったもので、そのミスをしてしまったことによる作業全体の滞り具合や、その後の作業のモチベーションがもろに関係してくるといえる位置で起こった災難だった。その後の私のテンションがどうなったかは言うまでもないだろう、言わずもがながた落ちだった。。結果から言えば、大したミスではないということだった。しかしそれはあくまで事後承諾的なものに過ぎず、起こしてしまった当初の私の心境はと言えば、まさに「がくがくぶるぶる」状態だと言えた。それからは私のテンションも上がることはなく、むしろ同勤者に迷惑をかけていたことだと推測できる。因みにそれは仕事上ではなく精神上でのことなのだが。私の起こしてしまったミス、それは前述した通り、結果的にはなんともないようなことだった。このミスを私の業界に関係のない人でもわかりやすく喩えるなら…ショベルカーのショベルを振り下ろす前にその先に人がいないか確認しないでいきなり振り下ろした行為に近いものがある。その結果その場所に人がいなかったので事なきを得たのだが、その行為自体は許されるものでは決してない。なので、ミスを起こしてしまったプロセスをトレースすることは今後同じミスを繰り返さない為に必須のことだ。なので私は今から所謂執行猶予期間に入ることになる。そのミスによって暴かれる私の怠慢や驕りを是正するとともに、同じミスを繰り返さない為の対応を検討する期間に入るというわけだ。目の前には問題報告書が山積みになっているという中での仕事を余儀なくされるという状態に陥ってしまった。今になって思えば、かなりの凡ミスだと言える。同じ間違いを2度するほど愚かではないつもりだし、その際に上司にかなりこってりと怒られた経験は糧にはなろうとも嬉しい経験ではないからだ。取り敢えず当面は今目の前にうず高く積んである問題報告書を1つ1つクリアしていって、そして信用を回復することにつとめていきたいと思うわけだ。なんとも波乱の幕開けとなってしまったのだが、10月はいいことがあるだろうか?仕事上の失敗も含めればもう既に2つの嫌なことが起こっている以上…あまり期待は出来ないような気がしてならない。まぁしかし逆に考えれば、10月の分の悪いことは最初に起こってしまい、後にはいいことしか残っていないというゼロサム理論を楽観的に信じるのであれば、今後も期待は出来る。人間万事都合のいいことを考える生き物ということを痛感するのはこういう時だが、スタートダッシュでこけてしまった私が信じるのはゼロサム理論しかないのもまた事実なのだ(笑)
Oct 1, 2007
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