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うちの教室には猫の額ほどの小さな庭があります。そこで子どもたちは穴を掘って水を入れたりして遊んだりしています。ですから、庭にはいつでも大きな穴が開いています。そして、子どもたちは帰る時には泥だらけです。造形教室のはずなんですが、なぜか穴掘りだけやって帰る子もいます。これで月謝もらっていいのかななどと思ったりもしますが、今子どもたちに一番必要なことを提供しているんだからまあ、いいか・・・・、などと言い訳を考えたりしています。まれにそこに車を入れることがあるのですが、車のタイヤがその穴に落っこちてしまって大変だったこともあります。そして、そんな風に子どもが夢中になって穴を掘っている時に私はよく“宝物が出てきたら私のだからな”とか、“温泉が出てきたら三割引で入れてあげるね”などと話しかけます。“恐竜の骨が出てくるかもね”と言うこともあります。すると、子どもは“どうしてなんだよ、見つけた人のものだろ”とか、“先生ずるい”とかいいます。また、ちょっとしたかけらを見つけて“恐竜の骨だ”と発掘ごっこを始める子もいます。“そんなもの出るわけないじゃないか”という子もいますがそこでひるんではいけません。“え、知らないの。庭から小判が出てくるってこと本当にあるんだよ”などと言います。そして、“本当に出てくるの?”と聞かれたら、“掘ってみなくちゃ分かんないでしょ”と言います。すると、時々“あ、ぼくテレビで見たことがある”などと言い出す子もいます。ハハハハ、ホラ吹きは楽しいのです。そして、ほとんどの子どもがそのホラに乗ってきてくれます。それを“子どもに嘘を教えて悪い大人だ”と思う人もいるかも知れませんが、大人はこんなこと言っても乗ってこないでしょ。これは子どもの特質なんです。ここで理解して欲しいのは、子どもだってそんなの嘘だっていうことぐらい分かっているのです。でも、子どもというものはその嘘の世界の中で遊ぶことが大好きなんです。その嘘の世界の中で子どもたちは様々な束縛から自由になることができるからです。嘘の世界の中では子どもは魔法使いになることができるのです。夢が叶うのです。また、絵本の中にケーキが出てきた時、“みんなで一緒に食べよう”と絵本を前に出すと、子どもたちが群がってきて絵本のケーキを食べようとします。これはどこでやっても子どもたちは同じように反応します。絵本の中のケーキが食べられないことぐらい子どもだって知っているのです。実際、みんな食べる振りをするばかりで、“食べられないよ”と泣く子などいないのですから。先日、教室にどんぐりがあったので“このどんぐりは魔法のどんぐりなんだよ。埋めると芽が出てドンドン大きくなって空の上まで行って巨人の国まで行ってしまうんだ。”とやったら、やっぱり数人の子が食いついてきてくれました。子どもは私の話の不備を色々と突いてきます。でも、私はそれに対しても色々言い訳して話しを進めていきます。この時、“そんな大きな木があるわけないじゃないか”と言う子がいます。でも、ここで誤解してはいけません。そのように反論してきたということがももうすでにこの話しに興味を持った証拠なんですから。それに反論してくれればその反論を通して色々と対話することが出来ます。一番やっかいなのは、シラーッとした顔をして全く反応しない子です。“サンタさんなんかいない”などと言う子も同じです。“サンタさんなんかいない”と言う子はサンタさんを信じたい子なんです。だって、本当にいないと思っているのならわざわざそんなこと言う必要はないからです。そういう子はどこかで大人の顔色を見ているのです。こんな風に大人がホラを振ると子どもはどんどん反応してきてくれます。するとものがたりがドンドン進んでいきます。楽しいですよ。でも、子どもを怖がらせるホラはだめですからね。ちなみにドラエモンの世界もホラの世界ですからね。
2007.05.31
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5月15日生まれさんから上の子が5歳くらいの時、保育所での出来事を教えてくれましたが、実際は事実と違っていた事が良くあり、「この子は嘘つきなの?」と悩んだ事がありました。何人かに相談しましたが、私が安心できる回答はありませんでした。というコメントを頂きましたので、今日もこの話題を続けます。実はこのような話しをよく聞くのです。その時、その話をそのまま信じて幼稚園や他のお母さん達とトラブルになった人もいれば、“嘘を言うんじゃありません”と子どもを信用しない人もいます。いじめの問題でもこのようなことはよく起きます。子どもは“事実”と“思いこみ”を区別できないからです。今日は、どうしてこういう事が起きるのかということを説明します。理由が分かってしまえば当たり前のことでも、理由が分からないと誤解につながってしまいますからね。これは、子どもの記憶と思考の方法が大人とは異なっていることから起きてくるのです。人間は生まれる前から持っている生理的な感覚や本能と、生まれてから学んだこととを組み合わせて色々と考えたりしています。それは、その生まれる前から持っている生理的な感覚や本能と、生まれてから学んだことを一つのデータベースとして使っていると言うことです。これは大人も子どもも同じです。人間だけでなく、他の動物でも同じです。じゃあ、違いはどこから生まれるかというとそのデータベースへのアクセスの仕方が違うのです。大人の記憶は時間と空間別に整理されています。ですから、一週間前、どこで、誰と、何をしたのかということを自分の意志で想い出すことが出来ます。そしてその結果どうなったのか、これから先どうなるのかということも考えることが出来ます。また、空想と現実とが別々に整理されています。あまり明確な境界ではありませんがそれでも何となく境界ラインはあります。でも、子どもの場合は記憶が時間と空間別に整理されていません。また、空想と現実の間の境界が大人よりもはるかに曖昧です。大人の場合はさらに、“意味”によっても区分けされていますが、子どもは“意味”を理解できません。このことを理解するには「索引」という考え方を取り入れると分かりやすくなります。大人は自分の記憶に、時間と空間別、現実と空想別、そして意味別に索引を付けています。だから、状況に合わせて自在に検索することが出来ます。そして、客観的な思考や論理というものはその索引を使って行うものです。ところが、子どもの記憶にはしっかりとした索引がまだ出来上がっていません。子どもは時間や空間や意味の認識がうまくできないからです。じゃあ、どのようにそのデータベースを使っているのかというと“共鳴”なんです。赤い色を見た時、その赤い色に共鳴する記憶が意識に登ってくるわけです。簡単に言うと“連想ゲーム”と同じです。いろはにこんぺいとう こんぺいとうは甘い甘いはお砂糖 お砂糖は白い白いはうさぎ うさぎははねるはねるはノミ ノミは赤い赤いはほおずき ほおずきは鳴る鳴るはおなら おならはくさいくさいはうんこ うんこは黄色い黄色いはバナナ バナナは高い高いは十二階 十二階はこわいこわいはおばけ おばけは消える消えるは電気 電気は光る光るは親父のはげあたまこれです。でも、子どもは自分の中で何が起きているのか分からないので説明できません。これは無意識に起きてしまうのです。大人は意識して考えることができますが、子どもは意識して考えることが出来ないのです。(子どもの思考は一種の反射です。でも、様々な体験を通して年齢と共に次第に考えることが出来るようになります)だから自分の考えを(相手に分かるように)説明できません。さらには自分の都合や興味に合わせて組み合わせを変えたり、途中をすっ飛ばしてしまいますから、「こんぺいとうは甘い、だから親父の頭が光っているんだ」という論理が出来上がります。病院に行った匂いがした白い服を着た人に痛いことされたと、こういう体験があると「病院=痛い、消毒の匂い=痛い、白い服=痛い」という論理が出来上がります。そして、こういう共鳴の連鎖で組み立てられているのが昔話の世界なんです。だから、井戸を降りていくと別の世界があってもおかしくないのです。そして、そのまま聞いていても違和感を感じないのです。それがもともとの心の働きだからです。(ただし、小さい時から勉強をやらされている子は心の働きが萎えて、物事を頭の働きで理解しようとするので違和感を感じるようです。大人も理屈でばかり考え、心の感覚が鈍っている人は違和感を感じるようです。でも、人の心は元々こういうものなので、そういう人は人の心が見えません。)でも、ここで大切なことがあります。昔話はそのような無意識の世界から生まれて来るのですが、意識(現実)の世界へとつながっているということなんです。つまり、子どもの世界と大人の世界をつないだところに昔話があるわけです。(だから子どもたちに昔話を聞かせた方がいいのです。)オオカミを殺し、魔女を焼き殺すことで現実の世界へと戻ってくるのです。子どもの世界から大人の世界に入ってくるためにはそのような“死の体験”が必要なのです。それに対して、ゲームの中の世界は意識の世界(大人の世界)へはつながっていません。友人のお母さんが言っていたことです。朝起きたら娘さんが泣いていたというのです。(6年生くらいだったかな・・・)どうしたのと聞いたら、“夢の中でお母さんを殺してしまった”と言うのです。それで泣いている・・・。それで私はそのお母さんに“よかったね”と言い、そのお母さんも“よかったです”と答えられました。そういうことです。
2007.05.30
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それでね、どうしたらいいのかというとね、子どもの言葉に耳を澄ませばいいのですよ。そうすると「ものがたり」ということがどういうことかすぐ分かるのです。(と思います。)なぜなら、子どもの言葉はいつでも「ものがたり」だからです。でも、だから大人には子どもの言葉が理解できないのです。大人の言葉の多くは説明に過ぎません。でも、子どもは説明しません。子どもは大人が説明を求めても、自分の「ものがたり」を語るばかりです。それを事実の説明として受け取ってしまうとおかしなことになってしまいます。よく、“私は子どもを信じます”と、子どもの「ものがたり」を事実として受けとめてしまう人がいますが、それは結果として困ったことになります。かといって、子どもが“嘘を言っている”ということでもありません。「ものがたり」は「ものがたりであって嘘ではないからです。そうでないと、昔話は嘘のお話しになってしまいます。昔話に書かれたものは事実ではありません。「ものがたり」です。でも、その物語の中に「真実」が隠されています。だから、何百年も大切に受け継がれてきたのです。子どもを信じると言うことは、子どもの言葉の中に込められた「ものがたり」を「ものがたり」として受け止めると言うことであって、「子どものものがたり」を事実として解釈すると言うことではないのです。子どもに“丸いものなーんだ?”と聞くと、リンゴ、ボール、卵など色々な答えが出てきます。でも、逆に“ボールは?”と聞いても“丸い”という答えはなかなか出てこないでしょう。子どもが“ボールは丸い”ということを知らないのではありません。“丸いものなーんだ?”と聞けば答えることが出来るのですから。でも、子どもは“ボールは丸い”という説明的な表現はしません。意味がないからです。大人は説明が好きですが、子どもには“説明する”ということの意味が理解できません。ちゃんと調べたわけではありませんが多分、7歳から9歳を過ぎないと説明することの意味を理解することが出来ないのではないかと思います。子どもは“丸いものなーんだ?”と聞かれてイメージすることで頭が働き出すのです。ですから、子どもはこういう質問が大好きです。子どもはイメージを使うのが大好きなんです。だから、いつでも“かいじゅうだ!”とかワケの分からないことばかり言っているのです。そして、だから“これこれこういうことをしたらみんなが迷惑するからこういうことはやめようね”と説明されても何のことか分かりません。実際、子どもが遊んでいる場では子ども同士でこんなこと言いません。これは子どもの言葉、感覚ではないからです。じゃあ、子どもはどう言うかというと“いーけないんだ”と言います。簡単でしょ。説明なんか不用です。“それはいけないことなんだよ”、そう言うだけです。そして、子どもは“どうしていけないの?”などとは聞きません。(少なくとも子ども同士の間では・・・)また、“どうして?”と言った場合でも、その“どうして?”は一種の“自分は悪いことをしていない”という主張であって、説明を知りたいわけではありません。それを大人が説明しても理解できません。だって、実際問題として何回説明しても同じことを繰り返すでしょう。それでお母さんや先生が“何回言ったら分かるの!”と怒鳴ることになるのでしょう。何回言っても分からないということは、大人が子どもが理解できる言葉で話していないという証拠なんですが、そのことに気付く大人はあまりいません。みんな“子どもの聞き分けが悪い”せいにしてしまっています。でも、そんな時ものがたりで語るとすぐに理解できます。大分以前、新聞か本で読んだことですが、ある子どものおじいちゃんが死んだそうです。それで、“死ぬ”ってどういうことなのか子どもたちが話し合っていたらしいのです。“ずーっとねちゃうことかな”とか、“もう帰ってこないことかな”など色々な意見が出た後、一人の子どもが“死んじゃうと傘が持てないんだよ”と言って、なぜかそれでみんな納得してしまったそうです。面白いでしょ。固くなってしまった大人の頭では理解できないまるで禅問答のような超越的な答えですよね。どうして、子どもには「説明」が理解できないのかというと、説明というものが因果関係の連なりによって出来ているからなんです。ものがたりの世界に生きている子どもにはその因果関係のつらなりが理解できないのです。だから子どもがケンカした時、状況を説明させようとするとみんなワケの分からないことばかり言うのです。
2007.05.29
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ということで(話しが通じない人は土曜日までのブログをお読み下さい)子どもと「ものがたり」を楽しんで見ましょう。といっても“素話”などというような難しいことではありません。日常的な普通の会話を「ものがたり」に変えてしまうのです。皆さんはお子さんとどのような会話をなさっていますか。ちなみに、“早くしなさい”、“片づけなさい”、“宿題をやりなさい”、“勉強しなさい”は指示、命令であって会話ではありませんからね。昨日はブログにも書いたように冒険クラブで山を歩いてきました。そして、わき水から川が生まれる現場をそのまま見てきました。それで川を例にとってちょっと説明してみますね。お子さんとお散歩している時に“川があるね”というのはただの説明です。そして、一般的にそのような説明は必要がなければいちいち言いませんよね。でも、どんな川にも始まりもあれば、終わりもあります。でも、普段はそれを見ることが出来ません。だからあまり会話にも登りません。でも、その目には見えないものについて語る時それが「ものがたり」になります。ですから、別に特別な“お話し”を考える必要はないのです。“この川はどんなところで生まれたんだろうね、きっと誰も知らない森の中で生まれたんだね”と子どもと一緒に考えてみればそこに「ものがたり」が生まれます。“川の中にはどんな生き物がいるんだろうね”というのも同じです。公園で遊んでいる時に子どもが石を拾ってきたら、“この石はどこからきたんだろうね”と話すのも同じです。冬の木々を見ながら“どんなお花が咲くのだろうね”と話すのも、たんぽぽの綿毛を飛ばしながら“この種はどこまで飛んでいくのかな”と話すのも同じです。食卓を囲みながら、雨や風の話し、お百姓さんの話をするのも同じです。つまり、イメージの働きを伴わないと見えてこないようなことを伝えようとする時、その言葉はそのまま「ものがたり」になるのです。逆に言えば、「ものがたりの言葉」は見えないものを伝えるために必要な言葉なんです。そして、そのため人間的なことはそのような言葉でないと伝えることは出来ないのです。ものがたりの言葉が使えない人は愛も勇気も希望も語ることが出来ないということです。“優しくしなさい”と叱っても、子どもには優しさは伝わりません。子どもに優しさを伝えようとするなら“ものがたりの言葉”で伝えるしかないのです。そして、生活の中にそのような「ものがたり」を取り入れたいと思ったら、意識してお母さんがイメージを働かせる必要があります。すると、子どもはお母さんのそのイメージに刺激されてどんどんイメージを膨らませることが出来ます。そのことが、“愛”や“勇気”や“希望”といったことの理解を促すのです。そして、お母さんがそのようにイメージを働かせることに慣れてくると子どもの心が見えるようになってきます。なぜなら、心はものがたりの言葉で語られているからです。
2007.05.28
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今日は「冒険クラブ」で鎌倉の天園コースを歩いてきました。登りは北鎌倉の明月院の近くから登りました。“がけ”と聞いていたのですが、大したことありませんでした。冒険クラブのメンバーは木を見ればみんな登ります。通りすがりの親切なおじさんが“危ないよ”と注意してくれました。でも、私は“子どもの時に木登りしないでいつするんだ”と思っているので、笑って黙って聞き流しました。だって「安全クラブ」ではなく、「冒険クラブ」ですからね。また、歩き始めの頃小さな子がお花を摘んでいたら、“花を摘んじゃいけないんだぞ”などとぶつくさ言いながら通り過ぎる人もいましたが、山を崩し、田んぼを埋め、自動車を走らせる大人が、ほんの数本の花を手折る(たおる)子どもをとがめることは出来ないんじゃないか? とこれも聞き流しました。私の子どもの頃の鎌倉にはこんなに家もなく、山は山のままでした。私は、ここも山だった、ここも山だったということを覚えています。こんなにも自然を少なくしてしまったのは大人の責任です。だから、大人に子どもが自然と関わる機会を奪う権利はないのです。自然との楽しい関わりが、子どもの心の中に自然とつながるものがたりを生み出し、自然を大切にする心を育てるのです。人間は“物”を大切にするのではないのです。“物にまつわるものがたり”を大切にするのです。だから、結果として物を大切にするのです。この山にはいっぱい生命がいるんだ、あの木で木登りしたんだ、このがけを登ったんだという想い出とものがたりがいっぱいあるから、その自然を大切にするのです。かたくなな自然保護活動をやっている人は子どもを自然から遠ざけるばかりです。そう言う人たちが管理している公園に行くと、“入るな”、“触るな”、“捕るな”という立て看板がいっぱい立っています。でも、自然と関わらないまま成長した子どもは、平気で山を崩す大人になってしまうのではないかと心配なのです。お猿です。岩を見れば登ります。穴を見れば入ります。桑の木を見つければ群がって食べます。これも桑の木。桑の木を見つけるたびに大騒ぎをして、おとなも子どもも群がって食べていました。でも、他のグループの人たちは誰も手を出しません。「冒険クラブ」とは、こういう大人と子どもの集まりです。これも「桑の木」。素敵な渓流がありました。水が湧いているところがあり、そこから流れが始まり、次第に川になっていくそのままを歩きながら体験することが出来ました。小さい子が多く、最初はどうなるかと思いましたが大丈夫でした。子どもは山道が大好きです。お母さんやお父さんがおんぶしようとしようとしても、みんな歩きたがっていました。気持ちの良い、一日でした。
2007.05.27
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今日は2:00から藤沢の「辻堂海浜公園」で開かれた「Alohas湘南」のイベントで色水遊びワークショップをやって来ました。定員30名なのですが、応募者多数につきお断り多数。ワークをやっている最中も“やりたいんですけど”というお申し出をいっぱい頂きましたがそれも“ごめんなさい”と言ってお断りしました。申し訳ありませんでした。忙しかった・・・・・・・・・・・・。お手伝い頂いたTTRさん、本当に有り難うございました。***************************それで、昨日の続きをちょっと続けます。そうこう色々と考えていくと、実は「言葉」というものは本来的に「ものがたり」なんではないかと思えてくるのです。「木」という言葉がありますよね。でも、木を見たことがない人にはこの言葉は通じません。また、見ただけの人、登ったことのある人とでは「木」という言葉の意味が違うかも知れません。また、熱帯の人と北国の人とでも「木」のイメージは違うでしょう。ワークで“木という言葉を聞いた時あなたはどのような木を思い浮かべますか”と聞くと面白いことにみんな違う木のイメージを語ってくれるのです。みんな自分の体験から「木」というイメージを作っているわけです。つまり、言葉は公的に共有されるものであると同時に個人的なものでもあるのです。だから、同じ言葉を話していても感覚や考えや想いが通じる人と通じない人がいるわけです。そして、その“個人的”な部分に物語が潜んでいるのです。ですから、人が自分の言葉で自分の考えや想いを語る時に、それはすでに一つの「ものがたり」なんです。でも、科学ではその個人的な部分を排除して言葉を使います。だから、科学では月は「月」であって、「お月様」とは言わないのです。「楕円形の雲」とは言っても、「ラグビーボールのような雲」とは言わないのです。また、「高さが50mの木」とは言っても「山のように大きな木」とは言わないのです。科学では“自分の言葉”を使ってはいけないのです。ですから、数字や客観的な言葉で説明するのです。でも、客観的な言葉による説明はただの事実の羅列であって、「ものがたり」ではありません。科学的な言葉は一種の記号だからです。ですから、その言葉を実際にそのまま記号に置き換えることが出来ます。ちなみに数学や科学のテスト問題は、文章題をそのまま記号に置き換えることで解けてしまいます。でも、子どもはお母さんの言葉を聞きたいのです。お母さんの言葉にはお母さんのものがたりが含まれているからです。子どもはそのものがたりを聞いて自分のものがたりを紡ぐのです。どうかお子さんに「説明」ではなく、「ものがたり」をいっぱい語ってあげて下さい。説明ばかり聞かされている子は物語を紡ぐ力が萎えていってしまうのです。
2007.05.26
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それで今日は「じゃあ、その“ものがたり”の正体とは何なのか」ということを探っていこうと思います。それを考えていくと、「人間」というものが見えてくるのです。私はこのような謎解きが大好きなのでしつこいですがもう少しお付き合い下さい。結論から言いますと「ものがたり」は“何か”と“何か”をつなげようとする時に生まれます。子どもが泣いていて、その側にアイスクリームが落ちている時、その二つの情景をつなげようとする時「ものがたり」が生まれます。夕方、日が沈み、朝、また日が出てきます。その昨日の太陽と、今日の太陽をつなげようとする時「ものがたり」が生まれます。自分の病気と、自分の人生をつなげようとする時「ものがたり」が生まれます。人間と自然をつなげる時「ものがたり」が生まれます。空の雲の形と海のクジラがつながったとき「ものがたり」が生まれます。また、病気で苦しんでいる人がその原因を考える時も同じです。原因を考えるということはつながりをたどっていくということでもあるからです。そして、原因と結果がうまくつながった時「ものがたり」は生まれます。そう、「ものがたり」とは“つなげるもの”なんです。様々な人、事物、現象、事象、出来事などをつなげて理解しようとする時「ものがたり」が生まれるのです。それらのあいだの「間」(ま)を埋めるものが「ものがたり」なんです。そして、それが語り継がれる時「物語」として形を整えていくのです。だから「ものがたり」には“つなげる働き”があります。人と人がつながる時、人と自然がつながる時、心とからだがつながる時、見える世界と見えない世界がつながるとき、そこには必ず「ものがたり」があります。逆にいうと、「ものがたり」がないと人は他者とつながることが出来ないのです。(お金や地位や名誉や学歴も「ものがたり」のアイテムです。その全ての価値は人の心の中の「ものがたり」の中にしか存在していません。)“気の合う仲間”というのは「ものがたり」を共有できる仲間のことです。「ものがたり」を共有しているから言葉や感覚を共有することができるのです。そして、“ものがたりを共有している仲間”だから大切にするのです。なぜなら、人は自分と同じものがたりを生きている人に、自分と同じ生命を感じるからです。(だから、逆にいうと「ものがたり」を共有していない異教徒や異民族なら平気で殺せるのです。)<続きます>
2007.05.25
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すみません。私用です。26日2:00からalohas湘南のイベントで辻堂海浜公園で色水遊びのワークをやります。どなたかお手伝い頂けませんでしょうか。お手伝い頂いた方のご家族の参加は無料にします。2:00~4:00までです。詳しくはHPでご覧になって下さい。***********************のんたんさんから普段は我が家の子供たちは、どんぐりやしいの実を植えて歩いてます。花のほうが咲くから分かりやすいのに「いつか登るために」木を植えるそうです。というコメントを頂きました。どんぐりを植えている時、心の中にはもうすでに大きく成長したドングリの木があって、のんたんさんのお子さんはその木に登っているのでしょうね。ここにはもうすでに「ものがたり」があるということがお分かりですか。この「ものがたり」は言葉化も文字化もされていません。でも、確かに「ものがたり」です。私達が普通に「物語」と呼んでいるものは、この心の中の「ものがたり」を言葉化したり文字化したりしたものに過ぎません。読む、聞くだけでなく、五感で触れることが出来る世界の全ては五感で触れることが出来ない世界からやってくるのです。種から芽が出て生長して花が咲きます。その過程は目で見ることが出来ます。でも、その過程を発現しているのは「生命の働き」という目に見えない働きです。それは、顕微鏡で覗いてみても同じです。どんなに高倍率の顕微鏡で覗いても、見えるのは現象だけでその現象を発現している働きそのものを見ることは出来ません。そして、あなたの言葉、行動の全てもあなたの心という目に見えない世界からやってきます。その見えない世界を構成しているのが「本能」と「ものがたり」という二つの働きなんです。感情も知性もこの二つの働きによって生まれてきます。人間は「ものがたり」を得ることで「人間」に進化することが出来たのです。その本能はだいたいみんな共通していますから、人の行動、思考、生き方の違いは主にその人の心の中の「ものがたり」の違いから生まれてきます。私のワークではよく参加している人に子どもの頃のことを聞くのですが、そこで語られるのはみな「ものがたり」です。また、子育ての問題、夫婦の問題、そういう相談を受けている時もそこで語られているのは「ものがたり」です。“あなたのお子さんはどんな子ですか”、“あなたのご主人はどんな人ですか”と聞いた時語られるのも事実ではなく「あなたのものがたり」です。あなたが語る子どもも、ご主人もそれは現実の子どもやご主人の姿ではなく、あなたの心の中のものがたりの登場人物に過ぎないのです。事実は事実のままですが、その事実を解釈する時それは「ものがたり」に変換されるのです。そして、人は「解釈」という作業を通さないと何も語ることが出来ないのです。そして、人を動かしているのはその事実ではなく、その解釈の方なのです。つまり、人は「ものがたり」によって考え、行動しているのです。人は自分の「ものがたり」の筋に従って事実を解釈するのです。つまり「人生」はもうすでに一つの「ものがたり」なんです。実際、その人の一生を書き記せば伝記という「物語」になります。人は死んで「物語」を残すのです。でも、人にはその「ものがたり」に振り回されている人と、「ものがたり」の作者、主人公として能動的にそのものがたりを生きている人がいます。前者は不平不満ばかり言っているでしょう、でも、後者は希望を持ち前向きに生きているでしょう。つまり、その人がその「心の中のものがたり」とどのように関わっているのかということがその人の人生を決めているのです。そして、ここが大切なことなんですが、それはその人が子どもの頃にどのような「物語」と出会ったのかということと大きく関係しているのです。子どもの頃に出会った「物語」が、その人の心の中の「ものがたり」の展開パターンを決めているのです。そして、物語と出会えなかった子どもは自分の心の中の「ものがたり」に振り回されるようになってしまうでしょう。例えば、「プラス思考」という方法はその「ものがたり」の一つの紡ぎ方です。でも、そのプラス思考をプラスに解釈するすることが出来るか、マイナスに解釈することが出来るのかということすらその人の「ものがたり」が決めているのです。でも、自分の「ものがたり」に振り回されている人でも、今からでも「物語」をいっぱい読むことで、自分の「ものがたり」に振り回されにくくなることはできるのです。是非、子どもと一緒にいっぱい「物語」を読んでください。きっと素敵な「ものがたり」が生まれてくると思いますよ。
2007.05.24
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今日は時間がないのでちょっとだけで失礼します。現代人はお話しの力、演じる力、歌や踊りの力を忘れてしまっています。だから人と人とのつながりが作れないのです。中でもお話しはその中心です。「お話し」が演じることを、踊ることを、歌うことを生み出すのです。人間らしいつながりはお話しが作るのです。お話しがないところでは利害関係によるつながりしか生まれません。でも、現代人にはそのお話がなんなのかよく分からなくなってしまっています。ということで、明日に続きます。
2007.05.23
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昨日は田島誠三さんの絵本「かちかちやま」の絵が怖いということを書きましたが、今日はその絵がおはなしとぴったりつながって“これは絵本でしかできない”という絵本を一つご紹介します。それはモンゴル民話を再話した「スーホの白い馬」です。絵は赤羽末吉さんです。以下は、モンゴルの草原で繰り広げられている競争のシーンです。どうですか。すごいでしょ。モンゴルの草原を見たことのある子どもなんていません。だからイメージなど出来ません。モンゴルの子どもがこのお話を聞くのなら絵はなくても通じると思いますが、でも、日本の子どもがこのお話しを聞く時にはこの絵が必要なんです。ここで赤羽さんは絵で説明しようとしているわけではありません。絵で言葉を補おうとしているのでもありません。言葉がなくてもこの絵は見る人の心を打ちます。以下は、捕らえられていた馬が血だらけになって逃げ帰ってくるところです。矢が刺さり、血が出ている怖さより、それよりも凛として立っている馬の意志と美しさを感じます。子どもはこのような絵からも多くを学ぶでしょう。また、長新太さんの絵本などは絵がないとワケが分かりません。全ページただ“ごろごろ にゃーん”という言葉しか出てこない絵本まであるのですから。長さんのように、絵本でしか実現できない世界を創造している作家もいっぱいいます。でも、問題は「昔話」です。昔話は基本的に口承によって伝えられてきたお話しです。ですから、言葉だけで語られることで完結するように出来上がってしまっているのです。ですから、そこに絵をつけると別物になってしまう恐れがあります。また、ここは非常に大切なことなんですが、昔話は子どものためだけのものではありません。今では昔話の荒唐無稽な世界は“子供用”と考えている人も多いと思いますが、昔は大人のためのものでもあったのです。文字がなかった時代、大切なことはみな“お話し”という形で伝えてきたのです。それは大人にとっても同じなんです。だから、聖書もお経もお話しがいっぱい詰まっています。また、お話しは大人たちの娯楽でもありました。欧米には今でも吟遊詩人がいると聞きます。モンゴルなどにも民族の叙事詩を語る人がいると聞きます。人々は生命について、自分たちの歴史について、自然との関わり方について、人と人の関わり方について物語という形にして伝えてきたのです。ですから、昔話の中には猥雑な話し、残酷な話しなどいっぱい詰まっています。昔話とはそういうもんなんです。ただ、それを絵本にしようとする時、その猥雑さ、残酷さの表現が問題になってきてしまいます。だからお子さま用にお話しを変えてしまう・・・・。でも、それでは伝えられてきたお話しの力が消えてしまうのです。ということで、私は昔話を絵本で読むことにはあまり賛成しないのです。昔話は是非「本」を読んで語ってあげて下さい。それなら怖くないと思います。それと、絵本より文字だけの本を読んであげることの方が、子どもの本好きにつながるのではないかと思っています。*********************有名な「千夜一夜物語」にバートン版というものがあります。私達が今普通に読んでいる「千夜一夜物語」は普通のお話しとして書き直されたものですが、バートン版は原典に近い形で翻訳されたものです。私はこのバートン版を高校生の頃に読みました。以下は、そのバートン版を紹介してあるHPからの引用です。「アラビアン・ナイト」の無削除完全版として有名なバートン版を、大場正史氏の生涯をかけた翻訳で贈る。「アリババ」や「アラジン」や「シンドバッド」は誰でも知っているが、本来の「千夜一夜物語」はそれだけのものではまったくない。女性に対する不信から、夜ごと一夜妻を殺し続けるシャーリヤル王。その夜伽《よとぎ》に選ばれた才女シャーラザットは、「明日の晩はもっと面白い話があります」「こんな話もあります」といって一夜ずつ身の破滅をのがれる。話の内容は千変万化、ファンタジーあり、恋愛譚あり、悲喜劇あり、人情話あり、猥談あり、悪漢・盗賊ものあり、歴史物語あり、寓話あり…いつしか千一夜にもおよぶ一大物語集に。健康なエロティシズムと強靭な精神にあふれたイスラム世界への最高の案内書。全9巻。この巻に収められた「バグダッドの軽子と三人の女」や「床屋の六人の兄の話」は、「千夜一夜物語」全編の中でも屈指のこっけい譚。どんな人でも驚き、笑わないではいられない。エキスパンドブック版には各巻とも、レイン版からのエッチング図版を多数収録。
2007.05.22
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それで、18日の「残酷なお話し」に続けます。もう一度しんしんままさんからのコメントを紹介させて頂きます。元気に幼稚園の年少に通うようになった子供は、幼稚園で読み聞かせてくれた絵本について教えてくれます。でも、その内容は、かなり私の知っている昔話と違うのです。甘く、あま~く味つけされてしまっていて、ちょっと残虐な部分が、カットされていたりもします。私は一般的な昔話をしているつもりなのですが点、昔話にも諸説あるとは思いますが、子供は混乱してしまっているようです。どっちが正しいのか?と。幼稚園が話してくれる昔話の中には、漫画ちっくにパロディー化されているものもあって、がっかりしてしまいます。子供が怖がらないよう配慮してるのか、退屈しないように面白く味付けしているのかもしれません。子供にどう説明すれば良いかとっても困っています。幼稚園は、幼稚園の話。家は家の話。と、区別してもらおうと思ってますがうまくいきません。せっかく幼稚園でお話をしてくださっているのに、なんだかもったいないです。幸い、家で絵本はたくさん買ってあげたり借りたりできると思うので、なんとかそれを読んであげていきたいと思ってます。このような問題は素話ではなく絵本の時に起きるように感じます。子どもは言葉だけならそれほど怖がらないからです。でも、それに絵が付いてきた時怖くなります。同じお話しでも絵がある時とない時とでは子どもに全く違った働きかけをするからです。言葉によって作られるイメージは自分の体験の組み合わせによって作られますから、そのイメージは子どもの体験の範囲を出ません。体験したことのないことはイメージできないのです。ですから、「タヌキがおばあさんを殺した」(かちかちやま)という言葉を聞いても具体的な状況や映像をイメージすることは出来ないわけです。そのため、大人には残酷な話でも子どもには残酷ではなく、スッと聞き流すことが出来ます。それに対して、絵はそのままの形で子どもの心の中に残っています。そして、子どもの想像がさらにその絵に脚色を加えていきます。そして、絵の中には子どもの体験を越えた情報が具体的に描き込まれています。子どもは、「タヌキがおばあさんを殺した」と聞いても、「ああ、おばあさんは死んじゃったんだ」と理解するだけです。でも、絵には「血」が書いてあります。すると、今度はその「血」から別のイメージが際限なく広がってしまいます。絵本には子どもの体験を越えた情報が描き込まれていることが子どもの理解を助けるのですが、時にはその事によって子どもを怖がらせてしまうのです。それは大人から見たらどうってことのない普通の絵場合でも、その絵からイメージが広がって怖くなってしまう子もいるのです。以下は、田島誠三の「かちかちやま」です。私はこの絵が怖いです。(でも、一般的に田島誠三の絵は好きですけど・・・)まあ、これは極端ですが、子どもによっては森の絵でも怖くなるでしょう。絵がよけいなイメージを引き起こすからです。ただし、最後に一つ付け加えますが、だからといってこの絵本が悪い絵本だということではありません。ただ、幼い子どもと憂鬱質の子どもにはあまり見せない方がいいかも知れないということです。
2007.05.21
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今日2729さんAma-laさんしんしんままさんぐりぐりさん有り難うございます。今日はちょだけ、でもすごく大切なことを付け加えるだけにします。そして、お約束の新しく家族になったネコの写真をご披露します。つまり、昨日パソコンが直って帰ってきたと言うことです。一安心です。でも、2週間近く別のパソコンを使っていたのでデータを統合したり、通信を書く作業が中断してしまっていたので大変です。(能力が低く新しいソフトをインストールできないのです。)ということでまず付け加えることです。昨日のブログに対して牧野さんが非常にうまくまとめてくださいました。まず、それをご紹介します。レベル1:生理的な優しさ(必要なものはない)レベル2:道徳的な優しさ(体験が必要)レベル3:宗教的・普遍的な優しさ(自立した精神が必要)レベル4:直接に自然や宇宙や神とつながった優しさ(悟りが必要)こういうことです。 子猫を可愛いと感じるだけではレベル1の生理的な優しさです。でも、その子猫のために色々考え行動する時、レベル2になります。レベル2の優しさは「行為」によって特徴づけられるのです。ですから、社会的な評価が大切なポイントになります。そのため、道徳的な行為が中心になるわけです。みんなと仲良くしたい、犯罪のない平和な社会を作りたいと行動するのもこのレベルです。さらには、「優しいお母さんと思われたい」というのも同じです。学校の道徳教育が目指しているのもこの優しさです。それに対して、レベル3の優しさは「優しくありたいと願い、祈り、行動する意志」の中に存在しています。つまり、この場合の「優しい人」とは「優しくなろうと努力している人」のことです。ですから、「私は優しい人だ」などという人の優しさは見かけだけです。また、その人が過去にどういうことをしてきたのかということとも関係ありません。どんなに立派なことをしてきていてもこの優しさとは関係ありません。過去に人を殺してしまった人でも、この優しさに目覚める人はいるのです。つまり、非常に精神的なものなのです。だからこそ普遍性を持つのです。この優しさの人は社会の常識に振り回されません。戦争中にみんなが戦争は善だと叫んでいる時でも「これは間違っている」と言えます。また、周囲のお母さんになんと思われても自分が正しいと思ったことを守ろうとします。つまり、レベル2から3の間に価値観がひっくり返るのです。これが、親鸞が言った「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という言葉になります。ということで、子どもに普遍的な優しさを育ててもらいたいと願うならまず、美しいものを喜び、優しさにあこがれる気持ちを育てることです。「優しくしなさい!」と怒鳴っても、ただ厳しくしても無駄です。優しい人がいるわけではないのです。優しくなろうと努力している人が優しい人なんです。***********************ぼくの名前は「はっち」です。「みなしごハッチ」のハッチではありません。どうやら「はちべいさん」の「はっち」らしいです。ということで正式には「はちべい」、通称は「はっち」ということのようです。以後、よろしくお願いします。はっち、ヒモと戯れる。はっち、みあげる。はっち、私のからだに登る。登ってくる時に爪を立てるので傷だらけです。
2007.05.20
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昨日はそれは「攻撃性」は他者から学習するものではなく生理的なものだからです。ちなみに、優しさは学習するものです。だから、残酷なこと、悲しいことから遠ざけるだけでは学習できません。それは、残虐性は人間の中の動物性に由来し、優しさは人間性に由来するものだからです。と書いて中途半端なところで終わってしまいました。今日はその続きです。さてここでみなさんに質問です。アウシュビッツの収容所でユダヤ人たちを虐殺していたドイツ人たちも家に帰れば家族がいて優しいお父さんだったという話を聞きます。この人達は優しい人だったのでしょうかそれとも残虐な人だったのでしょうか。ちなみに私たちは彼らの行為を「虐殺」と呼びますが、彼らにとってはただの毎日のお仕事でした。また、中世のヨーロッパでは信仰深く隣人に優しい人が十字軍に志願して異教徒を殺しまくりました。彼らは優しい人だったのでしょうか、それとも仮面をかぶっていたのでしょうか。(これは十字軍の問題だけでなく戦争という場面では必ず起きる現象です。)実は、優しさとか残虐性というものは一種類しかないのではなく、その基準によっていくつかに分類されるのです。まず、動物と同じレベルの「生理的な優しさ」があります。この優しさに支配されている人は、自分の都合で優しくしたり、拒否したりします。自分の都合以外の基準がないのです。こういう人は、自分の思いつき、気まぐれだけで優しくしたり、怒鳴ったりします。ですから、みんながご機嫌をとっていれば優しい人でいることができます。次に、電車の中で席を譲ることができるような優しさもあります。この優しさは道徳的な優しさです。この優しさを育てるためには子どもの周りの大人が道徳的であることが必要になります。道徳というものは社会的なものなので、見て、体験して学ぶものだからです。一般的に動物をかわいがる優しさももこの範疇だと思います。ただし、この道徳的な優しさは、一般的に仲間の間でしか通用しません。道徳は社会的なものなので、その社会の価値観を共有している仲間の間でしか価値を持つことがないのです。つまり、日本人の社会の中では道徳的な人でも、外国人の中でも道徳的であるかどうかは分からないと言うことです。それは一つには外国の「優しさの基準」が分からないという理由もあるでしょう。動物に関して言えば、ウサギやチョウチョには優しくても、ゴキブリや蜘蛛にまで同じであるかどうかは分からないということです。つまり、この優しさは相手と状況によって変化します。また、困っている人を見たら自分の大切なものまであげることができるような優しさを持っている人もいます。この優しさは道徳を越えて宗教の範囲に入ります。(でも、実際に宗教を信仰しているかどうかを問題にしているのではなく、「宗教的である」ということです。)ここまでの優しさを持っている人は非常に少なくなります。そして、この優しさは相手や状況によって変化しません。優しさが普遍性を持つのです。この優しさは心とからだ、そして知性と魂を通して「知る」ことで育てることができます。喜びも、苦しみも、悲しみも知る必要があります。ですから、子どもを単純に苦しみや悲しみから遠ざけるだけの子育てをしている場合、子どもはこのレベルまでは育つことができません。また、依存心が強い人も無理です。自立した精神が必要なんです。そうでないと他人の価値観に振り回されてしまいます。ですから宗教を信じていても依存心が強い人はこの優しさにたどり着けません。宗教を信じていても、依存心が強い人は他人に自分の信じていることを押しつける傾向があるように感じます。不安だからです。また、芸術や物語の体験は不可欠です。芸術や物語が心を整えてくれるからです。だから、芸術を体験させることが子どもの優しさを育てることにつながるのです。(ただし、評価されるものは芸術ではありません。)さらに、味方や仲間だけでなく敵にさえも優しくできる人がいます。この優しさは宗教を信じているかどうかよりももっともっと直接に自然や宇宙や神というものとつながっているような感覚によって支えられています。自分の欲や我を消すことができる優しさです。マザー・テレサやガンジーはこのレベルの優しさを持っていたと思います。さらには、お釈迦様や、キリストもこのレベルの優しさを持っていました。このレベルの優しさは心・からだ・知性・魂・精神などが丸ごと育たないことには育ちません。また、その人の「星」も関係していると思います。努力でどうにかなるものではないからです。みなさんはお子さんにどのような優しさを求めていますか。
2007.05.19
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しんしんままさんから元気に幼稚園の年少に通うようになった子供は、幼稚園で読み聞かせてくれた絵本について教えてくれます。でも、その内容は、かなり私の知っている昔話と違うのです。甘く、あま~く味つけされてしまっていて、ちょっと残虐な部分が、カットされていたりもします。私は一般的な昔話をしているつもりなのですが点、昔話にも諸説あるとは思いますが、子供は混乱してしまっているようです。どっちが正しいのか?と。幼稚園が話してくれる昔話の中には、漫画ちっくにパロディー化されているものもあって、がっかりしてしまいます。子供が怖がらないよう配慮してるのか、退屈しないように面白く味付けしているのかもしれません。子供にどう説明すれば良いかとっても困っています。幼稚園は、幼稚園の話。家は家の話。と、区別してもらおうと思ってますがうまくいきません。せっかく幼稚園でお話をしてくださっているのに、なんだかもったいないです。幸い、家で絵本はたくさん買ってあげたり借りたりできると思うので、なんとかそれを読んであげていきたいと思ってます。というコメントをいただきました。実は、このようなことはよくあるのです。その背景には子どもがどのようにして優しさを、そして思いやりの気持ちを育てているのかということに対する無理解と、大人たちが表面的な優しさ、思いやり、幸せで満足するようになってしまったという変化があるからでしょう。そしてまたその背景には子どものありのままの姿を受け入れることができない大人の姿も見えてきます。そして、さらにその背景には自分を肯定できない現代人の不安があるのでしょう。それは、子どもがケンカしているとそのケンカが子どもにとってどのような意味があるのかではなく、それを見ている自分が苦しくなるから止めてしまう、そういうことです。また、最後にオオカミが殺されてしまうと単純に子どもが悪い影響を受けてしまうと思い「仲直り」させた結末に変えてしまう人もいっぱいいます。また、「子どもが怖がるから」と言って残酷な場面を仲良し的に変えてしまう人もいますが、「怖がる」ということは優しさとは違います。教室の子でも、蜘蛛や蛾に対して非常に怖がり、「殺して 殺して」と騒ぐ子がいます。外に出しても「殺してくれないと安心できない」というのです。ということは、残酷なお話を怖がらせないように子どもから遠ざけても、優しい子どもに育つわけではないということです。また、戦いの多いテレビを見せないように、鉄砲や弓矢など武器おもちゃを与えないように育てている人もいっぱいいますが、そのように育てられた子が優しい子であるかどうかは全く不明です。私の印象ではそんなこと全く関係がないようです。簡単に言うと欲求不満がたまっている子は武器おもちゃなど知らなくても、テレビなど見ていなくても攻撃的になるのです。それは「攻撃性」は他者から学習するものではなく生理的なものだからです。ちなみに、優しさは学習するものです。だから、残酷なこと、悲しいことから遠ざけるだけでは学習できません。それは、残虐性は人間の中の動物性に由来し、優しさは人間性に由来するものだからです。ですから、優しい人でも追いつめられたら残虐になるのです。当たり前のことですが子どもは体験によって色々なことを学んでいます。さらに、体験によらないと学ぶことができません。それは優しさでも、勇気でも、思いやりでも同じです。子どもは言葉では学べないのです。だって、体験を通して言葉を学んでいる時代なんですから。言葉より体験の方が先に存在していないと言葉は理解できないのです。体験に付けた名前が「言葉」なんです。じゃあ、子どもはどのようにして優しさを学んでいると思いますか。蟻や虫を平気で殺していた子どもが、そのような行為をかわいそうと感じるようになるためには何が必要だと思います。<ごめんなさい、中途半端ですが明日に続きます>
2007.05.18
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昨日のブログに今朝少し付け加えた部分、また、説明ばかりしていても子どもには理解できません。子どもは理屈で納得する生き物ではないからです。子どもは「ものがたり」で理解するのです。そして、「説明」は「ものがたり」の反対です。ですから、理解できなくて当然です。について、今日は少し書いてみます。多くの人がこのことを理解していません。子どもはこの世界を論理的な因果関係ではなく、物語として理解しているのです。それは、物事を感情や感覚につながるイメージの連なりとして理解していると言うことです。だから夜や大きな音や黒い色が怖いのです。また、お母さんの姿が見えなくなると不安になり、先のことを色々心配するのです。だから、人形やおもちゃに話しかけるのです。だから、猫が長靴を履いても、王子さまがロバでもおかしくはないのです。そして、大人でも人間の心の本質的な部分はこの物語によって支えられています。他の人を好きになったり嫌いになったりするのはこの物語のせいなんです。機械には好き嫌いはありません。人間は非常に非論理的に考え行動する生き物ですが、それはこの物語のせいです。子どもだけでなく、人は誰しも「物の論理」ではなく「物語の論理」で生きているのです。そして、それが「人間性」の源です。そして、その人が自分に対して、そしてこの世界に対してどのような物語を持っているのか、ということがそのままその人の人間性になるのです。勇気や希望や愛といったものが人間にとって大切なものであると言うことも、人間が物語を生きる生き物であるという証拠です。だって、それらは物語の中でしか存在できないもの達ばかりだからです。だからこそ、子ども達が人生の最初にどのような物語と出会うことができるのかということがその子どもの一生に大きな影響を与えるのです。愛や勇気や希望に満ちたお話と出会うことが出来た子どもは自分の人生の中でもそれらに満たされた物語を作り出すことが出来るでしょう。人生は一つの物語だからです。そして、「怒り」は物語の一部として取り込まれていきますが、「説明」は物語を否定してしまいます。「怒り」は時としてエネルギー源になりますが、「説明」は人の心を虚無にします。一般的には怒るお母さんより、冷静に説明するお母さんの方が「よいお母さん」のように見えますが、でも子どもにとっては冷静に説明を繰り返すだけのお母さんの方が苦しいのです。自分が生きている意味を知ることが出来ないからです。(もちろん、怒る程度にもよりますけど・・・)「しかと」という無視するいじめがありますが、子どもの心に触れてあげないという点でそれに近いものです。今回の17歳の少年の事件もこの「物語」という視点を持たないと理解できません。
2007.05.17
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昨日は”絵本を読んでください”と書きました。でも、基本はやっぱり絵のないお話なんです。絵本の読み聞かせは確かに大切です。親子のコミュニケーションやふれあいのきっかけになったり、また子どもがお話と出会い、イメージを広げ、さまざまな遊びのきっかけになったりするからです。でも、当たり前ですが読み聞かせは本がないとできません。それと読み聞かせではお話はお母さんからではなく本からやってきます。それを共有することで親子の対話も、共感も育つのですが、でも、本当に子どもを支えてくれるのは直接お母さんから流れてくるものの方なんです。子どもの育ちには、本やメディアからではなく、直接人から流れてくるものとの触れ合い、出会いが絶対的に必要なんです。それは、人として大切なことは人からでないと伝えることが出来ないし、また子どもも受け取ることが出来ないからです。お母さんから伝えられるから、そして人から伝えられるから子どもにとって「おかあさん」がそして「人」が大切な存在になるのです。テレビから流れてくるものだけに触れている子どもは人間よりテレビの方が大切な存在にはなってしまうのです。でも、今のお母さん達は自信がないせいか自分で語ろうとはしません。しつけ絵本を使うというのもその現れでしょう。ダメなものはダメと自分で言えばいいのに、それが出来ないのです。そして、”ダメ”と教えなければならない場面ではただ怒るか、くどくどと説明するばかりです。他に、子どもの心に届く形で自分の想いを伝える方法を知らないのでしょうか。でも、怒るという方法では子どもにお母さんの気持ちは届きません。”だめだって何遍も言っているでしょう”と怒鳴ったところで、子どもには通じないのです。なぜ、子どもにお母さんの言葉が届かないのか分かりますか。それは、怒るからだけではなくお母さんが普段から自分の言葉で子どもに語りかけていないからなんです。楽しいこと、うれしいこと、不思議なこと、面白いこと、そういう話をいつもお母さんから聞いている子どもはお母さんの言葉に耳を傾けることができます。そういう親子の関係ができあがっているからです。でも、お母さんが「あれしなさい」、「これやっちゃだめ」、「速くしなさい」、「なんであんたはいつもそうなの」、「ダメだっていったでしょ」などという言葉しか言っていないと、子どもはお母さんの言葉を聞かないようになっていきます。聞きたくないことばかり言われているからです。逆の立場で考えたら当たり前のことでしょ。また、説明ばかりしていても子どもには理解できません。子どもは理屈で納得する生き物ではないからです。子どもは「ものがたり」で理解するのです。そして、「説明」は「ものがたり」の反対です。ですから、理解できなくて当然です。そして、「子どもが聞いてくれない」と訴えて来るのですがそういう人の言葉は私だって聞きたくありません。結局、伝えたいのではなく、支配したいだけなんですから。(怒るのも、説明するのも結局は相手を思い通りにしようとする事ですよね)また、友達に優しくしようとか、命を大切にしようとかそういうことを絵本で伝えようとするのも私にはおかしな事のように思えます。(ただし、そういう絵本が悪いと言うことではありません。)そんなこと自分の言葉で子どもに語るべきことなんです。お母さんが自分の言葉で語ることだから子どもに届くのです。素話というのは別に誰かが作った名作を覚えて語ることだけではないのです。お母さんが感じたこと、考えたこと、伝えたいこと、思い出したことを一つの「お話」として自分の言葉で語ることも素話なんです。かっこよく言えば「創作素話」ですが、それはちょっとした慣れで、誰にでも、どこででも簡単に、かつ楽しくできることなんです。でも、どうも多くのお母さんがそれを「創作素話」としてではなく、くだらない「作り話」受け取ってしまうようなのです。ということで中途半端ですが明日に続きます。
2007.05.16
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昨日は、子どもはお話を現実として聞くのですと書きましたが、これはまた子どもは現実をお話として聞くということでもあります。つまり、子どもには現実とお話の間に境目がないと言うことです。それは、事実と空想の境目がないということです。だから大人は「子どもは嘘をつく」と言いますが、子どもは「嘘」を言っているつもりはありません。「自分にとっての現実」を言っているだけなのです。今日は絵本を使わないでお話を語る「素話」と、絵本を読む「読み聞かせ」について書いてみます。シュタイナー教育では「素話」が中心で、あまり絵本を読まないようです。「素話」とはおはなしをそのまま相手に向かって語ることです。これは人類の歴史とともに受け継がれてきた方法です。文字がない時代にはこれしかお話を伝える方法がありませんでした。それに対して絵本は近代の印刷技術の進展と、識字率の増加と、経済の発展に伴って最近生まれてきた新しいメディアです。また、今でも絵本が一般的ではない国はいっぱいあります。絵本だけでなく子ども向けに本を書くという意識自体がないのです。ですから、絵本は無くてもそれで困ると言うことはありません。昔から子どもはお話を聞いて育ってきました。そして、お話を聞き、そして受け継ぎ、伝えることで子どもは自分を取り巻く大人や社会や自然とのつながりを得ることが出来ました。ですから、お話を共有している仲間が”仲間”なんです。お話が仲間をつないでいたのです。そして、子ども時代はこのつながりをしっかりと作ることが必要なんです。そのことが自己肯定感の形成にも大きく影響してきます。それに対して絵本は仲間からではなく出版社からやってきます。(最近ではお話も本になってやってきますが、絵本だけは本という形でないと存在できません。)そして、仲間で共有されるものではなく個人的なものです。また、耳で聞くのと、目で見るのとでは同じお話でも入ってくるところが違います。それは耳から得る情報と目から得る情報の質の違いから来るのかも知れません。お母さんの声を聞いているとお母さんに触れている感覚を得ることが出来ますが、お母さんの顔を見ているだけでは逆に距離感を感じてしまいます。声はお母さんからやってきますが、見るのはこちらからの行為だからです。実は”聞く”という行為は話す人と聴く人との共同作業なんです。両者がお話の中で出会うのです。だから”聞く力”が”学ぶ力”につながるのです。それに対して”見る”という行為は一方的で個人的な作業です。だからテレビをいくら見ても学ぶ力は育たないのです。他にも色々な違いがありますが、でも総合的に見たら確かに絵本より素話の方が子どもの育ちには必要なものです。でも、それでも私は絵本を否定しません。それは、口承で伝えられてきた物語が消えてしまった現代に生きている私達には絵本が必要なものだからです。少なくとも日本では、物語が口承で語り継がれ、仲間で共有されてきた時代は終わりました。ですから、現代の素話で語られているお話は昔から語り継がれてきた”ものがたり”ではありません。お話会のために必死になって暗記したものです。つまり仲間の中で共有されているものではないのです。また、小さい時から聞いて自然に覚えてしまったものではないので話し手の体に染みついているお話ではありません。ですから、話すために技術が必要になります。昔、いろり端で”むかし むかし あるところにな ・・・ ”と語ってくれた古老にはその技術は必要ありませんでした。なぜなら、自分が聞いたように語るだけだからです。そこには”今度は私が伝える番だ”というような子どもに対する共感もあったでしょう。そして、そのように共感によって語るのではなく、技術を意識してしまうことが時として聞き手との距離を隔ててしまうことがあるのも事実です。それと、日本に生まれ日本しか知らない子にドイツなど外国のお話をただ聞かせても文化が違うので素直に共感が得られるのかどうかそれも不明です。だからといって今の子ども達には日本の昔話はもっと共感を得にくいかも知れません。今の子ども達には、「はなさかじいさん」より「ヘンゼルとグレーテル」の方が共感しやすいような気もします。そんな時、絵があることでその不自然さがほどけていくのです。そして、絵を通してお話が共有しやすくなります。すると、読み手と聞き手の間につながりが生まれます。また、絵がおはなしの技術の弱さを補ってくれるので普通のお母さんでも簡単に取り組むことが出来ます。子どもはお母さんに絵本を読んでもらうことでお母さんと一緒に同じ体験をする事が出来るのです。それが親子の信頼関係にもつながってきます。”シュタイナー教育では絵本を読まないから”といって、家でも絵本を読まないと言っていたお母さんがいました。それで、”じゃあ、素話はやっているのですか”と聞きましたら、”いやー、それは難しくて・・・”という答。でも、これは変です。結局なんにもやっていないということです。普段の日常生活の中からシュタイナー教育で禁止されていることを取り除くだけでは、シュタイナー教育にはならないのです。また子どもを育てる事も出来ません。それは単純に先生に叱られない子育てをしているだけなのです。それはまた、幼稚園に依存してしまっているということでもあります。でも、そのような姿勢が子どもの成長を支えることが出来るとは思えないのです。本当に家庭の中での価値観までシュタイナー幼稚園に合わせるつもりならお母さんもお話を覚えるべきです。でも、それでもうちでは絵本を読みます。それは、うちの子はシュタイナー幼稚園ではなかったということだけではありません。絵本の持つ、素話とは違う魅力を知っているからです。夜、子どもと一緒にお布団に入って、絵を見ながら色々お話しして、気が付くと寝息をたてている子どもと一緒の時間の幸せを知っているからです。現代の家庭、親子の間にはこんなささやかな幸せが必要なんです。また、意識して親子のコミュニケーションを促すように作られた絵本もいっぱいあります。絵本と素話は役割が違うのです。現代の子育ての中には絵本が必要なんです。その証拠に絵本で救われている親子がいっぱいいるのです。
2007.05.15
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5/20(日)の「ガラクタ工作ワークショップ」の参加者を募集しています。場所は茅ヶ崎です。詳細はhttp://www.geocities.jp/nenemu2001/yotei/garakuta.htmでご覧になって下さい。ご興味のある方は是非ご参加下さい。****************************私の周りにはお話や絵本が大好きな人がいっぱいいます。というよりそう言う人が集まってくるようです。学校などで読み聞かせをしている人もいっぱいいます。それで読み聞かせの現場での色々な話も聞くことが多いのですが、読み聞かせをしているお母さん達でもその理由は様々なようです。一番多いのは、絵本をお勉強やしつけの道具として考えている人たちのようです。一般的にもそのようなお母さんが一番多いように感じます。そして、そういうお母さんは絵本を読んで文字を教えたり、”どういうお話だった”と感想を聞いたり、”だから歯を磨こうね”とか”だからお片づけしようね”という様に絵本を使っているようです。(家庭ではということです。)でも、そのような使い方ではお話の力は子どもに届きません。というより、絵本をそのように使っている人はその”お話の力”を知らないのだろうと思います。そして多分、お話を演技過剰に演じてしまう人もそのお話の力を知らないのだと思います。だから、自分が演じることで子どもに興味を持ってもらおうとするのではないでしょうか。でも、子どもの心は大人の心よりずっとお話に感応しやすいように出来ています。特に7歳前の子どもの心はそのように出来ています。でも、7歳を過ぎると、それまでにお話に触れていない子はだんだんお話に対する感性が鈍っていきます。でも、それでも思春期前の子どもの心は大人よりもずっとお話に感応しやすい状態です。だから、「口裂け女」などのお話がパッという間に広がるのです。そして、そのような心の子ども達にお話は大人とは違う形で働きかけます。大人はお話を空想として聞きます。でも、子どもはお話を現実として聞くのです。だから、オオカミや魔女が出てくると現実のように怖がるのです。でも、だからこそ夢や希望や勇気や愛が現実として子どもの心に届くのです。でもだから、子どもに冗談でも”本当はあんたは橋の下で拾ってきたんだ”とか、”あんたなんか嫌いだ”なんて言ってはいけないのです。大人は冗談のつもりでも、子どもは本当の話として受け取ってしまうからです。<続きます>
2007.05.14
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今日は横浜の大池公園での外遊びの会でした。シャボン玉液と輪っかを作り、大きなシャボン玉に挑戦。最高で、直径60~70cm程度のものが出来ました。直径と言っても、このサイズになると丸くなく”バーバパパ”のようにグニャグニャしていましたけどね。それと、あと水鉄砲も作りました。シャボン玉と水鉄砲の組み合わせは最高でした。最後はみんなビチョビチョ・・・・。*********************ちょっとだけ昨日の続き・・・・。例えば”大きな木”という言葉を読む時にはどうしますか。大きな声にしますか。大きな木を身振りで表現しますか。そんな時、驚いた時に自然に”おお”と声が出てくる時のように、のどの奥を開けて、からだに響かせるように、お腹の底から”おおきな”と読めば、大きな声でなくても子どもは目の前に大きな木を見るでしょう。自分が大きな木を見た時に感じる感覚を声で伝えるのです。感情を伝えるのではありません。感情はそのままでは伝わらないからです。それに感情は人それぞれです。あなたが感情を伝えようとすればするほど三文役者の芝居を見ているようで、相手はしらけてしまうでしょう。
2007.05.13
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5月15日生まれさまお互いにもうすぐお誕生日ですね。ちょっと早めですがおめでとうございます。それでご質問の件なのですが、これは大勢の人が勘違いしていることなのでこのブログの方でご返事させていただきます。”淡々と”というのはシュタイナー教育の人だけでなく語りや本読みを専門にしている人たちが共通して言っていることです。でも、どうもその意味が理解されていないように感じます。多くの人が”淡々と”ということを”単調に”ということとして理解してしまっているようなのです。でも、”淡々と”と”単調に”は全く違います。この誤解の背景には日本語の特徴もあります。日本語は抑揚を消して単調にでも読める言葉だからです。でも、英語やフランス語など子音のある言葉は単調には読めないのです。単調に読んでしまったら英語でもフランス語でもなくなってしまいます。私達は普段あまり意識しませんが、日本語には日本語の抑揚、表現の仕方があります。方言だともっとよく分かります。”淡々と”を”単調に”と理解してそれを消してしまったらそれは日本語ではありません。では、”淡々と”ということはどのような事だとお思いですか。簡単なことなんです。”自然に”ということです。自然に読めばいいのです。声を張り上げる必要も、演技たっぷりに表現する必要も、あえて単調にする必要もないということです。”子どものために”を意識しすぎるから不自然になるのです。皆さんは一人でご自分のために声を出して本を読まれたことがありますか。その時、大げさに表現しますか。そんなことしないでしょ。子どもがいるからサービス精神が働いて大げさになってしまうのでしょ。そのサービス精神がお話を語る時には邪魔になると言うことです。あなたの演技を見せるためにお話を聞かせるわけではないのですから。本を読んでいると、イメージがわき上がり、感情が動き出します。でも、それって不思議ですよね。文字を見ているだけなのにどうして感情が動くのでしょうか。文字はただそこにあるだけです。楽しい場面では文字が踊ってくれる、などと言うことはありません。それは、言葉が私達の感覚に働きかけてくるからなんです。言葉が感覚に働きかけ、感覚が動くから感情が動くのです。そして、感覚が動かなければその感情は動きません。お話を読んでいるとき、言葉があなたの感覚に働きかけます。それが悲しい場面であるならあなたは哀しくなるでしょう。でも、それを読んでいるあなたが哀しそうに演じてしまうと、子どもはあなたの演技を見てしまうためその感覚が伝わらなくなってしまうのです。読み手は自分が感じた感覚を声を通して子どもに伝えるだけで良いのです。そうすると、声を通してその感覚に触れた子どもの心の中に感情がわき起こります。声を通して読む人と、聞く人の感覚が共鳴するのです。すると、文字を読んだだけでは感覚が動かないような子でも感覚が動き出します。すると、お話の世界に入れるようになるのです。具体的にはどうしたらいいのかというと、”○○が見えました”と言うところでは、視覚を働かせながら読むのです。”○○が聞こえました”と言うところでは、聴覚を働かせるのです。実際に耳を澄ましながら読むのです。すると、声を通して感覚が子どもに伝わるのです。実際に、子ども達はお母さんの言葉にそのような感覚を感じながら言葉と感覚をつなげる学びをしているのです。ですから、”楽しそうでした”と読んでいるのに、哀しそうな声だと子どもの感覚は混乱します。でも、読み手が一人で楽しそうに表現しても、子どもは楽しくなりません。”○○さん(読み手)楽しそうだったね”というだけの話で終わってしまいます。そうではなく、楽しかった原因となる感覚を伝えるのです。すると、子どもの感情が動くのです。これに関連して時々やるワークがあります。”手の中にまるい玉があります”と皆さんに言ってもらいます。そのあとで、実際に丸い玉を渡してじっくり触ってもらいます。どんな感じがするかも聞きます。そして、その感覚を思い出しながらもう一度”手の中に丸い玉があります”と言ってもらいます。すると、全然違うのです。特に大げさな表現になるわけではありません。ただ、声が変わるのです。すると、本当に玉があるように見えてしまうのです。人間の感覚とはそのようなものです。******************我が家に家族が増えました。といっても5人目が生まれたわけではありません。猫です。まだ3ヶ月くらいの子猫です。以前、飼っていた猫が哀しい最後で天国に行きましたから、家族の中でも異論があったのですが、哀しい想い出だけで終わらせたくないと思い決断しました。パソコンが直ったら写真をアップします。
2007.05.12
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便利になると何でも一人で出来るようになってしまいます。その結果、どうも世の中が便利になればなるほど、他の人と会話したり、関わるきっかけが減っていくようです。それは家庭の中でも同じで、掃除機、洗濯機、冷蔵庫などの家電が発明されたおかげでお母さんは一人でその全てを楽にこなすことが出来るようになりました。”楽じゃないわよ”とおっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんが、”じゃあ昔のやり方でやってみてください”と言われてできますか?それらの機械が発明された時には確かに楽になったのです。でも、みんなその空いた時間に色々と詰め込んでしまったので結局時間に追われるようになって楽じゃなくなってしまったのです。また、掃除の仕方、ご飯の炊き方、洗濯の仕方などは機械が知っているので子どもに伝える必要が無くなってしまいました。それに、便利な機械があるので子どもに手伝ってもらうより一人でやった方が効率よくできます。それで、子どもはお手伝いをする必要がなくなり時間を持てあましテレビやおもちゃで時間をつぶしています。その結果、家庭の中ですら人と関わったり、会話をする時間がなくなってきています。それで大人は煩わしいことが減って楽になったと感じるのでしょうか、子どもにとっては毎日の生活が退屈になっただけです。子どもは煩わしいことが大好きだからです。人間にとって”子ども”という時代は、様々な体験を通して生活の基礎、人間の基礎を学ぶ時期です。ですから、子どもは放っておいても色々動き回り自分で体験を求めます。お腹が減れば食べ物を探し回るのと同じです。本来そういう色々な体験をしたくてウズウズしているのが”子ども”という時代なんです。そして、昔はその体験の場が家庭の中にも地域の中にもいっぱいありました。そして、子ども達はそのような体験を通して大人と、そして仲間と関わり人間としての生き方を学んでいたわけです。では、それらの体験を支えていたのはなんだと思いますか。実はそれは対話と、会話と、お話、つまり”言葉”なんです。言葉がないところには人間としての活動がありません。言葉がないところでは人間としての学びがありません。言葉なしで済ますことが出来るのは人間らしさのないただの作業か、本能的な活動です。言葉のないところに人間らしさは存在できないのです。ですから、子ども達は人間らしい言葉を学ぶことを通して人間らしさを育てていくのです。それ以外に人間らしさを育てる方法はないのです。そして、言葉は本からではなく直接人から学ぶものです。そうしないと自分の心を支える生命の通った言葉を身に付けることが出来ないからです。もちろんテレビからも学べません。単語を覚えることは出来ても相手の反応に合わせた言葉の使い方を学ぶことが出来ないからです。そんな言葉で話しても、それはテレビの音声と同じで一方通行です。昔は生活の中に言葉を使う必要がありました。言葉を使わないと生活が出来なかったのです。でも、今では言葉を使わなくても生活できます。だからこそ子どもを育てている人は意識して生活の中に言葉を取り戻す必要があるのです。そうしないと子どもが人間らしさを身に付けることが出来なくなってしまうからです。<ということでまた続きます>
2007.05.11
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去年の「狸囃子の会」の写真です。************************私は大勢の子ども達と接していますが、子どもの状態を判断する一つの手がかりとして”お話”を聞くことが出来るかどうかということを大きなチェックポイントにしています。子どもには、大人しい子、暴れん坊、手がかかる子、積極的な子、消極的な子などなど色々なタイプの子がいますが、お話を楽しんで聞くことが出来る子は大抵大丈夫です。色々なことがあっても、少しずつ落ち着くところに落ち着いていくように感じます。暴れ回っていた子でも”お話だよ”と呼びかけると、ちゃんと座ってジーッとお話を聞くことが出来る子がいる反面、お話に全然興味を示さない子もいっぱいいます。中には、絵本なら見ていることが出来ても、素話(語り)になると、”絵がないからつまんない”とお話を聞くことが出来ない子もいます。でも、お話しを聞く力はコミュニケーションの基礎です。実際問題としてお話を聞けない状態の子は大人とコミュニケーションをとるのが困難です。言いたいことは言えても、聞くことが出来なければコミュニケーションは成り立たないからです。そして、学習も成り立ちません。読み聞かせを、”まだ文字が読めないから読んであげるのだ”と理解している人がいますが、それは全然違います。また、そのような人は早くから文字の読み方を教えて、自分で読ませるようにしているようです。以前、幼稚園の子に”お母さんに絵本を読んでもらっている?”と聞いたところ、”ぼく、もう自分で読めるから自分で読んでいる”と答えが返ってきました。また、学校などでの読み聞かせの活動などに対しても”自分で読めるのになんで読んであげなきゃいけないんだ”という意見を言う人もいます。でも、自分で読むのと他の人の声を通して耳で聞いて楽しむのとでは子どもの中で育つ要素が全然違うのです。自分で読む時にはお話を自分の知識、イメージで解釈します。あくまでも自分主導です。ですから、自分の世界の中でお話を理解します。それに対して、読んでもらう時には読んでくれる人の声の中に浸ります。読んでくれる人に心を向けます。読んでくれる人の心を感じながらお話の世界を旅します。読んでくれる人と共感を共有します。つまり、読んでもらうことで”自分”というものから外に出ていくことが出来るのです。また、優秀な読み手はさりげなく子どものイメージを誘導するように語ることが出来ます。(大げさにやってしまうと楽しくはなりますが、お話のイメージは壊れます。でも、お話の内容によっては楽しく読んだ方がいいものもあります。「あたまやま」「じごくのそうべい」など。)ここには人間と人間のコミュニケーションがあります。そして、人間として本当に大切なことはこの様に人から人へと直接にしか受け渡すことが出来ないのです。人類は何万年も自分たちの物語を口承で語り伝えてきました。その流れの中で精神文化も受け継がれてきたのです。最近は文字が読めるのが普通ですから、自分で読ませようとしますが、人から人へと直接語り継ぐことによってしか伝えることが出来ないこと、育てることが出来ないこともあるのです。”心”もその一つです。ぜひ、絵本を読んだり、お話を語ってあげてください。お話を聞くということは、話をしてくれる人の声に耳を澄ますこと。それは、その人の想いを感じること。その人の心とぬくもりに触れること。伝えること、伝えられることの楽しさを知ること。そしてそれは、人間を受け入れること。人とつながることにつながるのです。本は一人で読んでも楽しいですが、そこには人とのつながりがありません。でも、子どもには聞く(聴く)ことでしか育てることが出来ない世界もあるのです。また、お話を聞くのは語り手と聞き手の共同作業です。ですから、お話を聞くことが出来ない子は共同作業が苦手なように感じます。(多分、明日も続けます)
2007.05.10
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ああ、今日も長いブログを書く時間がない・・・・。ということで、今日はちょっとお知らせだけにさせていただきます。今日は、朝、毎年やっている「賢治の楽校」の合宿会場の予約に行って来ました。一昨年までは足柄の「どんぐりの家」で10年ほどやってきました。ものすごく素敵な場所でしたが、赤字のため民間に委託され温泉になってしまいました。それで、去年は山北の「ペガススの家」でやりました。でも、滝ジャンプは楽しかったですが、ワークは出来ませんでした。それで、今年は色々と探し回りました。でも、どんぐりの家のような場所はどこにもありません。「ふれあいの村」関係は先着順であぶれ、民間の施設を探して丹沢湖の方までもいきました。素敵なキャンプ場はいろいろありました。大勢泊まることが出来る場所もありました。でも、総勢、70~80名の合宿が出来て、劇遊びやワークがのびのびと出来きて、安いところなんてそうありません。ということで、結局身近なところで一泊で行うことにしました。藤沢の「少年の森」というところです。詳細は未定ですが、8月5日(日)、6日(月)です。40名しか泊まれませんので、宿泊は遠くの方やリピーターを優先します。あふれた方は通いになります。それと、宿泊は家族単位ではありません。(幼児はお母さんと一緒ですけど)ご興味のある方は予定に入れて置いてください。ただし、”自分は劇遊びはやりたくないが子どもにやらせたい”という人ではなく、”自分がやりたい”という人を優先的に受付けます。また、9月22日(土)、23日(日)と「冒険クラブ」で「ペガススの家」に行きます。山北の山奥です。食料持参、現地集合です。滝ジャンプが出来ます。7月14日(土)は、茅ヶ崎の海岸で夜(4:00pm~9:00pm)太鼓を叩いて踊りまくる「狸囃子の会」を行います。毎年大勢の親子が参加して踊っています。以上です。
2007.05.09
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大人と子どもは背の高さが違います。ですから、一緒に歩いていても同じものを見ているわけではありません。高さが違えば見えるものだけでなく、匂いも、触れるものも、音も、ホコリも違います。それに、同じものを見ても、背の低い子どもには大人より大きく見えています。でも、子どもは大人と違って同じ目線だけでものを見ているだけではもの足りません。ですから、高いところに上がったり、低いところに潜ったり、寝ころんだりしてその変化を楽しむのが好きです。そうすることで世界をマルチに感じることができるのが楽しいのでしょう。その感覚の中に子どもの心が潜んでいます。子どもはいつでも「冒険者」なんです。冒険をやめてしまった大人にはその感覚は理解できないかも知れません。でも、その感覚が分からないと子どもの心を感じることが出来ません。ということで、子どもと一緒に冒険者になってみましょう。お散歩の時、子どもが道ばたで何かを発見してしゃがんだらお母さんもしゃがんでみてください。それだけで周囲の世界が変わってしまうでしょう。脇を通り過ぎていく他の大人達が別世界の存在になってしまうでしょう。公園で子どもがジャングルジムに登ったり、木登りをしていたらお母さんも挑戦してみてください。怖いかも知れませんが世界が変わることを発見することが出来るでしょう。それに、達成感も味わえるかも知れません。野原で遊んでいる時にはベンチを探さないで地面に座ってみましょう。草の上に寝ころんでみましょう。世界が変わります。土管や穴があったら入ってみましょう。不思議な感覚ですよ。このような体験を通して、自然と子どもの心が見えるようになっていくのです。そうすると、子育ても、しつけも楽になっていくのです。さらには、他人の目に縛られなくなりますよ。<以下は別の話題です>********************************昨日、「世界まるみえ」というテレビを見ていたのですが、その中で「ナニーが行く」というアメリカの番組を紹介していました。イギリスには「ナニー」という、実際に家庭の中に入って子育てやしつけのアドバイスをする職業が存在するらしいのですが、そのナニーをアメリカまで呼んで子育てのトラブルを解決してもらうという番組です。昨日、ナニーが訪れた家庭では子どもが王様になってしまっていて暴れまくっていました。その原因は、お父さんが子育てに無関心で、お母さんが子どものいいなりになっているからだとナニーは分析しました。確かに、両親がこのような状態だと子どもは不安定になったり荒れます。実際、そういう子どもが結構います。でも、ここでちょっと言いたいことはそのことではありません。それは、ナニーがお母さんの添い寝も「悪いしつけ」として非難していたことと、番組のゲストや司会者までが添い寝を「甘やかし」というように言っていたことです。でも、結論から言ってしまえば「添い寝」は悪いことではありません。「甘やかし」でもありません。おんぶやだっこも同じです。それが原因で子どもがおかしくなるのなら、昔の日本人はみんなおかしかったことになってしまいます。「添い寝」は文化です。そして、欧米は添い寝を肯定する文化ではありません。それは欧米の様々な文化の中に通底する価値観の現れです。ただ、それだけのことです。この家族の一番の問題はお母さんとお父さんが善悪の基準をしっかりと持っていなかったことなんです。すべてを子どもの感情に合わせていたから子どもは混乱し、不安定になっていたのです。子どもは、はっきりと基準を示してほしいのです。それを学ばないと子ども自身が不安だからです。じゃあ、何が善で、何が悪なのか?お知りになりたいですか・・・・。そんなこと人に聞くことではありません。この世の中には、客観的に正しい善も、客観的に悪い悪も存在していないからです。何を善として、何を悪とするのかということはその人の価値観、生き方の問題なんです。自分の生き方をしっかりと持っている人は、「自分にとっての善・悪」を持っています。それでいいのです。安易に善悪を人に聞く人は自分の生き方が定まっていない証拠でもあります。それを自分も守り、毎日の生活の中で子どもにもしっかりと伝えていく、そうすると子どもは安定していくのです。添い寝や、おんぶやだっこのせいにしてはいけません。(自分でも守ることが出来ない基準を子どもに押しつけてはいけません。子どもは混乱します。)ただし、昨日の番組の中でナニーが添い寝を禁止したのが悪い判断だったとも思いません。しっかりと自分の基準を持つことの大切さを伝えるきっかけとして機能していたようですから。それに、これはアメリカの話です。私が気になったのは日本人のゲスト参加者まで同調して「添い寝は甘やかしだ」的なことを言っていたことです。それと、お母さん達の話を聞いていてよく聞くのが「良いとこ取り」という言葉です。「私は色々な子育て関係の本を読んで良いとこ取りをしています」というのです。でも、実は「良いとこ取り」は一番難しい方法なんです。それは、きちんと自分の基準を持っている人でないと良いとこ取りが出来ないからです。当然のことですが、自分の基準がしっかりとしていないと、”良いことと”と”悪いこと”の分別ができません。それで結局、ほとんどの人が”良いとこ”ではなく、”自分の都合に合ったところ”だけを”良いところ”と称して集める結果になってしまっているのです。でも、それは核のないつぎはぎの価値観なので子どもを育てる力にはなりません。
2007.05.08
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堅苦しい話が続きましたので、楽しい話に戻します。最近は色々と物騒で子どもだけで外に遊ばせに行くにはちょっと覚悟が必要です。また、出かけたとしても公園に行っても誰もいないということがよくあるようです。友人の家では子どもを塾に通わせていないので昼間退屈しているそうです。それで、”外へ遊びに行ってみな、きっと誰かいるから”と追い出すのだそうですが、しばらくすると”誰もいなかった”と言って戻ってきてしまうそうです。去年の夏休みには、海でもまた森のある公園でも子ども達が子どもの群れで遊んでいる姿をほとんど見かけることが出来ませんでした。子どもがいたとしても家族連れか、何らかのグループ出来ている団体が大部分です。それじゃあ、子ども達はどこで何をしているのかというとその多くは家でゲームをしているかテレビやビデオを見ているか、勉強しているか、何らなの”お教室”に通っているかなのでしょう。そして、そのどれもやっていない子どもはお母さんにまとわりついてくるでしょう。でも、お母さんもそんな子どもと一緒の時間をどのように過ごしたらいいのか分かりません。それで、子どもを勝手に一人で遊ばせ、お母さんは適当に相手をするだけということになっているようです。でも、その時間をもっと楽しくしてみたいと思いませんか。そうでないとただ退屈な時間ばかりが流れるばかりで、だんだん気力が萎えていってしまいますから。と言うことで、数日ぶりにまた楽しい遊びの紹介に戻ります。それで、今日は夜、家の中で暗闇を遊ぶ遊びをいくつかご紹介します。○押入で遊ぼう 夜、お布団を出したら押入に入って遊びましょう。 「おしいれのぼうけん」(ふるたたるひ/さく たばたせいいち/〔画〕 、童心社)という子ども向けの本もありますから、そういうものを読んでから遊ぶとまた楽しいでしょう。懐中電灯を持って入っても楽しいです。○外に出したお布団の下をモグラのように探検するのも楽しいと思います。このときにも懐中電灯があると楽しめます。お母さんと子どもが違うところから入って、ちゃんと出会えるかどうか・・・。○夜、家中の電気を消して懐中電灯を持って家の中を探検するの面白いです。 きっと、いつもの家の中が普段とは違う不思議な空間に変身するでしょう。○夜、電気を消してロウソクで食事をしてみましょう。 これは、「100万人のキャンドルナイト」という世界的なイベントでもやられていることですが、素敵だと思いますよ。ちなみに、今年の「100万人のキャンドルナイト」は夏至の日、6月22日~22日夜、8時から10時の2時間だそうです。この日に世界中で、みんなでいっせいに電気を消すのです。詳しくは、http://www.candle-night.org/をご覧になって下さい。ロウソクの光でお風呂にはいるのも素敵かも・・・・。
2007.05.07
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昨日、うりぼうさんが私のブログでもこの間書きましたが、母性本能ってなに??っていうのが私のずっと持っていた疑問でした。というコメントをお書き下さったので、今日はこのテーマで書いてみます。(本当は日曜日はアクセスが少ないので写真を載せて軽い文章にしたかったのですが、私のPCが壊れてしまって写真がアップできません。それで、日曜日なのに堅苦しい文章になってしまいました。でも、簡単にしておきますね。)「母性本能」とは何かと考えていくと、それは種族保存のための本能です。もっと言えば、自分の遺伝子を残そうとする本能です。これは明らかな事実です。ですから、人間以外の動物などを見ていると分かるように、母性本能は本質的に「排他的」です。当然、他の動物のことなど考えないし、同じ種の子どもでも自分の子どもの害になるような場合には他の子を殺してでも自分の子どもだけは生き延びさせようとします。子育て中の獣は自分の子ども以外の相手に対しては凶暴になることが多いようです。人間でも、母性本能だけで子育てしている人はそのような状態に陥りやすいように感じます。でも、人間には自分の子ども以外の子どもでも、自分の子どもと同じように愛し、可愛がり、世話をすることが出来る人もいます。時には敵の子どもでさえ愛情深く育てることが出来る人もいます。また、人間は人だけでなく様々な動物や植物ですら愛情を掛けて育てることが出来ます。これはもう、動物としての「母性本能」の枠を超えてしまっています。そして、こんな事が出来るのは人間だけです。そのような事がどうして可能なのかというと、人間だけが母性本能による愛情を超えた「愛」というものを持っているからなんです。(でも、その代わり相対的に人間はどうも母性本能は弱くなってきているようです。地球の歴史における人類の役割が変わってきたのかも知れません。)でも、母性本能が本能であるのに対して「愛」は本能ではありません。「愛」はからだからではなく人間の精神の働きから生まれてきます。また、母性本能は赤ちゃんが生まれれば”愛している”という状態で現れます。これは本人の意思とは関係なく生理的な働きです。ですから、子どもを愛せないお母さんは母性本能が弱いということになります。でも、だからといってこれは本人にはどうしようも出来ません。それに対して、「愛」は精神の働きから生まれるものなので本人の自覚と意識と努力と覚悟があれば育てることが出来るのです。幼い時に愛されてこなかった人でもそれは同じです。ですから、愛されてこなかったことが母性本能の希薄さの言い訳にはなったとしても「子どもを愛せない」言い訳にはならないのです。そして、不思議なことに人間は覚悟を決めることで人を愛することが出来るのです。人間の精神にはそのような能力が備わっているようなのです。もしかしたら、幼い時から音楽や絵画や物語や学問という精神的な活動にふれることで、その能力が育っているのかも知れません。(そこに教育の意味があるのです。)「愛している」(生理的な状態)ということと、「愛する」(精神的な動詞)ということは本質的に別のことです。おかしな言い方ですが愛していなくても、覚悟することで愛することは出来るのです。「愛する覚悟」が愛を実現するのです。このことは、うりぼうさんのブログの中にも子育てには 愛し続ける覚悟が必要なのだそうです。先日テレビで言っているのを聞いて心に残ったフレーズでした。と書いてあった通りです。ちなみに父親は”父親としての自覚という名前の覚悟”で子どもを愛するのではないでしょうか。自分で生んでいるわけではないので、父性ホルモンが出るわけではありませんから。そして、最後に付け加えますがこれは相手が自分の子どもでなくても同じですからね。他の子どもでも、自分の子どもをいじめる子どもであっても、また夫や姑や外国の人、自分と考え方が違う人、みんな同じです。
2007.05.06
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今日はちょっと「子どもを愛せないお母さんへ」というテーマで書いてみます。子どもを愛せない、子どもが可愛くないというお母さんは結構います。ですから、それはそれほど特別なことでも異常なことでもありません。また、これはお母さんの人格の問題でもありません。多くの場合自分自身の母親との関係の問題が背景にあることが多いので、お母さんの責任でもありません。でも、それで苦しんでいる人もいれば、開き直って”子どもと一緒にいたくない”と平気で言う人もいます。(ここから先は人格が関係していると思います。)いずれにしても、その否定的な感情に縛られて子どもとの幸せな関係を築くことが難しい状態に陥ってしまっている人は多いようです。前者は、ちょっとしたトラブルでも”私が子どもを愛せていないからダメなんだ”と思いこむようです。そして、一生懸命に愛そうと努力するのですが、愛情は自然に生まれてくるものなので、どんなに頑張っても愛情を作ることはできません。その背景にはお母さんは子どもを愛するのが当たり前であり、子どもはお母さんの愛情がないとちゃんと育たないという思いこみがあるからでしょう。様々な小児科の先生達も育児書の中でそのように書いているようです。また、後者は”だって可愛く思えないんだもしょうがないじゃない”と開き直り、トラブルがあるたびにますます子どもが嫌いになっていくのでしょう。(子どもはお母さんに気持ちを向けてほしくてトラブルを起こします。ですから、お母さんの気持ちが子どもから離れればそれだけよけいにトラブルも増えていきます。)でも、両者とも”愛情がなければ子どもを育てることが出来ない”と思いこんでいるのは共通しているのではないかとおもいます。でも、子育てには必ずしも愛情は必要ないのです。愛情が無くてもちゃんとした子育ては出来るのです。逆にいえば、愛情があったとしてもちゃんとした子育てが出来るとは限らないということです。子育てで大切なことは愛情ではないのです。じゃあ、本当に必要なものは何なのかというとただ、母親が人生の先輩として、また生活を共にするものとして、子どもと楽しい人間関係を築く事なんです。”可愛い”とか、”愛情”は感情の問題ですから自分で思い通りにすることはできません。これは努力ではどうにもならないのです。ですから、これにこだわっていたら先に進めません。でも、楽しい人間関係は意識と努力の問題です。”可愛く思えないから”ということを理由にするのは怠慢です。それは夫婦の間でも、会社の人間関係でも同じです。一人前の大人であるなら、嫌いな相手とでも、気の合わない相手とでも平和な関係を築くように努力すべきなんです。子育ての問題も結局は子どもとの人間関係の問題なんです。それを愛情の問題にすり替えてしまうから話がこんがらがってしまうのです。そしてそれは子どもを愛しているから出来るというものでもありません。子どもを愛しているが故に子どもを縛り、憎悪してしまう例も山ほどあるのです。そうして、それではいくら子どもを愛していても子どもは苦しみ自由に成長することができません。子どもは、お母さんから(お父さんからも)一人前の人間として尊厳を大切にされ、楽しい人間関係を育てることが出来るならちゃんと育つのです。そこで必要なのはお母さんやお父さんの人間性であって、愛情ではないのです。そして、その楽しい生活の積み重ねが愛情をはぐくんでいくのです。愛情は作れませんが育てることは出来るのです。
2007.05.05
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この世の中から色が無くなったら寂しいですよね。いや、それも最初だけなのかも知れません。しばらくしたらみんな色のことなど忘れてしまうかも知れません。でも、そうなったら明暗だけで世界を認識しなければならなくなるのでかなり困ったことになるでしょうね。信号機は光っている位置で”すすめ”か”とまれ”を判断しなければなりません。消防自動車も色ではなく柄で区別するようになるでしょう。洋服も明暗と柄だけでデザインされるようになるでしょうね。それとお花やさんは消えるかも知れません。テレビは白黒に戻るでしょう。みなさんは見たことがないかも知れませんが私が子どもの頃にはテレビには色がなかったのです。それでも、自分の頭の中で色を想像して楽しんでいましたが、世界中から色が無くなったらそういうことも出来なくなるでしょうね。見たこともない色を想像することは出来ないわけですから。でも、便利になることもあります。コンピュータなどでデータを管理しやすくなるのです。テレビもシステムが簡単になり、安くなるでしょう。明暗だけですから、簡単に色を数値化出来ます。そして、簡単に並べることも、比較することもできます。”赤い色”とか”黄色い色”というのは一つの個性であってそこは順序などありませんが、これを明暗だけで表せば赤と黄色だけでなくすべての色を一つの基準で順序化できるのです。するとまったく簡単に管理できます。実際には、明暗だけで見ていた時には同じ明度の色でも、本当は一つは薄い灰色で、もう一つは黄色かも知れません。もしかしたら薄い紫かも知れません。でも、それらの違いを”意味のないもの”として無視してしまえば非常に簡単に扱うことが出来るわけです。まあ、これは空想の話ですが、でも、これと同じようなことを私達はやっていませんでしょうか。A君とB君をそのままで比較することはできません。でも、体重や身長や成績と言ったように数値化できるものに基準を統一してしまえば簡単に比較することが出来ます。これはつまり、”白黒化”(モノクローム化)するということなのではありませんか。そして、比較できるものだけを残して後はすべて”意味のないもの”として無視していませんか。そして、これが子育てや教育の場で行われると非常に困ったことになります。子どもが明暗だけでしか世界を見ることが出来なくなってしまうからです。つまり、”比較”だけでしかものを見ることが出来なくなってしまうのです。その結果、大人になった時に人の目ばかり気にする子育て、生き方をするようになります。つまり、逆に言えば人の目ばかりが気になる人はモノクロームの世界に生きているのです。でも、もっともっと世界は美しいものです。その色に気付けば、人と比較する必要が無くなります。人の目を気にする必要が無くなります。結果、生活がもっともっと楽しくなります。明暗で見たら存在感のない薄い影のような人が、本当はカラーの世界で見たら光のように輝く黄色かも知れません。でも、そんなに美しい黄色の人でも、存在感がない扱いを受けている家に次第に色があせて、本当にただの薄いグレーになっていってしまうかも知れません。人は扱われているようになっていく生き物だからです。お子さんはどんな色ですか。
2007.05.04
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ご心配をおかけしております。今も、”ハードディスクに123MBしか空き容量がありません。危険です。”などというようなメッセージが出て、ファイルを色々消していました。私は仕事でコンピュータとはもう20年以上も付き合っていますがその変化には驚くばかりです。当然、当時はパソコンなど存在していませんでした。オフコン(オフィスコンピュータ)というもので、巨大な物です。でも、巨大でもHDは30Mとか50M程度しかありません。30GBではありませんよ。ただの30MBです。つまり、フロッピーディスク30枚程度です。その後、セイコーやソニーなどからパソコンが売り出されましたが、互換性がありませんでした。そして、次第にIBM方式と富士通方式の二つに統合され、IBM方式の延長にウィンドウズの前身のWin3.1が生まれ、そしてWin95へとつながっていきました。まあ、こんなことどうでもいいですね。でも、どうでも良いことでも、今目の前にあるものの歴史を知っているとなぜか見方、関わり形が違ってきます。私はWin98くらいまで、面倒くさくなるとDOSの画面にして作業していました。DOSの画面と言ってもお分かりにならないでしょうが、真っ黒な画面です。そこにコマンドを直接打ち込んで作業するのです。現在ではそのDOSもサポートしていないようですから、それも出来ません。それはそれで便利だったんですけどね。昨日、子どもに付き合って本屋に行った時に「日本人のしきたり」(飯倉晴武著/青春出版)という本を買いました。おびに”総合ベストセラー第1位”と書いてあるので売れているのでしょう。なかなかおもしろいです。みなさん、ご存じでしたか。「鏡餅」を二つ重ねるのは太陽と月の象徴なんですって。「鏡」の意味は神社のご神体が丸い鏡だからだそうです。そして、鏡開きでは刃物を使ってはいけないそうです。なぜならご神霊が刃物を嫌うからだそうです。こんな生活の身近にあって、私達が当たり前に思っていることでも歴史的に見ていくと宇宙や自然とつながり、昔の人たちの心ともつながっていたのですね。そして、身の回りのすべて物には歴史があります。鉛筆にも、お箸にも、本にも、椅子にも、新聞にも、また道ばたに転がっている小石にも、道ばたの花にも長い長い歴史があります。「はがき」は「葉書」と書きますが、それは昔”葉っぱ”にお手紙を書いたからなんです。そういう葉っぱがあるのです。私もその葉っぱを見たことがあります。細い物でなぞるとちゃんと文字が書けるのです。道ばたの目の前の小石はもしかしたらしばらく前まではどこかの川の中にあって、その前はどこかの山の中にあって、その石はもっともっと巨大で、台風で流されて川に落ちたのかもしれません。そして、もっともっと昔にはその上を恐竜が歩いていたかもしれません。この「物語」は遡っていけば宇宙の始まりまで行ってしまうでしょうね。そして、私にも、あなたにも、目の前の子どもにもその物語はあります。突然現れたわけでもないし、死んでその物語が終わるわけでもないのです。その想い出は人々に受け継がれるでしょうし、体はまた元の「物質」に戻って循環していきます。その私達の体を作っている物質はみな太陽よりももっと大きな星の中で作られたものです。その星が最後を迎え、爆発してチリとなって宇宙にばらまかれて、それが集まって太陽系が出来て、地球が出来て、生命が生まれ、私達が生まれてきたのです。そう考えていくと、誰一人として孤独な存在などいないはずなんです。みんな自然や宇宙、そして昔の人、世界中の人とつながっているのです。子育てをしていると、つい目の前のことばかりに意識がとらわれてそんなつながりを思い出すことが出来なくなってしまいます。でも、今子どもがやっていること、今お母さんが子どもに語りかけていること、今子どもにしていることがそのまま「子どもの物語」の一部になって受け継がれていくのです。そうやってみなさんの物語も生まれてきたのです。時々は昔の記憶をたどって、ご自分の物語を思い出してみませんか。そして、この先その物語はどのように展開していくのか考えてみませんか。きっと、お子さんを見る目も変わっていくと思いますよ。また、お子さんと一緒に目の前の何かについて、その物語を色々と想像してみませんか。楽しいお話が出来ると思いますよ。今、ここに咲いているタンポポの種は来年はどこで咲いているのでしょうね。もしかしたら外国だったりして・・・・。
2007.05.03
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昨日、私のパソコンが壊れてしまいました。作業中に突然”カラン”と本体内部で何かが落ちるような音がして、それ以降起動しなくなってしまいました。それで、古くなったので子どもに払い下げていたパソコンを急遽また使えるように設定し直し、このブログを書いています。でも、メモリーもHDも容量が少ないのですぐに止まったようになってしまいます。(古いパソコンでも古いソフトならサクサク動くのですが、新しいソフトはメモリーを大量に使うので重いのです。)それで中をあけてみたらマザーボードの中央にある部品が抜けて落ちていました。普通に差し込めばいいような物ではなく、接着がはずれたようであまりにも初歩的な故障なのであきれてしまいました。でも、自分ではちょっと直せないような状態なのでDELLに電話をして聞いたら”もう三年もお使いになっていて老朽化していますから”などと言います。たった三年を、”もう三年”と言いました。(デルです、デルはやめた方がいいかも)そして、マザーボードの交換で3,4万はかかるとのこと。というようなわけで今、ストレスを感じながらブログを書いています。で、今日は一日この作業をしていたのでブログの原稿を書いていません。ということで、申しわけありませんが今日はおやすみします。私は夜は頭が働かないのです。
2007.05.02
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またまた続けますね。今日は“プレゼントを作ろう”です。子どもって人に喜んでもらうのが大好きですよね。え! お宅のお子さんはそんなことないですか。悪さばかりしていますか。でも、それはどうしたら相手が喜んでくれるのかを子どもが知らないだけなんですよ。子どもが一生懸命に相手を喜ばそうとしても、相手がそれに気付かず喜んでくれなければ子どもはどうしていいのか分からなくなってしまいます。そして、悪さをして気を惹こうとします。自分に気付いて欲しいからです。とにかく、子どもは忘れられるのが一番怖いのです。でも、子どもだって、喜んでもらって認めれる方が、叱られるよりずっといいのです。それはちょっと実験してみればすぐ分かります。子どものちょっとした行動に、ちょっと大げさ目に“ありがとう”、“うれしいわー”と言ってみて下さい。それをしばらく続けていたら、子どものイタズラが激減すると思いますよ。悪さをする必要がなくなってしまうからです。また、子どもと一緒に誰かさんのためにプレゼントを作って下さい。お父さんでも、お友達でも、お世話になっている人でも、先生でも、自分が大好きな人のためにプレゼントを作るのです。どんなものをプレゼントしたら相手が喜ぶのかを子どもと一緒に考えて下さい。そういうことをお母さんと一緒に考えていると子どもは生き生きして元気になりますよ。つまり、子どもを直接喜ばそうとするより、子どもと一緒に他の人を喜ばそうとすると子どもも喜ぶのです。不思議ですよね。そういう子どもの姿を見ていると、子どもって神様に近いんだなと思います。下の写真は、教室の子どもからのプレゼントです。一番下のものは今日もらったものです。来た時から何か持ってそわそわしているので、プレゼントだなと気づきました。女の子からですよ。いくつになってもプレゼントは嬉しいものです。そうそう、大事なことを書き忘れるところでした。私の絵だそうです。まあるいのはカラーのボールです。「ポランの広場」という親子遊び教室では最初ボールで遊んでいますから。
2007.05.01
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