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最初にワークショップのお知らせです。子育てワークショップ in 茅ヶ崎「2才から7才までのしつけ」(気質と、子どもとのコミニケーションからしつけを考える)日時: 2008年1月20日(日) 10:00~11:50詳細はチラシをご覧になって下さい。講師は私です。2才以上のお子さんの保育あります。<以下は、チラシに書いた説明文です。> 7才までのしつけで一番大切なことは子どもとの間にしっかりとした信頼関係を築くことです。“あれをしてはいけない”、“これをしなさい”と子どもを追い立てることではありません。ましてやお母さんの言うことを素直に聞く子どもに育てることでもありません。 それだけでは心配ですか? でも、お母さんとしっかりとした信頼関係でつながっている子は、優しくて、賢くて、精神的に安定しているものなのです。(但し、大人しいということではありません。気質の問題もありますから。)そして、そういう子は大人の言葉にも素直に耳を傾けることが出来ます。ですから必要以上にしつけで悩むこともないのです。 それに対して、お母さんとの信頼関係が築けていない子は落ちつきがなく、大人の言葉を聞こうとはしません。それで、指示や命令が必要になり、しつけに悩むようになってしまうのです。*******************************昨日、「モンスターマザー」(石川結貴著/光文社)という本をご紹介しましたがついでなので少しこの本の内容に沿って書いてみます。重要な問題点がいくつも指摘されているからです。本の中半くらいまでは、様々なお母さん達のモンスター的な姿をパターンに分けて紹介してあります。その部分に関しては明日扱います。でも、今日は“なぜそのようなモンスター的なお母さんが増えてしまったのか”という事に対する石川さんの推察について考えてみます。まず、その大きな要因として90年代の半ば頃から育児雑誌などに現れだした“がんばらなくてもいいんだよ”、“あなたはあなたのままでいいんだよ”という考え方をあげています。いま、この言葉に共感を感じる人は非常に多いと思います。小さい時から頑張ることを強いられ、いつでも評価を気にして、他人との競争に明け暮れていた子どもが親になった時、子育てという場でも評価を求めて頑張って苦しんでいるお母さんが多いからです。でも、子育ての場では頑張っても頑張っても報われません。評価も上がりません。だからといって、頑張らないやり方も分かりません。それに、お母さんがどんなに頑張っても、子どもがそれに合わせてくれるわけではありません。お母さんが一生懸命に家事をこなしている脇で、子どもはヘラヘラして騒ぎ、汚し、大暴れします。それなのに、みんな“それが母親の仕事なんだから当たり前でしょ”という目でしか見てくれない。それで、イライラし、怒りが湧いてきて、その怒りが子どもに向けられてしまう。また、90年代半ばに若いお母さんだった人たちが子どもの頃は高度経済成長が真っ盛りの時で、子どもは家事を手伝わなくても勉強をしていれば許される時代でした。また、急激に家電製品が出回り、実際手伝う必要もなくなっていました。そんなことより、一生懸命に勉強して、いい学校入り、いい会社に入って社会の中で成功することの方が大切だと考えられた時代なんです。また、群れ遊びが消え、ゲームが出現し、個室でのおもちゃ遊びが急激に広がり始めた時代でもあるとおもいます。つまり、幼い時に多くの人との関わりを体験していないわけです。ということは、この時代の子どもたちは、子育ての場で役に立つような知識、能力、体験をほとんど学ぶことなく大人になってしまったということです。その代わり、評価を気にして、競争し、頑張る癖だけはしっかりと身につけていました。それで、子育ての場でも頑張ろうとしたわけです。でも、いくら頑張っても報われない、頑張れば頑張るほど苦しくなり、それが子どもに向けられてしまう。そんな状態の中で自己嫌悪に取り憑かれていたお母さん達に“がんばらなくてもいいんだよ”、“あなたはあなたのままでいいんだよ”というメッセージは共感を持って受けいれられました。そして、今ではそれがお母さんが好んで読むほとんどの育児書のテーマになっているのではないでしょうか。とにかく人は自分を否定されるような言葉を聞きたくありませんからね。そして、育児書は売れないことには商売になりませんから。確かに、その言葉に救われたお母さんも多かったでしょう。でも、“がんばらなくてもいいんだよ”という言葉を“大変なことはやらなくてもいいんだよ”と解釈した人たちも多かったようです。いや、そっちの方が多かったのかも知れません。それで、お母さん達は次々と大変なことはパスするか、人任せにするか、手を抜くかするようになってしまいました。一昔前だったら、そういう“手抜き”には後ろめたさがあったのですが、専門家達がこぞって“がんばらなくていいんだよ”というお墨付きを出してしまったため、お母さん達は堂々と手抜きが出来るようになってしまったのです。また、育児産業もそれを後押ししました。積極的にお母さんが育児から手を抜くお手伝いをしたのです。お母さんに手を抜いてもらうと商売になりますからね。それで、簡単便利な育児用品がいっぱい売れるようになったわけです。石川さんはまず最初にそのことを指摘しています。もちろん、これは“がんばらなくていいんだよ”という言葉が悪いわけではありません。それに、この時代は急激に合理化、機械化がすすみ、社会が壊れ、自然が壊れていた時代なので、この言葉はそういう流れへの自戒的な意味も込められていたのではないかと思います。つまり、社会の流れの中で必然的に出てきた言葉だろうということです。でも、一度手を抜く楽(ラク)さを体験してしまうと、自分にとって大切ではないと思われる部分は次々と手を抜きたくなるものです。また、会社での仕事と違って子育てではそれが出来てしまうのです。頑張っても評価がないから苦しかったのですが、逆にどんなに手抜きをしても評価がないからラクなのも子育てなんです。ですから、子育ての場ではその人の本当の人間性が試されるわけです。それで、評価に苦しめられていた人たちがそこで息抜きを始めたわけです。でも、他者による評価が消えてしまった場では、全ての物事が自分中心に動き出します。評価によって支配されていた人が今度は子どもを評価する支配者に変化するのです。(これは学校という場でも時々起きているようです。)そういう場で、子どもがバランスよく育つわけがありません。子どもの心とからだがバランスよく育つためには、生活の中にもバランスが必要だからです。お母さんの好き嫌いだけで回っている生活にバランスがあるわけないのです。そして実際子どもたちの心とからだの状態に様々なトラブルが生まれています。子どもたちが人間として成長できなくなってしまっているのです。どんなに苦手でも、嫌いでも、人間としてやらなければならないことはちゃんとやらなければならないのです。それが、人間として生まれたものの最低限の義務なんです。じゃあ、また頑張らなくてはいけないのかというと私はそういうことを言っているわけではありません。“頑張る”というやり方は子育てには向いていないからです。人との競争の場では頑張るということも必要でしょうが、子育ては競争の場ではないからです。ですから、90年代半ばに専門家達が“がんばらなくてもいいんだよ”と言った言葉にも間違いはないのです。でもだからといって、“じゃあ、やりたくないことはやらなくていいのか”というとそれも違います。そこで間違いが起きてしまったのです。専門家も、世のお母さん達に迎合するためにそこは口を濁してしまいました。育児書や育児グッズ産業からの圧力もあったのかも知れません。嫌なことであろうと何であろうと、子どもにとって、家族にとって必要なことはやらなければならないのです。それは母親だけでなく父親でも全く同じです。それは“役割を果たす”ということです。ですから、広く考えるとどんな立場の人でもそれは同じです。母親だけに責任を求めているわけではありません。それと、その役割の内容は固定されたものではありません。夫婦で役割を決めてもいいのです。家事をご主人がやって、仕事をお母さんがやってもいいのです。でも、それでも自分の役割はきちんと果たすべきなんです。そうしないと、家族が崩壊して、社会が崩壊して、人類が退化してしまうからです。役割を引き受けること自体を拒否してしまっては社会人としてやっていけないのです。会社で働いていたらそんなこと許されません。すぐにクビです。でも、子育ての場では職場放棄していてもクビにはならないのです。繰り返しますが、でも、だからといって私は“頑張れ”とは言いません。お母さんが子育てに頑張ったら子どもが迷惑します。そうではなく、私が言いたいことは“頑張らなくてもできるように工夫してみてください”、“頑張るのではなく楽しむように心の持ち方を変えてみて下さい”ということなんです。例えば、“朝忙しくて子どもを追い立てて、グズグズしている子どもを叱ってしまう”という相談がよくあるのですが、多くの場合、そんな問題はお母さんが朝30分早く起きるだけで解決してしまうはずなんです。でも、お母さんは“たしかにそうなんですけどね・・・、でも・・・”と言います。自分の時間も欲しいし、朝はゆっくりと寝ていたいし・・・。何かを得るためには何かを捨てなければなりません。それはしょうがないことなんです。でも、それが捨てられない。だから荷物をいっぱい抱え込んでしまう。だから頑張らないと出来なくなってしまう。だから苦しくなってしまう。だから、手抜きが出来るところから手を抜く。でも、実際にはそのことでトラブルが増えまた荷物が増えてしまう。子育てでも小さい時に手を抜くと幼稚園に入り始めた頃からトラブルがでてきます。その頃に出てこなくても、思春期が近付く頃にもっと過激な状態で出てきます。そうして、一生子どもに縛られることになります。すると、生きること自体が苦しくなってしまいます。私はいつもお母さん達に「子育てには二種類あるのですよ」と言っています。それは、「だんだんラクになる子育て」と「だんだん苦しくなる子育て」の二種類です。どっちがいいですか。ちなみに選択肢はこの二つしかありません。ズーッとラクなままの子育てなど存在しないのです。もし、だんだんラクになる子育てを選ぶのなら最初のうちはちょっと我慢が必要です。頑張れとは言いませんが、自分の欲を抑える我慢は必要なんです。そして、工夫も必要です。我慢しているだけで工夫がないと辛くなります。でも工夫があると楽しくなるのです。我慢が報われるからです。すると、子どもが幼稚園に行くようになってグッと楽になり、小学校に行くようになって更にラクになり、思春期になってもっともっとラクになります。寂しいですけどね・・・・・。
2007.11.30
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今、「モンスターマザー」(石川結貴著/光文社)という本を読んでいます。ただただ、もう絶句するような状態のお母さん達が非常な勢いで増えているようです。幸いにもわたしの身近なところにはそのようなモンスターはまだいませんが、確かに町中では実際そのようなお母さんを見かけることは珍しくなくなってきました。また、お母さん達に学校の様子などを聞くとかなりそのようなおかしなお母さん達が増えてきた状況をうかがい知ることが出来ます。ちなみに、私の周囲のお母さん達は学校では浮いていたり、“変わっている人”で通っている場合が多いようです。子どもが小学校に上がってカルチャーショックを感じて悩んでいるお母さんも少なくありません。もちろん、問題はお母さんだけではありません。その陰にはお父さん達の問題も隠れています。ゲーム漬けになっているお父さんの話はもう珍しくありません。でも、直接子どもと関わっているお母さんがモンスター化するとその影響は真っ直ぐ子どもに向かいます。ただ、著者が問題として指摘しているのはそのような行為だけではなく、意識の変化なんです。確かに昔からおかしなお母さんはいました。でも、昔はそのようなお母さん達の行動に対して批判的に見ているお母さん達の方が多かったのです。本人にもまたそのような自覚がありました。でも、今のお母さん達は自分ではやっていなくても、そのようなお母さんの行動に共感を感じる人が増えてきたというのです。例えば、小学校の運動会にピザの出前をとったお母さんがいて、その人の話を色々なお母さんグループで話しても、“えー!”という反応ではなく“それいいかも”というような反応をするお母さんが多いというのです。(しかもそのお母さんは自分の家の分だけではなく、大きいのをいっぱい注文して、“みんな食べろ”と周囲の子どもたちに呼びかけたそうです。それで子どもたちが群がったということです。お母さんが作ったお弁当を食べずに・・・)でも、実際には“他の人の手前”があるので、なかなか実行するまでには至らないようですが、予備軍はかなり多いようです。ですから、一度崩れ出すと雪なだれ的に増えてしまう可能性はあります。さらにまた、そのモンスターぶりを“自分らしさ”として武勇伝のように語るお母さんも増えてきたというのです。そのようなお母さんにとって“お母さんらしい”という評価はそのまま“ダサイ”という評価なので、むかつくようです。自分の子どもが転んだ時、私の感覚では“どうしたの”、“大丈夫”、“痛くなかった”と聞くのが普通だと思うのですが、でも、今「ざまーみろ」とか「ダサッ」などと子どもをバカにするお母さんも増えてきたようです。また、自分の子どもを呼ぶ時に「オイ」「てめえ」、叱る時に「バカ」「クソ」「うせろ」「死ね」という親も少なくないそうです。そのせいかどうか私もワークなどで保育園に行った時に、「てめえ」とか「じじー」とか呼ばれることもあります。うちの教室にもいました。小6にもなって「てめえ」と大人を呼ぶのです。本人に悪気はないのですが、注意しても直りませんでした。そして、実際スーパーや町中で“え!”というような言葉を子どもに投げかけている親は結構います。また、町中で女子高生同士の会話を聞いていると普通に「てめえ」とか「マジヤバイ」とか、「うざいんだよ」という言葉を使っているので、親になってもそのままなのでしょう。あと、お受験ママ達の壮絶な日常も書いてあります。でも、困ったなと感じたのは、お受験ママ達が熱心に子どもにやらせようとしていることに、私がやっているような遊びも入っていることなんです。自然体験なども、お受験の必要条件のようなのです。でも、ただ自然体験をさせればいいってもんじゃないのです。確かに、お受験の必須項目の中には子どもの育ちに必要なものも多く含まれています。でも、それらは子どもの時間の中で、子どものものがたりの中で、子どものリズムの中で出会わなければ意味がないのです。どんなに素晴らしいことでも、大人の時間、大人の“ものがたり”、大人のリズムで子どもに与えるのはただの押しつけであり、子どもを成長させる力にはならないのです。もっとも、お受験ママ達にとっての関心は受験に受かるかどうかであって、子どもの成長ではないようですから、そんなことを言っても聞いてはもらえないでしょうけど・・・・。
2007.11.29
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最初にワークショップのお知らせです。子育てワークショップ in 茅ヶ崎「2才から7才までのしつけ」(気質と、子どもとのコミニケーションからしつけを考える)日時: 2008年1月20日(日) 10:00~11:50詳細はチラシをご覧になって下さい。講師は私です。2才以上のお子さんの保育あります。<以下は、チラシに書いた説明文です。> 7才までのしつけで一番大切なことは子どもとの間にしっかりとした信頼関係を築くことです。“あれをしてはいけない”、“これをしなさい”と子どもを追い立てることではありません。ましてやお母さんの言うことを素直に聞く子どもに育てることでもありません。 それだけでは心配ですか? でも、お母さんとしっかりとした信頼関係でつながっている子は、優しくて、賢くて、精神的に安定しているものなのです。(但し、大人しいということではありません。気質の問題もありますから。)そして、そういう子は大人の言葉にも素直に耳を傾けることが出来ます。ですから必要以上にしつけで悩むこともないのです。 それに対して、お母さんとの信頼関係が築けていない子は落ちつきがなく、大人の言葉を聞こうとはしません。それで、指示や命令が必要になり、しつけに悩むようになってしまうのです。*******************************さて、またまた続きです。今回は、教育の場などで知識を教える時にその“ものがたり”の技法はどのように使うことが出来るのかということを書いてみます。私は、「知識は終点であり、“ものがたり”は始まりである」ということを何回も書いてきました。知識はそれ自体では終点であり、死なんです。ですから、知識を詰め込めば詰め込むほど身動きが取れなくなり、生命力も萎えていきます。それが子どもなら生き生きとした表情が消えて、閉鎖的になり、排他的になってしまうでしょう。さらには、病気がちの体になってしまうかも知れません。でも、知識は必要なものです。ですから、私は知識を学ぶこと自体を否定しているわけではありません。ただ、知識を死んだ状態で子どもに与えるなと言うことを言いたいのです。どんな知識であっても、その知識を発見した人にはその知識は生き生きとして、ワクワクとしたものであったはずなんです。だから、これだけの知識が発見されてきたのです。つまり、知識は終点だと書きましたが、その終点に至るまでにハラハラ、ドキドキし、時には喜び、時には落胆するような長い、長い“ものがたり”があったはずなんです。時にはそれは何百年も続いてきた“ものがたり”かも知れません。その“ものがたり”に魅せられて学者という職業を目指す人がいるわけです。そして、時には権力者に逆らい、生命を架けてまで真実を探ろうとする人たちがいるわけです。でも、発見されてしまった真実はただの知識になってしまいます。ガリレオが“地球が動いている”と言った時には命がけでした。それは、ガリレオが観測の結果やっとたどり着いた真実だったのです。でも、今では“地球が動いている”というのはただの知識に過ぎません。みんなただ知っているだけです。そんなもの学んでも全然楽しくありません。全ての知識の中には歴史が含まれているのです。そして、その歴史をひもとく時、それは“ものがたり”に変換され、生き生きとした生命を得ることができるのです。そうすると、子どもたちの心に届くようになるのです。それはつまり、知識を歴史のように扱うということです。1+1=2を歴史のように扱ったらどのような“ものがたり”が見えてくるのでしょうか。きっと子どもたちはワクワクするでしょうね。勉強が楽しくなりますよね。また、結論が出ていないような知識なら、なぜ結論が出ていないのか、という“ものがたり”を伝えればいいのです。例えば、南京大虐殺と呼ばれる事件で殺された人の人数などにも様々な異論がありますが、異論があるならその異論の根拠も含めて色々な考え方を伝えてあげればいいのです。それが教育なのではないでしょうか。一つの答えだけを教えようとするのは洗脳であって教育ではないと思います。そのように知識を歴史的に扱うことで、子どもは自分の頭で考える力を身につけることが出来ます。それを、“まだ結論が出ていないことだから教えない”という教育では子どもは成長できないのです。また、もう一つ別の方法で知識から“ものがたり”を産み出す方法もあります。これは過去に戻るのではなく、未来へと新しい“ものがたり”を紡いでいく方法です。具体的にどうするのかというと、知識と知識をつなげてみるのです。男性と女性が出会って子どもが生まれるように、知識と知識が出会う時、新しい“ものがたり”が産まれるのです。それは同一分野の知識同士でも、また音楽と絵画、数学と音楽、歴史と科学、など異分野の知識をつなげる時も同じです。その時、新しい“ものがたり”が産まれます。子どもはそんな“ものがたり”を聞くことで、色々空想し生き生きとしてくるのです。そして、知識への好奇心が目覚めるのです。ちなみに、「教師宮沢賢治の仕事」(畑山博著・小学館)などを読むと、賢治はそういう授業をしていたようです。
2007.11.28
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幼い子どもたちは絵を描くことが大好きです。でも、ただ写すこと、つまり写生は苦手です。そこにはいくつかの理由があります。先ず、幼い子どもたちは物事を構造や関係性で捉えることが出来ないので、見てもよく分からないのです。子どもは部分だけしか見ることが出来ません。とくに、一生懸命見ようとすればするほど部分しか見えなくなってしまうのです。そして、その部分を統合して全体のイメージを構成することは出来ません。子どもの時代は小さなものに心を惹かれる状態なのです。ですから、子どもは“風景”を味わうことができません。紅葉の山に連れて行っても、奇麗な葉っぱ、森の中のキノコはすぐに見つけますが、自分の周りに広がる紅葉の風景を見て、味わうことが出来ないのです。ですから、すぐに飽きてしまいます。また、交響曲のようなものも楽しむことが出来ません。シンプルなメロディーを認識することは出来ますが、様々な音を統合して一つの音楽を聴くという作業が出来ないからです。さらに、子どもはいつでも自分サイズで描きたいので、画用紙のサイズに合わせることが出来ません。画用紙と自分のイメージとの関係性をつかまえることができないのです。それと、大人は知識で描くので、自分とは関係がなくてもちゃんと描き込むことが出来ますが、子どもたちは“自分のものがたり”を描こうとするので、“自分のものがたり”にないものを描くことは出来ません。家族の絵を描かせた時、お父さんが存在していなかったり、腕がなかったりするのはそのせいです。絵の中にお父さんを登場させるためには、子どもの心の中のものがたりの中にお父さんが登場する必要があるのです。そして、そのためには時間が必要です。“ものがたり”は発酵するように産まれるものなので簡単には作ることが出来ないのです。保育園や幼稚園などではそのため、子どもがその描く対象と関わるための時間を大切にしているところもあります。例えば、ザリガニを描く時にはザリガニを取りに行ったり、餌をあげたり、世話をしたり、手に載せて遊んだり、戦いをさせたりして“ザリガニとのものがたり”を心の中に育てるのです。そうしてから、“ザリガニの絵”を描くのです。そうすることで、子どもたちは生き生きとしたザリガニの絵を描くことが出来ます。その時には子どもたちは記憶で描きます。子どもは目で見て写すという作業が苦手だからです。また、キミコ方式で有名な松本キミ子は枠を気にしなくてもよいように工夫し、部分からものがたりを紡ぐようにつなげて描いていく方法を考案しました。子どもは一気に全体を描くことは出来ませんが、部分を描くことは出来るので、“ものがたり”を紡ぐようにその部分をつなげていけば結果として全体が生まれるという考えです。(詳しくはネットで調べてください。)私は、“絵遊び”という考え方で、絵をものがたりに展開していく遊びをワークでやっています。子どもたちは絵を構成することはできません。特に今の子どもたちは心の中に大きなものがたりがないので、単品しか描くことが出来ないのです。それで、ポケモンや怪獣や昆虫やウサギさんや、お人形のような女の子や、チューリップがただ並んだだけの絵を描きます。自分が大好きなものをただ並べるだけの絵です。そのような子どもたちにいきなり絵らしい絵を描かせようとしても無理です。それで絵遊びの時には、そういう絵をいっぱい描いてもらってから、それらを切り抜きます。そして、それらを登場人物としてお話を作りながら大きな紙の上に並べて遊んでいくのです。背景は大人が描きます。子どもたちはお人形やフィギャーで遊ぶのは大好きです。そんな感覚で自分の描いた絵で遊ぶのです。そして、最後に自分が気に入った場所に貼り付けます。そういうものがたり遊びの繰り返しの中から、絵を構成するという感覚が育っていくのです。好きなものを並べるだけの絵から、好きなもののものがたりを描くことが出来るように誘導してあげるのです。すると結果として素敵な絵が生まれてきます。ただし、空が黄色くなったり、人が家よりも大きくなってしまうかも知れませんが、それは“ものがたりの世界”の話しなのでOKなんです。
2007.11.27
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世の中には、名画、名品と呼ばれるものが数多くありますよね。では、その名画、名品と駄作との決定的な違いは何だか知っていますか。深刻に考えないでくださいね、すごく簡単なことなんですから。それは、“見飽きない”ということです。どうですか、当たり前でしょ。ヨーロッパなどでは名画の前でずーっと動かない人がいっぱいいます。(日本では立ち止まらないでください、などと言われてしまいますけどね・・・。)工芸品でも彫刻でも自動車などの機械でも名作、名品と言われるようなものは見飽きません。だからこそ、名作、名品、名画と呼ばれているわけですからそれは当然のことです。では、人はその“見飽きない時間”の中で何を見ているのだと思いますか。何で見飽きないのだと思いますか。これは考えたら不思議なことですよね。それらはアニメーションのように動いているわけではなく、止まっているだけなので見るだけのことならすぐに出来てしまいますからね。でも、名作、名品、名画と呼ばれるものは目を離してくれないのです。自分の意志で頑張って凝視しているのではなく、引き込まれてしまって目を離すことが出来なくなってしまうのです。それはまるで素晴らしいドラマを見ているような感覚です。“次”が気になって目が離せないのです。それは、名作、名品、名画と呼ばれているものは、動かなくてもそこに長いドラマが凝縮されているからなのではないでしょうか。そのドラマは目では見ることが出来ません。ただ、感じるだけです。ですから、その感覚がない人はそのドラマを読み解くことが出来ません。そして実際、名画、名作を見てそこに心を奪われる人はその作品に関して尽きることなく多くを話し続けることが出来ます。つまり、その無言の作品から、言葉に変換できる何かをちゃんと受け取っているわけです。不思議ですよね。(不思議という言葉が多くて済みません・・・)それに対して駄作は見ていてすぐに飽きてしまいます。だから、駄作で人を引きつけようとするなら、動かし、音を出し、直接感覚に訴えようとするわけです。そうすると動物的な本能で引きつけられるようになります。赤ちゃんがテレビを見続けてしまうのもそのせいです。静止したテレビの画面を名画を見るように見続けることなどできません。そこにはドラマが凝縮されていないからです。ですから、テレビに慣れてしまうと“見る”ということができなくなります。動いていないものを見続けることが出来なくなってしまうのです。“聞く”ということでも同じです。耳を澄ます、耳を傾けるということが出来なくなってしまいます。当然、集中力も落ちていきます。そういう子どもたちにとっては、学校の授業は退屈そのものでしょうね。ですから、テレビがなくなるだけで子どもたちの学力は向上すると思いますよ。だれも言い出しませんけど・・・。動いている物を見続けるのは目が奪われているだけです。動いていない物を見続ける時にこそ集中力は必要なのです。ですから、テレビ漬けになってしまっている人は、名作、名品、名画のドラマを読み解くことはできません。ではなぜ、名作、名品、名画にはドラマが凝縮されているのかというと、それは描いた人、創った人の想いが込められているからです。想いはそれ自体でもうドラマなんです。ですから、“想い”というものを感じる力が弱い人も名作、名品、名画のドラマを読み解くことはできません。私はもう20年くらい、夜寝る前に子どもたちに絵本や物語の読み聞かせをやっています。そして、名作と言われているような絵本では、子どもと一緒に絵を見ているだけでも楽しいのです。絵を見ながら色々なお話しができます。(大学生の長女、長男はもう聞きませんが、中二の娘と小四の息子はいまでも本を読んでもらわないと寝ません。子守歌代わりのようです。)そのように想いを大切にしながら絵を見る、絵を描くということもまた、“ものがたり”の技法の一つなんです。似ているか似ていないかなどということにこだわると、“ものがたり”は消えてしまいます。思考は時間の中で展開します。それは“ものがたり”と同じなんです。“ものがたり”は思考の一形態なのです。でも、知識は時間を止めてしまいます。つながっていかないのです。ですから、知識を詰め込まれた子は“ものがたり”を読み解くことが出来なくなります。そして、思考することもできなくなります。逆に、学力とは全く関係のない様な“お絵描き”でも、“ものがたり”とつなげてあげることで、考える力を育てることが出来るのです。
2007.11.26
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人間は新しい情報を古い情報との整合性をつなげながら取り入れていきます。それは言い換えると、新しい情報をすでに自分の中に出来上がっている“ものがたり”の文脈に従って吸収していると言うことです。また、更に言い換えると、新しい情報を古い情報を使って解読しようとしていると言うことです。これはどんな人でも同じです。これが機械ならば、“人間はバカだ”という情報と、“人間は利口だ”という情報を同時に、ストックすることが出来ますが、人間の頭の中ではそういうことが出来ません。人間の脳は異なった価値観を同時に混在させることは出来ないのです。ですから、人に何かを伝えようとするならば、その人の文脈を理解して、その文脈にうまくつながるように情報を加工して与えないことには、間違って吸収されてしまうか、吸収されないまま素通りしてしまいます。そして、その文脈の作り方が年齢によって違うのです。それが脳の成長であり、人類の進化の道筋なのでしょう。ところが、そこに子どもの文脈とつながらない情報が与えられると、子どもの脳はその情報を処理できません。そういうものがいっぱい与えられると、処理不能の情報がいっぱい詰まってしまい、やがて機能不全に陥ります。すると、自由に考えることが出来なくなります。当然、創造性も消えていきます。じゃあ、どうしたらいのかということです。例えば、子どもが今Aという道を歩いているとします。でも、大人はBという道を歩かせたいと考えています。そんな時、多くの大人が無理矢理道を変えさせようとします。“なんでこんな道を歩くの”となじります。でも、人は子どもも大人も、今まで歩いてきた道を先に進む以外に動きようがないのです。過去の延長でしか動けないのです。それなのに、“なんでこんな道を歩いているのだ”となじってしまうと、その場でうずくまってしまい、“この道”すら歩くことが出来なくなってしまいます。自己肯定観も低くなります。そうではないのです。道を変えさせてはいけないのです。そうではなく、Aという道の先をそれとなくBという道につなげてあげればいいのです。子どもはずーっとAという道を歩いているつもりなのですが、途中で知らないうちにBという道を歩いているように仕掛けを作るのです。これは、大人が子どもの“ものがたり”に意識的に関わるということです。そして、“ものがたり”という視点で子どもの成長を見ることが出来ない大人には出来ないことです。ちなにみ、この方法を意識的に教育の中に取り入れたのが板倉聖宣という人です。彼は「仮説実験授業」という形でその方法をまとめました。例えば、子どもに「はかりに乗る時、普通に立って乗っている時と、片足で乗っている時と、しゃがんでいる時と、踏ん張っている時とではどれが一番重くなるでしょう。それとも体重は変わらないでしょうか。」と質問します。すると、子どもは色々考えて“ものがたり”を造り始めます。でも、それは“ものがたり”ですから色々な答えが出てくるわけです。そして、仮説実験授業では色々な意見が出てくるようにわざと誘導するのです。普通は、違いますよね。正解に一直線ですよね。こんな、回り道はしませんよね。でも、子どもたちが“ものがたりを造り始める”というところから、思考が始まると板倉さんは考えるわけです。科学は知識ではなく、思考が土台ですからね。そうして、色々な“ものがたり”が出てきたら、その“ものがたり”を否定せずに、自然に科学的な“ものがたり”につながるように色々な実験を通して誘導していくのです。すると子どもは科学者のように自分で発見するのです。そして、自分で発見したことは忘れないし、また新しい発見のきっかけになっていくのです。これが、最初から結論を与えられていたら、そこで終わりです。知識は終点であり、“ものがたり”は始まりだからです。以下は、また違った“ものがたり”です。ブログリンクしているものぐさ父さんの22日のブログから以下に全文を引用させて頂きます。お風呂上がりの長女(小学校2年生)との会話です。私の臀部にできた湿疹を見ての長女の質問から始まります。 (娘)「お父さん、これ どうしたの?」 (私)「歳だからだよ。お父さんは、もうこれからどんどん歳をとっていくんだよ。お前たちは、これからどんどん成長していくけど、お父さんは段々死んでいくんだよ。」 (娘)「お父さんは、まだ大人の子どもだから大丈夫だよ。」 (私)「大人の子ども?何それ?」 (娘)「本当の子どもじゃなくて、大人の子ども。 お父さんは、大人の小学生ぐらいかな。もう少し歳をとると、大人の中学生とか高校生になって、100歳ぐらいになると大人の大人になるの。」 (私)「大人の小学生は何を習うの?」 (娘)「今までの事を思い出して、悪いところを直したりするの。」う~ん、奥が深い…ちなみに校長先生は直すところがないから、もう大人の大人だそうです。おばあちゃん(私の母)は、高校生。理由は、(食べ物を)買いすぎるからとのこと。ここにも素敵な“ものがたり”があります。大人には哲学的に聞こえますが、これは子どもには自然な考え方なのです。子どもは哲学者であり、詩人であり、芸術家なんです。彼らに、ロケットを飛ばす知識や技術は必要ありません。
2007.11.25
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今までお読みになってきて、私の言うところの「“ものがたり”という技法」とは特別なものだとお感じになった方もいらっしゃるかも知れませんね。でも、そうではなく、これは子どもの心を感じながら子どもと関わることが出来る人なら直感で普通に使っている技法なんです。でも、それが技法として認識されていないということです。子どもは“ものがたり”の世界に生きています。ですから、子どもの言葉で子どもに語りかけようとするなら自然に“ものがたり”の技法を使ってしまうのです。私は、それを個人的な方法ではなく、親や先生といった子どもと関わる人たちに対して一つの技法として提示ししたいのです。私の友人の先生は子どもたちに算数を教える時に、そのクラスの日常的な話題に変えて問題を設定しているそうです。登場人物はそのクラスの仲間達です。それだけで子どもたちの食いつきが違ってくるそうです。これも「“ものがたり”の技法」です。子どもが転んだ時に“いたいのいたいの 飛んでいけー”というのも、お花に水をあげて“お花さん喜んでいるよ”というのも「“ものがたり”の技法」です。ね、みなさんも普通に使っていらっしゃるでしょ。<続きます>
2007.11.24
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知性や心といった子どもの内側に関わろうとする時“ものがたり”が大きな働きをします。なぜなら、子どもの心や知性そのものが“ものがたり”で構成されているので、“ものがたり”の世界は直接に子どもの内側に強く働きかけるからです。ですから、“ものがたり”の技法は教育、子育て、そしてセラピーの現場で非常に大きな力を発揮するはずです。そして、これは大人の場合でも同じです。ちなみに、聖書やお経を少しでも読んだことのある人ならお分かりでしょうが、聖書やお経は“ものがたり”のかたまりです。道徳的なお説教ばかりが書いてあるわけではないのです。メインは全部お話しなんです。そのお話しを解説する時に説教臭い説明が出てくるだけです。(聖書は聖書そのものが“ものがたり”です)“ものがたり”は答えを教えてくれません。そうではなく、その逆に“ものがたり”は“問い”、“疑問”を生みだし、“不思議”感覚を目覚めさせるのです。そして、それが自分との対話を促すのです。それが思考につながります。でも、知識は思考を止めてしまいます。“問い”、“疑問”、“不思議”を消してしまいます。小さい時には、“雨はどうして降ってくるの”という問いに“カミナリさまのおしっこよ”という答えで満足していた子でも、やがて“じゃあ、かみなりさまのうんこは何なんだろう”とか、“カミナリさまは何を食べているのかな”などとそのものがたりの延長で色々と考えるようになるのです。そして、やがて客観的に物事を考えることが出来るような状態になると、“どうもこれはおかしいぞ”と自分で気付くのです。この過程が大切なんです。繰り返しますが、そんな場合知識は思考を止めてしまうのです。一つの“ものがたり”はさらに新しい“ものがたり”を求めるのです。そうやってどんどんつながっていくのが“ものがたり”なんです。知識は終点ですが、“ものがたり”は始まりなんです。だから、次回作はないといっていた「三丁目の夕日」も出来たのです。みんなが“この先”を知りたいと思ったからです。サンタクロースに関しても、小さい時にはそのまま信じていたのに“夏はどうしているのかな”、“奥さんはいるのかな”、“あのプレゼントはどうやって作っているんだろう”、“どうしてサンタさんのプレゼントと同じものがトイザらスにあったのだろう”などと考え始めるのです。繰り返しますが、このように子どもが自分の頭で考え、そして考えが進化していく過程こそが子どもの成長には非常に重要な役割を果たしているのです。ちなみに、法華経に出てくる 「三車火宅の喩」とは以下のようなものです。 ある所に、たくさんの子供を持った長者が住んでいました。 この長者の家は、軒が傾き今にも崩れ落ちんばかりであったのに、ある日、長者の外出中にこの家にたくさんの子供を残したまま、火事が起こってしまいました。 我が家の火事を聞きつけた長者は急いで帰宅しましたが、家の中を見てびっくりしました。 家が燃え盛っているのに、子供達は家の中で嬉々として遊んでいるのです。子供達は火事には全く気付いていません。 長者が子供達に避難するように言いますが、子供達は遊びに夢中で聞く耳を持ちません。 そこで長者は、子供達を救う為にある事を考えました。 そうして、子供達に向って語りかけました。 「さあ、子供達。外に出れば素晴らしいおもちゃをあげるよ。それは何だと思う?羊の車、鹿の車、牛の車だよ。」 これを聞いた子供達は、我先に外に飛び出しました。 ところがどうでしょう。子供達が見たものは、羊や鹿、牛の車のような安っぽい乗り物ではなく、金銀銅で飾られた目も眩むような立派な大白牛車が置いてあったのです。 長者は子供達を全てその車に乗せると、安全な所へ避難したということです。 参考 三車火宅の喩の中の「車」とは、次の意味があります。 羊の車→声聞への教え。鹿の車→縁覚への教え。牛の車→菩薩への教え。 大白牛車→一仏乗の教え。真実。(余談ですが、一説にはこの大白牛車はゾウの車だったという説があります。インドの法華経原典を訳した羅什は中国の人であり、ゾウの存在を知らなかったと言われています。)また、聖書に出てくる「放蕩息子の話」は以下のようなものです。15:11 彼(イエス)は言った,「ある人に二人の息子がいた。 15:12 そのうちの年下のほうが父親に言った,『お父さん,財産のうちわたしの取り分を下さい』。父親は自分の資産を二人に分けてやった。 15:13 何日もしないうちに,年下の息子はすべてを取りまとめて遠い地方に旅立った。彼はそこで羽目を外した生活をして自分の財産を浪費した。 15:14 すべてを使い果たした時,その地方にひどいききんが起こって,彼は困窮し始めた。 15:15 彼はその地方の住民たちの一人のところに行って身を寄せたが,その人は彼を自分の畑に送って豚の世話をさせた。 15:16 彼は,豚たちの食べている豆のさやで腹を満たしたいと思ったが,彼に何かをくれる者はいなかった。 15:17 だが,我に返った時,彼は言った,『父のところでは,あれほど大勢の雇い人たちにあり余るほどのパンがあるのに,わたしは飢えて死にそうだ! 15:18 立ち上がって,父のところに行き,こう言おう,「お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。 15:19 わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。15:20 「彼は立って,自分の父親のところに帰って来た。だが,彼がまだ遠くにいる間に,彼の父親は彼を見て,哀れみに動かされ,走り寄って,その首を抱き,彼に口づけした。 15:21 息子は父親に言った,『お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません』。15:22 「だが,父親は召使いたちに言った,『最上の衣を持って来て,彼に着せなさい。手に指輪をはめ,足に履物をはかせなさい。 15:23 肥えた子牛を連れて来て,それをほふりなさい。そして,食べて,お祝いをしよう。 15:24 このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』。彼らは祝い始めた。15:25 「さて,年上の息子は畑にいた。家のそばに来ると,音楽や踊りの音が聞こえた。 15:26 召使いたちの一人を呼び寄せ,どうしたのかと尋ねた。 15:27 召使いは彼に言った,『あなたの弟さんが来られたのです。それで,あなたのお父様は,弟さんを無事に健康な姿で迎えたというので,肥えた子牛をほふられたのです』。 15:28 ところが,彼は腹を立て,中に入ろうとしなかった。そのため,彼の父親が出て来て,彼に懇願した。 15:29 だが,彼は父親に答えた,『ご覧なさい,わたしはこれほど長い年月あなたに仕えてきて,一度もあなたのおきてに背いたことはありません。それでも,わたしには,わたしの友人たちと一緒に祝うために,ヤギ一匹さえ下さったことがありません。 15:30 それなのに,あなたの財産を売春婦たちと一緒に食いつぶした,このあなたの息子がやって来ると,あなたは彼のために肥えた子牛をほふられました』。15:31 「父親は彼に言った,『息子よ,お前はいつもわたしと一緒にいるし,わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが,このことは祝って喜ぶのにふさわしい。このお前の弟が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』」。 (電網聖書より)どうですか、いっぱい“問い”、“疑問”、“不思議”が湧いてきませんか。
2007.11.23
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<一昨日からの続きです>子どもが積極的に“ものがたり”を紡ぎ始めるのは“なぜ?”、“どうして?”と聞き始める頃からです。でも、多くの大人がこの子どもの“なぜ?”の意味を理解していません。そして、大人の知識で答えようとしてしてしまいます。まず、大人が一番勘違いしているのはこの“なぜ?”を知的な好奇心だと思いこんでしまっていることです。だから、知識で答えようとしてしまうのでしょう。でも、子どもがここで知りたいのは知識ではなく、それにまつわる“ものがたり”なんです。子どもが“なぜ雨が降るの?”と聞く時は“雨のものがたり”が聞きたいからなのです。 だから、“雲が凝固して”などという答えでは子どもは納得しません。 でも、“雨が降るとお花や草や木が喜ぶんだよ、そして、川に流れてお魚も喜ぶんだよ”とか、“かみなりさまがおしっこしたからだよ”などという“ものがたり”で説明してあげると、子どもは納得するのです。そのようなものがたりなら子どもの感覚に響くのです。 そういう点で子どもは詩人に近いのです。 また、それ故に宗教的な感覚も豊かです。 だから、子どもの言葉は詩人のようにキラキラしているのです。そして、美しいのです。 そんなことを言うと、“そんな嘘を教えていいんですか”とか、“そのまま大きくなったら困ります”と言う人がいますが、そんな心配は必要ありません。なぜなら、子どもが“なぜ?”という言葉で聞きたいことは年齢と共に変化していくからです。つまり、子どもの発達段階が違えば、同じ“なぜ?”でも聞きたいことは違ってくるのです。確かに、幼児期の子どもは詩人のように“感覚に響くものがたり”を聞きたがります。でも、7才頃から14才頃までの子どもたちは“感情に響くものがたり”を聞きたがるようになるのです。7才を過ぎると、次第に幼児期の時の詩的な“ものがたり”では納得しなくなるのです。自分の感情を納得させる“ものがたり”が欲しくなるのです。“なんで彼はぼくと遊んでくれないの”、“なんで戦争があるの”、“なんで生き物は死ぬの”などなどです。だからといって客観的な知識で答えても納得しません。この時期の子どもたちは文学的な“人間のものがたり”が聞きたいのです。つまり、戦争で大勢の人が苦しんでいること。でも、その戦争をやめさせようと努力している人、戦争の苦しみから立ち直ろうとしている人のドラマを伝えるのです。すると、生命と言うこと、生きると言うこと、人間と言うこと、人生と言うことに少しずつ目覚め始めるのです。また、“なんで生き物は死ぬの”などという“なぜ?”には生命の歴史を話してあげるのです。すると、もっと大きなものがたりの一部として生物の死があるのだということを自分で発見します。すると、子どもは納得するのです。それを、老化のメカニズム、病気など物質的なレベルで答えていると子どもは“なぜ?”を言わなくなります。でも、その“なぜ?”も14才ころからまた変わり始めます。抽象的な思考が成長しつつある思春期の子どもの“なぜ?”は知的な好奇心から出てくるからです。それは成長期にからだが成長する時に肉が食べたくなるのと同じです。この頃になると“ものがたり”を知的に紡いでいくことが楽しくなるのです。ただし、この場合でも子どもは答え(知識)が聞きたいのではありません。答えの探し方を知りたいのです。知的であるということはそういうことです。だから、“空は何で青いの”と聞かれて答えることが出来なくてもOKなんです。考え方、調べ方を教えてあげればいいのです。それと素人知識で答えずに専門的な本を買ってきてあげるという方法もあります。また、“今度一緒に図書館に行って調べてみようか”でもいいのです。とにかく、思春期の子どもは自分で答えを見つけたいのです。(“ものがたり”の紡ぎ方をしりたいのです。)そして、この時期になると“哲学的なものがたり”が聞きたい子と、“科学的なものがたり”が聞きたい子に分かれるように思います。また、文学的なものがたりのまま成長する子もいます。さらには、芸術的なものがたり、スポーツというからだの“ものがたり”に目覚め始める子もいます。急に、色々な“ものがたり”に目覚め始めるのです。それが思春期です。
2007.11.22
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今日はちょっと寄り道をしてしゅんさんからの以下のコメントにお答えさせて頂きます。6歳の娘と3歳の息子をもつ、しゅんといいます。最近シュタイナーに興味をもちいろいろな本を読んでみたのですが、迷子になりここにたどりつきました。3 歳の息子は電車が好きなのですが、それほどのめりこむ程ではなく、一人遊びを好みません。本読んで、絵描いて、と私にさせて自分でしようとする発想がありません。午後は娘が幼稚園から帰ってくるので、家族ごっこをしたり、本を読んでもらったりしています。午前中は私が家事をしているので、ひとりで絵本をながめたり、私の様子を見にきて「遊ぼうよ」といいます。そして、お絵かきをすると、ママみたいにかけないといい、やめてしまいます。6歳の娘はママみたいできないといって悲観することがなかったので、息子が娘や私と同じくできないことに執着して悲しんでいるのはなぜだろう?と思います。ほめてあげても、「ぜんぜん上手じゃないじゃない」といいます。ほめても、のってきません。自信なさげな様子が気になります。森の声さんはどう思いますか?もし、何かありましたらお返事ください。 (2007.11.21 08:12:34)実際にお子さんに会ったわけでも、ご家庭での様子を見たわけではないので推測で書かせて頂きます。もしかしたら、息子さんは憂鬱質なのかも知れませんね。(今の状態はということです。)憂鬱質の子どもは寂しがり屋です。そして、恥ずかしがり屋で、失敗を恐れます。新しいものには挑戦せず、同じことが繰り返されることを好みます。絵本などでも新しいものより、もうすでに話しを知っている本を読んでもらいたがります。大人から見たらどうでもいいようなちょっとしたことでも大泣きし、なかなか元に戻りません。人が大勢いるところ、にぎやかなところは苦手です。いつまでも細かいことを覚えています。知らないところには行きたがりません。家の中ではおしゃべりなのに、知らない人がいる場では寡黙になります。杓子定規で融通性がありません。とにかくこだわるのです。そして、楽しいことより不安材料を探す方が得意です。それと、やせ形で寒がりです。くすぐると嫌がります。どうでしょうか、当てはまりますか。もし、当てはまるようでしたら憂鬱質かも知れませんね。でも、大丈夫ですよ。他の子より時間はかかりますが、せかさず、脅さず、安心させて、ゆっくりと付き合ってあげていれば10才を過ぎた頃から変身を始めますから。のんびり付き合ってあげて下さい。ただし、せかして、脅してしまうと、そのままかも知れませんけど・・・・。子育ての悩み相談で一番多いのが憂鬱質の子どものことに関してか、憂鬱質のお母さんからの相談です。
2007.11.21
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人間は考える動物です。でも、犬も猿も考えます。では、人間は犬や猿と同じなのかというとそんなことはありませんよね。犬も猿も人間のようには考えませんからね。じゃあ、人間と犬や猿との考え方の違いは何だかお分かりになりますか。それが“ものがたりの有無”なんです。確かに、犬や猿も考えます。でも、犬や猿は人間のように“ものがたり”を作ることはありません。犬や猿にとって“考える”ということは、ただ目的を遂行するための道具に過ぎないからです。でも、人間は“ものがたり”を作るために、また、“ものがたり”を求めて考えるのです。そして、その“ものがたり”に合わせて行動するのです。そして、時にはただ“ものがたり”を楽しむためにだけ考えたりします。そして、その“ものがたり”が文明と文化を生みだしてきたのです。およそ、芸術と呼ばれるものはその類です。ですから、何の役にも立ちません。芸術だけではありません。物のものがたりを紡ぐのが科学であり、感情のものがたりを紡ぐのが文学であり、感覚のものがたりを紡ぐのが詩であり、意味のものがたりを紡ぐのが哲学であり、生命のものがたりを紡ぐのが宗教なんです。そもそも、人間にとっては“考える”ということがそのまま“ものがたり”を紡ぐことなんです。だから、10人が考えれば10通りの答えが出てくるのです。そこが機械とは違うところです。そして、学者、芸術家、哲学者、文学者と呼ばれる人たちはそのものがたりを紡ぐのが大好きな人たちです。このように、人間は“ものがたりの世界”に生きる生き物なんです。それは、養老さん的に言うと“脳の中の世界に生きる動物”だということです。だから、意識して自然に合わせることをしていないと、どんどん自然から離れていってしまうのです。でも、犬や猿は決して自然から離れるようなことは考えません。彼らは自然に適合するために考えるのです。彼らにとっては自然こそが“ものがたり”だからです。人間でも、2,3才頃(反抗期)までの状態がこれに近いような気がします。でも、この時期を境に、自然に対して反応するような形で心の中に“ものがたり”が目覚め始めます。そうして、次第にものがたりの世界の中に生きるようになるのです。それがファンタジーなのです。心の目覚めです。この時期の反抗期は母親からの自立だけでなく、同時に自然からの自立の意味もあるのです。幼児にとっては母親と自然は一つながりのものだからです。そして、母親に反抗するように虫を殺し、草花をちぎり、棒を振り回し始めます。(ですから、それを大人の価値観だけで一方的に止めてはいけないのです。)でも、この時期に正しい“ものがたり”の世界に導いてあげないと子どもは自分だけの“ものがたり”の中に閉じこめられて出てくることが出来なくなってしまいます。簡単に言うと、それが“自己中心的なものがたり”なのです。そして、今人類全体がその“自己中心的なものがたり”の世界の中に閉じこめられてしまっています。人間は、心の中のものがたりに従って生きていますが、でも、現実にはそれも“自然という大きなものがたり”の中で起きている小さなものがたりに過ぎないのです。つまり、人間の心の中のものがたりは自然という大きなものがたりの中の劇中劇なんです。でも、人間は劇中劇であることを忘れてしまって大きなものがたりを壊し始めています。でも、自然という大きなものがたりが崩れたら、その中の劇中劇としての人間のものがたりも崩れます。反抗期に子どもは自然と対立します。虫を殺すのも、虫を怖がるのも、ドロンコを嫌がるのもその現れです。でも、その中で遊ぶことを通して、自然のものがたりを聞くことで、また子どもは自然のものがたりの一部として戻ってくることが出来るのです。母親に反抗していた子どもが、やがてまた母親に甘え始めるようなものです。母親に反抗し始めた時に、“この子は私が嫌いなんだ”と子どもを自分から遠ざけてしまったら、二度と関係は元に戻らないのです。反抗期はその相手との新しいものがたりの始まりのきっかけなんです。ですから、大人が新しいものがたりに導いてあげる必要があるのです。昔から、自然の中で遊ぶこと、また昔話、民話、メルヘン、そして宗教と呼ばれるものがその役割を果たしていたのです。
2007.11.20
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(昨日からの続きです。)先日はファンタジーの世界のことを書きました。幼児期はファンタジーの世界に住んでいて、それがやがて内側に取り込まれて大人の心になるということです。でも、だからといってそのファンタジーの世界を積極的に冒険し、探検し、様々な体験をし、勇気を、喜びを、そして悲しみを体験できる子はそれほど多くありません。多くの子どもたちがファンタジーの世界の中でも冒険の旅に出ず、狭い部屋の中に閉じこもっておもちゃで遊んでいます。それは、心の中でも現実世界でも同じことをしているということです。心の中の世界と響き合うように現実の世界があるからです。子どもにとっては心の中と外は一つながりなんです。全く当たり前のことですが、心の中で大切にしていることは現実世界の中でも大切にします。心の中で嫌いなものは現実世界でも嫌いです。心の中で大切な役割を果たしているものは現実世界の中でも大切な役割を果たしています。繰り返しますが、これは全く当たり前のことですよね。それでも、大人は自我の働きがあるので嫌いでも好きなように振る舞ったり、楽しくないのに楽しいように振る舞うことができます。(但し、それをやり続けていると心が壊れますけど・・・。)でも、子どもにはそんな器用なことなどできません。それはつまり、子どもの表情、言葉、行動は子どもの心そのものだということです。子どもは自分の心をそのまま生きているのです。だとしたら、しつけや教育などで子どもの行動に関わろうとするなら、子どもの心に働きかけるしか方法はないはずです。当然、叱っても、叩いても、説得しても無駄です。そんなことをしたら、子どもは心を閉ざしてしまってよけいに大人の想いが届かなくなってしまいます。それで神戸の事件以来、「心の教育」などという言葉が流行ったのでしょうが、でも、みんな心の教育のやり方など分かりません。それで、テレビの「がんこちゃん」や様々な道徳的なビデオを見せたりしていましたが、最近ではその「心の教育」も下火になって「学力向上」の方にみんなの興味が移ってしまいました。でも、どんなに道徳的なビデオを見せても、子どもは(大人も)自分の心の中にあるものには反応しますが、心の中に無いものには反応しないのです。英語を理解できない人は英語が聞こえても聴こうとはしません。聞いても無駄だということを知っているからです。ブランドに興味のない人は他の人の持ち物のブランドなど見ようとしません。鳥に興味のない子は鳥など見ようとはしません。優しさに興味のない子は優しさなど見ようとしません。勇気に興味のない子は勇気など見ようとしません。つまり、その子どもの心の中の状態を無視して道徳的なビデオを見せたり、素敵なお話しを聞かせても全く無駄だと言うことです。道徳的なビデオを見て、道徳的な共感を感じる子は道徳的な子どもに限られてしまうからです。だから、子どもと関わろうとするのならまずその子どもの心の中の状態を知るところから始める必要があるのです。その時、大きなポイントになるのがその子どもの“心の中のものがたり”なんです。(ここでは、本になって誰でも知っているものがたりを“物語”と漢字で書きますが、形に現れていない心の中のものがたりは“ものがたり”とひらがな表記します。)実は、人間は自分の心のものがたりの筋に合わせて、情報を取り入れたり、感じたり、考えたり、行動しているのです。ですから、同じ場所に行って同じ体験をしても、その筋に合わせて違ったものを吸収しているわけです。優しそうな人を見た時、“優しそうで素敵な人だ、友達になりたい”と感じる人もいれば、“きっとあれは表の顔だ、あまり愛想がいい人は気を付けた方がいいぞ”と感じる人もいます。さらには何にも感じない人もいます。そういうことはその人の心の中の“ものがたり”によって決まってしまうのです。また“ものがたり”がちゃんと展開している子と、展開していない子がいます。“ものがたり”が展開している子は、話しが進んでいきますが、展開していない子はいつまでも同じシーンから抜け出すことが出来ません。次の展開がないのです。そういう子どもは色々な体験をしても“べつに”という感覚しか生まれません。そして、未来を語りません。“ものがたり”が展開していかないので体験が心の中に吸収されないのです。それはつまり、ものがたりが展開しないので、新しい登場人物は必要がないということです。そして、展開していかないので未来のことなど語りようがないのです。“ものがたり”が展開している子どもはいつまでも同じ所に留まっていることはしません。そして、新しい要素を色々と取り入れて、どんどん“ものがたり”が豊かになっていきます。それがつまり、学ぶということであり、考えると言うことであり、成長するということなのです。(考えない子どもは成長できません。)また、登場人物が自己中心的で、排他的な場合は自分中心のものがたりしか受け付けません。それが、“恐怖”とか“悲しみ”という登場人物(?)です。彼らが主役になってしまうと、あまりに自己主張が強いので話しが先に進まなくなってしまうのです。彼らは、ずーっと出ずっぱりで自分が言いたいことばかりを言い続けるのです。それは大人になっても続きます。その時、そのものがたりの主人公は牢獄に閉じこめられたままです。それに対して、喜びという登場人物は大勢の登場人物を受けいれ、多様な展開を促してくれます。それだけではありません。恐怖とか悲しみといった登場人物が登場していなくても、喜びという登場人物がいないと話しが展開していかないのです。それは、“喜び”という登場人物はその心の持ち主の化身であり、ものがたりの主人公だからです。主人公が“喜び”という役で登場しない限り、その心の中のものがたりは未来に向かって展開していかないのです。でも、大切なことはそれだけではありません。ものがたりを展開させるためにはものがたりを紡ぐ技術が必要だからです。ということで、明日に続きます。
2007.11.19
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私は、造形、遊び、学びなど様々な形で子どもと関わってきました。(以前、算数クラブというものもやっていました。)そのような体験を通して強く感じるようになったのは、「物語」が子どもの成長においてものすごく重要な役割を果たしているということなんです。人は自分の心の中の物語に従って考えたり、感じたり、行動したりしています。心の中の物語の中で小鳥がいてさえずっていれば、その子は森の中で小鳥の声を聴くことが出来ます。子どもの心の中に小鳥がいなければ、子どもは小鳥の声を聴くことがないでしょう。ただし、ここでは耳に聞こえると言うことではなく心にきこえるということです。耳にきこえるかどうかは単なる聴覚の問題です。最近、絵を描いても手を描かない子どもたちのことが問題になっていますが、それも同じです。その子の心の中の物語の中の自分に手がないから手をかかないのです。<続きます>
2007.11.18
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昨日も書いたように、私は全く普通の育ちをした普通の子どもでした。予想を裏切って申し訳ないのですが、お笑いのきりんさんのような壮絶な体験をしたわけでも(彼は中学生でホームレスになりました)、虐待を受けたり、両親が離婚したなどと言うような特別に悲しい体験をしたわけでもありません。ただ、小さい時から生命に感応する力は強かったように思います。それは、生きているものに対してだけでなく、山や、海や、風のようなものに対してでもです。また、視点を移動することも得意でした。例えば、空を飛んでいる鳥を見ながらその鳥が見ている風景をイメージするというようなことです。月を見ながら月から見える地球をイメージするというようなことです。原始人になって世界を見てみたり、木になったり、風になったりというようなことです。自然の中で一人で遊ぶことが多かったのでそういう遊び癖が付いたのかも知れません。それで、宮沢賢治に共感を覚えるのです。同じ仲間の匂いがするのです。中学生の頃に賢治の写真を見て、“あ、おんなじだ”と感じたことを覚えています。もちろん、あんな天才ではなく、もっともっとスケールは小さいですけどね。ちなみに、R.シュタイナーにも同じ匂いを感じます。もし、その通りだとすると、シュタイナーの言葉は頭で理解しても無駄だということになります。つまり、彼は理論を書いているのではなく、自分自身が自分の感覚を通して実際に体験したことを書いていることになるからです。それはつまり、科学で彼の言葉を解釈することは見当違いだということです。科学は世界を観察する方法ですが、シュタイナーが説いたのは“世界の体験の仕方”なんです。そして、実際に人間が生きているのも、子どもが成長するのもその体験の世界の方なんです。だから彼の本を何十冊も読んで、全部暗記したとしても何の役にも立ちません。(これは私の個人的なシュタイナー理解です。異論、反論あるかもしれませんが、私にはそう思えるということです。)これも全く私の個人的な理解ですけど、モンテッソーリは“子どもを観察する方法”によって子どもの育て方を考え、シュタイナーは“子どもを体験する方法”で子どもの育て方を考えたように思うのです。だから、“共感”ということを非常に大切にするのです。そして、その体験を通して考えるということが私の考え方の基本でもあります。子どものことを考える時には子どもになってその感覚に従って思考します。ワークをする時も相手の感覚を感じながら進めます。そして、だから気質の事を考えるのが非常に面白いのです。胆汁になったり、憂鬱になったりして世界を見てみるのです。ちなみに、この方法は特別不思議な方法ではありません。古代ではみんな普通にこの方法で世界のことを知ろうとしていたのです。それが神話の世界であり、宗教の世界という形につながったのです。だから、私が特別な才能を持っていると言うことではありません。本来、誰にでも出来ることなんです。ただ、学校で学んだ科学的な意識がその古代の知恵が働き出すのを抑えているだけなんです。そして、子どもはその科学的な意識がないので、古代人の知恵を使うことが出来るのです。但し、シュタイナーのようなことまで出来る人は多くはないと思います。彼が古代に生まれていたらシャーマンか預言者になっていたでしょうね。ワークをしていると、本当に苦しい、壮絶な子ども時代を送ってきた人とも出会いますが、自分が体験したことのないことでも、素直に受けいれることが出来ます。自分というものにこだわりがないからでしょう。だから、私にはすごい仕事は出来ないでしょうが、苦しんでいる人を支える助けはできそうです。それが私の役割なんでしょうね。
2007.11.17
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お菓子さんから森の声さんは、どうしてこういうことに興味を持つようになったのですか?ご自身はどういう育てられ方をしたのですか?(もし以前にブログででも書かれてたらすいません)ご迷惑でなければ聞かせていただきたいなあ、と思います。というコメントを頂いたので、恥ずかしながら少し書かせて頂きます。結論から言えば、何にも特別な育てられ方などしていません。退屈なほど平穏無事な生活です。弟が一人います。ただ、実家が鎌倉で裏が山、海まで歩いて7分くらいという自然に恵まれた中で育ちました。(材木座2丁目、来迎寺の裏です。)周囲に子どもが少なかったので一人で遊んだ記憶の方が多いくらいです。ただ、母親の話では変わった子どもだったそうです。母親が弟を叱ると弟をかばって、離れなかったようです。弟の代わりに叩かれても弟をかばって動かないので、“弟のことを叱ることが出来なかった”と言われます。それと、ひどい質問魔で手を焼いたようです。それとモアイさんと同じで分解魔でもありました。また、本だけが友達という状態で、本があれば何もいらないという子どもでした。また、多動児で小学一年の時には特殊学級に入れられそうになったそうです。授業中、いつもフラフラしていて、でも、先生が質問するとちゃんと答えるので先生もあまり叱ることが出来なかったようです。(多動児は今では珍しくありませんが、昔は珍しかったようです。多動児のはしりかな・・・。)ただ、大人になって他の人に色々と聞いたらどうも夢が人とは変わっていたようです。夢の中で他の人になっている夢をよく見たのです。(時代も性別も、どうやら国も違うようです)そして、繰り返し同じような夢をよく見ました。ほとんどが苦しい夢です。ただし、私自身が苦しめられる夢ではなく、周囲で起きていることに苦しんでいる夢です。ある時は収容所の中にいました。そして、毎日仲間が連れ出されて処刑されていきます。何も出来ません。そういう苦しさです。人が人を食べている夢、原爆の夢もよく見ました。それが、かなり具体的でリアルなのです。夢に伴う荒唐無稽さがありません。怖いですよー・・・・。夢らしい夢(?)といえば、UFOの夢とか、銀河と銀河がぶつかっている夢なども見ましたね。奇麗でしたよ。夢の話しはもっともっとあるのですが、このブログには合わないので、ここいらでやめておきます。ということで、これ以上つっこまないようにお願いします。
2007.11.16
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ねいろさんがよく私にはあの世界の記憶がないけど、どうして?と思っていました。大人の魔法だったのですね。と書いて下さいましたが、人間は成長の節目を通り過ぎる時に過去のことを忘れるように出来ているようなのです。3才を過ぎるとそれまでのことを忘れます。7才を過ぎるとそれまでのことを忘れます。想い出せと言われれば思い出せるのでしょうが、それ以前のことには興味がなくなってしまうのです。そして、次第にそのまま忘れていきます。不思議なことです。生まれ変わる時も、前世の記憶は忘れて出て来ると言われています。(それが事実かどうかはともかくとして、そう言われているということです。)なにやら、“忘却の水”というものを飲まなければならないそうなのです。それを飲まないでそのことを記憶していると言っている人がそのようなことを言っていました。但し、真偽は分かりません。でも、人間が成長の節目を通り過ぎるとそれ以前のことを急激に忘れ始めるというのは確かなことなのではないかと思っています。意識が未来に向かって開けてしまうからでしょうか。価値観が変わってしまうからでしょうか。知性の仕組みが変わってしまうからでしょうか。思考が再構成されるからでしょうか。まあ、はっきりとしたところは分かりませんが、それが成長の仕組みなんでしょうね。ですから、忘れると言うことにも何かしらの深い意味があるのでしょう。でも、多くの人を見ていると、それをもう一度想い出すことで更に大きく成長をすることができるような気がするのです。ですから、大人になってから忘れていた子どもの頃のことを想い出すことが出来る人はそのことでぐっと成長することができるのです。まるでシュタイナー教育ですね。シュタイナー教育でも“忘れなさい”と言いますからね。一度忘れてしまう。そして、もう一度それを想い出す時、本当にその意味が身に付いていくのです。多分、古いことを忘れないことには新しいことが入っていかないからなのでしょうね。そして、想い出すことで古いことと新しいことが融合するのでしょう。そうすると、学んだことがしっかりと定着するのではないかと思います。忘れないようにしているだけでは、ただ知識が溜まっていくばかりです。
2007.11.15
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子どもはいつでも荒唐無稽なことを考えています。そして、見えないものを見、聞こえない音を聴き、触れることが出来ない何かに触れています。実際、小さな小人さんが見える子、また見えない友達と遊ぶ子どもは少なくありません。そういう話しを講演会などですると、後で“実はうちの子も・・”と証言してくださるお母さんも少なくないのです。(但し、困ったこととして・・・)また、子どもが一人で遊んでいるところをよく見ているとその事実を知ることが出来ます。ちなみに、興味、好奇心、不思議感覚は、見えないものを見、聞こえない音を聴き、触れることが出来ない何かに触れることから引き起こされます。木を見て木しか見えなければなんの不思議もないのです。木を見て、その内側で働いている何らかの働きを感じるから不思議を感じるのです。ですから、それらを感じることが出来ない子は、興味とか好奇心の働きが弱くなります。子どもがドロンコに触る時、子どもが感じているのはドロンコの感触だけではありません。子どもが赤い色を見る時、子どもが見ているのは“赤”という色だけではありません。子どもが、木の枝を見る時、見えているのはただの一本の枝ではありません。子どもの時に見ていた海は、大人になった今見ることが出来る海とは同じものではなかったのです。今、大人になってしまった私には子どもの時に見ていたものは見えません。でも、目に見えるもの以上の何かが見え、五感で感じるもの以上の何かを感じていたという記憶はあるのです。その不思議な感覚だけは残っているのです。ビー玉のきらめきにうっとりとしていた記憶、水溜まりに映る空と雲に心を奪われていた記憶が残っているのです。だから、それを忘れてしまっている大人たちにもそのことを想い出して欲しいのです。(それが宮沢賢治の世界です。)お人形に生命を感じるのも同じです。うちの子も(現在中2)、母親が作ったヴァルドルフ人形といつも遊んでいました。ご飯の時も一緒で、食べ物をお口に持っていくので、今では口の周りだけが黒くなってしまっています。また、小さなタオルを手放せない子もいっぱいいます。奇麗なタオルじゃありませんよ。多くの場合、ボロボロになってしまっています。一日中ずーっと握りしめているのです。大人の感覚では、そんなボロぞうきんのようなタオルより新しいタオルの方がいいにきまっていますが、子どもにはそのタオルでないとだめなんです。なぜならそのタオルにしか魔法の力がないからです。夜の闇が怖いのもその闇の中にうごめく何かを感じているからです。では、ここでどうして子ども達は見えないものを見、聞こえない音を聴き、触れることが出来ない何かに触れることができるのかということを少し説明しておきます。(謎解きをするのが私の癖なんです。)実は、それは子どもの心と現実の間にはっきりとした境目がないからなのです。子どもは夢の中のような状態で現実を生きているのです。言い換えると、私達は子どもの夢の中の登場人物なんです。それはただの空想とは違います。子どもにとってはそれが現実なのです。大人でも、闇を見たり、不思議な音を聴いた時には心の中に何かが蠢きます。でも、大人の場合はその感覚は心の中だけに閉じこめられています。でも、子どもはその感覚が実体化する世界に生きているのです。それはつまり、心の中のうごめきを実際に見たり感じたりすることが出来る能力があるということです。とにかく夢の中なんですから。この辺りの説明は難しいのですがもう少しお付き合い下さい。大人にとって心は自分の内側にあります。でも、子どもの時には心の中に自分がいるのです。つまり、“自分”という感覚と、“心”との関係が大人と子どもとではひっくり返っているのです。だから大人は自分の心を見つめることが出来ますが、子どもは自分の心を見つめることなど出来ないのです。分かりやすく言うと、子どもは心を丸出しにして生きていると言ってもいいかも知れません。心が裸ん坊の状態なんです。だから、すぐに傷が付いてしまいます。子どもにとって、自分を取り巻いている心の世界は神にも悪魔にも世界の果てにまでつながった広大無辺な世界なのです。それがファンタジーの世界です。そして、子どもはその心の世界を冒険しながら成長するのです。ですから、ファンタジーは空想とは違うのです。そして、だからこそファンタジーを通して子どもと関わることが子どもの心の育ちを支えてくれるのです。ファンタジーの中で起きていることは実際に子どもの心の中で起きていることだからです。そして、ファンタジーの世界を否定することは子どもを心の中の牢屋に閉じこめることになってしまうのです。太古の昔、生命は海の中で生きていました。やがて生命は陸上を目指しますが、でも生命には海が必要です。海の中でしか生きることが出来ないからです。それで、どうしたのかというと海を自分のからだの内側に取り込んだのです。そして、海に対して開放されていたからだを、海を閉じこめるために閉じたのです。そのおかげで生命は地上に出ることが出来ました。でも、そのために生命は重力と戦わなければならなくなりました。そして、海の大切さを忘れるようになりました。その“海”と同じことが“心”にも起きているのです。その最終的な変化は思春期に起きます。(7才頃から徐々に陸上化が進行していきます。心にも両生類の時期、爬虫類の時期があるのです。)外側に広がっていた心の世界(主観の世界)を、大人の世界(客観の世界・物質の世界)に出ていくために、内側へと取り込んでいくのです。それが私達が“心”と呼んでいるものなのです。「7才までは夢の中」という言葉は大分知れ渡りましたが、この言葉だけだと7才を過ぎたら徐々に夢から覚めて大人になっていくように思えますよね。でも、夢から覚めるのではなく、その夢が子どもの内側に取り入れられて心になっていくのです。7才までの夢は心の原始的な形態なのです。大人でも、夜夢を見てる時にはその夢がそのままあなたの心でしょ。子どもの見ている夢、つまりファンタジーの世界は客観の世界、物質の論理の中では存在出来ないのです。魚が陸の上では生活できないのと同じです。それがエンデが書いた「ネバー・エンディング・ストーリー」のファンタジェンであり、虚無の力なんです。これと同じことが人類の歴史の中でも起こってきたのだろうと思います。だから、太古の人の考え方と子どもの考え方が似ているのです。肉体が進化して変化してきたように、心や精神も進化して変化してきたのです。子どもはからだでも心でもその進化を繰り返しているのです。でも、大人になって心が個人的なものになると同時に人々はその心から魔法のエネルギーを受け取ることが出来なくなってしまういます。ただ、大人になっても心が神様や宇宙へとつながっていた時の感覚を覚えている人だけがそのエネルギーを受け取ることが出来るのです。でも、実は人は誰でもその気になればその感覚を想い出すことが出来るのです。だって、子どもの頃はみんなその世界の住人だったのですから。
2007.11.14
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暗いところ、黒いもの、虫を怖がる子どもたちがいっぱいいます。虫に関してはその逆に大好きな子もいっぱいいます。でも、いずれにしてもそこに子どもの生理的な感覚に強く響く何かがあることだけは確かです。でも、一般的に大人になるとそういうものは怖くなくなります。(大人でも怖い人たちもいますけど・・・。)子どもたちはなぜそのようなものを怖がるのだと思いますか。オオカミとか、ナイフとかを怖がるのなら理解できますが、闇や黒や虫は直接危害を加えるわけではありません。それでも、怖いのです。また、黒を怖がらない子でも、子どもは大人以上に色にはこだわります。夜、一人でお便所に行けない子どもはいっぱいいます。また、子どもにとって自分で拾ったどんぐり、友達にもらった小石は特別な小石です。他のどんぐり、小石とは全く違うものです。でも、それは大人には分からない感覚です。ですから、子どもが拾ったどんぐりをなくして泣いている時にも、すぐ違うどんぐりを拾ってなだめようとします。でも、子どもは“あのどんぐりじゃなきゃ嫌だ!”と言い張ります。また、訳の分からないガラクタをいっぱい集めます。ビー玉、王冠、木の枝、小石、クギなどなどです。また、転んで泣いている時に“イタイのイタイのとんでいけー”とやると、実際に泣きやむことがよくあります。また、自分で自分流の儀式を作ってこだわっている子もいます。不思議ではありませんか。これはどの子でも同じです。そして、世界中で同じです。(調べてませんが分かります。)でも、ほとんどの人が大人になるとそういう子ども頃の感覚を忘れてしまいます。その感覚が残っている人もいますが多くはありません。詩人と呼ばれる人たちはその数少ない人たちです。その感覚が残っている人は子どもを楽しめますが、その感覚が消えてしまった人は子どもを楽しむことが出来ません。その感覚はどこから来ているのかというと、実はそれは子どもが魔法の世界の住人だからなんです。子どもには色の魔法、光の魔法、生命の魔法、言葉の魔法、儀式の魔法が見えるのです。そして、その魔法の力を感じる感性があるのです。そして、実際その魔法の力に支配されています。そして、子どもの感覚が残っている人は子どもが遊んでいる魔法の世界を子どもと一緒に感じることが出来るから楽しいのです。これは理屈ではありません。生理的感覚なのです。だから、その感覚が残っていない人にこの魔法の世界のことを説明しても理解することが出来ません。熱感覚を持っていない人に“暖かい”ということを説明しても理解できないのと同じです。そして、そういう人には子どもが“馬鹿なこと”を言ったり、やっているようにしか思えません。でも、大人がその子どもの感覚をバカにして、無視して、“正しいこと”を教えようとすると、子どもはその魔法力が失われて、自由に感じたり、考えたり出来なくなります。その時、大人は子どもに対して“暗黒の魔導師”になってしまうのです。そして子どもは一生消えない呪縛を受けることになります。あんたはバカだあんたなんか嫌いだあんたなんか生まなきゃ良かったあんたのせいで私の人生がめちゃめちゃだあんたは頭が悪いあんたはグズだなどなど(もっともっといっぱいありますが書き切れません)これらの言葉は、暗黒の魔導師が子どもの自由を奪うためによく使う呪文です。そして、その呪縛を受けると子どもは自分で自分を縛る魔法しか使えなくなります。そして、“ぼくバカだから出来ない”とか、“つかれた”、“かったるい”、“めんどくさい”、“大人になりたくない”などと言うようになります。また、夢を語らなくなります。この魔法は大人が思っている以上に子どもに対しては効き目があるのです。その黒魔術を解くためには、王子様のキス、いやいや・・・本当に自分のことを想ってくれる人の出現が必要なのです。え、そんな人いない。目の前にいませんか。あなたのお子さんがその魔術を解いてくれる白魔術師ですよ。それを信じて、子どもに任せなさい。縛ろうとしてはいけません。
2007.11.13
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人類はほんの400年前まで天動説を信じていました。世界レベルで見たらつい最近まで天動説を信じていた人が大部分でしょう。そして、いまでも天動説を信じている人はいっぱいいると思います。400年というのは長いようですが、数万年といわれる人類の歴史の中では“ついさっき”という感じです。じゃあ、それまでの人類はバカだったのか、論理的ではなかったのか、知性はなかったのかというとそんなことはありませんよね。ましてや地動説を知っている子どもの方が天動説を信じていたアリストテレスやソクラテス、そして釈迦やキリストより賢かったなどと考える人はいないでしょう。天動説と地動説の違いはただ、そのことを検証することが出来る技術があるかないかという違いに過ぎません。知性とは関係ありません。1000年前でも1万年前でも、誰にでも明らかな形で地球は丸くて動いているということを確認することが出来る手段があれば、地動説は生まれていたのです。賢いということは自分の能力をちゃんと使いこなして、様々な状況に対処したり、何かを作り出したり、新しいことを考えたりすることが出来るということです。また、体験から学ぶ能力も賢さの一つでしょう。知識はその時の道具に過ぎません。ですから、子どもが持っていない能力を使えないからと言ってそれは“賢くない”ということではありません。子どもがサンタクロースがいると信じていたり、魔法があると信じていても、それは賢くないと言うこととは無関係です。また逆に、ブラックホールがどうとか、総理大臣がどうとか語る子どもが賢いわけでもありません。14才頃までの子どもは客観的に思考することが苦手です。ましてや7才前の子どもにはそんなことできません。7才までの子どもたちは感覚において主観的であり、14才までの子どもたちは感情において主観的です。つまり、7才までの子どもは自分が感じたことが全てなんです。他の人も同じように感じたり、また違うように感じているかも知れないなどということは分かりません。説明しても分かりません。まだそういう感覚が目覚めていないからです。ですから、自分の痛みは分かっても、他の子どもの中の痛みまでは分からないのです。また、自分が歩くと付いてくるお月様が、他の人にも付いてくるなどと言うことも想像できません。主観的であるということはどういう事であるのかというと、“疑う”ということができないという状態なんです。主観的であるということはそういうことです。自分の感覚、自分の感情を疑うことが出来ないのです。そのような時期の子どもたちに自分では検証の出来ない知識を教えることは自分を疑うことを教えるようなものなんです。子どもはその全ての能力を使って一生懸命に考えても、地動説を引き出すことはできません。むしろ、子どもの感覚、思考を総動員すればどうしても天動説にしか行き着かないのです。自分が立っている大地が動いているなどと言うことは子どもの思考の範囲外なんです。それは子どもが自分の親を疑うことが出来ないのと同じです。そして、子どもを育てる場合に大切なことはその子どもの感覚、感性を認め、肯定してあげることなんです。じゃあ、“天動説を教えるのか”というとそういうことではありません。子どもが幼い時には天動説も、地動説も教える必要がないということです。実は天動説も、子どもにはよく分からないのです。多分、天動説という概念は、地動説が生まれたからそれに対応して生まれた概念なのではないかと思うのです。つまり、概念的に天動説は地動説とセットになっているのです。子どもが自分の感覚で分かるのは、お月様や星は動いている。太陽も動いている。地面はどこまでも続いている、ということだけです。今日の太陽と明日の太陽が同じものであるということすら分からないかもしれません。そういう点では子どもは古代人と同じなんです。それを、太陽が動いているように見えるけど、実は地面の方が動いていて、太陽は動いているように見えるだけなんだよ。などと言われたら子どもは自分の感覚を信じることが出来なくなってしまいます。実際、“一体この世界はどのような構造になっているのだろう”などと考え始めるのは多分10才を過ぎてからだろうと思います。それまでの子どもたちは“構造”というもの自体に興味がないのです。子どもの時の育ちに必要なことは、自分の感覚を通して直接この世界と出会うことなんです。それを、知識を教えてしまったら、感覚を通して世界と出会うことが出来なくなってしまうのです。感覚を通して様々なものと出会い、そこから知識、法則などを抽出する能力を育てるのです。そのような学びがあるから、大きくなって知識や法則を学んだ時にそれを今度は現実世界の中に展開することが出来るわけです。現実と知識はつながっているということを体験的に知っているからです。
2007.11.12
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昨日のブログに対してすももさんから以下のようなコメントがありました。>考えたことを流暢に、理路整然と話す7歳前の子どもたちにも、けっこう出合うので、驚くことがあります。>>頭が先に発達しているのでしょうか?>以前から疑問でした。それで、以下のように返事を書いたのですが、今日はこのことについてちょっと書きます。そのような子どもの言葉は理路整然ですが感覚に響くリアリティーがありません。そのような子どもは知識を頭の中でつなげているだけです。自分が実際に何かをやったり、感じたり、発見したりして考えているのではないのです。私の知っているそのようなタイプの子どもは大抵“ニヒル”です。確かに、大人のような言葉と理屈で難しいことをいう年長さんくらいの幼児は存在しています。それで、大人は“頭いいな”とか、“賢い子だな”と思うのでしょうが、それは勘違いです。それはそういう子どもにちょっと質問をしてみればすぐ分かることです。例えば、政治経済や環境問題に関して難しいことを言う子がいます。また、地球は丸いとか、オバケなんかいないなどという子がいます。でも、その理由を聞いてみて下さい。大人の言葉の受け売り以上の説明はできません。つまり、そこに自分自身の頭で考えた形跡がないのです。だから、そういう子どもの言葉を変えさせるのは簡単です。実際にオバケを見たという人の話を聞かせれば変わってしまうのです。その言葉の真偽を検証する能力がないからです。だから、子どもを洗脳するのは非常に簡単なんです。それで、戦争の時も真っ先に子どもたちが洗脳されました。学校で・・・・。(昨日の朝日新聞に出ていましたが、現在その頃に子ども時代を過ごした人たちの自殺率が非常に高いらしいのです。私には何か関係があるように感じるのです。)中学生くらいになれば、図書館などに行って自分で真偽を確認する方法に気付きますが体験を通して考えるという習慣のない子はただ、大人の言葉を真似しているだけです。大人のように難しいことを言う子どもが賢いのではありません。オウムがどんなに立派なことを言っても賢くないのと同じです。どんなに荒唐無稽なことのように聞こえても、自分が体験したことを基に、自分の頭で考えて話すことが出来る子が賢いのです。人間の知性は天動説から始まるのが自然なんです。
2007.11.11
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今日は川崎の多摩市民館で親子遊びでした。まず、皆さんに確認したいことはただ成績のよい子を育てたいのかそれとも、学ぶことが好きで学習能力が高い子どもを育てたいのかということです。この二つは必ずしも一致しません。むしろ、子どもが小さい時には親が成績ばかりを気にしていると子どもは学ぶことが嫌いになっていきます。小学生くらいまでの子どもにとって“学ぶ”ということと“遊ぶ”ということの間には本質的な違いはありません。だから、子どもは遊ぶように学び、学ぶように遊びます。それは思春期前の子どもは自分を励ます自我の育ちが未熟なので、“楽しい”という感情が動かないと、能動的に動けないからです。でも、大人が成績ばかりを気にしていると、“学び”と“遊び”が分離されてしまいます。すると、楽しくなくなってしまうのです。そして、学ぶことが嫌いなります。学ぶことが嫌いになった子どもは考えることができないので、ただ暗記するだけで成績を上げようとします。なぜなら、子どもはそれが楽しいことなら考えることが出来るのですが、楽しくないことを考えることは出来ないのです。それが大人と子どもとの違いです。思春期前の子どもにとっては、感情が思考のエネルギーなんです。そして、勉強が嫌いになってしまった子どもは中学に入った辺りで困ったことになってしまいます。暗記では対応できなくなってくるからです。そこで、小学校の頃からの順位が入れ替わり始めます。(自分のことを言うのはなんですが、私は中学に入った時小学校の時より勉強が簡単になったと感じました。他のみんなが“中学って難しいよな”と言っているのが不思議でした。)ちなみに7才前の子どもはからだで考えます。だから、考えたことを説明できません。でも、ここで大きな問題があります。日本の学校は勉強が好きな子を育てることが目的ではなく、成績が高い子を育てることが目的だと言うことです。昨今の学力論争がそれを物語っています。その結果、みんな勉強が嫌いになってしまっています。
2007.11.10
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最初に、ママキャンさんのコメントへの返事で書いたことをご紹介してから、今日のブログに入ります。私は大人が子どもの興味に合わせることは早期教育だとは考えていません。大人の興味に子どもを合わせさせることが早期教育だと思っています。そういうことです。そこで何を教えるのかということとは関係していません。それは一人一人違います。子どもが興味を持ったことに、その興味の範囲内で答えるのなら子どもの育ちを阻害しないものです。ところが、世の中には子どもの興味に便乗して大人の興味をうまく押しつけようとする輩がいっぱいいます。それが早期教育です。*******************************kurariさんが以下のようにコメントを入れてくださいました。でも、いまだにどうして文字を覚えたのかは不思議でなりません。そして、とにかくなにごとにもやる気がものすごいんです。経験したことのなかった「なわとび」や「自転車」「鉄棒」など、普通の幼稚園がやってることをまったくやっていなかったのですべてが初体験なのですが、できなくってもぜんぜんくじける様子がなく、やる気になったら「なわとび」(前回しですけど)を一晩で飛べるようになりました。うちの三番目に似ていますね。まさしく幼児期に育てなければならない大切なことは、このkurariさんのお子さんのように、何ができると言うことではなく、何にでも前向きに取り組む意欲なんです。それが育っていれば、早くから始めた子など時期が来たらすぐに追いついちゃうし、追い抜いてしまうのです。簡単に言えば、人に押してもらって動く車と、自分のエンジンで動く車の違いです。幼児期はしっかりとしたエンジンを育てる時期なんです。ですから、この時期にスピード競争などさせてはいけないのです。エンジンが壊れてしまいます。子どもがあまりにのろいと、親はやきもきして待ちきれずについ押したくなってしまいます。親が押して動かしてしまえば確かに早く動くことが出来ます。でも、子どもは親が動かしてくれるのでエンジンが育たなくなってしまいます。自分のエンジンで動くよりずーっと早く、そして楽に動けますからね。でも、親が押すことが出来るのはせいぜい10才頃までです。つまり、子どもが素直に親の言うことを聞くことが出来る間だけです。思春期が近付き、自我が目覚め始めると、子どもは親の関わりをうっとうしく感じるようになります。そして、親の押しつけを拒否し始めるのです。そして、その頃から自分のエンジンで走らなければならなくなるのです。でも、そのエンジンが育つべき幼児期にしっかりとエンジンを育てていないので、親の補助がないと走れないのです。すると、反発しながら依存するというおかしな関係が生まれます。本当は思春期になって反発する気持ちが目覚めるようになったら精神的に自立していくのですが、でも、反発は生まれても、自立が出来ないのです。それでフラストレーションが溜まるようになります。よく、家庭内暴力をする子どもの話を聞きますが、暴力をふるうくらい嫌っているのなら自立すればいいのです。でも、その自立が出来ないのです。そして、自立が出来ないから暴力という形で自分の優位性を見せつけようとするのです。<続きます>
2007.11.09
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我が家もとうとう地デジを導入しました。チューナーを買って取り付け、アンテナの向きを変えました。幸いにうちのアンテナはロフトの天井に設置してあるので簡単に向きを変えることが出来ます。でも、ネットで地デジのことを調べれば調べるほど腹が立ってきます。特に、B-CASカードには国家的な陰謀すら感じます。幸いに我が家では17000円のチューナー代だけで済みましたが、お年寄りの世帯ではもっと大変なことになるでしょうね。慣れていない人には回線をつなげるだけで一苦労だし、また初期設定も出来ないでしょうね。ましてや屋根の上のアンテナの向きを変えるなんて事は素人には出来ないので総額かなりの出費になると思います。(UHF以外のアンテナだとアンテナ自体を変える必要があります。)それと、テレビごとにチューナーが必要になるというのも腹が立ちます。例えば、3台テレビを持っている人は三台とも地デジ対応テレビに変えるか、三台チューナーを買う必要があるわけです。アンテナの所に一台設置すればいいようにはできないのですか、と電気屋さんで聞きましたら、出来ないそうです。これは絶対に国家と経済界の陰謀です。****************************ということで、今日は子育てママさんからの以下のコメントに答えさせて頂きます。4歳の息子の友達が、しりとり遊びをしていて、すごいなあと思っていたら、ひらがな、カタカナもすらすら読んでいました。しかも足し算まででき衝撃をうけました。そのこのお母さんに聞くと教えてあげているそうです。うちの子と、差を感じてしまいまい、親の私がしてあげることがいろいろとあるのではないかと思っていました。でも親ががんばる必要ないのですね。子供を信じます。(2007.11.08 07:01:39)今や幼稚園児が文字の読み書きが出来るというのは半ば常識になりつつあります。そして、子育てママさんのお子さんのように、読み書きが出来ないと“小学校に行ってから困るわよ”と脅かす人がいっぱいいます。そして、幼稚園もそのようなニーズに応えてお勉強をいっぱい教えてくれるようになりました。そして、実際、お母さん達はお勉強をいっぱい教えてくれる幼稚園を積極的に選んでいるようです。茅ヶ崎でも今ではほとんどの幼稚園がお勉強を熱心に教えているようです。また、幼稚園で教えていない場合はお母さんが熱心に教えています。うちの四番目が出た幼稚園の子どもたちは昔はみんな文字を書くことなんかできませんでした。でも、今では多くの子どもたちが文字を書くことが出来ます。多分、今でも幼稚園では教えていないと思うので、お母さんが教えているのだと思います。でも、それで子どもたちの学力が上がったのかというと実際はその逆です。子どもたちの学力低下の原因をゆとり教育のせいにする人はいっぱいいますが、実際には全くそんなことありません。ゆとり教育で教える内容が減ったとしても、それは知識の不足という形で現れるだけです。そうですよね。でも、今子どもたちは学ぶ意欲そのものが低下してしまっているのです。テレビの影響で雑学はいっぱい知っているのですが、学ぶ楽しさを知っている子は本当に少数です。それが家庭での勉強時間、読書時間の減少に直結しています。塾などで強制的に勉強させられないと勉強しないのです。先日、ベネッセの子育て相談のHPを見ていたら、うちの子は文字をひらがなもカタカナも読み書きできるのに、自分で本を読まないのです。どうしてでしょうか。というような相談が載っていました。ここには、救いがたいほどの根本的な勘違いがあります。自転車に乗ることが出来るということと、自転車に乗って遠くまで行きたいと思うこととは全く別のことでしょ。そして、自転車に乗って遠くまで行きたいと思っている子は、すぐに乗ることが出来るようになってしまうのです。目標があるからです。それと、今の子どもたちは日本語をあまりにもしらなすぎます。教室の子ども達と会話していても、小学三年生でも“真ん中”とか“はじっこ”という言葉がよく理解できない子どもがいます。最近の子どもたちはこのように感覚とつながった言葉が理解できません。また、刃物の刃、峰、柄という言葉も、たき火の灰、ススという言葉も知らない子がいっぱいいます。最近では火も見たことがない子がいるのでしょうがないかも知れませんけど、でもこのような言葉を知らないと本を読んでも共感できないでしょうね。(IH調理器しかないという家も多いのです。)ちなみにこのような言葉は生活の中での様々な遊びを通して学ぶものです。大人の価値観に基づいた早期教育は子どもの心とからだと知性の育ちに偏りをもたらします。この偏りがまずいのです。遅れているだけならゆっくりでも追いつき、少しずつスピードを上げることが出来ますが、偏りが生じている子は、最初のうちは好調なんですが、思春期が近付くにつれ急激に減速したり、停止したり、時には逆戻りしてしまうのです。私の持論ですが、子どもは丸ごと育たないと学ぶ意欲も、また生きる意欲も育たないのです。<続きます>
2007.11.08
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昨日は“鍛える”という事について書いたので、今日は“育てる”について書いてみます。では、“育てる”ということはどういう事なんでしょうか。“鍛える”ということとどのように違うのでしょうか。まず、主人公が違います。鍛えるという場合は、“鍛える人”が主人公です。そして、鍛える意味、目標はその主人公が設定します。いい成績を取るためいい大学へはいるため素直で聞き分けのいい子にするため元気で社交的な子にするため落ち着いて大人しい子にするため音楽が得意な子にするためなどなどです。その目標に向かって鍛えるわけです。でも、育てる場合には子どもが主人公です。だから、大人は目標を設定しません。でも、目標がないと不安なので大人はつい鍛える方に傾いてしまいます。ですから、この育てるという方法の場合は、まず“子どもを信じる”という所から始める必要があるわけです。でも、そうは言っても子どもは言葉も分からないし、イタズラはするし、常識はないし、嘘はつくし、何を考えているか分かりません。だから、何を信じたらいいのか分からない人が出てきます。そしてまた、鍛えるという方に傾いていきます。でも、子どもを信じるということはそういうことではないのです。信じることが出来る理由があるから信じるのではないのです。逆なんです。子どもは信じられているから生き生きと成長することができるのです。生き生きと生きているから信じるのではなく、信じられているから生き生きとしてくるのです。そして、信じられているから自分で目標を見つけることが出来るのです。大人はそれをサポートすればいいのです。ただし、信じてもらっていない子は自分で目標を決めることが出来ません。だから、大人は目標を与えて、よけいに“鍛えなきゃ”と思ってしまうのです。それはまた子どものからだの中で働いている生命の働きを信じるということです。人間が人間に進化してきたのはその生命の働きによってです。誰かに鍛えられたからではありません。人間は生命の働きに支えられて自らの内なる力で人間に育ってきたのです。ですから、その働きを信じれば人間らしい人間に育つのです。そして、この生命の働きが信じられない人は、自分のことも信じられないのです。つまり、自分のことを信じることが出来ない人が子どもを管理し、鍛えようとするのです。不安だからです。
2007.11.07
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世の中には“鍛える”と“育てる”という二つの考え方があります。この二つの考え方は、教育や子育てそして様々な心とからだのエクササイズ、さらには人間相手だけでなく様々な動物と関わるような場でも使われている考え方です。そして、ビリーズ・ブート・キャンプは鍛えるという考え方です。だから、あれを一生懸命にやれば鍛えられた体を手に入れることが出来ます。鍛えるという考え方では目標は一つです。個人的な価値観などというものは考慮されません。ですから、比較によって簡単に評価することができます。ぷっくりとしたお腹と、割れたお腹ではどちらが頑張っているのかは誰にだって分かることです。ここでは、“僕はぷっくりが好きなんです”などという考え方は認められないのです。鍛えるという考え方では結果によって評価されます。結果が出なければ頑張りが足らないということです。そこに、個人的な個性や価値観は関係ありません。とにかく一つの価値観しか認めない世界ですから。そして、鍛えるという場では脅しや励ましが多用されます。そして、マイペースということは受けいれられません。追いつけなければ脅かされるか励まされます。そして必ずトレーナーが必要になります。一人ではさぼったり、自分勝手なことをやってしまうからです。また、努力の結果を判定する人が必要だからです。つまり、鍛えるという立場では監視し、脅し、励ます人がいないと人間というものは努力をやめてしまうものだという考え方が根底にあります。でも、ビリーズ・ブート・キャンプは自分の意志で参加するわけですからそれはそれでOKです。自分を鍛えたい人だけがやればいいのです。嫌だったらやめればいいのです。でも、これが子育てや教育の場だったらどうしましょうか。子どもは逃げられませんよね。ちなみに今流行の「百マス計算」もこの鍛える考え方だと思います。というより、“学校”という場そのものが“鍛える”という考え方で運営されているようです。子ども一人一人のペースに合わせていないと言うことがその証拠です。そして、子どもはビリーズ・ブート・キャンプのように、必死になって学校のペースに合わせようと努力しています。確かに、大人の中には誰かに鍛えて欲しいと思っている人もいます。でも、“鍛えて欲しい”などと思っている子どもはいません。少なくとも、14才以前の子どもたちには考えられません。もし、そういう子どもがいたとしたら大人が意識コントロールをしています。だから、その場合は個人単位ではなく集団でそのように考えています。意識コントロールは集団の中でないと効果がないからです。また、子どもを大人に一方的に依存する状態にすればそのように考える子どもが出てくる可能性もあります。でも、いずれも子どもの成長という視点から見たら自然な状態ではありません。だって、子どもは一人一人みんな違うのですから。学校という場は、ミカン、リンゴ、イチゴ、スイカ、パイナップルなどを一緒に育てている農園のようなものです。それをたった一つの方法で育てようとしているのです。どう考えてもこれは不自然ですよね。<続きます>
2007.11.06
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昨日書いたビリーズブートキャンプ、ジャズダンス、エアロビなども“痩せるため”などというような理由によってではなく、それ自体の活動を楽しむことができればOKだと思います。そして、実際あの早いリズムが自分の心のリズムに近い人もいて、そのような人にとってはあの運動が非常に楽しいと思います。実は、私は痩せるとか体力を付けるというようなことは、生活改善の結果として求めることであって、お金を払ってそれだけの目的のために教室に通うのはなんかおかしいのではないかと思っているのです。極端な場合は、そういう教室にも通わず手術でパッと痩せてしまう人もいますが、それと近いものを感じるのです。それは西洋的な対症療法に通じる考え方です。電車に乗ればみんな席を奪い合っています。あれを立っているだけでかなりのエネルギー消費ができます。町や駅の中でもエスカレーターやエレベーターを使わずに階段を使う。近所に行く時は、なるべく車を使わず自転車か歩きにする。生活の中で横着をしない。姿勢を良くする。呼吸を深くする。両手を使う、手先だけで動かない、全身を使う。ストレスを溜めない、バランスの取れた食生活をする、生活リズムを整える、。そういうことを心がけていれば自分にあった体型、体重に落ち着くと思うのです。それを、“太ってしまった”という結果だけを悪者にしてやっつけようとするのはなんかおかしな話しです。誤解がないように付け加えておくと、スポーツを楽しむことはOKです。ただ、私が言いたいことは、そこに変な付加価値を求めるなということです。プロを目指すのでなければスポーツはただ楽しめばいいのです。勝ち負けや成績にこだわったり、最悪なのは“根性や精神を鍛えるため”ということが目的になってしまうと、かえってからだを壊してしまいます。でも、便利になった現代社会に暮らす現代人にとっては、普通に生活しているだけでもうアンバランスであることも確かです。体力の必要な仕事、難しい仕事、複雑な仕事はどんどん機械がやってくれるようになりました。それだけでからだと脳の働きに偏りが生まれてしまっています。いまや、一日の大部分を椅子に座って仕事をしている人だって少なくありません。さらに、からだを使わないのでストレスが溜まりやすくなっています。そして、多くの人が気ずいていないのがこの“偏り”なんです。運動量が少ないだけならビリーズブートキャンプも一つの選択肢でしょうが、ビリーズブートキャンプでは偏りは治せないのです。なぜなら偏りは一人一人違うからです。そして、実は量の問題よりこの偏りの方がずっと重大な問題なんです。感覚の偏り、からだの使い方の偏りがストレスや疲れの溜まりやすい状態を作り出しているからです。それは、目だけ使う、右手、右足だけ使う、上半身だけ使う、左脳ばかり使うなどという偏りです。それで、適当なセルフケアが必要になるのです。セルケアは自分の心やからだとの対話から始まります。決められたプログラムをやればいいというようなものではありません。そして、自分の心とからだのバランスを整えるように動いたり、様々な活動をするわけです。ちなみに運動だけでなく、手仕事だってセルフケア的な効果があるのです。詩を読んだり、歌を歌ったりも同じです。(だからカラオケが流行っているのかも・・・)また、ビリーズブートキャンプやジャズダンスなどでは動きに呼吸を合わせるのでしょうが、心のリズムを大切にする場合は呼吸に動きを合わせるのです。ということで「セルフケアワークショップ」のお知らせです。11月11日(日)10:00からです。会場は茅ヶ崎です。まだ若干の余裕があります。お問い合わせ下さい。PS)バランスということでひと言。現代人は食事のバランスも崩れています。まあ、そのようなことは多くのマスメディアなども書いていて、だからサプリを飲みなさいという宣伝をしているのですが、私の言いたいバランスは別のことです。簡単に言うと、夏のからだは夏の物を食べるとバランスが取れるようになっています。冬のからだは冬の物を食べるとバランスが取れるようになっています。生命はそうやって何億年も生きてきたのです。だとすると、栄養バランスを整えるといって、夏に冬の物を食べたり、冬に夏の物を食べたりしたらバランスが崩れてしまいますよね。動物のからだは一年を通してバランスを取ればいいようにできているのですから、それを毎日の生活の中でバランスを取ろうとするとかえってアンバランスになってしまいますよね。
2007.11.05
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昨日の「世界一受けたい授業」で、ビリーズ・ブート・キャンプで有名なビリーが講師として出演していました。最初、あのエクササイズを見た時にはこんなのやるやついるのかと思ったのですが、意外や意外、程度は様々ですが本当に多くの人が体験しているようです。お母さん達の勉強会などで聞いても、必ず数人は体験者がいます。それで、感想を聞くと“汗をかくのが気持ちいい”とか、“スカッとする”とか言うのですがどうも私にはなじめない世界です。ちなみに「ビリーズ・ブート・キャンプFAN」というサイトにはビリーズブートキャンプでビリーの言うこと聞けば、効果は確実、人生だって変わる!ビリー 俺はアンタの言葉を信じてついてくよ!!ビリーとならキツいブートキャンプも乗り越えられるぜ!という言葉が書いてありました。んんん・・・。これは何だろう?これって宗教?昨日は番組の中でお腹の筋肉が割れるとか言っていましたが、でも、そのことにどんな意味があるのかは不明です。ダイエット効果があるといううたい文句ですが、ビリーの体を見る限り、筋肉が付くことは間違いなさそうですが、ダイエットの方はちょっと疑問です。ボディービルと同じような効果が、ボディービルよりももっと楽しく得られるということなのでしょうか。昨日は娘さんも出演なさっていましたが、確かに娘さんは痩せていました。でも、私には“美しい痩せ方”には見えませんでした。それに、私はあんなにも生活と無関係の筋肉を付けることに意味を感じないのです。でも、まあやりたい人はやればいいのだし、別に私はビリーズ・ブート・キャンプを非難しようとも思っていません。確かに体育系のノリで楽しそうだし、筋肉を鍛えパッと汗をかくための方法としてなら効果はありそうですから。ただし、運動不足の人やからだに故障がある人が急にやるとからだを壊しそうな気はしますけど・・・。ただ、私にはあれがこんなにも流行っている訳が分からないのです。どう見ても体育系ではないようなお母さんまで体験しているのですから。怒鳴られ、励まされ、最後にgood jobと認められるその過程に秘密があるのでしょうか?そして、これってゲームと似ているのではないかと気付いたのです。速いテンポで思考を停止させ、次から次へと課題を出して挑戦させ、クリアするとまた新しい場面が現れ、そして戦い・・・・最後に“勝利”good job。そして、スッキリ。あの早いテンポには思考も感覚も意識も付いていけません。ただ、肉体を道具のようにただ動かすだけで精一杯です。でも、しばらく続けていると、慣れてきて反射で自動的にからだが動くようになるでしょう。そして、反射で自動的にからだが動くようになると、それもまた快感なんでしょう。これもゲームと同じです。ビリーズブートキャンプで目指しているのは“鍛える”という事なんでしょうが、でもここには新しい考え方が使われています。昔は、鍛えるためには我慢と努力が必要でした。自分と向き合い、自分と戦う意志も必要でした。だから、簡単に脱落してしまう人も多くいたでしょう。また、それなりにストイックな人でないとその努力を続けることも出来なかったでしょう。でも、ビリーズブートキャンプはその概念を全く変えてしまいました。鍛えることを目的とするのではなく、頑張ったご褒美として鍛えられた体を手に入れることが出来るという発想の転換です。(ここもゲーム的です。)だから、鍛えられた肉体が欲しい人でなくても、褒められたい人は頑張ってしまうのです。そして、これほどまでに流行していると言うことは、それだけ褒められたい人がいっぱいいるということなのでしょうか。(同じ方法は勉強の分野でも使われているようです。)私の考え方はおかしいですか。ちなみに私はビリーズブートキャンプも、ジャズダンス、エアロビなども苦手です。苦しくなってしまうのです。ただし、苦しくなると言ってもからだがではありませんよ。それなりにトレーニングはしているのであの程度の動きなら出来ないことはありません。でも、あのリズムに合わせるのが苦しいのです。繰り返しますが、からだがではありません。心が苦しいのです。ビリーズブートキャンプ、ジャズダンス、エアロビなどでも呼吸を大切にすると言います。からだの動きと呼吸を合わせるのです。確かに、そうしないとからだを壊してしまいます。でも、呼吸やからだのリズムの他にも、人には他のリズムもあるのです。それは“心のリズム”、“精神のリズム”です。ワークでよく“目を閉じて自分が心地よいリズムで10数えてください”ということをやります。すると、本当にみんな心地よいリズムが違うのです。長い人は短い人の3~4倍、時にはそれ以上長かったりするのです。あまりに長いので、寝てしまったのではないかとみんなが心配する事さえあります。(実際に寝てしまう人もいますけど・・・)でも、ビリーズブートキャンプ、ジャズダンス、エアロビなどでは、そのリズムは全く無視しています。ちなみにヨガはそのリズムを大切にしているように感じます。人間は、からだと、呼吸と、心のリズムが一致した時、心とからだが統合されます。でも、人は自分の体を道具として使おうとする時、心のリズムを無視します。体を競争の道具、戦いの道具として使おうとする時心のリズムを無視します。また、他の人と一緒の動きをしなければならない時にも心のリズムを無視します。そして、無理矢理心のリズムの方をからだのリズムに合わせさせてしまうのです。そして、これはスポーツでのからだの使い方でもあるのです。でも、からだのリズムと呼吸のリズムだけを合わせて、心のリズムを無視していると心の働きが鈍くなってきます。感受性も鈍くなってきます。恐怖心も弱くなってきます。心は自分本来のリズムで鼓動している時に一番生き生きとしているからです。だから、軍隊では徹底して心のリズムを無視するのです。ちなみに、ビリーズブートキャンプは軍隊における基礎訓練を基にしているそうなので、まあ、当然の方法かなと思っています。からだの使い方は、心の使い方とつながっているのです。忘れないでください。補足)但し、スポーツもビリーズブートキャンプも、あまりのめり込まずに“からだ遊び”の範囲で行うのならOKだと思います。
2007.11.04
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今日はお休みさせてください。子どもと海に釣りに行っただけです。でも、一匹もつれませんでした。無駄な殺生をしなくて良かった・・・と負け惜しみをいっています。家に帰ってから、野菜の天ぷらを山のように作りました。美味しかったです。本当は魚の天ぷらも入るはずだったのですけどね。
2007.11.03
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みなさん、「幸せになる方法」をそれぞれお持ちなんですね。それで、また一つ思いつきました。“自分の方法を持つ”ということです。苦しみの中で迷路に入って抜け出せない人は、ただ嘆くのでなく“こうしたら楽になる”というオリジナルな方法を色々と探して見て下さい。私が書いたこと、そして読者の皆さんが書いて下さったことなどを参考にして自分で工夫してみて下さい。あと、まだ出てきていませんが“からだを動かす”、“何かを育てる”、“瞑想”などというからだからのアプローチと、嫌なこと、苦しいことを全部書きだしてみるという方法なども考えられます。みなさま、有り難うございました。ここでまとめてお礼を申し上げます。(Ama-laさん) 私の場合は「分らない」ということを楽しみにしている・・かな。(モアイさん) "自分で立つ"その延長線上に地球の中心があるという事を感じる事ができれば、それだけで幸せになります。(みけ猫さん) 小さなことでもいいから良かったと思えることに気づくこと。(しろくまのかあちゃん) 1)たいていにこにこ笑っています。 なんかしんどそうだなー?と思ったら、まず笑ってみます。すぐできるし。2)夜寝る前に、お布団の中で、楽しいことを考えます。3)それから、「今日一日ありがとう」と家族と犬と家の分のお礼を言います。誰に言うかは秘密♪でも、守ってくれている存在なら誰でもいいのかも。余裕があれば世界中の子どもの分もお礼を言います。(ぐりぐりさん) ありのままの自分に気がつく。(フリーバードさん)「好き」という気持ちを大切にする。(ちょろぴさん)わたしはいいことがあると、即座に口に出して「うれしい」とか「しあわせ~」とかいいます。言うことでさら~にしあわせになります。
2007.11.02
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今日は、「幸せになる方法」について考えてみました。○人と比較しない 人と比較する人は自分がない人です。 自分がない人の所に幸せはやって来ません。○持っている物、持っている能力を大切に使う 持っている能力を大切に使い、その能力を高めようと努力する時、新しい能力が目覚めます。○出来ないことばかり探さない 今できることを新しい世界への入り口として考える “○才にもなって、こんなことできないの”と言われ続けていると子どもは成長できなくなります。○大きな空間、大きな時間感覚で物事を考えてみる 宇宙から自分を見る 1万年前のこと、1万年後のことを考えてみる 100年後にはみんな死んでいます。○何にでも感謝する 感謝する理由があるから感謝するのではありません。 理由などなくても感謝するのです。 すると後からその理由がやって来ます。○五感を大切に生きる 味わうことを大切に生きる 私達は五感で世界とつながっています。 五感を大切にしない人は世界とのつながりが弱い人です。 そういう人は精神的に不安定になります。○考えや想いは行動してみる 感情は表現してみる 苦しい時には苦しいと言い、嬉しい時には嬉しいという 自分の感情を素直に言葉に出すだけで心は楽になります○傷つくことを恐れない 傷つくことを恐れる気持ちが傷を広げます。 つまり、自分で自分の傷を深くしているのです。 それをほじくり返していたら、ずーっと忘れることが出来ません。○自分の気持ちをちゃんと知る 幸せになりたいのか、ただ安心したいだけなのか 幸せになりたい人は他の人の幸せも考えます。 でも、安心したいだけの人は自分のことしか考えません。 そういう人は不幸を自分で呼び込んでしまいます。 あなたはどっちですか。○私は不幸だと思っていると、それを裏付けるような原因ばかりが目に付くようになります。 その逆に、私は幸せだと思っていると、それを裏付けるような原因をいっぱい見つけることが出来ます。 想いが事実を創り出すのです。この他にも皆さんが実行なさっていることがありましたらお知らせ下さい。
2007.11.01
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