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(昨日からの続きです)私が考える“心の居場所”とは、単に“安心が出来て居心地がいい場所”のことではありません。もちろん、そういう場所も必要です。心が疲れた時にはそういう場所でゆっくりと休む必要があるでしょう。カウンセラーの人たちが提供する“心の居場所”もそのようなものでしょう。でも、それは“仮の居場所”に過ぎません。からだが疲れた時、温泉に入るとのんびりしてからだの疲れが取れます。でも、その温泉にズーッと浸かったままでいることは出来ません。元気を取り戻したらまた外に出ていって働かなくてはならないのです。それに対して、私が考えている“心の居場所”はもっとポータブルなものです。それは“つながっている”という感覚の中にあります。わざわざ“その場所”にまで行く必要がないのです。心は物質ではないので、その居場所も現実的な場所である必要はないのです。お母さんが子どものためを思ってどんなに一生懸命に子育てをしていても、子どもの心の中にその“つながりの感覚”が生まれなければ、子どもにとってお母さんは心の居場所にはならないでしょう。同様に、家庭がただ、衣食住を供給するだけの場なら家庭も心の居場所にはならないでしょう。心の居場所にとって必要なのは物質的なつながりではなく、“心のつながり”だからです。この感覚は一緒にいることが出来る時間の長さとは関係ありません。“つながっているという感覚”は時空を超えているのです。ですから、仕事をしているため子どもを保育園に預けていてあまり子どもと関わる時間がないとか、一日中付き合って上げているなどということとも関係ありません。中には、死んでしまったおじいちゃんと今でもつながっているという人もいるかも知れません。つながりとはそういうものです。また、この感覚は人間に対してだけではありません。草や木や自然に対してでも同じです。そして、それが何であろうとしっかりとこの“つながりの感覚”を持っている人は安定しているものです。では、子どもとの間にどのようにしたらその“つながりの感覚”を育てることが出来るのかというと“よく観て、よく聴き、よく語りかける”ことです。あれこれ、色んなことをやる必要はありません。ほとんどのお母さんが、子どもの動作は良く見ていますが、子どもの姿を観ていません。だから、“何をしたのか”ということは分かっても、“どうしてそういうことをしたのか”ということが分かりません。子どもの言葉は聞いていますが、その声を聴いていません。だから“何を言ったのか”ということは分かっても、その言葉で何を伝えたかったのかということが分かりません。教えたり、指示命令は出していますが、自分の心で語ってはいません。だから子どもは、お母さんの心に触れることが出来ません。実は、“心の居場所”を作るということは単に物理的な場所を用意することではなく、子どもの心がしっかりと何かとつながることが出来るように支えてあげることなのではないかと思うのです。ということで、短いですが今日はここまでとします。昼食を食べたら、実家に行きます。といっても、車で40分くらいの所ですけどね。そして、毎年の恒例ですが小坪の披露山公園で遊んできます。では、良いお年を。
2007.12.31
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1月19日に三島で「強い心の育て方」というタイトルの講演をするので、その考えをまとめるために17日から色々と書いてきたのですが、ようやく昨日一つの答えにたどり着きました。それは“心の居場所”ということです。強い心が育つために必要なことはいっぱいあります。親の愛情も、自然体験も、からだを動かすことも、本を読むことも、群れ遊びを体験することも、表現活動をすることも、泣くこと、笑うこと、喧嘩をすること、仲直りをすること、そういうの全てが子どもの心が強く育つ手助けをしてくれるでしょう。そして、今まで書いてきたこともそのようなものです。また、このようなことは分かりやすいので多くの人が子どものためにこのような活動の場を作ろうと活動しています。でも、昨日一つのことに気付いたのです。それは、心を病んでしまった子どもたちが回復していくときにまず一番始めに必要なことは“何かをしてあげること”ではなく、自分が受けいれられているというしっかりとした“心の居場所”をまず創ってあげることだということです。そのような居場所を作ることが出来なければ、大人がどんなに一生懸命になって、どんな素敵なことをいっぱいやってあげても子どもの心は回復していかないのです。カウンセラーと呼ばれる人たちは、その場所と自分自身を子どもの心の居場所として提供します。ですから、その場ではカウンセラーは絶対的に子どもの味方です。それがどんなに悲惨な状態でもありのままに受け止めてあげます。そして、子どもがその場とカウンセラーを心の居場所として認めてくれるように努力します。心の居場所を持っていない子は常に逃げようとするので、治療が進まないからです。この時には“何かをする”ことは逆効果になります。“何もしない”ことが非常に重要な意味を持ってくるのです。そして、子どもがその場とカウンセラーを自分にとっての“心の居場所”と認めてくれた時から治療が始まります。(まだ、仮の“居場所”ですけどね。)何かが上に向かって成長するためにはしっかりとした基礎が必要です。自分を支えてくれる土台が必要です。でも、現代人はどうも先を急いでしまいます。しっかりとした土台や基礎を作ることなくすぐに上ものを作ろうとしてしまうのです。強い心も同じです。しっかりとした土台の上に立っているからこそ、力を出すことが出来るのです。力を出すことが出来るから、様々な体験を通して強い力を身につけることができるのです。逆に、どんなに強い力を持っている人でも、不安定な土台の上では力を出すことは出来ないのです。最初に書いたような様々な方法はしっかりとした土台に立っている子には有効に働くでしょう、でも、この土台が不安定な子には無意味だと思います。そういう子は居場所を求めて逃げることばかり考えてしまうからです。そして、しっかりとした土台に立っている子は無理に大人が様々なことをやってあげなくても日常生活そのものを通して、それなりに強い心を育てていくことが出来るのではないかと思うのです。しっかりとした居場所があるので腰を据えることが出来るからです。そして、それこそが子ども本来の成長エネルギーなんです。だとしたら、大人がしっかりと土台を支えてあげることをせずに、強い心を育てようとあれこれやってしまうことが逆に子どもの心を弱くしてしまう危険性があるということです。そこで多くのお母さん、お父さんが勘違いしていることがあるのです。それは、お母さんやお父さんがあまりに子どもに結果を求めすぎてしまっていることです。その結果、家庭の中が第二の学校のようになってしまっている家庭が多いのではないでしょうか。それは子どもにとってみれば、家庭の中にすら心が安まる居場所ではないということなのです。ということで、続きます。
2007.12.30
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昨日も書いたように、“わたし”という意識はその“わたしを含む自分”の一部ですから、その“わたし”がその母体である“自分”の全てを知ることなど出来るはずがありません。子宮の中の赤ちゃんに意識があったとしても、お母さんの全てが分かるわけがないのと同じです。“わたし”という意識をこのように子宮の中の赤ちゃんに、“自分”をその母体であるお母さんに例えると昨日書いたことも分かりやすくなるかも知れません。今流行の“自分探し”と呼ばれているものは、子宮の中の赤ちゃんが子宮の中を調べて回っているようなものです。そして、居心地の良い場所を探しています。つまり、自分探しをしている人は、正確に言うと“自分”を探しているのではなく自分の居場所を探しているのです。それ以上のことなど出来るわけがないからです。そして、自分の感覚にぴったりの場所が見つかった時、“ここに自分がいた”と思うのです。逆に言うとそのような人はズーッと自分のいるところに違和感を感じていたのでしょうね。だから、“自分”というものを確認出来なかったわけです。常に競争を強いられ、今の自分の状態を否定され続けているとそういう状態になってしまいます。当たり前のことですが、自分探しをしている人でも自分がないわけではありません。自分がない人が自分探しなどしたいと思うわけがないからです。つまり、自分探しをしたいと思っているその自分が“自分が探している自分”なわけです。自分探しをしている人は、ただ自分で自分のことを確認することが出来ないというだけのことなんです。そんな時、自分の感覚にぴったりのものと出会うことで“自分”を発見するのです。だとしたら、自分探しは簡単なことです。自分の感覚と出会うことで“自分”と出会うことが出来るからです。人は、自分にぴったりの感覚の中に自分を発見するのです。その事に気付かないと自分を捜し回ってあれこれ動き回り、迷路にはまってしまったり、怪しい宗教につかまってしまったり、疲れ果ててその場で倒れてしまうかも知れません。ワークにお呼び頂ければ色々体験して頂けますが、ここでは誰にでも簡単に出来る方法をお教えします。簡単なことです。自分の周りのものを好き、嫌い、どっちでもないの三つで分けてみて下さい。そして、その理由も考えてみて下さい。ここで大切なことはちゃんと理由も考えることです。それは感覚と意識の対話です。感覚と意識が対話することで、意識が自分の感覚とつながるのです。そうすると“自分”という感覚が目覚めてくるのです。でも、今、ほとんどの人がこのような対話が苦手なようです。文明化された社会では、自分の感覚との対話の必要性がどんどん減ってきてしまっているからです。だから“自分探し”をする人が増えてくるのです。ただし、できるだけ自分の感覚に触れてくるもの全てに対してです。あなたは丸い形は好きですか、嫌いですか。四角い形はどうですか。それはどうしてですか。また、それらはあなたに何を連想させますか。赤い色は好きですか、嫌いですか。黄色い色はどうですか。それはどうしてですか。また、それらはあなたに何を連想させますか。新聞紙を丸める音は好きですか、嫌いですか。静かなところとにぎやかなところではどちらが好きですか。鳥の声、風の音はどうですか。音楽では誰が好きですか、そしてそれはどうしてですか。このように、あなたの身近なものに対して“好き”と“嫌い”を色々と試してみて下さい。ちなみに私は「あ・い・う・え・お」の中では「あ」と「お」が好きです。「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド」の中では「ラ」が好きです。「ラ」の音を聞いていると、そこに私がいることを確認することが出来ます。色は「エメラルドグリーン」です。エメラルドグリーンを見ている時、そこに私がいることを確認することが出来ます。
2007.12.29
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今日はちょっと面倒くさい話しです。読むと眠くなるかも知れません。“本当の自分”というテーマで少し書いてみましたが、これは古来からズーッと考え続けられてきたテーマですよね。ということは、答えも一つではないのでしょう。答えが一つに決まってしまっているのなら、もうこれ以上考える必要はないのですからね。実際、西洋と東洋とでも“自分”というものに対する考え方は違うように感じます。また、昔の人と今の人とでも違うでしょう。さらにはその人がどのような立場の人なのかでもその答えは違うでしょう。宗教家が考える“自分”と、科学者や哲学者が考える“自分”とも違うでしょう。デカルトという哲学者は“我思う 故に 我あり”というようなことを言ったようです。“この世界の全てのことを疑うことは可能だ、でも、その疑っている自分のことだけは疑うことが出来ない”というようなことなのでしょうか。つまり、自分で自分を否定することだけは不可能だと言うことです。否定しても、否定する自分が残ってしまうからです。このように確かに“自分”というものは存在しているようです。でも、じゃあその自分とは一体どのような存在なのかというとそう話しは簡単ではありません。なぜなら、自分を自分と認識しているのは“意識”という働きなのですが、その意識は常に部分しか認識することができないからです。また、意識が消えてしまっている状態では自分というものを認識することが出来ません。では、そんな時には“自分”は消えてしまっているのでしょうか。意識が消えてしまっている時には、“我思う”ということすら出来ないのですから。また、意識で捉えた“自分”は“本当の自分”でしょうか。意識は常に部分しか捉えることができません。例えば夜中に懐中電灯一つで象を見るようなものですい。足を見ることは出来る、鼻を見ることも出来る、耳を見ることも出来るのですが、決して象の全体をいっぺんに見ることが出来ないのです。ですから私達はその部分をイメージの中で統合して全体を推測するだけなのです。その働きを“観”と言います。でも、そうやって全体のイメージを得たとしてもその全体が動いて働いているところをイメージすることはできません。全体が動いて働いているところをそのまま観察することはできないからです。また、“わたし”という意識は、より大きな“自分”の一部に過ぎません。だとしたら、部分が全体を見ることが出来るのかという問題も出てきます。目は決して自分の顔も目も見ることが出来ないのです。目が見ることが出来るのは手足や体だけです。もしかしたら、意識が“自分”というものを見ようとしても、そこで見ることが出来るのは“自分の手足”だけなのかも知れません。また、その自分には心だけではなく、“からだ”も含まれます。心とからだが統一された状態の時に統一された状態の“自分”が生まれるのです。これが統合されていない時には、意識の働きはあっても自分がバラバラなので精神的に不安定になります。そして、からだは自然とそして宇宙とつながっています。すると、“自分はどこまでが自分なのだろうか”という問題も出てくるわけです。さらに、もう一つやっかいな問題があります。観察したデータが事実であるかどうか不明だと言うことです。量子力学という科学ではこの世界の実相は決してそのままの状態で観測することができないという事実を教えてくれます。この世界の実相は観測の仕方によって変化してしまうということです。それは、どのような目的で観測しようとしているのかということで観測結果が違ってしまうということです。ですから、もし心というものがそのようなものなら、どのような意識で心をのぞき込もうとしているのかという違いがそのまま観測データの違いに現れてしまうということです。ですから、異なった文化の人が心の中をのぞき込めば異なった心の様相が見えてきます。だから話しがややこしくなるのです。確かに自分を形成している一部としての肉体は客観的に観測可能です。でも、その肉体は心の状態が変化すると、それと連動して変化してしまいます。ですから、自分というものも常に変動しているのです。でも、そんなにも多様な“自分”ですが、はっきりとしていることもあります。それは、“自分”という意識だけが“自分の全て”ではないということ。自分で分かる自分と自分では分からない自分があるということ。意識でコントロールできる自分と意識ではコントロールできない自分があるということ。成長や学びで変化する自分と変化しない自分があるということ。意識の持ち方を変えるだけで変化する自分と変化しない自分があるということ。“わたし”という個に属する自分と、社会に属する自分と、人間という種に属する自分と、また生物という存在に属する自分と、物質に属する自分があるということ。“自分”というのは、人間にとって永遠に分かり切ることのない未知の世界なのでしょうね。今日はなんだか面倒くさい話しになって申し訳ありません。
2007.12.28
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「自分ってなあに?」“自分”というものに関して科学寅さんとsuzukiさんが以下のように書いて下さいました。<科学寅さん>私もまだ、わかりません。宇宙とつながっていて、宇宙の中心点であることは、わかるのですが。本当のジコチュウになることかな?いや、世界の責任を一身に負うことかな?(2007.12.26 15:49:22)<suzukiさん>私は、 「我以外、みな師」と信じている一方で、 「私の考えが一番正しい」と信じている人間です。 上記は、他人から見ると矛盾でしょうが、私にとっては矛盾ではないのです。私の考えでは、このお二人の考え方の基本は同じものです。お二人とも、“自分”が“自分より大きなものとつながっている”ということを感じていらっしゃいます。“自分”というものが孤立していないのです。そして、そのことで逆説的に“確かな自分”を感じているわけです。これは人間の感覚の働きによるものだろうと思います。それは、人は何かに触れることで自分の手を感じることが出来るのと同じことです。確かに、手の感覚は自分以外の何かに触れそこから何かを感じるために存在しています。ですから、対象に触れることでその相手についての情報を手の感覚は教えてくれます。でもこれは“道具としての手”であり、“道具としての感覚”です。そして、一般的にほとんどの人がこのように手の感覚を使っています。でも、意識を反転させると違うものを感じることが出来ます。触れることを通して、自分の手を感じることが出来るのです。つまり、自分の感覚を相手を知るためだけではなく、自分自身を知るためにも使うことが出来るわけです。そして、このような感覚に目覚めた人は自分の感覚を楽しむことが出来ます。この感覚を体験するために、簡単なエクササイズをやってみて下さい。両手を合わせて合掌して見て下さい。そして、最初は右手で左手を感じてみて下さい。次に、左手で右手を感じてみて下さい。どうですか、出来ますか。次に、頬に手を当ててみて下さい。その時、手が頬を感じていますか、それとも頬が手を感じていますか。どちらかが優勢なはずです。それが分かったら今度は合掌の時と同じようにそれを反転させてみて下さい。今度はちょっと難しくなります。手で何かを押して見て下さい。指で自分のおでこを押すと分かりやすいかも知れません。そして、“指がおでこを押している”、“おでこが指を押している”というように意識を反転させてみて下さい。物理的には同じことなのです。その感覚の反転が出来ないのは意識が固くなってしまっていて、邪魔をしているからに過ぎません。こんどは壁などを押してみて下さい。そして、おでこと同じように“壁を押している腕”と“壁に押されている腕”を感じ分けて下さい。おでこの場合は指もおでこも両方とも自分の感覚なので反転がしやすいかも知れませんが壁になるとそう簡単にはいきません。それは意識がブロックしてしまっているからです。そんな時、壁が自分の意志を持った生き物だと考えると反転がしやすくなります。どうですか。できましたか。日常的にこのような意識と感覚の反転が楽に出来る人は自分に縛られていません。そして、自分に縛られていない人は本当の自分に目覚めている人です。でも、これがなかなか出来ない人は普段から自分の感覚が自分の意識に邪魔をされているのではないかと思います。ダージリンさんが「技術」だったんですか・・・。これは技術なんですね!だから、理屈で教えられるだけではダメなんですね。自分で体得しないと。技術であるなら、練習(=繰り返し)が必要ですね。と書いて下さいましたが、こういうことなんです。でも、今このような感覚の使い方が出来ない人が増えているようです。自分中心の感覚しか持っていないのです。石に触れていて石を感じることは出来るのですが、意識を反転してその石を感じている手を感じることが出来ないのです。石に触れられている手(私)を感じることが出来ないのです。だから、自分の手を道具のように使います。でも、自分の手を感じることが出来ない人は自分の感覚を使いこなすことが出来ません。針に糸を通す作業を思い浮かべて下さい。持っている針ではなく、持っている手を感じることが出来ないと針に糸を通すことは出来ないでしょ。道具のような手は石を投げたり、キーボードを叩いたりすることは出来ます。でも、その感覚を働かせるような使い方が出来ないのです。(今の子どもたちの手がそのような状態です。)それと、意識の反転が出来ない人は何かに触れていないと不安になります。人間の感覚は刺激が入ってこない状態を嫌うからです。無音室に入っていると、しばらくして幻聴が聞こえてくるそうです。脳が勝手に音を創りだしてしまうのです。まっ暗な部屋の中にしばらくいると何かが見えてきてしまいます。いわゆる幻視というやつです。刺激が入ってこないから脳が勝手に音や映像を作ってしまうのです。夢の中の映像もこれと同じかも知れません。それらは、脳のアイドリングのようなものです。脳の活動は刺激が入ってこない時でも止められないのです。脳の活動が止まるのは死んだ時だけです。だから、人間は刺激がないと不安になるのです。それで刺激を求めて色々と動き回ります。その刺激を満たしてくれるのが様々な娯楽だということです。でも、何も触れていない時にでも自分の手を感じることが出来る人、物理的な音が存在していなくても音を聴くことが出来る人、側に人がいなくても他の人とのつながりを感じることが出来る人は刺激がなくても不安にはなりません。そういう人は娯楽に依存する必要がないのです。そして、そういうことができる人は意識と感覚の反転が出来る人なんです。皆さんは自分のからだを感じることが出来ますか。多分、出来ない人が多いと思いますよ。ワークなどで“自分のからだを感じてみて下さい”と言っても、トンチンカンなことを言ってくる人がいっぱいいますから。本当の自分探しは、まず自分のからだをちゃんと感じるところから始めるべきなんだろうと思います。ここに書いた意識の反転のトレーニングをやってみて下さい。足の指を一つ一つつまみながら、足の指が手の指を感じている感じを感じてみて下さい。普段、自分がいかに自分のからだを大切にしていないのかがよく分かりますから。それと、意識の反転のトレーニングとして、“私が子どもを育てている”を反転して、“私は子どもに育てさせてもらっている”、“肉を食べている”を反転して“肉が私を支えてくれている”、“自分の足で立っている”を反転して、“足が私を支えてくれている”などというようなことも出来ますね。今、“自分探し”がブームですが、自分探しは自分の感覚に目覚める事から始めないと結局洗脳されるだけです。また、スピリチャルもブームですが、スピリチャルな世界も感覚育てと並行して学んでいかないと危険なことになります。だから、昔からスピリチャルな修行には身体的な修行もセットになっていたのです。本を読んだり、人の話を聞いただけで何の修行もせずにそんなお手軽に入っていける世界ではないのです。ただ、中途半端な修行をすると気が狂う恐れがあります。実はそれだけ恐ろしい世界なんです。(オームなどの修行もそうだったのかも知れません。)まじめに学ぶ気があるなら伝統的な技術を身につけたちゃんとした師を見つけることです。テレビでお手軽にスピリチャルな世界のことについて語っている人がいますが、あれはあれで娯楽としては楽しいですが、あまり本気にしないことです。彼らはタレントであって修行者ではないのですから。PS)実は感覚の使い方と、意識の使い方とはリンクしているのです。そして、意識の使い方は心の使い方とリンクしています。ですから、心を育てるためには感覚を育てる必要があるわけです。ただし、これは感覚の使い方が問題なのであって、感覚がデリケートであるとか、鈍いということとはあまり関係がありません。かえって、感覚がデリケートなためにその感覚に振り回されてしまっている人も多いのです。
2007.12.27
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先日、“強い心とは決断できる心のことだ”ということを書きました。でも、今日は“強い心とはどんな時でも自分を見失わない心”というふうに、それとはちょっと違う表現をしてみます。自分を見失わなければ、付和雷同的に行動したり、誘惑に負けたりすることもないでしょう。自分の人生を自分自身の生き方としてしっかりと生きることも出来るでしょう。でも、この“自分を見失わない心”を子どもに求めることはできません。それは、思春期前の子どもたちはこの“自分”がまだ出来上がっていないからです。出来上がっていないのもを見失わないようにすることはできないのです。思春期前の子どもたちはこの“自分”を作っている時期なのです。私が何を言っているかお分かりになりますか。このような意識の変化はなかなか言葉で伝えることが難しいのですが、でも、そのことは簡単なテストで確認することが出来ます。子どもに“自分について”語らせてみてください。語ることが出来ないはずです。“ぼくは○○だ”ということは言うかも知れません。でも、その多く年齢や性別などといった属性や、大人や他の人からの評価をそのまま言っているだけです。子どもは、他の人からの評価で自分に関するイメージを作っているのです。だから、自分自身の意識で自分について語ることが出来ないのです。そして、それ故に自分との対話も出来ません。子どもは自分と対話することが出来ないのです。だから子どもに“良心”を期待しても無理です。子どもはすぐに欲望に負けてしまうのです。というより、欲望と戦う“強い自分”がまだ生まれていないのです。(子どもの作文や表現を見るとこういうことはすぐ分かります。10才頃から“自分”が目覚め始めます。)でも、実はこのような状態の大人もいっぱいいます。そういう人は他人からの評価をそのまま自分の姿だと思いこんでしまっているのです。ワークなどで“自分の短所”について語ってもらうことがあるのですが、“どうしてそう思うのですか”と聞くと、“小さい時からそう言われてきたから”と答える人が多いのです。例えば、“私の短所はグズでノロマなところです”という人がいたとします。でも、これは明らかに他人からの評価を基準にしています。だって、そうじゃないと自分がグズでノロマであることなんて気付くことが出来ないはずだからです。生まれた時から、一度も“お前はグズでノロマだ”と言われたことがなければ、自分がグズでノロマだなんて思いもしないのです。そうではありませんか。そして、他人の評価だけで自分像(イメージ)を作っている人は、自分との対話も苦手なようです。自分の心の中の自分がもう他人の評価の固まりなので、対話の相手にならないのです。他人の評価の固まりの自分が、苦しんでいる自分を支えるのではなく、“こんな自分だからだめなんだ”と逆に責めてしまうのです。そういう人の心は、自分の心でありながら自分のものではなくなってしまっているのです。だから、不安になって色々と情報に振り回されてしまったりするのです。そして、ワークなどでお母さん達の話を聞いていると、どうもしっかりと自分の心を持っている人が少ないようなのです。だから、意見を求めてもどこかで誰かがいっているような言葉しか出てこないのです。自分の言葉で語ることが出来ないのです。“自分”というものをしっかりと持っている人は何かあった時、その“自分”と相談して物事を決めることが出来ます。また、何かを考える時にもその“自分”は相談相手になってくれます。ですから、そのような相談相手を持っている人は深く考えること出来ます。これは、日常生活の場でも、勉強の場でも同じです。そして、その“自分”が揺るがなければ他人に振り回されることはないのです。自分にとっての最終的な味方がその心の中の自分なんです。では、その“自分”をどのように育てたらいいのかということを明日書いてみます。(多分)この“自分”は、時間と空間を超越しています。宇宙とつながっているのです。
2007.12.26
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「強い心の育て方」(その方法)さて、では実際にその“強い心”を育てるにはどうしたらいいのでしょうか。“強い心を持つためには○○が必要だ”ということは、ということは比較的簡単に分かります。でも、だからといって、“○○を持ちなさい”と子どもに要求しても無理です。例えば、強い心を持っている人は強い責任感も持っているでしょう。だからといって、“強い責任感を持ちなさい”と子どもに要求しても無理です。責任感も、優しさもからだで学ぶ一つの技術なのですから、それなりのトレーニングが必要なのです。トレーニングの場も機会も与えず、ただ“責任感を持ちなさい”と押しつけるのは戦争中の“大和魂があれば竹槍でも鉄砲に勝つことが出来る”という無謀な精神論と同じです。逆にいえば、そういう場と機会が与えられれば、子どもは自然に責任感を持つことができるようになるのです。健常なからだの持ち主なら普通に生活しているだけで歩くことが出来るようになるのと同じです。それでいつもコメントを書き込んで下さすsuzukiさんは以下のようなことをその方法として説いているわけです。(これは一部です)根気が必要なモノ作り、スポーツ、勉強、冒険、赤ちゃんを抱く、乳幼児の世話をする、小動物を飼う、伝記を読む、絵本を読む、大人が生きる喜びや悲しみを語ってあげるでも、私はもう少し違った視点から書いてみます。まず、様々な形での表現能力を育ててあげて下さい。言葉で、文章で、身体表現で、歌や絵画などの芸術的な表現で自分の考えたこと、感じたこと、伝えたいことを表現する能力を育てるのです。ただし、上手下手を基準にしてしまうと全てが無駄になります。人はどんな形であろうと他の人に向けて自分の内側にあるものを表現しようとする時、自分と向き合います。この場合、上手下手ではなく自分に正直な表現かどうかが問題になるのです。素直に自分を表現できるようになると自分に自信を持つことが出来るようになります。でも、今の学校教育ではその逆をやってしまっています。人は表現ということを通して、他の人と、そして自分自身とつながることが出来るようになるのです。また、大人が受け継いできたお話し、物語、文化、技術を伝えて下さい。これらを伝えることは勉強を教えることよりずっと大切なことです。世界中に勉強を教えていない部族はいっぱいあるでしょうが、自分たちが受け継いできたお話し、物語、文化、技術などを積極的に伝えようとしていない国は多分日本だけなのではないでしょうか。そのようなものを受け継ぐことで自分自身のアイデンティティーが確立されます。アイデンティティーがしっかりとしている人は強いものです。この場合、それが今の世の中で役に立つとか、立たないとかそんなことは関係ありません。昔の人が大切に伝えてきたものを受け継ぎ、そしてまた次世代に伝えていく役割を担うことで自分が生まれてきた意味が生まれるのです。但し、古いものを古いまま伝える必要はありません。それはそれで適当に時代に合わせる必要もあるのです。また、自然の中での異年齢集団による群れ遊びをいっぱいさせてあげて下さい。子どもたちはそのような群れの中で、世話をすることと世話をされること、役割と責任、競い合いと協力、喧嘩と仲直り、頑張ることの意味、認められる喜びなどを学んでいきます。そういう体験が生きていく技術と自信を育ててくれます。また、お話しをいっぱい聞かせてあげて下さい。特に、昔から伝わっているお話しをいっぱい聞かせてあげて下さい。昔から伝わっているお話しには、子どもの心を育てる知恵がちゃんと含まれているからです。子どもが他の人の心と出会うのも、勇気や、希望と出会うのもみんなお話しの中でなんです。また、先日来書いてきた“宝物”をいっぱい育ててあげることも必要です。守るべき大切なものを持っている人は強いのです。などと書いてきて、“あれ、これっていつも言っていることと同じじゃんか”ということに気付きました。つまり、心の強い子どもを育てるのにわざわざ特別に変わったことをする必要はないということです。それは、私がいつも言っていることがそのまま“心の強い子の育て方”だということです。それはつまり、バランスよく育ち、“自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で決断し行動できる子”は“強い心の持ち主”だということです。ただし、“競争に勝ち、人をけ落とす強さ”をお子さんに求めているならこの方法では無理です。その方法は私にはよく分かりません。
2007.12.25
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今日はクリスマスイブですね。それに関してあるお母さんからのメールに出した返事をここにも書かせて頂きます。> 今年もクリスマスの日が、サンタさんがプレゼントをくれる日ではなく、絵本などの力を借りてイエス様のお生まれになった日であることを感じる日にしたいと思います。以下は返事で書いたことです。(ブログ用に少し書き足しました)クリスチャンでなければ別にクリスマスをイエスさまにつなげなくても良いと思います。サンタクロースの奇跡を体験するだけでも子どもの心に暖かいものが残ります。何の見返りも求めないで、世界中の子どもたちにプレゼントを配るサンタクロースの気持ちを一緒に考えてみてください。サンタクロースは何のために、そんなことをしているのでしょうか。実は、サンタクロースのプレゼントは子どもの幸せと成長を願う祈りであり、願いなんです。それはお父さんお母さんの願いでもあり、また神様の願いでもあります。だから、子どもの欲しいものを持ってくるとは限らないのです。欲しいものはお母さんやお父さんや、ジジババにねだって買ってもらえばいいのです。そういうサンタクロースの気持ちをお子さんと話し合ってみて下さい。絵本などもその手助けになるでしょう。そして、プレゼントをもらうばかりではなく、見返りを求めず他の人にもプレゼントをあげることが出来る人に育ってくれるように祈って下さい。サンタクロースが子どもが欲しがるものを持ってくるだけなら、子どもは欲が満たされるだけです。そして、他の人にもプレゼントをする人には育たないでしょう。願った物が届くのが当たり前の子どもは、もし願ったものが届かなかった時、サンタクロースに裏切られた気持ちになるでしょう。でも、プレゼントはそれがどんなものであろうと“ありがとう”という気持ちで受け取ることが大切なんです。サンタクロースにはお願いは出来ても、ねだることは出来ないのです。そのことを子どもに伝えて下さい。以下は私が大好きな絵本です。今晩読みます。(毎年読んでいます)子うさぎましろのお話 (おはなし名作絵本 3) (-)佐々木 たづ (著), 三好 碩也 (イラスト) 世界中で一番最初にプレゼントをもらった子うさぎましろは、もう一つプレゼントが欲しくなってしまいました。それで、サンタさんに嘘をつくことを思いついたのです。その結果・・・・。『急行「北極号」』(クリス・ヴァン・オールズバーグ あすなろ書房) クリスマスの夜にサンタの国へと向かう列車が空から降りてきます。そしてそれに乗った子どもがサンタの国で素敵な体験をします。「クリスマスのおくりもの」(ジョン・バーニンガム ほるぷ出版) サンタクロースが、世界中の子どもにプレゼントを配り終わって、さあ寝ようかという時に袋の中にたった一つ残っているプレゼントに気づきます。まだ、プレゼントを届けていない子どもが一人だけいたのです。遠い山の上に住むハービーという子です。それで、サンタクロースは具合の悪いトナカイを寝かしつけてから吹雪の中を一人でハービーの住む山の上へと向かいます。たった、一人の子どもでも見捨てないサンタの心が素敵です。「クリスマスのものがたり」(フェリクス・ホフマン 福音館書店) 楽天ブックスには画像がなかったのでアマゾンでご覧になって下さい。これはイエス・キリストの降誕の物語です。絵が素敵です。最後に、サンタクロースを巡る有名な話しをNB和さんがご紹介してくださっています。“サンタクロースは本当にいるの?”という質問に新聞記者が答えてくれた100年位前のアメリカの新聞の社説に掲載された有名なお話です。ご覧になって下さい。
2007.12.24
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今日先生から以下のようなコメントを頂きました。 いま、リーダー育て、これが大事なのですね。リーダーとは、責任を持てるもの。教師もその意味では、リーダーなのですね。リーダー育て、真剣に考えないとですね。今、このことは多くの人が多くの所で言っています。でも、そのようなことが語られる時、何か勘違いしている人が多いのです。それは、今日先生のブログでも時々取り上げられている三浦朱門の以下の言葉にも表れています。(以下は今日先生のブログからコピーさせて頂きました。)『戦後はできないやつのために手間と暇をかけすぎた。落ちこぼれにかけすぎた手間をこれからは有能なエリート候補に振り向ける。彼らが日本を引っ張ってくれる。無才、非才にはただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ』『エリート教育がゆとり教育の目的。それを言うと抵抗が大きいので、ゆとり教育とまわりくどく言っただけだ』* 三浦朱門氏・・・・80年代半ばに文化庁長官も務めた作家で、教育改革国民会議の有力メンバーである。やはり作家の曾野綾子氏を夫人に持つ三浦氏は、"ゆとり教育"を深化させる今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者である。これは物事の全体とその間のつながりを見ることが出来ない人の言葉です。エリートがエリートという理由だけでリーダーを勤めることが出来るのは軍隊や会社のような縦型社会だけです。(でも、そういう軍隊や、会社はもろいでしょうけど・・・)一般の社会ではエリートだからと言ってリーダーになどなれないのです。そのそもエリートとリーダーとは何の関係もありません。エリートとは大衆から切り離された特別な存在のことです。でも、リーダーとはその大衆のつながりの中で先頭に立つことが出来る人のことです。つまり、リーダーとは大衆の中にいて、その人達をまとめることが出来る人のことなんです。これは地域の中でも、学校の中でも、家庭の中でも同じです。場が違えば場の数だけリーダーが必要なのです。多くの場合お父さんは、会社ではリーダーではなくても家庭の中ではリーダーとして家族をまとめる必要があります。それはお母さんでもいいのですが、とにかく家庭の中にもリーダーは必要だということです。ただし、リーダーとは支配し、命令する人ではありません。みんなの話を聞いて意志決定が出来る人のことです。支配者がいても、このリーダーがいない家庭は分裂します。もちろん、学校の先生も生徒をまとめるリーダー(のはず)です。(支配者のように君臨している先生も多いようですけどね・・)また、クラスの遊び仲間の中にもリーダーは必要です。さらには、一人で活動している時にも自分が“自分”のリーダーとして活動する必要があります。人目や、人の意見ばかり気にしている人は自分の心のリーダーにすらなることができません。そういう人は、もちろん他の人をまとめるリーダーになどなることができません。つまり、リーダーとは特別な人のことではないのです。これがエリートとは決定的に違う点です。ですから、優秀な一部の人を集めてエリート教育をしても、決して優秀なリーダーなど生まれるわけがないのです。優秀なリーダーは優秀な大衆の中からしか現れないのです。(だとすると、優秀なリーダーのいない今の日本には優秀な大衆もいないということになります。)リーダーが倒れた時にはすぐに次のリーダーが現れてグループをまとめることが出来るような人たちの中から本当のリーダーは生まれるのです。リーダーが倒れた時、右往左往してしまうようなグループなら、そのリーダーも大したことはないのです。そして、自分で責任を取りたくない、自分の頭で考えないような人たちばかりのグループなら、力で支配する無能なリーダーしか現れないのです。もし、本気でリーダーを育てようとするならば一人一人の全ての子どもをしっかりと育てることです。それはつまり、一人一人の子どもを自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意志と責任で行動できるように育てることです。全ての子どもにリーダーとしての教育を行うのです。グループの全員がリーダーの役割を知っているからこそ、みんなでリーダーを支えることが出来るのです。そして、そういうグループのリーダーだからこそ優秀なリーダーシップを発揮することが出来るのです。そして、そういう人たちが増えてくれば、家庭も地域も変わっていくでしょう。
2007.12.23
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今日は、私が主宰している「詩とお話しで遊ぶ会」のお話し会兼、忘年会兼、クリスマス会でした。我が家で、大畑真由美先生をお呼びしてのお料理とお話しの一品持ちよりの会です。参加者一人一人に、お話しを語ってもらったり、絵本を読んでもらったり、ピアノを演奏してもらったりして楽しい時間を過ごしました。最後に大畑先生が語ってくれた「雪女」が圧巻でした。あの雪女を聞くことが出来ただけで、今日の会を主催して良かったと思ったほどです。以下はその時の写真です。皆さん手作りのお料理も美味しかったです。総勢26名、ちょっと窮屈でしたけど・・・。
2007.12.22
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昨日の続きです。決断するということは責任も生じるということです。でも、日本人は特定の個人に責任が集中することを嫌います。常に、責任を分散しておきたいのです。だから、緊急を要するような場面でも誰も決断しません。だから、危機管理が出来ません。高度な地震などの予報システムを作っても、警報の発令を決断することができないので多分何の役にも立たないと思います。でも、結果として何かトラブルが起きた時には誰か一人だけの責任にしてその人を排除するだけで“一件落着”にまとめてしまいます。でも、そういうことも誰かの決断によってではなく、その場の流れで決まってしまいます。それは政治の世界でも、教育の世界でも、また日常的な活動の中でも同じです。流されるだけで誰も責任がない社会ですから、歴史や体験から学ぶことが出来ません。いつでも、同じ状況になると、同じことが繰り返されるのです。誰も責任を持って反省する人がいないからです。決断能力のない人は反省もできないのです。誰かが責任を持って、決断しないことにはその流れを変えることは出来ないのですが、そういうことに手を上げる人はほとんどいません。それでも、昔の日本人にはそういう人も所々にいたのですが、最近では滅多にいません。いつもブログに書き込みをしてくださる、suzukiさんや寅さんや今日先生は頑張っていますけど、大きな組織がそういう人を責任者として招いて一つの活動を任せるなどということは日本では滅多にありません。みんな在野で一人で活動しています。決断できない人がこれほどまでに増えてしまったその原因の一つに学校教育の普及があります。昔の日本のように、寺子屋と家庭教育が教育の場であった時代には子ども一人一人に合わせて教育が出来ましたがいまでは子どもたちは大多数に合わせた教育しか受けることが出来ません。これではリーダーが育つわけありません。リーダーとはつまり“自分の責任で決断できる人”のことです。それで、今リーダーを育てようとする動きもあります。“ダメなやつは放って置いて、優秀な子だけ特別にリーダーに育てよう”という考え方です。でも、間違いなくこの考え方では失敗します。子どもたちをグループに分けて扱うことで単位が小さくなるだけで本質的なところは何も変わらないからです。優秀な子どもたちばかり集めても、結局その中には落ちこぼれも出てくるのです。また、グループとして扱われることで、やはり決断をする必要がありません。成績が優秀だということと、リーダーとして優れているということは全く違うことなのですがそのことが政治家には分かりません。成績が最下位クラスの子どもでもリーダーとしての素質に優れた子どもはいるのです。でも、今の教育システムはそういう子どもをみんなスポイルしています。だから、そういう子どもの中には暴走族やヤクザの世界に入ってリーダーになる子もいます。単に、リーダーとしての素質という点だけから見たら、そのへんの政治家よりもずっと優秀な親分も少なくないのではないかと思うのです。(私はその世界の人との付き合いがないのでよく分かりませんけど。でも、警察の目を逃れて大きな組織を維持していくためにはかなりのリーダーシップが必要なはずです。ノホホンとなんかしていられませんからね。)実は、“出来る子”と“出来ない子”が一緒に学び成長することができるシステムの中からでないと本当のリーダーは生まれないのです。当たり前のことですが、出来る子も、出来ない子も、子どもも、老人も、障碍を持っている人も、そうでない人もいる多様な人たちの集まりをまとめることが出来る人が本当のリーダーなのです。ですから、成績優秀な子どもばかり集めても絶対にリーダーの育成など出来るわけがないのです。リーダーはそういう人のつながりの中で育てる以外に育てようがないのです。ただ命令を下したり、支配したりする人は支配者であってリーダーではないのです。日本の政治家はリーダーではなく、支配者を育てようとしています。日本人は全体として、「個」という感覚が弱い民族ですが、でも、寺子屋と家庭教育が主な教育の場として機能していた時代には、学びの場で子どもたちは個人としての感覚も育てていたのではないかと思うのです。一人一人に合わせた教育の場では点数で比較されることはありませんからね。それに、学びというものは本来、「個」の意識を育てる働きをするものなのです。真実の前では人はいつでも一人なんです。だから、孤独に耐えることが出来ない人は優秀な学者にはなれません。そして、優秀なリーダーにもなれません。だから、明治維新の時には優れた政治家が何人も現れたわけです。そして、幼い時から学校教育を受けてきた人たちの中からは大した政治家が出ていないのです。私は、子どもたちを点数で比較するシステムでは絶対に優秀なリーダーを育てることは出来ないと思っています。また、優秀な研究者も出てこないでしょう。(いないということではありません。数が少ないということです。そして、日本ではそういう人はあまり好待遇を受けていません。)リーダーとは比較を超越することが出来る人のことだからです。そして、そういう人でないと自分の責任で決断は出来ないのです。比較の世界に生きている人には決断は下せないのです。
2007.12.21
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今日は時間がなかったので簡単に。何故私が、強い心を育てるために必要なものは“決断”だということを書いたのかということを少しだけ説明します。どんな場合でも、人は決断する時に自分と向き合います。そもそも、自分と向き合うことが出来ない人は決断できないのです。まず、これが強さの条件の一つです。自分と向き合うことが出来るかどうかということです。また、決断する時、人は今までの自分を一つ超えます。決断するということは、“今までの自分を超える”ということなんです。だから、今までの自分を超える勇気のない人は決断することが出来ません。また、人が何かを決断する時には何かを犠牲にする時です。人は、新しい何かを得る時、今まで持っていた何かを失うのです。ですから、今自分が大切にしている何かを犠牲にする覚悟がない人は決断が出来ません。これは、“朝、今までより30分早く起きるようにする”というような簡単なことでも同じです。そして、この決断が出来ない人ほど、子育ては苦しくなります。
2007.12.20
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昨日のブログに関してsuzukiさんからなんと言ってもそれは、誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気の「4S2Y」でしょう。<中略> 4S2Yを身につけるためには、表現力、共感力、思考力、判断力(決断力)などが必要であり、そのためには小さな頃からの様々な実体験と実感、そしてそれら実体験と実感をきちんと価値付けてくれる大人が必要でしょう。というコメントをすももさんから「決断できる強い意志」って 「自分を信じる力」ってことでしょうか?というコメントを頂きました。有り難うございます。お二人のコメントはもっともだと思います。でも、私は子どもを育てる立場の人が子育ての場で生かすことが出来る考え方を探っています。表現力、共感力、思考力、判断力(決断力)などと言われても、そういうことが分かる人には分かりますが、分からない人には分かりません。表現力を育てるためには何が必要で、どんな関わり方をしたらよいのかなどということは、表現力のない人には分からないのです。理屈で聞いても理解も出来なければ、もちろん実行も出来ないでしょう。私は、“強い心”が、そのような多様な要素に分岐する以前の種を探しているのです。こういうことは7才までにその半分くらいまで決まってしまいます。14才頃までにさらにその残りの半分くらい決まってしまいます。だから幼児期の育ちが非常に重要になるわけです。でも、幼児期の子どもに誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気を求めるのは無理です。幼児期の子どもはただ自分らしく生きようとしているだけなのですから。大切なことは、その自分らしく生きようとしている子どもとどう関わったら子どもの心を強くする手助けが出来るのかということなんです。そこで一番大切にされなければならないことは“意志”の育ちなんです。強い意志の育ちが、太い木の幹になり、やがて枝を広げ誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気というものをその先に実らせるのです。じゃあ、どのようにしたらその強い意志を育てることが出来るのかと言うことです。でも、育て方を考える前に、その逆に“子どもの意志の育ちをつぶす方法”を考えてみましょう。子どもの意志の育ちをつぶすのは育てるよりずっと簡単だからです。子どもの意志を否定すればいいのです。子どもが自分の感覚で感じたこと、自分の考えで行ったことを否定していれば子どもの意志は育ちません。また、何でも先回りして大人が手を出し、口を出していれば、子どもは自分で感じなくなり、考えなくなります。そんなことをしても無駄だからです。そうすると、意志は育たなくなります。また、部屋の中に閉じこめて外の世界、大勢の仲間と触れさせないことです。その欲求はテレビやゲームやおもちゃだけで満たさせます。そうすると自分の世界に閉じこもるようになって、意志は育たなくなります。なぜなら、意志というものは能動的に感じ、考え、行動する時に必要な働きだからです。ね、意志の育ちをつぶすのは簡単でしょ。というより、もうすでに多くの人が実行していますよね。実は、この“能動的に”というところがポイントなんです。誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気などというものも全て能動的な精神がその背景にあるから成り立っているのです。受動的な誠実、受動的な責任、受動的な信頼などというものは存在しないのです。そして、幼児期は誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気ではなく、まずその“能動的な精神”を育てる時期なんです。能動的な精神が冒険の旅に出る過程で仲間や自然と触れ合い、様々な体験を通して、喜び、怒り、悲しみを味わい、誠実、責任、信頼、正義、優しさ、勇気というものを身につけていくのです。能動的な精神が育っていない子はその冒険の旅に出ることが出来ないのです。じゃあ、今度はその意志をどのように育てたらいいのかと言うことを考えてみます。でも、これはなかなか難しいのです。確かに、子どもが自分の感覚、自分の考えで行ったことを大人が否定していれば子どもの意志は育ちません。でも、だからといって、それを肯定するということはどういうことなのかということが分からないからです。子どもが好き勝手に何かをやっている時には、子どもは自分の感覚と考えで動いています。だからといって、じゃあそのままにしていれば子どもの意志が育つのかというとそんなことはないのです。放任にされても、子どもの意志は育たないのです。なぜなら、意志が育つためには“何かを乗り越える体験”が必要だからです。そして、その乗り越えた喜びに共感してくれる大人も必要です。ということでまた明日。皆さんのお考えも教えて下さいね。昨日書いた“決断”もまだ確定ではなく、今のところの仮説なのです。三島で講演するための考えをすすめるための仮説です。初めてのテーマなので色々と考えているのです。
2007.12.19
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(続)「強い心の育て方」さて問題は、昨日すももさんが書いて下さった 本当のところ、何を「強さ」というのでしょうね?おとなでも、子どもでも「見かけの強さ」の裏に、恐れや寂しさ、弱さを感じることがあります。という問題です。そりゃー心もからだも弱いより、強い方がいいですよね。そこまではほとんどの人に異論がないと思います。では、その“強い”とか“弱い”という基準は何なのでしょうか。いじめられている子は心が弱くて、いじめている子は心が強いのでしょうか。ケンカが弱い子は心が弱くて、ケンカが強い子は心が強いのでしょうか。泣き虫は心が弱くて、泣かない子は心が強いのでしょうか。学校に行けない子は心が弱くて、学校に行っている子は心が強いのでしょうか。勉強をしない子は心が弱くて、勉強している子は心が強いのでしょうか。心配ばかりしている子は心が弱くて、心配しない子は心が強いのでしょうか。すぐに逃げる子は心が弱くて、逃げない子は心が強い子なのでしょうか。どうですか。そのように思っている人も多いかも知れませんが、冷静に考えてみると、そう簡単には決めることが出来ませんよね。ちなみに、これらの基準は外見的なことばかりで実際の子どもの心の強さとは関係ありません。泣きながらでもじっと我慢する強さというものもあります。またその逆に、泣かないけど相手の言いなりになってしまう弱さというものもあります。登山や戦いの場などでは、“進む勇気、退く勇気”などということを言いますよね。それは、ただ前に進むのが勇気ではないということなのでしょう。この“勇気”も強い心から出ています。そして、この勇気は理性と感情のバランスが取れていることから生まれています。感情に振り回されていたら無謀な行動に出てしまいます。それは勇気ではありません。強い心でもありません。動物のように自分の感情を制御できないというだけのことです。かといって、“大変な状況だからもう行きたくなくなっちゃった”ということでもありませんよね。強い感情はそのまま生きているのです。でも、その“どうしても登りたい”という気持ちを、理性の判断に従って自分の意志で抑えているのですよね。これは心が強くなければ出来ないことです。ここで大切なことは、ただ“理性的であること”が強い心でもなく、“感情のままに行動すること”が強い心でもないと言うことなんです。確かに、理性的な人は自分の感情を無視することが出来ますから、一見強い心に見えます。でも、そういう人は他の人の感情に対しても鈍感です。つまり、心が強いのではなく、心が鈍感なだけなのです。また、感情のままに行動する人はどんな時でも自分を通そうとしますから、一見強い心に見えます。でも、このような人は自分を抑えることはできません。自分に振り回されているだけです。ですから、心が強いのではなく、逆に弱い人なのです。実は、感情と理性を統合して最終的な決断を下すことが出来る強い意志こそが強い心なのです。もう少し簡単に言うと“強い心”とは、“決断できる力”のことなんです。だから、前に進むとか、退却するとかそういうことは関係ありません。どちらであろうと、大切なことはちゃんと決断することが出来たかどうかなのです。勇気もそういうことです。我慢もそういうことです。いずれも決断が必要なんです。そして今、その決断できない人がいっぱいいます。あいまいな状態のまま流されているがいっぱいいます。情報を山のように抱えていても、かえってそれに振り回されてしまっている人は決断は出来ません。子育てでも同じです。理想の教育法を求めて歩いているばかりで決断できない人がいっぱいいます。でも、もしその教育法が理想通りでなかったとしても、お母さんが強い心で決断をすれば、子どもはそれなりにちゃんと育つのです。これが私が考えている“強い心”です。そして、この強い心は“自我”の働きから生まれています。<ということで続きます>
2007.12.18
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昨日は、海老名の(旧)「片桐助産院」に行ってきました。うちの3番目(中二)は「片桐助産院」で水中出産で生まれました。その時にお世話になった片桐先生は3年前にお亡くなりになり、片桐助産院は閉鎖されましたが建物はそのまま保存されていました。でも、道路の拡張工事に伴い一部取り壊すことになったため、その娘も連れて家族でお別れに行ってきたわけです。もし、このブログをお読みになっていらっしゃる方の中で片桐関係者がいらっしゃいましたら、お暇な時にいらしてみてください。講演をしている私の写真も貼ってあります。もう、13年位も前のことなので、かなり若いですけど。ということで今日のテーマです。「強い心の育て方」来年の1月19日に、静岡県の三島で講演会をします。そのテーマが「強い心の育て方」なんです。ただし、このテーマは私が決めたわけではありません。お母さん達のグループから“このテーマでお話しをしてください”と言われたのです。そして、私が扱ったことがないテーマなので、どうしてこのテーマなんだろうと色々と考えたわけです。まず、こういうテーマの話しを聞きたいと言うことは、子どもたちの現実はその逆の状態だということですよね。そして、お母さん達がその事に不安を感じているということなのでしょう。また、現代社会は子どもにとってあまりにも誘惑と危険が多いので、子どもがしっかりとしていないとすぐに道を外れてしまったり、危険な目に遭ってしまうという現実もあるでしょう。子どもが巻き込まれる事件も多いし、登校拒否も多いし、学級崩壊も多いし、陰湿なイジメも多い時代ですからね。そして、イジメの問題などでも“いじめられる側にはなって欲しくない”というのがお母さん達の本音のようです。だから、いじめの問題を解決しようといじめられている子のお母さんが立ち上がっても共感者がなかなか現れないのです。いじめられる子は弱い子だ、弱い子は親がしっかりと子育てしていないからだ。むしろいじめるくらいの強い子の方がたくましくて素敵だ。そのくらいでないと、この社会を生きていくことなんか出来ない。などと思いこんでしまっている人も少なくないように感じます。これは全くの間違いなのですが、そのように勘違いしてしまう背景としてはお母さん達自身がその弱さを抱えてビクビクしているからなのではないでしょうか。いつ、誰にそれを見透かされてしまうのか不安で、それを他の人に見透かされる前に他の人の弱さを指摘して優位に立とうとするのかも知れません。おならをしてしまった人が、最初に“誰だおならをしたのは”と言い出すのと同じ心理です。本当に強い人は他の人の弱さをかばうことはあっても、その弱さをつつくようなことはしないものなのです。ですから、“強い心が欲しい”というのはお母さん達自身の想いでもあるのでしょう。今の時代、自信を持って子育てをしているお母さんはそれほど多くありません。子育ては理論ではなく技術ですから実際に見たりやったりすることでしか学ぶことが出来ません。また、色々とアドバイスしてくれる人や手助けをしてくれる人も必要です。それは、踊りでも、体操でも、武術でも、自転車でも、とにかく技術を学ぶ時には必ず必要な要素なのです。でも、現代のお母さん達は基本的に情報だけで子育てをしています。でも、情報をいくら集めても絶対に技術は上達しません。また、自分のやり方が正しいのか間違っているのかを判定できないので、常に不安を感じます。特に、子育てはやり直しが出来ないので非常に不安を感じていると想います。そして、お母さん達は自分自身の不安と、自信のなさが子どもに影響してしまうことを恐れています。そして、実際影響してしまっています。それで、子どもだけでも強い子になって欲しいと願うのでしょう。<続きます>
2007.12.17
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ここまで色々と、“ものがたり”について、また“ものがたり”を書き換えることについて書いてきましたが、この“ものがたり”という視点を持つと、コーチング、カウンセリング、内観法、箱庭療法、前世療法などが、基本的には同じものであるということが見えてきます。少しずつ方法は違い、また働きかけ方も違いますが、みんなその人の心の中の“ものがたり”に働きかける方法だという点では共通しています。(洗脳も同じ方法を使います。)そして確かに、最近では、教育や子育てとつなげたコーチングの本も多く出ているようです。でも、私は子どもの育ちに必要なものはコーチングより、お話しの方なのではないかと思っています。それはコーチングは人の心に働きかける有効な方法かも知れませんが、一つの方法であってそれ自体には生命がないからです。でも、お話しには生命があるのです。一つのお話しは、一つの生き物なんです。そして、その生き物は子どもの心の中に入り込んで子どもの“ものがたり”を支える働きをしてくれます。桃太郎のお話の中の犬や猿やキジのようにです。それは一生一緒に付き添ってくれる仲間になります。確かに、コーチングのような即効性はありません。(実際にはそんなに簡単なものではないのかも知れませんが、そのようなイメージで宣伝していますよね。)また、大人の意図通りに子どもを育てる方法としても使えません。でも、お話しの生命が子どもの生命を支えてくれるのです。また、子どもは心の中に仲間を持つことで強くなることができるのです。そうして、冒険の旅に出ることが出来るようになるのです。大切なことは親子関係が良くなることだけではなく、子どもが一人で自分の人生を主人公として生きていく力を育てることなんです。もちろん、生きていく力を育てるためには良い親子関係は必要ですが、でも、それだけでは子どもがやがて親から離れ、家から出ていくためには不充分だと言うことです。それに、お話しをいっぱい聞かせているうちに自然と良い親子関係も育っていくものなんです。(ただし、お勉強的に押しつけてはだめですよ。)お母さんや、お父さんとの毎日の生活自体が楽しい“ものがたり”に変換されるからです。ですから、もっともっとお話しを聞かせて上げて欲しいのです。そうすれば、コーチングなど必要がなくなるのです。今、学力の問題、様々な事件、学級崩壊などなど様々な面で子どもたちの育ちの状態が危惧されています。でも、みんな根っこは一つなんです。みんな子どもの心の中の“ものがたり”の問題なんです。それはまた、子どもたちが本を読まなくなったということともつながっています。その事に気付かないで、みんな縦割り的に問題解決の方法を探っています。今のままの考え方の延長で、教える内容を変えても、教える量を変えてもその効果は一時的です。ちょっとした効果は出ても、長い目で見た時、子どもたちにやる気が生まれなければあまり意味はないのです。そして、授業で“やる気”を教えることは出来ません。“やる気”は“ものがたり”の中から生まれるのです。勇気も、希望も、愛も同じです。これらはみんな、“ものがたり”の中でしか生命を持つことが出来ない存在なんです。どうか、本をいっぱい読んであげて下さい。塾に行かせて疲れさせるより、そのお金で本をいっぱい買ってあげて下さい。テレビを見せて、疲れさせるより本を読んであげて下さい。また、学校でもいっぱい本を読んであげて下さい。先生が読んでも、お母さん達が読んでも構いません。とにかく、いっぱいお話しと出会わせてあげて下さい。学級崩壊していて授業が出来ないのならそんな幸いなことはありません。その時間に本を読んであげて下さい。(親の中には子どもの学ぶ権利を主張する人がいるかも知れませんが、そういう人の子は塾に行ってちゃんと勉強しているはずだから大丈夫です。そもそもお話しを聞くこと以上の“学び”はないのです。)また、これはこんなブログで書いても意味がないと思いますが、学校でもっと図書室を大切にして下さい。学力低下をくい止めるために予算を組むのなら、図書室を整備して、新しい本を買い、司書をやとい、毎日、一日中子どもたちが図書室を使えるようにして下さい。新しい学校を作る時には、図書室を学校の中心に据えて下さい。クラスに入ることが出来ない子どもたちは今保健室に行っていますが、基本的に保健室ではなく図書室に行くようにさせて下さい。司書の先生と、保健室の先生が連携して子どもをケアする体勢をつくるのです。図書室にコンピュータなど置く必要はありません。実際、小学校にコンピュータは必要はないのです。知識は基本的に本から学ぶものです。先生は、その本からの学び方を子どもに教えれば充分です。簡単に1000の知識を得た子より、その知識を探す一つの方法を学んだ子の方が絶対に伸びます。ただし、実際に自分のからだを使って知識を探す方法です。指先を使うだけで得た知識は、すぐに忘れます。小学校では知識ではなく“学ぶ楽しさ”と“学ぶ技術”を中心に子どもたちに伝えるべきなんです。結果ではなく、考え方を伝えるべきなんです。そういう時に、“ものがたりの技術”が生きてくるのです。というより、“ものがたりの技術”を使わないことにはそういうものを子どもたちに伝えることが出来ないのです。
2007.12.16
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よく、「過去は変えられないが、現在と未来は変えることが出来る」という言葉を聞きますが、それは正しくありません。人間は過去を変えることは出来ても、現在と未来を変えることは出来ないのです。過去を変えられないと思いこんでいる人は過去を絶対のものとしてとらわれている人です。だとすると、その過去の結果である現在も変えることが出来ないはずなんです。この世界では、過去とつながらない出来事は決して起きないからです。過去の延長にしか現在はないし、現在の延長にしか未来はないのです。ただし、ここで私が言っている“過去”とは心の中の過去です。そして、実際人を縛っているのは現実世界の過去ではなく、心の中の過去なのです。だから変えることが出来るのです。でも、“現在”は現実であり自分の心の外にあります。ですから、行動によってしかその現在を変えることが出来ません。つまり、“現在を変えよう”という言葉の意味は、“自分が強い意志で決意し、行動すれば現在を変えることができる”ということなのだろうと思います。でも、意志とか決意などというものはそう簡単に出てくるものではありません。だから、そこで“頑張れ”という言葉も出てくるわけです。でも、意志とか決意というものは励まされたからといって出てくるものでもありません。“頑張れ”という言葉は、もうすでに決意や意志をもって行動しようとしている人には有効ですが、諦めている人、逃げようとしている人、絶望している人を励ますことはできないのです。むしろ、“頑張ることが出来ない自分はだめな人間なんだ”と追いつめてしまいます。人の決意や意志というものを決めているのはその人の心の中の過去なのです心の中の“ものがたり”なんです。だから、過去を変えないことには現在を変えることは出来ないわけです。そして、頑張れという言葉にはその物語を変える力はないのです。cそして、その過去を変えるのは自分にしかできません。過去は自分の心の中にしかないからです。でも、この作業では頑張る必要はありません。視点を変えるだけで簡単に過去は変わってしまうからです。他の人はそのお手伝いは出来ます。本人はズーッとたった一つの視点だけに囚われてきているので、他の視点に立って物事を見直すという作業に慣れていないからです。そうして、過去が変われば当然現在も変わります。そして、未来も変わります。そして、現在が変わり始めた人に“頑張れ”と励ますのです。これは“逆戻りをするな”という励ましの言葉です。ちなみに、子どもは現在がそのまま過去につながっているので、周囲の大人が現在を変えてあげるだけで過去も変わり、未来も変わります。言っている意味、分かりますか。子どもの場合は過去という心の中の“ものがたり”と、現在という現実との間に境目がないのです。子ども時代は過去を作っている時期なのです。
2007.12.15
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昨日は、“宝物”と“トラウマ”は同じものだと書きました。どう同じなのかというと、両方とも“心の中のものがたり”だからです。でも、宝物としての“ものがたり”は心にパワーを与えてくれますが、トラウマとしての“ものがたり”は心からパワーを奪います。白魔術と黒魔術なのかも知れません。でも、もともと同じものなのでダージリンさんがあらゆることを、プラスに変換して自分の体の中に取り込めば、 全てが宝物に変わっていく。と書いて下さったように、変換が可能なんです。それはつまり、“ものがたり”を書き換えてしまうと言うことです。でも、事実は事実です。それを勝手に変えることはできません。でも、“ものがたり”の流れを決めているのは実は事実の方ではなく、事実と事実をつないでいる心の中の声なんです。それはつまり、“事実をどのように解釈しているのか”ということです。事実が変わらなくても、この解釈が変わってしまえば“ものがたり”の流れは変わってしまうのです。まるで弁護士と検事のようなものです。同じ事実を前にしても、解釈を変えてしまうだけで“出来事の事実”は変わらなくても、“真実と意味”は変わってしまうのです。そして、その解釈を変えるのは視点を変えるという作業なんです。視点を変えて事実を読み直すだけで“絶望のものがたり”が“希望のものがたり”になってしまったりするのです。例えば、“お母さんのせいで・・・”という“ものがたり”を、“お母さんのおかげで・・・”という“ものがたり”に書き換えてみて下さい。必ず書き換えることが出来るはずなんです。ということで明日に続くかも知れません・・・・。
2007.12.14
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さて、今日は宝物の作り方です。実はこれはそれほど難しくありません。難しくないことなんですが、でも今、大人も子どももその宝物を持っている人が少なくなってしまっています。大分以前に私達のグループで茅ヶ崎に絵本作家の田島誠三さんをお呼びしたことがあります。その時、彼が言ったのが“生命(いのち)の記憶は忘れない”ということです。わたし流に言い換えると、“生命の感覚に触れるような体験は忘れない”ということです。幼い頃、小川の中に入ってザリガニやドジョウを追いかけたこと、穴の中に逃げ込んだドジョウ(ザリガニ?)を捕まえるために、その穴に手を突っ込んでギュッと握った時に、その手の中で“ブルブル”とふるえたその手の中の感触を今でも覚えていると言っていました。(お話しを聞いたのが昔のことなので細部が違っているかも知れません。)「ふるさと」という歌があります。兎追ひし かの山小鮒(こぶな)釣りし かの川夢は今も めぐりて忘れがたき 故郷(ふるさと)そう、子どもの頃にその生命の感覚に響いていた体験は大人になっても消えないのです。そして宝物になっていきます。こういう事を言うと、多くの方が“でも、うちの周りは住宅街でドジョウもザリガニもいません・・・・・・・・”とおっしゃるかも知れませんね。でも、そんなこと関係ないのです。例えば、お母さんがギュット子どもの手を握ってあげるだけで子どもの生命の感覚に触れることができるのです。子どもは生命(いのち)の固まりだからです。そういうことを毎日繰り返しているとその記憶は子どもの心とからだの中に残っていくのです。そして、宝物になっていきます。ただし、その時お母さんに笑顔があればそれは宝物になりますが、でも、怖い顔があればトラウマになります。もしかしたら、大人になっても人に手を握られることに恐怖心を感じるようになってしまうかも知れません。実は、肯定的な生命の記憶が宝物で、否定的な記憶がトラウマなのです。ザリガニを捕まえようと穴に手を突っ込んでも、手を挟まれてケガをしてしまったらトラウマになってしまう可能性もあるということです。でも、その後でお母さんやみんなに優しくもらうことが出来たら、その記憶が宝物になるでしょう。今、幼い頃のトラウマを抱えている人は山ほどいます。それはもしかしたら宝物になるはずだった生命の体験なのかも知れません。でも、それは寂しいことです。子どもにはトラウマではなく宝物をいっぱい持たせてあげたいですよね。ということで、皆さんにも簡単に出来る“宝物を育てる方法”をいくつかお教えします。○一緒に歌を歌う カラオケではダメです。テレビやCDに合わせるのもだめです。 日常生活の中で親子で一緒に歌うのです。 お母さんが日常的に歌ってあげていれば子どもはすぐに覚えます。 それと、歌謡曲より、童謡やわらべうたの方が子どもの心に残ります。 お母さんと一緒に歌った歌、そしてその時間は宝物になります。 (宣伝ですが、自家製のわらべうたのCD販売しています。50曲、イラスト付き。)○読み聞かせをいっぱいしてあげる 夜寝る前などに、読み聞かせをいっぱいしてあげて下さい。 お母さん(お父さん)に繰り返し読んでもらったおはなしは、宝物です。 字が読めるからと言って、自分で読ませてはだめです。読んでもらうから宝物になるのです。 それは、小学生でも、中学生でも、大人になっても同じです。 自分で読むのと、読んでもらうのとでは心の違うところに入るのです。○野原や山や海などで一緒に何かを探す どんぐりでも、貝殻でも、落ち葉でも、小石でも、一緒に何かを探してみて下さい。 そんなことでも子どもはずーっと覚えているものです。○生活の技を伝える 包丁の使い方、お掃除の仕方などなど 本当は、子どもはお母さんのお手伝いが大好きなんです。 大切なことは“一人でやる”と言い出すようになるまでは、子ども一人にやらせるのではなく、“楽しく一緒にやる”ことです。 また、その時間にテレビがついているとお手伝いが嫌いになってしまいます。 でも、昔は伝えることがいっぱいありましたけど、今は少ないですね。 カマドなどでの火の付け方など大人も知りませんからね。 こうやって学んだことも宝物になります。○名前を覚えよう 散歩の時などによく見かける花や木などの名前を覚えてみましょう。 子どもと一緒に触って、匂いなどをかいでみましょう。 すると、その花や木は宝物になります。まだまだいっぱいありますが。このくらいにしておきます。からだ遊びも宝物を育てますが、ブログでご紹介するのは難しいです。(ワークに呼んで頂ければ直接お教えしますけど・・・)<しつこいですが、続きます>
2007.12.13
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どうですか、心の中の“宝探し”やってみましたか。昨日は「宝物」ということで、本人が大切にしているものなら、道ばたの小石でも、森で拾ったどんぐりでも宝物です。ということを書きました。そうなんです、価値があるものだから宝物になるわけではないのです。大切にしているものだから宝物なんです。そして、大切にしているものだから価値が生まれるのです。そして、それは一人一人違います。そしてまた、部族ごと、文化ごとにも違います。でも、今人々はお金で価値を計ろうとしています。お金による価値は客観的で、また世界共通だからでしょう。そして、そのような価値のある物を持つことで安心するのです。でも、いくら高価なものだからといっても、それだけではそれは宝物ではありません。ただの“財産”です。失いたくないものかも知れませんが、守りたいものでもないでしょう。もっといいものと取り替えてあげると言われたら取り替えてしまうでしょう。一生懸命に働いて1000万円の車を買って、“これがぼくの宝物だ”と言ったとしても、誰かに“2000万円の車と取り替えてくれない”と言われてよろこんでしまうようなものなら、それは宝物ではないのです。宝物とはかけがえのないものです。“もっといいもの”など存在しないのです。“子どもこそが私の宝物だ”と言う場合、その子が成績優秀で、眉目秀麗で、スタイルが良くて、頭がいい必要はありません。バカで、言うことを聞かなくて、ブサイクで、うるさくても大切にしているわが子だから宝物なんです。どんなに子育てで苦しんでいるお母さんでも、“もっと賢くて、スタイルも顔もよくて、素直ないい子と代えてあげましょうか”と言われて“ああ、よかった”などと言う人はいませんよね。(いたりして・・・・)宝物の価値は他人や社会が決めるものではないのです。自分で決めるのです。ですから、いつでも他の人と比較をしているようなものは宝物ではないのです。つまり、わが子をいつでも他の子と比べている人にとっては、“わが子”は宝物ではないのです。子どもも同じです。“もっといいのが欲しい”、“もっと新しいのが欲しい”などと言うようなものは宝物ではないのです。そう考えていくと、大人も、子どもも今の時代、本当の宝物を持っている人はあまり多くないように感じるのです。だから、心が貧しくなってしまっているのです。宝物をいっぱい持っている人は豊かな人です。他の人からどう見えようと、宝物をいっぱい持っていれば豊かなんです。そうですよね。そして、豊かな人は幸せな人です。満たされているからです。そういう人は犯罪など起こさないのです。金銭的な価値は少なくても宝物は宝物です。確かに、お金をいっぱい持っていれば“お金持ち”にはなれます。でも、お金を持っているだけでは“豊かな人”にはなれないのです。“お金で買えないものなど無い”などと言って、今牢屋にいる人がいますが、その人もお金持ちではあっても、豊かではなかったのでしょうね。宝物はお金では買えないからです。そして、人々がお金持ちを目指す社会では自然は壊れ、人々のつながりは消え、心は虚無に囚われるようになるでしょう。でも、一人一人が宝物をいっぱい持つことが出来るような社会なら、自然も豊かになるでしょう、人々のつながりも心も豊かになるでしょう。そうすれば、人間も他の生き物もすべてみんなが幸せに暮らすことが出来ますよね。<続きます>
2007.12.12
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先日、三重でお話ししてきた内容です。(この通りではありませんけど)「宝物を育てる子育て」みなさん、“宝物”という言葉を聞いて、どんなものを思い浮かべますか。“宝物はなあに?”と子どもたちに聞くと、特に男の子達の多くは“ゲーム(機)”と答えます。というより、他に宝物が無いようですけど・・・。皆さんにとっての宝物は何ですか。すぐに答えることが出来ますか。“子ども”とか“家族”と答える人は多いでしょうね。他にはありますか。どれだけいっぱい宝物を持っていますか。ちなみに、この“宝物”は物でなくてもOKです。想い出や技術でも結構です。とにかく、大切にしていて“かけがえのないもの”のことです。一度失ったら取り返しの付かないものです。まず、それを想い出してみてください。そして、心の中で“これは私の宝物”と言ってみて下さい。子どもが宝物だと言える人は、子どもを抱きしめて“私の宝物”と心の中で言ってみて下さい。もちろん、口に出して言ってもOKです。そんな風にして、心の中に隠れている宝物を探すのは楽しい作業です。一つ一つ見つけて、“これは私の宝物”と言ってあげて下さい。そうすると、なんか幸せな気持ちになりませんか。宝物をいっぱい持っている人は“豊かな人”、“幸せな人”なんです。どうですか、いっぱい見つかりましたか。皆さんのお子さんには宝物があるでしょうか。お子さんは、かけがえのない大切なものをいっぱい持っているでしょうか。ただし、本人が大切にしていないものはどんなに価値があっても、宝物ではありません。逆に、本人が大切にしているものなら、道ばたの小石でも、森で拾ったどんぐりでも宝物です。ということで、明日に続きます。
2007.12.11
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最初にワークショップのお知らせです。子育てワークショップ in 茅ヶ崎「2才から7才までのしつけ」(気質と、子どもとのコミニケーションからしつけを考える)日時: 2008年1月20日(日) 10:00~11:50詳細はチラシをご覧になって下さい。講師は私です。2才以上のお子さんの保育あります。<以下は、チラシに書いた説明文です。> 7才までのしつけで一番大切なことは子どもとの間にしっかりとした信頼関係を築くことです。“あれをしてはいけない”、“これをしなさい”と子どもを追い立てることではありません。ましてやお母さんの言うことを素直に聞く子どもに育てることでもありません。 それだけでは心配ですか? でも、お母さんとしっかりとした信頼関係でつながっている子は、優しくて、賢くて、精神的に安定しているものなのです。(但し、大人しいということではありません。気質の問題もありますから。)そして、そういう子は大人の言葉にも素直に耳を傾けることが出来ます。ですから必要以上にしつけで悩むこともないのです。 それに対して、お母さんとの信頼関係が築けていない子は落ちつきがなく、大人の言葉を聞こうとはしません。それで、指示や命令が必要になり、しつけに悩むようになってしまうのです。*******************************「教育の形」(ものがたりを紡ぐ授業)昨日、この、創造的あることと関係してきますが、“ジャンルにとらわれない”ということも大切です。この問題は指導要領とも関係しているので、日本の教育でこれを実現するのはなかなか困難だと思います。子どもたちにしてみれば、別々のことだと思っていたことがみんなつながっていたという事を知るのはワクワクするものなのです。新しい“ものがたり”が産まれるからです。と書きましたが、昨日三重に行く電車の中で読んでいた本の中に、これに関係する授業を見つけましたので一つご紹介します。「イーハトーボ小学校の春」(井出良一著/一ツ橋書房)から「km授業」 まず、50メートルのまき尺をもち、わが桜台小学校の東門から中学校のほうへむかって子どもたちとはかりながら歩いた。子どもがはかった距離をノートに書きこんでいく。1000メートルは中学校の正門よりちょっといったところ。帰るとき、中学校の三階の教室の窓で昨年卒業させた子どもたちが鈴なりになって私に手をふる。私も手をふりながら、窓から落ちないか心配だ。 教室で、西門から1キロメートルはどのへんかを考えた。子どもたちはいろいろ答える。「もう一回はかりにいこう」と言うから、私が「教室にいてわかる方法があるよ」と言うと、子どもたちは、しばらく考えて、ついに、高槻市と大阪府が両面に刷ってある大きな地図を出す。そこで縮尺を教えて、買ったばっかりのコンパスを出させてーキロメートルの円をかかせる。「わあ、西大冠小学校のつぎの信号の、ちょっと手前やった」 上高槻市の採石場や天満宮、明治製菓(社会見学でいった)などまでの距離をはかる。 つぎの時間は大阪府の地図へ。堺市まで35キロメートル。「堺という町はね、むかし……」といろいろ話してやりながらつぎの市へ。大阪府でたったひとつの村である千早赤坂村まで四五キロメートル。南のはしの岬町、北の能勢町……とはかって、隣の京都市まで23キロメートル。 つぎの時間は日本地図へ。北海道の稚内市までは1300キロメートル。「稚内の駅をおりると映画館があって、なんとなくうらさびしくって、サロベツ原野には底なし沼があってね……」などと話しながら札幌市までは1050キロメートル。青森市までは820キロメートル。札幌がアイヌ民族のことばであることとか、青森のりんごやねぶたのこととか、そのほか坂本龍馬、広島のカキ、原爆など、いろんな話をしてやりながら沖縄の与那国島1680キロメートルまでいく。 そのあとの給食にりんごがでる。子どもたちは「青森のりんご、青森のりんご」とよびかけながらりんごを配っている。ちょうど昼休みに同僚の先生の田舎からカキがおくられてきた。さっそくいただいて子どもとスケッチをする。生きたカキを見るのははじめてらしい。つぎの時間は世界地図へ。サンフランシスコとモスクワは日本から同じ距離なのを発見する。 そして、太陽系へ。月までの距離、太陽の直径、太陽系の直径を調べる。太陽と冥王星、太陽と地球の距離から地球と冥王星の距離を計算する。 ’ 銀河系宇宙。ここで一光年の計算をする。光は一秒間に37万キロメートル進む。一年間の秒を計算してかければよい。シリウス、ケンタウルス座のアルファ星、デネブなどの距離を調べる。 それから、大宇宙ヘー。 (一九八七年)こういう授業をやっていた先生がいたのですね。こういう授業なら子どもたちがワクワクしますよね。子どもたちに知識を伝える時にはまず自分の生活につながったところから具体的に始めて、それをたぐりながら広げていくと、自然に引き込まれるのですね。宇宙のことと、自分の学校がつなってしまうのですからすごいですよね。この文章を読んでいて心の中に色々な“ものがたり”が生まれませんか。そして、“次はどうなるんだろうか・・・・”と紡ぎたくなりませんか。でも、教科書には宇宙のことは書いてあっても、自分たちの生活とはつなげて書いていないので、自分たちとは関係のない話しとしてしか聞くことが出来ません。でも、それでは興味が出ないでしょうね。それをつなげるのが先生達の役目なのではないかと思います。でも、それは先生達が自分で発見するしかないのですよね。そして、忙しい先生にはそれは出来ません。この授業の舞台は大阪のようですが、これも北海道の学校でやったら違う授業になるのが自然ですからね。そして、そういうことは指導要領には書いてないでしょうね。昨日講演が終わった後、小学校の先生と別の講演会の打ち合わせをしたのですがその時お話ししたのが“小学校の先生の役割は学問という世界へのガイドなのではないですか”ということです。小学校の先生はその分野の専門家ではありません。国語を教えていても国語の専門家ではありません。算数を教えていても算数の専門家ではありません。小学校の先生というものは教える専門家であって、学問の専門家ではないのです。だから、いつでも学問というものに対する謙虚さを持っていて欲しいと思います。勝手に“正解”を決めないで欲しいと思います。もっと、学ぶことの楽しさを伝えるということを大切にして欲しいと思います。それが小学校の先生の役目なのではないかと思うからです。“教えたのに覚えていないのは子どもの責任だ”と子どもの責任にしてしまうのは教えるプロとしては無責任です。“教える”のではなく、きちんと“伝えて欲しい”のです。また、つまらない知識を子どもに押しつけないで欲しいと思います。学ぶことを嫌いにさせないで欲しいと思います。先生は学問の世界へのガイド役として、“学ぶってこんなに楽しいんだよ”、“国語を学ぶとこんなに広い世界が見えてくるんだよ”、“算数を学ぶとこんなすごいことが分かるんだよ”ということを伝え、“あとは自分の力で進んでみなさい、困ったら助けてあげるから”と後押ししてあげればいいのです。こういう授業をしていたら学級崩壊など起きないのではないでしょうか。これは子育ての場でも同じではないでしょうか。実は、親は人生のガイド役で、“生きるってこんなに楽しいんだよ”ということを子どもたちに伝えるのが親の役割なのではないでしょうか。皆さんは、どう思いますか。
2007.12.10
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今日は、これから三重で仕事なので早めにアップしますシュタイナー教育では「教育芸術」という言葉を使います。芸術教育ではありません。確かに、シュタイナー教育では芸術的な活動をいっぱい取り入れています。そのため、シュタイナー教育を芸術をいっぱい教える教育のように勘違いしている人もいるようです。でも、そうではありません。教育芸術とは、“教育という芸術”という意味なのです。教師は芸術家のように授業に、そして子どもたちに向き合いなさいということなのです。じゃあ、その“芸術家のように”というのはどういう意味なのかと言うことです。まず、自分の頭で考え、自分の感性で感じ、自分の意志で決断し、自分の責任で行動することが求められます。どんな分野であろうと、これが出来ない人は芸術家には成れません。また、一期一会を大切にします。授業は教師にとっては毎日繰り返されるお仕事なのかも知れませんが、子どもにとっては毎日が新しいのです。そして、毎日が全てなんです。昨日まで楽しくても、今日楽しくなければ学校には行けないのです。先生のちょっとした言葉、行為がきっかけで、次の日には子どもが学校に来ることができなくなってしまうことだってあるのです。さらには、その子どもの一生を縛り続けることになることすらあるのです。子どもの心に消しゴムは使えないのです。それは、学びにおいても同じです。先生のちょっとしたひと言でその勉強が好きになり、その子どもの一生を決めてしまうこともあるのです。もちろん、その逆もあります。その事を知っていたら、先生も毎日一期一会の気持ちで子どもと向き合う必要があるのです。また、創造的であることを大切にします。子どもは創造的な活動が大好きです。創造的な活動をしている時、子どもの心は冒険者のようにワクワク、生き生きしてきます。なぜならそこに“ものがたり”が生まれるからです。そして、それは芸術的な活動の時だけではありません。遊びでも、勉強でも同じなんです。子どもたちは、学ぶことが創造的に与えられた時、自ら学ぼうとし始めます。なぜなら、“ものがたり”の次の展開を知りたくなるからです。でも、今の日本の教育ではこれが決定的に失われています。今、日本の子どもたちの“学ぶ意欲の低下”が問題になっていますが、実はこの授業の中での創造性の欠如が非常に強く影響しているのです。それは、先生達が創造的ではなくなったということと関係しています。また、それは先生が急がしすぎるという事と関係しています。時間に追われる人は創造的に考えることなどできないのです。教える量を増やしても、学ぶ意欲が目覚めなければ全てが無駄なんです。もし、子どもたちの学力を上げたいのなら、先生達を自由にしてあげることです。フィンランドの先生の仕事は基本的に授業だけのようです。他の事は専門の職員がいるのです。でも、日本の先生は一人で全てをこなしています。この、創造的あることと関係してきますが、“ジャンルにとらわれない”ということも大切です。この問題は指導要領とも関係しているので、日本の教育でこれを実現するのはなかなか困難だと思います。子どもたちにしてみれば、別々のことだと思っていたことがみんなつながっていたという事を知るのはワクワクするものなのです。新しい“ものがたり”が産まれるからです。ということで、尻切れトンボですが今日はここまでにしておきます。出かける準備がありますから。
2007.12.09
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少し、昨日の補足をします。子どもを、他人の目に縛られている「他律的なまじめ」ではなく、自分の意志で行動できる「自律的なまじめ」な子に育てるためには、“群れ遊び”が必要だと書きました。なぜなら、異年齢による群れ遊びの場では多様な価値観との出会い、ぶつかり合い、そして助け合いを体験できるからです。子どもが、自分の意志で行動できる自律したまじめな子に育つためには多様な価値観との出会いが必要なんです。多様な価値観との出会いが、心の中に“自由”を生み出すのです。でも、最近の子はたった一つの価値観しか体験することが出来ません。たった一つの価値観の体験しかないからそれに縛られてしまうのです。それが“よい子”という価値観です。群れ遊びの場では学校では悪ガキで先生にいつも怒られているような子が、竹馬がうまかったり、ケンカが強かったり、木登りが上手だったりしてあこがれの的だったりすることがよくあるのです。そういう場では、勉強なんて何の役にも立たないのです。人のいうことを素直に聞く“よい子”はバカにされるだけです。そういう体験を通して、子どもは一つの価値観だけに縛られることがなくなるのです。賢くなるのです。でも、それは大人から見たら“ずるくなった”と見えるかも知れません。でも、人間が自分の人生を自分のものとしてしっかりと生きて行くためにはそのずるさも必要なんです。ですから、自分の意志で行動することができる自律的なまじめな人は、ちゃんとずるさも持っています。ただし、悪意のあるずるさではありません。現実に合わせて自分の対応を変えることが出来るずるさです。これは、“柔軟性”と言い換えることもできます。それが出来ない人はすぐに行き詰まってしまいます。簡単に自殺してしまうような人はそのような“ずるさ”(柔軟性)を持っていない人です。(もちろん、悪意を持って人を欺くような“ずるさ”は良くありません。)ですから、必ずしも群れ遊びの体験だけが子どもの自律的なまじめを育ててくれるわけではありません。色々な人との出会い、色々な場の体験も必要です。そして、本をいっぱい読むことです。本の中には多様な価値観が含まれています。ですから、本の中でそのような様々な価値観と出会うこともできるのです。「私の場合」ということで、以下はぬくみずさんの質問なのですが、篠先生は子育ての際コンピューターゲームやテレビとどのような関わりをさせていましたか?というご質問に答えさせて頂きます。でも、最初にお断りしておきますが、我が家の例を聞いてもあまり役に立ちませんよ。こういう問題にはたった一つの正解などないのですから。正解は自分と自分の子どもの間で探していくものです。まず、私の教育方針は“いいかげん”ということです。私は満点主義ではなく80点主義なんです。満点は嫌いです。私にとっては80点とれれば満点なんです。逆に本当に満点がとれたら不安になって20点減らそうとしてしまいます。そうでないと満点に縛られてしまうからです。自由ではなくなってしまうからです。それと、“なるべく”という主義です。なるべく、テレビを見ないようにする。なるべく、からだによいものを食べるようにする。なるべく、色々な体験をさせる。などなどです。その“なるべく”が出来ていればOKです。“絶対に”などという基準は我が家にはありません。ですから、このブログを読まれている方の中には、私がすごく立派な子育てをしているかのように思いこんでいらっしゃる方もいるかも知れませんが、それは勘違いです。我が家ではテレビも見ています。でも、なるべく少なくするようにしています。ですから、子どもたちは時々テレビを付けるのを忘れてしまいます。一昨日もテレビはついていたのですが、ドイツの友人が送ってきてくれた神経衰弱を家族みんなでやっていたので、テレビは見ていませんでした。ただし、食事が食べ終わるまではテレビは付けません。これは例外的に“絶対”です。ゲーム機はありません。でも、一日30分だけ、パソコンでゲームをやってもいいようになっています。でも、オンラインゲームは禁止です。これも例外的に絶対です。昔のインベーダーゲーム程度のゲームで遊んでいます。うちの子はこれで満足のようです。マンガもちゃんとあります。ドラゴンボールが全巻、ドラゴンクエストが全巻、それといくつかの他のマンガです。このマンガ類は上の二人(現在大学3年と、1年)が買い集めたものです。でも、なぜかこれ以上マンガが増えません。うちの子どもたちは、同じマンガを何回も、何回も繰り返して読むのが好きなようなのです。最後まで読んだら、また一巻目から読み始めています。ただ、うちの子育て状況はよその一般的な家庭とは大分違います。その事も含めて知って頂かないと、子どもの状況が見えてきません。まず、我が家は自宅が造形教室です。それで、子どもたちは赤ちゃんの時から造形をやっています。ゲーム機はありませんがそれで子どもがバカにされることはありません。子どもの友人達はうちに遊びに来れば造形遊びが出来ることを知っているので、友達もよく遊びに来ます。昨日も来て一緒に何か作っていました。それと、わらべうた、からだ遊び、劇遊びなどを中心にした親子遊びの教室もやっているので、これも赤ちゃんの時から参加しています。幼稚園時代はこの日だけ幼稚園を休ませました。茅ヶ崎で「賢治の楽校」という活動もしていて、毎年夏には70人くらいで合宿をして森の中で劇遊びをやっています。それにも参加しています。以前は毎月(今は隔月)「冒険クラブ」という外遊びの会も企画していて、たき火をしたり、野山を探検したりという遊びも日常的にやっています。さらには、お母さん達のグループに依頼されてやっている外遊びの会にも自分の子を連れて行っていました。また、家内がぬらし絵の先生なので小さい時からぬらし絵をやっています。フォルメンもやっていました。3番目の娘は小さい時オイリュトミーの教室にも通っていました。そして、読み聞かせは毎日休みなくやっています。これは私の楽しみです。今、21才の長女が2才くらいの頃からですから、もう20年近くほとんど毎日読み聞かせをやっています。それと子どもが小さい時には毎晩私とからだ遊びをやっていました。どうですか、あまり役には立ちませんでしょ。テレビの問題でも、ゲームの問題でも全部それ以外の日常生活とつながっているのです。ですから、他の人の話を聞いてもあまり役には立たないのです。テレビやゲームとの関わり方だけは真似することが出来ても、生活を真似することは出来ませんからね。それと、私はこのように色々とやっていますが、必ずしも子育てにはこういう活動が必要だということではありませんからね。私は子どもと遊ぶのが好きでこういう活動をしているのですが、もっともっと普通の生活をしながらでも素敵な子育てをしている人はいっぱいいます。大切なことは“自分流”を見つける事なんです。そして、フラフラしないことです。どんなに素晴らしいことでも親が信念を持ってやっていなければ無駄です。でも、くだらないと思えるようなことでも、親が信念を持ってやっていればそれなりに子どもを育てる力になるのです。昔の話しですが、ある著名な社会人類学者がアメリカインディアンの子育て状況を調査して回ったそうです。その結果、部族によって様々な子育て法があり、厳しく育てている部族もあれば、優しく育てている部族もあったそうです。でも、部族によって子育て方法は違っていてもみんなそれなりにその部族にふさわしい大人に成長していくそうです。でも、調査していて子どもが混乱しておかしくなっている部族もあったそうです。それは白人がやってきて“そんな子育てをしたらダメだ”と言われた部族だそうです。自分たちのやり方に自信を失った途端に効き目がなくなってしまったのです。
2007.12.08
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昨日は学校の先生を擁護するようなことを書きましたが、でも、先生としてふさわしくない人はやめてもらいたいとも思っています。でも、それは授業の上手下手とは関係ありません。下手でも一生懸命努力すれば上手になるし、先生が努力し、成長していく姿を子どもたちが見ることで、それが子どもの成長意欲も育ててくれるでしょう。でも、成長することをあきらめ、子どもをバカにする先生はただ害になるばかりです。勉強が出来ない子をバカにする。動作がのろい子をバカにする。忘れ物が多い子をバカにする。太った子をバカにする。言うことを聞かない子をバカにする。実際、こんなとんでもない先生が時々いるのです。こんな先生は即刻、辞めて頂きたい。これはベテランであろうと、校長であろうと、勉強の教え方がうまかろうと同じです。(こういう親も時々いますが、“親をやめてください”とは言えないのが難しいです・・・・)学校はあくまでも人間が成長する場です。人間が成長する場だからこそ子どもも成長するのです。ですから、成長したいという意欲を失った人は早めに教壇を降りて欲しいと思っています。子どもたちが可哀想ですから。それと、新任の先生が未熟なのは当たり前なのです。それはお母さん達がお母さんとして未熟なのと同じなのです。どんなに知識が豊富でも、子育ても教育も現場で求められるのは実技ですから最初は誰でも未熟なんです。ですから、本人が必死になって頑張っているのなら是非支えてあげて欲しいのです。それがまたお子さんの、そしてお母さん自身の成長につながるのではないでしょうか。ということで今日のテーマです。「“まじめ”という病気」日本人は真面目な民族として有名です。礼儀正しく、勤勉で、丁寧です。外国のホテルなどでも日本人のお客は大歓迎されるようです。奇麗に丁寧に使ってくれるからです。(ただ、最近海外にホームステイに行く子どもたちの評判は最悪ですけどね・・・・)でも、日本人として、身内として、内側からその“真面目”を観察していると、実際はどうもそんなに褒められたことでもないのではないかと思うのです。私の考えでは、“まじめ”には二種類あると思います。それは、自律的なものと他律的なものです。つまり、自分の意志と精神性から自然に出た“まじめ”と、他の人の目や規律に縛られた“まじめ”です。前者の“まじめ”はその人の自然な表現としての“まじめ”なので、心にゆとりがあります。他の人の意見を聞くことも出来るし、時には相手に合わせて“ふまじめ”を遊ぶこともできます。でも、後者の“まじめ”には自由も余裕もありません。ただ、ひたすら“まじめ”という役を演じ続けるだけです。そして、このタイプのまじめな人は、前者の自律的なまじめな人たちを“ふまじめ”だと非難します。例えば、このブログからリンクしている科学寅さんなどは、魔法使いの服を着て、子どもを迷わすような怪しげな事を言って授業をしているようです。まじめに縛られている人から見たら、これは“ふまじめ”そのものです。でも、本人はいたってまじめなんです。なぜなら、彼は自分の主義、考え、想いに対してまじめなのであって他人にどのように思われるのかなどということを気にしているまじめではないからです。でも、どうも日本には寅さんのようなタイプの“まじめな人”は少ないように感じるのです。人目を気にして“まじめ”を演じているだけの人の方が圧倒的に多いように思えるのです。その証拠に、日本人には本音と建て前という裏と表があります。また、他人の目がある場ではまじめですが、他人の目がないところでは平気で羽目を外します。つまり、はずせることができる“まじめ”なんです。また、ちょっとしたきっかけで切れてしまう人が多いのもその証拠でしょう。電車の中でちょっと足を踏まれた、窓口の対応がちょっと悪いと言うだけのことで、立派な身なりの中年の人が突然切れて罵声を浴びせかけるなどと言うような混乱した状態に陥ってしまうのも、まじめに子育てしているように見えるお母さんが子どものことなど考えていないこともよくあります。私の大学の時の恩師が、以前東南アジアでの売春の実態を調査したことがあるそうです。もちろん、色々な国の人が売春に参加するのですが、特に日本人の売春はひどかったそうです。“ツアーをくんで大挙してやってくる”と言っていました。また、政治家の裏と表、先生と呼ばれる人たちの裏と表も色々と問題になっています。どうも、“ばれなきゃいいんだ”という表面的なまじめが日本人の間に広がっているような気がしてならないのです。でも、(江戸時代生まれの)明治の頃の日本人のまじめはもっと自律的だったのではないでしょうか。だから、相手の顔色をうかがうことなく、しっかりとした外交もできたのでしょう。でも、その自律的なまじめは、明治に入って近代的な学校教育が始まってから急激に消えていってしまいました。それは、もともと生活の中にあって、本来は個人や地域社会に属する芸術や宗教や学問など、また、人から人へと手渡しで伝えてきたことを国が一括して統制管理するようになってしまったことなどが大きな原因だと思います。つまり、そのことで生活実感と離れたところで国家にとっての“正解”が決められてしまったということです。例えて言えば、それは標準語のようなものです。標準語としての“まじめ”の基準を国が決めるようになってしまったのです。だから演じなければならなくなってしまったのです。でも、その表面的なまじめにも今変化が起きています。それは、大人たちは“まじめ”を裏表で使い分けて適当にガス抜きをやっていますが、小さい時からまじめという基準しか与えられてこなかった若者が出始めてきたのです。(長い間、方言と標準語を使い分けてきたのに標準語しか話すことが出来ない若者が増えてきたというようなことです。)つまり、そういう若者は裏も表もなく“まじめ”なんです。他の価値観を知らないのです。そして、そのまじめをはずれることに強い不安を感じるのです。それが自律的なまじめなら大いに結構なんですが、そうではなく他律的な、他人を基準にした“まじめ”なんです。それが今流行の“K.Y.”(空気が読めない)という言葉で象徴されているように感じるのです。先日も、テレビで若者達が“KYは最悪”と言っていました。私が接している子どもたちも、最近まじめな子が増えてきました。でも、まじめなんですけど、自分で考えようとはしないし、あきらめは早いし、とにかく相手をしていて面白くないのです。人間としての面白みが育っていないのです。そういう子どもたちが増えてきたのは、子どもたちが子どもたちだけの群れ遊び体験をしていないからだと思います。子どもたちの群れ遊びの場では、学校や家庭の中で言われているのと別の価値観が大切にされています。それは、勉強なんてどうでもいい世界です。本音を言い合う世界です。成績より、実際に“出来るか出来ないか”という事が大切にされる社会です。そして、異年齢集団なのでコミニケーション能力、自己アピール能力も必要になります。昔々から、子どもの社会には大人の社会とは違う方言が存在していたのです。そういう場の体験が良くも悪くも“まじめ”を使い分ける技術を育ててくれていたのです。でも、今の若者はそれを使い分けることが出来ないのです。方言を知らないからです。この状態を、多様な価値観の喪失という言葉で言い表すことも出来るかも知れません。このような“まじめ”はもう正常な状態ではないと思うのです。“まじめ病”という病気です。そういう若者が教壇に立ったり、子育てを始めた時、子どもという典型的なK.Y.を相手に、人格が崩壊しないことを祈るばかりです。
2007.12.07
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のんちゃんママさんだけでなく、聞くことが苦手な人は多いですよね。昨日の先生も全く子どもの言葉を聞こうとしていませんでした。“聞かれたことだけに答えなさい”という感じです。でも、子どもというものはいつでも話したいし、聞いてもらいたいのです。そして、それを聞いてもらうことで子どもは自分を確認し、整理し、次のステップへと進んでいくことが出来るのです。例えば、学校で悲しい出来事があった時でも、それをお母さんに話すことが出来れば子どもはその悲しみを乗り越えていくことが出来ます。特別にお母さんが解決方法を示さなくても、子どもの感情は話すだけで落ち着いてくるのです。でも、それを話すことができないとその悲しみはズーッと心の中に残ってしまいます。そうなんです、話しを聞いてもらうだけで子どもたちは落ち着くのです。それを、“しずかにしろ”と怒鳴り、むりやり話を聞かせようとするから落ちつきがなくなるのです。それは家庭の中でも学校でも同じです。でも、子どもの話に耳を傾けるためには大人の心にゆとりが必要です。ゆとりがない人は、子どもに自由に発言させることが子どもに支配権を奪われるようで怖いのです。そして、最近そのゆとりのない大人がやたらと多いのです。どうしてだか分かりますか。話を聞いてもらえないからです。大人だっていっぱい話したいことが詰まっているのです。それを一人で抱えているから前に進めなくなって、心の中からゆとりが消えてしまうのです。まず、その事に気付いて欲しいのです。自分の心の中に外に出たがっている言葉がいっぱい詰まっているはずなんです。その言葉を一つ一つ丁寧に紡いで、その言葉に耳を傾けてあげて欲しいのです。誰も聞いてくれる人がいなければ、自分で聞いてあげるのです。その言葉を無視しても否定してもいけません。どうも真面目な人ほどそのような言葉を無視し、否定してしまうのです。(不真面目な人はその言葉に振り回されてしまいますけどね。)何もしなくてもいいのです。ただ、その言葉として生まれ出ることが出来ない心の中の言葉に耳を傾けてあげるのです。それはまた、自分の心の声を聞くことでもあります。そうすれば、何かが変わっていくと思います。そして子どもの言葉にも耳を傾けることが出来るようになるのではないかと想います。子どもは自分の言葉に耳を傾けてくれる人の言葉に耳を傾けます。子どもから学ぼうと心がけている人から学ぼうとします。でも、一方的に、子どもに聞かせようとしている人の言葉は聞きません。一方的に、子どもに教えようとしている人からは学びません。そういうものなんです。最後に、こだまさんの当時は対立していたんで気がつきませんでしたが、今は、学校側の本当の考えというか、思いのようなものを知りたいな、と思います。というコメントに私なりの考えを書かせて頂きます。学校は子どもを育てる場であると同時に先生を育てる場でもあるのです。先生はどこかでみっちり修行をして学校の先生に赴任してくるわけではなく、未熟な状態で学校にやってきて、子どもやお母さんや他の先生たちに揉まれて一人前の先生に成長していくのです。でも、“うちの子をそんな未熟な先生に見てもらいたくない”というのも親心でしょう。でも、そんなお母さん達の気持ちに合わせて学校が未熟な先生を担任から外していたら、そのうち学校は未熟な先生ばかりになってしまいますよね。そうしたら学校が崩壊してしまいます。そういうことを言うと、“では、未熟な先生のためにうちの子にモルモットになれって言うのですか”とおっしゃる人もいるでしょうね。そうではないのです。先生が成長していく姿をお母さんや子どもたちと一緒に体験していくのです。お母さん達に支えられ、子どもたちに鍛えられて未熟な先生が少しずつ成長していく姿を子どもたちに見せてあげるのです。これは、教科書では学ぶことが出来ない学びです。こんな学びが出来る子どもたちは幸せ者です。決してモルモットではないのです。でも、お母さん達が先生を排除してしまったら子ども達はわずかばかりの知識と引き替えに、学校や大人に対する不信を学ぶでしょうね。これは悲しいことです。
2007.12.06
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今日、学級崩壊をしているクラスを見学に行ってきました。学級崩壊は、今時どの学校にもある普通の出来事です。私は、その現場を見たのは初めてですが、子どもも可哀想、先生も可哀想という状況でした。確かに、非常に退屈な授業です。でも、先生がいい加減にやっているのかというとそうでもありません。先生は今にも倒れそうなくらいピリピリして真剣そのものです。でも、子どもは退屈そうにのんびりしているばかりで、全くそんな先生のことなど気にしていません。みんなマイペースで、自分がやりたいことをやっています。まだ、新任の若い先生なんですが、今先生を目指して頑張っているうちの長男と何となく似ていて見ていて悲しくなってしまいました。そこで感じたのは、先生が先生として子どもたちの前に立つことが出来るほどの学びをしていないのではないかということなんです。ただし、これはこの先生が不真面目だということではありません。そうではなく、逆に真面目すぎるのです。そして、もっと根本的なところで「他者とのコミニケーションの仕方」、「自分の考えや感情の表現の仕方」、「声の出し方」、「自分の感覚で感じ、自分の頭で考える」というところが本当に出来ていないようなのです。このようなことは、学校では学ぶことが出来ないし、学校の成績には現れない要素です。また、教員養成の場でも学ぶことが出来ないでしょう。こういうことはむしろ、大勢の仲間との遊びの場で学ぶことなんです。ところが、校長先生がこの先生に子どもの頃のことを色々と聞いても、子どもの頃のことを想い出せないというのです。これは、私もお母さん達とのワークで驚いたことなんですが、まだ30代の若いお母さん達に“子どもの頃どんな遊びをしていたのか教えて下さい”と聞くと、“そんな昔のことは良く覚えていない”と答えるお母さんが結構いるのです。覚えていたとしても、ただの記憶として覚えているだけで“こんなことをやっていましたよ”というだけのことです。でも、これが40代、50代、いやもっと年齢の高い人なら、まるで昨日の出来事のように自分の子どもの頃の遊びを語ることが出来るのです。だいたい、ボケてしまってついさっきのことすら忘れるようになってしまっても、子どもの頃のことだけは覚えているものなのです。それを覚えていないという若い人が増えているようなのです。つまり、この先生は子どもの頃に子ども時代に学ぶべき事を学ぶことが出来ないまま大人になってしまっているのです。本当にお腹がすいている時に食べたものは覚えているものです。遊びに餓えていた頃に遊んだことは覚えているものです。活字に飢えていた時に読んだ本のことは覚えているものです。ですから、何にも覚えていなかったということはその餓えもなかったし、その餓えがみたされることもなかったと言うことなんです。実は、子どもの頃の想い出として、何を覚えているのかということはその人が子どもの頃に何を学んだのかということとつながっているのです。その想い出がないということは、子ども時代に学ぶべき事を学ぶことが出来なかったということを意味します。そして、子どもの時のことを生き生きと想い出すことが出来ない人が子どもに共感を感じるのはかなり困難なのです。校長先生も“授業の中でもっと遊んでもいいんだけどな”とおっしゃていたのですがひたすら真面目なんです。でも、まだこの状況は父兄には知らされていません。トラブルが予想されるからです。そのトラブルとは先生へのバッシングです。とにかく、授業になっていませんからね。でも、先生をバッシングして、担任を変えても問題が解決するわけではありません。大体、そのように先生や学校を非難ばかりする親は、子どもを管理したい親です。勉強ばかりさせようとする親です。これはつまり、わが子をこの先生のように育ててしまう親だということです。つまり、先生をバッシングし非難しているのに、わが子をその先生のように育てようとしているということです。これは悪循環です。これは別の先生が入って、子どもたちが勉強に専念できるようになったからといって解決する問題ではないのです。親たちも一緒になって先生を育て、自分たちも育とうと覚悟する時に子どもたちも学びたいと思うようになるのです。成長したいという想いが学びへの餓えを育てるのです。そのためには手本が必要なんです。この悪循環から抜け出さないことには子どもは自分の人生を自分の力で生きることなど出来ないでしょうし、日本の教育も良くならないでしょう。これが、今朝の朝日新聞に出ていた子どもたちの応用力のなさともつながっているのです。幼稚園の園長先生達もただ真面目で融通が利かない若い先生が増えていると悩んでいました。これと同じ状況が子育ての場でも起きています。学級崩壊ではなく、家庭崩壊です。特に、真面目なお母さんが真面目に子育てをしようとする時、子どもを束縛し子どもを管理しようとしてしまいます。子どもというものは本質的に“不真面目な存在”だからです。でも、そのような方法では子どもを育てることが出来ないのです。家族の間に人間らしいコミニケーションが生まれないからです。ただし、真面目が悪いということではありません。ただ、もっともっと心にゆとりが必要なのではないかということです。ちなみに、ドイツのシュタイナー学校でも学級崩壊状態になってしまうこともあるようです。これは、世界規模で起きている子どもたちの変化なんです。ですから、この問題には個人の能力を超えた要素も働いているということをしっかりと認識していたほうが良いと思います。個人を非難するだけで解決できる問題ではないのです。みんなで考え、みんなで解決すべき問題なのです。
2007.12.05
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「モンスターマザー」(石川結貴著/光文社)の続きです。この本の中で“問題あり”と指摘されているお母さんのタイプがいくつかあるのですが、それをご紹介します。<タイプ1> 自分中心ママ 世界は自分を中心に回っている、もしくは自分中心に回そうとするお母さんのことです。このような人にとっては、自分を世界の中心と認めない人は全て“敵”になります。 子どもも奴隷のように扱います。でも、自分の子どもがバカにされたりすると、怒りが爆発します。 いつも自分で言ったり、やったりしていることでも他人にやられるとむかつくようです。<タイプ2> 子ども中心ママ お母さんが奴隷のようになり、子どもの言いなりになっているお母さんのことです。 そのくせ、幼稚園選びでも、お菓子選びでも、うまくいかない時にはなんでも子どものせいにします。責任転嫁が上手です。 こういうお母さんは自分の意見を言いません。というより、自分の意見を持っていません。<タイプ3> 子どもをペットにしているママ 着るものからお化粧まで、子どもを自分の着せ替え人形やペットのようにして可愛がっているお母さんです。<タイプ4> 子どもに依存しているママ “あなたがいないとだめなの”と子どもを縛り付け、子どもに依存しているお母さん。 自分がやるべき役割を子どもにやってもらっているお母さん。親子の立場が逆転してしまっています。<タイプ5> いいお母さんを演じるママ 理想的なお母さんをひたすら演じているお母さん。 周りの人からは理想的なお母さんに見えますが、子どもにしてみたら理想の母さんを演じる役者がいるだけで、自分の本当のお母さんが存在していない状態です。<タイプ6> お受験ママ これは説明不要ですよね。“子どものためなら海の中、山の中、何百万円かかろうともまっしぐら”というタイプです。日常生活の全てが“お受験のため”になってしまっています。 夫婦関係や家庭が崩壊してもそんなこと大したことないとと思っています。<タイプ7> 無気力系ママ 全てに無気力なお母さん。どこにも行かず、何もしないでただ寝ているのが理想というお母さんです。このようなお母さんは常に、誰かに依存しようとします。<タイプ8> 自然育児系・○○教育に熱心なママ 自分の感覚で子どもと向き合わないで、常に観念的な子育てを理想とするお母さんです。 “これだけやっていれば大丈夫”的な発想をします。 子どもに子育て法を合わせるのではなく、子育て法に子どもを一生懸命に合わせようとします。 そして、自分や子どもがその子育て法に追いついていけないと、“落ちこぼれ”として、自信をなくします。(ただし、自然育児や○○教育が悪いということではありません。それに縛られてしまい、自分の感覚や考えを失ってしまうことが問題だということです。)子育ては、お母さん中心でも、子ども中心でも、○○教育中心でも、お受験中心でもうまくいきません。大切なことは、お母さんと子ども、そしてお父さんも含めて家族全員が人間としてきちんとした信頼関係で結ばれることなんでしょうね。自然育児も、○○教育も、お受験も、その後の話しですよね。
2007.12.04
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(今日は簡単にさせて頂きます)昨日は何のかんのとめんどくさいことをいっぱい書きましたが、ようは“子どもとの関わりに色々な言葉をいっぱい使って下さいね”ということです。ですから、一番最悪な子育ては言葉のない子育て、無言の子育てです。これは、衣食住の世話はちゃんとしていても、精神的なネグレクト(無視)です。虐待です。知ってますか、肉体的な虐待を受けた子どもより、ネグレクトという虐待を受けた子どもの方が回復が難しいのです。一見、肉体的な虐待の方が傷つくように感じますが、実はネグレクトを受けた子どもの方が心の深いところまで傷つくのです。イジメでも、同じです。ぶったり蹴ったりすると、大人はイジメだとして認識しますが、ネグレクト(無視)は直接相手に何かをするのではないので、大人はそんなにひどいことだとは思わないでしょう。でも、実はぶったり蹴ったりされている方が、無視されているよりはまだ安心していることが出来るのです。それは役割があるからです。役割があると言うことは、それがどんな形であろうと、存在価値があるということです。また、相手と直接的な関係が保てているということです。でも、ネグレクトは存在そのものを否定されているわけですから、“消えな”、“死にな”ということと同意義です。もう一つ心に深い傷を残すのは、“辱め”を与えることです。パンツを脱がしたり、おかしな事をやらせたり、みんなの前でバカにすることです。これも、ぶったり、蹴ったりされるよりもズーッと心に深い傷を残します。ネグレクトと辱めを受けた子どもは死を考えます。人間にとって“恥”というのは子どもから老人に至るまで生命の次に大切なものなのです。そして、悲しいことにそういうことをやっている親が時々いるのです。平気でみんなの前で自分の子どもをバカにして、笑いものにする親がいるのです。そして、さらには学校の先生でそんな事をやっている人もいます。次に問題なのは、指示、命令だけしかしない親です。そういう育てられ方では子どもは言葉を覚えることができません。覚える必要がないからです。それはつまり、心を育てることが出来ないということです。何でも子どもに決めさせる親もまた困ったものです。親としては子どもの意見を尊重しているつもりなんでしょうが、何でも子どもの意見を聞いてしまうというのは、これはネグレクトと同じです。“のれんに腕押し”状態は、相手が存在していないのと同じだからです。だから、このような子育てをしていると、子どもの行動がどんどんエスカレートしていきます。空気のようなのれんではなく、もっとしっかりとしたものに触れたくなるからです。そのため、行くところまで行ってしまう危険性もあります。また、このような関わり方では子どもは聞く力が育たないでしょうね。言葉というものは、“話す力”と“聞く力”がセットになって育たないことには使いこなすことが出来ません。どんなに語彙を多く覚えても、それは言葉の力ではないのです。そして、言葉が育っていない子は心が育っていない子でもあるのです。“話す力”を育てるためには、聞いてくれる人が必要です。しかも、話したくなるように聞いてくれる人です。“聞く力”を育てるためには、話してくれる人が必要です。しかも、聞きたくなるように話してくれる人です。当たり前のことですが、この当たり前をもう一度考え直して見ましょうね。
2007.12.03
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昨日は、親としての一番大切な役割とは“言葉を伝えること”だということを書きました。これは、ほとんどの人にとって意外なことなのではないでしょうか。多くの場合、“親としての役割”として語られることは、しつけであったり、愛情をかけることであったり、一緒に遊ぶことであったり、衣食住を整えることであったり、危険から身を守ることであったり、常識を教えることであったり、人間性を育てることであったりしますよね。でも、実は言葉の中には、そして“言葉を伝えるという行為”の中には、この全てが含まれているのです。それに、“しつけをつたえることが大事”と言われても、現代では親がそのしつけを知りません。知らないものは伝えることが出来ません。“愛情をかけることが大事”と言われても、いま子どもを愛せない親もいっぱいいます。それに、愛し方が分からない親もいっぱいいます。“一緒に遊ぶことが大事”と言われても、遊び方を知らないので、どうしていいのか分かりません。“常識”を教えることも同じです。親が知らないのに子どもに教えられるわけがありません。“人間性”に至ってはなにおかいわんやです。その中でも、衣食住を整え、危険から身を守り、知識を教えるなどというようなことは目に見えることなので子育てで力を入れているお母さんは多いと思います。でも、そこだけに夢中になってしまっているお母さんがいっぱいいます。その結果、親が子どもを管理する結果につながってしまっている場合が多いのです。子育てで、目に見えることだけに夢中になっていると子どもの心が育たなくなってしまうのですが、そういうことを理解して子育てをしているお母さんはそれほど多くないように感じます。(それは子どもの状態を見ていれば分かることです。)ちなみに、“成績”は目に見えるものですが、“賢さ”は目に見えません。でも、“言葉を伝える”という行為の中にはこれらの全てが含まれているのです。でも、そのことを理解して言葉を伝えているお母さんはほとんどいません。目に見えるものだけに関心を向けている人には言葉の世界は見えないからです。でも、お母さんが子どもに言葉を伝えようとする時、お母さんもその言葉の世界、見えない世界に気付いていくことが出来るのです。それが“言葉の力”です。日常的に、周囲のお母さん達の子育てを見ていると、多くのお母さんにとって“言葉を教えること”は名詞を教えることとと同意義のようです。それは、子どもが“名前”に興味を持つところから言葉の学習が始まるからだろうと思います。ですから、“ワンワン”、“ニャンニャン”、“パイパイ”、“シッコ”、“マンマ”、などという言葉を子どもに教えてあげています。でも、言葉には名詞の他にも動詞、形容詞、副詞、感嘆詞などなどいっぱいあります。正確にはまだまだあるようなのですが私は言葉の専門家ではないのでよく分かりません。でも、言葉が名詞だけで成り立っているのではないということだけは知っています。また、言葉には“表現”という要素もあります。名詞、動詞、形容詞などを山ほど覚えても、“表現”という方法を学ぶことが出来なければすべて無駄です。言葉は表現のための手段だからです。その中で一番教えやすいのが名詞です。では、“はしる”などというような動詞はどのようにどのように教えたらいいと思いますか。走っている人を見せて、“走ってるね”、“あれがはしると言うことだよ”と教えますか。そんなことをしても子どもは“はしる”という言葉を理解することが出来ません。動詞は体感とセットにして覚えるしか覚えようがないのです。お母さんと子どもが一緒に走る、そして、“もっと速く走ろう”、“はしるって楽しいね”、“はしったから疲れたね”などという会話が交わされる、そういう状況の中で子どもは“はしる”という日本語を学ぶのです。そしてさらには、“そんなドタドタ走らないの”という表現を通して、副詞を覚えていきます。つまり、多様な言葉を子どもに伝えようとするならば、言葉を介した子どもとの多様な関わり方が必要になると言うことです。スキンシップなどもその中に入ります。スキンシップをしなければ伝えることが出来ない言葉もあるからです。今の子どもたちは“絞る”という言葉をよく知りません。言葉自体は知っていてもその中身が分からないのです。ですから、ぞうきんなどを“きつく絞って”などと言っても、伝わりません。そんな時は、一緒に何かを絞ってみることです。そして、“もっともっとギュッと絞ろうね”などと言いながらやって見せます。そうすると、“絞る”という言葉を理解することが出来るようになります。では、“やさしい”、“きれいな”、“やわらかい”という形容詞はどのようにして伝えたらいいと思いますか。それは、お母さんが“きれいな花ね”、“わー夕焼けがきれいね”と子どもに語りかけることによってしか伝えることができません。つまり、共感が必要なわけです。ですから、お母さんがいつも“きたない”という言葉を実感を込めて子どもに語っていれば、子どもは“きたない”という言葉に強いリアリティーを感じるようになります。だから、行きすぎた清潔志向がイジメにもつながってしまうのです。(過度の清潔感を宣伝しているCMもイジメに加担していると言うことです。)それでは、勇気、希望、愛、生命、我慢する、頑張るという言葉はどのようにして伝えたらいいと思いますか。皆さんも少し考えてみてください。ちなみに“頑張ることが大切だ”とか、“頑張れ”などと言われても、“頑張る”という言葉を知らない子どもたちには何のことかよく分かりません。はやく、きちんと、ちゃんと、という言葉も同じです。言葉の意味を知らないのですからなんべん言っても子どもが聞くわけないのです。さあ、これらの言葉をどのように伝えたらいいと思いますか。“想い”や、“感覚”や、“感情”や、“考え”を伝える言葉はどのように伝えたらいいのでしょうか。ちなみに、テレビから学ぶ言葉は自分の表現として使うことが出来ません。状況に合わせて反応的に出てくるだけです。先生が何か言った時に“でもそんなのかんけいねー”と出てくるのと同じです。これは表現ではなく、反応です。ですから、教育的なテレビからどんなにすごい言葉を覚えても、それに惑わされてはいけません。大切なことは、自分自身の表現として使うことが出来る言葉を身につけることなんです。語彙の量ではありません。また、他の人の表現としての言葉を正しく理解することが出来ることも非常に重要です。母国語とはそのように“自分の思い通りに話す事と聞くことが出来る言葉”のことです。今、母国語を持っていない子ども、そして大人が多すぎます。だからコミニケーションがおかしくなってしまっているのです。言葉というと話すことばかりに意識が向きますが、“聞く・聴く”ことができない人の言葉は人間の言葉ではありません。テレビの言葉です。また、きちんと(年齢相応の)母国語を学ぶことが出来ないと、学習面、対人関係で困難を生じます。また、精神的に不安的になり、孤独になります。最後に、豊かな人間性を持っている人は豊かな言葉を持っている人です。賢い人は相手の言葉を正しく理解することが出来ます。優しい人は言葉にならない言葉を聞くことが出来ます。そして、それを言葉化してあげることが出来ます。“つらいんだね”などと・・・・・。以下は、この文章を読んで言葉を伝えることを通して子育てをしてみたいと少しでも感じてくださったかたへのエクササイズです。まず、子どもに伝えたい言葉を書き出してください。これは、あなたの人間観、生き方ともつながっていると思います。また、日々の子どもとの関わりの中で言葉を添えることで伝えることができる言葉を考えてみてください。普段は無言でご飯を食べている場合に、“おいしいね”、“サクサクしているね”、“少し固いかな”などというように、状況に合わせてそれを言葉化してあげることで子どもはそのような言葉を学ぶことが出来ます。無理して生活を変える必要はありません。ただ、今まで無言でやっていたことを言葉に出して語りかけてあげればいいのです。あと、子どもと一緒に活動してみてください。走る、切る、飛ぶ、ゴロゴロする、歌うなどなどです。そうして、その活動を言葉に出して語りかけると動詞を伝えることが出来ます。また、お母さんが感覚に感じたことを言葉に出して下さい。“きもちいい”、“うれしい”、“すっきり”などの言葉です。そうすると子どもはお母さんとの共鳴で感覚語を学ぶことが出来ます。こういう関わりをしていれば、スキンシップなど自然に出来てしまうのです。遊びも自然に生まれます。対話も自然に生まれます。信頼関係も自然に生まれます。今、“キモイ”、“ムカツク”、“ウザイ”などという言葉を学んでしまっている子どもが結構いるのですが、お母さんや周囲が熱心に教えているのでしょうね。
2007.12.02
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suzukiさんから以下のようなコメントを頂きました。親としての役割とありますが、どういう役割があって、どう役割を果たすのかが分からない親ばかりが増えてきて、結局、しゃにむに頑張るか、手を抜く(頑張らない)かの2タイプの親に分かれてしまったのではないでしょうか。したがって、前者のタイプの親は「大切でない役割」ばかりを頑張って、後者のタイプの親は「大切な役割」を手を抜くわけです。この、「親としての役割とはなんだ」ということは非常に重要な問題なのでちょっと補足しておきます。この親としての役割に関しては固定された基準があるわけではありません。時代や土地柄や文化が違えば一般的に何をもって“親の役割”とするのかということは違ってきます。また、個人の考え方によっても違ってきます。だから、これを言い過ぎると押しつけになります。また、国がこれを決めて押しつけてきたら社会の中から自由が消えてしまいます。戦争中はそれをやりました。その結果、戦後その反動が出たわけです。反動が出ると言うことは、喜んで受けいれられていたのではないということです。でも、今度はその反動が行きすぎて戦後はみんな自分のことしか考えなくなりました。その流れの中で競争が激化して、その競争に疲れ果てた人に向けて“頑張らなくていいんだよ”という言葉が出てきたのだろうと思います。子育てに頑張っている人は、それがどんなものであろうと本人はそれを“親としての大切な役割”だと思っているのではないかと思います。でも、どうもそういう人を見ていると枝葉や花は大切にしていても土や根っこや幹を大切にしていないように感じるのです。かっこよくて、目立つ部分ばかり大切にするのです。だから、子どもが全体としてバランスよく成長することができないのです。その結果ゆがみが生じ、心とからだの育ちにも色々とトラブルが出てきます。じゃあ、その土、根っこ、幹とは何かと言うことです。なんだと思いますか。実は子育てにおいてもっとも基本的な根っこは“言葉”なんです。言葉を伝えることなんです。どうして、言葉なのか疑問ですか。それは言葉、そして言葉を学ぶ過程には人間の全てが含まれているからです。文化、精神性、思考、感覚、身体性なども全て含まれています。人と人とのつながりも、愛も勇気も希望もみんな言葉の中に、そして言葉を学ぶ過程の中に含まれています。言葉こそが“ヒト”を“人間”に育ててくれるのです。それに、しっかりとした日本語ができない子は、全ての学びにおいて支障を来します。最近は小さい時から英語を学んでいる子も多いですが、それでは英語の成績だけは良くなるかも知れませんが他の科目の成績は困ったことになるでしょう。また、日本語でのコミニケーションが苦手だと人間関係も難しくなるでしょう。先日、“パープルのクレヨンちょうだい”という子がいました。それで、その“パープルって何色”と聞いても、日本語での言い方を知らないのです。これはおかしいですよね。それに、子どもに対して言葉を教科書で教えることは出来ません。子どもは言葉を体験で学ぶのです。“子どもには自然体験が大切だ”ということはよく言われますが、でも、実はその自然体験が“言葉”と出会うことが非常に重要なのです。自然体験をさせただけでは、子どもの人間としての成長につながらないのです。だって、昔はみんな自然体験をしていたんですから。昔の人はみんな人間として立派でしたか。それと、7才までの子どもは言葉を共感によって学んでいます。お母さんの、“きれいね”という言葉に共感して子どもは“きれい”という言葉を学ぶのです。それと同時に、真善美に対する感性も育っていきます。言葉の学びは共感の感性を育ててくれます。お風呂に入った時、お母さんの“気持ちいいね”という言葉を通して、子どもは“きもちいい”という言葉を学び、そしてからだの感覚も育てているのです。また、対話も必要です。子どもは、お母さんとの対話を通して自分の感覚、考えを表現することと、自己と他者という感覚を育てていきます。優しさ、思いやり、勇気ということも、その言葉を伝えないことにはその意味を伝えることが出来ません。“優しさ”という言葉を学ぶことを通して、子どもの中に“優しさ”が目覚めるのです。話し出すと長くなるのですが、つまり子どもに言葉を伝えようとする時、必然的に子どもの育ちに必要なものがイモズル式にどんどん引っ張り出されてくるということなんです。ただし、“教える”のではなく“伝える”のですからね。ここを勘違いしてしまうと、また“頑張るモード”になってしまいます。ちなみに、7才までの子どもは主に名詞や感覚語(五感で感じることが出来る言葉)を学んでいます。でも、感情表現は7才を過ぎてからです。また、suzukiさんが書いて下さった武士道にしても、儒教にしても、修身・礼節・太陽信仰にしても、日本には(欧米の宗教に匹敵する)共通の価値観があったのですが、戦後それらが崩壊したことも無関係ではないと思います。ということも、言葉の問題とつながっています。そのような価値観も言葉を伝える時に自然と伝わっていくものだからです。自然に伝わっていくものだからこそ、その人の人間としての基礎になっていくのです。今、日本語をまともに話すことができない子どもたちが急増しています。この事と、様々な子どものトラブルをつなげて考える人は滅多にいませんが、実は非常に大きなつながりがあるのです。
2007.12.01
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