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今日は一日中、期末テストの採点などをやっていたのですけど(今頃?)、それにも飽きたので、夕食後、NHKの衛星放送でやっていた『大統領の陰謀』を見てしまいました。ロバート・レッドフォード、ダスティン・ホフマンの競演による、ウォーターゲート事件の顛末をめぐるドキュメンタリー・タッチの映画です。 で、見終わった直後の感想は・・・「これ・・・面白いの?・・・かな?」というもの。 アメリカ民主党の選挙本部に盗聴マイクを仕掛けようとした男たちが、工作に失敗し、逮捕されてしまう。最初のうちこそ瑣末な事件のように見えたこの出来事、実はこれが大統領をも含む共和党の陰謀だったことが明らかになって、最終的にはニクソンを在職中に辞任に追い込むことになる・・・言わずと知れた「ウォーターゲート事件」ですな。で、この事件を担当したワシントン・ポスト紙の2人の若手記者、ウッドワードとバーンスティンの活躍を描いたのが映画『大統領の陰謀』というわけなんですが・・・。 ま、最初は確かに面白いんです。事件とその裁判の成り行きから、どうもこの事件の裏にアメリカ政界の大物たちが絡んでいるらしいと睨んだウッドワードとバーンスティンが、執拗な取材により少しずつ事実関係を明らかにしていく一方、どこからか圧力がかかり、彼らの取材する先々で取材拒否や妨害が始まる。その間の駆け引きがなかなかスリリングで、何だか妙なリアリティとサスペンスがあるんですね。 しかし、いよいよ事件の核心に迫り始めたところで、突然、映画が終わっちゃうんだよなぁ・・・。それがあまり突然終わるので、何と言いましょうか、アンチ・クライマックスと言うのか、「え? これで終わるの?!」という感じなんですよね~。確かに、大統領に再選されたニクソンが就任式で宣誓するテレビ映像の向こう側で、いずれ彼を辞任に追い込むことになる二人の記者が黙々と記事を書き続けるラストシーンは、なかなか印象的ではあるんですけどね。 で、例によって映画を見終わってからちょっとウィキったわけですけど、この映画、もともとロバート・レッドフォードの発案で、彼が映画化を考えていた時には、まだニクソンは大統領のまま、果たしてこの事件が彼の命取りになるのかどうかもわからないような状況だったんですって。ですから、この映画の企画と制作は、ほとんど本物のウォーターゲート事件の成り行きと同時進行だった、と。 で、そういうこともあってか、映画に描かれることもほとんど事実そのままで、ドキュメンタリーのような映画が目指されたらしいんですな。実際、映画に登場するウォーターゲート・ホテルも、議会図書館も、すべて本物でロケされたのですと。それどころか、ワシントン・ポスト社の社屋も実物が使われたんですって。ただ、そのままでは映画のフィルムで撮るには暗くなり過ぎるので、特殊な蛍光灯を使い、社内を明るくして撮影されたのだそうですが。 なんか、そんな裏話を読むと、少しこの映画の点数が上がりますけどね。 ちなみに、この映画の封切りは1976年で、アメリカ誕生から200年目の節目の年。映画史的に言いますと、抑圧的なアメリカ社会を批判的に描く映画と、アメリカを無批判に讃える映画がせめぎ合っていた頃ですな。端的に言えば『大統領の陰謀』と『ロッキー』は同じ年に公開された、と。 とはいえ、『大統領の陰謀』も、『ロッキー』も、ある意味同じ傾向の映画なのかも知れません。無敵と思われる大物に対し、絶対不利の弱者が立ち向かうという話なのですから。 ま、そんなことも色々考えながら、結局、この映画は、そこそこ面白かったんだ、という結論に到達しました。まだまだ若かったレッドフォードとホフマンが生き生きと画面一杯に飛び回るのを見られるだけでも楽しいですし、脇を固める俳優陣も渋いですしね。 というわけで、ワタクシの採点は・・・1976年にちなんで「76点」といたしましょう。 テレビ映画の『コロンボ』などに登場する1970年代のアメリカ・ファッションがここにもある、という懐かしさも込めまして、『大統領の陰謀』、教授のおすすめ!です。
February 28, 2009
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このところ大学入試に関する業務で忙しいのですけど、その中で他専攻の同僚から入試にまつわるちょっと面白い話を聞きました。入試というよりは、その後、つまり「合格発表」のことなんですが。 で、その先生は、どういうわけか「合格発表」の様子を見るのがお好きなのだそうで、毎年合格発表がある日にわざわざ合格者の受験番号が貼り出されている掲示板まで行って、そこで繰り広げられるシーンを見るというのです。 で、先生によれば、ちょっと前まで、合格発表の場というのはすごくドラマチックだった、とおっしゃるんですね。つまり、受験生のそれぞれが「自分の受験番号はあるだろうか・・・」「もしなかったらどうしよう・・・」と、期待と不安とが相半ばする面持ちでそろそろと掲示板に近づき、しばし凝視の後、喜びを爆発させる者あり、はたまた黙ってうなだれ、人の群れから一人寂しく離れていく者あり、という感じで、まさに一瞬のうちにドラマがあった、というのです。それは、傍で見ていても感動的なものがあった、と。 ところがこの数年ほど、そんな合格発表の風景が変わってきたんですって。つまり、感動的な場面が少なくなってきたんですな。 原因は、もちろん、合格発表のスタイルの変化です。今時はどの大学もそうでしょうが、合格発表を学内掲示するだけでなく、ウェブ上でも発表するんですな。つまり、受験生は大学に来ることなく、自分が合格したか落ちたかを知ることができる。 ですからね、今日日、大学のキャンパスにやって掲示を見に来るのは、既に合格したことが分かっている受験生だけなんですな。そこに喜劇はあっても悲劇はない。 ま、そんなこともありまして、今、合格発表当日は、受験生だけでなく、その子の両親まで我が子の合格の事実を再確認するために大学を訪れることが多いのだそうです。そりゃ、合格していることは既に知っているわけですから、心配する必要がない。ただ記念として掲示板の前で写真を撮ったりするために、家族みんなでニコニコやって来る。これが、今の合格発表の風景なんですって。 なるほどね~。そうなんだ・・・。 でも、ま、他人事だからそんなことが言えるのかも知れませんけど、確かにその先生のおっしゃるように、笑顔だけの合格発表より、笑顔の蔭に泣き顔がある、そんな昔ながらの合格発表の方が面白いっちゃ、面白いような気がしますなあ。だってさ、人生って、そんなものじゃん? 勝ち組が笑う一方で、負け組が泣いて。そんな現実の一つの縮図が、かつてはそこにあったのですから。オリンピック見ていたってわかると思いますけど、敗者の涙にこそ、厳粛な、貴いものがあるではないですか。その貴さが、今は傍から見えないところに隠されてしまった、そんな気がします。 いや、こういうことを言うのは、ひょっとして不謹慎なのかしら。誰だって、不合格になりたくはないでしょうからね。ごめんなさい! とにかく、そんな話をしてくれた先生のおかげで、私も一度、自分の勤務している大学の、合格発表の風景を、せめて一度は見ておこうかな、という気になったのでありました、とさ。
February 27, 2009
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さっき、ウィル・スミスが主演する『7つの贈り物』をレイト・ショーで見てきました~。 うーん、この映画に関しては粗筋も書けないなあ。ま、とにかく自分が幸せになることを拒絶した男をウィル・スミスが好演したとだけ言っておきますか。でもね、いつものように点は出さないの。私はウィル・スミスには甘いからね。『ハンコック』なんて、大した映画じゃないと思うけれど、つい見ちゃいましたし。 だけど、ちょっと驚いたのは、同じレイト・ショーでも『おくりびと』は超満員で、チケットすら当分買えない状態だということ。アカデミー賞とったとなると、いきなりこうなるのか・・・。分かり易いな、日本人。 さて、話は変わりまして、最近買ったジャズのCDの中で一つおすすめがありまーす。ビル・エバンス(ピアノ)とジム・ホール(ギター)による『インターモデュレーション』というアルバムなんですが、エバンスとジム・ホールの組み合わせと言えば、何といっても『アンダーカレント』が有名。で、『アンダー・・・』と『インター・・・』とを比べると、やはり前者の方が圧倒的にいいと思います。緊張感が全然違う。 が、『インター・・・』の5曲目、「ジャズ・サンバ」という曲が、これがなかなかのもので、ピアノとギターの丁々発止のやりとりが素晴らしいんです。ネット上で試聴ができるので、興味のある方にはぜひその一端でも聴いていただきたいのですが、もうね、すごいよ。ピアノとギター、それぞれの巨匠が互いの技量を変幻自在に繰り出しながらインタープレイを楽しんでいる感じ。このところこの曲を繰り返し聞きながら、ノリノリで仕事をしているんです。 しかし、レコード/CDというのは、すごいもんですよね、考えてみれば。『インターモデュレーション』なんて40年以上前に録音された作品ですが、まるで目の前で今、演奏されているみたいですもん。贅沢なもんだ。 というわけで、興味のある方はぜひ『インターモデュレーション』の5曲目、「ジャズ・サンバ」を(アマゾンなどで)試聴してみて下さいね~! 教授のおすすめ!です。これこれ! ↓【送料無料選択可!】インターモデュレーション / ビル・エヴァンス&ジム・ホール
February 26, 2009
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今日は国立大学の入学試験日。私も採点に駆り出されたりしておりました。 ところで、休憩時間中に同僚のオーストラリア人の先生と大学入試にまつわる話をしていたのですが、オーストラリアの大学入試ってのは、なかなか合理的に運営されているんだそうですね。 まず、基本的に個々の大学で「入試」が行われるということはないんだそうです。というのも、そもそもそれは物理的に無理なんですね。国土が大陸なので、個々の大学を受験しに行くこと自体が大旅行になってしまいますから。 じゃ、どうやって入学者を決めるか。 オーストラリアでは、小学校が7年、その後中等教育課程が3年ほどあり、義務教育が10年間なんですね。で、その後、大学進学希望者は2年課程の大学予備門みたいなコースに進むわけ。この2年間はすっごく勉強するそうですが、ここでの2年間に8回のテストを受けるのだそうです。 で、その後、日本の大学センター試験のような共通試験を受験し、予備門時代の8回のテストと合わせて、都合9回の試験結果(スコア)を元に、希望する進路(たとえば医学部進学希望とか、経済学部進学希望など)を表明してスコアを提出すると、コンピュータが適切に判断して、進学可能な大学をはじき出してくれるので、そこに進学する。ただ、それだけらしいんですね。 だから、黙っていればピタリと進学先が決まる、と。ちなみにチャンスは2回あって、医学部で希望する大学から却下されても、別の大学の経済学部で拾われるということがあるらしい。いずれにせよ、自分のスコアは全9回のテストの集積ですから、日本の大学入試のように一発勝負ということではない。その分、運・不運に左右されることが比較的少なく、実力に見合った大学に入れると。また、大学側としても、入試業務が一切ないので、その点で非常に楽なんですって。 大体、日本の各大学個別の入試問題なんて、別にテストの専門家が作っているわけでもないので、場合によってはとんでもない悪問がありえる。オーストラリアでは、テストはテストの専門家が作るのが当たり前で、その意味でも非常に合理的なのだそうです。 ちなみにオーストラリアには大学が39しかなく、そのうちの37大学が国立。私立大学はたったの2校しかないのだとか。ただし、各大学が、全豪各地にキャンパスを持っているので、そういう意味では80校以上の大学があることになる。といっても、日本の大学の数と比べたら、比較にならないほど少ないですよね。 じゃ、オーストラリアでは、大学卒業人口が少ないのかといえば、まったく逆。日本では50%弱ですが、オーストラリアの大学進学率はなんと90%なんですって。 とはいえ、これは「死ぬまでに大学を卒業する率」のことなんだそうで、中等教育課程修了後、そのまま大学に進学せず、様々な職業に就き、経験を重ねたり、学費を稼いだりした後で大学に進学する人が多いのだそうです。よって、大学のキャンパスには様々な年齢層の学生が闊歩しているので、日本の大学のように1、2年の差こそあれ、ほぼ同一年代の若者たちしかいない、という状況はアンビリーバブルなのだそうです。 あ、それからオーストラリアでは大学の就学年数は3年です。 また国土が広いため、通信教育の制度も発達していて、外国の地に居て、一度も指導教官と面談したことがないまま、大学院修士課程を終えることもできるのだとか。いや、それを言ったら、小学校のレベルでも、通信教育が盛んなのだそうで、たとえば砂漠の真ん中に住んでいる一家など、周囲数百キロに小学校がない場合も多く、そういう場合は当然のように通信教育で小学校を終えるのですって。 やっぱり、国が違うと教育のシステムも随分違いますなあ。 それにしても、どうも大学入試のシステムに関しては、どうもオーストラリアの方式の方がよほど合理的な気がしますね。日本の文部科学省も、海外のシステムをもう少し勉強して、本質的な入試改革をしてくれないかしら。「センター入試にリスニング試験を加える」なんて、瑣末な、しかもアホなことを導入している暇に、ねえ・・・。
February 25, 2009
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私、道端で配ってるティッシュなんかも含めて、タダでもらえるものは割となんでももらってしまう貧乏性なんですけど、先日、某書店のレジ脇に置いてあった『未来』という小冊子の2月号をタダもらって、暇な時に読んでいたところ、ちょっと印象的な小文に出くわしました。山川冬樹という人が書いた「墓地で」という文章なのですが。 で、この文章によると、この山川さんという方は、少し前に非常に親しい友人を亡くされたようなのですが、その際、ある事情からその方のケータイを預かったというのですね。ま、葬儀の準備などで身近な友人の方々に連絡をとらなければならない、というようなことがあったらしいのですが。 で、その時に山川さんは、面白い経験をされるのですな。 なんと、もう亡くなったと分かっているにも関わらず、その亡くなられた方のケータイにメールがじゃんじゃん入ってくる、というのです。つまり、亡くなられた方の友人たちからメッセージが次々に寄せられると。 は、はーん。なるほどね・・・。 ケータイってのは、死者への伝言をも残せるツールなんだ・・・。現代という時代は、亡くなった方へ最後にもう一度、言葉をかける手段が残っている時代なんだ・・・。 面白いねえ。小説の題材にでもなりそうですな。 じゃ、ワタクシが死んだら、ワタクシのケータイにもメール、来るかしら? うーん、生きてる時ですら、1週間に一回来るかどうかだから、あんまり来ないかもね! ひゃー、もっとメル友増やさなきゃ! ま、それはともかく、科学の粋を集めて作られた文明の利器が、ある意味オカルト的に使われるという非常に今日的な現象のことを知り、は、はーんと思っている今日のワタクシなのでありました。
February 24, 2009
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先日久々に学会に参加して、いわゆる「文学研究」とやらの成果を拝聴していたわけですけど、何だか聞いているうちにつまーんなくなってしまいましてね。だって、言ってることが言葉の遊びに過ぎないんですもん。 たとえばその発表者は「・・・したがって、「私」は単一な主体でもなく、固定した主体でもなく、また表層部分が層をなして、それを一つ一つ剥いでいけば本当の顔が見られるといったような、中心に堅い塊があるものでもない。「私」はそれ自体が無限の層なのだ」などという、誰だったか有名な批評家が言った言葉を自説の補強のために援用するんですけど、「無限の層」って何? 何だか難しげな言葉を使っているけど、要するに、昔の人は腹が据わっていたようだけど、最近の人間はなんかチャラチャラしてんな、という程度のことなんじゃないの? その他、「移動と越境によってアイデンティティが流動する」だとか、「自己の中で外部と内部という二つのものが絶えず交換しあっている」だとか、何言ってんだろうね? 「彼女によって、日本人の典型として奥ゆかしい日本女性は、転移されている」なんて言うので、何のことかと思ったら、要するにお祖母さんが女だてらに葉巻を吸ったので、ちょっと幻滅した、という程度のことらしい。そういうのを「転移」って言うんですかね? じゃ、今度ワタクシも使おうかしら。「女のくせに、吐くまで酒なんか飲んじゃって! まるで君の中で外部と内部という二つのものが絶えず交換しあっているようじゃないか! まったく、日本女性のイメージが転移したよ!」なーんてね。ちょっとは知的に聞こえます? 文学研究とやらが、こんな程度の言葉遊びに過ぎないのなら、ワタクシ、もういつでも文学研究から手を引かせてもらいますわ。 さて、昨年の夏から秋にかけて「卒論指導指南の本を書いている」みたいなことをこのブログに書きましたが、あれ、しばらく放りっぱなしになっておりまして。というのも、卒論指導が本格化すると同時に、指南書なんて書いている暇が無くなりましてね。 しかし、今年度の卒論指導も終わったことだし、どれ、どの辺まで書いたのかしらと思って50ページ分ほど書き進めてあったものを取り出して読んでみたら・・・ ・・・すごく面白い。 自分で書いて、自分で面白がってたら世話ないんですけど、実際面白いんですって。 ということで俄然やる気になったワタクシ、再びこの本の完成を目指して筆をとった次第。今日は一日、原稿を書いてました。 内容としては、卒論の書き方、というよりは、アメリカ文化研究の紹介に近く、これまで十数年の間、卒論指導をしてきたノウハウと耳学問の集大成という感じ。読み物として面白いものにする予定です。 しかし・・・世の中にはつまらない「論文の書き方」本が沢山ありましてね。既に市場は飽和状態、というか、食傷状態でしょう。とてもまともな出版社からは出版できないな。 いいもんね。まともじゃない出版社から出版するもん。アマゾンに乗りさえすれば、どこの出版社から出したって同じようなもんだし。 だったら表紙も自作しちゃおうかしらと、適当にネット上から図像をとってきて、仮の表紙まで作ってみましたが、これがまた上手に出来まして。もちろん、これをそのまま使うわけには行きませんが、なんとなくイメージは掴めました。 というわけで、ここしばらくはこの本の完成に向けて驀進!の予定のワタクシなのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
February 23, 2009
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先日新しいズボンを買おうとしたら、いつものウェスト・サイズが窮屈過ぎて合わないという異常事態が発生。 そーいや、最近、無反省にバクバク食べているもんなあ・・・。午後のお茶、深夜のお茶の時にも欠かさずお菓子食べているし・・・。 ということで、数日前から猛然とダイエットしてますの、ワタクシ。 いや、ダイエットというよりは、運動ですね。腹筋、腹筋。とにかくウェスト・サイズを元に戻さねば! いや、単に戻すのではなく、腹筋がロッテ・ガーナチョコレートのごとく割れるまで、撃ちてしやまん! で、そこはそれ、薬好きのワタクシですから、運動の前には「カルニチン」のサプリを服用。これで体内燃焼し易くしてですね、おもむろに腹筋、腹筋、また腹筋。 そしておまけに、いわゆる「コアリズム」ってんですか? その真似事をして、ゆーらゆーら、クネックネッと腰を回していたら・・・ 家内が「な、何やってんの?」ですって! こら! 見てわからんかい! コアリズムじゃ! ま、そんな感じで腹筋を鍛え始めたわけですが、あれですね。筋肉っつーのは、あまり毎日鍛えると、返ってよくないんですってね。トレーニングは一日おきにして、筋肉が太くなる時間的余裕を与えないとダメなんだとか。 ってなわけで、昨日はお休みしたので、今日はこれから一発、腹筋のトレーニングでもしましょうかね。この先、もしワタクシの腹筋が縦横に割れたら、このブログに写真をアップしますので(ホントかよ?!)、読者の皆さん、期待しててね~!
February 22, 2009
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今日は久し振りに学会に出席してきました。 ところでその学会の会場となった某大学の高層校舎(15階)から窓の外を見て度肝を抜かれたことがありまして。 なんと窓から見えたのは、どこまでもどこまでも果てし無く広がる墓、墓、墓の群れ。この大学は名古屋の有名な霊園である「八事(やごと)霊園」に直に接しているので、校舎から見えるのは、地平線まで広がる墓なのでした。 こりゃまた、すごいものですな! 「メメント・モリ」(死を忘れるな)というラテン語の格言を地で行くような大学だったんだ・・・。 ちなみに、この大学が立っている八事の辺りは名古屋のベッドタウン、それも高級なベッドタウンでありまして、東京で言えば「山の手」的な位置づけであります。で、その真ん中に八事霊園があることは知っていましたが、それにしてもそれがこんなに大きな霊園だとは知らなかった。 で、後でこの辺のことに詳しい先生に聞いたところ、40年、50年前まではこの辺りはまだ名古屋のはずれで、これよりもっと東に行けば狐やタヌキしかいないようなところだったんですって。ということで、そういう名古屋のはずれに大きな霊園を作って、名古屋人の死後の住まいにした、と。 ところがその後の人口増加や宅地開発により、八事周辺は名古屋のはずれどころか、大きな意味で名古屋の内側になってしまったんですな。だから、本来ならものすごい一等住宅地となるべきところに、巨大な墓地が鎮座ましますようになってしまった。あらま、もったいない、ということらしい。 で、その後、さらに名古屋の東のはずれ、その名も「東山」に「平和公園」という新しい霊園を作ったのですが、今やそこも住宅地のど真ん中になりつつある。つまり、その時代その時代の「名古屋のはずれ」に巨大な霊園を作るのだけど、すぐにそこが「はずれ」ではなくなってしまう、というのが、名古屋の霊園事情なんですね。 さてさて、この調子で行くとなると、次は東山のさらに東、愛知万博の会場となった辺りがアヤシイな。次の巨大霊園は、モリゾー&キッコロの住む「海上(かいしょ)の森」あたりに出来るのかも知れませんぞ。 ま、それはともかく、早春の柔らかい光を浴びた無数のお墓が地平線まで続く光景を窓から見ながらの学会参加で、何だか妙な気分を味わっていた今日のワタクシなのでありました、とさ。南無~。
February 21, 2009
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今、愛知県美術館で開催している「アンドリュー・ワイエス展」に行って来ました。ま、アメリカの水彩画・テンペラ画家として日本でもつとに有名な方で、残念ながらついこの間、この展覧会が始まった頃に亡くなってしまいましたが、追悼の意味でもぜひ行っておきたかったもので。 で、行ってみるとなかなか充実した展覧会で、完成した絵の他に習作がかなりの量、展示してある。で、両方を比べながら見ると、ワイエスが試行錯誤しながら最終的にこういう風に仕上げたのか、というのがわかるわけですが、時には完成品より習作の方がいいじゃん、なんて思えることもあったりする。そこがまた面白いわけですわ。また展示された作品の他に、孫娘によるインタビューや、ワイエスゆかりの地を紹介したビデオなんかも随時放映しているので、これも併せて見ると楽しめます。 で、色々見て思ったのは、(あまりにも単純な感想で申し訳ないですけど・・・)ワイエスという人は、身近なものにやたらにインスピレーションを受ける人なんだなあ、ということです。 かの有名な「クリスティーナの世界」(残念ながら今回の展覧会では展示されていませんが・・・)で描かれるクリスティーナ・オルソンにしても、そのオルソン姉弟が住んでいた古い家にしても、また彼がモデルとして長年描き続けた女性・ヘルガにしても、ま、言ってみればご近所さんみたいなもんで、いわばどこにでもいる市井の人々に過ぎない。が、ワイエスはそういうありふれた人々、ありふれた光景にビビッとインスピレーションを受けて、何十年にも亙って飽きもせず描き続けるわけです。 結局、それが「神は細部に宿る」ということなのでしょうが。 とにかく、そういう身近な、ありふれたものを一生描き続けて、それでもまだ創作意欲を駆り立てられて止まないという感覚。それが、悲しいかな、凡人のワタクシには頭ではわかっても実感としてわからないことでありまして、しかしまたわからないからこそ、そういう感覚をもち続けるアーティストに興味を惹かれるんでしょうな。 一方、頭でわかる範囲のことを言いますと、アンドリュー・ワイエスの絵を見ていると、血は争えないと言いましょうか、彼の親父さんである有名な挿絵画家、N・C・ワイエスの画風に少し似ているな、という気がします。特に光の描写にそれが顕著だし、またアンドリュー・ワイエスの絵にどこか漂うドラマ性も、親父さん譲りという気がする。何せ親父さんは挿絵画家ですから、その絵は常に背後に物語を抱えているわけで、ドラマティックなのは当然ですが、アンドリュー・ワイエスの絵にもどこかドラマティックなところがありますものね。「クリスティーナの世界」にしたって、一体彼女はなぜここに居て、これから何をしようとしているのか、彼女の心に今、何が渦巻いているのか、そういうことを無性に考えたくなりますでしょ? またもう一つ思ったのは、アンドリュー・ワイエスってのは一般大衆に人気のある画家というだけではなく、他のプロの画家に興味を持たれる画家なのではないか、ということです。画家の画家、というのかな。それはつまり、セザンヌやピカソに対して多くの画家が敬意を払う、という意味ではなく、純粋に技術的・技法的な面で、他の画家が「これ、どうやって描いているんだろう?」と強い関心を持つ。そういう画家なのではないかと。 そんなことをふと思った直接の原因は、展覧会の会場で、多くの画家(と思しき、真っ赤なタートルネックのセーターとか着ている怪しげな人たち)がワイエスの絵をしげしげと見ているのを見かけたからです。 そんなことから推してみても、アンドリュー・ワイエスの絵というのは、一見分かり易いようで、実は、色々と手が込んでいるのかも知れません。 ところで、さらにもう一つ、今回の展示を見て強く思ったのは、ワイエスが描き続けたアメリカ北東部(具体的にはペンシルヴェニア州とメイン州ですが)の自然と、そこに暮らす人々の生活というのが実に美しい! ということですね。私のよく知る西海岸とはまったく趣の異なる、別種の美しさ。そりゃあんな風光明媚なところに住んでりゃ、インスピレーションも湧くでしょうよ、と言いたくなるような美しさ。ああいうところに、せめて一夏だけでも住んでみたいなあ、なんて、ちょっと思いましたなあ。 というわけで、今回の「アンドリュー・ワイエス展」、色々な意味で面白かったのでした。会期は3月はじめまで、まだ結構ありますから、名古屋周辺にお住まいの方でまだ見ておられない方がいらっしゃいましたら、ぜひ。教授のおすすめ!です。
February 20, 2009
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人にはそれぞれ意外なこだわりがあると思いますが、私の場合、意外に凝るのが「石鹸」です。石鹸というものに大して、かなり深いこだわりがありまして。 じゃ、石鹸のどこにこだわるかと言いますと、もう「泡切れの良さ」「さっぱり感」、これに尽きる。で、この条件をクリアした上で、「好みの香り」が加われば私のメガネに叶った、ということになるわけですよ。 ところが、日本のスーパーとか薬局とかで売っているごく普通の石鹸ってのは、イマイチなのが多くて。 例えば「花王石鹸ホワイト」。これはね、クリーミーな泡立ちという点では優秀だし、泡切れも悪くはないのですが、香りがもっさりして垢抜けてない。ライオンの「植物物語」と牛乳石鹸の「牛乳石鹸」は、泡切れはいいですけど、あとはどの点をとってもさっぱりし過ぎで、インパクトがない。ユニリーバの「ダヴ」は、しっとり系石鹸なので、もともと泡切れが悪く、これまた私の好みではありません。 というわけで、なかなかこれというのがなかったのですが・・・ ついに私の理想に近い石鹸を見つけました! それは何かと言いますと・・・ フランスの自然派化粧品メーカー・ロクシタンの「ヴァーベナ」石鹸でーす、ガーン! これ、泡切れはいいし、さっぱり感も満点。その上、レモンのような柑橘系の香りが爽やか! 朝なんて、これで顔洗うと、シャキッとして目が覚めるんだ。私、250グラムのでっかい奴買っちゃった。ちょっと高いですけど、洗顔石鹸として使うのならかなり持つのじゃないかしら。毎日この使い心地を楽しんで、数ヶ月は持つと考えれば、決して高いものではないのではないかと。 ということで、石鹸にこだわる教授の一押し、ロクシタンのヴァーベナ石鹸、熱烈おすすめ!です。これこれ! ↓ロクシタン シアバターソープ ヴァーベナ 250g 【5%OFF】
February 19, 2009
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今日、職場の駐車場に車を止めたら、たまたま隣にマツダの新型アテンザが駐車してありまして。お、これ一番新しいアテンザか、と思ってしげしげと見ると、これがね、案外カッコいいんですわ。タイヤハウスがググッと張り出していてグラマラス。さすが、最近のマツダはデザインが冴えているねえ。 なんて・・・。なんで他人のクルマに目が行ったのかしら? わかった! もうすぐ愛車の車検だからだ! そうなんです。愛車プジョー306の車検がもうすぐなんですよね~。2000年の登録なので、今回車検を通すと、4回目の車検ということになるのかな? 我がドライバー人生で、同じ車を4回車検を通したことはないので、ちょっと悩むところではありますね。いや、私自身としては、プジョー306を心から愛しておりますので、10年、11年と継続して乗ることにいささかの躊躇いもないのですが、そこはそれ、色々事情がありまして。 ま、一つは車検にかかる費用ですな。プジョーなんてフランスでは庶民のクルマですが、やはり外車ということで、車検の費用が結構かかるんですよ。今回は、サスペンションなどの取り替えもありそうなので、多分、30万から50万くらいはかかることでしょう。 50万円って、ちょっと痛いでしょ? それからもう一つ。実はこの頃、もう少し大きいクルマに乗った方がいいのかなぁなんて、そんなことを考えるんですよね~。というのも、たまに私の両親を乗せる時など、やっぱりプジョーは小さ過ぎるかなあと。 ま、私は昔から小さなホット・ハッチでピンシャン走るのが好きなんですけど、結構いい年齢になってきた両親を乗せるとなると、もっと大きくて排気量もでかいクルマでゆったり走った方が楽なんだろうなあ。それに、もう少し、見た目立派なクルマに乗らせてやりたいというところもありますし。 例えば、いっそ「クラウン」とか? トヨタらしい豪華内装で、乗り心地もいいだろうし、きっと音も静かなことでしょう。新車だと高過ぎるので、ゼロクラウンの中古とか、250万くらいで買っちゃおうか・・・。 なーんてことを考えつつ、クルマ好きの友人などに相談すると、「え~! 釈迦楽がクラウン? 似合わね~! どうしたんだよ?! 何トチ狂ってんだよ!」って言われるんですよね・・・。「百歩譲って高級車に乗るとしても、お前だったらアウディじゃないの?」みたいな。 ま、それはそうなんですけどぉ。お金がないんですぅ。 ということで、プジョーの車検を通すべきか、それとも見た目豪華な日本車でも買って親孝行するべきか。その辺で悩んでいる今日この頃なのでした。どうしよっかなあ・・・。
February 18, 2009
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NHKの衛星放送では土曜日、月曜日にそれぞれ『ゴッドファーザー』『ゴッドファーザーPartII』を放送していたので、もう何度見たか知れませんが、やはり見てしまいました。 もう、素晴らしいの一語ですね。特に第一部たる『ゴッドファーザー』なんて、何度見直しても惚れ惚れしますなあ。無駄なエピソード、無駄な描写が一つもない。音楽もいいし、これを作った頃のコッポラって、天才じゃなかろうか。 で、その続編の『PartII』も良くできていて、第一話との繋がりも完璧。第一話にも登場するシシリアのマフィアの親分たるトマシーニが、なぜ足が悪い設定になっているのか、それがPartIIで明らかになるわけですけど、そういうところもちゃんと作り込んであるわけだねぇ。 ところで『ゴッドファーザー』の方ではマーロン・ブランドがニューヨーク・マフィアの大ボス、ヴィトー・コルレオーネを演じて印象的なんですけど、『PartII』の方ではマイアミのユダヤ系ギャングの大ボスとしてハイマン・ロスという人物が登場する。で、このロス役の俳優さんが、これまた迫力のある演技で唸らせるんだ。 で、そのロスを演じた俳優は誰なんだろうと思って、映画を見た後、ちょいと調べてビックリ。彼こそはNYの「アクターズ・スタジオ」における画期的な演技指導法「メソッド」の考案者として名高いリー・ストラスバーグだというではないですか。今頃そんなことに気づくなんて、映画ファンの風上にも置けないのですが、迂闊にして知らなかった・・・。でも、リー・ストラスバーグは、自分ではほとんど映画には出演しませんからね。顔に見覚えがないのも当たり前ではあるのですが。 それにしても、そんな大御所が出演していたとは・・・。ならば『PartII』に出ているアル・パチーノも、ロバート・デ・ニーロも、彼の教え子だったというわけか・・・。 色々ビックリしますけど、それはさておき、今日はこれから『PartIII』が放送されるんですよね。ま、『PartIII』は、前2作と比べると圧倒的に駄作という評価をされるわけですし、私もそう思いますが、でも、PartI・PartIIと見ちゃったので、ついでに見直しちゃおうかな、と。 しかし、これも今回調べて知ったのですけれど、コッポラ自身は本来、『PartIII』ではマイケル・コルレオーネと、その義兄弟的な位置にあったトム・ヘイゲンとの確執を描きたかったようなんですね。だからこそ、『PartII』の中で、この二人の間に若干の溝が出来始めたことがさらりと描かれていたらしい。ところが、肝心のトム・ヘイゲン役のロバート・デュバルが出演料の件で折り合わず、第三部への出演を見合わせたと。そこで、仕方なくローマ教皇のスキャンダルなんかを持ち出したようなのですが、もしコッポラが撮りたいように撮っていたら、どんな映画になったのか。おそらく、現行のものよりは良い作品になったのではないかと思いますねえ。そう考えると、何だか惜しいような気がします。 というわけで、このところ、すっかりマフィアの世界に浸っているワタクシなのでありました、とさ。
February 17, 2009
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今日、とある本を読んでいて、「心理会計」という概念を知りました。人間はお金の扱いに関して、特殊な・・・というか、アホな考え方をする、ということなんですけどね。 例えば、失くしたと思っていた千円札が、忘れた頃に上着のポケットから出てきたとする。そうすると人間は誰しも「ラッキー! 得した!」と思うわけですね。実際には、単に失くしたものが出てきただけの話で、少しも得をしていないにも関わらず。 これが心理会計です。失くした1000円はいつの間にか心の中でチャラにしているので、それが後から出てきた場合、実質会計とは無関係に、「プラス」に算定してしまうわけ。 ま、これは簡単な話なので、なるほどと思うでしょう。じゃ、これはどうですか? 心理会計に関する一つの実験なんですが、被験者は2つのグループに分けられ、それぞれのグループに対して二つの選択肢が提示されます。 Aグループに対する二つの選択肢:まず被験者たちに30ドルのお金を示した上で、次の二つの提案をする。1「そのまま30ドルを持ち帰る」2「コイントスをし、勝ったらその30ドルに9ドルを上乗せする。逆に負けたら30ドルの中から9ドルを差し引く」 さて、皆さんだったらどちらの選択肢を選びます? これね、実験してみると大半の人は2番目の選択肢を選ぶそうです。「仮にコイントスに負けても21ドルはもらえるんだから、いっちょ賭けてみよう」と思うらしいんですな。 次にBグループに対しては、こういう選択肢を提示します:1「コイントスをして勝ったら39ドルを、負けたら21ドルをあげる」2「コイントスをしないで、そのまま30ドルをあげる」 今度はどうです? 皆さんだったらどちらの選択肢を選びますか? 実験の結果、大半の被験者は、2番目の選択肢を選ぶそうです。危険を犯すより、確実に30ドルもらえる方が得、と考えるのでしょう・・・。 しかし、既にお気づきかとも思いますが、Aグループへの選択肢とBグループへの選択肢、実際にはまったく同じものですね。まったく同じなのですが、その提示の仕方によって、大半の人がまったく逆の反応を示すというわけです。本来、Aグループへの提示で大半の人が2の選択肢を選ぶならば、Bグループへの提示では大半の人が1の選択肢を選ぶはずなのに、実際にはそうなってないのですから。 ここに実際の理論的な会計とは別に、「心理会計」の働きがあるわけですよ。ね、面白いでしょ? ま、こういうことがあるから、「詐欺」なんてものも生まれるのでしょうし、もっと言えば「市場」というものの動きも生まれるのでしょう。もし「心理会計」というものが存在せず、市場が完全に合理的に推移するものであれば、「100年に一度の大不況」なんて起こり得ないのかも知れません。だって、昨年の今頃と今年で、日本人の行動に関して大幅に変わったことなんかないでしょう? 何か革命でも起こりましたか? だけど、市場は100年に一度の大変動だと言っている。本当はそんなはずはないんですけどね。 でも、逆に考えれば、1980年代のバブルの時だって、市場の実態というよりは、単に心理会計のおかげで景気が良かっただけなんですからね。心理会計があるからこそ、辛いこともあり、面白いこともある、と。ま、そういうことなんでしょう。 人間の頭の構造ってのは、合理的じゃないところが、面白いですな。 さてさて、そんな「心理会計」なんてことを考えるだに、頭に思い浮かぶのは例の給付金ですわ。これ、税金で一度納めたものが返ってくるだけですから、本当はちっとも儲かってないんですけど、心理会計の働きで人々が「儲かった!」と感じ、それを泡銭としてバンバン使えば、ひょっとして景気も少しは良くなるのでしょうか? なるかもね。 だったら、ここは一つ、給付金を景気よく使って、日本の景気を「気分」で押し上げましょうかね。何事も気分、気分!
February 16, 2009
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先日、沼津を訪れた際、私の大好きなベルナール・ビュフェ美術館にも立ち寄ったのですが、ここのミュージアム・ショップで買った『ビュフェとアナベル』(FOIL)という本を読了しました。 この本、2007年9月から翌年の1月にかけて同美術館で開催された「ビュフェとアナベル展」の公式ガイドブック的な感じで出版されたものらしいのですが、ビュフェと、彼の奥さんだったアナベルとの麗しきパートナーシップについて概説されていまして。 で、それを読みますとね、夫婦のあり方としてこれ以上のものはないのではないか、と思うほどで、もうひたすらうっとりですわ。 ビュフェとアナベルは共に1928年生まれ。かたや20才にして既に超売れっ子となり、30才の時にはお城を買い取って住んでいたという新進画家、かたや美貌と才気でパリのサロンを魅了していたモデル兼詩人兼歌手。共に戦後花開いたフランスの華やかな文化的爆発に立ち会い、芸術家や文人たちとのきらびやかな交遊を楽しみつつ、内面においては早くして母親を失くした悲しみをも共有するこの二人が、共通の友人であったカメラマンを介して出会い、いきなり猛烈に惹かれ合ったのも、まさに運命というべきだったのかも知れません。そして、出会いからさほど時を経ずして結婚、以来40年を越す共同生活の中で互いに互いのミューズであり続けたというのですから、こんなステキなことはないじゃないですか。 で、この本には、まさに二人が出会った時の写真が掲載されているのですけど、普段は無口でむしろ人嫌いなビュフェが、なぜかアナベルには心を開いて快活に語りかけ、一方、男勝りのフラッパーであったアナベルが、ビュフェに対しては自然と物静かな聴き手にまわる、そんな二人の姿が見事に描写されていて、本当に美しい! いや、この写真だけでなく、この本に掲載されているすべての写真、アナベルを、そしてビュフェを写した数々の写真は、ことごとく、比類なき美しさに満ちております。この写真を見るためだけでも、この本を買う価値はあります。 ちなみにビュフェは71才の時に自殺という道を選ぶのですが、その時のアナベルの言葉がまたいいんだ。アナベルはビュフェの死について、こう述べています: 「ベルナール(=ビュフェ)が私を底なしの虚無の中に置き去りにして、旅立っていったとき、人々は『泣かないで。ビュフェは不滅よ。彼の絵があなたを見守っているわ』と私を慰めました。その言葉を聞くたび、やり場のない怒りが込み上げました。 『愛するベルナールのいない部屋で暮らす悲しみを、彼の絵が消してくれるとでもいうの?』 けれど、ピンクの背景に寝そべっている(アナベルをモデルにした)裸体画を見つめていると、そんな怒りも消えていきます。そして、この先も歳をとったり、太って醜くなってはならないと、絵の中の私に激励されるのです。彼の遺した絵のおかげで、私はベルナールに愛されていたときの自分を保っていられるのだと思います」(184頁) そしてアナベルはビュフェが亡くなった6年後に、息を引き取ったのだそうです。 というわけで、美しい写真とビュフェの絵、ビュフェとアナベルの生涯を綴った文章で構成されたこの本、読後感が非常にいいですので、興味のある方はぜひお読み下さい。教授のおすすめ!です。これこれ! ↓ビュフェとアナベル ところで、この本にはビュフェがまだ少年の頃、すなわちナチス・ドイツに占領された頃のフランスのことが書いてあるのですが、これを読むと、ちょっと不思議な思いにとらわれます。 1940年代、敵国に占領された国の中で、画学生として少年期を過ごすというのは、いかにも大変なことのように思うのですが、実際にはそうでもなかったようなんですね。もちろん、食料難だし、画材も不足しますからそういう意味では大変だったかも知れませんが、「国の大事な時に暢気に絵なんか描いてやがって、この非国民が!」的な周囲の目に悩まされるということはなかったようなのです。確かにユダヤ人の画家だとか、抽象画家などは自由を奪われたようですが、ビュフェのような具象画家は、普通に絵の学校にも通えたし、平和時と同じように絵の展覧会やコンクールがあったらしい。 ただ、パリはドイツ兵が偉そうに跋扈しているので、フランス人としては面白くない。そこで、いわば「河岸を変える」という意味で、フランスの主だった文化人たちはパリからサン・ジェルマン・デ・プレのカフェやビストロに自分たちの拠点を変え、そちらで楽しくやると。そういうことはあった、というのですな。 で、そうこうしているうちにフランスのレジスタンスと、連合国の支援を受けたド・ゴール将軍麾下の解放軍がフランスをナチスの手から奪還。フランスが再びフランス人のものになったということで、国中が盛り上がる大騒ぎになった、と。 うーん。その辺の展開がね。日本の戦時中とえらい違いじゃないかしら、と思うんですよね。私もさほど詳しくないんですけど、どうなんでしょう? でも、少なくとも日本の戦争中の苦しみってのは、外部からのものというよりも、むしろ内部的なものが多かったんじゃないかと思うんです。ちょっとでも軍部に批判的なことを言えば「非国民!」と罵られる、そういう民間人同士の間での思想統制のこととか、軍隊内部の話、特に新兵へのしごきの話なんかをものの本なんかで読んだりする度に、そう思います。 そういうことを考えると、拍子抜けするほどあっさりナチスによる占領を許したかのように見せかけながら、実はそれは上辺だけのことで、裏ではしたたかに草の根レジスタンスが続けられていたフランス人の強さ、またその強さを支える祖国への愛と誇りを羨ましく思います。そういう芯の強さがあるからこそ、フランスでは戦時中ですら、画学生が何の心置きもなく絵の勉強に打ち込めたりしたのではないかと。 ま、そういう意味でも、色々考えさせられる本でした。
February 15, 2009
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所用があって沼津に行って来たのですけど、沼津港ってのは漁港ですから、港の周辺には鮨屋とか、魚の干物なんかを売る店が軒を連ねている。こういうところを見過ごすわけには行かないので、当然、何かお土産を買うために眺めて回ることになるわけですね。 で、実際見て回ると、おいしそうな干物が所狭しと。鯵の干物は言うまでもなく、えぼ鯛や金目鯛の干物とか、鮭のカマの干したの、それにイカの一夜干しなんかが並んでいる他、鰯の醤油干しなんてのもおいしそうでしたなあ。あるいはまた帆立貝の貝柱をちょっと干したのとか、その場で串に刺して焼いてたりして、これまた心動かされます。 ところで、そんな中、あちこちのお店で、見たこともない、しかも何だかあまりおいしそうでない干した切り身を売っているんです。 見た目はとにかく真っ黒。何かを真っ黒に焦がしてしまったような色で、そうですね、例えば真っ黒に焦がしてしまったフライパンの底のような黒といいましょうか。そういう真っ黒なものを適当な大きさに切って、干してある。これは一体、何なんだろう? ナマコかなあ? ・・・と思ったら、衝撃の真相が・・・。 なんと! まさか、まさかの、「イルカの切り身」ですよ。沼津の港では、イルカの切り身を干したものをそこかしこで売っているのでありました。 ひゃー。イルカって、食べるんだ・・・。って言うか、食べていいんだ・・・。ワシントン条約とか、グリーンピースとか、色々あっても大丈夫なんだ・・・。 しかし、何せワタクシ、子供の頃「わんぱくフリッパー」を見て育ち、イルカは友達なんだという信念がDNAに刻み込まれているので、さすがに友達の切り身の干物を買ってみようという気にはなりませんでしたなあ。大体、真っ黒な見た目からして「食べ物」という感じがしなかったし・・・。 いや、もちろん、食は文化ですから、イルカだろうとクジラだろうと人が食べたって構いませんけど、自分としては、ね。 というわけで、私自身はごく平凡に「カワハギの干物」を買って帰ったのですけど、家で軽く炙って食べたカワハギの干物、馬鹿うまでしたよ。たまには凝った料理もいいけど、最近、結局一番うまいのは、新鮮な干物を炙って白米と共に食べるとか、そういうもんじゃないかなと思えるようになってきました。 それにしても真っ黒なイルカの干物。何だか夢に出てきそうな、インパクトのある映像ではあったのでした。一体、あれはどういう味がするものなのか。とりあえず焼いて食べるのだと仮定したとして、もとから真っ黒なものを焼いて、どこで「焼けた」と判断するのか・・・。うーん、謎は深まるばかりです。
February 14, 2009
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家内が何やら本を読みながらさも面白そうにケラケラ笑っているので、一体何を読んでそんなに面白がっているのかと思ったら、三浦しおんさんのエッセイを読んで面白がっていたのでした。 はあ・・・。それ、そんなに面白いの? と思って、チラッと読ませてもらったのですが・・・ これがね、ちっとも面白くない(爆!)。いや、三浦しおんさんが面白おかしく書こうとしているのは分かるし、ここで笑ってもらいたいのだな、というのは分かるのですが、それがあまりにも明白なので、返って白けてしまうわけ。 しかし、家内にはそれが面白くて仕方がないようで、いつまでもケラケラ笑っている。あんまり楽しそうに笑うので、それを見ている私までつい笑ってしまうほどです。 それにしても不思議だなあ。家内はこと「笑い」に関しては相当シビアなのに、どうして三浦しおんさんの書くものだと、あれほど簡単に参ってしまうのだろう? で、思い当たる節があるのですが、女性はある種の笑いに対して閾値(いきち)が低いのではないかと。 例えば多くの女性は小林聡美のコミカルさを評価しますが、男性にはそれが分からないとか。(家内は小林聡美のファンですが、ワタクシはどうも・・・) 例えば・・・えーと、他に何があるだろう? ちょっと今思いつきませんが、女性が面白いと思うもので、男性にはその面白さがさっぱり、というものは多々あるような気がします。 やっぱり、男と女の間には、感性の差がありますね。 あ、あと一つ、これは「面白さ」に関するものではないですが、男女の間で評価が割れるものを思いつきました。 雑穀。 なんで女の人はやたらに「雑穀ゴハン」とか、「発芽玄米」とかに凝るんですか? ワタクシ、男性の代表として声を大にして言わせてもらいますが・・・ ゴハンはやっぱり白米がうまいっ! 家内殿がこのブログを時々読んでいることを承知で言わせてもらいましたっ! ということで、三浦しおんと発芽玄米の良さは、ワタクシにはどうもいま一つ分からないのでした、とさ。
February 12, 2009
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我が家が講読している新聞にサラリーマン川柳についての面白い記事が載っていました。 10年ほど前のサラリーマン川柳に、「この俺を 雇わないとは 目が高い」というのがあった、というのです。就職難を嘆いてはいるのですが、最後は自分自身を茶化すゆとりがある。そこにユーモアがある、というわけです。 ところが今年のサラリーマン川柳はといいますと、「仕事減り 休日増えて 居場所なし」とか「昼食は 低カロリーより 低コスト」というようなものばかりで、確かに今の世相を巧みに言葉にしているのだけれど、10年前の川柳のようなゆとりがない、と。つまり、それだけ一層切羽詰まっているのではないか、というのですな。 うーん、うまいことを言うではないですか。 衣食足りて何とやら、ということがありますが、その衣食が足りなくなると、ユーモアが命の川柳からも、それが失われていくということなんですかねえ・・・。 さてさて、今日の私は、そんな世相とは裏腹に、あれこれと興味の赴くままに本を読んだりして割と好き勝手なことをしておりました。 その中には、ルイス・カーンという建築家の設計した家の写真集なんかもあったのですけど、それを読んでいて、この人の「窓」に関する考え方に興味を惹かれました。彼は窓というものにすごく関心があった人なのですが、彼は「景色を見るための窓」と「通風のための窓」をかなり明確に区別したというのですな。で、前者には嵌め殺しのガラスを使い、視線を遮る無粋な桟を極力廃す一方、外気を室内に取り込むための窓は、外壁から少し引っ込ませたところにしつらえて、雨などが降り込まないようにした、と。 なるほどね。ちなみに私は現代日本家屋の多くで使われている「アルミサッシ」なるものが大嫌いなんですけど、ルイス・カーンの思想を演繹して我田引水すれば、アルミサッシの良くないところは、景色を見るための窓と、通風のための窓を一つで兼ねようとしているところにあるのではないか、という気がしてきましたよ。 で、そんなルイス・カーンの設計した家を見ると、窓だけではなく、全般に亙って機能毎の役割分担をきちんとした設計をしているように見えます。たとえば彼は窓辺にベンチを作り付けるようなことをするのですが、これもそのベンチに「これは陽射しを浴びたり、外の景色を楽しみながらくつろぐためのベンチ」というような明確な役割分担を与えている。要するに、どうにでも使える空間とか、どうにでも使える調度品というのを、割と嫌っているようなんですね。その設計思想は、実にワタクシ好み。 実は私、「和室」みたいに、ある時は茶の間、ある時は寝室、ある時は書斎、というように、千変万化する空間が嫌いなんです。だから、もしルイス・カーンがまだ生きていて、話をすることが出来たならば、私とは気が合うだろうと思います。 しかし、その割に、ルイス・カーンの設計した家のインテリアは、ちょっと凡庸だなあ。彼の設計の神髄は、外壁の美にこそあり、と見た。 ま、今日はそんなどうでもいいことも考えたのでありました。でも、こういう無駄なことを考えることこそ、知的悦楽なのでございますよ、私にとっては。 というわけで、今日はそんな悦楽を味わいながら、ノンビリした一日を過ごしていたワタクシなのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
February 11, 2009
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フランスで行われている柔道の国際試合「グランドスラム・フランス国際」において、女子柔道48キロ級・山岸絵美選手が優勝したとのこと。やった~、ワタクシ、山岸選手を応援していたんですよね~。 と、ここで本ブログ昨年12月18日の記述を振り返ってみましょう・・・「柔道(観戦)ファンの我ら夫婦、先週は嘉納杯を堪能したんですが、その中でも特に私が注目したのが女子48キロ級の山岸絵美選手。この階級は谷選手がずっと君臨していたわけですけど、若手の台頭も激しく、中でも福見選手がポスト谷の呼び声が高い、のかな?で、実際、今回の嘉納杯ではその福見選手が優勝したのですが、決勝で福見選手と死闘を繰り広げた山岸選手がね、いいんですわ。「剛の福見」に対し、「技の山岸」って感じ。見た目、山岸選手の方が線が細いようなんですけど、実際には相当なパワーの持ち主ですし、何よりも技のキレがすごい! 特に寝技のうまさときたら、天才的じゃないかしら。今回は福見選手に負けちゃったけど、ワタクシ、断然ファンになったので、次、頑張ってね~!」 ご覧下さい、嘉納杯で優勝した福見選手ではなく、むしろ決勝で敗れた山岸選手の方を高評価したワタクシの見巧者ぶり。自分で「事情通」を名乗るだけのことはあるでしょう? アメリカ文学研究者にしておくのは惜しいと思いません? もう、スポーツライターとかになっちゃおうかしら。 ま、ワタクシの自慢より、優勝した絵美ちゃんですわ。山岸選手、これからも、あの多彩な、しかもキレのある技で、我々柔道ファンを楽しませて下さいね! ポスト・やわらちゃんは、山岸選手で決まり! 教授のおすすめ!です。
February 10, 2009
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今日は勤務先大学で卒論の口頭試問がありました。 で、自分が指導した学生の卒論の主査になる他、他の先生が指導した学生の副査にもなるので、色々な卒論を査読することになるわけですが、他チームがどんな感じの卒論を仕上げているのか、興味深いところではあります。 ちなみに、私が副査として読んだ卒論の中に、「アメリカにおける国際養子縁組」について書いた卒論がありまして。 たとえば最近訪日したアンジェリーナ・ジョリー&ブラピ様ご夫妻などもそうですが、アメリカには一般人でも自分たち自身の子供の他に他国から養子を迎える人が相当数いる。そういうのを国際養子縁組というわけですが、こういうのが始まったのは案外最近のことで、1955年以来だ、というのですね。 じゃ、なにがきっかけかといいいますと、朝鮮戦争の結果、アメリカの兵隊と現地の女性の間に子供が出来、それが戦争孤児(いわゆるGIベビー)となって苦労する、というような問題が起こってきたことによるんですって。で、そういう報道を見たあるアメリカ人のご夫妻が、こりゃいかん、というわけで、取材された8人の戦争孤児を引き取ろうと申し出た、と。 で、そうなると当然、ベトナム戦争時に戦争孤児(アメラジアン)が沢山生まれた時も同じことが起こるわけでありまして、そのうちにアメリカの関連する戦争だけでなく、世界各国で生じる戦乱・内乱、貧困、病苦等々の結果、恵まれない子供が生じる度にそれをアメリカ人篤志が引き取るというようなことが慣例となるわけですな。もちろん、そういうケースの他に、不妊に悩むアメリカ人夫婦が他国から養子をとるということもあるので、「一人っ子政策」をとる中国から女の赤ちゃんがアメリカ人夫婦に引き取られる、なんてことも多いらしい。アメリカで人気のTVドラマ『セックス&ザ・シティ』でも、主要登場人物の一人が中国人の娘を養子にとりますが、あれはこういう世相をうまく反映させているわけですよ。 で、アメリカではそういう国際養子縁組が多いわけですけれど、そうなると、それはまたそれで色々と問題が生じてくる。たとえば、養子縁組が一つのビジネスとなって、人身売買に近いものになる危険性もある。また手続き上、正当な養子縁組であったとしても、引き取られた子供たちが実の親への憧憬を募らせたり、アメリカで人種差別的ないじめを受けたりすることによって生じるアイデンティティ・クライシスが大きな問題で、そのためのケアが必要になってきていることもある。 とまあ、この卒論はその辺の事情をさらに詳しく扱っているのですけど、とりあえずここまでの段階で私が驚くのは、「可哀相な子供を引き取ろう」というアメリカ人の発想です。 たとえば日本人だって、テレビの海外ニュースなどで、どこぞの地域が大変なことになっており、恵まれない子供が沢山生じている、なんてことを見たり聞いたりすることはあります。しかし、その時点で、「よし、あの子たちをうちで引き取ろう!」という行動に出る日本人一般家庭がどの位あるか。あんまりないだろうと思うんですね。日本は日本で、伝統的に養子縁組の多い国ですが、日本の場合、「家」を存続させるための養子縁組が多いので、よその子供が可哀相だからうちで引き取る、というのではない。じゃ、純粋に「恵まれない子供が可哀相だから」「彼らはアメリカで育った方が幸福になるだろうから」という「子供本位」の理由で、養子縁組という行動に出るアメリカ人っていうのは何なのか。 もちろん、その基礎には「キリスト教的慈善精神」があると思います。が、それなら他のキリスト教国家にもアメリカほどの数の国際養子縁組があるかというと、そんなことはないのであって、やはりそこにはアメリカ独自のものがあるんですな。 つまり、「アメリカが世界一だ」「ここで育つのが一番いいのだ」という自負。「世界中の可哀相な子の面倒はアメリカが見る」という責任感。これですね。 私思うに、こういう自負と責任感がどうして、何を根拠にして生じてきたのか、ということは別として、アメリカ人の、あるいはアメリカ国家の(たとえば外交問題を含めた)行動原理の根底に、これがあるのではないかと。逆に、その自負と責任感、ちょっとおかしいよ、ということをアメリカ自身が自覚しないと、たとえば中東問題への介入などの問題は終わらないんじゃないの、と思うんですよね。 もちろん、こういうアメリカの自負と責任感によって、世界中が益しているところはあります。それは確かにある。日本人が一般に思っている以上に、ある。しかし、そのアメリカの自負と責任感が引き起こしている問題も多い、ということもまた事実でありましょう。 ま、ことほど左様に、「アメリカの国際養子縁組」という枠組みから見ても、アメリカの特殊性というのは窺われるんですな。 ま、そんな感じで、よそのチームの卒論を査読しても、私自身が得ることは多いのでありまして、教えるとは教わることである、というのは本当にその通りでございます。 ということで、今日は今年度の卒論指導のすべてが終わったと同時に、私も大いに勉強をさせてもらったのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
February 9, 2009
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テレビ朝日が開局50周年とやらで、昨日・今日と懐かしい昔の番組などを特集しており、つい見てしまいました。 昨日の放送では「アントニオ猪木対モハメド・アリ」の世紀の対決を回顧していましたけど、あれも懐かしいですなあ。リアルタイムで見たことを思い出しましたよ。当時は猪木が寝そべってばかりで、何だかつまらない、後味の悪い試合だったなあと思いましたけど、実はあの時、アリ側の強引な要請で、スタンディング・ポジションでの蹴りワザ、投げ技、関節技などのプロレス技を封印されていたということを今回の番組で知り、猪木がマットに寝ながらアリの足を蹴り続けた理由がようやく分かりました。ま、結局、本気の猪木側と、単なるショーと考えていたアリ側の、あの試合に対する思い入れの圧倒的な違いが、ああいう不幸な形を生んだということなんでしょうな。 また今日の放送では、懐かしいテレビ朝日系番組を色々紹介していて、これまた懐かしかった。アニメの「狼少年ケン」とかね。あるいは「クイズ・タイムショック」とか。「タイム・ショック」の初代司会者だった田宮二郎氏のカッコいいこと。ああいう常人離れした二枚目俳優というのは、居なくなりましたなあ。 それから、中村梅之助が演じた頃の「遠山の金さん」とかね。あと、近衛十四郎と品川隆二の掛け合いが楽しかった「素浪人 月影兵庫」とか。みんな懐かしい。 あと「徹子の部屋」の第一回目のゲストだった森繁久弥氏が、オープニングでいきなり黒柳さんの胸をお触りする衝撃の映像も見ましたけど、あんなの今やったら完全にセクハラでテレビ界追放じゃないですかね。 とまあ、色々あってすっかり楽しみましたけど、テレ朝の今回の一連の記念番組は、淡々と懐かしい映像を流すことに徹し、要りもしない司会とか、コメンテーターとか、そういうのを使わなかった点で出色の出来。これについては大いに褒めてあげましょう。この種の番組はまさにこうあるべき。 それにしても、「懐かし系」の番組をこれだけエンジョイできるワタクシって、やっぱり年をとったのかしら・・・。でも、昔のことを知っているというのは、ある意味、特権ですからね。大いばりでエンジョイしますか。 テレ朝以外のテレビ局の皆さーん! テレ朝に続いて、自局の懐かし番組、放送してくださーい!
February 8, 2009
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今日は家内が高校時代の親友二人と岩盤浴に行くと張り切って出掛けて行きましたので、私はお留守番です。 というわけで、卒論口頭試験のための準備やら、その他の仕事を家で一人でしこしことしていたのですが・・・。 どうも一人というのは持て余すもんですな・・・。いつものように夕方にはお茶を飲みましたが、一人で飲んでもあまり面白くないし。夕食も黙って食べると味気ないもので。 それでも仕事だけは捗りましたけどね。 で、そろそろ帰ってくる頃と思ったところに家内から電話が。 しかし、予想に反して暗い声。どうも湯あたりしたようで、途中から具合が悪くなってしまったとのこと。親友の二人にも随分迷惑をかけてしまったようで。あらあら・・・。 とはいえ、そこから車を運転して帰ってこなくてはならないわけで、大丈夫かしら、途中でまた具合が悪くならなければいいが、と心配すること1時間。ようやくほうほうの体で帰って来た家内を寝かしつけたという次第。 岩盤浴もやり過ぎちゃいけませんね。体調を考えてやらないと。でも、事故も起こさず無事に家に帰り着けてよかった、よかった。 というわけで、手持ち無沙汰だったり、心配させられたりの週末となった今日のワタクシだったのでありました、とさ。やれやれ、世話が焼けますわい。
February 7, 2009
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今日、いよいよホンダが満を持して世に問うハイブリッド・カー、「インサイト」が発売になります。 通勤途中にあるホンダのディーラーには既にインサイトの実物が展示されていましたが、トヨタのプリウスと比べると外観的には一回りコンパクトでスリークな感じ。プリウスより数十万円単位で安いことを考えれば、そこそこ売れるかも知れません。初代インサイトはまったく売れず、ハイブリッド・カー市場においてプリウスの圧勝を許してしまいましたが。 でも、インサイトが売れなかったら、ホンダは本当にやばいことになりそうですね。売れるタマがフィットだけ、という状態では先行き暗いでしょう。 ただ、それにしてはインサイトのデザインはどうなんでしょう・・・。先行するプリウスにそっくりのサイド・シルエットに、オデッセイ似のフロントマスクをつけただけ、というのでは、ね・・・。たとえば初代シティが登場した時のように、アッと言わせる独創的なデザインで新型インサイトを出して欲しかったなあ。 それはさておき、「新世代のクルマ」というくくりで見ると、日本とヨーロッパではまったく方向性が異なるもんだなあ、という気がします。 ヨーロッパのクルマの潮流は、「(ガソリン or ディーゼル)小排気量過給エンジン+多段ロボタイズド・マニュアルシフト」です。かつてはガス食いの象徴でもあったターボエンジンを小排気量で実現することによってパワーと燃費を両立させつつ、従来のトルコン式ATよりも効率のいい多段2ペダルATを導入してさらなる燃費アップを目指すと共にドライヴィング・プレジャーをも付加しようという狙い。 一方、日本のクルマの潮流は、「ハイブリッド・エンジン+CVT」ですな。これは一言で言って、「エンジンの特性を殺し、トランスミッションも無段化して、どんどんモーターに近づける」発想と言えましょう。 で、どちらが先進かと言われれば間違いなく、日本のクルマの方向性の方が「進んでいる」でしょう。しかし、どちらの方向性の方が楽しい? と問われれば、ワタクシは間違いなくヨーロッパのクルマに軍配を上げます。なぜなら私は、動力として欠陥のある「エンジン」を、「トランスミッション」という道具で補って走らせることこそ、クルマの運転の楽しさだと信じているからです。 つまり、日本のクルマが目指す「ハイブリッド+CVT」とは、クルマをもっともクルマから遠いものにする仕組みなのでありまーす。 で、そういう方向でクルマ作りを進めている日本のメーカーを見ていると、ある意味、自分で自分の首を絞めているんじゃないか、というような気がしますね。クルマの楽しさを知らない世代を作り出そうとしているわけですから。「クルマなんて、ガス代が安く済んで壊れないのが一番いい」ということになれば、クルマに対する興味なんて消え去りますよ。そうなれば、新車が登場するたびに心惹かれる、なんて人はいなくなり、結果としてクルマ自体が売れなくなるわけですから。 いや、もう消え去ったのかな? 最近、「暴走族の高齢化」という話題を耳にします。かつて若者の破天荒なエネルギーの一つの捌け口だったクルマ・バイクによる暴走行為ですが、最近はそういうことをする若者がめっきり少なくなり、いまだに暴れているのは30代、40代のおじさんばかりなのだとか。それを寂しいと言ったら語弊がありますけど、「そんなふうになったのかなあ・・・」という感慨はあります。 またこのところ、クルマに興味を持つ人がどんどん減っているせいか、ウェブ上のクルマのサイトがどんどん閉鎖されているらしい。もはや、クルマに対する憧れなんてものは、存在しなくなりつつあるのでしょうか。 条件が良ければ1リッターで30キロ近く走るという新型インサイトの実車を目にし、また、これまた条件が良ければ1リッターで40キロ近く走るという新型プリウスの噂などを耳にするたびに、クルマと人間の親しい関係がどんどん薄くなっていくことを予感し、なんとなく寂しい気がしているクルマ好きのワタクシなのでありました、とさ。
February 6, 2009
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今日は仕事が終わってから、4年ほど前に卒業したゼミ生二人と飲み会をしておりました。 飲み会というより、結婚報告会ですね。実は二人のうちの一人、Aさんが昨年秋入籍され、この春に披露宴と相成ったのでございます。今日は、そのあたりのロマンスについての近況報告というわけですな。 で、そのロマンスがとりわけロマンティックなのは、お相手の男性がアメリカ人青年だったからでーす、ガーン! ひゅー、ひゅー、国際的~! で、二人がいかにして出会い、恋に落ち、ご両親様を説得し、めでたく結ばれ、そして来るべき善き日に備えているか、という話を詳しく聞いたわけですよ。国際結婚ならではの色々な事情もありますからね。 たとえば「突然名字が外国名になる」ということが社会生活の中でどんなことを引き起こすのか、なんて話は相当面白い側面もあり、ワタクシとしてもかなり勉強になったのですが、ま、詳しい話はここでは割愛しましょう。とにかく、おめでとうございました。よかったね、Aさん! 末永くお幸福に! 幸せオーラ、確かにおすそ分けしてもらいましたゾ! そしてもう一人の卒業生、Aさんと仲のよいSさんですが、こちらはこちらで相当興味深い恋愛トークのネタがありまして。これも語ればめちゃくちゃ面白い・・・いや、コワイというのか・・・身の危険を感じるというべきかしら・・・。しかし、これもまた各方面で色々支障がありますので、その内容を漏らすのは止めておきましょう。でも、ああ! しゃべりたい! でもしゃべれない! く、苦しい・・・。でも、そうした過酷な恋愛を乗り越え、今は割と平穏な境地に到達しているみたいなので、こちらもメデタシ、メデタシと言っておきましょう。 というわけで、今日は私が手塩にかけて育てた娘たちと久し振りに楽しい一夕を共にすることが出来て、非常にゴキゲンなのでした。二人とも、また時折近況を知らせてくれよ!
February 5, 2009
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このところ我が家では「豆乳ブーム」です。ま、別に何かきっかけがあったわけでもないのですが。 で、マルサンとかの豆乳の1リットルパックを買ってきてですね、色々使っておるわけですよ。これこれ! ↓ 【送料無料】【健康家族】マルサン 調整豆乳 1000mlX6 まずはそのまま飲む。その昔、私が高校生くらいのときですからもう随分前のこと、その頃初めて豆乳のブリックパックを飲んだ時の、あまりの不味さの衝撃、あれは忘れられないですが、その頃と比べて最近の豆乳は、青臭さが大分消されていて飲み易くなりました。牛乳を飲むより脂肪分も少ないでしょうし、動物性タンパク質より植物性タンパク質の方が健康的かな、と。 でも、やっぱり豆乳特有の青臭さがイマイチ、という時に使う必殺ワザが豆乳with「グリーンティ」。「グリーンティ」って、粉末で売っているじゃないですか。あの、水を加えて冷たい甘茶にする奴。あれをですね、水の代わりに豆乳で溶くと、これがまたおいしい豆乳抹茶オーレになるんだ。これ、オススメです。これこれ! ↓ 粉末で溶けやすい!ミルクを入れたら抹茶オーレ!お茶の原口園謹製 八女抹茶グリーンティー(1... しかーし。我が家の最大のヒットは、豆乳with「カップスープ」でーす! 要するに沸かした豆乳で粉末のカップスープを溶くわけですけど、これがね、かなりおいしいです。ポタージュ系が合うと思いますが、ワタクシ的にはクノールの「男爵いものポタージュ」と合わせると最高かな。これこれ! ↓クノールカップスープ 男爵いものポタージュ 3袋 お湯で溶いたカップスープだとちょっと味気ないですけど、ホットな豆乳で溶くと栄養価も上るでしょうし、味もとてもいいですよ。青臭さなんてまるで気にならないし。豆乳に含まれるイソフラボンは女性の健康にとてもいいと言いますから、そういう面でもオススメです。 というわけで、あれこれ工夫をしながら豆乳を楽しんでいる釈迦楽家なのでありました、とさ。皆様もお試しあれ!
February 4, 2009
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今日は節分。これを過ぎると立春ですから、字面だけでも何となく春が近づいてきているような気になります。 ところで、節分が近い今日この頃、我が家のマンションのベランダにある異変が・・・。 家内に言わせると、この数日、我が家のベランダに雀がよくやって来るようになったそうなのです。最初に一羽、そのうちその子の友達らしいのが二羽三羽とやって来て、仲良く手すりの所にとまりながらしきりにキョロキョロとあたりを見渡していると。 私は、へえ、そうかいと話を聞いていたのですが、聞いているうちにほんとに雀がやって来た。で、確かに家内の言う通り、何かを探しているかのようにベランダの内側をキョロキョロ見回して、しばらくすると「どうも、まだ無いな」と言わんばかりに飛び立っていったんです。 思い当たることはただ一つ。 彼らは節分の豆を探しているのではないか、と。 実は我が家では割と律儀に節分の行事を行っておりまして、毎年2月3日には豆を撒く。と、当然のことながら、ベランダには炒った大豆が散乱するわけですな。すると翌日あたりにはどこからか雀ちゃんたちが三々五々やって来て、チュンチュン言いながら食べていく。 で、そういういことを勘案していくと、おそらく雀ちゃんたちとしては、「えーと、そろそろその時期だったんじゃなかったっけ?」などと思って、この数日、我が家のベランダに偵察に来ているのではないか、と。 いや、そうでしょう。多分そうだ。雀には節分が分かるんだ・・・。 ひゃー! 雀って、どこまで賢いんだ、ってハナシですよね。驚いちゃうなあ。アイツら、人間が思っている以上に実は賢いんじゃないかしら。アイツらの前でめったなことは言えないじゃん。 というわけで、なんだか雀に我が家の日常を偵察されているようで、可笑しいような、ちょっと気味悪いような気になっている今日のワタクシなのでありました、とさ。明日の朝、「やっぱりね」と言わんばかりに大豆をついばんでいる彼らと目があったらどうしよう・・・。
February 3, 2009
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やあやあ、名古屋に戻ってきました。恩師の墓参のためだけの東京往復でしたので、結構疲れましたけど、懐かしい友達にも会えたし、両親の顔も少しだけでも見れたので良かった、良かった。 ところで、先週、私の身にちょっといいことがあったので、実家の両親にそのことを告げると、両親ともとても喜んでくれたのですが、その時、母が私に言った一言が印象に残りまして。 母は、こう言ったんです。「やっぱりね! 先週、あなたの運勢は良かったのよ。新聞に書いてあった」と。 おお、母上。新聞などに出るその種の占いを見る度、私の運勢を気にしておられるのですか。姉も私も立派な中年になった今ですら、我ら子供たちのその週の運勢を見て、一喜一憂しておられるのですか。 母親っちゅうものは、つくづく有り難いものですなあ。 ま、日頃なかなか親孝行も出来ませんが、せめて健康でいて、親に心配をかけないようにしたいものでございます。
February 2, 2009
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ひゃ~、一日のご無沙汰。 実は土曜日、大学での激務の後、東京の実家に帰りついた時には疲れきっておりまして、ブログを書く気力もなかったのでございます。 なんで東京に戻ったかと申しますと、私の小学校時代の恩師のお墓参りがあるからです。先生の命日は1月30日なんですが、それでは集まれないということで、2月の第一日曜日、午後1時に先生のお墓の前に集合と決め、事前に何の連絡をしなくとも、その日に都合のつく同級生は集まるという仕組みにしたんですな。 そんな、いつの間にか出来上がったルールのもとで執り行われるお墓参りも、今年でついに28回目となりました。今日集まったメンバーは5人。うち私ともう一人が皆勤賞です。 で、いつものように皆でお墓参りをした後、昼食会となったわけですが、小学校以来の同級生ですから会えばその瞬間から昔に返ります。これが楽しみで続いているようなところもあるのですが。 ところで、今日はメンバーの一人であるH君から面白い話を聞きました。 H君には小学校2年生の子供がいるのですが、昨年のクリスマスにその子を連れて近くの教会に行ったというのですな。何も自分がクリスチャンになろうとか、子供をクリスチャンにさせようとかいうのではなく、ただ、そういう宗教的な雰囲気に触れさせるのも勉強だろうと思ったからだ、というのです。 ま、我々が通った小学校はキリスト教系でしたので、毎週の礼拝の他にクリスマスには全学あげての荘厳なミサがある。そういうのに出ていた時の経験を子供にも味あわせてあげようというわけです。公立の小学校では、クリスマスの行事なんてないですからね。 で、その教会に入ろうとしたところ、一般の人のための靴箱の他に、その教会の教会員のための靴箱があって、ふと見るとその名札に「○○みも」という懐かしい名前が書いてあったと。それは小学校時代、クラスメートだった女の子と同姓同名なんですが、「みも」だなんて珍しい名前ですから、おそらく同姓同名というよりは本人なんでしょう。彼女は長じてから本物のクリスチャンとなり、この教会の教会員になっていたんですな。 で、そのみもちゃんですが、これが小学校時代は苛められっ子でね。とにかくやることなすことすべてスローモーで、例えばお弁当を食べるにしてもえらく時間がかかる。彼女と同じ班になったりすると、そのせいですべてが後手にまわるはめになり、それゆえ嫌われたんですな。 あと、自分のことを呼ぶのに「わたし」と言わず、「みもはね、・・・」という言い方をするところも当時としては珍しく、それも苛められる要因の一つではあったかも知れません。 でも、どんなに友達から苛められても、みもちゃんは自分が苛められているという認識もあまり持ってなかったのか、苛められている最中は泣くものの、もう翌日にはその自分を苛めた子に対してニコニコしながら話しかけたりしている。そういう意味ではひどく苛め甲斐のない子ではあったんです。 とまあ、そんな感じで万事スローモーに成長していったみもちゃんは、小学校上級、中学と進んでいく中でますます存在感を薄くし、ついには居るのか居ないのか分からないようなクラスメートとなったのであります。異性の友達はおろか、同性の友達も少なかったんじゃないかしら。 で、そんな影の薄かったみもちゃんが、実はH君の家の近くの教会の教会員になって、ひっそりと棲息していた、と。そうか、そうか、人間の世界では生き難かった彼女は、今は神の子羊となって、安住の地を見出したのか、と。神様に対しても、少し甘ったれたような声で「みもはね、・・・」と話しかけているのか、と。 ま、そんな話を聞きましてね、私も他のメンバーも、何だかホッとしたような気になったのであります。 とまあ、そんな話もありーの、今日はまた懐かしくも楽しいひと時を、小学校時代からの友人たちと過ごしていたワタクシなのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
February 1, 2009
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