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極端なイメージチェンジで記憶にあるのは、タメの松山千春か。年齢的に早かったし、アイドル風から極道風にの変身は見事だった。もう一人、プロレスラーの武藤啓司も衝撃だった。スペースローンウルフだったのが、神無月になった。何のことか分からないだろうが、私の中ではそういうことだ。で、最近、これはずるいと思ったのが、渡辺謙だ。最近、ハゲてきたなと思っていたら、「王様と私」でユルブリンナーだもんな。まぁ、スターはハゲてもスターだということなのだろう。とかく、外国人はハゲかたもかっこいいとか言われるが、やっぱり、意識の違いというか、恥ずかしがらず堂々ハゲているからじゃないかと思う。日本人は、ハゲを恥ずかしがり過ぎると、自分を鼓舞するのだった。
2015.07.31
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退職者説明会に行って、自分のことはさておき、男性同級生の皆さんは、かなりハゲがすすんでいた。みごとなものだ。平均寿命が伸びきっている昨今とはいえ、やはり還暦は年齢の節目として正解なのだと思い知らされた。自分がそうなるまでは、定年近くの先輩の頭を見て、ハゲ散らかしてみっともないと、本気で思っていたのだが、今や、これは、男性としての完成型だとしか言いようがない。 大きくは三種類に大別される。まずは、ハゲない奴ら。これは問題外で、非常に不愉快だ。でも、白髪だからとか、言う奴らもいるが、何を贅沢なと腹が立つ。次が、潔く、丸刈りにしてしまうタイプで、これは、なかなかうらやましい。実は私も、丸刈りというか、中学以来の丸坊主にしたいのだが、性格上、ウケ狙いだと思われるのは見えているので、退職してから、ひっそりとやりたい。そして最後が、何としても昔の頭髪を死守したがるタイプなのだが、これは私も含めて、好感が持てるし微笑ましくさえある。だが、あまりにも力を入れ過ぎ、植毛やカツラに手を出すのは、笑えなくなり泣けてさえくる。
2015.07.30
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退職者の説明会に行ってきた。何をやっても、「最後の」なのだが、これだけは「最初で最後の」ということになる。古くからの友人や、同じ職種の人は知っていたが、会場でお会いして、あら、この人も同じ年齢だったのかと思ったりもした。そこに、参加しても、まだ自覚が無い。我々の年代から、年金改革にひっかかり、2年間無給が続く。さらに完璧に年金がいただけるのは65歳なのだから、再就職というか再雇用は必至である。公務員になった時には想像もしなかった退職になってしまった。 それにしても、7月の終わりから8月にかけては忙しく、昨日は最後の職能別の会議で飲んでしまい、この書き込みを休んでしまった。先月なかった落語や、同窓会が、毎週末あって、あっという間にお盆になってしいそうだ。
2015.07.29
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井戸水をあきらめる選択もあったし、それでも別に困らなかった。井戸水をそのまま飲むことの危険性は、仕事柄わかってはいるつもりだ。それでも、この魅力には捨てがたいものがある。水道水に比べて、旨いのかと言われると、そこまで断言できる自信はないが、少なくともカルキ臭いはずもないので、そこはいいのだろう。河が近いこともあり、まず、枯れることはないし、裏の市営住宅工事の影響もほとんどない。それどころか、断水の心配も無いないのだから、災害時には、これは貴重だ。母も、子供たちも、慣れ親しんだ、この水を気に入っているようなので、新しいポンプの購入を決断した。これまでの故障続きがウソのように、今のところ調子がいい。それもそのはずで、数十年前のポンプとはデジタル化されていてまったくモノが違う。死ぬまで大丈夫ということだ。
2015.07.27
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我が家では、その昔、井戸水しかなかった。しかし、下水道が完備された10年ほど前に、上下水道使用料なんかを考えて、上水道にした。その時に、井戸水を完全に止めてしまうか、ちょっと迷ったのだが、二階の1本だけ残すことにした。我が家の基本が建てられたのは35年前のことなので、記憶も定かではないが、とにかく、その頃は井戸水でしかなかった。しかも、井戸のポンプは、中古のもらいものだった。で、その10年ほど前には、ちゃんと動いていたポンプだったが、このところ、さすがに故障気味だった。2年ほど前には、ポンプの壁がすり減り破れてしまい、新品に代えなければならないピンチだったが、業者に無理を言って修理をしてもらった。しかし、ここにきて、いよいよ寿命が来た。
2015.07.26
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カンピロバクターの厄介なところは、食べてから3日から7日で発症するという、潜伏期間が長いところだ。5日前に何を食べたか、ほとんどの方は即答できないだろう。突然、38℃以上の高熱が出て、腹痛や下痢がそれに続く。他のほとんどの食中毒は、食べた翌日に発症するのだが、なにせ、5日前に食べた食品が原因なので、夏風邪と間違われることが多い。しかも、この菌は微好気性という、ややこしい性質で、真空保存するとかえって危ないし、培養も難しい。最近は、培養技術も上がってきたので判明する件数が上がっているのだ。今、日本で一番多い食中毒なのに、このへんのところが、あまり知られていないのが残念なところだ。 くどいようだが、カンピロの食中毒にならないためには、まず、生の肉は食べないこと、肉は確実に加熱調理をすること、真空保存はかえって危ない場合があると知ること、などが必要である。
2015.07.25
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牛については、、肝臓と肉の生食は禁止された。これは、O157などの腸管出血性大腸菌対策なのだが、これによりカンピロによる事故も減った。主にこの二つの食中毒は40パーセント減ったという。最近、豚の肝臓の生食も禁止されたが、これは主にE型肝炎対策であり、豚にカンピロは少ない。問題は、鶏肉である。「鶏のササミ」とか「板ワサ」などというメニューがあり、特に西日本では人気が有ったりするが、もう、これはカンピロ食中毒になってもいい覚悟で食べているようなものだ。 なぜ、日本人は肉を生で食いたがるのだろう。やはり、魚の刺身という文化が影響していると思う。ちょっと前までは、最も多かった腸炎ビブリオ菌による食中毒は激減している。近海で獲れる魚の表面にはこのビブリオがいるというのが浸透してきて、とにかく水道水で洗ってから刺身にするというのが徹底してきたためだと、私は思う。鳥や獣の肉は、魚とは違うのだから、生で食べてはいけない、というのが浸透すれば、カンピロ食中毒は半減するはずだ。
2015.07.24
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カンピロバクターという食中毒の原因菌をご存じだろうか。今、日本で最も多い食中毒の原因菌である。どこにいるのかというと、鳥類や、牛の腸の中。特に鳥には多く、平飼い、つまりカゴの中で別個に飼っているのではなく、放し飼いで飼育している場合には、糞をした地面をつつくので、1羽にいると、全部に感染する。もちろん、鶏でも牛でも、腸にカンピロがいても平気なのだが、これがヒトのお腹の中に入ると悪さをするのだ。どうして、ヒトの腹に入るのかというと、鶏や牛を解体する時に、肉の表面が汚染されてしまうからなのだが、いくら気を付けても、これを完全に防ぐことは難しい。だから、生の鶏肉や牛肉の表面には、このカンピロが付着していると考えた方がいい。さらにやっかいなのが、中にもカンピロが入り込んでしまう肝臓で、表面を洗ってもダメなのだ。
2015.07.23
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今年も夕張メロンをいただいた。ちょっと前までは、母にも何個か送られてきていたのだが、さすがにやり取りはやめたというか、お相手も少なくなり、今では私が二人の同級生からいただく4個だけになった。だが、この4個も、母と私でいただくにはなかなか大変だ。なにせ、旬は一時で、保存がきかないのが夕張メロンである。だから、いただく時も重なるワケで、連日4個のメロンが届くと、もう、お手上げで、頑張って半分食いをしたとしても数日かかってしまう。夕張メロンの半分食いなんてのは、贅沢極まりないのだが、スマートではない。送ってくれる友人だって、そんな食べ方はしないだろう。で、冷凍などの保存はきかないので、子供たちの帰省まではもたない。やむなく、親戚や職場にふるまうのだが、そこらのメロンといっしょにされるのは実に悔しいので、価値がわかっている方に、嫌味なほどその貴重さをアピールして食べてもらうことになる。今年も、評判は上々で、満足なのだが、こんなことも今年で最後かな、と思うとちょっと寂しい。
2015.07.22
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昨日、ついに初物で自作の枝豆を食べた。旨かったが、やはり圧倒的に量が少なく、もちろん、実もいってなくて、食べまくるというのにはほど遠かった。やっぱり、蒔く時期が早すぎたのと、急遽の植え替えが悪かったようだ。しかし、5月9日から1週間ごとに蒔いていたのは正解で、次からは、ちゃんと枝豆らしいのが食べられそうだ。そして、9月まで、食べられれば大成功なのだが。それにしても、初収穫から反省だが、来年からは、もっと畑の土に気を配らなければならない。土の入れ替えや肥料についても、ちゃんとしなければと、今から思うワケだ。わかっていたことだが、ろくに耕さず、うねさえ作らず、投げ蒔きしたのだから、これはもうしょうがない。それでも食えるのだから、枝豆はやめられない。
2015.07.21
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では、なぜ北海道土産が「木彫りのヒグマ」だったのか。結局はそういう時代だったのだろう。その頃の土産に、菓子は少なかった。日持ちする函館修道院の「バター飴」とか、案外評判の良かった洞爺湖の「わかさ芋」ぐらいだった。母は千秋庵の「山親爺」というのがお気に入りだった。本物を見たことも無いのに「マリモ洋館」とかも人気があった。青函連絡船が北海道へ渡る交通手段の主流だった頃には、日持ちのしない生菓子なんかは、お土産として成立しなかったというのが実情だろう。航空機全盛となって、六花亭の「マルセイバターサンド」が大ヒットし、その頃は、出始めで、さほどのインパクトは感じなかった石谷製菓の「白い恋人」が、今や北海道土産の代名詞になった。 各地の空港は、空弁など、生ものの販売も充実しており、千歳空港は日本でもトップクラスだと思うのだが。今の「木彫りのヒグマ」の立ち位置について、9月に詳細にレポートしたい。
2015.07.20
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北海道と言えばヒグマ、というのがあるが、ヒグマになんか会ったこともない。今の夕張では、そこらじゅうにエゾシカはいるが、さすがにヒグマが人家の周辺に出没するというのはないだろう。昔、北海道に初めて旅行するという人に、「空港で、飛行機の搭乗者保険の隣にクマ保険の自動販売機があるから、入ったほうがいい」と、騙したりしたことがあるが、その辺にヒグマがうようよしているはずもない。むしろ、本州のツキノワグマの方が、人との遭遇が多いようだ。 話は脱線するが、ツキノワとヒグマでは、遭遇した時の危険性はまったく違う。どちらも危険なのはもちろで、較べることに意味はないのだが、ヒグマを見たあとにツキノワを見ると、大きな犬にしか見えない。さらに、あの木彫りのヒグマは、シャケを咥えているのが定番たが、実際には北海道のヒグマはそれほどシャケを食べないそうだ。これも、おおいなる思い込みだろう。
2015.07.19
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かって北海道土産の定番だった「木彫りのヒグマ」をご存じだろうか。あのシャケをくわえたやつだ。たぶん、我が家にも存在するはずだ。その昔、北海道土産といえば、これだった。恥ずかしながら、私もこれを、かなり買っていた。それどころか、どこの土産店は安いとか、どこのは手彫りだとかまで精通していたような気がする。今考えると、あんなもの、アイヌが手彫りした芸術品であるわけもなく、どうして買っていたのか、よくわからない。修学旅行で買ってしまう木刀とも、ちょっと違うような気もするし、いったいなんだったのだろう。だいたい、あれを土産としてもらって、相手が喜ぶと本気で思っていたというか、そこに気づかなかった自分が信じられない。
2015.07.18
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新しくできる市営住宅は、古くなった旧町営住宅の建て替え的なもので、そちらからの転居がかなりあるだろう。だとしたら、我町内に100人もの新たな住民が来ることになる。ちょっと想像がつかない。ほとんどの家庭では私の嫌いな子供がいるはずだ。あぁ、考えるだけで嫌だ。この町内では、高齢化がすすみ、子供会の運営もままならないほどだったのだが、あっという間の大復活になるのだろう。これだけの大幅な移住は、小学校なんかの存続にも影響することになる。いったいどうなるのか、とても(不安ではある。
2015.07.17
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お願いしたわけでもないが、反対してもしょうがないという感じで、我が家の裏に市営住宅が建設中だ。4階建ての住宅は、外観的にはほぼ完成している。詳細については、調べてもわからないのだが、完成し入居は秋から初冬になるようだ。これも見た目からなのだが、少なくとも、44世帯が入居するのではと思っている。 工事開始当初のくい打ち作業なんかは、本当に地震かと思うような揺れがきた。日照権やテレビが映らなくなる心配もあったが、なんとか大丈夫の様だ。これで、揺れとか騒音とはお別れだと思っていたら、市営住宅とその周辺から流れる雨水についての排水溝の工事をするという。家の裏はちょっとした斜面になっていて、イタドリが生い茂っているのだが、そこをならして、シートで被い雑草が生えないようにし、配水管を埋め込むのだという。なんだか、当初からの計画ではなく、建ててみたら、雨水がすごいのでというみたいだ。
2015.07.16
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毎週土曜日に、蒔き続けていた種は先週で蒔き終えた。裏の市営住宅工事のため、途中で、植え替えが有ったり、工事の作業員に押しつぶされたりもしたが、50本ほどが育ちつつある。で、花が咲いたら報告しようと思っていたのだが、枝豆の花はなんともはっきりしない。良く見てみると、最初の5月9日に蒔いたのは、いつの間にか花が咲き、すでに実ができていた。しかし、実がなったとはいっても、やはり蒔くのが早すぎたので、うらなり気味で、豆はペチャンコのままである。もう少し、今週末あたりには収穫するつもりだ。その後に蒔いたのは、順調に育っていて、大丈夫のようだ。くどいようだが、もぎたての、即ゆでの枝豆は、どんなものでも旨い。スーパーで売っている朝もぎとかでも、やはりダメなのだ。さぁ、これからは、自分で、もう、イヤというまで枝豆を食べよう!
2015.07.15
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先週の土曜日は、北秋田市の花火大会だった。秋田県では最も早い花火で、いつもはまだ肌寒いのだが、今年はもう、夏のさ中という暑さだった。我が家は、窓越しに花火を見ることができるベストポジションなのだが、いつでも見られると思っていても、音と光の差で、一発目を見逃しがちだ。家の前の道路の縁石には、近所の方なんかが腰かけて花火見物。私も、ちょっと出てみた。そういえば、今年は向かいの田圃のホタルを確認していないなと思いだし、探してみたら、1匹だけを発見。多い年でも3匹ぐらいしかいないのだが、とにかく、今年もいてくれた。夏の始まりに、家の前で、花火とホタルを楽しめるというのは贅沢と言うほかはない。
2015.07.14
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ジンギスカンのことを書いていて、焼肉についても考えた。私が30歳ぐらいまでは、焼肉屋というと、どうしてもマイナーな、悪く言えばゲテモノ食いのオヤジしか利用しなかったように思う。ところが、今では、若者が一番好きなメニューに成り上がり、深夜にくだまくオヤジは追放されつつある。これは女性アイドルと叙々苑が原因だと私は断言する。誰だかは忘れてしまったが、テレビやラジオで「焼肉とレバ刺し大好き!」なんて叫んでいるのを聞いて、なんだ変わった娘だなとか思っていたが、とんでもなかった。今や、焼肉屋にマイナーなイメージは微塵も無い。だから、私の子供たちの世代は、すし屋と言えば回転ずしだし、焼肉屋といえば、今のファミレス的なものしか知らないのだ。だから、今の若い世代は、家庭のメニューで、ある程度の地位にあったジンギスカンのことは当然知らないワケで、「やっぱ、ヒツジより焼肉だよねー」となってしまうのではないか。これはしょうがないが、私は、やっぱ、嫌味な韓国の焼肉より、相撲は強すぎるが、モンゴルの郷愁のジンギスカンを選ぶ。
2015.07.13
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書いていて思ったのだが、北海道にジンギスカンを流行らせたのはサッポロビール園ではないだろうか。私も2,3回利用したことがあるが、売り物はジンギスカンの食べ放題である。ネットで調べたら、今は、それだけじゃなく、いろんな食べ物があるようだ。さらに、他のビール会社も札幌でビール園を運営している。もし、サッポロビール園が、ジンギスカンをメジャーにしたのなら、ここはもっと、大々的にアピールすべきではないか。 秋田では、マトンやらラムの羊肉は、なかなか売っていない。生肉はもちろん売っていないが、例の冷凍肉でさえ大型スーパーでやっとみられる程度だ。だから、冷凍味付け袋入りを購入するしかないのだが、これはこれで今食べると旨い。だが、やはり、昔懐かしいのが、豚ラードでギトギトになったジンギスカン鍋で焼いた冷凍肉だ。なんなら、焦げてカリカリになったのも、ある意味では好きだった。そして、いい年齢になって、ススキノで初めて食べた、生肉の別モノ的な旨さ。さぁ、札幌では、何回味わえるのか、楽しみだ。
2015.07.12
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ステーキはもちろん、牛丼なんかがポピュラーになる前、肉で腹いっぱいになるなんてことはありえなかった。そこに登場したのが、マトンだった。あの、CDみたいな冷凍肉は安くて、モヤシやキャベツや玉ねぎといっしょに、独特のジンギスカン鍋で焼いて食べるのは、あっという間に北海道の家庭に浸透した。我が家でも、最初の頃は週に1回だったが、父の晩酌の肴には、ほぼ一日おきになった。そこそこメジャーだったのは、「ベルのジンギスカンのた」と、たしか滝川だと記憶しているが、「松尾のジンギスカン」ぐらいだった。その後、ジンギスカンが北海道名物になり、ススキノあたりを中心に専門のチェーン店がぼこぼこ出来たのは、20年ぐらい前だったような気がする。で、現在はどかというと、家庭ではあまり人気メニューとはいえず、若者離れが顕著だという。専門店の方も、すっかり観光客相手になっているようだと聞く。ここは、9月に自分の目で確かめて報告したい。
2015.07.11
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私とジンギスカンの歴史感について書いてみるが、あくまでも私の個人的な想いだけなので、何ら正確な裏付けはない。我が家の食卓にジンギスカンというものが初めて登場したのは、私が中学生の頃だったように思う。その頃は炭鉱景気がピークだったので、夕張の食卓は押しなべて豊かだった。あんなに海から離れているのに、刺身なんかも、ばんばん出ていた。しかし、そこは時代というもので、肉に関しては、あくまでも豚肉で、牛肉なんて売ってさえいなかった。だから、すきやきもカレーも豚肉が当たり前で、これは、今になってもポークカレーが一番だという、もう、トラウマといってもいい。夕張だけのことではなく、日本中がそうだったのかもしれない。そんな時に、突然、現れたのがジンギスカンだった。
2015.07.10
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また、父のことになってしまうが、父はジンギスカンが大好きだった。ほぼ、一日おきにジンギスカンでビールの晩酌をしていたのではないか。もともとは日本酒一本やりだったのだが、私が高校生の頃にビール会社のキャンペーンにまんまとはまったらしい。その頃は、私も、またか、ということでいささか食傷気味だったが、このところ、急に食べたくなった。で、購入しようとしたのだが、なかなか売っていない。結局、小樽のメーカーの冷凍モノ、200g×3袋を購入し、とっておきの「ベルのたれ」で食べてみたが、お一人様にもぴったりで、これが旨い。なんでも、本場の北海道では、このところ若者離れが起きているという。この辺がホントなのか、9月に確かめたいものだ。
2015.07.09
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秋田の新居での父は、近くの病院にリハビリに行く以外は、ほとんど居間の椅子に座って一日を過ごしていた。最初は平屋だったところに2階を増築し、一時的には私と妹の一家4人で住んでいたこともあった。いっしょに住んでいたのなら、話もできただろうが、脳梗塞の父は性格が変わっており、記憶も確かなものではなくなっていた。これは、しょうがないことだった。 父と母は、自分たちの力で秋田に戻って来たのであって、私はそのおぜん立てをしたにすぎなく、呼び寄せたなどとはいえない。それでも、良かったことが二つほどある。一つは、父の母、私のばあさんの死に目に、息子である父が秋田にいられたこと。もう一つは、二人の孫を見せられたことだ。そして、父は平成5年に67歳で逝った。 今住んでいるこの2世代住宅は、父の建てた家を、父が逝った後に、さらに改築したものだ。今、私は、定年の年を迎え、毎日、父の故郷をかすめながら、職場に通っている。父が好きだった、秋田犬や比内地鶏に関係した仕事をしているのも、必然だったのかもしれない。自分が忘れられるような年齢になり、初めて父のことを書き留めておきたいという気になった。長くなってしまったこのテーマは、ここで終わりにする。
2015.07.08
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左半身不随となった父は、当然のことながら退職を余儀なくされた。これからはリハビリが必要だが、私も、親戚の一人もいない札幌ではどうにもならない。ということで、我が家が決断したのは、秋田に家を建てるということだった。父の退職金で、母の出身地である鷹巣町に、家を建てることになった。私も、就職して2年目だったので、何もできず、実際の手続きは、すべて母の兄、叔父にまかせた。実家の荷物は、私が借りた公舎に運び込んだ。肝心の父はまだ、寝たきりの状態だったが、とりあえず、秋田の病院に転院させた。北海道から秋田へは、私のクルマで母と3人で移動した。転院した先は、リハビリに熱心なところで、父も頑張って、退院する頃には杖は必要だが、自分で歩けるぐらいにまでになった。家の方は、叔父が頑張ってくれて、とりあえず急ピッチで建てられた。昭和56年に退院した父と母は、そこに移り住むことができた。したがって、入院していた父はもちろんだが、付き添いの母も、病院で1年余りを、家が出来るのを待って、そこで過ごしたことになる。
2015.07.07
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リストラになってからの父は、大変だった。まず、炭鉱で発破という爆発作業を行う危険物の資格があったので、札幌の土木関係の会社に再就職した。そして、住み慣れた夕張の炭鉱住宅を出て、札幌市内のアパートに移り住んだ。一般の人には、何ともない当然の退職後なのだが、家賃や燃料費を払ったことのない両親にとっては、かなりのストレスだったろう。新しい仕事についても、いきなり石巻に長期赴任させられたりと、かなりハードで、炭鉱の激務でも痩せていた父は、体調を悪くした。腕などがしびれるということで、受診したところ、脳に動脈瘤が有り、今後の治療のため手術することになった。これが今でも悔やまれる。開頭手術は極力避けるべきだと思う。すでに秋田で就職していた私も北海道に帰り、付き添い、この手術は成功したかにみえた。しかし、退院1カ月足らずで、父は脳梗塞となり、左半身不随の身となってしまった。昭和55年のことだった。
2015.07.06
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昭和53年、私が大学4年の秋だった。母から連絡先だった喫茶店に電話が入った。なんと、父がリストラされたという。父の会社北炭は、55歳の誕生日定年だったと思うので、1年を残しての無念のリストラだった。当時北炭は、相当苦しかったようで、やたらな合理化を断行していた。これは、悔しかった。仕事一筋の、過剰なぐらいの会社人間だった父に、最後まで勤めさせてくれないとは。父にしても、寝耳に水だったし、二人の子供を私立大学に通わせている最中でのリストラということで、立ち直れないぐらいのショックだったことだろう。息子の私にも、衝撃であり、北炭の理不尽さに涙したが、自分の親の定年もちゃんと把握していなかったのだから、呑気なものだ。自分が定年の年になって、この時の父の気持ちが、なんとかわかるような気がする。それを、どこかに書き留めておきたかったのが、このテーマのきっかけだった。
2015.07.05
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父と二人で何かしたとかは、あまりなかった。子供の頃、釣りに連れて行ってもらった事もあったような気がするが、あまり記憶には残っていない。高校を卒業してからは、札幌で大学浪人していた時、予備校の寮の食事がひどかった時に、陣中見舞いに来た父から寿司をたらふく食べさせてもらったことがある。あの時は、店からお勘定は大丈夫ですかの吸い物が出たりして、父も大変だったのではないか。初めて就職した時にも、大曲の職場に挨拶に来てくれたのだが、いしょに晩酌したぐらいしか思い出せない。父は、とにかく寡黙で会話は少なかった。今になって、もう少し話しておけばと悔やまれる。ただ、会話が少なかった分、大きな喧嘩は高校2年の時の一度だけだった。だいたい、父と息子の関係なんて、こんなものだろうと思うのだが、なんとも薄っぺらい気がする。そして、今の自分と息子の関係を重ねてみると、やっぱり同じようなものかと納得したりする。
2015.07.04
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父は動物好きだった。私が小学生の頃遊びに来ていた父の実家には、残飯で育てる豚、たぶん比内地鶏、アヒル、うさぎなんかがいて、ふれあい動物園状態だったのだから、父の動物好きは当然だったのかもしれない。 北海道に来てからも、私の生まれる前後に、実家から秋田犬をもらってきて飼っていたようだ。私が2歳の頃には、今を時めく旭山動物園に連れて行き、札幌の円山動物園にも何回も連れて行ってもらった。小学校入学前には、突然、家にうさぎを持ち込み、その餌や世話は私が担当していた。その後も、カメ、鳩、犬と私が飼いたい動物はすべて許してくれた。私が獣医の大学を卒業する頃だったと思うが、実はオレも獣医になりたかった、とボソッと父がつぶやいた。それまで、聴いたことも無かったので妙に感動してしまった。
2015.07.03
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仕事で、異常に忙しい。まぁ、今日までだとは思うのだが、今週は毎日残業で、サウナにも行けない毎日が続いている。最後の年は、そこそこ、ゆっくりと思っていたが、とんでもない。増えるのはタバコと酒で、まったくの悪循環なのだが。そのしわ寄せは、この書き込みに来てしまう。書きたいことはあるのだが、時間が無く、気力もわかない。それでも、なでしこ、よくやった!ということで。
2015.07.02
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若き父は、どのように炭鉱勤務をしていたのかは知るすべもないが、勤務して9年目、炭鉱景気が最盛期になろうとする頃、故郷の秋田から嫁をもらうことになった。真偽のほどはわからないが、ろくに見合いもせず、親戚の勧めるままの結婚だったらしい。母もまた、実家から出なければならない年齢と状況であり、父29歳、母23歳の時に結婚したという。そして、1年後に長男の私が生まれ、その3年後に妹が生まれた。 父はバカが付くほどのまじめ人間で、昨今のパパとは程遠く、一緒に遊んでもらった記憶はほとんどない。しかし、新し物好きで、テレビなんかの最新電化製品は、すぐさま購入した。もっとも、これは当時の炭鉱では、一般的だったのかもしれない。しかし、マイカーの購入は、その炭鉱でも珍しかった。ツートンカラーの中古のブルーバード、カローラと愛車を買い替え、ドライブ好きの父は少ない休みに、実に強硬な日程で家族を連れていってというか連れまわしてくれた。
2015.07.01
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