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枕が変わると寝られない‥と言う人は多い。宿泊先まで枕を持参するという人も居るわけで、質の良い睡眠を取るためには、枕は重要だと思う。ほんのちょっとの高さの違いで、何度も寝返りをうつことになる。この高さは数枚のバスタオル等で微調整すると良いと、その道のプロの人たちが言っている。昔「医者が推奨する枕」といううたい文句につられて、通販で買ってしまったことがあったが、やっぱり枕の高さは人それぞれなので、結局自分には合わなかった。買った枕が低ければ、バスタオル等で調整もできたが、結構高さのある枕だったので、どうにもならなかった。結局高い出費で終わってしまったという、苦い思い出がある。それでも眠れない日々が続くと、体力も消耗するし、心も疲れに引っ張られて、どんよりとしていってしまう。だからそんな時に「医者が推奨する‥」といううたい文句はとても心地が良く、深く考えもしないで買ってしまう結果になってしまった。弟も枕が合わないと言った時があったので、この枕はどうかと思い、試しに使ってもらったのだが、やっぱり無理だということになって、あえなくお蔵入り‥。今回ベンリーさんで処分をした一つである。高い買い物は、処分する時躊躇してしまう。でも、それでは将来に渡って使うか?と自問自答すると、使わないという答えが返ってくる。第一何年も使っていないものを、使うはずがないのだが、貧乏性の根性がむくむくと湧いてきて、長年空間を占拠するはめに‥。それも今回ですっきりと片付いた。睡眠障害は、心にも体にも跳ね返ってくる。良い枕との出合いは、とても重要だと思っている。
2016年02月28日
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前回、ベンリーさんに処分品と引越しの手伝いをしてもらったと話した。お婆さんの時代からの処分品が山ほどあって、3世代分の不用品が家の中にあるのだ。今まで両親の手前手をつけなかったのだが、母は8年前に亡くなり、父が施設に入っている状態になって4年がたった今、ようやく処分することにした。最近、就活ならぬ終活が世間で騒がれている。終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略である。人生を終える時に、身の回りの整理をしていき、残された者たちへの負担を減らそうというものだ。実際私の家には、お婆さんが使っていた桐ダンスがまだ有った。こういう物を残されていっても、今の家に合わない。今の時代、処分にもお金がかかるわけで、処分するものが多いままに死んでしまったとしたら、残された者に余計なお金と時間を使わせてしまうことになる。これを良い機会と思い、私自身も思い切って捨ててしまったものが有る。大きい物とかガラス製品とか、不燃ごみに出すのも大変なものは、この際だからと捨てることにした。びっくりするぐらい、不用品を処分した。最初に見積もりを出してもらった分より、更に当日増えた不用品。大きい物は一人で出来るわけもないから、たとえ町の不燃ごみの日に出せる物でも、自分一人では無理である。昔の物はやたらと大きいし重い。プラスチックが普及していないから、鉄やガラスが多いのだ。また昔は、葬式や法要の一切を各家庭で行なっていたものだから、それに伴う茶碗やお皿といった食器類や座布団等々、膨大な数の物が、私の家にはまだ残っていた。処分が終わってみると、「こんなに広かった?」と目を見張る空間が残った。この空間は、衣食住の中で住を一番大切に考える私にとって、とても心地の良い空間となった。
2016年02月25日
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先週の土曜日に、ベンリーコーポレーションのスタッフに来てもらった。不用品の処分と、チョッとした引越しの手伝いをしてもらったのだ。生憎の雨‥1週間の中で、その日だけが雨‥何故に‥。週間天気予報をずーっと見ながら、なんとかその雨を、お隣さんの金曜日か日曜日に変わらないかと、毎日見ていたのだけど、結局土曜日だけが雨だった。(泣)若い男の子が4人来て、雨に濡れながら一生懸命動き回ってくれた。仕事とはいえ気の毒で‥。確かに雨の中でも外で頑張っている仕事の人たちは、他にも沢山居るけれど、よりによって7日間の間で、その一日だけ雨が降らなくてもいいのにねぇ‥。若いので仕事の進み具合が早い。動きも機敏で、見ていて気持ちが良い。飛んでいる?ように、小走りになって動いている。いやいゃ‥まず私の歳になると走らない。足が地面から離れることが無いのである。(笑)だから若い男性の動きを見ているだけで、感心してしまう。雨に濡れながら、次々に仕事をしていく。家の中と外を行き来するので、雨対策の服装ではない。寒さも加わって、風邪を引くのではないかと心配になる。昼中少しだけ小降りになったが、それも気休め程度だった。私一人だけが傘を差して指示を出していた。(ごめんなさい)と心で何度も謝っていたけれど、天気ばかりはどうしようもない。せめて気持ちだけ心付けを差し上げたが‥。とても良い仕事をしてくれた。痒いところに手が届く仕事のやり方だった。また何かあったらお願いしたいと思う仕事振りだった。
2016年02月23日
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最近テレビでも本でも、片付け術のことをよく取り上げている。そういうセミナーもあるほどだから、どこにどういう需要があるかは、分からないものである。昨今は断捨離という言葉が、世間でさかんに使われている。捨てることが重要な時代だと言うわけである。確かに買うだけ買って捨てなければ、消耗品以外は増える一方になってしまう。だから捨てることが必要になってくるわけだ。昭和の時代、片付けられなかった家があっただろうか?団地が盛んに持てはやされたころ、団地サイズといって、同じ畳でも大きさが違うサイズの畳だった家が増えた。なので一家族当たり一回り位小さい家に住んでいたのだが、それでもどの家族も綺麗に片付けていたように思う。もっと昔は3世代位はザラで一緒に暮らしていたが、だからといって片付けられないような家にはなっていなかった。物が増えたということもあるだろう。次々に新製品が売り出されたら、物欲を押さえられない人も出てくるだろう。クレジットカードの普及も、物欲を増徴させるための道具になってしまった。カードで身を滅ぼした人たちも、出てきた時代もあった。何故片付けが、こんなに出来なくなってしまったのだろうか?親が全部やってくれるから、自分で片付けることをしてこなかったからだろうか?時間があれば片付けられるということでもない。現に私の友達で、仕事をしなくてもよくなり主婦業に専念しても、片付けが出来ていない人が居る。忙しさを言い訳にして片付けなかっただけのようだ。結局、個人の意識の問題になってくるだろう。私もそれ程部屋を綺麗にしているわけでないから、声を大にして言える話しではないが、常識程度に片付いている家でありたいと思う。
2016年02月21日
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隔週のヨガの先生のほうは、まだ行き始めて間が無いのだが、前からやっている人に聞くと、ここ1年の間に3人変わっているようだ。最初の先生は妊娠されたからで、次に代理の先生、そして最初の先生が復帰しないことになって、新たな先生に変わったということである。私は代理の先生に2ヶ月(途中で入ったので計3回)だけご一緒した。知っているのは、その先生と今の先生の二人なのだが、今の先生のほうが体に効く‥という感じを受ける。毎週の先生のほうは、色々と次々動作をしていくのだが、この先生は一つの動作を一回だけでなく、少なくても二回は行なう。しかも全体的にスローである。なので呼吸も、ゆっくりと何度となく行なうことになる。次々にポーズを変えていかないので、一見楽なように感じるが、このスローペースは、体にかかる負荷が大きい。また一つ一つの技法を、深く掘り下げていくので、一通り行なった動作に更に次の動作を足してもう一段階深くその技法を行なっていっている。この違いによって、色々な筋肉を普通以上に動かせてもらっている。それが同じヨガをやっているはずなのに、体の別の筋力を使うことになり、体全体に効いてくるようだ。やはり、出会いというのは面白い。必要な時に必要な人と出会わせてもらっていると感じる。ヨガを続けていく自信が無い時には、それを助けてもらえる優しいヨガを教えてくれる先生と出会わせてくれる。でも、少し慣れてきてもう少し頑張れるようになると、もう一段階難しいポーズを取り入れていく先生と出会っていくのだ。3人目の先生が最初の出会いだったなら、私には荷が重すぎるからと、隔週のヨガのほうは体験だけでやらなかった可能性がある。天の采配を、完璧に感じる。
2016年02月18日
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文化センターレベルなので大したことはないのだが、私はヨガをやっている、1年ちょっと過ぎたところか‥。二つの文化センターに行っていて、月4回週一行っているところと、月2回隔週一回行っているところがある。この二人の先生の教え方が違っているので、結構飽きないで両方に通うことができている。毎週教えて頂いている先生は、かなり年配の人にも関わらず、体のしなやかさが素晴らしい。この先生のように、幾つになっても柔らかい体である事にとても憧れる。なんてしなやかな体なんだろうか‥。私も若い頃は、体が結構柔らかかったのだけれど、いつの間にか硬くなってしまった。やっぱり何もしないでいたら、小さい頃良くても、途中錆びついてしまうんだなぁ‥。それでも年齢の割には柔らかいと言ってもらえるのだが‥。元々腹筋が弱かったものだから、腹筋をする力が今ではまるで無い。その先生が、しきりに腹筋力のことを言うのだ。寝ていて垂直まで上げた足を、腹筋力を使って滅茶苦茶ゆっくり下ろすように言う。言い方もゆっくりで、すぐに足を下ろしてしまわない工夫をしている。この足をゆっくりと下ろす時間が、なんと長く感じられる事だろうか?毎回バタンと下ろしてしまいたい衝動に駆られる。「腹筋力でゆっくりと足を下ろしましょう」この言葉を、超~スローで言われるのだから、中々足を下ろせない。足はプルプルと震えている。腹筋の力は大事である。お腹に力が入らないと、立ったり座ったりする動作もスローになるし、排便にも影響が出たりするだろう。有り難いことに、私は今のところ大丈夫だが‥。おへそのすぐ下には丹田がある。この丹田は生きていくのに大切な箇所である。ここに力が入らないと、生きる気力が無くなる恐れがある。活力のある生き方をしていく為にも、本腰を入れて腹筋力を鍛えていかなければと思う。
2016年02月16日
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水の流れる音を聞いていると、不思議と落ち着くのは私だけだろうか?あの単調な音が、とても心地良い。だから私にとってのスーパー銭湯は、心も体もリラックス出来る、特別な場所である。水の音は大き過ぎもせず小さ過ぎもせず、丁度良い音量で聞こえてくる。だからなんの抵抗もなく水の流れる世界へ、スーッと引き込まれていく。そして目を閉じると、周りの人のことも気にならなくなる。体も暖かいので心身共に緩んでいることが分かる。でも湯船に長く入っていると体も熱くなリ過ぎるし、気にならないと言いつつも、周りの喋り声は耳に入ってくる。なので、全く自分だけの時間にはなれないし、共同の場所なので、なれなくて当たり前である。そうなると時々、誰にも邪魔されることなく瞑想をしたくなる。自分だけの世界へ入っていきたくなるのだ。リラックスした状態で、視覚や聴覚をシャットダウンして、自分の内側に入っていく時間を持つ。これがかなり心と体にリラックス感を与えてくれる。その時に無になれといっても、私達現代人は余りにも忙し過ぎるわけで、無になることなど到底できない環境下に居る。私は無になれなくて当たり前だと思っている。雑念に振り回されるだけでなく、雑念をただただ見つめて流していくことをすれば良いと思っている。まぁ、でもそれも中々上手くいかないことが多いのだが‥。手を動かしている時とか、何か作業をしている時、そんな時でも瞑想が出来るのは、並大抵なことではないと思う。私はそんなに器用ではないので、瞑想をする時は、最低限目からの情報は入れないようにしている。ただし、ヒーリングミュージックは流している。それは他の耳からの情報を、シャットダウンするためである。時間も長くなくて良い、少しの時間で良いのだ。瞑想をすると心も体も喜んでくれて、生きていく活力になる。時々は瞑想に時間を使っても、良いのではないかと思う。
2016年02月14日
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何か良い方法があると、私は次々に変えていきたくなる。より生活がし易いように、より便利な生活を手に入れたいために、どんどん場所を変化させていってしまう。パッと閃きがあり、それに基いて色々工夫を重ね場所を移動する。そしてその工夫したことが、前より便利になると嬉しくて仕方がない。ただ時々、場所を変更したことを忘れてしまい、元の場所を探すことも珍しくない。自分でやっておいて、忘れてしまっているのである。(アホやん~)自然に元の場所を探すのは、長年の癖のセイである。この癖に助けられることもあれば、この癖によって悪い習慣から離れられないこともある。それでも変化をさせてみなければ、なんの進展もなくいままで通りである。便利になるのか不便になるのか‥変更せずに分かるはずもない。なので私はよく場所の移動をするのだが、これが弟には不評である。場所が変わることを、とても嫌うのである。一度身についた場所が変わると混乱してしまうからだと言う。だから弟は、部屋の模様替えというものをしない。全く変わらない自分の部屋の風景が心地良いというのだが‥。私は変わらないと、ふとした時に飽きてしまう。少しでも実用的な部屋にしたいと、色々動かして試してみたくなる。なので私の部屋は変化していく。別に弟の部屋をどうかしたいというわけでなく、共有している部分を便利に使いたいので、場所を変えたいのである。その為の労力を惜しむつもりは無いのだが‥。変化を好む人間と、変化を嫌う人間がいる。一概にどちらが良いというわけでもないが、時々は違う場面にチャレンジしてみるのも良いように思う。固定観念が進歩を妨げてしまっていることがあるし、変えることによって別の側面が見えてきて、人生が開けるかもしれないからである。現に弟は、最初こそ戸惑っているものの、便利になったことで結局は喜んでいるからだ。変化も良いものである‥そんな軽い気持ちでいて欲しいと思う。
2016年02月12日
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私の使っているバス停は、大治役場前というところなのだが、名古屋から津島へ行く方面で降りると、そのすぐ傍に交番がある。今の時期、夜の6時はまだまだ暗い。なので交番の電気は明々としていて、中が丸見えである。仕事の帰りにいつものバス停を降り、その交番の前を通ると、漏れている明かりの中に沢山の人影が有った。その人影を何気なく見て、思わずギョッとしてしまった。滅茶苦茶狭いその交番の中に、おまわりさんばかりが7人も居るではないか!「えーっ!何事なの?いくら多くても3人まででしょ??」何かあったのかと勘ぐるのだが、分かるはずもない。私はそーっと、その場を離れた。別に問題があるわけではないから、堂々としていれば良いのだが、そこは気の小さい庶民なので、こそこそとしてしまう。(笑)なんだろなぁ~と考えながら家路を急ぐのだが、ふと来月確定申告のことで、商工会へ行くことを思い出した。実は今大治の商工会は建て替えをしていて、大治町役場の2階を間借りしている。その案内によると、商工会の仮事務所の入り口が別に有るらしく、間違って町役場のほうへ、行かないようにということだった。なのでちょっと寄って、何処に入口があるか確認しようと思った。あ~でも暗いから‥と考えつつ、役場近くに来てびっくり!そこには見慣れない建物があるではないか!あきらかに一般の住宅とは違う建物が建っているようだ。近くによって目を凝らして良く見ると、建物の上のほうに「交番」と書かれている。驚いたよ~交番が移転するんだ。なになに出来上がる予定が2月末ですと!もしかしてあのおまわりさんの異常な数は、引越しに関係するのか?それにしてはまだ早いような‥。いやいや‥交番に関係することで2度もびっくりしたなんて、「なんて日だ!」 ーバイきんぐ小峠風ー (笑)
2016年02月09日
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2月の節入りが四柱推命占いにとっては、1年の始まりとなる。恵方巻やら豆まきやらで、世間が賑わうと、あぁ~また新たな1年が始まるなぁ~と感じる。今年は私にとって、占いの観点からみると特別な年である。そしてその兆候は一足先に、先月終わりから起こってきた。今、思い返せば今年をその特別な年にするために、色々と導かれていったのを感じる。特別な年と決まっていても、その特別なことが急に起こるわけではない。そこに行くまでの布石が必ずあるのだ。普通それに気がつかないで、偶然という言葉で片付けているだけである。それは、不思議な世界だ。まぁ四柱推命という占いを信じるだけでも、自分が辿る大まかな道を、受け入れているということになる。こういうことが分かるようになると、自分という存在が、いかに見えない存在に守られているかが、理解できるようになる。一見守られていないと感じる出来事も、私たちの成長を願ってのことだと、後からじわじわ分かってくる。そしてトータルとして、私たちが良い方向にいくように導いて頂いているのだと、感謝の想いが湧いてくる。去年の私は守りであり地固めの1年を送った。 とても慎重な行動をとり、何より自分の体を一番に考えた1年だった。なので行動範囲も狭くなり、その為得るものもそれほど多くはなかった。しかし、それも必要な1年であったと感じている。 今年の私は、行動したい気持ちが沸々と湧いてくる。本当にこの気持ちは何処からくるのかと、去年と全く違うエネルギーに驚くばかりである。この気持ちのまま、今年は前進し攻めていこうと思う。これからの12ヶ月間、思いっきり行動して行こうと決意した節入りだった。
2016年02月07日
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私にはよく分からない愚痴を言う人が居る。生活水準が違い過ぎるからなのか、私としては理解に苦しむが、本人は大真面目である。その彼女は、体の何処が悪いのかはっきりと分からないが、医者通いがかかせないようである。でも私位の歳になると医者通いが普通の人も多い。さほど私と年齢が違うわけでもないから、普通の出来事だと思われる。自営業を営んでいる兄妹で、お兄さんの手伝いをしていて、そこから収入を得ているから、全く体が悪すぎるわけでもない。家も一緒に住んでいるので、家賃もかかるわけでない。ある意味経済的には、お兄さんに頼っているような感じである。私のところは姉弟で住んでいるので、その家族とは長男長女が逆転しているだけで、同じような家族構成である。違うのは私たち姉弟はお互い会社員で、別々の収入を得ていることだ。また会社組織に入っているので、その点慣れ合いではお金を稼げない。そして、経済的には同等の立場でやっている。立場が同じだから、お互い話し合いが大切になってくる。そして話し合いで解決していけれる関係である。彼女の愚痴はこうである。「体調が悪い時は自分で食事が作れない。そうなると外食になる。 でも3日も外食では飽きてしまう。だから料理を作って欲しい。」「お金もかかるから大変ですね。」と尋ねると、お金はお兄さんが出すから大変ではない、という返事である。あれっ?生活の必要経費はお兄さんが出していて、具合が悪い時の外食代もお兄さんが出しているんだよね。外食が続くと飽きるから、食事を作ってもらえないという不満のようだけど‥。それって、私は同意するべき状態なの??食事が作れないのを外食でカバーしてくれていることに、感謝すべきことではないか?と考えてしまうのだが‥。私のほうが変なのか?夫婦ではないのだから、経済的に自立できなければ、なんらかの形でお返しして、対等であるべきだと私は考えてしまうが、果たして‥。
2016年02月04日
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ぼんやりとした未来が、明確なものになる為には、沢山の情報を必要とする。情報が無いと的が絞れないというか、下手をすると的外れな方向へ行きかねない。だから情報集めをするべきである。情報は本からかもしれないし、知人からかもしれない。或いは専門家の知識から、正しい方向性が導き出されるかもしれない。とにかく求めよう、集めようという精神を持っていないと、情報は思うように集まってこない。そして自分の今を含めた未来は、ぼんやりとしたままである。最初は呆れられるかもしれない。「そんなことも知らないで、よくやる気になったなぁ‥」と、怒るのを通り越して、バカバカしさを感じられてしまうかもしれない。それでもメゲナイことである。だって、始まりは無知に決まっているのだから‥。そんなことで気持ちが腐っていては、やりたいこと全てが夢で終わってしまう。夢で終わらせないためには、沢山の情報を得て前に進まなければ‥。不思議なもので、情報が増えていくとビジョンが固まっていく。自分のやりたい方向性や方法が、次々と分かってくるのだ。そうなったら、しめたものである。後はどんどん行動に移していけば良いだけである。そうなると、今まで呆れていた人たちも、「おや?これは本気か?」と見直してくれるだろう。想像は創造に繋がる。想像できないものは、絶対に創造されない。そして想像できたものは、必ず形として残る道が有るのだ。確かなビジョンを持って、まず最初の一歩を踏み出そう。
2016年02月02日
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