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Mさんのコミュニティを拝見しました。 私も真剣に考えてきましたが 結局は、人生は感動すること に意義があるのでないでしょうか? 考えてみますと、事は簡単でした。 心の底から良い思いができれば、一個の人間としては良い事にはならないでしょうか? 勿論人を傷つけては、良い思いにはなれませんからみんなが、良い思いになれるような社会が、理想的な社会と言えるのではないでしょうか? ところでその先ですが、幾ら良い思いをしたとしてもそれらは所詮 はかない夢ではないでしょうか? ですから結局は、世の中全体が、はかない夢ということになると思います。 そうすると お釈迦様の教えや多くの人が感じているように1) あらゆるものは移りかわっていき2) 確かなものは、何もなく3) 次から次へと連なっていき私達存在そのものも、空 ということにはならないでしょうか?(2007・3・30)
2007.03.30
2007/3/24 Sさん: メールありがとうございます。憲法は良くできている事を私も知りました。 環境の破壊も大事な問題ですが、イラク問題はその点からも大いに問題ですね。今日から、成田、京都、埼玉と出かけます。 良い競争は励みになるのでよいのですが、 自分や個性を失う危険性がありますね。画一的な考え方や、評価、価値観はまずいと思います。 学力が問題になりますが、学力は本当に必要かと最近思うようになりました。ここは少し考えたいと思います。 今朝は中庭で 鶯の 歌の練習 で目を覚ましました。1週間くらい前から近くで鶯が鳴き始めていたのですが。 声明について: 2007/3/23 Mさん: 私は世の中の事を知りませんでしたから、自分の人生を中心に考えてきました。 段々余裕が出てくると、少し世間を、世の中を見ると、変なことが沢山あり、何とかしたいと思うようになりました。イラクばかりではなく、教育、社会さまざまな問題です。 そこで、最初に考えたのは 公正の原則 でした。 これは多くの問題に寄与すると思っています。 教育の場でも、試験に落ちた学生が追試をして とよく来ますが、そのコピーを渡して説明すると、全べての学生は、分かってくれて、わたしは追試はしていません。 私が、いろいろ提案したり、ということを考えておらず、みんなで考えていようというのが声明の精神です。 みんなで、社会を良くするにはどうしたら良いか 自由に意見を交換して、より良い社会を作るために貢献したいと思っています。 政治は大事ですから、それを避けず、より良い政治が行われるようにするのは大事な要素になります。戦争、平和、経済、教育の基本に関わりますから。私は教育もおかしいと思っているので、いろいろ考察して、意見を述べていきたいと思っています。 しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していく事と思っています。私は、そのきっかけ を与えようとしているに過ぎません。 --哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ -- という言葉が思い出されます。 私は、専門家や知識をもっている人だけが 良識や、見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見やご提案を期待しているのです。 あとはメールの中で: 敬具 齋藤三郎と考えているのですが、何か書いていただける人はいないでしょうか。宜しくお願いします。 敬具齋藤三郎
2007.03.24
2007/3/23 Mさん: 私は世の中の事を知りませんでしたから、自分の人生を中心に考えてきました。 段々余裕が出てくると、少し世間を、世の中を見ると、変なことが沢山あり、何とかしたいと思うようになりました。イラクばかりではなく、教育、社会さまざまな問題です。 そこで、最初に考えたのは 公正の原則 でした。 これは多くの問題に寄与すると思っています。 教育の場でも、試験に落ちた学生が追試をして とよく来ますが、そのコピーを渡して説明すると、全べての学生は、分かってくれて、わたしは追試はしていません。 私が、いろいろ提案したり、ということを考えておらず、みんなで考えていようというのが声明の精神です。 みんなで、社会を良くするにはどうしたら良いか 自由に意見を交換して、より良い社会を作るために貢献したいと思っています。 政治は大事ですから、それを避けず、より良い政治が行われるようにするのは大事な要素になります。戦争、平和、経済、教育の基本に関わりますから。私は教育もおかしいと思っているので、いろいろ考察して、意見を述べていきたいと思っています。 しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していく事と思っています。私は、そのきっかけ を与えようとしているに過ぎません。 --哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ -- という言葉が思い出されます。 私は、専門家や知識をもっている人だけが 良識や、見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見やご提案を期待しているのです。 あとはメールの中で: 敬具 齋藤三郎
2007.03.23
: 2007年3月21日(水)夜 前編: 1) 映像で説明 紹介された学校が、現在の学校を代表しているかということに先ず疑問を持ちます。 紹介された学校は、相当に上手くいっている所の紹介に思います。2) 紹介された学校の先生方、今野先生、山出先生、佐藤先生それぞれに素晴らしい先生たちです。 印象としては、もっとも素晴らしい理想的な先生と言えるのではないでしょうか? 3) 佐藤先生の所でやっておられた ゆとり教育、考える力をつけさせる授業は、本来大変素晴らしい企画だと思います。 また、今野先生の クラスを大事にするという取り組みも理想的な教育といえると思います。それぞれに素晴らしいのですが、問題は、それらの取り組みや教育効果が、現在の社会の評価システムの中では、生かせるようになっていないという事です。山出先生の基礎学力は、おちこぼれを出さないようにとの丁寧なご指導は、少年時教育としては全く素晴らしい考え方だと思います。同様の問題として現在の社会の評価システムでは、評価されないようになっている事が大変気になります。 4) 3)で述べた評価というのは、現在数字に表れやすい学力や進学率や良いところへの進学という客観的な評価をする場合 そのような理想的な教育が、評価されにくくなり 場合によっては、マイナスに働く状況が出てくるからです。 5) 本来は、理想的な教育の方がもっと高く評価され、学力中心・進学中心の評価の方が改めるべきと思いますが、現在の長い伝統を持つ社会のあり方は簡単には変えられませんから 此処は難しい点だと思います。 端的にいえば、理想的な教育をやれば 現実の社会では高い評価が得られず、知識中心の詰め込み教育が良い評価が得られるような皮肉な状態になることです。 •6) 3人の教育者を思えば、教員を増やして先生方にもっと余裕をもっていただきたく考えます。しかし、例えば郡山市の 実験の評価で詳しい検討をなされ 生徒の点数の配分などをされていましたが、その辺はもっと大雑把に考えて良いのではないでしょうか? 評価を厳密にしようとすれば、哲学的な問題に発展してきりがないからです。 往々にしてみられがちなのは、いろいろな雑務を作って忙しくなっている状況です。印刷物、授業計画、指導報告、評価、規則等等 大雑把な考え方と省力化には、大いに配慮すべきではないでしょうか? 7) 江戸川区の学校選択制については、非常に難しい問題を抱えている事が分かりました。先ず大都市特有の私立学校の出現です。それで基本的に私立学校と公立学校の比較が先ず問題になっています。私立学校は、公立学校と違って 設立の理念 目的が、明瞭にできるので、公立学校より優位に立てる基盤があることになります。 現状の悪い方向を推し進めると、裕福な家の人が特定の有名私立学校に入り、特殊な教育を受けて、良い大学に入り、良い所へ就職するという傾向が強まっていきます。この方向の悪いところは勿論、有能な人が裕福な家のものであるとは限らず、貧しい環境におかれている多くの人材を世に生かせなくなり、また狭い階層的な社会ができあがる事です。 そこで、私立学校には大幅な自由を認めるのが当然ですから 公立学校のあるべき姿をどの様にするかということが問題になります。 そこで、地方の公立高校で行われているように 入試を通して、幾つかの類、多くの場合には一定のある順位が決まってきますが、複数の選択ができる可能性を認めるかどうかという所が焦点になってくるのではないでしょうか? すなわち、入試によって小学校や中学校も幾つかの選択ができる可能性を検討するかという事です。 これに対する反対の見方は、地域によって入るべき学校を定めてしまう学区制を維持していく事です。これは検討課題として残しておきたいと思います。さらにそのような選択性にした場合には、どのようにして学校が選ばれ、どのような状況が生まれるかを公立高校の場合から考察を深めておく必要があるのではないでしょうか。•7) 入試を小、中学校に導入となれば、いわゆる受験勉強、競争が早い段階から行われるようになり、心の余裕や、本来の全人教育を行うことを難しくする事にはならないでしょうか。学校教育に大きな影響を与える受験勉強の弊害について、大学入試のありようについて検討する必要があるのではないでしょうか。•8) 教育についての再生核研究所声明4と古代中国の教育に触れた声明2を参照していただければ幸いです。(2007/3/22)
2007.03.22
皆様: 2007/3/21 拝啓 彼岸の中日ですが、皆様お元気でしょうか。 ところで、世の中は中々うまくいっていないように思います。そこで、皆様の英知を集めて、よりよい社会を築くためにいろいろなご提案、方法などを考察し、意見を広く交換し、よりよい社会を築くために少しでも貢献していきたいと思います。 そこで、それらの1つの試みとして、仲間とともに、添付のようなことを考えていますので、何でも助言、ご意見を頂ければ幸いです。 みなさん、美しい意見を自由に世にこだまさせ、一緒に より良い社会を築こうではありませんか。 言葉だけでは世の中を変えられないと思いますが、私たちは言葉でなくては、なかなか詳しく意志を伝える事ができず、また言葉でなくては いろいろなことを考えられないと思います。 この声明作成の精神を ついでくれる方はおられないでしょうか。 宜しくお願い致します。 敬具再生核研究所 http://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360; http://plaza.rakuten.co.jp/reproducingkerne/
2007.03.21
弔 辞 平成18年2月9日(木) 多田健夫氏は 市井の数学愛好者として 30年以上も ひたすらに 常微分方程式の研究を続けられました。 数年前 私に見て欲しいといって、原稿を送って参りました。 独特の論理と数学に対する情熱に 深い感銘を受けました。 それらのうち 3つの題材について共同研究を行い、国際雑誌に論文を発表することができました。それらはアメリカ数学会にも登録され、 ドイツやロシアの代表的な数学者にも高い評価を受けているものです。 論文が出版されたときの 多田さんの喜びようは大変なもので、1年以上も喜びが激しく続いたと思います。 そんな折り 東京でお会いし、食事を一緒にとりましたが、多田さんの育ちのよさと 美しい純粋な心に 感銘を受けたことでした。 多田さんの人生を今想うとき、 世界中の理工科系の学生が 微分方程式を学ぶ まさにその初期に 変数分離形の解法で、学ぶところで、学ぶにふさわしい基本的な結果を 多田さんは得ていると信じています。 そこで、世界中の多くの理工系の学生が、多田さんの結果を学ぶようになれば、多田さんの30年以上の苦難と 夢に満ちた研究生活に 花を添えることになると念じています。 多田さん、安らかにお休み下さい。 私たちはいつまでも、 多田さんの数学で 討論を続けていくことができます。また 多田さんの定理が多くの教科書に載って、誰よりも永く、広く広まっていけばいいと、念じています。 私は 多田さんの定理に関与した一人の数学者として、多田さんの基本的な定理を世に広めて行くことを、ここにお約束いたします。 簡単ですが、私の弔辞とさせて頂きます。 群馬大学工学部教授 齋藤 三郎 論文「8,9,10」の著者多田健夫氏は市井の数学愛好者として30年以上もひたすらに常微分方程式の研究を続け、世界中の理工科系の学生が微分方程式を学ぶまさにその初期の変数分離形の解法で、学ぶところで、学ぶにふさわしい基本的な結果を得ていると思います。 世界中の多くの理工系の学生が学ぶようになれば、30年以上の苦難と夢に満ちた研究生活に花を添えることになると念じています。 The author Takeo Tada of [8,9,10] have been concentrated only in such research topics over 30 years without other works and I think he was able to obtain definite results that should be studied by almost all students in mathematical sciences and in the first course studying ordinary differential equations. Then, he will feel happily his long endurance and dream were fruitful.
2007.03.21
神は「2」を愛し給う 二元論については古来いろいろな人達によって主張され、あるいはそれとはなしに感じるものがあると思う。 私も数学の研究や教育の場においてしみじみと感じるものがあるのでその一端を述べてみたい。まず数学から。基本的な概念である実数は普通10進法で記述されているが、本質的には2進法で記述される。しかし数としての実数はあまりにも狭く「数」としては2つの実数の組である複素数で考えなければならない(複素解析学-人類の傑作)。解析幾何学は代数と幾何の2つの概念の融合したものであり、射影幾何学は点と直線の2つが全く同等の存在であることを述べている - それには我々は「無限遠点」を観なければならないが。またそこでは、比の比すなわち複比が重要な不変性をもっている。演算も二重に現れる。加法と減法、乗法と叙法、微分と積分、変換と逆変換、さまざまなoperatorに対する"adjoint"operator、鏡像の原理、エルゴート性、さまざまな"duality principles"等々。今世紀における幾何学の方向を与えているガウス・ボンネの美しい定理は曲面の「局所」的な性質と「大域」的な性質の2つの間の関係を述べており、曲率の最大値と最小値を2つ掛けると素晴らしい不変量になるというガウスの「偉大なる発見」に基づいている。2階の微分方程式は他のものに比べて圧倒的に重要であり、加速度は2階の微分で表わされる。ピタゴラスの定理a2+b2=c2では2乗でなければならない。私が1982年に発表した「積分変換の一般論」は、この定理の一般化になっていた。これは線形変換でL2概念が不変に保たれることを述べており - 波動や熱伝導等の現象においてもL2概念は保存され、ピタゴラス型の定理が成り立っている!!次に最も進化(退化)した生物であり神の最も愛する(憎む)我々自身に目を向けてみよう。男と女が2つ一緒になって「人」になり、我々は脳、目、耳、鼻、腕、肺、心臓、足、指、いのち等それぞれ2つずつもっている。また遺伝子は二重螺旋構造をもっているという。二重といえば、二重のドア、鍵、堤防、道、被覆、窓、コード、回路、結合、価格、火山、唱、生活、底、否定等は格別の意義をもっているのであろう。政治・社会においても2大勢力がモデルになっているのではないかと思う。そうだとすれば、多党化現象や中立政策は好ましいものではないことになろう。さらに偉大なる発見、進化(退化)は2段階で行われていることにも注目したい。旧約聖書と新約聖書、物理学におけるニュートンとアインシュタインの発見、飛行機とロケット、積分論におけるリーマン積分(横)とルベーグ積分(縦)、超函数の理論におけるシゥヴァルツと佐藤幹夫氏の理論等。戦争も進化(退化)の1つとみれば、あのようなハードな世界大戦は 三度は起こら(せ)ないであろうと思われる。また現在進歩の著しいコンピュータはノイマン型とよばれているという。このような理由から間もなく新しい型のしかも決定的な型のコンピュータが出現するのではないかと予感している。さらに発見が二重に行われる傾向にあるから論文の発表は急いだ方がよいとヤーノス・ボヤイの父は彼に忠告したものだが、歴史は正にそうであった(非ユークリッド幾何の発見)。世界を二元論のみで観るといろいろ気づいたり発見したりすることが多いのではないかと思う。数学においてはこのような見方が研究の指導原理を与えたり、しばしば楽しい想いをさせるのである。(群馬大学広報より抜粋)-- 25年以上前。
2007.03.21
アンケート: 再生核研究所(仮称) 御中: •1. 譲りたい本の題名: A) 著者名: B) 出版社:C) 発行所と出版年:D) 本のページ数:E) 汚れ具合:F) ISBN:G) 分野: •2. 同様に他に譲りたいものの情報: 3. 手に入れたい古書と希望価格 以上の項目だけを 編集して公表し 以下は厳重に秘密扱いとする: •4.およその購入価格と譲る場合の希望価格: •5.将来どのくらいの冊数の本をどのくらいの価格で 譲りたいと考えられるでしょうか •6.このような企画に対するご意見とご希望: 以 上
2007.03.20
ところで、基本的といえば、我が工学部の偉大なる名誉教授であられ、また工学部の発展のためにも輝かしい業績を残されている松井弘次先生の直接的な影響で得た次の定理を紹介したいと思います。 それは、私の数学の100万倍以上の価値があると真実思っています。 それは、人間にとって普遍的で、基本的だからです。人間とは何か、人生とは何かについて鋭く核心に迫っているからです。 人生における基本定理 50歳10ヶ月過ぎた1995年1月13日朝、目覚めの後、ひとりでに数学のアイディアがうかんだときのように、「人生の意義は、・・・・・・・・・・・・にある」という言葉がわいてきた。私はもの心ついてから: 自分が生きていること、そして死ななければならないことを知って以来、人生そのものの意味について、最も中心的な問題として考えてきた。その核心は、人間は生まれ、生き、死んでいくものであるが、それらがどのように意味があるのか、そして、そのような人生においてどれ程の価値があるのか、という半ば悲観的な見方:実際、人生は何の意味もないのに、人は死にたくないから、そして人並みにあるいは人並み以上になりたいから、あるいは人に尊敬されたいから等の漠然とした気持ちで生きているのではないか、と。また、そのような人生、人間の目標はどのようなものか、という基本的な問題への疑問であった。「人間としての存在の究極の意味、価値は」「人類の目指すべき基本的な方向とは」これらの基本的な問いについて、私が、全体的に、直観として得た解は、「人生の意義は、感動すること にある」というものである。「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」 というような、人生における真剣な問いについて、これは十分な解答になっていると思われる。 人類の価値: 真、善、美、聖などの基礎を、我々の素朴な「感動させるもの」におき、また同時に生と死を、感動することと感動の止むことに置き換えれば、我々は死を安らかに受容できると思われる。 人類の永遠の課題 神、自由、不死の解決のための確かな道筋を与えるばかりではなく、人間存在における三位一体の理 存在、知、愛を 渾然一体のもの「感動」として捉えたことになろう。また、藤村 操は、 「人生は不可解である、 」という遺言を残して自殺したが、彼を何かに真に感動させ、「人生の意義は、感動することにある」 として、彼を救うことができたかもしれない。 何が「人間を感動させるのか」を問うて行けば、「人生如何に行くべきか」の基本的な方向を捉らえることができるし、それは多くの人間が素朴に、あるいはぼんやりと抱いていたものと大きな相異はなく、この「人生における基本定理」は多くの人間によって受け入れられるばかりではなく、新鮮な感動をもって人生の基本的な指針を与えてくれると思われる。 謝辞 群馬大学名誉教授の松井弘次先生の本「色にまみれて」を読み、先生の「愛と熱情」に「感動した」と同僚達に述べているうちに、基本定理は自然に思い浮かんだものであり、「魂の解放」に導いて下さった先生には深い感謝の気持ちを表したい。 追記 基本的定理を自覚した後の心情は、 人生はそれ以上のものではないという寂しさ、さまざまな人生の肯定、何か絶対的で永遠的なものを失ったような寂しさ、感動できる人生を送ることは容易ではなく、逆に人生は苦悩に満ちている、人生のことは、考えれば考えるほど、わけが分からなくなる、 等、であるが、それにもかかわらず、人生の方向と限界を知り、夢中で人生を送っているよりは はるかに賢明になったように感じている。(群馬大学工学部工業会誌より抜粋)
2007.03.20
生い立ちですが、私は大きな農業をやっている豊かな農村地帯に生まれ、それぞれ300年以上も続いた農村で、それぞれ里山を持っていて、昔はそこから燃料を取っていましたが、冬は木の葉さらいを毎日して、堆肥を作って田を肥やしていました。大きな田植えなどには日を決めて、集団で、順にやっていて、本質的に争いは不要で、共同体社会そのものでした。 どちらが多くの米を収穫したか、どちらがうまく野菜を作ったかというようなことはありましたが、競争というような感じではありませんでした。できない時は分けてもらうのが当たり前で、多くのことを交換していました。たぶん江戸時代はそのような社会であったのではないでしょうか。ゲゼルシャフトとかいったと思います。 生活の基本は習慣と慣例で動いていました。 正月3日間は赤飯と塩引きのシャケの粕汁、7日は7草おかゆ、16日には団子を作ると年中多くのことが、家例で決まっていて、祭りや市の開かれる日などなどもです。 面白い事には、山芋ご飯を食べる日、混ぜご飯を食べる日、饅頭を作る日なども決まっていたのです。50年以上も経ったのに正月になると赤飯が食べたくなる本能が条件反射的に出てきます。 最近はアメリカ流で、競争、競争で、先生も評価で競争、研究費も競争資金です。勉強だけの学校生活では貧しい教育といえると思います。私達の頃は、イナゴとりや稲刈り、畑作りなどもして、勉強以外の生活が結構多かったのです。私は学校を終えると毎日友達と遊んで暮らし、石蹴り、キャンバラごっこ、かくれんぼなどをして夕方まで、遊んでいました。私は木登りや、特に竹渡りが得意で、竹から竹へと渡ることが得意でした。運動会も相当準備し、学芸会の練習や文化祭も準備など沢山あり、それぞれの個性を活かせる機会が多かったと思います。 小学校が2クラスで、90名くらい、中学校で170名くらいで、いくら思い出してもいじめなどという事は、皆無であったと思います。 それが小、中学校時代でしたが、それは今から50年くらいの事で、今でも豊かな農村地帯として発展していますが、人口や町は発展しているのですが、少子化が進み、伝統ある小、中学校は生徒数の減少で廃校になるということです。一昨日母の93才の誕生日祝いで、兄弟6人全員が集まり、こちらの姪と甥は全部で16人です。(これはちょっと思い出した事を、推敲もせずに書いたのですが、思い出として面白いので、書き足していきたいと思います: 2007.3.19.6:55)
2007.03.19
Dear the related researchers on reproducing kernels: 2007/01/20 Saburou Saitoh kbdmm360@yahoo.co.jpWe founded the Institute of Reproducing Kernels on December12, 2006 withthe purposes: 1) Research on reproducing kernels and their applications2) In order to inform their importance of the theory of reproducing kernels and their applications to human beings 3) In order to collect all the related information, articles and books 4) To make a network among the relatedresearchers 5) In Japan, the Institute works more widely with thepurposes of contributions to human beings in connection with reproducingkernels - in order to re-produce life culture and social problems. In order to help our purposes, please kindly send your articles and books andinformation (with suitable multiplicity) to the Institute with your completeaddress and e-mail address. Furthermore, please kindly forward this e-mail to therelated researchers. We hope we can contribute to you and human beings.With best regards,Sincerely yours, Yoshinori SaitohInstitute of Reproducing Kernels5-1648-16 Kawauchi-Cho, Kiryu376-0041, JAPAN
2007.03.18
再生核研究所声明2(2007/01/27) 教育方法と賢王の心得 2500年も前の中国古代で次のような文献があるのは誠に驚異です: 今の教育では、教師はただ目の前の教科書を読み上げて、文字や辞句の質問を並べて学生を責め、言説が散漫であり、学習範囲を広げることを急いで、ゆっくりと研究することを教えようとせず、人々をその本心から学問を好むに至るように導くことをせず、また人を教えるのに、好くその才能を尽くすことに努めず、師の教え方も誤っており、学生の学び方も正しくない。 そのため学生は、学問が好きになれず、教師に親しまず、学習の困難に苦しむばかりで、その利益を知るに及ばず、従って、せっかく学業を終えても、たちまち学問を捨ててしまうのである。 今の学校教育が功をなさぬ理由は、上述のとおりではなかろうか? 大学の教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。 学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。 学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。 (これに対し、次に述べるのは、悪法である。)学生の過誤が発生してしまってから、これを叱って禁止すれば、相手は抵抗して、これを抑えるのは難しい。 また授受に程度良い時を失うと、学習に骨が折れて成功しにくい。あれもこれもと雑多に教え込んで無理をすると、学習が混乱して順序を失う。また学生を孤独に捨てておき朋友と交わるように指導しないと、学生は頑固で偏屈になる。また遊びすぎの友人に交われば師長の教訓は守られず、遊び癖がつけば、学問は捨てられてしまう。これらの六事は、教育を妨害する大きな原因である。 次に、学ぶ側の四つの誤りがあって、教える者はこれを心得ておくべきである。即ち、人が物事を学ぶに当たっては、そのことに関連して余りに多くの事に手を広げると、すべて散漫な知識となり、余りに範囲を狭くすれば、知識が貧者弱となり、目先の変化に引かれると何一つ完全な知識を得られず、逆に狭い範囲に限定すれば、知識は偏狭となる。これ四種の誤りは、それぞれ相異なる心理から生ずるものであるが、教える側の者は、好くそれぞれの心情を察してこそ、その誤りを救ってやることができるのである。教育は、人の長所を助長し、短所を抑制するように導くことなのである。 古代の賢王のたちが天下を治めたときの心得は、五つであった。 有徳者を貴ぶこと、身分の貴い人を尊ぶこと、老人を尊ぶこと、年長者を敬うこと、及び幼少を慈しむことである。この五つが古代賢王たちの政治の心得であった。有徳者を貴ぶのはなぜかというに、有徳者は(人間の)正道を得たものに近いからである。身分の貴い人を尊ぶのはそれが君公に近いからである。老人を貴ぶのは、父母に近いからである。年長者を敬うのは、兄に近いからである。幼少を慈しむのは、わが子に近いからである。それゆえ至極の孝子は天下に王たるに近く、至極の賢弟は覇者たるに近い。なぜかといえば、天子といえども、人には父母があり、これに仕えて敬愛を尽くし、よく孝子の模範となってこそ、万人が心服して、真に天下に王たることができるのである。また諸侯にも必ず兄があり、これに仕えて恭敬を尽くし、よく弟たるの道を行ってこそ、他の諸侯が心服して、霸者たることができるのである。従って古代賢王の道は、そのままに、受け伝えて改めることを要せず、これを行えば、天下国家を保ち治めることができるのである。 孔子が(以下のように)言っている。人を愛することを説き出だすには、まず父母から愛することから始めるのは、相互親睦の道を教えるためである。人を敬重することを説き出だすには、まず年長者を敬うことから始めるのは、人に従順の道を教えるためである。君が慈愛親睦を民に教えることによって、民は父母を養うことを重んじ、年長を敬うべきを教えることによって、民は長上の命令を守ることを重んずるのである。それゆえ、孝敬を心がけて父母に仕えること、柔順を心がけて命令を守るということ、この二つの道を天下に普及させれば、他のいかなる政教も天下に行うことができるのである。礼記(中)新釈漢文大系 発行所 明治書院 548-551; 708-770 抜粋
2007.03.17
再生核研究所声明 4 (2007/03/17): 競争社会から個性を活かせる社会に: 現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。 その理由は: 1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。 2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。 3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。 4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。 5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。 6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。 7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。 8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。 皆さん 競争社会から個性を活かせる社会 を目指そうではありませんか。以 上http://blogs.yahoo.co.jp/kbdmm360; http://plaza.rakuten.co.jp/reproducingkerne/
2007.03.16
再生核研究所声明 3 (2007/2/27): 最低生活の保障についての宣言を求める: 現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、政府、各公共団体の首長に、日本国に存在するすべての人に、無条件で一定水準の食、住、医療を保障する事を、宣言し、かつ確実に実行する手順を速やかに検証するように要請致します。その理由は: 1)まず、これを確実に実行する事によって、日本国に存在する人は自分と家族の生命と生活が保証されることによって、名誉ある国家に存在する自覚を持ち、連帯に基づく将来不安を取り除く事ができる。 2)これは、実際的にはほぼ実現できていることから、大きな財政負担をすることなく、実現できること。これは官民一体となって、たえず、確認する事に意義があると考える。この事によって 国旗と国家の意味を与え、それらの真の輝きを増すことになると考えられる。 3)これでは怠け者が国中に溢れると危惧することが考えられるが、人間は生まれながらにして向上心を有し、自立できない一定水準の生活に満足するはずはないから、現状を見ても危惧するには及ばないと考えられる。 4)世に犯罪や、いじめなどが多発し、失業者がいて、生活に困る状況を作っているのはそれらを生んだ社会に責任があると考え、偉大なる日本国においては 国家と地方公共団体が、まず第一に それらの責任を果たすべきと考え、この考えを日本国における常識となるようにする。 みなさん、上記のような 偉大なる日本国 を作ろうではありませんか。これは夢ではなく2500年も前に既に 古代中国で実現していた社会です。 (注意 日本国憲法:•第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。)以上
2007.03.15
再生核研究所 代表 齋藤 尚徳 E-mail: kbdmm360@yahoo.co.jp再生核研究所声明について: 下記の趣旨で、再生核研究所声明を発表していきたいと思いますので、ご参加して頂ければ幸いです。 また、助言やご意見などを頂ければ幸いです。 世の中を良くするための声明を編集して、広く社会に訴えていく。まとまりができたら雑誌のように編集して本の形で出版することを考えています。 研究所で採択されたものは、起案者の名前や所属をつけて(匿名も可) 一般の論文のようにまとめ、インターネットやマスコミなどを通して、広く社会に広めていく。また友人などに積極的に広めて頂く。(このような企画を進める背景については 求めに応じて、メールにて送信するように努力致します) 編集方針: •1)一般の方々から、上記のメール アドレスにて、声明案を受け付けます。•2)再生核研究所で審査し、採択された場合には、声明の著作権は再生核研究所に所属する。•3)世の中を良くするための考え、提案は永い歴史の中で既に述べられていると考えられるので、引用する場合には文献を明瞭にして、著作権に抵触しないように十分配慮して声明を作成して下さい。 また、引用がきちんとしていれば声明は独創的である必要はありません。社会に貢献できる文献は積極的に取り上げていきたい。•4)声明が世の中を良くするために実効のあるものになるように、現実的な問題を積極的に取り上げていきたい。政治、平和、北朝鮮、生命倫理、教育、環境、家族、個人の生き方の問題などで、声明が歴史的な役割を果たすことを目指す。•5)研究所が同意するものではなくても、声明が社会にとって価値ある視点を与えると判断されるものを積極的に取り上げていきたい。•6)発表される声明に対する責任と名誉は一般の学術論文のように考える。すなわち、著名入りの著者と審査した研究所が相当の責任と名誉を持つ。•7)原稿の作成はワードその他編集可能な方法で行い、原稿の形式は日本語で、添付のサンプルに従う(本当は英語で、国際的にやりたいのですが、まだ組織不足のため当分の間は)。しかし形式は個性を活かすために相当の自由が認められる。概ねA4版用紙2ページ以内を基準とする。•8)上記のさまざまな難しい問題に対処するために、研究所は問題を提起して、多くの人に意見を求める。また、逆に問題も広く受け付ける。•9)このような企画は、協力者を求め、規定、審査組織、広報組織、行動組織などを整え、実効力のあるものにしたいので、積極的な参加をお願いします。 以上 再生核研究所声明 1 (2007/01/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは: 最近の世相として,不景気・政界・財界・官界・大学の不振,教育の混迷,さらにニューヨークのテロ事件,アフガン紛争,パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか.一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが,如何でしょうか. 平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.3) それはみんなに受け入れられるか. 4) それは安定的に実現可能か. これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 現在,社会の規範が混乱し,不透明になっているように思うが,公正の原則を確認して,行動していけば -- これは容易なことではないが -- 世の中ははるかに明るくなり,多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか. また,こういうことを考える教育は,人間関係や社会生活の基本的な在り方を明らかにし,環境の保全などにも貢献すると思います. 特に少年期の教育にあっては哲学(ものごとの本質と人生,世界を考えること),道徳,芸術,体育などを中心とする人間を育てる教育に改めるべきではないでしょうか.国や隣人を愛せるようになる教育,多様性を重視し,個性や隠れた才能を伸ばし,友情を育み,人々が助け合うようになるような教育が望まれます. 斎藤三郎著 「再生核の理論入門」(牧野書店)(2002年10月出版) あとがき
2007.03.14
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