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連休中、私はずっと仕事&ジム通いです。予定では単行本2冊フィニッシュ(難度ウルトラC以上)。あと、ピアノの練習(^^;) GWは毎年似たようなもので、仕事が一段落したら旅費の安い時期に旅行に行こうっと。 みなさま、楽しい連休をお過ごしください。
2006年04月28日
木の芽どきといえば、心身とくにココロに変調をきたす人が増える時期だ。なにやら「ざわざわ」とするものを感じるらしい。人間は発情期を失った生き物であると言われるが、尻尾の名残の尾てい骨のような部分が、木の芽どきに反応するのかもしれない。原始の叫びが蘇ってくるのだろうか。 木の芽といえば、料理の世界では山椒の若葉である。山椒と聞けば、旬のタケノコを思いつく。醤油を含んで淡く染まった筍ご飯の頂上に載せられた山椒の葉を見ると、心の底からうれしさが込み上げて来る。鮮やかなあの色、そして独特の香り。 なぜ、筍に木の芽なのか?と問われても、よく分からない。栄養のバランスがいいとか、後付けの知識があるのかもしれないが、組み合わせの起源は、偶然の出会いであろう。たまたま合わせてみたら旨かった、多くの人を魅了した、やがて習慣になり、ひとつの料理文化にまで洗練されたということだろう。 山椒は葉だけでなく、実も人間の役に立ってくれる。山椒の実を砕いた粉は、鰻の蒲焼にかけるものと、なぜか昔から決まっている。 こと食べ物に関してだけは、「昔から決まっている」ことに従うのは、中々気分がよろしい。反逆してもろくなことがない。味覚に、身体になじまないのだ。「ローマに行けばローマ人に従え」ではないが、外国の食文化についても同じことが言える。昔からの決まりに従ってみると納得がいくのだ。 外国にも日本の木の芽に似たものがある。英語圏で「ハーブ」と呼ばれるもので、種類は日本以上に豊富であり、歴史も古い。料理ばかりでなく、薬物として、あるいは染料、香料としても活用される。可憐な花を愛でる園芸の愉しみもある。 西洋から取り入れられた食品は多いが、本来、その食品とセットで愉しむべきハーブのほうは、未だにそれほど浸透していない。なぜだろう。 やはり、日本人は生活を楽しむことが下手なのだろうか。あるいは、ハーブの強烈過ぎる個性の先制パンチに恐れをなしたか。 たとえば、スモークサーモンなどはいまどき田舎のスーパーでも売っているが、サーモン料理につきもののハーブである「ディル」は、都会のデパートや高級スーパーでなければ入手が難しい。「木の芽と筍」「山椒の粉と鰻の蒲焼」みたいに、なぜだかよくわからないが、「サーモンにはディル」と決まっているし、実際、よく合う。 語源を調べてみたら、「ディル」という名称は、古代スカンジナビア語の「dilla」に由来するという。その意味は「鎮める」であり、鎮静作用が古くから知られていたらしい。媚薬にもなるという。 薬用として生活の中に持ち込まれ、それが料理にも転用されるようになったのだろう。スカンジナビアといえば、ノルウェー・サーモンのブランド名で知られるように、サーモンが名物であり、昔の人も食べていたに違いない。寒い地方とはいえ、冷蔵庫がなければ食品の保存法には苦労したであろうから、最初はやはり臭み消しに使われたのだろう。 機能が味になるということか。臭み消しという機能のために用いられた食品が、長い歴史を経て食べる快楽と密接なつながりをもつようになっていったのかもしれない。「昔から決まっている」組み合わせで食べる瞬間、私たちは大昔の祖先と同じよろこびを味わい、時空を超えて一体化するのだ。官能の先祖還りである。 なーんて大げさなことを言うまでもなく、うまいものはうまい。 というわけで、一度、お試しを。 次回、スモークサーモンを召し上がるときには、ディルの葉と、できればタマネギ、サワークリームも一緒にお買い求めください。 タマネギはスライスにして、辛みが気になるときは水にさらし、ザルにあげてしばらく放置しておきます。 皿にスモークサーモン、タマネギのスライス、サワークリームを体裁よく並べ、枝から外したディルの葉を全体に散らします。 食べる時はこの4点を一緒に口の中に放り込んでみて。 サーモンの生臭さがタマネギの辛みとディルの香りで消されて、サワークリームのまろやかさに包まれて、口の中に幸せが広がります。 サーモンをサラダにするときも、ディルの刺激が加われば、味に深みが出てきます。材料は、スモークサーモン、トマト、アボカド、タマネギのみじん切り、茹でたジャガイモ。サーモン以外の材料を混ぜ合わせ(トマトなどは食べやすい大きさに切ります)、ドレッシングはオリーヴオイル、レモン汁、塩、マスタード。器に盛り付けてからスモークサーモンをトッピングし、ディルの葉を散らします。 もう一つ、和風料理にもディルの葉を合わせちゃいましょう。ちりめんじゃことも相性がいいの。 きゅうりを薄い輪切りにして塩をもみこみ、きゅうりもみにし、ザルに上げて水気を切ります。これにじゃこを混ぜ、細かく刻んだディルの葉も混ぜ、最後に塩、白胡椒で味を調えます。 洋食というと、サラダにも油が使われているので、日本人にとってはイマイチ、口の中がさっぱりしないのですが、この「ディル風味のじゃこきゅうり」があれば、実にすっきりします。ディルがうまくつないでくれるので、じゃこの生臭さが緩和され、白ワインと合わせてもさほど抵抗がないはずです。 もろもろお試しあれ。
2006年04月26日
「ストレスは人生のスパイスである」と、ストレス学説を唱えたハンス・セリエが語ったそうだ。 ストレスは忌まわしい害悪であると考えている人も多いようだが、ストレスの全くない生活を想像してみてほしい。 刺激がない。変化がない。つまりは成長がなく、発展がない。退屈極まりないだろう。 料理も、スパイスの有る無しでは、全く印象が違う。わさびのないマグロの刺身、辛子を入れない納豆、七味唐辛子を入れないかけそば……止めてくれ!私には拷問のようだ。あ!ちなみに最近は、納豆といえばネギと柚子胡椒を愛用している。 スパイスには腐敗防止やニオイ消しの効能があり、冷蔵保存や輸送技術が未発達な時代は貴重品であった。金に糸目をつけずにスパイスを求めた王侯貴族も少なくないだろう。その気持ち、よくわかります。 現代では腐敗防止やニオイ消しの効能は、スパイスに頼らなくても済む。それでも私たちのカラダがスパイスを求めてやまないのはなぜだろうか。 スパイスはカラダに良いという情報が遺伝子に織り込まれているのだろうか。 いや、それよりも何よりも、やはり人間という生き物は、刺激が好きで、変化と多様性を好むからではないか。 ひと瓶500円とか600円といった値段を敬遠する人もいるかもしれないが、ひと瓶を何十回も使えるので、サフランなどの超稀少品はともかく、それ以外なら1回あたりの値段は10円もしないだろう。 もっと食卓にスパイスを採り入れてみてはいかがだろうか。 若い時から刺激物が大好きだった私は、50種類ぐらいのスパイスを常備している。カレー料理やスパイスティーのほか、野菜料理に使うことが多い。 今夜は赤ワインを1杯ひっかけて、あとひと品ほしくなったときに、コリアンダーの瓶に手が伸びた。そして冷蔵庫の野菜室から例の物を取り出す……。 コリアンダーは、洋の東西を問わず、世界中で愛されてるスパイスのひとつだ。生の葉っぱは「香菜」と呼ばれ、中華料理やタイ料理によく使われる。食べつけない人は「カメムシみたいに変なニオイがする」と言って嫌うが、語源を調べてみたら、実際、カメムシに由来するらしい。「コリアンダーの語源は、Koris(カメ虫)+Annon(アニスの実)に由来します。その名の通り、未熟果や枝葉にはカメ虫に似た悪臭があり、完熟した果実にはアニスに似た芳香があります。日本名のコエンドロは、ポルトガル語のCooentroがなまったものだといわれています。コリアンダーは非常に古くから利用されており、世界で最も利用人口が多いハーブと考えられています。日本には10世紀以前に渡来しましたが、日本人にはその風味が合わなかった様で、定着するにはいたりませんでした。」http://www.arkfarm.co.jp/herb/herb_index/herb_coriander.html 売り場では生葉を根つきのまま売っている。これは鮮度維持のためだけではなく、調理に用いるからだ。根の部分をにんにくのみじん切りと一緒に包丁で細かく叩き潰し、タイ風サラダのドレッシングに加えると美味しい。 ちょっと苦味があるが、それがまたいい。もったいないので、絶対に捨てないでほしい。近くだったら、私が回収に伺いたいほど。 種を乾燥させてすりつぶし、パウダー状にしたものが瓶詰めで売られている。カレーなどのインド料理のレシピにはたびたび登場する。ミックスパウダーの中にもごく普通に入っているようだ。 このコリアンダーパウダーは、上手に使うとオレンジの風味が引き立つ。とくにニンジン料理との相性がいい。シャトーに切るか、あるいは輪切りにして水から煮て、柔らかくなってきたらバター、塩、砂糖で味付けするときにコリアンダーパウダーも加えると、フルーティーな甘みが増すのでお試しあれ。 独り暮らしで調理が面倒だという方は、さっき私が「ワインの友」に作った簡単レシピをご紹介しよう。1.にんじん1本は皮を剥いてから千切りにする。フードカッターを使ってもOK。2.少々深めの皿(カレーやパスタの皿など)に平らに並べてラップをして、電子レンジで2分半か3分。歯ごたえを残したいなら2分半ぐらい。3.ラップをはずし、熱いうちにエキストラヴァージンのオリーヴオイルを回しかけ、塩、胡椒、そしてコリアンダーパウダーを振りかけてよくかき混ぜる。4.パセリまたはセロリの葉があれば細かくちぎって振り掛けると彩りが美しく、食欲がそそられる。もちろん、あればコリアンダーの生葉でもいい。5.酸っぱいのがお好きならレモン汁をほんの少々かけてもいい。 冷めてもいいし、あつあつで食べてもうまい! コリアンダーパウダーは、ジンジャーやシナモンのように料理に刺激を加えるというより、野菜のフレッシュ感を引き立て、ジューシーな甘みを引き立てる役割をしているような気がする。 いまちょうど「新にんじん」の季節だ。たくさん召し上がれ。
2006年04月25日
デパ地下でレジ待ちしていたら、隣りの60代後半とおぼしきおばさんのカゴの中に「なまりぶし」が入っていた。 なーんだ、売ってたのか。買えばよかった。 いただきものの筍があるし、山椒は鉢植えで買ったのがある。 そういえば、手前の40代後半とおぼしきスーツ姿の女性のカゴの中には、筍とヌカ、山椒の葉のパックが入っていた。山椒の葉のパックは189円とか、そんな値段がついている。一鉢で買ったのは900円したが、上手に世話をすれば来年も楽しめる。お得よって、話しかけたかったけど、やめておいた。「なまり節」のおばさんには、上手な煮方を聞いてみたかったな。筍もカゴに入っていたかどうかはわからない。スライスして新タマネギにふりかけ、醤油ひとたらしして食べても旨いんだよな。 話をしなくても、お料理好きそうな人は、カゴの中身を見ればなんとなく分かる。 人生経験の長さにはあまり関係ないみたいだ。 しいていえば質だろう。 あるとき、60代前半とおぼしきおばさんのカゴの中に、パック詰めのハムやらレトルト、冷凍食品が満載されていたのを見てゲンナリしてしまった。 ああ悲しい。 年をとると料理が面倒になるのだろうか。いや、それ以上に、そのおばさんは、パック詰めのハムやレトルト、冷凍食品よりも美味しい手作りの料理をあまり体験して来なかったのだろう。 もっと人生を楽しみましょうよ。 デパ地下の生鮮売り場にはお宝が眠っている。 旬のこの時期、かつおの「なまり節」と筍を買わない手はない。旬のおいしい味をいただくと、生活が楽しくなるばかりか、カラダの芯から元気になるような気がしない? お料理っていうのは、生活の必要性に迫られてするばかりでなく、偉大な生活文化の継承じゃないかっていう気がする。その中には原初的な医学や栄養学の民間療法的な知恵も隠されている。 1日30品目とか、数字の目標は分かりやすく、誰でも達成しやすいのかもしれないが、実は数は瑣末的なものではないだろうか。 伝統的なレシピに従い、旬の素材を取り込んだ手作りの料理を何品か食卓に並べれば、必然的に品目が増えていく。ぜいたくはいえないので、定番の惣菜プラス本日のスペシャルゲストって感じでもいい。 QOL、QOLと叫ばれているが、その中身についての議論はあまり聞かない。価値観が多様化している世の中だから、議論してもキリがないということなのだろうか。 そんなことはない。同じ人間という生き物であり、日本人の歴史を背負った存在なのだから、QOLの核の部分は共通しているはずだ。「旬の素材を取り入れた手作りの料理」も、QOLの核の部分にあるのではないだろうか。 人によっては、毎日、できあいの惣菜とレトルト、インスタント、冷凍食品でも幸せと言うかもしれない。 でも、それって本当に幸せなんだろうか? 余計なお世話と言われるかもしれないが、なんだかとっても大事なお宝を見逃しているような気がしてならない。 っていうことを、もう少しソフトに表現して、1人でも多くの人に料理の楽しさ、すばらしさに目覚めてほしいのだけれど、ま、今回はまだ押し付けがましかったかな。ぼちぼち続けていきましょう。http://www3.ocn.ne.jp/~velvet.t/takenoko/takenoko.html
2006年04月25日
たまには料理の話もアップしてみましょうか。mixiのほうに書いたものですが、貼り付けておきます。ゴスペルバンドの女性やご近所の仲良しさんなど総勢11人が揃った「春の宴」ということで、全13品を作っちゃいました。「あれもこれも」になっちゃいましたが、キモチとしては、「旬の素材を採り入れる」、「お店で見つけたお買い得な素材を生かす」の2点です。その収穫は、グリーンピース、うるい、うど、鮮度のよい頭つきの甘エビとブラックタイガー、冷凍じゃなくて生のカジキマグロ、甲イカのゲソ、桃太郎トマト、カリフラワー、サツマイモのように甘い北海道産氷温貯蔵ジャガイモ、新タマネギといったところ。あとは得意の煮込み料理とハーブ料理で基底音を作ったという感じかな。では、春のシンフォニーをお楽しみください。1)トリッパ(牛胃ハチノスのトマト煮込み) ハチノスをセロリの葉、ニンジンの皮などの野菜くずとともに3時間茹でて柔らかくします。 みじん切りにしたタマネギ、ニンジン、ニンニク、セロリをオリーヴオイルでじっくり炒めて甘みを出します(最低30分以上)。 よくもみ洗いして水気を絞り、太めの短冊に切ったハチノスを加えて炒め、缶詰のトマトを入れ、ハチノスが柔らかくなるまで煮込みます。タカノツメ、タイム、月桂樹の葉、黒胡椒を加え、塩で味を調えます。 好みで、茹でた白いんげん豆を加えてもいいでしょう。缶詰を利用すると便利。 器に盛り付けてから、無農薬レモンの皮をすりおろしてかけたり、ミントの葉っぱを散らしてもいいでしょう。もちろん、おろしたパルミジャーノでもOK。お好みで。 2)鶏レバーのカレー 鶏レバーをひと口サイズに切って流水にさらして血抜きし、牛乳にしばらく漬けておきます。 カルダモン、シナモン、コリアンダー、チリペッパー、ターメリック、クローブ、ブラックペッパーを混ぜ合わせ、水切りした鶏レバーにまんべんなくまぶしてもみこみ、しばらく置きます。 みじん切りのにんにく、しょうがと月桂樹の葉、赤唐辛子、フェネグリークの粒をオイルで炒め、香りが出てきたらスパイスごと鶏レバーを入れ、色が変わってきたら、ココナッツミルクを入れてしばらく煮込みます。仕上げにレモン汁を加え、塩で味を調えて、出来上がり。 3)焼豚 肩ロースのかたまり(焼き豚用にタコ糸で結んで成型したものを買ってくると便利)に砂糖をまぶしてよくもみこみ、醤油、紹興酒、みりん、ショウガ、ネギの青い部分、にんにく、五香粉を合わせたタレにひと晩漬け込みます。 中火のオーブンで1時間焼いて、出来上がり。アツアツが激ウマ!家庭で作るとあなたの「焼き豚観」が根幹からくつがえされるでしょう。 4)プチポワペイザンヌ(グリーンピースの田舎煮) グリーンピースは下茹でします。みじん切りにしたタマネギ、塩漬けの豚三枚肉(パンチェッタ)の角切り(ないときはベーコンで代用。ただし燻した外側の茶色い部分は削ぎ落とす)とグリーンピースを鍋に入れ、全体の半量程度の水を加えて煮込みます。 柔らかくなってきたら、豆の半分の量をおたまでつぶし、緑色のジュースを出します。塩・胡椒と砂糖で味付けます。ちょい甘いぐらいが美味しい。香り付けにハーブはマージョラムがお薦めです。水気がなくなるまで煮込んで仕上げます。 5)甘エビの紹興酒漬け タレは紹興酒と醤油が1対1ぐらい。そこへにんにくとショウガを加えた中に甘エビを漬け込みます。器に盛り付けるときに、香菜の葉をあしらいましょう。 6)春のサラダ 茹でてひと口サイズに切ったジャガイモ、湯剥きしたトマト、切ってレモン汁をかけたアボカドをドレッシング(上物のオリーヴオイル、レモン汁、塩、胡椒、マスタード)で和えて盛り付け、上に細長く切ったスモークサーモンをのせ、最後にディルの葉っぱを散らします。 7)山菜とイカのサラダ うどは薄い短冊に切り、酢を少々足らした熱湯でさっと茹で、冷水にさらしてザルにあげておきます。うるいは4cmぐらいにカットします。茹でたイカゲソは吸盤を包丁で削ぎ落とし、食べやすい大きさに切ります。以上を味噌、辛子を加えたマヨネーズで和えます。 8)海老のソース・アメリケーヌりんご風味 頭つきの海老の良いものが手に入ったら作りましょう(ブラックタイガーで十分です)。海老は身を取り出し、頭と殻を取り分けておきます。ヒゲがあると邪魔になるのでハサミでカットします。 頭と殻をバターで炒め、赤くなってきたらタマネギ、ニンジン、ニンニクのみじん切りを加えて一緒に炒めます。 りんご(紅玉)の皮を剥いて種をとってくし切りにし、バターを入れた鍋に投入し、弱火で柔らかくなるまで蒸し煮にします。 頭と殻の鍋の中にりんごの煮汁、カルバドス(りんごのブランデー)、生クリームを加え、しゃもじなどで頭をつぶして海老のエキスがソースの中に溶け込むようにします。軽くとろみがついてきたらザルでこしてソースをとり、塩・胡椒で味を調えます。 海老の身をバターで炒め、色づいてきたらりんごを加え、ソースを流しいれて軽く煮込みます。最後にもう一度塩・胡椒で味を調えて出来上がり。 9)豚タンと大根の煮込み 豚タンは3時間ぐらい茹でて柔らかくします。茹で上がったら、皮を剥き、グロな見た目の部分を削ぎ落とし、紹興酒と醤油を半々ぐらいにしたタレに漬けておきます。 皮をむいて輪切りまたは半月切りにした大根は米粒を入れた水で下煮してから出汁醤油と砂糖、お酒でしばらく煮込み、タンを加えてさらに煮込み、味を滲み込ませます。タカノツメを1本入れると、辛くはなりませんけど、味に輪郭ができてキリっとします。 10)新タマネギのアチャール 新タマネギは薄くスライスし、塩もみします。ここへ湯むきして小さくカットしたトマト、包丁で叩き潰して香りを出した香菜の根、そして茎、レモン汁、カイエンヌペッパーを加えてよく混ぜ、塩・胡椒で味を調え、しばらく置きます。タマネギから水分が出てくるので、塩は少々きつめに。 11)カリフラワーのクミン炒め カリフラワーは小房に分け、塩水に5分ぐらい漬けてからザルに上げます。 フライパンに油を敷き、みじん切りにしたニンニク、ショウガを炒めて香りを出してからカリフラワーを投入、湯剥きしたトマトのざく切りと、クミン(ホール)も加えてよく混ぜ合わせ、蓋をして軽く蒸します。 カリフラワーのコリコリした食感が残る程度に仕上げます。 12)カジキマグロのソテー、トマト&バジルソース カジキマグロはひと口サイズに切り、塩、胡椒で下味をつけておきます。高いけれど、冷凍よりも生がお薦め! 湯むきしたトマトをダイスに刻み、バジルの葉も細かく切ってボウルにあけ、オリーブオイルと塩・胡椒、バルサミコ酢少々を加えます。 カジキマグロをオリーヴオイルでソテーして少し焦げ目がつくぐらいにします。皿に盛り付けたら、トマト&バジルソースを添えます。 13)シーザーズサラダ コスレタス(ローメインレタス)を1枚ずつ剥がして水洗いし、水切りしてから食べやすい大きさにちぎります。 パルミジャーノを大量におろします。 オリーヴオイル、マヨネーズ、粉末のニンニク、レモン汁、アンチョビソース、塩、胡椒を混ぜてドレッシングを作ります。私はマヨネーズの代わりにピエトロの白いクリームドレッシングを愛用しています。 コスレタスをドレッシングで和えて、半量のチーズを加えてさらに混ぜ、最後に残りのチーズをトッピングします。 ちにみに、料理に要した時間は、前日の仕込みが3時間ぐらい。当日は午前中が1時間、途中、スポーツクラブでエアロビクスを2本やって帰ってきてから7時の開宴までの3時間。開宴以降も仕上げに盛り付けやオーブンの世話などありましたが、極力、席についてお客様のおもてなしをしないとね。洗い物はいつもお友だちが交代でしてくれるので、とっても楽なんです。 いつも会費2,000円+お好きなお飲み物ご持参というルールで営んでいます。贅沢な素材を使って少人数で開くときは3,000円になるけどね。まあ、超お得でしょ?ときどき予算オーバーで大盤振る舞いしちゃうけどね(^^;)
2006年04月18日
今日の朝日新聞朝刊の記事から――恋愛したり、新しい結婚生活を始めたりするシニアが増えているのだそうだ。 厚生労働省の調査によると、60歳以上の初婚件数は94年の404件から、04年には809件に倍増。再婚も5381件が1万416件と、ほぼ2倍に増えた。 中高年専門の結婚相談所が主催するお見合いパーティが各地で開かれ、婚姻届を出さない「同居婚」や「通い婚」など形も多様化している。「通い婚」をしている都内在住65歳のサチさん(仮名)のコメントがステキだ。 サチさんは、2年前の春、お見合いパーティで知り合った70歳の孝夫さん(仮名) と付き合い始めた。お互い伴侶とは死別していた。秋にはルビーの指輪をもらい、写真館で一緒に撮影、新しい門出にした。 2人は週の半分ぐらいをサチさんのマンションで過ごす「通い婚」を続ける。互いの家は車で40分だ。 今年の3月まで働いていたサチさんはこう話す。「経済的に依存するのは嫌。籍は変えなくていい。互いの生活を大切にできるスタイルだと思う」。 一方、孝夫さんは「婚姻届を出さなければ遺産相続など面倒な問題が起きる心配もない」と言う。 なるほどね。精神的、経済的に自立していれば、人生、二度でも三度でも、新しい相手と結婚生活をエンジョイできるわけですね。 私もまだ、あきらめるのは早いな。 しかし、中高年専門の結婚相談所の入会金は決して安くない。朝日に載っていた大阪の「ジェイエムアイ」の場合、3年間在籍でき、入会金は60歳以上で男性25万円、女性は23万円。最高齢は男性91歳、女性83歳だって!ほう。 やっぱり、世の中が平和であるっていうのはすばらしいことですね。
2006年04月12日
「資格の選び方・取り方・活かし方」という小冊子が出来上がりました。非売品のため、ご希望の方には無料でお分けいたしますので、こちらにメールをください。 15cm×22cm以上のサイズの返信用封筒に送料分の切手を貼って、宛名を書いて送ってくだされば、こちらから郵送します。本体が約90グラムありますので、薄手の小さい封筒なら140円、厚手または大きな封筒だと200円になります。 とりあえずお一人様1冊、限定50部ということでお送りします。私のセミナーを過去に受講してくださった「卒業生」の方、再就職志望の専業主婦の方や就職支援サービスをなさっている方優先ということで、よろしくお願いします。
2006年04月07日
トラックバック機能自体が嫌いなわけではないんですが、あまりにもヘンなものが多すぎる! 私が書き込んだ内容とは全く無関係の、自己宣伝、それも風俗関係ネタばかりで、そのつど削除してもキリがない。 楽天ブログにはキーワードで排除する機能もありますが、そういう下品な言葉を並べるのも嫌になりましたし、伏字を使ってくるヤカラもいるのでいたちごっこです。止む無くトラックバックは機能停止にしました。ご理解ください。 日記の内容に即した書き込みは大歓迎ですので、こちらはヨロシク。ただし、無関係のものや自己宣伝はバシバシ、削っていきます。
2006年04月06日
昨日の続きで、ヘーゲルが言っていた「他者の承認の声」という部分について現代の文脈の中で読み替えて検討してみたいと思います。 そのような「社会的な承認」に背を向ける「不適応タイプ」(パーソナリティ障害)の若者が2タイプ存在する――「自己愛型」と「拒絶型」については書きましたが、現代の全ての若者が「社会的な承認」に無関心あるいは拒絶的であるかというと、決してそうではないでしょう。 では、「社会的な承認」について、いまの若者の大多数はどのように考えているのでしょうか。 フランス現代思想専門の大学教授・内田 樹さんの対談集『身体の言い分』(池上六朗氏との共著、毎日新聞社)に、次のような言葉が出てきます。●引用1「若者は社会的な承認に対して内向きの基準しか持っていない」(本文142ページ)「ぼくは大学の教師だから学生を見ていると、今の子たちは社会的な承認を求めて必死であるにもかかわらず、社会的な承認をどうやって確認できるか、ということに関しては、非常に内向きの基準しかもっていないんですよ。 つまり、これこれこういう資格を取るぞとか、英語検定試験で何点取る、という感じの。 たしかに、資格や免許を取って公的に認知されたい、という気持ちはわかるんだけれども、ではその、きみが取ろうとしているそのナントカ士という資格は、いったい世の中にどのような需要があって存在し、どのような社会的寄与を果たすべきもので、だれを喜ばせるものであって、どういう経緯で発生してきて、今何人くらい有資格者がいて、将来的な需要の推移の見通しはどうであるのか……というようなことを訊くと、絶句しちゃうんですよ。ほんとに。 その資格に対して今後も社会的ニーズが継続的にあるかどうかということさえ調べていないんです。調べていないというより、調べるということを思いつきもしない」●引用2「プライベートな幻想に耽溺しているだけ」そして「エゴイスティックな動機づけの語法でしか語られていない」(本文142~143ページ)「つまり、社会の承認を求めていると言いながら、社会のことなんかぜんぜん見ていないんですよね。「社会的な承認」という非常にプライベートな幻想に耽溺しているだけであって、見ていないんですよ、社会そのものもそこで生きている人の姿も。 たとえば、英語の検定試験の点数を上げたいと思っている学生は、そうすると就職に有利だというところまでしか考えない。「就職に有利」ということは就職という競争的局面で他人を蹴落とすのに有利ということでしょう。 そんな、他人を蹴落とすのに有利な資格や能力を、蹴落とされる側の人間が求めているわけないじゃないですか。 だとしたら、いったい何のための資格なのか。「英語を生かした仕事に就きたい」って言うけど、それは言い換えれば、「英語ができない人間には参入できないうまみのある仕事をしたい」というのがしばしば本音ですよね。 社会的認知を求めるということが全部エゴイスティックな動機づけの語法でしか語られていない。 その能力を使って、どんなサービスをして他人を喜ばせて、世の中によいことを積み増しできるだろうかということを本気で考えている人は、「キャリアパス」なんてことを口走りませんよ。 そうやって、キャリアを積んで云々という人は、「ドア」を自分でこじ開けようとするんです。でも、その「ドア」というのは自分じゃ開けられない」●引用3「ドアは向こうからしか開かない」(本文143~144ページ)「仕事って「これ、やってくれる?」ってあっちから来るもので、「これ、やらせてください」って自分から言うものじゃないと思うんですよ。本来は。「あなた、これをやってください」って向こうから言ってくるわけですけれど、何でそんなことを言うのかと思うと、「あなたなら、これできると思って」というわけです。 この「あなたなら、できるんじゃないの」という評価をもって社会的承認というのであって、ドアをこじ開ける力のことを言うわけではないんです。 ドアは向こうからしか開かないし、梯子は上からしか下りてこない。それを自分で「ステップアップ」とか言って、あたかも梯子を自力でかけて自力で上がれるかのような幻想をふりまいて、「成功のドアを開けよう」なんてとんちんかんなことを言っている(笑)。 成功のドアは向こう側からしか開かないし、ステップアップの梯子は上からしか下りてこない」 以上、引用終わり。 ああ、実に愉快ですね。内田先生は(色々な意味で)言いにくいことを実にズバリと言ってくれるではありませんか。 個人的な感想はさておき、「社会的な承認」が「内向きの基準」になってついには「プライベートな幻想」に浸るようになったり、「エゴイスティックな動機づけの語法でしか語られない」のはなぜなんでしょうか? そのような「社会的承認の誤読」をしてしまうのは、若者だけなんでしょうか。 実は私、ある就業支援団体から資格に関するサブテキストの執筆を依頼され、以上のような内田先生の考え方にならって次のような文章を書いたら、ボツを食らいました。その理由は、最後に書きます。資格についてのもうひとつの視点●あなたに「働く資格」はありますか? そもそも資格って、何でしょうか。ふだんの生活の中で資格という言葉を使う場面について考えてみてください。たとえば、ケンカをしたときには「あなたにはそんなことを言う資格がない」という使い方をします。それと同じ意味合いで、「あなたに働く資格がありますか?」と問いかけられたら、あなたはどのように答えるでしょうか。「働く資格」といわれても、バクゼンとしていて困ってしまいます。そこで、「美容師として働く資格」「一般事務職として働く資格」などと職種名を前に置いたらどうでしょう。だいぶ答えやすくなります。たとえば、「美容師として働く資格がありますか?」と問われたら、美容師の国家資格を持っている人なら「はい、あります」と答えられます。そうでない場合は、美容師として働きたくても「国家資格がないので働けません」ということになります。 一方、一般事務職には国家資格が存在しません。では、誰でも一般事務の仕事ができるかというとそうではなくて、まず、一般事務の求人があることが前提であり、その求人に応募して、その会社の面接を受けて、「あなたはわが社の一般事務職として働くための適格性を持っている」と評価されれば採用され、その会社の一般事務職として働くことができます。 このように、資格の本来の意味は「適格性」であって、自分が持っているつもりでも、相手が「適格性なし」=「働く資格なし」と見なしてしまえば、働くことができなくなってしまいます。「働く資格」があるかないかは自分で決めることではなく、相手が決めることです。●再就職のドアは2つあります これから再就職をしようと決断したあなたは、社会に出て行くためのドアを自分で開けたところです。でも、そのもう1つ先にもドアがあって、いまはまだ閉じられています。そのドアは自分から開けることができず、向こう側からしか開きません。向こう側から「どうぞ、わが社に入って来てください」と呼ばれない限りは、入っていけないのです。 では、どうしたらドアを開けてもらえるのでしょうか。資格を取れば自分の力でドアをこじ開けられるでしょうか――それは不可能です。自分が持っている能力や資質のうち、相手が求めるものを差し出さなければ、ドアを開けてもらえません。秘書検定や簿記検定といった資格を取っても、それだけで相手が評価してくれるとは限らないのです。「この職種で働きたい」「こういう会社に勤めたい」という志望を持つことが再就職のスタートになりますが、それだけでは不十分です。「自分は他人のために何ができるのか?」という問い方をしてみてください。「だれが自分の働きを必要としているか?」という問いを自分自身に向けることのできる人だけが、他の人の役に立つことができます。そして、向こう側からドアを開けてもらうことができるのです。 私たちは、仕事に報酬や「やりがい」を求めますが、それは後からついてくるものであって、その前に「誰かの役に立つ」とか「お客様を満足させる」ことが必要不可欠です。「誰かの役に立てる能力」や「お客様を満足させられる能力」があって初めて、「あなたには働く資格がある」と認めてもらえるのです。 以上、引用終わり。うわー、内田先生そっくりぃ!でも、もちろん、私なりにアレンジして、キャリアカウンセラーっぽく書いたつもりです。 ボツにした側の言い分は、次のとおりです。1)内容がきびしすぎるので、これから再就職しようという人の意欲を減退させてしまう。もっと優しく書いてほしい。2)「誰かの役に立つ」という発想はボランティアのものであって、仕事とは関係ない。3)個人の意見として講座のときにお話しされるのよいが、当財団のテキストに載せる文章としては不適切である。 どう思いますか?1)については、マア、そうかもしれません。ライターとしては曖昧な表現を嫌い、現実を過不足なく伝えることを使命としているのでこういう文章になってしまいますが、キャリアカウンセラーの言葉としては、「指示的」過ぎ、またきびしすぎると言われればそうでしょう。2)については、笑っちゃいますね。この依頼主である財団の職員は大半が労働行政からの天下りなんで、「公務員っていうのはこういう発想をするのか!」と驚かされました。いやあ、人生、ナニゴトも勉強ですね。3)については、後で裏話を聞いて、まあ、同情させられました。こういう公的な団体が無料で配るものについては、悪質なクレーマーからの「抗議の電話」がつきもので、担当者の苦労が耐えないとか。クレーマーさんは、書かれていることに対する反対意見をえんえんと電話でお話しになって、「自分と違う意見を公的なものに載せるのは怪しからん」とお怒りになるそうです。南無阿弥陀仏。 さて、「社会的承認の誤読」というものがなぜ、起きてしまうのかというふうに考えると、そこには「自己実現」幻想がつきまとっているのではないでしょうか。「自己実現」といえば、マズロー先生の五段階欲求説で最上位に位置づけられているものですね。 私の本棚にたまたまマズロー先生の著書の最も新しい訳書である『完全なる経営』(日本経済新聞社)があったりします。監訳者は、キャリアカウンセリング界における西側というか関西の重鎮、金井壽宏先生です。 ぼちぼち読んでみましょうか。
2006年04月06日
「人はなぜ働くのか(働かないのか)」という問いについての探求の旅はまだ続きます。 ハンナ・アーレントの次にお出まし願う水先案内人は、かのヘーゲル大先生。しかし、いきなり原典の読解は骨が折れるので、解説者にお助け願うことにしましょう。 本棚から引っ張り出してきたのは、『人はなぜ働かなくてはならないのか』(洋泉社新書y、小浜逸郎著)。 以下は、小浜氏がヘーゲルの『法哲学講義』や『法哲学要綱』を引用しつつ「労働は人間が人間でありうる条件であるというヘーゲルの考え方」を解説している部分です。●引用A1(本文122ページ)「ヘーゲルが言っていることを要約するなら、次のようになる。各人が自分の欲求を満たすという主観的な動機にもとづいて行った労働の投与が、全体としては、たがいに他人の欲求をも満たす相互依存の生産機構という「共同の財産」を作り出す結果となる。 もしそういう共同の財産のネットワークが市民社会にきちんと整っているなら、それによって、だれもが自分の労働を通じて社会から一人前であるとして承認され、慈善や憐憫に頼るような奴隷的なあり方とは違った、人間的な自立と自由とを実感することができるのだ、というのである。」●引用A2(本文123ページ)「彼自身は、「金持ちが慈善行為をするよりもその金を使ってものを買うことの方が、他人の労働の価値(すなわち人間的価値)を認めたことになるので、ずっと道徳的だ」という、なかなか逆説的な表現をしているが、その真意をよく汲み取るなら、そこには、労働という人間的な行為についての重要な真実が隠されていることがわかる。 ヘーゲルは、労働という営みの根拠が、人間の社会的な本質に根ざすものである事実を突いているのであって、それが、体制の如何を超えて、相互依存、相互交流を機軸とする社会的な共同性の存在を前提としたところでしか成り立たない概念であることを言い当てているのである。 そしてそのことによって、むしろ、労働が、単なる「勤労道徳」によって根拠づけられるのではない深い人間的意味をもった営みであることを指摘しているのである」●引用A3(本文124ページ)「働くことは、人間が、人間でありうることの条件の意味をもっている。なぜなら、繰り返すように、人間世界においては、自分の欲求を満たすための自発的な行為は、自他に対して「表現的」であり、ただちに関係的、共同的な「意味」をもったものとして他者の生のあり方に反映し、さらにその他者の生のあり方がまた、みずからの生のあり方を規定するものとして還ってくるというように、不断の相互関連の過程におかれているからである。 言い換えれば、人間は、みずからを一個の人間として自己承認するためにこそ、この相互連関のなかに自己を投げ入れ、そこから還ってくる他者の承認の声を受け取る必要があるのである」 以上、引用でした。とくに重要だと思われる部分を赤字にしてみましたが、いかがでしょうか? 共感できる? 納得できる?「相互依存、相互交流を機軸とする社会的な共同性の存在」という部分が、昨日引用したハンナ・アーレントの「action的な仕事」という考え方の源流にあるように思いますが、いかがでしょうか。 このようなヘーゲルの前提を準拠枠として使って考えてみると、現代の若者たちが働かない理由は何なのでしょうか。 彼らは「相互依存、相互交流を機軸とする社会的な共同性」に背中を向けているように見えます。彼らは「他者の承認の声」を必要としないので、このような相互連関の中に自己を投げ入れようとしないのでしょうか。 それはなぜなのでしょうか。 そこでヒントになりそうだなと思って、本棚から引っ張り出して来たのが『働こうとしない人たち 拒絶性と自己愛性』(矢幡 洋著、中公新書ラクレ)です。 著者は精神病院の相談室長などを経て、自ら心理教育研究所を主宰し、大学講師を務める人であり、豊富な相談事例をもとにしつつ、「心理的な問題がネックとなって就職しようとしない若者たち」には2つのタイプがあると言っています(本文3ページより)。1)自分の能力に自負心があり、やりたいことがはっきりしている個性的なタイプ。職業によって自己実現をしようと夢を追いかけて、手ごろな仕事では妥協ができません。2)「自分は何が向いているのかわからない」という消極的なタイプ。職業生活にはあまり夢を感じられず、社会に出ていこうという意欲に乏しい若者たちです。 著者は『働こうとしない人たち』を、この2つのタイプに大別してそれぞれの背景にある心理をラフスケッチしようと試みたもので、そのバックボーンとなっているのは、「パーソナリティー障害の国際的な最高権威であるセオドア・ミロンの理論」だそうです。 この理論でいうところの「自己愛性パーソナリティー障害」が1)のタイプと重なり、「拒絶性パーソナリティー障害」が2)のタイプと重なる部分があるそうです。 このような対比を用いて、「現代日本社会における若者と仕事の困難な関係」の見取り図を試みたものが本書というわけで、では、これからそのエッセンスをツマミ食いしてみようかと思います。 少し見方を変えて、「働こうとしない人たち」がいる一方で、「働きすぎる人」がいるのはなぜなのかという考察にもそそられます。 そこで、『働きすぎの時代』(森岡孝二著、岩波新書)なんて本が手元にあったりします。 また、ヘーゲルの言う「相互依存、相互交流を機軸とする社会的な共同性」がよりよく機能するためには、何らかの社会的なルールやサポートシステムが必要ではないでしょうか。昨今の企業社会においてはそれが「従業員福祉」=「企業福祉」ではないかと思うのですが、その中身はご存知のように後退するばかりでもはや消滅寸前です。 というわけで、『企業福祉の終焉 格差の時代にどう対応すべきか』(橘木俊詔著、中公新書)なーんて本もまた都合よく机の片隅の「積んどく」の中から出てきたりするのです。 寄り道、わき道、抜け道、ひと休み……なんでもアリの旅ですが、ともあれ、「働く意味」の探求の旅はまだまだ続くのでした。
2006年04月05日
労働思想史事始……なんて書くとエラそうですが、いちおう専門がキャリアカウンセリングなので、ボチボチ勉強してみたいと思いました。 まずは、ハンナ・アーレントあたりから……っていきなり難度ウルトラC級大物の登場ですが(^^;) ほぼ同業者にして大学の後輩であるハナマルさんのブログに触発されたのがきっかけで、昔ちょっと勉強したことのあるハンナ・アーレントの有名な文章を引っ張り出して来ました。以下、引用です。「人はなぜ働くのか」が問いの出発点です。 ネットで調べてみたら、ハンナ・アーレントの次のような文章に行き当たりました。「たしかに人間の活動力は、すべて、人びとが共生しているという事実によって条件づけられているのだが、人びとの社会を除いては考えることさえできないのは、活動だけである。たとえば労働という活動力は他者の存在を必要としない。もっとも、完全な孤独のうちに労働する存在は、もはや人間ではなく、まったく文字通りの意味で〈労働する動物〉animal laboransではあるが。また、たとえば、なるほど自分だけで仕事をし、製作し、自分だけが住む世界を自分だけで建てる人間は、〈工作人〉homo faberではないかもしれない。しかし、やはり製作者ではある。そういう人間は特殊に人間的な特質を失っており、むしろ、造物主とはいえないまでも、神であり、プラトンがある寓話の中で描いたような神的なデミウルゴスであろう。こうみると、活動だけが人間の排他的な特権であり、野獣も神も活動の能力を持たない。そして、活動だけが、他者の耐えざる存在に完全に依存しているのである。」ハンナ・アレント『人間の条件』(ちくま学芸文庫) ちなみにハンナ・アーレントは『人間の条件』において、人間の基本的な活動力を〔労働labor〕〔仕事work〕〔活動action〕の三種に分類しています。〔労働〕とは生命活動の維持のために必要な所作を行うことで、〔仕事〕とは自然界に手を加え、人工的ななにものかをこの世に生産する動作です。そして〔活動〕とは言語活動、端的に言えば、政治の場における活動……だそうです。 現代社会においては、アーレントのいうlabor的な仕事は機械やITが代わりにやってくれるものが多く、経済的価値に置き換えにくいものになっていることは誰でもピンと来るでしょう。家事労働などもその最たるものですね。 また、work的な仕事についても、大量複製技術や産業ロボット技術などの発達により、相対的に価値が下がっていると言えるかもしれません。 では、最後に残るaction的仕事はどうでしょうか? アーレントやサルトルの生きたアンガージュマンの時代は遠くになりにけり……。 豊かな国に生まれた若者であればあるほど、「すでに全部できあがっている」ことに対する無力感、徒労感を感じるばかりで、まだしもそう感じられる人は幸福であり、多くの人は依存と管理の「ソフトな牢獄」の中から出られないのではないでしょうか。
2006年04月04日
ページをめくるのは、休みの日まで待ったほうがよろしいかと。 だって、読み始めたらもう、止まりません。 ミステリーとしても超一級ですが、それ以上に女性にとって嬉しい内容がテンコ盛り。愉快!愉快!愉快です。 以下、角川のページからの引用(著者インタビュー)です。 ■この小説は女性にとって大きな励みになるものになっていますね。 二千年前、わたしたちは男性神と女性神が混在する世界に住んでいました。現在は男性神ばかりです。ほとんどの文化で、女性はその霊的な力を剥奪されました。この小説では、そういった変化の原因や過程を説明するとともに、未来のためにどんな教訓を導けるかを考えています。 キリスト教および世界史についての新しい視野が開けます。知的コーフンに満ちた書。全世界の人が夢中になった理由も分かりますね。 歴史の語源は“his story”ですが、男性に奪われた女性の歴史“her story”を取り戻す書とも言えるでしょう。
2006年04月03日
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