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正しくは「満身創痍」です。念のため。連休中は、キャリア・コンサルタントの実技講習会(全4回)で勉強しております。昨日、第2回目が終わったところで、あとは3日と4日。朝9時半から昼休み休憩1時間を挟んで夕方4時半までと大ハードです。ほとんど全部の時間、キャリア面接の実習を行います。やり方は、3人のグループになり、コンサルタント、クライエント、オブサーバーの3役を交互に経験してロールプレイをします。第2日目から、ロールプレイには自己評価と他者評価が入るようになり、各ポイントについて3人が3人分のロールプレイについて10段階評価のシートに評価を記入して提出します。自分がコンサルタントを務めた事例について、クライエント役およびオブザーバー(観察者)役から面と向かってコメントをいただくわけですが、昨日の午後の事例では、結構、シビアな評価をもらっちゃいました。「相手の感情を受け取っていない」と言われましたが、私としてはちゃんと反応していたつもりでした。上級資格を持っている私が、なんで初級資格を取ったばかりの若葉マークのおじさんに偉そうなことを言われなくちゃいけないのか。ちゃんと聞いていないんじゃないか、不当な評価だと腹も立ちましたが、せっかく初心に還って学ぶつもりで参加しているのだから、冷静に、冷静に。1日が過ぎて、いまの心境は、「あれで良かったんだ。目が覚めた」という感じです。私がシニア産業カウンセラーの資格を取ってからすでに13年が経過し、キャリア関係のセミナー講師も10年以上経験してきたわけですが、最近、マンネリとは言わないまでも慢心していたなあと反省。カウンセラーたるもの、実は自分よりも経験と学識のある先輩カウンセラーからスーパービジョンを受け、評価と指導をしてもらわないといけないのですが、私は、キャリアカウンセラーとしてはフロントランナーのつもりで走ってきたから、スーパービジョンは受ける機会がなかった。遅ればせながら、いま、いい経験をしていると思います。慢心であったなあ。いまは「慢心創痍」のキズを癒している感じ。4月から受けている労働大学のほうは講義形式なので、痛みを伴う体験はいまのところないけれども、筆記試験が途中3回もあります。これからが勝負ですね。年を取るほど、自分を変えるのは難しいけれど、でも、その気になれば、人間、何歳になっても変われるはず。そう思って、前向きにがんばります。実はここ1~2か月ぐらい、深刻な問題に悩み、落ち込み、うつ状態でした。これも「成長の痛み」だったのかもしれません。キャリアカウンセラーとしてもライターとしても、ひと皮剥けて、パワーアップします!名づけて「ライティング・カウンセラー」。Writing と Lighting の掛けことばです。売文稼業で鍛えた文章力を武器にして、書くこと、言葉に表現することを通じて、キャリア上の問題や発達課題をクリアしていくことを支援します、そして、あなたが光り輝けるように支援しますというメッセージを込めて。ココロは、「生涯一記者」。やはり私は書くことが一番好き。死ぬまで書く仕事を続けられるようにがんばります。がんがん仕事します。仕事ください!
2008年04月30日
あえてひとまとめにする。殺人も、自殺も、死刑も、すべて「ひとごろし」に他ならない。殺さないで。「ひとごろし」をやめてください。「命を大切に」とか「人の命は地球より重い」という言葉をいくら叫んでも、笑い飛ばされるのがオチで、本気で聞いてくれる人は少なくなってしまった。だからせめて言いたい。「殺さないで」。昨日、3つのニュースが重なった。犯行時18歳1カ月の「元少年」に死刑判決が下された。新幹線の扉を自力で開けて投身自殺を図った男性の遺体が発見された。タクシー運転手を殺した自衛官は県警の調べに対し「殺すのは誰でもよかった。死刑になりたかった」などと新たに供述していることが分かった。自殺を美化するのは間違いだ。自殺は殺人以上に凶悪な犯罪であり、遺族の心を激しく傷つける。遺族は怒りや憎しみの持って行き場がないだけに、苦しい。家族を殺された人が犯人を憎むのは当然だ。もしも私がその立場に置かれたら、自分が処罰されても仇討ちしたいと切実に思うだろう。だが、国に肩代わりしてほしいとは思わない。そんなことを国にさせてはいけない。自分がどんな被害を蒙ったとしても、「ひとごろし」を願う権利や正当性を付与されるとは思わない。できることなら、自分でやるにせよ代行にせよ、仇討ち以外の方法で決着をつけたい。殺人という「罪」を憎むなら、なぜ、国家権力による殺人を許すのか。そこの「倫理の飛躍」が理解できない。 死刑も殺人に他ならない。刑場の凄惨さ、残酷さを想像してみてほしい。命乞いするすすり泣き、叫び声、奈落の底が抜ける音、ロープがきしむ音、うめき声、声にならない声、首の骨が折れる音、すぐに絶命するわけではなく、体が痙攣し、ロープが揺れて、まるで暗闇で踊るダンサーのように見えるとか、失禁する人もいれば脱糞、射×する人もいるという、その強烈なニオイ、目玉が飛び出し、舌が垂れ下がる、体中の穴という穴から血が滴る、医務官は死刑囚の脈をしらべて確かに絶命したことを確認し、死亡時刻を宣言し、刑務官が遺体をひきずり下ろして棺おけに移す、その仕事は耐え難い精神的苦痛を伴う。密室の中で秘密裏に行われ、死刑の意味は隠される。法務大臣は「ベルトコンベア式」の処刑を願う。 殺すな!ということを人々に教えるために、人を殺す矛盾。その矛盾が隠蔽されている。 死刑囚が死んでも、殺された人は戻ってこない。その意味では、死をもっても償いきれない。 2人殺したなら、二度死の苦しみを、3人殺したなら、三度死の苦しみを味わうべきなのに、それはできない。人間は、この不条理を引き受けなければならない。憎しみは、死刑囚の死とともに本当に消えるのだろうか。遺族は愛が深ければ深いほど、何があろうと殺された人のことを忘れられないでしょう。深い深い悲しみを癒すことができるのは、赦ししかないのではないかというと、あまりにも綺麗ごと過ぎるだろうか。 赦しは、未来への希望ではないだろうか。 人を殺したいと思うほど経済的・社会的・精神的・身体的に追い詰められる人を、もうこれ以上出現させない社会を皆で協力して築いていくことはできないだろうか。 憎しみの連鎖を断つことはできないのか。 戦争もそうだ。自分や自分の友人、家族が武器を手にして誰かを殺すように駆り立てられることのない社会であり続けてほしい。報復が戦争を始める大義になるなら、死刑も戦争も同じではないか。拡大解釈過ぎるかもしれないが、憲法9条は死刑をも否定していると言った辺見庸さんの言葉が心に響く。「ひとごろし」を、やめてください。
2008年04月23日
手帳が好き。もう20年ぐらいシステム手帳を愛用しています。近くにいる人が手帳を取り出すと、つい、興味津々で目が吸い寄せられてしまう。覗き趣味? いえいえ違います。どんなルールで、システムで、手帳をつけているのかを知りたくて。学びたくてと言ったらカッコのつけすぎかな。この前、あるベテランのコピーライターさんの手帳を隣で覗き見したら、大小色とりどりのポスト・イットをパレットみたいに美しく並べたレフィルを発見して、つい「いいなあ!」と声に出してしまったら、他にもこんなものを手帳に入れているのよと色々見せてくださいました。常用漢字一覧表が出てきたときには、やっぱりプロの物書きはこうでなくちゃ!と思ったものです。常用漢字と言えば、最近、気になることがありまして。常用漢字って、戦後に国が定めた一種の規格なんですよね。常用漢字以外は教科書や出版物になるべく使わないほうがいいということなのか、最低限、このぐらいの漢字の読み書きはできるようにしましょうということなのか。その両方でしょうが、前者の方向性は、ある意味で言葉や言語文化に対する「暴力的行為」であり「冒涜」だなあとも思います。たとえば冒涜の「涜」は常用漢字ではないので、テレビ番組のテロップに流すとしたら「冒とく」と書くかもしれない。でも、これでは何のことだか、言葉ほんらいが持つ意味のルーツが分からなくなってしまうでしょう。そんなことを考えるきっかけになったのが、「障がい者」という表記ですね。多くの自治体ではいま、「障害者」と書かずに「障がい者」と書くようになっています。障害者や家族に対して不快感を与えるような表現はよくないという理由からです。障害の「害」の字のイメージが悪いということですね。ところが、障害者はもともと障害者という表記ではなかったということを最近、知りました。常用漢字の規格ができる前は、「障礙」もしくは俗字の「障碍」が使われたそうです。「礙」の字は、「へん」も「つくり」も「害」とは別物。言葉の意味が違います。石へんに疑うと書く。これは、大きな岩に行く先を遮られて人が悩む様子を表した文字で、「さまたげ」の意味をもつそうです。一方、「害」のもとの象形文字は「紙への祈りの文である祝詞を入れる器を大きな針で突き破り、その祈りの効果を傷つけて失わせ、祈りが実現するのをじゃまする」ことを表しているそうです。日本語の発音では、害も礙も同じだけれども、意味は違うんですね。害の字は、「被害」以外は、害そのものの主体を表すので、人から嫌われる言葉ばかりです。危害、害悪、公害……。一方、「礙」という字は、主体が害をなしているというよりも、主体が害をなされて困っている状態を表す言葉ですね。そう考えると、害と礙は、180度違うわけです。だから障害者という表記は、原理的に間違っているのではないでしょうか。そんなにも成り立ちの違う字を、「難しい漢字が多いと面倒だ。どうせ教養のない下々の民は覚えきれないであろう。このさい、不便なので統一してしまおう」をいうわけで常用漢字という枠にひとくくりにしてしまったのでしょう。だからといって、障害者を「障がい者」と表記するのは、いかがなものかとも思います。障害者という元の字を知っている人の頭の中からは、「害」の字は消えない。いっそのこと、全く別の言葉に置き換えればいいのではないでしょうか。ある人は 「神様から挑戦すべきことを与えられた人達」という意味で「チャレンジド」という言葉の使用を提唱しています。なるほどそのとおり、「障害者」は本人が望んだわけではないのに「障害」を負い、それがハンディキャップになっている人たちです。「チャレンジド」といった受動態の表現のほうが適切のように思えます。けれども、やはり日本語の表現のほうがカタカナ語よりもいいと私は思います。言語文化の歴史を勝手に改変あるいは切断していいのでしょうか。ただ、「接木」という考え方もありますね。漢字も外来語なので、カタカナ語もいわば新日本語として市民権を得るべきだという考え方もあるかもしれません。新しい概念は、新しい言葉でしか表しえない。けれども、「障礙」自体は新しい概念ではないし、もともと主体そのものが「害」であるという意味は持っていない。本人や家族を傷つける言葉ではないはず。だから、もとの「障礙」に戻すのが、いちばんしっくり来る。ただそれにしても、「害」の字が使われてきた間の「負の歴史」の記憶は「ショウガイ」という音とともに残り、私たちの子孫が継承していくことになるでしょう。根の深い、難しい問題ですね。だからこそ、安易にひらがな文字に置き換えて言葉ほんらいの意味や歴史への洞察の回路を断ってしまうような短絡さは、止めてほしいなあと思います。
2008年04月16日
毎日が新しい出会いと発見の連続ですね。そして、不思議なことに何かのキーワードでつながっている。 たとえば、最近の私のキーワードの1つは「お風呂」。先日、インタビューさせていただいた紳士は、銭湯が大好きで、いつも替えの下着とタオルをカバンに忍ばせているのだとか。彼がお気に入りの銭湯の3条件は、1)天然温泉2)富士山のペンキ絵3)露天風呂つきこの3つを満たすのが東京でいえば浅草の「蛇骨湯」だそう。蛇骨湯といえば、入ったことはないけれど、その手前のバーには、何度か遊びに行ったことがあります。こんどはぜひ、蛇骨湯にも浸かってみたい。お風呂といえば、先日、このブログにも書いたけれど、財政破綻した夕張で、バス代が上がってしまったために唯一の楽しみの銭湯へ通えないと嘆くおばあさんのことが忘れられない。日本全国にはお風呂大好きなお年寄りが大勢いる。私だって、年をとって思うように動けなくなり、仕事ができなくなったら、毎日のように大きな湯船にゆったり浸かって鼻歌でも歌って過ごしたいなと思う。お風呂仲間とのおしゃべりも楽しみだ。若いころ、日本の国のために汗水流して働いてきて、その挙句が、好きな風呂にも入れず、1カ月も2カ月も部屋の中に引きこもって寝たきりになっているなんて、そんな気の毒なことがあっていいのだろうか! という言葉をまた別の場所で聞いた。内湯が普及したいま、お客が来なくて経営が苦しい銭湯は多い。自分たちの生き残りのためという意味もあるが、それ以上に、お風呂好きなお年寄りのためになんとかしたいと、新しい介護ビジネスを立ち上げた人がいた。営業時間外の午前中の銭湯を利用したデイサービス「湯~亀」。http://www.yuki-1010.jp/見学をさせてもらった。最初のうちは簡単なリハビリ体操やゲームを全員で行い、お昼ご飯を一緒に食べてから、男女に分かれての入浴タイム。みるみるお年寄りの表情が明るくなっていった。それ以上に、ケアをするスタッフの皆さんの表情が明るい。仕事をしている人が楽しくなければ、お世話をされる人はもっと楽しくないだろうという経営者の言葉が忘れられない。お風呂つながりの話は、次はどんな方向へ展開するやら。いまや「敬老」という言葉はすっかり形骸化してしまったが、この日本の社会を築いてきた先輩たちへの共感、感謝の情なしに、今を生きる私たちの幸せはないだろうと思う。
2008年04月15日
かつて共同幻想論というのが流行りましたが、資格というものの周辺にも幻想のモヤモヤが立ち込めています。ある人は、「資格がないから就職できない」と言います。「私が採用されないのは、資格がないからだ。資格があれば就職できると思うが、学校に通うお金がないし、時間もないし、どの資格を取ればいいのかわからない。私はどうすればいいのでしょう?」またある人は、「資格なんて就職に役立たない」と言います。「私は資格を持っているのに採用されなかった。だから、資格なんて就職には役立たない」どちらもよく聞く言葉なんですが、なんだか変ですね。どちらも採用されない理由を「資格」だと見なす考え方で、つまり資格を言い訳に使っている。それでイイワケ?採用されなかった本当の理由は、適性がないとか、モチベーションが低いとか、適応能力がなさそうだとか、人柄に魅力が感じられないとか、協調性がなさそうだとか、要は「ウチの会社の社風やウチの仕事には合わない」「できない」「長続きしない」ということでしょう。当のご本人は「自分に能力がない」から採用されなかったというストーリーを認めるのが恐ろしいのではないでしょうか。心の平安のためには、「たまたま運が悪かった」とか「資格がないせいだ」とか「面接官に見る目がなかった」とか「年齢や学歴や性で差別された」といった「別の理由」がどうしてもほしいのでしょうね。採否は総合的な評価で決まるものですから、「資格はないけど××はある」ということで採用になる場合もあるし、「資格はあるけど××はない」ということで不採用になる場合もあります。その評価のモノサシは、職種、業種によっても異なるし、会社によってさまざまです。ただ、公約数的なものは存在します。その1つが「適応力」でしょう。「自分のやりたい仕事」「好きな仕事」にこだわって会社を辞めて新天地を求める人がいるけれども、それは幻の青い鳥を探すようなもの。「好きな仕事を見つける」ことは不可能に近い。なぜなら、実際にその仕事を経験してみて、現場で学んで一人前になって成果を出せるようになるまでは、好きかどうかは分からないからです。時間がかかる。「好き」は未来にあって、現在にはない。「好きだ」と思ってやってみた仕事が案外、期待はずれで幻滅したり、自分の無能さに腹が立ったりというのがよくあるストーリーです。「好きな仕事を見つける」ことは難しいけれども、「仕事を好きになること」はそれほど難しくない。「仕事を好きになる能力」の高い人は、確実に採用されるでしょう。そういう人は、言い訳をしませんね。「仕事を好きになる能力」が低いと、どんな仕事も長続きしないでしょう。転職を繰り返し、収入が減り続けていく……。その逆に、「ぜひウチの会社で働いてください」と、企業が高額の年俸を提示してひれ伏してお願いするような人、つまりヘッドハンティングされる人の条件はというと、・業務経験があり、部下を指導する管理職についている・技術職であればプロジェクトリーダーなど、その会社の技術者集団のスターであり、華々しい業績が業界内で知れ渡っている・年齢は40歳前後。事業部長や取締役、副社長、社長などの幹部候補生だから・転職歴がない。新卒で入社した会社に長く勤めていて、忠誠心が高い。ヘッドハンティングの誘いに簡単に応じてくれない・男性の場合は結婚していること。離婚歴があってもいいが、「独身貴族」は好ましくない以上は実際に、ある敏腕ヘッドハンターから聞いた話です。人材紹介会社の人は、決してこういう話はしないでしょうね。だって、「自分から進んで転職しようとする人」が大勢いないと成り立たない業界ですからね。「忠誠心の高い人」つまり「転職意欲のない人」こそが高い報酬と地位を得ることができるだなんて、とてもじゃないけど言えませんね。重要なことは、好きになれそうな仕事を選び、選んだからには好きになれるように努力すること。どうしても好きになれなければ、まずは自分の適応能力を疑ってみる。会社の労働条件に問題がある場合には、行政や労働組合の相談窓口などへ行ってみること。転職先を探すのは、その後からでも間に合います。もちろん、どうしても好きになれない、合わないということもあり得ます。その場合、どこが好きになれないのか、どこがどう合わないのかという理由を明確にすれば、同じ失敗を繰り返さずに済むでしょう。「社風がなんとなく合わない」というバクゼンとした理由では、次もまた「なんとなく合わない」会社しか見つけられないでしょう。転職はリスクが大きい。一度会社選びに失敗した人は、二度目も失敗する可能性が高い。そのリスクを解消できる「何か」があればいいけれども、何もない場合は「危険な賭け」になりますね。
2008年04月11日
入学式のシーズンですね。私も今年は新1年生の気分。 来週から全30回の夜学に通い、労働法や最近の雇用・人事管理にまつわる理論などを勉強します。もとは文学部の出身で、法律について学んだことがなかったので、自分の現在の専門分野と密接な関係のある労働法について、信頼できる先生からじっくり学んでみたいと以前から思っていたのです。ちょうどいい講座が見つかりました。会場は、東大本郷キャンパスです。http://www.jil.go.jp/kouza/sogo/index.htmキャリアアップのために勉強するという言い方をよくしますが、それって、具体的にどういうことのなのでしょうか。昇給のため? 昇進のため? やりたい仕事に転職するため?勉強が、そういった「私利私欲」の実現に直結するのでしょうか。直結しないでしょう。逆に遠回りかもしれません。では何のために勉強するのか? 職業人としての使命をより高度に実現するためというと、カッコ良すぎるでしょうか。昇給や昇進は、結果として後からついてくるものだと思います。使命を高度に実現し、高い評価を得られれば、自分の満足度ややりがいが高まり、結果として、その仕事がますます好きになり、「もっと高度に実現しよう」というモチベーションを得ることができるのではないでしょうか。私は仕事柄、看護師さんや、看護大学の先生方にインタビューする機会が多いのですが、あの人たちの勉強熱心さには驚きます。その勉強意欲の根源は、1人でも多くの患者さんの助けになりたい、QOLを高度に満足させてあげたいといった、自分のためというより、人のために貢献、献身、奉仕したいという強烈な欲求ではないかと思います。あの人たちに比べたら、自分はなんと怠惰で、自己中心的で、近視眼的で、弱虫なのかと反省させられるばかりです。
2008年04月08日
生活習慣病予防の「メタボ健診」が企業や自治体主導で始まりましたね。それはさておき、生活習慣って、人によってずいぶん違うものだなあと最近、気づかされたことがありまして。皆さんはティッシュを何に使っていますか? 私はもっぱら鼻のため。今年も花粉症がひどかったし、風邪を引くと必ず鼻詰まりになります。子供のころから、鼻が私の弱点なのでした。いまは「鼻セレブ」なんてスグレモノがあるので、鼻の下の皮膚が荒れなくなりました。以前は、軟膏を塗って保護・治療しなければなりませんでした。鼻以外にティッシュを使うことは、ほとんどありません。たまに、顔のうぶ毛を剃刀で剃ったときに刃をきれいに拭くぐらいかな。あとは口紅を塗るのに失敗したときとか。ところが、世間では食卓にティッシュを置き、べとつく食べ物で手が汚れたり、汁物をこぼして食卓を汚したりするたびにティッシュで拭く人が珍しくないと知りました。ふきんは使わないの? 雑巾は?もったいないなあと思ってしまうのですが、みなさんのお宅ではいかがでしょうか。ほんとうは鼻をかむにしても、ガーゼハンカチか何か柔らかい布を、繰り返し洗って使えばいいし、家にいるときは手鼻でぴっと洗い流してもいいのでしょうが、ま、時と場合によりますね。個人の家の中って密室ですから、いろいろなことが行われているのでしょうね。本人が「当たり前」だと思ってやっていることも、実は「当たり前」でないかもしれない。子どもたちや地球の未来のために「良くない」ことかもしれない。だから、密室の中で行われていることを白日の下にさらせというわけではなく、自分の中にある「当たり前」や「常識」や「べきである」を、たまには疑ってみることも必要じゃないかなというお話でした。
2008年04月07日
テレビを見ながらメモをとる人なんて、そんなにいないかも。おっと、懸賞やクイズに応募する場合や、テレビ通販に申し込む場合には必須でしたね。私はニュース番組を見ながらメモを取ることがしばしばあります。まあ、職業病ですね。今日は翻訳家・児童文学者の石井桃子さんの訃報がありましたが、NHKが紹介していた石井さんの生前の言葉に感銘を受けてメモを取りました。録音じゃないので、一字一句同じではありませんが、ほぼ同じ内容ということで……。「小さいころに何の本を読んだかで、その人の美意識の方向が決まってしまうと思う」「知らないうちに、そちらの方向へ、そちらの方向へと行こうとする」「小さいうちに、何を自分が楽しいと思うのか、何を自分は美しいと思うのかをつかんでほしい」そうだなあ、そのとおりだなあと深くうなずきつつ、自分の子どものころの読書体験を思い出しました。『ナルニア国ものがたり』とか『エルマーと16ぴきのりゅう』、手塚治虫さんの『鉄腕アトム』をはじめとするマンガから受けた影響が多大だったなあ……とか。もう1つは、三人乗り自転車禁止についての、ある主婦のコメント。「子どもをつくれ、つくれというのに、そういう規制をするのはおかしい」ほー。そういう考え方もあるのかと驚きました。そもそもこの規制は、子どもの安全を守るためのものなのにね。たぶん、この主婦は、自分は3人乗りでも絶対にふら付いたり転倒することはないので、規制は余計なお世話である。3人乗りができなくなると困るという考えなのでしょうね。でもね、「絶対」はあり得ないし、万一、転倒したら最悪の場合は子どもの命が失われるし、通行人が巻き添えになってケガをするかもしれませんね。他人をケガさせた場合は、経済的な補償をしなくてはいけませんよね。なんでそんなに急ぐのかなあ。おんぶとだっこ、あるいはベビーバギーでチンタラ歩いていたらダメなのかなあ。何もかも母親がやらねばならないと思っているのかなあ。実際に助けが望めないのかなあ。夫、ご近所さん、お友だち、お姑さんか自分の母親といった人に手伝ってもらえないのかなあ。核家族化、都市化、コミュニティの崩壊、ワーク・ライフのアンバランス、男女非共同参画といった社会問題が背景にあるんじゃないかなあ。……なーんて考えてしまいました。もう1つメモしたのは、NHKの「視点・論点」に登場された佐木隆三さんのコメントで、これについては長くなるのでまた明日の日記にでも。メモはポスト・イットの大きいサイズが便利です。手帳に貼り付けておき、記録として残したいなら、こうしたブログに引用したり、自分の日記に貼り付けてもいいですよね。旅行に行ったとき、博物館や記念館の展示物を見るときも、メモをとります。書くのが面倒にならないように、習慣づけておくと楽ですよ。
2008年04月03日
今朝も目覚まし時計を4時にセット。2日連続です。仕事が終わらなくて、滞在先のホテルでも原稿書きです。 因果な商売です。人々が寝静まった深夜か、まだしーんと静まり返っている早朝でないと、集中して原稿を書けない。いきおい徹夜仕事が多くなります。ホテルではチェックアウトタイムが11時と遅めだからといって安心できないの。9時半ごろから掃除係がガタガタ音をたて始めて、集中を乱されちゃう。近くのスタバへ避難しよう。フライトは13時半発だったか。福岡空港はバツグンにアクセスが良いので、12時過ぎに天神から市営地下鉄に乗って余裕で間に合う。「眠れない」というのは忙しくて睡眠不足になるという意味だけではなく、1つのことが気になると頭を離れず、安心して眠れない、眠ってはいけない、思考停止してはいけないと己を戒めるジャーナリストの性(さが)のようなもの。いまは「派遣労働者の人権」というキーワードが気になっています。テレビで見た、二段ベッド×2+1の5人で狭い賃貸アパートに共同生活している日雇い派遣の若者の、痩せてあばら骨の浮き出た身体が目に焼きついている。かわいそうという以上に、明日はわが身かもしれないという切実感もあったりして。独り身で50代を目前にした「痛さ」が身にしみる今日この頃です。筑豊・田川の地を訪れてみて、その思いはますます強くなった。訪れたきっかけは全然、別のことなんだけれども。
2008年04月02日
目的地の福岡県立大学は、田川というところにありました。博多天神バスセンターから特急バスで1時間20分、往復割引2400円、終点の田川後藤寺バスセンターに至るこの路線は筑豊線と言うそうな。 筑豊といえば炭坑。バスは市街地を抜けると高速に乗り、ずんずん山あい深く入っていきます。田川はかつての筑豊炭田の中心地。あの『青春の門』の主人公が幼少時代に過ごした町ですね。しかし私はなんと『青春の門』はおろか五木寛之大先輩の本は1冊も読んだことがないのでした。きゃー。 小説の中で繰り返し描写される香春岳は、県立大学へ向かう車中から遠く眺められました。大学はバスセンターからさらにタクシーで10分ほど。カメラやノートパソコン、分厚い資料の入ったカバンの重みがずしりと肩に堪える長旅でした。 戦後、朝鮮半島から引き上げてきた五木寛之は、母親の郷里の八女市へ向かったものの、温かいはずの故郷は冷たく、戦後の混乱の中で、幼い弟と妹を抱えた15歳の少年は生きるために奔走する毎日であったそうな。 五木寛之が初めて香春岳を見たのは中学時代、お茶の行商で筑豊へ訪れたときのこと。そのときの印象をこう語っているとか。 「言葉ではうまく説明できないほど強くひかれた。日本の中の異国を直感的に感じさせた。つつましい日本の風景とは違った雰囲気を持つ山の姿は僕の育った韓国の山河をふっと思い出させたのです」(香春町・郷土史誌『かわら』) http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/furusato/bungaku.htm 確かに、香春岳は逆Uの字型というか、鋭く尖った形で、異彩を放っているように見えました。 これも何かの縁か。せっかくだから?近いうちに『青春の門』を読んでみようかなあと思うのでした。 炭坑が滅びた後は見る影もなく、夕張のようなものですと地元の方は言われたけれども、傍目には立派なお屋敷も多く、大学まで教育施設が充実していることだし、夕張とは全然事情が違うだろうなと思いました。 夕張に比べたらはるかに温暖な気候であり、作物がよく育つのではないかしら。帰農者や有機農業に取り組む人もぼちぼち増えているとのこと。 炭坑といえば、上野英信さんの『地の底の笑い話』は筑豊の話ではなかったか。さまざまなルポルタージュを貪るように読んでいた大学生時代の印象深い1冊でした。 日本の労働史や労働運動を追いかけるうえで、筑豊は避けて通れない道標です。 また「呼ばれちゃったかな」と思う取材旅行でした。
2008年04月01日
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