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11月30日(月) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(6) 感情を捨つと出で来しわたくしの頭の上を鳥が渡れり 臓物をあがない戻るわがあゆみ捻子落ちているところを過ぎつ 漫画本読みて出で来つ茶房より灯びに浮く雨のもなかへ 桜桃のかなしさの核のごときかも舌の上にて弄びいる 性懲りもあらずけぶらうむらさきの楝の花の下を過ぐれば (この項完結)
2020.11.30
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11月30日(月) 角川短歌賞(320)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(9)香川ヒサ 帰りきて脱ぎたる靴が玄関にまだ余所ゆきのかたち崩さず このゆふべ厨に刻むあさつきの香の直立てり春はいまだし 地下道電車の扉開きて足下へひんやりと届くこの駅の空気 歩廊よりビルの明るき窓見えて上着脱ぎたる男ら動く こぼしたる土をシャベルが寄せてゆくあやつる人の手を思はせて (つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(191) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(8) 柿本人麻呂(8) 人麻呂の羇旅の歌: 玉藻刈(たまもか)る 敏馬(みぬめ)を過(す)ぎて 夏草(なつくさ)の 野島(のしま)の崎(さき)に 船(ふね)近(ちか)づきぬ (巻二・二五○)柿本人麻呂 ―美しい藻を刈る敏馬を過ぎて夏草の生い茂る野島の崎に、船は近づいた。― (つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 土屋文明歌集(11) 中公文庫:日本の詩歌6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(7) 昭和三年(2) 妙高池の平にて(2) こがらしに向ひて吾等(われら)登り来(こ)しひろき墾道(はりみち)は山に尽きたり 目のまへに鎖(とざ)せる山荘(やまのいへ)は立つ紅葉(もみぢ)がすゑの海はくもりて 音たてて軒端(のきば)の萱(かや)をふく風をしばし昼寝のさめし時きく おとろへし人の如しもガラス戸の内より山の風に対(むか)へり (つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 新古今集(843) 佐佐木信綱校訂 新古今集巻第十八(6) 雑歌下(6) 鵲 菅贈太政大臣 千六百九十八 彦星の行きあひを待つかささぎの渡せる橋をわれにかさなむ 波 千六百九十九 流れ木と立つ白波と焼く鹽といづれかからきわたつみの底 (つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 昭和萬葉集(巻十)(388)(昭和二十七年~二十九年の作品) 講談社行(昭和55年) Ⅴ(95) 病み臥して(16) 病床の愛(3) 柴田弥平 腕の中にはや仰向きて眼を閉づる妻になにせむ吾は排菌者 稲垣鉄三郎 病重く部屋移りする吾が寝台担ふ六人の中に妻あり 吉岡重信 熱退かぬ隣室の君と動き得ぬ吾とが交はす藥包紙通信 石原きみ子 結ばるる長き過程を堪へてきて命永からぬ君となりにき 別れてはわがなし難き一つとも君のうがひの水を捨てたり (つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 「歎異抄」(訳:野間宏)(6) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 (注)「歎異抄」の原文、及び野間氏の解説、感想等は省略 しています(後藤)。 第二章(3) それだから、かりにも万一、法然上人のお言葉にだま されて、念仏をとなえ、地獄に落ちるようなことになったと しても、なんら後悔などすることはないのである。というの は、もし、念仏いがいの修行にはげむことで仏になるはずで あったものが、念仏をとなえることで地獄に落ちたというの であったら、これこそ、「法然上人の言葉にだまされてしまっ て」といった後悔も生れようが、どんな修行もいっさい不可 能なこの自分のこと、どっちにころんでも地獄こそが、すで にきまってしまっているわが住み場所というものなのである。(つづく)
2020.11.30
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11月30日(月) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 わが身の復活 イエスが奇跡をおこなうことが出来ないなら、イエスの救い主という資格は消滅するでしょう。イエスこそは生命の源(みなもと)であって、限りない命を与えることの出来るものといわれているからです。イエスの信者はその復活を望み、魂をイエスにゆだねて安心して死ぬことが出来るのです。それであるのに、もしイエスが奇跡を行う能力がないというのであれば、信者の希望はまったく空しく終わるのです。信者は、終わりの日にイエスより最大の奇跡、つまり生命の復活を望んで死んでゆくのです。信者が主にゆだねて眠るというのはこのことです。ですから、この最大の奇跡、つまり生命の復活を行うことの出来るものは、地上において種々の奇跡を行えない理由はどもにもないということです。聖書に書かれている奇跡がこれです。聖書に書かれているような種々の奇跡を起こすことの出来るものですから、信者はイエスを崇(あが)めて救い主とするのです。そして、霊魂をゆだね、復活の約束を信じて安心して長い眠りにつくのです。
2020.11.30
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11月29日(日) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(5) 柄杓など売る店のまえ道の辺の椅子に黙しておりぬしばらく 提げている青鯖とわれと塵あぐる風に吹かるる道の上にして 夜の灯に濡るるがごときいしみちを戻らむとすもはかなけれども 犬抱きてアパートの階下りたり戦げる「われ」を縊らむがため 産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 角川短歌賞(320)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(8)香川ヒサ 椅子ひとつにコートと袋をつみ上げて午後のテーブル囲む女ら 曇る日は空より曇れる色をしてジュラルミンの樹動くともなし ひとひらの花びら欠けし石蕗の欠けたるままに久しく咲けり ピラカンサの根よりするりとあらはれて石垣の下に黒猫となる かさはさか きゆはあはゆき くさはさく 循環バスは渋滞の中 (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(190) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(7) 柿本人麻呂(7) 人麻呂の死に臨みし歌に対する妻の歌 直(ただ)の逢(あ)ひは 逢(あ)ひかつましじ 石川(いしかは)に 雲(くも)立(た)ち渡(わた)れ 見(み)つつ偲はむ (巻二・二二五)依羅娘子 ―じかにお逢いしようと思っても、できないだろう。石川に、雲よ立ち渡れ。それを見てお偲びしよう。― (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 土屋文明歌集(13) 中公文庫:日本の詩歌6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(6) 昭和三年(1) 妙高池の平にて(1) あかあかと山の紅葉(もみぢ)をわたる風音たててガラス戸に吹きあたるなり もみぢ葉(ば)はてりつつ寒き山を見て濁る温泉(いでゆ)にからだしづめむ いただきに乱るる雲の吹きすぎてはだれや散ると見ゆる山肌(やまはだ) (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 新古今集(843) 岩波文庫:佐佐木信綱校訂 新古今和歌集巻第十七(54) 雑歌中(54) 道 菅贈太政大臣 千六百九十六 刈萱の関守にのみ見えつるは人もゆるさぬ道べなりけり 海 千六百九十七 海ならずたたへる水の底までに清きこころは月ぞ照らさむ (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 昭和萬葉集(巻十)(382)昭和二十七年~二十九年作品 ) 講談社発行(昭和55年) Ⅴ(89) 病み臥して(15) 病床の愛(2) 小沢寿一 妻のゑがくつつましき夢そのおおくはわが退院を前提とせり 松本ふじ子 自制する眼かなしく移しゆき夫のいたはりの面にふれあふ 宮本美津子 梨の花過ぎゆかむ日にかく病めば夫ある事は涙ぐましも 川村八郎 石のごとく白き個室に臥(こや)りゐて夕されば妻の足音を待つ ひそかに病棟巡り石鹸売る君も親なき患者のひとり (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 「歎異抄」(訳:野間宏)(5) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 (注)「歎異抄」の原文、及び野間氏の解説、感想等は省略 しています(後藤)。 第二章(2) この親鸞にあっては、「ひとすじにただ念仏をとなえて、弥陀に おたすけいただくこと」といわれた、わが師法然の言葉を言葉そ のままに聞き受けて信じるだけで、そのほかに格別いいたてるよ うな事柄はないのである。「念仏は、わが一門がずっと言って来 ているようにまちがいなく浄土に生れるためのありがたい要因 たりうるものでしょうか。それともまた逆に世の他の宗派の言い ふらしているように、地獄に落ちなくてはならない行ないにすぎ ないのでしょうか。」そんなせんさくなど、まったく自分のあず かり知らないところなのである。 (つづく)
2020.11.29
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11月29日(日) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 日本の責任 日本はたとえればアジアの試験場と言えるでしょう。それはギリシャがヨーロッパの試験場だったようにです。ヨーロッパの未来はギリシャによって決められたように、アジアの未来は日本によって決められるでしょう。今後日本人が採用する制度と、それを開発する宗教と哲学と芸術とが、東アジアに普及し、長くその模範となり、地球上の人類の半数以上の運命を支配するようになるでしょう。それは、ギリシャのソロン、フィジアス、プラトンたちが西洋文明の基礎を定めたようにです。ですから、わたしたち日本人は自分たちの国民だけの問題ではなく、ヒマラヤ山脈から東に住んでいる何億という人々の将来に関係しているのです。このように重大な責任があることをわたしは知りました。どうして軽はずみの行動が出来るでしょうか。 (注)内村鑑三は、昭和5年69歳で亡くなりました。ここに書かれている、内村鑑三の思想と、戦前の「大東亜共栄圏の思想(第二次世界大戦のスローガンのひとつとなった…)」との関係はわたし(後藤)の不勉強でよく分かりません。多分関係はないと思います。
2020.11.29
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11月28日(土) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(4) 地の息のたちのぼりいる夕べにてこの世の外(ほか)の水溜りあり いちにちの雨の終りに椋の木の梢こずえにあさみどり萌ゆ 西方をかなしみて立つ水ぎわに朱(あけ)の斑(はだら)を身にまといつつ 敬虔の感情というは人の上につねに胡散臭き部分あり 暗がりの犬の頭を撫でており湿れるわれの掌(たなごころ)もて (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 角川短歌賞(319)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(7)香川ヒサ 日すがらの冷たき雨に溺れゆくごとしも虫の音いよよ細れる 時間とふ埃叩きてゐるごとく幟りはためく中古車展示場 車窓より見をれば今さへ遠く見ゆわが棲む団地わが在る時代 人あまた乗り合ふ夕べのエレヴェーター枡目の中の鬱の字ほどに バス停に長き列あり声なくて日向に並ぶ稾色の顔 (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(189) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(6) 柿本人麻呂(6) 人麻呂、死に臨みし時、自らを傷みて作る歌 人麻呂の叫ばない静かな慟哭の歌: 鴨山(かもやま)の 岩根(いはね)し枕(ま)ける われをかも 知(し)らにと妹(いも)が 待(ま)ちつつあらむ (巻二・二二三)柿本人麻呂 ―鴨山の岩を枕にして横たわっている私を、そうとは知らずに妻は待っていることであろうか。― (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 土屋文明歌集(12) 中公文庫:日本の詩歌6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(5) 昭和二年(2) 清水越 うちつづく尾花のたけの高ければ花粉(はなこ)はかかる頭の上(うへ)より 幼き日天(あめ)に霧(き)らへる雪と見し清水(しみづ)の嶺呂(ねろ)を今日(けふ)ぞ越えける 越後(ゑちご)より干鱈(ひだら)を背負ひ越え来にし人はゆくなり尾花が原を 泥鰌(どぢやう)うりて帰る翁(おきな)も声かけぬ上毛(かみつけ)越後の国ざかひの山 (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 新古今集(838) :佐佐木信綱校訂 新古今集(842) :佐佐木信綱校訂 新古今和歌集第十八(4) 雑歌下(4) 松 菅贈太政大臣 千六百九十四 老いぬとて松はみどりぞまさりけるわが黒髪の雪の寒さに 野 千六百九十五 筑紫にも紫生ふる野邊はあれどなき名かなしぶ人ぞ聞えぬ (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 昭和萬葉集(巻十)(387)(二十七年~二十九年の作品) 講談社発行(昭和55年) Ⅴ(88) 病み臥して(14) 病床の愛(1) 中村道子 我が病む病舎の蛍光燈が夜汽車にて過ぎゆく夫の眼に沁むといふ 長谷川太満子 夫の手を探りわが手を重ね寝る儚(はか)なき事を病みてよりする 金石淳彦 涙ぐみ入り来し妻の手を握るめとりしこともわが罪にして やさしき思ひ伝へむと手を握りしが忙(せわ)しき妻の立ち上りゆく 三宅信雄 妻がきてシーツかけかふしばらくをいだく幼子重くなりたり (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 「歎異抄」(訳:野間宏)(4) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 (注)「歎異抄」の原文、及び野間氏の解説、感想等は省略 しています(後藤)。 第二章(1) 一、それぞれのかたが、関東からはるばる十以上もの国々の 境をふみこえ、命がけでここまで御来訪くださった志は、た だただ極楽往生の道を問いただそうがためである。ところが、 もし、念仏のほかに別な往生の方法をも知っており、また経 典のだいじな文句などをも知っているのではないかと、なに かこの親鸞を奥ゆかしい別なものとしてお考えになっておら れるのでしたら、それこそ大きなまちがい。もしも、そうい うこむずかしい教理でも聞きたいということであるならば、 あの奈良や比叡の寺々にも、さも御立派そうな学者たちが大 勢おいでになることなのだから、そういう方々になりともお会い になって、往生の要領をとくと聞かれるがよい。 って、往生の要領をとくと聞かれるがよい。 (つづく)
2020.11.28
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11月28日(土) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 天使 わたしは、これまで実際に目でもって天使を見たことがありません。しかし、心から信頼している人が病床にいたとき、彼は白くかがやく大理石のような顔をし、あるいは鈴虫のような細い声をし、あるいは輝く朝露のような涙を流しました。彼こそ天使のようだとわたしは思いました。彼が病のため二度と起き上ることが出来ないとしても、わたしは決して苦痛を感じませんでした。それどころか彼によってわたしは日々慰められ、清められ、高められていることを感じました。まるで、それは天使がわたしを日々守ってくれているようでした。あなたが、もし天使を見たいと思うなら、病院に行きなさい、そして重い病気で臥しているたとえば貞淑なご婦人を見なさい。その人は多分神様の霊を受け天使のようになっているでしょう。
2020.11.28
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令和2年度静岡県短歌大会 静岡新聞社賞:講評(丸井重孝) (注)丸山重孝氏:静岡県歌人協会副会長 :木下杢太郎記念館館長 雪を知ら逝きし子よ見よ墓原に渦巻き上げて花びらの舞う 下田市 後藤瑞義 作者のお子様は雪を見たこともなく亡くなりました。悲しみの癒えぬ作者は今花吹雪を見て、その子に「見てごらんなさい」と呼び掛けています。あなたの眠る墓地には雪に代って今、渦を巻きあげて桜の花びらが舞っていますよ。 なんとも美しい情景を詠んでいますが、わが子を思いやる父親の愛情が伝わってきます。雪と花という全く異質なものに、共通性を見出し、子の願いをくみ取るとともに、作者は桜吹雪に慰められているのではないかとも思えてきます。 なお、「雪」「逝く」「渦」の「ウ」音、及び「墓原」「巻き上げ」「舞う」の「ア」音、つまり「ウ音」「ア音」が巧みに配されていて、韻の上でも響きの柔かい美しい歌となっています。
2020.11.27
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11月27日(金) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(3) 白川(しらかわ)を越えて来しかばしかすがに日輪光は水を叩けり 声あらぬ水の流れを思いおり明午(めいご)橋より距りて来て あわれあわれ血に汚れたる闘犬は人の合図にて闘いを終う 肉(ししむら)とししむらが打ちあえる音味わいており闘う犬に 路の上(え)に散りぼう柿の花踏みてこの夕まぐれ戻らむとすも (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 角川短歌賞(318)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(6)香川ヒサ 秋日さす窓辺にストール編みをればしんしんと膝にたまりくる翳 あざやかな色彩あふるる表白も苦しカンディンスキー展巡る その味のわからぬほどに少しづつ楊枝に差して試食せよとふ 鰯雲きらきら泳がせゆつくりと水面の秋をわたりゆく風 種苗会社のビル耀へり下京区梅小路なる秋のゆふぐれ (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(188) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(5) 柿本人麻呂(5) 炎とは何をさすか(4) ま草刈(くさか)る 荒野(あらの)にはあれど 黄葉(もみちば)の 過(す)ぎにし君(きみ)が 形見(かたみ)とそ来(こ)し (巻一・四七)柿本人麻呂 ―草を刈る荒地ではあるが、亡くなられた草壁皇子の記念の地であるとてやって来たことである。― 日並(ひなみしの) 皇子(みこ)の命(みこと)の 馬並(うまな)めて 御狩(みかり)立(た)たしし 時(とき)は来向(きむか)ふ (巻一・四九)柿本人麻呂 ―亡くなられた草壁皇子が、馬を並べ御狩にお出かけになった時間が今や迫ってくる。― 炎は、単に夜明けの曙光という叙景のみではない。それは、若くして亡くなられた草壁皇子を重ねている。人麻呂は、炎の文字のなかに尊敬を込めて皇子を立たせたかったのではないか(日高てる氏)。 (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 土屋文明(11) 中公文庫:日本の詩6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(4) 昭和二年(1) 落葉を焼く 幾年(いくとせ)ぶりのことならむ子供等(こどもら)と落葉やくに先(ま)づ吾(あ)がうれしけれ 枯れすすき今しばしおけ一束(ひとつか)の葉ぬれしぬぎて雪もふるがね (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 岩波文庫:佐佐木信綱校 新古今集(841) 新古今和歌集第十八(3) 雑歌下(3) 霧 菅贈太政大臣 千六百九十二 霧立ちて照る日の本は見えずとも身は惑はれじよるべありやと 雪 千六百九十三 花と散り玉と見えつつあざむけば雪ふる里ぞ夢に見えける (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 昭和萬葉集(巻十)(382)(昭和二十七年~二十九年の作品) 講談社発行(昭和55年) Ⅴ(92) 病み臥して(13) 結核の新薬 相馬美佐子 今日も来て医師はストマイすすむれど貧しきに吾が心定まらず 中西寛亮 マイシンにて今日は痰吐くことのなし澄む冬空を見つつ飽かなく 村上綾朗 マイシンもパスも使ひて生くるべしと寂しき事に触れて相逢ふ オブラートに丹念に包みパスを飲む申請して長く待ちしパスなり 鳥居国男 ただ寝ねて死を待つごとくわびしきに今日は切抜く新薬の記事 (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 「歎異抄」(訳:野間宏)(3) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 (注)「歎異抄」の原文、及び野間氏の解説、感想等は省略 しています(後藤)。 第一章(2) なぜかという と、それはまさに、罪深く、ただただ悪を重ね、煩悩のもえ さかってやまないわれわれ衆生を救いとろうとする願であら せられるからなのである。だから、本願を信じさえすれば、 そのうえさらに善の行ないを積み重ねるなどという必要はま ったくない。念仏よりもすぐれている善などというものは絶 対にありえないのだから。また、自分の悪行をも少しも恐れ てはならぬ。弥陀の本願による救いを妨げるほどの悪などど こにも無いのだから。――このようなお言葉であった。 (つづく) (つづく)
2020.11.27
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11月27日(金) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 信仰と迷信 信じると、真理がますます明るくわたしを照らします。これが信仰です。疑うとますます闇が深くなります。これが迷信です。真理はわたしたちによろこびを与え大自然と調和するものです。誤りは私自身の心の調和を破壊します、誤りつまり迷信を信じ、自然に反する行動をする人は、体や心のどこかに必ず破たんを起すでしょう。満足は真理にのっとった行動によってもたらされるのです。イザヤ書に書かれてあるように、山や岡は大きな声で歌い、野にある樹木はみな手を打って喜ぶ光景がそれです。キリストを心霊の新郎(はなむこ)にたとえれば、真のキリスト信者がその新婦(はなよめ)です、そしてその新婦(はなよめ)は本能的に問わなくても、キリストが真の新郎(はなむこ)であることを知るでしょう。真理を求めることにおいて、この新婦(はなよめ)の本能は貴ばれるべきです。
2020.11.27
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11月26日(木) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(2) 風蹴りてスカートの裾広くゆく尊(たつと)ばれたる女はありや 雲雀啼く春の野にきてくぐもれるこころをひたに延べむかわれは 尿(しと)臭き父のかたえを離れきて桜のもとに跼まりおりぬ 公園の石椅子の上に自らを欺くごとく物食うべおり 川沿いの空の桜を仰ぎおり重量感なきからだ運びて (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 角川短歌賞(317)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(5)香川ヒサ 画廊の扉(と)押してガラスに張りつめてゐたる夕映え砕きてしまふ つぎつぎに人降りゆきし夜の車内ぎつしりと吐息が残されてゐる トンネルから銀色の電車あらはれぬ気がつけば闇を見つめてゐたり 窓くらき長距離バスがほの白く行先灯して宵を発ちゆく 木犀の香る生垣に沿ひ歩む守備範囲のごときも見えて (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(187) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(4) 柿本人麻呂(4) 炎とは何をさすか(3) 阿騎(あき)の野(の)に 宿(やど)る旅人(たびびと) 打(う)ち靡(なび)き 眠(い)も寝(ぬ)らめやも 古(いにしへ)思(おも)ふに (巻一・四六)柿本人麻呂 ―阿騎の野に今こうして宿っている旅人たちは、のびのびと身を横たえて 眠っているだろうか、いや眠れはしないのだ。草壁皇子御在世の追憶が次々 と浮かんで来て。― (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 土屋文明歌集(10) 中公文庫:日本の詩歌6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(3) 大正十五年 春夏雑詠 わが歌に人の賜(たま)ひし銭(ぜに)をもて買へるあを瓶(がめ)水すがすがし さしなみの隣の桜咲きにけり二階をあけて一日(ひとひ)あそばな 銭湯にゆきたしといふ幼子(をさなご)をひた叱り居り吾(われ)も汗ばみて 逆(さか)およぎしてはす葉(は)娘(むすめ)と呼ばれたる金魚死ねばすくひ捨てつも (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 新古今集(840) 岩波文庫:佐佐木信綱訂 新古今和歌集第十八(2) 雑歌下(2) 月 菅贈太政大臣 千六百九十 月毎に流ると思ひしますかがみ西の浦にもとまらざりけり 雲 千六百九十一 山別れ飛びゆく雲の帰り来るかげ見る時はなほたのまれぬ (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 昭和萬葉集(巻十)(366)(昭和二十七年~二十九年の作品) 講談社発20行(昭和55年) Ⅴ(87) 病み臥して(8) 手術(3) 山本雄一 わが腹部にメスとほりたり目かくしの中ながら眸(め)を伏せて息のむ 木本正二 全身麻酔掛けられて一つ二つ三つ数へゐる声はわが子の声ぞ 大橋吉代 手術終へあはあはと臥す輸送車に走り来て妻がわが手握りぬ (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 「歎異抄」(訳:野間宏)(2) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 (注)「歎異抄」の原文、及び野間氏の解説、感想等は省略 しています(後藤)。 第一章(1) 一、弥陀の誓願の不思議な力におたすけいただいて往生をと げるのだと信じ、念仏をとなえようと思いたつ心がおこった 時、その時ただちに、その人はすべてを救いとって誰一人と して捨てることがないというその大恩恵に浴することができ るように、弥陀はしてくださっているのである。弥陀の本願 は、老年少年、善人悪人などの差別を少しもなさらず、ただ 信心一つを肝要とするものだと知るがよい。 (つづく)
2020.11.26
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11月26日(木) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 祈祷について 菅原道真の和歌に「心だにまことの道にかないなばいのらずとても神や守らん」というのがあります。祈りに反対する人達は、よくこの和歌を引き合いにします。わたしのように祈りに多くの時間をかける人間は、かえって無駄な事をしているように思われます。祈りに反対する多くの人たちは、真のキリスト信者の祈りがどのようなものかを知らないのです。真のキリスト信者は、神様のみ心が世の中に成りますようにと祈るのです。自分自身のこと、私利私欲にて祈るのではありません。ですから、わたしの祈りはきっと神様に聞かれると信じています。真のキリスト信者は、祈りによって神様のなされることを預言する人たちです。彼は、決して神様に無理なことを要求するのではありません。
2020.11.26
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後藤瑞義 入選歌(読売新聞静岡版) 自閉症の子をまた叱る手助けをせんとなしたる行為なれども 下田市 後藤瑞義 (読売新聞静岡版 よみうり文芸 十一月二十五日 秀逸 花山多佳子 選) (評)父の手助けをしようと思ってやったことだとわかっているのに叱ってしまう。「また」にやりきれない気持ちが滲(にじ)む。一般にもあることだが比較できない難しさがあるだろう。
2020.11.25
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11月25日(水) 短歌研究新人賞受賞作品第二十二回(昭和54年) 阿木津英「紫木蓮まで」(1) やわらかき芽立ちの枇杷の葉が風に煽らるるとき路傍明るし 柿の木の芽吹きの時に遇いにけりみどりは春に汚るるらしも 欝欝と蝶が来りて青白き蜜柑の花にただよいにけり 浅蜊売るマイクの声の机までいらいらとして聞こゆるゆべ いにしえの王(おおきみ)のごと前髪を吹かれてあゆむ紫木蓮まで (つづく)
2020.11.25
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11月25日(水) 角川短歌賞(316)第三十四回 受賞作品(1988年) 「ジュラルミンの都市樹」(4)香川ヒサ フリーウェイ下りきたれば月見草黄昏の土手に蓬蓬とそよぐ 飛行士の足形つけてかがやける月へはろばろ尾花をささぐ 歯みがきのチューヴ絞ればゆるゆるとあらはれてくる縞なす日常 角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る 今日は子に林檎の皮剥き教へむと最も切れるナイフをわたす (つづく)短歌鑑賞(後藤瑞義)香川ヒサ角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残るあるとき、ふと思ったような歌。なにげないそのままの歌。しかしそこに発見があるということでしょう。最近短歌鑑賞について、若干悩みをもっています。たとえばいま掲げたような歌についての鑑賞です。あれこれと歌を切り刻むような分析的鑑賞にある種疑問をもち始めたともいえます。このまま、全体を飲み込みそのままを、そのなにげない発見を味わうだけでよいではないかということです。ただ、こういう単純なるがゆえにかえって色々連想が生れます。まず、「角砂糖」が魅力です。甘い砂糖のイメージそれはある種丸い感じ、べたべたした感じがします。それが角であることの発見があります。これなどはいつも見ていることなのですが…。それに、「隙間」です。作者は「隙間」に気づきました。「すきま」、「すきま風」「こころの隙間」いろいろ連想されます。こういう気づきは、やはり作者の心の有様にかかわってくるように思います。たとえば作者が人間関係で悩んでいたとか。しかし、読者はそこまで深くくみとることは難しいことです。しかし、単純な歌はかえって読者のその時の心理状態によって、あるいは読者自身の経験や、人となりなどによって色々と響くのではないかと思います。短歌鑑賞は基本的には読者にゆだねられているのではないかと考えます。
2020.11.25
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11月25日(水) 古典鑑賞講座「万葉集」(抜粋)(186) 監修:宋 左近 万葉を彩る歌人たち(3) 柿本人麻呂(3) 炎とは何をさすか(2) 「軽皇子(かるのみこ)の安騎(あき)の野(の)に宿(やど)りましし時、柿本人麻呂の作る歌」の詞書につづいて、 やすみしし わご大王(おほきみ) 高照(たかて)らす 日(ひ)の皇子(みこ) 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 太敷(ふとし)かす 京(みやこ)を置(お)きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山(やま)は 真木立(まきた)つ 荒山道(あらやまみち)を 石(いは)が根(ね) 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥(さかとり)の 朝越(あさこ)えまして 玉(たま)かぎる 夕(ゆふ)さりくれば み雪降(ゆきふ)る 阿騎(あき)の大野(おおの)に 旗薄(はたすすき) 小竹(しの)をおしなべ 草枕(くさまくら) 旅宿(たびやど)りせす 古思(いにしへおも)ひて (巻一・四五)柿本人麻呂 ―わが皇子、日の御子は神であるままに神として行動なさるとて、立派な都をあとにして、泊瀬の山は真木の立つ荒い山道だが、それを岩や禁樹を押しなびかせて朝越えていらっしゃって、夕方になると、雪の降る阿騎の広い野に、旗すすきや小竹を押し伏せて草を枕に旅やどりをなさる、亡き父君草壁皇子のいらした昔のことを思て。―
2020.11.25
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11月25日(水) 土屋文明歌集(6) 中公文庫:日本の詩歌6より 昭和五十一年四月十日初版 歌集「往還集」(2) 大正十四年(2) 或る友を思ふ ただひとり吾(われ)より貧しき友なりき金のことにて交(まじはり)絶(た)てり 吾(わ)がもてる貧しきものの卑しさを是(こ)の人に見て堪へがたかりき かにかくにその日に足(た)れる今となり君をしばしば吾(われ)思ふなり 電車より街上の姿を君と見しが近づく人は君にあらざりき (つづく)
2020.11.25
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11月25日(水) 新古今集(838) 佐佐木信綱校訂 新古今集巻第十八(1) 雑歌下(1) 山 菅贈太政大臣 千六百八十八 足曳のかなたこなたに道はあれど都へいざといふ人のなき 日 千六百八十九 天の原あかねさし出づる光にはいづれの沼かさえ残るべき (つづく)
2020.11.25
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11月25日(水) 昭和萬葉集(巻十)(383)(昭和二十七年~二十九年の作品) 講談社行(昭和55年) Ⅴ(90) 病み臥して(11) 手術(2) 前川 正 剪除(せんじょ)せし己が肋骨を貰ひ来つ透きとほるやうに見ゆるもあはれ 伊藤祐輔 ふるさとの野川の氷ひび割るる音ときこえて肋(あばら)切られをり 佐藤千鶴子 麻酔薬に定まらぬ眼閉づる時吾が背より骨の折らるる音す 無影燈輝く下に骨切らる羞恥に遠き裸身となりて (つづく)
2020.11.25
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11月25日(水) 「歎異抄」(訳:野間宏)(1) 筑摩書房:昭和44年5月30日発行 序 こころひそかに思いをめぐらし、大まかながら、過ぎ来った こと、またいま周囲に起っていることを考えてみると、わが 師親鸞の口からじかに教えられた真実の信心から遠くはずれ ている説が世の中にのさばっているのが、まったくなげかわ しく、これから学んでいくものにとって疑惑のたねを残すこ とになるのではないかと、じつに残念に思える。さいわいを 得て、親鸞聖人に導かれる縁故にめぐまれた善知識(師匠) に出あい、その人に導かれる機会がないとしたら、どうして、 せまい修行意識などにさらさらわずらわされることのいらぬ、 この他力念仏のまったき道に入っていくことができようか。 けっして、自分勝手な思慮や判断で、だいじな他力の教えの 根本をみだしたり、ゆがめたりすることがあってはならない。 そこで、今は亡き親鸞聖人がお示しくださった大事な話のう ち、特に今もなおこの耳の底にありありと残っているところ を、少々ながら、ここに書きしるすことにする。それは、ほ かの心はなくて、ただただ、心を同じくして念仏にはげもう としている人々の疑惑を解きあかしたいためなのである。(つづく)
2020.11.25
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11月25日(水) 内村鑑三「一日一生」より (注)文語は口語にし、意訳しています(後藤)。 発行:昭和35年教文館 預言者と詩人 預言者はいわば詩人ともいえるでしょう。また、詩人もいわば預言者といえるでしょう。預言者と詩人の間に違いを見つけるのはたいへん難しいことだと思います。預言者は神様のみことばを伝えます。また、詩人は大自然のことばを伝えるでしょう。神様のこころがわからなければ大自然のこころも解らないでしょう。また、大自然のこころが解らなければ神様のこころも解らないでしょう。ですから、預言者は大自然をよく理解し、詩人は神様をよく理解するのです。預言者も詩人も神様よりこの世に送られました。儀礼に重きを置く人たちとか文字をあれこれ争う神学者とかよりもっとも神様の近くにいるのは、預言者と詩人です。
2020.11.25
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