全106件 (106件中 101-106件目)
≪ なかゆくい(1)距離 ≫ 少し前に南蔵王を縦走した時、山岳ガイドのYさんが蝶々の話をしてくれた。アサギマダラはこの付近から沖縄の与那国島や台湾まで飛んで行くそうだ。2500kmにはなる距離を1日平均50kmほど飛ぶので、50日ほどかかることになる。だが沖縄本島と宮古島の間は300kmあり、この間に島はない。果たしてアサギマダラはどうやって休むのだろう。 人類で一番古い舟は一本の木をくり抜いた丸木舟。南九州から南西諸島へ、あるいは中国大陸から先島諸島へ我々の遠い祖先たちが渡って来た時も、やはり丸木舟に乗ったはずだ。人間は島影が見える時は安心して航海できるが、島影が見えないと不安になるらしい。彼らはその不安と戦いながら黒潮に小舟を漕ぎ出し、島々を伝って行ったのだろう。 我が国の代表的な民俗学者である柳田國男が唱えた説に「海上の道」と言うのがある。日本人の主食であるコメは、中国大陸、台湾、先島諸島、南西諸島の島々を伝って九州に到達したとの仮説だ。だがその夢は破れた。日本人が食べる短粒米のジャポニカ種は中国の山東半島が起源で、それより南では育たないことが分かったのだ。 このことから現在では、米が来たルートは山東半島から直接九州へ来るルートと、朝鮮半島経由の2つがあったとされている。今は険悪なムードが漂う日中、日韓、日朝関係だが、かつては米をはじめ、先進の文化がそこから日本列島へもたらされた。さらに私達の血にもかなり色濃く朝鮮民族の血が混じっている。ある研究によれば古代朝鮮半島の動乱が原因で渡って来た人は、2世紀で200万人にも上るらしい。当時の日本の人口はせいぜい数百万人なので、その比重は相当のものだ。 さらに米をもたらした弥生人も中国や朝鮮半島から渡って来たので、日本人と朝鮮人(韓国人)はDNAが非常に近い。また文法や宗教にも良く似たところがある。従来から日本列島に住みついていた縄文人と、渡来人の弥生人が混血した結果が現日本人だが、南西諸島では混血の度合いが薄く、縄文人の特徴を色濃く残している。これはやはり離島のためだ。 琉球王朝時代、離島間の情報伝達に用いたのが烽火(のろし)。烽火は狼煙とも書き、中国大陸ではオオカミの糞を用いたのが名前の起源。琉球では黒い煙と白い煙の2種類で伝えたようだ。さすがに300kmも離れた宮古島までは伝えられないが、沖縄本島周辺の島々や慶良間諸島、久米島との間には通信網が敷かれていたことを、昨年走る途中に寄った本部半島の博物館で知った。<続く> <注> 「なかゆくい」とは沖縄の言葉で「一休み」の意味です。
2012.09.19
コメント(6)
≪ 伊是名島 ≫ 4年前の7月、私は沖縄本島の西海岸を縦断した。140kmを3日間で走ったのだが、最終日は最北端の辺戸岬から名護市への55kmの逆走。朝の8時過ぎには既に気温は33度になり、路上は40度を越す。その猛暑の中で、私は2度意識を失いかけた。いわゆる熱中症だ。走り始めて間もなく東シナ海に浮かぶ2つの島が見え出した。私はてっきり伊是名島とその南にある無人島とばかり思っていた。 だが、どうも解せない。2つの島が離れ過ぎているのだ。あんな所に島があったのだろうか。ひょっとして私は幻の島を見ているのではないか。無事縦断を果たした後も、私はまだ夢を見ているような気持ちだった。沖縄の地図を確認して納得したしたのはその数カ月後、あれは伊平屋島(いへやじま)と伊是名島(いぜなじま)だったことにようやく気づいた。 伊平屋島にはクマヤ洞と言う岩窟がある。日本の神話で天照大神が隠れた「天の岩戸」の沖縄版だ。そして伊是名島は、不思議な伝説を持つ島だ。あの2つの島が同時に見えるのは、沖縄本島最北部の西海岸だけ。それも道路がクネクネと曲がっているために、偶然走っている私からも見えたのだろう。その伊是名へ私は1度だけ行ったことがある。 沖縄本島の北部、本部半島の付け根に運天港がある。那覇からだと100km近く離れているだろうか。そこへ原付で行き、30km沖にある島へフェリーで渡る。伊是名は美しい島だった。ピラミッド型をした三角山の頂上には伊是名城(いぜなグスク)があるのだが、残念ながら金網が張られ、山に登ることは出来なかった。県の指定文化財なのだ。 そこから暫く行った山道を登って驚いた。海の中と山の中に2つの直立した岩山が聳えていたのだ。海中の岩は「海ギタラ」で山中の岩が「陸ギタラ」。陸ギタラの天辺には祭祀跡があるらしい。どうして古代の人があの危険な岩に登れたのか、なぜそこに登って祈る必要があったのか私にはどうしても理解出来なかった。 リュウキュウマツの姿が実に美しく、清らかと言う表現がぴったりだった。その島で「神アシャギ」を初めて見た。アシャギは「足上げ」が訛ったもの。つまり神様が棲む家なのだ。何にも無い藁ぶきの小屋が、とても神々しく見えた。人口1500人、周囲17kmの円形に近いこの島で、第二琉球王朝初代王尚円(1415-1476)となった金丸が生まれた。 百姓だった金丸が20歳の時に島を追放されたのは、田圃の水を盗んだからとも、島中の若い女性が彼に言い寄ったからとも伝えられている。仕方なく彼は首里王府に赴き、そこで百姓になった。だがある時たまたま城を出た王の目に止まり、城で働くことになる。4代の王に仕えて信頼を増した彼だが、4代目の尚徳王の怒りを買って隠居する。だが王は急死し、幼い王では政治が不可能になる。 重臣達が金丸の元を訪れ、王になって欲しいと頼む。金丸はその願いにより尚円と名乗り王位に就く。明治初期まで約400年続いた第二琉球王朝がこうして始まった。正史にはそうあるが、実際はクーデターだ。百姓の若者がまさか30年後に王になるとは誰が思っただろう。琉球史でも他に例がない不思議な話だ。 伊是名島には尚円王の誕生地が「みほそ所」として祀られ、県の文化財となっている。「ほそ」は「へそ」の古い呼称。「ほぞを噛む」として日本語にも残っている。つまり胎盤を埋めた場所だが、島を追放された男の胎盤が残っている訳がない。歴史が支配者に有利なように書き替えられる典型だ。島出身の版画家、名嘉睦稔製作による尚円の銅像が伊是名港に立っている。 この島では毎年10月に「いぜなトライアスロン」が開かれる。スイム2km、バイク66km、ラン20kmのローカルルールだが、その大会が終わって選手が乗り込んだフェリーが島を離れる時、岸壁から若者が海に飛び込むようだ。それが別れを惜しむ南の島独特の儀式。不思議なあの島を再び訪れることはないが、思い出は私の胸に深く刻まれている。<続く>
2012.09.18
コメント(8)
≪ 浜比嘉島 ≫ 島はママの故郷だった。職場で飲んだ後、私達は「姉妹」と言う店へ行き、良く沖縄の歌を歌った。「二見情話」、「石くびり」などの沖縄民謡のほか、譜久原恒勇が作曲した美しい旋律の歌が私は特に好きだった。「芭蕉布」、「ふるさとの雨」、「なんた浜」など、今でも曲を口ずさむことがある。そんな私達を、ママはいつも優しい顔で観ていた。 周囲7kmの浜比嘉島。「はまひがじま」を、地元では「はまひじゃ」と呼ぶ。その島の祭り「シヌグ」のことが新聞に載った。何でも弓矢を人に向けて、戦う真似をするらしい。何故そんなポーズを取るのだろう。私はとても不思議に思った。浜比嘉島は沖縄本島の東部、勝連半島の先にある小島で、周囲の島や沖縄本島とは違った風習があるとも聞いた。 ある日、私は原付に乗って屋慶名港へ向かった。浜比嘉行きの船はそこから出るのだ。屋慶名港はカラオケに良く出る風景で、見覚えがあった。船は30分ほどで浜の港に着く。島には2つの集落がある。西海岸にあるのが「浜」で、東海岸にあるのが「比嘉」。島の名前は2つの集落を合わせたものなのだ。私は先ず「浜」の西南部の山に向かった。そこに古い風葬墓があると聞いたからだ。 だが、間もなく道は行き止まりになった。那覇から酪農に来ていると言う人に尋ねたら、その先へは行かない方が良いと言う。島外の人間が風葬の地へ行くのはタブーなのだろう。私は直ぐに悟った。そのまま引き返し、今度は比嘉集落へ向かった。そこがママの故郷だった。浜から比嘉へは小さな峠を越えて行く。標高は50mほどのものだろう。 道端の側溝に、大量の清らかな水が流れているのを見て驚いた。島に川はないし、山も高くはない。降った雨は直ちに石灰岩の土壌に吸われ、低地で泉になるのが沖縄では普通なのだが、何故これだけの水が高い位置で湧き出ているのかが不思議だった。比嘉集落には廃屋が目立った。きっと現金収入の道がないのだろう。浜辺にはアマミキヨ、シネリキヨの墓があった。洞窟の風葬墓だ。 琉球人の祖先神である2人の墓が、なぜこの島にあるのか。「アマミキヨ」は奄美(あまみ)に通じ、さらに海人(あま)族に通じる。つまり海洋民族だ。2人の神が最初に立ち寄ったのは沖縄本島最北部の辺戸岬とされているので、彼らが奄美や南九州から来たのは間違いなく、沖縄人(うちなんちゅ)が日本人と共通の祖先を持つと推定される所以だ。 「シヌグ」の戦いのポーズの謎が解けた。浜集落の人は元から住んでいた現地民で、比嘉集落の人は島外から漂着した海洋族と考えたらどうか。現地民と漂着民との間に戦いがあった。シヌグの弓矢はその時の戦いの名残ではないのか。シヌグは元来「凌ぐ」だったはず。雨露を凌ぐの「しのぐ」だ。5母音の日本語に対して琉球語は3母音なので、そのルールにも合致する。意味は「生き抜く」こと。私はそう解釈した。 さらに島の東南部へ向かった。そこには古い穴居跡の洞窟があった。クバ島と呼ばれる岩山は遺物散布地らしいが、海の中なので近づけない。私は仕方なく浜辺で横になっていた。目が覚めると、私の顔をじっと見つめる島の青年が居た。私はゾッとした。その目は狂人のものだった。 狭い地域で長年結婚を重ねると血が濃くなる。その結果優秀な者も出るが、異常者の出現が増えるのが遺伝の法則。沖縄では琉球王朝時代から、同じ地区内での結婚が一般的だった。税が人口と一体の「人頭税」のため、人の移動を極力禁止していた名残だ。ひょっとしてママがこの島を離れたのにも、何か訳があったのかも知れない。船でしか行けなかったあの小島に、今では橋が架かっている。 島の人口は500人足らず。島内にマラソンはないが、「海中道路」を使ってこの島へも渡る「あやはし海中ロードレース」が4月に開催される。私の行きたい度数は50%。マラソンに出ることはあっても、あの島へ行くことは多分ないはず。やはり神秘のベールで包まれていた方が、あの島には相応しい。<続く>
2012.09.17
コメント(8)
≪ 久高島 ≫ 私は足の裏を鍛えるために、青竹を踏んでいる。なかなか刺激があって、鍛えている実感がある。だが、それよりもっと強烈なのがシャコ貝だ。凸凹の突起が踏むと痛くて、そう長くは続けられない。長径12cmほどのその貝を獲ったのが久高島(くだかしま)。あれは平成3年の秋。沖縄勤務の思い出に、職場の仲間とその島へ渡った。 久高は「神の島」と呼ばれる。琉球人の祖先である、アマミキヨ、シネリキヨの2人の神がこの島へ上陸した後、知念半島へ渡ったとされる伝説の島だ。この小島では、琉球王朝以来数百年にわたって「神行事」が行われて来た。この島で生まれた女性だけで結成される「祝女」(ノロ」と呼ばれる集団がそれを司る。その最高の祀りが「イザイホー」と言うものであることを、私は本を読んで知っていた。 島を案内してくれたのは「琉球髷」を結った30代の男だった。だが、私達を乗せてくれた軽トラックは、間もなく動かなくなった。きっとガソリンが古く、水でも混じっていたのではないか。私達は自分で浜辺へ向かい、貝などを獲って食べた。シャコ貝は岩を溶かしてその中に潜む、不思議な習性を持っている。嬉々としている仲間に対し、私は複雑な思いだった。「一木一石といえども勝手に獲ってはいけない」と言う禁止事項が、この島にあることを知っていたからだ。 久高島は知念半島の東5kmほどの海上に浮かぶ、周囲8kmの細長い島。最高地は18mの扁平な島で、人口は200人。長い間、飲み水は井戸に頼って来た。農地がほとんどないため、島全体が島民の共有地。つまり原始共産制が長い間保たれて来た国内では珍しい島なのだ。貧しい作物しか獲れない畑も、順番に割り振って公平性を保つ。島の物を持ち出さないことや、勝手に獲らない規則は、貧しいゆえの知恵だったのだろう。 この島で神行事が数百年間も守られて来たのには理由がある。琉球王朝時代から、この島の男は優秀な船乗りとして、中国や東南アジア、日本との貿易船に乗り組んだ。神行事は男達の長い航海期間、妻の不貞を防ぐためでもあった。毎週のように神行事への参加を求められるため、不貞を働く暇がないのだ。それでも例外が起こるのが人の常。だが不貞を働いた女は呵責に苛まれ、地上に描かれた「橋」を渡ることが出来なかったそうだ。 島の最大の聖地である「フボー御嶽」(うたき)には、祝女しか入れない。そこにはソテツに似たクバ(フボーはクバが訛ったもの)しか生えてないそうだ。かつてこの島を訪れた画家の岡本太郎は、地元の人に頼んで風葬墓を見せてもらったようだ。彼はそれを写真に撮って公表した。その結果、案内した島民は狂死した。風葬墓は島民しか立ち入ることが出来ない聖地。それを破った案内者は、島民の怒りを買ったのだ。 岡本太郎はパリ大学で民族学(文化人類学)を学んだ。だからこそ島の神秘性に惹かれたのだろう。それは私も同様だ。だが沖縄関係の本を300冊以上読んでいた私は、島の禁止事項は知っていた。12年に一度午(うま)の年に開かれるイザイホーは、昭和53年(1978年)が最後になった。神行事を司る祝女(のろ)集団が高齢化したためだ。私はその貴重な映像を、偶然8番目の職場で観ることが出来た。島を離れた4年後だった。 結局シャコ貝を食べても、罰は当たらなかった。もう神の呪縛は消えたのだろう。島の向かい側である知念半島の斉場御嶽(せいふぁうたき)は沖縄最大の聖地で、世界文化遺産にも登録されている。島へ渡っての祭祀を薩摩藩によって禁止された琉球王が、自分の代理として聞得大君(きこえおおぎみ)を派遣し、そこから久高島を遥拝させたのだ。 伝説の島、久高にマラソンはない。私の行ってみたい度数は50%。行きたい気持ちは大いにあるが、あの島はそっとして置くのが一番と思うからだ。あの島で起きた不思議な出来ごとを、私は一篇の詩にし、第2詩集に載せた。今でも白昼夢のようなあの小島を、時々思い出して懐かしんでいる。<続く>
2012.09.16
コメント(6)
≪ 与那国島 ≫ 2人の女性の話す声を偶然聞いてしまった。あれは昭和47年の5月ごろだったか。場所は私の3番目の職場(東京)の地下だった。どうやら親戚の方が亡くなったのだが、故郷に帰る必要があるかどうかの相談で、若い方の女性は泣き声だった。彼女らの故郷は沖縄。それも最西端の与那国島とのこと。沖縄の人に会ったのは、彼女らが初めてだった。そしてその島の名前を聞いたのも。 若い女性Aさんが泣いていたのは、お金がかかるからみたい。今でも飛行機を乗り継いで往復すれば、かなりの金額がかかる。那覇から石垣島までが440km。そこから与那国までは、さらに130kmほどもあるのだ。きっとその飛行機代だけでも、彼女の給料の半年分が吹っ飛んでしまうのではないか。まして当時はまだ沖縄が返還される前。「日本」へ来るのにもパスポートが必要だった時代だ。 地元の言葉で与那国は「どなん」と呼ばれる。漢字で書くと渡難。島へ渡るには相当難儀するとの意味だろう。そして与那国の言葉で台湾は「たかさん」と言うらしい。意味は「高い」。台湾には標高3997mの新高山はじめ3千m級の高山が幾つかあり、海上から見上げればとてつもなく高い島に見えるからだろう。この「たかさん」が後に「高砂」に変化したようだ。 かつて台湾が日本に帰属していた時代、台湾と与那国は互いに親戚づきあいをしていた由。サトウキビの季節には、台湾から手伝いに来たと言う。そして終戦後の一時期、与那国の沖合では台湾との密貿易が行われていたようだ。与那国から台湾へは、石垣島へ行くよりも近い。その縁かは知らないが、台湾の花蓮市と与那国町は姉妹都市の協定を結んでいる。まさに国境の最前線なのだ。 この島の西海岸久部良集落に「クブラバリ」と呼ばれる岩の裂け目がある。琉球王朝時代には、ここで妊婦をジャンプさせた由。幅3m、深さ7mの裂け目を妊婦が飛んだらどうなるか。ほとんどの妊婦は死に、たとえ助かっても胎児は死んだ。厳しい税の取り立てのため、少しでも人口を減らすための措置だが、最果ての島の悲しい伝説だ。 サツマイモのような形をした島の東南にある岬「新川鼻」沖の海中に、不思議な遺跡が発見されてからまだ日が浅い。発見したのは地元のダイバーで、琉球大学の木村政昭名誉教授(当時は理学部教授)が自ら潜って確認した。彼の専門は海洋地質学だが考古学にも造詣が深く、沖縄で幾つかの海中遺跡を発見している。 与那国の海中遺跡は、階段状のもの、アーチ状のもの、溝状のもの、亀の甲羅状のものなど様々な石組がある由。私も写真で観たことがあるが、やはり人工物のように感じた。木村名誉教授は富士山の噴火や「ムー大陸」の存在を早くから唱えたことでも有名だが、この海中遺跡はかなり古く、ひょっとして「ムー大陸」時代の名残かも知れないと言う。その真偽のほどは不明だが、陸上部の遺跡とも繋がっているようなので、過去の地震で海に沈んだのかも知れない。 与那国島の人口は1700人。マラソンはないが、度数60度の泡盛「花酒」が島の名産。その強い酒を、私は岡山で飲んだことがある。そんなことで私の行きたい度数は100%。いずれは必ず訪れてみたい島だ。国境防衛のため、島の人は自衛隊の駐留を望んでいると聞くが、果たしてどうなるか。<続く> ≪警告≫ このブログのコメント欄に、中国のことを「シナ」などと書き込んだ場合は直ちに削除しますのでご注意ください。本日「シナ」は「ストップワード」として登録します。
2012.09.15
コメント(4)
≪ 尖閣諸島 ≫ 「尖閣諸島の古い地図はありますか?」。そう言って私達の職場を中国の大学職員が訪ねて来たのは、私が沖縄勤務となった年だったと思う。平成元年の9月頃だ。「ありませんよ」。私は即座に答えた。部下からそんなものがあるとは聞いてなかったし、変な質問をする中国人とも思わなかった。ましてそれが国益に反したなどと考えたことも。だが、今にして思えば、あれはきっと中国のスパイだったのだろう。 正確な地図なら国土地理院にあるはず。何故私達の職場を中国の人が訪れたのだろう。それは多分「尖閣」が古くから沖縄に所属していた「証拠」が存在するのかどうかを確認したかったのだと思う。だが、そんなものはないし、もしあったとしても焼けてしまっただろう。第二次世界大戦時、沖縄では地上戦があった。アメリカ軍の艦砲射撃で、沖縄本島は連日猛火に包まれた。 だから沖縄の歴史的な資料のほとんどが焼け、今残っているものは偶然他県に避難していたか、米国からコピーをもらったか、偶々地方に埋もれていたかのいずれかなのだ。それでも中国はその証拠を探していた。何のため?。もちろん沖縄にその「証拠」がなければ、「あれは元々中国のもの」と言い出せるからだろう。 先日中国の政府高官の発言をたまたま聞いた。尖閣が中国のものとする理由だ。その第一が「尖閣」という名前。これは日本語らしくなく、中国的だと言うのだ。それはその通りだと思う。沖縄の島なら、あんな名前はつけないはず。彼が主張した2つ目の理由は、「徐福」が尖閣を発見した可能性があること。これには笑ってしまった。 徐福は秦の始皇帝時代の人。始皇帝の命令で不老長寿の薬を求めて東シナ海に乗り出し、ついに帰らなかったと言う伝説の人だ。徐福は何艘もの大きな船で、一族と共に航海に出たとされる。きっと始皇帝の暴政を恐れての脱出が、その真相だったのではないか。ところがその徐福伝説が伝わる地方が2つある。和歌山県と佐賀県だ。徐福一族が本当に日本に着いたのかは不明だが、もし彼らがその時に尖閣を見つけたとしても、それなら尖閣は日本に帰属することにならないか。彼らは日本に帰化したのだから。 ベトナムとの間で領有権が争われている西沙諸島(パラセル諸島)、フィリピンとの間で領有権が争われている南沙諸島(スプラトリー諸島)も尖閣同様島名に漢字が当てられている。これは偶然ではなく、やはり中国の影響が強かったと見て良いと思う。確か元の時代、中国はアラビア海まで出向いて通商していた。いわゆる「海のシルクロード」だ。中国の航海術はそれほどまでに優れていたから、島に中国風の名前がついていてもおかしくはない。 だが、それと領有権問題は違う。尖閣を日本の領土としたのも、他に領有権を主張する国がないことを確かめた上のこと。それを中国が横取りしようとするのは、豊かな漁獲と鉱物資源が眠っていることを知ってからだ。田中角栄と周恩来との間で日中国交正常化がなされた1972年(昭和47年)、2人は「尖閣問題」を棚上げすることで合意したが、なぜあの時田中は「尖閣は日本の領土」とはっきり主張しなかったかと悔まれる。 当然のことだが地球上の土地は元々、誰のものでもない。「尖閣」も日本帰属となって以降、台湾の漁師も自由に漁が出来た時期があった。それは台湾が日本に帰属した時期で、彼らを排除しなかったのだと思う。だが、これだけ資源が重視される時代になれば問題は別。領土は国の総力を挙げて守るべき対象になった。 国有化問題で揺れる「尖閣問題」だが、もし中国が領有権を主張するのであれば、国際司法裁判所へ申し出れば良いだけの話。直ぐに日本の正当性が認められると思う。日本の領有権手続きには何の問題もないからだ。 少々過激かもしれないが、尖閣には「避難港」を初めとする必要な施設を早急に作るべきだと私は思う。日本人はかつてあの島で、鰹節作りをやっていた。一方、中国はあの島を自国の領土としたことは一度もない。日本は何を恐れているのだろう。そして中国はなぜ暴徒を野放しにするのだろう。あの島に住む人はいない。従ってあの島に「マラソン」は存在しない。私の「行きたい度数」は0%だ。<続く>≪注≫問題が問題だけに、コメントには十分ご注意ください。某国のハッカーが監視してるかも知れませんので。(笑)
2012.09.14
コメント(8)
全106件 (106件中 101-106件目)