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~沖縄本島単独1周ランのスタート~ <沖縄 糸満市摩文仁平和祈念公園ロータリー> 平成20年7月某日。当時64歳だった私は、摩文仁の平和祈念公園に立っていた。いよいよ沖縄本島単独1周ランの始まりだ。この日、那覇空港から国際通りの宿に向かい、ランニング姿に着替えて、沖縄の走友の車で摩文仁まで送ってもらった。着いたその日のうちに走り始めるのは、日数を最短とするため。「7月の沖縄を走るのは自殺行為」と警告したのは彼だが、私は案外自信があった。 ひめゆりの塔 摩文仁公園を記念すべきスタート地として選んだのは「NAHAマラソン」の縁。ここが中間地点で馴染みがあった。それにトイレや水飲み場も知っていて、安心感があったのだ。沖縄本島の最南端から北へと向かい、今日は国際通りのホテルまで走る。距離は22km程度か。このコースは何度も走っていて、馴染みがある。走り出してすぐ、NAHAの24km地点「ひめゆりの塔」前を通過。 国道はやがて下り坂になり、左手遠方に名城ビーチが見えて来る。ここらは27km地点だったか。暑さは感じるが案外順調だ。転勤で内地へ戻って来てから、私は距離の長いウルトラマラソンを始めた。そのために暑い夏でもずっと練習していて、多少の自信はあった。沖縄でもまあ、何とかなるだろうと。 糸満ロータリー 糸満ロータリーも懐かしい場所。ここはNAHAの34km地点。近所には倉庫よりも大きな「門中墓」や、聖地白銀堂がある。糸満は漁師の街で、かつて甲子園を沸かせた「沖縄水産高校」もある。また「南部トリム」のスタート・ゴール地点で、かつては阪急ブレーブスのキャンプ地でもあった。怪我でNAHAを欠場した際、同じ走友会のK山長老をここで応援したのも懐かしい思い出だ。 <奥武山公園 左のトラックがNAHAマラソンのスタート・ゴール地> NAHAの第5回大会。つまり私の記念すべき初フルマラソンは、37km地点で激烈な痙攣を引き起こし、10分ほど倒れていた。それでもスポーツドリンクをもらって復活し、何とかゴールした苦い思い出。結局走り方を知らなかったのだ。空港への新コースではなく、昔の旧コースへ向かった。懐かしかったが、体調に異常を感じて休憩。沖縄へ来ていきなり走り始め、脱水症状になったのだろう。 夜の国際通り 何とか走ってホテルへ戻った。7時過ぎでもまだ明るく、気温は30度も。初日は22kmを走れたが、翌日は名護まで50kmほどある。それでも賽は投げられた。今更後戻りは出来ない。ホテルでシャワーを浴び、馴染みの居酒屋で、久しぶりに沖縄料理を堪能した私だった。<続く>
2019.01.31
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~別れと再会~ 私たちの場合、通常転勤の周期は2年か3年だ。暑さが厳しい沖縄では2年で交代することも多い。だが私は長男が高3だったこともあり、沖縄へ留まった。長女は内地の大学に合格し、暑さに参った前妻は娘と一緒の地で暮らすという。中2の次男の進学問題もあった。のんびりした沖縄でもう1年過ごしたら、内地のレベルに追いつけなくなるとの意見。こうして最後の1年は長男と2人暮らしになった。 食べ盛りの息子の食事には神経を使った。そこで3食ごとのメニューを作った。きっとそれが栄養過剰の原因になったのだろう。息子はかなりふっくらして来た。食事はまあまあ何とかなったが、裁縫がダメ。服やズボンを破って帰宅するとどうしようもなく、新規にあつらえるしかなかった。その心労で顎が開かなくなる顎関節症になり、糖分の摂り過ぎで糖尿病一歩手前になったのだ。 田港の御嶽 3年目。私はバイクで島内を駆け回った。後に世界遺産となったグスクや御嶽を始め、行きたいと思った場所には迷わず出かけた。新聞社がサービスでくれた県内各市町村ごとの地図帳が、その良き道案内になった。だから有名無名のグスクは30か所は訪ねたはず。中には息子の担任の社会科の教師が探しあぐねた古城跡も1発で探し当てた。伊是名島など離島の歴史的な個所もハブの恐怖と戦いながら訪れた。 やんばるの森 あれは私が沖縄を離れて10年以上もした時だった。かつての職場で、沖縄本島一周駅伝を実施したと言うのだ。「いや~、それなら是非自分も呼んでほしかったなあ。そして一緒に走りたかったなあ」と言うのが偽らざる心境。ある時その思いが強くなり、とうとう「自分1人で沖縄本島をグルリ1周走って見よう」との冒険心が脳裏を過ったのだ。あれはひょっとして「悪魔のささやき」だったのか。 無謀なことは十分承知の上。きっと多大なる危険も伴うことだろう。それでも走りたい。当時は第2の人生でパートの肉体労働者で、休めるのは土日を入れて3日間程度。なので1度に一周は無理だが、数年間の長期計画でなら大丈夫かも。ただ自分の体調が心配。じっくりとプランを練り上げた積りだったのだが、第1回に選んだのが7月。沖縄の走友には自殺行為と言われてしまった。でも私は行くよ。<続く>
2019.01.30
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~琉球王国の栄光と挫折~ <琉球王朝の家紋 左三つ巴> 沖縄本島の北部は「北山」と呼ばれ、樊安地(はんあんち=地名の羽地を中国式にしたのだろう)が支配。南部は南山と呼ばれ他魯毎(たろみ)が支配。これを破って統一したのが中山の尚家。それまでは各豪族が勝手に中国に使者を送っていたのを統轄。尚円から始まる第二琉球王朝は首里に王府を移し、奄美群島から八重山地方までを傘下に収め、中国との柵封体制と貿易により、巨大な富を得ることになる。 島津家家紋 その富に目を付けたのが島津藩。仙台藩領に漂着した琉球王国の島民を引き取って琉球まで送った。ところが琉球王から何のお礼もなかったことに憤慨し、家康に討伐を願い出た。実は室町時代にも琉球の富に目がくらんだ豪族が将軍に討伐を願い出たのだが、実現はしなかった。琉球へ侵攻した島津藩は、たった3日で首里王府を降伏せしめたと言う。何せ琉球にはさしたる兵器はなかったのだ。そしてかつて琉球に奪われた奄美の8島もこの時に奪い返した。 これが琉球王朝時代の最大貿易範囲。北は日本、朝鮮、中国、現在のフィリピン、ベトナム、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなどだからその広さが分かるだろう。沖縄にさしたる貿易品はなく、せいぜい螺鈿と硫黄。螺鈿は貝殻だし、硫黄は奄美の中に琉球の飛び地としてある「硫黄鳥島」から採れた。火薬の材料であり、火山のない中国にはとても貴重な資源だった。 ただ、琉球に貿易船を建造する技術はない。遠洋航海が可能な「竜骨」を備えた構造船は、中国に依頼し造ってもらった。通訳も中国人。各地に華僑がおり、外国語に通じていたためだ。柵封下の国々へ、中国は貢物の数倍の品を与え、琉球はそれを持って外国へ出かけ、別なものと取り換えた。日本からは刀剣や蒔絵など、南方の島々からは貴重な香料や香木など。つまりバーター取引で琉球は栄えたのだ。 琉球は中国にとって好都合な国。大切に敬ってくれるからだ。それで琉球を「守礼の邦」と呼んだ。これが「守礼門」の謂れ。だが薩摩にとっても琉球は好都合。琉球の貿易は薩摩の収益につながったからだ。琉球ではサトウキビを増産させ、税として薩摩に収めさせたためさらに収益は増した。明治維新での薩摩の活躍は、一面で琉球の犠牲のもとに成り立ったとも言える。 幕末期、ペリー提督の率いる米国艦隊が琉球に立ち寄った。琉球を奪う意向もあったのだろうが、まず日本へ開国を迫りに向かった。この時琉球は水と燃料を無料で提供したため、船はそのまま立ち去った。上陸した艦隊の観察によれば、琉球の士(さむれー)はとても無気力で、ただ煙草をくゆらすだけだった由。もし日本が開国しなかったら、琉球は米国に奪われていたはず。まあ歴史に「もし」はないのだが。 危機感が乏しかった琉球は、江戸初期に薩摩の支配下となり、明治期には一時期琉球藩となった。その琉球人が台湾に漂着して蛮族に殺害されると、明治政府は清国に抗議して日清戦争の端緒となり、賠償として台湾を割譲。「琉球処分」の際に清に助けを求めた琉球人は、よほど時勢を見る力がなかったのだろう。維新前夜、日本では血で血を洗う大変動があったのだが、沖縄で死んだ者は数人だ。 東京帝国大学で農学を学んだ英才謝花昇(じゃはなのぼる)は、故郷沖縄県の技官として働き、様々な改革案を提案する。だが、彼の意見に耳を傾ける者はなかった。初代の奈良原県令(現在の県知事)は旧薩摩藩士で、鹿児島の豪商に沖縄開発の権限を許すなどの悪政。税も全国で一番厳しかった。東北出身の第3代上杉県令は沖縄を憐れみ善政を行ったが短期で転任。絶望した謝花は神戸駅で狂死した由。 那覇 孔子廟 かつては広くアジアの国々と交易し繁栄した琉球王国。だが国際認識に欠け、かつ学問を怠れば衰退は目に見えている。今も島嶼県の特殊性に慣れ染まり、特定の情報を鵜呑みにし、ただ「基地反対」を叫んで国から膨大な予算をせしめる沖縄。かつての宗主国である中国を未だに信奉する県民もいるのだが、そろそろ現実に目覚めるべきと思うのは、果たして筆者だけだろうか。<続く>
2019.01.28
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~言葉と名前~ 那覇空港に降り立つと、カトレアの花と「めんそーれ」の言葉が旅人を出迎えてくれる。「めんそーれ」。聞きなれない響きだが、私はすぐに古語の「参り候え」(まいりそうらえ)から来たのではないかと感じた。少し異なるが、おおよそは歓迎の意味。この日から私はうちなーぐち(沖縄方言)と向かい合うことになった。そしてさまざまの不思議な名前とも。 耳慣れない言葉と名前だが、そこに何らかの法則があることも分かって来た。「いなぐ」これは女の意味だが、東北では「おなご」。「うむ」は芋のことで、「たーうむ」は「田で栽培した粘り気のある芋」のこと。万葉の時代、芋を「うも」と呼んだのも後で知った。「うも」と「うむ」は酷似している。ああ沖縄の方言には、日本の古い言葉が残っているんだなあと感慨深かった。 現代日本語は5母音だが、かつては「ゐ」(wi)や「を」(wo)のような母音もあった。また「ふぁ」のような発音もあった由。青は「あお」ではなく「あを」だったのだ。ところが沖縄方言の母音はAIUの3つ。だから御嶽(おんたけ、おたけ)が沖縄では「うたき」。O(お)はU(う)に、E(え)はI(い)に変化したわけだ。その原則が分かれば、理解は早い。 不思議な変化はまだまだある。N音とM音の転置だ。例えば地名の新原は「みーばる」と読む。「にい」が「みー」に変化した訳。原を「ばる」と読むのは九州と共通。沖縄本島南部にコマカ島と言うのがあるが、地元では「ふまか」。khoのkが欠落しhoがfuに変化した訳だ。玉那覇(たまなは)と言う地名・人名を方言では「たんなふぁ」とfa音が残り、離れが「ぱなり」とp音まである。 瑞慶覧(ずけらん)や座津武(ざっつん)のように、先頭が濁音の地名、人名が結構多いのも沖縄の特徴だ。おまけに最後が「ん」となるのは内地では少ないと思う。だが鹿児島には知覧(ちらん)のように「ん」で終わる地名がある。鹿児島の伊集院に対して、沖縄は伊集(いじゅ)とかなり良く似ている。人の交流があったことの証とも思える。実は琉球と薩摩との因縁は深い。 薩摩藩が琉球王国を征服後、内地と同じ沖縄の名前は字を変えさせた。例えば中間は仲間、石峰は石嶺、松村は松茂良(まつもら)、中山は仲井真(なかいま)、中曽根は仲宗根と言うようにだ。はっきり一目で琉球人と分かるように、識別したのだ。一説によれば、内地と同じ姓が沖縄にあるのは、倭寇が原因とも言われる。宮古島の仲宗根豊見親の祖先は、元々目黒森姓。倭寇だったのだろうか。 沖縄の姓のほとんどは地名から来ていると言って良い。琉球王朝時代、按司(あじ=地域の支配者)は沖縄本島の間切(まぎり=現在の市町村)を転任した。そしてその間切名を姓とする習わしがあった。ところが任地が変わると姓までも変わる。だから血族で姓が異なるのは普通。その代わり士(さむれー=侍)や貴族の男子は、共通の漢字を名乗頭に用いる。貴族の場合は「朝」。屋良朝苗がその例だ。 貧しかったかつての沖縄では、大勢の県民が国の内外へ移民した。南米やハワイなどもその行き先。戦後ジャイアンツにいた与那嶺選手はハワイ出身で、うちなんちゅ2世。内地で差別された沖縄人の苦労話も聞く。そのため島袋から島へ改姓し、金城を「かねしろ」と読ませるなどしたとも。私は今でも沖縄の地名や人名には敏感で、そのルーツを考えてみる癖がある。<続く> 昨日はツアーで蔵王の樹氷を見に行ってました。最近PCの入力がおかしくなり、小さな文字しか出なくなりました。皆さんからはどう見えていますか?もし見えにくかったらお許しを。(^_-)-☆
2019.01.27
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~人はどこから来たのか その3 伝説編~ 『遠野物語』で有名な民俗学者、柳田國男の学説に「海上の道」がある。日本人に欠かせない米や稲作文化は海上の道すなわち琉球列島の島々を経由して伝わったとする考え方だ。台湾から九州まで点々と続く南西諸島を通るとする説は、当時は説得力があった。だが柳田の専門は伝説や風俗で、考古学的な発想は乏しい。沖縄の縄文土器から見ても、九州から沖縄へ向かう人や文化があったのは確実だ。 アマミキヨの墓 さて琉球神話によれば、島へ最初に来た神はアマミキヨとシネリキヨの夫婦神とされる。その名前からも彼らが海人(あま)族だったと推定出来よう。奄美の「あま」にも通じ、海の民だったことが分かる。2人の墓は沖縄本島東部の浜比嘉島にある。また穀物の種が久高島の浜辺に漂着したとの伝説や、夫婦神が本島南部から上陸したとされる。つまり祖先は北から南へと向かったわけだ。 沖縄には源平どちらの伝説もある。左は源為朝。島流しにあった八丈島を抜け出し、琉球へ来て舜天王の先祖となった話だが、いささか荒唐無稽。一方の平家は敗れて南島へ逃れたと言ういわゆる「落人伝説」。先祖が貴人の末裔とする思想は日本の各地にある。古代の文献には、阿児奈波(あじなわ=沖縄本島)、久美(くみ=久米島)、志覚(しかく=石垣島)の名が残る。きっと現地人の発音がそのように聞こえたのだろう。 渡海船 写真は和歌山県補陀落山寺の渡海船の模型。海の彼方にある極楽を目指す僧が、1か月分の食料だけ持参してこの船に乗る。扉は釘付けされ、波に流されるままに漂う。この補陀落信仰の僧が古代琉球に仏教と漢字を伝えたとされる。確か13世紀以前と記憶しているが、それほど沖縄の「歴史時代」は新しく、かつ謎に満ちている。琉球への文化伝来の一端が窺える話だ。 「倭寇」も沖縄と密接に関わっている。本拠地は九州にあり、中国沿岸を目的地に定めた後期は、沖縄本島東海岸や宮古島に「基地」を設けたとされ、両地区に内地と共通する地名や人名が多いのはそのせいと言われる。中国は当時沖縄を「大琉球」、台湾を「小琉球」と呼んだ。後年中国の柵封使をもてなした「識名園」は海が見えない場所で、琉球の広さを悟られないための策。中国にとっては「大琉球」だったのだろう。 尚円王肖像 第二琉球王朝初代王尚円(しょうえん)は本島の北に位置する伊是名島出身で、庶民の出。これが島民から追放されて本島に渡り、やがて王に仕える。その遺児が幼かったため、臣民に推されて王位に就いたとされるが実際はクーデターだろう。本名は金丸(かなまる)で、日本の名そのもの。一説によれば倭寇の末裔との説もあるが、果たして時代が合致するかまでは確認していない。 辺戸岬 沖縄本島最北端の辺戸岬の海中洞窟から、縄文時代の住居跡と遺物が見つかった。当時琉球大学理学部の木村教授の調査隊が潜水して調査したのだ。実はこの岬こそ、琉球神話の夫婦神が最初に上陸した地点なのだ。「縄文海進」で洞窟は海中に没したが、なかなか示唆に富んだ事実。夫婦神はここから島の東海岸にそって南へ向かった。神話や伝説が幾ばくかの真実を秘めているとは言えないだろうか。<続く>
2019.01.26
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~人はどこから来たのか その2~ 石垣島の「白保竿根田原洞穴遺跡」は白保海岸から800m西側の丘陵地帯にあり、標高は30~40m。当初新石垣空港は白保海岸を埋め立てて建設する計画だったが、反対のためこの地に決定。それが日本考古学界の大発見につながったのだから皮肉なもの。反対派は再び反対した。洞穴は滑走路の下にもつながっていて、危険と言うのがその理由。わが国には何にでも反対する「進歩人」がいるのだ。 復元された顔 発掘された人骨の新しいものは1万年前。古いものは2万7千年前で、全身骨格がそろった人骨では国内最古のものと認定された。身長は165cm以上あり、港川人よりかなり背が高い。頭骨から復元されたのが上の写真。解析の結果、DNAは南方由来のものと判明。琉球王にもその傾向が認められ、港川人同様、石垣島の人骨にも南方の血が残されていた。だが、それが沖縄人の先祖とはならないのが不思議。 南から来たとすれば海を渡るしかない。考えられるのは丸木舟。しかも何組かの男女を含む家族でやって来たのだろう。台湾から葦船で与那国島へ渡る実験をしたが、黒潮に流されてたどり着けなかった。また竹の筏でも漂着出来なかった由。それで今度は丸木舟で渡ることに。多分うまく渡れるはず。なぜなら丸木舟の実績があるからだ。ただし縄文時代の話だが。 これは鹿児島県で発掘された「丸ノミ石斧」。先端部分が丸くえぐれているのは丸木舟を作るため。ところがほとんど同様のものがインドネシアから発掘されている。かつてインドネシアからフィリピンにまたがる亜大陸「スンダランド」は地殻変動で島になった。人々は移動手段として丸木舟を作り、フィリピン、台湾、沖縄と渡ったというのが最近の仮説。台湾から与那国島までの実験は、それを裏付けるためのものなのだ。 木を切り倒した石斧がこれ。木を切って森を切り開いた地域もあったろう。採集文化と考えられて来た縄文時代にも、実は栽培文化が根付いていたことが分かって来た。三内丸山には広大な栗林があり、何種類かの作物も育てていた。鹿児島の上野原遺跡は縄文時代最大の集落が形成されていた。当然栽培もされていただろう。稲作が縄文時代にあったことが分かっている。ただし水稲ではなく、陸稲なのだが。 その上野原遺跡が消えた原因は、「鬼界カルデラ」の大爆発。灰は沖縄本島までも降り、本島北部の土は火山灰のせいで赤茶色。酸性土壌のためパイナップルには適していると言う。阿蘇カルデラ、姶良カルデラ、そしてこの鬼界カルデラの大爆発で、西日本の縄文文化は長期間途絶え、沖縄でも空白の時期があった由。そして阿蘇山、桜島、諏訪之瀬島の各火山は現在も活動中だ。 宮古島の縄文土器 沖縄では「縄文時代」ではなく、「貝塚時代」と呼ばれる。採集文化が内地よりかなり遅くまで続いた。ただし縄文土器が沖縄でも発掘され、最西端は宮古島。その先の八重山からは見つかっていない。この時代の沖縄人は縄文人と少し残っていた南方系の混血だと思う。でないと琉球王のDNAに南方の痕跡が残っていた理由が分からない。そして縄文人は、北から丸木舟に乗って来たはずだ。<続く>
2019.01.25
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~人はどこから来たのか その1~ 琉球王の肖像 沖縄の話が今日で10回目を迎えた。最初は思い出話から始まったのだが、だんだん深みにはまり、ずぶの素人のくせに専門的なことを書くのをお許しあれ。私が沖縄を去って15年もした頃、第一琉球王朝の王の遺骨のDNAからインドネシアの特徴が見つかったとのニュースを聞いて驚いた。 墓は仲井真グスクのはずで、私も勤務当時に訪ねたことがあった。役場(当時は玉城村。現在は合併して南城市)の人に場所を尋ねたのだが、少し怪しんでいた。実は米国人が勝手に墓を暴き、鉄製の武具などを掘り出した「事件」があったようだ。グスク(城)とは名ばかりで、静かな谷あいの風葬墓だった。 <山下洞窟:那覇市> <港川人> 在任中、那覇市の山下洞窟を訪ねたことがある。人骨が発掘され、3万2千年前の炭化物が発見された。奥武山公園の傍の普通の洞穴だった。具志頭村(現在は八重瀬町)の港川フィッシャー遺跡からは数体の人骨が発掘されている。男性は153~155cm、女性は144cmと小柄。当時は縄文人の祖先と考えられていたが、その後の研究でニューギニアやオーストラリアのアボリジニと近いことが判明。栄養状態が悪く、骨には栄養失調の痕跡が見られた由。遺跡には入れず、その前を通過しただけだった。 日本人はどこから来たか。その謎を解くため、様々な分野の研究が進んでいる。縄文人と弥生人が混血して日本人の祖先になった話は定説だ。そして東北や九州に縄文人の特色が色濃く残り、瀬戸内や関西などは弥生人の特色が残るのは、周辺部での混血度合いが少なかったためと考えられて来た。その後のDNA解析により、縄文人、アイヌ人、沖縄人が極めて近いDNAを有することや先の定説も確認された。 ミトコンドリアDNAの解析が進むと、新たな事実が分かった。日本人は周囲の民族とは異なり、かなり古い時代のアジア人を祖先に持つことが判明。他にその特徴を持つのはチベット族と、インド洋の孤島民のみ。それらは奥深い高原や大陸から離れた島で、他民族との交流が乏しかったためと推定。また日本人は、滅亡したネアンデルタール人のDNAを一番多く引き継いだ民族であることも判明している。 <石垣島 白保竿根田原洞穴遺跡発掘現場と現地説明会> さて2007年、新しい石垣空港建設現場から大変なものが発見された。旧石器時代から16世紀までの複合遺跡だ。そして驚くことに、合計で20体以上もの人骨も。一番古いものは2万7千年前のもの。こうして沖縄から古い人骨が見つかるのは、島全体がアルカリ性の石灰岩だから。逆に日本列島は酸性度が高い火山灰で覆われているため人骨が解け、残りにくいのだ。<続く>
2019.01.24
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~住まいと暮らし~ <重要文化財 中村家住宅 沖縄本島北中城村> 平成元年に初めて中村家住宅を訪れた時には驚いた。よくもこれだけ立派な民家が残っていたものだと。なぜならここらは大戦の戦火で、すべてが焼けつくされた地区。堂々たる構えで石の「ひんぷん」(目隠し)も初めて見た。母屋は表の一番座から三番座まで。二番座が確か仏間だったはず。その陰に裏の一番から三番まで3部屋。寝室や物を置く場所だ。東の離れには太陽信仰の場所があった。 母屋の軒先は長く突き出ている。「あまはじ」と呼ばれ、強い日差しを避ける工夫。屋根は赤瓦を漆喰で固めてある。もちろん強い風雨から守るためだ。敷地の一角には高床式の倉庫や家畜小屋もあり、「フール」があった。これはトイレで、その下の石囲いの中で豚を飼育している。当時は大家族で大量の芋が食料だから、きわめて合理的な考え。それも沖縄独自の立派な文化であり、恥じることはない。 <重要文化財 上江洲(うえづ)家住宅 久米島> 久米島の上江洲家住宅を訪ねたのは、今から4年前の70歳の時。最後のレース「久米島マラソン」(フル)出場の際だ。ここは具志川城主の末裔と伝わる旧家で、王朝時代は島の頭職を務めていた。中村家住宅同様の造りで、倉庫や家畜小屋とフールの形骸が残っていた。久米島最高の祝女(のろ)である君南風(きみはえ=地元ではちんべー)の拝所も近く、王朝時代の暮らしぶりが偲ばれた。 <重要文化財 宮良殿内(どんち) 石垣島> 石垣島の宮良殿内を訪ねたのは、大阪勤務当時の平成8年。宮良家は琉球王朝時代、八重山の頭職(かしらしょく=取締り)を首里の王府から命じられた家柄。当家の歴史史料の一部は、琉球大学附属図書館に保存されている。宮良家の「名乗り頭」は「當」。「當壮」などのように、先祖代々名前の先頭に「當」の字を充てた。貴族の名乗り頭は「朝」。日本の「朝臣」(あそん)から来たとの説がある。 <国の有形文化財 竹富島の赤瓦集落> 八重山地方の竹富島には、4年ほど前に観光で行った。赤瓦の集落で有名だ。人口およそ300人の小さな島だが、ここで驚くべきものを発見。写真を撮った山の名が「赤山」で、「われわれの先祖は平氏」と書かれた案内板があった。赤は平家の旗の色で、先祖を忘れぬよう、物見の小山を「赤山」と名付けた由。そう言えば沖縄には「南走平氏」の伝説が残されている。その一方、源為朝伝説も伝わる。 沖縄の習俗の一つが「石敢當」(いしがんどー)とシーサー。前者は三差路には必ず建てられると言って良い石の標識。これは中国の勇者の名を石に刻み、魔物を避けたとの伝え。遠くは九州にもあると聞いた。右のシーサーは本来「獅子」で、沖縄では守り神のような存在。屋根の上にもあり、魔物の侵入を防ぐ働き者だ。第二琉球王朝の王墓「玉陵」の屋根でも、にらみを利かせて鎮座している。<続く>
2019.01.23
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~失われたものと残ったもの~ 上陸する米軍 第二次世界大戦では、国内で唯一沖縄で地上戦があった。犠牲者は軍人と民間人併せて30万人以上。沖縄本島周辺はアメリカの軍艦で溢れ、連日の艦砲射撃で地形までが変わった。今でも工事中に不発弾が発見され、その都度住民は退避し爆破処理が行われる。艦砲射撃の嵐の後上陸した米軍は、日本軍と激烈な地上戦を繰り広げる。 白旗の少女 墓の中や洞窟に隠れた県民を、米軍は手りゅう弾や火炎放射器で攻撃。人々は追い詰められ、南部へと逃げた。洞窟は軍の最後の砦であり、捕まれば殺されると教えられた住民は万歳しながら崖から飛び降りた。「ひめゆり部隊」の悲劇も名高い。写真は「白旗を掲げる少女」。たった1人洞窟を抜け出し、米兵に助けられた話は有名。降参した人を米軍が殺すことはなかったのだ。 戦後の那覇 那覇市内に戦後「奇跡の1マイル」と呼ばれた箇所がある。現在の「国際通り」がそうだ。焼け跡の残骸を片付け、凄まじい勢いで復興させた住民。1マイル=1.6kmは国際通りの長さ。そこに次々とバラックの店を建て、ヤミ商売を始めたのだ。当時は米軍の統治下にあり、交通は右側通行で、通貨はドルしか使えなかった。見事に整備された街並みは、今国内外の観光客で賑わっている。 沖縄の古写真 戦後の沖縄で「1フィート運動」が起きた。戦争で失った沖縄の風景を蘇らせるため、県民の寄付でフィルムを少しずつアメリカから買い戻す運動だった。わが職場では沖縄関係出版物の収集のみならず、戦争で失われた資料の探索と保存も任務。私が在任中に実行したのは、米国国立公文書館の沖縄関係資料の一部を複製整備したことなどで、国の機関の協力も大きかった。 ペリーのスケッチ 仲宗根政善氏(琉球大学名誉教授)が精力的に収集した、琉球方言(中でも今帰仁地方の)関係資料も購入した。さて、ある時中国人の調査員が訪れた。「尖閣諸島の古地図」の有無を確認するためだ。だが私は即座に「ない」と断った。尖閣諸島を含む台湾の教科書が発見されたのはそのずっと後。国境線の外側に琉球所属と書かれた尖閣が載っていた由。その台湾を、今中国は虎視眈々と狙っている。 戦前の首里城 首里城の古い写真を探しに来られた方もいた。復元工事のため、正殿の柱の色を知りたい由。あるのはあったが、カラーではない。結局戦前に撮影した鎌倉芳太郎氏が残した資料が役に立った由。氏は内地の人で染色と沖縄文化の研究者。沖縄女子師範の教師でもあった。彼が撮影した写真や、詳細な調査結果が復元に役立った。「うちなんちゅ」だけで、あの城は復元出来なかったのだ。 復元後の正殿 柱の色は赤と黒の2説あった。だが元々赤く塗られた漆が、経年変化で黒ずんだのが真相と判明。私が沖縄を去った翌年、青空の下に美しい正殿が現れた。日本の城とは趣が異なる王宮。ただしその後アメリカで発見されたカラー写真によって、屋根瓦が赤でなかったことが判明した由。なお世界遺産の指定はこの復元後の建物ではなく,あくまでも「首里城跡地」なのである。<続く>
2019.01.22
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~暮らしと祈り その2~ 普天間宮奥宮 沖縄の聖地の一つがガマ。洞窟のことだ。隆起石灰岩で覆われた沖縄には、こんな鍾乳洞が多い。家を建てる技術がなかった時代、祖先たちはこの洞窟で暮らした。洞窟は風葬の適地でもあった。沖縄では「貝塚時代」が長く続き、近世になってようやく神社が建てられる。奈良三輪山の山頂の何もない磐座(いわくら)。あれが原始神道そのもの。糸満市の白銀堂や那覇市の波の上宮にも洞窟がある。 普天間宮奥宮 琉球王朝への仏教伝来は鎌倉時代あたりと言われる。補陀落信仰の舟が熊野や足摺岬から琉球に漂着し、僧が漢字と仏教を伝えたと。中国からではないのだ。ただし仏教は琉球王の繁栄を祈るためで、しかも許されたのは真言宗と臨済宗。それは支配者の薩摩藩がそうだったためで、琉球の神社建築は真言宗の寺にのみ付随していた由。だから庶民の信仰は依然として御嶽などの民間宗教だったのだ。 百按司墓 百按司と書いて「むむじゃな」と読む。本島北部今帰仁村(なきじんそん)の運天にある風葬墓だ。一説によれば今帰仁城主や、その縁者が葬られたと伝わる。さて日本神話にも風葬の気配が漂う。イザナギが亡き妻イザナミを訪ねて黄泉の国に行った際、顔にウジ虫が湧いた姿で現れた前妻。自然に遺体が腐る風葬は、湿度が高い日本には適していたはず。まして高温多湿の沖縄ならさらに合理的なのだ。 かつて東京帝国大学がここの遺骨を持ち出した。研究のためだが、未だに理学部人類学教室にあると聞く。同様にアイヌの墓から人骨を掘り出した北海道大学は、その後遺骨を返却した。こちらは比較的に新しく、末裔がはっきりしていたのだろう。 <宮古島 仲宗根豊見親の墓> 聖地を訪ねるうち、幾つかの風葬墓に出会った。中が丸見えで累積する白骨。県道のすぐ傍だったのにはビックリ。戦前までは風葬の遺骨を数年後に洗う風習があった。それに近い風習が鹿児島の与論島に残っている。岡本太郎に風葬墓を案内した久高島の島民が狂死したかつての事件。風葬地は島外の人間には秘密で禁忌の場所。また貧しい墓制と考える島の人たちの屈折した思いがあったのだろう。 <中城城のうふがー(大井戸:左)と西原町の拝所(右)> 民間信仰として、火の神(ひぬかん)や魂を呼び戻す「ゆた」が存在する。ゆたは恐山の「いたこ」と同じ源だろう。発音も近い。「ゆた」はかなりインチキそうだが、沖縄では今でも魂の存在を信じる老人が多い。私は恐れ山のイタコさんから修行の話を聞いたこともある。「土帝君」や「孔子廟」は中国との柵封体制成立後大陸から伝わったのだろう。 ところ変われば品変わる。エイサー(左)やミルク(右)が仏教から来たものと聞いたら驚くかも知れない。勇壮なエイサーは沖縄の「盆踊り」に相当し、ミルク神は弥勒信仰が変化したもので、あの世から人々に幸いをもたらす存在だ。祖先を大切にし、世果報(ゆがふう=豊作)を祈る気持ちは、今なおうちなんちゅ(沖縄人)の切なる願いで、様々な伝統行事として伝えられている。<続く>
2019.01.21
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~暮らしと祈り その1~ 沖縄に来て驚いたことはたくさんあるが、宗教もそのうちの一つ。住まいの身近にも、それを窺わせるものがあった。たとえば「カー」(泉)だったり、フィージャー(樋川)だったり、御嶽(うたき)だったり、拝所(うがんじゅ)だった。ガジュマルの大木や大きな岩や、洞穴などが信仰の対象であることが分かった。まさに原始神道そのもの。内地では失われたものが、沖縄には色濃く残っていると直感した。 浦添ようどれ ある時、浦添城跡を訪ねてビックリ。ここは第二琉球王朝初期の王都で、崖の中腹の「ようどれ」は王家の風葬墓だ。この山頂から白衣を着た老婆が海に向かって手を合わせていた。沖縄では昔から海の彼方に「ニライカナイ」と言う極楽があると信じられて来た。まさにその信仰を見た思いだった。それからの私はバイクに乗り、地図を片手に沖縄の聖地巡りを始めた。怖いもの見たさとも言える。 勝連城 数年前のこと「琉球王国のグスク及び関連遺産」が世界遺産に登録された。グスク(城)は、首里城、中城城、座喜味城、勝連城、今帰仁城の5つ。最後の2つは地方の豪族が建てた城だが、そのほとんどが大戦で破壊され、その後再建されたもの。首里城内の園比屋武(そのびやん)御嶽と斎場(せいふぁ)御嶽は共に王朝の聖地。玉陵(たまうどん)は第二琉球王朝の王墓。識名園は王の別荘で中国の柵封使をもてなした。 今帰仁城 私はすべてを訪ねているが、識名園だけは1度しか行っていない。さて沖縄のグスクは内地の城と同一ではない。民俗学者の仲松弥秋(元琉球大学教授)によれば、城の他に、砦、墓、御嶽、古い集落跡などのケースがある由。そして大きな城には必ず御嶽と井戸があり、付近に風葬墓があるケースが多い。王は神と共に戦っていたのだ。私は40近くの城や御嶽などの聖地を訪ね、とても貴重な体験をした。 斎場御嶽 御嶽(うたき)は名前が示すように、本来は山上の聖地だったのだろう。高い山の上に神が降臨すると言うのは、北方民族共通の信仰だ。沖縄のちょっとした高地には大抵御嶽があり、拝所(うがんじゅ)として香炉が置かれるケースもある。さて知念半島の先端部にある斎場御嶽(上)は琉球王朝随一の聖地で、琉球神話起源の久高島をこの岩の先から遥拝していた。薩摩藩に渡航を禁じられていたためだ。 左上は久高島の最大の聖地であるフボー御嶽。フボーとはクバが変化したもので、かつて12年に1度の神行事「イザイホー」が行われた。右は神事を司る祝女(のろ)。祝詞(のりと)と語源は同一だろう。琉球王朝時代は王の血族である聞得大君(きこえおおぎみ)がノロの頂点として、王朝の神事を司っていた。古代の卑弥呼と男弟との関係、天皇と斎宮の関係にあり、勾玉を首にかけていた。<続く>
2019.01.20
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~やんばるとランニングその1~ 胴上げされる私 私は「死」の代わりに「詩」を手にした。3年間の勤務の中で45編もの詩を書き、2冊の小さな詩集を自費出版した。私に命をもたらしたもう一つがランニング。職場の「走ろう会」の存在を知って、内地人加入者の第1号になった。仲間と一緒に練習し、レースに出た。北国生まれの人間には猛烈な暑さが堪えたが、職場の駅伝大会で優勝し胴上げをされたこともあった。47歳のわが雄姿。 瀬底大橋 北部でのレースは「海洋博トリム」が最初。距離は20kmで速さを争うのではなく、自己申告したタイムに一番近かった人が優勝するルール。もちろん腕時計は禁止だ。スタート地は「海洋博記念公園」で、橋の左上の本部半島にある。「美ら海水族館」が今は有名。そこからこの大橋を渡り、左の瀬底島で折り返す。2回出場したがタフで眺めの良いコースだった。 オーシッタイの森 「オーシッタイマラソン」と言うのにも2回出た。場所は名護市の北端で、平南川の最上流にある森の中がスタート地。ここは戦後入植した開拓地で20家族ほどが住む僻地。その住民達が企画したお祭りで、参加賞は手作りの味噌とか生卵だった。これは峠を2つ越え、西海岸の源河で折り返す非常にタフなコース。ジャングルの中の小径が今なお忘れられない。 劇走 勤務3年目の9月、職場から本島最北端の国頭村「奥」まで駅伝で走ることになった。「走ろう会」の発案だが危険防止のため1区間5kmで繋ぐのだ。私は名護市内の一部と最大の難所である辺戸岬の登り坂を志願。写真は国頭村宜名真集落の海沿い。結局そのままゴールまで走り続け、合計3区間15kmを走った。最後は体力の限界だったが、この経験がやがて役立つことになる。 奥の山荘 その夜は泡盛を痛飲し、宮古島の盆踊り「くいちゃー」を全員で乱舞。翌朝は山荘から辺戸岬まで14kmほどを走って往復した。私たちが泊った頃の山荘は木造の粗末な物だったが、ネット検索では瀟洒な建物がヒット。その後研修施設として新しく建て直したようだ。辺戸岬にはなぜか縁があり、その後3回この地を訪れることになる。 完走メダル 筑波で3度レースに出たがいずれも30km。初めてのフルマラソンが沖縄勤務時の「NAHAマラソン」。12月でも気温は26度。痙攣に苦しんだ初フルだった。転勤後も良く沖縄を走った。フルのNAHAが10回。「沖縄マラソン」が2回。「久米島マラソン」が1回。宮古島ワイドー」(100km)が1回。20kmの「海洋博」、「南部トリム」、「オーシッタイ」が各2回。旅行先の西表島でも1人で早朝ラン。なぜ私はこれほどまで、沖縄でのランに惹かれるのか不思議だ。<続く>
2019.01.19
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<やんばるとの出会い> <羽地内海=はねじないかい> 沖縄に赴任して3週間ほど経った時、Aさんが北部を案内してくれた。彼は部下と言っても10歳ほど年上で、かつ研修仲間。その若造が内地から来て自分の上司になったのだから、心穏やかではなかったはずだ。だがお嬢さんと車2台で、我が家の全員を招待してくれたのだ。何せ連日上司に痛めつけられていたものだから、久しぶりにのびやかな一日だった。初めて見る本島北部の美しい光景に心が癒された。 <茅打(かやうち)バンダ> この日案内されたのは、万座毛(まんざもう)、今帰仁城(なきじんぐすく)、茅打バンダ、辺戸岬など。今帰仁城は北山王朝の根拠地で、堅固な城だった。途中で羽地内海も見えた。その内海を見ながら1人で走ったのは、それから23年後だった。茅打バンダは冬の北風が強く、バンダ(崖)から投げたわらが、強風で戻って来ると言われる。国道がない時代は崖の中腹の細道を歩いていたのだ。 右が沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬で、琉球神話が伝わる聖地。「本土復帰闘争碑」もここに立っている。正面の山が黄金山。異様な山容だが、この頂上に安須森御嶽(あすもりうたき)がある。沖縄有数の聖地で、この後も何度か山の姿を眺め、沖縄を離れる際は天辺に登った。360度見渡せる絶景の地。いくつかの御嶽があり、沖縄の人々の信仰の深さが分かる聖地だった。 <やんばるの森> 職場に風樹館と言う名の資料館があった。小さな博物館とも言えようか。そこにはほぼ無給の研究助手がいた。名前はMさん。彼は週末になるとやんばるの森に入って動植物を調査している由。わざわざ本土から来て、寂しい山中で一人調査する若き研究者がいることに驚いた。ハブが怖くないのだろうか。無給に近い状態で、どうやって暮らしているのだろうか。別世界の人の行動に、不思議な思いがしたものだ。 <クンジャンサバクイ> その後やんばるを何度か走ることになるのだが、今は詳しくは触れない。さて、沖縄勤務3年目の年、首里公民館前で不思議な行列を見た。巨大な材木を引っ張る民衆。名前は「クンジャンサバクイ」。行列は間もなく始まる首里城再建事業を祝うものだった。その不思議な名前の意味を知ったのは、沖縄を去ってから24年したころ。本島最北端の国頭村辺士名集落付近を、1人で走っていた時だ。 <琉球王朝祭りの行列> 何気なく見た石碑に「クンジャンサバクイ」のことが書いてあった。クンジャンは国頭(くにがみ)が変化したもので、サバクイは捌荷(さばくに)と言う琉球王朝時代の職制。やんばるの森から伐り出した材木を運搬する役職のようだ。ここから那覇の港まで山原船(やんばるせん)で曳航し、首里城を建造した歴史があったのだ。事実は小説より奇なり。疑問が何十年か後に解明されるのもしばしばだ。<続く>
2019.01.18
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<異文化と異端視> 着任して直ぐに上司の部屋に呼び出された。最初から叱責だ。頷けるものもあるが、頷けないことも多い。それが感情を露わにし、顔面が痙攣するほどの怒りよう。こんな人は初めて。論理的に諭されるのならまだしも、連日烈火のごとく逆上する上司。誰にも相談出来ず、私は死を覚悟した。職場の橋の上から下の沼に飛び込もう。さほどの深さはないが、そこはハブの住処だと聞いた。 だが私は死なずに済んだ。私を救ったものの一つが詩を書くこと。きっと精神状態が極限まで追い込まれたことで、25年ぶりに私の詩心を蘇らせたのだろう。もう一つは走ること。職場で走る仲間を得たことだ。これもその後の生き方を左右する大きな要素になった。そして沖縄を知るため、猛烈な勢いで資料を読み漁った。沖縄の歴史、文化、地理、風土、政治、芸術、文学などあらゆる分野だ。 上司は大都会の機関で実績を上げ、自信を抱いていたのだろう。ところが沖縄は本土とは何もかもが違う。人情、言葉、考え方、文化、仕事の進め方などのすべてに亘って。それらの異質なものに出会って、相当まごついたのだと思う。これまで自分が通った道とはまるきり違って思い通りにはならない。そこで新入りの若い管理職を怒りの対象にしたのではないか。彼は沖縄の文化を見下していたが私は逆だった。 一方、うちなんちゅ(沖縄人)には深い絶望があった。華やかな琉球王朝の繁栄。それを破ったのは慶長19年(1609年)の薩摩藩の侵攻だ。沖縄本島とその周辺の島々を統一し、中国の柵封体制に入って日本、中国、東南アジアの国々と手広く交易して来た王国が、その時以来実質的に薩摩藩の支配下に置かれ、富を収奪され続けて来たのだから。その事実が中国に知れたら、事実上貿易は不可能だったろう。 明治4年(1871年)、本土では廃藩置県が断行されたが、逆に沖縄ではその翌年に「琉球藩」を置いて、日本政府の管理下にあることを世界に示した。沖縄県が置かれたのは明治27年(1894年)。この時以来元琉球王は東京住まいを強いられ、沖縄の日本化が急速に進む。これがいわゆる「琉球処分」だ。中には密出国して中国に助けを求めた旧士族もいたが、既に中国には沖縄を助ける力はなかった。 第二次世界大戦で大きな被害を被った沖縄は、戦後米軍の統治下に入る。これがいわゆる「琉球政府」で昭和47年(1972年)まで続く。昭和28年(1953年)奄美諸島の一部が日本復帰を果たすと、沖縄の人々の本土復帰への願いは一層強まった。昭和43年(1968年)、屋良朝苗氏が初代の公選行政主席として選出。氏はその後初代の沖縄県知事に就任。昭和47年(1972年)日本復帰。 <沖縄本島最北端の辺戸岬にある「本土復帰闘争碑」碑文> 考えて見れば、沖縄の歴史は「抑圧の歴史」とも言える。薩摩藩、日本政府、そして米軍政府、再び日本の支配下となった。私が沖縄に赴任した年は、復帰から既に27年経っていたが、本土との格差は大きかった。県民所得、離婚率、犯罪率、就職率など、沖縄は国内で最低レベルにあった。だから内地人に倒する敵意は強く、うちなー口(方言)でそっと不平を言う人もいたのだ。<続く>
2019.01.17
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<異国情緒> 平成元年4月1日。私は沖縄勤務を命じられた。3月には内示があったのだが、自分のことよりも子供の学校のことが気がかりだった。高校1年の長女は3月中に沖縄で編入試験を受け、中3の長男は赴任後直ぐに私立高校を受験した。本土なら期日的に無理だったが、奇跡的に受験を許されたのだ。教育上の苦労がこの後も続くが、私の管理職としての苦しみが始まったのもこの時だ。 亜熱帯の沖縄では、見るものすべてが初めて。本土では観葉植物のゴムの木が大木に育ち、幹から気根を垂らしている。ガジュマルは神秘そのもの。幹から空気を吸うための気根(きこん)が垂れ下がり、それが地面に着くと太い支柱根(しちゅうこん)に変化する。台風にも倒れないため、植物が身を護る工夫なのだ。樹高が20mにもなる「ひんぷんガジュマル」(名護市)を知ったのは、ずっと後だった。 職場の植栽用に植えてあったのがサンダンカ(左)。ハイビスカス(右)は沖縄ではとてもポピュラーで、庭や道端や墓地など、いたるところに植えられていた。 バナナやマンゴーなどが植えられた庭も見かける。沖縄に温室は不要だ。 パパイヤ(左)は宿舎の敷地内にもあった。沖縄では果物としてではなく野菜として食べるのが普通。まだ青いうちにもぎ取り、皮を剥き実を刻んで炒める。那覇市内でも、裏通りへ入れば案外見かける。宿舎の近所ではパパイヤも見たし、右上のグァバを植えたお宅もあった。沖縄ではバンシルーと呼ぶが、中国語の蕃爽麗(ばんそうれい)が変化したのだろう。グァバ茶になるようだ。 危険動物についても記しておこう。ハブは猛毒で、もしも噛まれたら30分以内に血清を打たないと死亡する。助かっても筋肉が変形することがあるみたい。夜行性だが、両耳横の赤外線を感じる器官で相手との距離を測り、自分の身長ほどジャンプする。職場でも1人噛まれた。朽木の下に隠れていたのだ。 右はアフリカマイマイ。食料として持ち込まれたのだが危険な寄生虫がおり、触っただけでも髄膜脳炎で死ぬ恐れがある。殻の直径は8cm程度だが、殻の長さは20cmにもなる大型のカタツムリで、どこででも見かける。一晩で50mも移動する不気味な動物だ。 生活に慣れて来るといろんな事物に出会う。これは「ふぃーじゃー」。漢字で書くと樋川。琉球石灰岩に沁み込んだ雨が、石の樋に湧き出す仕掛け。まだ水道がなかったころの生活用水で、飲み水が貴重だった沖縄では聖なる場所でもある。水が湧き出す場所は「かー」。川と同じ発音だが、実際は泉のこと。 これは亀甲墓と言われる風葬墓。琉球王朝時代、中国の福建省周辺の墓制が柵封制度を通じて伝わったもの。昔は住居の近くにあって、子孫を見守る存在でもあった。今でも結構そちこちで見かけるが、那覇の繁華街では整地されて消えた。墓はいろんな形があり、中には親戚一同が埋葬される、倉庫のように巨大な門中(むんちゅう)墓も。こんな異国の風景に驚きながらも、私の心は穏やかではなかった。<続く>
2019.01.16
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<あるTV番組から> <リュウキュウアカショウビン> カワセミの仲間で東南アジアに生息。琉球列島へは夏に渡り、森の中で暮らしている。鈴を転がすような可愛い鳴き声だ。 さて皆の衆。おかずがなくなれば自分で作るか、買うしかない。まあ外食と言う手もあるが。ブログは書くことが無くなれば休むしかない。だが私のような「ブログ中毒」は何としてもブログを書こうとする。そしてついつい話を長引かせたり、昔書いたことを再び取り上げたりもする。今回も危うくブログネタが切れかけた。まあ3~4回のネタはあるのだが、急遽別なことを書くことにする。沖縄の話だ。 先日の夜、BSを見た。NHKの『新日本風土記』。『日本紀行』のやるせないテーマ曲も好きだったが、『新日本紀行』の哀愁を帯びたテーマ曲も好き。ところがこの番組のテーマ曲は現代風で実にあっさりしたもの。松たか子のナレーションもそれに合わせたのか、実に淡々と話しかける。いや、そんなことはどうでも良い。この夜のテーマは「やんばる」。これは是が非でも観なければ。 「やんばる」と聞いて沖縄本島北部のことだと思いつく人は多いだろう。だが漢字では「山原」と書くことや、そこが沖縄本島で一番高い山々が連なっていることや、国頭(くにがみ)郡に所属し、国頭村(そん)、大宜味(おおぎみ)村、東村、名護市の北部が含まれていることを知るナイチャー(内地人)は少ないと思う。ここは私にとっては懐かしい場所の一つ。冒頭のシーンを見ただけで身震いした。 これがやんばるの森。亜熱帯のジャングルで、高い木々に覆われている。一番高い山の標高は500m程度だから、内地で言えば高原みたいなもの。亜熱帯特有の動植物が生息し、ここにだけしかいない固有種も多い。だが、この深い森も、沖縄にとっては大切な暮らしの場であり、重要な資源だったのだ。 左は飛べない鳥で有名な、ご存知ヤンバルクイナ。右の大型昆虫はヤンバルテナガコガネ。共に名前に「やんばる」をいただく貴重な生物で、天然記念物に指定されている。やんばるの森の代表格だ。 ヤンバルクイナを食べるハブ(左)を退治するために導入されたのが外来種のマングース(右)。私もハブと戦うマングースのショウを観たことがあるが、実際ハブを捕らえる例は少ないそうだ。むしろ飛べないヤンバルクイナを食い殺し、どんどん個体数が増えている。それに野良犬や野良猫による食害も大きい。このためやんばるでは、檻を使ったマングースの捕獲作戦が進められている。 やんばるの森に出現した6個のヘリパッドの映像も観た。元々東村から国頭村にまたがる広大な山中には、米軍の訓練地があった。ベトナムのジャングルでのゲリラ戦を想定した訓練施設だった。それを日本に返還し、代わって東村高江地区の山中に集約したのがヘリコプター基地。米軍の作戦と機能がベトナム戦争後に変化し、尖閣諸島周辺での対応を想定しているのかも。 国頭村奥集落の「共同店」の映像も映った。住民がお金を出し合って作った売店は、やんばるではごく普通の光景だ。「奥」は沖縄本島最北端の集落。米国統治から日本への復帰が決まった時、国道を敷くための苦心談がある。国道は複数の都道府県を結ぶのが原則だが、島嶼県の沖縄では無理。そこで時の大臣が鹿児島から海上に赤線を引き、この集落につなげて国道58号を建設したと言う嘘のような話だ。 セマルハコガメ(左)とヤンバルクイナ(右)への注意を喚起する道路標識。共に天然記念物。 こんな標識が立つやんばるの道路。場所は国頭村の奥集落付近。なぜ知ってるかと言えば、その寂しい道を走ったことがあるからだ。一度は職場の走友たちと駅伝で。そしてもう一度は、リュックを背負ってたった1人で。だがあんな心細いことはなかった。恐らく沖縄本島北部の山道を、たった1人夜中に走ったランナーは、私が最初だと思う。夜行性のハブにおののききながらだから必死だ。 さてこの花はイジュ。初夏に咲き、小笠原諸島では「ヒメツバキ」と呼ぶようだ。職場があった西原町(那覇市の北隣)から、本島最北端の辺戸岬まで100km余を駅伝でつないだ翌日。島の東海岸を通ったが、その山中に咲いていたのがこれ。白い地味な花で、とても良い香りがした。あれから全く姿を見ていない。私にとっての沖縄は、鮮烈な思い出が蘇る、謎と幻に溢れた島に違いない。<続く>
2019.01.15
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~『美ら海ドローン大航海』から~ 8月8日の夜、たまたまBS放送『美ら海ドローン大航海』を観ていてビックリ。そこには沖縄八重山地方の美しい山河と海が映っていました。そこで慌ててカメラを持ち出し、撮影を始めた次第。それを転載するのは違法と知りつつ、あまりの美しさに個人の責任で掲載した次第です。NHKさん、どうもスミマセ~ン!! 与那国島の朝です。上空からドローンで撮影すると、浜辺の丘に何頭かの馬が見えます。これは「与那国馬」と言う野生に近い小型種の馬ですね。 こちらは島の南側に当たります。この方向に、もう日本の領土はなく、最果ての島でもあります。与那国は昔から「ドナン」と呼ばれて来ました。漢字で書くと「渡難」です。渡るためにはとても難儀した島で、島の西側108km先に台湾があります。国境の島なのです。 この貧しい島では、琉球王朝時代に大きな「わらじ」を作り、海に流したと言う伝説があります。島には巨人が住んでおり、上陸し襲撃しても無駄だと思わせるためでした。 ドローンは上昇して、島の南部の海岸を撮影しています。南シナ海の美しいコバルトブルー。 荒々しい岸壁が現われました。与那国島も他の琉球列島と同様に、古くから沈降と隆起を繰り返して来ました。激しい造山運動が展開されたのです。 さずがは「ドナン」の島だけあって、激しい荒波が岸壁に打ちつけています。 海底が急に深くなってるためか、サンゴは少ないみたい。海の色が濃いですねえ。 青年は最後の力を振り絞って、島の西側にある上陸地点へと向かいます。 与那国島のシンボルである「立神岩」が見えて来ました。このような垂直の岩を、沖縄では「ギタラ」と呼びます。私は沖縄本島北部の伊是名島で観ましたが、とても感動したものです。なぜなら岩の頂上には、古代の遺跡があったからです。もちろんここでは不明ですが、それよりも岩の背後にある岬にご注目下さい。 立神岩沖を通過するシーカヤックと青年。最後の力漕です。 ここで突然、与那国島の地図を載せます。これは番組にはなかったこと。右下の「立神岩」を過ぎると、新川鼻の岬があります。先ほど注意を喚起したポイントです。この沖合に「海底遺跡ポイント」があるのです。これも番組では紹介されませんでしたが、ここは物凄い場所なのです。 これはネットから借用した写真の一部。海底に整然とした石組が横たわっているのです。20年ほど前に地元のダイバーが発見し、琉球大学理学部の木村政昭教授(海洋地質学専攻=東京大学・理博)が潜って調査した結果、人為的なものとの結論を得たようです。島の断崖にも遺跡の一部が残っていると言われています。 これは通称「亀石」。このような鋭利な痕跡が自然物であることは考えられないそうです。私は琉球大学勤務当時、木村先生と会議でお話したことがありました。先生の著書『ムー大陸は琉球だった』なども読んでいましたので。 与那国島の海底遺跡の発見は、私が転勤したずっと後のことですが、造山活動が激しかった沖縄に古代文明があったのか、興味深いですね。同氏は現在名誉教授です。関心がある方は、画像検索でどうぞ。きっと面白い画像がたくさん見つかりますよ。 島の西端に当たる西崎です。この岬を廻れば、ゴールの久部良(くぶら)集落です。 西崎を通過する寸前のシーカヤック。波が穏やかで幸いでしたね。 久部良浜と集落が見えて来ました。ここが最終ゴール地点です。面倒でも先ほどの島の地図に戻って下さい。久部良集落の北側に「久部良バリ」と言う赤線で囲まれた場所があります。そこは琉球王朝時代に、島の妊婦を飛ばせた場所と伝わっています。「バリ」は「割れ」。2m近い岩の割れ目を跳ばせて、堕胎を図ったと言う悲しい伝説が残っています。人が増えても、貧しい島では食糧が確保出来なかったのです。 久部良浜に上陸した青年とシーカヤック。3日間の長い旅はようやく終わりを告げたようです。この最果ての小さな島に、最近ようやく自衛隊が配備されました。近隣の大国が沖縄奪還を機関紙で表明してるのですが、あまりにも無頓着な沖縄県民や国民が多いことに驚かされます。自国の領土は自分達で守る。それは尖閣列島もしかり。昨年訪れた長崎県の対馬でも、そのことを強く感じた次第です。 さようなら。さようなら。上空のドローンに向かって手を振る青年。3日間の冒険の旅、本当にお疲れ様でしたね。最後に心からNHKさんに感謝し、このシリーズを終わらせていただきます。美しい画像を、本当にありがとうございました。<完>
2018.09.18
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~『美ら海ドローン大航海』~ 8月8日の夜、BSで『美ら海ドローン大航海』と言う番組を放送していました。たまたま観た私は、そのあまりの美しさに仰天。慌ててカメラで撮影を始めたのでした。それをこんな風に使用することが違法であることは十分承知していますが、個人の責任で掲載させていただきました。NHKさんゴメンナサ~イ!! 西表島の2つの滝を訪れた青年は、その後サンゴ礁の海へと戻ります。そしてザブリと海中へ。 何のためかですって?もちろん食料を確保するためですよ。この青年、石垣島から台湾に近い与那国島まで、自給自足の旅をしているんです。この時も海に潜って魚を捕まえていたのでしょうね。 翌日の未明、青年は西表島から与那国島へ向かう準備を始めます。周囲はまだ真っ暗です。 西表島から与那国島までは約80km離れています。装置は安全か綿密に点検します。 輝くような朝日が東の海から昇って来ました。神々しいばかりの光景です。 さあ、たった一人の大航海の始まりです。恐らく強烈な黒潮の流れと必死に戦っているはず。 空が白み、完全に夜が明けたようです。波は至って穏やか。後は体力勝負ですね。 サングラスで表情は見えませんが、彼も必死で漕いでいるのでしょう。 孤独と戦う青年。日本人の先祖もこうして遠い島々から沖縄へと渡って来たはずです。 日が翳ると海の色がこんな鈍色(にびいろ)に変わります。 まるでカヤックが沈んでいるように見えますね。「老人と海」のようなシーンです。 難所はほぼ漕ぎ切ったようです。安心して海に入り、体を冷やす青年。 夕暮れが迫りました。西の空には夕焼けが見え出します。 お~い、お~い。あれは与那国島。ようやく最終目的の島が見えて来ました。 カヤックの上から、遥か遠い西表島の方向を眺める青年。旅は終わりに近づいたようです。 青年は浜の入り江に上陸します。きっと今夜はここで宿泊するのでしょう。<続く>
2018.09.17
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~『美ら海ドローン大航海』から~ 去る8月8日の夜、BSで放送された『美ら海ドローン大航海』の画像のあまりの美しさに、思わずカメラを向けました。大好きな沖縄の海を石垣島から与那国島までシーカヤックを漕ぎ、単独で渡ると言う壮大さ。それを上空からドローンで撮影した画像に魅せられました。禁じられた行為であることを重々承知しながら、自己責任で紹介させていただきました。NHKさんゴメンナサイ。 シーカヤックの青年が、漁船に乗せてもらって向かった先は・・。この直後、翁長沖縄県知事逝去のニュースが流れ、テロップが出ました。 ある個所まで来ると船を止め、漁師は海に飛び込みました。青年も一緒です。 潜って行くと、海の底に黒い丸い物体が見えて来ます。 近づくとこんな大きな装置が現われます。これは魚が寄り易い「漁礁」の代用物です。この中に入った魚を、漁師は「ヤス」で突いて仕留めます。もちろん売り物なので、急所の頭だけを狙います。青年も許可を受けてヤス漁に挑戦しますが、頭を狙うのがなかなか大変みたいでした。 この辺りは確か八重山の「大礁海」と呼ばれる場所。石垣島と黒島と西表島の中間にあり、魚の宝庫でもあるようです。 「ヤス漁」を体験した青年は、再びシーカヤックで西表島へと向かいます。 ここはもう西表島。マングローブ林を流れる浦内川を遡って上流へと向かいます。ところでマングローブと言う特定の種類の木がある訳ではありません。亜熱帯の波打ち際に生える植物の総称がマングローブ。実際はメヒルギ、オヒルギ、サキシマヒルギなどのヒルギ類なのです。 浦内川をどこまでも遡ると滝に到達し、この先は進めません。滝の名は確か「マリウドの滝」かな。きっと「稀人」=人が滅多に来ないと言う意味から名づけられたのでしょう。 ドローンで上空から撮ると、こんな雄大な滝でした。きっと規模は沖縄随一かもね。 青年は再びシーカヤックを漕ぎ出します。さて、どこへ行くのかな? 「この先に」とテロップが出ていますが・・・。 浦内川の左側に小さな白いシーカヤックが、かすかに見えています。 こうして見ると、浦内川も幅が広いですねえ。海が近くなったようですよ。 こちらは「マヤグスクの滝」のようです。マヤは猫、グスクは城の意味です。ここら辺はどうやらイリオモテヤマネコの縄張りみたいですねえ。 ここは先ほどの滝よりも傾斜は緩やかみたいです。 青年はその滝の頂上まで登りました。道があるようですね。 上空からドローンで撮影すると、滝の全景はこんな感じでした。<不定期に続く>
2018.09.15
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~『美ら海ドローン大航海』から~ 去る8月8日の夜、BS放送を観ていてビックリ。そこには沖縄県八重山地方の美しい海が広がっていました。番組名は『美ら海ドローン大航海』。石垣島の最北端から西表島を経由し、日本最西端の島である与那国島までシーカヤックを漕いで渡ると言うもの。それを上空からドローンで撮影したのです。その転載が禁じられているのは承知しながら、個人の責任で美しい画像をお借りした次第です。NHKさん、ゴメンナサ~イ!! シーカヤックの若者が海に潜っています。シュノーケルを付けているようだし、足にはフィンが装着されているように見えますね。 ここは遠浅で太陽光線が良く差し込みます。だからこんな風に美しく見えるのでしょうね。 私はエメラルドグリーンが大好き。飛行機が沖縄に近づき、こんな色のサンゴ礁が見え出すとたまりませんね。 船の上から見る海中の色と海中で見る色とでは、かなり違って見えるのではないでしょうか。 海の深さ、海底の砂の色、太陽の有無。そんなことも大いに見える色に関係します。 おうおう。これが青サンゴですって。 サンゴばっかりで、熱帯魚が泳いでないのはなぜ? でも巨大なナマコみたいなのはいるよ。 向かって右側中央にシーカヤックが、その左斜め上にNHK撮影班のボートが見えます。 いよいよ白保海岸にお別れし、石垣島の東南隅を通って石垣港方面に向かうようです。 上空のドローンから、遠ざかるシーカヤックを撮っています。 左手前方に見えるのは黒島でしょうか。そして右手の奥には西表の島影も。 石垣島に上陸。遥か遠くに見えるのは石垣島の北にある玉取崎辺りかな?それにしても色がきれい。 ここは漁港でしょうか。カヤックを岸に着けます。 どうやら頼み込んで、漁船に乗せてもらったようです。 船は沖へと向かいます。さて一体これから何をするのでしょうか?<続く>
2018.09.14
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~『美ら海ドローン大航海』から~ <おことわり> 去る8月8日の夜のこと、BS放送を観ていてビックリ。何と沖縄の八重山の海を石垣島から国境の与那国島まで、シーカヤックで渡るのをドローンで撮影した番組でした。海の色の美しさに魅了され、これは是非撮らねばと思いシャッターを切ったのでした。本来ネットで公開すべきではないことは重々承知していますが、あまりの美しさに個人の責任で掲載させていただきました。NHKさんゴメンなさい。 これが八重山地方の略図です。左下の波照間島は正確には新城島のずっと南にあり、この地図をはみ出してしまいます。一番上(北)の与那国島は本来は西表島の左(西)にあり、この地図からはみ出します。スタート地点は石垣島の一番北側。島の東側を通って黒島の周囲を通って西表島へ上陸し、そこから最終目的地の与那国島へ向かう壮大な旅です。漕ぎ手は1人。食料は海の魚などを自分で捕まえます。 スタートは石垣島の最北部である平久保灯台付近です。そこから島の東側を通って最南端の「離島桟橋」へ行きます。途中白保のサンゴに寄ります。ここには大きなテーブルサンゴなどがあり、新空港建設予定地から外されました。私は新旧2つの空港共に利用したことがあり、市街地から西に向かって「唐人墓」まで往復20km走り、川平湾、宮良殿内、博物館などを見学しました。 スタートの平久保周辺は撮り損ねました。まだカメラの準備をしてなかったのです。上空からドローンで撮影しており、遠浅の海岸にビッシリサンゴが群生している様子が分かります。ここはサンゴの群生地で名高い白保海岸。新空港建設反対で揺れていた当時、朝日新聞社の記者が自分でサンゴを傷つけ、記事を書いたことがありました。とんでもないでっち上げ。あの頃から既に朝日は異常でしたね。 丸いドーナツのようなものはテーブルサンゴでしょうか。シーカヤックを止めて、サンゴの上に乗っています。水は持参していますが、3日間の食料はすべて自給自足です。 ドローンが上昇すると、こんな風に見えます。カヤックが左下に小さく見えます。 水が青く見えるのは、サンゴの死骸の砂が白いのと太陽光線のせいでしょう。 手前が島に近い方で遠浅の浜。沖縄では「イノー=内浜」と呼びます。沖に白波が立っているのがリーフ(サンゴ礁)で、その先は急に深くなり海の色が変わります。 サンゴの塊です。宮古島の北には、南北17km東西14kmほどもある巨大な「八重干瀬」(やえびし=天然記念物)が春の大潮の時に出現します。世界でも有数のサンゴ礁です。 千変万化する海の色がたまりませんね。 巨大なサンゴが饅頭に見えるのですが・・。 サンゴの上はずいぶん平らなようですね。 何という平和な一時。でもサンゴの上に乗って良いのかなあ? 暫しの休息を終え、再びシーカヤックで海に漕ぎ出します。 海の中には自転車のチューブよりも太いナマコが。私は渡嘉敷島で見たことがあります。 魚のようにも見えますが、サンゴ礁で黒い魚ばかりなのは変ですものね。 天気は絶好。風もないからきっと漕ぎやすいことでしょう。 漕ぎ手は涼を求めて、時々海に飛び込みます。この時もそうみたいですね。<続く>
2018.09.13
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~心惹かれる島々~ <奄美の風景> あれは何年か前の大河ドラマだったが、突然聞きなれない調が流れた。独特の曲と発声。まるで魂の叫びのような初めて聞く響き。どうやら奄美の女性が歌っているようだ。今年の大河ドラマでも再び奄美の歌声を聞いた。以前と違った声だが歌い方は同じ。奄美では民謡歌手を唄者(うたしゃ)と呼ぶらしい。哀切に充ちた唄者の声が愛加那の西郷への想いと重なって、南島の郷愁を蘇らせた。 <斎場御嶽(せいふぁうたき)から久高島(平坦で見え難い)を遥拝する> YouTubeで偶然イザイホーの動画を見た。上下で1時間40分ほどの作品。撮影場所はは沖縄本島東南部の沖合5kmにある久高(くだか)島で、南城市の所属。私が沖縄に勤務していた時は、知念村に属していた。ここは神の島と呼ばれ、琉球王朝時代から神聖な島。男は海人(うみんちゅ)として貿易船の水夫となり、留守を守る女は神人(かみんちゅ)となって神行事を司った歴史がある。 イザイホーは12年に1度、午年の11月15日から5日間行われる神行事で、30歳以上の島の女性が神職に就くための儀式だ。久高祝女(くだかノロ)、外間(ほかま)祝女を頂点とする神職は普通の主婦で、5種ほどの歴然とした職階があり、男も一部役割がある。これが琉球王朝時代から500年以上継承されている。まさに卑弥呼時代を彷彿とさせる神行事だが、高齢化により役職者が欠落し、1978年(昭和53年)を最後に途絶えた。 私が沖縄に赴任したのが平成元年、翌年がイザイホーの年だったが不成立。資料を読んで興味を持ったが、実際の姿を見ることは出来なかった。初めてその姿を見たのは3年後。大阪の国立民族学博物館のビデオテークで14分ほどに編集された画像を観た。雰囲気は分かったが実態は不明。そしてそのまま20年が経過した。今回その実態を、映画会社が制作した記録でようやく知ることが出来た。 <フボー御嶽の入口。ここより先は祝女しか入れない> 久高島が神の島と呼ばれる理由は、沖縄人の祖先であるアマミキユ、シネリキユの男女神がこの島に漂着したこと、及び五穀の種がイシキ浜に漂着したことによる。どちらも沖縄の神話だ。祖先神は恐らく海人族で、九州南部から島を伝って来たのだろう。そして種は水と地味の乏しいこの島では育たず、対岸の海岸の小さな田、受水走水(うきんじゅ・はいんじゅ)で育ち、そこから島内に広がったとされている。 イザイホーに初参加の女性ナンチュたちは、祭に先立って決められた泉で斎戒沐浴する。そして5日間祭に出て、神職の資格を問われる。祈る場所は外間殿、久高殿だが、フボー御嶽(うたき)など島内7つの聖なる場所に連日お参りする。そこはクバが茂るだけで何もない御嶽。まさに日本の原始神道の姿そのものだが、祝女以外の立ち入りは許されていない。また島内の一木一石も持ち出し禁止とされている。 それが島の掟。畑も共用で、使用する畝は順番に交代する。狭く貧しい島では、原始共産制が最も公平な生活の仕組みだったのだろう。さて、男たちの長い航海の間、女たちは留守を守る。その間、貞操の保持のためにも神行事を頻繁に行った由。不貞を働いた女は恐怖のために地上に置かれた梯子すら渡れず、神職に就くことが許されなかった。古代日本の祭祀同様、沖縄の女は男の守り神だったのだ。 ここは知念半島にある斎場御嶽(せいふぁうたき)。琉球王朝随一の霊場で、神職の最高位である聞得大君(きこえおおぎみ=王の姉妹)がここで王の代わりに祈った。琉球を征服した薩摩藩によって、久高島での神行事が禁止されたためだ。三角岩の向こう側にある通し御嶽(とおしうたき=上から2番目の写真)から、5km先の久高島を遥拝した。琉球開闢の地に行けない無念さは、推して知るべしだ。 <宮古島=手前と池間島=前方を繋ぐ池間大橋> あれは10年ほど前のこと。私は「宮古島ワイドーマラソン」(100km)に出た。コースであるこの池間大橋も走って往復した。橋の上は北風が強く、吹き飛ばされるような勢い。それでも私は宮古島の民謡「なり山あやぐ」を口ずさんだ。先日YouTubeで歌詞の正確な意味を知って驚いた。そこには島の女の悲しみが潜んでいた。昔から奄美や沖縄の女は、絶えず祈り続けていたのだ。 沖縄勤務を解かれて早や27年。その後20回は沖縄の島々を訪れ、色んな箇所を走った。4年かけて沖縄本島を一人で走ったこともあった。懐かしい集落。懐かしい風景。懐かしい文化と歴史。恐らく死ぬまで忘れることはないだろう。いずれまた城(ぐすく)巡りをしたいものだ。たった1度だけ訪ねた久高島。白猫が港まで導いてくれたあの不思議な島は、私にとって幻の神の島だったのだろうか。 今日は短歌の会ですが、前夜の宿泊先から直接会場へ向かう予定です。コメントへの返事や訪問の遅れはお許しくださいね。では。
2018.06.06
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<ウチナンチュ・ヤマトンチュ> 重要文化財中村家住宅 先日、国連の人権委員会(ジュネーブ)において、翁長沖縄県知事は「日本の米軍基地のうち70%以上が沖縄にあり、独自の文化と言語を持つ沖縄の人権が犯されている」と訴えたそうだ。またこれに先立つ講演会では、「沖縄は日本のものでもアメリカのものでもない」と述べた由。不思議なことを言う人がいるものだ。琉球語は日本語の古語を基調とする方言だし、沖縄県があれだけ巨額の地域振興費を毎年日本政府に要求し続けている理由は何か、訳が分からない。 これに対して日本のNGO団体は人権委員会において、「沖縄県民の人権は犯されておらず、逆に尖閣諸島領海への中国艦船の侵犯などで沖縄の安全が犯されている」と訴えたそうだ。どちらがまともな神経なのだろう。 私は3年間勤務した沖縄が大好きだ。米軍基地が密集する現状については気の毒にも思う。だが、その基地も計画に基づいてかなり返還されており、今後も嘉手納基地以南の地区が順次返還される予定なのだ。かつて米軍基地だった所が、新しい街に生まれ変わった姿を観るのは新鮮だ。そして沖縄を訪れる度に、立派になっているとの実感がある。 私が赴任した平成元年頃の沖縄は下水の臭いが鼻につき、道路は凸凹で、小学生まで泥棒をして捕まり、高校生は酔っ払いの無免許運転で一夏に何人も死んでいた。高い失業率に離婚率、かつては日本一の長寿県が肥満で短命になりつつあった。私は沖縄の人から「ヤマト」や「ヤマトンチュ」と呼ばれ、生命の危険を感じたことが3度もあった。 崇元寺石門 「辺野古に新基地は作らせない」と知事は言う。それはおかしい。既に辺野古に米軍基地はあり、普天間基地からオスプレーを移転するため海上に滑走路を延長するだけの話。それに伴って、これまで沖縄県民が危険と訴え続けた普天間基地が全て返還されるのだ。それに現在普天間基地にある爆撃機と給油機も全て本土に移転する。そして辺野古は過疎地のため、オスプレーの「危険性」も大幅に減少する。それでも沖縄の安全は保たれるし、良いことづくめだと思うのだがなぜ反対するのか分からない。 実は不思議なことがあるのだ。海上に米軍基地を拡張する案だと、これまでも沖縄県は反対して来たのだ。理由は基地の借地代が入らないためだろう。米軍基地3か所の返還も、地元の名護市は拒んでいる。山間部にあるため返還されてもその後の活用が困難なためだ。それなら借地料をもらい続けた方が得と考えているのだと思う。 那覇の米軍軍港が近く浦添市に移転する。これは翁長県知事が那覇市長だった時に推進した事業だ。軍港の移転は歓迎しながら、最も古くて危険だと訴える普天間基地の移転と返還を喜ばない理由は何なのだろう。全く訳が分からない。あの広大な土地が返還されたら、きっと新しい宜野湾市の構想が生かせるだろうに。 今帰仁城石門 県知事は辺野古の海上工事許可を取り消す方針を打ち出した。その是非を巡って、今後長い法廷闘争が続くことになろう。その間、沖縄が訴えた『普天間の危険性」はそのまま続くのだ。政府は地方振興費の一部を県や名護市を通さず、地元の辺野古集落へ直接配分することを検討中らしい。地元の賛成は99%以上なのだ。それにこれまでも政府は、北部振興の一環として辺野古周辺に沖縄工業高専を新設し、隣り合う恩納村に大学院大学を新設している。 県内の道路整備や離島への架橋など、沖縄県への予算配布は異常なほど高い。県知事はかつて自民党の沖縄県連会長で、那覇市長当時は「米軍基地反対を言うのは政府から予算を引き出すため」と話していたそうだ。すると国連人権委員会でのアピールは一体何だったのか。都合の良い時はヤマトンチュ(日本人)として多額の予算を要求し、都合が悪くなるとウチナンチュ(沖縄人)になって沖縄の悲劇を世界に訴える。 まるで二重人格者ではないのか。私は沖縄が大好きだが、そんな「使い分け」は大嫌い。だが、事情を知らない内地の人間や世界の人々は、悲劇の島沖縄に心からの同情を示して已まない。 伊江島タッチュー 沖縄県民を悩ませて来た米軍に関する「地位協定」も徐々に改善されて、最近では米兵の犯罪を日本の警察が取り調べる案件も多くなった。また、つい最近も政府は米国に改善方を申し入れている。その経済力に恐れて、一時は日本の頭越しに中国と手を結ぼうとしたオバマ政権だが、南シナ海や東シナ海における中国の脅威に、その後ようやく気付いたようだ。だが経済力が落ちたアメリカが、どこまで本気で日本を守るかは疑問が付きまとう。 そのためにも今回の「安保法案整備」は不可欠な措置だったと思うのだが、肝心の沖縄はのんきなもの。地域振興費を使って中国から大量の「龍柱」を輸入するようだ。龍柱は中国皇帝の権威の象徴で、冊封国はその権威をありがたく利用する。つまり日本の予算を使って中国のPRをしているようなものではないか。 「沖縄タイムス」や「琉球新報」は、ほとんど中国の脅威の実態を伝えないそうだ。狭い島では、それが唯一の真実になるのだろう。そしてそれがウチナンチュとヤマトンチュの心をますます遠ざける結果になるように思う。 私にはなぜか沖縄と韓国が非常に似ているように感じてならない。「日本」と言う国に支配された歴史、地政上の宿命と、それゆえに米軍基地が置かれる事情、そして屈折した心情などだ。いつまで経っても日本を恨み、それでも多額のお金を要求し続ける心理。いつになったらそんな過去の悲劇から脱却する日が来るのだろう。それとも永遠に「琉球独立」を夢見るのだろうか。それこそが中国の思う壺だと私は思うのだが。<続く>
2015.09.26
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「粛々とは上から目線の言葉」。翁長沖縄県知事はそう語ったそうだ。相手は菅官房長官。先日米軍基地の一部返還事業で、官房長官が沖縄を訪れた際に、ようやく沖縄県と官房長官の会談が実現した。「粛々」とは、「静かに」とか「厳かに」のことであり、上から目線の言葉などと言うことは当てはまらないと私は思う。それにそんな「言葉づかい」に八つ当たりをしても仕方がないと思うのだが。 もうお分かりであろう。この会談は名護市辺野古への米軍普天間基地移転工事に関してのもの。昨年仲井眞前沖縄県知事の許可を受けて始めた海底のボーリング調査を翁長新知事が差し止めたことで、工事は法律の解釈論に変わった。今は県の判断を、農林水産省が一時停止させることで工事が進捗している。「粛々」とはそう言う事態を指したのだろう。それに官房長官には「国防は地方自治体の思惑とは無関係」との思いがあったことは確かだ。 それに私には官房長官には、無念な思いがあったように思えた。それは県知事が以前、自民党の沖縄県幹事長を務めていたこと。同じ党に所属していながら、「内地」と沖縄とでは国防を始めとする国の施策に関する思惑が全く異なることを悲しんでいたのではないかと。だが本件に関して、「粛々」と言う言葉は使わないことを、その後官房長官は表明したそうだ。「粛々」には本来沖縄県知事が誤解するような意味は含まれていないが、彼にとって政府の態度は理解出来なかったのだろう。 しかし、なぜここまで事態がこう着したのだろう。国防は国の専権事項。だからその整備に関しては、地方公共団体の思惑には囚われない。それはその通りだと思う。だが、米軍基地に関する沖縄県民の思いは複雑だ。亡くなった橋本竜太郎元総理はなぜ沖縄に米軍基地が必要なのか、現地に6回ほど赴き沖縄の市町村長を相手に滾々と話したそうだ。それに感動した彼らは、基地の維持に協力するようになったと聞く。 以前から私もそう思って来た。たとえ相手に怒鳴られようと、日本の為政者は沖縄における米軍基地の必要性を説き続ける必要があると。その一方で、沖縄にはまだまだ被害者意識が強いことも感じる。島津藩の侵攻と侵犯。明治期に日本に帰属したこと。第2次世界大戦における地上戦と戦後の米軍統治。そして日本への返還。その今さら変えようのない歴史を、彼らは未だに引きずっているのだ。 「政府の沖縄来訪は常に押しつけ」。「辺野古移設は絶対出来ない」。知事の言葉は私には駄々っ子の言葉に聞こえる。基地があるための沖縄振興策がどれほどのものか、知事は体感出来ていないのではないか。「普天間基地は世界一危険」。その沖縄の言葉は嘘だったのか。沖縄国際大学のキャンパスに米軍のヘリコプターが墜落した時の県民の怒りは何だったのだろう。危険で古くなった普天間基地は、もう要らないと言うだけで済むのだろうか。 沖縄の歴史は変えられないのだ。そして沖縄のある位置も同じこと。沖縄の平和は憲法第9条で守られているのではなく、駐留する米軍のお陰で他国が手を出さないだけのこと。その米軍がいなくなったら誰が沖縄を護るのか。数千億円で済んでいる米軍への「思いやり予算」から、自衛隊の増強を図るには莫大な予算と途方もない時間が必要だろう。それとも国防は不要で、沖縄は毎日のように侵犯を繰り返すあの国の属領になってしまった方が良いと言うのか。 人生に覚悟が伴うように、物事にも覚悟が要る。一国がその領土を守るのはごく当たり前の行為。どんなことにも犠牲は伴う。まして平和を守るには、ただ「平和が欲しい」と叫ぶだけでは済まないのだ。政府と知事の会談は今後も継続されるようだ。だが覚悟を決めない限りそれは不毛な作業に終わるだろう。沖縄の歴史を被害者意識だけで見ず、その地政的な意義に気づかない限り、そしてそれをマスコミが正しく捉え、報道しない限りは。
2015.04.09
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進貢船 おもろ幻想 光 原子 雷鳴 爆発 噴火 雨 海 発生 生命 隆起 沈降 陥没 海盆 断絶 琉球孤 起源 方向性 南 民族 因子 移動 潮 冒険 旅立ち 丸木舟 櫂 島影 星 照葉樹林帯 タロイモ ヤムイモ クワズイモ オーストロ・モンゴロイド ことば いのり うた 北進 蝦夷 古代 倭国大乱 戦闘 侵略 滅亡 回帰 定着 神 山上 ニライカナイ 洞窟 採集 低地 栽培 富 権力 交易 青磁 鉄 攀安知 尚巴志 他魯毎 琉球王国 明 進貢船 呂宋 安南 シャム 繁栄 おもろさうし 平和 島津 侵攻 江戸上り 二重帰属 飢餓 甘藷 芭蕉布 サトウキビ 人頭税 黒船 ウランダー 古眼鏡 維新 大政奉還 琉球処分 文明開化 方言札 土地解放 大戦 疎開 艦砲射撃 10・10空襲 上陸艇 馬乗り攻撃 万歳 玉砕 進駐軍 B円 US$ 焼け跡 トタン屋根 奇跡の1マイル 嬌声 MP 治外法権 朝鮮動乱 ベトナム出兵 松明 船上 歌声 北緯27度線 日の丸 君が代 祖国復帰 建設 経済 格差是正 国道 海洋博 若夏国体 赤土流失 大気汚染 珊瑚死滅 放任主義 深夜徘徊 暴走事故 国際マングローブ生態系協会 世界のウチナンチュ大会 <夢> そして 未来へ 1991.6.7 第一詩集『南島風景』から 海神(うんじゃみ)祭 沖縄の歴史を詩に書きたい。だが沖縄の壮大な歴史を表わすにはどんな詩が良いのか。考えに考えた末に私が思いついたのは「名詞」を並べることでした。それも沖縄の歴史を象徴する各時代の言葉を。名詞だけの詩を書くのは初めての試みです。幸いにして私は沖縄の歴史や文化や文学など、あらゆる方面の本を読んでいて、象徴となる言葉を探すのは比較的簡単でした。 だが、人類が出現する以前にまで遡って表現するにはどうするか。そこで言葉を星の形に並べることにしました。星の形から始まる名詞だけの詩。それに読んでも馴染みのない言葉の羅列。それでも私には十分でした。苦労の末に壮大な沖縄の歴史を自ら選んだ言葉で詩に書けたのですから。 沖縄では2冊の小詩集を作りました。この『南島風景』が第一詩集で、『透明な手紙』が第二詩集です。私はそれを100部ずつ印刷し、沖縄を離れる前にお世話になった方々に配りました。ところが職場では、沖縄では高名の詩人でもあったMさんが音頭を取り、私の詩の朗読会を開いてくれたのです。そしてこの詩をMさんが朗読してくれました。この詩を読む、彼の朗々たる声が今でも忘れられません。彼は沖縄の歴史を完全に理解していたのです。 昨日も書きましたが、沖縄は悲劇の歴史の島としか思っていない人が多いのが事実。沖縄の正しい歴史を、沖縄の人自身が知らないことも多いのです。この詩に詠まれた言葉の一つ一つについて説明はしません。読んで何かを感じていただけたらそれで十分です。言葉を口に出して読めば、きっと日本と沖縄が辿った壮大な歴史の息吹を感じることが出来ると思います。どうしても「言葉の意味」を知りたい方は、コメントに書いていただけたらお返事します。<不定期に続く>
2014.03.15
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オキナワ 狂っているのか 正気なのか 聖であるのか 俗なのか 笑っているのか 哭(な)いているのか 眠っているのか 覚醒(めざ)めているのか 生きているのか 死んでしまったのか 侵されたのか 自立しているのか 貧しいのか それとも 途方もなく豊かなのか おまえの名は オキナワ 阿児奈波 琉球 うるま レキオ Ryukyu Islands どんな名前で呼ばれても おまえは いつも黙って頷くだけだった 往古(むかし) 帆という帆に風を孕(はら)ませ 海の彼方の幾つもの邦々(くにぐに)と交易したという 「一千年」の誇り高い歴史を持つおまえよ 目を凝らして見るがいい 現在(いま) おまえの躯(からだ)に張り巡らされた有刺鉄線の <内側>の まだあどけない少年兵の横顔と <外側>の 老婆の頸に残る 深い傷痕とを 塵芥の山 赤土流失 死滅する珊瑚礁 は お前の荊(いばら)の冠 窃盗 徘徊 真夜中の暴走 は お前の十字架 おまえは混沌の海に漂う小舟(サバニ)のように 終日彷徨(さまよ)う殉教者 だが 悲しむことはない おまえ自身も気づいてはいない おまえの本当の優しさを いつか 誰もが知るだろう だから オキナワよ それまでは 決して斃(たお)れるな 大風に凡(すべ)ての果実を奪われても なお 空に立つパパイヤのように 1991.5.30 第一詩集『南島風景』より 私は自分の詩について語ることはあっても弁解はしない。多くの人は沖縄を「悲劇の島」だと思い、ウチナンチュ自身もそう信じている人が多い。それは第二次世界大戦後、米軍の管理下に置かれて以降その想いが強くなったからであり、日本復帰後の沖縄の偏った「平和教育」と地元新聞社の偏った報道がもたらした弊害だとも言える。米軍は悪であり、基地はまさにその象徴だ。 だが、本当にそうなのだろうか。「平和憲法」が我が国を平和にしたと信じる人が多く、私も長らくそう信じて来たのだが、最近私は日本の平和と繁栄は、日米安保条約によってもたらされたと考え直すようになった。米軍が沖縄にもたらしたのは「災い」だけではない。マラリアの原因の害虫などが駆除されて衛生的になり、栄養状態や教育内容は飛躍的に向上し、米国本土へ留学した者も多かった。 平成元年の4月から3年間私は沖縄で勤務し、沖縄の現実を見続けた。島内の米軍基地の場所はほとんど頭の中に入っており、いずれもマラソンの時ではあるが基地の中にも3度入った。沖縄を離れてからも15度は沖縄を訪ね、米軍基地の縮小と沖縄の復興とを実感したものだ。現在の沖縄に、あの頃の暗い陰はほとんど感じなくなった。 詩に書いたように、当時の沖縄は犯罪が多発し、人々の暮らしやインフラの整備が「内地」に比べて相当貧しく、遅れているのが現実だった。私が赴任した年は日本復帰後14年が経っていたが、現実はまだそんな状態。小学生が自転車の部品を盗んで自転車屋に売ったり、高校生が盗んだ車を飲酒運転して事故死する事件がしょっちゅうあり、当時高校生だった長男の同級生も、卒業までに3人が飲酒運転で死んだ。 就職難で、自殺や離婚率が高かった当時の沖縄だが、独自の良さやユニークさもたくさん感じた。それらの印象をこの詩に凝縮した積りだ。沖縄に対する私の強い想いは、今も全く変わらない。いつもなら「詩」とする「カテゴリー」を、今日は「心のふるさと沖縄」に変えた。沖縄に惹かれるのは「異国情緒」のせいもあるが、かの地で暮らし、独自の歴史と文化を学び、私の故郷東北と共通性を感じたことも大きい。 今後沖縄がどう進むのか。恐らくは沖縄自身も分からないはず。テーゲー(大概、いい加減)で責任転嫁するウチナンチュ。中には「日本からの独立」を熱く語る人もいるが、もちろん日本国憲法には何の根拠もないし、自己矛盾に気づかないだけだ。 何よりも危険なのが東シナ海の向こうの大国であることに、日本人の多くがまだ気づかないことを憂う。一党独裁のあの国では党より軍が上位にあり、「沖縄を奪還する」と明確に宣言しているのだが。<続く>
2014.03.14
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≪ 八重山のビーチ編 ≫ 5月17日から20日まで、沖縄の八重山地方を旅しました。現地は既に梅雨時で、あまり天気が良くなかったのですが、幸いにして降られることはありませんでした。「フォト紀行」最終回の今日は、八重山のビーチを幾つか紹介します。もし晴れていたら、もっと海の色が美しかったと思います。それでも南国らしい雰囲気を少しでも味わっていただけたら幸いです。 最初は波照間島のニシ浜ビーチです。この日は晴れていたため、浜辺の白い砂のせいで、海の色が鮮やかですね。多分本土から来た人でしょうが、泳いでいる親子がいました。集落からここまで、自転車に乗ってやって来たみたいです。 次の2枚は西表島のビーチです。上が翌朝のランで走りに行った星砂ビーチ。下がホテルの裏側にあるトドマリ浜ですが、朝は曇天だったのが残念です。 ≪ 西表島星砂ビーチ ≫ ≪ 西表島トドマリ浜 ≫ これは小浜島で泊ったホテルのプライベートビーチです。もう夕方でしたが、砂の白さが目立ちますね。海の向こうに微かに見えるのが石垣島です。写真がピンボケで済みませ~ん!! 最終日。石垣島の川平湾のビーチです。海の色は太陽の出方一つで千変万化します。湾内では真珠の養殖をしています。きっとそれだけ水質が良いのでしょうね。今回はどの写真にもリーフ(サンゴ礁)に立つ白波が写っていません。リーフの内側は浅いためエメラルドグリーンに映え、リーフの外側は急に深くなっているため濃い群青色をしています。その対比の美しさが、沖縄の海の特徴です。 フォトシリーズは今回で終わります。本編11回。続編6回の連載でした。明日はマラソンに出かけますが、ブログは更新します。そのレポートを書いた後に、補遺編『写真で見る沖縄・八重山の歴史と宗教』2回分の掲載を予定しています。こちらもどうぞお楽しみに~。長い長~い連載に最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました~!!<完>
2013.06.07
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≪ 八重山の美しい花々 その2 ≫ 以下は由布島で観た花です。 以下は西表島で観た花です。 夾竹桃(キョウチクトウ)に似ていますが、とても良い香りがします。 咲き終えると紫色の小さな実をつけます。 以下は竹富島で観た花です。 ブーゲンビレアです。 アマリリスに似ています。 以下は小浜島で観た花です。 コリンスみたいです。 ハイビスカスです。 スイレンです。 以下は石垣島で観た花です。 花の写真はこれで終わります。明日は八重山の島々のビーチを紹介します。<続く>
2013.06.06
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≪ 八重山の美しい花々 その1 ≫ 昨夜はザック・ジャパンがオーストラリアと1対1で引き分け、5回連続でのワールドカップ出場を決めました。最後のPKはどうなるかと心配でしたが、本田が見事に決めてくれましたね。ザック・ジャパン、お疲れ様でした。そして、おめでとうございます。 さて、今回の沖縄・八重山地方の旅では、たくさんの写真を撮りました。その中でも多かったのが花々でした。そのうち幾つかは本編の旅日記で紹介しましたが、今日と明日はその残りを全て載せます。ただし名前が分からない花が大部分です。美しい花には、きっと私の解説など必要ないでしょう。では、早速ご覧くださいね。 1) 波照間島で最初に観たグンバイヒルガオです。 2) 波照間島のハマユウです。 3) 波照間島のリュウキュウアザミです。葉っぱのギザギザがかなり鋭い感じがします。以下はすべて由布島の花ですが、名前は分かりません。南国の花々をお楽しみくださいね。4) 5) 6) 7) 8) 9) 10) 11) 12) 13) 14) 15) 八重山の花々は、さらに明日も続きます。<続く>
2013.06.05
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≪ 装飾編 ≫ 今日は今回の旅で観た沖縄らしい装飾や、異国風の装飾を紹介します。 1) 石垣島のホテルの泡盛の甕(かめ)です。千円の飲み放題でしたが、私は2杯で十分でした。泡盛はやはり現地で飲むのが一番美味しいですね。温度、湿度、沖縄の風土、そして石灰岩を通じた硬水が美味しさの秘密でしょうか。因みに、本土の洗剤をそのまま沖縄で使っても泡が出ません。硬水の沖縄では、改良された独自の洗剤が必要なのです。 2) 西表島のホテルのロビーにあったシーサーです。シーサーは中国から渡って来たもので、元々はライオンなのでしょう。ご存知のように沖縄では家の守り神として、屋根の上、門柱の上、玄関などに飾ります。大抵は焼き物で作りますが、色んな表情をしたシーサーは見ていても飽きませんね。 3) 西表島のレストランにあった装飾品です。ここにも泡盛の甕がありますね。そして三線(サンシン)も。この三線は沖縄の民謡には欠かせない楽器で、共鳴板としてニシキヘビの皮を張っています。楽譜は工工四(クンクンシー)と呼ばれる沖縄独自の物で、旋律は「横書き」ではなく「縦書き」し、歌詞も載っています。 4)~7) いずれも竹富島で観たシーサーです。家並保存が守られている竹富島。南国の空には赤瓦の屋根が良く似合います。その屋根の上で、にらみを利かしているシーサーですが、どことなく愛嬌がありますね。私の想像ですが、これらのシーサーは「観光用」ではないでしょうか。理由はあまりにも奇抜過ぎること。芸術品そのものですものね。 8)~10) これらは小浜島のリゾートホテルの構内で見かけた装飾品です。恐らくは異国情緒を出すために、インドネシア辺りの石像をモデルにしたのでしょう。こんな「石像」が建物ごとに飾られていると、何とも不思議な気持ちになりますよ。でも良く見ると、コンクリートが剥がれ出した粗悪な造り。やっぱり現地で「本物」を観るのが一番でしょうね。<続く>
2013.06.04
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≪ 動物編 ≫ 植物編は写真も「本物」が多かったのですが、動物編ははっきり言って「しょぼい」です。例えて言えば赤い色を塗った「大板」を、「大イタチ」などと称して客を呼び込んだ昔の「見せ物」みたいかも。それでも八重山地方の動物を何とか紹介したいとの思いが、少しでも伝われば幸いです。では早速ご覧いただきましょう。 1) 沖縄近海に生息する色鮮やかな魚達です。由布島の資料室にあった標本を撮りました。 2)、3) いずれも由布島で撮影した水牛です。上の水牛は若くて力がないため、まだ車を引っ張る仕事は出来ません。下の写真は水浴びをしている水牛達です。動くと直ぐに体温が上がる水牛は、時々水中に身を沈めて、体温を下げる必要があるそうです。 4) 由布島で撮ったリクガニです。こんな風に、陸地の樹木の根元に穴を掘って住処にしています。多分これと同じ種類でしょうが、西表島のホテルの廊下をカニが歩いていたのには驚きました。 5) 同じく由布島の資料室で見たヤシガニの標本です。このヤシガニはとても巨大で、熟れたアダンの実が大好物です。「カニ」とついても実際はヤドカリの仲間で、挟まれたら指が切れるほど強力な「ハサミ」を持っています。因みに味は最高級みたいですよ。 6) 由布島の温室でで育てているオオゴマダラで、日本最大の蝶々です。色はさほど鮮やかではないですが、迫力が全然違いますね。 7) 木の枝にぶら下がって金色に光っているのは、オオゴマダラのさなぎです。蝶々もさなぎも今回初めて見ましたが、特にさなぎの妖しい美しさには驚きました。 8)西表島のホテルロビーに張ってあった、イリオモテヤマネコの写真です。全島で100匹しか生息していない貴重な動物を、私達が実際に見ることはなかなか不可能。このネコは数千万年以上もこの島に住みついているため、DNA的には全頭が親戚関係みたいです。集団でイノシシの成獣を襲って食べる、原始的で逞しいネコです。 9) 西表島の大原港で見かけたタクシーです。どこが動物ですって~? ドアをご覧ください。ちゃんと名前が書いてありますから。本土なら笑える名前でも、この島で実際に乗ったら楽しいかもね。 10) これは西表島のホテル周辺の道路で見た「ミナミトビハゼ」のモニュメント。沖縄本島では「トントンミー」と呼ばれている干潟に棲む魚です。有明海の干潟に棲む「ムツゴロウ」の親戚と言ったら良く分かるでしょうか。なかなかの愛嬌者です。 11) これは小浜島のホテル構内で見た看板。ハブは夜行性で猛毒のヘビ。もし誤って噛まれたら30分以内に手当をしないと死にます。また手当が遅れた場合は、神経毒のために噛まれた周囲の筋肉が大量に壊死(えし)します。かつての造山活動で何度か海に沈んだ、高さが100m以下の低島ではハブがいないと言うのが通説ですが、100m以下の小浜島や標高の最高が15mしかない竹富島にもハブがいるとの話。多分石垣島や西表島から泳いで来たのでしょう。 私は3年間沖縄で暮らしましたが、幸い死んだハブに2回出会っただけで、本物のハブに遭遇したことはありません。お墓、城(グスク)跡、御嶽(うたき)のある山などを訪ねる際は、必ず長靴を履き、手に長い棒を持って行きました。ハブは日中湿った場所に潜んでおり、敵が近づくと頭部にある「装置」でその距離を測り、飛びかかって来ます。体長の6割くらいジャンプすると言われています。 何年か前に恩納村の豚小屋で、体長2.5mのハブが捕まったそうです。ハブはネズミが大好物。ブタの餌を食べに来るネズミを捕えるハブは、こんなに役立っているのに何故か嫌われ者です。同じようにサトウキビの根を齧りに来るノネズミ(ビージャー)もハブの大好物。夜のサトウキビ畑には、絶対に近づかない方が良いですよ~。 12) 小浜島での早朝ランで出会ったヤギの親子です。母親はロープで繋がれていましたが、2匹の子ヤギは自由の身でした。暗がりから3頭のヤギがムックリ起き上がった時は驚きましたよ。ヤギの乳は少し生臭いようですが濃厚みたいです。彼らはやがて島民のご馳走になる運命です。親子揃ってのんびり過ごせるのも後数年でしょうか。波照間島のヤギ肉の品質が良いのは、潮風に吹かれた草を食べるから。きっと草には、ミネラル分が多いのでしょうね。 13) 同じく小浜島での早朝ランで出会った牛です。八重山の和牛は子牛の時に売られ、やがて「松阪牛」や「神戸牛」になると聞きました。この牛のお陰で、私は道に迷ったことに気づいたのです。牛さん、どうもありがとうね。八重山では島民の人口より、牛やヤギの頭数が多い島が圧倒的みたいですよ。<続く>
2013.06.03
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≪ 植生編 ≫ 5月17日から3泊4日で旅した沖縄の八重山地方。その旅日記を11回に亘って書きましたが、このシリーズではまだ未公開の写真を中心にして、テーマ毎に紹介します。第1回は植生編。八重山の不思議な植物を、どうぞご覧ください。 1) これは波照間島の<ハマシタン>。天然記念物に指定されているそうです。島の運転手さんは、盆栽用に良いと言っていましたが、はたして天然記念物を盆栽に出来るのでしょうか。 2) これは由布島で見かけた<ナツメヤシ>。たくさんついているのが実です。 3) 一見パイナップルのようなこの実は、西表島で見た<アダン>。熟すと甘い香りがし、この実が大好きなヤシガニが登って食べます。いかにも南国らしい植物の代表。 4) 沖縄ではどこにでもあるのがこの樹、<ガジュマル>です。樹が成長すると、幹からヒゲのような根が延びます。その気根(きこん)で呼吸をします。気根が地中に着いて太くなったのが支柱根(しちゅうこん)。これが幹と複雑に絡み合って、台風から身を護るのです。大きなガジュマルは、昔からウチナンチュの祈りの対象。沖縄本島の名護市には「ヒンプンガジュマル」と呼ばれる高さ25mもの巨木が繁華街の中心に生えており、キジムナーと呼ばれる小人が棲んでいるとの伝説があります。 5) 沖縄ならどこでも見られるサトイモに良く似た<クワズイモ>を、西表島でパチリ。これは名前のように毒があるため食べられませんが、本土では観葉植物として売られています。 6) 西表島で見かけた<トックリヤシ>で、まるでお酒を温める徳利(とっくり)みたいな形をしています。ヤシの他にも、似たような形をした<インドトックリワタノキ>と言う樹もあります。 7) これはバナナではなく<イトバショウ>。西表島で見かけました。イトバショウは専ら繊維を採るために育てます。この糸で織ったのが芭蕉布。とても涼しく夏向きの布ですが、今では織る人が少ないため、高級品になっています。 8) そしてこれが<イトバショウ>の花です。バナナの花とそっくりですが、美味しい実がなるバナナに対して、イトバショウは残念ながら花が咲いても実は生りません。 9) これは西表島船浮湾の奥にある「水落の滝」で見た<マングローブの根>です。いかにもタコの足みたいですが、小さな魚達はこの根の中に身を隠し、敵の襲撃を避けるのです。ガザミ(カニの仲間)もこの根が好きで、簡単に獲ることが出来るとか。 10) 西表島トドマリ浜に出る浜辺の道で、生えているのが<モクマオウ>(木麻黄)です。この樹は一見するととても弱そうなのですが、そのしなやかさで台風から身を守っています。 11) 石垣島川平湾の公園内で見かけた<ソテツ>です。ちょっとした岩とそこに根を張った植物。こんな風景が沖縄のどこででも見られます。 12) これは石垣島川平集落の外れにある「宮鳥御嶽」の森です。鬱蒼と茂った森は神々しさに溢れ、一瞬入るのを躊躇います。本土だったらさしずめ「鎮守の森」。植生は違っていても、きっと日本人が神聖と感じる場所は共通なのでしょう。 13) 石垣空港で見かけた<サキシマスオウノキ>の板根(ばんこん)の写真です。この地面に直角に食い込んだ板根が、台風から身を護るための備え。自然の状況が厳しい沖縄・八重山地方では、植物達も生存するために必死。色んな風に進化して行くのです。<続く>< 5月のラン&ウォーク > ラン回数:12回 ラン距離:159km ウォーク:93km 月間合計:252km 年間累計:1269km うちラン:835km これまでの累計:82185km
2013.06.02
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≪ 石垣島の風景 ≫ 小浜港へ送ってくれた運転手の名前は仲得さん。石垣島の出身のようだが、同じ姓は石垣でも少ないそうだ。だが、「中江」なら内地にもある。宮古島や石垣島には結構内地と同じ姓がある。一説によれば、両島には「倭寇」(わこう)の基地があったと言われる。つまり九州あたりの海賊が、遠く沖縄まで進出していたのだ。仲得さんの風貌は、ウチナンチュよりヤマトンチュに近かった。 石垣島で観光バスに乗る。バスガイドがついたのも初めて。彼女はまだ入社したばかりのようで、説明が初々しい。バスは石垣島観光の名所、川平湾へと向かう。名蔵湾のマングローブが少ないのは、道路を拡張した際に伐採したためのようだ。川平が近づくと、道路は上下2本に別れた。道路脇の美しいリュウキュウマツ。17年ぶりに見る風景がとても懐かしい。 添乗員さんの提案で、急遽グラスボートに乗ることになった。川平湾の観光だ。オプションなので妻に聞いたら、彼女は乗らないと言う。これも予想通り。皆が帰って来るまでの間、周囲を散歩する。先ず川平観音堂を訪ねる。ここはなかなかの風情。歴史的にも何か謂れがありそうだ。その後ビーチへ下りた。 ≪ 川平観音堂 ≫ ≪ 川平湾 ≫ ≪ 川平ビーチにて ≫ その後、私は川平集落へ歩いて向かった。バスの中から気になる森が見えたのだ。あれはきっと石垣島では「おん」と呼ぶ御嶽(うたき)のはず。好奇心がムラムラと湧き上がった。川平の集落にはこんなものも。一つは魚屋さんの手作り看板で、もう一つはガスボンベを利用した「半鐘」。きっと緊急時には、これを打ち鳴らしたのだと思う。いずれも人々の生活臭が感じられる品だ。 ≪ 川平集落の風景 ≫ 汗をかきながら坂を登る。御嶽は意外に遠かった。坂を登り切った先に、こんもりと茂った森。ここだここだ、さっきバスから見えたのは。近づくと鳥居があり、思った通り御嶽。だが、「許可のない者は入るべからず」の立て札。幸いにして周囲には誰もいない。脱帽して境内に入る。沖縄本島ではたくさんの御嶽を見たし、実際に入れた。だが、久高島のフボー御嶽は男子禁制で入れなかった。 宮古島の「おん」は特に神聖な場所で、集落の人以外は入れないことを本で知っていた。旅の初日、運転手さんに「街中におんがあるか」と聞いたのはこのため。ひょっとして観られるかと思ったのだ。その御嶽が今私の目の前にある。説明によれば、鳥居、拝殿、石垣の囲い、そして香炉が一直線に並んでいるのが特徴らしい。なるほど、確かにそう見える。 ≪ 宮鳥御嶽の鳥居 ≫ ≪ 拝殿と思しき建物 ≫ この奥にある不思議な写真は「最終日」に載せる予定。この後川平集落に戻って妻と合流。グラスボートに乗った仲間は不満タラタラだった。船底からサンゴ礁は見えなかったようだ。梅雨の時期は海に流れ込んだ土で、良く見えないらしい。私達は乗らなくて大正解。でも美しい風景を海から眺めるのも悪くないと思う。折角なので集落に咲いていた花を2枚だけ載せておこう。八重山の美しい花々は、改めて続編で紹介する予定。 ≪ 川平集落で見た花 ≫ 石垣港へ向かう車中で、若いバスガイドは「芭蕉布」を歌った。譜久原恒勇作曲の懐かしい歌。私はこの歌が好きで、今でも時々口ずさむ。妻も小声で歌っていた。彼女にとってもきっと懐かしい歌なのだろう。こうして3泊4日の旅は終わった。那覇空港ではわずかの待ち合わせ時間を利用して、お土産を買った。帰路の機内から見えたのは沖縄本島の残波岬、本部半島、そして水納(みんな)島。 ≪ 南アルプス上空から ≫ ≪ 帰路の富士山 ≫ それが沖縄の島を見た最後だった。サヨウナラ沖縄。サヨウナラ先島、八重山の旅。ANA464機は渥美半島の上空で左へと旋回した。ガタガタ機体が揺れたが、それも数分で治まった。右手には南アルプスを経て、世界遺産に登録が決定した富士の勇姿が見えた。大好きな沖縄を再び訪れるのは、果たしていつになるだろうか。<完> ≪お知らせ≫ 写真整理のため、明日は他のテーマにします。そして明後日から何回かに分けて『沖縄・八重山フォト紀行』を掲載予定です。内容は 1)八重山の花々 2)八重山のビーチ 3)八重山の動物 4)八重山の植生 5)八重山の装飾 そして補遺編として 『写真で見る沖縄・八重山の歴史と宗教』を予定しています。乞うご期待。どうぞお楽しみに~♪
2013.05.31
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≪ 「ちゅらさん」の島のリゾートホテル ≫ ≪ 小浜島の地図 ≫ 赤瓦屋根の竹富島から小浜島へ渡る。第3日目のホテルは、小浜島の東南部にあるリゾートホテル。ここでも建設反対の運動があったようだ。地図を見ても分かるように、かなりの面積を占めている。プライベートビーチは勿論だが、専属のゴルフ場を作るため、きっとそれだけの面積が必要だったのだろう。 ≪ 小浜島のホテル ≫ ≪ 部屋からの眺め ≫ ≪ ホテル構内 ≫ このホテルは大きな建物が1つあるのではなく、小型の建物が敷地内に点在する方式。確かに豪華だが、管理棟から離れた場所だとカートにのって移動する必要があり不便。私がこんな形のリゾートホテルに泊ったのは、今回が2度目。4年がかりだった「沖縄本島単独1周」第2年目は島の東海岸を走った。休暇の関係で2日間で150km走る必要があり、やむなく1泊7万2千円のホテルに泊ったのだ。 そこではわずか5時間ほどしか眠れなかった。何故7万2千円もしたのか、答えは簡単。私が泊ったのは4人部屋。つまり1人で4人分の料金を支払ったのだ。悔しいが他に選択肢はない。朝から14時間以上も走り続け、クタクタになっても眠れなかったあのホテル。目の前には飛行場移転で問題の、辺野古の米軍基地。そして海は、とてもきれいだった。 ≪ 小浜島の夕食 ≫ 夕食後、ホテルの構内を散歩。こんな風景を見るのが初めての妻は興奮気味。「クジャクがいたよ!!」。突然妻が叫ぶ。確かにいるとは聞いていたが、本当だったのか。どうやらクジャクは野生で、餌を探しにこの広いホテルへ飛んで来るみたい。その後プライベートビーチへ行こうとして止めた。あまりにも遠過ぎるのだ。一旦戻って送迎用のマイクロバスに乗る。 ≪ プライベートビーチへの道 ≫ ≪ 夕暮れの島影 ≫ 島に夕暮れが迫る。朝の連続ドラマ「ちゅらさん」の舞台になったこの小浜島だが、私は珍しく方向が分からなくなった。西だとばかり思っていた方角が実は東で、この遠くにうっすらと見える石垣島を、私はてっきり西表島だと信じていた。「お父さん、ありがとう」。部屋に戻った時、妻が言った。彼女の口から感謝の言葉が述べられたのは、これが初めて。旅行最後の夜にこんな言葉が出たのは、きっと美しくかつ珍しい風景をたくさん見たせいかも知れない。 翌朝、私はまだ薄暗い中を走りに出かけた。依然方角は分からない。ホテルの構内は結構広く、外へ出るとどこへ向かえば良いのか迷う。ともかく目の前の道路を、信じた方向へ走る。偶然私が選んだ道は、島の集落へと向かう「シュガーロード」と呼ばれる直線道路だったようだ。道路の端で何かが急に動く気配。目を凝らして見ると、立ち上がったのはヤギ。なんと2匹の子ヤギの方は、つながれてもいない。 ≪ 小浜島の親子ヤギ ≫ これにはビックリ。起き上がった子ヤギは、小さな角が生えた頭を母親の乳房にぶつける。その刺激でオッパイが出ることを、この小さな生き物は知っているのだ。だが可愛そうに彼らはやがて自分達が食べられる運命にあることを知らない。沖縄ではヤギはご馳走。何か祝い事があると、ヤギをひねる。ある島の海岸で、私はヤギの頭蓋骨を見たことがある。食卓に上った後の残骸だ。 さらに行くと、道端に「節定めの石」。集落の角を用心しながら曲がると、郵便局があった。良いぞ良いぞ。これは立派な目印になる。さらに進むと、砂糖キビ畑の向こうに小高い丘が見えた。この標高99mの大岳(うふだけ)が小浜島の最高峰。きっと頂上には御嶽(うたき)があるはず。「ちゅらさん」のエリー達も、そこから島の風景を観たのだろうか。 ≪ 小浜島の最高峰 大岳 ≫ 帰り路、不安が的中した。郵便局は分かった。だが「シュガーロード」への曲がり角が分からず、どうやら直進してしまったようだ。野原に牛がいる。そこでやっと気づいた。「おかしいなあ。確か牛は見かけなかったはずだが??」。でもかまわずに直進。お墓の草刈りをしていたおじーに、ホテルへの道を聞く。おじーは無愛想に道を教えてくれた。 私は素早くお墓をチェック。「仲盛家」とある。全く馴染みがなく、初めて聞く姓。だが「中森」ならどうか。1600年代初頭、島津藩が侵入して琉球王朝を実質的に支配した後、島と本土の人間を識別するため、島津藩は本土と同じ沖縄の姓の「漢字」を強制的に変えた。例えば中曽根は「仲宗根」と言うようにだ。大部分のウチナンチュはそんな過去を知らないはず。 まだ油断は出来ない。散歩中の女性にも尋ねたが、生返事が帰ってきただけ。本土の男に用心している気配だ。遠くの山上にホテルの建物。辺りもかなり明るくなって来た。美しく手入れされた並木を見て一安心。ホテルの構内には立派なゴルフ場もあった。豪華なホテル建設に反対した島の人達の気持ちが、何となく分かりそう。 ≪ 小浜島の夜明け ≫ ≪ ホテルのゴルフ場 ≫ 部屋へ戻ると妻がスケッチしていた。入浴して汗を流し、荷物を整理する。朝食後は小浜島とお別れして石垣島へ向かう。いよいよ3泊4日の旅も、今日が最終日。石垣島では、果たしてどんなものが私達を待っているのだろう。もう2度と泊ることのないリゾートホテルよ、ありがとう。そして迷子になった小浜島よ、サヨウナラ♪<続く>
2013.05.30
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≪ 竹富島の赤瓦屋根 ≫ ≪ 船から見た竹富島 ≫ 竹富島は標高わずか15mほどの扁平な島。300人の人口に対して、400頭の牛が飼われている。最初に向かったのがカイジ浜。ここも星砂ビーチらしい。浜の入り口に看板があった。皆治と書いて「カイジ」と読むみたい。この名前が重要な意味を持つことに、後で気づいた。こんもり茂った樹木の向こうが浜。沖縄では良く見られる風景だ。 ≪ 皆治浜の看板 ≫ ≪ 浜の入口に立つ妻 ≫ 浜辺の砂は良く乾いてサラサラしており、探すと小さな星の形をした「星砂」は直ぐに見つかった。皆はキャーキャー騒いでいるが、私は別に感動は無い。これはサンゴの元になる有孔虫の死骸で単なる自然現象。それをビンに詰めて売り出したりするから、今では結構貴重品になっただけ。記念写真を1枚。暑い沖縄では原色が似つかわしい。黄色いシャツも悪くはないか。 ≪ カイジ浜の私 ≫ 島をグルリと廻って、竹富の集落へと向かう。運転手さんがおどけて、「これが竹富の高速道路」と言う。昔の地図には出ていない一周道路。こんな小さな島も、沖縄振興の恩恵を受けているようだ。道路が少し白っぽいのは、サンゴのかけらが混じっているため。単価は上がるがブレーキが効き、雨を良く吸収するそうだ。集落へ入る前に、集合時間が言い渡される。 この島の「売り」は赤瓦屋根の集落らしい。妻は知っていたが、私は全然知らなかった。木漏れ日の小道を進むと、右手に小高い石の構造物。おお~っ、ここにも「のろし台」。それも結構立派なものだ。「お父さん、早く、早く」。すっかり感激していると妻が呼ぶ。何事かと思ったら、観光客を乗せた牛車がゆっくり走っているのが見えた。う~ん。でも牛車はやっぱり、海を渡るのが良いよね。 ≪ 竹富島ののろし台 ≫ ≪ 島の中をゆっくりと廻る牛車 ≫ 集落の中心に神社の鳥居が見えた。まあ何と言うこともない風景で、パチリと1枚。だが、後でここが、八重山の歴史上重要な場所であったことに気づく。沖縄本島を原付で走り回り、40以上の城(ぐすく)や御嶽(うたき)と呼ばれる神聖な場所を訪ねたことがある私は、案外勘が良い方。それはきっと沖縄に対する関心を抱き続けているせいだと思う。 ≪竹富島の世持御嶽全景≫ 小路を入って集落へ行くと、赤い屋根瓦が美しい家々が並んでいた。ええ~っ、未だにこんな家並みが残っていたの~!!。驚くのも無理はないが、ここは沖縄でも有名な「家並み保存地区」だったのだ。私はそれを知らなかっただけ。時間が経つのを忘れ、夢中になってシャッターを押し続ける。すっかり観光客になり切った私だった。 ≪ 竹富集落の小路 ≫ 何と言うことか。ここでシステムから「画像の容量が足らないので、適宜画像を削除せよ」との指示。どうも解せない。これが楽天ブログの欠点なのか。これでは折角の沖縄旅行も台無し。写真はたくさん残っており、このシリーズもまだまだ続けたいのに。仕方がないので、一番古い写真から1枚ずつ削除することにした。一々面倒だが仕方がない。さて、どうなるか? 何とか写真は載ったようだ。他に方法があるか分からないが、当分は「タケノコの皮」を脱ぎ捨てるようなこの方法で行くしかないだろう。ところで最後の写真が不思議。家はないが「更地」でもない。サンゴのかけらが積み上げられたような土地は、一体何だろう。沖縄の島には、時としてこんな不可思議なものがある。だから旅人には面白く、魅力的に感じるのだろう。<続く>
2013.05.29
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≪ 西表は冒険の島 ≫ ≪ 西表島南西部 ≫ これは西表島南西部の地図(部分)。この北側にあるホテルからマイクロバスで移動し、途中干立集落、祖納集落を通り、道路の終点である白浜港からグラスボートに乗って船浮湾の南部にある「水落の滝」へ向かう。そこから「黒真珠養殖場」のある船浮集落を見ながら内離島周辺に進む。ここで船底から3か所のサンゴ礁を眺め、再び白浜港へと戻る船の旅である。 ≪ 滝への水路 ≫ これは船浮湾から「水落の滝」へ向かう水路を逆に見たところ。実際は幅20mほどの小さな川なのだが、潮が満ちれば海となる。両岸にはマングローブが茂っている。マングローブとは塩水に強い樹木の総称で、西表だと「サキシマヒルギ」の樹が主体。この手前の最奥部に滝がある。直接海に落ちる滝は全国で4か所しかないようだが、その最南端がこの「水落の滝」。まさに「秘境」そのものだ。 ≪ 水落の滝 ≫ ≪ 滝を見に来たシーカヤック ≫ 小さいけどなかなかの風情がある滝だった。周囲は鬱蒼とした樹が茂っている。これは滝を見に来たカヌー。と言うより、2人乗りのシーカヤックと呼んだ方が適切か。その向こうに広がるのがマングローブの林で、タコのような「根っこ」が見える。船浮湾は波が立たず穏やかなため、こんな冒険が可能なのだ。この後、船は狭い水路をUターンし、船浮集落沖へと向かう。 ≪ 最果ての船浮集落 ≫ 前方に見えるのが船浮集落。もう一度上の地図を見てほしい。複雑な形をした船浮湾は高い山に取り囲まれており、白浜港から歩くと船浮集落まで3日間かかる由。当初は、「西表島一周道路」の建設計画があったようだが、100頭しかいないイリオモテヤマネコを保護するため、計画を断念。このためここは船でしか行けない、最果ての集落になった。 山に囲まれた湾はとても静かで、水深は80m。このためこの湾は、台風時などの「緊急避難港」に指定されている。手前のブイは、その際に船を係留するためのもの。グラスボートは集落の沖を横切り、サンゴ礁が見える海域へと向かった。船底を見ていた乗客が叫ぶ。「大きな亀がいた!!」。「ウミヘビが泳いでいたよ~!!」。だがそれは一瞬で、私はいずれも見逃した。う~む、残念。 産卵のために、インド洋から東シナ海へと遥々旅をするエラブウミヘビは猛毒だが、口がとても小さいため、人が噛まれることは滅多にない。沖縄では「イラブー」と呼び、滋養強壮剤として料理に使う。また美保関神社など島根県の2つの神社では、黒潮に乗って北上するこのウミヘビを神の使いとして崇め、毎年神前に供える儀式が残っている。 ≪ 水中のサンゴ礁 ≫ 上は実際にグラスボートの底から見えたのを撮影したもの。人間の目にはとてもきれいに見えるのだが、何も補正しないとくすんだ色にしか見えない。下はパンフレットからの借用。 ≪ 船から見た内離島 ≫ これはグラスボートから見た内離(うちぱなり)島。中国人がこの島を購入しようとしていたことを知っていたため船長に尋ねたら、交渉に失敗したようだ。ざま~見ろ、中国。そんなに簡単に日本の島を手放すか~!!ところがこの島には石炭の鉱脈があり、第2次世界大戦の最中に、朝鮮半島から連れて来た人を強制労働させたこともある。秘境西表島には、そんな苦い歴史もあるのだ。 再びバスで島の東部に向かう。これはその途中の「大見謝ロードパーク」付近で見た花の実。大見謝川では、内地の若者集団が川の探検をしていた。「ハブはいないんですか」と聞いたら、「いるかも知れませんね」とあっさりしたもの。もちろん噛まれても平気なよう、彼らは長靴を履いてはいるのだが。馴れ馴れしいヤギがいるレストランで昼食。その後ビーチへ出てサンゴのかけらを拾った。 ≪ 西表での昼食 ≫ ≪ 満腹後の私 ≫ ≪ ビーチで拾ったサンゴのかけら ≫ たくさんの思い出を作った西表島ともこれでお別れ。大原港から船に乗って次の島、竹富島へと向かう。さて竹富島では、どんなものが私達を待っているのだろう?<続く>
2013.05.28
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≪ ヤマネコの島 西表を走る その2 ≫ 困り果てたところに、散歩中のワンちゃんと島の女性がやって来た。大きなラブラドルだが、大人しくて利口そう。名前は「ハナちゃん」でもオス。必死の思いで女性にホテルへの道と、星砂ビーチへの道を尋ねる。弱っているナイチャー(内地人)に対して親切に教えてくれた島の娘さん、どうもありがとうね~♪ ああ良かった。これで一安心。早速ビーチへと向かう。 ≪ 西表島 星砂ビーチの砂 ≫ 浜辺から道路に上がると、再びハナちゃんと島の女性がいた。ホテルへの道を確認して走り出す。どうやらここは岬のようで、道路がカーブを描いている。その坂を下っていると小さな集落があった。沖縄なら、どこにでもありそうな風景だ。 ≪ 西表島 住吉集落 ≫ ≪ いのちの泉 ≫ 集落は通り過ぎたが、崖の下の石碑がなぜか気になった。降りて見るとこのカー(湧き水、泉)は、かつて入植した際の唯一の水源だったみたい。きっと「住吉」の集落名には、移住者の切なる願いが込められているのだろう。さて、水が豊富な西表島へは、昔から移住が多かった。波照間島の運転手さんの話によれば、第二次世界大戦の終結間際、島民は日本軍から追い出された由。乏しい食糧を軍が独占するためだ。 困り果てた村長は自分が住む集落の島民を竹富島へ、そして他の集落の島民を西表島に移住させた。その結果、竹富島へ移住した島民は生き延びたが。西表島へ移住した島民のうち3割が亡くなった。死因はマラリア。西表にはマラリアを媒介する蚊がいたのだ。かつての琉球王朝時代、首里王府は何度も他島から西表島への移住を強制した。湧き水が豊富な西表では、貴重な水田を拓く可能性があったためだ。だが、中には5回移住しても全滅した集落があったそうだ。西表のジャングル内には、そんな「村の痕跡」が今も残っている。 ようやくホテル周辺まで帰る。走った距離は6km程度だが、私にはちょっとした冒険。ホテルへの道路標識が見えた。広い道路の脇には無人スタンド。近寄って見ると、なんと小さなパイナップルが3個で100円。これは激安。買いたいがあいにくお金を持って無いのが残念。仕方なく浜辺へと向かった。 ≪ ホテルへの道路標識 ≫ ≪ 激安の無人販売所 ≫ ≪ トドマリ浜 ≫ ≪ 迷子になった星砂ビーチ方面 ≫ ≪ グンバイヒルガオの群落 ≫ 人っ子1人いない浜辺に、グンバイヒルガオの群落があった。後で聞いたら、妻はここでスケッチしていたようだ。淋しい最果ての風景だが、きっと良い思い出になるはず。 ≪ 西表島での朝食 ≫ 朝食は柔らかい「ゆし豆腐」、県魚グルクンの干物、鮭、ゴーヤなどの野菜サラダ、海苔、スクランブルエッグ、珍味イカミソ、アオサ汁。そして食後にはゴーヤジュース、マンゴージュース、牛乳、ヨーグルト、ライチ、パイン、オレンジなどをたっぷり。食後はブログへのコメントに返事し、2度目のブログ更新。そしてマイクロバスに乗り込み、最果ての集落に向かう。 西表島最奥部の干立(ほしたて)と租納(そない)集落には昔から人が住みついていた由。なるほどそれほど広くはないが、水田が幾つか見えた。きっと山からの湧き水が豊富なのだろう。道路の行き止まりにあるのが白浜集落。運転手に尋ねたが名曲「ナンタ浜」に出て来る「白浜」とは違うみたい。ここからはグラスボートで「水落の滝」のある船浮湾に向かう。目の前に内離島(左)と外離島。いよいよ冒険の旅が始まる。<続く> ≪ 最果ての内離島(左)と外離島 ≫
2013.05.27
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≪ ヤマネコの島 西表を走る ≫ ≪ 西表島のホテル ≫ ≪ ホテルの施設 ≫ 2泊目のホテルは西表島の西北部にあった。そこまでバスで1時間ほど。ホテルに着くなりランニングスタイルになり、走りに行く。交通量を考え、島の最奥部に向かう。つまり南だ。夕暮れが近いが、初めてサングラスをした。人っ子一人通らない道は何だか不思議な感覚。ともかく暑い。まだ気温は30度あるだろう。たちまち汗が噴き出す。歩道はあるが、道路脇の樹木が邪魔。そこで車道を走り、車が来た時だけ退ける。「ホテル建築反対」の看板があった。どこにでも難癖をつける人はいるのだ。 ≪ 浦内川 ≫ 浦内川の橋から引き返す。これは翌日に撮った写真で明るいが、実際はもっと薄暗い。上が海側で、下が山側。河口のため川幅がかなり広く、マングローブが茂っていかにも亜熱帯らしい。山側の写真の左手に小さく写っているのがカヌー乗り場。この川の上流までカヌーで行けるし、海を漕ぎ渡って南の船浮湾まで行くことも可能。ともかく冒険の匂いがプンプン漂う川だ。 ≪ ヤマネコ注意の看板 ≫ 走ったのは40分弱。距離にして5km程度だろう。それでも長年の夢だった西表島でのランニングを実現出来た。道路脇にはこんな看板も。イリオモテヤマネコに注意するよう、ドライバーに呼びかけるもの。いかにも西表にふさわしい光景だ。 ≪ 西表の夕食 ≫ 夕食時に私が選んだのは、八重山ソバ、ラフティー(ブタの三枚肉)、ジューシー(雑炊=焚き込みご飯)、ガザミ(カニ)のサラダ、オオワタリ(大型のシダ類)の若葉の天ぷら、もずくの酢の物、野菜のチャンプルー、ナカミ(ブタの腸)のお吸い物、珍しいヤギ肉のしゃぶしゃぶなど。また食後はアイスクリーム、ぜんざい(沖縄のは冷たい)、ワラビ餅、メロン、スイカ。そうそう、波照間の泡盛「泡波」の残りも飲んだ。まさに至福のひとときだった。 食後はホテルの従業員の勧めで浜辺へ出た。西の空に夕日が沈む。西表の落日は、私が経験した中で最も西側。もう2度とここに立つことはないだろう。生きているのさえ不思議。西国浄土とは、こんな所だろうか。ふ~む? ≪ 最果ての西表の夕日 ≫ ≪ イリオモテヤマネコ ≫ ロビーでは青年が「ヤマネコ学校」を開いていた。天然記念物イリオモテヤマネコに関する講義だ。この青年もヤマトンチュ。つまり内地からこの島に来て、単独でイリオモテヤマネコの研究をしている。そんな彼をホテルが雇い、どうやら「スペシャルメニュー」として売り物にしているみたい。ヤマネコはまだ沖縄の島々がアジア大陸と繋がっていた頃に渡って来た。だがその後切り離されたため、止むなく島に残ったのだ。 似たような仲間に九州のツシマ(対馬)ヤマネコがいる。イリオモテヤマネコの生息数はわずか100頭ほど。彼らは夜行性で、道路に出たところを車に轢かれるケースがある。それを少しでも避けようとしたのが先刻の看板。彼らがイノシシの赤ん坊のウリボウを食べることは知っていたが、どうやら集団で成獣をも襲うみたい。そうして彼らは何千万年もの間、この島で生き残って来たのだ。 「ヤマネコ学校」の終了後、三々五々若い宿泊客がロビーに集まって来た。一体何事が始まるのか。「夜のジャングル探検ですよ」。講師の青年はこともなげに答えた。なるほどねえ。確かにスリルに満ちた夜のジャングル探検は、好奇心の強い若い旅人には魅力。必ず「売り物」になるからホテルも雇う訳だ。その後私はホテルのパソコンを使い、旅先からのブログ更新を試みた。 翌朝の起床後、私は再び走りに行った。今度は北へ向かってみよう。走っている途中に「星砂ビーチ」への道路標識発見。ほほう、これは面白い。折角ここまで来たのだから、訪ねてみない手はない。ところが遥か沖合に小さな島が見えた。あれは間違いなく鳩間島。夢中になって写真を撮った。 ≪ 鳩間島 ≫ 鳩間島は西表島の北方に浮かぶ、人口わずか51人の小島。沖縄勤務時の同じ宿舎に鳩間島出身の方がいた。経済学専攻のO助教授で、彼はとても温和な人。ところが今春、鳩間島出身の教授がR大の学長に選出されたと聞いてビックリ。沖縄を去って23年経つが、名前は同じO先生。小さな島から2人も研究者が出るのは困難なので、きっとあのO先生だと思うのだが、確証はない。思わず感慨に耽っていたら、来た道が分からなくなってしまった。お~い、一体俺はどっちへ行けば良いんだ~!!<続く>
2013.05.26
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≪ 水牛と花の島 由布島 ≫ ≪ 八重山諸島の位置関係 ≫ これは八重山諸島の地図で、丸の中の番号は、私が今回の旅で訪れた順番。沖縄本島の那覇空港から飛行機で石垣島へ渡り、そこから波照間島へ船で渡った。その後3番の由布島へ行くのだが、正確には先ず一旦西表島の大原港(島の右下:下図参照)に船で渡る必要がある。由布島はその西表の東海岸に浮かぶ小さな島。水牛と花の島だ。 ≪ 西表島の地図 ≫ 由布島は西表の海岸から500mほど沖に浮かんでおり、ここを水牛が引く車で渡る。この遠浅の海は干潮時には歩いて渡れるそうだ。島の人口は15人とか。島には牛舎と美しい花々を売り物にする観光施設があり、住民はその施設の職員なのだろう。周囲が海なのに真水が出る由。これは対岸の西表島に高い山が連なり、そこに降った雨が伏流水として由布島に湧き出るためだ。 ≪ 往路に乗った「優作」の勇姿 ≫ 水牛はとても力持ちで、15人ほどの観光客が乗った車を楽々と引っ張り、左手前方の島まで渡る。ただ、直ぐに体温が上がるため、労働の後は体を水に漬けて体温を下げる必要があるそうだ。島内で見た花々は20種類以上。ここでは名前の分かるものだけを載せ、残りは続編の『八重山写真紀行』で紹介する予定。乞ご期待。 ≪ ランタナ ≫ ≪ ハイビスカス ≫ ≪ 白のブーゲンビレア ≫ ≪ サンダンカ ≫ ≪ ゲットウ(月桃) ≫ ゲットウの葉には強い香りがあり、沖縄ではこの葉で餅を包む。葉の香りが移った餅を仏前に供えるのが風習だ。またゲットウには殺菌作用があるため、この葉を原料にして作った紙は虫に食われない。沖縄にはゲットウをはじめ強い芳香を放つ植物が多く、空港ビルを出た途端にどこからともなく香りが漂って来る。オーストラリアの首都キャンベラでは、公園を走っているとユーカリの香りが漂って来て、沖縄を懐かしく思い出したものだ。 ≪ オオゴマダラ ≫ 八重山を代表する大型の蝶、オオゴマダラである。これは温室内で飼われたもの。私は興味がないので分からないが、蝶好きのファンにとっては垂涎ものなのだろう。 ≪ たそがれの由布島 ≫ 日は西に傾いた。夕暮れが迫ったが、この後私は西表島で走るのだ。帰路に乗った水牛の名前は「イチロー」。彼はとても温和でしかも賢こい。手綱を引くおじーが突然三線(さんしん)を弾き出し、私達に一緒に歌えと言う。曲は「安里屋ユンタ」。♪または~りぬちんだらかぬさまよ♪ の「はやし言葉」が入るあの歌である。イチローは私達の歌を聞きながら、ゆっくりゆっくり浅瀬を渡った。<続く> ≪ イチローと優しそうなおじー ≫
2013.05.25
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≪ 島ちゃびのべすまー(波照間島) その2 ≫ ≪ 波照間島のぴみざー(ヤギ) ≫ マイクロバスの運転手さんの話によれば、波照間島は周囲が14.8kmで約18k平米。標高は60m。世帯数は277世帯で、人口は531人。集落は5つ。島内で飼われている牛は450頭で、ヤギが300頭。雨は全国でも8位になるほど良く降るが、川がないこの島では水の確保に苦しんでおり、海水を淡水化している由。その海は透明度が高く、かつ塩分濃度が高いそうだ。 電気は島単独で、風力と火力によって発電している由。空港は現在使用されてないとのこと。滑走路が短か過ぎるためだ。かつての飛行機は6人乗りで、搭乗前に乗客は体重を聞かれ、左右のバランスを計算して座席を決めた由。今は船が唯一の交通手段。なるほど小さな島の苦労が良く分かる。話してくれた彼は東京からUターンしたばかり。彼のサトウキビ畑も見たが、あの規模での現金収入は限られるだろう。 沖縄には「島ちゃび」と言う言葉がある。「ちゃび」は「寂び」(さび)で、「孤島苦」を意味する。きっと島の生活は大変なはず。私は運転手さんに聞いた。オヤケアカハチはこの島の人か。そして「大わらじ」の伝説はないかと。果たしてオヤケアカハチは島の人だった。そして大わらじの伝説はないそうだ。 ≪ 反乱する島民と制圧する側 ≫ 琉球王朝時代、沖縄本島を制圧した中山王は、その勢いで先島をも勢力下に治める。その過酷な税負担に怒って立ち上がったのが石垣の島民。武勇高い波照間のオヤケアカハチが石垣から加勢を頼まれたのだ。だが彼らは敗れ、全員処刑される。琉球王朝にとってアカハチは反逆者の代表。だから墓が残っているかを石垣島で尋ねたのだ。もしあれば今も島民に慕われている証拠だし、無ければ王朝に屈したことになる。 それが墓がちゃんとあり、子孫もいることが分かった。今、波照間島の小学校では郷土の英雄オヤケアカハチについて学び、劇にも取り上げているそうだ。そして「大わらじ」は与那国島の伝説だった。異国と国境を接する与那国では、「巨人」が住んでいると思わせるため海に大わらじを流したのだ。また妊婦に岩の割れ目を跳ばせた伝説は、王朝時代、間引きで税負担を逃れようとした悲しい逸話。全ては「島ちゃび」、孤島ならではの苦しみだ。 石碑には「日本最南端」とあるが、これは正確ではない。正しくは「有人の島では最南端」。確か小笠原諸島の沖の鳥島が日本の最南端だったはず。でも観光で稼ぐしかないこの島では、「最南端」を売り物にし、「証明書」を発行している。悲しいまでの努力だ。 これは1700年代に起きた大津波のため、海中から陸に打ち上げられた「津波石」。島の標高は60mだから、津波の巨大さが分かる。同じような津波石は、宮古島や石垣島にもある。そちらは陸地が100m以上の島。相当の大地震が起きた証拠だ。津波石の付近に咲いていたのがモンパ。良く見ると花の形が違うのがある。一方はまるで「海ブドウ」のようだ。 ≪ 普通のモンパ ≫ ≪ 咲き終えたモンパ? ≫ これは「コート盛」と呼ばれる、琉球王朝時代ののろし台。緊急の事態が発生した時はこの高台からのろしを上げ、周囲の島々に煙で伝えた。のろしによる情報伝達システムは、沖縄本島周辺にもあるが、私が実物を見たのは初めて。島内には他に城(ぐすく)跡もあるようだが、多分アカハチの反乱が鎮圧された後に、破壊されたはず。 島内には小さな天体観測所があった。夜が暗いこの島では、合計で84もの星座が見られる由。高速の自転車ロードレーサーで走っている人は駐在所のお巡りさんみたい。つい最近、家族で大東島から転勤して来たばかり。いかにものんびりした島に相応しい話だ。再び「にし浜」へ行き、昼食を摂る。 メニューは豆腐ソバにご飯。アオサと野菜の天ぷら、刺身、野菜の煮ものと漬けものなど。資源の乏しいこの島では、これが精一杯のご馳走なのだろう。合わせて缶ビールを1本いただく。その後、浜辺で記念撮影。赤い服も結構似合うと思うのだが、どうだろう? 最後は港に戻っての買い物。島の焼酎は生産量が少なく、とても貴重品なのだとか。飲料水は海水を淡水化したものだが、焼酎は島の乏しい水を使うためだろう。商店では売り切れて石垣島の焼酎しかなく、共同売店で1合瓶を1本だけ買えた。早速島の焼酎「泡波」を飲んでみたが、かなり濃厚な味。30度の焼酎は普通3年以上熟成させ、古酒(くーすー)と呼ばれるが、ここではわずか1年でこの味わい。なるほど人気が高い訳だ。私が飲んだ島酒「泡波」は、どうやら幻の酒らしく現地で売ってる数もごくわずかだった。 ≪ 波照間島の個人商店 ≫ そうそう、貧しい島ちゃびの幻想が生んだ幻の島の話を書くのを、すっかり忘れていた。島の名は南波照間(ぱいはてるま)。波照間島の遥か南の沖合に、幻の桃源郷が存在すると考えた島人達。それだけ現実の生活が苦しかった証だ。それを描いたのが下の絵。夢の理想郷「ぱいはてるま」だ。<続く> ≪ 菊池契月画 「南波照間」 ≫
2013.05.24
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≪ 島ちゃびのべすまー(波照間島) その1 ≫ 熱帯夜の寝苦しさに何度か目が覚めた。仙台ではまだ冬布団なのに、こちらではクーラーをかけて寝る。その落差に体が順応しないのだ。翌朝は5時起床。外はまだ暗いが、走りに行くことにした。ランシャツとランパン姿でホテルの外へ。前夜は石垣島の地図をじっくり眺めた。その結果、オヤケアカハチの石碑が大浜集落にあり、石垣ではオンと呼ばれる「御嶽」(うたき)もあることが分かった。 それはともかく、さてどっちに行こうか。街灯はあるが、道に迷うのは嫌。とっさの判断で西に向かう。途中左折し港へ向かおうとしたが止めた。曲がった道路が複雑に見えたためだ。知らない所では、なるべく真っすぐな道を往復するのが良い。小さな橋を右折すると名蔵湾に向かうようだ。17年前には街中から真っすぐ西に向かい、「唐人墓」までの往復20kmを走った。 体力に自信があったあの頃に比べ、今は無理が出来ない歳。20分ほど走った所から引き返す。途中亀甲墓(かめこうばか)を発見。沖縄では良く見かけるお墓で、私にとっては懐かしい風景。暗いが、親しみすら覚えるほど。亀甲墓は琉球王朝時代に中国福建省の風習が伝わったもので、俗説では母の胎内を表わすと言われている。つまり死後再び母に抱かれる訳だ。 ≪ 暗闇の中の亀甲墓 ≫ ホテルに戻ると妻が絵を描いていた。走った距離は6km程度だが、汗がなかなか止まらない。シャワーで汗を流し、真っ赤なTシャツと半ズボンに着替える。これなら一日涼しく過ごせるはず。歳の割には少々派手だが、人目を気にすることはない。南の島では快適なのが一番。そのスタイルで早速朝食に向かう。 ≪ 絵を描く妻 ≫ 朝食は「おからじゅーしー」(雑炊)、クロレラ麺、パン、野菜各種と魚、湯豆腐、ゴーヤジュース、マンゴージュース、ヨーグルトなど。旅先でも便通のため、乳製品は欠かさず摂る。部屋に帰って荷物を整理。不要なものは今夜泊る西表のホテルに直送する由。やれやれ。これで重い荷物を持たず、身軽に移動出来るのが嬉しい。第2日目は石垣港から、先ず波照間島に向かう。 ≪ 波照間行きの船 ≫ 船は結構揺れた。波はさほど高くないのだが、船が高速のため衝撃が大きいのだ。左手に黒島が見え、次に新城島が見えた。どちらも扁平な島だ。右手に高い山が見えるのが西表島。少し眠ったのは、疲れが出たせいか。波照間は沖縄では最南端の島。そして「有人」の島では日本の最南端。ちっぽけなこの島に心惹かれるのは、やはり最果ての離島のせいだと思う。 ≪ 波照間港遠望 ≫ ≪ 波照間島の案内板 ≫ 「はてるま」とは本来「果て」の「うるま」の意。「うるま」は沖縄の言葉で「麗しい土地」。つまり、最果ての島だ。だが、波照間の人々は自分の島を「べすまー」と呼ぶ。「べ」が「はえ」(南)の変化で、「すまー」が「島」。つまり「南の島」の意味だと気づいたのは帰宅後。う~む。確かに南の島であることに間違いはないのだが。 最初に向かった先が北浜。これで「にしはま」と呼ぶ。沖縄では東が「あがり」で西が「いり」。これは太陽が東から「あがり」、西に「入る」ことに由来する。南は何度も書いた「はえ」。これは南風(はえ)に由来。そして北が「にし」。最初の木枯らしを沖縄では「みーにし」と呼ぶ。「みー」は「新」(にい」の変化で、直訳すれば「新北風」。島国沖縄では自然と生活が密着し、方角が大きな役割を果たす。<続く> ≪ 写真はいずれも波照間島のにし浜ビーチ ≫
2013.05.23
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≪ おもてなしの歌と踊り ≫ ≪ 新石垣空港の風景 ≫ 「白保か、やっぱりな」。私は納得した。前の空港はかなり石垣市内に近い便利な場所にあった。だが滑走路が短かく、大型の飛行機が発着できないという点が致命的で、島の経済発展のためにも新空港が必要だったのだ。その場所については私が沖縄に赴任した平成元年には出ていた。もう25年も前のことだ。それが今年の3月が開港だから、立案から30年かかったようだ。 実に気の長い話だが、それだけ長期間かかったのは、建設場所についての論議がなかなかまとまらなかったためだ。農地をつぶすのはダメ。海を干拓するのも貴重なサンゴ保護の観点から困難。やはり少し山手の台地を削るしかないと喧々諤々。延々と続く論議に島の人々は焦っていたようだが、やはり決まるべき場所に決まったのだろう。 マイクロバスは曲がりくねった道を、石垣市の繁華街へ向かう。石垣島へは前にも来ているので、大体の方角は分かった。窓か眺めていたのはホテルからどこへ走ろうかと、見当をつけていたのだ。繁華街を少し外れた場所に私達が泊るホテル。だが部屋に荷物を運び入れた時、疲労が激しいことに気づいた。 バス、電車、飛行機の乗り継ぎ、そしてバス。私達は朝からずっと乗り物に乗っていたのだから疲れるのは当然。そして春の東北から真夏の沖縄へ来た。気温は30度。急激な温度の変化に、体がまだ対応出来てない。妻には今日は走らないことを告げた。初日から無理は出来ない。大浴場で汗を流し、夕食の会場へ行く。出来るだけ地元の料理を食べたい。その方がきっとここの風土に合うと思う。 ≪ 第一夜の夕食 ≫ 私が選んだのがこれら。八重山ソバの具にはアオサの天ぷら、ナカミ(ブタの腸の脂を抜いたもの)、ソーキ(ブタのわき腹肉)。石垣牛のチャンプルー、寿司4貫、ゴーヤなどのピクルス、ニガ菜とタカ菜のソテー等々。そして千円の飲み放題のオリオンビールと、地元の泡盛「請福」と「八重泉」。旅の安全を祈って妻と乾杯。アルコールに弱い私は、1杯のビールと2杯の泡盛で十分だった。 ≪ 地元の泡盛2種 ≫ すっかり良い気分になってショウを観る。私はてっきり島唄のライブだとばかり思っていたのだが、出し物はハワイの歌とフラダンス。中には沖縄の民謡をアレンジした曲もあったが、それもすっかりハワイアン調。ハワイの女性が歌い、踊るのは2人の日本人。それも内地の女性。「やっぱりなあ」と心でうなづく。 ≪ 第一夜のショウ ≫ ハワイの女性はきっと「出稼ぎ」なのだろうし、内地の女性は沖縄の魅力に取りつかれ、ここで働き、ここで暮らしているのだろう。そんな人をこれまでもたくさん見て来た。まあそんな詮索は止めて今夜は地酒に酔い、ハワイの歌と踊りに癒されよう。「お父さん、ずいぶん幸せそうだったね」。部屋へ戻るなり妻がそう言った。あれ~っ、ひょっとして鼻の下が延びたのがバレたかな? こうして記念すべき旅の第一夜は更けて行った。<続く>
2013.05.22
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≪ 3つの質問 ≫ 3泊4日の沖縄旅行から昨夜戻った。今回妻と行ったのは「先島地方」と言う、石垣島以西の島々。そこで大小6つの島を訪ねた。200km超級のレースを走り終えた後もそうだが、私はあまり良く眠れず真夜中に目が覚めた。興奮した神経が鎮まるまでは後数日かかる。そこで早速沖縄で撮った254枚の写真をパソコンに移し、ブログを書くための準備を開始した。 現地で撮った写真の他にも、絵葉書やもらったパンフなどから取り込みたいものもある。今回の旅日記のタイトルは「ぱいぬ島へおーりとーり」にした。意味は「南の島へようこそ」。「おーりとーり」は石垣島の言葉だが、「ぱいぬ」を石垣島で使うかどうかまでは分からない。 南風泊(はえどまり)のように、内地でも南や南風を「はえ」と呼ぶが、これが沖縄だと「ぱい」、「へー」、「ふぇー」のように変化する。そして「ぬ」は「の」の意味。明確な母音が5つある内地と異なり、沖縄は長く3母音が基本で、島々によって言葉はさらに変化する。 それはともかく、今回の紀行は、きっと長い長~い旅日記になるはず。だから最後までお付き合いいただけると嬉しい。さて「前置き」はそれくらいにして、早速お話を書き始めよう。 ≪ 沖縄の版画カレンダーより 『南の緑門』 ≫ ANA463便は予定の時刻通り仙台空港から那覇へ向けて飛び立った。妻と2人で向かう沖縄先島地方への旅。世界で3番目の大地震「東日本大震災」では、飛行機が津波に流された仙台空港の映像がショッキングだった。あれから2年2カ月。海岸の防風林は無残なままだが、空港自体の機能は何とか回復した。 福島県相馬市の松川浦が見える。外洋に架かる橋が津波で破壊されたと聞いたが、上空から観る限り無事のようだ。東京電力福島原発は遠くて細部まで確認出来ないが、どことなく不気味な印象。筑波山、渡良瀬遊水地と利根川がはっきり見えた。そして富士山と富士五湖も。天竜川と浜名湖も確認出来たが、遠州灘に入った辺りから機体が大きく揺れ出した。どうやら乱気流に突入したようだ。 大きな揺れは30分以上続き、厚い雲しか見えなくなった。私は沖縄へ向かう機内から、いかにも夏らしい入道雲を見るのが好きだ。だが目の前の雲はまるで白い雪原のよう。奄美や沖縄は既に梅雨入りだが、その雲の上は青空で太陽が照り渡る不思議さ。雲のあい間から沖縄の伊平屋島、伊是名島が見え、その後で本部半島と伊江島が見えた。那覇空港に定刻通り到着。外は小降りの雨。 石垣島行きの飛行機に乗り換えるため、空港ビルに入る。通路にはいつものようにランが出迎え。だが外部と通路の明るさが違い過ぎて、人間の目のようにはきれいに見えないのが残念。空き時間を利用しお土産を物色。今回の旅は結構ハードスケジュールで、なかなか土産物を買う時間がない。そこで予め目星をつけようと思ったのだ。 ≪ 那覇空港のラン ≫ 石垣行きの便では、妻に窓側の席を譲った。石垣島は沖縄本島より430km南西の東シナ海に浮かぶ島。幸い雨は止み、海が見える。新石垣空港へ着陸する直前には、黒島と思われる島も見えた。空港から見える山は於茂登(おもと)山。沖縄で一番高い526mの山頂に、自衛隊のレーダーを宮古島から移設する話もあるみたい。困ったことに、尖閣諸島を偵察する中国のステルス機を、標高の低い宮古島では捉えられないのだ。 ≪ 新石垣空港から臨む於茂登岳 ≫ ホテルに向かうマイクロバスに荷物を積み込んだ後、運転手さんに3つの質問をぶつけた。 1)ここは白保か? 2)島内にオヤケアカハチの墓があるか? 3)石垣島の街中に「オン」はあるか? その答えは新空港のある場所は、思った通り「白保地区」。意外にもオヤケアカハチの墓はちゃんと存在し、その子孫もいるようだ。「オン」も街中にあるとのこと。ふ~む。私が抱いていた疑問は意外にもあっけなく解決した。<続く>
2013.05.21
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今晩は~!!先週の金曜日から出かけていた沖縄から、今夜無事帰宅しました。留守中にたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。昨夜泊った小浜島のホテルは個室型のリゾートホテルでパソコンがなくブログの更新が不可能でした。 小浜島はNHKの連続ドラマ「ちゅらさん」の舞台になった小さな島です。ホテルの敷地内は明るいのですが、島の中は道路が曲がりくねり、明るい時でないと走るのは無理。それでも少し明るくなった今朝、ホテルから島の中へと走りに行きました。行きは良かったのですが、帰りはやっぱり迷子になり、苦労しながら何とか戻りました。 沖縄では毎日ご馳走ばかり食べていたせいか、先ほど体重を測ったら1kg増えていました。これを元に戻すのに、果たして何日かかりますか?(泣)沖縄の旅行記は、明日からゆっくり書かせていただきます。写真もたくさん撮って来たので、お楽しみに~。今日は疲れ果て、皆さんの所にお邪魔出来ませんが、どうぞよろしくお願いしますね~。ではでは~!!
2013.05.20
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皆さんおはようございます。今日は5月19日日曜日。昨夜と同様西表島のホテルのパソコンを使ってブログを更新しています。時刻は5時30分を過ぎましたが、こちらは日本の最も西に近いため、外はまだ真っ暗ですよ~。 本当は走りに行きたいところですが、ここは西表でも裏側の、とても寂しい場所です。従って外灯は全くありません。こんな状態で外を走るのは危険。なぜならハブがうろついている(笑)可能性があるためです。70近いマックス爺でも、まだ命は惜しいですからね!!(笑) 石垣島での第一夜は、ハワイアンと沖縄民謡をミックスした、とても不思議な歌に癒されました。フラダンスもなかなか素敵でしたよ~♪そして西表での第2夜は、なんと「ヤマネコ学校」。つまり天然記念物であるイリオモテヤマネコについて、現地で調査している若者が話してくれました。その後は、「夜のジャングルツアー」がオプションであったようですよ~。 今日は底が見えるグラスボートに乗って、ボートでしか行けない西表の集落を訪ねる予定です。これもなかなか体験できないので楽しみ。昨日の夕方は、ホテルから浦内川という所まで走ってゆきました。マングローブが生い茂る亜熱帯の川は、なかなか魅力に富んでいましたよ~♪浜辺から夕日が落ちるのを見ましたが、なかなかグーですね。 こちらでの夜明けは7時過ぎ。でも少し明るくなり出したら、少し走って来ようと思っています。そしてチャンスがあったら、再び夜にでも更新したいと思っていま~す♪ではでは皆さんお元気で、休日をお過ごしくださいね~!!
2013.05.19
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今晩は~!!西表のホテルから書いています。旅は順調で、天気も思ったより悪くありません。気温は暑いです。昨日も今日も30度でした。今朝は石垣島で5kmほど走り、夕方は西表島の裏側を6kmほど走りました。 食べものは美味しいです。こちらに来てからは、主にこちらの食べものを中心に食べています。そのほうが気候に合うと考えてのことです。ビールは沖縄産のオリオンビールを、そしてそれぞれの島の泡盛を飲んでいます。やはり水が合うせいで、それが一番美味しく感じます。 明日は西表の「秘境」を船で訪ねます。その後、竹富島を経由して小浜島へ泊まります。「ちゅらさん」の舞台になった島です。明日の朝は再び西表を走り、夕方は小浜島を走る予定です。どうやら「仙台国際ハーフ」の疲れも取れ、脚の痛みもかなり引いたようです。 今日は波照間島へ渡り、そこから船で西表へ来たため、まだ体が揺れているような感じです。今夜はゆっくり寝たいのですが、昨日と本日楽天が中日に2連敗したので眠れるでしょうか?(泣)写真もたくさん撮ってますので、どうぞお楽しみに。ではまた~。お元気で~!!
2013.05.18
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皆さん今日は~!! いつもマックス爺のブログへご来訪いただき、ありがとうございます。仙台は5月に入っても結構寒い日が続き、4月に植えたゴーヤとナスが弱ってしまいました。そうなると虫に食われ易くなり、さらに弱ります。そこで昨日はゴーヤとナスの苗を急遽買い増しし、畑に植えました。もう遅霜の心配はなく気温も上がるので、これからはどんどん成長してくれるはずです。 写真は我が家のボタンです。最盛期には25個ほど大輪の花を咲かせてくれたのですが、今年はわずか6個だけ。きっと樹勢が衰えて来たのでしょう。肥料を上げるなど、何か対策をする必要がありそうですね。この豪華なボタンの花はとても雨に弱く、悲しいかな今はヨレヨレの姿を曝しています。 ≪ 沖縄の版画カレンダーから 「花咲く島道」 ≫ さて突然ですが、妻と今日から沖縄へ旅行します。日程は以下の通りです。(初日) 仙台空港 == 那覇空港 == 石垣島 1泊 (島唄ライブ)(第2日目) 石垣港 ~~ 波照間島 ~~ 西表島 ・・ 由布島 ・・ 西表島 1泊(第3日目) 西表島観光 ~~ 竹富島 ~~ 小浜島 1泊(第4日目) 小浜島 ~~ 石垣島 == 那覇空港 == 仙台空港 ≪ 抱瓶(だちびん) かつて農民が腰にぶら下げて使った水筒:今は美術品 ≫ 私は平成元年4月から3年間沖縄に勤務し、内地へ転勤後も20回近く沖縄を訪れています。それは仕事だったり、趣味のマラソンでの訪問でした。一方妻は、私の赴任と共に2年間沖縄で過ごしただけで、その後1度も沖縄を訪れたことがありません。だから修復なった首里城も知らないのです。さて、私が沖縄を訪ねる際の旅費は全て自分の小遣いをやりくりしたもので、家計からの援助は一切受けていません。 妻はこの間せっせと家計を切り盛りし、節約に勤めて来ました。今もパートで働いていますが、勤務は今年度まで。長い間頑張って来た妻への感謝の印に、沖縄旅行をプレゼントすることにしました。もちろん支払うのは私です。そこで妻の希望を聞いたら、まだ見たことのない先島地方へ行きたいとの返事。これは困った。沖縄本島内なら安いのですが、先島となれば結構ツアー料金がねえ。 ≪ 琉球漆器のお盆 絵柄はデイゴの花 木地もデイゴです ≫ でも一旦男が口にしたした以上、「高いからダメ」とは言えません。それに石垣島を除いて、私もまだ行ったことがない島ばかりで、とても魅力的です。この1人分のツアー料金は、ちょうど私のマラソン経費の1年分に相当します。それが2人だと2年間分。その小づかいが僅か4日間で吹っ飛ぶんですからねえ。でもこれは「母の日」のプレゼント代わり。ここは気持ち良く行こうじゃないの。 ≪ カラカラとぐい飲み カラカラには泡盛を入れ、本来はストレートで飲みます ≫ 既に梅雨入りしている沖縄。だからきっと雨の日もあるはず。気温は最低が23度以上で最高は30度近く。完全な夏で、涼しい東北との気温差はかなり大きいでしょう。だがそれもまた良し。出来れば南の島で少し走りたいと願い、バッグの底にランニングシューズを入れてあります。さてさて今回の旅が果たしてどんなものになるか。それは行ってみてのお楽しみ。 皆様行って来ます。留守をしますがよろしくね。写真をたくさん撮って来ますので、楽しみに待っててくださ~い。そしてまた、マックス爺のブログを訪れていただけたら嬉しいです。ではでは皆さん御機嫌よう!! ≪ 琉球漆器のお盆 絵柄はユウナの花 伝統的な赤色はブタの血を使う由 ≫
2013.05.17
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沖縄では「石敢當」と書かれたり彫られたりした四角い標識が、三叉路に張りつけられているのを良く見かける。それは中国の武将の名前で、三叉路に潜む魔物から人々を守ってくれると長く信じられて来た。また屋根にはシーサー(獅子)がいて、家々を魔物から守るとされている。どちらも中国から伝わった風習だ。 さて、つい最近政府は名護市辺野古崎周辺の公有水面の埋め立て許可を沖縄県知事に申請した。だが、県知事以下「騙し打ち」に等しいとして、評判はすこぶる悪い。一応書類は名護市が受け取った。本件に関して国は代執行はしない方針が、昨日の国会で明らかになった。つまり国は強制執行せず、県の許可を静かに待っていると言うことだ。 沖縄本島にある全市町村長が、宜野湾市の普天間基地の辺野古移転に反対とのこと。理由は県外移設が適切との考え方だ。その一方で地元の辺野古漁協だけは移転に賛成。現在でも海兵隊の基地キャンプシュワブ周辺では漁業が出来ないためだ。沖縄の人の気持ちは良く理解出来る。だが、県外移設はそんなに簡単ではないし、地理的に離れた基地から米軍が沖縄を守れるだろうか。 街のど真ん中にある普天間飛行場が老朽化して危険なことは、県民なら誰でも知っている事実。騒音など環境の劣悪さも相当なもの。それを過疎地の辺野古へ一時的に移設し、その間に基地の国外移転と削減とを米国と交渉するとの政府方針は、とても現実的だと私には思える。今後7年間で嘉手納以南の基地の返還を実現するとの考えも、沖縄県民の要望に叶うと思うのだが。 沖縄でタクシーに乗ると、運転手が良く基地の借料のことを話してくれる。「毎年1千万円以上の借地料が入る地主は働きもしないで、朝から泡盛を飲んでいる」と。何故そんなことを話すのか。それは私が内地人だと分かって安心しているため。島の人同士では蔭では噂しても、面と向かってそんなことは言わない。それがきっと小さな島の「掟」なのだろう。 基地内の借地の15%を中国が買い漁っている話をご存じだろうか。中国では外国人に土地を売ることはない。だが、日本は全く無警戒だ。中国の魂胆は何か。島民の米軍基地反対と独立心を煽るため中国が密かに工作しているとの噂もある。今後30年以内に沖縄を奪おうとして中国は本気だが、その根拠が琉球王朝時代の「冊封体制」とは、お粗末極まりない論理。それなら東南アジア諸国は全て中国領になるからだ。 台湾に最も近い与那国島の要望に基づき、目下自衛隊基地用地獲得の交渉が進んでいるが、実施は来年度以降にずれ込む由。その理由は年間1200万円の借地料とは別に島が求めた10億円の「迷惑料」。日本国内でこんな不当な要求は沖縄以外では生じない。今尖閣列島周辺では沖縄の漁民が自由に漁が出来ない状態にある。中国の艦船が妨害してるためだが、こんなことをいつまでも許していて良いのだろうか。 江戸初期の薩摩藩の侵入、明治期の「琉球処分」と日本への編入、太平洋戦争時における地上戦と戦後の米軍統治など、沖縄がこれまで味わった悲惨な歴史は私も良く知っている。米国との間にある「地位協定」は早急に改正されるべきだし、適正な基地返還も早急に進めるべきとは思う。だが現実はどうか。軍が政府よりも強い権限を持つのが中国なのだ。 24年前に沖縄へ赴任した私は本土とのあまりの相違に驚愕した。川は汚水が垂れ流しで悪臭に満ち、道路は凸凹、道端には朝まで酔っ払いが寝そべり、子供は自転車を盗んで売り、高校生が酒酔い運転で次々に事故死し、離婚率は日本一で自殺者が多く、日本復帰から十数年経ってもまだ本土との大きな格差に喘ぐ姿がそこにはあった。 6年前から4年をかけて、私は沖縄本島を走って一周した。総距離は440km余り。那覇軍港の後背地は無税の貿易地区に生まれ変わり、米軍の宿舎があった天久地区は見事な副都心に変貌し、「ゾウの檻」と呼ばれた読谷村の巨大なレーダー基地は緑地に変わっていた。そして島の北部は私の在任時とは異なって、まるで高速道路のような国道が整備され、貧しかった頃の面影はどこにもなかった。日本復帰の恩恵と言ったら不適切だろうか。 沖縄はこのまま「被害者意識」に寄りかかり、その代償として莫大な整備費を要求し続けるだけで良いのだろうか。度の過ぎた「平和教育」や島民を煽るだけの報道を見直す必要はないのだろうか。そして中国の野望を打ち砕く国土防衛を、島民は一体どう考えているのだろうか。それが心から沖縄を愛する私の素朴な疑問だ。 これは冗談だが、かつて琉球王朝時代に中国から伝わった「石敢當」やシーサーは、今や三叉路や屋根の上にではなく、大陸に向けて立てるべきではないのか。もちろん美しい沖縄を中国の手から護るためにだ。 ≪我が家のシーサー≫ 1. 琉球第二王朝の王墓である玉陵(Tama-udun)を護るシーサーのミニチュア版。陶器。 2.沖縄の走友が私の離任時に贈ってくれた特製のもの。陶器。 3.沖縄の走友が私の離任時に贈ってくれた堆朱製のもの。 4.観光用の土産品。磁器。
2013.04.03
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≪ 本部半島周辺の島々(1) ≫ 『宮城島』 昨年の11月、私は沖縄本島の北部にある本部半島を走って一周した。4年に亘る「沖縄本島単独一周」の最終年だった。名護市真喜屋と言う集落までタクシーで行き、そこから橋を渡って島へ行く。最初の島が宮城島。沖縄で「宮城」とか「奥武」(おお)とつく島は、かつては風葬の地だったことが多い。ここでも小島へ渡った途端に、沖縄独特のお墓が見えた。「やっぱりなあ」私はお墓を見ながらその傍を走り抜けた。 『屋我地島』 次の屋我地島も沖縄本島と地続きみたいなものだ。この島は結構大きく、本部半島の付け根に「ふた」をしたような感じ。その内側にあるのが遠浅の羽地内海だ。島へ渡ってすぐの道端に何かの死骸があった。1m50cmもある白いハブだった。後で聞いた話では、屋我地はハブが多いので有名らしい。これには驚いた。何故なら標高100mくらいの島にはハブがいないとされるからだ。 かつて沖縄の島々は中国大陸と陸続きだった。だが造山運動が激しくなって隆起と沈降を繰り返すと孤島になり、標高100m以下の低い島は何度か海の下になり、この時ハブは死んだ。だが扁平な屋我地島にハブが多いのは、沖縄本島に近いため海を泳いで来たのだと思う。まあ日中走るのであればハブは見えるので心配はないのだが。 屋我地島に入って間もなく道は行き止まりになった。その先にあるのは病院だけ。地元の島民に道を聞きながら、古宇利島へ渡る橋を探した。後で気づいたのだが、多分あの病院は「らい病」専門の病院。全国でもあまり人の来ない淋しい場所にらい病の病院があることを私は知っていた。かつては不治の病として偏見の対象だったらい病も、特効薬が出来た今では普通の病気だ。 一旦古宇利島へ渡った後で再び屋我地に戻るのだが、その時に観たのが「オランダ墓」。これは幕末に来たフランス艦船の乗組員の墓地。当時外国人のことを沖縄では「オランダー」と呼んだのだ。狭い海峡の向かい側つまり本部半島側に運天港が見えた。そこから伊是名島や伊平屋島に渡るフェリーが発着するのだが、かつて源(鎮西八郎)為朝がこの港に立ち寄り、琉球王の祖になったとの伝説がある。いわゆる「日琉同祖論」で、日本が琉球を併合し易くするための作り話みたいなもの。 『古宇利島』 古宇利大橋を渡って島へ行く際に、海中にライオンみたいな岩山が見えた。私は勝手に「ライオン島」と名付けた。橋の上からは沖縄本島が微かに見えた。古宇利島は周囲2kmほどの円形の島。この島の特産がモズク。沖縄は全国でも有数なモズクの産地だが、その7割をこの小さな島で養殖している。養殖用の網には「種」が着き易いように、ビニールのひもが結んであった。 古宇利大橋が出来てから観光客が増えたのか、島内の至る所にレストランや展望台、宿泊施設などが出来ていた。数年前に一種のブームがあったようだ。だが、そのうち半数以上が既に閉鎖されていた。こんな小さな島はあっと言う間に見終わってしまい、休む必要もないからだろう。折角の投資が無駄になったその「残骸」を見ながら私は島を一周した。 島の西側からは本部半島が良く見えた。琉球王朝時代には、この島にも烽火(のろし)台があったようだ。目の前には運天港、そして北部の守りである今帰仁(なきじん)城が見え、島の東側からは沖縄本島の北部が見渡せる絶好の位置にあるこの島は、きっと戦略上も重要だったのだろう。 わずか2kmほどの距離に1時間近くもかかったのは、坂が急だったためだけでなく、不整脈が起きていたのだと思う。帰路の橋の上から、朝の光に包まれた沖縄本島が見えた。芭蕉布で有名な大宜味村辺りだ。あれほど崇高な景色を見たのは久しぶりだった。<続く>(メモ) 本日はこれから「ツタンカーメン展」を観るために東京へ向かいます。帰宅が遅くなるため、コメントへの返事が遅れることをご了承くださいませ。
2012.09.22
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≪ 宮古島 ≫ 職場に宮古島出身の男がいた。彼は沖縄では有名な詩人。その詩集を見せてもらったが、まるで呪文のようでチンプンカンプンだった。宮古島の言葉は沖縄の中でも特異らしい。例えば「平良」は沖縄本島では「たいら」だが、宮古では「ひらら」。それを地元では「プサラ」と発音する由。彼の詩を読んだことや亜熱帯の風景に驚いたことなどが、25年ぶりに私に詩を書かせた。 その島を初めて訪れたのは平成9年の冬。8番目の職場の出張の時だ。私は早速、琉球王朝時代、石垣島で起きた反乱を鎮めた島の英雄仲宗根豊見親の墓や、当時使用された大和ガー(降り井戸)などを見学した。また翌朝には西平安名(いりぴんな)岬方面に走りに行った。私は全国どこにでもランニングシューズを持参し、平成16年に47都道府県を走破している。 宮古島はロングタイプのトライアスロン「ストロングマンレース」で有名だが、これは余りにも人気が高く、出場は実績と抽選によって選考される由。一方ウルトラマラソンもかつて2つのレースがあった。土曜日にあったのが海宝氏主催の「宮古島ウルトラ遠足」で、翌日の日曜日に地元主催の「宮古島ワイドーウルトラ」が開かれた。共に距離は100kmだが、中には2つをかけ持ちする強者もいたのだ。 私は平成20年の「ワイドー」に出た。これは宮古の言葉で「頑張れ」の意味。前日の「遠足」は27度の猛暑だったが、この日は21度と絶好のウルトラ日和。風もあってとても走り易かった。三角形の島を時計回りに廻るのだが、スタートの5時はまだ真っ暗。日本の最西部にある沖縄は、位置の関係で夜明けがかなり遅いのだ。夜が明けたのは、来間(くりま)島に架かる来間大橋を戻った時。真っ白い砂に、エメラルドグリーンの海が美しかった。 西平安名岬からは池間大橋を渡って池間島を一周する。橋の上は猛烈な西風で、海には白波が立っていた。夏は穏やかな島だが、冬は厳しい季節風が吹き荒れる。この500mほどの海峡は干潮時には浅瀬となり、昔は竹馬で渡った由。平良市内に戻った時、苧麻(ちょま)の栽培園を見つけた。前日、たまたま島のオバーが機を織っているのを見た。それが苧麻だった。 苧麻は日本の古代、税金代わりに納められたいわゆる「調布」の原料となる繊維だ。琉球王朝時代、宮古島ではこの宮古上布が税の代わりに納められた。折角の機会なので、レースを中断し見学。苧麻は60cmほどの高さの、赤い表皮を持つ植物だった。東平安名(あがりぴんな)岬ではマミヤの墓を見た。彼女は琉球王朝時代首里の王府から来た役人の現地妻。役人が沖縄本島に帰った後、この島一番の美女は絶望して海に身を投げたと言う。 85km過ぎからは厳しい坂道の連続になった。七又海岸にはパイナップルに似たアダンの実が実る並木があった。その先で横浜の走友Tさんに追い着いた。彼は前日も100kmを走っている。私より2歳年上だから当時は66歳のはず。彼とは「秋田内陸」、「奥武蔵=埼玉」、「しまなみ海道=広島~愛媛」などでも何度か会っているが、まあ元気な人だ。 5時過ぎ、イルミネーションが点いたホテルの庭にゴール。12時間02分45秒。私にとっては2番目の好タイムだった。池間大橋付近では、前日走った走友会の仲間が車中から応援してくれた。翌日、宮古空港から飛び立った機内から、雲の合間に伊良部島が見えた。間もなく宮古島との間に橋が架かるらしい。あの頃は1市2町1村だった宮古島も、今では全島が合併して宮古島市になったと聞く。 その昔、倭寇の基地が置かれ、貧しさゆえに渡り鳥のサシバ(現在は天然記念物に指定)まで食べたと言う島も、今ではすっかり豊かで美しい島に変わった。その島を再び訪れることはないだろう。私も年老い、もう100kmレースを走るのは無理。わずか4年前だが、今にして思えばあの頃がウルトラランナーとしての絶頂期だったのだろう。<続く>
2012.09.20
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