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~意外な訪問者~ レース後涙ぐむ池江選手 水泳の池江璃花子選手(20歳)の復活には胸を打たれましたね。一昨年の2月に白血病と診断されて以来、長い間の入院と治療生活。白血病は「血液のがん」ですから、治療のための抗がん剤で強烈な吐き気が起き、栄養は点滴で採っていた由。その間に体重は15kg減り、水泳のための筋力もすっかり落ちてしまったようです。きっと髪の毛も抜け落ちたことでしょう。 思わずガッツポーズが それが先日開催された「日本選手権」に出場し、100mバタフライで1位となり、東京オリンピック水泳女子メドレリレーの標準記録を突破しました。2年以上の闘病にも関わらず、彼女の水泳に寄せる想いは変わらず、復活の日を目指してトレーニングを開始したのが2か月前。ドクターにはプールに入るのは良いが泳ぐのは禁止と言われ、プールの中で歩いて徐々に筋力と体重をを取り戻した由。 1位の盾を手にして そして、大会会場のプールへ来た時に「ただいま」と小さくつぶやいたと聞きました。どれだけ辛く長い道のりだったことでしょう。そして優勝してもオリンピックに出られるとは限らないと自分に言い聞かせた由。この1か月間で記録を2秒短縮しても、今大会は8日間で11レースに出場予定の彼女にとって、まだまだ安心出来るコンディションではないとの自覚があるのでしょう。さすがは一流選手ですね。ガンバレガンバレ瑠花子!! 一流選手の復活と言えば、ロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手もそうですね。花巻東高校時代、球速が高校新記録の163kmに達し、日ハムでは二刀流開花で好成績を上げてメジャー挑戦。メジャーでも好成績を上げたものの、怪我により手術。その後は投球を避けて打者として活躍していました。昨日の対シカゴ・ホワイトソックス戦で2番ピッチャーとして先発出場。メジャーでは118年ぶりの快挙だった由。 この日も1回裏にソロホームランを放って幸先良い出だし。ただ後1アウトで勝利投手の権利を得る5回表3-0からランナーを出して、最後は自分の暴投と打者の降り逃げで同点に追いつかれ、3年ぶりの勝利はなりませんでした。最終回、同僚の3ランホームランでサヨナラ勝ちだったので、後アウト1つ取れば彼が勝ち投手だったのに残念です。 倒れ込む大谷選手 この日はホームゲームのためユニフォームは白。5回表2アウトでサードランナーのスライディングを受けてホームベースに倒れ込む大谷選手。これでピッチャー交代となりました。幸い怪我は大したことなかったようです。身長190cm、体重93kmの見事な体格で右投げ、左打ちの器用な彼。今では英語が上手になり、同僚とのコンタクトのためスペイン語も習っている努力家です。ガンバレ大谷!! 二階自民党幹事長 頑張ると言えば、この人も強気ですなあ。野党が内閣不信任案を出すと脅せば、出すなら出しなさい。私たちは受けて立ちますよ。と解散権を持つ総理大臣でもないのに、即答する始末。与党の幹事長ともなれば、いつでも総選挙への備えは出来ているとでも言いたいみたい。与党議員や政府高官に不正や不始末が多発している現状で、菅総理の支持率は47%台とか聞きましたが。本当に大丈夫なのかな。 ピンポーン♬ チャイムが鳴ったのでドアノブを開けると、立っていたのはおばあちゃん。あれまあ。これは予想外。先日相談した便利屋さんと話した時とはかなり様子が違う。家に入ってもらって話を聞いてもらう。そのうちに主客が転倒して、私が彼女の人生相談を聞く形になってしまった。人生修行の一環と思えば辛抱出来るが、これで有料とは何だかなあの雨の日ではあった。
2021.04.06
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~曇り空から雨へ~ 紅菜苔 先日安い園芸店で買った「お値打ち品」の紅菜苔(コウサイタイ=日本名:紅菜花)を茹でて食べた。するとあら不思議。食感と味がワラビにそっくり。私は鍋に少量の塩を入れて適当な時間茹で、その後水で冷やした。そして適当な長さに切り、ポン酢をかけた。後でネットでレシピを見たが、案外それで良かったみたい。やはり主夫の経験が生きたかも。もう2束あるので、楽しみに食べたい。 在りし日の沢村忠選手 たまたまネットのニュース欄を見たら、懐かしい名前が載っていた。キックボクシングの王者沢村忠さんが亡くなった由。享年78歳。昭和18年の早生まれで私よりも1学年上。若い頃から父に空手(剛柔流)を習い三段を取得。大学は日大の芸術学部で映画学科を卒業した由。これは意外だった。空手では全日本学生選手権で優勝。60勝無敗の経歴を引っ提げてキックボクシングに挑戦した。 得意技は「真空飛び膝蹴り」 ムエタイ(タイ式ボクシング)の本場であるタイに単身乗り込み、フェザー級8位の強豪と戦って16度のダウンをくらい、25か所以上を怪我し4ラウンドKO負けだった。だがそれから猛練習を積んで、得意技「真空飛び膝蹴り」を編み出し、以降昭和51年に引退するまで241戦して232勝。そのうちKO勝ちが98.3%と言う強者だった。私も手に汗を握り、TVを見て応援したものだ。合掌。 さてわが家にもとうとう新型コロナ感染症のワクチン接種の案内が届いた。中にはバーコード付きの帳票が同封されていたが、まだ接種の場所や時期は明記されておらず、市の関係ホームページを「お気に入り」登録し、今後はそれでチェックするようにとのこと。これじゃあ、いつになるかは全くの不明。早めに届いた高齢者用の案内ですら、まだこんな現状なんだもんなあ。 先日、とある便利屋さんに電話し、自宅へ来てもらった。来たのはまだ若い夫婦。これはちょっと予想外だった。もっとベテランかと思っていたのだが。先ずは家の周囲を一周して観察をしてもらった。次に家に入ってもらって一通り各部屋やコーナーを一巡し、様子を見てもらった。最後に居間に案内して二人にとある相談を持ち掛けた。するとご主人の方が乗り気で、早速行動を起こすとのこと。 まあ「終活」に関する準備は色々考えられるが、自分の余命とその時の体調ですべきことが決まる。まあ一人で心配してたら不安だらけ。こうして時々周囲に相談しながら必要な準備をし、不安を取り除くしかないね。それにしても先ずは何より、出来る限り健康を維持することだ。数日ぶりに雨が降った。 楽天生命パーク球場 「まん防」こと新型コロナの蔓延防止に関わる措置は、仙台にあるプロ野球の球場、プロサッカーのコート、そしてプロバスケットの体育館にも適用されるようだ。売店の営業時間短縮や、入場者数の制限にも影響するはず。雨の中で開催された対オリックス3連戦の最終日は完封負けを喫し、今回もまた2勝1敗となった。西武ライオンズの勢いが凄い。そしてロッテの快進撃も始まった。要注意だ。 空に描いた😊マーク 世界曲芸飛行大会のチャンピオンである室谷義秀さんが、新型コロナ感染症流行で落ち込む都民を慰労し、医療従事者への感謝の気持ちを表そうと、3月31日東京の空11か所に😊マークを飛行機で描いた。線は熱した油を噴射して描くが、全くの「勘」らしい。線は3分しか持たず、上空の強風で直ぐに流される由。故郷の福島でも3か所で空に😊マークを描いた。彼の曲芸飛行を見たことがあるが、時速300kmの高速で、決められたポールの間を蛇行するスラロームの技は抜群なんだよ。
2021.04.05
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~4日遅れのエイプリルフール~ 3日遅れの便りを乗せて♬~ 都はるみの「アンコ椿は恋の花」じゃないけど。4日遅れのエイプリルフールとジョークをお届けしよう。 1つ目は冗談が通じなかった話。上は本物のドイツ・フォルクスワーゲン社のロゴと社章。 ジョークの社名 で、こちらがエイプリルフール用に準備したロゴ。今後は電気自動車主体にシフトするとの社の方針を表すかのように、「ボルツワーゲン」とロゴを変更。ボルツは電圧(ボルト)のドイツ語表記。笑いを誘うために同社が内密に準備したエイプリルフールネタだったのだが、どうしたわけか事前に漏れ、大きなニュースになってしまったのだとか。とんだ勇み足だった。 婚約発表する叶姉妹 2つ目はこのゴージャス姉妹のお騒がせ。毎年4月1日になると二人そろって記者会見し、「私たちこの度婚約しました」とのたまうのが恒例行事とか。もちろん願望はあるのだろうが、事実とは異なり世の注目を浴びると言うか、ファンサービスと言うか話題を提供してくれる。ひょっといて2人の豊かなバストも「盛ってる」のだろうか。 琴電の踏切 3つ目はジョークではなく本物。「無理な横断はおやめください」のフレーズと共に、6パターンの絵が描かれている。もちろんこんな姿で踏切を通る人はいないが、アッと驚く「警報」。これは香川県の琴平電鉄(愛称コトデン)の踏切に実際にある由。因みにこの6つのポーズは絵心のあるコトデンの車掌さんが考えて描いたと言うからビックリだ。 ここからはジョーク。もしも関係者がおられても、どうぞ笑ってお許しくださいませ。 何を隠そう。実は私たちは4月1日の日に結婚式を挙げたのです。これは本当なのですが、出席者の中には冗談だと思った方もおられたようでした。元来この日は年度替わりの大事な日で、1年で一番忙しい日とも言えるでしょう。でもそれから46年後、私たちは離婚しました。妻が大金を持って家を出て行きました。これは笑えない事実ですが、彼女は認知機能を失ったようでした。 先日保険会社の小母さんがやって来ました。香水がプンプンして良い匂い。おまけに暑いと言って上着を脱ぎ、上体を揺さぶると胸がぶるんぶるん。そして彼女のアンヨが私のアンヨに触るのよねえ。それが彼女の作戦だったのか、女っ気に飢えていた私は、新しい契約に即サインしたのでありました。 以下、著名人からコメントをいただきましたが、あくまでも洒落です。剣道にもあるでしょ「上段(冗談)の構え」と。 私。これまで出しゃばり過ぎました。反省して政界から引退し、オリンピックも返上いたします。 どうしてオレばかり批判されるのかねえ。自分で言うのも何だが、オレは正直者なんだがなあ。 WHO視察団の皆さん、新型コロナ発生の原因が不明のままでの帰国ゴメンなさいね。次の凶悪ウイルス発生の際は、隠さずに全部調べていただきます。これホントあるよ。シェイシェイ。 しかし政治の世界なんて実にチョロイねえ。認知機能が落ちた私でも十分務まるよ。次の大統領選にも立候補しようかな。 やあ、しばらく元気かい。チャイナウイルスが治まったら、またフロリダでゴルフを楽しもうね。だけどジョー爺さん、ボロを出さずに案外頑張ってるなあ。しかし引退するとこんなに体が楽だったとはねえ。健康と世界平和を祈って乾杯!! (文責マックス爺)
2021.04.04
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~買い物は自転車に乗って~ わが愛車である。実際は電動アシスト付きのママチャリ。自転車屋はバッテリーで70km走行出来るとの売込みだったが、トンデモナイ話でその半分も持たず、せいぜい20kmが限界。軽いレース用のロードレーサーでは1日220kmくらい走り、マウンテンバイクでも往復100kmは楽に走った。今は買い物の荷物が重いため、電動のお世話になっているが、全く運動しないよりはマシ程度かも。 最初の店では買わずに、プラスチックや牛乳のパックなど「資源ゴミ」を持って行くだけ。2番目の店が私が主に買う安い店。それでも4個120円だったコロッケが、最近3個で120円に値上げした。イワシも以前はトレーに8匹入って300円だったのが、最近は7匹に減った。店も苦労してるのだろうが、年金生活者も知恵を使い節約する。帰宅して魚やモツ、刺身などの生ものを素早く処理。 昼食後は少し遠い園芸店へ。途中Z川の土手のソメイヨシノが満開。ここの桜を観たのは1年ぶりか。名取川に架かる太白大橋を渡る。ここは遠くまで見えて気持ち良い場所。東日本大震災以前は、毎年秋の終わりには川を遡上する鮭の姿が橋の上から見えたものだ。震災以来鮭の姿を見かけないのは、養殖と孵化のための施設が破損でもしたのだろうか。 5km先のS園芸店まで来たのは、野菜と花の苗を買うのが目的で、ついでに安い野菜があれば買う。それを誕生祝いのカードを使って割引してもらう。用件が済んだらさっさと帰宅。むろん苗を植えるためだ。 名取川の岸辺と中州がきれいに整理されていた。恐らく水水害対策用に、岸辺と中州に茂っていた樹木を切ったのだろう。それは流れを阻害しないための措置。奥羽山脈こそ望めなかったが、三角形の特徴ある太白山は遠望出来た。帰宅後畝を掘り返して石灰を撒き施肥。小さな穴を掘って苗を植えた。 左からカリフラワー、キャベツ、ブロッコリーで各2本ずつ。先日はジャガイモを植えたが、今月末にはトマトなど夏野菜の苗を植え、キュウリなどの種を蒔く予定。これからが家庭菜園も草抜きも本番。恐らくは直ぐに日焼けするはずだ。 植木鉢の花を買って来たばかりのガザニア(左)に植え替え。葉ボタンの「とう」が立ってみっともなくなっていた。茎が紫色の紅菜苔(こうさいたい=右)を茹でると、茹で汁が美しいピンク色に。名前からすると中国原産の野菜なのだろうが、既に「とう」が立ち始めている。でもとても健康に良さそうな印象。今日買った物はほとんど処理し、イワシは塩を振って一夜干しにした。まあまあ充実した春の一日。
2021.04.03
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~🌸サクラ満開🌸~ ソメイヨシノ 3月31日。仙台気象台が、ソメイヨシノの標本木が満開になったと夕方のニュースで。何でも3月中にソメイヨシノが満開になったのは、観測が始まって以来初めてのことと言う。それはそうだ。地球温暖化が進み、ロシアの潜水艦が北極海で訓練をしてるみたい。それに仙台はこのところ暖かく、先日も半袖シャツとランパンで走ったが、全く寒く感じなかった。 ドライカレー 先日思いついてドライカレーを作ってみた。まあ手っ取り早くて簡単レシピ。それに材料も適当で良く、さほど多くないご飯の量が具材のために増えるのも好都合。結局はこれで3回分の食事になった。もちろん栄養のバランスを考え他のおかずと組み合わせるのだが、久しぶりに味わうカレーの風味が新鮮だ。こんな工夫が自分の生活力を上げる。先日は残っていた「強力粉」でお好み焼きを作った。 ラッパスイセン 4月1日木曜日。この日から新年度だが、リタイヤした今ではあまり気にする必要がなくなった。現役の頃はこの時期に4月1日付人事異動の内示があるため、かなり神経質になったものだ。今はお天気を気にしながら洗濯をし、出来るだけ布団を干す。時間を見ながら庭の草取りを済ませ、素早く戻る。この日は保険会社から電話で確認がある日。用件を済ませ、昼食用のラーメンを作った。 甲子園球場 狂喜する東海大相模 12時半から試合開始のセンバツの決勝戦を観戦。大分の明豊高校が先行すると、すかさず東海大相模が追いつく展開で五分と五分。堂々たる横綱相撲だった。だが何度か好機を逸した明豊高校に対して、後攻の東海大相模は9回裏の好機に神経を集中し、最後の最後にうっちゃった。3α対2のサヨナラ勝ち。これでコロナ禍中で開催された今年のセンバツは無事終了。本当にお疲れ様と言いたい。 それに引きかえ、この日の東北楽天は惨めだった。先発はドラ6社会人の瀧中だったが、この新人ロッテを相手に2回持たず、1回3分の2で10失点と散々なプロデビュー戦。まるで「捨てゲーム」ではないか。これで第2クルーまでは2勝1敗のペース首位ソフトバンクの勢いを思うと、喜んでばかりはいられない。今日から本拠地でオリックスとの3連戦だが、出来れば3連勝と行きたいところ。 近所のソメイヨシノ 3時過ぎから歩いて買い物へ。家を出て直ぐ、近所の小川の畔でビックリ。目の前のソメイヨシノが満開だった。わずか数日間家にいただけで、外界は激変していたのだ。バス通りを避け、敢えて安全な裏道を行く。家々の庭にコブシやモクレンや乙女椿の花々。植木鉢の花も多彩で花壇ではスイセンの花盛り。 近所の枝垂桜 角の小公園では枝垂桜が満開。やっぱり今年の春は早い。この分だとA公園の桜もM公園の桜も満開のはず。カメラはあるけど、未だパソコンに取り込めない状態なのが悲しい。だから今ブログに載せているものは、全てがネットからの「借り物」なんだよねえ。 スミレの群落 買い物を済ませ、帰路は重たいリュックを背負ってとぼとぼ帰る。今度は別の道で、こちらでも満開の桜や、家々の庭や植木鉢の花をたくさん楽しんだ。自宅付近で裏道に入ると小川の土手にスミレの群落。絵よりももっと濃くて鮮やかな紫色。恐らくはタチツボスミレだろうが、国内のスミレは260種もあると何かの資料で読んだことがあり、本当の名前は不明のまま。 夕方のニュースよれば、大阪府、兵庫県、そしてわが宮城県に「蔓延防止等重点措置」が今月5日から1か月間発令とのこと。1日400人を超える陽性者の大阪府ほどではないが、仙台市でも陽性者が急上昇中でとっても怖い。イベントの入場者数は5千名までに制限されるが、わが「楽天生命パーク」での試合も関係ありか。高齢者に対するワクチン投与も、果たして今後どうなるのか。今は全くの五里霧中だ。
2021.04.02
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~ランニングと俳句~ ランニング姿に着替えていざ出発しようとした時、裏でウグイスの声が聞こえた。直ぐ裏の家はご主人が10数年前に亡くなり、空き家になって無人。その庭の梅の木が満開で、ウグイスは梅の蜜につられてやって来たのだろう。そこで俳句を詠む気になった。 仕舞屋の庭にも初音猫の聲 *しもたや *はつね *声 「仕舞屋」(しもたや)は商売などを止めてしまった家のこと。「初音」はウグイスの初めの頃の鳴き声で春の季語。「猫の恋」や「猫の子」は春の季語で「季重なり」になるため猫の聲とした。誰も住んでいない家の庭にもウグイスや野良猫の鳴き声がすると言う春の風景。 この日も黄砂が降るとの予報。国道の辺りまで走って来ると、真上は青空だが地表に近い部分が霞んで汚れ、この時期なら見える雪を戴いた蔵王連峰の姿が全く見えなかった。ああ無情。 黄砂激しく蔵王連峰隠れけり *「黄砂」が春の季語 いざわれもランニングせむ弥生尽 *やよいじん 「弥生尽」(やよいじん)は本来旧暦三月の月末の意味で、春の季語。今は太陽暦だが、旧暦と変わりなく使っている。3月下旬が誕生日の私は、今年77歳になった。いわゆる「喜寿」だが、本来は「数え年」でのお祝いだが、これも拘らずに使っている。喜寿記念のランニングは先日も行った。 ツクシ(土筆) 通学路整列する子つくづくし 道端にタンポポ’(蒲公英)とツクシ(土筆)が並んでいた。どちらも春の季語だ通学路を小学生の一団が整列をしながら歩いて学校に向かう。「つくづくし」は「つくし」の異名。俳句や短歌の世界では音数を揃えるため、こんな風に音数の異なる異名を用いて、句の音数を整える技法がある。子供もツクシも真面目に整列しているおかしみ。 タンポポ 蒲公英やなぜか気怠き昼餉時 *タンポポ *けだるき *ひるげどき 漢字の蒲公英はなんだか人の名前みたいで、初めて「タンポポ」と読むと知って大層驚いたものだ。さて春の正午ともなれば腹も空く。まして暑い中で走ると余分にエネルギーを消費する。だから私はスポーツドリンクを薄めたペットボトルを持ちながら走るのが常。それで喉の渇きも癒せる。 アオキ(青木) 沼温み紅の実の転げ落つ :ぬるみ :くれない 農業用水の沼の畔に赤い実が見えた。これはアオキ(青木)でわが家にもあるが。冬は野鳥が実を食べに来る。それは良いのだが、落ちた種が土を被りやがて小さな苗になる。青木の名を詠みたいのはやまやまだが、生憎それだと冬の季語になるためやむなく「温み」(春の季語)を使った。最善ではないが次善のこともたまにある。トサミズキ 瓔珞 瓔珞のごとく揺れをり土佐水木 *ようらく *トサミズキ 瓔珞(ようらくまたはえいらく)は仏具の一つで、仏像などの傍にある装飾品。トサミズキは春先に薄黄色の花を咲かせる植木で、春の季語。良く似た花に日向水木(ヒュウガミズキ)があるが、こちらは季語に選ばれてない。風に揺れる可憐な花を、仏具に見立てて詠んだ一句。 アカヤシオ 赤八汐子は故郷を去り行けり *アカヤシオ *ふるさと ピンクのヤシオツツジを赤ヤシオと呼ぶのが通例だが、ツツジが春の季語。白花のを白八汐と呼び、どちらも庭木として珍重されている。この花が咲くころ愛するわが子は故郷を出て、都会の大学へと向かった。 イチリンソウ 人夫らの見向きもせずに一輪草 道路工事の現場近くで白い花が咲いているのを見つけた。花の形からしたらイチリンソウかニリンソウのはず。そう思って柵を乗り越え確かめに行った。結果は一輪草だった。キンポウゲ科の山野草。この付近に群落があることは知っていたが、まさか道路の直ぐ傍に、こんな可憐な野草が残っていたとは。私の走るコースは自然が豊富。ありがたいことだ。一輪草が春の季語。黄砂の日の思わぬ出会いだった。 春の校庭球児はつらつノック受く *うく N高校の裏手まで来ると、硬式球の打球の音がした。この県立高校は10年以上も前に県の代表になって甲子園に行ったことがあった。結果はあえなく1回戦敗退だったが、それでも同校生徒の間では、いつまでも語り草になるのだろう。「受く」は「受ける」の文語体。 甲子園のセンバツ準決勝は東海大相模高校と大分の明豊高校が接戦をものにし、決勝に進出した。決勝戦は本日の12時30分開催。 辛夷(こぶし) 校門の辛夷去る者来る者 *きたる ぐるりと回って、N高の正門まで来た。ここには見事な辛夷の並木があり、満開の時は圧倒的な存在感となる。この校門を入って新入生となった者や、この校門から出て卒業して行った先輩たち。比較的新しいこの高校にも、それなりの歴史が刻まれて来たのだろう。この日もまあまあ快調で、帰宅後早速残り湯で体を洗った。黄砂で天気は今一だったが、走りながら俳句が詠めて幸いだった。
2021.04.01
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~わが日常些事~ 仙台にも今年最初の黄砂が記録されたと、仙台気象台からの発表。まださほどの量ではないが、用心して走りには行かなかった。花粉症の人は用心が必要で、より細かくて鋭い黄砂の粒が、花粉を破壊して肺の内部まで侵入する恐れがあるとのこと。これは予約機能を使って前日に書いてるため、明日3月31日には果たしてどんな状態になるのか。全国的な黄砂で、酷い所では結構な量が降ったみたいだが。 黄砂は偏西風に乗って大陸からやって来る。発生する場所は2つの砂漠。日本に近いのがゴビ砂漠で、地図の黄色の場所。モンゴルと中国の内蒙古自治区に跨っている。英語でGOBIと記載されているが、その西側にある薄クリーム色の砂漠がタクラマカン砂漠(右)で、これは中国の新疆ウイグル自治区に所属。目下国家的なジェノサイドとして世界から中国が非難されている地区。ここは石油、天然ガス、石炭などの鉱物資源が豊富で、中国の強硬姿勢はそれを奪取するのが目的に猛烈な中国化を推進中だ。 スエズ運河で座礁した日本国籍の大型コンテナ船だが、当初「砂嵐」のための座礁と主張していた日本側に対して、エジプトの運河庁は責任は全て日本側にあると強硬のようだ。運河の通航料は1日15億円の損失。それに待ちぼうけを食らった各国の船442隻が被った経済的損失を加えたら、賠償額はどれくらいに上るのか。下りる保険金も膨大だが、損失はきっとその数倍には達するのだろう。 豊後梅 私は夜間の突風で散った梅の花びらや、植木の葉っぱを掃いた。そのままだとお向かいさんに迷惑がかかるからだ。その後引き続き庭と畑の雑草を抜く。雨上がりのため簡単に抜けるが、ヨモギの根は案外しぶとく地中にまだ根が残り、何日か経てばまた葉が茂る。しぶとい雑草は、ヨモギのほか、スギナ(ツクシ)やドクダミも同様な厄介者で、これからの時期は草取りが私の重要な仕事となる。 スミレかと思ったのはツルニチニチソウ(蔓日々草=左)だった。西の通路には大きめの株があるが、いつの間にか庭にも定着していた。オレンジ色のとても小さな花はフユシラズ(右)。名前の通り冬の間も寒さに耐えて咲いている元気者だが、春になるとさらに勢いが増す。 ハナニラ(左)は庭のあちこちで群落を作り、清楚な姿が美しい。白い花や少し青みがかった花と実に微妙な色合い。葉の形がニラに似ていることからの命名だろうが、本物のニラもこのところの気温上昇で茎が延びて、そのうち食べられるようになる。ボケ(右)が咲き始めた。朱鷺色(ときいろ)のとても上品な色合いで、これは山形の職場の一枝を切って、挿し木したのが成長したものだ。 ラッパスイセンの茎がしっかりと伸びて、その先端にラッパ(喇叭)のような花を咲かせている。白の花と黄色の花のどちらも優雅な姿。東北の春は庭の花々が一斉に咲き始めるため、とても賑やかだ。冬の間は枯葉色だったのが、今は魔法のように様々な色が輝いている。 庭の植木にも芽が出始めた。上はアジサイ(紫陽花)の新芽。モミジにも小さい芽が芽吹き始めたし、バラの深紅の新芽が美しい。モッコウバラもやがて一斉に若葉を出すだろう。満開のヤブツバキが散り始めた。 さて、わが東北楽天はZOZOマリンスタジアム(右)でロッテとの今季初対決。日ハムとの第1クルーは2勝1敗で勝ち越したが、大卒ドラ1の早川投手の活躍に目を見張った。ロッテ戦の緒戦のは大学の後輩岸投手(左)が先発。結果は8安打の完封試合第1号となった。浅村1号(ソロ)、茂木1号(3ラン)も出て、試合時間が物凄く短かったようだ。これで3勝1敗と好スタート。先ずはメデタイ。
2021.03.31
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~街に出て花を観る~ ピンポーン♬ 夕方過ぎにチャイムが鳴ったため玄関の扉を開けると、変な小母ちゃんが立っていた。視聴率の調査のためと言うが、視聴率は自動的に計測出来るはず。すると「テレビの台数は何台ですか」と異なる質問。そうか、本題はそれだったかと納得。これは例のNHKの問題だ。視聴料を払わない人がいるのだ。総務省からは料金を値下げすべきと言われつつも、契約について国民から不満が出ている。 私は正直に独り暮らしだが2台あると答えた。2台ともBS契約をちゃんとし、自動的に引き落としされてもいる全くの正直者。それがいつの間にか人生論になり、これは厄介なことになりそうだと早々にお引き取り願った。10分以上つき合ったお礼がボールペン1本。それでも無いよりはマシか。 それから猛烈な勢いで書類の整理を始めた。翌日保険屋さんがやって来ることになっていた。それで引き出しの中を整理して翌日に備えようとしたのだ。幾つかのファイルを開いて、捨てるべき資料と保存すべきものに分け、ファイルに内容を記した。不要な資料をそのまま捨てられないので細かくちぎる。「雑紙」として出せるもの、メモ用紙に使えるもの、役立ちそうな封筒類に分類するともう深夜だ。 翌朝はさらに忙しかった。布団を2階に運び、ベランダの手すりを拭く。前夜の雨で黄砂が汚い。朝食の後、居間に掃除機をかける。結構な綿埃だ。廊下などは前日モップを掛けたのでOK。ベランダが乾いた頃を見計らって蒲団を干し、庭の花を切って花瓶に差し玄関に飾る。そしてスリッパを玄関に出し、居間の長机の物を全て片付け。これで準備OK。 保険屋さんが来るまでセンバツ観戦。わが仙台育英は天理に大量失点。あれだけ凡フライを打ち上げていたら点は取れない。時間になって保険屋さんが来宅。責任者といつもの担当者の2人。新しい契約は責任者の人から説明を受けた。まあさほど心配のない商品なのであっさりサインし、振り込み関係の書類を受領。彼らが帰った後、街に出るバスの時刻を見に行く。 昼食を済ませてバスで街へ。車中から満開のコブシの花が見えた。暫く外へ出ない間に、急速に春がやって来たようだ。HN小学校の校庭にもコブシとソメイヨシノが。この路地を通ったのは初めて。名前を知ってるビルの裏側だった。目的の銀行で先ず通帳を記帳し、次に振り込みの手続き。これが案外手間取って何度も書類を書き直した。帰宅後通帳をチェックしたら、振り込み手数料を損した感じ。あちゃ~。 帰りは地下鉄に乗った。途中で広瀬川と柳の木が見えた。柳はすっかり青々とし、春本番の趣だった。この日の最高気温は21度だった由。道理でコブシもソメイヨシノも咲くはずだ。終点の手前で見えた谷の風景はまだ全く芽吹いていない裸木ばかりだった。終点からは約30分ほど歩いての帰宅。麗らかな春の日の良い運動だ。それにほとんど下り坂なので、超楽ちん。 裏道を歩きながら、家々の花を愛でる。シデコブシ(左=四手辛夷)を観るのは1年ぶり。満開のローズマリー(右)は鼻を近づけて香りを楽しんだ。 左は街中の小学校で観たソメイヨシノ(染井吉野)。右は帰路で観た白くて小さな花。花びらの形からすると恐らくユスラウメ(山桜桃)だと思う。わが家にも昔あったが、3年ほどで枯れた。接ぎ木の台の方が強過ぎて、接いだ方の勢いを奪ったのだろう。 大島桜(?) 夕方、前夜の残り湯で体を洗う。さすがに夕方。昼はまだ暖かかったお湯が、もう少し冷たく感じた。センバツは準々決勝の4試合共、結構差が開いた。やはりここまで勝ち上がるチームは強い。スエズ運河で座礁していた日本のコンテナ船が、ようやく危機を脱したようだ。夕食は温かいうどんにした。我ながら今日も良く頑張った。疲れたのでほど良く安眠出来ると嬉しいのだが。
2021.03.30
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~世界は今どこへ~ スエズ運河のコンテナ船 スエズ運河で今、大変なことが起きている。日本船籍のコンテナ船が座礁して、もう一週間近く経つ。このため運河の内外で通行を待ってる船が300隻。かと言って喜望峰を回れば2週間余分に時間を要する。NYの石油市場では、このためにオイル価格が変動してる由。運河の幅は300m。コンテナ船の長さは400m。エジプト政府も懸命に土砂を掘削し、次の高潮と風向きを待って脱出を図ると言うが。 過日北朝鮮が発射したイスカンダル型のミサイル。これは変則的な軌道を描き、核弾頭も搭載可能な厄介なもの。早速日本も米国も国連決議違反と抗議したが、北朝鮮は屁のカッパ。しかも後ろ盾の中国とロシアは静観を決め込んでいる。このならず者国家は、マレーシア在住の北朝鮮人を米国に引き渡したことを罵り、同国に国交断絶を告げた。しかし死んだと伝えられた「刈り上げ君」はまだ健在のようだ。 CNN映像より 中国機の台湾侵入 中国が南沙諸島でまたぞろサンゴ礁を埋め立てて軍事基地の造営を始めたようだ。(写真上)国際世論を無視した暴挙。香港での暴挙、ウイグルでの人権抑圧とジェノサイド。内モンゴル自治区での中国化推進と中国の横暴は留まるところを知らない。台湾進攻は時間の問題と言われるし、その次は尖閣への上陸は目に見えている。とうとうあのバイデン爺さんも仕方なく、中国に警告を与え始めた。 中国とイランの協議 それをあざ笑うかのように中国は、同じくアメリカから制裁を受けて経済活動が落ち込んでいるイランと25年間の経済協力協定に調印した。さらに中国はイスラム教国家ながら人権抑圧で欧米から非難を浴びているサウジアラビアとトルコにも急接近し出した。欧米日印などによる中国包囲網を警戒し、逆封鎖と経済戦争を仕掛けたようだ。事情はロシアも同様で、いずこも生き残りをかけての戦いの真っ最中だ。 ミャンマーでの暴動 さて、軍事政権によるミャンマーの国民に対する抑圧が相当に苛烈だ。先日は無抵抗の市民に発砲し、1日で140人を超える死者が出た。死者の累計は400名以上となった。これには日本の茂木外相も厳重注意を表明したが、中国とロシアは相変わらず無言を貫いている。このままだとベトナム、タイと共に日本企業の海外生産基地としてのミャンマーの位置はかなり難しくなりそうだ。 韓国の文大統領が追い込まれている。支持率急降下に加え、土地投機疑惑が判明した部下の辞職に続き自分の疑惑も露呈した。ソウル、釜山市長選でも敗れたら、来年の大統領選は惨敗だろう。必死に米国の舵取りをしてるバイデン氏が、先日安倍前総理を賛美するメッセージを発した。7年間、世界をリードした実績を改めて認識したのだろう。自分は副大統領の7年で悪事以外何もしなかったのだものねえ。 それに比べたらこの人は立派だった。大関復帰が掛かった今場所、前半は苦戦したものの上位が次々に脱落し、気が付けば14日目で単独トップに立ち、千秋楽も堂々たる大関相撲で貴景勝を圧倒し、3度目の天皇杯を手にした。怪我と病気で序二段まで降格しながら、腐ることなく精進を重ねた。並みいる横綱、大関陣に相撲道の神髄を見せつけたのではないか。見事な精神力の一語。これからも怪我に注意して、横綱を目指して欲しい。場所を盛り上げてくれた不屈の闘志と努力に、心からの拍手を送りたい。
2021.03.29
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~マックス爺の些末な日常~ 灯油をもう3週間以上買ってない。いつものお兄さんが売りにやって来ても、顔を出さないようにしている。後18リットルあるし、このところ暖かくてあまり灯油ヒーターを使わないのだ。ほとんど足元を電気ストーブで温めれば済むし、それでも寒いと感じたら厚着をするか、空調機を点ければ良い。気温が高くて適度にお湿りがあるせいか、庭の花々が一斉に咲き始めた。そして各地から桜の便りも。 畑のタマネギの苗が急に成長し出した。化学肥料を撒いた後に雨が降ったせいだ。それと同時に雑草の成長も早い。中でもしぶといのがヨモギ。あっという間にドンドン大きくなり、かつ増える。草餅を作るには良いのだろうが、生憎そんな考えはない。裏の畑を掘り返して、春菊の種を蒔いた。雑草を生やすくらいなら野菜の方が役立つ。それに種は残り物なので惜しくない。つまりは遊び心の為せる業。 布団と洗濯物を干してから、自転車で買い物に出かける。だが家を出て直ぐマスクをしてないことに気づいた。そこで「アッ」と声を上げると、「どうしたの」とHさんの奥さん。「いや、マスクするのを忘れて」と言うと、手提げから新しいマスクを1枚出して私に手渡した。「あれっ、口紅付いてるけど」と口から出まかせの冗談を言うと、本気だと思った奥さんも騙されたことに気づいたみたい。ああゴメン。 本当はあまり買わないでも済むかと思っていたのに、結構な量と重さになった。歩いて行かなくて正解だった。ふらつきながらも無事帰宅し、早速買った物の仕分けと始末。あまり買い過ぎても、これから暖かくなると食べ物の傷み方が早くなる。そこで頭を使いながら、悪くなりそうな物から処理に掛かる。 カブの葉を刻み、少し古びた大根を使っての味噌汁。油揚げは大丈夫だが、豆腐が日が経っていたため全部使った。大根とニンジンを圧力釜で茹で、次にその茹で汁で白モツを茹でる。脂分を落とすためだ。その茹で汁は裏の堆肥の上に。それでシンクや下水管の汚れを減らせる。半端なニンジン、大根の皮、タマネギ、刻んだキャベツを酢漬けに。わが家は酢の消費がかなり早く、この日も大びんを買った。 キャベツとキュウリの塩もみ キャベツ、白菜を刻み、輪切りのキュウリを塩もみに。甲子園のセンバツはこの日でベスト8が出そろって、今日の日曜日は朝の8時から準々決勝の4試合が行われる予定。いずれも強豪で、仙台育英も第1試合のはずなのだが、生憎天気は西から崩れるとの予報で、順延になりそうな気配だ。大相撲は高安が敗れ、勝った照ノ富士がただ一人3敗で単独トップに立った。さて、今日の千秋楽はどうなるか。 マグロの山かけ プロ野球はいずれもデーゲームだった。わが東北楽天はマー君が怪我のため登板を回避し、巨人から移籍した高田萌とか言うピッチャーが出たが、あっという間に点を取られ、4回と持たなかった。打線もこの日は振るわず、4番の浅村がさっぱりだった。それよりエースの則本が、不倫騒動で離婚していた由。それでここ2年は5勝止まりだったのかと納得。プロの選手は、やっぱり家庭が安定してないとね。 ナスの煮物 月末になってようやく来年度の俳句教室の受講が決まった。返事の往復はがきが届かずやきもきしていたのだ。「マイナンバーカード」作成のお知らせも届いたが、マイナンバーカードは既に作成済み。何と情報管理の悪い国なんだろう。これでデジタル庁新設とか言ってるけど、あまりにも不手際過ぎるんだよなあ。新型コロナの感染爆発が心配で、高齢者へのワクチン接種がまだ遅れそうな気配で怖い。
2021.03.28
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~素晴らしき戦い~ 興奮しましたね、先日の日韓国際親善試合。まあサッカーでの日韓戦と言えば、「因縁の試合」とか良く言われるでしょ。しかし今頃なぜ試合をと思ったら、ワールドカップアジア第二次予選に向けての強化の一環ですってね。なるほど納得。どちらもヨーロッパ組多数を招集して臨んだ一戦。でもこのコロナ禍で、サポーター達は声を出さず、太鼓と拍手での応援となった。 試合前、私は何となく3対1で勝ちそうと感じた。根拠はなく、ただそうあって欲しいと願っただけ。開始早々から選手たちは異常を察知した由。相手が向かって来る気配を全然感じなかったそうだ。そこで思い切って突破し攻め続けた。あっという間に前半だけで3点。これには相手の監督が焦ったようだ。実は韓国は中心となる選手を怪我で欠いていたと言う。だがそれは結果論で、弱ければ負けるだけの話。 キャプテンのディフェンダー吉田麻也は試合前から気合を入れていた。長い日韓戦でこれまでに何度も煮え湯を飲まされ、屈辱を味わって来た。それだけにこの試合は落とせないと自分に言い聞かせていた由。最年長32歳の吉田の想いが、若手のメンバーにも伝わったのだろう。後半も積極的に仕掛け、シュート数でも韓国を圧倒したジャパン。そのまま3-0の圧勝だった。快哉。 具志川商業チーム センバツの第7日目は2回戦で、21世紀枠で初出場の沖縄の具志川商業を応援した。沖縄県以外の人は名前すら聞いたことはないいだろうが、沖縄で勤務した私は市の場所も市内の地名も知っている。地方都市の県立高で前評判も高くはなかったのだろうが、1回戦を突破しただけでも立派。この日も福岡大大濠を相手に最後まで善戦。延長戦で破れたが心からの拍手を送りたい。3試合とも接戦の好試合だった。 大相撲春場所も最終盤に近づいた。昨日は13日目。この日までずっとトップを走って来た小結の高安(左)が接戦の末に破れて10勝3敗となり、我慢強い相撲を取り続けて来た関脇の照ノ富士がこの日も思い切った相撲を取って同じく10勝3敗の相星となった。照ノ富士の大関復帰はこれで確定だろうし、高安も今の調子を持続したら、大関復帰も夢でなくなった。さて、残りの2日間は目が離せなくなった。 さて、いよいよ今シーズンのプロ野球がついに開幕した。公式戦は元に戻って143試合で、コロナ渦中の今年は延長戦はなく9回で終了し、同点の場合は引き分けとなる。今日は高校野球、大相撲、そしてプロ野球観戦と、とても忙しい一日となった。それもまたスポーツ好きには嬉しい悲鳴だ。 さてわが東北楽天は、久しぶりにホームでの開幕試合となった。開幕の3試合は全てのチケットが売れたとのこと。それだけファンもこの日を待ち望んでいたのだろう。日ハムを相手の先発は涌井で、通算10回目の開幕先発らしい。さすがはベテラン、落ち着いて観ることが出来た。1回の表を0で抑え、その裏トップバッターの辰巳がいきなり先頭打者ホームラン。これには笑いが止まらなかった。 楽天はその後も着実に得点を重ね、8対2で緒戦を物にした。勝利投手は先発の涌井。石井GM兼任監督にとっても初勝利となった。幸先良いスタートだ。なお、今日の第2戦に先発予定だったマー君こと田中投手は、ふくらはぎに「張り」があるとの理由で、登板回避となった。残念だがそんなこともあるさ。ここは慎重に治療し、完全な体調で試合に臨んでほしい。さて、今日もチャンネルの切り替えが忙しくなりそうな気配だ。
2021.03.27
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~ヒヨドリの訪問~ 朝は結構好天だと思ったのに、結局は一日中曇天のままだった。まるで黄砂でもやって来たような空の色。それでも気温が高いので布団を干し、ゴムの木などを外へ出した。前日のランニングが効いたのか、少し疲れた感じ。まあ歳が歳だけに、元気はつらつとは行かないだろう。まあ焦ることなくのんびり行けば良いさ。窓辺でコーヒーを飲みながら新聞を読む。 梅とヒヨドリ 大きなガラス窓を鳥が過る姿が一瞬見えた。注意して見るとヒヨドリが椿の花の蜜を吸っていた。冬の間は食べ物に困ると、畑の野菜の葉を啄む。すると葉はギザギザになるのだが、今年は葉物野菜は白菜だけで、それも全て収穫したため被害はなかった。やがてヒヨドリは梅の枝に移り、今度は梅の花の蜜を吸い始めた。椿にしても梅の花にしても、蜜の量など知れたもの。それでも彼らには貴重な食糧なのだろう。 椿とヒヨドリ 蜜吸ひにくる鳥のゐて春眠し ヒヨドリを俳句に詠もうと試みたが、歳時記を確かめたらあいにくヒヨドリは秋の季語。それで「春眠」を季語に選び野鳥の姿を詠んでみた。 オオイヌノフグリ 次に「黄砂」をテーマにして詠めないかと思案。調べると黄砂は春の季語のようで季節はピッタリ。ただし黄砂だけを詠んでも何の風情もない。さて、それでは一体何と組み合わせたら良いか。都会のビルでは色気ないし。案外野草が良いかも。ただし具体的な野草の名を出すと「季重なり」になる可能性がある。つまり一句に複数の季語があるのはご法度なのだ。そこでさらに熟考。 野の花に黄砂降りしく孤島かな 野草の花に音もなく舞い降りる黄砂。それも東シナ海や玄界灘にある孤島と言う設定。中国大陸から偏西風に乗ってやって来る黄砂なら、孤島に降ってもおかしくはない。俳句はイメージの文学でもある。 昼前からは仙台育英対神戸国際大学付属高校の試合観戦に酔いしれた。肝心の仙台育英の得点時の映像を見損なったが、それでも毎回のようにヒットを打ち、毎回のように得点したために悔やむ必要はなかった。終わって見れば13対5の圧倒的な差での勝利。試合終了後に仙台育英の勇壮で堂々たる校歌を聞く。郷土の名所を散りばめた歌詞と曲に酔い痴れる。実に豪快で見事な勝利のベスト8だった。 この日。北朝鮮がほぼ1年ぶりにミサイルを日本海に向けて発射したようだ。それも続けて2発。わが国のEEZ内ではなかったものの、それにしても迷惑で不気味な国だ。その隣韓国の文大統領の支持率が急降下中らしい。あれだけ不正が続けば、国民だって反日だけでは着いて行かなくなるだろう。 同じ日。福島県のJビレッジから聖火リレーが出発した。森元総理の舌禍などからすったもんだの東京オリンピックで、聖火ランナーの辞退者が続出。それでも南海キャンデーズのしずちゃんはいわき市で走ったそうだ。映画「フラガール」に出た縁らしい。さてオリンピックと新型コロナの行方が気になる。
2021.03.26
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~人生と出会い~ 野村監督 先日の夜、あるテレビ番組を観た。ヤクルトや東北楽天などで監督をした野村さんと、彼がドラフトで採り、後に楽天のエースとなったマー君こと田中将大との出会いや指導に関する逸話。それは24勝0敗1セーブの脅威的な成績で初優勝し、翌シーズンからNYヤンキースで活躍したマー君が9年ぶりに楽天に復帰したことを記念しての再放送だった。と言っても野村監督はもうこの世には存在しないのだが。 運命の二人 しかし驚いた。高校卒後間もないマー君をきなり一軍に上げて、間幕試合の先発投手に指名した由。だが当時の紀藤ピッチングコーチが、彼はまだクイックモーションが出来ないからダメと反対。それではマー君には10勝と新人賞を取らせるよう指導しろと言明した由。初先発は2回持たず6失点で敗戦投手。それでも監督は使い続け、5戦目にして初勝利。結局この年は11勝4敗で新人賞を取ったマー君。 野村監督がマー君に目を付けたのは甲子園で後に日ハムに行った斎藤投手(早実)と投げ合った決勝戦。試合ではマー君の駒大苫小牧が負けたが、監督はマー君の投球に光るものを感じたと言う。そしてドラフトでは球団の反対にも関わらず指名して獲得。入団後独特の指導法で名投手、大投手に育て上げた。まさに名投手の陰に名伯楽ありの言葉通りだった。やはり大監督は人を見る能力が違う。今年の楽天は期待出来そうで嬉しい。 その夜、私は枕元に黄色の半袖Tシャツとランニングパンツを置いて眠った。翌日は天気が良くて暖かいらしい。それで久しぶりに走ろうと思ったのだ。体調が万全でないことは分かっていた。でもそれは運動不足のせいもあるだろうし、体を動かさないことの言い訳でもあった。先ずはゆっくり眠り、後は明日の体調次第だ。朝起きてプラゴミを出しながら、スポーツドリンクを買って来た。 10時過ぎに勝手口から外へ出ると、裏のSさんと向かいのKさんが驚いて私を見た。「何km走るの」とKさん。「9kmくらいをゆっくりとね」。私はそう答えたが、今日が77歳の誕生日とは言わなかった。本当はその記念なのだ。裏の柵を越えてゆっくりと走り出す。半袖、ランパンでも全然寒くない。むしろ気持ちが良いくらいだ。裏道をT山方面に向かう。田舎道で信号がないのが良い。 H橋の下で工事中。どうやらN高の裏山を造成するための準備のようで、道路も少し広げている。暫く来ないと変化するものだ。それに最近は各地で家の新築工事中。あの大震災で人口が減少する中で、仙台市とその付近だけは人口が流入して、家の需要が多いのだろう。それにしても足は快調だし、息も苦しくない。もう40年以上も走ってるため、体調に合わせた走り方が出来るだけ。 ウグイス 畑で農作業中の人がいる。大型団地の傍の農地は家庭菜園用に貸した方が手間がかからずに現金収入になるし、団地の人も喜んでくれるのだろう。どこかで鳥が鳴いている。あれはウグイス。でもこの時期のウグイスはまだ鳴くのが下手くそ。俳句では「初音」(はつね)と言って、春の季語だ。 鶯の身を逆に初音かな 其角(江戸時代の俳人) +さかさま 木々の間からT山が見えて来る。標高は321mの低山だが、独特の山容のため遠くからも目立ち、きっと昔は奥州街道(奥の細道)や東回りの船からも位置を確かめたことだろう。団地横の登坂もさほど苦しくはない。そして風がある時は帽子を脱ぐ。その方が暑がりの私は走りやすいからだ。そして喉が渇いたらペットボトルのスポーツドリンクを飲む。これは水で薄め、塩を一つまみ入れてある。 坂を上り切れば、後は下りだけなので楽勝。やがて幾つかの農業用水が見え出す。林の中の細い道は元のA電鉄の軌道跡で、とても静かな道だ。ヤマユリや山藤が咲き、たまにリスの姿を見ることもある。下りは好調。前方から高校生の一団がやって来たため、私は歩道を降りて車道の端を走った。沼の水が光っている。間もなく桜が咲き出し、若葉の季節がやって来るだろう。ゆっくりとでも走れることが嬉しい。 そのまま道なりに直進して国道へ出、新道の坂道を上って帰宅した。いつもよりもずっと早いタイム。これは意外だった。そのまま風呂場に直行して残り湯で体を洗い、ランパンとTシャツを水で濯ぐ。着替えて洗濯物を干し、テレビを点けるとセンバツの真っ最中。宮城県の柴田高校が京都国際を相手に2-0で勝っていた。これは良いぞと思ったが、最後の詰めが甘くて接戦の末の逆転負けだった。ああ残念。 ミツマタの花 しかし、良い日だった。わずか9kmほどだが苦しまずに走れ、体重も少し減った。昼は軽めにパン食とし、夜は焼き魚、納豆、冷奴、野菜炒め、ピクルス。そして薄めの焼酎1杯でささやかな喜寿のお祝い。心配なのが宮城県の新型コロナ陽性者がこの日171名出、仙台市内が131名だったこと。保険屋さんから誕生祝の電話。走友T田氏からメールで、kazuさんからはブログへ誕生祝のメッセージをいただく。横綱鶴竜が引退声明をし、柔道家でゴールドメダリストの古賀稔彦氏ががんのため死去。享年53歳。人の運命は分からないものだ。合掌。
2021.03.25
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~やもめ暮らしのつれづれに~ <写真はわが家の庭の花> ヒマラヤユキノシタ 私は3と2と4の組み合わせが好きだ。なぜなら3月24日が私の誕生日だからだ。このブログが公開された日の朝を無事迎えることが出来たら、私は77歳になる。俗に言う「喜寿」で目出度い日になるのだろう。3月下旬が誕生日だと、小学生の時は出席番号が最後になるのが常だった。それで損をしたのか得をしたのかは分からない。4月生まれの同級生とは、ほぼ1歳年が違うのだから。 ムスカリ それでも高校に上がると、出席番号は前の方になった。理由は五十音順だったからだ。確か52名いた3年B組の級友たちも1人欠け2人欠けして、既に10名は黄泉の国に旅立ったはずだ。恩師も卒寿(90歳)となり、新型コロナ感染症と相まって暫くクラス会も開かれてない。きっと永久幹事のAもやきもきしてるだろうが、これだけはどうにもならない。 梅の花 昨日は朝から天気が良かったため、洗濯物と布団を干した。そしてゴムの木ともう一つの観葉樹を外に出して、たっぷりと水を与えた。午後から思いついてこの半年間で詠んだ俳句をノートに清書した。「プレバト」の梅沢永世名人なら駄作は他人がシュレッダーに掛けてくれるが、私のような凡人は自分で取捨選択するしかない。 その作業もまた良い勉強になる。捨てるべきものを捨て、推敲して生かすものは残す。そしてそのついでにヘボな俳句を詠む。それもまた喜寿の良い思い出となろう。 梅の香や一服の茶の旨きこと 欠伸して馬鈴薯植うる日和かな *あくび *ばれいしょ わが家の梅は豊後梅(ぶんごうめ)と言い、アンズと梅の掛け合わせ。花は少しピンク色をし、実はとても大きくて立派。毎年梅雨の頃に実をもいで、梅干しを作るのが恒例行事になっている。「梅」が春の季語だ。 馬鈴薯(ジャガイモ)は先日男爵を植えたばかり。「馬鈴薯」は秋の季語だが、「馬鈴薯植う」(植えるの意味)が春の季語となっている。俳句は季節と密接な関係があるため、そんなわずかな違いで季節感が異なる。文語や古語が生き、わずか十七音(17文字ではない)しかないため、独特の用法もあり、その分余韻が生まれる世界と言えようか。私は「俳句教室」に通って今年の春で4年目を迎える。 ヤブツバキ 藪椿生き長らへて喜寿の朝 藪椿やもめ男の侘び住まひ *わび 私は一人暮らしの寡(やもめ)。50年近く連れ添った妻が家を出て、熟年離婚となった。それでも何とか77歳までは生きることが出来た。その殺伐とした暮らしぶりを句に託した。藪椿が春の季語。 フキノトウ 萌黄色の夢そのままに蕗のとう *もえぎいろ われもついに喜寿の朝ぞ蕗のとう *あした 春愁飯の旨さのありがたき *はるうれい 喜寿となる寡のゐたり蕗のとう *やもめ *いたり 「蕗のとう」が春の季語。十七音でフキノトウのことだけを詠むのを「一句仕立て」と言う。「フキノトウ」と全く関係のないものを一緒に詠むのを「取り合わせ」と言い、私たちの講師は後者を専らとする。初めは大いに戸惑ったが、3年経ってようやく少し慣れて来た。だが俳句の世界は広くて深い。私も精進していつの日にか、そんな句を詠みたいものだ。4月の俳句教室へは今日の句の中から選ぶ予定だ。
2021.03.24
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~新型コロナ禍の中で今~ 甲子園球場で「選抜高校野球」が始まっているが、今年の大会はいささか静かだ。だが、新型コロナ感染症の流行で開催中止となった去年よりはマシ。出場校も少ないし、観客も制限されている。それにブラスバンドなどの鳴り物も禁止。それでも2年ぶりのセンバツ開催に、選手たちのきびきびしたプレーが眩しい。わが宮城県からは2校出場し、仙台育英はまず初戦を突破した。 貴景勝 照ノ富士 大相撲の春場所が国技館で開催中だが、こちらも新型コロナ感染症の影響が大きい。感染した相撲部屋が幾つかあって、親方も力士も出場停止となったため出場する力士が減り、番付も取り組み数も観客数も減った。おまけに両横綱が休場し、今一つ盛り上がらない本場所だ。注目は怪我と病気で序二段まで下がった照ノ富士の大関復帰とカド番の貴景勝の成績だ。 照ノ富士は今場所9番勝てば大関復帰は確実と言われる。生まれ故郷であるモンゴルの女性と結婚したこともあり、両手に花と行きたいところ。大関の貴景勝は体重を17kg落として春場所に臨んだが、まだ体が慣れないせいか、今一精彩がない。役力士の星が今一なので、どの力士にも優勝のチャンスがありそうだ。 南沙諸島に集合した中国漁船 南シナ海ラプラトリー諸島(南沙諸島)のフィリピン領海に220隻もの中国漁船が集合していると言う。これが本当に漁船なのかどうかは不明だが、フィリピンに対する威嚇行為であることは間違いないだろう。人権問題で世界から異議を唱えられている中国がまたしても見せる、強硬な武力行使。こうなると次はわが尖閣列島にも波及することが懸念される。政府にはしっかり対応して欲しいものだ。 米中会談 そんな折、アメリカのアラスカ州で米中の2国間会談が開催された。両国は冒頭から激しく相手をなじるなど波乱の幕開けだった由。アメリカは中国の対ウイグル政策や香港政策、台湾や尖閣諸島への中国の強硬姿勢に対して警告したと言う。 これに対して中国はそれらは中国の内政問題であり、他国がとやかく言う立場にはないとのいつもの論調で強気に出た模様と伝わっている。懸念されたバイデン政権が中国に対して結構強気に出たことで見直したが、案外これも「出来レース」で舞台裏では互いの「落としどころ」を打ち合わせ済みなのではとのうがった見方も可能だ。ともあれ中国に対する油断は禁物。日本も決して妥協して欲しくない。 利尻島 このところ連日のようにツアー会社からパンフレットが届く。新型コロナ感染症のパンデミックで業績が落ち込み、相当苦しいのだろうと容易に想像出来る。あの手この手でツアーの応募を増やそうとしてるのだろうが、たとえ緊急事態宣言が解除されても、とても怖くて旅行する気にはならない。東京オリンピックも外国人の観覧を認めない方針のようだが、それでも開催は不確実なのではないか。景気浮揚も大事だが、もっとも優先されるのは人命と安全の確保だ。
2021.03.23
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~最近観たテレビ番組~ 先日の夜にテレビでドラマを観た。藤沢周平原作の同名の時代小説をドラマ化したもので、布団に入って観てるうちいつしか眠ってしまった。どうやら何回分かを一挙に放送したようで、道理で長かった訳だ。しかしこれは確か以前にも観たはず。それなのにまた再放送したのは、NHKもよほど困っているのだろう。困っているのは私のブログも同じ。それでこんなことを書いている。 鶴岡公園(鶴岡城跡) 藤沢周平の小説に良く登場する「海坂藩」のモデルは山形の庄内藩だ。私は一度だけ鶴岡を訪ねたことがあった。城はもう残ってないが城跡と藩校の「致道館」が、博物館となっている。鶴岡は映画「おくりびと」のロケ地で、遥か鳥海山を望む絶景の地でもある。ただし城下町の鶴岡よりは、港のある酒田の方が栄えていて、「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と民謡に謡われたほどだ。 大河ドラマ「晴天を衝け」を毎回面白く観ている。こちらは幕末から明治の話で、「歴史ドラマ」と言うべきだろう。理由は簡単。登場人物が実在の人だからだ。主人公は明治の実業家で有名な経済人の渋沢栄一だが、徳川幕府の最後の姿も明らかになる。写真は竹中直人扮する水戸藩主徳川斉昭とその七男で後に最後の将軍となる徳川(一橋)慶喜を演じる草なぎ剛。彼らも時代に翻弄された人物だ。 水戸藩藩校弘道館 東湖神社 天狗党の墓 私は水戸市でも勤務したので、藩校の弘道館や水戸城跡、藩主や藩士が心酔した国学者藤田東湖を祀った東湖神社にも参ったことがある。水戸藩はやがて佐幕派と勤皇派に二分して藩士同士が戦うと言う悲惨な結果を迎える。市内の複数の寺社には、その戦いで死んだ天狗党(尊王攘夷派)の侍の墓が今も林立し、凄惨な歴史を証明するかのようだ。 <老中阿部正弘と福山城> さて幕末の騒乱期に老中筆頭になったのが備後国福山城(上右)主の阿部正弘(上左)。ペリー来航など混乱の中で将軍家定の後継者に一橋慶喜を推したのも彼だが、心労のあまり老中在職中に39歳の若さで急死する。この後井伊直弼が大老となって安政の大獄を決行し、そのため「桜田門外の変」により暗殺された。 私は「しまなみ海道」100kmマラソンに出場したことがあるが、このスタート地点が福山城で、その前日に城内を見学した。なおゴール地点は愛媛県今治市の今治城。城から城へと100km走ったのは初めてで、良い記念になった。<続く>
2021.03.22
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~マックス爺の日常~ ヒヤシンス 保険屋さんがやって来た。医療保険金受取人の名義変更のためだ。JA共済の方がやって来た。火災保険の更新と、信託投資の説明のためだ。また保険屋さんがやって来た。今度は資産運用の説明のため。大した資産がある訳でもないが、銀行にただ預けていたのでは何にもならないとのこと。分かってはいたがそのまま放置していた。第一後何年生きるか分からないし、死んだ後の受取人も果たしてどうなるか。 チオノドクサ 掃除具のレンタル業者がやって来たが、こちらは玄関のドアノブに使用済みのモップと代金を入れたビニール袋を吊るすだけでOK。勝手に先月分を集金し、代わりに新しいモップが入っている。石油販売のタンクローリーがやって来るが、これも出ないで済ます。まだ18リットル入りのがまるまる残っている。そのうち保険屋さんが2人でやって来る予定。高齢者には専門家と2人で対応する規則だそうだ。 庭と畑の草を3日がかりで取った。冬の雑草も案外馬鹿にならず、30リットルのビニール袋が一杯になった。そして、畑に残っていた白菜4個を抜き、土に埋めていた大根4本も掘り出し、一番姿の良いのを裏のSさんに上げた。後はスコップで畝を2本分掘り返し、石灰と発酵鶏糞を撒いた。植えたのは種芋の男爵。ホームセンターで買った分と、家にあったの合わせて12個を半分に切って24個に。芋には早くも芽が出ている。 収穫した白菜は今季の最後ので、外側の葉がかなり傷んでいる。それを丹念に剝して中のきれいな分を刻む。するとかなりスリムになり、しかも歯応えがある。裏庭のフキノトウを4個ほどもいで適当に切り、丹念に洗う。葉が開いているせいで細かい土が入っているのだ。それに刻んだキュウリも加えて塩もみに。ピクルスの残りの酢を混ぜると、翌朝には漬物が出来上がっている。 次に安物の煮干しを水に浸して柔らかくし、100円で買った茎ワカメ(右)の残り物を刻み、前回作った佃煮の残り汁で煮る。それに梅ジュースの実を数個取り出して果肉を削ぎ、刻んだシイタケと一緒に入れる。残り汁も結構濃い味なので、30分も煮たら立派な佃煮の完成だ。こんな風にしてあり合わせの食材で作ったおかずは、私の食欲増進剤となって健康を助ける。 1か月ぶりに俳句教室へ行くと、受講生が2名辞めて16名になっていた。まあ、他人のことは気にせずただ精進するのみ。来年度の受講生募集に応募したのは16名だった由。そのうち葉書が届くはずだ。3月分の兼題(宿題)は、「春風や」だったがそれは1句のみで、他の2句は自由で良い。私は以下の句を提出した。 春風や地震の湊に大漁旗 *地震=ない *みなと *たいりょうき 講師は「湊に」を「港の」とした方が良いと添削。 町失せしリアスの海や春の風 *うせ こちらは無添削だった 阿蘇山「草千里」の野焼き 大阿蘇の野火より遠く牛の群 *おおあそ *のび=野焼き=春の季語 阿蘇山のカルデラ内に「草千里」と言う名の草原がある。その草が延びるよう、毎年春先に大規模な野焼きをするのが恒例行事だ。ここでは牛を放牧しており、野焼きは良い草を育てるために不可欠の作業で、雄大な阿蘇と相まってなかなかの景観だ。けが人や事故がないよう、計画的に火をつける。その時に牛がいるかどうかは定かではないが、野焼きからかなり牛の群れを離した積りで句を詠んだ。 講師曰く。「野火より遠く」が効いて、阿蘇の雄大な光景が目に浮かぶ一句になったと。今回も私の名前が最後に呼ばれた。いわゆる「とり」だ。なお4月の兼題は「春」。簡単だが、さて春をどう詠むか。 さてこのところ宮城県内の「新型コロナウイルス感染症」感染者が急増している。とうとう1日で125名に達し、このうち90名が仙台市内。このため宮城県知事と仙台市長が共同で、「県内緊急事態宣言」の発表に至った。また「イギリス型変種」感染者が初めて現れ、一層不安が増す。「自粛生活」が一層厳しくなりそうだ。 最後に残った色っぽい大根。丁寧に泥を落とし、腐った箇所を取り除き、上手に切り離して全て食材にする。大根おろし、おでん、煮物、ピクルスだが、皮まで使うピクルスは歯応えがあってなかなか美味しい。それほど自分で作った野菜は愛おしい。さて昨夜も宮城県内では震度5強の地震があった。「東日本大震災」の余震がまだ治まらず、今回も高さ1mほどの津波が押し寄せたようだ。
2021.03.21
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~震災から10年。新しいスタートに向けて~ 八戸市種差海岸 あれほど激しかった「東日本大震災」なのに、東北でもほとんど被害を受けなかった県がある。青森県、山形県での死者は各2名で、秋田県では全く犠牲者がなかった。それだけ太平洋側での津波や、東京電力福島原発事故による被害が甚大だった証だろう。 東北六魂祭 福島県では原発があった大熊町や双葉町の帰還困難地域、及び近隣の市町村の住民が県内外での避難生活を余儀なくされ、大変な不便さや困難に直面している。それにも関わらず、翌2012年から東北六県は持ち回りで「六魂祭」を開催して来た。それは東北六県が一致協力して乗り越えて行こうとする決意の表れだった。青森の「ねぶた」。盛岡の「さんさ踊り」。仙台の「七夕」。秋田の「竿灯祭り」。山形の「花笠まつり」。そして福島の「わらじ祭り」と壮観だ、私は福島市と小岩井牧場内で開催されたミニ版と2回観た。 政府主催追悼式 「東日本大震災」からまる10年を経過した今年の3月11日。政府主催の追悼式が東京で開催され、天皇陛下、皇后陛下などが列席された。今回は特に新型コロナ感染症のパンデミック中の開催のため列席者を制限し、政府主催としては今回が最後の追悼式とのこと。 それにしても大きな地震と津波。そして10年経った今でも、まだ余震が起きると言う凄まじさ。顧みれば私はこれまで「新潟県沖地震」、「阪神淡路大震災」、「宮城県北部地震」、「東日本大震災」、「宮城県沖地震」などを体験した。小松左京の「日本沈没」ならずとも日本列島自体が災害列島なので、今後も災害に遭遇する可能性は高いが、極力冷静に臨みたいものだ。 福島原事故で故郷を失った方を2人知っている。その避難先で「福島で放射能汚染した」と差別された子供の話も聞いた。津波に巻き込まれて、油臭い海水を飲んだ人の話。津波の犠牲者の指を切って指輪を盗み、避難所のトイレ付近に潜んで女性を襲うために他県から来た犯罪者の実話も聞いた。除染工事現場で働き、がんで死んだ後輩。可燃物にコンクリート片が1個混じっていただけで、搬送した瓦礫全体を送り返して来た九州のとある自治体。 避難先の仮設住宅で身を寄せ合った同じ集落の人や、孤独死した人。買い物難民の住民のため、苦労して被災地にスーパーを開いた人。温泉の洗い場で隣り合った男の人は、体をブルブル振るわせていた。津波で何度も海中に沈んだ恐怖が消えないと言う。私は彼の手を強く握ったが、いかついオジサンの手はそれでもまだ震えていた。あのオジサン、あれから一体どう暮らしているか。 あの大震災を契機に何人かのブログ友と別れた。経験が異なれば恐怖や不安の実感がないのは当然だ。それでも被災者たちの哀しみや苦しみに少しは思いを致してほしいと願う。あれから復興は進んで、被災地からほとんどの残骸が姿を消した。だが未だに帰還困難地ではイノシシなどの野生動物が横行し、除染してない地区では農業が出来ず、農産物や海産物には放射能汚染の風評被害があるのが現実だ。 あれから10年。自宅の敷地跡で手を合わせる父子や、砂浜に書いた「魂」の字を丸く囲んだ青年の姿。震災直後から今日まで、果たして彼らはどんな生活を送って来たのだろう。妻を失った夫。夫を失った妻。親を失った子や、子を失った親。家族を全て失って一人で生きている人。彼らの大切な思い出の品や、家族の写真は見つかったのだろうか。昨夜もトレンディ風な震災物語「ペペロンチーニ」を観た。話の舞台は女川町だと風景で分かった。草なぎ剛と吉田羊主演で。とても良いドラマに仕上がっていた。 「東日本大震災」の津波が到達した最奥部には、「津波到達地」の石碑が建設された。また海岸部の建造物には、津波が届いた高さの表示箇所が多い。平野内陸部の津波到達地点には、桜の苗木を植樹した箇所が複数あり、それを繋ぐと「津波到達範囲」が分かる。大地震と大津波の記憶が風化しないよう次代に受け継がれて行く古い時代からの「記念物」が東北には多く、子孫に対する強い警告となっている。 <雪の蔵王連峰と白石川河畔の「一目千本桜」> 私は奥羽山脈を越えて山形県まで練習で走ったことが何度かあった。仙台の自宅から関山トンネル経由天童市まで(56km)、二口峠経由山形市山寺まで(53km)3回、笹谷峠経由JR山形駅まで(55km)、JR白石駅~金山峠経由山形県上山市(55km)、蔵王エコーライン経由山形市蔵王温泉まで(77km=累積高低差は3千m以上)。自宅~国見峠経由JR福島駅(80km)は最長だった。 唐桑半島折石の奇岩 宮城県内のレースで出場したのは蔵王高原(20km)、仙台国際ハーフ、あぶくまリバーサイドマラソン(ハーフ)2回。東北ブロック新春マラソン(ハーフ)。少ない理由は私がウルトラマラソン志向で練習でも20~30kmは走れためレース代金がもったいため。また転勤と異動で故郷にいなかったためでもあった。老化でもう長く走るのは無理だが、全都道府県を走破したのが良い思い出だ。 東日本大震災の翌年、わが家は都市ガスを廃止してソーラー発電と「オール電化」に変更した。震災で都市ガスが35日間もストップしたための防衛策だ。ただし売電価格は来年から一気に下落するが、十分「元」は取ったはず。また女房が家を出て独り暮らしになったのが、大いなる変化。去る者は追わず。これからも老体を騙し騙ししながら、出来るだけ元気で長生きしたいものだ。 震災と言う重たいテーマに最後までお付き合いいただき、どうもありがとうございました。心からの御礼と読者諸氏のご健勝を祈念して結びとします。<完>
2021.03.20
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~わが故郷・宮城県その2~ 宮城県は好漁場三陸海岸に近く、全国でも屈指の水産県。また牡鹿半島には捕鯨基地があり、新鮮な鯨肉が流通している。福島県を水源とする阿武隈川が南から、岩手県を水源とする北上川が北から流れて仙台平野を形成し、古くから開墾が進んで有数の米作地帯となっている。西は山形県と接し、松島、蔵王の観光地のほか、鳴子、鬼首、川渡、作並、秋保、遠刈田、小原、鎌先などの温泉地がある。 「東日本大震災」の際は津波によって大きな被害が出たことは既に記したが、牡鹿半島とその沖にある金華山(山と名はついているが島)との間の海峡は、津波の際は潮が引いて海底が見えたほど凄まじいものだったと言う。マグニチュード9.0、震度7強は世界最大クラスだが、三陸沖では平安時代の貞観地震など、大規模の災害が繰り返し起きている。 丘陵の新住宅地 女川町は津波による大きな被害を出したが東北電力女川原発は無事で、その後かさ上げ工事などを完了し再稼働の許可が出た。町は町民と共に復興計画を建て、丘陵を削って住宅地とし、その残土で駅と商業地を造成した。海が深いため行方不明者の大部分が未発見だが、今でも定期的に潜水して遺族たちが捜索し続けてている。ひっくり返った旧女川交番(下左)が震災遺構となっている。 かつての南三陸町 震災後の南三陸町 上の写真の海は志津川湾で、家並みは震災前の南三陸町。私はこの湾の周囲を走って一周したことがあった。朝、石巻市を出発してあの大川小学校の前や、神割崎を通って湾の向こう岸に出、右手奥のホテル(白い建物)の前から手前の海辺へ出、その日は町内袖ヶ浜の民宿に1泊。食べ切れないほどの海鮮料理に舌鼓を打った。翌朝は民宿をスタートしてゴールの気仙沼まで海沿いを走った。2日間で約90kmの走り旅。その時に走ったコースのほとんどが津波で大きな被害を受けた地。実に悲しく辛い思い出だ。 上は東日本大震災で生じた気仙沼湾の津波火災。漂流した漁船同士が衝突して発生した火災が、やがて家屋などの膨大な瓦礫に延焼して大火災となった。同じことは仙台港の石油基地でも生じ、火力発電所が機能せずに長期間停電の原因となった。また仙台市ではガス管やガスの貯蔵タンクが被害を受けて、1か月以上のガス供給停止となり、後日、東京、中京地区、関西地区のガス会社から復旧援助を受けた。 震災後、震災で大きな被害を受けた気仙沼大島と唐桑半島を結ぶ連絡橋が架橋された。最初の計画から50年目に実現した夢で、島と気仙沼港を結んだ連絡船は廃止された。また気仙沼湾を跨ぐ横断橋が「三陸道」ルートの一部として架橋され、共に震災復興のシンボルとなった。今後は三陸地方の産業振興に大いなる力となるはずだ。<続く>
2021.03.19
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~わが故郷・宮城県その1~ これが宮城県の地図だが。県北の海岸は岩手の三陸地方同様にリアス式地形で、津波によりたくさんの犠牲者が出た。中央部の松島湾もやや複雑な海岸線だが、それ以南は仙台湾にそって遠浅の砂浜が続いている。しかし、ここでも多くの犠牲者が出た。震源に近かったせいもあるが、平野部のため海岸部にも集落が集まっていたためだ。仙台港付近では工業団地で大きな津波被害と火災が発生している。 東日本大震災における死者数は15899人だが、そのうち宮城県内の死者数は9543人と最大で、全体の60%を超えている。自治体別の内訳は多い順に、石巻市3277名、気仙沼市1109名、東松島市1066名、名取市912名、山元町681名、仙台市658名、南三陸町600名、女川町593名、亘理町265名、多賀城市188名、岩沼市180名と、いずれも海岸部で津波による死者だ。 石巻市大川小学校 中でも悲劇だったのが石巻市立大川小学校。海から3.6kmほど離れ、津波到達までに50分も時間があったのに、校庭に集合したままで何もせず74名の児童が犠牲になった。すぐ裏には小高い山があるのに、どうして逃げなかったのかが不思議だ。さすがに事故後遺族の父兄から不満が出て裁判になり、宮城県と石巻市の避難誘導マニュアルに不備があったとして、裁判には勝ったが死んだ子は帰らない。 <深沼小学校と「東日本大震災観音像」> それと対照的なのが仙台市立深沼小学校。ここは海から400mほどしか離れておらず、地区の住民は津波で多くの住民が犠牲になり集落は壊滅した。津波は校舎の2階まで達したが、児童たちは3階以上に避難して全員無事。後日ヘリコプターで救出された。集落は危険地域として居住地域から外され、観音像が建立された。双方の小学校とも、現在は「震災遺構」として保存されている。 写真は名取市閖上(ゆりあげ)地区にある集合災害復興住宅。ここは海から数百メートルと近く、東日本大震災の津波で大きな被害があり、たくさんの死者が出、ほとんどの住宅が破壊され流出した。震災後は瓦礫の山で、たくさんの自衛隊員と全国から救援に来た警察官が、連日死者や行方不明者の捜索をしていた姿が今でも目に焼き付いている。 閖上は危険との判断から一旦は内陸部に移転先を決定したが、やはり元の位置に住みたいとの住民の願いで土地をかさ上げ工事した。既に新たな団地が完成して希望者が移転済み。港近くには水産業地区も整備されてかなり賑わいが戻っている。震災後は長らく大量の瓦礫処理のための、施設が稼働していた。それらの瓦礫は防潮堤などの素材として再利用されたようだ。今は慰霊の塔が静かに海に向かっている。<続く>
2021.03.18
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~わたしと岩手県~ これが岩手県の形。北海道の次に面積が広く、多分信じられないだろうが、九州と四国を合わせたほどのようだ。県の真ん中を北上川が流れ、そこに県庁所在地である盛岡市を始めとする、たくさんの市が北上川沿いに点在する。東は太平洋に面した三陸海岸でその南半分はリアス式海岸だ。中央の北上川との間に北上高地があり、姫神山や早池峰山が聳えている。県の西側は秋田県と接しておりその間は奥羽山脈が連なって、秋田駒ケ岳などの秀峰がある。そして山麓には温泉地が多いことでも有名だ。 岩手山(南部富士) 岩手県で参加したレースは、「金ヶ崎ハーフマラソン」、「夏油(げとう)マラソン」(30km)、「北上マラソン」(フル)で、後は「いわて銀河ウルトラマラソン」で100kmの部に5回、50kmの部に1回出場したはず。100kmの部は北上市がスタート地点で、花巻温泉郷やダム湖、急峻な峠越えと冷風が吹く4つのトンネルを抜けて50kmの部と合流し、銀河高原や厳しい山道を通って雫石町のゴールへ。最後は前方に岩手山や姫神山が見えて大感激のコースが今でも懐かしく脳裏に浮かぶ。 リアス式海岸 三陸海岸の南半分はこんな地形が続く。いわゆるリアス式海岸で、のこぎりの歯のようにギザギザしている。ここの沖では昔から地震が多く、この地形のため津波が発生すると大きな被害が出る宿命だ。狭い岬に囲まれた集落は周囲が高地ばかりで、そのために津波は陸に向かって増幅し人は急いで山に逃げるしかない。 陸前高田市1557名、釜石市888名、大槌町804名、宮古市420名、大船渡市340名などと、東日本大震災で亡くなった岩手県民4675人の半分以上が津波で亡くなった海岸部の人たちだ。この地方には「津波てんでんこ」と言う言い伝えがある。大地震による津波襲来の際は、たとえ家族であっても集合を待たず、いち早くそれぞれで逃げろとの意味だ。 巨大な防潮堤 観光旅行で三陸海岸へ行った際に観たのは、復興工事で建造中の巨大な防潮堤だった。宮古市ではかなり巨大で堅牢な防潮堤を二重に建造していたが、それでも「東日本大震災」の大津波は易々とそれを乗り越えて市街地に大きな災害をもたらした。居住地区をかさ上げするなどして、港湾部とは機能区分をしたのだ。 三陸鉄道リアス線 三陸道 朝ドラ「あまちゃん」で有名になった三陸鉄道リアス線(上)が大震災から復興して全面運転が再開している。また仙台ー青森県八戸間の「三陸道」(下)がこのほど全面開通した。今後の災害に備えるだけでなく、この地方の産業振興のためにも強力な助人となろう。三陸道はやや内部を走っているが、岩手県内の海岸部では、ほぼ並行して走っていて、なかなか壮観な眺めだ。 浄土ヶ浜 青の洞窟 宮古市の浄土ヶ浜では、震災時の話も聞いた。現在は新型コロナ騒動ですっかり客足が遠のき、観光船による巡航も廃止されたようだが、幸いにも私は美しい海岸を船で訪れることが出来た。十和田八幡平国立公園や安比高原スキー場などがある岩手県。小岩井牧場や盛岡市の不来方城や志波城歴史公園などを訪れ、姫神山にも登った。「民話の里」の遠野市も良かったね。<続く>
2021.03.17
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~わたしと福島~ これは福島県の地図だが、福島は大きく3つに分かれている。オレンジ色の地方が「会津」で最大の都市が会津若松市。猪苗代湖や磐梯山などの観光地がある。グリーンの地方が「中通り」で、ここには県庁所在地である福島市、郡山市、白河市など人口が密集し、東北新幹線が通り阿武隈川が流れている。海岸部の「浜通り」は東日本大震災で大きな被害が発生し、津波や福島原発の放射能事故で、たくさんの人が故郷を失い、今も全国各地での避難暮らしを続けている。福島県の死者は1614名に上った。 いわき市 浜通りの最南端にあるのがいわき市。勿来などの市町村が合併して、高山市が日本一広い市になる前はいわき市が最大の市域を誇っていた。常磐線で東京方面から来ると、真っ先に勿来周辺で「いわき明星大学」の看板が目についた。今は「医療創生大学」と名称も学部構成も変更したようだ。さて上の写真で見える範囲がほぼ「いわきサンシャインマラソン」のコースだと思って差し支えない。山あり海ありの変化に富んだ結構ハードなコースで、私は3回参加したはずだ。 磐梯山と猪苗代湖 磐梯山と猪苗代湖が見えるコースを走るウルトラマラソンがあった。名称やコースは毎年のように変わったが、私は5回ほど参加したはず。アップダウンの厳しい磐梯山を一周した後に、結構アップダウンのある猪苗代湖を一周するのはきつかった。右に見えている国道もコースの一部で、とても懐かしい。ほとんどが100kmだったが、60kmの時もあった。また「東山マラソン」では20kmを走った。 中通りのマラソンは「飯坂もにわっこマラソン」(フルマラソン)のみだが、自宅からJR福島駅までを練習で80km走った。浜通りでは「相馬野馬追いマラソン」(ハーフ)も走った。 事故前の福島原発 常磐線沿線の風景で懐かしいのは、原町の通信基地や東京電力の福島原発。あの美しかった建物が、大震災で大きな被害を出した。元々標高20mあった敷地をわざわざ10mまで掘り下げたと聞く。もし20mのままだったら津波の被害も小さく、全電源喪失もせずに済んだかも知れない。スリーマイル島事故の教訓を生かせなかったのは東京電力の重大な怠慢で、批判されて然るべきだ。 相馬市松川浦大橋 浜通りの相馬市までは、自宅からマウンテンバイクで2回行ったことがある。往復で100kmほどだが、海岸沿いで平坦なので割と楽だった。その松川浦が東日本大震災が大きな被害をを受け439名の死者を出している。宮城県南部の海岸部でも大きな被害が出たが、先日の福島県沖地震でも東日本大震災を上回る大きな被害を出したのが気の毒だ。<続く>
2021.03.16
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~私と茨城県~ 茨城県の地図 茨城県の旧国名は常陸国。これで「ひたちのくに」と読む。現在では電機メーカーの日立が有名だが、それもこの国名に由来する。私は研究学園都市のあるつくば市(当初は桜村など6か町村)と県庁所在地の水戸市に合わせて11年間住んだ。故郷の宮城県に次いで長く住んだ県なので、想い入れは強い。今では「つくばエキスプレス」が走り、高層ビルが建ち並ぶつくば市も元々は貧相な松が生い茂る原野だった。 筑波山と霞ケ浦 私が茨城県で思い出すのが筑波山と霞ケ浦だ。筑波山は関東平野に聳える秀麗な独立峰で、筑波山神社があり万葉集の和歌にも謳われた古代から神聖な山だった。霞ケ浦は利根川の下流域にある淡水湖で、私たちが筑波に移住した昭和40年頃は土浦から潮来(いたこ)まで観光船が巡航していたし、土浦市から筑波山方面には「筑波鉄道」が走っていた。 つくば市は3人の子供たちにとっては故郷みたいなもので、彼らはそこで生まれ、そこで育った。私がランニングを始めたのもつくば勤務当時で、当初は3km走るのがやっとだった。それから43年目になり、走った距離は10万kmを超えて地球3周目に入りその後全都道府県走破も達成した。茨城県のレースは、つくばマラソン2回、勝田マラソン4回、かすみがうらマラソン2回でいずれもフルマラソン。 特急ひたち つくばマラソンの前身である「筑波研究学園都市マラソン」を3度走ったが、当時は30kmのロードレースだった。練習では主に筑波研究都市内を走り、水戸では千波湖が練習コースだったが、水戸から石岡市までの約30kmを練習で走ったのが良い思い出だ。茨城県で思い出すのが常磐線。東京へ行く時も、仙台へ帰る時も良く利用したので今でも駅の名前は良く覚えている。 大洗港 3.11における茨城県内の最大深度は6強で、死者は24名だったようだ。恐らくは大洗港や高萩港、北茨城港など海岸部における津波による犠牲者だったのではと推測している。そして県北の海岸部では福島原発の事故による放射能汚染の風評被害もあったのではないだろうか。北部の港では冬場のアンコウ漁が有名で、市場に吊るされていたグロテスクな姿を思い出す。 五浦海岸六角堂 明治期に岡倉天心、フェノロサ、横山大観らが関係したと言う県北五浦(いずら)海岸の六角堂が、最後の職場が管理していると聞いて驚いた。直ぐ海の傍なので津波の被害がなかったが心配だ。農学部が阿見町に、工学部が日立市にあり何度か訪ねたのも良い思い出。観光では焼き物の町笠間や、鹿島神宮のある鹿嶋市、袋田の滝などへ行った。茨城県は道路が四方八方に延び、きっと古代から交通の要衝だったのだろう。そんな印象が強い。<続く>
2021.03.15
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~ランニングの思い出と共に~ 私は47都道府県の全てを訪れ、かつそこで走っている。このシリーズでは「東日本大震災」の思い出を記しているが、それだけでは持たない。それで被害が出た県をランニングの思い出を交えて紹介しようと思う。最初は千葉県。震度6弱で31名の死者が出たようで驚いている。私は千葉市の幕張に住んだことがある。今では立派なビル街になっているが、50年前はピーナッツとサツマイモ畑で、海は立ち入り禁止の汚れた浜辺が続いていた 夕日の印旛沼 レースで千葉を走ったのは「佐倉朝日健康マラソン」(フル)で、当日は大雨が降った。印旛沼(上)の周辺のコースを、雨や水溜りに悩まされながら散々な思いで走ったのが、強く記憶に残っている。 もう一つのレースが「飛翔千葉ウルトラ」で距離は60km。不思議な縁だが、印旛沼を水源とする花見川の下流の1周10kmのコースを6周するもので、風景に変化がなくてとても詰まらない大会だった。まあ周回コースと言うのは、得てしてそんなもので、当たり外れがあるのが普通だ。 <新浦安> <浦安> 「寅さん詣り」と言う大会にも出たが、こちらはスタートとゴール地点が東京都の葛西臨海公園傍。それなのに千葉に入れたのには訳がある。それはコースの最初に新浦安橋を渡って浦安市のディズニーランドの周辺を回るためだ。浦安は山本周五郎の「青べか物語」の舞台になった古い運河の情緒ある町。だが海岸の新浦安は新たに造成した土地で、東日本大震災では液状化現象で大変な災害が起きた。 <京成柴又駅と寅さん像> 因みに東京都でのレースは、「八丈島一周」(66km)と「伊豆大島一周ウルトラマラソン」(100km)といずれも島しょ部のウルトラマラソンだが、荒川沿いを走る「喜多マラソン」はフルマラソだった。「寅さん詣り」の方は江戸川沿いを柴又の帝釈天で折り返すが変化に富んだ景色で、途中で迷子になり42kmが44kmになった。手作り大会ではたまにそんなことが生じるのだ。<続く>
2021.03.14
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~わがこころの風景~ 2011年3月11日金曜日午後2時46分過ぎ。突然家がグラグラと揺れた。相当に強い揺れでとても立ってはいられない。思わずしゃがみ込み、揺れが治まるのを待った。その時間の長いこと。これだけ揺れたのは人生で初めてのこと。自分では6分ほど揺れていたと思ったのに、実際は3分少々だった由。多分家は潰れる。でも建築したのが軽量鉄骨住宅であることが、最後の支えだった。 揺れが治まったため、外へ出た。電線がブランコのように揺れている。地面から水が噴き出している。その日は夕方から勤務だったが、自分の判断で行くのは止めた。それで正解だったと思う。潰れてペシャンコになったビル。大量の窓ガラスが割れたビル。陥没した道路。そしてそれから数十分後、海岸では恐るべきことが起きていた。大津波だ。それも繰り返し襲い、多い所では第7波まであったと言う。 南三陸町防災庁舎 マグニチュード9.0。最大震度7強。名称は何度か変わったが、最終的には「東日本大震災」に落ち着いた。最初の震源地は宮城県沖。この後は散発的に余震が起きて、10年を過ぎた今でも宮城県内では震度4程度はざらに起きる。太平洋プレートが、北米プレートとユーラシアプレートの下に潜り込む摩擦が原因で起きた大地震。これまでも数百年間隔で大地震が発生しているらしい。 フィリピンも交えた4つのプレートが日本列島の真下で交わり合い、沈降と隆起を繰り返している。今回は震源地が徐々に南下し、日本海溝付近で東西200km幅、南北500kmに渡ってプレートが引き裂かれた由。そのために多くの活断層が影響を受けたようだ。わが家ではその日から5日間停電し、6日間給水が止まり、ガスは35日間供給停止となった。当日は雪が降る寒い日だが、当然暖房はない。風呂に入ったのは35日間で3回。近所の温泉の入浴券を1時間半も並んで買った。 仙台市深沼海岸 停電のためニュースが聞けず、震災の度合いが不明。この間に海岸部では大変な事態が発生していたようで、後日停電が解消してからニュースを観て愕然とした。海辺の街は壊滅状態で死者や行方不明の人が大勢出たようだ。仙台空港の飛行機が流されて行く様子に呆然。燃える気仙沼の港。仙台市内でも800名近い死者が出たようだ。思っても見なかった大災害。ところがわが家ではほとんど被害はなかった。棚などを道具で固定していたのだ。その防護策が効いて、本が少々落下した程度で済んだ。 事故後の福島原発 恐ろしかったのがその翌週だ。福島原発がメルトダウンしたと言うニュースが飛び込んで来た。原発がある大熊町と双葉町の町民は放射能汚染の恐れがあるため、緊急避難した模様。ところが事故当日の風向きで、放射能汚染した市町村がほかにあったとか。宮城県最南端の町も一部汚染。私は「放射能汚染」を怖れつつ雨に濡れながら自転車で職場へ向かった。食べ物も燃料もなかった。そして冷たいままの布団。それでも命があったのだから良い方。 この後、大勢の方が寒い避難所暮らしを強いられた。スーパーにも物がなく、ガスボンベ1本を買うのに2時間も並ぶ始末。まさに地獄の日々だった。<続く>
2021.03.13
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~暮らしの中のあの日~ 目が覚めると既に8時。急いで着替え、バス停へ行く。市役所県庁方面へのバスは8時31分。それだけ確認し、それまでに何が出来るかを考える。先ず布団を干す。次に朝食の準備。必要な書類をリュックに。ついでにお茶とお菓子もリュックに入れた。それから朝食。朝ドラを観てる暇はない。準備したご飯も3分の1ほどを食べて終了。急いで歯を磨き、薬を飲んだ。それからトイレとゴムの木を外に。 仙台駅前 急いでバス停に行くと7,8名が並んでいた。少し遅れ来たバスの前方座席に座って新聞を読む。まあかなり読めた。仙台駅前で降りて前方の高いビルへ。エレベーターで5階へ。そこが区から今年指定された申告の場所。県民税市民税の、申告の期限が迫っていた。必要な書類を整えていた。後は係の人に聞きながら書けば良いと判断。私がもらった札は6番。と言っても実質は1番だった。5人は既に済んでいた。 仙台市地下鉄東西線 係の女性が書類を確認しながら画面に入力してくれたため、私はただ座っていただけ。折角計算した「医療費控除」は少額のため対象外とのこと。昨年以降に規則が変わったようだ。残念だが仕方がない。最後に提出した帳票を返してくれたが、申請書はもらって来なかった。後で確認するためもらった方が良かったかと後悔。帰路は地下鉄に乗った。終点の駅から歩いて坂道を下る。 郊外風景 地下鉄の駅から歩くのは久しぶり。30分ほど坂道を下る。暖かい春の日が心地よい。新しい団地での新築工事が進んでいる。裏道を通ってわが家へ。そして裏の塀の脇から畑へ下りて玄関へ。書類を整理後、食べ残した朝食を平らげ、申告会場へ持参した「くるみゆべし」も食べた。これで重荷が一つ降りた感じ。街へ出るのは正直怖かった。連日コロナ感染者が出ていたからだ。家にいたら安心なのだが。 この日はあの「東日本大震災」発生からまる10年目。そんな日に出かけなくても良さそうなものだが、申告の締め切りが迫っていたため、私はこの日を選ばざるを得なかった。無事申告出来て良かった。それもほとんど待たず、何の障害もなく帰宅出来て良かった。2万人以上の死者と行方不明者を出した、あの未曽有の大災害。被災地に住む私たちはこのところ連日のようにテレビであの映像を見せられた。 災害当時(右)と復興後の街並み(左) 見なければ見ないでも済んだが、私はその特集のほとんどを観た。わが家は大した被害を受けなかったが、それでも地震保険は下りた。極力適用するよう政府から保険会社への働きかけがあったようだ。わが宮城県内は一番多くの死者が出、私の従兄弟も津波で死んだ。だから番組を観るのは県民として当然の勤めとも思う。どれだけ大変な思いをした被災者と遺族がいたことだろう。その筆舌に尽くせない苦難の日々を思う。<続く>
2021.03.12
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~つれづれなるままに~ 歯医者に行ってきた。歯周ポケットの定期点検と歯石除去のため。2か月に1回のペースで、とても丁寧な診察。ドクターの奥様が前日までに、絵入りの葉書をくれる。診察を忘れないための案内だが、今回は「おちょやん」のモデルの浪花千栄子の絵が描かれていた。何と「オロナイン軟膏」のコマーシャル付きで。あの温和な顔を思い出す。しかしおちょやんの相方一平のモデル渋谷天外は全く知らない。 渋沢栄一 渋谷天外は後年浪花千栄子以外の女性との間に子を作る。夫婦の喜劇役者や漫才で思い出すのは、ミヤコ蝶々と南都雄二、京唄子と鳳啓助のコンビだが、いずれも夫が浮気を繰り返してその後離婚。女の方はしぶとく芸人として生き残った。大河ドラマの主人公の渋沢栄一はもっと凄い。こちらは離婚こそしなかったが、妻以外の女性との間に20人もの子を為した艶福家。それでも偉人に変わりはない。 庭の椿がまだ咲いている。ネットで調べたらどうやら「友の浦」と言う品種のようだ。友の浦は和歌山近郊の海で、昔から名の知れた観光地。私は和歌山城から高野山の南大門まで走って往復するレースに出たことがあった。アップダウンの激しいコースで、両膝を傷めて苦しんだ。帰路の坂道でスピードが出過ぎて骨折した選手がいた。私も最後は月を見ながらゴールまで歩いたっけ。 苦しみながらもアイヌの話を11回書いた。最初の2回は体調が悪化して言葉が思い出せなくなり、とても短い文章で終わった。疲労と長時間同じ姿勢でPCに向かっていたために肩と首が凝り、きっと脳の血流が悪くなったのだろう。これはひょっとして脳梗塞の前触れかと心配したが、テーマを変えて気楽に書いているうちに体調が復帰した。よだれが出たりして、あれは怖い体験だった。 クリスマスローズ 2度目のアイヌシリーズを執筆中も、異常を感じた。脳内に熱いものが流れるのを2度感じたのだ。これは脳出血かと急いで手を動かし、幾つかの言葉を発してみた。この時も大丈夫で、血圧も通常値で済んだ。あるブロ友が「自分も独り暮らしみたいなもの」とコメントしてくれた。そこで「みたいなもの」と「一人暮らしは違います」と返事を書いた。似て非なるもの。男の独り暮らしはとても不安なものだ。 クリスマスローズ 先日近所の人が声を掛けてくれた。「どうしてますか」と言うので、「何とか生きてます」と答えると、返事に困ったようだ。だがそれが私の本音。愛想がないし、もう少しお上手を言えば良いのだろうが、私は相手がどう受け止めようが斟酌しない積り。東日本大震災、新型コロナ、そして熟年離婚と高齢化に伴う体調不良。心配でない訳がない。それでも何とか一人で頑張って生きている。 豊後梅(ブンゴウメ) もう2か月ほど睡眠薬を飲まないでいる。夜中に何度かトイレに起きるが、その都度また眠り、朝まで布団の中。朝もゆっくり目の起床で、日中も眠たいと感じたら昼寝。先日は散歩しようと久しぶりに外に出、信号で走ったらそれだけで息が切れた。運動不足を痛感。それでも明朗でなくても良い。たとえ仏頂面でもあまり気にせず、出来るだけしぶとく生きるのだ。俺はそれで良い。 蝋梅 歩いて郵便局へ行き、往復はがきを買って来た。来年度の「俳句教室」の申し込みだが、間違って書いたため買い直したのだ。途中の家の庭に蝋梅が咲いていた。先日は他の場所で匂いを嗅いだ。とても良い春の薫りだ。庭の梅、クリスマスローズ、スイセンが咲き始めた。この日は歯医者と郵便局へ2度歩いた。日差しはすっかり春のものとなった。そろそろジャガイモのを植える時期だ。
2021.03.11
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~週刊誌ネタから~ いやはやぶったまげた。この愛くるしい福原愛ちゃんが、何と台湾にご主人、二人の子供、そして自分のお母さんを置いて来日してるさ中の行動が女性週刊誌にすっぱ抜かれたようだ。それによれば愛ちゃんは長身の男性と一緒にホテルに宿泊し、自宅へもこの男性を泊まらせたとか。週刊誌に出たことで記者会見に臨んだ愛ちゃん。「でも同じ部屋には泊まってません」と答えたそうな。あれ? 週刊誌によれば、愛ちゃんはかねてから夫君の「モラハラ」に悩まされていた由。夫君は台湾の大金持ちのボンボンで何の不自由もない暮らし。だが、愛ちゃんにはそれが重荷だったのか。日本で起業し、社長でもある愛ちゃんは親権を失うことを覚悟し離婚に踏み切る模様と伝えられる。仙台出身で幼児の時から彼女を見て来た者としては、とても複雑な気持ち。それに婚家に預けたままの病気のお母さんは、一体これからどうなるのか。 しかし世の中にはトンデモナイ女がいるものだ。この48歳の福岡県の女。ママ友の女性を脅して離婚させ、生活保護費や児童手当や車を売った代金まで全部巻き上げ、挙句の果てはママ友に指示して5歳の幼児を虐待していた由。10日間に与えたのは水だけ。とうとう幼児は衰弱死してしまった。自分の背後には暴力団がいると偽り、洗脳で詐取したお金はパチンコなどの遊興費に充てたと言うからまさに鬼だ。 しかし脅かされた女性も女性。すっかり洗脳されて、もう自由を奪われてしまったんだろうね。しかし、最近は児童相談所が全く役に立たないケースが多いことに驚く。きっとそれだけ人間関係が希薄になり、他人の生活には口出ししない社会になったんだろうね、きっと。しかし食べ物を与えられずに死んで行った子供があまりにも憐れ。この飽食の時代に何と言う悲惨な事件だったのだろう。 スキージャンプの葛西紀明選手がやりました。3月3日開催の「札幌オリンピック記念スキージャンプ競技大会」ノーマルヒルの部で見事3位入賞でした。1回目のジャンプは94mでしたが、2回目に98mを飛び、3位に並んだようです。48歳の彼は実業団「土屋ホーム」の選手兼選手。冬季オリンピック8回出場、ワールドカップ569回出場は個人最多記録で、共にギネス記録とか。全く凄いですねえ。 しかし年齢だけならもっと凄い人がおりますよ。サッカーJ1リーグ横浜FC所属の三浦知良選手は54歳。もちろんプロのサッカー選手としては最年長です。今年も頑張って現役を続けるみたいで、トレーニングに励んでいます。しかしサッカーは運動量が物凄いので、54歳の現役選手は驚異的ですね。奥様は確か三浦りさ子さんだったかな。きっと美味しくて栄養たっぷりの手料理で労っているんでしょうね。 しかし世の中には長命な方がいるもんですなあ。芸術家の篠田桃紅さんが先日107歳で逝去されました。彼女は5歳の時に父上から書を習い、以後独力で書道を究めます。戦後は「字」を解体し、墨を用いて抽象的な作品を創造します。版画(リトグラフ)家やエッセイストとしても活躍され、ニューヨークを拠点としながらボストン、シカゴ、パリなどで個展を開催。104歳で個展を開いたと言うのにも驚きですね。きっと常に探求心を失わない人生だったのでしょう。謹んでご冥福を祈ります。合掌。 <白石かずこ> <岩下志麻> ついでにネットで調べたら、映画監督の篠田正浩さんは従弟のようですね。その篠田監督の最初の奥様が早稲田大学の学友で詩人だった白石かずこさん。若い時は大変な美人で、しかもド迫力のシュールな詩を書いています。離婚後は黒人のセフレがいたとかでぶっ飛んでいました。2番目の奥様が女優の岩下志麻さんだったかな。こちらも大変な美人ですものね。2人の若い時の写真を載せました。ではまた。
2021.03.10
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~わが内なる差別~ <ねぶた 阿倍比羅夫の蝦夷征伐> 東北に生まれたことで、東北の民が古来より蔑視されて来たことを知りました。蝦夷は「えみし」と読み、野蛮な民とされたのです。それは都から距離が離れていて実態を知らなかったための誤解で、彼らにも彼らの文化があった訳です。えみしはアイヌとは異なり民族的には全く一緒。強いと言う意味もあって、蘇我蝦夷のように有力な古代豪族の名にも用いられました。 古代東北の民、蝦夷と同様の立場が九州南部の熊襲(くまそ)や土蜘蛛(つちぐも)や隼人(はやと)でした。こちらも都から遠く離れていたため実態を知らずに蛮族とされ、日本武尊(やまとたけるのみこと)などによる征伐の対象となったのです。 四国に転勤したことで、東北にはなかった「部落問題」を知りました。何と子供たちが通う学校の直ぐ近くに、その被差別集落があったのです。「士農工商」と言う明確な身分確立の世の不満を解消するため、最下層の「えた、非人」と言う階層を作ったとの説を聞きました。 住井すゑの「橋のない川」は近畿地方のある被差別集落をテーマにした長編小説で、私はこれを読んで部落問題と部落解放運動の存在を知りました。東北人には全く異質な世界です。大阪に転勤して街に出ました。そこは有名な古寺の傍でしたが、とても異様な雰囲気でした。そこにはアンタッチャブルな空気が漂っていて、一角が被差別集落であることを直感したのです。 沖縄に転勤したことで、沖縄についてたくさんのことを学びました。歴史、文化、文学、風土、生態、宗教、芸術、言語などです。戦火で焼失した沖縄関係資料の収集が私の仕事の一つだったこともあって、ずいぶん本を読みましたが、琉球処分で沖縄が近代国家日本に組み入れられる過程についても学びました。近代日本にいち早く馴化させるため、琉球方言を標準語に変える努力を子供たちに強い、学校内で方言を使った子供の首に「方言札」と書かれた札をぶら下げることもあったようです。 東北出身の県令(現在の県知事)が貧しい沖縄に同情して善政を敷いたことも、琉球を支配した旧薩摩藩出身の県令が鹿児島県の商人を優遇したこともありました。貧しかった沖縄県民が当時開かれていた航路で移住した関西で、容貌や言葉で嫌がらせを受けたと聞きます。そしてハワイやブラジルなどへ県民は雄飛しました。勤務当時の部下が先祖は中国人と言ったことがありました。それだけ中国を敬い、誇りにしていたのです。でも彼が言ったことは嘘でした。沖縄では今でも通じる話です。同じ日本民族なのにねえ。 関東大震災 日本の古代史が好きだった私は、手当たり次第にそれらに関した本を読み、やがてその関心が幕末から明治期にまで至りました。その過程で歴史小説も読み始め、関東大震災当時朝鮮人が井戸に毒薬を投げ入れたとの噂を広めて、60名ほどの朝鮮人を虐殺したことを知りました。当時朝鮮は日本に併合され、白丁(ぱくちょん=奴隷)などの身分制度は解体され自由の身となっていたものの、半島では依然として蔑視は残っていたのです。 それで彼らは満州国や内地へと渡りました。そこでは同胞からの差別は無くなったものの、一部の日本人からの蔑視はありました。関東大震災当時は幸徳秋水らの社会主義者が捕らえられているので、きっと憲兵隊などによる思想取り締まりが強かったのだと思います。不幸で暗黒な時代でした。 博物館に勤務したことで、アイヌにも関心を抱くようになりました。アイヌの口承文学「ユーカラ」を読み、動画でそれを耳にし、幾つかの博物館でアイヌの衣装や民芸品を見、一度は北海道に出かけてアイヌ人初の国会議員萱野茂氏から直接アイヌ語の話を聞いたこともありました。それらの中で、明治新政府がアイヌの日本化を図った方策などについても知りました。日本語教育は沖縄と一緒ですが、アイヌからは無理やり土地を奪ったのが、沖縄と全然異なる点です。 広大な北海道の中の好猟場や良漁場を失ったアイヌたちの生活は困窮しました。固有の言葉を失い、宗教を失い、次第に彼らは追い詰められて行きます。その中で純粋なアイヌの血を引く人も激減して行きます。仕事を求めて都会へ出、差別や迫害を避けて道外へと移住したアイヌ。今でも彼らの暮らしは苦しく、日本人に同化することで辛うじて生き延びているのが現状です。そんな中での「アイヌ新法」であり、ウポポイなのでしょう。 この話をある親子の肖像を借りて記しました。女性の名は宇梶静江。詩人、古布絵作家、絵本作家、そしてアイヌ解放運動家です。男性の名は宇梶剛士。職業は俳優で、ウポポイの開設PRアンバサダーを務めています。上の写真はそれぞれの若き日のもの。静江の夫は和人。剛士は元暴走族のリーダーでした。母子が歩んだ道は、恐らく苦難に満ちた茨の道だったのでしょう。 親子はアイヌに対する蔑視と差別から、都会へと逃れて来たようです。その遥かなる苦難の道のりを思います。二人は今、アイヌの誇りと共に生きています。ちょっとしたきっかけから書き始めたこのシリーズですが、何とか書き終えることが出来ました。私は博物館もアイヌも歴史も大好きなので、是非ともウポポイでは真実を伝えて欲しいと願っています。北海道に嘘は似合いません。開拓のことも真正面から受け止め、是非取り上げて欲しいものです。それでこそ「民族の共生」だと思うので。 このシリーズを読むために私のブログを訪ねて下さった皆様。どうもありがとうございました。皆様のお陰で何とか最後まで書くことが出来ました。心から感謝します。もしもこれだけたくさんの方が来て下さらなかったら、きっと毎日は書けなかったと思います。私はアイヌに対する偏見は全くありませんが、もしも不適切な表現や間違った理解があったらお許しいただきたいと思います。 確かにアイヌと和人の交流の歴史を見れば、時には戦って血を流したこともあったと思います。気高いアイヌの魂同様に、純粋な魂を持って北海道での開拓に挑んだ和人がいたこともまた確かな事実です。アイヌと和人がこれからも共に心を通じ、共に歩むことが出来るよう願って筆を置きます。ではまた。感謝。<完>
2021.03.09
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~少数民族への差別と和解~ 最近NHKのBS放送で、やたらと「西部劇」が多いのに驚いた。新型コロナの影響で新たな番組を作るのが難しく、つい著作権の切れた古い映画を使うのかも知れないが私には、あまりにもお手軽で安直な思考としか思えなかった。アメリカインディアンつまりネイティブアメリカンはアメリカの先住民だが、西部劇では開拓の邪魔になるインディアンは「悪者」で片っ端から銃で殺す。そんな白人本位の価値観から生まれた映画をそのまま垂れ流していて良いのだろうか。 オーストラリアの先住民族はアボリジニだ。ここにイギリスの犯罪者が送り込まれて開拓を始める。広大な大地には250ものアボリジニの部族がいたようだ。後からやって来た白人たちは、呆れたことにこの先住民たちを狩りの対象にしたと言う。それらが禁止されると、政府はアボリジニの児童だけを隔離して、欧米風の生活様式を強要したと言う。やがてそれも非難の対象となった。 すると政府は大人も子供もひっくるめて都市にアボリジニを移住させ、広大な原野から追い出した。政府からの補助金で暮らすようになった彼らは仕事を失い、朝からアルコールを飲むようになった。元々アルコールに耐性がなかった彼らがアルコール依存症になるのは早かった。そのことを重く見た政府はアボリジニの芸術性に着目した。彼らが特殊な画法で描く絵は、やがて高額で売れるようになった。 左上がアボリジニが描く絵で、動物などは「レントゲン画法」と呼ばれる描き方をする。それは内部の骨格がとても印象的なもの。さて長年のアボリジニ政策を反省したオーストラリア政府は、国立や州立の博物館と美術館には必ず「アボリジニコーナー」を設けて、彼らの美術作品を展示することにした。私は25年ほど前にオーストラリアの美術館と博物館などを見学し、それらの作品にも接することが出来た。 政府は彼らの宗教上の聖地を返却することも決めた。観光名所として有名な「エアーズロック」は、かつて外国からの観光客が自由に登ることが出来たが、今はアボリジニの聖地「ウルル」として眺めることしか許されない。先住民の権利を尊重するまでにオーストラリア政府が辿った道のりは本当に遠かったのだ。それらに比べてわが国の状況はどうだったのだろう。 アイヌと聞いて私が真っ先に思い出すのが「コタンの口笛」だ。私はてっきり少年時代にラジオで聞いた番組とばかり思っていたのだが、今回このシリーズを書くに際してネットで調べた結果、昭和34年に制作上映された映画と分かった。原作者である石森延男の名は覚えていた。彼は児童文学者で、この原作は第1回未明文学賞と第5回産経児童出版文化賞を受賞している。 アイヌの少年と日本人の少年が最初は誤解していたのが、お互いに少しずつ相手を理解して行く過程を描いたもののようだ。恐らくは戦後民主主義のお手本になるようなストーリーなのだろう。私には何となくそう思えた。<続く>
2021.03.08
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~本物であること。真実であることの大切さ~ ウポポイの敷地の一角に何棟かのチセ(アイヌの小屋)が建てられている。これがとても巨大なもので、窓はアルミサッシ、床は一面のフロ―リング、そして要所要所にコンセントが設けられているそうだ。すっかり近代化したアイヌの小屋だが、せめて一つぐらいは「本物」を建てられなかったのだろうか。博物館は「真実」を伝えるべき機関だし、そこに展示される物は全てが「本物」であるべきだと私は思う。 もちろん不特定多数の観客が利用する施設なので、安全安心である必要がある。きっと新造のチセもそう言った点が重視されたのだと思う。だが国立アイヌ博物館と銘打つからには「真実」であり、「本物」であるのが絶対の条件のように思う。 ネットで探した本物のチセの画像がこれ。全てのチセを本物にするのが難しいとしたら、せめて1棟くらいは本物を博物館の屋内に再現して欲しかったと思う。屋内なら風雨に曝されることもなく、屋外よりは建物も長持ちするはずだ。ウポポイが「精神文化尊重機能」を基本精神の一つに謳うのであれば、当然のことだし、「調査研究機能」や「情報発信機能」も偽物でどう研究し、どう発信するのだろう。 アイヌの民族衣装に「アットウシ」と言うのがある。私は「青森県立郷土館」や「五所川原市立博物館」でその本物に接したことがある。どちらもかつての「北前船」で北海道から青森県にもたらされたものだ。だがウポポイの展示品のほとんどは開館に合わせて新しく作ったものと聞く。だから生活感がないのだろうし、アイヌの精神や芸術性が正しく伝わらないのではないかと危惧する。 衣服の素材となる繊維はシナノキやオヒョウの内皮を剥いで晒し、細く割いて繊維にする。ところがそれに適した樹木がもう北海道では少ないそうだ。また染色の紺色は普通は藍(あい)を使うが、北海道では藍は産しないし、気温が低いために発酵しない。従って他の植物を使って染色せざるを得ないが、近年ではそれも困難だろうし、化学染料のお世話になるか、他県の藍を使うしかないと思われる。 茶色の染料にはクルミ(胡桃)を用いると聞いたことがある。実が実る頃になるとこの皮がこげ茶色になる。クルミなら北海道でも入手しやすいのではないか。 10年ほど前に北海道に旅し、大沼公園の周囲を走っていた。その時道路わきに小さな説明版が立ってるのに気づいた。それを読むと植物はウバユリ(左)で、アイヌはその球根を好んで食用にしたとあった。ゆり根は高給な食材だし、採集生活を送っていたアイヌが豊富に自生するウバユリやギョウジャニンニクを利用しない手はないだろう。函館の志海苔館(しのりたて)と言い、この旅ではアイヌにまつわる知識を得た貴重な体験だった。 さてアイヌの工芸品として名高い鮭を咥えた木彫りの熊だが、あれが元々伝統的なアイヌの工芸だったわけではない。鮭が遡上する川や野生動物が生息する山野を明治以降になってから和人に奪われたアイヌの生きる術が、観光客相手に土産物としての木彫りを生業にしたのだ。こうして木彫りの工芸品はアイヌの「伝統工芸」と化して行った。<続く>
2021.03.07
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~ウポポイの空疎な理念と展示物~ 国立アイヌ博物館ウポポイ 連日苦しみながらもアイヌの話を書いている。こんな内容にも関わらず、毎日たくさんの方が訪れて下さることに、心から感謝したい。もしも私が頑張って書けているとすれば、それは名も知れない大勢の読者のお陰だと思う。私は研究者でもないただの老人だが、何とか乏しい知識を駆使して連日悪戦苦闘している。我ながら不思議な体験。この話を書き始めた端緒は、たまたま観たNHKの番組だったのだが。 ウポポイの敷地と航空写真 ウポポイは7番目に出来た国立博物館。国立東京、国立京都、国立奈良、国立九州が地域別の博物館とすれば、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)は考古学を含む日本史と日本の民俗学専門であり、国立民族学博物館は世界の文化人類学を専門分野とする博物館で、両者とも総合大学院大学の大学院を有する研究機関でもある。それに比してウポポイは出来立てホヤホヤの若い博物館だ。 広場で行われるアイヌの舞踊 「民族共生象徴空間」の別称があるウポポイが行う事業は以下の通り。1)展示、調査研究機能。これは当然だが果たして十分な展示と研究は出来てるのだろうか。2)文化伝承・人材育成機能。これを国立博物館が行う意義が良く分からない。3)情報発信機能。これも違うような気がするが。4)体験交流機能。国立博物館がそこまでやるかねえ。5)公園機能。これを打ち出すならもう観光施設だが。6)精神文化強調機能。国立機関がアイヌ民族の精神性に肩入れするってどういうことだろうね。宗教儀式だってきっとあるはずだが。 国立歴史民俗博物館(歴博)と展示の一部。歴博の展示は展示物の採取場所、歴史的な事実とそれが作られた時代背景などの説明が克明に記されている。学術機関として当然だ。まして国立の博物館で、大学院を有するのだから。 国立民族学博物館(民博)とアイヌ展示の一部。チセ(アイヌの小屋)は当初のものがその後ぼやのために燃えたようで、茅葺の屋根がまだ修復されていない状態だ。だが展示物はすべてアイヌが使用した本物ばかりで、アイヌ文化の本質に接することが出来る。また同館では動画による世界各地域の民族の文化を知り、展示物の大部分は直接触れることが可能。最新技術により画像や音声でのマルチメディア案内もある。 がらんとしたウポポイの展示場 それら先発博物館の展示物に反して、ウポポイの展示物の評判はあまり良くない。先ず絶対的な量が少なく、しかもアイヌが使用した本物がほとんどない。アッツシなどの民族衣装もほとんどが新しく作られたもので、生活感のないものばかり。実際に観覧した方の感想を聞くと、理念ばかりが先行して抽象的で空虚な印象を抱いた。これでは「ただの空間」だ。 第一アイヌは日本の先住民ではないし、人類学や分子生物学上の研究もまだ十分には進んでいない。それを3万年も前からアイヌがいたと言う根拠は何だろうか。もちろん誰にも先祖はおり、3万年前に繋がる先祖はいる。だが民族としてのアイヌがいつどこで発生したかは解明出来ないはず。ウポポイはそれらの疑問にどう答えるのだろう。私には「アイヌ新法」制定とこの博物館建設の動機に無理があったとしかどうしても思えないのだが。<続く>
2021.03.06
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~アイヌとの交流~ 北海道開拓記念館 いわゆる「アイヌ新法」が制定されてから、言葉などに一種の「制約」がかけられたのではないだろうか。実際に体験はしてないが私にはなぜかそんな風に思えて仕方ないのだ。例えば「開拓」。私たちの年代で北海道と言えばすぐに思い出すのが「開拓」だし、「屯田兵」。それらは明治新政府が目指した「富国強兵」を支えるものでもあった。だが「開拓記念館」はどうやら「北海道博物館」になったようだ。 アイヌに数の概念が乏しいことは以前に述べた。例えば江戸時代に和人がアイヌと取引する時の数え方だが、先ず「はじめ」から始まり1,2,3,と数えて真ん中に「真ん中」が入り、10まで数えると最後に「おわり」が入った由。つまり10は10ではなく13になるが、それでもアイヌは了承したと聞く。明治新政府は、アイヌが居住した便利な土地を奪って三菱や三井に払い下げ、アイヌは僻地に追い込まれたと言う。 さて、アイヌに混じって立っている外国人は、イギリス人のジョン・バチェラー。彼は英国国教(プロテスタント)の牧師で、夫人と共に早期に北海道に渡りアイヌにキリスト教を布教した。風習はもとより、言葉も日本語とは大きく異なるために彼の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。 そのために彼が苦労して作ったのが「アイヌ語、日本語、英語の対訳辞書」(左)だった。彼はアイヌのための教育施設まで作った。それが幌内に建てた「愛隣学校」だ。そんな努力がアイヌにも認められ中にはキリスト教へ改宗する者も出た。アイヌにとって最初の異人は日本人だが、日本人以外の外国人がジョン・バチェラーで、彼がアイヌ研究に果たした役割は極めて大きなものがある。 日本人のアイヌ語研究の第一人者が金田一京助(左)だろう。彼は東大でアイヌ語研究を志し何度も北海道を訪れたが、十分に聞き取ることは出来なかった。そこでアイヌの少女知里幸恵を東京に招いて、彼女から正確なアイヌ語を学んだ。彼女は幼少時から幾編ものユーカラを聴いて育ち、いち早く学校で日本語の教育も受けたバイリンガルで、金田一にとってはまたとない良い助手となったのだ。 こうして金田一の研究は一挙に進んだが、北海道から出て来た幸恵にとって大都会での慣れない暮らしによるストレスは大変なものがあったのだろう。語学の天才はわずか18歳と言う短い生涯を終えたのだ。この後、金田一は幸恵の弟真志保を東大に入学させてアイヌ語の研究を続けるが、真志保は東大卒業後北海道へ帰還し、後に北海道大学の教授となる。その後は彼らの叔母である金成マツが暗唱していたユーカラを学ぶ。 アイヌ初の国会議員となった萱野茂の生涯は、アイヌ文化の振興に捧げたと言っても過言ではないだろう。自らもアイヌ博物館を自宅敷地内に建て、大阪の国立民族学博物館の建設に寄与し、アイヌ新法制定の原動力となり、金成マツがアルファベットで書き残した膨大なユーカラを日本語に翻訳した。また自らもアイヌに伝わる昔話を何十冊もの著書にまとめた。 それらの研究や長年のアイヌ文化振興活動に対して、総合研究大学院大学から博士号が綬与された。私は国立民族学博物館勤務当時、同氏が館内にあるチセ(アイヌの小屋」で執り行うカムイノミ(神行事)を身近で体験し、夫妻が持参したアイヌ料理に舌鼓を打ったことがあった。また北海道平取町にある自宅と私立博物館を訪問して直接お話を伺ったこともあった。それはアイヌ語の地名の特徴に関するもので、今となってはとても貴重な体験だったと思っている。<続く>
2021.03.05
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~写真で見る蝦夷地~ 北前船と言うのが江戸時代から明治時代まで日本の近海を走っていた。最初は蝦夷地(北海道)から日本海、瀬戸内海を通って大坂までの西廻り船。だが伊達政宗が石巻から江戸までの東回り航路を江戸初期に開くと、主に東北諸藩の米が江戸に船で運ばれた。西廻りで大坂に運ばれた北海道の産品は、昆布、新巻鮭、身欠きニシン、鷹の羽、獣の皮などだった。 また大坂から江戸までの南海航路では、酒や塩、ミカンなどが運ばれた。このようにして各地の産物が大坂や江戸に運ばれるとともに、西国の文化や芸能が北陸や東北に伝えられた。京都のニシンソバは小浜に陸揚げされた身欠きニシンを上手に加工したものだし、明治期以降北海道の昆布は大阪から関西汽船で遠く沖縄まで運ばれた。「くーぶいりちー」などの昆布料理が今も沖縄で作られるのは、その名残だ。 幕末期になると、西欧列強の蒸気船が日本近海に頻繁に出没するようになる。わが国の開国と通商を求めてのことだが、ロシアは不凍港を求めての南下政策を採っていたし、アメリカは織機を動かすための機械油の原料である鯨油を確保する捕鯨のための燃料や飲み水を求めていた。一時は小笠原諸島を占拠していたほどだ。このような状況下で幕府は蝦夷地の測量を進め、領土の確定と保全を進めた。 伊能忠敬らが日本全土を徒歩で測量して正確な地図を作ったことは有名だし、間宮林蔵が当時は島か大陸の岬か不明だった樺太を探検して、島である証の間宮海峡を発見した。それらの重要な機密である地図を持ち出そうとしたシーボルトを国外追放処分にしたり、海防を説く仙台藩の林子平の著書「海国兵談」を発禁処分とし、蟄居を命じたのも危機感の表れだったろう。 幕府は伊勢国の探検家である松浦武四郎に命じて、蝦夷が島の細部に亘る調査をさせた。絵心のある松浦は、数次に渡って蝦夷が島を探検し、丹念に山河やアイヌ集落の名をメモし、アイヌの習俗をスケッチした。これがやがて明治新政府による北海道開拓へとつながって行く。蝦夷が島を「北海道」と名づけたのも彼だ。 江戸幕府は各藩が勝手に外国と交渉するのを防ぐため、船の舵(かじ)を弱い物に変えた。このため難破する船が増えた。アリューシャン列島まで流された伊勢国の船頭大黒屋光太夫ら。アメリカの捕鯨船に救助されてアメリカで英語での教育を受けた土佐のジョン万次郎らなどだ。漂流し期せずして外国の文化に接したことが、世界の趨勢を伝える結果となった。もちろん長崎でオランダから学んだことも大きい。 五稜郭建造原図 幕府は蝦夷が島の警備を松前藩、津軽藩、南部藩、仙台藩の北辺4藩に命じ、各藩はそのために箱館周辺に代官所を置いた。それでも不足と見た幕府は西洋式の城郭である「五稜郭」を箱館郊外に建造した。だがやがて浦賀に侵入したアメリカのペリー艦隊など列強の声に押されて開国を決断し、函館などを開港する。そして鳥羽伏見の戦い後、歴史は一気に王政復古、明治新政府の誕生へと動いて行く。<続く>
2021.03.04
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~和人(シャモ)との交渉・交流史など~ アイヌ新法の制定に先んじて、文部科学省は全国の研究機関等に対してアイヌ人骨の有無についての調査依頼をしたのだろうか。これによって3300体以上ものアイヌ人骨の存在が明らかになった。だが、肝心の大学などの研究機関がそれをどこから持って来たのかが分からない。中には古い時代に「発掘」したもあるが、アイヌに内緒で掘り出して落ち去ったものもあったのだと思う。 市町村名は分かっても、詳しい場所は不明のケースが多かったのだろう。それで場所も遺族も不明の人骨の処置に困ったことで、ウポポイの敷地の一角に「慰霊施設」を設けてそこに納めることにしたのだろう。人骨を返却した研究機関が、遺族などの関係者へ謝罪することはなかったようだ。後で賠償などの問題になることを怖れたのだと思う。テレビで見た北大の副学長も、結局謝罪はしなかった。 人骨を無断で持ち去られたのはアイヌだけではない。沖縄県今帰仁村の百按司(むむじゃな)墓(左上)から京都大学などが昭和初期以降に持ち出していることが分かった。ここは琉球王朝成立前には、今帰仁城を根拠とする北山王朝関係者の風葬募と言われている。それが正しければ800年前から続く墓地で、人類学的にも貴重な資料であることは明白。だからと言って無断での持ち去りが許されるものではない。アイヌも琉球も結果的には「征服」された民族であるがゆえの所業と言うしかない。 ウポポイの展示に関する基本方針は「過去の差別などの暗い部分をピンポイントで取り上げないで欲しい」との要請があった由。すると要請したのは政府だろうか。展示物の中にはホカイ(左上)やマキリ(右上)があるようだ。ホカイは漆を塗った容器だが、アイヌには漆を加工する技術はない。これは山伏などが移動する際に用いるが、江戸時代以降に和人との交流・交渉の中で入手したもの。マキリは小刀だが、アイヌには製鉄の技術はなく、これも和人との交流の中で入手したものを鞘(さや)や柄(え)にアイヌ独特の文様を刻んだものと思われる。和人との接触以前は、鉄は大陸経由で入手したのだろう。 <縄文土器> <擦文土器> <内耳土器> 縄文土器は沖縄県の宮古島でも北海道でも出土している。つまり縄文人が竪穴住居で生活しており、彼らが日本列島の「先住民族」だったわけだ。ただし日本一古い人骨は沖縄県の石垣島空港の地下で発掘された約3万5千年前のもの。この人骨は数体で、日本全体に広がった訳ではない。北海道で縄文土器の後に現れるのが「擦文土器」で、これを作ったのはオホーツク文化の担い手とされるツングース系の民族。アイヌが北海道へ渡って来たのは13世紀の鎌倉時代と言われており、彼らが作った「内耳土器」は鉄鍋を模したものと言われる。取っ手を付ける穴もあるが、全体的にかなり粗野な印象を受ける。<続く>
2021.03.03
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~ウポポイの話など~ ウポポイは昨年7月にオープンした7番目の国立博物館で、北海道の白老町にあるアイヌ博物館。「ウポポイ」は大勢で歌うと言う意味のアイヌ語。この博物館には「民族共生象徴空間」と言う、やけに抽象的で長たらしい別名が付けられ、それだけで何だかインチキ臭いものを感じてしまう。観覧した人の評判も今一で中には「ウポポイ」ではなく、「嘘ポイ」だと言う人も出る始末。 そもそもこの博物館が出来たきっかけは、2007年9月の国連総会において採択された、「先住民族の権利に関する国連宣言」。これを受けて2014年6月に北海道白老町に「民族共生の象徴となる空間」を建設することが閣議で決定した。また2019年4月にはアイヌを先住民族として明確に位置付けた「アイヌ新法」た成立している。この旗振り役が当時の内閣官房長官で現総理の、菅さんだった。 そのせいもあって、昨年の開会式には菅総理も列席している。それまでアイヌに関しては明治30年代に制定された「旧土人保護法」と言うのがあった。それは「保護」に名を借りた、土地の没収であり、漁業や狩猟の禁止であり、アイヌ固有の習慣。風習の禁止であり、日本語の使用義務と、日本風氏名への改名に伴う戸籍への編入であった。 祈りの際に使用するイナウ アイヌには自分の領土と言う概念はなかったし、数の概念もあいまいだった。和人が蝦夷が島(北海道)に進出して交易が始まると、和人に簡単に数を誤魔化されたと言う。また明治新政府が北海道と名づけて本格的に開拓を始めると、居住や農地としての適地は和人に奪われ、アイヌは奥地へと追いやられたのが実態だ。政府はその事実をウポポイでは明確に示さないよう、画策したのだろう。そのことがアイヌとこの博物館の立ち位置が不明確になった原因と私は思うのだが。<続く>
2021.03.02
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~アイヌ・崇高な民族~ 前回アイヌの人骨の話を書いてから、1週間ほど経った。体調が急に思わしくなくなって、そのまま放置していたが気になってその続きを書こうとしている。アイヌとは「人間」と言う意味なので、あえてアイヌ民族とかアイヌ族とかせずに、ここではそのままアイヌと表記することにしたい。アイヌが日本民族と異なる文化を持つ民族であることは知っている。だが、日本の先住民族とすることはどうかと思っている。 これはかつての北海道の文化圏を図示したもの。しかし「かつて」とはいつかと、私の知識では正しく規定は出来ない。道南の黒い地域には縄文人が居住し、東北の縄文人と全く同じ文化圏に属していた。ところがオホーツク海沿岸には、かつて「オホーツク文化圏」と言うのがあった。北見市付近のモヨロ貝塚はその典型だろうか。民族としてはアムール川河口のギリヤーク、ツングース族だろうとされるようだ。 擦文(さつもん)文化と言うのがあったことは知ってるが、その担い手である民族名は知らない。アイヌが当時の北海道に来たのは12世紀ごろと言うのが私の認識だった。彼らも元々はアムール川河口周辺の民族だった由。そしてその集団が、千島、樺太、北海道と3つに分かれた。衣装のデザインがそれぞれで異なるようだ。アイヌは文字を持たず、土地は神から授かったものとの大らかな一面がある。 アイヌの口承文学として有名なのがユーカラ(正確にはユカッラ)で、各種の神話や伝承を口伝えに伝えた。いずれも音楽と結びついた哀愁を帯びた旋律で語られる。私も20以上ものユーカラを動画で鑑賞したが、アイヌの宗教観や文化、芸術、生活が偲ばれる貴重な文学と言えよう。アイヌにとっては自然は全て神との関係の中にあり、また万物に神が宿ると考えるのがアイヌの宇宙観でもある。 志海苔館跡(函館市) 北海道(蝦夷が島)への和人の進出の記録は、奈良時代の阿倍比羅夫が渡島(道南)の粛慎(しゅくしん・みしはせ)を討伐したとあるのが嚆矢だろう。粛慎もアムール川河口のツングース族と言われる。和人の定着は道南への秋田氏(後に蠣崎氏、松前氏)が最初で、後に南北朝の戦いで破れた武士が、蝦夷が島へ移住した。私はたまたま函館市の湯の川温泉に宿泊した翌朝、津軽海峡沿いの国道を東に走った。 9km先で見つけたのが上の「志海苔館跡」。これは室町時代の山城で、木村氏の居城。同氏も南北朝の戦いで破れてこの地へ流れ着いた武士。付近からは宋の銅銭が3万9千枚以上発掘され、青磁、白磁、珠洲焼、古瀬戸などが出土した。曲輪、井戸、空堀などを有している。「道南十二館」の一つで、この地のアイヌの有力者であるシャクシャインの襲撃にあって落城した。 偶然ではあったが、中世の山城と出会い、アイヌと和人の戦いの痕跡と言う貴重な歴史遺産を知ることが出来た。これもランニングが趣味だったお陰と言えようか。後日地図で確認したが、場所は函館空港の直ぐ南側だった。上の写真で背後に見えるのが津軽海峡。城主の木村氏は津軽海峡や日本海を通じて広範に貿易を行っていたのだろう。なお出土した銅貨の枚数は日本一。それだけ貿易が順調だったことを示している。<続く>
2021.03.01
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~日本をけん引する人の表情~ 前九年の役絵図 「衣のたてはほころびにけり」。さて、この前の句は何だったかな。夢の中でしきりに考えていた私。確か「年を経し糸の乱れの苦しさに」だ。思い出しながらもまた「衣のたては」と夢の続きを見る。昨夜はそんなことの繰り返しだった。古代東北で起きた前九年の役。源頼義、義家親子が出羽の清原氏と結んで奥六郡の安倍氏を討った際の出来事。 義家が「衣川の館」は我らが攻撃して滅んだぞと安倍氏にアピールしたら、「衣の経糸が綻びたのは、長い戦のせいで糸がほつれたせいだ」と歌で返したとされる逸話。まさか戦の最中に歌をやり取りしたとも思えないが、「衣」と「衣川」「経糸」と「館」の韻を踏んだ機知。綻びた(滅んだ)のは長年の戦のせいと答えた陸奥の蝦夷。後三年の役では逆に源氏と組んだ安倍氏が、出羽の清原氏を全滅に追い込んだ。 冬銀河 翌朝はうっすらと雪が積もっていた。朝食後PCを立ち上げ、気がかりなさるブログを訪ねた。昨年12月初旬から更新されてないまま。初めて「俳句のページ」を訪ねると、句友が1月に肺炎で亡くなったと記していた。私は何度かコメントしたことがあるが、彼がコメントをくれたことはほとんどなかった。他の方には熱心にコメントされていたので、そんなことで私も訪ねなくなったのだ。 レベルは違っても私も同じ俳句を学ぶ身。更新が途絶えて心配していた。さる同人に属し、ご自分もネットで俳句を指導しておられた。また浄土真宗の熱心な門徒でもあった。ブログを通じての薄い縁ではあったが、常日頃から「いつも陽気で朗らかに」と言っておられた彼は、最後まで謹厳実直な教育者だったと思う。今は亡き彼の冥福を祈って一句謹呈したい。合掌 俳人はみ仏となり冬銀河 緊急事態宣言の解除に伴う、菅総理の記者会見をニュースで観た。相変わらずの仏頂面で、観る人の気持ちが暗くなることこの上ない。自民党国会議員の不祥事、息子や中央官庁官僚の不祥事、内閣の報道官の接待疑惑、新型コロナ感染症や東京オリンピックの進展など難問続出の今、総理の胸中にも重苦しいものが鬱積しているのは間違いないだろう。それでも日本をけん引する立場である限りは、力強くあって欲しいものだ。 ジャーナリストの辛坊治郎氏がこのたび業界からの引退を表明した。読売テレビを中心に40年以上も報道やメイン番組の先頭に立って来た同氏。私は「そんなこと言って委員会」などで見せる彼の変わらな人柄に、長年魅せられた一人だ。退職後は再びヨットでの太平洋横断に挑戦する予定とのこと、前回はクジラに衝突して救助されたが、今回は是非とも安全航行で成功して欲しいと願っている。ナイスガイだ。 前日も大量の食料品を買い込んだが、この日は歩いて3つの店を訪問。A店では出汁醤油と、コーヒーとお茶。B店では焼酎。C店ではポン酢とキャベツとネギなど。リュックサックが満杯になり、重さでベルトが肩に食い込む。それも良いトレーニングだ。塩蔵ワカメは塩抜きして味噌汁の具などに、茎ワカメの佃煮はさすがは専門家だけあって、とてもマイルドで美味しかった。 キッチンの蛍光灯が切れたが、何とか他の照明を灯して野菜炒めを作った。先日おかずが乏しくなった時は、コロッケ、アジフライ、納豆にピンチを救われた。比較的大量に揃った野菜と果物が冷蔵庫にあるのが心強い。「練り物」も各種あり、いざと言う時は「おでん」も行けそうだ。しかし2月も月末で、明後日からは3月。日差しが夕方まで明るいのが嬉しい。川沿いの花壇のクロッカスが咲いた。
2021.02.28
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~とかくこの世は~ 栃木県で起きた山火事が、今日で6日目になる。その後どんどん焼失面積が増えて、火は住宅地近くまで迫り、かなりの家が避難の対象となった。山火事は隣の群馬県でも起きて、こちらもかなり大きな災害となり、消防署が必死で消火に当たっている。しかし、栃木県の出火の原因は若者の煙草の火の不始末のようだし、群馬はお年寄りがドラム缶で杉の葉を燃やしたこと。共に強風の中でのこと。油断と言うか、軽率と言うか、どちらもまさに「人災」と言うほかない。 政治家や官僚の不祥事が続いている。全く情けない世の中になったものだ。贈収賄や接待など、とうてい良識ある人の行動とは思えない。政治家も官僚もあまりにも幼稚過ぎて、「劣化」としか思えない現象だ。元法務大臣の選挙違反などは、世の中を甘く見ていると言うか、常識知らずと言うか。恐らくは「天網恢恢、疎にして漏らさず」と言う言葉を知らないのだろうが、悪いことは出来ないものだ。 島根県知事が、コロナ対策が万全でない現状での「聖火リレー」に島根県は協力出来ないとの発言には驚いた。全くユニークな発想だ。たちまちのうちに地元選出の国会議員から忠告があり、めでたく「手打ち」になったようだが、確かにコロナはまだ収束しておらず、ワクチン接種だって緒に就いたばかり。「東京オリンピック」だって本当に開催出来るかはまだ五里霧中なのだ。 女性蔑視発言で組織委員会会長を辞職した森元総理には油断があったが、マスコミによる「言葉狩り」の面もあった。後任の橋本聖子五輪大臣は、野党の攻勢を受けて自民党を離党した。まあ以前も当時フィギュアスケートの高橋大輔選手にキスを強要して問題になったことがあった。そして山下JOC会長だが、所属している全柔連で起きたパワハラ事件の責任を取り、全柔連の会長を辞任する運びとなった。いずれもかつては一流のスポーツ選手だったが、やはりどこかに脇の甘さがあるのだろう。 近畿などの6府県が間もなく新型コロナウイルス感染症の「緊急事態宣言」対象地域から除外されるとの発表が菅総理からあった。東京都など首都圏の1都3県についてはそのままぞ継続される由。しかしいつものことながら総理の会見は精彩がなく、言葉の端切れも良くないのが気になる。たとえ問題になったとしても、河野ワクチン相くらいの勢いが欲しいと思うのは私だけだろうか。あれでは支持率の低下も当然だ。 尖閣列島の領海内に中国艦船の不法侵入が続いている。海警法の改正で、中国海警の武器使用が今月から可能になった。その対抗手段として、わが国も現行法の範疇で武器の使用が可能との見解が出たそうだ。と言っても海上保安庁の武器は中国海警の武器よりはかなり能力が落ちる軽微な物。それでも断固たる意気込みを示すことで、中国もうかつなことは出来まい。それに国際世論の後押しもある。 アメリカの次期CIA長官に就任予定のW.バーンズ元国防副長官が「中国は敵対国家」と正式に表明したようだ。バイデン爺さんは中国とズブズブの関係の上、認知機能の問題もあって頼りないけど、こうした明確な態度表明はありがたい。国際世論の中国への批判も「ウイグル人への抑圧」などで高まっており、場合によっては来年の「北京冬季五輪」ボイコットが加速する兆しもあるようだ。
2021.02.27
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~ドクターの言葉~ ふと見るとハイビスカスの花が咲いていた。この冬確か8つ目の花。夏の外ででもひと夏に咲くのは3つほど。それが居間に取り込んだ冬にこれだけ咲くのは、常時暖かいのが一番の原因だろう。日中は大きな硝子戸を通じて日が差し込み、夜は夜で常時暖房。そして表土が乾燥したら直ちに給水。そんな環境が鉢植えのハイビスカスには結構良かったのかも。とも角冬の室内で花が見られるのは嬉しい。 翌日は朝食後直ちに自転車で山の上に。前日ドジを踏んだリベンジだ。この日も強烈な西風。その強風の中をひたすら前進。元研究所跡に出来た団地に、もう20軒ほどの住宅が新築工事中。ここだけでなく近所の空き地と言う空き地には、ほとんど新しい家が建った。年寄りが去った家の土地が売られ、整地した後で次々と新築工事が進む。わが家にも家を売って欲しいとの広告が何度も入るが全部無視。 病院に着くと駐車場に3台の車。待合室には何組かの患者さんが座っていた。先ず受付に診察券や保険証などを提出。次に暖かいお茶を飲み、体が落ち着いた頃に血圧を測定し、その小片を受付嬢に手渡す。名前が呼ばれて処置室へ。ここでは血糖値を測るための採血。「ぎゅっと握って」と言うので「ぎゅっ!」と言って看護師さんの手を握ったら、「そうじゃなくて」と苦笑いの彼女。ほんの冗談だ。 順番が来て、診察室に呼ばれる。「体調はどうですか」とドクター。そこで最近心配した体調のことを話す。第一に「脳梗塞の場合は先ず両手に痺れが来る由」。それはなかった。次に手首に指を当てて脈を診る。「不整脈もなく規則正しいです」と彼。どうやら心電図を撮る必要もないようだ。いつもの薬と睡眠導入剤。そして「漢方薬を追加しましょう」と。気分が楽になる由。コロナ自粛の今は、私と同じような体調を訴える患者が多いそうだ。長時間PCをやってると、肩が凝るしねとお見通し。なるほどねえ。 そして、「男は気分転換が得意じゃないからね。たまには温泉へ行ってゆっかり浸かると良いんだよ」とも。そりゃあそうだ。自分でもそう思っていたもの。帰宅後、薬局でもらった薬をテーブルの上に広げる。新しい漢方薬まで加わって、まあ大変な量だ。果物中心の軽い昼食後、歩いて郵便局へ。買い物もあるし、念のため少し多めに下ろした。偶数月の今月は2種類の年金が振り込まれる。帰宅後通帳をじっくりと確認。ああ、良いねえ。この調子で頑張って節約に励もう。 夕刻、保険屋さんから電話。先日提案された新しい保険への切り替えに関して、告知が必要だが翌日しか時間が空いてない旨。そちらの都合に合わせると言って電話を切る。夕食前に漢方薬を水で飲む。爽やかな味わいで、それだけでも気分が良い。残りの薬は食後。ピンポンとチャイムが鳴って、新聞屋さんの集金。まだ強い風の中で集金をして歩いている小母さん。ご苦労様と労を労って支払い。 翌日、保険屋さんの告知などに約2時間を要す。現在治療中の病気、過去に受けた手術や入院した病気。最近の症状など実に細かい調査。昭和、平成、令和と時代が変わり、その該当年がいつだったのか思い出すのに一苦労。彼女の助けを借りて何とかクリヤー。夕食はつくばのN氏の忠告通り「肉うどん」。入浴時に体重を測ると1kg以上減っていた。良かったねえ減量出来て。少し元気回復してブログを更新。ここ数日間荒れ狂っていた暴風も、ようやく落ち着いたようだ。そして日差しは既に春のものだ。
2021.02.26
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~天皇誕生日の話など~ そうだ病院へ行こう。そう決めて前日から自転車のバッテリーを充電していた。早々に布団をベランダに干して山の上の内科へ向かう。風が強い。その風に逆らってペダルを踏む。たちまち手がかじかむ。病院まではずっと上り。そのためにかなり電力を消費するのだ。坂の途中で「アッ」と思った。マスクをするのを忘れた。いつもは家に一人でいるため、外出時にもつい忘れてしまうのだ。さて、どうしたものか。 また引き返すのも面倒。病院の隣の薬局で売ってるかも知れない。そうしよう、そうしよう。だが薬局は閉まっていた。シマッタ!隣の病院の駐車場には1台の車も見当たらない。どうしたんだろう。いくら患者が少ないと言っても、こんなことはないはず。入口まで行くと、玄関の扉に何か張り紙がしてある。「本日は祝日につき休院します」だって。あれっ、今日って祝日だったの。天皇誕生日ねえ。 そう言えば、新聞に天皇陛下の写真が載っていた。ははあ、あれはそう言う意味だったのね。昭和天皇は4月29日が誕生日。上皇様は12月23日だった。だが今上天皇の誕生日はすっかり失念していた。だって令和もまだ3年。私にとって今上天皇は浩宮様の方が馴染みやすい存在。仕方がないので帰途に就く。途中のコンビニで大福餅と安売りのパンを買った。一人で頑張って生きている自分へのご褒美。 帰宅すると干していた布団がめくれ上がっていた。強風と言うか暴風だ。どうやら県下には暴風警報が発令されていたようだ。そうとも知らず、また祝日であることも忘れて、良くこんな日に自転車で山の上まで上ったものだ。お陰でバッテリーの電力が20%も減った。カレンダーを見ると確かに祝日になっている。まあ暢気なものだ。そんな自分に呆れ果て、大きな豆大福にかぶりついた。 風が吹き荒れる音が凄い。布団が吹き飛ばされなくて良かった。急いで取り込んだが、ずいぶんと埃を被ったかも知れない。長い人生、まあ時にはこんな日もあるさ。しかし、強い風だけでなく家が揺れるのは何だろう。翌日見回りに行くと、2階の洋間1で写真が転げ落ちていた。やっぱり風だけでなく、地震もあったのだ。先だっての福島県沖地震の余震か、それとも「東日本大震災」の余震か。<続く>
2021.02.25
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~一人住まいと体調不良~ 体調不の悪さはブログを書いていても分かった。わずか4行の文章を2回書くだけで2時間を要する始末。書いているうち体がどうしようもなく苦しい。そんな日が2日続いた。一体これはどうしたことだろう。体の不調もさることながら、心の不調も際立っていた。「生活不活発症」。ふとそんな言葉も浮かんだが、これはトンデモナイ病気の予兆かも知れない。そう思うようになった。例えば脳梗塞だ。 午前中に保険屋さんがやって来た。年に1度契約者に対して説明する義務があることは知っていた。だが彼女は2年間も来なかった。それで不都合はなかったし、その間に新型コロナウイルスによるパンデミックもあった。そしてそれが理由で入院した際も、入院給付金が降りることは電話で連絡を受けていた。彼女が今回来たのは新しい契約に切り替えるためのようだ。まあ年齢に応じて保険の内容を見直すのは、悪くない提案だった。 彼女が帰ってから簡単な昼食を摂り、疲れ果てて昼寝をした。まだ彼女の香水の香りが残っていた。わが家に女性が入ったのは、いつ以来だろう。それに香水の匂いを嗅ぐなんて久しぶりのこと。いつもは自分の加齢臭が漂う室内に、紛れもない女性の匂い。やっぱり女は良いなあ。そう思いながらいつの間にか深い眠りに陥った。 その夜は冷蔵庫の中の食べ物を幾つか組み合わせて、割と豊かな夕食にした。体調が良くないのに、食欲までなくなったらお終いだ。そしてお風呂に入って早めに寝よう。やっとの思いでブログを書き、余白に体調不良とブログを休む可能性について記した。最近はブログを書くのが正直しんどくなっていた。以前なら書きたいテーマが幾つもあったのに、今では探すのでさえ苦痛なのだ。 温い風呂にゆっくり浸かり、これできっと良く眠れるだろうと布団に潜り込んだ。昼寝した割にはまあまあ眠れたようだ。夜中にトイレに起きたのも1回で済んだ。翌朝はきれいに晴れた。PCを立ち上げるとつくばのYさんがコメントしてくれていた。筑波勤務時代の後輩の彼には、鳴門の職場でも水戸の職場でも私の後始末をしてもらった。共に女ボスに頭を下げなかったために出世はしなかったが、それはそれで誇りでもある。 筑波勤務時代の後輩K谷氏は後に研究者に転じたが、若くして胃がんになり死の直前ブログでお別れの言葉を書いたと聞いた。彼と最後に会ったのは沖縄の職場。私が筑波を去って以来だから、20年近く経っていたはずだ。筑波時代の先輩Y浅氏は優秀な人だったが、75歳で脳梗塞で亡くなった。人の命の儚さと、人生の深遠さを感じてならない。特に新型コロナが猛威を振るう今は。<続く>
2021.02.24
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~アイヌの話~ 昨日載せたアイヌの墓標は「クワ」と呼ばれ、死者が使う「杖」なのだと言う。元々アイヌの墓は個々の子孫ではなく集落全体で埋葬、供養するのが普通だったと言う。恐らく明治以降から1970年代にかけて、全国の人類学者や解剖学の研究者たちはこのような場所からアイヌの人骨を勝手に掘り起こして持ち帰ったものと思われる。 札幌医大標本館所蔵の人骨は「オホーツク人」と言われるようだ。アイヌと同様に元々はアムール川の河口付近に住んだツングース系の民族だったと思う。古代日本では「靺鞨」(まっかつ)などの名で知られており、後に百済の白村江で唐軍に敗れた阿倍比羅夫が、当時は渡島(わたりしま)と呼ばれていた北海道南部の蝦夷(えみし)を退治したのがこの民族だった。<続く> 書きたいことがあるのに、体調が悪くてどうしても書けません。暫くブログを休む必要があるようです。そう言う訳でどうもスミマセン。体調が戻ったら、また再開しますね。では、また。
2021.02.23
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~最近観た番組とわたし~ たまたまテレビ番組欄を見たら懐かしい番組を発見した。良く見ていたのは20年も前だろうか。それかいつの間にか放送終了となって残念だった覚えがある。依頼主の要望に応じて「匠」が自分の技術を尽くしてリフォームする。完成したわが家を見て依頼主が大喜びすると言うのがエンディングの「お約束」だった。いつもギリギリの経費で完成してのは、きっとスポンサーからの援助もあったのだろう。 今回リフォームを依頼されたのは何と、パリのモンマルトルの丘に建つアパートメント。依頼主の奥様が日本人と言うことで納得。しかし良くもフランスまで匠が出かけて行ったものだ。建材や意匠にも制限がある。それに上下左右の隣人に、工事の騒音で迷惑をかけることも出来ない。そして階段が狭い上に、現場は5階だった。リフォーム工事にはフランスの職人さんにも協力してもらった。 しかし匠の考えはいつ見ても凄い。床下には断熱と防音効果を高めるため、使用済みのコルク栓(左上)を粉砕したものを使い、壁にも分厚い断熱材。暖房に薪ストーブを使用するため、パリの石材で暖炉を造ると言う凝りよう。しかし、それだけではなかった。フランスのリフォームを参考にするため、セーヌ川に浮かぶ「ボートハウス」を見学に行く。かつての船は、とても立派な家になっていた。(右上) NHKでトンデモナイ番組も観た。学術的な観点から、かつてアイヌの墓を掘って人骨を持ち出した話。もちろん明治以降のことで、持ち去られた人骨は全国で3300体以上との話に驚いた。北大の博物館にアイヌの人骨があることは知っていたが。まさかそれほどの量が持ち去られていたとは。それがどこから掘り出したか分からないか、場所は分かっても現在は子孫やお墓が特定出来ないそうだ。<続く>
2021.02.22
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~疑問を抱くことの大切さ~ フォボス ダイモス 昨日のブログでアメリカNASAが打ち上げた火星探査機の話と、火星に着陸させた探査車の話を紹介した。そのついでに、火星には2つの衛星が存在すると知って探したのが上の画像。どちらも小惑星みたいに歪(いびつ)で、地球の衛星である「月」のように整ってはいない。その理由が何かは分からないが、宇宙に漂う小型惑星を引力で引き寄せた可能性はあるかも知れない。 もう一つおまけに、火星の地表図を見つけた。地動説を唱えたコペルニクスの1600年代から、人は粗末な望遠鏡で火星を観察し、地表の図を描いて来たのだと言う。黒い部分を当時の人は「運河」と解釈し、それを生命体存在の証拠と考えて来た由。今では運河説は否定されたが、依然として生命体が存在する可能性については論議の的で、今回の探査機の打ち上げと探査車の着陸で謎の解明が期待される由。 ブログ友のあみさんが、ひょっとして地震の放電光ではないと考えられてブログに載せられたのが上の写真。きれいな色だったので、そう考えたとのこと。先日の地震の震源地とは離れているので違うかも知れないが、疑問を抱くのはとても良いことだと考え、写真を借用させていただいた。もちろん「発光現象」と言うか「放電現象」については知っていた。そこでもっと鮮明な写真はないかとネットで調べた。 松代地震の放電現象 幾つかある中で、鮮明な松代地震の写真を載せよう。夜なので、放電(発光)が鮮やかに見える。長野県の松代は茨城県のつくば地区と共に「ドラム地震」で有名な地。地震の時にドラムのような「ドドド」と響くことで有名。私もつくば地区に10年住んでいたので、何度も経験している。 さて、この現象は地下の玄武岩や斑レイ岩に力が加わって電荷のスイッチが入り、そこに地震波がぶつかると岩石内の電荷が解放されることで起きる。岩脈と言う地下構造の存在も重要で、マグマが垂直に流れ込んだ地盤で、地下で解放された電荷が地表に向けて猛スピードで駆け抜け、結合した電荷がプラズマとなり、地表で弾けて空中放電を起こすと色鮮やかな光となるようだ。 この現象が科学的に解明されたのはごく最近だが、現象そのものは紀元前から知られていたようだ。日本人留学生が犠牲になったニュージーランドの地震でも、この現象が生じたと言われる。放電は地震の前や地震直後にも起きるとのこと。 アメリカハーバード大学のj.マーク・ラムザイヤー教授が過去に実施した米軍による調査を基にして、いわゆる従軍慰安婦の実態に関する論文を発表した。それによれば従軍慰安婦はかなり高賃金の公娼であり、韓国が主張するような犯罪性は全くなく、将校と共に旅行したり休暇を楽しむケースもあったと説く。むしろ韓国兵がベトナム戦争でベトナム婦人を犯して生まれた混血児「ダイナハン」の方が問題だと書かれているようだ。 ところがその論文に韓国人留学生らが異議を唱え、学長に論文の撤回を訴えた由。そこで学長は留学生たちに「気持ちは分かるが研究の自由は守られなければならない。それが大学の重要な使命である」と諭した。子供の時から反日教育を受けている韓国の若い世代は、歴史の真実を知らないまま自分たちの正義を主張するが、韓国内でも最近は「反日種族主義」のように事実に基づく著書が出版されたのは喜ばしい。 さて美容整形外科医の高須先生らを中心に進められていた愛知県知事のリコール運動だが、この度署名の名簿作成に不正があったとして警察が捜査に乗り出した。どうやら事務局がイベント企画会社を通じて、署名運動を依頼し、この会社が名簿を佐賀県に送付してアルバイトで署名を偽造したとの容疑。高須院長はその事実を知らなかったようで、今後の進展が気になるところだ。 ことの発端は展示内容に問題が多い「芸術作品展=ビエンナーレ」に対して、愛知県が公金を使って支援するのは適切ではないとの主張からのリコール運動だったのだが、その進め方に問題があったとは残念だ。主張は正しくても方法が間違っていたら本末転倒。オリンピック組織員会委員長選出騒動も、ややそれに似たドタバタ騒ぎにように、私には感じられたのだが。
2021.02.21
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~中国の歴史ドラマ~ 何日かぶりに洗濯をした。天気が良さそうなので、朝からベランダに干した。朝食後は窓辺のデスクで新聞を読む。それから化学モップで、廊下、台所、脱衣所、1,2階のフローリング、和室を拭き掃除。それが終わってから休憩。時おり物凄い音がする。あれまあ、また地震かと身構えると、揺れてはいない。外の風が強いのだ。昼過ぎに洗濯物を取り込みに行くと、風のせいで早くも乾いていた。 前日の俳句教室の時に、句友がさる情報を教えてくれた。わが家の近所に有名な俳人が住んでると言うのだ。それは初耳。場所は地図で直ぐに分かった。帰宅後にネットで検索すると、東大文学部哲学科を卒業し、東北大学に教授として勤務された方みたい。私も東北大学と東京大学に勤務したことがあるので懐かしい。作品も拝見したが、さすがは哲学者らしい重厚な表現。やはり研究者の俳句だ。私も研究者の俳人を何人か知っているが、どなたも言葉の選び方が、私たちとは異なる。良い勉強になった。 たまたま新聞のテレビ欄で、中国の歴史ドラマを放送しているのを見つけた。「如恣伝」と言う民放の番組だが、真ん中の字が異なり偏は「壹」。「にょしでん」とでも読むのだろうか。珍しく清王朝の康煕帝の話。彼は満州族で「康煕字典」(こうきじてん)を出版した人。北京に都を移しても、まだ満州族の風習を色濃く保っているのが分かって勉強になった。 満州族はモンゴル族同様に騎馬民族で「旗」と呼ばれる単位で集団行動を取る特徴がある。たまたま第1回は「嫁選び」がテーマだったが、どの集団から正妻を選び、2番目の副妃、3番目の妃をどの集団から選ぶかと、将来に備えて強固な親戚関係を形成する過程が垣間見られて面白かった。それは李氏王朝時代を扱う韓国歴史ドラマと良く似ている。ただし番組の制作費は尋常なものではないと思われる。 その前に観ていたのがNHKBSPの「コウラン伝」。こちらは~始皇帝の母~のサブタイトルから分かるように、古代の物語。趙の人質となった秦の皇子と趙の王女コウランと、趙の商人である呂不韋の出世物語。その3人の絡み合いが絶妙で、スリル満点。私は「奇貨措くべし」と言う宮城谷昌光の歴史小説を読んでいたため、古代中国の歴史に興味があった。こちらも衣装や宮廷のセットが豪華絢爛だ。 バイデン爺さんがサインした大統領令の評判がすこぶる悪い。トランプ氏の大統領令を片っ端から「ちゃぶ台返し」してるようで、監禁されていた不法入国者を大量釈放するなど、社会不安を煽っている由。そしてカマラ・ハリス副大統領が、フランスやカナダの首脳と電話で対談するなど、「おやおや」と思われることが相次いでいる。「アドリブ」での対応が出来ない大統領に代わってのピンチヒッターか。 トランプ弾劾に失敗した民主党は、トランプ支持派の議会議事堂突入を民事訴訟を連邦最高裁に提訴する動きもあるようで、アメリカ国内の分断は治まる気配を見せない。マスコミの反応は、ひと頃に比べたらかなり落ち着いて来たように感じる。youtubeでの情報にもさほど重要で目新しいニュースはないが、トランプ陣営の復調は確実な歩みを見せているように感じる。 さて、バイデン爺さんはグアンダナモ基地の収容所を廃止する動きを見せている。オバマ政権当時も廃止の意向を示したが、トランプ政権に移行後は逆に収容所の増設を図り、さらに囚人専用の収容船まで岸壁に係留している由。やはり捕まるのが怖い人が無くそうとするようだ。グアンダナモ収容所の廃止はどうやら国連へも人権侵害の怖れありとして訴えたようだ。折角老後を過ごせる場所なのにねえ。 アメリカNASAの火星探査ロケットが火星に到着して、上空から「パーサビアランス号」(上)を吊下ろした。これで火星の生命体の有無を調査する予定とのこと。地球以外の惑星で初の生命が発見されるかどうかが楽しみだ。私たちが子供の頃の「火星人」は「タコ入道」のように手足が長くて頭が大きく描かれるのが普通だったのだがねえ。
2021.02.20
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~雪の日の悩み~ 日本全国が荒れ模様とは聞いていたが、外を見ると雪が積もっていた。南九州でも雪とニュースで言っていたので、仙台が雪でもおかしくはないのだが、全く予想してなかったのですっかり慌てた。この日は月に一度の俳句教室の日。自転車で行けない場合のことを想定しながら先ずは雪かき。でも気温はさほど低くはなく、簡単に融けそうな気配。先ずは清書した俳句をコピーしに近所のコンビニへ。 どれだけ出席者がいるかは不明だが、念のため24人分を用意。短冊1枚に3句を並べて書いてある。昼近くなって道路の雪が融けた感じ。これなら自転車でも行けそう。急いで昼食を摂り、3.5km先の会場へ向かう。日陰では凍っていた箇所もあったが、無事に到着。会場のセンターで検温と手指の消毒。教室に入ると私が最後の方だった。慌てて「短冊」を配る。この日の兼題は「立春」。私の俳号「真楠」(マックス)が最後に呼ばれるいわゆる「とり」。一応優秀作と認められたのだろう。 1) 立春や子の消息は知らねども 2) 托鉢の僧にも春は立ちにけり 3) 山鳩の番なるべし春障子 *つがい1)は「取り合わせ」で季語と無関係のことを中の句以下で詠む。2)は立春と対極にある都会の托鉢僧を詠んでみた。3)は障子で見えない山鳩の夫婦を声で表現した積り。一部手直しはあったが、講師は受講生の句のレベルが全体的に上がったと喜んでくれていた。来月の兼題(宿題)は「春風や」に決まった。帰宅して直ぐに3句を詠んだ。いずれも10年を迎える「東日本大震災」の記憶と共に春風を。 宮沢遺跡 ブログを開いて驚いた。2年前に書いた国府多賀城に関する記事を読んだ人が、多賀城は陸奥国府でも鎮守府でもなく、宮城県北部にある化女沼付近の宮沢遺跡が本当の国府であり。鎮守府だと言うのだ。それで慌てて「宮沢遺跡」なるものをネットで調べてみた。彼は平安時代の貞観津波で国府跡は失われたと言うのだが、歴史好きな方なのだろうが不審な点がたくさん出て来た。 遺跡のある場所は内陸部で海からかなり遠い。それに遺跡は標高50m近い丘の上にあるので、津波で遺跡が損なわれることはない。かなり規模が大きな遺跡のようで国の「史跡」に指定されているが、せいぜい郡衙くらいの存在だろう。国府ともなれば都から大勢の役人が任命されて来るし、鎮守府ともなれば少なくとも数千から1万ほどの兵士が駐留し、そのための宿舎や設備が必要となる。またそのための官道も整備する必要がある。そして同遺跡の発掘調査はまだ日も浅く、しかも3年間しか行われていない。 それに反して多賀城の方は発掘調査が行われてから60年近く経ち、東北大学と多賀城跡調査研究所が今でも調査を続けていて、その報告書や関係資料が数多く出版されている。さらに多賀城の建立と修復に就いて記した石碑が現存する。国内でも第一級の金石資料で、しかも形式は古代中国の基準に合致した古碑なのだ。城が2度建て替えられたことも、城下には広い大通りが交錯していたこと、附属寺院(観音寺)が置かれ、鎮護のための「多賀社」や「総社の宮」が付近にある。 また城下と海をつなぐため。付近の河川から運河が掘削されていた。塩釜には陸奥国一之宮の塩竃神社があり、歌枕の「末の松山」、「沖の石」。「野田の玉川」などがあり、西行や芭蕉が訪れている。また中世には仙台市岩切で「市」が開かれ、古代の官道から変わった「奥州街道」も通っていた。また多賀城より以前の郡山遺跡(仙台市)と多賀城の間には、陸奥国分寺と国分尼寺が置かれている。 第一ウィキペディアで調べたら宮沢遺跡と多賀城とでは記述の分量も精度も、参照文献の数も全く異なり勝負にならない。もし投稿子の意見が正しいのであれば、日本史は全て書き換えられないと辻褄が合わなくなる。多賀城付近に県の調査研究所や「東北歴史博物館」がある理由も意味も不明になるはずだ。 多賀城付近では地下の構造も含めて発掘調査済みで、貞観地震でも埋まったし、先の「東日本大震災」でも多賀城駅前が浸水した。古代から海に近い場所にあったのは、海路で関東地方から人や物資が運ばれたせいだ。多賀城は古代から海路、陸路共に交通の要所で、南北朝時代も周辺で戦いがあったほど重要な地だった。それに対して宮沢遺跡の役割と機能はほとんど解明されてはいないはずだ。 暗殺直前のJFK夫妻 JFケネディーが1963年に暗殺されてから秘匿されていた機密文書がトランプ前大統領の要求で、解除処分となった。1991年には映画「JFK」が上映されているが、ある映画評論家によれば、今回の機密指定解除で新たな事実が浮かび上がって来たとか。映画のストーリーとは異なり、当時のキューバやソ連政府との関りが明らかになった由。つまりは共産主義諸国との戦いだったと言う訳だ。 そしてその評論家は言う、先日大統領選挙に敗れてさらに弾劾を受けたトランプ大統領も、JFKが置かれた政治状況と大変よく似ていたと。つまり共産主義者にとってトランプ氏は邪魔な存在だったわけだ。それを陰謀と呼ぶかどうかはさて置き、あの極めて大掛かりな選挙不正や、マスコミの報道ぶりを見ると、「陰謀説」を信じたくもなるのが人情ではないか。私にはそう思えて仕方がないのだが。
2021.02.19
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~わが日常など~ 全国的に荒れ模様が続いているみたいだ。そんな日があったある朝。天気は上々で久しぶりの青空。これは良いぞとばかりに喜び勇んで、布団を2階に運んだが、干さずに室内に止めた。念のための用心で、本当に天候が落ち着いてからでも十分と判断。そのまま自転車に乗って眼科へ向かった。そこまでの距離は約2km。歩いても行けるがこの日はもう一つ用事があった。 眼科は案外混んでいた。新型コロナ感染症があってからは、待合室で待つ患者の数はぐっと減っていたのだが、この混み具合は一体どうしたことだろう。待ち合わせは1時間半とのこと。仕方がないので持参した新聞を読んだ。名前を呼ばれて検査室へ。最初の検査は「眼圧測定」片方ずつ見開いた目に、シュッシュッと圧縮した空気を吹きかけられる。これは簡単で痛くも痒くもなく短時間で終わる。 また待合室に戻って新聞。次に技師の女性が目薬を差しに来る。それは瞳孔を開く薬で、30分経ったら今度は暗室に入って眼底カメラでの撮影。これもただ目を開いていたら終わり、痛くも痒くもない。見開いた瞳孔の奥の眼底の写真を撮る。またまた一旦待合室へ。3度目でようやく診察室へ。ドクターから撮った眼底写真の説明。特段視神経や血管に異常は見られない由。この日の眼圧は10.0だった。 次にドクターの指示に従って左右別々に眼球を動かし、色んな方向から眼底の様子を観察。緑内障の進行は緩やかで特段異常は見られないとのことで、緑内障用の目薬を2本処方。受付で料金を支払い、処方箋と「お薬手帳」を持参して隣の薬局へ。ところが外へ出ると物凄く眩しい。瞳孔を目いっぱい広げたせいで、大量の光が差し込むのだ。薬局で目薬を受け取り、代金を支払う。 薬剤師が「目の縁が黒くなってないですね」と言う。緑内障の目薬の成分で、そんなことが起きるとは初めて処方された時から聞いていた。目薬を差すのは寝る直前だが、私は用心してその後直ぐにテッシュで拭き、かつ濡れタオルでも拭いていた。それで大丈夫だったのだろう。目の周りが真っ黒になったら、それこそパンダ。パンダにならないで良かった。だって俺は人間だもの。 そこから国道の広い歩道を通って床屋へ行った。少し遠回りでも安全な方が良い。眩しくて周囲が見難いのだ。歩道が狭い旧国道なら事故が起きる可能性大。床屋で待ってた人は3人。だが1人15分もかからないし、理髪師は2人なので早い。翌日は俳句教室なので伸び放題の頭では格好が悪い。平日のシニアは1100円。それでポイントは2つ。30ポイントで1回が無料になる。帰路も遠回りしての帰宅。 この日の昼食もうどん。おやつは蒸し菓子とリンゴ。その頃には天候が崩れて来た。こうなれば布団を干すのは無理。もう一つ用事があったが取りやめ、精いっぱいの野菜を使って野菜炒めを作った。たっぷり豚肉と魚肉ソーセージを入れ、焼き肉のたれ、ケチャップ、味醂で少し甘みのある味付けに。翌日のために米を研ぎ、刺身と出来立ての野菜炒めなどで夕食を済ませる。 デナリ(旧マッキンリー山) 睡眠薬が切れてからもう10日以上が経つ。それでも内科へは行かない。睡眠薬の処方は最大で1か月間だが、他の薬は50日間もらっている。その時まで待つ積り。睡眠薬は「向精神薬」で、常用するとなかなか依存から脱却出来ない。不安を和らげる物質が含まれているのだろう。それで今はなるべく気楽に考えて、開き直っている。 国内でも新型コロナのワクチン接種が始まった。この「副反応」が生じる確率はさほど高くない由。県民税、市民税の申告も始まったが、まだ何の準備もしてない。色んな心配はあるが、今しばらくは「ずぼら」で行く予定。独り暮らしは不安だらけの日々。だから心身のコントロールはあまり神経質にならないよう心掛けたいと思っているのだが。
2021.02.18
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~米中関係はどこへ~ ちょっとした地震の後は雨が降り、雪と強風の日もやって来た。吹雪になる前に買い物へ行くと決めた。まだ多少の食料はあるが、少し余裕があるうちの方が良い。こんなに大量の食品を買ったのは実に久しぶり。冷蔵庫に食品を収めると、何だかとても豊かな気分になった。昼食は暖かい肉うどん。そして午後からは料理に取り掛かる。苦労した割には少ない量。夕食に備えて刺身を切る。 新聞の社説欄を見て愕然とする。何と「トランプ前大統領の弾劾は終わっても、彼の政治的責任は済んでおらず、民主主義を怪我した責任は消えぬ」。と大きな見出し。しかしY新聞本気なんだろうか。選挙で不正を行ったのは民主党の方だし、民主党が上院で証拠として出した映像は「継ぎ当て」だらけの捏造で、アンテファやBLMの暴動を容認したのも民主党ではないか。 しかしY新聞もワシントンに支局はあるのだろうし、取材だってしてるはず。だがアメリカの巨大マスコミは不正や選挙の実態をほとんど伝えなかったし、SNSへの抑圧が厳しかったためアメリカ国内のみならず世界の各国へはほとんど真相が伝わらなかったのだろう。保守的なY新聞にしてそうなら、他の新聞の報道はもっと酷かったはず。こうして真実は歪められ、歴史は捏造されて行くのだろう。 ある情報誌を覗いていて驚いた。去る5日に行われた米国ブリンケン国務長官と中国楊潔チ外務担当政治局員の電話会談についての寸評だが、米国側は「中国には厳しい姿勢を示した」と公表したのに対して、中国側は「ブリンケン氏は一つの中国の原則を遵守すると話した」とある。これでは正反対ではないか。やっぱりバイデン爺さんの話は「眉唾」だったかと納得。当初の態度は世を欺く仮の姿だったのだ。 バイデン爺さんは就任後、「インド太平洋調整官」なるポストを新設した由。就任したのは写真のカート・キャンベル氏(上)。ところが同氏は「米中共財団」なる米中友好団体の副会長として勤務していた親中派で、人民解放軍の広報活動、習近平国家主席の演説のPR、孔子学院の応援活動をしている由。 さらにオバマ政権時代は、「東アジア太平洋地域担当」の国務次官補を務めており、フィリピンのスカボロー礁を中国が強奪した際は黙認していた由。もちろん副大統領だったバイデン爺さんが知らないはずはない。彼と次男のハンターは中国で手厚い接待を受けていたしね。そして新型コロナ感染症禍の今日、中国の工作活動は全世界で進んでいる由。 だからこそ新聞の役割は大きいと思うのに、全く正確な取材が出来ておらず従って真実の報道は望むべきもない現状と言う訳。しかしアメリカの汚濁はそんなものじゃないよ。巨大IT企業とマスコミと一部の政治家は中国に毒されて巨益をむさぼり、真実を知らない国民は貧困と不公平に泣き、人種や男女差別撤廃は形式だけで実態はない。そして経済対策や失業対策は放っぽり投げのままだ。 そして政治家の道徳や倫理は地に落ちたよ。自分の娘に手をつけた父。心を病んだ娘は薬物中毒になって治療を受け、その日記が捜査の対象となった由。息子は兄嫁に手を出し、姪にも手を出し、親子はカリブのE島で幼女に手を出し、中国とウクライナからは巨額の資金を受理。悪事が記されたハードディスクの解明は果たしてどこまで進んだのか。政界、宗教界、映画界まで巻き込んだ性犯罪とアメリカの暗黒。
2021.02.17
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~大河ドラマから知る歴史~ 2月15日月曜日は新聞休刊日で、朝から雨が降っている。これでは買い物には行けない。もうかれこれ10日近く買い物に行ってないため、冷蔵庫はほとんど空っぽに近い状態。それでも何とか食いつないで生き延びている。その後地震は起きてない。東日本大震災の時の震度は7強で、マグニチュードは9.0。その後も震度5クラスが1日に何度も起き、「地震酔い」していたあの時に比べたら全然楽だ。 さて、新しく始まった「青天を衝け」の冒頭に、北大路欣也扮する徳川家康が江戸開府から明治新政府までの歴史の流れを滔々と語りかけたのにはビックリ。もちろんあり得ない話だが、その奇抜さが妙に気に入った。第1回目に出て来た、渋沢栄一の生家の大きさにも驚かされた。まるで庄屋のような佇まい。そして青年時代の栄一が腰に大刀を帯びていたことにも目を見張った。 だがストーリーが進むにつれて、事情が分かって来た。渋沢家は養蚕や藍玉を作り、商人でもあった。それで名字帯刀を許されていた由、それで納得だ。岡部藩の「血洗島」と言う地名の奇妙さ。どうやら「荒地」を意味するみたい。しかし江戸時代の農村を髣髴させるあんなロケ地を、よくも探したものだ。あの風景を観て江戸時代の農村を偲んだ。それにしてもあれから150年で日本の風景は一変した。 さて先ごろ放送を終えた「麒麟がくる」で、明智光秀に抱いていたこれまでイメ-ジが変わった。生地や若い頃のエピソードも伝わってないそうだが、それを補ってあまりあるストーリーの展開に魅せられた。足利将軍家との関係や北陸の雄朝倉氏との関係、そして信長に仕えた経緯などが理解出来た。そして天下取りに懸ける信長の姿勢に違和感を覚えて行く光秀の心の葛藤の増幅さえも。 そして染谷将太が演じる織田信長も初めは若過ぎてどうかと思って見ていたのが、天下取りが近づくにつれて権力欲や支配欲が漂う独裁者の風体を良く体現して、さすがは俳優と感心して見ていたほどだ。一方、佐々木蔵之介演ずる豊臣秀吉はさすが。それこそ百姓から太閤に上り詰めただけあって、いかにも知恵者の成り上がり者らしさを醸し出していた。 私と光秀との関りはないのだが、全くないかと言われたらそうでもない。彼が城主だった福知山は「福知山マラソン」(フル)で走ったことがあり、彼が堤を築いた由良川もコースの一部でその橋を走って渡った。また彼の居城だった大津市の坂本城付近に泊り、翌日はそこから京都駅まで走った。また「本能寺の変」後に秀吉と戦った太閤道や山崎は大阪勤務時代の宿舎高槻から近く、訪ねたことがあった。 またお正月に見た「邪馬台国」関係の歴史番組では、「九州説」と「近畿説」の双方について丹念に論証していて面白かった。中でも近畿説については、「纏向遺跡」から3800個も出土した桃の種の話が面白かった。桃の実の呪術性と卑弥呼が執り行った「鬼道」との共通性の存在だ。そして全国各地の焼き物が出土するのは、ヤマト政権の誕生にもつながったと推理。結局2つの説以外は無理とも断じた。 同じくお正月番組だった「大仏開眼」上下は再放送で、観たのは2度目だった。聖武天皇、光明皇后の大仏建立に寄せた壮大な想いと、それを実現するために立ち上がった吉備真備や行基の苦労。そして天皇や皇后を操り、天下を我が物にしようと画策した藤原麻呂と恵美押勝(藤原朝狩)らの反逆と見所満載の一大スペクタクルで、何度見ても心が躍る。しかしNHKの金持ち加減は呆れるほどだ。<続く>
2021.02.16
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