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作家の藤沢周氏は、最近出版された3冊の本について、7日の東京新聞にユニークな書評を書いている; 悶々(もんもん)というか、鬱々(うつうつ)というか。もう寝込んでしまいそうである。少し前の「排除」、今回の「生産性」という言葉。人に対して遣うものではなかろうに。子供たちが聞いたら、一体、どうする? 「ぼくは、わたしは、生産性の結果なの?」。さらに、虫を観察したり、宇宙について考えたり、きれいな花にうっとりしたりするのは、生産性がないことだから、ダメなの? となる。民主主義って? 生産性って? 未来の日本を想(おも)って暗濃(あんたん)たる気持ちになるではないか。 だが、たとえば戦後民主主義の、この危機的状況に警鐘を鳴らしたのが、今上天皇だという見方がある。(1)白井聡『国体論 菊と星条旗』(集英社新書・1015円)は、「生前退位」のビデオメッセージを、「天皇による天皇制批判」と見るのだ。 現在死語となっているかのような日本の「国体」が、じつはアメリカを頂点とした八紘一宇(はっこういちう)として機能し続けている。その事態に対して、いわゆる「お言葉」は、危機を表明したものであると解釈。 「積極的平和主義」は究極、米国流平和主義である「戦争をすることを通じた安全確保」であり、国民の犠牲など無視し没落へと突き進んでいるのが、この現代日本だと。 震えながらも然(しか)り、とうなずき、(2)保阪正康『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書・950円)を繰れば、昭和の恐ろしき闇の実態が露(あら)わ。無謀な戦争に突入した背景が、生の証言の数々からリアルに浮き上かってくるのだ。 まず軍人首相・東條英機。秘書官などの証言から見えてきたものは・・・。何が何でも負けはない、突き進め、と日本を悲惨な地獄に陥れた男は、「精神論が好き」「妥協は敗北」「事実誤認は当たり前」だった。つまり、「自省がない」。なにやら現首相と似ているではないか。自省なき国家の行き着く先は、存亡の危機である。石原莞爾、犬養毅、吉田茂など軍人・政治家を緻密に検証しながら、日本の未来を考える。 「没落を運命づけられた政治システムは、本能的にこの没落を早めるようなことを多々行うものである」というサルトルの言葉がエピグラフとなっている本、(3)ノーマン・オーラー『ヒトラーとドラッグ-第三帝国における薬物依存』・(須藤正美訳、白水社・4104円)。ヒトラーに主治医モレルが処方し続けた「ペルビチン」なる薬が、人類を最悪の悲劇へと向かわせた驚愕(きょうがく)の事実に唖然(あぜん)。「錠剤の形をしたナチズム」は、現代日本と無関係か? いや、ドラッグは空気の中にあるかも知れぬ。(作家)2018年10月7日 東京新聞朝刊 8ページ 「藤沢周さんの3冊の本棚-自省なき国家の行方」から引用 「何が何でも負けはない、突き進むだけ」というのは勇猛な兵士としては評価されるかも知れませんが、こういう人物に国家の舵取りを任せるのは危険であることは歴史が証明していると言えます。現首相もどことなくそういう雰囲気で行動しているように見えます。このまま国民が盲従すると、やがて「1945年8月」を繰り返す羽目になるのではないかと心配です。
2018年10月31日
先月自民党総裁選挙に三選を果たし内閣を改造した安倍政権について、法政大学教授の山口二郎氏は7日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 新内閣と自民党執行部の顔ぶれを見ると、不祥事について謙虚に説明責任を果たすと言ったのは上辺(うわべ)だけのことだとよくわかる人事である。自民党総裁選の一般党員票で石破茂氏に肉薄され、沖縄県知事選挙で与党系の候補が負けたことについても、なぜ安倍政権への反発が広かっているのかを、首相は全く理解していないのだろう。 最大の問題は、戦前の日本を賛美し、慰安婦や南京虐殺はなかったとか、教育勅語は素晴らしいという主張を繰り返してきた政治家が多数入閣していることである。 安倍首相は海外では自由・民主主義や法の支配という価値を欧米、豪州やインドと共有すると言う。日本にとって、これらの価値は第二次世界大戦に敗北することによって取り戻したものである。 天皇主権下の権威主義や軍国主義を擁護する政治家は、安倍首相と価値観を共有しないはずなのだ。それとも、首相にとって自由や民主主義は外向けに、上辺だけ唱える念仏のようなものなのか。 今次の右翼片肺内閣は、日本を世界の孤児にする危険がある。特に、閣僚が歴史修正主義的発言をすれば、首相が推進しようとする対中国、北朝鮮の積極的な外交をぶち壊しにする可能性がある。あらゆる権力を使って自民党をイエスマンで固めたことは、かえって政権の能力を低下させている。(法政大教授)2018年10月7日 東京新聞朝刊 11版S 25ページ 「本音のコラム-片翼内閣」から引用 安倍晋三という政治家は従来の日本の政治家とかなり異質です。従来の政治家は政権を担当しているときに国民の間に反発が起きることをできるだけ避けようと努力し、野党の主張にも耳を傾ける姿勢をとるものでしたが、安倍氏の場合はそのようなことは全く必要ないと考えている様子で、実際に「もし不満があるというのであれば、次の選挙で落選させればいい。それがルールだ」と発言しており、ひとたび選挙に勝てば、次の選挙までは「やりたい放題だ」と心得ている様子です。したがって、こういう政治家を批判するのに「政権への反発が広がっているのを、首相は全く理解していないのだろう」と言ってみても、何の効果もないのだと私は思います。安倍氏は中国へ出かけて「互いに協力のパートナーであり、互いに脅威とならない」と共同会見で発言しましたが、そうするともはやアメリカには巨額の武器購入の契約はキャンセルしてもいいのではないかと考えられますが、この辺の整合性はどうなるのか、興味があります。
2018年10月30日

長らくテロリスト組織に拘束されていたジャーナリストの安田純平氏が解放され帰国することが報道されると、ツイッターには「政府が渡航禁止にしたにも関わらず勝手に行って捕まったやつだ」とか「政府に迷惑かけたんだから謝罪して当然だ」というような「自己責任論」が多く投稿されたが、そういう意見に疑問をもったあるユーザーは考えた挙げ句、次のようにツイートした;このツイートは見事に真実を言い当てていると思います。自己責任論を口にする人たちは、オレ達は我慢して政府の言うことを聞いているのに、それを無視して勝手なことをやって政府に迷惑をかけたのだから、謝るのが当然だろうと、このように言いたいのだろうと思います。しかし、こういう考えは今の時代にはあまりにも古すぎる発想だと思います。江戸時代や大日本帝国の時代と違って、現代は国民主権の時代です。現代のジャーナリストは、「真実の報道」が使命ですから仕事のためならどこへでも出かけるのは当たり前で、「ここは行ってもいい」「ここはダメ」などと一々政府の言うことを聞いていては仕事にならない。しかし、命がけの仕事で本人が窮地に立ち至った場合は、これを救助するのは国の責任であり義務です。これがもし「将軍さまの国」だったり「天皇陛下の国」だったりすれば、「国に迷惑をかけたから謝れ」という理屈は成り立ちますが、現代の日本は「国民主権」ですから、ひとたび「主権者さま」が窮地に立ち至った場合は、使用人である政府の官僚や政治家は「主権者さま」の救出に全力を挙げて取り組むのは当たり前。日頃から国民の税金で優雅な暮らしをさせて頂いている手前、当然というものでしょう。そういう状況も考えないで、勝手に危ない所へ行って迷惑を云々というのは、あまりにものうてんきというものではないでしょうか。
2018年10月29日
性的少数者を差別する発言をして所属する自民党からも「指導」を受ける羽目になった杉田水脈議員は、自分の投稿が元で雑誌が一つ事実上の廃刊になっても沈黙していることについて、17日の東京新聞には次のような投書が掲載された; LGBTに関する独自の見解を雑誌で披露し、その雑誌が休刊に追い込まれるきっかけをつくった国会議員がいまだに沈黙している問題を、ちょっと違う視点で考えたい。もし政治的課題に関して持論があるのなら、それを有権者に披露し、自分が所属する政党で議論を深め、国会の中で認めさせるのが国会議員の本分ではないだろうか。 地方自治体でLGBTの権利を認める動きが広がる中で、もしこの議員がその権利を認めるべきではないという立場を取るのであれば、それを有権者に訴え、自民党の議論を経て、国会に立法化を提起すべきではないだろうか。 仮にそういう活動もしないで雑誌に寄稿し、問題になってダンマリを決め込んだとしたら、それは無責任だと私は思う。2018年10月17日 東京新聞朝刊 12版 5ページ「発言-寄稿後は沈黙 議員役割放棄」から引用 この投書が掲載されて一週間後に、杉田議員は記者会見に応じ「さまざまな誤解や論争を招き、非常に心苦しく思う。大変重く受け止めている」と発言したのであったが、しかし、「LGBTは生産性がない」という表現を撤回するとは言わなかった。つまり、自分の主張を変更するつもりはないということである。そもそも日本政府はLGBT支援にどれほどの予算を注ぎ込んでいるか、尾辻かな子議員によれば、法務省人権擁護局が該当する部局で、ここの予算は法務省7638億円のうちの34億円(やく0.44%)で、これが女性問題、拉致問題、性自認、ホームレス等々「人権啓発活動強調事項」17項目の事業に支出されているだけだから、単純に割り算するとLGBT支援予算は2億円になる。これがムダだというなら、ありもしないゴミ処理を理由に8億円も値引きした森友学園問題のほうはどうするのか、という話である。政府が我々の社会に残された偏見を取り除いて、誰もが平等に暮らせる社会にしようという努力を「ムダ」だという杉田議員の決めつけは、議員として甚だ不適切である。
2018年10月28日
文部科学大臣就任で舞い上がったか、芝山大臣がうっかり「教育勅語もアレンジすれば使える」などと発言したことを、17日の東京新聞投書が痛烈に批判している; ヒトラー、スターリン、東条英機など、誰であれ片言隻句を切り出せば良い言葉はいくらでもあろう。柴山昌彦文部科学相が教育勅語について「現代風にアレンジをした形で、道徳などに使えるという意味で普遍性を持っている」と述べたが、それはヒトラーらの言葉同様、当然のことだ。 教育勅語が問題なのは内容ではなく、それが先の大戦で日本政府の督戦プロパガンダに利用され、日本人だけでも310万人の死者を生んだ歴史に由来する。とりわけ「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の一文は、神風特攻隊や玉砕命令に正当性を与え、沖縄県民に自決を強要するのに用いられたと考えられる。 文科相はこの歴史を知らないのか。だとしたら、国政を停滞させる前に早々に辞表を書いてほしい。2018年10月17日 東京新聞朝刊 12版 5ページ「発言-教育勅語発言 歴史踏まえて」から引用 この投書は完璧に「教育勅語発言」を批判し尽くしている。夫婦は仲良くしろとか友人を大切にしろなどということは、わざわざ「勅語」にして天皇から言ってもらわなくても世の中の常識である。当時の政府も明治天皇も、そんな常識を言うために勅語を発したのではなく「一旦緩急アレハ義勇公二・・・」を言いたかったのであり、その結果が1945年8月であったことは誰も否定できない。したがって、教育勅語を道徳の教材に、という発想が如何にお門違いか分かろうというものである。
2018年10月27日
今年の自民党総裁選挙に出馬した石破議員が「正直、公正」をスローガンにしたら「それは個人攻撃だ」と、まるで「卑怯な手を使うな」とばかりに批判されたことについて、次のような投書が9月24日の東京新聞に掲載された; 「私は正直、公正」と自らの政治姿勢を前面に出した自民党総裁選の候補者が、相手への個人攻撃になると批判され、一時はスローガンの取り下げも考えたようだ。私はやりきれない思いになった。このやりとりが子どもたちの中で行われていたら、大人たちはどう反応するのか。世の中とはそういうものだと、納得させるのだろうか。あるいは大人になれば、それでいいのだと言うのだろうか。 日本を訪れる多くの外国人が、日本人の礼儀正しさや、落とし物さえ戻る誠実さを称賛する。全ての日本人がそうであるなどとは言わない。しかし、私たちが知らず知らずのうちに取る行動の中に、日本人の心が働いて、私たちをそうさせているのは間違いない。 私たちはこの心を、どのように手に入れたのか。日本という社会の中で教育されたものだが、単に言葉だけで教えられたものではない。お手本という実体験があったからこそ、身に付いたものだ。もしそのような心など、実は意味がないのだという大人が大勢いたならは、日本人の心が今日まで受け継がれてはこなかっただろう。 国会議員は国の法律をつくり、国の方向さえ変える力がある。本人の自覚の有無にかかわらず子どもたちのお手本でなければならない。しかるに議員たちの会話は、日本人が綿々と受け継いできた心を、あざ笑い足蹴にするものとしか受け取りようがない。このような大人を見て、子どもたちは日本人の心を受け継ぐであろうか。 日本人の心は今まさに存亡の機に立っている。この現実を目の当たりにしながら、口を閉ざすのは万死に値する行為ではないか。2018年9月24日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「ミラー-『正直、公正』なぜダメ」から引用 「正直、公正」をスローガンにした石破議員がなぜ批判されたのか、という問題は検討に値すると私は思ったのでしたが、これを取り上げて議論するメディアがなかったのは残念と思っていたところ、上の投書を発見して、やはり同じ問題意識をもった人がいたのだと心強く思いました。 本来、民主主義の国で行なわれる選挙は公正でなければならず、立候補する者にも公正で潔白な人柄であることが要求されるものであって、それがために欧米では少々のスキャンダルも政治家にとって命取りになるのが普通です。ところが、安倍政権の5年間は、数々のスキャンダルにまみれながらも本人は疑惑を否定する決定打を出せず、口先で見え透いたウソを繰り返すのみで野党の調査要求もことごとく拒否して逃げまくる。これでは小泉元首相がいうように「誰もがウソだと知っている」が常識になり、総裁選に挑戦する側が「私は正直、公正は政治をやっていく」とアピールするのは当然であり、なんら不当な表現ではありません。それを、「個人攻撃はやめろ」と批判するのは、「安倍氏には正直や公正というのは不可能なのだから、そこを批判するのはフェアじゃない」という意味になりますから、結局「安倍氏は正直じゃないし、公正でもない」と言ってるのと同じ、語るに落ちるとはこのことです。その「語るに落ちる」人たちが大勢集まって「正直でもない公正でもない」人物を総裁に選び、総理大臣にしたのですから、これは「日本人の心が存亡の危機」どころか「日本国の存亡の危機」と言って過言ではないと思います。
2018年10月26日

差別主義者の団体が14日に国内各地でヘイトスピーチの活動を展開したことについて、15日の東京新聞は次のように報道している; 移民政策反対を掲げる団体の主催するデモが14日、全国各地で行われた。外国人の受け入れ撤回を求める発言に対し、「差別反対」と抗議する市民らが多数詰めかけ、周囲は異様な雰囲気に包まれた。 横浜市鶴見区のJR鶴見駅前では、団体の約30人が演説すると、200人以上の市民が「差別を楽しむな」「日本の恥だ」と叫び、内容はほとんど聞き取れない状態に。観光客のドイツ人男性(35)は「これは移民問題を口実にしたヘイトスピーチだ」と批判した。 東京・銀座などでも、団体の約50人が「日本に移民はいらない」と叫びながらデモ行進。「差別主義者は帰れ」と抗議する市民らと一触即発の状態になり、警察官が警備に当たった。杉並区の女性会社員(31)は「差別意識をなくして共存していくのが世界の常識。デモは恥ずかしいし許せない」と憤った。 札幌市中央区の大通公園の周辺では、約20人が旭日旗や日の丸を掲げて行進。市民約30人が「ヘイトスピーチは違法」などと書かれたプラカードを掲げて抗議した。 デモは排外主義政策を掲げる「日本第一党」が主催。団体のホームページによると、全国28ヵ所での一斉行動だった。2018年10月15日 東京新聞朝刊 12版 26ページ「反移民デモに市民ら抗議」から引用 白昼に公衆の面前でヘイトスピーチを行なうとは公序良俗に反する行為であり、これに多くの市民が抗議の声を上げたのは、市民社会として健全な反応であって大変心強く思います。健全な市民の声をさらに増やしていきたいものです。
2018年10月25日
最近の新聞を読んだ感想について、フェリス女学院大教授の藤巻光浩氏は14日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 水曜日の朝刊4面「こちら原発取材班」に掲載される「福島第一の1週間」は、現在の炉の状態を分かりやすい絵で読者に伝えている。情報を提供するだけでなく、紙面を介して、自分と同じように廃炉への進捗状況に興味を寄せる、他の読者たちの存在を感じさせてくれる。 9月19日の同面では、東京新聞が市民社会のメディアとして機能していることが分かる。市民グループ「みんなのデータサイト」が、4千人が参加した放射性物質の測定結果をまとめ、出版する計画を報じた。一人一人が数値を調べ、17都県分を集めたことを考えると、勇気が湧いてくる。不安なら、自分たちで測ればいいのだ。土壌採取の方法も写真付きで公開。出版費用はネットによる寄付(クラウドファンディング)で集める。「寄付の仕方」(QRコードも欲しかった)で読者も参加できる。 自分たちで数値を測るために、市民が連帯する活動も紹介されてきた。東京都葛飾区で甲状腺検診をする組織を市民がつくり(6月27日特報面)、千葉県の釣ケ崎でサーファーたちが海水などの放射性物質を検査し始めた(10月9日夕刊1面)。市民が自治を行使していることが伝わる。 一方、このような自治が困難になるケースがある。例えば、鎌田慧氏の「本音のコラム」(9月25日特報面)によれば、自分で判断して避難した人々は、政府や東電に「自主避難者」と呼ばれ、生活補償を打ち切られた。原発推進は国策でありながら、事故や被ばくのリスクを自分で判断した個人には、その帰結を引き受けさせる。政府や東京電力は自治を許していない。 それに加えて、司法はリスク解釈の裁量を自らに許す「社会通念」なる言葉を持ち出した。これを使い、広島高裁は、一度は差し止めとした四国電力伊方原発の再稼働を容認した。社説(9月26、29日)は、司法が使った社会通念という言葉のあいまいさを厳しく追及している。「再稼働根拠 おかしい」(10月6日特報面)によれば、社会通念とは「皆がこう思っている」もので「時代や社会が変われば人の意識は変わる」。しかも、政府や東電に都合のいい解釈も許し得るため、私たちの不安は増幅される。例えば、トリチウムを含む水を海洋放出するという東電の提案は、本当に安全なのか否か分からず、人々を不安にさせている。 とぼけた調子の「時事川柳」にクスっと笑った。 「何故かいつも僕のと違う社会通念」(6日発言面)。人々の自治やユーモアを掲載し、読者に多様な方法での参加を促す東京新聞は、政府や司法とは異なる社会通念を定着させていくだろう。(フェリス女学院大教授)`2018年10月14日 東京新聞朝刊 11版S 5ページ 「新聞を読んで-市民社会のメディア」から引用 東京新聞に定期的に掲載される福島第一原発の廃炉作業の進捗の記事は、私も興味をもって読んでいます。一般市民が自分で環境の中の放射線量を測定しているというのも興味深い話です。そのような情報を提供する東京新聞が、政府や司法とは異なる「社会通念」を定着させていくだろうという見通しは、なんだか未来に希望が持てそうな明るい気分にさせてくれます。
2018年10月24日
原発事故で住む家を失った人々の困難について、ルポライターの鎌田慧氏は9月25日の東京新聞コラムに、次のように書いている; フクシマ原発事故の後、放射線が強く強制退去させられた地域以外で子どもを抱えて福島県外へ避難した人たちは「自主避難者」と呼ばれる。強制退去を命じられた家族の生活費などは補償の対象になっているが、自主避難者への生活補償はない。それでも将来の子どもの健康だけを考えての、苦渋の決断だった。 このひとたちの住宅費の支援は、昨年3月で打ち切られた。1年前の東京都の実態調査では、月収20万円以下が過半数を占めている。新潟県精神保健福祉協会の調査では、重度ストレスが25%と通常の5倍に達している。居住の不安定を思えば当然ともいえる。 福島の自然の恵みを受けて暮らしてきたひとたちである。この人たちにはなんの罪もない。ところが、立ち退かない。居座っているなどと、非難されはじめている。この状況をつくりだした東京電力の責任は忘れ去られ、被害者側かわがままと批判される、本末転倒。 いままで各地の公営住宅や公務員住宅、雇用促進住宅など、空き家の提供を受けていた。が、6ヵ月後には打ち切りになる。さらに2年後には強制退去の人たちへの補償も縮小されそうだ。 放射能を「アンダーコントロール」(安倍首相)といって誘致された五輪がはじまる。それまでに被害者の姿がみえなくされるのではないか。それが避難者たちの恐怖である。(ルポライター)2018年9月25日 東京新聞朝刊 11版 23ページ 「本音のコラム-原発避難者の受難」から引用 原発事故のために自宅に居住できなくなった人たちに対しては、事故を起こした東京電力が損害を賠償するべきであるが、事故が起きた直後から政府と東京電力はいろいろと手段を巡らせて、できるだけ負担を軽減する方向に状況を引っ張ってきて、結局原発の近所の住民だけが割を食うことになったのは不当である。
2018年10月23日
小学生のランドセルが重すぎるので、文部科学省が全国の小学校に教科書や参考書その他学習資料を教室に置きっ放しにすることを認める通知を出したことを歓迎する投書が、15日の東京新聞に掲載された; 6日生活面「なぜ? どっさりずっしりランドセル」の記事。重すぎるランドセルに国が「置き勉」を認める通知は、わが家でも話題になった。今さら感もあるが一歩前進だと思う。 小3の長男が入学してすぐのころは、2キロ近い通学路を、小柄な体に教科書に道具箱、体操着など、とにかく持ち物の多さに驚き、かわいそうに思ったほど。1学期はくたくたになっていたが、環境に慣れるしかないのかなと思いながら過ごしてきた。学年が上がるにつれ、絵の具、書道用具とますます重くなる。 来春入学でランドセルが届いた次男は、兄のように小学生になるのを心待ちにしている。置き勉はもちろん、道具類の軽量化や持ち帰る日の工夫など、親子で試行錯誤しながら、通学の負担を減らす学校生活にしていきたいと思う。2018年10月15日 東京新聞朝刊 11版 5ページ 「発言-『置き勉』OK低学年に朗報」から引用 この投書には、大変違和感を覚える。小学生が教室に教科書を置いて帰宅してはいけないという法律はないはずであるが、文部科学省に何の権限があって「教室に置くことを認める」などと言えるのであろうか。子どもが重すぎるランドセルに悩まされているのを見たら、親が学校と相談して教科書その他を教室に置くように決めればいいだけのことではないのだろうか。そのためのPTAなのではないのか。子どもが苦労している様子をただ傍観するだけで、国が「置き勉」を認めると言ってくれたので一歩前進だと喜ぶというのは、自分の子どもの教育に対する親としての責任感が感じられず、「お上」が許してくれるまでは只ひたすら子どもが環境に慣れるのを待つというのは、まるで戦前の日本を彷彿とさせる。
2018年10月22日
今月16日に茅ヶ崎市で開かれた「慰安婦」の映画の上映会に関連して、16日の神奈川新聞は次のような詳細な記事を掲載した; 茅ケ崎市在住の映画監督、朴壽南さん(83)が手掛けた記録映画「沈黙-立ち上がる慰安婦」が16日、茅ケ崎市内で上映される。先の戦争で旧日本軍の「慰安婦」にさせられたハルモニ(おばあさん)たちを追ったドキュメンタリーだ。その映像からは、自らの力で名誉と尊厳を回復していったハルモニの姿とは対照的に、今なお「加害の歴史」に向き合おうとしないこの国の姿が浮かび上がる。(松島 佳子) <私たちは15、16、17歳の花のような年頃に、日本軍によって強制的に連行され、数年にわたり将兵らの恐るべき性暴力に蹂躙(じゅうりん)された被害者たちです。私たちは日本政府が要求に応えない限り、生きて国には帰りません> 1994年5月、元慰安婦の八ルモニ15人が、日本政府の謝罪と個人補償を求めて来日した。半世紀の沈黙を破ったハルモニたちが身にまとった白い民族衣装には、死んだ多くの仲間への哀悼と無念の思いが込められていた。 昨年12月に公開された新作「沈黙」には、20年以上前に記録された証言と映像が多く収められている。当時、朴さんは60歳手前。20代から民族差別問題に取り組んできた在日コリアン2世の自身にとっても、ハルモニたちの闘いぷりには圧倒させられたという。 1965年の日韓請求権協定に基づいて「法的責任は解決済み」とする日本政府に対して、政府機関前で座り込みをし、皇居前では「天皇の戦争責任」を訴えたハルモニたち。 「最も惨めで、哀れで、社会が軽蔑しきっていた被害者たちが自ら受けた被害を告発し、そして『侵略戦争の最高責任者の責任』を問うわけです。これはすごいことだと思いました」 各地で開かれた証言集会には、戦犯となった元軍医や元日本兵が自主的に参加するようになっていく。元軍医の男性は作中で、天皇中心の軍国主義下で慰安所がつくられ、それが軍のシステムの一部として機能していたと、証言している。 <この戦争が侵略戦争であることは誰でも分かる。けれども、(兵士は)天皇のため、国のため、アジアのためだということを言わされ、教え込まれている。(その兵士たちが)やっと『慰安所』へ行って一息をつく。(慰安所で)人間らしさを回復し、力を出し、そして、また明日戦闘行為をする。つまり、日本の軍隊は兵隊に戦闘させるため、計画的にこの『慰安所』を戦争のための兵器として使っていたのです>■盗人猛々しい ハルモニたちの闘いから20年。映画化のきっかけは、2015年、日韓両政府による「従軍慰安婦問題の日韓合意」だった。 日本政府は「当時の軍の関与の下、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題で責任を痛感している」と表明したが、被害者支援のため、韓国政府が設立する財団に拠出する10億円は「賠償」ではないこと、「法的に解決済み」とする従来の政府見解に変更がないことを明言した。さらに、合意により、慰安婦問題は『最終的かつ不可逆的に解決されることを確認する」とした。 朴さんは言う。 『日本語の『盗人猛々しい』という言葉を真っ先に思いました」 戦後補償を巡る、数々の出来事が去来する。 90年代から2000年代にわたり、アジア各国や諸地域の元慰安婦や元労働者が日本政府に対して損害賠償を求めて提訴する「戦後補償裁判」が相次いだ。 裁判は当初、不法行為から20年が過ぎると損害賠償請求権が消滅する除斥期間の経過を理由に請求を棄却する判決が続いた。だが、こうした主張を「正義に反する」として原告の請求を認める判決が出始めると、日本政府は請求棄却を求めて除斥期間ではなく、新たな根拠を見いだしていく。 連合国とのサンフランシスコ平和条約(51年)といった、戦争状態を終結させる条約などで「相互に個人賠償謂求権も含めて放棄した」として、各国個人の請求権は放棄されていると主張したのだ。 「侵略戦争の資任をあいまいにし、被害救済をせず、しまいには『もう、蒸し返すな』と。結局、日本政府は最初から最後まで加害の歴史に向き合わなかった」■国民の人間回復 映画「沈黙」が問い掛けるのは、慰安婦問題だけではない。 合意から約4ヵ月前の15年8月、安倍晋三首相が戦後70年談話を発表した。朝鮮半島の植民地支配についての直接の言及はなく、そればかりか、朝鮮支配につながった戦争を肯定するかのような文言が並んだ。 そんな政権に呼応するかのように、日本社会の一部からは、朝鮮半島を植民地化した史実をもみ消そうとする動きが起きている。上映会が近づくと、ネット上には事実をねじ曲げる書き込みがあふれ、上映会を後援する市や市教育委員会には、上映中止と後援取り消しを迫る電話が続いた。 太平洋戦争の戦没者は軍人、民間人を含めて310万人に上る。あの戦争は何だったのか。なぜ、あれだけ多くの命が奪われなければならなかったのか。 「ハルモニたちは、軍国教育により戦争へと駆り立てられた日本国民の『被害』にも光を当てた」 94年、初来日したハルモニが帰国前に残した「声明文」の文言にはこうある。<私たちの名誉回復とは、まさしく日本の国と、国民ひとりひとりの名誉、人間回復につながる闘いであることを確信している> 「なぜ、日本国民が戦後も臣民であり続け、国家を批判するものを非国民扱いするのか。この問題の根底を、元慰安婦のハルモニたちは訴え続けている」 昨年12月に東京で公開されると、戦争を知らない世代も多く訪れた。その中には「歴史を教えてくれてありがとう」と涙する高校生もいたという。 ハルモニたちの多くはこの世を去ったが、朴さんは言う。 「このか細い声が、どんどん大きくなり、日本の若い世代の耳に、胸に届くことを願っている」2018年10月16日 神奈川新聞朝刊 A版 15ページ 「論説・特報-加害の歴史、向き合わず」から引用 私は戦後に生まれたので、戦争というのは「戦前」と呼ばれる昔にあった出来事という認識でいたのであったが、これはとんだ勘違いで、戦争そのものは終わっても戦後補償はまだ済んでおらず、90年代になっても日本政府は「除斥期間」だの、サンフランシスコ講和条約で個人請求権も放棄されたのだのと言い訳をして責任逃れをしていたとは呆れた話です。90年代に中国や韓国の元労働者たちが損害賠償を求めて裁判を起こしたとき、日本のメディアと日本国民は傍観しないで、彼らを積極的に支援するべきだったと思います。そうすることによって初めて私たちの日本は侵略戦争を反省することができたはずですが、もったいない機会を失ったものだと思います。慰安婦だった人たちの名誉回復は、まさしく日本の国と国民の名誉を回復し人間を回復する闘いであるという言葉は真実を言い表しており、慰安婦像の撤去を主張したりする言動は日本人の恥を世界にさらし日本の名誉を傷つける行為です。
2018年10月21日
今週の火曜日(16日)に茅ヶ崎市で開かれた「従軍慰安婦」の映画の上映会について、14日の東京新聞は次のように報道した; 旧日本軍の従軍慰安婦だった女性たちが名誉と尊厳の回復を訴えて闘う姿を追った記録映画「沈黙―立ち上がる慰安婦」が16日、茅ヶ崎市民文化会館(茅ヶ崎1)で上映される。主催は市民らでつくる上映実行委員会。同市に住む在日朝鮮人二世の朴壽南(パクスナム)監督(83)は「被害者の記憶は永遠に消えない。より多くの人に伝えたい」と語る。 10代で慰安所に連行された15人のハルモニ(おばあさん)は1994年から来日を重ね、日本政府に謝罪と個人補償を求める活動を続けた。朴監督は、彼女らと行動を共にし、その姿を映像に収めてきた。 2015年末の慰安婦問題を巡る日韓両政府の「合意」を、朴監督は「当事者不在」と主張。「ハルモニたちの『沈黙』は、自らの尊厳を守るよろいだった」と表現する。思い出したくない記憶。「沈黙を破らせるのが私の責任、歴史を葬ってしまうことはできないと思った」と作品の意味を説く。 上映は午後2時半、同7時の2回。午後4時半から朴監督の話がある。前売り・予約1000円、当日1200円、学生500円。問い合わせは、実行委員会=電<省略>=へ。(吉岡潤)2018年10月14日 東京新聞朝刊 24ページ 「従軍慰安婦の闘い追う記録映画 上映」から引用 埼玉県のある町では公民館が発行する機関誌に「憲法9条」を読んだ俳句がボツにされる事件があったが、それに比べると神奈川県茅ヶ崎市は、元慰安婦の人たちが名誉回復に立ち上がった運動を記録した映画の上映会を市当局と市教育委員会が後援するという、実に立派な姿だと思いました。ところが、市議会自民党はこの上映会に反発し、後援を決めた市長に謝罪を要求するなどと騒いでいるという情報もあります。史実を認めようとしない自民党員の態度は、国際社会における日本の地位を益々低下させる行為であり、日頃「愛国心」などを口にする人たちの自己矛盾がこっけいです。
2018年10月20日
来年の参議院選挙をどう戦うか、法政大学教授の山口二郎氏は14日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 気の早い週刊誌は、来年夏の参議院選挙の結果の予想を行っている。政治記者の常識では、自民党の苦戦が予想され、安倍政権の先行きも容易ではないそうだ。しかし、この予測は野党協力、とりわけ一人区での野党候補の一本化を大前提としている。 各野党の指導者も、協力の必要性を指摘している。私も、各党の幹部に会い、協力の進め方について話し合いをしている。先日は、国民民主党の玉木雄一郎代表と会談した。希望の党の時代のイメージも残っていて、この党の政治家について良いイメージを持っていない市民も多い。しかし、玉木氏も、立憲主義の擁護、安倍9条改憲への反対という基本姿勢は共有している。彼は、2016年の参院選では地元の香川県で共産党候補を野党統一候補にした実績にも触れ、野党協力への決意を語ってくれた。 問題は、立憲民主党である。枝野幸男代表も野党協力の必要性は語っている。しかし、野党全体で勝つことより、自分のところの党勢拡大を優先しているような言動もたびたび聞かれる。 安倍政治を止め、憲法に基づく正直で公平な政治を取り戻すことが、来年の参院選の最大の課題である。ことによると、衆参同日選になるかもしれない。野党協力を進めろという声を、市民の側からも高めていかなければならない。(法政大教授)2018年10月14日 東京新聞朝刊 11版S 27ページ 「本音のコラム-野党協力の行方」から引用 自民党の得票率は50%を割っているのだから、自民党政権を終わらせるという一点で野党が協力すれば非自民党政権を実現することは可能である。この政権では、安倍時代に作った数々の憲法違反の法律を廃止することが最初の仕事になる。財政面では消費税を5%に戻し、そのために生ずる財源不足は累進課税制の復活、大企業減税の見直し等で対応する。このような施策で世の中が一段落したら、そこで改めて各党が本来の政策を打ち出して選挙を行なって有権者の信を問う、そのような道筋が次の時代を切り開くものと思います。
2018年10月19日
社会的弱者の人権を侵害する記事を掲載して「休刊」する羽目になった「新潮45」について、文芸評論家の武田徹氏は11日の神奈川新聞に次のように書いている; 今回「新潮45」休刊の報に触れて思い出したのは、1997年に神戸連続児童殺傷事件加害者の顔写真を掲載した写真週刊誌「FOCUS」(2001年に休刊)のことだ。強い反発の声が上がり、出版元である新潮社への断筆宣言をした作家が出たことも今回と共通している。 評判は散々だったが、そこで「FOCUS」は問題提起をしていたのだと思う。確かに顔写真公開は加害者本人を推知させる記事の掲載を禁じた少年法61条に反する。しかし実際には加害者がどんな少年なのか知りたいと感じる人も多いのではないか。同誌はそんな「需要」に応えるのと同時に社会の一定程度共有されている「本音」と少年法が齟齬(そご)を来している現実を示したのだ。 総合論壇誌である「新潮45」8月号に自民党議員の杉田水脈氏が「生産性がない」LGBTに対してさまざまな支援策が採られるおかしさを指摘する論文を掲載したときも、新潮社らしい問題提起なのかと当初思った。 というのも生産性で人の価値を測る優生主義的な発想は、実は社会のあらゆる局面で見られ、新自由主義の進行とともに強化されている。記事はそうした社会のゆがみを、LGBTに対する差別的発言を議員にさせることで露出させる確信犯的なものなのではないか。そう思ったのは問題発言をさせて耳目を集めるのが出版社系ジャーナリズムの常とう手段でもあったからだ。 予想通りというべきか、同論文は物議を醸し、杉田氏の辞職を求めるデモまで繰り広げられた。それに対し同誌10月号では特集「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」を掲載。しかし、その内容は筆者が期待した方向に議論を広げ、深めるものではなく、杉田論文擁護のためにLGBTだけでなく、性犯罪被害者をも言葉で冒涜するものだった。 結果として抗議活動は一段と熱を帯び、新潮社は休刊を決める。こうした経緯のなかで一貫して欠落したのは「言論」の地平での議論だったのではないか。たとえば言論表現の自由は際限なく認められるわけではない。他者の社会的地位を低下させる言論が許容されるのはそれが真実性と公益性を備えている限りにおいてだ。神戸連続児童殺傷事件の顔写真公開後には、評論家の立花隆氏が、ここまで残忍な犯罪を行う加害者がどのような少年であるのか社会は知る権利・義務を有するという趣旨で発言。少年犯罪加害者の顔を見たがる社会の要請に応える報道の公益性を擁護する立場を取るなど、議論が繰り広げられた。 今回の特集論文に関しても同じような議論が必要だったはず。あえてその作業にこだわるのは、もし言論の要件を備えない論文が掲載されているとすれば、なぜそうなったのか、論壇ジャーナリズム自体の検証にそこから移れたと思うからだ。 そうした作業を含めて言論の場としての論壇誌を残す努力をしてほしかったと思う。かつて社会学者の上野千鶴子氏が指摘したように、一つの差別の撤廃が新たに別の差別を生み出すなど差別問題の構造は複雑である。その複雑さを相手取るには単一争点で訴えるデモでは力不足だ。継続的な議論の場が必要なときに論壇誌がその器になれない損失は大きい。 たけだ・とおる 1958年東京都生まれ。評論家、専修大教授。専門はメディア社会論。「流行人類学クロニクル」でサントリー学芸賞。他の著書に「日本ノンフィクション史」「暴力的風景論」など。2018年10月11日 神奈川新聞朝刊 8ぺージ「欠落した『言論』の地平」から引用 「新潮45」に掲載された小川栄太郎の記事はひどい内容であったが、私のはここに引用した武田徹氏のこの記事も、ちょっと如何なものかと思います。私は「FOCUS」が廃刊になったのは少年法に違反する記事を掲載したからで、当然のことと思ってますが、武田氏はこの記事で、凶悪な犯罪を犯した加害者の顔を見たいと思う人々の劣情を「社会の需要」などと言って正当化しているのは、かなりおかしいのではないかと思います。少年法は、不幸にして犯罪に手を染めてしまった少年が正しく更生できるように、世間の興味本位の野次馬のような目から元加害者を守る役目をしているのであって、犯した罪が凶悪だから法による保護を取り払っても良いというのは「法の精神」にもとる態度というものではないかと思います。
2018年10月18日
今月新たに発足した内閣で文部科学大臣になった柴山昌彦氏が、うっかり教育勅語も現代風にアレンジすれば教材として使えるなどと軽口を叩いて、世間を騒がせたが、11日の神奈川新聞には、次のような投書が掲載された; 先の内閣改造で文部科学相に就任した柴山昌彦氏が、教育勅語の基本的内容を現代的にアレンジして教える動きを「検討に値する」と述べ、波紋が広がっている。 確かに、きょうだい仲良く、夫婦は仲むつまじく、といったくだりは今にも通じるという意見はよく聞く。だが、教育勅語は、天皇主権の社会像を示す一つの体系的なまとまりであり、部分的に正しいからといって、国民主権の現行憲法下で、道徳などの教材とするのは適切ではない。 戦前の学校教育では、校長が教育勅語を読み上げる間、全員頭を下げ、不動で聞いたという。一方的に徳目を教え込む古い教育スタイルであり、「主体的・対話的で深い学び」の実践が求められる現在の学校教育では、方法論的にも相いれないと考える。 教育勅語を教材として用いるとしても、それは歴史の授業の史料としてのみであり、道徳などの授業で教えることなどは考えづらい。きょうだい仲良く、夫婦仲むつまじく、といったことは、他にいくらでも適切な教材があるはずだ。2018年10月11日 神奈川新聞朝刊 10ページ 「自由の声-教育勅語の教材化不適切」から引用 その後芝山大臣は、具体的に教育勅語を使うというような意図があって発言したわけではないと釈明して騒ぎは沈静化したのであったが、元々教育勅語は道徳教育の教材として発布されたものではなく、外国と戦争をするときは国民は皇室を守るために命を捧げるものであるということを刷り込むのが目的であったわけで、憲法に平和主義を定めた現代では全く使いようのないシロモノである。
2018年10月17日
玉城デニー氏が沖縄県知事選に勝利した翌朝の読売新聞には、敗北した自民党側の様子を次のように書いている; 与党は、国政選並みに幹部を投入する総力戦で臨んだ。佐喜真淳(さきまあつし)氏の敗北で被った痛手を最小限に抑えたい考えだ。 今回の知事選の直前、安倍首相は自民党総裁選で連続3選を決めた。「首相の面目をつぶしてはいけない」(党幹部)として、二階幹事長や小泉進次郎筆頭副幹事長らが何度も沖縄入りしたほか、沖縄の基地負担軽減担当を兼ねる菅官房長官も佐喜真氏の支援に入り、異例とも言える態勢で臨んだ。「来年夏の参院選の前哨戦」と位置付ける向きもあっただけに、党幹部らは落胆の色を隠せない。 一方で、「沖縄は革新勢力が強いという特殊事情があり全国的に波及することはない」(自民党関係者)とする強気な声もある。総裁選後の各社の世論調査で安倍内閣の支持率が回復傾向にあることも、こうした見方を後押ししているようだ。自民党は秋に召集予定の臨時国会での論戦などを通じ、態勢を立て直す構えだ。 一方、玉城氏を側面支援した野党にとっては、参院選での野党共闘に弾みが付きそうだ。立憲民主党の幹部は「首相が総裁選に3選した直後、勝利したことに大きな意義がある。参院選に向けた野党共闘も加速させたい」と語った。6月の新潟県知事選では、政党色を前面に出して敗れた。今回は党幹部が玉城氏と並ぶ格好の街頭演説を控え、政党色を薄める戦略に徹したことが奏功したとみられる。(政治部 松下正和)2018年10月1日 読売新聞朝刊 13版 3ページ 「与党痛手態勢立て直し」から引用 自民党が安倍首相の面目をつぶしてはいけないと本気で考えたのであれば、仲井真弘多・翁長雄志クラスの大物を立てるべきだったと思います。それがいくら人材不足とは言え、日本会議のメンバーで市長時代に幼稚園児に教育勅語を暗唱させたなどというお粗末な人物を擁立したのでは、沖縄県民をなめているとしか考えられず、私などはてっきり自民党側は「試合放棄」したものと思っておりました。本気でしゃかりきになって戦ってあの程度ということは、自民党の実力はかなり凋落してきているとみて間違いなさそうです。そうなると、これはいくらダメな野党でも、そのうち交代する以外に道はないという状況がまたやってくる可能性は大きいということです。
2018年10月16日

沖縄県知事選挙に勝利した玉城デニー氏が安倍首相と会談したことに関連して、13日の毎日新聞社説は、次のように述べている; 安倍晋三首相が沖縄県知事に就任した玉城(たまき)デニー氏と首相官邸で会談した。菅義偉官房長官も同席した。 4年前、首相は翁長雄志氏の知事就任時に4ヵ月会談せず、批判を浴びた。玉城氏との会談が就任1週間余りで実現したことは評価したい。 ただし、形だけの対話では意味がない。米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対する県側の訴えに耳を貸すことなく、政府側が埋め立て工事を強行すれば、国と沖縄の不毛な対立がさらに4年間続くことになる。 会談で玉城氏は、2回の知事選で示された「辺野古ノー」の民意に真摯(しんし)に耳を傾けるよう求めたが、首相は「政府の立場は変わらない」と答えた。これまでと同じ平行線だ。 移設計画の白紙撤回か、断固推進か。双方がオールーオアーナッシングの姿勢では出口が見えない。 玉城氏は日米安保体制を認める立場を強調した。「反米」「反基地」などのイデオロギーで移設に反対しているのではなく、全国で担うべき基地負担が沖縄に集中している理不尽を問うている。玉城氏が民主主義の問題だというのは理解できる。 沖縄のアイデンティティーを尊重してほしいという訴えなのに、政府が決めた移設計画を唯一の選択肢だといって一方的に押しつけるから、かみ合わない。アイデンティティーをないがしろにされた沖縄の怒りを解くには真摯な対話しかない。 玉城氏の求めた「話し合いの場」を政府は早急に設ける必要がある。そこで何らかの譲歩策を示さないことには一歩も前に進まない。 選挙で示された民意を尊重するのが民主主義であり、まずは政府側が譲る覚悟を見せるべきだ。 玉城氏は辺野古移設と切り離した「普天間飛行場の5年以内の運用停止」も提起した。5年前に埋め立てを承認した仲井真弘多(なかいまひろかず)元知事が主張したものだが、代替施設なしに米側が受け入れる見通しは立だない。 在日米軍に特権を認めた日米地位協定の見直しも含め、玉城氏の要望内容は政府に米側との交渉を促している。玉城氏の提案した政府・米軍・沖縄県の3者による協議会設置も米側に働きかけてみてはどうか。 米軍にとっても、地域住民の理解が得られない状態での駐留は決して望ましくないはずだ。2018年10月13日 毎日新聞朝刊 14版 5ページ 「社説-まずは政府が譲る覚悟を」から引用 この社説は極めて常識的な意見を述べている。これが70年代の頃であれば、米軍基地に反対するのは革新系の野党ばかりだったので、その裏には「反米イデオロギー」があるに違いないという「憶測」もあって、一般の沖縄県民は表だって「基地反対」を言い出しにくかったかも知れないが、今は沖縄県では自民党支持者も公然と「基地反対」を言わざるを得なくなっている点を政府は考慮するべきであって、従来通りに「反対」の声を無視することは許されないと思います。ところで、この社説では、首相と知事の会談に菅官房長官も同席したと書いてあるが、ツイッターではANNが取材した画像が取りざたされており、その画像では、玉城知事に話しかける安倍首相が相手の顔を見ておらず、一生懸命サイドテーブルに置いた原稿を読んでいる様子である;県民の声を代表して首相に語りかける知事に対し、応える首相のほうは自分の考えを伝えるのではなく、官僚が作文した文章を読んで聞かせるだけ。これが「会談」と言えるのかどうか、毎日新聞も立派は社説を掲げることは大事であるが、取材の現場でどのような「会談」が行なわれたのか、その実態を包み隠さず国民に伝えてこそ報道機関というものではないのか。
2018年10月15日

先月行なわれた自民党総裁選挙を報道するNHKテレビの報道姿勢について、法政大学教授の須藤春夫氏は9月23日の「しんぶん赤旗」に、次のように書いている; 自民党の総裁選は9月20日に終わりました。本稿執筆時は選挙戦終盤です。 NHKは総裁選開始直後と14日の2度にわたり安倍晋三首相と石破茂元幹事長の演説会と共同記者会見を中継しました。2回目の日本記者クラブ主催の会見では記者の質問が「森友・加計(かけ)」問題に集中。通常国会で疑惑に答えなかった首相に迫りました。 「内閣不支持の一番の理由は『首相が信頼できない』こと」「森友・加計問題では国会にうそをついた。役人の中には亡くなった方もいる」「総理大臣を辞してもおかしくない問題だ」など鋭い質問が飛び、首相の顔が一瞬こわばるほどでした。 しかしその夜のNHK「ニュースウオッチ9」は記者会見の臨場感を伝えていません。記者の質問の数々はカットされ、「森友・加計問題について問われた」とご言にまとめたうえで、「行政に対する国民の信頼を揺るがすことになった私の責任」と釈明する首相の姿を映すだけでした。 NHKの一連の総裁選報道は、国民の関心が高い首相の政治姿勢についてきちんとただすことをせず、反対におわびと開き直りの連発を許しています。 17日は民放キー局の報道番組に、首相と石破両候補がそろって出演しました。「報道ステーション」では、総裁選での現職閣僚への”圧力”や、安倍一強のひずみが議題に上りました。「NEWS23」では、司会の星浩氏が首相と加計学園理事長とのゴルフや会食を通じた癒着について追及。両番組であぶりだされたのは、総裁選報道で「公平・公正」を押し付けながら、自らは質問に正面から答えようとせず、動揺し、持論をまくしたてる首相の姿でした。 安倍首相はすでに国民本位の政治を担う資格を欠いています。テレビは巨大与党に支えられた5年余の政権運営を独自に検証し、任に堪えない状況を明らかにすべきです。(すどう・はるお=法政大学名誉教授)2018年9月23日 「しんぶん赤旗」日曜版 35ページ 「メディアをよむ-総裁選NHK報道の異様」から引用 時々は優れた番組を放送して賞賛されることもあるNHKテレビですが、ニュース番組だけは何故か安倍政権を忖度する様子があからさまに分かるような状態で、これは自民党総裁選に限った話ではなく、つい最近も下記のようなツイッターが呟かれました; いくら国から予算をもらっているとは言え、報道機関は真実の報道が使命ですから、妙な忖度はやめて本来の「使命」を果たしてほしいものです。
2018年10月14日
昨日の蘭に引用した「しんぶん赤旗」の記事には大東文化大学准教授渡辺雅之氏がコメントを寄せて、文部科学省の道徳教育を次ぎのように批判している; 道徳が教科化されたことによる最大の問題は、教師の目が子どもの表面的な態度に向けられていることです。 ある道徳推進指定校の中学校では「かかとの乱れは心の乱れ」というポスターを貼って、子どもたちに下駄箱の靴をそろえさせています。見た目ばかりに気をとられ、肝心の”心”に目を向けられない。これでは本末転倒です。 僕は、道徳は「異なる他者とともに生きる術」だと考えます。対立を超えて、平和的に生きることです。他方でそれを阻む力も当然あります。それに対してたたかう力も道徳性の一つです。 文部科学省型の「道徳科」は、(1)すべての問題を心の問題にすり替え、自己責任論を強化(2)結論ありきで、問題の本質を隠す徳目主義(3)日本の伝統・文化はすばらしく、自国だけが正しいという排外主義的な愛国心-を強調しています。 これでは多角的に物事を見たり、考えたりする力を弱めます。また、命令や権力に従順で、明文改憲への道といえるでしょう。 文科省は子どもの内面は評価しないと言いますが、内面を評価するような教科書やワークがたくさん出ています。それらを使用し、年間の指導計画通りに授業を進めるよう、教員への縛りが非常に強くなりました。教育実践の自由を侵害し、教員の多忙化に拍車をかけています。 子どもはもともと道徳心を心のなかに宿しています。徳目を教えるより、一緒に話し合いながら、本来の道徳性を引き出していくことが大事です。2018年9月23日 「しんぶん赤旗」日曜版 9ページ「見た目ばかりにとらわれ、本当の心みない本末転倒」から引用 文部科学省が推進する「道徳科」の特徴が「心の問題を強調する」「問題の本質を隠す徳目主義」「自国だけが正しいという排外主義」というのですから、これはやはり「戦前回帰」を狙っていると考えるのが妥当ではないかと思います。私たちは戦前道徳の復活を傍観することなく、民主主義の社会に相応しい道徳の在り方を議論するべきと思います。
2018年10月13日
今年から教科になった道徳教育について、困惑する教育現場の様子を9月23日の「しんぶん赤旗」が、次のように報道している; 4月から小学校で道徳が正式教科となりました。教科書や評価が導入されたことで、教員からは子どもの心を評価することへの不安や疑問の声が上がっています。<本吉真希記者> 道徳はこれまで「教科外の活動」の位置づけで、成績評価の対象外でした。安倍晋三政権はこれを「特別の教科」に”格上げ”し、評価の対象に。通知表には1学期から、記述式の道徳の評価欄が加わった小学校もあります。 教職員や保護者が語り合う「教育のつどい」(8月)の分科会では、教育現場の困惑が出されました。◆校長にいわれて クラス15人の担任をする香川県の男性教諭(28)は1学期末、評価を書くことに苦悩しました。校長にいわれて購入した道徳の通知表文例集を参考にしました。しかし校長と教頭の決裁が下りず、2度の書き直しで深夜までかかりました。 「何をどう書けばいいか悩んだ。学習した題材を引いて『○○ができるようになりました』というのが果たして道徳なのか。疑問と矛盾だらけでした」。学期末は水泳の記録会などもあり、いつも以上に多忙です。そのような状況で、ほとんどの教員が書き直しをさせられたといいます。 文部科学省は、各学年の子どもに身につけてほしいとする19~22の内容項目=徳目を明示。項目には「規則の尊重」「国や郷土を愛する態度」「家族愛」「畏敬の念」などがあります。 教科書の題材は、これらの項目に合うように設問が作られています。中には別冊のノートがつき、教科書の内容に沿った設問が並びます。それらの設問通りに授業を進めると、個人を犠牲にして国家や共同体に尽くすなどの考え方を押しつける危険性があります。 教育委員会が別冊のノートの使用を決めた地域もあります。福岡県の女性教諭(47)は、ノートの使用は道徳科にとりくんだ証拠と見なされ、「その脅迫感から、ノートを子どもたちに使わせる授業になってしまう」という同僚の声を紹介。 ノートへの記入が増え、文章表現が苦手な子は「道徳が嫌いになった」といいました。「評価のためだけに書かせるノートのあり方や指導方法は、あまりにも安易すぎないか。子どもたちが本音で発言できる授業をつくっていきたい」◆保護者も反対を 埼玉県で昨春発足した「子どもだちと共に楽しい道徳の授業をつくる会」の貝田久事務局長(69)=元小学校教員=は指摘します。 「道徳の評価は内心の自由の侵害であり、教育現場を苦しめている。教員が評価にかける手間と労力を子どもとの対話に向けられたら、どんなに子どもはうれしく、励まされ、成長するか。評価は心の支配につながっていくもの。保護者も反対の声を上げてほしい」2018年9月23日 「しんぶん赤旗」日曜版 9ページ「心の成績 どうすりゃいいの」から引用 道徳の授業について、児童生徒をどう評価するのか、先生たちが悩むのは評価の方法が確立されていないのに、政府が無理に「教科化」を強行したからです。政府が無理矢理「評価しろ」と言っても、現場の先生は一方的な観念を生徒に押しつけるわけにはいかないということを十分承知しているから、評価の仕方に悩むのではないでしょうか。戦後の歴代政権は、戦前に教育勅語を押しつけて失敗したことを反省して、道徳教育には慎重な姿勢をとってきましたが、安倍政権がその伝統を無視して教科化をごり押ししたために、現場の教員に大きな負担がのしかかっているというのが現状です。
2018年10月12日
今日はツイッターを眺めていて、偶然次のようなブログを発見しました。2014年7月5日に書かれたもののようです;街頭(6月30日 神戸・三宮の街宣活動に飛び入りで) 元自衛官(防空ミサイル部隊所属) 泥 憲和さん 突然飛び入りでマイクを貸してもらいました。 集団的自衛権に反対なので、その話をします。 私は元自衛官で、防空ミサイル部隊に所属していました。 日本に攻めて来る戦闘機を叩き落とすのが任務でした。 いま、尖閣の問題とか、北朝鮮のミサイル問題とか、不安じゃないですか。 でも、そういったものには、自衛隊がしっかりと対処します。 自衛官は命をかけて国民をしっかり守ります。 そこは、安心してください。 いま私が反対している集団的自衛権とは、そういうものではありません。 日本を守る話ではないんです。 売られた喧嘩に正当防衛で対抗するというものではないんです。 売られてもいない他人の喧嘩に、こっちから飛び込んでいこうというんです。 それが集団的自衛権なんです。 なんでそんなことに自衛隊が使われなければならないんですか。 縁もゆかりもない国に行って、恨みもない人たちを殺してこい、 安倍さんはこのように自衛官に言うわけです。 君たち自衛官も殺されて来いというのです。 冗談ではありません。 自分は戦争に行かないくせに、安倍さんになんでそんなこと言われなあかんのですか。 なんでそんな汚れ仕事を自衛隊が引き受けなければならないんですか。 自衛隊の仕事は日本を守ることですよ。 見も知らぬ国に行って殺し殺されるのが仕事なわけないじゃないですか。 みなさん、集団的自衛権は他人の喧嘩を買いに行くことです。 他人の喧嘩を買いに行ったら、逆恨みされますよね。 当然ですよ。 だから、アメリカと一緒に戦争した国は、かたっぱしからテロに遭ってるじゃないですか。 イギリスも、スペインも、ドイツも、フランスも、みんなテロ事件が起きて市民が何人も殺害されてるじゃないですか。 みなさん、軍隊はテロを防げないんです。 世界最強の米軍が、テロを防げないんですよ。 自衛隊が海外の戦争に参加して、日本がテロに狙われたらどうしますか。 みゆき通りで爆弾テロがおきたらどうします。 自衛隊はテロから市民を守れないんです。 テロの被害を受けて、その時になって、自衛隊が戦争に行ってるからだと逆恨みされたんではたまりませんよ。 だから私は集団的自衛権には絶対に反対なんです。 安部総理はね、外国で戦争が起きて、避難してくる日本人を乗せたアメリカ軍の船を自衛隊が守らなければならないのに、いまはそれができないからおかしいといいました。 みなさん、これ、まったくのデタラメですからね。 日本人を米軍が守って避難させるなんてことは、絶対にありません。 そのことは、アメリカ国防省のホームページにちゃんと書いてあります。 アメリカ市民でさえ、軍隊に余力があるときだけ救助すると書いてますよ。 ベトナム戦争の時、米軍は自分だけさっさと逃げ出しました。 米軍も、どこの国の軍隊も、いざとなったら友軍でさえ見捨てますよ。 自分の命の方が大事、当たり前じゃないですか。 そのとき、逃げられなかった外国の軍隊がありました。 どうしたと思いますか。 軍隊が、赤十字に守られて脱出したんです。 そういうものなんですよ、戦争というのは。 安倍さんは実際の戦争のことなんかまったくわかってません。 絵空事を唱えて、自衛官に戦争に行って来いというんです。 自衛隊はたまりませんよ、こんなの。 みなさん、自衛隊はね、強力な武器を持ってて、それを使う訓練を毎日やっています。 一発撃ったら人がこなごなになって吹き飛んでしまう、そういうものすごい武器を持った組織なんです。 だから、自衛隊は慎重に慎重を期して使って欲しいんです。 私は自衛隊で、「兵は凶器である」と習いました。 使い方を間違ったら、取り返しがつきません。 ろくすっぽ議論もしないで、しても嘘とごまかしで、国会を乗り切ることはできるでしょう。 でもね、戦場は国会とは違うんです。 命のやり取りをする場所なんです。 そのことを、どうか真剣に、真剣に考えてください。 みなさん、閣議決定で集団的自衛権を認めてもですよ、 この国の主人公は内閣と違いますよ。 国民ですよ。 みなさんですよ。 憲法をねじ曲げる権限が、たかが内閣にあるはずないじゃないですか。 安倍さんは第一回目の時、病気で辞めましたよね。 体調不良や病気という個人のアクシデントでつぶれるのが内閣ですよ。 そんなところで勝手に決めたら日本の国がガラリと変わる、そんなことできません。 これからが正念場です。 だから一緒に考えてください。 一緒に反対してください。 選挙の時は、集団的自衛権に反対している政党に投票してください。 まだまだ勝負はこれからです。 戦後69年も続いた平和を、崩されてたまるもんですか。 しっかりと考えてくださいね。 ありがとうございました。https://blog.goo.ne.jp/shirakabatakesen/e/40768d2be233f251b6ff75903613f0db「思索の日記-すごい説得力ー強烈な安倍首相批判=元自衛官(防空ミサイル部隊)の泥 憲和さん。」から引用 この3年前の元自衛官の主張は今も有効だと思います。これから3年以内に安倍内閣が総辞職したら、次の内閣の仕事は、自衛隊の海外派兵を可能にした「戦争法」を廃止する法律の制定であり、安倍内閣がねじ曲げた憲法解釈を元に戻すことだと思います。
2018年10月11日

大阪市からの姉妹都市提携を解消する手紙を受け取ったサンフランシスコ市の市長が、次のように声明を発表したと、5日のライブドア・ニュースが伝えている; 【ロサンゼルス=住井亨介】米サンフランシスコ市の市長室は4日、大阪市の吉村洋文市長が姉妹都市提携を解消したことについてブリード市長の声明を公表した。 声明は「1人の市長が、2都市の市民の関係を一方的に解消することはできない。サンフランシスコと大阪の姉妹都市関係は人々のつながりを通じてなお続いている」とした。 サンフランシスコ市が慰安婦像などの寄贈を受け入れて公共物化したことをめぐり、大阪市との姉妹都市関係に亀裂が入ったことに関して、「サンフランシスコは両都市の絆が強まることを願っている」と表明した。 その一方で、慰安婦像について「奴隷化と性的目的の人身売買の恐怖を強いられてきた全女性の苦しみを象徴するもの」と主張。「像によって忘れてはならない出来事と教訓を思い起こすことができる」と指摘した。http://news.livedoor.com/article/detail/15402430/ライブドア・ニュース「姉妹都市『一方的に解消できない』 サンフランシスコ市長が声明」から引用サンフランシスコ市に設置された「慰安婦像」に関するブリード市長の指摘は正にその通りであり、私たち日本人が共有できる見解であり、反対する理由はありません。まして長年続いてきた姉妹都市提携を解消しなければならない事情はないと言えます。上記のニュースに対し、ツイッターでは次のような反応がありました。このツイートは大阪市長の子どもじみた言動を批判したもので、まったくその通りだと思います。
2018年10月10日
サンフランシスコの市民団体が設置した「慰安婦像」について、大阪市の吉村市長はサンフランシスコ市長宛に像の撤去を求める手紙を出し、先方から何の返事もないことを理由に一方的に「姉妹都市提携を解消する」と宣言した。この大阪市市長の「奇行」について、コラムニストの小田島隆氏は、日経ビジネスに次のように書いている; 大阪市が、サンフランシスコ市との間で取り結んでいた姉妹都市の提携を解消するのだそうだ。 伝えられているところでは、吉村洋文大阪市長は、10月2日付けで姉妹都市の解消を決断し、その旨を公開書簡として、サンフランシスコ市長宛てに送付したのだそうだ(こちら。公開書簡やその和訳はこちらから)。 この情報を、私は、吉村市長ご自身のツイッターへの書き込みを通じて知った(こちら)。 なるほど。 姉妹都市を解消するというのは、具体的にどういう意味を持った措置なのだろうか。 「お姉妹ってことじゃないか?」 ちがうと思う。 姉妹が縁を切っても、いきなりおしまいにはならない。 そんな簡単な話ではない。 タイムラインに流れてきた市長のツイートを読んだ当初、正直な話、私は、市長の意図するところが理解できなかった。 この3年ほど、慰安婦像の設置をめぐって、大阪市とサンフランシスコ市の間でやりとりが続いていたことは承知していた。 ただ、私はこの交渉を重視していなかった。 というよりも 「どうせパフォーマンスだろ」 と思って、タカをくくっていた。 ありていに言えば、吉村市長がサンフランシスコ市議会や市長宛てに説明を求める書簡を送っているのは、コアな支持層に向けて演じてみせている軽歌劇みたいなものなのだろうと考えていた次第だ。 それが、ここへ来て、書簡への返事が来ないことを理由に、いきなり姉妹都市の提携を解消する決断に踏み切る事態に発展している。 この展開には少なからず驚かされた。 引っ込みがつかなくなって暴走したということなのだろうか。 それとも、 「ほんまにお姉妹やで」 という洒落のつもりだろうか。 起こっていることの全体像をなんとか把握できるようになったのは、各方面のサイトや情報源を当たって、そこに書いてある様々な記事を読み進めた後の話なのだが、正直なところ、いまだに疑問点だらけだ。自分の中でうまく整理できていない。 本来なら、こんな状態で原稿を書きはじめるべきではないのだろう。 ただ、読者の多くも、混乱だらけの情報源に翻弄されている点では、私とたいして違わないはずだ。 とすれば、この先、この問題についての議論が野放図に拡散するのか急展開するのか、それとも二極化して泥沼化するのかはともかく、手探りの状態でのとりあえずの感想を書き留めておくことは、無意味ではないはずだ。そう思って、現時点で私の目に見えている景色を記録しておくことにする。 最初にお断りしておくが、サンフランシスコの市有地に慰安婦像を建てることの是非について、この原稿の中で明確な結論を提示しようとは思っていない。 私自身、慰安婦像がどんなふうに扱われるべきであるのかについて個人的な見解を持っていないわけではないのだが、それを表明することは控えようと思っている。 理由は、ごく簡単かつ実務的な次元の話で、つまり、めんどうくさいからだ。 もう少し丁寧な言い方をすれば、ある事柄について相容れない見解を抱いているふたつの陣営が、その賛否の対象を「絶対に譲れない一線」として決着を争うことは、少なくとも短期的には、双方を消耗させるだけだと思っているということだ。決着を争うよりは、その対立点をしばらくの間棚上げにしておくほうが賢明だ、と、少なくとも現時点では、私はそう考えている。 だから、これ以上この話はしない。 吉村市長は、しかし、結論を急いでいる。 彼は、サンフランシスコ市に何度も手紙を書いては、その都度慰安婦像の問題へのはっきりとした回答を求め続けてきた。 ご自身も、慰安婦像について明確な見解を明らかにしている。 つまり、市長は、この問題に決着をつけたいと考えており、その考えに沿って行動している。 その結果が、この度の姉妹都市解消の決断だったわけだ。 この問題が勃発した当初から一貫して私が疑問に思っていたのは、日韓両国の間で長年にわたって争われ、いまだに決着を見ていないこのどうにもやっかいな慰安婦をめぐる問題について、一地方都市の首長であるに過ぎない吉村氏が、かくも性急な解決を求めているその理由だ。 大阪市にとって、太平洋をはさんだ向こう側の都市の一角の慰安婦像が引き起こした問題を解決することが、どんなメリットをもたらすというのだろうか。 普通に考えれば誰でもわかることだが、慰安婦像の扱いに明らかな結論を出すことは、大阪市政の改善に寄与する事柄でもなければサンフランシスコ市民にとっての喫緊の課題でもない。当然のことながら、姉妹都市として半世紀にわたって交流してきた両市民の歴史を崩壊させてまで解決を急がねばならない問題でもない。 とすればいったいどうして吉村市長は、この問題の解決に血道をあげているのだろうか。 不思議でならない。(引用者注;ここから先を読む場合は、日経ビジネスON LINEに読者登録が必要です。)https://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/100400161/?P=2日経ビジネス ON LINE 「それは大阪市長がやるべき仕事なのか」から引用 小田島氏が言うように、サンフランシスコ市に慰安婦像が設置されたからといって大阪市民の生活には何の影響もないわけで、大阪市長の「撤去要求」には何の根拠もないのですから、手紙を受け取った相手も「意味不明」と思うしかなかったものと想像されます。また、吉村大阪市長も慰安婦問題に対する理解に乏しく、慰安婦像が日本を誹謗する目的で設置されたと曲解している点も問題です。慰安婦像の設置が話題になったころ、インタビューに応えた市民団体は「像の設置は日本批判を目的にしたものではなく、同様の悲劇が繰り返されないようにとの願いを込めたものだ」と説明しており、私たちはその説明を素直に受け入れて、悲劇を繰り返さないようにとの願いを共有するべきです。吉村市長の「撤去要求」は、例えて言えば、アウシュビッツの収容所跡を歴史遺跡として保全しているポーランド政府に対してドイツが「国の名誉を毀損する」などと言って撤去を要求するのと同じであって、歴史修正主義者のそしりを免れません。大阪市民は吉村市長に自制を求めるべきだと思います。
2018年10月09日
安倍長期政権が保守系の週刊誌からも反発を招いていると、月刊『創』編集長の篠田博之氏が、9月30日の東京新聞に書いている; 自民党総裁選の舞台裏を書いた『週刊新潮』10月4日号「新聞テレビが報じない『総裁選』の遺恨十年」が面白い。 9月20日の投票の様子を自民党関係者がこう語っている。「投票用紙に安倍晋三と書いたかどうかは、”三”と書くときの腕の動きで分かる。側近議員は、それを監視することにより、安倍支持を表明していた議員たちがちゃんと安倍さんに投票しているかどうかをチェックしていた」 出陣式でカツカレーを食べた議員数より安倍総理が獲得した議員票数が少なかったという「カレー食い逃げ事件」はさんざん報道されているが、同記事によると、安倍陣営は投票前から、裏切る可能性のある議員をマークしていたという。匿名の政治部デスクがこう語っている。 「実は、安倍陣営は秘書などのスタッフを全国に派遣して、裏切りが疑われる議員の動向を監視させていました。そして、そのスタッフから、集会への参加不参加や電話作戦への力の入れ方を報告させ、締め付けを強化していたのです」 『週刊新潮』は保守系の雑誌だが、この記事では安倍総理側近の動きを「ゲシュタポもかくやというそんな監視体制」と書いている。三選は果たしたが、「安倍一強」への反発はこういう週刊誌報道にも現れていることを、安倍政権は肝に銘じるべきだろう。 ついでながら、その『週刊新潮』で驚いたのは「『化粧品』と『肌ダメージ』の商品リスト」という記事だ。 「食べてはいけない食品リスト」など、一連のキャンペーンの一環だが、この記事のターゲットは明らかに主婦層だ。つまり同誌は、これまで獲得していなかったその層に目を向けているわけで、週刊誌がいかに苦労しているかを物語る事例だ。 幾つかの週刊誌が樹木希林さんの追悼記事を載せているが、『アエラ』10月1日号のエピソードが面白い。同誌のインタビュー依頼に、希林さんは「老いや死をテーマにした取材依頼がいっぱいきて困っちゃうのよ。全部お断りしているんです」と言った後、こう続けたという。「死んだことないからわからないのよ」。彼女のこういうセンスは素晴らしかった。冥福を祈りたい。(月刊『創』編集長・篠田博之)2018年9月30日 東京新聞朝刊 11版 27ページ 「週刊誌を読む-『安倍一強』保守系誌も反発」から引用 安倍陣営が全国の県連事務所にスタッフを派遣して裏切りが疑われる議員を監視するとは、まるで徳川幕府が各藩に隠密を派遣して不穏な動きがないか探らせるようなもので、民主主義を標榜する社会にあるまじき事態と言えます。何が何でも憲法改正の発議をしたいという執念の現れかも知れませんが、改正するには国民の同意が必要であるということを、安倍氏は考えるべきでしょう。味方であるはずの保守系週刊誌が反発するようでは、考え直す必要があるというものでしょう。
2018年10月08日
「新潮45」が休刊になった事件について、法政大学教授の山口二郎氏は9月30日の東京新聞コラムに、次のように書いている; 雑誌『新潮45』が、LGBT差別を正当化する特集を組み、批判を浴びて休刊になった件。差別擁護の駄文を書いた当の評論家が、これは言論弾圧だと息巻いている。へそで茶を沸かすとはこのことだ。 生意気盛りの若者のころ、自由を主張して大人社会を批判したときに、自由には責任が伴うとか、一定ルールの中で自由は存在するという説教を何度か聞かされたことがあった。そういう説教をするのは保守的な大人であった。例の評論家は真正保守を自称しているが、無責任に偏見をまき散らすことを自由と思い込むのは、保守ではない。 立場や思想は違っても、人間の尊厳を守らなければならない、うそ偽りを述べて他人を攻撃してはならないというルールは、言論の自由の大前提である。人間の尊厳を否定する極論を、いろんな意見があると許容することは、結局社会を破壊し、自由を崩壊させることにつながる。 この騒動の源は、杉田水脈衆院議員がLGBTへの差別を公言したことである。自民党総裁選の際のテレビ討論でこの件についての感想を問われた安倍首相は、自民党には多様な意見があると述べ、杉田発言を許容した。親分が言論の自由を理解していないのだから、その取り巻きにいる幇間連中が調子に乗って放言を繰り返すのも必然である。これは日本社会の危機である。(法政大教授)2018年9月30日 東京新聞朝刊 11版 27ページ「本音のコラム-言論の自由」から引用 「新潮45」は政府の命令で休刊したわけではありませんから、これを言論弾圧というのは言葉の誤用というものです。実際のところは、非常識な差別表現が読者の批判をあびて、企業存続の危機を感じた経営者が自発的に判断して休刊にしたというのが実態であり、新潮社が弾圧を受けたわけではありません。自民党総裁選のテレビ討論では、杉田議員の発言を容認する安倍首相とは対照的に石破議員は厳しい認識だったように記憶してます。この辺の違いも党員の皆さんには重視してほしかったと思います。
2018年10月07日
教育勅語を教材として使用することが何故いけないのか、去年の3月の毎日新聞・社説が明快に論証している; 学校法人「森友学園」が運営する幼稚園で園児が唱和し、稲田朋美防衛相らが評価する戦前の教育勅語は戦後、否定された。 にもかかわらず、それに固執し普遍的な価値があると擁護する言動がおさまらない。教育勅語の何が問題だったか。改めて整理したい。 明治天皇が「臣民」とされた国民に守るべき徳目を説いたのが教育勅語だ。学校での朗読が強制され、天皇の写真とともにまつられた。 天皇制支配を確固たるものにする過程で国家神道とともに精神的支柱とされ、国家総動員法を経て軍国主義を推進するテコとなった。 その核心は次の一節から分かる。 「万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧(ささ)げて皇室国家のためにつくせ」(文部省「全文通釈」より) 国の非常時には天皇のために命を懸けよ--という意味だ。天皇を頂点とする国家主義の思想である。 敗戦後、天皇を「象徴」とする国民主権の新憲法ができ、民主教育に転換する教育基本法が制定された。衆院は勅語の排除、参院は失効確認の決議を採択した。 教育基本法制定で失効し、決議でそれを確認したことは歴代内閣が受け継いでいる。保守的だった中曽根内閣でも私立高で教育勅語が朗読されていることに遺憾の意を示した。 こうした経緯があるにもかかわらず稲田氏は国会で「日本は道義国家を目指すべきだという教育勅語の精神は取り戻すべきだ」と答弁した。 「道義国家」を「高い倫理観で世界中から尊敬」される国と稲田氏は位置づけるが、歴史の教訓を軽視するなら世界の尊敬は得られまい。そもそも「道義国家」ということばは原文にはない。 戦争への道を後押ししたという「一面的な考え方はしていない」とも述べた。自衛隊を預かる身として勅語が軍国主義に組み込まれた事実をどう考えているのか。 決議は占領下のことだったなどとして教育勅語を再評価する政治家は過去にもいた。田中角栄、森喜朗両元首相もそうだ。擁護派は「勅語には時代を超えた普遍的な哲学がある」として、親孝行や家族愛などを挙げる。 しかし、こうした徳目を実行することで「天壌無窮の皇運」(永遠の皇位)を助けよ、と求めているのが教育勅語の本質だ。一部だけを取り出して教育勅語を肯定的にとらえるのは問題をすり替えている。 家族愛などの徳目は大事だ。しかし教育勅語を持ち出すまでもなく自分のことばで語ればいいことだ。天皇が国民に強制するという教育勅語の構図が、国民主権と相いれないことを再確認する必要がある。2017年3月16日 毎日新聞朝刊 「社説-教育勅語 国民主権と相いれない」から引用https://mainichi.jp/articles/20170316/ddm/005/070/044000c 教育勅語を擁護する人々が主張する「良いことも書いてある」は、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ」という部分のことである。しかし、この部分だけを取り出して「これが教育勅語だ」ということはできない。「勅語」というからには「朕惟フニ」という語句は欠かせないし、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」も削除することはできない。もしこの二点を削除してしまえば、それはもはや「勅語」ではなくなることは誰もが認めるところであって、だからこれは学校の教材にすることは許されないということになるわけである。
2018年10月06日

教育勅語は明治時代の政府が定めたもので、封建時代の君主に仕える家臣の心得を明治風にアレンジして国民が天皇のために命を犠牲にするようにとのイデオロギーを押しつけたもので、戦後の議会で否定されたのは当然のことでした。しかし、それから70年も経って政府が歴史教育に不熱心だったせいで、最近は「部分的には良いことも書いてある」などと言ういい加減な言説が取りざたされるようになり、下記のような注意を喚起するツイッターが呟かれるようになりました; つい最近も新任の文部科学大臣が「教育勅語の現代風アレンジ」を検討に値するなどと暴言を吐いてますが、メディアはこれを看過することなく責任を追及するべきと思います。
2018年10月05日

加計学園からパーティ券購入の名目で現金を受け取った下村議員とか同じく業者から現金を受け取ったとされる甘利議員とか、問題をうやむやにしてほとぼりが冷めるのを待っていたかのように、第4次安倍内閣で重要ポストを担うことになったこの度の組閣の陣容について、評論家の内田樹氏はその印象を次のようにツイッターしている; 国家戦略特区の許認可権限を持つ総理大臣が、いくら友人とは言え特区申請者である加計学園理事長と何度もゴルフをしたのはまずかったのではないかと問われて「何故ゴルフがいけないのか、テニスや将棋ならいいのか」と発言して「反論」したつもりになってる人物ですから、「ノーガードでのどづきあい」という表現は実に「言い得て妙」である。
2018年10月04日
MOX燃料再処理を断念したのかしてないのかを論じた昨日の蘭の記事の続きは、そもそもMOX燃料を再処理することに何の意味があるのかという基本的な部分を、次のように論評している; ところで、MOX燃料の再処理は実現可能なのか。可能だとしても、やる意味があるのか。 「使用済みMOX燃料は通常の使用済み核燃料よりむずっと危険度の高い厄介な存在。しかも再処理しても、燃料として使える部分は少ない。無理して再処理する意味はないと思う」。そう語るのは、放射性廃棄物処分に詳しい神奈川工科大の藤村陽教授(物理化学)だ。 MOX燃料は通常の核燃料より、放射線を出し続ける期間が長い超ウラン元素が多く含まれており、発熱量は約4倍にもなる。MOX燃料が取り出し後50年たった通常核燃料と同程度に冷えるには、300年かかる。使用済みMOX燃料の中性子線は通常の使用済み核燃料の10倍で、安全に保管するなら中性子線を遮断する水中で冷やしておくしかないが、50~100年単位で水冷可能なプールなど実現は考えにくい。 藤村教授は「発熱量も放射線量も厳しい条件となるため、MOX燃料は、通常核燃料よりも再処理時に出る放射性廃棄物を処分するには圧倒的に不利になる。また、使用済みMOX燃料は最初からプルトニウムが含まれているため、使用中に核分裂性でないプルトニウムが大量に含まれる(高次化)ようになり、再処理してこの汚れたプルトニウムを再びMOX燃料化して利用するのは現実的ではない」と指摘する。 にもかかわらず、使用済みMOX燃料を再処理してまたMOX燃料として原発で燃やすプルサーマルーサイクルについて、政府は無限リサイクルが可能であるような表現を続け、実際にそれで原発のコスト計算をしてきた。 原子力資料情報室の伴英幸共同代表は「政府や電力会社は、再処理工場からMOX燃料加工工場、原発へとずっとグルグルと回り続けるかのような図を描いてきたが、実際には一回ぐるっと回ることさえ不可能だ」と指摘する。 政府は、MOX燃料再処理を手がける場合、新たに「第二再処理工場」を建設し、そこで再処理するとしてきた。 世耕氏がこれほど力んで「MOX再処理」を叫ぶ以上、政府はこの新工場を建設する方針を固めたかのように見えるのだが、伴氏は「技術面、コスト面、政策面から見ても、第二再処理工場はとうてい不可能だ」という。 そもそも通常の核燃料を再処理する六ヶ所再処理工場でさえ、1993年に着工して以降、稼働前からトラブルが続出。建設・運営する日本原燃は昨年、24回目の完成延期を発表した。当初7600億円だった建設費は約3兆円にまで膨らみ、総事業費は、13兆円に上る見通しだ。 この上、通常の使用済み核燃料よりはるかに厄介な使用済みMOX燃料を再処理する第二再処理工場を完成できる、とはとても信じられない。実際、使用済みMOX燃料を商業レベルで大規模に再処理した国はない。 一方で、国内外で長崎に投下された原爆6千発分・47トンのプルトニウムを持つ日本は、プルトニウムを削減するよう世界から圧力をかけられており、エネルギー基本計画でも初めて「プルトニウム削減」を言明せざるを得なくなった。 核燃料サイクルのもう一つの柱だった高速増殖炉「もんじゅ」(福井県)を廃炉とし、大規模にプルトニウムを燃やす場がなくなった日本としては、プルサーマルで既存のプルトニウムをMOX燃料として消費していくしか道がないが、MOX燃料を再処理してプルトニウムを取り出してしまったら、せっかく減らしたプルトニウムをまた増やすことになる。 あらゆる意味で無駄としかいいようがないMOX燃料の再処理。伴氏は言う。 「世耕氏の怒りは、核燃料サイクル全体の行き詰まりを糊塗(こと)せざるを得ない原発推進側の焦りが背景にあるのではないか。もう矛盾は明らかなのだから、政策を転換すべきだ」<デスクメモ> 「MOX再処理断念」報道に対する経産相の反論も、背景を調べてみれば、何ともうさんくさい。もんじゅが廃炉となり六ヶ所再処理工場さえまともに動かせない日本の技術力で、MOX再処理工場など言語道断だ。原発事故後の現実世界で、いつまで愚かな夢物語を見ているのか。(典)2018年9月23日 東京新聞朝刊 11版 25ページ 「核燃サイクルとっくに破綻」から引用 使用済み核燃料を再処理してMOX燃料にすれば厄介者のプルトニウムを消費できるから、これは必要な工程であるかのように言う知ったかぶりの発言が多かったように思うが、実際は再処理するともっと厄介なシロモノになるというのだから、もはやなにをか言わんやである。完成する当てもない再処理工場建設にこれから先、何年国民の税金を注ぎ込むつもりなのか。いずれ日本政府は原子力行政の「破綻」を宣言しなければならない局面を迎えることは100%間違いないと思います。そのときは一体だれがどのように責任を取るのでしょうか?
2018年10月03日
今月初めに一部のメディアが「MOX再処理断念」を報道すると世耕経済産業大臣が強く否定したとのことで、その背景について9月23日の東京新聞は、次のように報道している;使用済み核燃料を再処理してリサイクルしたプルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料。政府は、通常の原発でMOX燃料を利用するプルサーマルを「核燃料サイクル」の柱の一つとして進める一方、「使用済みのMOX燃料」を、さらに再処理するかどうかについては方針決定が棚上げされてきた。福島原発事故後、プルサーマルの先行きさえ不透明なのが現実だが、今月上旬、この問題をめぐって「MOX再処理断念」と報じられると、世耕弘成経済産業相は猛反発し、「MOX再処理」に固執した。なぜか。背景を探った。(大村歩) 「事実に反する報道。当該媒体に対しては直ちに厳重に抗議した」 4日の閣議後記者会見で世耕経産相は、こうまくしたてた。世耕氏がやり玉に挙げたのは、共同通信が2日に加盟社に配信した「MOX燃料の再処理断念」という記事だ。 原発を持つ電力会社10社は従来、通常の核燃料とMOX燃料の再処理費用をそれぞれ区別して、引当金を積み立ててきた。だが、2016年度以降、両者を区別せずに政府の認可法人「使用済燃料再処理機構」に拠出金として支払うようになった。区別されていない以上、その拠出金は事実上、一般の使用済み燃料からウランとプルトニウムを取り出すための施設・六ヶ所再処理工場(青森県、未完成)に使われる。だが、同工場ではMOX燃料の再処理はできない。従って「MOX再処理」は資金面での根拠を失い、断念したことになる-という内容だ。本紙も3日付朝刊で報じた。 これに対し、世耕氏は5日、ツイッターで「『事実上現在の再処理工場に使われる』と言うが、今はMOX再処理工場が無いのだから当然。しかし機構は将来のMOX再処理も含め総額費用算定し、長期計画を立てている」と反論。つまり今後、MOX再処理に向けた具体策が動きだせぱ、そちらに資金が回るため、「MOX再処理の『資金面での根拠を失っ』たことにはならない」というわけだ。確かに会計上、通常核燃料とMOX燃料を同じ「使用済み核燃料」と仕訳しただけと言えなくもない。 これについて、核燃料サイクルをめぐる会計問題に詳しい日本大の村井秀樹教授(会計学)は「世耕氏の主張は、政府の論理としてはぶれていない。使用済燃料再処理機構、それを根拠づけた再処理等拠出金法は、とっくに破綻している核燃料サイクルの存続ありきで会計基準を定めたのだから」と指摘する。 どんな会計基準か。村井氏によれば、日本政府は1970年代以降、「使用済み核燃料を再処理して取り出したプルトニウムの価値は再処理費用を上回る」ことを前提にしてきた。電力会社もこの前提に基づき、使用済み核燃料を「資産」として計上してきた。しかし、80年代から政府内でも、「再処理費用の方がプルトニウムの価値を大幅に上回る」との指摘が噴出。その結果、再処理費用のための引当金制度が導入された。こうした経緯があったにもかかわらず、プルトニウムが「資産」という扱いは、現在もそのままだという。 「実態は使用済み核燃料を価値ある資産とは言い難いが、会計上、資産と言い続けないと再処理の意義が崩壊する。だから使用済みMOX燃料にも資産価値があるとして、再処理し続けることにしないといけないのだろう」(村井氏)2018年9月23日 東京新聞朝刊 11版 24ページ 「MOX再処理 固執する政府」から引用 事実上価値ある資産とは言い難い「使用済み核燃料」を「資産である」と言い続けなければならないというのは、当事者にしてみれば中々苦労の多いことと思います。しかし、再処理できる当てもないのに、将来可能になるはずだからと言って「資産計上」するというのは、なんだか粉飾決算みたいなものではないのかなぁと素人ながら考えてしまいます。なにしろ、そういうことにして辻褄を合わせないと、六ヶ所村に持ち込んだ「使用済み核燃料」を元の場所に戻せと青森県当局から言われかねないのですから、世耕大臣も神経ピリピリさせてるわけですね。
2018年10月02日
杉田水脈論文を擁護する特集を組んで炎上した「新潮45」が休刊を発表する直前の22日の東京新聞で、新潮社から作品を出版している作家の星野智幸氏は次のように述べている; 性的少数者(LGBT)を「生産性がない」と表現した杉田水脈衆院議員(自民党)の寄稿を掲載した月刊誌「新潮45」が、さらに最新10月号(18日発売)で寄稿を擁護する特別企画を組む中で偏見に満ちた原稿を載せたとして、作家らが批判の声を上げている。発行元の新潮社は21日、社長名で釈明のコメントを発表。だが、そもそも何が問題なのか、コメントが出る前日の20日、同誌を批判している作家の一人、星野智幸さん(53)に聞いた。(小佐野慧太、谷岡聖史、樋口薫)――ツイッターなどで積極的に批判の投稿をしている。 LGBTの存在を否定するような一連の寄稿の内容はもちろん、掲載されたのが社会的地位のある新潮社の雑誌だったということは大きな問題です。ヘイトスピーチ(憎悪表現)に準ずる差別的暴言に権威が与えられてしまう。LGBTの知人や友人は、激しい怒りと恐怖を感じています。 出版業界は全体的に厳しい状況です。売れるためなら、毒にでも手を出して、自滅に走っているような側面がある。――言論の自由という意見もある。 言論ではなく、「暴力」です。ヘイトスピーチが人権侵害だというのは散々議論されてきたこと。それを許せば、逆に自由な社会は築けなくなる。 こうした感覚は差別を受けてきた当事者や支援者、差別問題に取り組んできた行政関係者-つまり現場の人には共有されていると思います。ただ、一部の大手出版社にその感覚が薄い。これまで差別の現場に無関心だったからでしょう。――星野さんは新潮社から出版した「焔」で今年、谷崎潤一郎賞に選ばれた。 自分がそこから作品を出して、賞までいただいたことを恥ずかしく感じるような状況にはなってほしくない。 新潮社の中でも、これまで私か一緒に仕事をしてきた編集者たちは、今回の特集を歓迎していません。そういう人たちの声を大きくしていけるように、作家として共同歩調を取りたい。――星野さんをはじめ、多くの作家が批判の声を上げている。 これまでが低調だったのかもしれません。言論というのは作家たちの現場なので、もっと声を上げていくべきなんです。 ほしの・ともゆき 1965年生まれ。2000年「目覚めよと人魚は歌う」で三島由紀夫賞を受賞。2018年9月22日 東京新聞朝刊 12版 28ページ 「差別的暴言に権威与える」から引用 この記事のポイントは、杉田水脈議員の「新潮45」への寄稿が「言論の自由」ではなく「暴力」だったという点だと思います。仮に「あらゆる意味の言論表現が自由であるべき」という主張があったとしても、私たちの社会のルールは「公共の福祉」優先ですから、一方の「言論表現」が他方の正当な権利を損なうということになれば、これを「規制」するのは当然です。新潮社がその辺の議論を一切割愛して、いきなり「新潮45」休刊を発表して、それで何も無かったことにするのは残念なことで、私たちの社会に似たような事件を繰り返すことのないように、議論をもっと深める必要があると思います。
2018年10月01日
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