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〇義母が転院した頃の想い出。 *この病院はまだ新築で医師も事務員さんも看護婦さんも笑顔で迎えて下さいました。 *玄関口の駐車場から眼下に広がる京都の町は、晴天のもと、輝いています。 * 大きな荷物は動く荷物台に乗せ、義母は緊急治療室で簡単な検査やX線撮影の後、三階の病室に運ばれました。 *病院の至るところには立派な額縁の画が飾られて居、中庭もある明るい病棟です。 * 同室には2人の患者さん、義母は運良く窓際のベッドでした。奇麗な木製のロッカーの下段は小さな冷蔵庫。 *ベッドを仕切るカーテン地も明るい柄でした。出入り口には洗面台もあって、程好い広さでした。 * * 義母には、先ほどまで入院していた病院との違いがわかるのか、すこぶる上機嫌で、何と昼食は、明るい食堂兼休憩室で頂きました。 *瞠るかすれば比叡山や東山、京都タワーも市内に聳えています。・・・この病院で亡くなるなんて考えられもしない楽天地。 * * 私は途中で病院を抜け、すぐそばの山道を歩きました。 *「竹の径」と名付けられたこの小道は嵯峨を彷彿させる竹の垣根が右、左にうねっています。 *もう11月も末だと言うのに、空には鰯雲さえ広がっています。 * 鉛筆のかぶせ程に小さくなったジェット機が大空を渡って行きます。数分前に通った別の飛行機の道筋が併行して残っています。あんな大空にも「路」があるんだぁ。 * 爪先上がりの竹の径をランラン上っていくと、竹やぶの笹はまだ緑色に揺れ、温かい太陽が「かくれんぼ」しています。 *「いないない ばぁ~~」 嬰子をあやすかのように、竹やぶの笹から太陽が見えたり隠れたり・・・・。 * 義母の肝臓の表面には癌が大きく成長していて、その腫れた部分がやがて爆発してしまいます。 *一瞬の内に肝臓もろとも胎内に血液が充満して即死状態になるのだそうです。 *・・・痛みを感じないで、それほど苦しまないで義母が天国に旅立つのなら・・・・。 *終焉の場所が、こんなに明るく、優しさに包まれた環境の中なら、それでいいじゃないか と思ったのでした。 *時の流れは容赦なしで、義父も義母も義弟さえ、既に鬼籍の人となっています。
2017.11.30
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〇前身は京大俳句、京鹿子の創始者:野風呂の句碑は乙訓の浄土宗西山派総本山:光明寺の閻魔堂近くに建っています。 浄土門ここに始まる照紅葉 鈴鹿野風呂紅葉の頃は有料で五百円要りますが、毎日押すな押すなの盛況ぶりです。 混雑を避ける為、浄土門を潜った時から往きは右側、復りは左側に決められていますので、野風呂句碑は背面にある勘定になり気付いて下さる人は少ないのかも知れません。もう1時はとっくに過ぎていましたので、食べ物で賑わうコーナーを最優先。可なりの弁当が売り切れになっていました。”木多井”という銘柄の弁当千三百円を選び、菩薩堂にて頂きました。 本堂では丁度読経が終わったばかりでしたが、枯山水の庭まで拝観してから光明寺を後にし、門前の竹細工店でつくばい用の柄杓を購入、ついでに種苗店で鉢物二つを買い入れました。 喫茶店で寛いだあと、済生会病院前のバス停から百五十円の緑バスに乗りました。小型のバスは乙訓地区を巡回するもので、細い路も何のその、山道をぐいぐい駆け登り、ぐるりと小回りする優れものでした。
2017.11.29
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〇京都に根を下ろした京鹿子結社は10年前の12月号で通算1000号の月間誌を発行するに至りました。思えば大正9年の創刊以来、累々と築いてきた証の記念号となりました(今年の12月号は通巻1120号)。 1世紀に近い歴史を背負って戴いた先人諸氏、それを受け継いできた現会員の俳句に対する真摯な熱情の一つの区切りとなりました。 身内だけでその健闘を讃えようと一堂に会し、生前の都峰主宰の旧来の友である坪内稔典さんをお招きし、ユーモラスな講演を皆して拝聴しました。 矢張り、氏のたまうこだわりの姿勢が名句の拠り所になると再認識した次第です。趣味の世界での清い付き合いがあったればこそ、確実な足跡を残して来られたのだと、その意気をお互いに祝した祭でした。東京オリンピックの年には創刊百周年の大会になり、今から楽しみにしています。
2017.11.28
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〇小冊子「きようと」No50号から、読売新聞記者にして作家の明田鉄男さんの「百年前のお正月」という一文を参考に、元治元(1864)年の京都にスポットを当ててみましょう。< >内はほぼ原文、( )は私の補足・アレンジ。 ご周知のように京都は古来より宮処(ミヤコ)のあったところ。都ながら覇権争いの渦中にあって戦火の絶えないところでした。 * だから京の人々は或る意味戦慣れしていたし、積立金を扱う信用金庫が今も根強いのは一大事に備える京町人の知恵だとも推測しています。 * * <文久2、3年のころは勤王、佐幕入り乱れての大混戦。京の街は毎日のように首や手足がころがり、 * 三条大橋西詰めには青竹に突き刺した生首が、捨て札という罪状板とともに陳列されていたのだが、市民は老若男女を問わず、平気で見物に行った。 * 「きょうの首は男前どしたエ。かわいそうになァ、切り口が三太刀半どした」などと先斗町の舞妓がさえずりあった>ようです。あの有名な「池田屋の変」は元治元年6月5日(新暦では7月16日)の宵宮、午後10時すぎから2時間要したとか。 * 当時の元日の四条大橋を古文書から再現すると、 * <橋幅わずかに4間と2尺(7.878メートル)。それでも東詰には南座もあり、まっすぐ突き当りには、 * 現在のと全く同じ八坂神社の西門があり、途中南側の「一力」も今と同じもの。西の方へ足をめぐらすと * 木屋町(車が1台も通らない)に高瀬川(今より少し深かった)。バーもネオンもない。 * 四条河原町まで来たが、これは恐ろしくさびしい。河原町通は幅2間半(4.545メートル)。北へ曲がると * 右は各藩邸、左はお寺としもたやとわずかな商店ばかり。すべて灰色と茶色でなんとも殺風景である。> * 洋装の薩摩兵の1小隊が通ります。士官は靴で兵は草鞋。それらを羨ましそうに見るのは、討幕運動に挺身した筈の浪人たち。 彼らは大詰めの晴れ舞台になった途端に除け者にされた総髪の貧乏武士。女性はと言えば、ひっつめた束髪姿がほとんどで、 * 一方、高島田の粋なのは芸妓たちで、髪にめでたい稲穂を垂らせ、黒紋付きの抜き衣紋姿がさっそうと歩いていたと思われます。
2017.11.27
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〇知らなくても済みますが、知っていると生き字引と崇められるかも知れません。 国の名の漢字です。( )内は私からのヒントです。 1)和蘭(安土時代の貿易国) 2)瑞西(中立国) 3)西班牙(風邪が流行る) 4)白耳義(耳はルと読む) 5)芬蘭(中国ではフェァン) 6)瑞典(後半はデン) 7)希臘(オリンピック) 8)波斯(絨毯は高級) 9)新西蘭(ニュージ) 10)諾威(こんなクイズに乗らなきゃ良かった、ウェ~ン) 11)丁抹(前はデン) 12)埃及(字の如くホコリっぽい) 13)亜爾然丁(男の子だもん無いと困るわさ) 14)濠斯太剌利亜(気候が日本と逆)だいたいの方はご存知。
2017.11.26
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〇与謝野鉄幹という人物は余り誠意の無い人間だったようで、同時に幾人もの女性を誑(たぶら)かせて居たようでした。 *まるで自分が業平の生まれ変わりのように、世間を憚からず吹聴していましたし、「星の子」とも称していたようです。 * 彼の場合、文学誌の主宰という立場を利用して、嫁入り前の女性に甘い言葉をかけ、晶子たち女性の恋心を掻き立たせ煽っていたようで、 *その前に同じ方法で得た滝野という妻の実家から金をせびり取り、子を産ませ、約束の婿にはならず、婚姻も無しに離縁されたようです。
2017.11.25
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〇永山久夫さんが書かれた「たべもの日本史」はイラスト入りの本で、どの頁を開けても興味深い内容で埋められています。 * 土器を持たず野生動物の肉への依存度の高かった旧石器時代から、煮炊き用の土器を使った縄文時代の様変り。 *魚や貝類、鳥・猪・鹿などの肉にアミノ酸の溶けだした旨味をも知ることになりました。 * 縄文期の後期から弥生時代にかけて稲作が渡来し、胡麻蕎麦、黍、里いもの栽培など、食は多様化して来ます。 * それが証拠に、古事記には、稲、栗、小豆、麦、大豆の五穀が記載されています。 * 20世紀末に発掘されたのは、幅40m、長さ1Kmにもわたる東京都北区の中里貝塚で、カキが養殖されて居たことがわかりました。乾燥させて物々交換用の商品にしていたようです。
2017.11.24
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〇相も変わらず、佳句に恵まれませんが、一応記録しておきます。〇じやがいもや坊主頭の早死にす△六歌仙の傍に鎮座の龍田姫 襲kasaね色迷うておはす龍田姫 俳句では春の女神を佐保姫、夏は筒姫、秋は龍 田姫、冬は宇津田姫と詠んで季語にしています。 大琵琶の黒子hokuroの島や鵙日和 龍田姫とドリップ珈琲啜る椅子 鯖雲やトレモロといふ指使い〇松手入れお国訛りが茶を啜る◎昭和へと針巻き戻す敬老日 下剋上平成の世の野分雲 斬新なポスターの呼ぶ芸術祭 船首図の港都KOBEの芸術祭 金メダル獲るまで三年mitose鷹と化す オリンピックのメダリストは常人とは根本的に 異なる修行者と言えましょう。 鷹狩や信長公は高転び 安国寺恵瓊が予測した通り、信長公は志半ばに て逝かれた。 五右衛門も死すれば佛石蕗明かり〇盗人も覇者も同墓地秋の聲 結社の法事を行う大雲院の墓地には、信長親子、 石川五右衛門、磯田多佳が眠っています。
2017.11.23
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〇わたし達はいつも何かを求めながら生きています。食べる物と寝る場所さえあれば最低限生きて行けますが、 *それだけでは犬畜生と変りませんので、人間らしいプラスアルファを求めているのでしょうね。 * 最近の女性は外国製のバッグなどに憧れているように見受けられますが、そのバッグを手に提げるに相応しい雰囲気、教養、人間としてのセンスを具えていないと高級バッグとはアンバランスの関係になってしまいます。 * 金さえあれば、金を支払えば簡単に手に入るものは宝物ではありません。野球界なら新人賞とか年間MVPとかベストナインに名を連ねる名誉が宝物でしょう。これらは運と努力無しでは手に入れることが難しいから。 * でも、郷里の美しい山や川、畑の産物、海で捕れる魚介類も本当は宝物なのかも知れませんし、 *自分を大切にしてくれる知人・友人・家族も又と得難い宝物なのでしょうね。
2017.11.22
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〇十年前の某日、二十数人乗りのワゴン車にて川端通りを北上、高野から花折へと山道を登り降りすれば朽木。367号線から303号線へと走り続けると滋賀から福井の県境。やがて熊川宿に着きました。 二列に並ぶ住宅の前には水嵩も豊かな水が迅く流れ、鯖寿司だの大き目の小豆だの、焼さば寿司だの、へしこなど山海の産物を並べる店々を覗きこみながら牛歩の時間。 水流を利用した芋洗い器は竹製の水車のようなものですが、歯車の内側の箱部分で芋を洗う道具で、俳句サークル向きに、地元のガイドさんが「芋水車」とか「芋ぐるま」とか五文字で教えて下さいました。 羽賀寺の女性ガイドさんは、私達が俳句のサークルと知って、芭蕉の句碑や著名な俳人の句碑についても言及して下さいました。小浜の一部の寺の屋根は、ひわだ葺きの入母屋造り。 奈良二月堂のお水取りの出発点として十日前に行われるお水送りの儀式で有名な「神宮寺」は文字通り神仏混合、本殿には六つの神と薬師如来を平等に祀っています。 明通寺の本堂、三重塔はいずれも国宝、降三世明王・深沙大将の彫刻の出来映え、その他の寺も、十一面観音さまや十二神将、二十四面観音さま、薬師如来など重要文化財の宝庫でした。 出来映えの良い彫刻は人間のこころの中にぐう~と迫ってこられる勢いがあります。
2017.11.21
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〇某年11月、資料館当番の折、表具商のご夫婦が館内に来られ、利休が造ったとされる国宝「待庵」の復元茶室へ一目散。 何でも名古屋のとある会場で屏風で拵えた茶室が展示された感化もあって、本職の表具の技で是非ともこの「待庵」を原寸の1/2の大きさで拵えたいと言う夢を持って居られました。現館長のF氏に立ち会って貰い、参考になりそうな諸資料のコピーをお持ち帰り戴きました。素人には思いつかない話でしたが、さてさて、屏風で拵えた「待庵」は出来たのでしょうか?
2017.11.20
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〇古い成語に「武士は食はねど高楊枝」(武士が清貧に甘んじていてもプライドを重んじた)というフレーズがありますが、戦後の空腹を *”ひもじさと 寒さと恋を くらぶれば おはもじながら ひもじさが先” という歌もあります。 元来、”ひだるい”という言葉を”ひもじい”と高貴な女性の言葉に直しました。ほの字(好き)、はの字(恥ずかしい)など、京言葉にも一部残されています。桂に居た幼年期、親戚や知り合いの結婚式などの祝宴に参加した父が、折り詰めを持って帰ってくれた時の我等子供達のはしゃぎようは尋常ではありませんでした。 *それほど美味しいものには飢えていました。これらを”おみおり”と表現しました。お土産の折り詰めの意味でしょうね。 * 人の足を丁寧に言うとすれば、”お足”になりますが、既にお金を”おあし”と言っていましたので”おみあし”。味噌汁を”おみおつけ”とは、随分丁寧に表現したものですね。
2017.11.19
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〇戦時中の父すばるの日記には、ラジオ放送に合わせて「国民カルタ」をした旨書かれている部分があって、 それがどんなものなのか不明でしたが、歌人で元東洋大学学長の神作光一さんの著 「百人一首の文化史」の中に、「愛国百人一首」(西田王堂筆・榊原子恭画)を説明されて居られます。 それによると<昭和18(1934)年、国民出版社発行。日本文学報国会選定、協力毎日新聞社。「愛国百人一首」は、昭和17年11月20日に情報局から発表されました。その選定委員は 佐々木信綱・斎藤茂吉・北原白秋・・・折口信夫・・・川田順ら12人の歌人。この「愛国百人一首」は”国民精神作興といふ目的を持って”選定されたものです。ちなみに、川田順氏の「愛国百人一首評釈」(朝日新聞社、昭和19年12月刊)及び 「愛国百人一首かるた」(日本教育玩具製造株式会社、昭和17年12月刊)などの資料の存在も知られています。>とありました。 さて、柿本人麻呂大君は神にしませば天雲の 雷の上に廬(いほり)せるかもを皮切りに、以下ラストの橘曙覧の 春にあけてまづ看る書も天地も はじめの時とよみ出づるかな まで百首。興味を持ったのは、禁門の変の頃、大山崎にて尊王攘夷派として活躍した真木和泉守の大山の峰の岩根に埋めにけり わが年月の日本(やまと)だましひ「大山崎ふるさとガイドの会」の皆さん、こんな発見も嬉しいですね。
2017.11.18
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〇トリス、現在のサントリー発行の小冊子「洋酒天国49巻」には 豪勢な世界旅行に飽き飽きしたお金持向けの旅行案内がジョークを兼ねて紹介されています。 バス旅行では ○アンポ・コース 国会→米国大使館→首相公邸→羽田空港→横須賀→厚木基地→北富士演習場→砂川→全学連本部 政治色が濃すぎるかな?ほかに帝銀事件現場などを巡るジケン・コースや 吉原→銀座→赤坂などを巡るシャカイハ・コース、東海村原子力研究所などを廻るカガク・コース。 ちょっと粋なのは ○カブキ・コース 京橋(猿若座跡)→新富町(新富座跡)→人形町(お富さんの源冶店)→浜町河岸(明治一代女)→ 両国橋(四十七士引上げ場)→東両国(吉良上野介邸跡)→錦糸町(四谷怪談)→三ノ輪(三ノ輪心中)→吉原(助六) ほかに神田明神下の銭形平次郎邸跡やお玉ケ池の人形佐七家などを巡るトリモノ・コース、落語コースも面白そう。 船旅では名古屋→神戸、或いは名古屋→横浜 大阪商船ぶらじる丸、あめりか丸、あるぜんちん丸などを利用するもので、 1等4,320円から3等1,400円まで、食事つき、時間はそれぞれ13時間、夕方出港 とありますが、いずれにせよ金額面で現在との隔てを感じますね、それは半世紀以上のズレがあるから・・・。
2017.11.17
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〇某日、家内と京都市内を散歩しました。錦市場で買い物をしている時、 「錦てぬぐいあわせ」というパンフレットを「渡半」の店で見つけました。直ぐ店主が駆け寄り、このキャンペーンのことを説明して下さいました。パンフレット背面のご挨拶欄では、 <てぬぐいあわせとは、江戸時代に行われたてぬぐいコンクールです。今回で3回目となる錦市場でのてぬぐいあわせ。 グラフィックデザインを学ぶ学生と錦市場のお店が、協力して作り上げたてぬぐいが一堂に会します。 その数約80。各店舗のオリジナルのデザインをお楽しみ下さい。>とあります。 昔この一帯は武具を商う店が多く、具足小路(別名くそ小路とも)と呼ばれていたようですが、天喜2年(1054)、 後冷泉天皇の御世に帝の計らいで錦小路と改められたとも言われています。 いかにもデザインを志す若者たち(京都工芸繊維大学の卒業生、学生、修士、博士ら)らしい 斬新な柄が愉しい、色とりどりのパンフレットです。先ほどの「渡半」さんは昇り河豚みたいな図案です。
2017.11.16
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〇もうお馴染みの「大語海」辞典の”す”の部のから・・・ スモーキング=大相撲の横綱。 スターウォーズ=芸能界の醜い争いのこと。 頭悩迷積=悩んでいる人。 酔民不足=現代社会のようす。 吸う学=キスのやり方。 図解骨=レントゲン写真。 推犯機=警視庁が開発した最新コンピューター。 推古伝=推古天皇の生活を、或る中国人が著した本。 ○睡奏楽=いびき。 ○スペード=梅ぼし。 スキャンティ=酢味のある飴。 スクイズ=夏の終わりとともに、伊豆の海岸のひっそり感。 スコッチ=決して多く飲んではいけないお酒。 ずんどる=太るの現代語。 皆さん ハブ ア ナイス デ~♪
2017.11.15
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〇江戸城本丸には公の儀式を行う”表”、将軍の生活の場としての”中奥”、そして所謂”大奥”がありました。〇 後期の将軍は”もの日”という記念日、例えば歴代将軍の忌日、その他精進潔斎すべき日などが沢山あって、月間、10日ほどしか奥泊りが出来なかったようです。〇 同衾の時間は午後10時ころから翌朝の6時前までで、襖に蔦の模様のある広い”蔦の間”だったとか。〇 将軍の日課は、午前6時お小姓の「もう(お寝覚め?」という声から始まり、洗顔の後袴姿で大奥へ渡り、御台様と2人で歴代の位牌を拝みます。〇 中奥に戻り、味噌汁・向付けに野菜・お平に煮物・吸い物と鱚の塩焼き(縁起から毎朝キス)そして米飯の朝食。1、15、28日は鯛か平目の焼き魚。〇 再び「もう」の合図で、月代剃りや大銀杏の結い上げ。その間同時に医者のお脈拝見や腹診、外科や眼科・鍼医師による健康診断。〇 午前8時には若年寄ら要人の挨拶に対応、10時のやぐら太鼓で老中ら登城し政務の開始。再び大奥にてお目見得以上の奥女中との”総ぶれ”の挨拶。そして再び表へと。〇 12時には中奥の小座敷でお小姓給仕の昼食。お毒見あとの冷めた御膳。1時~再び政務。名将軍は長く勤務、老中などは2時頃退庁4時間勤務。〇 夕方6時は入浴。7、8枚の新品の浴衣で水分を吸わせる方法だったとか。夕食は大奥にて3の膳までつく豪華版で、御台様と一緒に酒も召したとか。〇 就寝までは自由時間。囲碁や将棋、和歌や画絵など嗜む将軍たち。しかし多くの人に監視されている為、その一生は自由ではなかったように思われます。〇 (本稿は前回その1同様の出典、赤間倭子さんの36話を参考にまとめました。)
2017.11.14
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〇源氏物語五十四帖の中で印象に残っているのは”夕顔”の話ですが、 <・・・むつかしげなる大路のさまを、見わたし給へるに、この家のかたはらに、桧垣といふもの、 新しうして、上は半蔀四五間許り上げ渡して、簾垂れなども、いと白う涼しげなるに・・・> という導入部分から入って行きます。 夕顔は身分の高くない中流の女性でしたが、<ろうたげにたをたをとして>、 つまり控え目で垣に咲く夕顔の花のように可憐な少女でした。 ところで、紫式部が綴った源氏物語の原文から現在の京の町を験しに辿って行くと、 下京区高辻通西洞院西入ルの辺りで、「道元禅師遺跡之跡」の石碑にぶつかります。 それを更に西へ数百メートル進んだ富江家の家には、夕顔の墓があります。町名も夕顔町。 夕顔は歴史上の人物ではなく、虚構の世界の女性ですが、京都色をふんだんに織り込んだ源氏物語の世界を、かくも身近に感じさせる京都人の心意気は憎いほどではありませんか。 (追伸)実際に自分のカメラに収めてはいるのですが、探しきれませんので、借り物の写真です。
2017.11.13
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〇カキは1時間に15リットルもの海水を濾す能力があります。これを巧く利用すれば、無菌のカキを作れると考えたのが佐藤忠勇博士。カキの毒性は生殖腺に含有されているようで、その時期は4月から七月の産卵期、西洋ではひと月づれて、Rのつかない月のカキは食べるなと言われています。 なるほど、May5月、June6月、July7月、August8月には”r”がついていません。 精力を使い果たした夏場は体力を回復するので、グリコーゲンなどの栄養分が豊富になり美味になります。 カキは牡蠣と書きますが、これはオスしかいないと誤解されていた為で、産卵期になると一部のオスがメスに変ることで子孫を残しています。雌雄同体のミミズを思えば納得できます。 フグも卵巣や肝臓などの内臓に有毒物質を持っていますが、やはり春の産卵期になると毒性が強まるようです。 でも、こんなことを綴っていると、牡蠣や河豚をたらふく食べたくなります。 (参考図書:樋口清之監修「雑学おもしろさ歳時記」)
2017.11.12
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〇11月になるとあちらこちらの神社では七五三詣での光景が目に入ります。 元来祝儀に用いる数は一、三、五、七、九の奇数が陽の数で目出たいとされて居て、 その中の三、五、七を抽出、三・五は男子、三・七は女の子を祝ぐ歳としています。 神社で目立つのは巫女の緋袴。それに陽が当ると尚更目出たい色に思えますね。 季節外れで恐縮ですが、桜の舞い散る松尾大社で詠んだ拙作 渡り廊落花払ひし巫女袴 星子 忙しいので巫女が渡り廊を行ったり来たり・・・その折、廊下に散っていた桜の花びらが振り払われた光景。 さて3月になりますと卒業式の時節。今では短大、四年制の女子学生の間では着物に袴姿が主流に成りつつあります。 その色はえび茶色や紫。このえび茶色の”えび”とは一体何を指しているのでしょうか? 伊勢えびのこと?市川海老蔵から来ている?いやいや武士が出陣する折の矢の入れ物・箙(エビラ)から? いえいえそれは「山ぶどう」の古名から来ています。エビヅルやエビカヅラと呼ばれる山葡萄のこと。山ぶどうを使って染める「葡萄(エビ)染め」という古来の染色法から派生した言葉です。 明治三十年代の風俗では、その頃の女学生の殆どがえび茶色の袴を着けていたので、「えび茶式部」と呼ばれたそうな。 私などの憧れは、緑袴も凛々しいヅカ生、そう華も実もある宝塚乙女たち。
2017.11.11
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〇拙作の自由詩を載せます。 秋は回想の季節 歳を重ねれば重ねるほど 昔のことを懐かしむ 桂の居間の押入れにあった 姉のお古の積木たち 算数記号や数字の下地は深紫色 ÷のマークや+のマークは 赤だったか 白抜きだったか 否 少し蛍光色を帯びていて 真冬に灯る家庭の電燈色の 温か味のある色 そう、あの温かな棗色に似ていた 黄色の積木も何故か温かい色だった 幼いわたしはそれらの積木を連ね 長い列車を模しては遊んでいた・・・ あれから もう 数えきれないほど 時は流れてしまったけれど いつも 瞼の奥にある あの温か色の積木たち・・・・
2017.11.10
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〇父が買うだけで夢を完遂したと推測できるものの一つに「宝塚大全集」というカセットテープ(15巻)。 勿論レコード盤大の解説本が附いていて、130ページにわたり写真や歌詞、時代説明が書いてあります。 天津乙女、春日野八千代、神代錦、富士野高嶺、打吹美砂さんらは知っていますが、 乙羽信子、月岡夢路、越路吹雪、新珠三千代、朝丘雪路、高千穂ひずる、扇千景、有馬稲子、八千草薫さんらの現役時代は残念ながら存じません。 それでも加茂さくら、浜木綿子、黛ひかる、天城月江、南悠子、松乃みどり、寿美花代、明石照子、淀かほる、 那智わたる、星空ひかる、麻鳥千穂、故里明美、筑紫まり、大倉玉子、八汐路まりさんらは何度か観ました。 高木史朗演出の「華麗なる千拍子」では普段男役の寿美花代さんが太股も露わなタイツ姿の女役で踊っておられたのが印象的でした。 父が遺したSPレコードを聴く限り、昭和10年代から戦時までの歌唱力と今日でのそれとでは比較にならないほどレベルが上っています。 そして「ベルサイユの薔薇」のヒットで宝塚歌劇はわが国屈指の歌劇団となりました。 世の中すべからく先人の弛まぬ努力と精進のお蔭で後世の者がその恩恵に浴することができますね。現在は歌唱力抜群の加茂さくら、妹の加茂すみれさんと懇意にしていただいています。
2017.11.09
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〇某年11月某日 大山崎からの戻り道 天王山を瞠るかすれば 晩秋の夕日の錦糸が放射状に降り注ぎ その慈母観音の優しさに包まれながら 路傍の草草も うす桃色の花をつけた山茶花も 農家の壁も すべてオレンジ色に染まり 足長に伸びた我が影は まるで千切り絵のように ぼやけて写っているのでした 某年某日。大山崎歴史資料館の第14回企画展『戦国の争乱と大山崎』 (応仁の乱から信長より前までの戦国時代における大山崎周辺の合戦と住民達の対応に関する特別展)の勉強会に参加しました。大山崎の離宮八幡には300もの古文書が所蔵されていて、資料館に展示されている、それら本物の巻物(殆どは巻物として保存されています)を実際に見ながら説明を聴きました。 戦国の世を信長が平定していった過程を明らかにするには、この山崎や高槻(富田)、大坂など当時の畿内の仕組みや事情などの研究を抜きにしては考えられないと言うのが、昨今の歴史研究家の主流になっているようです。
2017.11.08
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〇昭和6年5月に京大共済会ホール2階西室にて発足した「青葉会」の第15回例会や昭和7年11月13日、洛西地区へ吟行した模様を記した亡父の古い大学ノート。 <午前9時半、北野嵐電終点にて集合。終日曇天にして雲低し。 午前10時高雄口まで電車に乗る。下車後西行して広沢池に出る。 どんより曇った池、日本画の様な山々を賞でつつ、道を右手にとって 大沢の池に至る。池畔にて昼食。大覚寺を経、南下して釈迦堂に拝す。 其れより西行、二尊院に至らんとす。途中思いがけなく、定家郷の 墓の在る厭離庵を見出す。真赤に紅葉した木の下にじっとりした苔に 包まれて定家朝臣の墓がある。二尊院の紅葉は丁度真盛りであった。 紅葉黄葉をかざしつつ祇王寺に至る。其れより南下して去来の墓を訪ふ。 藪の真中にささやかな丸石の墓がある。1尺にも足らぬ丸石の墓は さすがに俳人の墓にふさはしい。心から去来の冥福を祈って後、 その庵室なる落柿舎を訪ねる。藁葺の庵は藪を背にして静かである。 大きな柿の木が1本庵の前に在るが、実はすっかり落ちて葉だけが紅葉してゐる。 之より野々宮経て、嵯峨に至る。渡月橋を渡り、美しく色づいた嵐山の 麓づたひに大悲閣に至る。帰途は嵐山電車に依る。四条大宮着4時半。 薄暮の霧がみなぎってゐた。> 廣澤に汲む人のあり霧の湖 昴 鶺鴒の鳴きて水面かすめけり 昴 石塔に落葉の数のつもりたる 迫線 落柿舎の庵主留守なり冬日向 迫線 嵐峽に夕霧こめて櫂の音 方雅 冬を待つ去来の墓に詣でけり 葉舟 など32句の投句。この日、方雅・昴の両名が7点獲得の1位。 5点の迫線が2位、2点の葉舟が3位。 終了後、歌留多に興じ、散会午後11時。 (これはやや小ぶりの大学ノートに、輪番制で書き込まれた記録簿、発足から 1933年4月23日向井宅での第19回例会までが記されています。)
2017.11.07
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〇不死鳥の叔父が亡くなって早十一年経過。三姉妹の従姉妹のお招きで千里山まで一回忌の法要に参じた想い出。法要を行う豊津駅近辺は私たち夫婦の新婚住居の最寄駅でしたので懐かしい地域。 浄土宗のお坊さんの朗々たるお経に耳を委ねていると、故人のお顔が浮かびます。銀行に入る折、何かと骨折っていただいた叔父。血の繋がりは否めず、三姉妹から、故人にそっくりと言われる程、似ているようです。 近くの千里山のとある料亭で宴席が設けられ、三姉妹の長女のお子さんがビールを注ぎに来られた時の逸話ですが、テレビのCMや映画ラストサムライ、三丁目の夕日でお馴染みの「小雪」さんとは 小学校、中学校と同級生で何度か泊りに来たことがあるとのこと。あの色白の女優さんが少し身近に感じた次第です。また千里山の家(亡母の実家)のガレージに積んであった段ボール箱を開けたところ、 大阪市の助役を務めた祖父が貰った多くの勲章や私の父が送った古手紙や、叔父の軍服なども出てきたということで、古手紙や叔父の絵手紙作品、祖父の勲章などを土産に戴いたのでした。
2017.11.06
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〇大奥の台所は、御広敷御膳所という場所で広大な一部を占めていて、〇台所頭・組頭・調役・吟味役・賄い方・六尺など総勢130余名が働く場所でした。〇 朝の御膳(午前8時)〇 一の膳・・・御飯、味噌汁に落し玉子、豆腐の澄まし汁、蒲鉾、昆布、鯛の切身、寒天など〇 二の膳・・・焼魚、玉子焼、漬物、〇 食材にしなかったもの・・・葱・韮・大蒜・らっきょ・さや豌豆・若布・ひじき・秋刀魚・鰯・鮪・鯰・鰌・鮒・牡蠣・アサリ・赤貝・〇 鳥類・獣類では鶴・雁・鴨・兎以外は不可。梨・柿・蜜柑はOKなれど西瓜・瓜・桃・林檎などは観るだけだったとか。〇 本文の90%は「江戸城大奥100話」安西篤子監修の中の30話、菊地由紀さんの文章をお借りしました。
2017.11.05
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〇2006年のリフォーム前、一時ガレージにしようと思って大きな渋柿の木を根っこから伐って貰いましたが、植物の負けん気の強さに驚きました。切り株の端から新たな枝が幾筋もずんずん伸びて、実こそつけねど大きな葉をつけています。ガレージ案を取り止めた時、後悔が走りましたが、そんなことお構い無しに植物は再生したのでした。その生への渇望、子孫を残すことに懸命なる姿に感服しています。 この渋柿の大きな葉っぱはとりわけ美しい朱色に染まるのでした。蝋燭の灯が燃え尽きる寸前、めらめらと燃え盛るように、落葉樹の葉はことごとく黄や紅色に染まります。 いつの日か土に還るわたし達の先導を務める自然界の摂理を時には学びましょう。既に秋は逝ってしまいましたが、秋が奏でる彩りのハーモニィを聴きながら、静かに冬を迎えましょう。
2017.11.04
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〇例によって物置小屋を片付けていたら、郷土玩具とは別に、亡父の残した絵馬が沢山出てきました。その辺の神社の平凡な絵馬とは違って、かなり芸術的な、個性的なものが出てきたのには驚きました。そこで、石子順造編著「小絵馬図譜」(芳賀書店)という本を見開くことにしました。 神馬=無事祈願、地蔵=子育て祈願、鬼=厄病除け、雷神=雨乞い、蟹(カニ)=歯痛・火伏せ、鯰(ナマズ)=皮膚病治癒、鮎=夫婦和合、三猿=安産祈願、天神=学業祈願、女郎仏=婦人病治癒、百観音=諸願、天狗=魔除け。 宝珠=子授り祈願、鳥居=全快御礼、俵=豊作御礼、宝剣=祈願成就御礼、柘榴(ザクロ)=安産祈願、飛び狐=子授り祈願、向い狼=盗難除け、向い狐=厄病除け・商売繁昌、蛇=芸能上達他、蛸=イボの平癒他。 エイ(魚)=痔疾の平癒、田螺=眼病平癒、雀=眼病平癒、蛙=縁結び、飯盛り=胸つかえ祈願、縁切り=男女の縁切り、乳貰い=母乳豊富祈願、母子入浴=入浴嫌い祈願、兵隊拝み=帰還御礼・武運長久祈願。 腰下=婦人病治癒祈願、仮名のめ=眼病治癒、手・両手=手業上達、武士=立身出世、角力(スモウ)=美肌祈願、徳利と盃と鍵=酒断ち、花札に鍵=賭博断ち、煙管(キセル)に鍵=禁煙、松茸=精力増強祈願、草鞋(ワラジ)=健康祈願、錨=水難除け。 このように列挙すると面白いですね。亡父の残した絵馬の一部は、作者名入りの精緻なもの、美術的なものが多々ありました。
2017.11.03
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〇そろそろ咲く頃だと思っていたら、一番手二番手の石蕗tuwabukiの花が庭の其処彼処に咲き初め、黄色いランタンのような明りを灯しています。 父から受け継いだ庭には凡そ五、六十生えていますので、その内石蕗が一斉に庭の隅々を照らすことになりそうです。少し冷たい感じの黄色・・・。 この花が咲き揃い出すといよいよ冬が間近に迫ってきます。朝の五時は暗いし、夕方の散歩も早めに出かけなければ、とっぷり日暮れて何も見えなくなってしまう、その寂しさ。 寒がりの私はこの季節を蛙のように冬眠して過したい気分になってしまいます。それゆえ、太陽の恵みを嬉しく感じるのです。 ところが三月初旬は寒いけれど陽射しに勢いがつき、枯れ草を一掃する若草や、魔女の腕のような樹木の枝に、新芽を見つけた時の喜びは一入に感じるのです。
2017.11.02
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〇亡父が70歳頃からワープロ機器を購入し、いろんな図柄を組み合わせた下地に、父自身の句を貼り付けた吟旅の句集「冬の余呉湖」。 観世音十一面の寒構へ 10 乳足らひの童顔仏に深雪晴れ 11 余呉の湖暮れよ暮れよと雪降れり 12 句語りの窓辺をよぎる雪をんな 7 湖消して吹雪く真昼を雪をんな 9 余呉の湖天地広げて吹雪くかな 16 天地いま雪解のリズム余呉さらば 2 句の後に付した数字は22名の読者からの票数です。父が手紙で一斉に送った句は23句でした。23句への票点の合計は139点でした。上記は一部のみ掲載しました。ついでに後日追加して父が詠んだ11句から少し拾ってみますと 街道は絵巻そっくり軒の梅 軒吊りの合羽屋看板風二月 冬ぬくしさしも伊吹のもぐさ売る 梅つぼみ赤き丸子(ガンジ)の腹ぐすり 雪の夜は湖よりの声サシスセソ 灰色に明けとどまりし余呉雪景伊吹山辺りはもぐさの名産地で、追加の三番目の句は、百人一首の”かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを、藤原実方朝臣”を意識して詠んだ句でしょうね。父は殊の外、寒さに弱い人でした。この寒中の吟旅に参加したのは、義理・人情に圧し切られたのでしょう。句友の皆さんからも謝意の手紙を沢山頂戴していたことを思い出しました。すると、先日、この折のメンバーだった吟子さんからこの吟行を回想した一文を頂戴しました。
2017.11.01
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