全32件 (32件中 1-32件目)
1
イチロー選手が現役を引退した。オリックスで1278本、メジャーリーグで3089本のヒットを放った。通算4367安打である。名球会2人分の実績だ。それ以外にも盗塁や守備も超一流だった。日本での引退会見は未明まで続いた。私は「森田道」を歩んでいる人は、イチロー選手の生活ぶりや野球に取り組む姿勢をよく観察してまねることが大変有効であると思っている。この会見で印象に残ったことを投稿してみたい。まずルーティーンを大事にしていることだった。シアトルで試合のあるときは、奥さんの手ずくりのおにぎりを2個持参して球場入りをしていた。その数は2800個ぐらいで、せめて3000個までは握らせてあげたかったと語っていた。そういえば、球場入りする前の食事は、奥さん手ずくりのカレーに決めていたそうだ。その前には老犬の一弓と散歩に出かける。犬の名前は自分と奥さんの名前からとっている。その老犬の懸命に生きる姿にいつも勇気をもらっていたという。そういえば犬は15歳から20歳で寿命が尽きるようですね。そして球場ではパワーをアップする筋トレよりは、筋肉に柔軟性を与える運動に取り組んでいた。打席に向かうしぐさは毎回同じ動作をとっていた。屈伸やバットを立ててピッチャ側に押し出す動作は寸分の狂いもない。イチロー選手は試合のある日は、毎日同じ時間に同じ行動をとっていたのではないかと思う。森田でいうところの、愚直に規則正しい生活を続けていたということだ。私たちは毎日同じことの繰り返しだとマンネリになって、意欲が低下してくる。飽きがくる。精神の弛緩状態を緊張状態に転換するために、規則正しい生活よりも、次から次へと刺激のある行動をとって退屈から逃れようとしている。いつもカンフル剤を打って士気を高めようとしているのだ。イチロー選手は、試合で1本でも多くのヒットを打ってお客様に喜んでもらうことに生きがいを感じていた人だ。その目標達成のためには、脇目を振らず、毎日の生活を規則正しく送ることの意味をしっかりと持っていたのではないか。ルーティーンをこなすということは、前頭前野でいろいろと悩むことがなくなる。練習や習慣によって、前頭前野でなく、運動野などからの命令によって直接身体が自然にスムーズに動くという状態である。つまり精神拮抗作用のマイナス面を取り除くことを自然に身に着けていたと考えられる。それからイチロー選手は、「やりたいと思ったことをやればよい。成功するか、失敗するか考えてやるよりは、やりたいことをする。いろんな記録を作ったが、その記録を作るための努力を積み重ねていた時にやりがいを感じていた」という。私たちは手を付ける前から、頭の中で成功するか失敗するかを予想する。失敗する確率が高いと思うと、無駄なエネルギーを使うよりは、簡単に挑戦をあきらめてしまう。考えてしり込みしてしまうよりは、先に手を付けてみて、後で考えるという習慣の方がよほど意味があるということだろう。考えるばかりで、行動はお粗末というのでは、精神障害を招く。そんな計画性のない、軽率な行動はダメだと最初から決めつけてしまうと、幸運やチャンスはすぐに逃げてしまう。失敗の経験を積みあげることができないので、いつまでも成功には近づかない。森田では、食事作り、掃除、整理整頓、洗濯などの日常茶飯事を丁寧に取り組むことを勧めている。
2019.05.31
コメント(0)
相田みつをさんだっら「かくあるべし」をこんなふうに説明するのではなかろうか。誰でも相手のことを信頼して付き合ったほうがよいことは分かっているんだな。でも実際はどうかな。批判や否定しまうことが多いのではないかな。相手の言動、容姿、存在、性格、能力、弱点、欠点、ミス、失敗など批判する材料は事欠かないからね。いつもしかめっ面をして、不平不満をぶちまける。怒る。叱責する。こんな人が多いのではないかな。相手はたまったものではないよね。相手は対抗措置として、非常事態宣言をして、戦闘態勢に入るんだ。ぎすぎすした人間関係は、潤滑油のない歯車を回転させているようなものだな。自分も苦しいが、同時に相手をも苦しめているんだな。このことを、森田では相手に「かくあるべし」押し付けているというんだ。自分の是非善悪の価値観で相手を裁いているというんだ。これは相手のためではないんだな。自分の不快感を払しょくするためにしていることが多いんだな。その結果、相手との人間関係がぎくしゃくしてくることは犬でも分かることだな。そんなことも分からずに、愚かにも同じことを繰り返しているんだな。そして自分も他人も生きずらを抱えてのたうち回っているんだよ。そんな人はどうしたらよいのだろうね。こんな苦しみを抱えている人は、森田理論を活用したらどうだろうかね。「かくあるべし」は自然現象のようなもので、次から次へと湧き出てくるものなんだよ。だからよいも悪いもないんだよ。これが人間の宿命みたいなものだね。台風が次から次へとやってきても、それがよいとか悪いとかいう人はいないだろう。ここで肝心なことは「かくあるべし」が出てきたことに気づくことなんだよ。「あっ! またかくあるべしがでてきたよ」これに気づいたときがチャンスなんだよ。そんな時、すかさず、自分に向かってこう叫ぶんだ。「その考え方、ちょっと待った」この言葉を自分に投げかけられるかどうかが境目なんだな。この言葉は魔法の言葉なんだよ。まず、相手に「かくあるべし」を押し付けることを踏みとどまる効果が出てくるんだ。相手に暴言を吐いて、批判、否定することを回避できるんだよ。そしてね。理不尽で不快な事実をとりあえず認めることだよ。そのためには、事実を事実のままに正確に把握するんですよ。よく観察しないと難しいね。他人の話をうのみにして、先入観や決めつけはご法度だよ。そしてね。難しいかもしれないけど、仕方なしにその事実を受け入れることだよ。これは森田理論でいうと、「あるがまま」というんだよ。事実本位、事実唯真、自然に服従、境遇に柔順ともいうんだよ。事実に立脚した立場に立つと、次の目標が見えてくるんだ。それは建設的、生産的、創造的なものなんだ。「かくあるべし」の態度は、雲の上に自分の立ち位置をとって、現実を批判、否定しているから、自分や他人を不幸にするばかりなんだよ。どっちがよいと思う。聞かなくてもすぐに分かることだよね。言われてみればすぐに分かることなんだけど、自分ではなかなか気づかないところなんだよ。森田は奥が深いし、面白い理論だね。なんとなく将来に希望が持てる話だね。
2019.05.30
コメント(0)
最近はマインドフルネスがブームになっています。森田とマインドフルネスを組み合わせて活躍されている臨床心理士の方もいらっしゃいます。これが森田理論とどういうつながりがあるのかはずっと疑問に思っていました。この疑問を岡田尊司氏が明快に説明してくださっているのでご紹介したい。マインドフルネスはもともと瞑想からきている心理療法です。その瞬間、瞬間のありのままの自分を感じ取っていくということが基本です。単に思考とか頭で感じるのではなく、身体で感じるというのを大事にする方法ですね。そういうところから、呼吸とか、身体の感覚とか、いま不安を感じているとか、このへんがだるいとか、かゆいとかね。そういう感覚もそのまま大事にして、受け入れることを普段からやっていく。そうすることで、たとえ何か苦しい体験をしても、「こんなふうになっているのはダメな自分だ」とか、「自分がダメだからこんな目にあっているんだ」とか価値判断せずに、ありのままに受け入れられるようになるという考え方ですね。たしかに、つねに「・・・ねばならない」で価値判断してしまって、自分の理想に比べたらダメだと思ってしまうような「かくあるべし」の弊害を抱えている人にとっては一つのよい方法だと思います。(絆の病 岡田尊司 ポプラ社 113ページより要旨引用)これを見ると森田理論の内容と非常に共通する部分があります。今現在の自分の身体感覚に注意を集中する。呼吸、感情、身体感覚などをよい悪いと価値判断しないで、そのままに味わう。すべての事実を事実としてあるがままに受け入れる。「かくあるべし」という完璧、理想主義は人間である以上は避けることができない。その「かくあるべし」は、次から次へと台風のように発生して、自分を苦しめています。また「かくあるべし」を他人に押し付けることで、人間関係がぎくしゃくしてくる。それが喧嘩、争い、テロ、戦争にまで発展することがある。森田理論を学習して、葛藤や苦悩を減らして自他ともに楽に生きていくためには、「かくあるべし」を減らして、事実に立脚した生き方を身に着けることが大切だということが分かった。事実本位、あるがまま、自然に服従した生き方のことである。ところがこれは口でいうことはたやすいが、身に着けることは大変難しい。私は「かくあるべし」に気がついたとき、「ちょっと待て」をキーワードにして事実に立脚した生き方に立ち戻ろうとしている。10個あれば1個か2個は立ち戻れているかもしれない。その他いろいろな手法を取り入れている。できるだけ事実をよく観察すること。事実を具体的、赤裸々に話す。マイナス感情に対しては、両面観でプラスの感情も見るということ。初二念の感情を感じたとき、「ちょっと待て」と言って初一念に立ち戻る方法。「純な心」の応用のことです。「あなたメッセージ」をやめて、「私メッセージ」の発信を心がける。相手の話を一旦はよく聞いて、そして妥協点を探る方法などである。マインドフルネスは、事実に立脚した生き方をするための一つの方法だと感じています。マインドフルネスのCDを持ってるので、早速試してみたい。
2019.05.29
コメント(0)
堀江貴文さんは、「炎上される人間になれ」という本の中で、「ひとつの熟考より、3つの即決」を大事にして仕事をしてきたと書いてある。課題や目標に対して、納得できるまで考えるよりも、ある程度のところで見切りをつけて、実際に動きだすほうがよい。課題や目標が大きいと、必ず問題点や壁が立ちふさがってくる。動き出さないと、それらは見えてこない。問題点や壁が見えてくると、それを解決したり、乗り越えていくための方法を考えるようにすればよい。そのうちやる気も高まってくるだろうし、目標への道のりも徐々に見えてくるのである。この態度は森田理論でいうと、現実、現状を素直に受け入れて、一歩目線を上にあげて行動している状態である。努力即幸福の状態になる。しかし私たちが往々にして陥りやすいのは、観念や思考で「絶対成功間違いなし」という確信が持てるまで考え続けることである。「ああだこうだ」と想定される様々な困難な状況を考えているだけで実際に手足は動いていない。そのうちタイミングを逃したり、ネガティブな思考にとりつかれて終わってしまう。これは森田理論でいうと、上から下目線で現実や現状を悲観的、批判的、否定的に見ているということです。「軽率な行動をとって、もし失敗でもしたらみんなの笑いものになるぞ。それでいいのか。イヤ、それだけは絶対に避けなければならない」などと、やらない、やれない理由を強固なものに構築しているような状態に陥る。本末転倒である。例えば、結婚相手を探す場合、相性、初婚か再婚か、性格、学歴、容姿、趣味、友人関係、家柄、仕事内容、財産、親と別居、マンション住まいか一戸建てか、田舎暮らしか都会暮らしか、専業主婦でも生活が成り立つかなど様々なハードルを設けている人がいる。それらをある程度クリアーしていないと、対象として考えられない。あまりにもパーフェクトを求めているので、なかなかお眼鏡にかなう人が出てこない。そのうち歳をとって婚期を逃してしまう。その時になって、私の選択は間違っていなかったのだろうかと後悔する。仮にこの人は間違いないと思って結婚してみたものの、会話が面白くない、持病を持っていた、性格が合わない、喧嘩が絶えない、一緒にいると息がつまる。結婚する前は、完璧だと思っていたのに、あちこちに不平や不満が噴出してくるのである。これらは観念や思考で「かくあるべし」を相手に押し付けているのだ。現実は思い描いたいた理想とは程遠い。こんなはずではなかった。もう私の人生は終わりだ。この責任をどうとってくれるのよと相手を恨むことになる。そして、離婚、家庭内別居に陥る。これがある程度のところで妥協して、現実を認めて受け入れるという態度になると状況は一変する。10の欠点や弱点があれば、10の長所や強みがあるのが人間だ。欠点や弱点には眼をつむって見逃してあげよう。それよりも相手の長所や強みを評価して伸ばしてあげよう。今持っていないもので必要なものは、二人で協力して作り上げていこう。今与えられた状況の中で、精一杯人生を楽しもう。容姿なんて歳をとればみんな同じようなものだ。それよりも子供を立派に育てることに取り組みたい。これらは、現実にしっかりと根を張り、事実に立脚して生きていこうとしているのです。決して上から下目線で、悲観、批判、否定している態度ではありません。こういう人生観を持っていると、将来は末広がりで味わいのある豊かな人生が待っています。
2019.05.28
コメント(0)
生活の発見誌で人間関係の在り方について、次のような記事を見つけた。1、人間関係は努力してもすべての人とうまくいくわけではない。2、人間関係の成り立ちというのは、片方の人が一方的に妥協するのではなく、お互いにどこかで譲り合って折り合いをつけて初めてよい人間関係は成り立つ。今日は1番目について考えてみたい。私はどうもすべての人に好かれたいという気持ちが強いようだ。人から自分のことを非難、否定されることを極端に恐れている。私の「かくあるべし」は、人から一目置かれて尊敬されるような人間にならなくてはならない。反対に、無視され、からかわれ、仲間はずれにされることはあってはならないと考えていた。そんなことはどうでもよいではないかという気持ちにはなれないのである。そのために、自分の気持ちや意志を抑圧して、他人に同調してしまう。他人のお願い事は気が進まないことでも、引き受けてしまう。反対に、自分から他人に対してお願い事をして断られるのが怖い。そんないやな思いをするくらいなら、自分一人でやってしまおうとする。そうかといって、他人に評価されるような努力はほとんどしていない。注意や意識は、他人が自分をどう取り扱ったか、どう取り扱おうしているかに向けられていた。自分の気持ちや意志を主張することがなく、いつも自己防衛ばかりしていたので精神的には苦しいばかりであったのだ。そんな私に転機が訪れた。森田理論学習の中で、「不即不離」の人間関係作りについて学んだことだ。これは引っ付きすぎず、離れすぎずの人間関係のことだ。目から鱗の人間関係とはこのことだ。いつでもどこでもすべての人に好かれるということはあり得ないことだ。人間関係は必要に応じて、必要なだけ付き合うというのが基本である。四六時中べったりとくっついた人間関係では融通が利かなくなる。そんな関係では、対立すると、いつまでも根に持って相手を憎み続けることになる。コップ一杯に満たされた人間関係を2つから5つぐらい持とうとするよりも、コップに5分の1しかない人間関係を15個ぐらい持っているほうがはるかに楽に生きることができる。引っ付きすぎず、離れずの人間関係だ。愛犬と飼い主のような関係だ。これは夫婦でも、恋人同士でもでもそうだ。普段は自分の好きなように行動しているが、そうかといって相手のことを全く無視しているわけではない。たえず気にかけていて、何か困っているときはすぐに助けに入る。それが終われば、また自分のやるべきことややりたいことに戻る。これが四六時中まとわりつかれては煩わしいばかりだ。共依存の関係で閉塞的な人間関係になってしまう。すべての人に好かれたいというのは、観念の世界でのみ可能なのだ。現実の世界ではありえない。2人の人に評価され、2人の人から毛嫌いされ、6人の人からは普段はなんとも思われていない。そんな状況で、必要に応じて必要なだけの人間関係を築いているというのが現実なのだ。すべての人に好かれなければならないという「かくあるべし」が、自分を苦しめていることに気づかないといけない。そして森田理論の「不即不離」に実際に取り組んでみることをお勧めしたい。
2019.05.27
コメント(0)
岡田尊司さんは、東京大学哲学科、京都大学医学部を卒業された秀才である。その岡田さんが、勉強することが好きになったエピソードがあるという。今日はその話をご紹介したい。もともとは、あまり勉強ができず、授業中もぼんやりして、ノートに落書きばかりをしている子供だった。ところがある日、職員室に入っていた時のことだ。入ってきた私に気付かずに教師たちが話をしていた。その話というのは、どの子が将来有望かと言うようなもののようだった。私は聞くともなく話の内容を聞いてしまった。驚いたことに、 1人の教師は私の名前を挙げて、 「あの子は伸びるような気がする」と言った。よく怒られていた教師だったので、私は二重に驚いた。その些細な出来事が、なんとなく楽観的な希望と自信を生んだように思う。私はその「予言」を実現すべく、前よりも教師や黒板の方を見るようになった。だが、もし私がまったく正反対の「予言」を耳にしていたら、どうだったであろう。肯定的なものであれ否定的なものであれ、評価というものは一生を左右するほどの影響力を及ぼすということを、私はその後の経験の中で嫌というほど見てきた。ひどい状態から見違えるように立ち直る大きな変化を引き起こす原動力として、肯定的に接するという姿勢は不可欠な要素だと言えるだろう。概して言える事は、否定されて育った人は伸びず、能力を半分も生かすことができないケースが多い。肯定されて育った人は、持てる力よりも大きな結果を残しやすいということである。(人を動かす対話術 岡田尊師 PHP新書 67頁より引用)他人との付き合いの中で、相手を肯定的に見ることができる人がいる。そういう人は、川下に向かって泳いでいるようなもので、自分の力以上に楽にしかも早く泳ぐことができる。反対に、肯定的に見ることがほんのわずかしかなく、基本的に批判的、否定的に見ることが習慣になっている人がいる。いつも何かに腹を立てているような人だ。他人とはいつも対立的で、戦闘態勢にあるような人だ。そういう人はしかめっ面をして、笑うことが少ない。川上に向かって泳いでいるような人だ。持てるエネルギーをいっぱいに使っているが、ほとんど前進できない。いつも緊張状態にあり、心が休まるときがない。そのうち精根尽き果てて、泳ぐことをあきらめてしまう人もいる。森田理論でいえば、強固な「かくあるべし」を持っていて、相手に押し付けることが習慣になっている人である。相手の現実、現状を否定するばかりなので、相手も自分を否定してくるのである。このような人間関係は、将来に明るい展望を抱くことはできない。対立、孤立、孤独、喜びや楽しみのない人生を自ら招いてしまう。何とかして相手を肯定的に見れるような習慣を身に着けたいものだ。そうはいっても、直ちに転換することはできない。まずそういう自覚を持って生活することが大切だと思う。その上で、批判、否定、悲観的な気持ちになったら、「ちょっとまて」と自分にセーブをかけることができるようになるとよいと思う。私の経験では、相手を否定的に見てしまうことはどうしても避けることができない。「かくあるべし」がどうしてもでてくるのである。それは前頭前野が発達している人間の宿命かもしれない。しかし、「ちょっと待て」といって、それが暴走することを防止することはできる。本当は、相手の立場に立って、肯定的にも考えられることができるようになるとよいと思う。でも、いきなりその段階を目指すことはハードルが高すぎると思う。そういう場合は、森田でいう事実に焦点を当てて、事実を認めて受け入れるという方法がある。腹が立つとき、理不尽な出来事に遭遇したとき、すぐに対抗措置をとるのではなく、その事実を一旦価値批判しないで認めることだ。そしてその事実を受け入れるようにするのだ。これができると、次に事実を起点にして、どう行動するとよいのかと考えるようになる。すぐに相手を批判、否定する対応方法とは雲泥の差になる。こういうやり方を身につけると、楽な生き方ができるようになる。
2019.05.26
コメント(0)
私は商工会議所のパソコン教室に通っている。パソコンの基礎、ワード基礎を経て、パワーポイント基礎に進んだ。パワーポイントというのは、大型スクリーンに文章、写真、グラフ、音楽、動画などをプロジェクターを介して大勢の人に説明するためのツールです。この度やっとパワーポイント基礎を終了することができた。ここまでで、時間は17時間を費やした。講義は自分の受けたい授業がDVDのようなものに収録されており、段階を追って学習していくのだ。だからみんな別々の授業を受けている。中にはCADや弥生会計などに取り組んでいる人もいた。専用のテキストは無料で配布された。パワーポイント基礎の単元は17セクションに分かれていた。一つのセクションが終わると、学習したことを実際に自分で体験していく。2~3つぐらいのセクションを終了するとさらに課題に取り組んでいく。そして実際に自分一人になっても作成できる能力を磨いていくのだ。操作が分からなくなると、インストラクターが飛んできて丁寧に教えてくれた。パソコンでは知っていればなんでもないところで、前に進めないということが発生する。私はこの学習によって多くの知識を習得し、実際に応用することができるようになった。今までパワーポイントでスライドを作成して発表する機会はあったが、まったくの自己流であった。あまりにも幼稚であったので、今思うと恥ずかしい限りであった。今では、入力の基礎をマスターし、表や写真、イラスト、SmartArt、音楽や動画なども縦横無尽に挿入することができるようになった。またスライドショーやアニメーションの様々な設定もマスターした。パワーポイント作成の能力を獲得したことは、自信になるしとてもうれしいことだった。これらを派遣講師のお呼びがかかったときには、存分に活用したいものだ。とりあえず次の派遣では「私の神経症体験と森田学習で得たこと」を作ってみた。スライドは28枚になった。自分ででいうのも変だがなかなかの出来栄えであった。話だけではなく視覚に訴えたほうがよりインパクトがあると感じた。その他、いくつかのテーマごとに分かりやすいものを用意しておきたいと思う。これが集談会の学習で大いに活用できると思う。結婚式やお葬式の時などによく成長の記録や思い出の写真が音楽とともに流されるが、これはまさにパワーポイントを活用して作られたものであるということが初めてわかった。私も依頼を受ければ、そこそこのものは作成できるようになった。私自身も自分の成長や家族の思い出などを写真スライドショーとして作ってみた。パワーポイント基礎講座で弾みがついたので、この次はホームページ作成講座も受けてみることにした。夢はどんどん膨らんでいく。
2019.05.25
コメント(0)
ラフターヨガというのがある。インド発生で笑いヨガのことである。最初は作り笑いをする。続けていると次第に心の底から笑えるようになる。森田でいうと、心はどんなにつらくても形から入るということだ。悲しいから泣くというよりも、泣くから悲しい感情が出てくるというのと同じだ。外相を整えていけば、内相も自然に変化していくということだ。日本では600カ所以上の会場で行われているという。無料の会場も多い。you tubeで実際のやり方があったが、実に簡単にできるものだった。自分一人で出来る。これを朝晩3分間ずつ行うと確かに、憂鬱感は吹っ飛んでいきそうだった。ただ家族の人に説明しておかないと、頭がおかしくなったのかと誤解されかねないので要注意。興味のある方は、ホームページで確認して生活の中に取り入れてみることをお勧めする。その効能についてホームページに次のように紹介されている。ラフターヨガを通じて笑うことで、酸素が血液とあらゆる主な臓器に充分に行きわたることで、心身ともにエネルギーが満ちあふれた状態になります。ストレスレベルが75%以上も減少し、ストレスが軽減するのが実感できます。エンドルフィン(痛みを抑える物質)のレベルが上がるので、気分がよくなる上、様々な痛みが軽減されます。自信が高まり、コミュニケーションスキルや創造性が高まります。血圧が下がり、脈拍が下がることでリラクゼーション効果を得ることができます。うつ状態が軽くなり、慢性的なうつが軽減されたという声も寄せられています。ストレスによって低下している免疫系、消化器系、生殖系状態がよくなります。リンパ系の循環が活性化し、血行がよくなります。私は森田をやっていて、ユーモアや笑いのある生活は大切だと思っている。川柳やユーモア小話づくりの収集や作成はここ何年も続けている。これにラフター(笑い)ヨガも取り入れたいと思っている。ユーモアや笑いのある生活はお金はかからない。意識して実行するかどうかの問題である。生活の中で笑いを振り撒き、周囲の人と楽しく付き合っていきたい。
2019.05.24
コメント(0)
アメリカのアーロン・ベックは、うつ病の患者が実際以上に物事や出来事を悲観的、ネガティブに考えていることに気づきました。目の前の事だけでなく、過去のことをいつまでも悔やみ、将来のことに対しても否定的に考える癖を持っていることに気づきました。この過度な悲観的、ネガティブな思考の癖がうつ病の患者を苦しめているのではないかと考えたのです。葛藤や苦悩を軽減し、なくするためには、そのような悲観的で一方的な考え方の癖を修正していくことが有効であると考えたのです。これが認知療法として広く普及して、様々な精神療法の現場で使われているのです。神経症で苦しんでいる人も、物事や出来事をマイナス思考で悲観的にとらえる傾向があります。・一度恋愛に失敗すると、これからも恋愛はうまくいかないと決めつける。・他人は自分のことをいつも批判的、否定的に見ていると考える。・付き合いはいつも対立的になり、緊張の連続である。・仕事をすればミスばかりする。叱られるので、仕事に積極的になれない。・テストで80点だったが、できなかったところにとらわれて、自己嫌悪に陥る。・会社の考課表でプラスの面もあるのに、マイナス面の評価ばかりに目が向いて劣等感で苦しむ。・自分の欠点や弱点は過大に取り扱い、他人の欠点や弱点は大したことはないと過小評価する。・自分の長所、才能、能力はとるに足らないものと過小評価して、他人の長所、才能、能力は過大評価する。これらのネガティブな思考パターンは、どうして形成されたのでしょうか。一つには子供のころから、親や周囲の人からそのような思考パターンを植え付けられてきたことが考えられます。認められる、評価される、褒められることよりも、非難、否定、説教、命令、指示、禁止、叱責に偏った育てられ方をしてきた。その結果、自分に自信が持てなくなった。また、生まれてこの方、「かくあるべし」でかんじがらめな社会の中で育ってきた。このことに関して、森田先生は次のように言われている。「教育の弊は、人をして実際を離れて、徒に抽象的ならしむるにあり」観念や思考で現実、現状、事実を否定的、ネガティブ、マイナス思考で考える癖がついてしまった。井の中の蛙のようなもので、多くの人がそのような思考方法で生活しているので、それがあまりにも偏った考えだと気づくことができなくなってしまった。このような態度が多くの人ににどんな状況をもたらすのか。自分に対しては、自己嫌悪、自己否定を招きます。生きづらさを抱えるようになります。他人に対しては、他者否定を繰り返し、次第に人間関係は対立的になります。自分に対しても他人に対しても、息苦しくなり閉塞状態に追い込まれてしまうのです。この方向で生活することは、身体的にも、精神的にも計り知れない悪影響を招いてしまいます。森田理論は、この閉塞状態から脱却する道を教えてくれています。悲観的思考に陥る出来事は一つです。その出来事に対して、よい悪いと価値判断しないで、事実を事実として認める。そして事実を受け入れるという方法があるのです。どんなに受け入れがたい事実であっても、事実と一緒になって喜び悲しむ態度を身に着けることです。この生き方は、自分の本音と建前が乖離することなく一体となります。葛藤や苦悩が生まれる余地がなくなります。自分を自己肯定することができるようになります。自分は自分の最大の味方になることができます。他人に対しては、共感と受容の姿勢で接することができるようになります。他人の話をよく聴くようになります。友好的、協力的で豊かで楽しい人間関係を築くことができるようになります。ネガティブで悲観的な思考パターンに陥ったとき、「ちょっと待て」と言って、事実に立脚した思考方法に立ち返ることができる能力を身につけると、生きることが楽になり、人間に生まれてきてよかったと思えるようになります。ぜひ森田理論でこの能力を獲得してください。
2019.05.23
コメント(0)
有名なアメリカの小説「風と共に去りぬ」の中で、ヒロインのスカーレット・オハラは、魅力的で危なっかしいプレイボーイのレット・バトラーか、物静かで誠実な男性アシュレー・アィルクスのどちらかと結婚したらよいのか悩んだ。最終的にはレットと結婚することを選んだが、間もなく彼女は自分の選択を後悔するようになる。なぜ、スカーレットは正しい結論にたどりつけなかったのだろうか。その訳は彼女がある点ではレットを愛していたが、同時に別の点ではアシュレーを愛していたからだ。彼女はレットの勇敢さや行動には魅力を感じたが、レットの傲慢で自分勝手なところは嫌っていた。その一方で、アシュレーの親切で献身的なところは好きだったが、彼の臆病で女のように弱々しいところは嫌いだった。どちらの相手にも長所と短所があったからだ。この男を愛すべきか、あの男を愛すべきかというのは、多くの女性にとって重大な問題であるか、これもまた「両価的葛藤」の一例である。 (人を動かす会話術 岡田尊司 PHP新書 114ページより引用)ここで「両価的葛藤」とあるが、これは森田理論でいう「精神拮抗作用」に当てはめて考えると分かりやすい。これは、例をあげると、今日は酒を浴びるほど飲みたいと思っても、「ちょっと待て」二日酔いになると明日がしんどいのでセーブしながら飲もうという気持ちになるのである。ある欲望や考えが湧き起こったとき、付随して不安や反対の考え方も同時に湧き上がるというものだ。これは森田理論の欲望と不安の関係の学習の中にでてくる。森田理論では、精神拮抗作用は人間には多かれ少なかれ誰でにでも備わっているという。欲望と不安のバランスを整えて生活することは、森田理論の大きなテーマとなっている。さて、この結婚話を聞いて感じたことは、すべての面において完璧な人間はいないということである。一長一短がある。ある面では優れた能力があるが、他の面では見劣りがするのが普通だ。人間観察をしてみると、プラス面とマイナス面が相殺されて、程よい調整がなされれているように感じる。見知らぬ男女が結婚して、子供を産み育てていくということは、そういう不完全な面を持っている者同士が一緒になって助け合いながら共同作業をするということだ。だから自分も相手もプラスとマイナスを同時に兼ね備えた存在であるという自覚を持って結婚することが大切だと思う。結婚したら、上から下目線で自分の考え方と合わない伴侶を非難、否定することは控えることだ。自分の意に沿わない伴侶を、包容力を持って受け入れたり許してあげることが欠かせない。そういう関係性を築くことができれば、相手の足りないところは自分でカバーしてあげようという気持ちが芽生えてくる。スカーレットの場合、レットとアシュレーのどちらと結婚するかについては、自分と相手の性格特徴を十分に比較検討したほうがよいと思う。その際、自分と相手の性格特徴がよく似通っているというのは考えものだ。私の経験上、自分と相手の特徴は別々の組み合わせのほうがよいと感じている。例えば、相手が豪放磊落であれば、自分は繊細緻密である。相手が発揚性気質の人であれば、自分は神経質気質であるというような関係である。お互いがお互いの不足分を補うという関係である。磁石はプラスとプラス、あるいはマイナスとマイナスを近づけると反発して離れようとする。反対にプラスとマイナスを近づけようとすると固く結びついてなかなか離れようとしない。二人を一つにしてみれば実にバランスがとれているという関係である。性格特徴が違っているので時には激しくやり合うこともあるが、相手のよさを自覚していると、雨降って地固まるように夫婦の人間関係は時を経るにしたがって相思相愛となるように思う。これは夫婦関係だけではなく、会社でもいえることだ。私はある時期、社員の採用担当をしていたこともあったが、同じような性格特徴の人ばかりを採用してしまうという傾向があることに気がついた。自分の性格と似通った人を採用してしまうのだ。本来人間は企画力、行動力、営業力、調整能力、マネージメント、事務処理などそれぞれの能力に特徴がある。それなのに同じようなタイプの人ばかりを採用していたのでは、バランスが悪くなり、会社の業績にまで影響が出るのである。自分とは異質な人も必要なのである。多才な能力を持った人間が、それぞれの持ち場で最大限に能力を発揮してくれてこそ、会社は発展していくものだと思う。
2019.05.22
コメント(0)
私は、森田理論を学習して、「かくあるべし」で現実、現状を否定しているから、精神的な葛藤や苦しみが生まれてくるのだということは理解できました。しかし、理解したからといっても、精神的に楽になったかといわれるとまだまだだと思っています。理解することはまず最初に取り組む課題ですが、そこにとどまっていては苦しみは増大していく。理解することと身に着けるということは別物だと思います。「かくあるべし」という自動思考が改められて、「事実本位」の自動思考に置き換えられることが大切だと思っています。例を上げて説明したいと思います。仕事をしていると、解決の困難な問題に直面することがあります。ミスや失敗をすると上司や同僚達から非難されて、仕事に対する情熱をなくしてしまうこともあります。そんなことがなくても、マンネリ化して、仕事は面白くないと感じることもあります。こんな時、どんな感情が湧いてくるでしょうか。仕事はしたくない。休みをとって、仕事や人間関係のわずらわしさから解放されたい。仕事を辞めてしまいたい。宝くじにでも当たれば、すぐに辞表を出したい。これが偽らざる自分の本音です。でもこのような感情は、「かくあるべし」で否定してしまいます。それは自分のわがままだ。常識外れの子供じみた感情だ。仕事をしたくないなどいう気持ちは気分本位だ。気分本位の考えはダメだ。有給をとって休むと、他の人に自分の仕事を肩代わりしてもらわないといけない。たとえ休んでも罪悪感で苦しむことになる。どれだけ他人に迷惑をかければ気が済むのだ。また退職すれば、どうやって生活するのだ。最悪飢え死にしてしまうぞ。社会からも相手にしてもらえなくなる。家族はどうやって養っていくのだ。だからイヤなことがあっても、つまらないと感じても絶対に会社を辞めてはいけない。これだけは肝に銘じて生きていくことだ。このように本来の自分の気持ちや感情を否定し、抑圧しているのです。すると、自分の気持ちと「かくあるべし」という考え方の間に埋められない溝ができてきます。この埋められない溝が葛藤や苦悩の発生の原因になっているのです。このような場合、主導権を持っているのは「かくあるべし」です。「かくあるべし」が自分の気持ちや感情を、あってはならないもの、邪悪なものとして取り扱うことが当たり前の状態になっているのです。森田理論で「思想の矛盾」と呼んでいるものです。これが神経症の発生、固着の大きな原因となっています。また、生きづらさや全般性不安障害、気分変調性障害、慢性うつ病などの原因となるものです。ここでは自分の気持ちや素直な感情に光を当てていくことが大切になります。そこから出発する態度を養成することが重要です。自分は、「このように感じているのだね。つらい気持ちなんだね」と受け入れることが、真っ先に取り組むべき課題となります。自分の気持ちや素直な感情を打ち出すことによって、「かくあるべし」という考えを抑え込むことです。主導権は自分の気持ちや素直な感情の方にあるとよいのです。この場合は、退職すれば当然路頭に迷うことになりますから、すぐに退職という方向には向かわないと思います。でも、自分の気持ちや素直な感情を楽にする方法をいろいろと考えるようになります。「かくあるべし」との間で、自分の気持ちや感情を優先にして、折り合いをつけるように試行錯誤するようになります。これは「かくあるべし」に翻弄される生き方とは全く違ったものになります。
2019.05.21
コメント(0)
岡田尊司さんの本からの引用です。ある60代の男性が自殺しようとしていたところを妻に発見され、精神科の病院に連れてこられた。抗うつ薬などが処方されたが、なかなか改善せず、無気力な状態が続いていた。担当医との面接の時も、男性は悲観的なことを口にするばかりであった。ただ、男性の目に光が戻った瞬間があった。それは料理の話をしていた時で、男性は退職するまでホテルで料理人として働いていたのだ。担当医は症状の話をするよりも料理の話をよくするようになった。すると、ほとんど自分からしゃべることのなかった男性が、少しずつ話をするようになった。そんなある日、思い切って担当医は、デイケアの料理教室で他のメンバーに教えてやってくれないかと頼んでみた。最初、男性は気が重そうにしていたが、スタッフも手伝うからと安心させ、同意を取り付けた。実際、キッチンに立ってみると、男性は別人のように手際よく説明し、見事な包丁さばきを見せた。皆が感嘆するなか、教室が終わるころにはその顔は自信に満ちたものとなっていた。それがきっかけとなって、男性は元気を取り戻し、すっかり回復して退院していった。(人を動かす対話術 岡田尊司 PHP新書 40ページより引用)この話は、生きがいを持つことがいかに大切であるかということだ。食事をすることと同じくらい大事なことだ。やるべき課題を持っている。さらにそれが人様の役に立っているという感覚だ。それが精神状態を健康に保つためには欠かせないのだということを教えてくれている。私はやるべき課題で、一番基本的なことは日常生活の中にあると思う。食べること。そのために毎日料理を作る。食材を買いに行く。できれば野菜作りをする。加工食品を作る。洗濯をすること、部屋の掃除や整頓をすること。それらに一心不乱になって取り組んでいく。いわゆる凡事徹底に取り組むことだ。ついでに言えば、自分や家族の身の回りのことに取り組んでいく。そんな雑事は面倒だ。できればやりたくないというのは危険な兆候だ。今では、宅配弁当、食材の配達、スーパーなどの豊富な惣菜や弁当、外食などが豊富に用意されている。味もよい。料理を作る手間もいらない。ごみもあまりでない。洗いものもない。こんな恵まれた状況にたっぷりと浸かって、その恩恵を十二分に味わっている人も多い。しかし、便利だからといって、完全に依存体質になってしまうと、無気力、無関心、無感動になって生きがいが根こそぎ奪われてしまうことを肝に銘じておくべきだと思う。一旦悪循環に陥ってしまうと、なんとか立て直さなければと思っても、どうにもならなくなるのである。
2019.05.20
コメント(2)
樹木希林さんの「一切なりゆき」(文春新書)という本はすでに100万部を超えている。その中に「いい意味での人間の美しさ」という一文がある。60歳を過ぎたら60歳を過ぎたなりの、何かいい意味での人間の美しさっていうのがあるような気がするのです。そういうふうに年をとっていけたらいいんじゃないかなって、それが実感なんです。普通歳をとると、シワやシミが出てくる。白髪が出てくる。髪が抜けてくる。歯が悪くなる。骨がもろくなる。体力がなくなる。気力がなくなる。足腰が痛くなる。いろんなところに痛みが出てくる。物忘れが激しくなる。生老病死といって、老いることは人間の宿命とはいえ、苦悩の一つにあげられています。これらを40代50代の人と比較して、嘆き悲しむ人もいます。中には肉体改造に取り組んだり、若く保つためのサプリメントを飲む人もいます。できるだけ若返りを図ろうとしているのです。あるいは老化を先送りにしようとしているのです。この涙ぐましい姿は現実を否定して、理想の容姿を手に入れようとしているのです。あまりにもそのことにとらわれすぎるのは考えものです。これは事実や現状を否定して、「かくあるべし」に合わせようとしている態度と同じです。思想の矛盾で精神的に葛藤や苦悩を抱えて苦しくなるばかりだと思います。これに対して樹木希林さんは、そんな涙ぐましい不可能に挑戦することはやめようよといわれているのです。他人と比較しない。隠したり改造することはやめて、一切なりゆきに任せて生きていくんだと宣言されているのです。現状をあるがままに受け入れて、事実のままに生きていこうとしておられたのです。75歳で亡くなられましたが、亡くなる前は全身がんで苦しんでおられました。すべてを受け入れて、今現在自分のできることに懸命に取り組んでおられました。自分に備わっているものを最後まで活かしていくということを、森田理論では「物の性を尽くす」と言っております。樹木希林さんは、自分の心身を最後の最後まで活かしきった人だったのではないでしょうか。
2019.05.19
コメント(0)
自分や他人を悲観、非難、否定する生き方から、いかなる事実や現状であっても素直に認めて受け入れる生き方を身につけるための習慣をいくつか紹介してみたい。1、森田理論の「純な心」を実践する。純な心の眼目は、出来事に対して「初一念」という感情が湧き出るということだ。しかしその感情はすぐに掴まえないとたちまち通り過ぎてしまう。そして「かくあるべし」を含んだ初二念、初三念の感情が湧き出てくる。それに基づいての言動は、言い訳や弁解、自己否定、他人否定を招いて対立関係に陥りやすい。この時、初二念や初三念を横において、「初一念」を思いだして、そこから行動できるようになるとよいのだ。2、私メッセージの発信を心がける。あなたメッセージは、相手を非難、否定、脅迫、強制に追い込んでしまう。私メッセージは、自分の素直な気持ちに焦点を当てているので、相手に自分の「かくあるべし」を押し付けることを避けることができる。3、相手の話をよく聞く。自分の気持ちや意見を述べる前に、相手の立場に立って、相手の言い分をよく聞くようにする。自分の気持ちや意見とは食い違いがないかと謙虚な気持ちで相手の話を聞く。そうすれば、いきなり自分の「かくあるべし」を押し付けることを回避できる。4、「ありがとう」「おかげさまで」などの感謝の言葉を意識して使うようにする。感謝の気持ちがなくても、意識して感謝の言葉を使っているうちに、自然に感謝の穏やかな気持ちになってくるから不思議である。これは森田でいう、形から入るということだ。「玄関の靴がそろうと、心がそろってくる」ということと同じことだ。感謝の態度は、友好的な人間関係を引き寄せる。事実本位の生活に近づいていくのだ。5、身近なことで他人の役に立つことを見つけて実践する。一度会った人の名前を覚えておく。笑顔を絶やさない。道を空けてあげる。心からほめる。本を貸してあげる。ごみを拾う。手伝ってあげる。相手の話し相手になる。温かい言葉をかけてあげる。ちょっとしたものをプレゼントする。これはいくらでもある。すぐに実行することだ。今すぐに実行できなければ、メモしておいて、後日実践する。そういう気持ちを持ち続けることは、「かくあるべし」を押し付けることとは対極になる方法である。6、次のような標語を作って意識付けを行う。「自分は自分がどんなことことになっても見捨てない。自分を守り抜いてみせる」「自分はいつも自分の最大の味方だ」「自分は一生涯自分を愛している」これに類する言葉を自分なりに見つけて「スローガン」にする。机の前に張り出したり、メモするなどして、声を出して読みあげる。こんな習慣を続けると、いつの間にか自己嫌悪、自己否定の気持ちはどこかに逃げだしてしまうのではないかと思います。以上の中から1つでも自分の生活の中に取り入れてものにしてみてください。確実に「かくあるべし」を減らして、事実に立脚した生活態度が身についてくるでしょう。
2019.05.18
コメント(0)
昨日の続きを書いてみたい。「かくあるべし」の弊害が分かったからといっても、その呪縛から解放されることはないだろう。それは大脳の前頭前野が発達した人間の宿命であると思う。また生まれて今まで、「かくあるべし」教育を受け続けてきているので、いかんともしがたい。つい気を抜いた生活をしていると、事実や現状を見て、批判、否定、悲観的になるのである。現在のことに不平不満を抱いたり、過去のことを後悔し、将来のことに取越し苦労してしまうのである。自己信頼感や自己肯定感が持てなくなってしまうのである。他人とは常に対立的となり、専守防衛一辺倒に陥ってしまう。だから、「かくあるべし」のない世界を求めることはとても困難である。ここで肝心なことは、その状態が私たち人間の偽らざる実態なのだと「自覚」しておくことが大切だと思う。自覚していれば、上から下目線で事実や現実を批判、否定、悲観したときに、「ああ、またかくあるべし思考に陥っている」と気づくことができると思う。ネガティブ思考、マイナス思考、現実否定、存在否定、自己嫌悪、自己否定、他人否定に陥っていればすぐに気づくことができる。自覚がないと、「かくあるべし」思考にどんどん流されてしまう。そして、次から次へとネガティブな感情をおびき寄せてしまう。行動も後ろ向きとなる。生きている意味を見出せなくなってしまうのである。残念な人生で終わってしまうのだ。その悪循環に陥っていることに気づくことができる人は、その状態を客観化する作業に進むことが大切である。これは「かくあるべし」で自分や他人をコントロールしようとしている状態を、一歩引いた状態で眺めてみるということだ。ここでは是非善悪の価値判断をするのではない。「かくあるべし」という思考パターンに陥っている状態を、第三者的な視点で価値評価しないで分析するということである。客観化するといってもよいだろう。私はネガティブで否定的、悲観的な考えが湧き起こってきた時は、自分自身に対して次のような言葉をかけている。「今、事実や現実を上から下目線でみていませんか。批判、否定、悲観的になっていませんか」ほとんどの場合、「そうです。あなたのおっしゃるとおりになっています」となります。この段階にくると、やっと「事実に立脚した考え方や行動」の方に注意や意識が向いてくるのです。事実を価値批判なしによく観察しよう。どんなに意に沿わなくても事実を認めてしまおう。最終的には事実を受け入れよう。自分は自分の最大の味方になろう。相手がいれば共感と受容の気持ちを持とう。相手の話をまずはしっかりと聞こう。相手の立場に立って考えてみよう。相手と共存共栄の関係を築いていこう。これは森田理論でいう「あるがまま」「事実本位」の態度ですね。いつも理想通りになることはありませんが、方針がしっかりしていると、横道にそれてもすぐに原点回帰できます。事実に立脚した生き方を目指している方に、このやり方をお勧めしたいと思います。
2019.05.17
コメント(0)
森田理論学習の中で、「かくあるべし」の弊害をしっかりと頭の中に叩き込んでおくことは、事実に立脚した生活を考えるうえでとても大切なことだ。今日は「かくあるべし」思考の弊害について考えてみたい。「かくあるべし」は、観念、思索を優先する態度のことである。そのような態度は、完全主義、完璧主義。理想主義、目標達成至上主義、勝利至上主義、征服欲などに陥りやすい。そうなると、理想と現実との間にギャップが出てくる。そのギャップを埋めるために、観念や思索が主導権を持ってしまうことが、その後の展開に悪影響を及ぼしているのである。不満だらけの、事実や現実を認めることができなくなるのだ。心もとない事実や現実に対して、批判、否定、悲観、対立、無視を繰り返すようになる。そして事実や現実を観念や思索のほうに無理やり従わせようとするのだ。そのような態度を自分自身に対しても、周囲の人に対してもとっているのだ。これが神経症に陥る大きな原因の一つとなっている。自分の素直な感情、気持ちや本音はいつも踏みにじられているのだ。このような態度で、生きていきなさいと脅迫されているようなものだ。これが自分という一人の人間の中で繰り返されているのだ。こういう人は、自己信頼感、自己肯定感が持てない。人間社会の中で、仲間はずれにされるということを極端に恐れるようになる。それは、いつも自分の気持ちや本音を抑圧して、相手に合わせるという強い「かくあるべし」が影響を与えている。自分で自分を自己疎外しているのである。自分の素直な正直な気持ちに反抗することは本当につらい人生だ。精神科医の藤井英雄氏は次のように述べている。・相手が不機嫌になるのを恐れて意見をハッキリ言えなかったり、断られるのがつらいので誰かに何かを気楽に頼めなくなるだろう。何でも自分で抱え込むようになる。・何かをはじめる前から、失敗しそうだという漠然とした不安につきまとわれてしり込みしてしまう。また、恐る恐るはじめてみるとやっぱり失敗して、「ああ、やっぱり失敗した」と思ってしまう。・ちょっと批判されると、全人格を否定されたように傷つくという傾向もある。いつも人目を気にして生活をしているから、もう疲れ果てて、とにかく不幸な人生を送ることになる。(自己肯定感が高い人になる本 藤井英雄 廣済堂出版 23ページより引用)「かくあるべし」でがんじがらめになっている人の人生はみじめだ。自己嫌悪、自己否定、人格否定、周囲の人たちとも何かにつけて対立して摩擦を繰り返す。最後には大自然からもそっぽを向かれて破滅的人生を送ることになる。これが「かくあるべし」思考の弊害の一端です。皆さんも「かくあるべし」を自分や他人に向けてどんな悲惨な人生が待っていたのかをよく振り返ってみてもらいたい。それが分かれば、事実に立脚した考え方を学ぶ意気込みが強くなるはずだ。
2019.05.16
コメント(0)
初詣で神社でおみくじを引くと、「大吉、中吉、小吉、末吉、小凶、凶、大凶」などが出てきます。その時、「大吉」が出ると、何となく今年一年幸運な出来事があるような気がします。反対に「大凶」が出ると、不吉な出来事が待ち構えているかのような気になります。外出や冒険は極力抑えて、災難に遭わないようにしようと気持ちを引き締めたりします。でも現実としては「中吉、小吉、末吉、小凶」などが出る確率が高いようです。そんな時、何か物足りないなと思う反面、無難なところだなと思う人もいます。逆に、「大吉」が出ると、運勢としては今が最高潮で、これからは下り坂に向かうのではないかと心配する人もいます。逆に「大凶」が出ると運勢としては今が最悪で、これからは右肩上がりの運勢になるのではないかと希望を持つ人もいます。ここで肝心なことは、「大吉」と「大凶」という両極端なおみくじばかりが入っているのではなく、「大吉、中吉、小吉、末吉、小凶、凶、大凶」といういろんなおみくじが入っているということです。またこれは今年1年の運勢がその通りに確定されるものではなく、それを信じるかどうかはその人の気持ち次第という側面があります。このように捉えると、引き当てたおみくじにとらわれていつまでも右往左往することはなくなると思います。私たち神経質者は、おみくじの場合はどうしようもないことなのでそのまま受け入れます。しかし、容姿、神経質性格、思想や観念、ミスや失敗、他人の言動などに対しては、よいか悪い、0が100、白か黒というふうに決めつけてしまうという傾向があります。是非善悪の価値判断をしてしまうのです。せっかちで、柔軟性に欠けていて、融通が利きません。極めて硬直的です。そういう言動をとっていると、自分も苦しいが、他人を巻き込んで生きずらさを引き寄せてしまいます。容姿については、普通だと判定すればそのことを気にかけることはありません。ところが、一旦劣等感を抱いてしまうと、そこに意識や注意を集中させて、いつまでも悶々と悩み続けることになります。また優越感を持つようになると、自分より劣等な人を軽蔑するようなことも起こります。このような極端な考え方や見方をすると、自己嫌悪や自己否定で苦しむようになります。そのうち、自分は何をやってもダメだと人格否定をするようになります。自分の人生は終わったも同然だと人生に対して投げやりになる。実際には、髪の毛は薄くても、歯が丈夫だとか、生活習慣病検診では異常がないとか、花粉症とは縁がないとかという側面もあるわけです。逆に言えば髪はふさふさで若く見えるが、歯は入れ歯だらけで、花粉症には弱いという人もいるのです。ですからここで大事なことは、一つの側面からだけ見ていては、間違いが発生しやすいということです。別の側面からも見ることができるような能力を獲得することが必要になります。森田理論では「両面観」「精神拮抗作用」というテーマで学習する部分です。マイナス感情が湧き起こったときに、自分自身に「その考え方、ちょっと待て」と投げかけることができるようになるとよいのだと思います。この能力は意識しているとできるようになります。両面観や多面観で見ることができるようになると、弱みや欠点、ミスや失敗も許せるようになります。森田では両面観でプラス面もマイナス面も均等に見ないと物を見たことにはならない。主観的でネガティブ、悲観的なものの見方は間違いだらけになる。マイナス面に際立った感情が湧き起こったときは、プラス面の感情にも焦点を当てて中和してバランスをとっていくことが、精神的に健康に生活していく秘訣だと考えています。
2019.05.15
コメント(0)
精神科医の藤井英雄さんは、ネガティブ思考が出てきた時は、「ラベル付け」と「実況中継」を勧めておられます。これは「かくあるべし」で、事実、現実、現状、実態を批判し否定している人にとって役に立つことだと思っています。ご存知のように「かくあるべし」は、事実や現実を上から下目線で眺めて否定しているわけです。観念で理想の状態に引き上げようとしています。事実や現実はその存在を拒否、無視、抑圧されているわけです。自然に湧き起こってきた感情に対しても、自分自身に対しても、他人に対しても、そのような態度をとっています。否定から生まれてくるものは、自己否定、他人否定、対立、反発ばかりです。私たちは森田理論学習によって、なんとかその呪縛から解き放そうとしているのですが、なかなか難しいのが現状です。そこで、このような「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」が発生したときに、「ラベル付け」「実況中継」を行うのです。例えば自分自身に対しては、過去のことで後悔する、未来のことで取越し苦労する。現在に不満を感じる。他人に対しては、他人の言動に傷つく。嫉妬、妬み、被害妄想、不満、批判などです。これらの思考はネガティブな感情をおびき寄せて、ますます自分たちを窮地に追いやります。これらは「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」だとみなして、「自己嫌悪」「自分否定」「自分軽視」「劣等感」「嫉妬」「恨み」「怒り」「腹を立てている」「怯え」「後悔」「他人否定」「他人軽視」などとレッテルを貼るというものです。そのことに気づいたとき、古館伊知郎さんのように、「現在私は上司に呼ばれて、叱責されています。その原因は納期を過ぎても仕事が完了していないということです。確かにその通りです。でも問題が発生したのです。私の説明は一切聞いてもらえません。一方的に怒鳴り散らされております。私はやり場のない気持ちでいっぱいになっております」などと実況中継してみるのです。「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」は一旦始まってしまうと、精神交互作用で悪循環を招いてしまいます。それを打ち破るためには、その負の連鎖に陥らないために、意識して客観化してみるということです。あたかも第三者的な視点で、自分の「かくあるべし思考」「ネガティブ思考」を眺めてみるということです。もしこういうことができれば、自己嫌悪、自己否定、他人否定、他人軽視、対立や反発には陥りにくいだろうと思います。そして私たちが目指している「事実本位思考」「ポジティブ思考」への転換がはかられやすいのではないか。これらは、現状や事実をよく観察する。そしてありのままを認める。受け入れる。相手の立場に立って理解しようとする。考えてみるということです。こうなれば自分や他人を肯定して、友好的で共存共栄の人間関係を築くことができるのではないでしょうか。
2019.05.14
コメント(0)
私は田舎にたくさん畑があるので、通うのが少々遠いのですが、花と野菜つくりを楽しんでいます。花が庭いっぱいに咲き乱れ、帰るのが待ち遠しいです。また野菜たちが帰るたびに大きくなっているのを見るのはとてもうれしいものです。近所の人たちが親切に野菜つくりのコツを教えてくださるので交流の輪も広がります。作っていない野菜をいただくこともたびたびあります。野菜つくりをしていると、人間関係の面でいろいろと勉強になります。数多い野菜たちは、それぞれに姿かたちも違い、強い自己主張をしているということです。近所の野菜名人の人によると、カボチャ、サツマイモ、トウモロコシなど一部の野菜を除くと、同じ場所で連作をしてはならないといわれます。トマト、ナス、ピーマンなどは最低でも3年は空けるように言われます。そうしないと病気になりやすく、収穫量も落ちてくるのです。ジャガイモは2年以上空ける。ダイコンやニンジンでも1年は空けたほうがよいといわれます。私が教えてもらっている人は、それこそ百姓といわれるくらい、いろいろな野菜を作っています。イノシシに荒らされないように、畑にフェンスを張り、6つぐらいの区画に分けて、きちんとローテーションを組んでおられるのです。それは実に見事でほれぼれしてしまいます。また野菜たちは、人間社会と同じように、気の合う仲間と犬猿の仲といわれる組み合わせがあります。同じ野菜同士は、気が合いそうな気がしますが、実は組み合わせとしては最悪です。神経質者同士、発揚性気質者同士の結婚がお勧めできないのと同じようなものです。短期的に見るといつも喧嘩を繰り返しているようですが、長い目で見ると、性質の違う者同士の方が、お互いの長所や欠点を補いあって全体としてはうまくいくということでしょうか。野菜を植えるときは、気の合わない野菜の組み合わせは、あらかじめ分かっているので、できるだけ離して植えます。例えばジャガイモの横にトマトを植えるのは避けたほうがよいそうです。また前作と後作はどのような組み合わせをするとよいのかも、長年の経験で分かっています。キャベツの後のジャガイモ、ジャガイモの後のトマト、ナス、ピーマン、ハクサイの後のサツマイモ、ホウレンソウ、ジャガイモの組み合わせはよくないそうです。このような配慮をしないで植えたところ、近所の人に笑われてしまいました。反対に、トウモロコシにダイコン、ナスにキャベツ、ホウレンソウにサツマイモ、レタスにタマネギの組み合わせはとても相性が良いそうです。その他、トマトやナスなどの横にマリーゴールドを植えておくと、根を侵すセンチュウの被害を防ぐことができるそうです。こういうのを共栄作物というのだそうです。共栄関係にある作物は害虫の被害を最小限に抑えたり、病気を未然に防いでくれています。また相乗効果が働き収量アップにつながります。野菜つくりは、手軽に楽しめるし、奥が深いと思います。これからは土つくりにも力を入れて、精一杯楽しみたいと考えています。果樹、草花、加工食品つくりへと広げて自給生活に近づいていくことが夢です。
2019.05.13
コメント(0)
精神科医藤井英雄さんのお話です。カウンセリングで行われる「傾聴」は次のようなことです。例えば、仕事でつまらないミスをして自己嫌悪に陥りました。本人は「ミスをして私はダメな人間だ」と自己否定します。そんな時、彼に同情する人は、「大丈夫だよ。誰だってミスはするんだから」と慰めます。これに対して「傾聴」できる人は、「ミスをした自分が嫌になったんだね」と言います。別の例です。仕事のミスを批判されて悔しい思いをした。自分に対して、「批判されたぐらいで落ち込んでどうする」と叱咤激励します。彼に同情する人は、「批判されたら悔しいのは当然だよ」と慰める。これに対して「傾聴」できる人は、「批判されて悔しかったんだね」と言います。(自己肯定感が高い人になる 藤井英雄 151ページ要旨引用)ここで大事なことは、目の前の出来事に対して、事実を言葉にして白日のもとに晒すということです。仕事でつまらないミスをしたという事実。自己嫌悪に陥ったという感情の事実。仕事のミスを批判されたという事実。悔しい思いをしたという感情の事実です。ここでは目の前に実際にあった事実とそれに基づいて湧き起こってきた感情の事実の2つがあります。そのためには事実をよく観察することが欠かせません。先入観や決めつけで行動することは、事実本位からどんどんそれてしまいます。次にその事実に対して、よいとか悪いとか価値判断してはいけません。価値判断することは、「かくあるべし」を自分や他人に押し付けることにつながるからです。私たちがすべきことは、事実を具体的で正確に言葉で表現することです。その2つの事実を認めて受け入れることが肝心です。当の自分もそうですし、周りの人もそういう態度になればよいのです。集談会では盛んに、受容、共感、傾聴ということが言われます。これを心がけるということは、あるがままの自分、あるがままの他人を素直に認めて、受け入れるということにつながります。つまり森田理論が目指している、「かくあるべし」を少なくして、「事実本位」の生き方を身につけるための修養を続けているということにつながります。
2019.05.12
コメント(0)
あるがままの自分、あるがままの他人を認めて受け入れることが森田理論が目指しているところです。これは不安と欲望の調和を図ることと並んで、森田理論の大きな2つの永遠のテーマです。あるがままの自分を認めるということは、揺るがない自己信頼、自己肯定感を高めていくことである。実現できれば、他人に振り回されなくなるので、葛藤や苦悩が激減するでしょう。そのためには、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害に気づくこと、さらに「事実本位」の生活態度をいかに高めているかということに尽きると思います。今日は、自己信頼感、自己肯定感が揺らいでくるとどうなるのか、その弊害について考えてみたい。1、常に他人と対立関係に陥る。常に勝つか負けるかということに注意や意識が向いてくる。これは自分に対する信頼感、肯定感が持てないので、相手と争って勝つことによって、精神的な優位性を保とうとするのである。しかし喧嘩腰の人間関係のために、精神的に大変疲れる。また、相手に喧嘩を売ったり、いじめを繰り返すことになるので、助けたり助けられたりという共存共栄の人間関係は築くことができない。2、他人の自分に対する承認や賞賛にとらわれるようになる。そのために、自分の気持ち、感情、意志などが後回しになる。抑圧するようになる。相手から存在、容姿、行動、性格、境遇などで批判や否定の対象とならないように、都合の悪い事実を隠す、逃げ回る、ごまかすことに躍起となる。また賞賛を浴びようとして、無鉄砲な行動に走ることも発生する。いづれも理想通りに進展することは少なく、ストレスだらけとなる。最後は心身共に傷だらけになることもある。3、そのイライラを鎮めるため、ストレスを発散するために現実逃避して、快楽追及に走る。アルコール、薬物、ギャンブル、ネットゲーム、買い物、グルメ三昧などである。あまりにも依存しすぎると、身体や精神の不調に陥る。自分だけならまだしも家族を巻き込んでしまう。そして経済的な破綻を招いてしまう人もいる。4、地位、名誉、出世、権力欲、名声、財欲、独占欲、支配欲、自己顕示欲などにとりつかれる人もいる。これらの欲望は、一旦暴走を始めると始末がつかなくなる。坂道を転がる雪だるまのようになり、最後に破滅を迎えて終焉となる。今までの歴史が示している通りである。5、そのようなエネルギーのない人は、観念的な悪循環、行動の悪循環のスパイラルに陥る。考えることは、ネガティブで内向き、行動は引っ込み思案となる。無気力、無関心、無感動、無作法となる。生きている意味を見失い、生きることは苦しいものだと考えるようになる。「かくあるべし」を少なくして、自己信頼感、自己肯定感を育んでいかないと、このような事態に陥ることを理解して、森田道に邁進してもらいたいものである。このブログで紹介しているように、森田理論には、そのためのヒントが宝の山のようにあります。
2019.05.11
コメント(0)

これは以前大阪の万博公園で撮った柳の木です。壮観です。柳の木を見ていると、不安や恐怖に対する対応方法を誤らないようにと教えてくれています。風のない穏やかな日は、ゆらゆらと揺れています。ところが一旦強風が吹くと右へ左へと大きく揺れています。極めつけは台風が直撃したときです。枝は上下左右はげしく揺れて、引きちぎれないばかりに、乱れ狂っています。このまま放置していると、大変なことになってしまうと心配になります。何とかして、その乱れた動揺を抑えないと、明日の朝は無残な姿をさらしているに違いないと確信します。ところがどっこい。台風一過の次の朝には何事もなかったようにたたずんでいるのです。その姿には安心感とともに感動を覚えます。一方、何百年も生きてきた日光の松の大木は少々の台風などにはびくともしません。相撲取りが小中学生に胸を貸すようなもので、実に堂々としています。傍で見ている人もその力強さを安心してみていられます。ところが、大型台風が来たときには、たまに意外なことが起きます。次の朝、あのびくともしなかった松の大木が無残にも折れてしまっているのです。強風に対して限界までは抵抗して何とか持ちこたえていたのですが、限界を超えてしまうと、自分の命を守ることに失敗してしまったのです。これは人間でいえば、不安や恐怖、違和感や不快感と格闘して、神経症に陥ったり、うつ病を発症するようなものではないでしょうか。柳の木と松の大木の生死を分けたものは何だったのでしょうか。それは不安や恐怖、違和感や不快感が湧いてきた時に、それを取り除こうと果敢に挑み続けたのか、あるいはそれらに抵抗しないで受け入れたかの違いです。たとえ心の中が混乱してどうにかなりそうになっても、じっと我慢して抵抗しなければ、時間の経過が薬となって、万事うまくいくようになっているのです。感情の法則が働いているのです。台風にとってみれば、抵抗しない人は、相手を簡単に破壊してしまえるようですが、実際は自分がまけているのです。肩透かしにあったようなものです。負けるとは思いもしなかった相手に負けたわけですからさぞかしショックでしょう。松の木は、最初とても強そうで勝ち目はなさそうに思えましたが、勢力を増強して立ち向かえば、相手も応戦してくれるので、やりがいがあるのです。そして最後には屈強な相手を倒してしまったのです。固定観念や常識で判断したことと、実際の事実は全く異なっていたということです。私たちは柳の木に学び、どうすることもできない不安や恐怖、違和感や不快感は謙虚に受け入れるという能力を身に着けることが大事になってくると思います。その手法はぜひ森田理論で学んでください。不安にいつもとらわれてしまう人は、柳の木を写真に撮って机の前に貼って意識付けをすることをお勧めします。
2019.05.10
コメント(0)
どうしたら「自己肯定」ができるようになりますかと聞かれることがある。自分が嫌いで、自己否定ばかりしている人にとっては、とても魅力的な言葉だ。私は「自己肯定」の定義を次のように考えている。現実のあるがままの自分を認めて受け入れている人である。自分の容姿、性格、能力、境遇、運命などを他人と比較することなく、かけがいのない存在として認めることができる。弱みや欠点のある自分を許してあげることができる人。またミスや失敗をしても、自己嫌悪、自己否定することなく、自分に寄り添って励まし続けることができる人である。これは森田理論でいえば、あるがまま、事実本位の態度で生活している人である。そうなるためには、自分の身体や心は自分の観念や思考で、いかようにもコントロールできるという前提に立つと難しい。私は自分の身体は神様からの預かりものという立場に立っている。その体に自分の魂が宿って、心身が一体となってこの世に存在しているのだと思っている。そういう前提に立つと、自分の身体や精神を自由自在にコントロールしてはならないという気になる。預かりものだから、丁寧に扱わないといけない。傷つけたり、壊さないように細心の注意を払うことが求められる。さらに、預かったときよりも、心身とも少しでもよい状態にして、神様にお返ししたいと思うようになる。そうすれば預けた神様も望外の喜びを感じる。もしかするともっと大きな役割を与えて、再び生き返らせてみたいと思うかもしれない。そのように意識すると、今現在自分がこの世に存在していることは、感謝以外には言葉がない。そこを出発点と考えれば、自己嫌悪、自己否定に陥ることはなくなるのではないか。どんなに問題があろうとも、自分に与えられた条件を素直に受け入れて、目線を一歩上にあげて、できる限りのことに取り組んでいこうという気持ちが生まれてくる。お断りしておくが、これは私が考えていることで、異論がある方もおられると思う。そういう方は読み流していただきたい。ただここでいいたいのは、「自己肯定感」を持ちたいと思われるならば、森田理論でいう「事実本位」「あるがまま」の意味を十分に学習して、それを実際の生活面に応用していかないと、絵にかいた餅になってしまうということである。「かくあるべし」の弊害を理解して、思想の矛盾を少しでも打破できている人が、「自己肯定感」を育みつつある人であると思っている。自己肯定感を手にすると、他人の言動に振り回されることがなくなる。依存体質も脱却できる。現実逃避、所有欲に振り回されなくなり、人間関係の悩みが少なくなり、周りの人たちと和気あいあいで楽しく生活できるようになる。ぜひとも森田理論の学習と実践によって自己肯定感を身につけようではありませんか。
2019.05.09
コメント(0)
今日は森田先生の言葉を紹介します。そもそも平常心と言うものは、作るものではなくて・有るものであります。恐ろしいならば 、恐ろしいままの心、それが平常心であります。よく「なりきる」ということをいいます。ここに掛け軸がかかっています。「平常心」と言う字が面白く書いてあります。純な子供ならば、すぐにこれに見入って、筆勢につれて、身体をくねらせながら見ます。それが成りきった姿であります。ところが神経質ならば、 「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは自己と対象と、別々に観察している姿であります。考えつつ見るから、どんな風に書いてあったか、よく覚えていません。心が内側ばかりに向いています。つまり自己批判が強すぎるのです。今、その字に見入っているときには、我を忘れて、その字になりきることです。あるいはまた、自分のことばかりが気になっているときには、字はわからずに、自分自身になりきるのであります。どちらでもよろしい。なりきりさえすれば、そこに比較がなくなるから迷いはなくなります。これを私なりに考えてみました。子供が掛け軸を見ている姿は、意識が外向化して、対象物と一体化している状態です。我を忘れて一心不乱になっているのです。注意や意識が自分に向かうことはありません。迷いがありません。この時、判断力や分析力を司っている前頭前野は休んでいる状態です。運動野などから前頭葉を経由することがなく、手足に指示が出ている状態です。別に前頭前野を経由して、比較検討しなくても、正常な行動ができています。というよりも、前頭前野がおせっかいを焼かないからこそ、適切な行動ができているとみたほうがよいのです。動物は前頭前野は発達していません。ですから、行動するにあたって人間のような迷いはありません。比較検討して、行動を選択できる能力は人間だけに備わった機能です。これが裏目に出ると、不安と欲望との葛藤で意志決定や行動ができなくなってしまいます。もう一つの例は、掛け軸を見ても何の感興も湧き起こらない場合です。こんなことはよくあると思います。美術館に行って絵画を鑑賞しても何の感情も湧かない。あるいはクラッシックコンサートに行って音楽鑑賞をしても感激することがない。こういう状態の時は、素直にその事実を認めて受け入れるとよいのです。それなのに、神経症に陥るような人は、人と比較して、是非善悪の価値判断をしてしまうのです。 森田先生が指摘されているように、「自分はこれを見ても一向に感興がわかない。自分には芸術心が乏しい」などと考えます。それは、事実や現実を否定している態度です。「かくあるべし」を持ちだして、「もっと感性を高めて、人並みに芸術眼を養わなければならない」などと考える必要はありません。しかしついうっかりとこれをやってしまうのです。意に沿わない事実や現状を目の当たりにしても、事実や現実に寄り添う態度の養成が大切なのです。現実を認めることができると、クラッシック音楽でいえば好きな曲と自分には合わない曲があることに気づきます。ベートーベンの第九や田園、モーツアルト、ヘンデル、マーラーの曲には、大きな感動をもらっているわけですから、それを認めて楽しむようにすればよいのだと思います。
2019.05.08
コメント(0)
森田先生のお話です。先月、私どもは筑波山に登りました。私と、私の妻と、私を助けてくれる人と3人であります。私は身体が悪くて、階段を上るのさえも、息切れがするので、最初から頂上は登れないものと断念していました。「とにかく君たちは頂上に登って来なさい。僕はここで待っているから」と言って、 2人は登っていきました。僕は、 1つのところに、じっとして待っているのも退屈なのでぶらぶら歩きました。皆さん。僕はどっちへ歩いたと思いますか?上に向かって歩いたのです。皆さん、ここが大切です。登れないと諦めながらも、上に向かって歩く。それが僕のありのままの生命です。しばらく歩いて、あとを振り返ってみると、かなり登ってきています。ぼくは考えました。頂上までは2丁あるというが、はやこれまでに20間は歩いた。もう残りは100間だ。一間を6歩で歩くとすると、600歩で頂上に着くことになる。また少し歩いて振り返ってみます。もうよほど来た。半分は来た。あと300歩で頂上に着くことになる。また少し歩いては休む。こうしているうちに、いつの間にか頂上に着いていました。ちょうど妻が降りようとしているところでありました。ぼくは喘息で、普段は息切れがするのだけれども、たいして苦しくもありませんでした。皆さんどうです。僕は、登れないと断念していた頂上に上ったのです。イチロー選手も言っていましたが、小さな目標への取り組みを継続することしか、大きな目標に到達することはできません。例えば、心の健康セミナーなどのイベントで200人収容できる会場をいっぱいにしたいという目標を立てたとします。成功するためには、思いつく限りの小さな目標を立てる必要があります。・まずは日程、会場、講師を早めに決定します。・次に発起人、協力者を固める。役割分担を決めて事あるごとに士気を固めていく。・協力してくれそうな、団体を幾つも見つける。共催団体、後援団体との交渉。地元新聞社、県、市、医師会、ライオンズクラブ、ボランティア団体、自助グループとのタイアップ。・広報活動の概略をきめる。チラシの配布、新聞掲載、ミニコミ誌、市の広報紙、生活の発見誌、SNS、テレビ、ラジオなど。・ポスターやチラシの作成と配布方法を決める。・動員の目標案を作る。集談会、近隣集談会、自助組織、共催、後援団体、一般市民に分けて目標数値を設定する。・母体となる集談会の家族、知人、友人、職場の仲間への広報を徹底する。一人3人集めるだけで50人ぐらいにはなる。これはやろうと思えば比較的簡単だ。これはほんの一例だ。このような目標を数多く持つ。そしてさらに細かくしていく。やるべき目標が100個程度出てくれば、成功に近づいていく。実際には付随する問題が山ほど出てくる。コツコツと片付けていくことだ。でもどうにも対応できない問題もある。それは放っておく。やれることだけをすべてやりつくして、あとは天命を待つだけだ。成功すれば、自信がついて、次に進むことができる。目標は大きく、実行は小刻みに分けて、小さな成功体験を積み上げていくことだ。
2019.05.07
コメント(0)

5月4日宮島一周ハイキングに参加した。32キロ。参加者31名。うち女性12名。快晴。宮島桟橋から時計回りに回った。朝8時20分に出発。出発地点に帰ってきたのは20時。帰ってくると極度の筋肉痛と疲れがどっと出てきたが、達成感でうれしかった。その間若干の休憩を取りながら、歩き通しだった。みんなリックサックを背負っている。このコースは、舗装道路は5分の3程度。あとは未舗装だった。岩場と砂場が待ち構えている。これが難関であった。途中13キロ付近より岩場だらけとなる。ひたすら岩を上っては下る。そういう状態が20キロ付近まで続く。その後は険しい山の中を26キロまで進んだ。岩場は3点確保が徹底指導された。慎重に進まないと崖から転落して最悪命を落とす。私は3点確保後の手の置き場所が見つからず、冷や汗をかいた。それが2回あった。それと岩に張り付いた岩ノリの上に足を乗せるとすぐに滑った。岩の上で転倒することは大けがに結びつく。事前の説明が役に立った。またフジツボなどに手をかけるとすぐに血が噴き出てきた。手袋は必須であった。山は歩道らしきものはあったが、けもの道を行く感じだった。ジャングルの中をとげのある木を避けながら進むような状態だ。景色は南国のリゾート地を思わせる。特に包が浦海水浴場ははバンガローなどが立ち並び、バーベキューなどしている人が多い。瀬戸内の島々がすぐ近くに点在し、海水がエメラルドに輝き、ヨットやカヌーが行き交っていた。宮島の裏側は海水が透明で、表側とは雲泥の差だった。新鮮な岩ノリが豊富にあり、山から流れ出る水はとてもうまかった。いたるところに砂浜があり、船を持ってる人には楽園だろうと思った。参加した女性達はバイタリティ、根性のある人ばかりだった。それもそのはず、山歩きの会に入ってアウトドア活動が大好きな人ばかりだった。私は沢登りの得意な女性にサポートについてもらい、指示されたコースを注意深く上った。女性同士は、苦しいのにもかからわず、和気あいあいで、たわいもない話をしながら楽しそうだった。女性は生まれながら、コミュニケーション能力が備わっているのかと感じた。それに引き換え男性は寡黙である。少し話しても、おしゃべりをやめて我が道を行く感じだ。ましてや見知らぬ人とはほとんど話をしない。私は女性は男性よりも体力や行動力で劣っているという先入観を持っていたが、認識を改めた。女性の底力はたいしたものだ。男性よりもたくましい面をたくさん持っている。そういう面が、今回の過酷な状況の中でいかんなく発揮されるのだなと感じた。気づきの多い経験をさせてもらって楽しかった。
2019.05.06
コメント(0)
京都森田療法研究所の岡本重慶氏は生活の発見会のルーツを丹念に調べられた。これによると、生活の発見会の前身は、水谷啓二先生の始められた啓心会である。その水谷先生は、五高の同級生であった永杉喜輔先生と再会され、大きな影響を受けられた。水谷先生が、昭和32年に創刊された「生活の発見」には、森田療法の流れを継承するとともに、永杉喜輔氏から教えてもらった、下村胡人先生の「新風土」の精神を引き継ぐとあった。永杉喜輔氏の経歴をたどっていくと、下村胡人、田澤義鋪に行き着くのだ。この人たちは、個人の自立、自発性、自主性、自己啓発、自己教育、友愛などを重んじ、それによって社会集団の質を自治的に高める運動をされていたのです。具体的には浴恩館、煙仲間における青年団運動、壮年団運動です。憲兵に目をつけられながらも、精力的に活動を続けられていたのです。それらは下村胡人が昭和23年に再刊行された雑誌「新風土」という活動に結びついていきました。ところで、岡本重慶氏は、この人たちが好んで使った言葉があるといわれる。下村胡人は、「凡夫」「凡人道」という言葉を使われている。田澤義鋪は、「平凡道を非凡に進め」といわれている。森田正馬先生は、「凡人主義」ということを言われています。高良武久先生も、「平凡の中の非凡」という言葉を墨書されている。水谷啓二先生は、「我々神経質者は風雲に乗じて成功を遂げるタイプではない。平凡を軽視しないで毎日の仕事に精を出す。そういう生活が20年30年と積み重ねられると非常に非凡な成果を生む」といわれています。社会教育というと、社会の矛盾をつき、直接社会変革を促す人材の育成のことを連想しやすい。この人たちが言っているのは、そうではない。個人的な理想や快楽を追い求めるというよりも、自分たちの日常生活に視点をあてて、日々の生活を大事にして生きていくという考え方なのです。日々の日常生活の中で、小さな気づき、小さな発見、小さな工夫、小さな楽しみ、小さな喜びで満たしていく。それが抜け落ちて、社会変革、地位、名誉、金儲け、刹那的快楽主義などに陥ってはならないといわれているのです。毎日同じ時間に同じことを繰り返していくという生活の中で、充実感や生きがいを感じられるような人が、「凡人道」を邁進している人だと思います。そういう人は、神経症に陥ることがない。淡々とした日々の生活の中から、人生の極意をつかんで、幸せな一生を終えることができるものと考えます。森田理論の目指しているところも、そんな生き方にあります。
2019.05.05
コメント(0)
子育てについて、樹木希林さんは次のように語られています。人を頼まないでやるって事は大変ですよ。それが本当の子育てなんですよ。それもお金がなくて人が雇えないなら別だけれども、 いちおう稼いでて人を雇わないでやるっていうことはね。へたへたになって帰ってもご飯を作ってやるということがね。これがなかったら私、役者をやっていてもしょうがないと思って、頑張っているのですけれどね。(役者よりも子育ての)比重が、それは大きいですよ。だから役者やってた時にひとつの台詞で胸にくるんですよ。日常生活はやっぱりね。それは離婚も結婚も色々あるでしょうけれども、それなりに一生懸命やって、傷ついたり、嬉しかったりしている人たちはやっぱり会ってて素敵ですよね。適当に女優というところであぐらをかいている人は、やっぱり素敵じゃないですね。それはもう、私、どの世界でも一緒だと思うのですよ。(一切なりゆき ~樹木希林の言葉~ 文芸春秋社 27頁より引用)樹木希林さんは、素敵な女優というのは、いくらお金があっても、仕事が終われば、どんなに疲れていようとも、家に帰ってご飯を作っているといわれているのです。食事を作るためには、買い出しも必要です。何を作ろうかと思案します。そして実際に手間暇をかけて料理を作ります。終われば後片付けも待っています。それ以外にも、洗濯や掃除の家事もあります。樹木希林さんは、食事以外の家事にも心を込めて取り組まれていました。多少夫が協力してくれたとしても、役者をしていればめんどくさいと思うこともあるでしょう。でもそれを言い訳にして放棄していては、子供はまともには育たないといわれているのです。子供にこずかいをふんだんに与えて、好きなものを買って腹いっぱい食べなさいでは済まないということです。こずかいでは不満はないかもしれませんが、子供には寂しい思い出しか残りません。そういう女優さんの子供さんで大人になって薬物に手を出して、何度も逮捕されている人もいましたね。あんなに不自由のない生活をさせていたのに「なぜ、どうして」というのは、とても残念な発言です。日常茶飯事を柱にして、丁寧に取り組むことが何よりも大切だということが分かります。日常生活に手を抜きっぱなしの生活は、砂の上に家を立てて喜んでいるようなものです。身体は楽になりますが、精神的にはどんどん空虚になり、生きてても何にも面白いことがないというようになります。そして最後には残念な人生で幕引きということになります。
2019.05.04
コメント(0)

今日はフラワーフェスティバルに行ってきました。日本晴れでした。このイベントに合わせて、一年前から練習を重ねて、この日に臨まれています。田舎の人たちの熱演を見ていて、たくさんの感動をいただきました。
2019.05.03
コメント(0)
樹木希林さんのお話です。私はすべてのものに対して、絶対こうでなければいけないという鉄則はないと思っているのです。例えば私の顔。これはミスして出てきちゃったわけですよ。少なくとも美人女優という枠には入らない。でもこのミスを活かそうと思ってやってきた。今はミスがむしろ面白い顔として受け入れられる時代ですけど、それこそ40年前は、女中の役の顔だってミスは許されなかった。その中で私がこうして生き残れているのは、ミスを活かそうとしてきたからじゃないかと思いますね。(一切なりゆき ~樹木希林のことば~ 32ページより引用)イケメン、美人の人は確かにいます。イケメンや美人に生まれた人は、その特徴を活かして、さらに磨きをかけてモデルなどをすればよいのだと思います。反対にそれを鼻にかけて、男性遍歴、女性遍歴を繰り返している人もいます。そういう人は、晩年を迎えたとき、とてもみじめで寂しい状況に追い込まれている人もいます。自分の特徴の活かし方を間違えているとしか思えません。私たちはイケメンや美人でないからと言って悲観する必要はありません。むしろ悪い虫が近寄ってこないという側面を評価することも大切です。また、いくら衝動的で本能的な欲望が湧き起こってきても、そのおかげで人生が破滅に追い込まれることを防いでくれているのです。ですから、そういう人の容姿や器量と自分を比較して、自己嫌悪、自己否定に陥ることは、お門違いで残念なことです。それよりも私たちは神経質性格の長所と短所を学習したわけですから、神経質性格のプラス面を評価して活かすようにしていくべきだと思います。神経質性格はとてもはぐくみ合いのある性格です。他の性格者は、神経質性格者に生まれたかったと思っても、どうすることもできないのです。神経質性格は、それを持って生まれた私たち神経質者の独壇場なのです。神経質性格者は、感受性が豊かである。感性が鋭い。生の欲望が強い。夢や目標に対しての執着性が強い。まじめで責任感が強い。努力を惜しまない。企画力、創造性、分析力が強いなどの優れた特徴が数多くあります。こういう優れた特徴を持っているわけですから、この部分を活かして勝負をかけてみることです。他人と比較して、弱点や欠点を修正しようとするよりも、強みや長所に光を当てていくことが大切です。そういう気持ちを持って生活していると、実り豊かな人生に変わっていきます。ことさらないものを発見して嘆くよりも、元々備わっているものを最大限に活かしていくことを心がけていきましょう。せっかく森田理論で神経質性格の特徴を学習しているのですから。
2019.05.03
コメント(0)
樹木希林さんは、娘さんによると「恥ずかしいことほど人前に晒す」という生き方を続けてこられたようです。2018年公開の映画「万引き家族」の中で、樹木希林さんは入れ歯を外して演技されました。それに輪をかけて、髪の毛も長くして、手入れもしなかった。是枝監督がびっくりするかもしれないので、事前に見てもらったそうだ。気味が悪いお婆さんでしょ。この映画を見たある人は、「女優がそんなことをするのは、ヌードになることよりも恥ずかしことですよ」といわれた。樹木希林さんは、是枝監督の作品に出るのもこれが最後だと思ったから提案したのです。それに、人間の肉体が老けていく、壊れていく姿というものを見せたかった。高齢者と生活する人も多くなって、今はそういうのをみんな知らないでしょう。この映画の中で、みかんにかぶりつく姿がすごいという人がいるけれども、実を歯ぐきでしごいたの。歯がないって、そういうことなのよ。歳をとると、しわやシミが出てくる。体中の皮膚がたるんでくる。老人顔になってくる。白髪になり、髪が抜け落ちる。自分は大丈夫だという人も、歯がない。体のあちこちが痛い。夕食の1時間後には、どんなおかずだったかも忘れている。昔美男美女で鳴らした人も、程度の差はありますが、歳をとればどんどん老化していくのです。60代で同窓会などに行ってみるとみんな同じようなものです。話題は配偶者が生きているかどうか、同級生ですでに亡くなっている人の話、健康とサプリメント、老人ホームや認知症の話、病院通いの話、いつまでも親に依存している子供の話などです。多くの人は醜く変化していくことに耐えられません。本心かどうか分かりませんが、そんなにしてまで長生きしたいとは思わないという人もいます。現実を受け入れられず、嘆き悲しんでいるのです。それに生きがいがなければ、生きていくことは苦行そのものです。こういう人は、樹木希林さんの生き方や考え方をかみしめてみては如何でしょうか。どんなに恥ずかしいことであっても、事実を認める。包み隠さずに公開することにする。どんなに老いて醜く変化していっても、全力を挙げて自分に寄り添ってあげる。自分は自分の最大の味方なのですから。そして、今の自分ができることに精一杯取り組みながら生きていく。そういう人は、たとえ身体は見る影もなく衰えていっても、眼光は鋭く光り輝き、何ともいえないオーラを醸し出しておられるのではないでしょうか。
2019.05.02
コメント(0)

イベント会場で一緒になる人です。バナナを20房ぐらい並べて威勢のいい啖呵を切って次々と売っていきます。最初は1000円ぐらいから始めて、最後には300円ぐらいになります。一房300円は確かに安い。何回も手を上げていると、あんたもしつこいねと言いながら売ってくれた。元が取れないと思いきや、イベントでやっているため、経費は主催者持ちだという。さあさあ、門司港名物バナナのたたき売りだよご用とお急ぎでない方は、見てらっしゃい、聞いてお帰り荷物にならないバナナ屋自慢のバナナ節だ。おもしろおかしく節つけて、みんなに買わすのが、門司名物のバナナ売りだ。バナナの生まれは台湾だ。台湾バナナは美味しいよ。台湾娘にもぎ取られ、台湾みなとを後にして、船に揺られ揺られて着いたのが、この門司港だ。門司は九州の大都会。ここに来たのが運のつき。荷あげの声勇ましく、問屋のむろに入れられて、夏は氷に冷やされて、冬は80度の高熱で、黄色のお色気ついた頃、バナナ市場に持ちだされ、一房なんぼのたたき売り。さあ買うた、買うた。そこの頭のよさそうなお兄さん、1000円でどうだ。だめか。じゃ200円のおまけだ。それでもいらないか。焼けのやんぱち、清水の舞台から飛び降りたつもりで一声300円でどうだ。一番先に手を上げたそこのおばちゃん。もってけ泥棒。まだまだあるよ。早い者勝ちだ。一声号令のかかるのを待って手をあげるんだぞ。最初から手を上げている人には売らないよ。さあ、準備はできたか。次はずばり100円でどうだ。はい、そこのお姉さんに決まりだ。こんな調子で旦那もゲットするんだよ。こんな調子で瞬く間に完売した。
2019.05.01
コメント(0)
全32件 (32件中 1-32件目)
1


