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1964年、東京オリンピックで大松博文監督が率いる日本女子バレーチームが世界一になりました。彼の代名詞は「俺についてこい」です。ついてこれない人は、「もういい」仕方ないと見放されました。指導は監督やコーチの意向を前面に出したスパルタ教育です。いわゆる「しごき」です。我慢、忍耐、根性が求められ、言われた通りにしないと、鉄拳制裁もありました。このやり方は、日本では、野球やサッカーなどの競技の監督やコーチの指導方針として、長らく受け継がれてきた経緯があります。当時の日本は、近代国家の仲間入りを果たし、高度成長の入り口で国中が大きな期待にあふれていました。企業がより大きな成果を求め、すべての社員を叱咤激励したのと同じように、世界一を目指し、その夢の実現と力でチームを引っ張っていったに違いありません。「根性」や「忍耐」が美徳とされた時代です。こうした上位下達の教育や指導方法は、時代の要請でもあったのです。そうすれば、国民全体の生活水準が向上して、豊かな生活を享受できるという暗黙の了解がありました。実際にその通りになったのです。しかしその後時代は動きました。すべての人が中流意識を持つようになりました。生活物資が家に入りきれないぐらいにあふれ、飽食三昧の生活に変わっていきました。こうなると、現状に胡坐をかいて、誰も好き好んで苦労を背負うことはしなくなったのです。指導者が上でいくら叱咤激励してもついてこなくなったのです。指導者が先頭に立って、「おれについてこい」と言っても、しばらくして後を振り返ってみると誰もついてこないという状況が生まれたのです。なにしろ、無気力、無関心、さぼりたい、楽したいという気持ちが強いのでどうにもなりません。つまり現在大松氏のような指導は死語になっているのです。今は高橋尚子さんや有森裕子さんを育てた小出義雄さんの指導が脚光を浴びるようになりました。小出氏は選手に夢を持つことの大切さ、走ることの楽しさを教えることで、苦しい練習に耐えうる精神を養っています。小出氏は「どうしたらそんなに強くなれるのかと聞かれるけれども、別に特別なことをしているわけやないんです。少なくとも怒ったり、怒鳴ったりすることは一度もありません」と答えている。これは小出氏の心の中に次のような信念があるのだと思います。「人は誰でも潜在能力を備えた存在であり、できる存在である」「人は誰でも問題や課題を解決し、夢や希望を実現したいと思っている」人間の存在、現状、問題や課題をそのままに認めて、生の欲望を見つけ出して、刺激を与え続ける。そして意欲ややる気、情熱にあふれた人間に生まれ変わらせる。私は集談会の中でそういう役割を果たすことができたら、素晴らしいなと考えています。あの人にはオーラがある。あの人のコーチを受けたい。そういう援助ができるようになると集談会はどんどん変わっていくだろうと思います。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 参照 一部引用)
2019.10.31
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飢えている人がいたらあなたは魚を釣ってあげますか、それとも魚の釣り方を教えて上げますか。第一選択肢としては魚を釣ってあげることになると思います。なにしろ飢えて生きるか死ぬかという時には、一刻も早く食べ物を口にすることが何よりも大切です。そんな時に魚の釣り方をくどくどと教えてもらったって何の意味もありません。子供の場合もそうですね。小さいうちは親が獲ってきた魚を与えないと子供は命をつなぐことはできません。これは幼いとき、緊急避難、一時的にはとてもありがたいことです。ところが、大きくなったり、少し余裕が出てきた時は魚の釣り方を教えてもらうことが重要になります。そうしないと自分が一人になったとき、生きていくことができなくなってしまいます。人から施しを受ける生活は、自分では何も考えなくてもよい。食料を得るための行動は何もしなくてもよい。テレビばかりを見て、刹那的な刺激ばかりを追い求めるようになります。その繰り返しは、面倒なこともなく、安楽な生き方ができるようですが、実はとんでもない間違いです。身体の健康状態や精神状態は確実に侵されてしまいます。これは、元々人間は、ただ単に命を生きながらえることだけで生きていけないようにできているということだと思います。そういう宿命を持って生きている生物だということです。森田理論でいう「生の欲望を発揮」している状態が、生きているということにつながるのだと思います。問題や課題、夢や希望に向かって前進しているプロセスの中にこそ人間の本当の生きる意味があるのでしょう。森田理論に不安は横に置いて、目の前のなすべきことをなすという考え方があります。これに真摯に取り組めば、比較的早く神経症の蟻地獄から地上にはいだすことができます。これは自ら森田理論の学習を実際に生活面に応用することで可能となるのです。いつまでも森田理論学習ばかりにエネルギーを使い、実践や行動がおろそかにされたならば、神経症は以前よりもさらに悪化していくというからくりが働くのです。森田理論の学習だけに専念することは、魚を与えられているようなものです。最初のうちはとても大切なことです。ところがそれと並行して少しずつ自分で魚を釣るということをしないと、いつまで経っても自立して生きていくことはできません。森田理論を応用して、自分で魚をとれるようになると、生活は一変します。波及効果として、周りの人にも好影響を及ぼすようになるのです。魚を人からもらうだけではなく、自分で自ら魚が獲れる人間になってほしいものです。さらに言えば、飢えている人に魚を与えるられる人間になりたいものです。
2019.10.30
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最近は駅の構内、バスの待合場所などではほとんどの人はスマホや携帯画面を見ています。外国や宇宙人から見ると異様な光景に見えるかもしれませんね。最も電車の4人掛けの席では、スマホがあるおかげで気まずい思いをしなくてもすむ場合もあります。会社などで同じフロア―で仕事をしている人でも、メールで用件を伝えるということも今や当たり前です。集談会の幹事同士の連絡もほとんどスマホで行っています。スマホ一つで世界のあらゆる情報にアクセスできます。ゲームも音楽も思いのまま楽しめます。フェイスブック、ツィッター、ライン、インスタグラムなどでは友達も作れます。世界中の人とつながることができるのです。今後はますますスマホが生活必需品になりそうです。家でも夫婦の会話はなく、それぞれがスマホと向き合って、それぞれの世界に向き合っていることはないでしょうか。友達と会話し、ゲームをし、ユーチューブを見ています。wi-hi環境があれば好きな映画も通信料を気にすることなく見ることができます。カラオケの練習もスマホ一つで自由自在です。友達とは無料のラインやスカイプで話をしています。株の取引き、お店の支払いもスマホが欠かせない時代です。こうなるとみんな知らず知らずのうちにスマホ中毒に陥っているのではないでしょうか。スマホなしでは生活に支障がある。スマホがないと生活が楽しめないという状況です。また生活費のうちに通信費が夫婦で1万5千円から2万円近く占めているのも問題です。ある新婚夫婦では、妻が夫がスマホに夢中になって自分の話を上の空で聴いているのを不満に思っていました。あるとき、自分の困っていることを相談したとき、「そうなの、困ったね」と他人事のように聞き一向にスマホから目を離そうとしません。相手と目を合わせないで、自分の仕事などを続けながら、相手の話を聞くことは、相手からしてみると自分のことをないがしろにされていると感じます。自分のことは大切にされていない、無視されているのだと感じてしまうのです。ついに堪忍袋の緒が切れた妻は怒りを爆発させました。夫もそれに応戦して、夫婦げんかになりました。しばらくは口もきかなくなりました。妻としては、新婚なので、もっと夫婦の会話を楽しみたいのです。夫が話し相手になってくれないと寂しいのです。それをスマホが邪魔をしていたのです。でも「私と一緒の時はスマホばかり見ないでほしい」と言っても、夫はそういう習慣になっているので、うろたえてしまうのです。何もすることがないときは、スマホと遊ぶことが習慣になっているのです。これはアルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症などと何ら変わりません。依存症になると、どんどんと依存対象にのめりこみ、たとえそれから逃れようとすると精神的にイライラして頭が狂うような状態を招いてしまうのです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」という言葉がありますが、便利で楽しいからといって、やりすぎは問題があります。適度に利用することが大切です。スマホにはありとあらゆるソフトが詰め込まれているので、誘惑が絶えないというのが問題です。
2019.10.29
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不安や恐怖を感じたとき、あるいは緊張感のあるときに有効な「漸進的筋弛緩法」についてご紹介します。基本的な手順としては、体の各部位に力を入れてから一気に脱力し、その脱力した感覚を味わっていく、ということを繰り返します。例えば、両手にギュッと力を入れて、5秒間ほどその状態を保ってみてください。次にその力をストンと一気にゆるめます。指や手のひらの筋肉がすっかり弛緩している状態になっているのが分かるでしょうか。その感覚をしばらく味わってみてください。それがリラックスしているときの手の状態です。次に両腕で同じことを試みます。ギュッと力を入れてからストンと脱力し、腕の筋肉が弛緩している状態をしばらく味わってください。同様にして、両肩、首、顔、背中・・・というふうに、身体の末端から中心へ、各部位に力を入れてから、一気に緩め、その時の筋肉の状態を味わう、ということを繰り返していきます。なぜ一旦力を入れるのかということについては、こう考えると分かりやすいでしょう。不安になっている人や緊張している人は「全身の筋肉に力を入れよう」として入れているわけではありません。無意識に力が入ってしまっている状態です。そういう人に「力を抜きましょう」といっても、そもそも力を入れている自覚がないので、どうすればいいのか分からなかったりします。そういう「無意識に力が入っている状態」を一旦「意識的に力を入れている状態」に変える。そのために力を入れるのです。そうすることで、全身の筋肉を意識によってコントロールしやすくなります。これを訓練として続けていると、意識的に筋肉をコントロールすることが上手くなり、筋緊張に気づいたときにストンと力を抜けるようになります。(悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 中島美鈴 光文社新書 157ページより引用)これと同じようなことが森田理論でもあります。不安に取りつかれている人は、不安を気にしないようにしようと思えば思うほど不安に注意が向いてきます。例えば神経症的な不眠症の場合などがあります。眠らなければいけないと思えば思うほど、頭がさえて眠ることができなくなります。こんな場合は、逆に眠れないならこれ幸い本でも読んで過ごそうと考えて、実行するのです。しばらくは本を読みますが、そのうち疲労で集中力が途切れたころ、ふと目をつむるとそのまま寝てしまっていたということが起きるのです。このやり方は、意識して、不安に身を任せて、さらに積極的に不安を高めていくという方法です。すると不思議なことに、あれほど問題視していた不安が遠のいていくというものです。森田先生は、不安神経症の人にも応用されています。不安はそれを取り上げて問題視しているとどんどん大きくなっていくものですが、それを積極的にさらに増悪してやろうと意識を高めていくと、頭で考えていることとは逆な結果が生じてしまうという現象が起きるのです。
2019.10.28
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アドラーは、「怒りは第二次感情である」と言っています。人は不安や恐怖、嫉妬、寂しさ、無力感、自己嫌悪など、自分の中に受け入れがたい「一次感情」があるときに、それを隠すように怒るという言動をとるものだという考えです。例えば、幼い子供が危険な行動をとり、ヒャッとさせられた親が「危ないじゃないの」と言って怒ることがあります。このような言動の前には、そんなことをすると子供がケガをするかもしれない。大事故に巻き込まれるかもしれない。命を落とすようなことになるかもしれない。こうした第一次感情が隠れているという考えです。現実には子供に怒りをぶっつけているのですが、前提として「びっくりした、ハッとした、心配だった」という第一次感情があるのです。これは森田理論でいう初一念という直観的な感情のことです。第一次感情は、心配だった、不安になった、恐ろしかった、寂しかった、悲しかった、がっかりした、嫉妬したというようなものです。素直で直観的な感情です。ところがこの第一次感情は、意識することもなく、すぐに消えてなくなるという特徴があります。そして人間には引き続いて第二次感情が出てくるようになっているのです。そしてつい、これに基づいた言動をとってしまうのです。この感情は目の前に起こった出来事や事実に対して、弁解、言い訳、ごまかし、隠ぺい、逃避、否定が含まれているのです。相手に対しては叱責、非難、拒否、無視、抑圧、否定などがあります。観念や理性に基づいた「○○しなければならない」「○○であってはならない」などという「かくあるべし」が多分に含んでいるものです。「かくあるべし」を優先した言動は、現実や事実と激しく対立します。すぐに自己嫌悪、自分否定、他人否定で対立関係に陥ります。怒りはこの第二次感情に基づいての言動ということになります。第二次感情に基づいた言動は、弊害だらけというのはお分かりだと思います。突発的な怒りの感情は6秒でピークに達し、それをやり過ごすことができれば次第に沈静化するといわれています。その6秒さえやり過ごせば、怒りに任せて他人を傷つけたり、人間関係を悪化させる行動を控えることができやすくなります。それに加えて、第二次感情を見極める習慣を作ることが大切になります。自分や他人を批判、否定するような気持ちはすべて第二次感情です。そんな時は第一次感情に立ち戻ることが肝心です。危険な行為をしている子供に対して「だめだ、すぐにやめなさい」ということも時には大切です。でももっと大切なことは、第一次感情に立ち戻れるかどうかです。この例で言えば、「お父さんはびっくりした。とても動揺した。でも何事もなくてうれしかった」ということになります。その言い方のほうが子供との関係はよくなってきます。これが森田理論で学習している「純な心」の生活面への応用ということになります。
2019.10.27
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ティモシー・ギャロウエイの著書に「インナーゲーム」がある。コーチングのことが書いてある本です。彼はその中で、「一人の人間の中には二人の自分がいる」といっています。一人は、本能的に知っているプレーをしようとする自分(セルフ2)です。現状を打開してなんとか上手にプレーできるように努力しようとしている自分のことです。もう一人の自分は、その自分に命令を出し、よい悪いと評価をし、もっとうまくやらせようと叱咤する自分(セルフ1)です。何かに無心に取り組む自分(セルフ2)を、もう一人の自分(セルフ1)が冷たい目で眺め、「そんなことじゃダメだ、もっとうまくやれ」と囁きます。セルフ1の声が聞こえた途端、私たちは緊張し、本来セルフ2が知っているはずの最高のプレイができなくなります。セルフ1はまるで、口うるさい親や上司のようです。子どもや部下のすることを信頼せず、くどいほど教え、指示や命令をします。コーチの仕事は、対象者の心をセルフ1に支配させずに、セルフ2に自由にプレーさせることです。それこそが、人間の潜在的な能力の発揮であり、コーチの役割なのです。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 参照)よりよく生きたい。夢や目標を実現したい。人様の役に立ちたい。などと思っている自分を、押しとどめているもう一人の自分がいる。この考え方は驚くべことですが、そういわれればそうだと思う人が多いのではないでしょうか。そんなに苦しい思いをしなくてもいいじゃないか。そんな煩わしいことにかかわり合わないで、他人に任せたらどうだ。もっと快適で楽ができることを存分に味わって生きようよ。こういう考え方にどっぷりと浸かってしまうとどんなことが起きるでしょうか。セルフ1の力が強くなって、セルフ2を軽蔑するようになります。常に完全、完璧、理想の立場から現実を見下すようになります。次第に自己嫌悪、自己否定するようになります。現実や現状は否定するために存在しているようなものです。自分の存在ややることなすことすべてにおいて、批判的、否定的に眺めているので、精神的には本当に苦しいものです。これが神経症の発症の大きな原因となっています。セルフ1の力を弱めて、骨抜きにしてしまうことが重要になります。セルフ1の言うことは、参考程度にとどめて、あくまでも現実、現状、事実にしっかりと根を張って生きていくことです。森田でいう「かくあるべし」を減らして、事実本位に生きていくということです。森田理論学習では、その方法について幾つも提案しています。決めつけや先入観を排除して事実の裏をとる。事実を観察する。具体的に赤裸々に話す、価値批判しないで事実を把握する。両面観、純な心、私メッセージ、自分中心の生き方、win winの人間関係の構築などです。これらを身につけて、少しでも「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活態度を身に着けたいものです。そうすれば神経症的な葛藤や苦悩は激減していくはずです。
2019.10.26
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ほとんどのスポーツにはコーチがついています。野球、テニス、陸上、サッカーなどを見ているとコーチが選手に寄り添って指導しています。ではコーチはどんな指導をしているのか。あるいはどんなコーチが優れたコーチと云われているのか。とても興味があります。コーチングとは、ある人間が最大限の成績を上げるために、その人の潜在能力を開放することを云うそうです。これを具体的に説明してみましょう。私たち一人一人は、まるで一粒種のようなものです。種の中には、発芽、成長、開花、結実のすべての可能性がプログラムされています。たった一粒の種から、何年もかけて大木へと育ち、そのプロセスで多くの実を生み出す驚異の能力を秘めています。ただし、大木へと育つためには、そのための環境が必要です。種がどんなに可能性を秘めていても、水が一滴もない砂漠のような環境では発芽することができません。まったく光が当たらないところでは、発芽しても大きく育つことは無理でしょう。可能性を秘めたすべての人間には、能力を開花させ、結実に至らせる「環境」が必要なのです。その環境を整えて提供するのがコーチの仕事です。コーチの仕事をする人は、前提として次のような認識を持っているかどうかが肝心です。次の2つの考え方を持っていないと、信頼され、成果を上げられるコーチにはなれないそうです。1、相手は「素晴らしい能力を有する存在である」と認めることです。2、人はだれでもよりよく生きること、よりよい仕事をすることを望んでいる存在であると認めることです。(コーチングの技術 菅原裕子 講談社現代新書 29ページより要旨引用)2は誰でも向上発展したいという欲望を持っているということです。森田でいう「生の欲望」のことです。これはすぐに納得できると思います。勘違いしやすいのは1です。今日はこの問題に絞って考えてみたいと思います。相手はこのスポーツには向いていないのではないか。ほかに能力を発揮できるスポーツや仕事があるのではないか。相手に情熱や意欲が感じられないと、相手には能力がないと見放してしまうのです。それでも指導するということになると、その人の気持ちを無視して、叱責し、スパルタ指導に陥ってしまいます。指導者の思い通りに選手をコントロールしようとしてしまうのです。選手は指導者の言動に振り回されて、続けることが苦痛になってきます。私たちは人間として生まれてきただけでも様々な可能性を秘めています。私たち人間は、もともと優れた能力を持っています。今は理想型からみると、不十分であっても、訓練、練習、学習、努力によって大きく花開く可能性を秘めているのです。そのことを十分に認識して選手に寄り添っているかどうかが、優れたコーチとダメなコーチの分岐点です。優れたコーチは、相手の練習、態度、普段の言動や生活ぶりを注意して観察するようになります。その結果、相手の優れた点や問題点もとても詳しく分かっています。そしてその人に合わせた指導の引き出しをいくつも持っています。でも、相手が求めない限りは安易な指導はしません。じっと寄り添いながら観察を続けています。相手が窮地に陥ってどうしても援助を必要とした時には、真っ先に飛んでいって初めて指導を行います。相手の現状を踏まえて、的確な指導をします。指導というよりも、ヒントを与えるといったほうがよいかもしれません。相手が少しでも興味や関心を持てるように刺激を与える。夢や目標が持てるように一緒に考えてみる。それに答えて、相手も気づき、工夫を思いついて、ますます熱中するようになります。これが菅原さんの言われる「環境」を整えてあげるということではないでしょうか。こういう気持ちを持っているコーチは、安易に相手を批判、叱責、否定することはなくなると思います。私たちも、目の前の問題点や課題に対して投げやりな人を見て、「この人はダメな人だ」とレッテルを貼ってしまうことがあります。相手のことを早々と見限っているのですね。そのうち、いつの間にか相手の存在や人間性までも否定してしまっています。すると相手も敏感にそれを察知して、お互いの人間関係はどんどん悪化してきます。これは森田でいえば、先入観と決めつけで、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けていることになるのです。こんなことがあると、一生涯相手のことを恨むかもしれませんね。森田理論を学習した人は、相手が苦しんでいるときに、決して相手を見捨てないで、寄り添ってあげられる人間になりたいものです。そういう包容力を身に着けたいものです。相手がもがき苦しんでいるとき、今は彼や彼女は波の底にいるのだ。落ち込んだ波は、そのうち必ず持ち上がってくるはずだ。それを信じて、黙ってじっと待ってあげる。いつまでも寄り添ってあげる。森田理論学習にコーチングを活用するとするとこういうことになるのではないでしょうか。私の経験では、自分が神経症のどん底であえいでいた時に、親身になって話を聞いてくれた人のことは決して忘れません。側にいて見守っていてくれたことで救われたのです。温かくて居心地のよい包容力のようなものに救われたのです。いつまでも見捨てないで見守っていてくれてありがとうという気持ちです。苦しいときは、そういう人の存在がとてもありがたいのです。今度は私がその役割を果たすべき時が来ているのだと思っています。
2019.10.25
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森田療法や森田理論の学習をしている人は、他の精神療法は最初から排除してしまう場合があります。これはまずいいのではないか。森田先生はそんなことはされないと思います。一つ一つ実際に確かめて神経症の治療に応用できるのかどうかを判断されたに違いありません。確かめる中で、森田理論の優位性や問題点、改善点がはっきりと分かってくるものだと思います。精神療法の一つに認知行動療法があります。これは認知療法と行動療法を組み合わせて、神経症の克服を目指しているものです。精神療法としては、唯一保険適応です。認知療法は、神経症に苦しむような人は、ある出来事に対してネガティブに考える傾向が強い。それが考え方、生活面、行動面に悪循環を招いている。物事それ自体には、よい悪いはないのですが、自分の頭の中でいつも悲観的、否定的にとらえてしまう。マイナスにばかり考える癖を認知療法によって、プラス面も考えられるように訓練していく。行動療法は、不安をいくつかの階層に分けて、取り組みやすいものから、実際に不安に直面させていく。例えば快速・特急電車に乗れない人に、まず駅に行く。切符を買う。各駅停車の電車に乗る。次の駅で降りる。最終的に快速・特急電車に乗れるまで、行動面を前面に押し出した治療法です。神経症は、森田理論学習のように言葉でそのからくりを説明し、理解しただけでは解決しません。例えば、不安神経症で死んだ人はいません。動悸や息苦しさで一時的にパニックになって、破局的に考えることで、発作が起きているんですよ。そのままじっとしていれば、いずれ収まります。だから発作が起きたときは、慌てず落ち着いて行動しましょう。などと言葉でそのからくりを説明し、考え方を改めさせようとしても、急には電車に乗れるようにはならないでしょう。実際に体験して、安全であることを自分の身体で体得するということがいかに重要かということです。そういう意味では、森田理論学習は観念に偏りすぎて、行動面がおろそかになっているかもしれません。森田先生の入院療法とは全く異質なものに変化してきているのです。そこに気づいて、森田理論の学習だけではなく、実践・行動、生活面への応用を心がけている人は素晴らしいですね。実際にそういう人は素晴らしいオーラを放っています。現在の認知行動療法は、原法をいろいろと改善して新しい試みが次々と生みだされています。その一つに、「アクセプタンス&コミットメント・セラピー」というのがあります。これは難しい言葉ですが、森田理論に非常に近いセラピーです。「アブセブタンス」というのは、自分の中に湧き起こった自動思考、とりとめのない考え、不安や怒りなどの感情、身体の痛みや違和感・・・。そういったものがあることを否定するのではなく、積極的に承認して、受け入れていくというものです。「コミットメント」とは、「今・ここ」に意識を戻して、今、自分の目の前にある物事や出来事、今、本当にやるべきことに傾倒していきましょうという考え方です。一言でいえば、不安や恐怖を目の仇にして、無くそうとして格闘するのではなく、それを自然なものとして、あるがままに受け入れていきましょう。そして、日常茶飯事や仕事、自分の夢や希望に向かって前進してゆきましょうという考え方です。この考え方は、森田が専売特許のように思っていましたが、どうもそうではなくなってきたようです。そして認知行動療法が素晴らしいのは、この考え方が行動療法と結びついて、実際の活用方法までを提案して、強力にサポートしていることにあります。私たちはこれに見習い、新しい森田理論の活用法を見出していく必要があるようです。「生活森田・応用森田」を理論学習と同じ程度に比重をアップしていくことが求められています。
2019.10.24
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樹木希林さの座右の銘は、「おごらず、人と比べず、面白がって、平気に生きればよい」だそうだ。この言葉は、森田で学習したことが多分に含まれているような気がする。「おごらず」・・・「欲張らず」と言い換えてもよいと思う。欲望を無制限に追い求めるような生き方は、どこかに無理がある。森田では「生の欲望の発揮」をことさら重視しているが、それが唯一無二の考え方だと理解しているとすれば、それは美しき誤解である。森田で本当に言いたいことは、最終的には欲望と不安の調和をとる生き方を勧めているのである。車のアクセルを踏み込まないと前進することはできない。アクセルを踏み込むことがまず重要である。でもカーブに差し掛かったときは、今度はブレーキを踏み込むことが、重要になる。人生はアクセルとブレーキをその場の状況に応じて、臨機応変に使い分けることなのである。そうすれば欲望の行き過ぎが適度に調整されて、無理がなくなる。「おごらない」人になれると思う。「人と比べず」・・・人の優れたところと自分の劣っているところを比較することは、百害あって一利なしだと思う。自分で自分を嫌ったり、否定していては苦しい人生になる。人と比べるということは、自分に「かくあるべし」を押し付けることにつながる。完全、完璧、理想を押し付けて、その世界に引き上げようとしたり、現実の自分を否定していると葛藤や苦悩が生まれてくる。これが神経症の発症の大きな原因になっていることは、森田理論を学習した人は、よく理解しておられることと思う。ただ、人と比較することは、デメリットばかりではない。人と比較することで自分の現状がよく見えてくるという面がある。事実や現状が正確に理解できれば、自分の問題点や課題が見えてくる。そこから、自分の取り組むべき課題や目標を明らかにして、努力していくことは大切なことである。ですから、「人と比べる」というのは、比較して劣等感で苦しむために活用するのではなく、自分の課題や目標を見つけるために刺激として利用するという方法もあるのだ。「面白がって」・・・神経質な人は好奇心が旺盛である。興味や関心があることはできるだけ手を出してみる。すると弾みがついて、どんどん心身共に活動的になっていく。そうしないと、自己内省力が表面化してくる。思いつくことや考えることが内向きになってくる。ネガティブなことばかり考えて、自分を責めるようになる。「平気に生きる」・・・これは2つの意味があると思う。一つは、他人の思惑に振り回されるのではなく、「自分はどう考えているのか」「どうしたいのか」「どういう気持ちなのか」を最優先する。他人中心的な生き方ではなく、自分中心の生き方を押し通していく。自分の素直な気持ちのままに、前向きに生きていくことだ。もう一つは、自分の生活で必要な日常茶飯事は、他人任せにしないで淡々と自分でこなしていく。凡事こそ丁寧に真剣に向き合って生きることである。雑事、雑仕事といわれているものに真剣に取り組むことで、幸せが近づいてくる。いくら経済的に恵まれているからといって、他人に依存する生き方は精神的には地獄の苦しみとなる。この2つを平々凡々と実行できるようになりたい。「平気に生きる」ということは、無理のない当たり前の生き方のことなのだと思う。樹木希林さんは優れた役者であるとともに、それ以上に日常茶飯事、子育て、他人との付き合いに力を入れられていた。それはお母さんそっくりな子供の也哉子さんの発言内容を聞けばすぐに分かる。ほぼ母子家庭だったとはいえ、樹木希林さんは優れた教育者でもあったのだ。
2019.10.23
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今日は田舎に帰りました。休耕田にコスモスがいっぱい咲いていました。コスモスはかれんで清楚な感じがします。色とりどりで収穫の秋を祝ってくれているかのようです。私はチューリップの球根をたくさん植えました。菊は大きなつぼみをつけてきました。次から次へと小さな楽しみが続きますね。
2019.10.22
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「オペラント条件付け」という行動療法の基礎となっている考え方があります。これは人間は、何らかの見返り、メリット、ご褒美を求めて行動しているものだという考え方です。直接ほしいものが手に入る。人から高い評価を受けるなどです。これによると、見返りやメリットがないと、行動を起こす意欲がわいてこないということになります。ネズミを箱の中に入れます。箱の中にはレバーがあり、ブザーが鳴った直後にそれを押すと、エサが出てくる仕組みになっています。最初はネズミはそのことは知りません。しかし、箱の中を動き回っているうちに、偶然、足がレバーにかかることがあり、それがブザー音の直後であると、エサが出てくることを経験します。そういう経験を二度、三度と繰り返していくうちに、ネズミはその仕組みを理解し、ブザー音の直後にレバーに足をかける頻度が高まってくるというものです。特定の行動をとると、特定の結果が得られるということを、ネズミが学習し、類似した行動を繰り返すようになるということです。これを応用した例を考えてみましょう。幼児をスーパーなどに連れて行くと、自分の食べたいものを見つけると、勝手に棚から引っ張り出して、「これ買って」などとせがむことがあります。「今日はダメよ」などというと、その場に座り込んで、泣きわめいて駄々をこねることはよく目にする光景です。泣きわめく子供の声が店内に響き渡り、他のお客さんの注目が集まります。しつけもできないダメな親にみられないために、「もうしようがないわね。じゃ今日は特別だからね」と買い与えてしまうことになります。問題行動を防ぐことができたので、よかったと思われるかもしれません。しかしこの行動は、子供にとっては、またいつか欲しいものがあるとき、駄々をこねると親が買ってくれるに違いないという学習をしたことになります。別の場面でも、こういうことが繰り返されるとどういうことになるでしょうか。欲しいものがあれば、相手が嫌がる行動をとれば、願いはかなうという信念を持つようになります。気に入らないことがあると、無意識的に、すぐに相手を威嚇するような態度をとる人がいますが、こういう学習を繰り返してきた人だと思われます。スーパーでの幼児の場合は、家で「今から買い物に行くけど一緒に行く、それとも家でお姉ちゃんとお留守番をしている?」と聞きます。「一緒に行く」といえば、「今日は好きなお菓子は買えないけどそれでもいい?」と約束させます。それでも、幼児は欲しいものは、衝動的にほしくなるのです。その時は毅然とした態度をとるしかありません。「今日は家でお菓子は買わない約束をしたよね」「ダメなものはダメなのよ」幼児のやり方では、絶対にお菓子は手に入らないということを、経験によって学習させていくのです。その場を離れて遠くからその様子を見るなどするのです。そして次に、お菓子が手に入る別の方法を提示してあげることが有効です。「今日我慢できたら、今度の買い物のときはお菓子を買ってあげるよ」「今日我慢したら、今度からは3回に1回は買ってあげるよ」この約束は次回の買い物ではきちんと約束を果たさなければいけません。親はその場しのぎではなく、子供にどんな行動を学ばせるのか、しっかりと考えて行動することが大切です。こういう体験を積み重ねることで、欲望の暴走を自ら制御できるようになるのです。
2019.10.22
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現在100歳を超える日本人は7万1238人に上るという。一つの市ができるぐらいの数である。私は敬老会シーズン、あちこちの敬老会で演奏活動のお呼びがかかる。そこで最高齢の人を尋ねると、どこに行っても100歳以上の人が一人や二人はいる。90代なんて星の数ほどいる。もっとも元気な人以外は敬老会にはやってこない。その大半は女性である。10人のうち8人ぐらいは女性である。100歳以上の人が一つの市を作れば、市長をはじめ市の幹部はほぼ女性で占められるだろう。女性の長生きの理由はよく分からない。一説によると女性は生理があるので、血液が常に新しいものに切り替わっているからだと聞いたことがある。なるほどそういうことか。そこで私は二か月に一回は血液検査で血を抜いてもらうことにしている。それから女性は食事作り、掃除、洗濯に関しては、幾つになっても自ら行っている。つまり日常生活をきちんと行うことによって、生きがいや張りを作りだしている。それが習慣になっているという男性はあまりいない。男性は定年退職すると、ぬれ落ち葉状態でボッと生活している人も多い。人に依存し、時間をつぶすことを目的としているような生き方をしているような話もよく聞く。こういう人は、身体の筋肉が衰えてくる。脳も廃用性萎縮を起こしてしまう。いくら長生きがよいからといっても、寝たきりになったり、認知症を患っては夢も希望もない。人様に迷惑ばかりかけて申し訳ない。私の場合は、75歳まではマンションの管理人の仕事を続けたい。その後は、ファイナンシャルプランナーの仕事をしてみたい。その中でも金融資産運用設計の専門家になりたい。一人一芸を活かした慰問活動はずっと続けたい。仲間とのカラオケは月2回は続けたい。ここでは男性2人、女性二人のグループを2つは作りたい。自給生活の一環として家庭菜園に精を出したい。このブログは生涯学習として続けたい。今考えていることはこんなところだ。仮に90歳まで心身共に健康で生きたいと思うと、気持ちとしては95歳から100歳ぐらいまでを目標としていなとまずいと聞いた。その理由は、90歳を目標地点としてしまうと、脳の緊張状態が80代の後半で緩んでしまうのだそうだ。80代の後半になって、もうすぐ90歳だ。目標の達成はほぼ間違いないと思った人は、脳が活動をゆるめてしまうのだ。一旦弛緩状態に陥った精神を再び、緊張状態に引き戻すことはとても難しい。「まだやり残したことがある」「今度はあれに挑戦してみたい」「今手掛けていることをもっと深めてみたい」「あれを食べたい」「あそこに行ってみたい」「カラオケを歌いたい」「異性と話をしたい」「自分の体験を他の人に伝えたい」「自叙伝を書いてみたい」などなど。こういう気持ちを持って80代後半に突入した人は、90歳でも身だしなみに気を配り、比較的元気で乗り越えることができる。その兆候はすでに60代から始まっているのだという認識は持っていたほうがよいと思う。最後に、サムエル・ウルマンの「青春の詩」を紹介しておこう。 年を重ねるだけで人は老いない。 理想を失う時に初めて老いがくる。 歳月は皮膚のしわを増すが、情熱を失う時に精神はしぼむ。 苦悶や狐疑や不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも 芥に帰せしめてしまう。
2019.10.20
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私が以前勤めていた会社でこんなことがあった。会議の資料をある人がホッチキスで閉じていた。渡された資料を見て驚いた。普通はページをめくりやすいように斜めにホッチキスで止めてある。ところがその資料は、閉じる位置を考慮することなく逆向きに閉じてある。ページをめくるときに違和感がある。というよりも不愉快になる。そう思っていたところ、上司がその人に次のように言った。「あなたには他人への配慮が足りない。社会人としての常識から教えないといけないな」すると、彼は烈火のごとく怒りを爆発させた。その場が一瞬で凍り付いた。これは相手が普段気にも留めていないことを取り上げて、注意されるものだから、急に腹立たしくなったのである。カーネギーの言葉に「盗人にも3分の理がある」という言葉がある。殺人事件を起こすような人も、「あの時はそうするしかなかったんだ」という気持ちを持っている。だから相手の非を一方的に責めても、火に油を注ぐことになってしまう。相手の間違いや問題点を指摘したくなったときは、まずその気持ちをぐっと抑える。そして十分時間をとって相手の気持ちや言い分を聞いてあげることだ。対人関係の中には、相手の言動に異議を挟み、反発したくなることが日々山のようにある。そんな時に売り言葉に買い言葉で反射的に対応する人も多い。相手の気持ちや意見を価値批判しないで、素直に聞いてあげることが必要である。そして「そうなんですね」「なるほどそういうことだったんですね」という言葉で一旦間をとることだ。ここで肝心なことは、相手の発言にすべて同意して、言いなりになることではありません。相手の話をとりあえず受けとめましたということなのだ。相手の気持ちや言い分を価値批判しないで、正確に分かろうとしましたということなのだ。ここがポイントなのである。多くの人がやろうとしてもできていないことなのです。十分に相手に吐き出させた後は、自分の気持ちや意見を述べることになる。その時は、「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」で発信するように心がけたい。「この留め方ではめくりにくいね。次回からはめくりやすいように留めてくれるとうれしいのだけどね」心の中では、「非常識なとんでもない人だ」などとと思っていても構わない。でもそれを口に出すのはもっと大人げない。自分の素直な気持ちや意見を伝えて、相手がどんな反応を見せるのかはコントロールできません。コントロールしようとすることは「かくあるべし」を押し付けることであって、人間関係は悪くなります。もし相手が「カエルの面に小便」のような対応をとれば、その程度の人間だと見切りをつけるしかないのです。「不即不離」の応用で必要最低限のお付き合いをするだけで十分です。
2019.10.19
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上司が同僚のことを「彼は頼りになるし、何事も積極的でいいね。将来の幹部候補だ」などと高評価していると、彼のライバルだと思っていた人は嫉妬心が湧いてくる。「彼は上司にゴマをするのがうまいだけだよ。能力的には自分とそんなに差はないはずだ。どうして彼だけが良い評価をされるのだ。納得できない。・・・」この心理を小池龍之介氏が上手に説明しておられる。これは、「他人の幸福度が上がると、その人の価値も上がり、相対的に自分の価値が低くなる」という錯覚に基づいています。数値でたとえるなら、自分の価値は10のままでも、価値7の同僚が15に上昇すると、自分の10にあまり価値がなくなったかのように感じる。ゆえに毒の味となります。反対に同僚の7の価値が3に下がると、自分の10の価値がより際立つようになる。他人の不幸は蜜の味となるということになります。けれども、それは相対的に考えることによる錯覚にすぎず、そもそも自分の価値が10であることに、変わりはないのです。(しない生活 小池龍之介 幻冬舎新書 参照)人間は他人と比較して自分の価値を判定して、優越感や劣等感を持つようになっているようです。劣等感をばねにして、ライバルとの競争意識を持って、努力精進する人もいます。ところが優越感を鼻にかけて他人を見下したり、劣等感で自分で自分を否定してしまうこともあります。比較するということは、自然現象と同じで人間の意志の自由が効きません。こうした中でどう嫉妬心と付き合っていけばよいのでしょうか。自分の心の中に湧き上がってきた嫉妬心をそのまま認めて受け入れていくしかないようです。「彼は上司に高評価されていてうらやましい」「残念だが今の自分の評価は今一つだ」「できれば自分も彼のように高評価されたい」比較することによって、自分の現在地・現状がよく分かるという面もあります。実はこれは比較するものがないとよく見えてこないものです。この利点を活用することが大切かと思います。ポイントは、現実、現状を価値評価しないでしっかりと見つめることです。よいとか悪いとか価値評価をするからおかしなことになってしまうのです。森田でいう事実唯真の立場に立つことです。自分の現在地がしっかりと確認できれば、そこを起点としてどこに向かえばよいのか自分なりの方向性が見つかることがあります。必ずしも彼をライバル視して、さらに競争心を高める方法に行くとは限りません。嫉妬心もこのように考えると決して捨てたものではありません。
2019.10.18
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あなたは他人が簡単なミスや失敗をした時に、「こんなところで間違うなんて、ありえないでしょう」という言葉を聞いたことはありませんか。しかし考えてみれば、「ありえない」と思われている事故や災害は毎日のように発生しています。交通事故、あおり運転、大雨による土砂災害、浸水被害、オレオレ詐欺などです。自分の身の周りでは滅多に起きないけれども、新聞やテレビなどでは日常茶飯事のことです。毎日「ありえない」と思っていることが、実際には現実として目の前で起きているということです。この事実をどう理解したらよいのでしょうか。対人関係でこの言葉を使う心理について考えてみましょう。「そんなことはありえないでしょう」という言葉は相手を否定している言葉ですね。しかもミスや失敗を批判する以上に、相手の人格否定をしている言葉です。暗に「あなたが存在していること自体がありえないことだ」というように。そこから生まれるものは憎しみあいでしかありません。もっと言えば、絶対に間違ってはいけない。間違うはずがない。自分たちに迷惑をかけるようなミスや失敗は絶対に見逃すことはできない。徹底的に責任を追及させてもらいますよという態度です。自分の頭で考えたとき、「もしかしたら起こりうるかもしれない」という選択肢は全く存在していなかったということです。こういう人は、自分が「ありえない」ミスや失敗をした時、いいわけをする。ごまかす。隠そうとする。責任を放棄して逃げる。反対の立場に置かれると借りてきた猫のように見る影もない行動をとる。それは自分が叱責、非難、否定、軽蔑、無視、拒否されることに耐えられなくなるからです。だから「ありえない」という言葉を使う人は、人間関係も悪化し、さらに自己否定にも陥ってしまうのです。これは森田理論でいえば「かくあるべし」で、自分の考えや理想を相手や自分に押し付けている態度ですね。「かくあるべし」は理想と現実のギャップで葛藤や苦悩を作りだしてしまいます。ギャップを解消して完全・完璧を押し付けたり、理想通りにしようとすると神経症に陥ってしまうのです。どんな理不尽なことでも、「もしかしたらありえるかもしれない」と柔軟に考える態度を養成していくことは大切です。事実を素直な態度で認めて、受け入れなれるようになると、精神的には楽に生きられるようになります。森田では事実本位の人生観を理解して、実践できるような人間になることを目指しています。なかなかそういう人を、すぐには思い浮かぶことは難しいですが、その方向で努力している人はたくさんおられます。そこが大切なところだと思います。
2019.10.17
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臨床心理士の岩田真理さんの著書に次のような言葉がある。言葉で後付け、図式化しようとすると、その指の間からすべり落ちるものが森田療法の中にあるような気がしてならない。簡略な図式が森田療法の大切な部分をとりこぼしてしまう原因になったりもする。この言葉には深い内容が含まれているように思う。これとは趣旨が違うが、これに対する私の感想です。私たちは集談会に参加して仲間と森田理論を学習している。その学習だけををどんどん追及していくと大変なことになるということだと思う。別に学習のし過ぎはダメだといっているのではない。いつまでも言葉だけで理解しようとする態度では、神経症はかえって悪化する。森田理論の生活への応用・活用・実践・行動が並行して行われないと弊害が出てくるということだと思う。森田理論の学習と生活へ面での応用はセットにならないと問題が生じる。これは車の車輪に例えてみれば分かりやすい。理論の車輪をどんどん大きなものに取り換えていくとどうなるか。それと並行して生活面の応用の車輪も大きなものに取り換えていくと、まっすぐに前進していく。ところが生活面の応用を軽視していると、その車輪は小さいままである。そのまま前進させると、小さい車輪を起点にして大きな車輪がぐるぐるとその周りだけを回り始める。これは森田理論が全く無用の長物となっているということです。森田をやる前の時の方が付き合いやすかったということにもなる。それはなまじっか森田理論をかじったおかげで、尊大な態度をぷんぷんと周りにふりまいているからである。集談会でも森田理論のからくりばかりをのべつ幕なしに話される人もいる。森田理論の研究をしている学者のような人である。ある程度学習を積んでいる人は、「またか」といって引いてしまう。ところが、森田理論の理解は今だ十分ではない人が、森田理論を生活面に応用した話をされるとみんな興味深く聞いている。そして中にはその実践に影響を受けて、同じようなことを始める人が出てくる。こういう話は集談会の存在意義を感じさせる。森田理論の学習は集談会の中で1時間ぐらいは必ずある。それ以上やっていてはまずいということだと思う。それに見合った「生活森田・応用森田」の実践例が入ってくると、集談会は全く違ったものになる。森田理論の学習は、生活面の応用とセットにして取り組むべきだという意識を持ってほしいものである。
2019.10.16
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河合隼雄先生のお話です。ある40歳過ぎの家庭の主婦が、急に耳が聞こえなくなりました。すぐに耳鼻科の病院に行きました。耳鼻科の先生はいろいろと検査をしてみたが原因がつかめなかった。そこで精神科の受診を勧めた。仕方なく河合先生のところにやってきた。河合先生は筆談を交わしながら、そこに書く質問を声に出して言いながら書いていく。彼女がだんだんと筆談にの中にひきこまれたと感じたとき、それに関連したことを紙に書かずに口答で質問する。例えば、「ご両両親は・・・」「早くに亡くなりました」「それじゃいろいろとご苦労されたでしょう」などというと、「ええ、ずいぶん」などと答える。彼女は口答の質問につい応答してくる。彼女は私の声が聞こえていたことが判明した。これは我々にとっては理解不能なことである。それでは彼女は仮病を使っていたのだろうか。決してそうではない。聞こえないときは本当なのである。河合先生は、彼女の耳に異常があるのではなく、彼女の耳は「聞こえるのだが聞こえない」状態にあることを知った。つまり器質的な病気ではなく、心理的な病気であることが判明した。そこで心理的な治療法を行うことにした。彼女は治療者との信頼関係を築いた時点で、治療者の声は聞こえていることを認めた。しかし、不思議なことに他の人の声は聞こえないのである。ただこの点は治療が進むにつれて、次第に改善されていったという。最後に夫の声がどうしても聞こえなかった。話し合いを進めているうちに、彼女は大変なことを思い出した。耳が聞こえなくなる少し前に、夫が浮気をしているということを知人から聞かされたという事実である。その時は、不思議に怒りも悲しみも感じなかった。むしろ40歳を過ぎればどんな男でも、そんなことはあるだろうなと思ったという。離婚するといっても損をするのは自分なのだからとも思ったそうだ。ところが、このことを治療者に話しているうちに、彼女の抑えきれない悲しみと怒りがこみ上げてきた。彼女はひたすら夫に仕えてきたのに、それを裏切った夫。絶対に離婚したいともいった。しかし興奮が収まってくると、離婚してもその後の生活はどうするのか。何も知らない子供たちを巻き込むことはさけたいなどと迷いが生じ始めてきた。彼女の心の中での葛藤は激しく、つらい話し合い続けなければならなかった。ところで、そのような苦しい悩みとの戦いを経験する中で、彼女は夫の声も聞こえ、耳が聞こえないという症状からは、いつの間にか抜けだすことができたのである。このからくりは、夫の浮気に対する悲しみや怒りは、顕在意識から排除しようと思った。悲しみや怒りを爆発してもよい事は何もない。離婚などしたら路頭に迷う。何事もなかったように表面上では平静を装うことにしよう。ところが悲しみや怒りは無意識部分では存在し続けていた。そして益々大きく膨らんできた。ついには身体的な症状へと転換されることになった。そこで無意識に追いやられた内容を治療の中で呼び起こして意識化し、それに伴う情動を再度体験して味わうというプロセスを踏む必要があったのである。これはいわゆる精神分析的治療法です。森田では不安や不快の気持ちを素直に認めて味わう。受け止めるということになります。自然に湧き上がってきた感情から逃げたりしない。やりくりをしない態度を養成することになります。これが事実本位の生活態度ということになります。
2019.10.15
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今日の体育の日は田舎に帰って畑仕事をしました。まずはサツマイモの収穫をしました。タマネギとキャベツを植えました。キャベツは虫に食べられないようにネットで覆いました。今は白菜、ダイコン、ジャガイモが大きく育っています。
2019.10.14
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2019年9月号の生活の発見誌に、「何かを選択するときに、間違えて不幸になるのではないかという気持ちが起きて、恐ろしくて決めることができない」という相談が寄せられています。何か月も延々と調べたり、何回も下見に行ったり、誰か他の人に決めてもらいたいと思ってしまいます。例えばどこの歯医者にすればよいのか選択ができないそうです。これは20代で失敗や挫折が何度かあり、それまで持っていた人生に対する楽観的な信頼が崩れてしまい、不安が強くなり、気分が落ち込むようになったそうです。この方は自分が考えて決断・実行したことは、1度のミスや失敗も許されないという信念を持っておられるようです。そうなると、実践や行動することは、ミスや失敗を誘発することになるので、次第に手も足も出なくなってきます。仮に行動するにしても、ビクビクハラハラして、いつも逃げ腰になります。すると気分的にはいつも憂鬱で、漠然した不安感が付きまといます。生きていくことが苦しくて、楽しいことなんか何もないと思うようになります。森田理論では、不安の裏には、必ずそれと同等の欲望があるという考え方です。この方の欲望は、自分が決断、決定することはすべて間違えないようにしたいということだと思います。この欲望自体は問題ないと思います。そういう欲望を持っている人は、慎重の上にも慎重であるために危険な目に遭うことがない。また取り返しのつかないミスや失敗を起こすことも少なくなります。仕事などもやりっぱなしにしないで、自分のやった仕事を振り返ってみて、間違いがあれば、事前に修正することもできます。森田先生も完全を目指さない人にろくな人はいないといわれています。完全を目指す人はそんなにいませんので、貴重な人材だといえます。ですから完全欲が強いという特徴は、これからもどんどんと鍛えて伸ばしていく方がよいと思います。では不安に押しつぶされて苦しい状態はどうすればよいのか。これはまず森田理論の「かくあるべし」の弊害をよく学習してもらいたいと思います。完全を目指すことはよいのですが、自分はいつも完全無欠でなければならないと考えることは百害あって一利なしです。「かくあるべし」を掲げて、現実の自分を見下しているとどうなりますか。問題点、欠点、弱点ばかりが目に付くようになります。そして自己嫌悪、自己否定するようになります。理想と現実の乖離による葛藤や苦悩が発生してくるのです。これが強迫神経症の原因となっているのです。実際には、少しずつ「かくあるべし」という考え方をゆるめていくことです。「かくあるべし」少なくしていくと言い換えてもいいでしょう。そのために、森田理論では、事実本位の生き方を目指していくことになります。現実、現状、事実を素直に認めて受け入れていくということです。誰でも実践、実行、行動した後で「あんなことをしなければよかった」「あんなことを言わなければよかった」ということは、日々何度もあります。取り返しがつかないと後悔することもたびたびです。でも普通の人はそんな自分を毛嫌いして見捨てていると思いますか。問題行動をした自分を「あの時はこの選択が一番よいと思ったんだ」と納得させていますね。それはその現実を素直に認めて受け入れているということです。そして今度同じような出来事があったときの教訓として活かしているのではありませんか。これは「かくあるべし」で自分を徹底的に痛めつけているのではなく、問題行動を起こした自分に寄り添って自分を許してあげているということなのです。自分は自分の一番の理解者となっているのです。間違った選択をして不幸になるのではないかと悩むよりも、間違った選択をした自分を許して受け止めてあげる自分に変身することがより重要だと思います。この事実を素直に認めていく態度を実践によって少しずつ身につけていくのが森田理論なのです。
2019.10.14
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アテネオリンピックの男子100mの金メダル最有力は、ジャマイカのパウエル選手でした。何しろ9秒74というとてつもない記録を持っていたのです。ところが金メタルはとれませんでした。パウエル選手がレース後にその時何が起きたのかを語っています。「75メートルまではトップで勝ったと思った。そのとき横を走る選手の足が見え、まずいと思った。自分がなぜ負けたのか分からない」これを分析してみましょう。パウエル選手は、75メートルの時点で、まだレースが終わっていないのに勝利を確信しています。ということは、その時点で自分では気が付いていないかもしれませんが、気が緩んだのだと思います。100メートルの予選では、勝利を確信した選手が最後に力を抜いてゴールするという光景がよく見られます。このときは、誰が見ても「あっ、スピードが急に落ちた」と気づきます。パウエル選手もこんなシナリオを思い描いていたのではないでしょうか。いったん気が緩んでしまうと、「これはまずい」と思っても、すぐに緊張状態に切り替えることは難しい。というよりも実際にはできない。それが、コンマ何秒を争う陸上競技では命取りになるということです。このことはよく心に言い聞かせておいたほうがよい。反対に緊張状態を弛緩状態に持っていくことは、努力しないですぐにできるということだと思われます。これに関連して森田先生は次のような話をされています。乗り物酔いをしそうになった時の話です。この時は決して心を他に紛らせないで、一心不乱に、その方を見つめている。息をつめて吐かないように耐えている。吐けば楽になるかと考えて、決して気を許してはなりません。断然耐えなければならない。思い違いをしやすいのは、自分の苦痛を見つめていると、ますます苦しくなるような気がして、ツイツイ気をまぎらせて、他のことを考えたりしようとすることである。早く行きついて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分間だとか、都合のよい楽なことを考えるからいけない。こんなとき、もう2、3分というところで、安心し、気がゆるんで急に吐き出すようなことがある。(森田全集第5巻 455ページより引用)次に、パウエル選手は、「隣の選手の足が見えてまずい」と思ったといっています。これはネガティブな言葉です。「負けてしまうかもしれない」という否定的な考えがとっさに頭をよぎったのです。脳は否定的に無意識で感じたことをそのまま実行してしまうといわれています。理性でいくら「そんな考えを起こしてはダメだ。勝つために頑張ろう」と思っても、否定語が足を引っ張るのです。無意識の力は顕在意識よりも強力なパワーを持っています。馬を無理やり水飲み場まで連れてきたのに、肝心の水を飲んでくれないようなものです。「挑戦してもどうせダメに決まっている」「やるだけ無駄なことだ」「どうせ結婚なんかできるわけがない」「合格なんで夢のまた夢」と心の奥底で感じている人が、困難を乗り越えて夢や目標を達成することができますか。反対に、他のできない理由をいくつも見つけ出して、自分を説得するようになるのです。そして安心して現状維持にとどまってしまうのです。自分が心底「絶対にものにするんだ」と念じているのではなく、「実現できたらうれしい」というような他人事のような希望的観測を述べているにすぎないわけですから、思いが現実のものとなるはずがありません。無意識の世界で失敗やミスを容認している人は、むしろ心の中で思ったことが起きることで、「やっぱり思った通りのことが起きた。自分の考えたことは正しかったのだ」と納得して安心することになるのです。否定するということは、百害あって一利なしと心に刻んでおきましょう。
2019.10.13
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昨日の続きです。他人に合わせることばかりに注意が向いて、自分の素直な気持ちや意見を前面に押し出すことができなかった。それは自己中心的な行動をとっていると、仲間はずれにされてしまうという不安からきているものと思います。当然一人では生きていくことはできません。仲間とざっくばらんに付き合い、譲ったり譲られたりしながら、楽しい人間関係を作り上げたいものです。森田ではどんな人間関係をお勧めしているのか。一口に言うと「不即不離」の人間関係です。ついたり離れたりする人間関係です。人間は親しくなることを目的として付き合うのではなく、活動の場を通じて、ついたり離れたりしています。これが現実です。あの人は嫌いだ、いやだなと思っても必要ならば軽い挨拶をして、必要な話はしなければなりません。ただしそれ以上の親密な付き合いはする必要はありません。ここを間違えて深入りする人が多い。対人恐怖症の人は、嫌いな人でもなんとか好きになりたい。嫌いな人からも好感を得たい。そして、元々気の合う人や好感を持っている人より嫌いな人のことばかりに注意や意識が向いています。これはやり方が間違っているのです。元々気の合う人に益々好かれるように考えて行動するほうが得策です。嫌いな人はある程度の距離を置いてあたらずさわらず過度に刺激しないことです。あの人は好感が持てるという人は、磁石のプラスとマイナスがくっつき合うようにすぐに意気投合するでしょう。しかしこれもあまりにも親しくすることは考えものです。あの人がいないと生きていけないと思うようになると、お互いが共依存関係に陥って行動の自由が効かなくなります。コップ一杯の親しい人間関係を5個程度持ちたいと望む人が多いのですが、この考え方は問題です。こういう考え方をして付き合いをしていると、窮屈でしんどくなります。例えば自分の隠し事はなくして、自分のことはすべて相手に知っておいてもらいたい。反対に相手のことは1から10まで何でも知りたい。相手と自分は一心同体というような考え方です。これが目指すべき究極の人間関係だと信じて疑わない人です。すると相手のことを詮索したり、世話を焼きすぎてしまいます。新婚夫婦の一時期はこれでよいかもしれません。でも、いつまでも特定の人と親密な付き合いを継続しずぎることは大変危険です。仮にそうするとどんなことが起きるか。ちょっとしたことをきっかけにして、相手を許すことができなくなる。相手を自分の思い通りに自由にコントロールしたいという気持ちが強くなってくるのです。そこからほころびが拡がって、ついには顔も見たくないような犬猿の仲になる場合があります。境界性人格障害の様相を呈してきます。昔はあんなに親しく付き合っていたのに、今は考えただけで不快な気持ちになる。私の周りにも、そういう人がいます。何かにつけて相手の悪評ばかり話す人です。でも昔は人もうらやむような人間関係を築いていたのです。一方、コップに1割程度しか飲み物が入っていないような人間関係をできるだけ多く持ちたいと思っている人もいます。職場でも昼間はあんなに喧々諤々言い争っていたのに、仕事が終わると連れ立って赤ちょうちんに行くような人です。あるいはいつも口喧嘩ばかりしていた男女がどうしたことか結婚することになった。この人たちはあまりにも親密な人間関係ではなかったのだと思います。自分の意見や気持ちはしっかりという。相手が違う意見を持っていれば当然言い合いになる。2人の人間が集まれば、元々違う考え方をしているのが当然だ。それを素直に相手にぶっつけて、譲ったり譲られたりするのが普通の人間関係だ。そういう人は相手の気持ちや意見には反対しても、相手の人格まで否定しているわけではありません。今は犬猿の仲のように見えるが、ちょっと時間と距離おくとまた元通りの付き合いを始めることができるのです。意気投合できる部分ではある程度の付き合いはする。そりが合わない部分はそっとしておく。それよりはその他大勢の人の中から自分に合う人をを見つけて付き合うほうがよほど楽しい。そういう人間関係を10人、20人、30人・・・と増やしていったらどうなると思われますか。一人の友人との付き合いは浅いかもしれません。しかし人間関係の全体で見たときはとても中身の濃い人間関係を構築しているということになります。私は以前年賀状を500人に出すという挑戦をしたことがありますが、それだけの知り合いを作るという考え方はよかったのではないかと思っています。そういう考えだと、時と場合に応じて、適切に付き合う人が変化していくということになります。人間関係のストレスは随分少なくなりますし、たとえストレスを感じても早く流すことができるようになります。
2019.10.12
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オーストラリアのブローニー・ウェアは、終末期ケアで多くの患者を看取ってきました。そして「死ぬ瞬間の5つの後悔」という本を書いています。多くの人はどんなことを悔やみながら死んでいくのか。これが分かれば、対策が立てられるかもしれません。1、友人と連絡を撮り続ければよかった。2、あんなに働きすぎなければよかった。3、勇気を出して、本当の自分の気持ちを表現すればよかった。4、もっと幸せを求めればよかった。5、他人が期待する自分ではなく、自分自身に忠実な人生を生きる勇気があればよかった。(生活の発見誌2019年9月号 1ページより引用)これに触発されて、私が後悔はしたくないことを考えてみました。・他人に振り回されて、自分の素直な気持ちを表現することができなかった。自分中心ではなく、他人中心の人生だった。人間関係はいつも対立的で、防衛的だった。・仕事に対して興味を持つことができなかった。やりがいが持てなかった。仕事をすることは生活のためとはいえ苦痛そのものだった。・夢や目標のない人生を送ってしまった。2番目の仕事ですが、自給自足の生活なら、別に生活費を他で調達することはありません。ところが今の世の中は、それでは生活していくことはできない。分業制で人のためになる仕事をして、その対価を得て生活を維持しなければなりません。自分のためではない仕事、組織に属して、指示命令に従わざるを得ないのです。それが1日の3分の1の時間を占めているわけですからとても無視することができないわけです。仕事を面白くするためには、自分から積極的に主体的に取り組むしかありません。それは仕事の中に問題点、課題、目的、目標、改善点、改良点、アイデアなどをいかに多く見つけるかだと思います。これはどんな小さいことでも構わない。そういうものが発見できると、意欲が高まります。また実際に頭で考えたり、動いているうちに弾みがついてきます。森田では雑事、雑仕事などに丁寧に取り組むことをお勧めしています。小さなことを丁寧に取り扱っていると、気づきや発見はいくらでも出てきます。このことを「凡事徹底」と言います。NHKのプロフェッショナルという番組を見ていると、その道の達人というような人は、ほとんど「凡事徹底」の名人のようです。3番目の夢や目標のある人生についてですが、こんなことを言うと、いきなりエベレストに登頂するというようなとてつもない大きな目標を口にする人がいます。そんな夢や目標を持てる人は素晴らしいと思います。でも一般的には最初から壮大な夢や目標は持ちにくい。小さな夢や希望をたくさん持つことが肝心だと思います。仕事、家族、人間関係、日常生活、趣味、習い事、集談会、地域活動などに分けて、それぞれにささやかな希望や目標を設定してみるのはどうでしょうか。達成すれば自分にご褒美をあげる。仲間と祝杯をあげる。人生はそんな繰り返しのほうが断然面白くなると思います。そんな人生を送ることができれば、死ぬ真際になって、素晴らしい人生だったと感謝できるのではないでしょうか。さて、最も大きな問題である人間関係については明日投稿します。
2019.10.11
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林成之さんは、人間の最大の3つの本能について説明されている。「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」ということである。「生きたい」は、一旦この世に生まれたものは、できるだけ長く生きたいという欲望を持っている。衣食住、安全を確保したい。危険はできるだけ回避したい。自由を獲得したい。よりよく生きたい。できれば夢や希望を実現したい。生の欲望の塊ということですね。「知りたい」は、疑問点、問題点、未知のことは、その原因やからくりを理解したい。人間は、赤ちゃんのころから、好奇心が強く、知識欲が旺盛なのである。それが文化や文明を大きく花開かせたのでしょう。「仲間になりたい」は、家族、仲間、学校、会社、社会集団に所属して、仲間と楽しく、親しく交流して生活をしたい。人間は孤独や孤立を恐れる生き物なのだ。この3つはいわれてみれば、誰でも納得できることだ。林さんは、これ以外に第2段階の2つの本能について説明されている。これがとても面白い。「自己保存」と「統一・一貫性」というものです。「自己保存」というのは、脳は自分を守ろうとする。自然や他人の脅威から自分の身を守ろうとする。これが強く出ると、自己中心的になる。自然を人間の都合に合わせてコントロールしようとする。他人と利害が対立すると、他人を蹴落としてでも勝とうとする。一旦自分のものにした所有物を何が何でも守ろうとする。一旦獲得した地位や名誉などに固執してしまう。安定した生活を獲得してしまうと、それを失うことを恐れるようになる。変化を嫌い、現状維持にエネルギーの大半を注ぐことになる。「統一・一貫性」というのは、誰でも自分が身につけた「先入観」「かくあるべし」「信条」「信念」「持論」「スタイル」「宗教」「価値基準」にことさら固執してしまうことだ。自分のスタイルと違うものや異なる人は、避けようとする。排除しようとする。例えば、人間は、自分と反対の意見を言う人を嫌いになります。冷静に考えれば、意見が違ったからといって、その人のことまで嫌いになる理由はないはずです。ところが脳は自らの意見と異なるものを「統一・一貫性」にはずれるために拒否し、また「自己保存」が働くことによって自分を守ろうとするため、相手の意見を論破しようとすることがあるのです。(脳に悪い7つの習慣 林成之 幻冬舎新書参照)これらは人間が持って生まれた本能ですからどうすることもできません。これらはプラスに発揮されれば、味わい深い人選につながります。マイナス面が露骨に表面化すると、自分の心身を傷つけ、他人と摩擦を抱える原因となります。人間には森田理論で学習したように、ある考えや欲望が浮かぶと、それを制御したり、ブレーキをかける考えも同時に湧き上がってくるようになっています。私たちの心がけることは、生の欲望に沿って興味や関心のあることにはどんどん挑戦していく。ただし、行き過ぎには十分に注意する必要があります。元々備わっている「精神拮抗作用」活用して、バランスのとれた生き方を目指していく必要があるようです。
2019.10.10
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マムシを見つけると一目散に逃げだす人がいる。私がそうだ。反対にこれを積極的に捕まえてマムシの焼酎漬けを作ろうと思う人もいる。これは私の祖父だった。マムシを見つけた人は祖父を呼びに来ていた。噛まれれば毒が回って死ぬかもしれないことは分かっている。しかし、そんな恐怖よりも、マムシを見つけた喜びが大きいのだ。恐怖の感情で金縛りにあう人もいれば、思わぬ幸運に喜ぶ人もいる。同じ現象なのに人によって全く違う感情が湧き上がってくる。実に不思議なことだ。この違いはどこから来るのだろう。感情発生のメカニズムは脳の中でどのように行われているのか。現在感情の発生メカニズムはほぼ解明されているという。これが「脳に悪い7つの習慣」(林成之 幻冬舎新書)に詳しく説明されていた。早速紹介してみよう。五感でキャッチした情報は、大脳の視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚中枢に送られます。次にこれらの情報は「A10神経群」に送られます。総称「A10神経群」は、いくつかの機能を寄せ集めたものです。大脳の中央部分にあります。まず不安や恐怖などを専門に扱っている「扁桃体」があります。ここが損傷されると敵から危害を加えられても無抵抗になる。またヘビなどを恐れなくなり、手で触ろうとする。次に好きか嫌いかを区別している「側坐核」があります。また言語や表情を司っている「尾状核」あります。口の周りには12の表情筋があるそうです。その動作は「尾状核」の働きによります。そしてやる気や意欲、自律神経を司っている「視床下部」があります。これらを総称して「A10神経群」と呼んでいます。「A10神経群」は実に面白い働きをしています。感情のレッテル貼りをしているのです。本来目の前の出来事には、好きも嫌いもありません。白紙の状態の情報なのです。ところが、情報が「A10神経群」に送られることによって、好き、嫌い、ムカつく、不安、恐怖、不快、嫉妬、悲しい、うれしい、腹が立つ、爽快などの感情が生まれるのです。同じ出来事であっても、人によって異なるレッテルが張られた感情が発生することになるのです。出来事は一つなのに、人それぞれで色んなサングラスをかけてみているということです。その人の元々の気質、過去の経験、生育環境、受けてきた教育などによって差が出てきます。ですから人間がいろいろと思索、検討、行動していることは、人ごとに違うラベルが張られた感情を基に行っているということです。さて、その人なりのレッテルを貼られた感情は、次に「前頭前野」に送られます。その感情に基づいて理性的に思考・検討をするのです。そして対応策を決定するのです。「前頭前野」が、自分にとってプラスの情報と判断すれば、その情報は「自己報酬神経群」に持ち込まれます。「自己報酬神経群」は、その名前の通り、自分への報酬をモチュベーションとして機能する部位のことです。自分がうれしいと感じること、例えば欲しかったものが手に入ったり、目的や目標を達成したり、人の役に立つことをして感謝されることをすると「自己報酬神経群」が途端に活性化してくるのです。弾みがついて、益々意欲や行動力が高まります。さらに自分にとってためになる価値があるものは、「線条体ー基底核ー視床」や「海馬・リンビック」などに持ち込まれます。その後ポジティブな経験として取り出し可能な長期記憶として蓄積されます。問題はネガティブな感情の場合です。不安や恐怖、違和感、不快感などは、「A10神経群」でネガティブなレッテルを貼りつけられて「前頭前野」に送られます。ところが「前頭前野」は、これらを厄介な困ったものとして扱うのです。できればなかったものとして扱いたい。きちんと思考・検討するのではなく、排除対象物として取り扱うのです。ですから「自己報酬神経群」を刺激して活性化することありません。衝撃的な恐怖、すっきりしない不安の感情は、海馬を経由して、引き出し可能なマイナスの長期記憶として収納されることになっているのです。次に同じような不安や恐怖、違和感、不快感な場面に遭遇したとき、さらなる悪循環のスパイラルにはまってしまうのです。神経症に陥った場合のマイナス感情はこのようにして発生しています。マイナス感情がさらなるマイナス感情を発生させて羽交い絞めにされているようなものです。さらに思いだしたくもない衝撃的な体験に遭遇すると、脳はその出来事を取り扱わないということが起きます。いわゆる記憶喪失、乖離現象のことです。以上の説明は、少し難しかったかもしれません。ただこの感情発生のメカニズムの予備知識があれば、ポジティブな感情とネガティブな感情発生の違いがおぼろげながら分かるような気がします。
2019.10.09
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今日は学校教育について考えてみました。私たちは6歳になれば誰でも小学校に通うようになります。小学校が卒業するとすると中学校に進学します。そしてほとんどの人は高等学校へ進学します。そして相当数の人が大学に進学します。人よりより安定した職業につくことが最終的な目的となります。誰もこれを疑うこともなく、随ってきたと思います。常識になっているのです。でもその常識がもし間違っていたら大変なことです。その教育の中身はほとんどいっしょです。今まで先人が蓄えてきた知識をできるだけ多く覚えさせることが主流です。いわゆる暗記教育です。数学や物理なども暗記科目といわれているのです。自分で創意工夫、発見、思考することは、ほとんど軽視されてきました。実際には一人の先生が教壇に立ち、20人ぐらいの生徒に同じことを教えていきます。私たちのころは約50人の生徒に同じような教育をしていたのです。普通の教育はその人の段階に応じて、一対一の教育が当たり前だと思うのですが、そんなことを言うと笑いものにされてしまいます。この教育の本質は選別教育なのです。そのような教育に耐えることができない生徒は、目をかけるようなことはしなかったのです。落ちこぼれとして、切り捨ててしまったといっても過言ではありません。すそ野を広げてピラミッドの上位に食い込んでくる人をどれだけ多く輩出するというのが、基本的な日本の教育の実態です。だから学校教育には、多くの人がストレスを感じるのです。本来個々の生徒は、能力、興味、関心も違うと思うのですが、金太郎あめのように同じ教育をしています。どうして個性を無視した一方的な教育方法が今も旧態依然として続けられているのでしょうか。それは日本が明治維新を迎え、西洋列強に早く追いつき、さらに高度経済成長を達成するという目的達成のためには、不可欠な教育方法だったのです。国民全体が、ある程度の教育水準をつけて、均一で柔順な人間を数多く輩出する必要がありました。そのためには、その人特有の個性を育て、すべての人が人生を謳歌するために必要な個別教育は必要とされなかったのです。むしろそういう人間を育て上げると、社会に対して反抗的な人を作りだしてしまうという危険性が大だったのです。その名残が依然として現在も続いているのです。変革しようと思っても、がんじがらめで手の施しようがないのです。それではどんな教育が必要なのでしょうか。国語、算数、社会、歴史、理科、体育などの基礎教育は大切だと思います。小学校で教えているような教育は国民すべての人が身につける必要があります。その上で、中学以降で教えるような、英語、語学、古文、現代文、漢文、倫理、公民社会、数学、化学、物理、地学、宇宙、生物、日本史、世界史、地理、運動、音楽、絵画、演芸などを高度に学習するのは選択制にしたらどうでしょうか。自分の興味のもてる分野を選択して学習していくのです。興味や関心を持つ人が専門教育として学んでいくのです。ヨーロッパなどではそれと並行して、その人に合った職業教育も盛んに行われています。インターネット社会では、教科を教える先生の必要性はなくなるとみています。その分野に特に特化している人がある程度確保できれば、インターネットを通じた学習が主流になるでしょう。教えることの得意な人が教えるので、今までよりも、分かりやすく面白い授業が可能となります。スカイプなどを利用した双方向の授業になるでしょうから、質問なども自由にできます。これを地域ごと、県ごと、国ごとに行うのです。これからの学校教育はガラッと変わっていくでしょう。今の資格取得専門校の授業は、その人のレベルに合わせて、ITやネットを活用した個人を重視した教育になっています。中学以降は、その人の関心や興味のある分野を早く見つけることが大変重要になります。これを小さいときに見つけて打ち込んだ人の人生は光り輝いています。それからファイナンス能力、人間関係の在り方、子供の育て方、身体の仕組みと健康、職業の種類の把握と技能訓練、自然との共生、自給生活、時にはサバイバルゲーム、地域の活性化、自分の将来像などは人間として必須の学習内容になるのではないでしょうか。私はこの中に森田理論学習を入れる必要があると考えています。特に神経質性格の人は、自分の人生にかかわることですから、必須の学習項目になると思います。こういうふうに考えると、学習するということは大きな楽しみになるのではないでしょうか。
2019.10.08
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人生で成功するためには、どれだけ勝つかではなく、負けをどれだけ少なくするかにある。これは株式のトレードで生活している人から聞いた話だ。どういう意味か説明してみたい。尚これから紹介する話は、株式投資を勧めるものではありません。森田理論の学習に参考になることがあるので、投稿しているのである。決して安易に株式投資に手を出さないでもらいたい。さて、最も才能のあるトレーダーでも負けることは頻繁に発生する。どんなに優れた手法を駆使しても、200回トレードをして、勝率が30%ぐらいに落ち着いてくるという。つまり70%は損失を出しているのだ。それでも200回のトレードが終了してみると、トータルでは利益を出している。それを可能にしているのが、優秀なトレーダといわれている。どうしてそんなことが可能になるのか。その大きな要因は、自分の許容範囲内で確実にロスカットをしていることだ。たとえば投資金額が100万円だとすると、2%のマイナス2万円のところで自動的に損切りができるように対策をとっている。そしてそれを確実に、機械的に実行している。この損切りの方法はトレーダーによっていろんな考え方があるという。いろんなやり方があるが、優秀なトレーダーはすべて損切り名人である。これは間違いない。損切りしないトレーダーはプロのトレーダーとは言わない。つまり自分の判断間違い、見込み違いという事実は直ちに素直に認めているのだ。そしてすぐに対処している。それを無視して、言い訳や希望的観測などで損切りを先延ばしすると、その後大きな問題が生じるという。我々も見習いたいところだ。トレードでは自分の思惑通りに利益が延びた場合、どのように対応するかという面も重要である。しかしトレードにおいて一番大事なことは、自分の思惑が外れた場合、いかに素早く損切りができるかにかかっている。損失を少なくして、資金をすぐに引き上げることが肝心だという。。そして勇気をもって新たなトレードを仕掛ける。そしてまた思惑が外れれば損切りをする。その繰り返しである。勝った負けたと一喜一憂している暇はないのだ。200回のトレードで、勝率30%の手法があるとする。プロのトレーダーの勝率はこの程度のものだという。この手法は模擬トレードで検証作業をきちんと行えばある程度確信が持てるようになる。模擬トレードは200回の検証作業でほぼ結論が出るそうだ。これは最初に自分が決めたルール通りに厳密に丁寧に行う必要がある。検証作業で勝率のよくない手法は本番では使えない。トレードすればするほど損失が拡大していくからだ。本番で使える手法は他人から教えてもらっても身につかない。試行錯誤しながら、自分で掴むしかない。これによると、140回は思惑外れのトレードとなる。70%は負けである。その負けを素直に認めていかに損失を抑えるか。これが肝心だ。これを本番で淡々と実施していくことになる。仮に1回あたり100万円の資金で200回のトレードを行うとする。マイナス2万円の時点でロスカットすると、その額はマイナス280万円の損失となる。残り30%の60回が多少なりとも利益が乗っているトレードとなる。その中には、5000円ぐらいしか勝っていないトレードも当然ある。勝っているといっても玉石混交なのだ。ここであきらめてはいけない。自分の信じた手法をどこまでも貫き通すことが肝心だ。普通負けてばかりだと、自信を無くして、一旦自分が信じた手法を投げ捨て、儲けが出そうな新しい手法に頼ろうとする。これが最も資金を失うやり方だそうだ。でも200回もトレードをしていると、こんなに利益が延びてもいいのだろうかというのがある。これが200回の内、20回程度発生してくれればよいのだ。200回のトレードから見ると約10%の確率となる。例えば1回あたり14万の利益が出たとすると、トータルで見ると280万となる。これは高い確率で十分にあり得ることだそうだ。これで勝ち負けトントンである。私が聞いたトレーダーの実態はその以上の結果になっているようだ。あとは残り40回の勝ちトレードの中身がどうなっているかが問題だ。でも残り40回で多少なりとも利益が出ているのだから、トータルでは勝てるということだ。トータルで勝つということが肝心なのである。個々のトレードの勝ち負けはだれにも分からない。よくこの株を買えば必ずもうかるという人がいるがインチキであるという。こうしてみると優秀なトレーダーは、エントリーした後は損切りを確実に実行して、損失を最小限に抑えているということだ。そしていつまでも思惑違いのトレードに執着していないのだ。株式市場の目まぐるしい変化に反旗を翻すようなことはしない。変化と闘うのではなく、サーファーが大波を捕まえて疾走するように、変化の波をとらえて上手に乗っかって疾走することを考えている。変化に抵抗することは無駄だと思っているのだ。間違いは素直に認めて、新たな気持ちで再エントリーしている。利益が出てうれしいとか、損が発生して落ち込むということはないそうだ。自分が決めたルールを淡々と冷静に執行することだけだという。そしてトータルで利益になればよいという。一般的に株式投資に参入する人は80%は1年以内に撤退を余儀なくされている。つまり命より大切な財産を湯水のように失っているのである。残り20パーセントの内、15%はトントンであるという。そして最終5%の人が利益を伸ばしている。過酷な弱肉強食の世界である。一旦虎の子の資金を失った人は、再び株式市場に参入することはない。儲けようという気持ちが先走っている人はほとんど失敗する。自分の手法を確立して、損失を最小限に抑え込み、淡々とトレードを繰り返している人の中にしか勝者はいない。株式トレードで生活している人は、汗水たらして生活している人から見ると、嫌悪感を覚える人がいるかもしれない。それは不労所得で生活している人だからである。株式トレードは果たして世の中に役に立つことをしているのかという気持ちの人もいる。しかし、実際にトレードで生活している人からは、人生の奥義を教えてもらっているように感じるのである。これは別に株式トレードに限らず、プロ野球で大成した人からも同様である。イチローさん、王貞治さん、落合博満さんなどの話を聞いていると、野球のこと以上に、人生そのものを語っているように感じるのである。どんな仕事であれ、その道を極めた人からは、森田理論で学ぶ大切なポイントが幾つも含まれているように感じている。
2019.10.07
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昨日、今日と老人ホームの慰問活動、発表会、カラオケ大会が続きました。写真は仲間が傘踊りを披露しているところです。私は昨日は腹話術をしました。持ち芸の一つです。今日は昔懐かしい曲をアルトサックスで披露しました。仲間は三味線、日本舞踊、ササラ踊り、南京玉すだれ、どじょう掬い、手品、フラダンスなどをしました。老人ホームはどこでも楽しい興業を楽しみにされています。需要に追い付かないほど依頼があります。それが私たちの生きがいとなっています。
2019.10.06
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玉置妙憂さんの夫は57歳の時大腸がんになり、3年後に転移しました。夫は一切の治療を拒み、それから2年後になくなったそうです。僧侶で看護師の玉置さんは、最後の半年間は夫に寄り添ったそうです。そこで人間がこの世から消えて亡くなる過程をつぶさに見ることになったそうです。それを「死にゆく人の心に寄りそう 医療と宗教の間のケア」(光文社新書)から紹介してみましょう。亡くなる3か月くらい前から、世の中の出来事に興味がなくなります。テレビ、新聞などは見なくなります。そのかわりに、昔の思い出話をするようになります。人間は誰でも亡くなる寸前は、自分の一生が走馬灯のように駆け巡るといいます。昔の思い出話をするということは、自分の一生の「まとめ」をしているのではないかと思われます。自分はこれまでどんなことをしてきたのか、その結果はどうだったのか。自分の身の周りの人との人間関係はどうだったのか。自分なりの総括をしているのでしょう。肉体維持のための食欲は次第になくなります。病院などでは、食事がとれなくなると点滴をして補う場合があります。これから死を迎える人にとっては、吸収できず、体がむくむだけだそうです。周りの人は少しでも長生きをしてもらいたいという願いからなのでしょうが、本人にとっては苦痛となります。自然の摂理からみると問題です。またこの時期は、だんだんと眠ることが多くなるそうです。このころの眠りは、熟睡ではなく、浅いレム睡眠で夢をたくさん見ているそうです。昔の出来事が次々と夢の中に出てくるのでしょう。夢の中で総括作業を続けているのでしょう。亡くなる1か月前くらいから、血圧、心拍数、呼吸、体温などの維持が難しくなってきます。自律神経の機能がだんだんと衰えてくるのです。これは自然に起こることなのです。亡くなる2週間前から1週間ほど前になると痰が増えてくるそうです。まだ免疫細胞が働いてくれているのでしょう。これも何もしなければ2日か、3日ぐらいで自然に消えてしまいます。自然と免疫細胞もその活動を停止してしまうのでしょう。それで本人は楽になります。ここで、点滴をしていると、免疫細胞が勢いづいて、痰はどんどん増えてくるので注意が必要です。身体の自然に任せることが肝心です。亡くなる24時間前になると、尿が出なくなり、顎を上下に動かす呼吸になります。そして心臓停止が起こる前には、血圧が急に低下して、筋肉が緩みます。それまで出なかった尿などが一挙に出て、自分の身体の中を空にしてから亡くなっていくのだそうです。老衰などで亡くなる場合も、このような経過をたどります。自然に身を任せていると、このような過程をたどって、比較的楽に幽体離脱が完了するのではないかと思われます。
2019.10.06
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森田先生の指導を受けた人に根岸君という人がいた。20歳の学生である。症状は赤面恐怖症。16歳で発病した。2年前から電車に乗ることもできなくなった。ついに赤面恐怖症のため、中学5年生の時に退学に追い込まれた。これは赤面恐怖症を克服した「根岸症例」として有名な話である。森田先生のところで4日間の絶対臥褥を受けた。その後作業療法受けた。そして房州での50日間の転地療法に入った。転地中は自炊生活をして、農家の手伝いをした。その間根岸君は日記を書いて、1週間ごとに先生の所に送り、先生はこれを批評し指導していった。その中で根岸君は、赤面恐怖症を克服した。さらに人生観がからりと変わっていった。これからの生きる方向がはっきりと定まったのだ。どんなふうに変わっていったのかとても興味が尽きない。彼は文学に興味や関心があって、大学も文科に進みたいという強い希望があった。将来は前途有望な小説家として身を立てたいと思っていたのだろう。普通ならばその希望を後押しすべく指導や援助を行う人が多いと思うが、森田先生はことさらそのような指導はされていない。焦点は神経症の克服と人生観の確立にあった。彼は文学の道に進みたいという裏には父親との確執があった。父親は商人で息子にも商科に進んでほしいという希望を持っていた。彼はそんな父親を軽蔑していた。父親は人間が生きていくのに、地位と財産と名誉とが最も大切であると言いました。私はそんなものは一番くだらないものだと思っており、父親と対立していました。また義理の母とも仲が良くなかったようです。商人になれば豊かな生活が送れるかもしれない。でもそれで納得できる人生が送れるとは到底思えない。私は物質面では貧民であっても構わない。ただし精神面では富豪になりたい。哲学概論に一日かそこら頭を突っ込んだり、まとまりもしない評論を読んでは、むやみに感激して赤線を引き回したり、トルストイが何といった、ベートーヴェンが何といったなど、片言ばかり書き集めて、父にむかったり、友を嘲笑したり、ああ腐った社会だのと悲憤していた。彼は精神第一主義に陥って、淡々と流れる日常生活、食べるためにする仕事をつまらないことと切り捨てていたのである。そんなところに意義を見出すことはできない。そんなことにうつつを抜かして、平々凡々とした人生を送っている人たちを軽蔑していたのです。精神面で豊かにならなければ、生きる価値はないと真剣に思っていたのです。しかし文学で身を立てたいと思っても海のものとも山のものともわからない。それどころか、周りの者との確執を招いている。にっちもさっちも思い通りにならない現実にイライラしていたようです。そんな彼に衝撃的な出来事がありました。農作業の時、日雇いの婆さんが手が痛いというのでみたら、手のひらの皺という皺が、古い鰐皮のように割れて中から赤い肉がのぞいている。北風がしみるのである。気の毒でならなかった。毛孔から油が出るほど、うまいものを食って遊んでいる人間があると思うと、こんな百姓女もいる。なぜだかわからないが、この婆さんのように、虐げられて生きている者の方が、真の人間らしく思われる。私は半分道楽同様に働いているが、この婆さんは死ぬために働いているようだ。閣下、殿様で、悠々と生きている人間も偉かろう。しかしこの婆さんは、人類のどれだけの力であるか。彼女自身も知らず世の中の人も知らない。生まれてからこの村十里へ出たこともなく、春が来れば麦を刈り、夏がくれば田の草をむしり、秋は米をとって、都へ送り出す手伝いをして、一生人類に捧げた功労を誰もねぎらうものもなく死んでいくのだ。このお婆さんを見て人が生きるということはこういうことか。しっかりと大地に根を張って生きていくことの大切さを感じ取ったようです。この時代は少し学問ができるものは、立身出世を夢見ていたのです。都会で一旗揚げて、田舎に凱旋したいという気持ちを持っていたのです。彼の目指していたのは文学で身を立てることでした。そういう人は日常茶飯事や食べていくための仕事を軽視して軽蔑していたのです。炊事、洗濯、掃除、子育てなどは価値のない、下等な人間のやることだと思われていたのす。そんな価値観を見事に覆すような衝撃的な出来事でした。雑事や雑仕事に目覚める出来事だったのです。これこそが森田先生が言いたかったことです。つまり観念や理想や価値判断に振り回されるのではなく、今現在を真剣に生きるということだったのです。職業に貴賤はない。目の前の家事や仕事に真剣に打ち込むことこそ尊い生き方である。このことを根岸君は瞬時に会得したのです。頓悟といってもよいかもしれませんね。その後根岸君は商科に進み、上海を拠点にした貿易商として大成していったようです。
2019.10.05
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堀江貴文さんのお話です。僕がインタビューを受けたとき、ほとんど話さないので、インタビューにならないという評判が立っている。しかし実際には、よくしゃべるときもある。でも全体的に見ると話さないことが多いということなのだ。それはひとえにインタビュアーの質問内容にかかっている。1割ぐらいの人はつい長話をするような質問をぶっつけてくる。ところが9割がた、話したくもないような質問をしてくるのだ。そういう人は、インタビューすることが何日も前から分かっているにもかかわらず、僕のことを調べていないのだ。いわゆる準備不足なのだ。だからしゃべる気が起こらない。普通インタビューする前には、僕の著作に目を通す。僕が発信している動画や記事を見ておく。SNSへの最近の投稿をチェックしてみる。これらは必要なことだと思う。相手のことが全く分からない白紙の状態で、インタビューさせてくださいというのは、相手に失礼ではないですか。分刻みで行動している自分にとって、準備不足で取材されることほど、大きな痛手はない。例えば、あなたが営業マンで何か商品を売り込もうとするとき、その会社のことをほとんど調べていない。競合他社の商品の知識が乏しい。商品に関するニュースを知らない。といった状態で臨むだろうか。もしそんな状態だったら、相手はそっぽを向くだろう。あきれ果てて、怒りだすに違いない。堀江さんは、「無駄な質問・3原則」について説明されている。「調べていない」「考えていない」「わかっていない」インタビューが不調に終わるのは、この3つが当てはまるときだ。(好きなことだけで生きていく 堀江貴文 ポプラ新書 152ページより要旨引用)これは集談会の自己紹介でも応用したいものだ。大体自己紹介でしゃべることは家で整理している人が多いと思う。そうしないと、みんながしゃべっているときに今日は何をしゃべろうかと考えないといけない。自分の順番が近づいてくると、不安や恐怖が襲ってくる。家での5分の準備はゆとりと不安をなくする。次に相手の話はメモしている人が多いと思う。これもちょっと工夫すれば、何回も参加している人はインデックスをつけて、ある程度の余白をとって、日付をつけて時系列で一目瞭然にしておく。これが積み重なっている効果は大きい。それを集談会当日に少しでも見て頭に入れておけば、適切な質問ができる。半年も前のことを覚えてくれたのかと、感激されることもある。例えば、「腰の痛みはその後少しは和らぎましたか」「奥さんとの夫婦仲は元に戻りましたか」などと質問すれば、相手と打ち解けやすくなる。事前準備は、自己紹介だけではない。体験交流で話す内容も、家で整理しておく。症状のことでもよい。日常生活のことでもよい。人間関係のことでもよい。生活の発見誌や単行本で印象に残った記事のことでもよい。森田理論の疑問点でもよい。学習ツールの話でもよい。森田理論の応用の話でもよい。ペットとの付き合い、趣味のことでもよい。とにかく最低1つはしゃべる内容を準備して参加することだ。集談会を実りあるものにするには、「家での準備に始まり、準備に終わる」を肝に銘じてほしい。みんながそれを心がけて実践したとき、すぐに集談会は活性化してくると思う。
2019.10.04
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最近「不問」という言葉をよく耳にするようになった。何を「不問」にするのかということですが、もちろん「症状」のことです。症状を取り除きたい、緩和したい、苦しみから逃げたいという考え方や行動をとらないということです。ただ、考え方のほうは、自分の頭の中にコールタールのようにべったりと引っ付いていますので、取り除くことはとても難しいです。しかし行動には意志の自由があります。症状を不問にするということは、実際には行動を変えていくということになると思います。実践や行動が伴わないで、「不問」を口にしている人は、多分すぐに行きづまるでしょう。私の体験では、最初は実践課題を作り、実施することに取り組みました。そのうちに、気のついてことをすぐにメモして、雑仕事、雑事に丁寧に取り組みました。その中で「仕事に追われる人と仕事を追っていく人」の違いも体験することができました。仕事面では約1年という短い期間で、上司や同僚に評価されるようになりました。それを、集談会で発表してアドバイスをもらっていました。すると弾みがついて、自信が生まれてきて、好循環が生まれてきました。森田でいう「ものそのものになりきる」という実践でした。そのうち、趣味や習い事の方面にも広がってきて、充実した人生を送ることができるようになりました。振り返ってみると、結果として、かなりの部分で「症状不問」の状態になっていたのです。症状でいっぱいだった頭の中が、その比率がどんどん少なくなっていったのです。ところが、この時点で神経症を克服したかのように見えるのですが、実際は対人恐怖で押しつぶされそうなつらい人生とは決別することはできませんでした。この時点では、森田療法は、症状はそのままにしておいて、目の前のなすべきことに取り組むことで、神経症をなくする理論だと思っておりました。それ以上の対人的な苦しみや葛藤は、森田ではどうすることもできないと信じて疑わなかったのです。集談会では世話活動をしていましたので、不満足ながら発見会活動は続けていました。その私に衝撃的な出来事がありました。岩田真理さんの「流れと動きの森田療法」(白揚社)の冒頭部分に、森田理論で治った人の中には、ときどき独特の臭みを持った人がいるという指摘でした。妙な胸騒ぎがしました。ごく一部の方なのですが、独特の、それも似たような個性をお持ちの方がいるのです。頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などお構いなく自分の言いたいことを言う人たちです。集談会の中では、「あの人は症状があった時の方が付き合いやすかった」と評価されるような人たちです。これにはドキッとしました。腰砕けになりそうでした。正直、これって私のことを言われているのかと思いました。たしかに私は、自分の成功体験を吹聴し、天狗のようになっていたのです。症状を不問にして、なすべきことをやりなさい。なぜあなたは真剣に取り組まないのですか。そんなことでは森田理論の学習をしている意味がない。そもそも症状を克服したいという気持ちを持っておられるのですか。などと声を荒げてみんなを叱咤激励していたのです。今思うと穴があったら隠れたい気持です。そのしっぺ返しは強烈でした。そのことを言えば言うほど浮き上がってしまうのです。すればするほど、他人が自分から距離を置いていくのです。終いにはあなたは集談会に参加しないでくれといわれるのです。私はみんなのためにと善意で行っている行為が、総反発を食らっていたのです。次第に私の居場所はなくなってきました。むなしさだけがつのってきました。私はそのうち腹が立ってきました。恨みつらみで我慢の限界を迎えていたのです。私は善意で行っているのに、非難や否定されることは理不尽極まりない。批判する人に電話をかけては喧嘩を売ってしまうというような有様です。どう考えても自分の方が正しい。間違っているのは相手だと思っていました。でも事態はどんどん悪化してきます。決して好転することはありませんでした。退会しなかったのは世話活動があったからです。そんな時に、岩田真理さんのこの言葉はずばり自分のことを指摘されていたのです。私はこの言葉でやっと目が覚めたようです。今考えると、自分の「かくあるべし」をみんなに押し付けていたのです。その時、相手の症状、苦しみや葛藤は全く眼中にありませんでした。自分の言いたいことだけを主張して、自己満足の世界にいたのです。しかも、実践行動が乏しい、観念中心だったので、犬も食わない代物だったのです。一人相撲をとっていたことに気がつきました。相手が症状で苦しみのたうち回っているのは、「症状不問」になっていないからだ。「症状不問」で目の前のなすべきことに取り組めば、間違いなく症状を克服できる。その考え方を今現在症状で苦しんでいる人に伝えたいと本気で思っていたのです。今思うとなんという勘違いをしていたのでしょうか。さらに、森田先生の「思想の矛盾」、事実、現実、現状から出発するという「事実本位」の考え方を学習して実践する中で、私のやり方は間違いだったことにはっきりと気がつきました。私の「かくあるべし」という信念を他人に押し付けてはいけない。自分も他人も不幸になるばかりだ。いくら物足りないなと思っても、相手の立場を理解して、相手に寄り添い、ただ少しの刺激を与え続けることしかできない。私と同じようなタイプの人はときどきいらっしゃいます。「症状不問」をことさら訴え続けている人の特徴は、相手のことが全く見えていないと思います。相手のことよりは、自己存在感をアピールする世界に入り込んでいるような感じです。それは百害あって一利なしだと思います。このことは十分に認識しておく必要があると思います。ただ、そういう人は、とてつもない爆発的なエネルギーを持っておられます。そのエネルギーの吐き出し方を間違えているために、自他ともに蟻地獄に陥って苦しんでいるのです。そのエネルギーの放出先がまともになると、日本のあるいは世界の森田理論学習の先陣をきれる可能性を秘めていると思います。「かくあるべし」の弊害と、事実本位の生き方を学習し実践できるようになったとき、その人は再び大きく脚光を浴びるようになることでしょう。そういう意味では大変貴重な人材である可能性があります。是非復活してほしい。人生において敗者復活は可能です。そのほうがかえってかっこいいじゃありませんか。爆発的なエネルギーはそういうところで発揮すればよいのです。そうしないと、他人を巻き込んで、自分自身も不幸な人生で終わってしまうかもしれません。
2019.10.03
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私はアルトサックスで仲間と一緒に老人ホームの慰問活動を行っています。人様の前で演奏するときは、とてもプレッシャがかかります。特に運指(指使い)の難しいところは、うまくやれるのだろうかという不安で押しつぶされそうになります。特に私がソロで演奏する部分に、指使いの難しいところがあると大変です。今まではその部分だけを何回も何回も練習して不安を払しょくするというやり方をとっていました。すると、練習ではほぼ100%近く問題なく練習できるようになります。ところが本番では、金縛りにあったようになって、途端にぎこちなくなる経験をたくさんしてきました。見事に気にしている部分で失敗してしまうのです。あるときハッと気づきました。気になる部分だけを取り上げて、何回も繰り返して練習するということは、注意や意識をその一点に振り向けるという結果になっているのではないか。不安をなくしたいということに神経が集中している。一旦は不安がなくなったかに見えるが、実際には注意と意識がその部分に張り付いたままになっている。そんな練習方法をとっていると、いつもは問題なくできる箇所で、ついうっかりミスをしてしまう。そういう練習は私にとってはよくなかったということに気がつきました。それからは練習方法を変えました。気になる箇所の練習は2回ぐらいは繰り返すが、基本的には曲全体の中で行う。ことさら気になる部分だけを取り上げて、繰り返して練習はしない。そして本番に向けての演奏曲が5曲、6曲とあるので、その通し練習を約50回ぐらい繰り返す。その練習の中で自然に、気になる箇所の練習を50回は繰り返すことになる。その部分をことさら取り上げて50回繰り返すよりも、全体練習の中で50回繰り返す方が、注意や意識がその部分に集中しなくなる。本番直前でも、その気持ちは持ち続けている。ここでずっこけていては本番が思いやられるのだ。そして本番では、これから演奏する曲は、これまで50回は練習を繰り返してきたという変な自信のようなのに支えられて、金縛りにあうようなことが随分と薄まる。振り返ってみると、気になる部分から注意や意識を他に振り向けるという森田理論の実践だったわけです。
2019.10.02
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私が以前ファイナンシャルプランナーの上級試験(CFP)の資格をとるための学習をしていた時のことです。そこでの学習方法が大変参考になりました。CFPの試験は、AFP試験に比べると大変難度が高い試験です。CFP資格者は日本全国でも1万人ちょっとだと思います。私の受験した頃は、金融資産運用設計、不動産運用設計、ライフプラン・リタイアメントプランニング、リスクと保険、タックスプランニング、相続・事業承継設計の科目がありました。これは1回で全部合格しなくても、毎年1科目ずつの合格を目指してもよい試験です。試験はほとんど難度の高い計算問題です。基礎をマスターしたうえでの応用問題なのです。ちなみに最近の出題問題を見たところ、現在の私では手も足も出ません。私は専門の受験校に通って勉強したのですが、内容としては基礎編と応用編に分かれていました。基礎編の学習が終わらないうちに、応用編の学習をするということは、無謀としか言いようがありません。例えばタックスブラニングですが、所得税は10種類あります。それぞれの特徴と課税方法などを知らないと所得税や住民税などの計算はできません。他の科目も同様です。ですから、各科目別にまずは基礎編を大まかに理解する必要があるのです。その基礎固めして初めて、応用問題として税額計算に入っていけるということなのです。受験専門校では、各科目にわたって基礎編であらましの知識の習得することになっていました。その段階をクリアーして、初めて受験に向けて本格的な学習が始まるのです。これをヒントにして森田理論学習のすすめ方について考えてみました。森田理論で基礎編に該当するものは次のように考えています。1、神経症とは何か2、神経症の成り立ち3、神経質の性格特徴4、感情の法則5、認識の誤り6、神経症が治るとは何か7、森田理論に出てくる用語の理解これらは1年かけて何度でも繰り返して学習してほしいものです。次に森田理論の応用編に該当するものは何か。8、森田理論の全体像の理解9、不安と欲望10、生の欲望の発揮11、「かくあるべし」弊害12、事実本位の生活態度の養成森田理論は大きく分けると4つの大きな柱から成り立っていると思います。それが、9から12までの学習内容となっています。それらをいきなり学習するのではなく、まず森田理論のアウトラインをしっかりと理解することです。次に、これらは相互に密接なつながりがありますので、その関連性も理解する必要があります。家でいえば4本のしっかりした柱ができたようなものです。ここまでくれば、あとは4本の柱をそれぞれ詳しく学習していくことになります。その学習の過程で森田の特殊用語を理解していくことになります。応用編の学習が終わると、自分の場合に当てはめて、まとめをする必要があります。それを学習仲間の前で発表して、感想を聞いたり、アドバイスをもらうとさらに有効です。そして本格的に森田を日常生活や仕事、家事、育児に応用していけば、万全です。私がここでいいたいのは、森田理論は手あたり次第やっていては効率が悪いということです。基礎編の学習が終わった後、森の中に入りこんで、森田の特殊用語であるキーワードを完全に理解しようとする学習に力を入れすぎると、停滞や混乱を招きやすいということがあるのです。まずは森田理論の全体像をある程度頭に叩き込むことから始めることを強くお勧めします。
2019.10.01
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