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広島県世羅町は果物、花街道、高校駅伝で町おこしをしています。フラワーフェスティバルでは「せらまち音頭」を踊ってパレードを盛り上げます。
2019.04.30
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私たち人間は社会的動物ですから、群れから孤立して一人で生きていくことはできません。自己中心的な行動を抑圧して、ルールを守り、社会的義務や責任を果たしていかなと社会に受け入れてもらえません。しかし人が生きていくということを考えてみた場合、それは必要条件ではありますが、十分条件ではありません。「仲間はずれにされてはならない」「人に受け入れられなければいけない」という承認欲求が肥大化してくると途端に生きづらさがでてきます。それは自分の感情、気持ち、意志などを抑圧して生きていくようになるからです。自分中心の生き方をつらぬいていく姿勢が、より大切になります。日本人は、この強い承認欲求の呪縛から少し解放される必要があるのではないでしょうか。他人中心の生き方考え方から、自分中心の生き方考え方に転換していくための糸口を考えてみました。1、プロフェッショナルを目指すということ。専門的な知識、技術、あるいは経験を獲得して、社会に役立つ人間になること。高良先生は10年間一つのことに打ち込んでいくと、それが可能になるといわれています。そうなると、自信がつき、生きる勇気が湧いてくると思います。私はこのブログはとりあえず、10年は続けてゆきたいと思っています。あと3年と9か月です。今でも大きく成長できたと思いますが、10年経ったときにどんな人間になっているか楽しみです。2、一つの世界に偏らない。職場、学校だけの人間関係、かかわり方をしないということです。家庭生活、集談会、趣味、夢や目標、友人との交流、ボランティア、町内会、習い事などを通じた行動や人間関係作りを心がける。これは森田理論でいうと、「不即不離」を応用した考え方です。このようなかかわりを持つと、職場や学校では借りてきた猫のようでも、他の場所では利害関係が少ないので自分の意見や意志を表明することができます。仕事を続けながら、社会人枠で大学院で勉強している人もいます。二足の草鞋を履いているのです。その人たちは、明確な目標を持っているので、意気込みが違います。3、大きな目標を持つ。大学に入ること、公務員になること、一部上場企業に就職することがゴールと考えている人がいます。それを目標にしてしまうと、燃え尽き症候群に陥ってしまいます。また運悪く不合格だった場合、他人の目が気になり、自己嫌悪に陥ってしまいます。自分は将来こんな仕事をしてみたいという大きな目標を持っていると、大学に合格するということは一つの通過点に過ぎません。目標が達成できる見通しが立つと、もう次の目標を立てておくことが有効だと思います。4、自己開示を心がける。自分の弱みや欠点、ミスや失敗を隠す、ごまかす、人のせいにする人がいます。それらは、すぐに、正直に、包み隠さず、赤裸々に公表する。事実本位の生活は難しいようですが、まずはこのことでできるようになることが大切だと思います。5、失敗の経験を数多く持っておく。人間は3000回の失敗をして一人前の人間に成長すると聞いたことがあります。私たちは、1回の失敗も許せなくて逃げ回っているのではないでしょうか。失敗を数多く受け入れた人は味がある。成功へのコツを掴んでいる。失敗した人の気持ちも手に取るように分かる。共感や受容の気持ちが持てる。
2019.04.30
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石原加受子さんの「自分中心」の生き方というのは、自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を大切にする生き方です。この反対の生き方は、「他人中心」生き方です。湧き上がってくる自然な感情を無視、否定する生き方です。自分の感情や気持よりも、他人の言動に振り回されて生活している状態です。自分の意志を抑圧して生活しているので、生きていくのが苦しくなります。それは行動と自分の感情や気持との間でミスマッチが起こり、たとえ行動していても勇気を奮い立たせて動いているので、かえって息苦しいのです。「自分中心」の生き方は、森田理論でいうと、事実、現実、現状を受け入れていく「事実本位」「あるがまま」の生き方ということになります。「他人中心」の生き方は、「○○しなければならない」「○○してはならない」という「かくあるべし」を前面に押し出した生き方です。「かくあるべし」を前面に押し出した生き方・考え方は、事実、現実、現状を無視、否定するので、苦しみや葛藤が生まれてきます。神経症の発症の大きな原因となっています。「他人中心」の生き方をしていると、自分が物事に対して、それをどう感じているのか。どう思うのか。どんな気持ちがするのかというような感性が働かなくなります。自分中心の視点で捉えないと、自分の欲求や気持ちや感情に気づかなくなっていきます。感度が鈍くなると、五感で味わう気持ちよさや、快感、満足感、充実感、幸福感といった「生きる喜び」や好きなことに夢中になっているときの興奮や好奇心、探求心といった「心の躍動感」も喪失していくのです。(最近、心が休まらないと思ったとき読む本 石原加受子 中経出版 92ページより要旨引用)私たち神経質者は、生まれながら豊富な鋭い感性を持っているのです。ところが、自分の感情、気持ち、意志、五感、身体感覚を粗末に扱い、無視し続けていると、その最大の長所が徐々に失われてしまうということです。ヤスリをかけて優れた長所を削っているようなものです。実に残念な結果となります。そうならないためには、「自分中心」「事実本位」「あるがまま」「自然に服従、境遇に柔順」の生活態度を身に着けることが大切になります。森田理論を学習していくと、そのための道筋が幾つも用意されていることに気づきます。あとは、生活の中で積極的に応用し活用していくことが大事になります。
2019.04.29
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いよいよ10連休に入りましたね。私は普段の規則正しい生活が崩れないようにしたい。朝は6時30分に起きる。早速パソコンのスイッチを入れる。今日投稿した原稿に誤りはないか、明日朝一でアップされる原稿の最終確認をする。そして1時間かけて、1か月先にアップする原稿を1つだけ作る。それから布団をあげて、しばてん踊りとどじょう掬いの練習をする。さらに腹話術の口上の練習をする。そして洗面、身支度をする。ニンジンリンゴジュースを1杯飲む。普段はここで職場に向かう。9時から12時まで仕事。12時から軽い食事、仮眠を30分とる。1時から5時まで仕事をする。その間受付で本を2時間は読んでいる。仕事中は階段の上り下りを繰り返して足腰を鍛えている。これを連休中は組み込まないといけない。5時30分に帰ってくると、アルトサックスの練習をする。6時30分から晩酌を兼ねて食事。約1時間。しばらく休んでyou tubeでカラオケの練習を40分ほどする。肩の体操と嚥下防止の運動をする。テレビは報道ステーションやプロ野球を見る程度である。12時には就寝。次に普段仕事をしている時間に何を組み込むか。これに普段できないことでやってみたいことを組み込む。・まず宮島1周のハイキングに行く。約30キロの行程だ。・田舎に帰って、掃除、草刈り、溝さらい、夏野菜の植え付けなどがある。2日間。・仲間との飲み会やカラオケが3回組み込まれている。・フラワーフェスティバルに行く。・家のベランダの草花の手入れ。・本だなの整理、衣類の入れ替え。・「森田療法と症状別の治療法」のDVDをみる。・5月の派遣の原稿はすでにできたので、シュミレーションをする。とにかく1時間以内に抑えないといけないのだ。今回はすべてパワーポイントで作成した。写真、イラスト、音楽、動画を取り入れてお気に入りのものができた。・このブログの投稿のために本読みをする。・支部研修会の学習内容について検討する。その他必要に応じて、随時見直すことにする。さあ、どんな休暇になるのか。今から楽しみである。いい休暇だった思えるようにしたいと思っている。
2019.04.28
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ある50代の専業主婦のお話です。この方は結婚前は働いていたのですが、主人から「結婚したら仕事をやめてくれ」と言われたので、仕事を辞めました。主人が、家にいて、家事と子育てをちゃんとやってほしいと望んだからです。 当時は、その方もそれが当たり前だと思っていたので、抵抗はありませんでした。ですが、結婚してから、主人の束縛が徐々にきつくなりました。学生時代の友人や会社の元同僚に私が会うことも嫌がるのです。みんな、女友達なのに。たいてい悪く言うので、なんとなく会いづらくなったのです。それだけではなく、私が外出することにも、嫌な顔をするようになりました。夫と子どものために尽くす女が最高という理由で、毎日出かけているような近所の奥さんをけなすのです。私が時々実家に帰ることもいやがりました。私の実家は田舎にあり、両親が兄夫婦と同居しているのですが、そこに子供を連れていくことにも、渋い顔するのです。そういうわけで私は実家とも友人とも疎遠になりました。子育てが一段落して時間ができたので、太らないようにするためジムに通いたかったのですが、それも反対されました。いろんな人が来ていて、どんな人が来ているか分からないから、そんな危ないところは避けた方がいいと言う理由でした。とにかく、私が自分の時間をもって、自分だけの楽しみを見つけることに、我慢がならないようです。主人がそういう人だということは 、一緒に暮らしているうちに、少しずつわかってきたのですが、私は何も言えませんでした。主人を怒らせるのが怖かったからです。第一、今の私は、仕事もお金もなく、親兄弟や友人とも離れているので、夫から捨てられたら、生きていけませんから。この女性は、結婚当初は夫の愛情ゆえに、そして後には夫に対する恐怖ゆえに、価値観の押し付けに対して従順に受け入れてきた。その結果、攻撃力の強い夫に対して怒りや敵意を抱きながらも、依存せざるをえない「敵対的依存関係」に陥ってしまったのです。(他人を攻撃せずにはいられない人 片田珠美 PHP新書 133ページより要旨引用)こういう主婦の人は集談会にもおられます。「集談会に参加すると心が楽になる」といわれるので、「続けて参加してください」というと、主人が出かけるのを嫌がるので、続けて参加することはできないといわれる。主人の顔色ばかり気にしているのだ。主人が自分のことを、非難したり否定することにびくびくしながら生活しているのだ。こういう人は、他人との関係でも、常に受け身で振り回されている。自分の気持ちや意志を打ち出すことがなく、相手の言動に従うことが多くなる。対等な人間関係ではなく、支配、被支配の関係である。支配されるばかりだと、自分の気持ちや意志を抑圧するので精神的には苦しくなる。抑圧するのが習慣化してくると、最後には自分の欲望や意志が分からなくなってくる。生の欲望の発揮が大切だといっても、自分にはたして欲望があるのかどうかさえ分からなくなってくる。この悪循環から抜け出るためには、自分の感情、気持ち、欲望、意志、五感、身体感覚を前面に押し出して、大切にしていくようにしないといけない。自分中心の生き方をすることだ。森田理論でいう、「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生活態度に立ち戻ることである。とはいっても、急に考え方や生き方を変えることはとても難しい。そういう人はまず「かくあるべし」がどれほど自分を苦しめているのかを自覚することだ。森田理論学習で自分の「かくあるべし」どんなものかをはっきりさせることだ。私の場合は、「人から批判、否定されるようなことはあってはならない」「いつも他人から一目置かれて評価されるような人間にならなければいけない」というものでした。こういう強固な考え方で、現実の自分を否定的に見ていたのです。容姿、性格、能力、境遇、存在をことごとく否定していたのです。本来どんなことがあっても守ってあげなければならない自分を徹底して否定しているわけですから、精神的に苦しいのは当然の結果だったわけです。このことがしっかりと自覚できてから、「自分がどんな事態に陥っても、絶対に見捨てないぞ」「いつも自分に寄り添って、守り抜いてみせるぞ」と決意を固めることができたようです。そのための手法は、森田理論によって幾つも見つけました。このブログで書いている通りです。そうして、精神的に楽になることができたのです。
2019.04.27
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2019.04.26
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2019年3月11日、中国新聞に、「苦しくとも花は開く」と題して次のような詩が掲載された。見るのが忍びなかった本当に厳しい世界ご苦労様としか言いようがない悔いなき稽古と本場所への心構え 気迫それを持ってしても 勝てなかった苦悩 葛藤 人には言えない伝えられない心持ちそして決断本人になりきって考えようとした時心は壊れそうになるこれまで多くの人の世話になり声援を受けその中で密かに覚悟し心を決めた 引退・・・人の一生でこういう場面に出合うことがあるだろうか引退するとはどういうことになるのだろうかあらゆる災難をすべてくぐり抜け天寿を全うするそんな幸運な生は滅多になかろうみんな日々を懸命に生きてはいても避けることのできない多くの天災 人災怪我、病気・・・・気を付けていてもどうしようもなかった出来事私達の人生はプロスポーツのようにファンからの声援のようなものを日々感じることは無いかもしれないがやはり現実のすべてを受け入れ明るく強く逞しく懸命に生きている人へは目に見えず聞こえないかもしれないが多くのファンや声援者がいるような気がするさあ今日も頑張ろう私のファン 見えない声援者のためにこの詩を読んで私の感想を書いてみた。この世に生きている限り、自分が考えているような展開に持ち込めることはほとんどない。湧き起こってくる感情、自分自身の身体、家族、他人、物事、自然現象も皆そうである。それを意志の力でなんとか思い通りにコントロールしようとすることは、たまにはうまくいくかもしれない。しかしほとんどの場合は、その反対の結果に意気消沈することになる。あえてそれを押し通そうとすることは、高速道路を逆走するようなものではなかろうか。大事故につながる可能性が非常に高い。考えただけでも怖ろしいことだ。これは対応方法が間違っていると言わざるを得ない。森田では「思想の矛盾」で苦悩や葛藤を抱えることになるという。こんな時は、まず事実、現実、現状を価値批判しないで、状況を正確につかむように心がける。そして、素直にその事実を受け入れていくことではなかろうか。少し落ち着いたら、そこを足がかりにして、前を向いて、一歩を踏み出していく。いつもそこに視点を置いて出発する態度を忘れないことだ。その繰り返しである。ここで大事なことは、理想、完全、完璧、目標を目指すことが悪いのではない。それどころか、それに向かって努力精進していくことは人生の醍醐味である。問題は、理想、完全、完璧、目標の立場に自分の身を置いて、事実、現実、現状を否定してしまう自分の態度にあるということだ。理想や目標などは、下から上を見上げるという気持ちが大切なのである。決して山の頂上にヘリコプターで直行して、はるか下を見下ろして、格闘している自分や他人を批判したり否定してはならないのである。私は、このコツを掴み、「事実本位」「あるがまま」の生活を身に着けた人を、「森田の達人」と呼ぶことにしている。
2019.04.26
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精神医学で離人症と呼ぶ現象がある。離人症の特徴は、現実感の喪失と疎隔感であり、 「自分が自分でなくなった」 「何をしても自分でしているという感じがしない」などと訴えることが多い。何をしても自信が持てない。自分だけが周囲から浮いているように感じる。誰かと一緒にいても、気を使ってすぐに疲れてしまう。どこにいても、自分の居場所がない。何をしても心の底から楽しめない。何もかも投げだしてしまいたい気持ちになる。こんな人生なら、生きていても仕方がないと感じる。こうなると砂や霞を食べて生きているような現実感の喪失現象が起こります。無気力、無関心、無感動な人生で、ただ命をつないでいるだけで、生きる意義は失われてしまいます。朝起きて「今日は何もすることがない」「毎日たいくつだ」「何か刺激のある楽しいことはないものか」などと考えるようになると、危険な兆候だ。そうならないために、日常生活に丁寧に取り組む。規則正しい生活をすることが大切だ。特に料理に真剣に向き合うことが大切である。外食は極力減らして、自分で作ることを基本にすることだ。食事の献立を考える。料理が片寄らないように工夫する。買い出しに出かける。料理を作る。きれいに盛り付ける。後片付けをする。これに真剣に取り組むと、夕食にかかわる時間は献立作りに10分。買い出しに30分。料理作りに30分から1時間。食事に30分から1時間。後片付けに30分ぐらいかかる。ゆとりを持って夕食に取り組むと2時間から3時間は必要になる。これに自給自足で家庭菜園や加工食品作りに手を出すようになるとよいと思う。この時間は心も身体も外向きになる。神経症のことで悩む時間はそれだけ少なくなる。この時間を切り詰めて、親に依存する、外食で間に合わせるということになると、暇で空白の時間が生まれてしまうのだ。私たちは、ネガティブで後ろ向きのことばかり考えるようになるのだ。それから掃除、洗濯、整理整頓も大切な家事である。中でも掃除は必須である。掃除機は毎日かける。そして雑巾がけを毎日する。「悩む前 掃除洗濯 最優先」という川柳を作ったことがあるがまさにそのことである。私はマンションの管理人をしているが、家の中をきれいに拭き掃除をしているかはすぐに分かるようになった。それは解放廊下のサッシ窓の面台をきれいに拭いているかどうかを見るのだ。私の管理棟は57件あるが、そのうち3件だけはいつもピカピカになっている。その3件は網戸もとてもきれいにされている。ちなみに車もよく洗車されている。面台は家の外だから、どんなに汚れていようと、全く気にならないという人は、家の中の拭き掃除や整理整頓には無関心な人であると思う。そうなると、家の中に物が散乱して、埃があちこちに溜まっているのではなかろうか。これも真剣に取り組むと1時間や2時間はかかると思う。鳥は1日のうち60%はエサをとってくることに費やしているという。私たちも食べるということと掃除、整理整頓に真剣に取り組み、毎日3時間ぐらいは費やしているという状態になれば、神経症と格闘する時間はそれだけ減ってくる。日常茶飯事はできるだけ手を抜いて、思う存分人生を楽しみたいと思っていると、精神状態はどんどん悪化してくることを肝に銘じて、初心に戻ることが大切だと思う。
2019.04.25
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愛甲修子さんによると、子供は他の子供たちと遊びを通じて人間関係の在り方を学んでいくといわれている。そしてルール遊びの中から、社会のルールを学んで、自分の本能的な欲望が暴走しないように制御できる能力を身に着ける。そして、その遊びにも発達段階があるといわれている。1、愛着形成期母親と赤ちゃんの間で形成される絆であり、最強のセイフティネットとなる。2、感覚遊び期赤ちゃんのガラガラ遊びは聴覚を中心とした遊び、メリーゴーランドは視覚を中心とした遊び。「高い高い」や「毛布ブランコ」は固有受容覚や前庭感覚を中心とした遊び、指しゃぶりは臭覚や味覚を中心とした遊び、自傷行動は固有受容覚や前庭感覚を中心とした刺激遊びである。3、模倣遊び期養育者のまねをして遊ぶ。例えば、鏡台の前に座って口紅を塗ったり、お料理をしている様子をまねたり、日常の様子をまねる。4、ごっこ遊び期お母さん役、お父さん役、赤ちゃん役、お姉さん役などを決めて、それぞれが役になりきって遊ぶ。テレビのヒーローやお姫様になって遊ぶこともある。5、ルール遊び期おにごっこ、だるまさんがころんだ、すごろく、トランプなどルールのある遊びができるようになる。6、自律期がまんができるようになる。己の身体と気持ちを律することができるようになる。(愛着障害は治りますか 愛甲修子 花風社 99ページより引用)子供たちは遊びの発達段階を順番に通過することによって成長する。まず愛着の形成が可能になる。つぎに五感や身体感覚を育てていく。遊びを通して、ルールを学び、ルールを守るという自制心を育てていきます。さらに人間関係を学び、社会を生き抜いていく力を育てているのです。愛着の形成、五感や身体感覚を鍛える遊び、模倣遊び、他の子供とのなりきり遊び、ルール遊びの発達段階を着実に経ることによって、子供はまともに成長していくのだという認識を大人が持たなくてはなりません。そうすると、子供を見る目が変わってくる。過保護、過干渉、放任、虐待は減ってくると思う。私の場合は、1の愛着形成期、4のごっこ遊び、5のルール遊び期、6の自律期の段階を踏んでこなかったと思う。家の中で一人で過ごすことが多く、近所の子供たちとルール遊びをした思い出はほとんどない。それが本能的な欲望が暴走したときに、我慢することができない人間になってしまったのかもしれない。今では、そのような場面、場所に立ち入らないというということで、かろうじて本能的な欲望を制御しているような状態である。また異性と遊んだ記憶は全くない。その経験不足が、いまだに異性を避けるという態度になってしまっているのかもしれない。
2019.04.24
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愛甲修子さんは、愛着の形成は胎児期から始まっているという。そしてそのプロセスは8つありピラミッドを形成している。一つ一つをクリアーして、次の段階に進むことができる。1、胎児期胎児は母親と一心同体で生きている。その命は、すべて母親に委ねられている。2、出生期赤ちゃんは産道を通って、子宮内から外界へと生まれ出る。臍帯を通しての胎盤呼吸から肺呼吸に変化させて、母親の胎盤から切り離されて生きていくことになる。3、自他未分化期赤ちゃんは養育者に抱っこしてもらい、おっぱいを飲ませてもらって、養育者と一体化した状態で生きている。4、共感期赤ちゃんと養育者とが同じ対象を見たり、聞いたり、味わったり、触ったりすることで、感覚器を通して共感し合えるようになる。5、自他分化期養育者との間に愛着の絆ができると、見知らぬ人と養育者を区別するようになる。養育者以外の人に不安を覚え、養育者に安心を覚えるようになる。6、後追い期養育者に急にまとわりつくようになり、後追いが始まる。7、移行対象期赤ちゃんは言葉によって養育者に甘えることが可能になる。養育者の膝を基地にして、次第に行動範囲を広げていき、移行対象が養育者代わりとなって養育者がいなくなっても大丈夫になる。8、内在化期養育者が内在化されて、一人で過ごすことが可能になる。(愛着障害は治りますか 愛甲修子 花風社 52ページより引用)このような愛着の発達過程を経ることで、子供は他人への信頼感・安心感を獲得していく。胎児から1歳6か月までの間で、母子の間で愛着の形成が滞りなく行われると、それは一生ものになる。当たり前で簡単なことのようだが、現代社会では愛着障害を抱えて、他人に不安や怖れを感じる人が多いのである。信頼関係を気づくことができないので、他人の言動に振り回されるようになる。愛甲さんは、愛着障害を抱えている人は、2歳から4歳の時の、第一反抗期はないという。親に反抗するというのは、親が自分を見捨てないという確信が持てた場合にのみ可能になる。親が心の安全基地だという発達段階を経て、初めて、第一反抗期が訪れる。親から分離して、自立への第一歩を歩みだすことが可能となるのである。また愛着障害を持っている人は、依存症に陥りやすいという。母親に十分に甘えるという発達段階が抜け落ちると、甘えだけが暴走して、依存対象にしがみつくようになる。依存症はアルコール、ギャンブル、薬物、ネットゲームなど様々ある。親子での愛着の形成の不全感が残ると、信頼という絆がないので一人ぼっちの「甘え」が不特定多数の人や物などへしがみついてあがくことになるのです。私は対人恐怖症、社交不安障害を抱えている人は、愛着診断テスト(岡田尊司さんの愛着障害という本に記載されている)を行い、愛着の再形成を行ったほうがよいと思う。森田理論学習は愛着障害の修復とともに行うことを提案したい。
2019.04.23
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生後1歳6ヶ月までに形成されるという愛着の形成は、おおむね次のような段階を踏むと言われている。1 、 自閉期生後間もない赤ちゃんは、自分の心と身体、自分と母親との区別がまだつかない。2 、共生期母と子がくっつきあう時期で、このとき、母親と「一心同体」という融合体験を持っているか否かが、その後の自我の発達の基礎となる。3 、分離開始母親との融合関係が満たされると、母親からの分離が起こり始める。この時期の子どもは、母親の顔や衣服のまさぐったり、自分の指をしゃぶったり、シーツを手探りしたりしている。この移行対象に触れながら、母親と自分が一体ではなく分離したもので、自分とは別のものであるということを認識していく。4 、分離初期「いない・いないいないバー」は、母親との別れの練習とも言える。急に大切なものがいなくなった! いや、やっぱりいた!という体験は、母親はいなくても現れるのだという安心感につながる。8ヶ月頃から人見知りが始まるが、これは自分と対象とが分化して、見知った者には安心感、見知らない者には不安を感じるわけで、自我発達にとっては大切な経験である。5 、分離過渡期を経て分離の完成①養育者から離れて、自分独自の行動がより自由になる。②動けることによって視界、つまり外界の見え方が一変し、子供は母親の膝を基地にして、出かけては戻るを繰り返して、次第に行動半径を広げて行く。エリクソンは、基本的信頼関係を築くことが、乳児期の発達課題だとしました。母親との信頼関係の獲得が核になって、身近な人への信頼、仲間への信頼、人間への信頼へと、信頼は大きく広がっていき、愛すること、他者のうちに自己を見出すことができるようになって、精神的に安定した人間に成長するのだと唱えました。この発達過程を通過することなく成長すると、人間の基本的信頼関係を獲得することができなくなる。これはイスラエルのキブツでの実験で明らかになっている。人は自分に対していつも対立的で、自分に危害を加える存在のように感じるようになるのです。何か問題が発生したときは他人が助けてくれるという安心感が持てなくなる。そのために、外部の対象物に働きかけるよりも、自分を守るという自己防衛にエネルギーの大半を注がざるを得なくなる。森田でいう、「生の欲望の発揮」「物事本位」の生活が困難になってくるのです。専守防衛的な生き方は、生産的、創造的、建設的な生き方ができなくなるので、じり貧で閉塞的な生き方になってしまう。生きている喜びや開放感が味わえなくなってくる。1年6か月までの母親と乳幼児の関係が、その後のその子の人生に大きな影響を与えているというのは大変な驚きであるが、これは事実である。愛着障害については、岡田尊司氏の「愛着障害」(光文社新書)の中に、「愛着スタイル診断テスト」がある。これによると、基本的には安定型、不安型、回避型の3つがある。そして、そのバリエーションを含めて8種類に分類されている。対人恐怖症、社交不安障害の苦悩を抱えている人は、ぜひとも診断することをお勧めしたい。自分の状態が分かれば、あとは愛着障害の改善に向けて舵を切ることができる。愛着障害は、ある程度修復可能だ。決してあきらめることはない。そういう方向に向かわないと、他人はとてつもなく恐ろしいだけの存在となる。その他の参考図書として、岡田尊司氏の「愛着障害の克服」光文社新書「愛着障害は治りますか」愛甲修子 花風社などを参照してもらいたい。
2019.04.22
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料理を作る体験は、森田実践に最適である。今では公民館活動で、どこでも行っている。1000円の参加費だけで済む。参加すると、美味しい料理を作りたいという目標を持つことができる。たとえ神経症で苦しんでいても、料理作りに取り組んでいるときは忘れている。レシピを見ると、誰でもできるような細かい作業の連続である。手を抜いていると、まともな料理ができないので、真剣になる。日常茶飯事をおろそかにしないで、丁寧に取り組む体験ができる。自然にものそのものになる体験ができるのだ。参加した人と手分けをしながら共同作業に取り組むことができる。料理のコツを先生や仲間から教えてもらうことができる。最後は、盛りつけてみんなで食べる。自分たちで作った料理は格別である。食べきれないほどできるので、タッパーを持参していく方がよい。そして最後はみんなで食器や調理器具をきれいに洗って収納する。男性は日常的に料理をする習慣はないと思うので、貴重である。今回は、五目ちらし、天ぷらの盛り合わせ、いかとわけぎのぬた、菜の花の白和え、アサリの味噌汁だった。13名の参加者が手分けをして取り組んだ。私は、天ぷらの盛り合わせ、いかとわけぎのぬたを作った。普段は料理作りはしていないので、目から鱗の体験だった。天ぷら作りで気のついたことを書いてみる。最初はサツマイモ、レンコン、なす、ゴボウ、青じそを揚げて、エビなどの魚介類は最後にする。野菜と魚介類は揚げる温度が違うからである。野菜は160度から170度である。エビは180度ぐらいだ。今は温度調整機能があるので安心だ。揚ったかどうかは、上に浮いてくる。あるいは、泡がだんだん小さくなってくる。揚げているときは焦げたりするので、裏返したりする必要がある。エビは尾を残して皮をむく。次に尾先を少し切る。ここの水分を抜いておかないと油が跳ねる。次に背中から包丁を入れて、背ワタをとる。腹側に3~4か所切れ込みを入れる。反対にひっくり返して、プチッというまで押す。こうするとエビはまっすぐに揚がる。衣は卵を溶きほぐし、冷水を加えて混ぜ合わし、小麦粉を加えて箸で軽く混ぜ合わせる。この時に全部をかき混ぜてドロドロにしないことがコツであった。ドロドロの衣にしてしまうと、衣がつきすぎた天ぷらになってしまう。また天かすが多くできる。さらっとした衣を作ったほうがよいようだ。そのためには最初から全部の衣を作らず2回ぐらいに分けて作ったほうが調整がきく。それから天ぷらを揚げるときは時として予期せぬ油のはねあがりがある。眼鏡をして目を守ることを心がけたほうがよい。盛り付けも食欲をそそるような盛り付け方を教わった、天つゆを作って、大根おろしを添えて出す。最初から大根おろしを入れておくのは控えたほうがよいようだ。これらは実際に体験するということが、大切なのだと思った。そういえば、私が参加し始めた集談会では体験学習として、野外学習会があった。キャンプ地に行ってカレー作りを行っていた。材料を用意して持っていった。飯ごう炊飯だった。そしてタキギは山から調達していた。出来上がったカレーをみんなで食べて、歌の合唱やゲームをして楽しんでいた。そして体験交流を行っていた。懐かしい思い出である。それに加えて、昔は、毎年一泊学習会も行っていた。楽しかった。今では、そういう体験がなく、森田理論ばかりを詰め込む学習会が主力である。効率的ではあるが、何か大事なことが忘れられているようにも思える。
2019.04.21
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それでは昨日の続きです。2、「かくあるべし」という思考や観念に振り回されることの弊害を理解する。事実、現実を起点(出発点)として、事実本位、物事本位の生き方ができるようになること。私たちはなぜ「かくあるべし」に振り回されるようになったのでしょうか。それは、動物と違って大脳新皮質が大きく発達したからだと思います。さらに言葉を使って過去や未来のことを自由に話すことができるようになりました。抽象的な思考や論理的な思考もできるようになりました。そのおかげで文化や文明が大きく花開いてきました。そして他の人間や動物や自然を自由にコントロールし、支配するようになってきました。それはまた次第に加速度をつけて、自分が頭で考えたことを肥大化させ、絶対視するようになりました。今や観念や思考が、事実、現実、現状を抑圧・支配し、自由にコントロールすることが当たり前になってきました。みんなが「かくあるべし」を前面に押し出して生きるようになってきました。湧き起こってきた感情の否定、自己否定、他者否定、自然の収奪や破壊が何の疑いもなく横行するようになってきました。理想主義、完全主義、完璧主義、目標達成第一主義、支配欲、征服欲を前面に押し出して、事実や現実を否定的に取り扱うようになってきたのです。あるいは、事実や現実を無理やり「かくあるべし」に引き上げようとしているのです。理想、観念、思考の世界と事実や現実の世界に横たわる深い溝への対応として、理想、観念、思考の世界を前面に押し出して対処しようとしているのです。いくら事実や現状の世界を観念の立場から否定しても、葛藤や苦悩が増すばかりだということに気が付かなくなっているのです。その結果、生きづらさ、他者との対立や紛争、自然破壊による住みにくさを抱えるようになりました。森田理論は、理想、観念、思考を前面に押し出した「かくあるべし」や、現実、現状を抑圧、コントロールしようとする態度は問題だと言っているのです。どんなに心もとなくても、現実、現状を起点にして、そこから出発するという生き方が人間本来の生き方ですよと教えてくれています。事実本位、事実唯真、あるがまま、自然に服従して、境遇に柔順な生き方を勧めているのです。そのような生き方を身に着ければ、葛藤や苦悩はなくなります。自己肯定できるようになり、他者と友好的な人間関係を築くことができます。そのためにはどうすればよいのか。1、森田理論学習によって「かくあるべし」の弊害を学習する。すぐに「かくあるべし」を振りかざさないように注意する。「かくあるべし」気づいたらすぐに現実や事実に立ち返れる柔軟性を身に着ける。2、事実、現状を自分の目でよく観察する。事実は両面観で見るように心がける。3、事実は個別的、具体的、赤裸々に取り扱う。抽象的、理想的、観念的には取り扱わない。4、「純な心」を理解して、生活の中に取り入れる。「かくあるべし」に振り回されたときには、第一の感情、直感、初一念に立ち戻れる能力を身に着ける。5、「私メッセージ」の手法を身につけて、生活の中で応用していく。他人を「かくあるべし」で批判、否定しないように心がける。私の素直な気持ちを伝えるだけにする。相手がどう対応するかまではコントロールできません。6、相手と意見や意志の食い違いがあるときには、話し合いによって歩み寄りを図る。7、自分の感情、気持ち、意志を最優先させて行動する。決して「かくあるべし」で自分を追いこんだり、非難や否定をしない。五感、身体感覚に意識を集中させる。いきなり全部に取り組む必要はありません。1つでも応用できるようになれば、事実に立脚した楽な生き方に変化してくるものと思っています。
2019.04.20
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森田理論を学習する中で、次の2つはとても重要であると考えています。1、不安と欲望の関係を理解する。不安と欲望のバランスを意識しながら生活をする。2、「かくあるべし」という思考や観念に振り回されることの弊害を理解する。事実、現実を起点(出発点)として、事実本位、物事本位の生き方ができるようになること。今日は1番目について考えてみたいと思います。2番目は明日投稿します。対人恐怖症を例にとって考えてみましょう。他人が自分を大事に取り扱ったか、あるいは虫けらのように取り扱ったかに注意や意識を向けています。すると精神交互作用によってどんどん悪循環を繰り返し、最後には人と交流することが苦しくなってきます。生きづらさを抱えるようになります。最悪、不登校、出社拒否に追い込まれることになります。この状態は、自分の「こうしたい」という欲望を忘れて、不安にばかりかかわっている状態です。本来不安は欲望があるからこそ生まれてきたものです。人と仲良く楽しく交流したい。人に役に立つことをして、評価されたい。などの欲望があったからこそ、対人不安が発生したのだということを忘れてはなりません。この不安と欲望は正比例しています。つまり不安が大きい人は欲望もそれなりに大きいのです。本来はその目的を達成するために、自分はどうするのかに視線を向ける必要があったのです。どこでどう間違ったのか。ミイラ取りがミイラになったような状況が生まれてきたのです。森田理論学習に取り組んだ人は、この点の理解はできていると思います。では手段の自己目的化、精神交互作用の打破はどのように行っていればよいのか。視線を不安から離して、欲望の賦活の方面に向けてゆけばよいのです。苦しいけれども、一旦不安は横に置いておく。あるいは不安を抱えたまま、生の欲望の発揮に視線を移していくことです。最終的には不安と欲望のバランスを意識した生活を目指すことになります。サーカスの綱渡りのイメージです。では「生の欲望の発揮」はどのように行っていくのか。私が取り組んでいることをご紹介します。1、日常茶飯事、雑事、雑仕事に丁寧に取り組む。規則正しい生活をする。2、好奇心に沿って何でも取り組んでみる。一人一芸を身につける。3、ものそのものになりきって、行動実践する。4、物の性を尽くす。自分の持っているものをとことん活用していく。5、境遇に柔順になって、運命を切り開いていく。6、緊張感を持って、変化に素早く対応する。7、問題点や課題の解消、目的、目標、夢の実現に向かって努力精進していく。この他ご自分で気づいたことを付け加えて、実行・実践してみてください。身近な日常生活や興味のあることにどんどん手を出していくのです。このようにして不安と欲望の関係を整理して、バランスのとれた生活ができるようになると、蟻地獄からはい出して日常生活が好回転してきます。この状態を第一段階の神経症の克服を達成したというのです。この段階では、対人恐怖症の苦悩、生きづらさは取れないかもしれません。それは明日の投稿によって可能となりますので、参考にしてください。
2019.04.19
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生活の発見会の集談会の中に「体験交流」というコーナーがある。時間的には1時間から2時間ぐらいだと思われる。体験交流をスムーズに進行することはとても大切である。これが井戸端会議のようなものになると、初心者にすぐに愛想を尽かされてしまう。長年参加している人でも、集談会に参加すること自体が苦痛になってくる。体験交流はだいたい5名前後の小グループに分かれておこなうことが多い。それは、参加者全員でやると打ち解けて個人的な問題を長々と話すことが困難になるからだと思う。その点5人ぐらいのグループだとそういう垣根がなくなる。ここで自分の抱えている問題について赤裸々に話してもらうことになる。自己紹介で簡単に紹介した内容をより具体的にしゃべってもらうことになる。そして他の参加者と交流する。相談にのってもらう。あるいはアドバイスなどをもらう。体験交流はプライベイトな内容を多く含むので、事前にここで話した内容は決して口外しないことを確認しておくことは大切だ。内容としては、症状に限らず現在悩んでいること、生活していて困っていることなどを話す人もいる。人間関係、健康問題、介護、ペットとの付き合い、子供の育て方などの話をする人もいる。最近の生活の中での失敗したことや成功体験を話す人もいる。それから、森田を応用してその実践内容や結果報告をする人もいる。あるいは今月の「生活の発見誌」や森田関連図書を読んで気がついたことを発表する人もいる。今日の理論学習の中で疑問に思ったことを聞いてくる人もいる。普段森田理論で分からないことをハッキリさせたいと思っている人もいる。これらはどの話でもよいと思う。大事なことは一人一人最低一つは話題を用意して体験交流に臨むことである。何も話すことがなくて、パスする人もいるが実にもったいないことである。特に幹事や世話人などで何も発言することがないというのは問題であると思う。そういう人は率先して話す内容を事前に用意して、集談会に参加することが大切である。家を出る前に、自己紹介の内容と体験交流で発言することは整理しておくことが必須である。その態度が初心者の人たちによい影響を与える。もう一つ注意したいことは、これは相互の交流であって、先生が生徒に森田理論を教えるという場ではないということである。そういう人が一人でもいると、体験交流は成り立たない。というのは、体験交流によって本人の気づきや発見の目をことごとく摘んでしまうからである。そういう人は、発言をセーブする必要がある。そして傾聴に徹するぐらいでちょうどよい。あと体験交流は「進行役」の人が必要であると感じている。「進行役」の人がいないとまとまりがつかない。とりとめのない世間話が次から次へと出てくることになる。中には5人の班なのに、2人とか3人のグループに分かれてしまうこともある。これでは何のために体験交流の時間を設けているのか。時間つぶしのための話に終始してしまう。そして集談会の活性化の足を引っ張ることになる。幹事・世話人が「進行役」になることが多いと思う。この人たちは、幹事会で役割について、話し合っておくことが大切である。そしてグループ分けをする場合は、「進行役」になりうる人を最低一人は配置する必要がある。「進行役」の人は調整役に徹することが大切だ。森田の先生役をすることではない。「進行役」の人は、大まかな時間配分に気をつけて、全員に発言の機会を与えることが大切となる。大体一人10分から20分ぐらいの時間配分を心がけていく。その時間はみんなでその人の話に集中するようにしたいものである。そして予定時間になれば、次の人に替わって発言してもらうようにする。基本なことばかりだが、マンネリ化してしまうとつい無視されてしまうので要注意だと思う。
2019.04.18
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最近の生活の発見誌には、「お悩み相談」というのがあります。例えば「自分に自信が持てず、今後の進路で悩んでいます」「職場の中で雑談ができず、つまらない人と思われているのではと苦痛を感じます」どんな時にそのようなことを感じるのが、具体的に説明があります。集談会でよく出るような悩みです。これに対してベテラン会員の人の回答が続いています。皆さんそれぞれに見事な回答をされています。私のこの記事の読み方は少し変わっています。私はすぐに回答は読みません。まず悩み相談の内容について、分かる範囲で理解しようとします。その上で、私の学習経験や森田的な体験をもとにして、私ならこの人にどういう共感や受容を持てるだろうかと考えます。それを文章にします。そこで終わる場合もあります。さらに、こうしてみたらという提案が浮かんだ場合は、それも文章にしてみます。これが、このブログの投稿原稿になることもあります。次に、ベテランの人の回答を読みます。すると、私の回答とベテランの人の回答は話の視点が大きく違うことに気づくことがあります。それはそうです。その人とは、神経症の克服過程、学習の経験年数や深度、森田理論の活用方法が違うわけですから、当然そこから出る答えは違うはずです。これでよいのだと思います。相談者にとってはいろんな回答を聞いて、一つでも琴線に触れるものがあればよいのです。紙上の体験交流のようなものになるのです。ここで回答をすぐに読むと、ベテランの人がかかれた解答だけに「たしかにそうだな」と納得します。それ以上には考えようとしません。素通りして、記憶には残りません。これはもったいないことです。私はこのブログの話のきっかけ作りのため、本をよく読みます。読みっぱなしということはほとんどしません。ほとんどの本はネタ集めのために読んでいるのです。森田的な琴線に触れるものを求めているのです。本を読むときは、付箋を使います。気になる箇所には付箋をつけておきます。読み終わると、付箋の箇所を中心にまた読み返します。それからその部分を、ページ数とともに抜き書きしていきます。その中から、投稿に使えそうな部分を多少時間をかけて、自分の考えを組み合わせて思索していくのです。そして投稿原稿を作成していくのです。この段階で投稿にいたらないものもたくさんあります。でも森田的な視点から、一応は自分なりに考えてみたということが重要なのではないかと思っています。とるに足らないようなことでも、それを6年も7年も続けていれば、仲間と森田理論の学習をしているときに、質問されれば、すぐにある程度自分の意見を述べることができるようになりました。以前と比べると雲泥の差です。自分が成長できていると実感できることはとてもうれしいことです。皆様にも、この方法をお勧めしたいと思います。
2019.04.17
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先日の親戚の法事に行った。そこに従兄弟で、有名大学を卒業して、有名企業に就職した人がいた。その従弟は、数年前に定年退職をした。定年退職した後に、父親が相当な遺産を残して亡くなった。その従兄弟は一人っ子で、母親も先になくなっていたので、すべての遺産を相続した。その中には、預貯金のほか、屋敷や土地などの不動産も相当数含まれている。だからまだ年金は満額は出ていないが、生活費に困るような事はない。それどころか、誰もが羨むような高級車で乗り付けてきた。ローンを払い終わった戸建て住宅も所有している。何不自由ないと思われるような生活をしているはずの彼が次のような話をした。退職後、今までの経験を生かして、誰もが知っているような会社に再就職をした。ところが、人間関係が面倒なのですぐにやめた。今は無職である。今後働く気持ちは全くない。現在、どんな生活をしているかというと、朝はゆっくり起きて、昼ぐらいまでかけて丁寧に新聞を読む。午後は毎日図書館に行く。それから健康のためにウォーキングに出かける。約1時間ぐらいである。だいたい6000歩ぐらい歩くという。ヘルニヤアあるのでそれ以上歩けない。帰ってくると、妻と一緒にドライブを兼ねて、遠くまで夕食の買い出しに出かける。夕方からは相撲やプロ野球の試合を見るのが楽しみだという。晩酌を兼ねて食事をしているという。特に趣味はないので、他には何もすることはない。1週間に1回は約1時間半かけて、父親の残した家に風を通すために帰っている。夏場は田畑の草刈りをするのが唯一の仕事である。そんな彼に向かって、 「毎日退屈だと思うのことはないのか」 と聞いてみた。すると案の定、 「毎日、毎日退屈で、今日は何をして時間をつぶそうか」と考えることが多いという。そうかと言って、新たに趣味を見つけたり、運動したりする気持ちにはならないという。何とかしなければいけないという気持ちはあるのだが、生活全体が弛緩状態にあるので、どうすることもできないのだと言う。この従兄弟も、私と同じ神経質性格の持ち主であり、森田療法理論を学習する機会があったならば、もっと違った生活を送ることになったのではないかと感じた次第です。その時は、私の生活ぶりを紹介するぐらいで、とてもアドバイスをするような雰囲気ではなかった。今とは違った生き方もあるということを分かってもらいたかった。
2019.04.16
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セールスの世界では、入社当時から商品説明が上手で、説得力がある人がいます。セールスの仕事を天職として生まれてきたような人です。そのような人は、入社直後から周囲の人が驚くほどの成績を上げます。一方で、口下手で最初のうちは、この人はセールス以外の仕事を見つけた方がよかったのではないかと思うような人もいます。周囲の人が気を使うような人です。実際に仕事に対する情熱を失い、会社を去っていく人も多いのが現実です。中にはそれでもへこたれずに、粘り強く仕事に取り組み、数年経つと、最初に注目を浴びていた人を抜き去りセールスの神様と呼ばれるような人もいます。そういう人は、自尊心を傷つけられるような断り文句に耐えながら、粘り強く、次から次へと、新規顧客を訪問していった人です。どうしてこのような逆転現象が起きるのでしょうか。それは、最初から才能や能力に恵まれた人は、途中で自分を過信して、努力や挑戦の気持ちがいつの間にか緩んでしまったのではないでしょうか。本人がそれに気づいて、すぐに初心に戻り、努力精進すれば問題はありません。ところが、人間はそんなに都合よくできていないのだと思います。いったん緩んでしまった気持ちは、本人が焦って元に戻そうとしても、なかなか元には戻らない。それは精神面で弛緩状態の流れが出来上がってしまっているので、急には緊張状態に変更はできないのだと思います。最初から才能や能力のない人でセールスの世界で成功した人は、営業成績が振るわなくて、常に目の前に課題や問題点を抱えています。それをどのようにしたらクリアできるのだろうかと、常日頃から考えて努力する習慣を身につけているのではないか。精神状態が外に向かってピリピリと緊張状態を保っている状態だと思います。森田理論でいう 「無所住心」 「努力即幸福」の精神状態を維持している。元大リーガーのイチロー選手は、 「僕なんて、まだできていないことの方が多いですよ。でもできてなくていいんです。だって、できたら終わってしまいますからね。出来ないからいいんですよ」 と言っています。こうしてみると不安や問題点、目標や課題を抱えている時の方が、精神状態は安定している。不安を持って努力している時の方が、 一番幸せな生き方をしていると言えるのではないでしょうか。目の前に現れた課題や問題は、神様から自分に与えられたギフトだと思えればよいのです。反対に課題や問題を上から下目線で非難、否定、悲観して排斥するようになると、困難な人生が待ち構えているように思えてなりません。ここでも事実や現状に立脚した生き方が求められます。
2019.04.15
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ジム・ レーヤー氏は「過労死」について次のように述べている。過労死とは過労による死を意味する日本語である。(中略)長時間労働、ノルマ達成の大きなプレッシャー、睡眠不足、酒の飲みすぎ、タバコの吸いすぎ、家族と過ごす時間の極端な少なさ、厳しい家計、ラッシュと渋滞ばかりの通勤事情、運動不足、全くない回復時間、これが日本の多くのビジネスマンが置かれている実情である。過労になると、体に疲れが蓄積されて、体が動かなくなる。意欲ややる気が起こらなくなる。放心状態になる。無気力な精神に状態に陥る。興味が湧かなくなる。これはうつ病の症状とよく似ている。どうにも耐えられなくなり、死を選ぶ人も出てくる。その時になって周囲の人が初めて気づいて驚くのである。普通は元々人間に備わっている精神拮抗作用が働く。働きすぎだと感じると、休養を取る。休む。リラックスをする。緊張を緩める。心身共に弛緩状態にしてバランスをとるのだ。ところが、真面目で責任感の強い人、対人恐怖症で上司に言いなりになる人は、我慢して耐えてしまう。自分の感情とは反対の行動をとってしまうのだ。そのストレスは相当なものだ。そんな状態が慢性化すると、精神拮抗作用という人間に備わっている機能が破壊されるのだと思う。そして休息をとらないで、無理して追い込んでいつまでも働く。ついに肉体も精神が限界を超えたときに、もどうにもならなくなって死を選ぶということになる。限界を超えてしまうと、もはや他の選択肢はなくなり、後戻りできなくなるのだ。ここでは、元々人間に備わっている精神拮抗作用という、生存に必要な機能が破壊されてしまうことが一番の問題となると思う。日本では今後は、働き方改革の法律が国会を通過したことにより、 4週間に4日の休暇を与えれば、あとは24時間労働させても法律的には何ら問題はなくなる方向になっていくでしょう。会社の言いなりになって何ら疑問や反発することがなく、真面目に働く人ほど過労死の危険性は高まってくる。神経質性格を持っている人は、責任感が強く、仕事にのめりこむ傾向があるので特に注意する必要がある。身体的にも精神的にも無理がかかっていると感じたら、無理をしないことが必要なのだ。いかに仕事に対して不全感があっても、無理は禁物だ。仕事をさぼることは許されないとして、罪悪感を持つ必要はない。まだ初期のうちに気づいて手当をすることが肝心である。我々は元々鋭い感性を持っているのだから、こういう時に活用する必要があります。仮に仕事にのめりこんでも、一日の中で休息やリラックス時間を必ず取る。1日の中でバランスをとる必要があると思う。命あってのもの種だ。また、仕事だけではなく、家事、家族との団欒、友人たちとの交流、趣味、習い事、適度な運動、集談会への参加、ボランティア活動、自治会活動などとのバランスのとれた生活を送ることが必須である。仕事人間になり、役職者を目指すことに唯一の価値を見出していくような方向は避けたいものだ。今の世の中、同じ会社にいれば、そのうち中間管理職の役割が回ってくることは避けられないが、自分から積極的に動くことはあまりお勧めできない。のらりくらりしていれば、ときには非難されることがあるかもしれないが、役職者に引き上げられる機会は少なくなるだろう。また役職者になっても、担当部署の実績が上がらなければリストラや出向、依願退職という形で責任を取らされるのが現実なのだ。自分は会社で生活の糧を得るのが一番の目標であるという気持ちをしっかりと持っておくことだ。それを忘れて、人間関係を良好に保つことに大きな価値を見出している人もいるが、本末転倒なのではないかと思う。人間関係の悪化を理由に、社会保険完備の会社を退職することは考えものである。
2019.04.14
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今年は4月27日から5月6日まで休みという会社が多いと思う。10連休である。今からわくわくして、何をしようかと考えられている人も多いことだろう。レジャ、旅行、ゴルフ、釣り、趣味などを思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし観光地はどこも人がいっぱいで、かえって疲れがでてくるような感じがする。いずれにしろ、行き当たりばったりで連休に突入することは避けたいものである。そんな気持ちだと、取り立てて何もすることがなく、家の中でゴロゴロ過ごしていたということにもなりかねない。私は、会社勤めの規則正しい毎日の生活が、この連休で糸の切れたタコのような浮ついた生活になることを恐れている。今のうちから、連休になったらやりたいことをできるだけ紙に書きだしておおまかな計画を立てておくことが必要だろう。今現在私のやりたいことは次のようなことだ。・5月4日 宮島一周ウォーキングに行く。これは集談会の仲間からお誘いを受けた。30キロの行程だ。・5月3日 博多どんたくに続いて有名な「広島フラワーフェスティバル」のパレードとハワイのフラダンスなどのショーを見に行く。これも事前にイベント情報をチェックしておく。・4月27日、28日は田舎に帰り、家の中の掃除、夏野菜を植える。草刈り、溝掃除などをする。ついでに世羅町の花街道を見て回る。・4月29日 5月に派遣講師で姫路に行くので講話内容をパーワーポイントで準備する。内容は、「私と森田とのかかわり方と森田理論から得たもの」にした。・4月30と5月1日は、家の中の本や衣類の片づけ、整理整頓をする。ベランダの草花の手入れ。家の修理と改造など。あと3日間はまだ決めていないが、イベント情報誌「to you」を見て音楽会などに行ってみる。孫や娘夫婦がくればその対応。カラオケ仲間との飲み会とカラオケ。その他、このブログの原稿づくりや本読み。しばてん踊り、どじょう掬い、浪曲奇術、獅子舞、アルトサックスの練習、you tubeを見てカラオケの練習を欠かさない。パソコン教室でパワーポイント、ホームページ作成講座に通っているのでその予習と復習。次の森田の本の執筆の目途を立てておく。よく定年になってから、やりたいことを探そうとする人がいる。それでは遅いのではないかと思っている。定年になる前から30個ぐらいやりたいことを温めておかないと、すぐに「たいくつだ」「何か楽しいことはないかな」と思うようになる。実に残念な人生を過ごすことになる。森田理論を学んでいる人は、味わいのある生きがいの持てる人生が待っている。私は、臨機応変に対応しながらも、なるべく毎日の生活パターンを崩さないようにしたい。普段は仕事をしている時間帯に、これらの予定を組みこんでいきたい。そして10日間の休暇が終わるときは、素晴らしい休暇を過ごせたと思えるようにしたいものだ。
2019.04.13
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2019年2月20日に「働き方改革法案」の中の「高度プロフェッショナル制度」について紹介した。さらに「外国人労働者(移民)50万人計画」についての問題点も指摘した。これらは、今後日本の多国籍企業の人件費の削減に寄与していくものだった。そうしないと、グローバル経済の中で、日本の企業が負け組になって、国が成り立っていかなくなるという先入観の現れであるというものだった。これによって私たち国民の生活は圧迫されるだろう。そんな中、2019年4月1日より有給休暇の取得を促進する法律も合わせて施行されることになっている。これによると、有給休暇の消化日数が、5日未満の従業員に対して、会社がせめて5日間だけは、有給休暇を取得する日を指定させることを義務付けた法律だ。この法律についてまた知らない人は、留意してほしい。これによると、40日の有給休暇の権利を持っている人に完全消化させなさいと言っているのではない。そのうちの、5日間だけ取得させれば、法律違反になることはない。ザル法といえばザル法である。ヨーロッパ並みに夏季休暇1か月というような、労働者に配慮した法律ではない。これは欧米などの多国籍企業から見ると、日本企業が有給休暇を全く取得させないというやり方をされると、自分たちとの対等な国際競争が阻害されるという指摘があったようです。現状はどうなっているのか。私の地元の自動車製造業の会社では、30名ユニットの職場では、従業員の有給休暇取得に対応するために6名の交代要員を準備しているという。こんな会社があったのかと、私は少し驚いた。こういう会社では、労働組合があり、有給休暇の完全取得を目指している。また流れ作業のため、休暇を組み合わせて、業務を遂行することが、モチュベーションの維持や精神疾患を最小限に抑えることに役に立っているようだ。大企業の製造業以外では、有給休暇を取得したくても、申請しずらい状況の会社が多いようです。特に中小企業の会社はそうです。それはギリギリの人員で仕事を回しており、自分が休暇をとると他の人に即負担が増える場合が多い。申請することに心理的な抵抗があるのだ。また申請すると上司がイヤな顔をして、差別的な対応をしてくる。労働者の権利として、法律で認められているにもかかわらず、こちらが下でに出てお願いするという会社が多い。ダメだと言われればこちらが引き下がる。自己都合ではなく、忌引休暇で2~3日消化しているのが精一杯というところだ。この法律に違反すると罰則がある。またハローワークなどで助成金を受けている場合は、打ちきりとなる。労働者ごとに、年次有給休暇管理簿を作成して、3年間保管するすることが義務付けられた。やり方は2つある。個々の従業員ごとに5日間の管理をしていくやり方と、会社一斉に有給休暇をとらせるやり方がある。なお有給休暇の買い上げは違法になる。私の会社では、今まですでに夏季休暇の2日間はすでに有給に組み込まれている。それと年末年始は30日から3日までの間は特別休暇で無給であったが、どうもこれを有給に振り替えるようだ。これで1日か2日は消化できる。それに個別の休みを1日か2日設定するようにすれば、クリアーできると考えられているようだ。個別休暇は、今までも忌引休暇などで消化していたので、大した問題ではない。企業にとっては多少痛いが、交代要員を何十人も用意しなければ回っていかないという問題ではないようだ。本来は40日の有給休暇の完全取得を法律で義務付けてもらいたいものだが、そんな時代は日本では来ないだろうと思っている。
2019.04.12
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ポジティブな感情とネガティブな感情は、別々の場所から発生しているそうです。リチャード・デビットソン博士は、左前頭葉はポジティブな感情と強いつながりがあり、右前頭葉はネガティブな感情と関係していることを突き止めました。彼は左右片方の頸動脈に麻酔薬を注射して、片方の脳の新皮質を麻痺させる実験を行いました。すると、右側に麻酔をかけると、笑ったり、幸福に満ちたポジティブな感情を引き起こし、左側に麻酔をかけると、泣いたり、怒ったりというネガティブな感情が現れたのです。しかもそれは、生後10ヶ月の赤ちゃんでも認識されたと言うのです。同じ状況に置かれてもポジティブな要因に強く反応する人とネガティブな要因に過剰に反応する人に分かれます。それが忠実に脳に記憶され、悲観的な人間と楽観的な人間をつくりあげるのです。それでは、具体的にネガティブな要因を抑え込み、ポジティブな要因をたくさん取り込むにはどうすればよいでしょう。これには「書き換えスキル」とよんでいる能力を高められばよいそうです。例えば「商談がまとまらない。私はこの仕事に向いていない」というネガティブな感情があるとします。これをポジティブな感情に置き換えると、 「完璧な準備をすれば、次の商談は必ずうまくいく」になります。(イチロー 試練からの夢実現力 児玉光雄 星雲社 152頁より引用)神経症やうつになると、「やってみれば何とかなるかもしれない」とは考えられなくなります。「どうせやっても失敗するに決まっている。やるだけ無駄だ。もし失敗して他人に軽蔑されると、立ち直れなくなるだろう」などと考えます。そうなりますと、目の前の問題や障害に対して、回避することばかり考えるようになります。行動を起こしていかないと、元々持っている鋭い感性が自分を責める道具になります。。また感動する力が弱まり、気づきや発見する力が減少してきます。それが進行すると、脳が廃用性萎縮現象を起こし、認知能力自体衰えていきます。最悪若年性認知症のような症状が起きてきます。そして意識は常に内省的に働き、自己嫌悪、自己否定感が強くなってきます。ネガティブ思考が常態化している人はその改善に乗り出すことが必要です。それを防止するために、ここでは「書き換えスキル」を身に着けることを勧めておられます。これは認知療法、論理療法で行われていることです。簡単に言ってしまえば、考え方の片寄を見直す作業のことです。やり方としては次のような方法をとります。1、不安や不快のもとになった出来事、事件について詳しく書きだす。2、それに対して、自分のものの見方、感じ方、考え方の癖についてありのままに書きだします。3、次に自分の認識や認知の片寄りや誤りについて検討していくのです。その時に手がかりになるのは次のような視点です。a、事実を無視したり、軽視していることはありませんか。b、先入観で一方的に決めつけていることはありませんか。c、論理的な整合性はとれていますか。とるに足らないようなことを、大げさに考えてはいませんか。d、よいか悪いか、白か黒か、0か100かといった二分法的な思考方法をとっていませんか。e、第一の感情、森田でいう「初一念」「純な心」を活用していますか。f、「かくあるべし」という視点から見ていませんか。g、完全主義、完璧主義、理想主義で見ていませんか。h、悲観的、ネガティブ一辺倒な見方になっていませんか。i、気分本位になって、やるべきことからすぐに逃げ出したり、あきらめてはいませんか。j、弁解、自己擁護、自己否定、他者否定、社会批判をしていませんか。これらを一人で出来ればよいのですが、とても難しいと思います。カウンセラーなどと取り組むのが一般的です。私たちは、集談会があるわけですから、参加者の意見を求めることができます。その際、素直になって、私には認識や認知の片寄りや誤りを持っていると認めることが大切です。指摘されたことに対して、いちいち反発していては前に進みません。またこれは1回で終わりというのではなく、普段の生活の中でストックを貯めておいて、集談会の体験交流の場で適宜発表する癖をつけることが大切です。認識や認知の誤りは、玉ねぎの薄皮をはがすように少しずつ修正されていくものと考えています。集談会に集まる人が、そういう共通認識を持って取り組むことができれば、相乗効果が起きてくるはずです。
2019.04.11
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最近児童虐待の報道が毎日のようにある。これは氷山の一角で、実際には児童虐待、育児放棄のすそ野はかなり広がっているのではないかと推測している。政府もこれ以上放置しておけないとみて、対症療法的な対策を打ち出そうとしている。今日はこの問題を今まで投稿してきた記事の中から考えてみたい。普通子供が生まれると、母親の体の中にはオキシトシンが多量に分泌される。これが分泌されると、今まで自分ことしか考えていなかったような人が変身する。子供がいとおしくて仕方がないような気持ちになり、子供のためなら命さえ惜しくないと思うようになる。このオキシトシンの分泌が不十分だと、親は子育てに無関心になっていく。子供を産んでもすぐに子供を放りだしてしまう。子供も親になつくことはない。やがて親子の関係を絶って別々に生活するようになる。オキシトシンの働きが活発だと、その人は対人関係で積極的になるだけではなく、人に対してやさしく、寛容で、共感的になりやすい。 逆にオキシトシンの働きが悪いと、人になじみにくく、孤立的に振る舞うようになり、また過度に厳格になったり、極端な反応をしやすくなる。またオキシトシンは、ストレスや不安を抑える効果がある。オキシトシンの働きがよい人は、不安やストレスを感じにくく、うつやストレスに関連した病気にかかりにくい。その差は何によってきまるのか。その最大の原因は、幼いころに安心できる養育環境で育ったかどうかということなのである。つまり愛着形成期を、無難に過ごしてきたかどうかがその後の人生に影響を及ぼしているのである。 安心できる環境で育った人は、脳内にオキシトシン受容体が増え、オキシトシンがスムーズに作用するので、その働きがよい。ところが虐待されたり、育児放棄を受けたりした子どもでは、オキシトシン受容体が脳内にあまり増えないため、オキシトシンの働きが悪く、ストレスに敏感になってしまう。つまり児童虐待をする親は、愛着障害を抱えている場合が多いということである。夫婦の二人ともが愛着障害を持っていると、子育てはとても困難になる。この方面の対策を立てることが大切である。愛着障害を起こさないための子育てを学習する。愛着障害を起こしている人は、その修復が必要なのである。もう一つ次のようなことが考えられる。動物行動学やっているケーニッヒという人が、青サギをたくさん飼っていました。 餌とかいろんなものを十分に与えて飼ってみると、最初はどんどん増えてゆくそうです。あるところまで増えていくと、そのうちだんだん減ってきて、そして最後には絶滅したそうです。 同じような実験はネズミでもおこなわれていて、環境を整えていくと最初は増えるのですが、やがては減ってしまう。どうゆうことが起きるかというと、卵を産んでもかえさないとか、子供ができても餌をやらないとか、子育てをしなくなるのです。その結果としてサギが減ってしまうということです。つまり自分たちの欲望がある程度叶えられてくると、さらに加速がついてくるのです。自分が自分の人生を精一杯楽しみ、子育てのような面倒なことを嫌がるようになるのです。子育てのために自分の時間を浪費したくない、お金もつぎ込みたくない、自分の自由にならないものとはかかわりたくない。その結果子孫の繁栄には気が回らなくなるのです。 日本社会も少子化といわれて久しい。人口減少が続き、将来は7000万人ぐらいまで落ち込むと予想している人もいる。 結婚しない人、結婚しても子どもを作らない人、生んでもせいぜい1人か2人。それは教育費がかかり過ぎる。養育費がかかり過ぎる。 子どもをたくさん作ると親子共倒れになるという不安がある。 自分たちが出来るだけ物質的に豊かな生活をしたい。 そのエネルギーが過剰になると、子育てには向かわなくなる。この世に生きている自分さえ楽しく愉快に過ごせればよい。 不足分を次世代を担う子どもたちに期待しようという気持ちは無くなる。そうしてあくなき欲望の充足に浸っていくうちに子どもたちは少なくなり、子どもたちは将来に希望を見出すことはできなくなっているというのが実態ではなかろうか。 欲望のあくなき追求は、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のシーンを思い出す。グルメ三昧でムシャムシャと夫婦で美味しいものをむさぼっているうちに、ブクブクと肥り最後には姿かたちも豚になってしまうという話である。とても見にくいシーンであったが、人間そのものを風刺しているようであった。欲望は不安という機能を活用して、暴走させてはならないのである。
2019.04.10
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相田みつをさんによると、道元禅師は次のように言われているそうです。「仏道は必ず行によって證入をすべきこと」と。これは「仏道は行によって悟れ」 「仏道を学ぶものは、行から入れ」ということです。つまり、仏道を学ぶ者にとっていちばん大事な事は「行」だ、ということです。仏教の言葉の片言を頭で覚えても、そんなものはなんにもならん、ということです。それはそうですよね。相撲の知識をいくら覚えても相撲はとれませんからね。相撲取りにとっていちばん大事な事は理屈抜きの稽古です。つまり「ぶつかり稽古」と言われる「行」ですね。「行」が先、理屈は後。これは全てのスポーツ、すべての稽古ごとに言えますね。その「行」は誰がするのか。答えは至極単純明快。いつでもどこでも、今、ここ、の自分自身です。「そうか、そんなことか、分かった」というのではダメ。「さあ、それではお前自身はどうか」指は人に向けてはいけません。自分のヘソに向けるのです。人差し指を他人に向けると、無責任な世間話か、人の批評に終わってしまいます。仏法とか仏道というものは、いつでも、どこでも、人差し指を自分のヘソに向けて、 「さあ、そこで自分ならばどう動く」と自分自身に問いかけ、自分から主体的に行動をしていくことだと私は思っています。そこで自分自身に指を向けてみると、私の場合はいちばん大事な「行」をやっておりません。厳しい「行」の体験もなく、仏教や禅の言葉の片言を、知識として頭で覚え、 禅の臭いをぷんぷんとふりまいて禅者のふりをする中途半端な人間のことを「野狐禅」と言います。そしてまた、仏教について、専門的な学問も知識もないのに、人に仏教を解くことを「不浄説法」といいます。「野狐禅」も「不浄説法」も、亡き師、武井老師から常に厳しくつ戒められてきたことです。(いちずに一本道 いちずに一ッ事 相田みつを 佼成出版社 3ページより引用)これは仏教や禅の理論や知識ばかりを求めて努力する態度は、間違いだといわれています。そのような方向ばかりの人は、「野狐禅」「不浄説法」につながる。実行、実践、行動から入るのが正しいといわれています。森田正馬先生の入院療法では、まさにそうでしたね。日常生活の中で、森田的生活態度を身をもって悟らせるというやり方でした。入院生にとっては、なぜそうするほうが良いのかというまとまった森田理論の講義を受けたわけではない。それは、退院後森田先生の著書や形外会に参加することで、後付で学習していったのである。現在、ほとんどの場合、森田理論学習から入りますね。入院森田療法、外来森田療法以外には「行」から入るということはありません。そういう意味では、逆になっています。それは間違い、見当違いかというと、そうでもないと思います。理論から入って実行、実践、行動に入っても何ら差し支えありません。ここで注意したいことは、森田理論を先に学んでしまうと、森田的な生き方が分かったようなつもりになってしまうということです。そういう人は私の周りにもたくさんいます。その人の普段の生活ぶりを、見たり聞いたりしているとすぐに分かります。森田理論を生活の中に取り入れて活用している様子があまり感じられない人です。森田理論の学習と行動実践は車の両輪であるといわれています。学習面が名人の域に達しても、行動実践面への応用が乏しければ、車輪は観念的になり、空回りをしてしまいます。その状態は、理論を知っているだけに、森田理論を学習する前よりも悪化してくると思います。理論の車輪と行動実践の車輪は常に同じ大きさを保つことが不可欠です。理論の車輪が大きくなれば、行動実践も大きな車輪に付け替えなければ問題が出てくるということを忘れてはなりません。バランス、調和を心がけていくということです。この考え方は、森田理論の目のつけどころの一つです。
2019.04.09
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プロ野球の世界で、入団した時、走攻守、いずれも平均点以上でバランスの選手がいるそうだ。だだし走攻守のすべての分野で超一流という選手はいない。一長一短を持っている選手がほとんどだそうだ。ホームランを打つパワーはあるが、鈍足で守備に難がある。相手のモーションを盗んで、走るのは早いが、非力でバッティングは弱い。しかも守備に問題がある。また、守備はそつなくこなすが、バッティングや走力は平均レベルに届いていない。しかし面白いもので、どちらの選手の方が、監督やコーチが使いやすいかと言うと、ある1つの分野で飛び抜けた才能や能力を持っている選手であるという。そういう選手をうまく組み合わせて使うのが監督やコーチの仕事ということになる。それがたとえ、走攻守にわたって傑出した能力がなくても、ベンチで大声を上げて選手を鼓舞するような才能や能力であっても構わない。そういう選手の方が、厳しいプロ野球の世界でしぶとく生き残っていくということである。学問の面でも、例えばAという人が、数学70点、英語80点とする。B君は数学40点、英語90点だった。合計点ではA君は150点、B君は130点である。どちらが優秀かといえば当然A君ということになる。見た目はそうだが、本当にそうなのか。確かに総合点ではA君が勝っているが、個別的に見ればB君の英語の90点というのが最高点である。B君が、その英語に磨きをかけて、同時通訳ができるような能力を身に付けたとしたらどうであろうか。自分も自分の得意な能力を発揮できるし、社会に役に立ち、受け入れられることが可能になる。すべてにわたって平均点の人より、一つの分野に秀でている人が魅力的である。普通は自分の弱点や欠点を気にして、それを人並みに引き上げようと涙ぐましい努力をする人が多い。例えば、髪が薄いので、カツラをかぶる。背が低いのでシークレットブーツを履く。太っているので、腹巻などで腹を締め付けている。欠点を隠せば、周囲の人が自分のことを認めてくれるに違いないと固く信じているのだ。しかし、実際には欠点を必死になって隠そうとしていることを、周囲の人は見破っている。そのような弱点や欠点を隠すということが、普段の生活や仕事に対して常習的に行われていると判断されてしまう。事実を事実として認めないで、隠したりごまかしたりする人だとみなされてしまう。安心して近づいていけないオーラを醸し出している。容易に他人を寄せつけなくなる。このようなことにエネルギーを投入していても、弱点や欠点を隠すことができれば、良好な人間関係を築くことができるという思いは無残にも打ち砕かれてしまうのです。反対に弱点や欠点はそのままにして、自分の持っている強みや長所、才能や能力を見極めて、それを伸ばしていくということに取り組んでみる態度はどうであろうか。はるかに意味のある生き方ができるように思う。そう言われても、人と比較して、そんなに優れたものを持ち合わせていないと思っている人も多いだろう。そういう人にオススメしたいのは、神経質という性格の事である。普通は小さなことが次から次へと気になる神経質性格は、嫌悪している人が多いのではなかろう。何事もあっけらかんとして、小さな不安が気にならず、楽しく愉快に生活している人に憧れている。中には性格改造に取り組んでいる人もいる。そういう人は森田理論の中で、神経質性格の両面性をよく学習してもらいたいものだ。小さいことが気になるという性格は、感受性が強いということである。芸術や文化の面で功績のある人は、感受性が強いということが欠かせない。自己内省性があるということは、物事をよく観察して分析する力があるということである。プロ野球の解説者でも、選手の心理や技術について的確に分析してくれる人は、神経質性格を持ち合せている人なのである。神経質性格者は好奇心旺盛である。つまり生の欲望が強い。しかも食いついたら放さないというすっぽんのような性格特徴を持っている。私もブログで森田理論の発信を始めて7年目に入った。今や、飛行機が安定走行に入った状態になっている。これも神経質性格を活かしていることだと思っている。自分には何も取り柄がないと思っている人は、神経質性格そのものが光り輝く宝石の原石だと思ってほしい。根気強く磨いていけば、必ずものになる代物なのである。それに早く気づいてほしいものだ。
2019.04.08
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スポーツの世界では、イメージトレーニングは実際の練習と同じくらい効果があるというのが定説になっています。ゴルフ界の帝王といわれたジャック・ニクラウスは「自らの安定したプレーの50%はイメージトレーニングによって支えられている」と語っています。ショット前に描いたイメージが主役であり、その後の実際のショットは、描いたイメージ通りに打てたかどうかの確認作業に過ぎないと語っています。イチロー選手は、試合後ベンチ裏にあるビデオブームにこもって、その日のすべての打席のバッティングフォームを自らチェックする習慣を身につけていました。そして「足の上げ方がめちゃめちゃ遅い。これではヒットなんて打てないよ」などとつぶやいていたのです。イメージトレーニングのパワーを自覚し、脳裏で頻繁に成功シーンをイメージする。これこそが、夢をかなえる大きな武器になるのです。最高レベルのイメージを最大限駆使してピッチャーの投げたボールを打ちにいく。高度なイメージに基づいた行為が、イチロー選手にヒットを打たせていると言えるのです。スポーツ界のみならずビジネス界においても、成功のイメージを描くことが夢の実現には不可欠です。一流のセールスマンは、大事な商談で顧客を説得するために、イメージの中で繰り返しリアルにリハーサルをするスキルを身につけています。たとえ顧客が難しい難題を要求してきても、想定したイメージを駆使して、見事に商談を成功させることができるのです。一握りの成功者たちは、鮮明なイメージを描いているから、成功を信じることができるのです。イメージすることに無頓着なその他大勢の人々は、偶然によってのみ、夢をつかむことができます。しかし、そんな心構えでは一生、夢を手に入れる事はできません。一方、一握りの成功者は、自分の描いた鮮明なイメージを頼りに行動を起こし、確実に夢を実現させていくのです。(イチロー試練からの実現力 児玉光雄 星雲社 76ページより要旨引用)私たち人間には、例えば大勢の観衆の前で楽器の演奏をしようとすると、プレッシャで舞い上がってしまいます。これは精神拮抗作用が働いているためです。うまく演奏したいという気持ちがあると、もし失敗でもすると笑いものになるという不安が出てくるのです。これに打ち勝つためには猛練習をして、練習段階では完璧な状態に仕上げることが必要です。私はアルトサックスの演奏会の前には、機械的に同じ曲を30回繰り返して練習するようにしています。この練習の数がある程度の自信をもたらしてくれるのです。でも成功を収めるためには、それだけでは不十分といわざるを得ません。つまり、失敗したらどうしようという不安が、欲望を上回ってパニックになることがあります。そんな時にこのイメージトレーニングは役立ちます。自分の状態をビデオなどを見てよく観察する。そして成功のためのイメージ作りをするのです。私はアルトサックスの練習時、難しい指使いの部分は、強弱の付け方をイメージしています。リズム感をイメージするのです。それだけで、成功のイメージが違ってきます。一番緊張するのは、曲の出はじめにソロ演奏で始まるときです。その時は、なるべくゆっくりと何回か指使いを確認します。ただし、これも何回も繰り返していると、かえって神経がそこに張り付いてしまうので要注意です。そのころ合いが難しいところです。それと仲間と一緒に演奏していますので、間に合わないときは一部分だけ一緒に演奏してもらって乗り切ることを考えています。そういう安心感があれば、成功間違いなしという気持ちになるのです。楽器の演奏は、多少緊張感がある方がうまくいきます。演奏が始まると、何も考えることがなく、勝手に手先が動いてくれていたという時の方がうまくいくことが多いようです。その時は、波に乗って、前頭前野はお休みしている状態です。これは口でいっても難しいことところです。猛練習によって体得することで、安心感がイメージできるのです。
2019.04.07
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神経質者の仕事に対する姿勢について、本多信一さんのお話を紹介しよう。1 、 「人生は演技なり」と心得て、普段の自分の性格を少し工夫してみよう。まったく無口な人でも、 「サラリーマンの役割」を与えられたと思えば、おしゃべりぐらいはできるようになります。しゃべれば人間関係ができてくる。つきあい社会がサラリーマン世界の実相ゆえ、自分本来の性格にかかわらず、なるべく「みんなと付き合う」演技をしよう。2 、内向型は超真面目人間ゆえ、テレビの俗な番組に興味がない。モーツアルトの音楽を聴き、純文学を読むのが最高と言う人が多い。しかし、これだと「お高くとまっている人」の評を得る。それゆえ、俗に交わるトレーニングが必要だ。人々の話題が俗っぽくとも、それに加わる努力が必要なのだ。高踏を去り、低俗を容認する努力を、私は真面目な顔で要求したいのである。つきあい酒、付き合いゴルフ、そうしたものを切り捨ててはいけない。プロ野球、高校野球、主要な競馬のレースなどもスポーツ紙を読んで、 「対話できるレベル」までにと努力すべきだ。3 、自分を知らせる努力をすることも大切だ。内向型の男性サラリーマンから相談されるテーマに、 「上司から嫌われています」 「 OL達から敬遠されて・ ・ ・ 」という問題がある。これは、上司やOL達と語りあう機会を自ら持たないせいではなかろうか。例えば「自分は無口で会話が下手だが、これは性格のせいです」 「女性の前だと、内向型人間って自意識過剰で固くなってしまうんですよね・ ・ ・ 」ということぐらいあらかじめ知らせる努力をした方がよい。4 、内向型はアイデアアマンゆえ、仕事に自分のアイデアを活かしてみることだ。 「考える人」としての私たちには、社業を抜本的に救うような企画が出せるはずだ。セールスに回されたら「販売はアイデアなり」と考えて挑戦してみよう。高名な発明家は、たいてい内向型人間だ。それゆえ、私たちも商品開発とか工場合理化、販売方法まで、その気になれば百でも千でもアイディアが出せるはずである。(内向的人間ほど大胆に生きられる 本多信一 大和出版 170ページより引用)これらは少々突飛な話かもしれないが、共感できる部分もある。仕事は自分の労力を提供して、生活費を得て、自分や自分の家族を養っていくことにある。ところがいつの間にかその目的が忘れ去られる。給料が自分の口座に振り込まれるのは当たり前という気持ちになる。そして別の目的にすりかえてしまう人がいる。会社内での人間関係を良好に保つことに最大の価値や目標を持つような人である。絶えず上司や同僚、得意先の言動に敏感に反応して、振り回される人たちである。自分の気持ちや意志はいつも抑圧している。こうなると会社勤めは針の筵に座らされているようなものだ。本多さんは、会社勤めに大切なのは、本来の目的を失わないことだといわれているように思う。自分が月給鳥となって自分や家族のためのエサをとってくるという本来の目的のことだ。昇進できない。大きなミスをしたので責任をとる形で退職するというのは如何なものか。良好な人間関係作りができないので、退職するなどということはもったいない。会社では、可もなく不可もなく、のらりくらりと定年まで在職していることは、それなりに大きな意味があると思う。そのために、本多さんは、人間関係を円滑にするために、役者のように演技をしてみることを勧められているような気がする。がちがちの「かくあるべし」を前面に押し出すと、とてもではないが定年まで持たないと思う。
2019.04.06
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作家で精神科医の帚木蓬生氏は高知での講演会の中で、森田療法には3つの側面があると紹介された。1つは、社会復帰医学。絶対臥褥から生活訓練期まで、神経症の方を社会復帰させるという側面。第2番目は、予防医学の側面。日ごろの生活において神経症にならないようにしていく道しるべを森田療法は持っている。3番目は健康科学の面。これが素晴らしい。健康科学ですから、普通の人たちが普通の日常の中で、健康に生きていく、その道しるべを森田療法は持っている。これは帚木蓬生氏の恩師である九州大学の中尾教授が言われていたことだそうだ。帚木蓬生氏は、 3番目の指摘をもとにして、 「森田正馬の15の提言」という本を書き上げたと言われている。1番目ですが、現在は入院森田療法というのはほとんど行われていない。森田療法の主力はほとんど外来森田療法である。それも薬物療法と併用されている例が多い。私は神経症を克服するだけなら、別に森田療法にこだわらなくても構わないと思っている。現在主なものだけでも30ぐらいの精神療法が存在する。代表的なものは認知行動療法である。その他に、カウンセリングも盛んである。神経症の人がアリ地獄の底から這い出す為だったら、森田療法は選択肢の1つに入れてもよいが、幅広い選択肢の中から自分に合った療法を探しだしたほうがよいと思っている。しかも認知行動療法は保険適用となっている。森田療法理論の真骨頂は、帚木蓬生氏が2番目と3番目に挙げられているところにあると思っている。神経質性格を持った人は、神経症に陥りやすいという側面がある。それは心配性である。不安に敏感である。注意や意識が自己内省に向かいやすい。こだわりやすい。などの特徴があるからである。不安にとらわれると、精神的にとても苦しくなる。適応不安を起こして、生きづらさを抱えることになる。そうならないために、神経質性格を持った人は、森田療法理論を学習しておくことが有効である。神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、欲望と不安、行動の原則、生の欲望の発揮、 「かくあるべし」の弊害、思想の矛盾の打破、事実本位の生き方などは必須である。これは神経症を予防するための学習である。その上で、私はせっかく森田療法理論を学習するのならば、森田によって、自分の人生観を確立してもらいたいと思っている。現在は人生80年とも90年とも言われる時代である。森田療法理論は、味わいのある人生を送るためのヒントをたくさん与えてくれている。私の知り合いにも森田理論学習によって、すばらしい人生を送っている人がたくさんおられます。森田理論にはそういう内容が間違いなく存在しているわけですから、是非とも多くの人に森田的な生き方を身に付けていただきたいと思っております。そのための援助は、先輩会員がいくらでも相談に乗ってくれるはずです。
2019.04.05
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愛着障害を抱えていると、人間関係がうまくいかない。他人は自分を守ってくれるどころか、非難し否定する存在だと思ってしまう。愛着障害の原因は1歳から3歳ごろの母親との関係にあるといわれている。幼児にとって母親は母港のような存在だ。歩けるようになると、母港から離れて少しずつ探検をするようになる。その時に、不安になるとすぐに母港に引き返す。そこで、自分は母親に守られているという安心感を得て、再度冒険に向かう。そんな時に、もし母親が近くにいてくれなかったらどうなるか。あるいは、愛情を注いでくれなかったらどうなるか。冒険に出かけることはできない。母港を探し求めてさまようことになる。それでも探しきれないときは、自分で気づかないうちに、対人恐怖症のもとが出来上がってしまう。岡田尊司氏は、愛着障害を抱えた人は、大きくなっても指しゃぶりをするという。その他小学校高学年になっても、夜尿症が止まらない人も要注意だという。対人不安、対人恐怖で振り回される人は、そういう特徴が表れやすいということに注意しているとよく分かる。自分にもそういう傾向があった。自分では全く気づかなかったが、あるとき講義を聞いている自分の姿をビデオで見た。その時に、指をくわえていたのである。愕然とした。また夜尿症もなかなか止まらなくて親によく叱られていた。私の場合は、幼児期に母親が家にいることが少なく、寂しかったのだと思う。それに神経質性格を持っていたので余計に拍車がかかったのだと思う。そういうことで、中学、高校は友達と遊ぶことを避けていた。特に異性と話することは、考えもしないことだった。他人が自分をいじめたり、危害を加えるのではないかという予期不安で苦しんでいた。大学の時の同好会活動でやっと一息つけた。しかし社会人になってからは、また対人恐怖がぶり返して、苦しいことばかりであった。今になって考えると、薄く幅広い人間関係を構築して、多くの人と交流していくことは文句なく楽しい。今では集談会の仲間、OB会、一人一芸の仲間、老人ホーム慰問仲間、仕事仲間、カラオケ仲間、近所の人たちとの交流などで楽しく交流している。そういう人たちの交流がなかったら、人生はとても味気なく、対人不安を抱えたまま一生を終えていたことだろう。もっと早くから「心の安全基地」作りに取り組んでいけば、私の人生も大きく変わっていたのではないかと思う。現在人付き合いは苦痛そのものだと思われている人は、利害関係のないところから、少しずつ交流を始めることをお勧めしたい。人間はしょせん一人で一生を送ることはできない。温かい人間関係に囲まれて、生活することが一番であると思う。森田理論では、必要に応じて付き合ったり離れたりする「不即不離」の人間関係をお勧めしている。何でも話せる親友を作るよりも、そちらの方向を目指すことが心の健康に役立つと思う。
2019.04.04
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自己表現、自己主張するときに、心がけたいことを書いてみました。1、「純な心」で感じたことを表現していく。例えば交差点で接触事故をしそうになった。車から降りて「なんて乱暴な運転をするんだ」といえばけんかに発展するでしょう。その時の初一念は、「間一髪助かった。よかった。ほっとした」です。初二念が出そうになったら、すぐに初一念を思い出すようにすることです。2、「私メッセージ」で発信する。「あなた」ではなく「私」を主語にして話す。あなたのせいでムカついている。→私はいまとてもイライラしている。あなたはどうして常識外れのことをいうの。→私はその考え方は少し違うような気がする。あなたはどうしてそんなことをしたの。→私はこんなやり方を選ぶと思う。3、「すべて、みんな、絶対、必ず、いつも」という言葉を使わないようにする。安易に一般化しない。すべて→今回の場合、この件に関してはみんな→誰と誰が(固有名詞をあげる)絶対→今回のケースに限っては必ず→できるだけいつも→今は、今回は4、相手に対して上から下目線で「かくあるべし」を押し付けない。もたもたしないで、早くしなさい。○○すべきだ。○○してはいけない。など。「しかし」「でも」「だって」「どうせ」「そうはおっしゃいますが」という言葉を発する前に、相手の気持ちや要望をしっかりと聞くようにする。5、相手の人格否定をしない。自分否定もしない。お前は本当に馬鹿だな。どうしようもない人だね。性格が悪いね。友達なんてできるわけがない。どうせ私は馬鹿だから。頭悪いし、おっちょこちょいだし。家柄も悪いし。6、次々に過去の不祥事を持ち出して相手を責めない。聞かされる相手は立つ瀬がない。うんざりしてくる。今回の問題に絞って話す。
2019.04.03
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2019.04.03
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怒りや腹立たしい感情は次の4つに分けられると思います。1、あおり運転をされた。注文した料理がなかなか出てこない。渋滞に巻き込まれた。年金相談や携帯の不具合の問い合わせ電話がつながらない。交通違反の切符を切られた。膝坊主を机にぶっつけて痛かった。これらは生活をしているとしょっちゅう出くわすものです。このようなことがあるとイライラします。フラストレーションがたまり瞬間的にカッとなるのです。ただしばらくするとすぐに収まります。2、差別を受けた。性別、年齢、国籍などで不当な扱いを受けた。貧富の差。戦争や紛争の発生。企業の不正。不当な法律の制定。政治の動向。森林破壊、環境汚染、海洋汚染、酸性雨、オゾンホールの拡大など。これらの怒りは放置するのではなく、現実をよく観察する必要があります。そして原因を明らかにする必要があります。そして怒りの原因を解消するために、自ら動いたり、みんなで学習会を開いたりする。私たちの子孫に暮らしやすい社会を残してあげることが大切になります。3、自分自身のふがいなさに腹が立つことがあります。人と比較して劣等感を抱く。ミスや失敗をするたびに、自己の存在や人格を全否定する。自分の性格、欠点や弱点を受け入れることができない。すぐに自己嫌悪、自己否定に陥る。自分という一人の人間の中に、二人の人間がいる状態です。一人は雲の上にいて現実の自分のやることなすこと、考え方に至るまで批判的な目で見ています。現実の世界で苦しんでいる自分は立つ瀬がありません。森田理論では、雲の上に住んでいる自分が、すっと降りてきて現実の世界に生きている自分に寄り添うことが大切だと言います。そしてどんなにふがいない自分であっても、一心同体になって守り抜くことができるようになれば、自分自身に腹が立つということは、なくなるでしょう。4、他人が自分の存在、人格を粗末に扱ったための怒りがあります。叱責、批判、無視、からかい、低評価、馬鹿にされた。否定、拒否、抑圧、脅迫されたために、傷ついた怒りです。相手が自分に「かくあるべし」を押し付けてくるので、支配、被支配の人間関係になっています。利害関係の散在する会社や社会、学校などで毎日のように見受けられます。相手の「かくあるべし」の押し付けに対して、自分も「かくあるべし」を押し付けていると喧嘩になります。そうかといって相手の言いなりになるばかりでは、精神的に参ってしまいます。相手が自分のことをどう取り扱うかはコントロールできません。こうした場合、自分がどう対応するのかは変えることができます。自分の感情、気持ち、要望、意志をはっきりさせて、相手に伝えていく態度が必要だと思います。そして次に、隔たりがあれば、それを埋めていく話し合いをしていく。他人中心の生き方から、自分中心の生き方に切り替えることです。そのために、純な心の体得、私メッセージの体得、アサーション(自己表現)の学習などが大切になってきます。
2019.04.02
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私は、インテリア卸の会社で、受発注業務の仕事をしていた時、「仕事では1つのミスや失敗も許されない」という「かくあるべし」にとりつかれていた。毎日お得意様から電話やファックスでいただいた注文をパソコンで加工して工場に流していた。主に高級オーダーカーテン、創作のローマンシェード、舞台幕などであった。すべてに細かい仕様が指示されていて、右から左へと流せるものではなかった。やりがいがあるといえばそうだが、パソコンで制作指示を出しているため、自分の意図とは違う製品が出来上がることも多々あった。カーテン一つとっても、どの模様の生地にするのか、色調はどれにするのか、2つ山にするのか、3つ山にするのか、上部や下部の折り返しはどうするのか、ヒダ山柄合わせ、要尺計算などがある。カーテンの上部のカバーはどんな形にするのか。とにかく宮内庁御用達のような細かい仕様の注文が多かった。いきなり誰でもができるような仕事ではなく、教育や訓練を受けて、半年とか1年後になんとか一人に出来るような仕事であった。特に舞台幕では、緞帳、校章、一文字幕、袖幕、昇降機などがあってとても神経を使う。そういう仕事を毎日20から30ぐらい次から次へと処理しなければならないのだ。このような仕事をしていると、依頼者、得意先と綿密に連絡を取り合って仕事をしているにもかかわらず、行き違いが生じる。また私のように対人恐怖という神経症を抱えながら仕事をしていると、うっかりミスも発生する。後で振り返ってみるとどうしてあんなミスをしたのだろうというようなミスである。魔がさしたとしか思えないようなミスだ。最初のうちは誤発注を防ぐために、自分の処理した仕事は他の人にチェックしてもらうシステムだった。ところがベテランになってくると、人手不足もあって個人の裁量に任せられるようになる。誤発注は言い訳できない。自分の責任になる。仕事に向かうこと自体大きなプレッシャだった。私はその段階になったとき、緞帳で取り返しのつかないミスをした。寸法間違いを起こしたのだ。ある学校の卒業式や始業式に使う緞帳だった。中央に本刺繍の校章が入り、袖幕にも文字が入った高価な材料を使った緞帳だった。当然納期に間に合わない。作り直しで大損害だ。それだけではない。施主、得意先、営業マン、制作現場、仕入れ先、上司、同僚たちから容赦なく罵声を浴びせられた。私は腰が抜けたようになって、茫然自失となった。本当は被害を最小限に抑えるために、事後処理に専念しなければならなかったのだが、自分の力ではできなかった。それ以来、自分を責めて、寝つきが悪くなった。また、簡単な注文でもチェックリストをプリントアウトして、5回も6回もいろんな色のマーカーでチェックを繰り返すようになった。仕事の能率が悪くなり、残業が増えた。月曜日は特に注文が多いので、日曜出勤をして少しでも月曜日の負担を少なくするようなことをしていた。また同僚や上司の目が気になった。「能力がないのに早く会社を辞めればいいのに」と思われているのではないか。疑心暗鬼になっていたのだ。悪循環に陥っていたのだ。集談会多くの人に相談に乗ってもらっていた。その中で参考になったことは、ヒューマンエラーは必ず起きる。仕事で失敗をしたことがない人はいない。あなたは、雲一つない日本晴れのような状態を目指している。仕事をしていれば、ミスや失敗は避けられないという現実を受け入れる必要がある。そういう気持ちが持てないと、仕事をすることは苦痛になる。手につかなくなる。あなたは、あまりにも完全、完璧に気をとられている。それはあたかも完全を目指しているように見えるが、実際にはミスをした自分を、他人が馬鹿にし、否定するのではないかということに怯えているように見える。他人から自分のことを非難、軽蔑されることばかりに神経が向いている。裏を返せば、いつもちやほやされて賞賛されるような人間でなければならないと思っているのではないか。ミスや失敗をする自分を許してあげたらどうですか。本当は、ミスや失敗をして落ち込んでいる自分に、塩をぬって他人と一緒になってますます責めているようなものではないですか。一人も味方がいなくなると、生きていけなくなりますよ。どんな状況に置かれても、自分は自分を最後まで守ってあげないといけないのではないですか。かくあるべしで理想を追い求めて、ミスや失敗をする自分を否定していては何もいいことはない。起きてしまったことは、責任をとらなくてはいけない。どんなに非難されようとも、早急に、正直に実態を報告して、被害を最小限にくい止めるために努力する。後の処分は潔く受けるという態度が必要だったのだと感じました。
2019.04.01
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