全31件 (31件中 1-31件目)
1
石原加受子さんの本からの引用です。自分の意識の根底に、自分を「否定する意識」が強いと、それを基盤として、物事の思考や判断が始まります。そのためにどんなに努力していても頑張っていても、そのほとんどが無駄な努力や頑張りになるだけでなく、結局、その結果も同じとなります。戦う意識の強い人は、無意識に。争うために行動しています。失敗する言動パターンの人は、結局、失敗するために行動していきます。お金に対してネガティブな意識が強い人は、お金が入らなかったり、入っても失っていく結果となるでしょう。同様に、自分を肯定する意識が強いと、それを基盤として、物事の思考や判断や行動が始まります。ポジティブな意識が土台になっていれば、何をやってもスムーズに運びます。なぜなら、無意識が、勝手に物事が発展するように選択しているからですし、また、そのチャンスを引き寄せるからです。仮に条件が悪かったり不利な状況になったりしても、無意識にはその流れを変える力があります。そのために、災い転じて福と成すことができるでしょう。こんなふうに、あなたが根底で強く信じている通りの結果へと、自分自身が自分を運んでくれるのです。(願いが叶う人の「無意識」の習慣 石原加受子 ぱる出版 198ページより引用)無意識は氷山でいえば、海面から沈んでいて目に見えません。でもその大きさは、海面に浮かんで目に見える氷山の数倍も数十倍も大きな塊なのです。顕在意識がいくら急き立てても、無意識の賛同が得られなければ、その計画はとん挫することになるのです。馬に水を飲ませようと、ムリやり水飲み場まで引っ張っていっても、水が欲しくない馬に水を飲ませることまではできません。ここでの問題は自分がネガティブな無意識に染まっている場合です。例えばセールスをしている人が、みんながセールスマンの私を軽蔑している。また、ひどい断り文句で自分の自尊心を粉々に砕こうとしている。人と交渉事をしてうまくいくとは到底思えない。今までもほとんど失敗してきた。また人が必要としていないものを売りつけるなんて、犯罪のようなものではないの。人は何を買うかの選択の自由があるのだから、こちらから勧めなくても、欲しい人は買うはずだ。だから宣伝だけして、あとはその人の意志に任せるべきではないの。大体ノルマがある仕事なんて、人間を馬車馬のように扱っている証拠だ。セールスマンは社会の底辺の人だ。そんな人は社会から必要とされていないのだ。そういう人を、叱咤激励して、尻をひっぱたいて、追いこんでいっても成果は上がらないでしょう。それは、その人の無意識の部分がセールスに対して拒絶反応をしているからです。反対にセールスの仕事は天職だと思っている人がいます。この仕事は元手がかからない。自分の働きかけで、人を動かせることができる。売れば売るほど、多くの収入を得て、自分と家族を養うことができる。その額はサラリーマンの比ではない。自分の能力をいかんく発揮できる。ライバルたちと競い合って、一番の成績を上げて、表彰されることは何物にも代えがたい人生の喜びだ。単純作業と違って、他人相手なので、変化とスリルがあって面白い。いくら断られても、最後にトータルで成果を手にするれば人生の勝利者となれるのだ。他人に指示命令されることなく、自分の裁量で自由に仕事ができる。時間の自由が効く。10時に出勤しようが、昼から出勤しようが、夜に仕事をしようが全くの自由である。いろんな人と面会するのが楽しい。様々な人と知り合い、交流の幅が広がってくる。人と面会する中で、いろんなことを学ぶことができた。セールスの仕事は普通誰もが敬遠するので、その能力を持っている人は、高く評価されている。ヘットハンティングのお誘いがくるように、セールス技術を高めてみたい。このように無意識の部分で、ポジティブに考えて行動している人は、どんどん好循環が生まれてくるのです。ネガティブな考えで凝り固まっている人とは、将来天と地ほどの差になってしまうのです。神経質性格者はどちらかというとネガティブな無意識に支配されることが多いのではないでしょうか。そういう人は、自分の持っているネガティブな部分をポジティブ思考に変えていくという方法があります。これはポジティブな考え方や行動を反復して習慣化して身につけるのです。そしてネガティブな無意識を骨抜きにしてしまうという方法をとるのです。完全にネガティブな無意識はなくなりませんが、行動面では一定の成果が出ます。しかし、これは時間もかかりますし、サポートする人も必要です。この道はとてつもなく強い意志と時間がかかります。でも不可能ではありません。それが了解できれば取り組んでみる価値は十分にあります。私がここで提案したいのは、ネガティブな無意識はそのままにして、ポジティブな無意識を見つめ直して活用していくという方法です。ご存知のように、神経質性格はプラスの面がたくさんあります。感受性が強い。まじめな努力家である。責任感が強い。粘り強い。理知的である。分析力、観察力が旺盛である。好奇心が強い。人に対する思いやりの気持ちがある。夢や目標などを持っている。この方面に焦点を当てて、ポジティブな無意識を大きく育てていくという方法です。全部ではないが、ある分野ではポジティブな無意識をもともと持っているという考え方です。そちらの方面に焦点をあてて、花開かせていくという方法です。セールスの面ではネガティブな無意識に支配されていますが、この方面ではポジティブな無意識で満たされています。それを仕事、趣味、人間関係などに応用していけば、どんどんと好循環が生まれてくるのです。
2019.09.30
コメント(0)
石原加受子さんは、自分を否定することと自分を認めることを分かりやすく説明されています。例えば、子供のころクラスの仲間からいじめを受けて、いつも馬鹿にされていた。それがトラウマになって、尾を引いている。いつか必ず、あいつらに仕返しをしたい。このような気持ちを心の中で何度も繰り返していると、たまらなくなります。ため息ばかりついて、ますます苦しくなり、夢にまで出てくるようになります。この状態は、自分の心を受け止めているのでなく、全面的に他者に向いています。では次のように、自分の心に注意を向けていくとどうでしょうか。「そうか。私はあのとき、あいつらを見返してやると誓ってしまうほど、悔しい思いをしたなあ・・・。ほんとだよなあ・・・。悔しかったなあ・・・。あのときは本当に傷ついたなあ・・・。つらかったなあ、苦しかったなあ・・・。よくあんな状況から立ち直れたなあ・・・。よくがんばってきたよなあ・・・」「あいつらに仕返しをしたい」というふうに相手に向かう意識状態になる前の段階の、自分の感情を丁寧に拾っています。そして十分に味わっています。「・・・」の部分は実感です。この「・・・」の実感こそが、自分の感情をいたわっている状態です。これが、自分を慈しみ、自分を大事にするということなのです。この「・・・」は、自分のどんな感情でも受け入れています。そして認めています。認めているからこそ、「・・・」と味わうことができるのです。これが「どんな自分であっても肯定する」ということなのです。そうやって充分に自分の気持ちを受け入れ、いたわり、慈しむ気持ちになることができれば、それだけで、あなたの人生の根底に、大変革を起こすことができるのです。(願いが叶う人の「無意識」の習慣 石原加受子 ぱる出版 176ページより参照)石原さんの本は一貫して、他人に自分の要求を押し付けるのではなく、自分の心の奥にある本当の気持ちや本音に焦点をあてて、その気持ちに寄り添っていく生き方を提唱されています。これは、上から下目線で相手を批判し、裁くことを止めて、自分の素直な感情を思いだしてそれに寄り添っていくというものです。この方法は普通とは力の入れどころが、まるっきり正反対です。相手を批判していると相手と闘う道に突き進むことになります。戦闘態勢の道は精神的に緊張して混乱を招き、肉体的にもとてもつらくなります。自分の感情に寄り添うという態度は、自分を癒してくれます。そしてそこから勇気をもらって、自分がもっと楽になれるように立ち上がることができるようになるのです。そういう出発点に立つためには、どうしても自分の感情を受け入れて、自分を癒すという作業が必要になるということなのです。これは森田理論では、「かくあるべし」を少なくして、事実本位に生きるということです。こうしてみると、森田の言葉は、具体的な実践例で示してこそ、初めて理解可能な理論になるということができるのかもしれません。
2019.09.29
コメント(0)
ある大手情報機器メーカーに勤務するAさんは、担当する携帯情報端末の商品企画分野では、自他ともに許すエキスパートで通っていた。他者からも「○○にAあり」と名前を知られ、数少ない成長分野の商品企画責任者として前途洋々の人生である。このたび新たな携帯電話を開発し、一挙にマーケットシェアを上げたいと野心を燃やして新機種開発に取り組んだ。彼は、ディスプレイに新しい技術を取り込んだ液晶を採用し、これによって他社との差別化をはかり、斬新な商品イメージを訴求しようとした。ところが、生産が始まろうという段階になっても新液晶が入荷しない。部品メーカーの担当者と連日の検討会議を行い、ひたすら督促しても納期に間に合わない。商品開発スケジュールに大穴をあけてしまった。すでに宣伝も開始し、販社あての事前告知もしている商品だから、Aさんの責任は大きい。事業部長から厳重な訓告を受けたのも無理はない。そして、彼が専権を奮っていた商品企画セクションにもう一人責任者が入ることになり、彼の立場は著しく不安定になった。「次の移動でどこに飛ばされるのか」と部内でも囁かれるきつい立場に追い込まれた。こんな時、悪い方に考える人は、部品メーカーの担当者を恨んだりする。あるいは、罪悪感で自分を責めたりする。そしてうつ病になる人もでてくるだろう。一方、よい方に考える人はどうするだろう。Aさんは迷惑をかけた担当者全員に謝罪した。自分の責任を明確にしたうえで、二度とミスをしない方法を考え始めた。部品メーカーの担当者を何度も訪ね、今後二度とトラブルが起きないようにするためにはどうすればよいのか徹底的に検討した。Aさんの心の中ではもちろん、「馬鹿なことをやってしまった自分」に対する厳しい責任の突き詰めがあったのはもちろんだが、その次に「でも、金銭がからむ大損害でなくてよかった」「辞表まで行かずにすんで幸運だった」と考えた。それを「今後の自分のための蓄積にして二度とミスを犯さないたたき台にしよう」とつなげた。今まで順風満帆のエリートコースを歩んできた自分であったが、「この挫折を自分自身の試練と受け止めよう」と思えることができた。最初は厳しい見方をしていた上司からも、失敗の中から生産技術の基礎をもう一度真摯に学び、二度とトラブルを起こすまいと努力している謙虚な姿勢が評価され、「もう一度チャンスを与えてみよう」と見直された。結果、彼は再び商品企画担当者の地位を維持できた。同業他社が、その後ソフトの不具合でたびたび回収騒ぎを起こしているのに、Aさんの商品には一度もトラブルが起きていない。(よいほうに考える技術 野口敬 すばる舎 147ページより引用)これはある会社員が大失態を犯した後、その事実を素直に認め、そこから再び信頼を取り戻していった実例である。我々は、目の前の不都合な事実を認めることができない。見ようともしない。いいわけを繰り返し、人に責任転嫁をし、自分を責めてしまう。これでは、決して事態は好転しないのです。不都合で理不尽な現実、現状、事実を素直に認めて受け入れるということは、自分のマイナスの立ち位置を確認することだと思う。たとえマイナスの立ち位置であっても、そこから這いあがっていくことができる。事実を認めるということは、次のとるべき行動が具体的に明らかになるのである。意欲やモチュベーションが高まっていく。一方、事実を認めないと、それをいかにごまかすかという方向にエネルギーを投入していくので、事態は益々不利に展開していくのである。自他ともに不幸を選択していくことになるのです。
2019.09.28
コメント(0)
慢性的な不安障害、あるいは突発的に大きな不安を抱えた人は、学校や仕事を休んで精神状態の回復を図ろうとします。しかし、休むと楽になるかというとそうではありません。寝ていてもあとからあとから、つらくてイヤな出来事が次々に湧き出てきます。イライラしてとにかくその苦しみを今すぐにでも、取り除いてしまいたい。でもそれができない。解決の手がかりがつかめない。それはちょうど手を骨折して、ギブスを巻かれているようなものです。石こうで固めてあるため、中が蒸れて痒くなるのですが、直接掻くことができない。そのうち、箸のようなものでつつきまわすことしかできない。あまりにも痒くて、針金のようなものを入れると、中に傷ができる。この場合は、何日か経ってギブスを取り除いてやっと問題が解消するわけです。しかし心の問題はこのようにはいかないのです。そんな人を見て、「そんなことは気にしないで」「プラス思考で行こう」「なんとか頑張って乗り越えてよう」などという人がいます。こんなふうに励まされた人は、「よし、気分を切り換えてがんばろう」という気持ちになるでしょうか。残念ながら、むしろ、「人の気も知らないで、いい加減なことをいう」「もう自分はダメだ」「これで自分の人生も終わったようなものだ」などとネガティブなことばかり考えてしまいます。こんな人に、2度の大うつ病をのりこえられた野口敬さんは次のようにアドバイスされています。私は、「とにかくプラス思考で行こう」というつもりはありません。逆に、「少しぐらいマイナス思考でも構わない」と言いたい。マイナス思考は、慎重さや誠実さの裏返しであるからだ。ただ、考え方を「良いほう」に変えるように、少しだけ頑張ってみませんか。うつ状態の人がポジティブに考えるのは、決して楽でないことは、私が一番よく分かっているつもりだ。しかし、「自分はダメだ」と自分を責めているだけでは、心が上向くことはないのだ。(よい方に考える技術 野口敬 すばる舎)全くその通りだと思います。この本で印象に残ったことを書いてみます。不安でパニック状態にあるときは、あわてて行動しない。すぐに退職するとか、離婚するとかの行動をしないようにする。ボクシングでパンチを受けて倒されたときは、8秒目に立ち上ればダウンとはみなされないそうだ。あわてて、自分はダメージを受けていないかのように装って無理に立ちあがると、回復するまでの時間が少なくなるのでよくない。時間ぎりぎりまで体を回復させようという気持ちのゆとりが大切なのだ。不安やパニックの時は時間稼ぎをする気持ちを持つことが大切なのだ。あわてて性急な行動は控えること。不安に陥ると、特に神経質者の場合は、人に向かって攻撃するよりも、自分を攻撃する人が多い。自己否定、自己嫌悪、また罪悪感を持って、居ても立ってもいられなくなる。それがますます自分を窮地に追い込むのです。自分を責めて、責めて苦しめることはなんとか避けたい。自分を自分で褒めることができれば一番よい。そのためには、せめて普段から自分のいいところ、強みや長所を書きだしておくことだ。それを朝晩声を出して読む。そして無意識の記憶として定着しておくことだ。自分が自分を責めているときに、そうはいっても「自分にはこんな良いところもある」「ミスや失敗も多いが、自分は生きる価値のある人だ」という記憶がよみがえってくれば、しめたものだ。こんなことは、普段から意識してやらないと身につかない。でもこれが無意識の部分に刷りこまれていると、とっさの時に役立つ。ネガティブな無意識の習慣は、プラスの行動を繰り返し習慣化することで、実際には骨抜きにしてしまうことを思い出してほしい。
2019.09.27
コメント(0)
昨日に続いて、「共感的な応答」について考えてみたい。人間の場合は、「応答的な対応」だけでは心もとない。「応答的な対応」をレベルアップした、「共感的な応答」が欠かせない。「共感的応答」とは、その子の気持ちをくみ取った反応をすることである。例えば、悲しいと感じた子供には、「悔しかったんだね。でも頑張ったね」とその気持ちを受けとめる必要がある。まだ自分の気持ちをうまく言葉にできないその子の気持ちを的確に受け取る。そして言葉にして、慰めや励ましを与えることで、子供は自分の気持ちを分かってもらえたと感じ、安心感を覚える。ところが、子供の気持ちがうまくくみ取れない親が少なからずいる。そのなかでも何の反応もしないというのは最悪だ。また反応しても、見当はずれなことを言われれば、子供としては、不充足感や違和感を覚える。その気持ちの悪い違和感を抱えたまま、ズレたコミュニケションの中で育っていくケースも珍しくない。そうした子供は、自分の気持ちを分かってもらうという経験をしないままに育つことになる。やがて、人に対して自分の気持ちを分かってもらうことを期待しなくなっていく。こうした人にとって、他者とのかかわりは、絶えず違和感やズレが伴うものであるから、あまり心地よいものではない。そのうち心地よくないものは避けるようになる。人との交わりが、面倒くさいと感じる人は、自分の気持ちを分かってもらうような、心地よい体験を他人からあまり与えてもらえなかったのだ。その源は、親といった重要な養育者から、気持ちを受けとめてもらう体験をあまりもらえなかったことに遡れるだろう。(生きるのが面倒くさいひと 岡田尊司 朝日新書 117ページより引用)これは私の場合ぴったりと当てはまる。大人になると、基本的には人は信頼できなくなる。いつ何時、危害を加えられたり、罵詈雑言を浴びることになるかもしれないと身構えるようになる。絶えず対人関係でピリピリして自分を防衛しているようなものだ。大半のエネルギーを自己防衛のために投入するので大変疲れる。まだ、人を避けて、一人で過ごすことが精神的に楽だと思うようになる。悪循環が繰り返されるようになる。でも食べ行くために、仕事をしなければならない。職場の人間関係は、針のむしろに座らされているような状態となる。それは、露骨に利害関係が絡むので、ずけずけと土足で自分の心の中に人が入り込んで、暴れまわるように感じるからである。そういう人はもう救いがないのであろうか。私の場合は、集談会の仲間がいた。中にはとっつきにくい人もいたが、ほとんどの人は自分の悩みに対して、共感的態度を示してくれた。また苦しいときに、辛抱強く話を聞いてくれた。相談にものってくれた。集談会だけではなく、支部や全国のイベントなどに参加していると、人脈は全国へと拡がっていった。実際に相談しなくても、いざとなったらそういう人が相談に乗ってくれる。力になってくれるはずだという信念のようなものが、自分を強力に支えてくれる。私にはそれ以外に「一人一芸」の活動、趣味活動、資格試験の挑戦で出合った仲間たちもいた。仕事の人間関係はとてもつらかったが、それらの仲間たちとの付き合いで、なんとかしのいでこれたのだ。自分は人との接触を避けて、一人で生きていくのだ。ほっといてくれと思っている人がいるかもしれない。でも、それは本音ではないと思う。できれば、和気あいあいと冗談を言い合い、人と温かいふれあいや付き合いを求めているのが普通の人間だと思う。ぜひ集談会の人間関係、趣味を通じた人間関係を大事にしてほしい。そういう人間関係があれば、職場の人間関係で苦しくても、なんとか生きていくことができる。
2019.09.26
コメント(0)
岡田尊司さんによると、生まれて間もない赤ちゃん、乳幼児にお母さんがどのように接したかによって、その後のその人の人生は大きく変わってくるという。特に大切なのは、「応答的な反応」「共感的な応答」だといわれている。「応答的な反応」というのは、スキンシップや抱っこと並んでとても重要だといわれる。「応答的な反応」とは、子供が泣けば、すかさず注意を向けて、何か異変が起きていなてか、何を欲しがっているかと、対応することである。子供が笑えば笑い返し、気持ちや関心を共有することである。逆に、「応答的でない反応」とは、求めているのに無視する。求めてもいないのに、親の都合で押し付けることである。ミルク一つを与えるのでも、時間が来たのでそろそろ与えなければというのは、この応答性を無視したやり方である。赤ちゃんが、おなかが空いたと泣いたときだけに与えるというのが、子供の主体性を尊重した、応答的な方法だといえる。こうした些細な違いが、決定的な違いを生んでいく。求めていないものが、いつも周囲の都合で与えられるということと、欲しいと思ったときに必要なものが必要なだけ与えられるのでは、まったく違う体験になってしまうのだ。求められたら与えてくれる存在に対して、子供は安心感を持ち、安定した愛着を形成するようになる。求めても与えてくれなかったり、求めていないのに勝手に押し付けたりする存在に対して、子供は違和感や不安を持ち、心からの信頼を育めない。親のほうは、一生懸命世話しているつもりでも、子供は絶えず苦痛と違和感を強いられ、愛着は不安定なものとなる。(生きるのが面倒くさい人 岡田尊司 朝日新書 115ページより要旨引用)全く違うというよりは、依存的で自立心のない子供に成長していくのか、好奇心旺盛で活動的な子供に成長していくのか。その後の人生に大きな影響を与えてしまう。「応答的な対応」をするためには、子供のそばを長時間離れてはいけない。これはイスラエルのキブツの実験で、その弊害が証明されている。次に、赤ちゃんをよく観察しなければいけない。観察して、おなかが空いたのか、オシメを替えてほしいのか、抱っこしてほしいのか、近くにいてほしいのか見極めなければいけない。赤ちゃんの欲しいものを適切に見極めて、適度に焦点の合った応答をしていくことが親の役目となる。子どもがかわいいからと、ペットのように甘えさせるのは問題がある。「ダメ」「もたもたしないで早くしなさい」「お母さんの言うことがどうして聞けないの」などと子供に指示命令するやり方も問題がある。私はこの考え方は、森田理論学習の場にも応用できると思う。自分がいくら森田理論に精通していても、相手を無視して理論を説明していても何の効果もない。これでは相手に伝わらない。むしろ反発されることになる。アドバイスする人の自己満足で終わってしまう。まず相手のそばにいて、相手の話にじっくりと耳を傾ける。傾聴、受容、共感の態度が大切となる。そして、基本的には相手が質問してきた時に、質問内容にだけ答える。もがいて苦しんでいるときに、適切なアドバイスを行う。藁をもすがる窮地にいるとき、先の見通しが立たないときこそ、相手に響いてくるのである。「応答的な対応」は常に相手がよく見えているということだと思う。「応答的でない対応」とは、相手のことは眼中にはなく、自己満足の世界のことだ。「かくあるべし」を相手に押し付けることになり、両者の溝はどんどん開いていく。したがって人間関係はどんどん悪化していくことになる。明日は「共感的応答」について投稿したい。
2019.09.25
コメント(0)
私には60キロ離れたところに故郷がある。そこで家庭菜園、栗、柿、山椒、季節の花を育てている。私の楽しみの一つである。気分転換、健康維持、精神安定、野菜の自給、近所の人との交流に役立っている。水やり、土つくり、マルチ、耕うん、輪作体系つくり、誘因、雑草退治、病気や害虫退治などやるべきことがたくさんある。その中で気づきや工夫などが次々と湧いてくる。そのうち、手ずくりの卓球場を作りたい。ピザ窯も作りたい。バーベキュウや燻製つくりにも取り組みたいと思っている。集談会の仲間を呼んで収穫祭のようなイベントができたら最高でしょうね。今日はその中から、野菜の輪作体系を投稿してみたい。私は畑を5つに分けている。約3M×5Mぐらいの区画である。区画と区画の間は少し開けている。なにしろ、畑が多くて全部には手が回らないほどなのだ。どうして5つに分けているかというと、連作障害防止を考えているのである。例えばネコブセンチュウというのがナス科の野菜を連作するとすぐにとりつくようになる。ところが、その後にイネ科の野菜を作ると、ネコブセンチュウは死滅してしまうのである。連作すると病気にかかりやすく、収量も減ってくるのでよくないことが体験的に分かっている。人間でも同じ性格の人が結婚すると、相性としては申し分のないように思うが、マイナス面が増幅される場合がある。だから神経質者同士の結婚はよほど注意しなければならないのだ。気心が似ているので、当然プラスに働くとこれ以上の幸せはないのだが、その反動もあるということである。私はそれを野菜つくりの中で確信した。第一区画 夏野菜として、ミニトマト、ナス、ピーマン第2区画 春野菜として、ジャガイモ、サトイモ秋野菜としてダイコン、カブ、ニンジン第3区画 夏野菜としてサツマイモ、キュウリ秋野菜としてキャベツ、ハクサイ、ブロッコリー第4区画 秋野菜としてタマネギ、エンドウ第5区画 夏野菜としてカボチャ、トウモロコシ冬野菜として葉ネギ、ワケギ、ホウレンソウ、ニラ大まかに言うと、これでローテーションを組んでいる。第一区画で作った野菜は、翌年は第2区画に移る。第2区画で作った野菜は、翌年は第3区画に移る。以下同様である。野菜を作れば作るほど、病気も少なく、収量も多くなるのである。これは自然の摂理に合致しているために無理がないのだと思う。単一作物だけを植えて、自分たちだけがよい思いをしようとすると、必ず自然のしっぺ返しがある。もっと野菜つくりの名人に聞いて、精度を高めてゆきたい。
2019.09.24
コメント(0)
今日は、「木を植えた男」(あすなろ書房)という絵本を紹介しょう。この絵本に出てくるエルゼアール・ブフィエという人が木を植え続けた主人公である。この人が木を植え続けた所は、フランスのプロヴァンスというところである。この地方は気候が激しく、アルプス山脈から吹き降ろす冷たい北風で有名なところだ。当時海抜1300mほどのところは、どこまで行っても草木はまばらだった。つまり人を寄せ付けない不毛の荒地だったのだ。そんな過酷な不毛の地になぜ移り住んだのか不思議に思った。エルゼアールは、羊を飼育しながら、その地に一人で住んでいた。元々は、ふもとに農場を持っていて、家族とともに暮らしていた。ところが、突然一人息子をなくして、間もなく奥さんも亡くなった。そこで世間から身をひいて、まったくの孤独の世界にこもり、犬と羊と一緒に、ゆっくり歩む人生に、ささやかな喜びを見出したという。でも、ただのんびり過ごすよりも、なにか人のためになるような仕事をしたいという気持ちを持っていた。そこで思いついたことが、この不毛の土地を緑豊かな土地にすることだった。水もなく土地は死んだも同然のこの不毛の土地に生命の種を植え付けることを思い立ったのだ。1910年代から1940年代にかけて、毎日仕事の傍ら、荒れ地に木の実を植え続けたのだという。ドングリ、カシワ、カエデ、ブナなどである。するとどんな変化が起こったか。不毛の荒れ地が、ゆっくりと時間をかけて、緑豊かな森へと変身したのだ。そして風が種をまき散らし、水が再び湧きだしてきた。小さな実践の積み重ねがその土地を魅力ある土地に変えた。次第に若者たちが、この地に移り住むようになった。柳は芽を吹き返し、小さな牧場や菜園が次々に生まれて、生きる喜びがよみがえった。キャベツとバラの花、ネギと金魚草、セロリとアネモネの花で彩られるようになった。小鳥や動物たちも住みつくようになった。そして不毛の荒れ地を命あふれる緑豊かな森へと作り変えてしまったのである。これは報酬もなく、途方もない長い年月を費やしながらの挑戦であった。こうゆう人こそまた人間に生まれ変わってきてほしいものです。彼は大地がゆっくりと変化していくのを見るだけで十分に幸福でした。エルゼアール・ブフィエ氏は、生涯この地に住み続け、満ち足りた気持ちで89歳の生涯を閉じた。最後にこの本の一節を引用しておきたい。人びとのことを広く深く思いやるすぐれた人格者の行いは、長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの。名誉も報酬も求めない、まことに奥ゆかしいその行いは、いつか必ず、見るもたしかなあかしを、地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの。
2019.09.23
コメント(0)
ドーパミンという神経伝達物質がある。これは神経を興奮させて、快感と陶酔感を与える。また、攻撃性、創造性、運動機能などを調整させる働きがある。この他、情動や認知機能に大切な働きをしているという。ドーパミンの働きが弱いと、沈みがちになり、意欲がなくなり、活動性が失われていく。気づき、発見、アイデア、工夫などとは無縁になる。ですからドーパミンをある程度賦活させることはとても大切なのである。猿を使った次のような実験がある。1回目は、目の前に特定の色が表示されて、レバーを引くと必ず報酬がもらえる。2回目は、別の色が示され、レバーを引いても報酬はもらえない。3回目は、また別の色が示されて、猿がレバーを引くと、報酬は2回に一回だけ与えられる。それもランダムに与えられるようになっている。1回目の実験ではドーパミンレベルは最初は上がった。しかしその後は上がらなかった。レバーを引けば必ず報酬がもらえるので、何も考える必要がないからである。2回目の実験では、ドーパミンレベルは激しく上がった。ある色では報酬がもらえるのに、別の色では報酬がもらえないというストレスを抱えたためだと思われる。3回目の実験が面白い。報酬がもらえる色でレバーを引いてもその確率は50%しかない。猿はどうして報酬がもらえるときともらえないときがあるのだろうと不思議に思うのだろう。この時報酬がもらえるとドーパミンレベルは激しく上昇した。ところが驚くことに、報酬をもらえないときでも、ドーパミンレベルは上昇していたのである。猿の頭では、ランダムなエサの与え方について、頭の中でいろいろとそのからくりを理解しようともがいていたということだと思う。人間の場合も全く同じです。目の前の自然現象や人間関係などで、今の自分の頭では理解不能、パターンが読めないという状況に出くわすと、自分が納得できる理屈を追求していくという特徴があるのです。その結果として、ドーパミンレベルが上昇して、感性が鋭くなる。気づき、アイデア、工夫、発見などが次々と生まれて、意欲が高まり、行動的となるのである。ですから目の前に解決すべき問題や課題が存在することは、とても大切なのです。不安や恐怖、違和感、不快感などは、それ自体はとても嫌なものです。ところが逆に考えると、それらは自分が人間らしく生きるための食べ物のようなものなのです。神経症に生まれた私たちは、感受性が鋭く、理智的で分析力が強いといわれています。それらを自分を苦しめる厄介者として取り扱うのではなく、自分を成長させて、生きがいをもたらすものとして認識していくことが大切です。それらを乗り越えて、これから先の生き方を考え直してみなさいという課題を与えられたということなのですから。そのために森田理論の学習という強力なツールがあるのです。自分一人では途中で挫折してしまうかもしれません。でも私たちは、自助グループを持っています。みんなで助けあいながら、前進していけば、達成できる課題となるのです。
2019.09.22
コメント(0)
徒然草に「仁和寺の法師」というお話があります。これは学校の授業で聞いたことがある人も多いでしょう。あらすじを簡単に紹介しましょう。仁和寺の法師が酔っぱらって,調子に乗り,側にあった足鼎(あしがなえ,三方に脚が付いた金属製器具で,お湯を湧かしたり,食物を煮る為に用いました)を無理やり頭に逆さまに被ってふざけて踊っていた。そこに居合わせたものも、大いに喜んで楽しんでいた。ところが余興が終わって、足鼎を頭から抜こうとしたが、鼻や耳が引っかかって抜くことができなくなった。宴は急に興ざめしてして、みんなどうしたらよいかとうろたえました。そのうち、首の周りは傷ついて、血が垂れ、次第に腫れてきた。息も詰まってきたので、周りの者が、足鼎をたたき割ろうとしたが、簡単には割れない。また足鼎を叩くと、音が響いて我慢できなくて後ずさりする有様だった。都の医者に見せたけれども、「こんな治療法なんか知らない」などと言われて追い返された。ある者が、「例え耳や鼻が切れてなくなるとしても、命だけはどうして助からないことがあろうか、いや助かるだろう。ひたすら力を精一杯入れて引っ張りなさい」と言う。意を決して、わらの芯を首の周りに差し入れて、首もちぎれてしまうぐらい引っ張ったところ、耳や鼻は欠けて穴が開いたものの、足鼎は頭から抜けたのであった。当人は、辛くも危うい命を拾ったが、長らく寝込んでしまったとのことである。私はこの話を聞くとぞっとする。自分の軽率な行動が招いた結果とはいえ、適切な対応策が見つからない。打開策がないまま時間だけが過ぎていく。こうなると不安や恐怖で精神錯乱状態に陥ってしまうのは時間の問題だ。この法師の場合、唯一の救いは周りの人が近くにいてくれることだけだ。何とかしてくれるのではないかということだけが希望の光だ。しかし現実問題として、励ましてもらうだけでは、どうにもならないことが多い。危機的状況が、肉体的にも精神的にも自分を追い詰めていく。これは突発的な命にかかわる出来事に遭遇して、対応策もなく、一瞬のうちに身体的、精神的にパニックに陥ったのである。周囲の人の援助が全く期待できない場合や救助が遅れるような場合は、すぐに生命の限界を迎えてしまう。私の人生を振り返ってみても、小学生のころ海でおぼれてしまったことがある。友人が助けてくれて間一髪助かったことがある。森田ではどうすることもできないことは、受け入れるしかないというが、それもつらいことである。命の危機に直面することは日常たびたびあることではない。でも自分の軽率な行為で、イライラして心の危機に直面することは多々発生する。例えばガンなどと診断されれば、誰でも冷静ではいられなくなる。私は心の危機に陥ったときに必ずすることが2つある。一つは、マーラーの巨人という曲をすぐに聞くことにしている。確か25分過ぎからの部分に自分の心を癒してくれる効果があるのである。この曲に何度助けられたことか。自分に寄り添ってくれるのである。それから、テレビ番組をDVDに落としてある映像を見るのだ。何点か持っている。この中でも、プロジェクトXの瀬戸大橋の建設の現場監督をされていた杉田さんの話である。杉田さんは過酷な環境の中、奥さんをがんで亡くされ、残された2人の幼い子供たちを懸命に育てておられた。そして難事業の瀬戸大橋も完成された。その祝賀会の華やかな席に杉田さんの姿はなかったという。それから伝説のプロ野球のコーチである高畠導宏氏をモデルにした、「フルスィング」というドラマである。高畠さんはプロで数多くの有名選手を育てて、引く手あまたの伝説のコーチであった。その高畠さんが、プロ野球のコーチから福岡県の高校の教師に転身された。しかし夢半ば、甲子園を目指す中で、ガンで倒れて亡くなった人だ。その生きざまに共感する。ちなみに「甲子園への遺言」講談社という本は、高畠さんのことが詳しく紹介されている。私は、心の危機に陥ったときは、一人静かに、マーラーを聴き、これらの映像を見るのである。その人たちが、「人生を簡単にあきらめるなよ」と教えてくれる。最悪の状態でも命を奪われることはないという気持ちになる。いつの間にか勇気が湧いてくるのである。心に危機に陥ったときは、その苦しみを吐き出せる人を持っていることは一番大切である。私は集談会の中で見つけ出した。それに加えて、自分に寄り添ってくれるものを用意しておくことをお勧めしたい。何もしないでくよくよと悩んでいるよりも、心の危機に陥ったときに、普段から助けとなる音楽やDVDのようなものを常に用意しておくことは、人生においては大いに役立つことがあるのだ。よかったら皆さんもぜひ実行してみてください。
2019.09.21
コメント(0)
徳島県池田高校で社会科教師、野球部監督を務められた蔦文也さんという人の生きざまを紹介したい。蔦さんは徳島商業で全国大会に出場されいる。1回戦敗退。自分のせいで負けたといわれている。その後同志社大学に進学。ところが第2次世界大戦のさなか。学徒動員されて、神風特攻隊に所属していた。仲間の多くは戦死している。蔦さんも爆弾を積んで、出陣予定だった。ところが乗る飛行機が不足して、終戦を迎えて、なんとか生き延びることができた。その後、プロ野球の東映フライヤーズにピッチャーとして入団。つかいものにならず1年で退団。故郷池田町に戻り酒をあおる生活を続けていた。1年後、池田高校に職を得て、野球部監督となる。自宅を開放して合宿所としていた。指導方法は、最初はスパルタ指導だった。これがのちに、選手の個性を活かす、のびのび野球に変化していったという。当時は選手も少なく、試合では負けてばかりだった。負け続けた期間はとても長かった。その間野球部解散の話も出たそうだ。それでも何とか甲子園出場を果たしたときは選手11名しかいなかった。さわやかイレブンといわれていた。その後、畠山投手、水野投手が入ったころから一躍池田高校の名前が全国に知れ渡った。甲子園で春夏連覇を達成したのだ。金属バットを振り回す積極打法はやまびこ打線と呼ばれていた。3連覇をかけた大会では、清原選手、桑田選手を擁するPL学園に完敗した。その試合の後、蔦監督はそっとつぶやいたという。「この子たちにとっては負けてよかった。もし勝って3連覇でもしていたら、有頂天になって、この子たちの将来に悪影響を及ぼしていただろう」その後、池田高校で定年退職を迎えたときには、全国の野球強豪校からオファーが殺到した。蔦監督は、それらをすべて断って池田町で住み続けた。蔦監督の人生は、決して順風満帆ではなかった。苦難に満ちた人生だった。やっと最後に少しだけいい思いができた人生だったような気がする。それは、どんなにつらくても人生を投げ出さなかったからだ。私たちも苦難の人生で、もう人生を投げだしてしまいたいと考えることがある。そんな時は蔦さんの生き方を見つめてほしい。YOU TUBEで「知ってるつもり 池田高校野球部 蔦文也」がアップされている。最後に蔦文也氏の言葉を紹介しておきたい。わしの野球人生は負けからの出発じゃからね。でも、負けることが不名誉であるという考え方は全然持っておらん。負けることで、人間がダメになる。そのほうがかえって不名誉なことだ。成功ちゅうのは、失敗したものだけが到達できる特権だ。
2019.09.20
コメント(0)
生活の発見誌の2019年8月号に、子供の発達障害に森田理論を応用して成果を上げておられる先生の投稿があった。大変参考になった。森田理論は、神経症だけではなく、慢性うつ病、慢性疼痛、ガン患者、難病、慢性皮膚病などに顕著な効果があるという報告はなされているが、発達障害にも役に立っているという話を聞いて大変うれしく思った。発達障害を抱えている人は、注意欠陥多動性障害、コミュニケーション力の不足などがあって、普通の人とまともな付き合い方が困難な場合がある。今までは発達障害を何とか治して社会に適応させようという治療が第一選択肢として考えられてきました。「こだわり」「多動」「多弁」などは、周囲からすると奇怪な言動に見えるため、どうしても治療対象としてみてしまうのです。この先生の取り組み方は違います。子供がゲームが好きならば、ゲームを集中的に許容して、そのことを批判しないで見守るのだそうです。すると今まで全く手をつけようとしなかった勉強の方にも関心を示すようになったとのことです。また多動性が目立つ子供に、多動に身を任せて園庭で走り回った後にはきちんと集団に戻っていき、みんなとクラスで過ごすことができるようになった例もあるそうです。逆に、勉強に取り組んだらゲームをしてもよいという方針で臨むとよい結果にならない。また集団の中でじっとしていられたら、走り回ってもよいという手順で支援をするとうまくはいかない。この先生は次のように述べておられます。森田療法は、「変わらないこと」はそのまま受け入れ、「生の欲望」に即した行動をとっていくというアプローチをとっています。発達障害を抱えている人は、仕事が器用にこなせない、勉強についていけない、コミュニケーションのとり方が奇異であるなど、様々気になる言動を呈しています。しかし、そうしたネガティブな側面にではなく、当事者が一方で有している強みや得意な面に目を向けて、それらが発露されるような環境をいかにして周囲ができるか、このことこそが森田療法を発達障害に活かすあり方だと思うに至っております。実に森田理論の核心をついた格調の高い文章であることかと感心しました。今後の実践例を数多く積み重ねられて、社会に発達障害に森田療法ありという考え方を広めていってほしいと切に願っております。尚、生活の発見誌をご存知ない方のために若干説明しておきます。NPO法人 生活の発見会が毎月1回発行しています。内容としましては、会員同士の体験記、交流、自分の掴んだ森田理論などが満載です。その他森田理論に詳しい先生が、森田理論について解説しています。それから森田療法に関するイベント、学習会、集談会、参考図書、視聴覚教材、森田療法施設、協力医師、協力臨床心理士、メンタルヘルス岡本記念財団、森田療法学会の紹介などの情報が載っています。ページ数は約100ページぐらいです。神経症に悩む人の同人誌のようなものです。私の知っている臨床心理士さんは、クライアントに発見会に入会して、発見誌を読むことで心の悩みはかなり軽減できると豪語されています。実際何人も発見誌をとって読んでいます。まだの人は、試しに1年間だけでも入会して生活の発見誌を読んで見られたらどうでしょうか。関心のある方は、是非生活の発見会のホームページでご確認ください。
2019.09.19
コメント(0)
今日は、ネガティブな信念をポジティブな信念に置き換える方法について考えてみたい。例えば、小さいときに、凶暴な犬が歯をむき出して吠えて自分を威嚇した。そのうち自分に向かってとびかかってきて、身体のあちこちを噛み始めた。自分を助けてくれる人が近くにいなかった。死ぬ思いを経験した。こういう経験は一度でも体験すると、トラウマになる。フラッシュバックが起きる。乖離現象が起きて、記憶が飛んでしまうかもしれない。このような衝撃的な体験は、言葉と結びついて、脳内に強く記憶されてしまう。そして次に犬を見たときに、その記憶をすぐに呼び出してしまうのだ。つまり目の前いいる犬は、以前自分を襲った犬ではないが、その犬も以前の犬と同じように自分に危害を加えてくるに違いないと考えるようになるのだ。これがネガティブな信念である。客観的に観察すれば、犬には人を襲うような凶暴な犬も確かにいる。しかし大半の犬は、人間に親しみを持ち、好意的に近づいてくる。自分のつらさを分かち合ってくれる親友のような犬も多いのである。あるいは介助犬、麻薬の検知犬、被災地で人命救助で役だっている犬もいる。このようにネガティブな信念をポジティブな信念に転換できれば、これからの人生にとってよほど意義がある。どうすればポジティブな信念に転換できるか。まず、公園などに行って、小さな子供たちが犬とじゃれ合っている様子を観察させる。ペットショップに行って、生まれて間もない子犬を見せる。あるいは飼い主にかいがいしく尽くしている盲導犬を観察してみる。被災地で生きている人はいないかと懸命に捜索している犬を観察させる。人間に替わって、羊の群れを決められた方向に誘導している犬を見せる。この経験によって、犬の中には人間になついてくるかわいい犬もいるのだなと思うようになるだろう。このような経験を数多く繰り返していくとどうなるだろう。たしかに以前のトラウマは頑固に無意識の部分に心の心象現象としてこびりついている。これは取り除くことは極めて困難だ。別の方法を考えてみよう。その際参考になるのは信念の持つ特徴である。信念はよく考えてみると、まず心にダメージを与えた衝撃的な体験がある。この体験が言葉と結びついて、別の機会に自由に取り出せるものとして脳内に記憶されている。それを呼び出して、その時々の対応を決めているのだ。ここで大事なことは、ネガティブな信念にしろ、ポジティブな信念にしろ、信念には行動を促すエネルギーを持っているということだ。エネルギーを持っているということが、ネガティブな信念を、ポジティブな信念に転換できる方法となるのである。つまり、先に見てきたようなポジティブな体験を繰り返して積み重ねていく。するとネガティブな信念の中にあるエネルギーは少しずつ勢力を失っていくのである。反対に犬に対するポジティブな見方や考え方が少しずつついてくる。ネガティブな信念の中に、ポジティブな見方や考え方が入ってくるということである。最初のうちはネガティブなエネルギーの勢力が圧倒的であろう。ところがそれを打ち砕くような行動を繰り返すことで、ネガティブな信念のエネルギーは次第にその勢力を失ってくるということなのだ。考えてみてほしい。その2つの持つエネルギーの勢力が同等になったとき、その人はいつまでもネガティブな信念に振り回されているだろうか。多分そのネガティブな信念の中にある、行動を促すエネルギーは骨抜きにされているのではなかろうか。勿論、無意識の部分には、べったりとネガティブな信念が残っているだろう。でも、その信念は、ポジティブな信念によってエネルギーを吸い取られているために、実際の行動として表面化してこなくなるのである。心の中の混乱ぶりが、実生活に多大な悪影響を与え続けるという事態を招くことがなくなったのである。こういう状態はネガティブな信念に振り回されなくなったといえる。ポジティブな信念に完全に転換されたというよりも、実際の生活が普通の人と同じようにできるようになったということである。犬の例でいえば、警戒心一杯ではあるが、時には犬とじゃれ合う子供たちの輪の中にいることができるようになったということである。ここで大事なことは、ポジティブな見方や考え方を身につけるためには、そのための実践や行動が極めて大切あるということだ。それが習慣になるまで続ける。そのために、自分で努力することが欠かせない。また周りの人も温かくサポートする必要がある。そうは言っても、新しいことに取り組むことは大変が壁が立ちはだかっている。ましてや習慣化するまで継続できることはもっと難しい。それは人間に備わっているホメオスタシス(恒常性維持機能)がチャチャを入れて実行を困難にしてしまうからである。しかし人間には生の欲望の発揮という機能も同時に兼ね備えている。生の欲望の力がホメオスタシスに打ち勝っていったときに、ネガティブな信念はポジティブな見方や考え方、実践、行動へと切り替わっていくのである。ネガティブでつらい人生を余儀なくされている方は、その信念を変えていけば楽な生き方ができるようになることを忘れないでもらいたい。
2019.09.18
コメント(0)
今日はネガティブな信念について考えてみたい。信念は分かりやすく言うと、自分が今までの経験の中でつかんだゆるぎない考え方のことである。こだわった考え方、凝り固まった考え方のことである。無意識の部分に居座っている。これが自分の人生に大きな影響を与えているのである。例えば、対人恐怖症の人は、他人は自己中心的な人ばかりである。自分のことを否定、非難、拒否、無視、脅迫、抑圧するという信念を無意識の部分に強く持っている。ネガティブな多くの体験が言葉と結びついてネガティブな信念が形成される。次に同じような体験をすると、ネガティブな信念で考えて行動するようになる。反復繰り返しによって、益々ネガティブな信念は強化される。このネガティブな強い信念を持っている人は、大変つらい人生が待っている。基本的な人間関係としては、自己防御的、苦痛・危険回避の行動をとるようになる。相手は自分に危害を加えるかもしれないという気持ちで、対立関係になり身構えてしまう。精神的につらいので、人を避けて逃避的な生活に陥りやすい。また何か問題が生じると、自己弁護、言い訳、ごまかし、隠蔽、責任転嫁などが起こりやすい。そうしないと社会から排除されれてしまうという危機感が根底にあるのだ。そして、対人関係で激しい苦痛を感じるようになると、その苦痛を避けるために、視野の狭小化が起こる。すぐにパニックになり、ちょっとしたことが自分の人生全体をダメにしてしまうように感じるようになる。友達が場を盛り上げるような冗談も、冗談とは受け取ることができなくなる。物事を歪曲して、自分の不利になる情報だけを集めるようになる。客観的、中立的な見方や考え方はできなくなってしまう。これに対してポジティブな信念を持っている人はどうか。友達は自分の一番の財産だと思えるような人だ。自分一人で過ごすことよりも、他の人と一緒に行動することが断然楽しい。これからも、多くの人との付き合いの範囲を広げて、人生を楽しみたいと考えている。これは両親とのかかわり方が大きく影響している。両親が子供に対して、基本的には自由にやりたいことをやりたいだけやらせてくれた。叱るかわりに、子供の存在を認めて、褒めたり、励ましたりしてくれた。いつも、家族で行動していた。他の家族との交流も活発であった。他人に対して、防衛的に行動することがない。苦痛・危険回避行動をとる必要がない。こういう人は、基本的に他人を信頼して、好意的につきあっているのだ。でも世の中には、実際に自分に危害を加える人もいる。危険な人も相当数存在している。ネガティブな誘惑行為を押し付けてくる人もいる。ポジティブな信念を持つ人たちも、この人たちの存在はよく知っている。知ってはいても、そういう人とは、できるだけ接点を持たないようにしている。まとめてみると、基本的には他人は自分の人生を豊かに彩ってくれる貴重な存在である。だから、これからもより広く、より深く人間関係を膨らませていこうとしている。その一方で、自分に合わない人や危険な人に対しては、近づかないように注意している。この2つの行動が臨機応変にとれる人である。ネガティブな信念を持っている人は、そのような見方や考え方は全くできない。その結果、自分で自分を追い詰めてしまっているのである。一般的に一旦出来上がったネガティブな信念は、ポジティブな信念に取り換えることはできない。無意識の部分に頑固に張り付いてしまっているのである。そうすると、ネガティブな信念を持っている人は救いの道はないのか。そうではない。安心してほしい。ネガティブな信念は、なくすることはできないが、その信念を骨抜きにする方法があるのである。それを明日の投稿テーマとしたい。
2019.09.17
コメント(0)
生活の発見会では毎年1月号の機関紙で川柳を載せています。森田関連のものと一般自由題がある。私は毎年投稿している。最優秀賞も獲得したことがある。その時は、タナカサダユキ氏の額入りイラストをいただいた。自己開示 懇親会で 全開放次に、最近の発見誌から私が良かったと思えるものを紹介してみたい。忘れじと メモした紙を また探しイケメンの 視線感じて 幸せに 「傾聴」を 熱弁しすぎて 耳貸さず知らぬ間に 娘の料理が 妻の味物忘れ 悩みが何か 出てこない長生きは したくないよと サプリ飲む赤面が 家計赤字で 青い顔妻の後 ついて歩くは イヌとオレ川柳はいきなり言われても会心の作は出てこない。普段からそういう目で、探しているとよいものが突然できる。私の今年の投稿は次のようなものだ。トランプさん ゲームだったら 勝ちますよ参加者が 多くて今日は 立見席カラオケ会 どもりの人が 最高点皆勤賞 祝いの酒で 二日酔い遅いのに ゲームにかけては 早い孫おめでたや 森田生まれて 100年目不快感 放っておけと 無茶を言う
2019.09.16
コメント(0)
先日テレビを見ていて驚いた。家の中でヘビをペットとして飼っている人がいたのだ。私にとってはヘビを怖がらない人がいるということが理解できない。そういえば管理人をしているマンションの駐輪場にヘビが現れたときは恐ろしかった。自費で駆除する業者を手配して、カラーコーンに張り紙をして待機していた。しばらくすると、以前自衛隊に勤めていた人が帰ってきたので訳を話した。するとヘビを見るなり、青大将だと言った。3mぐらいの棒を用意してくれといわれた。その棒でヘビをおびき出すと、すぐにシッポを掴まれた。そしてヘビをその棒に巻き付けた。そして目の前にある川に放してしまった。私は後づさりしながら、その見事な手さばきに感心した。その人は自衛隊員の時は、ときどきヘビを捕まえては焼いて食べていたという。ヘビといえば、近くの居酒屋に行くと、マムシなどの毒蛇を1升瓶に入れて、マムシ酒を置いているところがある。私はそんな店には行くことができない。それから以前訪問販売の仕事をしていた時に、ある家の玄関を入った時、コプラのはく製が突っ立っていた。腰を抜かしそうになったことがある。私は人間は誰でもヘビが嫌いなのだと思っていた。どうもそうではないらしい。沖縄の人はハブの皮を張った三線を宝物のように飾っている。人によってはヘビの抜け殻を、財布の中に入れている人もいる。金が貯まるのだそうだ。岩国の錦帯橋の近くに縁起物の白ヘビを飼育して、展示している建物がある。我が家の家族はみんな興味を持って見に行った。私一人だけどうしても中に入ることができなかった。ヘビアレルギーが強いからである。私のヘビ嫌いの始まりは、納屋で薪だと思ってつかんだものがヘビだったという経験がある。またイチゴ畑でイチゴを収穫していた人が、マムシにかまれたのを目撃した。家の中にヘビが上がりんでいてとぐろを巻いていた。身が凍り付くような恐怖を感じた。また小学生の頃、友達が岩場からヘビを引っ張りだして、振り回し、運悪く私の体のほうに飛んできた。また魚を獲りに川に入ったところ、どこからともなく大蛇が出てきて川を泳いでいた。奄美大島の土産物屋の店先の箱の中を何気なく覗くと、とぐろを巻いたハブがいた。田舎で草刈機で草を刈っていたときに、誤ってヘビを殺してしまった。通学途中で車にひかれた無残なたくさんのヘビを見てきた。幼いころからヘビに関するマイナスの経験を数多く作ってきたのだ。それで私の頭の中には、次第にヘビは恐ろしいものという強固な信念が出来上がったのだ。ヘビは全然恐ろしくないという人が、どうしても信じられない状態になっている。田舎暮らしにはあこがれているが、ヘビと出くわすことには耐えられない。最近はテレビや新聞、本などにヘビが出てくるだけで、目をそらすようになってしまった。毒蛇以外は、人間には害はないと頭では理解しているが、どうにもならない。そのネガティブな思いこみや信念は少なからず生活にも支障を与えているのだ。これは、人が恐ろしいという対人恐怖症も、同じようにマイナス経験を積み重ねることによって、信念として私の無意識の部分にしっかりと根ずいたものだと思う。特に父親が私の言うこと、なすことすべてに否定的に接していたために、人は恐ろしいものだというネガティブな信念ができあがったような気がしている。ではこの生きづらさの原因となっている信念とどう向き合っていくのか、この次に考えてみたい。
2019.09.15
コメント(0)
森田先生のお話です。私が土佐へ犬神憑調査に出張したのは、呉先生が、「今教室に、60円ばかり旅費が残っているが、誰か行きたいものはいないか」ということであった。こんな時に先輩をさしおいて、自分が先に口を出せば、同僚に憎まれるから、慎まなければならない。ただ頭を上げ、ニコニコしてキョロキョロと先生の顔を見ている。そうすると、先生が「森田君、どうです」とくる。「待ってました」とばかりに、「もしさしつかえのない事なら、ぜひお願いしたいものです」と答える。勿論その時には、私はどこへ行って何を調べるかということは見当はつかない。まずその機会を取り込んでおいて、しかる後にユルユル考案するつもりである。これがもしあの一人の同僚ならば、まずは自分は何を調査し、その金をいかに使うかという事を考えて、しかる後にイエスと答えようとするから、もとより間に合うはずはなく、後になって、あの時に、引き受けておけばよかったと残念がるのである。それから1か月ばかりも、暇暇に図書館に行って、それに関係したことを調べた。高知では30日ばかり巡回して犬神を調べた。その後、高知医学会で、その内容を3時間ばかり講演した。これは私が大学卒業後6か月目のことでした。私が今の慈恵医科大学の前身である慈恵医学校で、「精神病学」の講義をするようになったのも、卒業後9か月目です。その当時、1時間の講義をするのにその準備に8時間も要したのです。もしこの時に、「自分はまだ講義をする実力がないから、1年先に延ばしにしてもらいたい」といったところで、オポチュニティーは頭の後が禿げているから、決して後ろから、つかまるものではありません。(森田全集第5巻 535ページ 要約引用)イエスがノーか迷うような時は、関心や興味があることです。少しは挑戦してみたい気持ちがあるのです。しかし、ここで元々人間に備わっている反対の考え方が邪魔をしてくるのです。目途も経たないのに安請負をして、もしうまくいかなかったらどうするんだ。責任がとれないじゃないか。だからここは、丁重にお断りしよう。これは森田でいう、精神拮抗作用の仕業です。森田先生は一旦チャンスを逃すと、滅多に次のチャンスは巡ってこないのだといわれています。精神拮抗作用が必死になってあきらめさせようとしますが、それを振り切って引き受けてしまうほうがよい。いったん引き受けると、背水の陣を敷くことができる。あとは必死になってくらいついていくことだ。すると目的を果たすための方法はいくらでも思いつく。不十分でも達成すれば、いろんな経験ができる。自分も成長できるし、自信にもなる。たとえ失敗しても、次の成功のための貴重なヒントを得ることができる。引き受けなければ、後で後悔することになることが多い。特に結婚相手を選ぶ時など、ハードルの高い条件を設けて選別していると、チャンスを逃すことが多い。半分ぐらいの条件で折り合い、とりあえず結婚する。そういう気持ちを持って結婚した人は、相手の欠点、弱み、不足分を包容力を持って許すことができる。あと不足分は二人で協力してクリアーしていけばいいぐらいの気持ちの方がよい。問題点や課題、夢や希望を持って結婚しているので、結婚生活への意気込みが違ってくる。そういう夫婦が雨降って地固まるというか、人もうらやむような夫婦の人間関係を築き上げているのである。
2019.09.14
コメント(0)
日本でも芸能人にドッキリを仕掛けるテレビ番組がある。これから紹介するドッキリはアメリカのシカゴで行われたものである。シカゴで有名デパートやブテックが軒を連ねているミシガン通りにプラカードを持った一人の男を立たせた。プラカードには「お金無料、本日限り」と書いてあった。この男には、お金を要求する人には誰でもお金を渡すように指示してあった。大勢の人とすれ違ったが、お金を要求した人はたった一人しかいなかった。それはバス代の支払いのための小銭25セントを要求した人だった。それ以外の通行人は誰もその男に近づこうとはしなかった。あるビジネスマンを捕まえて、「こんなチャンスは二度とありませんよ。どうか持って行ってください」言って、いくらかのお金を持たせようとした。するとそのビジネスマンは「結構です」と答えて、そこからそそくさと立ち去ってしまった。このドッキリで分かったことは、普通の人間は「タダでお金がもらえることはあり得ない」「繁華街でお金をくれる人がいるなんてありえない」と固く信じて疑わなかったということです。お金は欲しいけれども、後で何かよからぬことがあるのではないかと、疑心暗鬼になっていたということです。もしかしたら、その男は精神的な病気にかかっているに違いないと思ったかもしれない。不労所得が得られるというチャンスが実際に目の前にあっても、すぐに行動することはできない。それは、自分の今までの経験や無意識の部分の固い信念が、プラスの行動を抑制するのである。すると絶好のチャンスはするりとすり抜けていく。森田先生は、チャンスには前髪はあるが、後ろ髪はないといわれる。チャンスと見ればすぐに手を打たないと、手遅れで後悔することになる。森田理論では、「イエスかノーかに迷うときは、まずイエスと答える」のがよいという。森田先生のチャンスに対する考え方を紹介してみよう。あるとき、突然に富士川博士から、東洋大学の教育病理学の講義の口を授けられた時は、思いがけないことであり、僕がとくにその方面の研究をしたものではないから、随分見当のつかぬ恐ろしいことではあったけれども、僕の平常の事を知っている人に見こまれた事なら、何とかならないことはなかろうという要領で、早速これを引き受けたのである。その時は本当に恥以上であって、恥ずかしい、恐ろしいになりきって、一生懸命に下調べをして勉強するほかに道はない。それで恥を突破して、しだいに向上するのである。(森田全集第5巻729ページより引用)
2019.09.13
コメント(0)
森田理論の学習会で、卒業ならぬ「卒婚」ということを聞いた。夫婦が犬猿の仲になって、一切口を聞かない、別行動をしていることらしい。配偶者がいることがうっとうしくてたまらない。もちろん寝室も別。食事も別。洗濯も別。テレビもいっしょには見ない。外出も別。相手が何を考え、どんな人と付き合っているのか、どこに行っているのか全く無干渉である。尚、食事、洗濯、掃除など配偶者の世話になっている場合は、卒婚とは言わない。それは依存というのだそうだ。それでも一緒にいる意味があるという。まず年金が二人分ある。共益費などを除いたものを折半する。それから住む場所が確保できている。新たに家を借りると莫大お金がかかる。いわゆる親子二世帯住宅に住んでいるようなものだ。ときどき顔を合わせるが、基本的には生活は別々である。こういう人が知り合いの中にもおられるという。そういう目で他人を見ているので、見つかるのだろう。私は卒婚は知らないが、実際に離婚した夫婦は周囲に数えきれないくらいいる。こういう夫婦でも結婚するときは、この人から助け合いながら、子供を育て、生涯寄り添いながら生活できるはずだと思ったに違いない。おしどり夫婦を目指していたのである。どこでボタンの掛け違いが起きたのか。いつから歯車に潤滑油がいきわたらなくなったのだろうか。その手がかりとなるある一組の夫婦がいる。その夫婦は高齢のため朝から晩まで一日中一緒の行動をとっている。その夫婦と一緒にいると、四六時中口喧嘩をしていることに気づく。たとえば、主人が車を運転していると、奥さんが注意や指示を出す。「信号が黄色になった」「信号が青になったよ」「もたもたしないで早く動かしなさい」すると主人は、「そんなことは分かっている。黙っていてくれ。イライラする」とちょっとした口喧嘩が始まる。またこの夫婦は一緒に楽器をされているが、間違うとすぐに奥さんが指摘する。すると主人が向きになって反論する。なにかあると奥さんがすぐにチャチャを入れるのである。普通なら一緒にいることが嫌になると思う。横で見ていると、すぐに大きな喧嘩に発展しそうに思えるが、不思議なことに、瞬間湯沸かし器のようにパッと燃え上がって、しばらく経つとすぐに収まっている。私たちのようにいつまでも根に持たないのだ。これが不思議だ。この夫婦にとっては、ちょっとした口喧嘩は、単調な生活に適度な緊張感をもたらし、生活を活性化することに役立っているようだ。これがないと夫婦関係が弛緩状態に陥ってしまう。この奥さんは行動的でたくさんの習い事をし、女性同士の旅行にもよく出かけられる。ご主人はそれに対して、若い頃大変苦労かけた。今は好きなことをさせても罰は当たらないだろうと、きわめて寛容である。思うに、無意識の部分では相手に感謝し、相手を思いやる気持ちでいっぱいなのだろうと思う。相手の存在、やることなすことを尊重しているようだ。そして何かあると援助し助けようと思っている。それは海の表面ではいつも波が立っているが、海の中は波もなく穏やかなようなものだ。その夫は相手が自分の前で思わずオナラをした時に、笑って許せるようにならないと、夫婦は長続きしないだろうといわれる。その人も人前でよくオナラをされる。ひょっとしたらそれで相手の人間性を一瞬で見極めておられるのかもしれないと思うようになった。相手が大笑いで反応してくれれば、この人とは付き合っても大丈夫だと判断されているのではないか。人間性を見分けるすごい技術を身に着けておられるのに感服した。これは簡単なことだが、私は人前でオナラをすることは今だできない。
2019.09.12
コメント(0)
1882年WBC世界ヘビー級王座決定戦が行われた。チャンピオンのラリーホームズは13度目の防衛戦だった。挑戦者はランドール・コップ(通称テッスク)という選手だった。試合は一方的で、KOこそされなかったものの、15ラウンドすべてでチャンピオンの判定勝ちだった。この試合でテックスは、世界ヘビー級の王座決定戦で、15ラウンドすべてのラウンドで判定負けをした唯一の男として歴史に名前を残した。そのテックスが次のような言葉を残している。「上昇気流にあるものは誰でもヒーローになれる。男の本当の価値は、何かうまくいかないときに、それでも前に進む根性があるかどうかだ」これは神経症の克服についてもいえることだ。神経症で蟻地獄の底に落ち込んでいる状態の時は、やることなすことがほとんど裏目に出てくる。自信を無くして、自己嫌悪に苦しむ。でもここであきらめては、失意の人生で幕引きとなる。神経症は生活に支障のない程度には回復するという希望を捨てないでほしい。またそんな時早まって退職や離婚するような決断は避けるべきだ。休職してもいいので、席はそのままにしておく。そして、にっちもさっちもいかない状況の中でも、孤立することは避けてほしいものだ。まず森田に詳しい生活の発見会の協力医や臨床心理士に見てもらう。これは生活の発見会のホームページに案内がある。その時に一時的に薬物療法を併用することもOKである。そしてもっと大事なことは、森田の自助組織からは離れないでほしい。神経症に悩み、乗り越えてきた仲間たちの存在は、心強い味方になるはずだ。受容と共感、傾聴の姿勢で対応してくれるはずだ。この援助を素直に受けることだ。そして少しでも森田理論の学習を進めていくことだ。最低生活の発見会が毎月発行している「SEIKATUNO Hakken」はぜひとも読んでほしい。全部でなくても体験記などは大変参考になる。また生活の改善のヒントがたくさん載っている。できればひとつでも自分の生活に応用してみてください。神経症は自分一人で克服しようとしても決してうまくはいかないと思う。それは克服のための壁が高すぎるからである。そういうときは、森田理論に詳しい人に相談して、ついていくことをお勧めしたい。神経症の克服は面白いもので、症状そのものに振り回されなくなるだけではなく、神経質者としての生き方が分かってくることである。そのためにはちょっとしたコツがある。表面的な学習だけでは地下にある金鉱にはぶち当たらないのである。学習と体験が一体化して、森田でいわれていることを1つか2つに絞って愚直に深耕していれば、いつかは必ず金鉱に到達できるのである。コツを掴めばそんなに難しいことではない。そのためには、比較的人数の多い集談会に参加して刺激を受け続けることであると思う。
2019.09.11
コメント(0)
ラグビーのボールは楕円形をしています。だから自分の思うところに転がすことはできません。転がる先はボールに聞いてくれということになります。この現象は自分の思い通りにならない私たちの人生とよく似ているのではないでしょうか。問題や課題、失敗やミス、災難や理不尽な出来事が次から次へと繰り返されています。いくら頭の中で、こうしたい、こうであるべきだと考えても、現実はつらく厳しいことばかりです。ことごとく裏切られてしまうのが常です。人生においては確実なことは何もないと思います。森田理論学習で学んだように、千変万化、理想と現実のギャップの中で、変化を受け入れて、現実に寄り添って生きていくしかなさそうです。これに関して私は次のように考えています。20回行動を起こせばそのうち13回から14回ぐらいは、自分の考えていることとは違う方向に進展する。ミスや失敗、問題や課題、相手との対立を招いてしまう。ストレスや不安・恐怖を招いてしまう。しかしそれは行動することを選択すれば、避けて通ることができないものなのではないか。だからといって、予期不安に振り回されて、行動することから逃げてしまっては、自分の人生は惨憺たる結果になる。これらは、逃避、言い訳、責任転嫁をしないで素直に自分の誤りを認めてしまう。これがストレスや精神的ダメージを最小限に抑制するコツなのではないか。こうやって乗り越えると、後で振り返ってみると、あの時は少しパニックに陥ったがいい経験になった。失敗やミスに学んで、乗り越え方が身についた。今の成功は失敗やミスのおかげだ。失敗やミスは少し高くついたが、授業料のようなものだった。あるいは必要経費のようなものだった。それらを支払わないと決して果実は手に入れることはできなかったのだ。あるいは失敗やミスは愛嬌のようなものだ。正々堂々と周囲の人に公開することで、人間関係の幅も広がってきた。馬鹿を言い合って人と交流することが楽しみだ。弱点や欠点、ミスや失敗の経験のない人はいない。しかし、それを人に気づかれないように細工をして隠そうとする人はたくさんいる。逃げることが習慣になっている人もいる。言い訳や責任転嫁する人もたくさんいる。そういう人は、自分の思いとは反対に、精神的には長くてつらい人生が待ち構えているのだ。失敗やミスへの対応としては、いかに自分へのダメージを少なくするか、他人へ与える被害をいかに最小限に抑えるかにかかっている。発想の転換が必要だ。そのためには、まずいと思ったらそのまま素直に非を認めてしまう。謝罪すべき点は謝る。そして急いで事後処理に着手する。そうしてこの問題に、早期に一旦きりを着けてしまうのだ。そして新たな気持ちで次の行動にチャレンジしていく。こうなれば、失敗やミスでいつまでも苦しまなくなる。次の行動への活力も湧いてくる。こういうからくりで、失敗やミスは乗り越えていけるようになっているのです。
2019.09.10
コメント(0)
生活の発見誌の8月号に水谷啓二先生が、「純なる生の欲望」について説明されている。「純なる生の欲望」とは、他人の影響や社会の刺激などによって新たに作りだされた欲望ではなく、自分の内部から自然に発動してくるところの、純粋で本来的な欲望である。これについて、森田先生は次のように説明されている。「我々は自動車が欲しい、美人が獲たい、これは欲望ではあるが、純なるものではない。社会のいろいろの境遇に触れて、初めて起こるものである。・・・しかるに今、われわれの心に自然の発動する純な欲望というものは、文化生活におけるいろいろの誘惑の間に立ち、あるいは矛盾、錯誤の多い思想によっては、なかなか容易にこれを認めることができない。すなわち社会から隔離された孤独の境遇に身を置いてみた時、初めて自分自身から自然に発動して来る欲望というものがわかる。それはあたかも宝石が光に遭ってその麗光を放ち、草木が春に遭ってその力を発揮するようなものである」欲望といえば、物欲、所有欲、性欲、食欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲、出世欲、支配欲、権力欲、独占欲、自己顕示欲、完全欲、生存欲、安全志向欲、向上欲、発展欲、自己実現欲、承認欲、健康欲、知識欲、集団帰属欲などがすぐに思い浮かぶ。実に多くの欲望がうごめいている。人間には108の煩悩があるといわれるが、欲望の充足に向かって努力精進していくことが我々に課された宿命かもしれない。欲望が生まれてこないと、生きる意欲は湧いてこなくなる。問題はその中身である。自分のためだけ、今生きている人間だけのため、自分たちの地域のためだけ、自分の会社のためだけ、自国の国益のためだけの欲望を最大限に追及するようなやり方は問題だと思う。地球の温暖化、オゾン層の破壊、アマゾン川流域の森林破壊、酸性雨、公害、海洋汚染、核兵器開発、武力増強、国益をかけた経済戦争、資源の奪い合い、食料の奪い合いなどは、欲望が暴走しているとしか思えない。欲望の追及にあたっては、他人、他国、自然環境を窮地に追いやることは抑制しなければならない。一時はよい思いをするかもしれないが、長い目で見ると、その反動は必ずやってくる。最後には自分たちにいつかは惨禍が及ぶはずである。だから欲望の追及は、他人との共存共栄、自然循環の中での欲望の範囲に抑えるべきである。他者や自然を自分たちの過度な欲望充足させるために、自由に支配し、コントロールしようとしてはならないのだ。他人や自然からみれば、大変迷惑なことだ。争いが繰り返されることになる。つぎに自分の欲望の追及が50年先、100年先の子孫たちに安心と繁栄をもたらすものであるかどうかということも考えて行動する必要がある。例えば、原子力の平和利用は手軽で便利だといっても、一旦原発事故が起これば、その土地には50年も100年も住むことはできなくなる。放射能は出続けるのである。また使用済み核燃料の処理ができない状態で、原発を再稼働させることは将来に問題を先送りしているのである。子孫たちからしてみるとたまったものではないはずだ。チェルノブイリや福島の人たちが故郷を追いやられた状況をこのまま風化させてよいのだろうか。仮に帰れたとしても、そこでできた食べ物や魚を喜んで買ってくれる人はいないのである。プラスチックごみが海洋に散乱して、魚の消化器にはその破片やビニール袋のようなものが入っているという。今の人間の行っていることが、将来発展持続可能なものであるのか、あるいは閉塞状態に追い込むものなのか。そこに焦点を当てて欲望を制御していくことが必要である。水谷先生や森田先生は、表面的な欲望だけではなく、自分の内部から自然に発動してくる欲望に焦点をあてていく方法性を説明されている。現代社会では、それに加えて不安と欲望の調和をいかに取り持つのかが人間社会に突き付けられている時代であると思う。一刻の猶予もない時代に入っているのである。森田で学んだことは、社会に向かって発信していく必要があるのではないかと考えている。森田先生がもし今の時代に生きておられたら、人間の生き方、教育、子育て、人間関係、社会の在り方、自然との付き合い方などについて提言をされていたに違いない。
2019.09.09
コメント(0)
不安障害の克服に向けての行動療法がある。暴露療法、エクスポージャー療法などと呼ばれている。今日はこの対応と森田療法でいう「恐怖突入」の違いを検討してみたい。暴露療法では、まず患者の感じている不安や恐怖を特定する必要がある。電車に乗ると息苦しくなり、居ても立ってもおられないような精神状態になる。職場のすべての人間が自分に敵対しているようでとても苦しい、憂鬱である。ばい菌がついているのではと、吊革に触れることができない。などなど。一般的に言うと、全般性不安障害などは対象とならない。これが分かると、次にその不安や恐怖を軽減、除去するための行動に取り組む。暴露反応妨害法と呼ばれている。安易に危険を回避していると、不安はどんどん増悪していく。そこで、治療者や支援者のサポートのもとで、患者が不安や恐怖を感じている場所、状況、物に身を置いたり接したりする。不安階層表を作り、比較的実行しやすいものから初めて、次第に難度を上げていく。患者は、回避行動、安全確保行動、強迫行動をとらなくても、何も命にかかわるようなことが起こらなかったという体験を積み重ねる。不安に慣れることによって、不安が軽減して、普通の人と何ら変わらない行動がとれるようになるというものである。ここまでくれば治療は終了となる。その先は用意されていない。ここで特徴的なことは、患者固有の不安や恐怖の対象に絞っての対症療法であるという点である。不安や恐怖にとりつかれている人は、日常生活が不規則になり、毎日こなさなければならない日常茶飯事は家族に依存したり放置されているのが実情です。ところがこの療法では、そんなことは全く問題にしない。とにかくその人の当面の不安や恐怖がなくなれば、治療は成功のうちに幕引きとなるのである。この不安に対する対応方法は、森田理論とは月とすっぽんである。森田療法は不安はなくしてはいけない。不安は欲望の裏返しで発生しているものである。だから不安は本来なくすることはできないものである。なくそうとすれば徒労に終わるという立場をとっています。また不安は、欲望が暴走しないように制御するという重要な役割も持っている。不安があるからこそ大事に至らなかったということはたくさんあります。不安を根こそぎ退治してしまうという発想や考え方は、間違いだと考えているのです。不安とは、ちょっとおせっかいなことも言うが、貴重な助言をしてくれる先輩、頑固おやじ、親友のようなものです。尊敬と畏敬の気持ちを持ち、感謝しながら付き合うことをお勧めしているのです。不安と対立状態になって、喧嘩をしていては双方ともに、無駄なエネルギー、貴重な時間を浪費することになってしまいます。最後には精根疲れ果ててしまうでしょう。不安を親友と見るか、あるいは闘う敵と見るのか。ここがその後の展開を分けてしまう。不安や恐怖でいっぱいになったときは、黄色信号や赤信号が点灯した状態でです。そんな時は慎重に行動しなければならない。停止する。周囲の状況を十分に確認する。一時的に緊急避難をする。ここで肝心なことは、そんな危険なところには今後一切近づかないという態度ではない。あくまでも、目的地に到達するという欲望に向かって行動することを忘れないようにする。森田療法でいう恐怖突入というのは、不安はそのまま持ち続けたままにして、目の前のなすべき日常茶飯事に丁寧に取り組みなさいということなのだ。不安があっても、不安に直接闘いを挑むということではないのです。そうしていると、「靴がそろえば、心がそろう」「急がば回れ」という精神状態になるのだ。そうすれば不安はいつの間にか変化して、問題にはならなくなる場合が多い。不安の特徴や大切な役割が理解できれば当然そういうことになる。こうしてみると、人間性の真理に基づいた森田理論に一分の理があると判断せざるを得ないのである。
2019.09.08
コメント(0)
あなたは給料を「我慢の対価」ととらえていないでしょうか。「我慢して、労働時間を提供して、楽しくないことをして、つらい思いをするからこそ、お金がもらえる」ほとんどの人がそう思って仕事をしているけれども、この常識はおかしくないですか。仕事は人生の大半を構成している。だからこういう考え方を持っていると、人生は苦役となる。本来は「人生を楽しむために仕事がある」のに、「仕事=我慢」「お金=我慢の対価」なっているのは、おかしな話だ。だから納得できる生き方をしようと思うなら、仕事を遊びにすればいいじゃないか。遊んでいるのか、仕事をしているのか区別できない状態で、皆が幸せにお金を稼げる状態になればいいんじゃないか。(好きなことだけで生きていく 堀江貴文 ポプラ社 要旨引用)私の現役時代のことを考えてみると、まさに「仕事は我慢の対価」だとと思っていました。生活のための必要悪と考えていました。宝くじでも当たれば、仕事なんかやめて、好きなことをして生活をしたい。仕事は「イヤなことをやらされている」という気持ちが強く、やりがいはありませんでした。それに対人恐怖症なので、人が恐ろしく、防衛的な付き合いだったので、それが集団生活の足かせになっていました。実にもったいない時間を過ごしてしまいました。それでも定年近くまで持ったのは、森田に出合い、自助グループの温かい人間関係があったからです。それと、仕事以外に、その時々で打ち込める何かを常に持っていたからです。仕事という言葉は、「目の前のなすべきことに仕える」と書きます。日常生活の中で、気づき、関心、興味のあるものに、頭で考えて、積極的に手足を出して行動することです。弾みがついて、創意工夫が次々と生まれてくれば、どんどんモチュベーションは高まってきます。そこでは「こうしたい」という自分の意志と目的が一致しています。そしてもう一つ大切なことは、その仕事が何らかの点で、他の人の役に立っているということです。人の役に立たない仕事は、将来的には成り立たなくなるということになります。結果として、対価を得て自分の生活をより豊かで楽しいものにしてくれています。仕事には自分が好きなことに積極的にかかわることができ、それが進歩発展するもの。そして人様に何らかの貢献をしているものが必要だと思います。ここでは最初から給料ありきではありません。このどちらが欠けても、仕事としては片手落ちになります。こうしてみると、会社勤めの人よりは、比較的自営業の人のほうが本音と建前が一致している場合が多いのかもしれません。指示・命令による強制労働とは無縁だからです。しかし会社勤めの人も、仕事を遊び感覚で楽しむことはできます。それは仕事の中に問題点、課題、改善、工夫を見つけることです。それを何とかしたいというやる気や情熱が出てきた時、それはもう苦役を強いられているのではなく、主体的に行動できるようになっているのです。そのためには、森田理論でいう「ものそのものになりきる」という態度になることが大切です。それでも会社には数値目標・ノルマがあり、強制労働から完全に開放されることはなくならないと思います。ですから生活のすべてを会社に捧げるという気持ちよりも、会社以外の生活のバランスを整えていくというスタイルのほうをお勧めしたいと思います。私たちは苦しむために生まれてきたのではないと思います。人生をおおいに楽しむために生まれてきたのです。そうです。私たちは遊ぶために生まれてきたのだといっても過言ではないと思います。
2019.09.07
コメント(0)
集中するということを考えてみたいと思います。一般的には、一つのことだけを考えて他のことはシャットアウトすることだと思われています。雑念や余計なことにとらわれることがないので、容易に目的が達成できるように考えます。このような考え方は、一極集中の状態です。官庁や政治の東京への一極集中。会社での権限が社長へ集中している。などを思い出してもらえれば、一極集中の状態が分かりやすいと思います。一極集中することで、無駄を省き、スピーディな決断と実行が可能になるかもしれません。反面反対意見が無視されることで、取り返しのつかない事態に陥らないとも限りません。これに対して別の集中もあります。拡散集中とでも言えばよいのでしょうか。あらゆる状況をキャッチしながら、かつ目的に向かって集中している状態です。たとえば、サッカーの中田英寿選手。彼はプレーしながら終始首を左右に振っている。今敵がどこにいて味方がどこにいるのか、パッパッと見ながら常に状況をキャッチしているのです。だからボールが来た時には即、動きがとれる。もしボールだけに一極集中している状態だとすれば、こういうことはできません。(「打たれ強さ」の秘密 岡本正善 青春出版社 137ページ参照)森田理論では、一極集中を目指しているのではなく、拡散集中の態度をお勧めしています。森田先生は講義をしているときの心持ちについて次のように説明されています。私の注意がどのように拡散集中しているかというと、1、自分の挙手動作に集中する。躓いたりコップをひっくり返したりしないように注意するのである。2、みなさんの状況、周囲の変化、すなわちある人が聞きたそうな顔をしているとか、後から出入りする人、戸外の自動車の響きなどにも、これをよく感じ分けられるようにしている。3、自分の話の筋道を工夫している。拡散集中の状態は、いろんなことに気がついて精神緊張状態になる。この四方八方に心が散った有様が、禅のいわゆる無所住心であって、周囲のすべてのことに気がついて、しかも何事にも心が固着しないで、水が流れるがごとく心が自由自在に流転適応していく有様である。あたかも明鏡に物の映るがごとく、くるものは明らかに映り、去れば直ちに影をとどめないという風である。
2019.09.06
コメント(0)
森田先生の言葉に、「練習より実際に当たれ」という言葉がある。スポーツや楽器をされている方は、違和感を感じる方がおられるのではなかろうか。この言葉は練習の効果を軽視しているように感じるからである。私は老人ホームの慰問活動で、アルトサックスを吹いている。曲目は早いときで半月前には決まる。大体定番曲意外に5~6曲ぐらいある。私は曲目が決まると、本番前に50回は練習するように心がけている。手が勝手に動き、暗譜でもほぼ90%くらいは問題なく吹けるのだが、機械的に50回は必ず練習するようにしている。するとどんなことが起きるのか。本番になると、「うまく吹けるだろうか」という不安、プレッシャは必ず出てくる。これは精神拮抗作用といわれているものだ。防ぎようがない。その時、この反復練習が活きてくる。徹底的に練習を繰り返していると、「あれだけ徹底的に練習したんだ。大丈夫だよ」という根拠のない自信のようなものが出てくるのだ。それに支えられているだけで、精神的には随分楽になるものだ。一流のプロ野球の選手が言っていた「練習は嘘をつかない。一流選手は見えないところで猛練習をしている」という言葉を信じている。それでは森田先生の言われていることは意味のないことなのか。そうではない。これを説明してみたい。森田先生のところに入院してくる人は、経済的にも恵まれ、日本を背負って立つ気概にあふれていた人たちだった。一般庶民はほとんどいなかったということだ。大体1日4万円という入院費を払える一般庶民がそんなにいたとは思えない。それは形外先生言行録に原稿を寄せてくれた人の、職業を見てみると容易に想像がつく。論説委員、医者、大会社の社長、取締や役員、官僚、士業、成功した自営業者、大学などの教育関係者、弁護士、外交官、軍人などそれぞれの道で日本の牽引車となっていった人たちであった。その人たちの特徴は、一言でいうと「東京で成功したい。大都会で一旗揚げて、故郷に錦を飾りたい」という気持ちが強かった。いわゆる立身出世を夢見ている人が多かったのである。そういう人が、森田先生のところで、下肥の汲み取りをやらされる。猿やニワトリ、兎の世話をさせられる。あるいは、掃除をさせられる。飯炊きをさせられる。野菜市場に行って、その辺に落ちている野菜くずを拾えといわれる。高い入院費をとってなぜお手伝いさんがやるような雑用をさせるのだと反発する人もいたのである。また入院生の中には、「自分はここまで落ちぶれてしまったかと、涙が出てきた」という人もいた。つまり、こんな仕事や日常茶飯事のつまらない、価値のないことは自分の取り組むべき課題ではない。私は、もっと価値のある、クリエイティブで多くの人から賞賛されるような仕事に取り組むようなステータスの高い人間なのだという自負というか変なプライドが強かったのである。「かくあるべし」が強くて、鼻持ちならない人が多かった。それが神経症の原因となっていたということです。森田先生の指導は、そのような価値観を粉々に砕いていったということです。森田先生は、「風呂焚きをするときは風呂焚きになりきれ、飯を炊くときは飯炊きになりきれ」と徹底指導されたのは、自分のやることなすことに是非善悪の価値判断を持ち込むなということを言いたかったのです。目の前の課題や問題点、日常茶飯事に精魂を込めて取り組みなさい。練習の時のような逃げ道のある気持ちを捨てて、一心不乱にものそのものになりきって取り組みなさい。是非善悪の価値判断は、「かくあるべし」を強固にして、現実との乖離に苦しむようになるのですよと伝えたかったのだと思います。入院中にそのことに気づいた人は、その後の人生が大きく花開いています。
2019.09.05
コメント(0)
今日は学習する習慣をいかに作り上げていくか考えてみよう。社会保険労務士試験という国家資格がある。2018年11月に行われた試験の合格率は6.3%だった。私が合格した年も同じようなものだった。かなりの狭き門である。受験校の先生によると、合格するためには1000時間が必要だといわれる。1年間毎日1時間勉強したとして、3年間かかる試験である。勉強する習慣作りができないと、とてもではないが合格にはおぼつかない。特に1年目で不合格になると、多くの人が挑戦する意欲をなくする。2年目不合格になると、自分の能力の限界を感じるようになる。そして試験の言葉を聞いただけで、不快な気持ちになる。私はこの試験に挑戦する人は、一番合格者を輩出ている受験専門校に入学することが必須だと思っている。自分一人では夢をかなえることはほぼ無理だと思う。他人の力を借りることだ。受験専門校はノウハウをいろいろと蓄積している。学習のやり方も教えてくれる。試験の取り組み方も教えてくれる。今年試験に出そうなポイントも知っている。特に厚生白書、労働白書からも問題が出るが、素人ではどこから問題が作られるかは全く見当がつかない。闇夜で飛ぶ鳥を撃つような徒労に陥りやすい。これをほぼ的確に教えてくれる。また学習仲間がいる。その人たちと切磋琢磨して学習意欲をかき立てることもできる。これを抜きにして挑戦することは、軽装で冬山登山を決行するようなものだ。まず挫折しやすいのは、学習の習慣ができるまでにあきらめてしまうことだ。これは目標を設定していない場合に起こりやすい。1年での合格を目指す場合は、一日3時間である。これを日々どのように確保していくのか。たとえば、朝早く起きて1時間30分。仕事をしている人は昼休憩に30分。そして帰宅してから1時間の時間配分を行う。朝早くというのは一番頭がさえている時間だと思う。早朝に学習時間を確保しない人は、とてもハードルが高くなる。学習プログラムや学習方法は、自分で悩まないことだ。信頼できる受験専門校を選んでいるのだから、全面的に任せてしまうほうがよい。指導してくれる先生の言う通りに、学習していく。何とかついていくといった感じだ。ついていければ合格の確率は少なくとも40パーセント台には高まると思っている。仮に1年目で不合格になっても、2年目は70パーセント台には高まるだろう。私の時は先生が、テキストはすべて分解してファイルに閉じてしまうように言われた。テキストの間にテストで勉強した問題や法令集のコピーを挟みこんでいく。私は素直に先生の言う通りにした。後でこのファイルは宝物になった。私の先生は、自宅にファックスで問題を送ってきて、回答して送り返すように指示があった。講義は録音して、細切れ時間や出勤時に聴くように指導された。1週間に1回行われるテストは刺激になった。全部で70人ぐらいの受講者がいた。その試験結果が廊下に張り出される。そこで上位に名前があると、とてもモチュベーションが高まるのである。私は学習の習慣つくりには、よき指導者に巡り合うことがとても大事だと思う。これは森田理論学習でもいえることだ。集談会の枠を超えてでも、よき先輩を見つけて、身近に接することは重要だ。一回お会いして話をするだけで、2回、3回と集談会に参加した以上の価値がある。それが支部研修会の学習や交流の場にはあるのである。そしてもう一つ言いたいのは、学習仲間との切磋琢磨である。刺激を与えあいながら、お互いが成長していける仕組み作りが大切である。そういう意味では実践・体験の実演や説明が集談会のプログラムの中に取り入れられているかどうかは重要である。私はこれを「生活森田・応用森田」と呼んでいる。これはぜひプログラムとして定着してほしい。刺激を与え続けていると、それを自分の生活に取り入れようとする人が出てくるのである。自他ともに成長していける足がかりが築けるのである。
2019.09.04
コメント(0)
今日は貯金を貯める習慣つくりについて考えてみたい。独身の人の場合で考えてみよう。・一日2000円以内で生活する。・電気代を3500円以内に節約する。・飲み会はすべて断る。・ネットゲームは止める。・家計簿をつける。・貯金を2万円はする。このような目標を立てるとスタート時点で失敗する可能性が強くなる。その理由は、節約して貯金を貯めることと家計簿をつけることの2つの目標に同時に取り組んでいる。二頭を追うものは一頭も得ずになりやすい。節約のルールが複雑である。今回は例えば一日2000円で生活するに絞ってチャレンジしてみましょう。まず反発期(1日から7日)の過ごし方。仕事の合間にコンビニで買っていたコーヒー、ジュース、お菓子を止めます。水分補給は水筒を持参します。あるいはペットボトルに麦茶を入れて持参します。家計簿の代わりに朝財布にあったお金と夕方あるお金を記録します。不安定期(8日から21日)の過ごし方。パターン化する。朝食代300円、昼食代700円、夕食代600円とする。例外ルールを作る。たまにある飲み会は別予算とする。使いすぎたら1週間のうちで調整をする。継続スイッチをセットする。財布の中には2000円しか入れない。贅沢デーとして、週一回は2000円のランチにする。1か月後、3か月後、1年後の節約効果を試算してみる。倦怠期の対策節約できた日は、300円を貯金箱に入れる。予算オーバーした翌週は、月曜日と火曜日は自炊とする。週に1回は弁当にする。3食1000円で済む豪華な食事のレシピ集を作ってみる。これを週に3日間実践するだけで、随分節約ができるようになるでしょう。次の習慣つくりとして、パソコンの表計算を利用した家計簿作る。節約の習慣をつけるには1か月をめどに取り組みます。反発期の取り組みが大事です。シンプルで無理のない取り組みから始めましょう。そのうち弾みがついて来れば儲けものです。このようにしてよい習慣をどんどん増やしていきたいものです。(「続ける」習慣 古川武士 日本実業出版 177ページ参照)
2019.09.04
コメント(0)
ダイエットしたいと考えている人がおられると思います。今までにダイエットに取り組んでみたものの、リバウンドを経験した人もいらっしゃるかもしれません。どうしたらダイエットが習慣化できるのでしょうか。しかもリバウンドしない体質に切り替えることができたら最高ですね。ダイエットに取り組んでいる人を見ると、最初から目いっぱい食事制限をしています。それに加えてジムに行ったり、マラソンやウォーキングも並行して行っています。意気込みはとても素晴らしいです。それが習慣化できれば何もいうことはありません。しかし、これはあまりお勧めできません。2つのことを同時進行しているのが問題です。むしろ食事制限なら食事制限だけに取り組むべきです。なぜなら習慣化するときに、人間には無意識のうちに、恒常性維持機能(ホメオスタシス)が働き、習慣化を止めさせようとするのです。その働きはとても手ごわいのです。ですから最初からあまりにもハードルを高くしては挫折してしまうのです。最初の3週間の取り組みは次のようなものでどうでしょうか。たとえば最終目標カロリーを1日2000キロカロリーに設定する。(必要カロリーは性別、年代、普段の生活状態などで違います。ここでは一つの例として取り上げています。)その中で自分が夕食に重点を置いた食事をしていたとします。その場合は、夕食を1000キロカロリー以内に抑えることを目標にする。あまりハードルを上げないために、朝と昼は自由にする。1000キロカロリーに抑えるためには、カロリー計算をする必要があります。カロリー表示がある食材は記録をとります。表示がない場合は、カロリーブックで大体の数字を出します。これを実施すると、今までの食事がいかに高カロリー食だったか分かるようになります。体重計の前にその記録用紙を備えつけておくことです。次は4週間目から7週間目の取り組みです。今までの慣らし運転から、少しだけステップアップしていくのです。決して無理は禁物です。4週と5週目は、例えば総カロリーを2500キロカロリーに設定する。6週と7週目は、例えば2300キロカロリーに設定する。徐々に減らしていくのです。次に食事時間を規則正しくする。たとえば朝7時、昼12時、夜7時にとるようにする。間食はできる限り我慢しましよう。例外規定を設けておくも大事です。友達との飲み会は別枠とする。休日はプラス200キロカロリーはOKとするなどです。そして刺激を与えるためにアメとムチの法則を利用する。6か月で5キロ減の目標を立てる。理想とする俳優や歌手のポスターを貼っておく。300キロカロリーオーバーした日は、罰として30分のジョギングを課す。飲み会はアルコールと同等の水を交互に飲むようにする。飲むペースを人より遅らせる。安定期に入った8週から10週目の取り組みです。最終目標の2000キロカロリーは何が何でも守る。記録をつける。体重の推移をグラフにしてみる。他人に自分の体型の変化を聞いてみる。ダイエットに取り組みたいと思っている仲間に一緒にやらないかと声をかけてみる。倦怠期の対策。変化をつける。例えば2000キロカロリーのレシピ集を作り、実際に作ってみる。体重が10キロ減った時に着ることができる、高級なジィーンズなどを購入して、壁に飾っておく。次の運動をする習慣作りの案を練っておく。ダイエットに取り組みたい方は、ぜひお試しください。決して無理のない範囲で、ぜひともよい習慣を身につけてください。無理して取り組んでも、その反動が怖いです。
2019.09.03
コメント(0)
今日は家の中が本や雑誌、新聞、衣類、食器、小物などが散乱していて足の踏み場がない。なんとか片づけの習慣を身に着けたいという方にその手順を説明してみましょう。(「続ける」習慣 古川武士 日本実業出版 164ページ参照)まず新しくよい生活習慣を身につけるためには、最初が肝心です。最初は片づけの習慣を身につけようと思っても、42%の人は1週間以内に挫折します。それは人間に備わっている恒常性維持機能(ホメオスタシス)が、新しい挑戦を止めさせようと作用するからです。新しいことに挑戦する場合、これが厄介なのです。ロケットが地球の引力に対抗して宇宙空間に飛び立つのに、ものすごいエネルギーが必要になりますが、新しい生活習慣を身につけるためにも同等のエネルギーが必要になります。そんなに大変なことなら、最初から片づけに挑戦することをあきらめてしまう人がいるかもしれません。また神経質性格の人は、完全欲が強く、頭の中で納得してから取り掛かろうとする傾向があります。動くまでに時間がかかり、動きだしてからは、徹底的にやろうとしますので、疲れ果ててしまいすぐに挫折してしまうのです。そこで、最初の1週間はは5分間だけ片付ける時間を作って試しにやってみる。時間が来たら打ち切る。こだわっていつまでもやらないことです。古川さんはこのことを「ベビーステップ」といわれています。始める前は、5分間だけなんて何の効果もないと思われるかもしれません。でもやってみると意外に片づくことに気づくことでしょう。ここでもう一つやるべきことがあります。やったかやらなかったかチェックをつけることです。カレンダーや日記にやったら○、やらなかったら×をつけるだけで十分です。これだけです。これを1週間繰り返すのです。ここでは時間帯を決めずに、好きな時間に手をつけるで十分です。次に不安定期がやってきます。8日目~21日までです。この時期は、片付けをパターン化するのです。またレベルを少し上げます。毎日同じ時間に片づけるようにする。時間は15分にする。そして、例外ルールを作る。仕事で疲れたとき残業で時間がとれないときは、朝5分だけにする。あるいは、決めた時間以外の時に行うのもOKとする。できない自分を責める必要はありません。次に、継続スイッチをセットする。タイマーをセットしておく。服を着替える。終わったらご褒美にコーヒーを1杯飲むことにする。片付け時間には、好きな音楽を聴きながらおこなう。好きなカラオケを歌いながらおこなう。最後に倦怠期がやって来ます。22日~30日目です。マンネリになって意欲が湧かなくなってくるのです。変化を加えて単調にならない工夫をすることが欠かせません。たとえば、週に1回不用品を捨てる日を設ける。子供夫婦や孫を招待する。友達を招待してパーティを企画する。このように生活習慣を変えて新しい習慣を身につけるには、約1か月かかるそうです。片付けの苦手な人で、挑戦する意欲のある人はぜひ取り組んでみてください。そうすると、片づける意欲が高まること間違いなしです。
2019.09.02
コメント(0)
アリストテレスの言葉に次のようなものがある。人は習慣によってつくられる。優れた結果は、一時的な行動ではなく習慣から生まれる。例えば私の場合は、こんな習慣で動いている。朝6時40分に目覚ましで起きる。布団をたたんで納める。パソコンを立ち上げる。ブログで今日投稿した原稿と明日投稿する原稿をチェックする。1か月先の投稿原稿を一つ作る。どじょう掬いとしばてん踊りの稽古をする。私の人生指針を読みあげる。ニンジンリンゴジュースとヨーグルトを飲む。顔を洗って歯を磨く。トイレを済ませる。仕事着に着替える。8時20分には家を出て仕事に出かける。・・・・・。このような習慣が夜寝るまで1年間、ほぼ毎日、毎日繰り返されているのです。これらは特に意識して行っているわけではありません。自然に習慣として身についており、考えたり努力をしなくても、無理なく簡単にできています。みなさんも多くの習慣をもとにして行動し、生活が滞りなく進展していることと思います。人間の行動の95%はあなた自身の習慣によって決まっているといっても過言ではありません。心理学でも、人の行動の95%は無意識によるものであるといわれており、無意識のほとんどは習慣によってできているのです。この時に脳の仕組みはどうなっているのか。脳は、一定期間毎日繰り返された行動が習慣になると、無意識のうちに繰り返すようにプログラムを作り上げているのです。ですから、よい習慣でも、悪い習慣でも一旦プログラムされてしまうと、意識していないのに勝手に体が反応してしまうという現象が起きるのです。そうならないで、いちいち前頭前野がしゃしゃり出て意識的な思考を繰り返していては、疲れ果ててしまいますし、生活が滞ることになります。ですから無意識のうちに作られた習慣は、毎日の生活を前進するために大いに役に立っているということです。ただし習慣にはよい習慣と悪い習慣があります。皆さんの中には、よい習慣を自分の中にたくさん作り上げたいと思われている人も多いことと思います。たとえば、後片付け、整理整頓、ダイエット、貯蓄、ヨガ、マインドフルネス、ウォーキング、水泳、読書、日記、家計簿、自己啓発、学習、稽古、メルマガ、一人一芸、早起き、禁煙などいろいろとあるかもしれません。よい習慣を作り上げると、自分の生活を豊かにし、健康体を維持することができます。また周囲の人に刺激を与え、好影響をもたらします。イチロー選手は、「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところに到達するただ一つの道だと思う」と言いました。イチロー選手は、練習メニューも日々の生活リズムも規則正しく習慣化されていました。習慣化という面では、日本人が生んだ最高傑作のひとつにあげられると思います。しかしこのよい習慣を身に着けることはいくつものハードルがあります。明日からはそれを乗り越えてよい習慣をものにするための方法について紹介します。(「続ける」習慣 古川武士 日本実業出版社 参照、引用)
2019.09.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1


