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先ほどWBO世界スーパーフライ級の試合を見た。世界チャンピオン井岡一翔と同級一位のジェイピエール・シントロンの対戦だった。力が拮抗していて面白い試合だった。井岡選手は、試合後今までで一番プレッシャーを感じていたと語っていた。体重はほとんど差がなかったが、身長で5.5センチ挑戦者が上回っていた。さらに両手を広げたリーチでは、12センチも相手が上回っていた。井岡167センチに対して、挑戦者179センチだった。この差は大きすぎるのではないかと見ていた。挑戦者は2012年ロンドンオリンピック、2016年リオオリンピックのチャンピオンである。さらにプロになって今まで無敗であった。どう見ても井岡選手の方が分が悪いとみていた。ところが、結果は判定に持ち込まれたが3対0で井岡が勝った。私はこの試合を見ていて感じたことがある。リーチが強いということは、離れて打ち合いをすれば井岡選手のパンチは挑戦者に当たらない。そこで井岡選手は常に相手の懐深く飛び込む作戦をとっていた。当然激しいバンチを受ける確率は強くなる。それよりもメリットの方が大きいのだ。相手にとっては、常に井岡選手と接近して打ち合うと、リーチの長い事がむしろ不利になってしまうのだ。これは挑戦者にとっては思いもしないことだったのだろう。相手の力が最大限に井岡選手にダメージを与えるのは、離れて打ち合っているときである。その時は腕が延びて最大限の力が加わる。さらに井岡選手のバンチは届かない。ところが接近戦に持ち込まれては、腕が伸びきっていないので、十分な力が出し切れないのだ。つまり挑戦者のリーチが長いという長所が、むしろ力を弱めてしまうという結果をもたらしていたのだ。反対にリーチの短い井岡選手は、相手の懐に飛び込んで、短所を逆手に取って一挙に長所に変えてしまったのだ。無敗を誇った挑戦者が防戦一辺倒だったので、安心して観戦することができた。この話は我々に勇気を与える。長所は一瞬のうちに短所へと変身してしまうのだ。反対に短所は見方を変えれば、とてつもない強みを発揮するのである。長所にしろ短所にしろ、自分の持ち味を発揮することに専念すればよいのだと思う。年末によい試合をみせてもらいました。それではみなさまもよいお年をお迎えください。
2019.12.31
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今日は事実を見る場合の4つの視点の話をしてみたい。1、事実にはまず様々な感情が自然発生的に湧き上がってくるというものがある。不安、恐怖、違和感、不快感などである。その他にも嫉妬、悲観することなどもある。億劫だ、やる気が湧かない、気が重いなどという気持ちになることもある。神経症に陥ると、不快な感情をことさら問題視して、それらを取り除いたり、逃げ回っています。あるいは気分本位が独り歩きして、人に依存して何もしないということも起こります。森田理論では、このやり方では精神交互作用が起きて、症状はますます悪化するといわれています。この方面の事実の学習はみなさんとても詳しくなっておられるのではないでしょうか。ただ事実の学習としては偏りすぎているのではないでしょうか。もっと視点を広げて考えてみる必要がありそうです。私が指摘したい事実について説明していきます。2、人それぞれ自分に与えられた素質、容姿、性格、能力、境遇などがあります。また自分が行動した結果として、ミスや失敗を引き起こしてしまうこともあります。人様に迷惑や損害を与えてしまうこともあります。これらの事実や現状に対して、どう対応しているでしょうか。人と比較してもよいと思いますが、事実を正しく認識して、事実を出発点にして対応しているでしょうか。それとも優越感や劣等感に陥り、自己顕示欲や自己否定の原因を作っていることはないでしょうか。3、次に他人を見た場合、人それぞれに与えられた素質、容姿、性格、能力、境遇などがあります。また他人が行動した結果として、ミスや失敗を引き起こしてしまうこともあります。他人が理不尽なことを私たちに押し付けてくるような場合もあります。自分に対して取り返しのつかない迷惑や損害を与えてくることもあります。他人の言動に対して、価値評価しないで、事実を事実のままに認めて受けいれているでしょうか。それとも「かくあるべし」を持ちだして、他人の存在、素質、容姿、性格、能力、境遇などを否定してしまうことはないでしょうか。他人の犯したミスや失敗に対しては、寛大な目で許してあげているでしょうか。むしろ法外な要求を押し付けて過大な責任をとらせようとすることはないでしょうか。4、最後に、地震や風水害などの自然災害、伝染病や食中毒、金融危機、経済変動、紛争などに見舞われることは日常茶飯事です。これらの事態に対しては、可能な限り日ごろから十分な対策を立てておくことが必要です。にもかかわらず、突然に私たちに襲い掛かってくるものばかりです。理不尽で納得できないことばかりです。良寛さんは、大地震に見舞われたとき、「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と言われています。我々凡事にはとてもそんな気持ちにはなれません。でもこういう理不尽な出来事に遭遇する可能性が非常に高い中で、生活していることを忘れてはならないと思います。以上4つの事実について述べてきました。神経症の蟻地獄に陥っているときは、感情の事実に振り回されていることと思います。しかし事実全般を取り扱おうとすると、他の3つにも広げて考える必要があると思います。4つの事実に対して、適切な対応がとれるようになれば、生き方が変わってくるものと思います。事実のアウトラインが分かるだけでも、明るい光が見えてくるように思います。感情の事実だけでなく他の3つの事実に対しても、「あるがまま」の対応ができるようになると、楽な生き方に変わっていきます。
2019.12.31
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昨日は気分本位の弊害について考えてみました。今日は理知本位の弊害について考えてみましょう。人間は言葉を使います。言葉を使って過去のことや未来のことに思いを馳せます。また論理的なこと抽象的なこともどんどん膨らませて思考するという特徴があります。そのうち言葉を使い頭の中で考えたこと、観念、思想を事実と取り違えてしまうことが起きます。また事実や現実を軽視して、観念や思考を優先して先入観や決めつけで行動するようになります。その態度は森田理論では「かくあるべし」の弊害と見ています。神経症の発症には事実や現実を軽視して、理知本位の生活態度が大きく絡んでいるとみているのです。したがって、事実本位、物事本位の生活態度に改めることができたならば、神経症はたちまち霧散霧消してしまうものなのです。理知本位は、地図を見て理解したことを、現地そのものと思いこんでしまうようなものです。地図は地形などの大まかなことは分かります。位置関係も分かります。進むべき進路はおおよそ見当がつきます。しかし、現地そのものではありません。現地に足を運んでみると、地図では分からなかった多くのことに気づきます。ですから地図で大まかに把握した段階は、初歩的な認知にすぎないと自覚する必要があります。実際に現地に足を運んで、自分の目で確かめることが不可欠なのです。そして地図よりは現地の状況に沿って対策を考えてみる必要があるのです。現地に行ってみれば過酷な自然条件だった。寒すぎる、熱すぎる、風雨が激しすぎる。冬は曇天の日が続く。毎年台風が来る。真砂土で土砂災害が起こる。草も生えない不毛の土地だった。昔は墓地だったところだった。活断層があり地震のときに被害を受けやすいところだった。獰猛な野生動物が多数生息しているところだった。沼地でとても歩けるような場所ではなかった。もしそんな土地を安いからと言って、地図だけを頼りに買ってしまったとしたら、後で後悔することになります。言葉、観念、思考よりは事実、現実を優先する態度がとても大切だということです。事実や現実を優先する生活態度に変えるためにはどうすればよいのか。まず森田理論学習で、かくあるべしの発生と苦悩の始まりについてよく学習することです。実際には、できる限り事実に寄り添い、観察することです。それを基にして、行動することです。他人に話す、日記を書く場合も事実を基にすることです。抽象的ではなく、具体的な事実を取り扱うことが大切です。また隠しごとや言い訳、ごまかしなどはご法度です。掴んだ事実に対して、安易に是非善悪の価値判断は慎む必要があります。事実だけを淡々と積み重ねることで、おのずと方向性は見えてくるようになります。その他森田理論を学習していると、「純な心」の体得、「私メッセージ」の活用などが出てきます。これらは、「かくあるべし」から事実本位の生活態度に近づくための強力な手法となります。是非ものにしていただきたいと思います。さて神経症に悩んでいるときには、事実には不安や不快感などの感情の事実のことを思い浮かべることが多いと思います。事実にはそれ以外にもたくさんあります。私は事実を4つに分けて考えるようにしています。明日は事実の中身について投稿したいと思います。
2019.12.30
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冬の時期、ベランダに色とりどりの花が咲いていると癒されますね。
2019.12.29
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森田理論では、気分本位の生活態度は弊害だらけであると指摘しています。気が重い、億劫だ、やる気がしない、楽をしたい、現状維持に甘んじる、無駄なエネルギーを使いたくない。こういう気持ちを優先して目の前のやるべきことを放棄する態度のことを気分本位と言います。こういう生活態度は依存体質になってしまいます。自立して生きていくことが難しくなります。そしていつまで経っても生きがいを持つことができなくなってしまいます。次から次へと目の前に立ちはだかっている課題や問題点に、いくら気持ちがついていかなくても、ボツボツとイヤイヤ仕方なしに手をつけていくことが大変重要です。そんないい加減な気持ちでやると、手掛けたことは中途半端ででたらめになるかもしれない。今までにそういう経験を積み重ねてきた人は多いと思います。これは顕在意識の部分では「やらなくてはいけない」と思っても、潜在意識が足を引っ張っているのです。いつも潜在意識の方が顕在意識をリードしていますからそういう結果を呼び寄せてしまうのです。しかし、もう一方の側面を忘れてはなりません。ボツボツとイヤイヤ仕方なしに手をつけていくうちに、その気分本位の気持ちに変化が生じてくるという側面です。たとえば、読書をしていても最初の50ページぐらいはとてもしんどいです。本の内容によっては、眠くなったりもします。そこで読書を中止してしまうこともあります。ところがよい内容の本にあたると、ついつりこまれて、眠気も吹っ飛び、集中して無我夢中になっている自分を発見したりします。最初は気がのらなかったのに、我慢して読んでいるうちに、弾みがついてきたのです。気分本位になって、途中で投げてしまわないでよかったという体験をすることができます。土曜日や日曜日を過ごした後の月曜日は誰でも憂鬱になります。そこで仮病を使って有給休暇をとってしまうこともあります。私もありました。まさに気分本位の態度です。でもパジャマのままだらだらとそのまま寝ていても、気分はよくなりません。それどころか不快な気分を持ちこしているので、火曜日に出勤するあたっては、さらに不快な気分に押しつぶされるようになってしまいます。ずる休みしてしまった。同僚に迷惑をかけてしまったという自己嫌悪の気持ちでたまらなくなってきます。他の人も月曜日にはそういう気持ちになっているのですが、気分本位を打破して、イヤイヤ仕方なく出勤してきたのです。そうすると、午前中ぐらいはどうも調子が上がらない。ところが昼ごはんを食べた午後ぐらいになると、エンジンがかかり始める。火曜日ぐらいにはだいぶ仕事のほうに順応している。ところがずる休みをしていた人は、みんなと同じような月曜日を過ごしていないわけです。自分一人だけ、火曜日になって月曜日の不快な時間を過ごすことになるのです。当然同僚たちとは波長が合いません。最初からリズムがずれているのです。これを回避するためには、月曜日にイヤイヤ仕方なしに準備をして出勤することなのです。決して気分本位の気持ちに合わせてしまってはいけないのです。気分本位の気持ちは誰にでも湧き起こってきます。それに追随することのメリットは、ほんの一瞬だけです。後に長く残るのは、自己嫌悪と後悔だけになります。森田では気分本位の生活態度は真っ先に改める必要があると考えています。森田先生はこの態度が身について時が小学校卒業程度であると説明されています。今でいえば中学校卒業程度でしょう。明日は理知本位の生活態度の誤りについて考えてみたいと思います。これが理解でき、実践できるようになったときが中学卒業程度であると森田先生は言われています。今の時代でいえば、高校や大学卒業程度になると思われます。その二つの誤りを理解して、物事本位、事実本位の生活態度を身につけたとき、あなたの人生は光り輝くものとなるでしょう。
2019.12.29
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これは中国の禅僧雲門の言葉である。森田療法ではこの言葉は治療の場でよく使用されていたようである。「ひびこうじつ」ではなく、「にちにちこれこうじつ」と読むのが正しいそうだ。これは毎日毎日がよい日だということではありません。毎日毎日をよい日にしようという強い意志が包含された言葉である。人間、生きていくのに苦労はつきものである。人生に希望がなければ苦しみもない代わりに、喜びもない。人生に強い希望を持てば、苦難も多いし、またそれを克服したときの喜びも多い。気分だけをとり出してみると、毎日毎日が、よい日でありえようはずがないのである。しかし行動面をとり出してみれば、気分とかかわりなく、その日、その日を充実させることは可能である。仕事・勉強で充実した日が送られればよい日であるとし、そうでない日は悪い日と想定すれば、自分の努力によって、毎日をよい日にすることができます。(生活の発見誌 1996年1月号 大原健士郎 12ページより引用)我々人間は誰でも素晴らしい人生にしたいという気持ちを持っている。でもしんどいことはしたくない、楽をしたい、現状維持でよいなどという気分本位に翻弄されてしまう。その方向に進むと、「日々是好日」とはならない。イヤイヤ仕方なしに実践・行動に舵を切れば、そのうち状況は様々に変わっていく。振り返ってみれば「日々是好日」を味わうことができるのである。
2019.12.28
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先日の集談会で対人恐怖症はどういう風に治ったのですかという質問を受けた。「治らずして治った」と答えた。その理由を説明してみたい。私は子供のころ父親が私のやることなすことを否定して育てていたので、他人は恐ろしいものだという強迫観念が出来上がってしまった。人の輪の中にいることは苦痛以外の何物でもなかった。一人で好きなことをして過ごすとほうが精神的に楽だった。しかし反面、他人から大きなことをして評価されたいという欲望は相当強いものがあった。こういう状態で社会の荒波の中に入っていった。当然適応不安が強かったのです。自己防衛中心の生活は、針の筵に座っているようで、死んでしまいたいほど苦しかったのです。社会に出て15年ぐらいしてやっと森田理論に出合いました。1年間は、森田理論の学習と集談会の先輩が教えてくれたことに真剣に取り組みました。実践課題や気もついたことをメモして丁寧に取り組んだのです。成果は1年ぐらいですぐに出てきました。会社の中での雑仕事の取り組みで、上司や同僚から評価されることが多くなってきました。賞与の支給や昇進に反映されました。仕事に対する自信が自分を支えていました。生活面においても活動的になり、森田のおかげて大きく改善できました。ただこの時点では、人が恐ろしいという対人恐怖症は手付かずでした。依然として人前ではビクビクハラハラして精神的には苦痛だったのです。それは驚くことに、少なからず定年退職まで続きました。今思えば小さいときに植え付けられた対人恐怖症は、死ぬまで治らないのではないかと思っています。では治ってはいないのではないかという質問が聞こえてくるようです。それでも私は対人恐怖症は治ったと宣言したいのです。それは人間関係に振り回されて疲れ果てるということがなくなった。また、すぐに人間関係を避けて逃げ回るということもなくなった。とても気になるが、生活面への悪影響がほとんどなくなったことを持って治ったと言っているのです。それよりも人と付き合う楽しみもたくさん経験できた。私のやり方は対人関係を絶って孤立することではありません。むしろ薄くて幅広い人間関係作りを増やしていくやり方です。森田学習で分かったことは、人間関係はすべての人と親密な人間関係を築く必要はないということがよく分かりました。特に仕事や学校以外の人間関係が希薄であるというのは大変危険です。普通の人間関係は、必要に応じて必要なだけの付き合いで構わないのだということで楽になりました。森田でいう不即不離の人間関係を心がけたのです。仕事だけの人間関係だけではなく、家族、親戚、友達、集談会関係、趣味、一人一芸を目指している仲間、園芸や家庭菜園の仲間、カラオケ仲間、飲み仲間、麻雀仲間、プロ野球の応援仲間、町内会、資格試験を目指す仲間、同級生、ボランティア仲間など頻繁ではないが幅広い付き合いを心がけました。どれも薄くて広い人間関係です。利害関係がからむのは仕事関係の付き合いだけです。その時、その場で付き合う人がどんどん変わっていくイメージです。その結果、利害関係の大きい仕事関係ではつらいことが多かったのですが、それ以外の分野では楽しい付き合いができました。時には苦しいときに相談に乗ってもらったり、助けてもらいました。適材適所の人間関係を築いてきたのです。精神的には集談会の仲間に助けてもらいました。仕事の人間関係で苦しくてとらわれても、比較的早く気持ちを切り替えることができたのです。そんな感じでなんとか定年まで苦手な対人関係で大崩れしなかったのかもしれません。会社ではあたらずさわらずの、のらりくらりの人間関係でした。対人恐怖症の人は、すっきりと治したいと思っておられるかもしれません。私の経験ではそれは無理なのではないかと思います。芯のようなものは最後まで残ると思います。そこをなんとかしたいと格闘することは、神経症が治るどころか益々増悪するばかりとなります。交際範囲を広げることを心がけて生活することで、特定の人に振り回されることなく、人生を全うする道もあるということを森田で学んでほしいと思います。気になる人はあたらずさわらず、最低限の付き合いで済ませることが大事です。これが私の治らずして治ったということの中身です。すっきりとは治らないが、この程度しか治りようがないと感じています。
2019.12.27
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森田先生のところの入院は4期に分かれていた。このなかの第4期というのは、結局は複雑な実際生活に対する訓練の時期でありますが、この第4期に入りますと、外出したり読書をするなどということもやらせる。読書につきましては、、すべて娯楽的なものをやめ、また哲学や文芸ものなど、思想的もしくは観念的なものはしばらく読まないことにいたします。なぜかといえば、神経質の人のつねとして、とくに観念的な傾向が強くて、考えていることが、現実や具体的なことから遊離しがちな傾向があるからであります。そして動物学、天文学、あるいは心理学、歴史、伝記、そういうやさしくて実際的な本を選んで読むようにする。読書の方法は自分の部屋にもどって読むようなことはさせない。たとえば二宮尊徳が山にたき木をとりにいきながら、自分が道々本を読んだというように、仕事のあいまあいまとか、気が向いたときとか、そういうときにいつでも手軽に本に目を通すと、そしてどういうときでも読みたいときに読み、そしてどこからでも2行でも3行でもいいだけ読んで、それにあきたらまたやめて、書物を読むときでもとらわれないような読み方をするというふうに、自然に読むことなんですね。これが森田式の読書法でありまして、なんとかこれを読んで覚えてしまわなくてはいけないという完全欲が強いのが神経質ですから、本を読むときにもこれだけ読んだらこれだけ覚えてしまわなくてはいけない。どうも頭に入らない、困ったもんだというふうにとらわれた読み方ではなく、わかろうとわかるまいと、まず手軽に読んでいくという読書法を繰り返す。そうすると自分の読んでいることにも興味を覚えて、いつのまにか時間を忘れて読むようなこともある。自然のままの読書法が、森田式の読書法でありまして、よく学生なんかにある読書恐怖というようなものも、これによって自然に治ることが多いのであります。そういうような書物の読み方をするというのが、森田式の読書法であります。(生活の発見誌 1990年11月号 森田博士の生活道 多田茂 42ページより引用)これはなにも読書だけに限らない。生活の中で気のついたこと、興味や関心のあることに、最初はおくっくうだ、面倒だと思っても構わない。イヤイヤしかたなしに手を出していくということが肝心です。つまり森田先生のところでは、気分本位の態度を戒めていたのです。気分本位の態度は、少し油断していると、誰でもすぐにその方向に流されてしまいます。それを断ち切ることで事態は動いていくのです。弾みがついていくのです。次第に自発的活動が盛んになって、外界の変化に順応して心は活発に動いていくようになるのです。つまりとらわれの対象が自然に次々と変化していくようになるのです。そして最初の煩悶とか苦痛、そういう物はいつとれたか分からないように忘れている。薄らいでいって、ときとして感じることもあるけれど、しょっちゅうそういうことで悩まされなくなるという経過をだどっていくのです。こういう生活態度を習慣づけることで、神経症が克服できるのです。さらに自分の生活自体が目に見えて変化し、活動的になってくるのです。
2019.12.26
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多田茂さんのお話です。多田さんは森田先生のところに入院された経験をお持ちの方です。対人恐怖症と正視恐怖、そういう強迫観念に悩まされまして、すべてが消極的になり、劣等感に苦しむという状態でした。その反面、人に対しては負けたくない、もっと立派になりたいという向上欲は人一倍だったそうです。神経症のとらわれというのは、本当の病気ではないと申しますけれども、そのとらわれで苦しんでいる間は、本当の病気よりももっと苦しいというのが実情でございます。森田神経質者の特徴としては、観念的で甘えたところがあります。こういう人間を森田先生のところでは、再教育をするのです。あるいは特殊教育をするということも言えるのではないかと思います。そういうことで早く言えば人間教育ですね。症状を直接的に治そうとするよりも、考え方・見方・行動の誤りを体得によってみずから分からせようとしている。体験によって人生観を確立していくような療法なのです。そういう意味で、特殊療法、作業療法、自覚療法、心身の自然療法、体験療法、家庭療法などと言われることもあります。森田療法というのは、今までの観念的な教育とは根本的に違っております。今までの家庭教育とか学校教育というものは頭から一歩的に教え込んだり、いろいろと説明したりして分からせようとしますけれども、森田療法ではそういうことは一切いたしません。本人自身が自ら選んでいろいろなことに手を出し、自主的に実行するように導くことが森田療法の一番の眼目であります。掃除、洗濯、飯炊き、食事の準備、風呂焚き、動物の世話、草花の手入れなどの日常茶飯事に取り組ませたのです。決して命令されたりすることはありませんでした。自発的に気のつくままに手早く尻軽く、仕事に手をつけることを実行するように指導されたのです。本来人間の持っている自発的な活動欲を刺激して目覚めさせる狙いがあったのです。その際煩悶とか苦悩を訴えられてもそれを不問にして、気分がいいとか悪いとかそういう気分を打破し、仕事本位に行動させるということです。本来、人間の活動欲というものは、食欲などと同じように、人の自然本能的な衝動であり、特に生の欲望の旺盛な神経質者は向上欲とか活動欲が非常に強い。その運動欲、作業欲を自発的にますます増進させるように指導するのが森田療法なのです。経験を重ねるにつれて、知らず知らずの間に作業に対する持久力とか耐久力が養われていく。そして仕事に対する興味もだんだん湧いてきまして、あれもしたいこれもしたいというような積極的な活動欲が盛んになってくるというふうに指導していくのであります。これは人間本来が誰もが持っている生の欲望を活性化させるということです。欲望が出てくると不安や不快などが自然発生的に生まれてきます。これは嫌なものですが、欲望にそった生き方をしていくためには避けて通ることができない。それらに過度にとらわれることなく、ある程度は抱えたまま、生の欲望に邁進する人間に生まれ変わらせるのが森田療法の眼目なのです。(生活の発見誌 再録シリーズ 1990年11月号より 要旨引用)
2019.12.25
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学生時代の水谷啓二先生が森田先生に次のような質問をしました。何か形外会で、余興に劇をやったときのことですが、私は、このごろ学校の本は読まず、カルタやトランプをやっても面白くなく、困った心理状態になっています。歩いていても息苦しくなることもあります。こんな気持ちで余興をやったら、かえって他の人に気まずい感じを与えはしないかと、さまざまに迷ったが、森田先生がいつも私に「ともかく手を出せ」と言われますので、手をつけたことであり、苦しい、苦しいと思いながら、稽古をしました。やってみると案外うまくできました。これは「ともかく手を出した」ことになるのでしょうか。これに対して森田先生は、ずばり、それは「手を出したことにならない」と言われております。「もし、君が学校の本を読めば、これが手を出すことに相当する。君が学校の本を読まないのは、苦しくて興が乗らないからである。その苦しい中から読むことを「ともかく」というのである。君は実際において、「ともかく手を出す」べきことには、少しも手を出していないから、稽古も苦しいので、歩いていて息苦しくなる原因はここにある。もし、これを逆に、ともかく、読書の方に手を出しておれば、おのずから、心が快活になって、勉強ができる上に、その余興に、劇でも、トランプでも、みな面白くできるようになる」森田先生は、手を出すべきことには優先順位があると言われているのだと思います。まず日常茶飯事の雑事と言われているようなことです。食事の準備、掃除、整理整頓、洗濯、身だしなみ、入浴、育児などです。自分が興味がありやりたくて仕方がないものとはいいがたいものです。でも、ともかくも手をださないと、生活が円滑に回らなくなります。それから、仕事や勉強です。仕事は第一に生活を維持しているために仕方なくやっていることであり、億劫に思っている人が多いと思います。学校での勉強も指示された教科に取り組んでいるのであって、自分から興味を持って取り組んでいるとはいいがたいものです。森田先生は、自分の生活に直接関係するこれらにイヤイヤ仕方なしに手を出しなさいと言われてます。生活を離れた実践や行動は、生活の停滞を招いてしまう。生活を他人に依存するようになり、本来やるべきことを放置しているので、精神的にはどんどんと苦しくなっていくのです。本来やるべきことを馬鹿にしないで、丁寧に「ものそのものになりきる」ことで、生活は好循環を生みだし、精神的にも安定してくるものと思います。
2019.12.24
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1991年11月号の生活の発見誌に、森田三択クイズというのがありました。問一 腹が立ったときは、どうすればいいと森田先生が述べているか、次の中から選べ。(a)「うぬ!どうしてやろうか」とジリジリ考えればよい。(b)じっと我慢しておればよい。(c)そのまま放っておけばよい。問二 最近、森田施設から退院したo君、学習の援助をしてくれた人のところへ、就職のことで、依頼に行きたいのだが、就職が遅れた理由を聞かれると困るので、なかなか行けなかった。しかし、最近やっと正直に答えようと、決心がついた。これに対して森田先生はどういうコメントをしたか。(a)そういう時は正直に答えるのが一番よい。(b)それを恐怖突入という。逃げずに恐怖突入していくことによって、できないと思っていたことでもできるようになる。(c)答えにくいことを聞かれたら、頭を掻いて口ごもればよい。問三 森田施設に入院している人の日記に「自分は絶えず何かをしていたい」と書いてあった。これに対して、森田先生はなんとコメントしたか。(a)いい心がけだ。そのように片時も休まず、次々といろんなことに手を出していくことが、大切である。(b)「休息は仕事の中止にあらず、仕事の転換にあり」である。休む暇があったら、何かをしているほうがよい。(c)絶えず何かをしていたいなら、白鼠が車を回す。あんな仕掛けでもするとよい。一応答えは問一はa、問二はc、問三はcとなっていました。続いてコメントがありました。誤解があると困りますので、はずれた答えも決して間違いではありません。例えば、「腹を立てないようにするには」という質問に対して、森田先生が「がまんする」とか「放っておく」と答えた場合もあります。問二の、頭を掻いて口ごもるという、森田先生のコメントは、先生の言う「純なる心」、先生は、理屈からではなしに人情から出発するときに、そこに本当に人間味が現れてくる、と言っております。人情に重きを置くと、こういうことになるよ、という教えだと思います。問三の日記については、実践は、生活に根ざした行動が必要で、ただやたらに動きまわればよい、というものではないということを強調したものだと思います。こういう問題を作ってそれぞれの人が意見を述べていくと森田理論が深まるのではないかと思います。森田先生も以前言われたことと違う発言をされているようなこともあります。森田先生がその時にみんなに伝えたいことはどんなことだろうと考えてながら議論することが肝心だと思います。
2019.12.23
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キューリなど、どれもこれもひとつずつ形が異なっている。まっすぐなものもあれば、曲がったりひねくれたのも多い。土と水と太陽の中で、生まれたままの自由な形で自己表現を主張している。われわれ人間にも生来の素質があり、環境によっても性格に違いがあるように、植物にもいろんな差異と変形が生じるのであろうか。言わば遺伝的な性格の違いを、そのまま認めているのである。我々と違うのは、その曲がったまま、ひねたままで精一杯に堂々と成長しているところだ。無理にまっすぐなキューリになろうとはしていない。曲がったままで無心に生きている。私ども人間も生物の一員なのだが、そのかけがえのない資質や性格を排除したり無理に変えようとはしていないか。個性を埋没させ、矯正しようとしてはいないだろうか。生まれながらのありのままの性格を受けいれて、最大限に活かそうとしているだろうか。曲がったまま、ひねくれたままで「自然に服従し、境遇に従順に」生きていきたいものである。(1996年生活の発見誌 11月号より引用)禿げだ、デブだ、ブスだ、身長が低いなどと言うことにとらわれて、自己否定している人はいませんか。また相手をそういう目で見て軽蔑してしまうことはありませんか。神経質性格を持っている自分をいやな人間だと思うことはありませんか。神経質性格の人をみて、「どうしてそんな細かいことを気にしているんだ」と馬鹿にしていることはありませんか。親の悪い性格や容姿を受け継いだから、自分は不幸になった。親の育て方が悪かったから、他人の思惑に振り回される人間になってしまったなどと思っている人はいませんか。これらは、他人の長所と自分の短所を比較して自分を否定している態度です。否定することが生まれるものは、憎しみ、怒り、悲観、後悔だけです。ここに1万円持っている自分がいるとします。1000円しか持っていない人を見ると優越感を感じるかもしれません。ところが10万円持っている人と比較すると、劣等感を味わうことになります。ここで発想を変えて1万円持っている自分を受け入れて、それを活かしていく方法に切り替えることはできないでしょうか。これは自分の特徴のプラス面とマイナス面を過不足なく棚卸して、マイナス面はそっとしておく。プラス面に目を向けてそれを活かしたり伸ばしていくことを考えることだと思います。まずは今現在生きている。そして神経質性格を持っている。この二つに焦点をあてて、自分のできる精一杯のことに取り組んでみることはできます。特に神経質性格は、感受性が強い。好奇心が強い。生の欲望が強い。粘り強い。責任感が強い。物事をより深く考えることができる。分析力に優れている。など優れた特徴があります。それを日常生活、仕事や家事や子育てに存分に活用していくことに精力を傾けたらいかがでしょうか。自信にもなるし、生きることが楽しくなる。人様にも喜んでもらえるという体験ができます。誰もが分かる欠点や弱みを持っているにもかかわらず、自分の命や能力を最大限に伸ばそうとしている人を見るとささやかな感動を覚えるのではないでしょうか。私はそういう生き方をしていきたいと考えています。そういう方向に変えないとあっという間に後悔だけを残して人生は終わってしまいます。
2019.12.22
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私は生活の発見会の会員でもう30年以上にもなる。生活の発見誌は、単純に計算しても360冊以上になる。場所をとるので、収納には困っていた。家族からも、何とかならないのかと言われる有様だった。10年ぐらい前に思いついて、すべて処分した。ただ、処分する前に1冊に1つはよい記事を保存しようと思い立った。1年ぐらいかけてざっと読み返して切り抜きを始めた。まず体験談は無条件に切り抜いた。続いて、付箋をつけてある記事を読み返した。それから、マーカーで印をつけている部分を切り抜いた。次にファイルを買ってきて、項目別にインデックスをつけた。実践・行動、感じを高める、無所住心、純な心、感情の法則、物の性を尽くす、不安と欲望、生涯学習、かくあるべし、あるがまま、劣等感、人間関係、治るとは、生の欲望、神経質性格、事実唯真、調和、唯我独尊、認識の誤り、用語集などである。記事をある程度区分けして、掲載された日付、書いた人を付け加えてペタペタ貼り付けていった。体験談は症状別に区分けしてまとめた。1冊では収まりきらず、現在5冊になった。やっているうちに弾みがついて楽しくなってきたのだ。自分なりのオリジナルテキストが出来上がったのである。これが特に役に立っているのは、このブログの記事を作るときである。テーマが決まると、このスクラップ帳を見ることがある。宝の山のようなもので、いろいろと書きたいことが次から次へと浮かんでくるのである。長らくブログをやっていると、小さなきっかけさえあればすぐに投稿記事はできる。それと集談会で学習担当になると、このスクラップ帳を見てテーマを膨らませることをいつも考えている。具体的な話やエピソードやたとえ話が入ると理論学習は深まりが出てくるようです。今後しばらくこれからヒントをもらった記事を投稿してみたい。ちなみに私は発見誌がくると1日か2日ですべての記事に目を通している。1つか2つは心が動く記事が見つかっている。最近残念に思うことは、発見誌をとっているが読んでいない人が多いことである。これでは宝の持ち腐れではないか。実にもったいないことだ。読んでいない人は森田実践も低調な人が多いように感じる。森田実践が盛んな人は、発見誌も比較的よく読んでいる。そして、感じたことや触発されたことを取りまとめるようになればさらに成長する。さらにいいところは早速自分の生活の中に取り入れておられる。その差は日々どんどん開いていくばかりではないのかと思っている次第です。この記事が一人でも多くの人に役に立つことを願っている。
2019.12.21
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完全主義と完璧主義について考えてみたい。夢や目標を持って、完全や完璧を目指していく姿勢は立派なものであると思う。その過程では、気になることや問題点や課題が次から次へと出てくる。それを一つ一つ解消していくことで完全・完璧に近づいていく。そういう姿勢や態度を持ち続けることは、生きがいを持って生きていることにつながる。さて、日本の製造業は、その技術や品質の高さが世界に認められている。それは職人さんたちが、よりよいものを作り上げることに心血を注いできた結果である。また、テレビで予約のとれない寿司屋や料理店などが紹介されている。接客態度、料理の質や味付け、盛り付け方などが最高レベルに高められている。これらは一朝一夕でできたものではない。素材選び、製造工程、技術のレベル、人材の育成をとことんまで向上させてきた努力のたまものである。品質や技術は、並みのレベルには、日々努力怠らなければ到達できると思う。ところが、ある程度のところに達し満足してしまうと、技術や品質の進歩はそこで停滞してしまうのだ。周りから高い評価を受け続ける人は、現状に妥協しないで、さらに高みをめざして努力しているからこそ可能なのである。そういう人はもっともっと評価されてもよいはずだ。ですから完全主義、完璧主義を目指すことは、非難される筋合いのものではない。ところが森田理論の学習では、完全主義、完璧主義、理想主義は否定されている。本来の完全主義、完璧主義、理想主義と森田でいわれているものとはどこが違うのであろうか。私が大きく違うと感じるのは、自分の立ち位置であると思う。完全や完璧を目指している人たちは、問題や課題を抱えた現実にしっかりと足をついている。そして目線を一歩上においている。当面の目標をクリアするために努力している。それが自分の行動指針として確立しているのです。次から次へと障害が現れても、それを押しのけて次のステージに進んでいる。そして時間の経過とともに、誰も到達したことのない地点に立っている。しかし本人はそこが山の頂だとは思っていない。一山超えれば、見た次の頂が頭を表す。自分はそれを追いかけていくだけだと思っている。これにひきかえ、最初から理想、完璧、完全主義の立場に居座っている人がいる。批評家、評論家、コメンテーターといわれるような人である。もちろんすべてとは言わない。とにかく、現実の問題点や課題をえぐり出すことを自分の使命と心得ているような人である。現実、現状、地上で格闘している自分や他人を批判・否定・攻撃することを任務と心得ているのだ。お前たちは自分では問題点を見つけられないだろうから、ポテンシャルの高い私が的確な現状分析をして問題点を指摘して上げているのだ。上から下目線で叱咤激励しているようなものだ。自分の身は安全なところに隔離しているので、実害は及ばない。批判や否定ばかりで、自分がその責任を引き受けることはない。森田ではこういう人のことを「かくあるべし」の強い人と言っている。完全主義、完璧主義、理想主義、コントロール欲求の強い人で、自分のみならず、他人や自然環境にまで実害を及ぼしていると見ているのである。一口に完全主義といっても、それを目指して素晴らしい人生を築き上げている人もいる。片や犬も食わない完全主義を身にまとって、自他ともに不幸を撒き散らかしている人もいるのである。これは本人が気づいていなくても、立ち位置が明確に違うことが分かる。
2019.12.20
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現在全国各地で行われている「心の健康セミナー」は、数に限りはあるが集談会単独開催が可能である。企画が集談会に提案されたとき、しり込みしてしまう集談会が多いのではないかと思う。何回も「心の健康セミナー」に参加された方は、その意義は十分に分かっている。著明な森田療法家の講話を直接聞くことができるので役に立っているのだ。また森田理論を知らない一般市民の人に、森田療法の内容を知らせることもできる。すぐれた精神療法である森田療法の普及にも役立つかもしれない。地元で森田療法の認知度を高めるための手段としては有効であることは理解できる。願ってもないチャンスが目の前に提案されているのだが、どうしても尻込みしたくなる。開催する前から、「そんなの無理です」「できない、難しい」などという言葉がすぐにでてくる。集談会の参加者が10人から15人ぐらいなのに、どうすれば100名近くの一般市民を巻き込んだ公開講演会を成功させることができるのか。たしかに無謀な挑戦のように思える。そんな面倒でしんどいことを背負い込むより、今の森田理論学習へのかかわり方を維持したほうがよほど精神的に安定できる。つまりあえてしんどいこと、難しいことには手を出したくないのだ。この心理的な矛盾はどうなっているのであろうか。顕在意識の面では誰でも、やればよいのは分かっている。興味もあるし、やってみたいとも思っているのだ。ところが、無意識の部分がすぐに待ったをかけるのだ。無意識部分が欲望に対して制御をかけているということだ。顕在意識で「やれればいいのに」といくら願っても、無意識の部分の賛同が得られないと、前向きな行動にはならない。森田理論でいうと、もともと人間に備わっている精神拮抗作用が正常に働いているということになる。人間には、イヤなこと、しんどいこと、大変そうに見えること、お金のかかること、悪い結果が見えているものに対しては、それを押しのけてでも挑戦するということにはならない。いつも欲望よりは、それをあきらめさせようとする無意識の力が勝利を収めるようになっている。無理に行動しても、もともと失敗するかもしれないという気持ちがあるため、失敗をおびき寄せてしまうという特徴があるのだ。その無意識に押し流されてしまう人のことを、気分本位の人ということもある。ここで大事なことは、人間はそういう矛盾した考え方を持っている動物だと自覚することである。そして、第一優先順位は「生の欲望の発揮」に照準を合わせておくことである。これを乗り越えると自分が新しい能力を獲得して成長できるかもしれないと感じたときには、いくら無意識が悪魔のささやきを発しても、思い切って挑戦してみることだ。また、挑戦することが周囲の人たちの役に立つことならば、思い切ってリスクをとって行動してみることだ。心の健康セミナーでいえば、最初から成功することは考えられない。集談会の幹事が仮に5人いて、大方の賛同が得られれば、思い切って挑戦してみればよいのではないかと思う。動員方法が泉のように湧いてくるようになればやりがいも生まれてくる。1年ぐらいの時間をかけて、動員100名の目標に向けて細かく準備をたてて実行すれば、ある程度の成果は上がると思う。それが未達に終わっても、挑戦したという経験は参加した人の貴重な財産となるはずだ。
2019.12.19
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自分がやりたいことを持っている人は、神経細胞が盛んに活動しています。脳科学者の松本元さんは、「自分にとって価値のある情報が入ってくると、脳は活性化し、意欲的になって学習効果が上がる。その結果、その情報を処理するための回路が整備される」と指摘されている。一旦、精神が緊張状態に達すると、特に意識しなくても、次から次とたくさんのことに気づくようになる。新たな興味や関心が泉のように湧いてくる。普通の人が思いつかないような工夫や発見やアイデアもでてくる。これは先生や上司の指示や命令によって生まれてくるものではないことは誰でも分かる。普段から身の周りのものや出来事に対して、興味や関心を持って観察することが大切になる。また少しでも興味や関心が湧いてくれば、思い切って手を出してみることも大切だ。この2つが習慣になっていれば、神経細胞は盛んに活動を開始して、好循環が生まれてくる。ではいつまでもやる気のない子供に、やる気を持たせるにはどうすればいいのか。例えば親がアルトサックスを子供に習わせたい。天才的なサックス奏者にしたいと思ったとする。親はアルトサックスの音楽教室に通う。毎日アルトサックスの練習を習慣づけてその姿を子供に見せる。自分の音楽発表会に子供を連れて行く。これは子供が小さければ、小さいほど効果が上がる。つぎにコンサート情報に注目して、有名な演奏者のコンサートをピックアップする。私の好きなところでは、坂田明、ケニーGなどのチケットが入手できれば最高だ。実際にその一流の演奏家の生演奏を体験させる。むせび泣くような一流の演奏を聞くと、途端にやる気のスイッチがオンになる。するとほとんどの子供は、自分もやってみたいという気持ちが芽生えてくる。ただこの段階は、「できたらいいな」という願望程度のこともある。ここで親は「しめた」と思うかもしれない。でもこの段階では、そのうれしさをぐっとこらえて「大変だからやめときなさい」といったん突き放してみる。まだ十分に期が熟していないと、見たほうが無難だ。そうこうしているうちに、子供の方から「どんなことがあっても頑張るからやりたい」と言いだす場合がある。ここまで意思が高まってくれば、積極的に挑戦させることだ。その時親は口出しを慎むことだ。ただいつも側にいて見守っているという姿勢を維持することだ。親がバスケートボールが好きならそれでもよい。本が好きならそれでもよい。演芸ならそれもよい。親がまず手本を見せる。そしてその道で頂点を極めている人の実際の芸や技術を見せる。あとはやる気のスイッチが入るかどうかを見極める。そういう気持ちを持って子育てにあたれば、子供は必ずやりたいことを見つけることができるだろう。その段階に達すると子育てには、間違いなく合格点が与えられるだろう。
2019.12.18
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ここ3ヶ月くらいプロバイダーを装って、あなたのセキュリティに問題があってアカウントはまもなく閉鎖されますというメールが届くようになった。それもまとめて10通以上が届く。私は不審に思って、プロバイダーに直接問い合わせをしてみた。このようなメールはプロバイダーからは送ってはいないということだった。またこの手の問い合わせが急増しているとのことだった。それならこのメールが届かないようにしてくださいとお願いしたが、すぐにメールアドレスを変更してまた送り付けてくるのだという。いたちごっこになるということだった。次善の策としては、迷惑メールフィルタリングサービスを利用してくださいということだった。いくつかのキーワードを登録すると、自動的に迷惑メールに仕分けされて煩わしさがなくなった。でもまたメールアドレスや文面を変えてメールが送りつけられる。たしかにいたちごっこが続く。でも安易にコンタクトをとることは控えている。たしかに気持ちが悪い。しかしこれに対応してイライラ感を無くそうとすると、ワンクリック詐欺にかかってしまう確率が高いと思う。ワンクリック詐欺とは、インターネットでサイトを閲覧していると、突然「あなたの登録が完了しました」「あなたの個体識別番号は○○○○です。手続きが完了しました」などと表示されて、料金請求画面が出てきます。そして指定日までに支払わないと、法的手段に訴えるというものです。初めての人は、ひどく動揺します。怯えて固まってしまいます。相手はあなたのことはすべて分かっているように装いますが、実際には何もわかっていません。相手はあなたが不安や恐怖を取り除こうとして、メールや電話をかけてくるのをじっと待っている状態なのです。それなのに、「私は買うつもりはありません」「会員になるつもりはありません」などというメールを送ってしまうと厄介なことになります。どんどんメールが送りつけられたり、電話攻撃が始まります。いったんお金を支払うと、再度催促されるような事態に追い込まれることもあります。最後には、消費生活センターや警察に相談しないと解決しないという状態にまで追い詰められる。不安や恐怖、不快感を何とかすぐに取り除きたいという気持ちが仇となってしまうのです。ここでは急いで自分一人で解決しようなどと思うよりは、他の人に相談してみることが有効です。ワンクリック詐欺に詳しい人、友達、プロバイダー、消費生活センター、警察などです。客観的立場から適切なアドバイスが得られるでしょう。私たちは不安、恐怖、違和感、不快感に対して、今すぐに取り除いてすっきりしたいという気持ちになります。そういうときは、「ちょっと待て」をキーワードにして、少し耐えてみることが有効です。野菜などの苗を植えて、根付いたかどうか確かめるために2、3日経って引っこ抜いてしまう人はいないと思います。気になっても我慢して、じっと待たないと根付いてはくれません。またケガをして、「かさぶた」ができたとき、その「かさぶた」が気になって剥がしてしまう人はいませんか。そうすれば傷口はいつまで経っても修復はできません。細菌が入ってきたりして、傷口はますます拡がってきます。気になっても我慢することが一番です。最近私は爪の間に皮膚がとげのようにささくれだって、つつくと痛くなったことがあります。これを爪切りなどでなんとが取り除きたいが、爪が邪魔になって取り除けない。無理やりカッターなどで取り除こうとすると益々傷口が広がってきたという経験があります。後で考えると、バンドエイドで巻いて様子を見たほうが良かったのではないかと思いました。不安、恐怖、違和感、不快感は、我慢して持ちこたえることによって、結果がよくなるケースもたくさんあるということを忘れないようにしたいものです。そんな気持ちを抱えたままなすべきことに目を向けて行動していくことが肝心です。
2019.12.17
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保育園などで、保護者の方からの悩み相談で多いのは、「うちの子供は友達におもちゃをゆずれない」というものだそうです。これは子供の中で「所有」という概念が育っているのです。この時期、子供の中では地球は自分を中心に回っているのです。ですから、ここにあるものは全部自分のものなのです。特に1歳から2歳くらいの子供は、自分でできることが増えることが、うれしくてたまりません。一人遊びを満喫することで精一杯です。お友達がどんなことをしているのか、どんなことをしたいのかなど考える余裕はないのです。親が子供を叱りつけて、「貸してあげなさい」などと言っても、子供にはその理由が分からないのです。あるお母さんの話では、「他のお母さん方にしつけがきちんとしているお母さんと認められたい。親の言いつけを守る素直な子供と認められたい」という気持ちが先行して、子供の気持ちは考えられなかったといわれています。おもちゃを独り占めにして、お友達に貸せないとこだわりは、「自分の所有物」を失いたくない、守り抜きたいという意識が芽生えているのです。それを親に力づくで取り上げられてしまうと、自分の所有物が第3者によって簡単に奪われてしまったという体験を積み重ねることになります。このような体験をした子供が大人になったとき、今は自分の所有物ではあるが、いつ何時奪い取られてしまうかもしれないという不安や恐怖を抱くようになります。また他人や他国に自分たちの欲しいものがあるときは、力づくで奪い取ればよいのだという安易な考え方をするようになります。あるいは経済力にものを云わせて、根こそぎ買い付けるようなことをするようになります。自分の所有物を自分の力できちんと管理するという体験は、他人の所有物に対しても尊重できるようになります。おもちゃの独り占めという現象は、自分の所有物、他人の所有物を明確にして、人間関係の改善につながる学習体験を積み重ねているとみるべきです。(モンテッソーリ流 自分できる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 62ページより要旨引用)
2019.12.16
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幼児の1歳半から2歳半という時期は、順番、場所、やり方、位置などにこだわるという特徴があります。例えば、ある幼児は保育園に行ったとき玄関のピンポンは自分で鳴らしていたそうです。ところがお父さんに送っていたときに、お父さんが先に鳴らしてしまいました。するとたちまち子供は大泣きしてしまいました。保育士さんは「じゃもう一度外に出て鳴らしましょう」と言いました。お父さんは「そんなに甘えさせないでください」と受け付けませんでした。ある保育園の保母さんの話ですが、公園に遊びに行こうとした時、いつもの道で道路工事をしていて通れません。2歳児のクラスの子供たちを連れた私は、手前で曲がろうとしました。すると、こどもたちは一斉に、「違う、こっちだよ」と声をあげます。なかには、泣きながら訴える子供もいます。「行き先は一緒なんだからいいじゃない」と思えることも、子供にとっては大事件なのです。なぜなら、この時期の子供は、「いつもと違う」ということが嫌で仕方がないのです。いつもの習慣にこだわっているのです。幼児は、靴は右から履く、お昼寝をする場所、服を着る順番、食卓で家族が座る位置、車に乗る位置にもこだわるのです。これらを通じで家族や社会の決まり事やルール、生活習慣や規則正しい生活リズムを養成しているのです。1歳半から2歳半の時期に最もこだわる時期があるのです。この時期にやり忘れたので後で身に着けさせようと思っても、手遅れになるということです。もしこのことを親が理解していれば、子育ての中で対応することが可能となります。例えば、保育所から帰るときにスーパーなどに寄り道する場合、子供にそのことを説明していないとトラブルになるということです。ですから親になったら子育ての学習は必須となるのです。(モンテッソリー流 自分でできる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 56ページより要旨引用)
2019.12.15
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昔、王子製紙はサハリンでパルプを作っていたことがある。そのとき王子製紙は、山から切り出した分だけは補って、ちゃんと木を植えていたという。植林すると、ミネラルを多く含んだ豊かな土壌がつくられ、雨が降ったときに栄養のある水が海に流れ出るという。その結果魚が増える。かってはオホーツク海では、植林によって魚が豊富にとれていたということである。ところが、ソビエト連邦が占領してからというもの、木を切る一方で、まったく植林をしない。そのためパルプも底をつき、オホーツク海の魚もあまり獲れなくなってしまった。木を燃料にして建築レンガを焼いてきたヨーロッパでは、森林破壊が進んだ。イギリスでは、16世紀から18世紀にかけて、森林の80パーセントが失われた。ドイツでは、18世紀の半ばから終わりごろにかけて、フリードリヒ大王の時代に森林を大乱伐した。その後ドイツ全土で干ばつ、大水害が起こり、全土が樹木が育たないステップと化したという。今は不毛の砂漠地帯のレバノン、シリアは古代には、レバノン杉が林立していたという。水も湧き出ていた。ところがその後、このレバノン杉を残らず伐採して船をつくり、大船団を擁して地中海で貿易をし、戦争を仕掛けて、地中海文明を作り上げていったという。今や砂漠地帯のレバノンやシリアに森林地帯を復活させることは大変難しい。そのおかげで彼らの子孫たちは、不毛の土地に生を受け、苦渋の生活を余儀なくされているのだ。もしレバノン杉が守られていたならば、彼らの子孫たちの生活はどんなに変わっていただろうと思わずにはいられない。(いい加減力 竹村健一 太陽企画出版 99ページより一部引用)現在特に問題なのは世界有数のアマゾン川流域の大規模な森林破壊である。衛星写真で確認するとその面積は着実に年々縮小している。ここがイギリス、ドイツ、レバノン、シリアのような惨状を呈することは今や自明の事実だと言われている。アマゾン流域の熱帯雨林が丸裸にされたときに、果たして人類は生きながらえることができるだろうか。一挙に樹木を伐採して、収奪するだけでは、自然環境は確実に破壊される。土砂災害を招く軟弱な不毛の山に変貌するだけではなく、海の生き物にも悪影響を及ぼしているのである。地球全体の生態系に悪影響を及ぼしているのである。本来の森林伐採は一挙に行うのではなく、ローテーションを組んで行う。そして、伐採や焼き畑を行った後は、必ず植林を行う。植林した木が育つまで手入れを怠たらないことが大切だ。これは山で樹木を伐採して生活してきた人の当たり前の考え方だったのだ。そうすれば人間と自然が共存でき、我々の子孫の繁栄にもつながるのである。どうして人間は目先の利害得失に目を奪われて、自然をないがしろにするのだろうか。自然を人間の意のままに支配しコントロールしていると、いつの間にか自然が人間に対して復讐を始めるということだろう。欲望の暴走は、やがて人類の滅亡という最悪のシナリオを思わずにはいられない。森田理論で学ぶ「欲望と不安」という単元は、全人類が学んでいかなければならない大切な考え方であると思う。
2019.12.14
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外国人と日本人は事実の取り扱いに違いがあるようだ。ちょっとした行き違いや事故などでは、外国人は必ず、自分の有利な事実や状況を述べて、自分の方が正当であることを主張する。自分の不利なことはなかなか言わない。これに対して日本人は、明らかに相手が犯した問題行為を、わざわざ自分から指摘するのは、大人げないと思っている。気まずくなるいさかいは避けたい気持ちがあるので、「私も気がつかず、悪かったですよ」などと穏便にすませようとする。しかし相手は自分から非を認めない。仕方なく相手がしたことを指摘するときには、だいぶ形勢が悪くなっている。その結果、一歩的に相手が悪い状況なのに、フィフティーフィフティーのお互い様になってしまう。後味の悪い思いをすることになる。(いい加減力 竹村健一 太陽企画出版 57ページより引用)一般的に、外国人は事実を素直に認めずに、その責任を相手に転嫁する立場をとりやすい。自分の都合のよい情報や相手のミスや問題点をことさら大げさにしゃべる。日本人は、この一件が大きな対立を生むことを恐れて、あからさまに相手を非難することは避けようとする。事実を実際よりも過小評価するのだ。自分でも少しはその責任を負ってもよいと考える。けなげな気持ちを持っているともいえるが、事実への対応としては、お粗末というほかない。その結果として、いつまでも後悔していては、精神衛生上問題がある。例えばも交差点で出合い頭の衝突事故を起こしたとする。直進車優先なので、右折車は一時停止しなければならない。これは常識だ。ところが、右折車が間隙をぬって突然右折してくることがある。こんな状況で接触事故はよく起きる。直進者の人が車から降りてきて、開口一番「すみません。私がもう少し注意していたら事故はなかったかもしれません」などと謝ったらどうなるのか。右折車は最初「しまった。早まった」などと思っていても、相手がいきなり謝るものだから、「そうだ、相手もそれなりの非があった」過失割合は50%ぐらいだと勢いづいてしまう。ドライブレコーダがあればいずれ事実の詳細は明らかになる。事故直後にどちがかよいか悪いか言い争いをしても仕方がない。それよりもしなければならないことがある。相手のケガの確認である。「お怪我はありませんでしたか。私は今のところ大丈夫です」怪我があればすぐに救急車を手配する。自分できなければ周りの人に応援を頼む。次に警察に事故の連絡をする。勤務先や保険会社にも連絡する。それから巻ぞいになった人はいないか、二次災害が起きる可能性はないかの確認をする。そして適切な措置をとる。自分たちは安全なところに移動する。過失割合については、警察の事故処理に基づいて保険会社の決める仕事である。ここでは言い争わない。こういうのを森田理論では「物事本位」という。目の前の問題ある事実に対して、すぐに対処しなければならないことに手をつけることをいう。「気分本位」とは反対の態度のことだ。つい事実をねじ曲げたり、責任転嫁したいと思っても、事故を受けいれて、今できる最善を尽くすことをいう。そして事実認定は、客観性をもった第三者に判定してもらう。この方がのちに後悔することが少なくなる秘訣である。
2019.12.13
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人間は1日でも長く延命したいという欲望や宿命を持った生き物だと思います。そのためには毎日エネルギーを補給しなければなりません。生き尽くしたいと思っている他の動物や植物の命を奪うことが、生存の条件として宿命づけられているのです。そうした欲望は他の人間にも向けられています。人類の歴史を見てみると、他の人間の所有物を奪いあってきたといっても過言ではないと思います。こうしてみてくると、自己中心主義を貫徹させないと、延命したいという欲望や宿命は達成できない生き物だといえます。その結果として、人間は元々対立的で敵対関係に陥りやすいといえます。他人や他国の人々の生命、所有物などを、腕力、武力、経済力、情報力で一方的に支配し、服従させようと狙っています。こういう考え方の人が多いと、抗争、紛争、戦争へと突き進んでしまいます。現在の各国の外交政策を見てみると、エゴとエゴのぶつかり合いで、戦争への暴発の危険性をはらんでいます。世界中の人が自己中心を標榜していると、お互いを傷つけ合います。たとえ戦いに勝ったとしても、身体の健康を損ない、精神が不安定になってくるものと思います。この問題に解決策を提案しているのが森田理論だと思います。森田理論では自己中心的な考え方が湧き起こってきた時、精神拮抗作用で他人に対する思いやりも当然にでてくるものだという考え方です。私はこの考え方を信じたい。自己中心が暴走する社会は、坂道でブレーキの壊れた車に乗り、力いっぱいアクセルを吹かしているようなものです。大惨事が起こる確率は極めて高い。それも他人や他国を巻き込んでしまうので、本来みんなが持っているできるだけ延命したいという欲望から見ると反対の事態が引き起こされてしまいます。森田理論は欲望と不安の調和、バランスのとれた状態を目指しています。サーカスの綱渡りでいえば、長い物干しざおのようなものでバランスをとりながら注意深く前進していくことを目指している理論です。人間にはもともと強い自己中心性があるわけですから、その方面には特に力を入れる必要はないと思います。放っておいても自然に発動してきます。バランスをとるためには、他人への思いやりにフォーカスしながら生活していくことです。「自分は他人のためにどんなことができるのだろうか」「役に立つ行動はどんなことだろう」と常に思考する習慣を作ることです。するとバランスが少なからず回復してきます。欲望と不安のバランスがとれた人間関係、国と国との交渉を想像してみてください。自己中心と思いやりのバランスがとれた人間関係は、和気あいあいとしたものになるでしょう。人類が延命に向かって、手をとり合った素晴らしい社会が実現するだろうと思います。私たちは身近な自分の生活の中で実践してゆきたいものです。
2019.12.12
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今日は興味のあることはなんでも手を出して、芸能界で大活躍しておられる片岡鶴太郎さん(64歳)の生き方を見てみたい。片岡鶴太郎さんは、1954年に東京の西日暮里に生まれている。幼いころから父親と寄席通いをしていた。そのころから落語家、俳優になることを夢見ていた。1972年に高校を卒業した後、声帯模写の片岡鶴八さんのところに弟子入りした。片岡鶴太郎さんももともと物まねが得意だったのである。東方名人会、浅草演芸場に出演していた。その後1981年、バラエティ番組「オレたちひょうきん族」にレギュラー出演し、一躍脚光を浴びた。片岡鶴太郎さんはその後の人生がすごい。それ以降1988年にはボクシングのライセンスを取得している。俳優としては、映画「異人たちとの夏」では日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞されている。決して二枚目とはいえないが、現在サスペンスものの刑事役にはなくてはならない人になっている。その他、書家、画家としてもすぐれた作品を生み出されておられる。私も絵画の個展に行ってみましたが、色使いが鮮やかで感性のよさを感じました。一昨年はインド政府公認の「プロフェッショナルヨガ検定インストラクター」にも合格したという。ヨガは9年目に入ったが、毎日欠かさないで取り組んでおられるそうだ。今は「片岡鶴太郎の鶴やしき」という興行を立ち上げる予定だという。そこでは「ねずみ」という落語に挑戦するらしい。今やマルチな才能をいかんなく発揮されています。興味や関心のあるものは、とりあえずなんでも手を出してみるという習慣が出来上がっているのでしょう。これからも「自分自身が面白がっていたいというか、自分自身が面白いと思うものをこれからもどんどんやっていきたい」と言われています。数多くのものまねレパートリーを持っておられるが、どうやってものにしているか。片岡鶴太郎さんによると、「それはもう瞬間的に、これはできるなと感じる。それを何回も反復しながら、その人のあるフレーズみたいなものを見つける。いけるなと思ったら、反復しながら、イントネーションとか、声のトーンを引っ張りながら、実際にご本人がしゃべっていることを交えながら、今度は「この人だったら、こういうことをしゃべるだろうな」っていうことを僕がいろいろと作っていく感覚です。一つのものを会得するにあたって、やっぱり反復しかないですよね」と言われている。私も田中角栄のものまねや腹話術の稽古をしているが大変参考になる話である。私は森田に長らくかかわってきたおかげで、様々な人の生き方に興味が湧いてくるようになった。その人たちから計り知れない勇気をもらっているのである。以上はSNSの投稿記事を参照いたしました。
2019.12.11
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私はよいテレビ番組は録画して後で見ている。人生の楽園、情熱大陸、題名のない音楽会、プロフェッショナル、なんでも鑑定団などである。その他単発で録画することもある。先日、情熱大陸の録画を見ていたら、北海道のニセコ町で石窯でパンを焼いている奥土盛久氏(69歳)がでていた。この方の人がら、暮らし方に共感した。これは永久保存版としてダビングしてDVDとして残すことにした。第一印象として、よい顔をしている。人柄がにじみ出ている。いつもニコニコして笑顔でいっぱいだ。ユーモアにあふれた人で、奥さんや子供ともいつも冗談を言い合っている。お互いを尊重し合っているので、見ていてとても気持ちがよい。番組の中でこんなやり取りがあった。奥土さんは酪農学園大学を卒業して、そのまま北海道に入植して牛を飼っていた。そこへ和歌山県出身の奥さんが研修にやってきた。そこで奥さんの方が熱を上げたらしい。奥土さんは、結婚なんかしなくても牛を飼って生活できればよいと思っていたそうだ。それに対して奥さんは、「この人は情熱的に話するんです。口がうまいので弾みで結婚した」と言うと、「なんや、お前、いかにも俺が引っ掛けたみたいなことをいっているよ。もうかなわんな」などと応戦していた。そのやり取りを見て三男と長女はほほえましそうにしていた。よほど居心地がいいのだなと感じた。親を信頼していることがよく分かった。こんな和気あいあいとした家庭をつくり上げていることに驚いた。仕事は農業と石窯で焼いたパン職人だ。もう20年になるという。天然酵母と自分で育て製粉したライムギパンが評判を呼んでわざわざ遠くから買いに来る人が絶えない。石窯で焼くパンは温度管理が難しく、その技術は相当高い。石窯に火を入れて3時間して400度に上げる。そのおき火を窯の下に移す。それからパン焼きを始めるのだ。温度管理は、五感を使って自分の勘でやっているという。焼く順番は一番固いライムギパンから始める。パンは札幌、道の駅、自宅で販売している。少々高いが、一度食べた人はやみつきになるらしい。この石窯は自分で作ったという。石窯だけではない。なんとログハウスの自宅も自分で建てた。東京ドーム2個分の畑は自分で開墾して作ったという。朝食のベーコンや野菜サラダなども手作りだ。パンはもちろん自前。パンを作るライムギもすべて自然乾燥させて製粉も自分で行う。カラやフスマもすべて使うという。その他、出荷野菜としてジャガイモ、カボチャ、トウモロコシも作っていた。作業は家族総出でおこなっていた。ニセコ町は寒いので9月から暖房を入れる。すべて薪ストーブである。三男と二人で大量の薪割をしていた。要するに、自給自足の生活なのである。それも精一杯楽しみながら。365日休みはないと言いつつも、毎日の生活が楽しい。家族仲よく生活できているので、いい人生なのではないかと思うと言われていた。私もこんな人生を目指していたのだなと改めて感じた次第です。
2019.12.10
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何かを身につける「時期やタイミング」はとても大切なものです。それを無視して、大きくなったときにあわてて身につけようと思っても難しいのです。身につけるために、時間もかかりますし、完全には身に着けることはできません。例えば、ウグイスはある時期を逃すと「ホー、ホケキョ」とは鳴けなくなります。小さい頃に鳴き方を覚えなければ、大人になってからウグイスの最大の美点である鳴き方を身に着けることができなくなるのです。私の経験では、クロールを大人になって身につけようとしましたが、完全には身につけることはできませんでした。ところが全く泳げなかった子供が、1か月もしないうちに上手に泳いでいました。このことから、ある時期には身につけることが容易だが、その時期を逃してしまうと非常に難しいということがあるということが分かります。このことは、森田先生も、ヒナが卵の殻を破って出てくる時期と、親が外から殻をつつく時期が一致していないと、まともなヒナは生まないと言われています。子どもの発達過程の中に、自分の頭で考えて、順序よく段取りを組む能力を獲得する時期があります。そんなことに注意を払わないと思いますが、子供にとっては、自分の人生にかかわるとても大事なことです。1歳半から2歳半ぐらいの時期といわれています。少なくとも3歳までです。この間、自分が身につけた順番にとてもこだわる時期だと言われています。例えば自分一人で服を着るときに、どういう順番で着ていくのかというようなことです。スボン、Tシャツ、靴下をはく順序は自分なりにこだわっているのです。帽子を先にかぶって、その後でTシャツを無理やり着ようとすることなどもあります。親がそんな子どもを見ていると、順序が逆でイライラすることがあります。モタモタ、ゆっくりと試行錯誤しているように見えます。特に出かける時間が迫っていると、つい叱ってしまうことがあるかもしれません。こういう時期だと分かっているお母さんは、子供の行動を見守ることができます。でも一般的には、「時間がないのよ。早くしなさい。そのやり方はダメ」と言ってしまいます。順序にこだわっている時期の子供は、泣き叫んで精一杯の抵抗をします。そのうち親のほうが切れてしまって、「こっちにきなさい」と親が子供になり替わってやってしまいます。このやり方では、子供の順序よく段取りを組む能力を獲得する能力は身につきません。大人になって目標達成のためのしっかりとした段取り力を発揮することはできなくなります。小刻みな実践目標を立てて実行し、目的を果たす力や能力が獲得できていないのでどうすることもできないのです。それどころか、何でも親にすぐに依存してしまうようになります。親の言いなりになって、自分の気持ちや意見を伝えることができない人間になってしまいます。精神的な面でも親の顔色を窺うようになると、生きていくことがつらくなります。このように見てくると、育児や子育てにかかわっている人は、子育ての基本を学び、さらに仲間と情報交換をしながら対応する必要があるのではないかと思われます。その一つの方法として森田先生の本に出てくるモンテッソーリの子育てが参考になると思います。(モンテッソーリ流 自分でできる子の育て方 日本実業出版社 神成美輝 参照)
2019.12.09
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森田先生の考え方はマリア・モンテッソーリの考え方に近い。マリア・モンテッソーリは、すべての子供は、自らを伸ばす力(自己教育力)を持っていると言っています。それは、大人が子供に教え込む教育ではありません。子供は自ら、今、伸ばしたい能力を知っていて、その能力を伸ばすために、大人から見ると「なんで?」と思うような行動をとったり、同じことを何度も繰り返したりする、という考え方が前提となっています。子どもは、何度も失敗し試行錯誤を繰り返しながら「できること」を増やしていきます。大人は子どもの能力を信じ、見守っていくことが子供に対する最大の敬意になります。ですから、モンテッソーリの教育は子供の持っている内なる力を信じ、伸ばすために、大人が環境を整え見守る教育であり、主役は子どもです。大人はサポート役に徹します。これは森田でいうと感じを高めて、関心や興味を持たせる。いろいろなことを経験させる。たとえ失敗しても、何度も挑戦して、問題点や課題、気づきや発見、できたという自信を育てる。それが将来、意欲や情熱を持った子供に育てることにつながる。この考え方を教育の基礎において、実際に教育の場でいかんなく発揮されているということだと思います。ヨーロッパやアメリカでの有名起業家や著名人の中には、子供のころにモンテッソーリ養育を受けた人が多いことが知られています。例えばgoogleの創業者のサーゲイ・プリンとラリー・ペイジ、Facebookの創業者ジェフ・べゾフ、Wikipediaの創業者のジミー・ウェールズなどがいます。それだけではなく、ワシントン・ポスト紙の元経営者キャサリン・グラハム、経営学者のピーター・ドラッカー、俳優で国連平和大使のジョージ・クルーニー。元アメリカ大統領のクリントン夫妻、オバマ大統領もそうです。現在アメリカには3000を超えるモンテッソーリ教育施設があると言われています。ヨーロッパでもモンテッソーリ教育は盛んで、イギリス王室ウィリアム王子、ヘンリー王子もこの教育を受けています。「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクもそうです。子どもの幸福度ランキングが世界一位のオランダでは、盛んにモンテッソーリ教育が行われています。自主性を重んじる教育が特徴で、小学校の高学年では教科を選択することができます。学びたいことを学べる自由な環境が、幸福度ランキングに影響しているのかもしれません。今後しばらくモンテッソーリ教育の子供へのかかわり方、教育内容について、具体的に紹介してゆきたいと思っています。(自分でできる子の育て方 神成美輝 日本実業出版社 26、40ページより引用)
2019.12.08
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かねてから興味を持っていたピザ釜の見学に行ってきた。入り口や中はブロックやレンガで固めてあった。外には煙を出す煙突が取り付けてあった。周りは土や石で覆ってあった。中の隅の方で薪を燃やして高温にする。温度管理が難しいそうだ。ピザ釜に興味のある方は参考にしてみてください。
2019.12.07
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幼児が服のボタンがけを一人で出来るようになったとき、「すごいね」「えらいね」などとほめることがあります。着替えが一人できちんとできるようになったときも「すごいね」「えらいね」という言葉が出てしまいます。靴を一人ではけるようになったときも、「すごいね」「えらいね」などと言うことがあります。これに対して、子供はたいして「すごいこと」だと思っていないそうです。それではどう思っているのか。今までできなかったことが、何回も挑戦して、「やっとできた」「これだけ練習したのだからできてあたりまえ」「そんなすごくはない」と思っているそうです。ほっとしているというところでしょうか。子供の気持ちとしては、親に褒められることよりも、その事実を、認めてもらいたいという気持ちが強いのだそうです。子供が「お母さん、見て、できた」といったとき、その気持ちに応えるとすれば、「できでよかったね」「そうだね。できたね」と共感してあげるだけでよいのです。逆にいつもほめまくることを習慣にしていると、ほめられることを目的として行動するような子供になってしまいます。ほめられないことには取り組まないという気持ちが強く働いてくるのです。必要に応じて、必要なだけ行動するという目的からそれてしまうのです。私たちも集談会などで森田理論を生活に活かしている人などの話を聞いて、「すごいね」「えらいね」と反射的に反応してしまうことがあります。私も以前はこの言葉を使っていました。相手に怪訝な顔をされたことも何度かありました。ある人から厳しく注意されました。その言葉は、先生が生徒に向かって使う言葉ですよ。あなたは集談会では先生なのですか。集談会には先生はいないはずですよ。あるいは、相手のことをほめてあげなければということにとらわれすぎているのではないですか。生活の発見会の活動指針の中に、「会員は相互に平等である」と唱っているではありませんか。私たちの自助組織は、たとえ大臣をされている人がきても、ここではみんな平等なはずですよ。先生が入りこんでいると、森田の相互学習は成り立ちませんよ。形骸化してしまいます。できれば、上から下目線的な発言は控えたほうがよいと思いますよ。私はそんな気持ちはなかったのに、第三者からそのように見られていたということにショックでした。言葉の端々に上から下目線の態度が露骨に出ていたのでしょう。ではどうすればいいのですかと聞いてみました。共感の気持ちをもって接するようにすればよいと思います。そして事実をそのまま口にすればどうでしょうと言われました。例えば「森田を生活の中で活用できるようになってよかったですね」「森田的な生活になっていますね。私も見習いたいです」「森田理論学習がすごく深まっていますね」などなど相手の状態を認めて、そのままの事実を言葉にすればよいのです。その際価値評価は必要ありません。相手の考え方や行動を価値判断してオーバーに褒めるということは、「かくあるべし」を相手に押し付けることにつながるのかもしれません。
2019.12.07
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あなたは普段の生活の中で、家族、仕事仲間、友人、自助グループなどで、不平、不満を感じて愚痴や悪口をいうことはありませんか。例えば、・当然やるべきことに手をつけない。・本来やるべきことに気がつかない。鈍感すぎる。・やることなすこと、全く真剣味が感じられない。・自分が取り組んでいるいることを手伝おうとしない。・進んで協力しようという態度が感じられない。などなど。これらは私がよく感じていることです。本来はみんなでやるべきことなのに、どうして手伝おうとしてくれないのか。これでは自分だけが貧乏くじを引いてしんどい思いをしているだけじゃないか。つい何気なく愚痴をつぶやいたり、相手の批判をしてしまう。今度は絶対にこのようなことは引き受けないで断ってしまおうと思ってしまう。これらは上から下目線で他人を見ているために、自分の頭で想定していることと現実の乖離が発生して自分一人がイライラしてストレスをため込んでいるのです。森田理論では、他人に自分の「かくあるべし」を押し付けないで、相手の現状を理解して受け入れなさい。そうすれば思想の矛盾で苦しむことはなくなりますよということになります。このからくりは、理屈は分かっているのですが、どうしても相手の立場を受けいれて、相手に寄り添うことができない。反発心だけが次から次へと出てくる。この対応方法が一つ見つかったので紹介したい。イライラする気持ちはどうすることもできないので、それは受け入れるしかない。でも愚痴や批判を口にすることをなるべく控えることは意識すればできる。自分の心の中で思うのは仕方がないとしても、他人の前では口にしないように心がける。次に自分が相手のために何か役に立つことはないかと考えてみる。相手を楽にしたり、楽しませることはないかと考えてみる。思いついたら、一つを選んですぐに行動に移す。例えば、配偶者が部屋の拭き掃除をほとんどしない。観葉植物の水やりをしてくれない。家庭菜園の畑に入るのに長靴に履き替えない。こんな時に相手に不満をぶちまければすぐに喧嘩になる。そこで、自分が相手に何かしてあげられることはないかと考えて実行するのだ。発想の転換ですね。こう考えることがポイントです。配偶者は食事の準備、洗濯と大忙しだ。せめて拭き掃除ぐらいは手伝ってあげよう。それで弾みがついて、掃除機をかける。整理整頓をするようにもなる。配偶者とは険悪になることなく、感謝されることもある。観葉植物の手入れは自分の趣味でやっていることだ。相手が水やりをしてくれないと不満をぶちまけるのはお門違いだ。自分で毎日水やりをして、手入れを楽しめばよい事だ。不平不満を言わなくなるだけで、イライラはすぐになくなり、険悪な人間関係は避けられる。家庭菜園に外出用の靴で入ると靴が汚れるので、ホームセンターに行って畑仕事に適した靴を買ってあげる。お互いがwin winの関係になれる。グチや批判ばかりに集中するのではなく、相手に何か役立つことはないかと考えて見つける。そして即実行することで人間関係はまるっきり変わった方向に進むと思いますが如何でしょうか。
2019.12.06
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先日親戚の法事があった。そこにやってきたお寺さんはまだ若い住職だった。頭は刈り上げてあり、青々としていた。法事の後の食事会でその真意を聞いてみた。すると、本当はふさふさの髪であるが、その状態で檀家を回るのは気が引ける。大体お坊さんは、剃髪しているか、もともとハゲの人が多いじゃないですかといわれる。職業柄、無理して髪を切って、坊主を装っているということだった。そうしたほうが、普段の生活態度や話す内容に重みが出てくるじゃないですかといわれる。なるほど、住職さんは我々ハゲとは逆の悩みを抱えていたのですね。いわばハゲを装うことにことさら神経を使っている人もいるというのが不思議だった。私たちがかつらをつけたり、植毛したりしてハゲをごまかしているのとえらい違いである。私は以前ハゲでそのことに劣等感を持って、人前に出ることを躊躇していた。特に写真を撮って後で見ると、情けなく、極力写真は見ないようにしていた。だから、この住職さんのように髪が豊富であることに不都合を感じている人がいることに大変驚いた。たしかに髪が多い人は寝癖がつくことがある。それを直すには時間がかかる。また出勤前にはハゲと違って整髪にそれなりに時間がかかる。15分から30分ぐらいかけている人もいるのではないか。髪を洗うとシャンプーやリンスもたくさんいるし、髪を乾かす時間も相当かかる。元々ハゲている人は、その時間は別のことに有効活用できる。またハゲている人は、それだけで大きな社会貢献をしている。存在そのものに大きな意味があるのである。ハゲていない人に、優越感を与えているのだ。その証拠にみごとにハゲ上がった私の頭を見て、ニヤニヤする人が時々いる。よくあんなハゲ頭で公共の席に出てこられるものだと思っているのかもしれない。ここでは相手に十分優越感を持ってもらいたいものだ。こうしてみると、ハゲを自分の個性としてとらえて、ハゲのまま生きていけばよいのだ。こういうふうに決意すれば、精神的にとても生きやすくなる。あとは別の方面で持てる能力を高めていけばよいのだ。そちらのほうにエネルギーを投入する。そうしないと人生はあっという間に終わってしまう。私は飲み会や会合などに行くと、「お寺さんがこられた。今日は数珠を持ってこなかったよ」などとからかわれることが多くなった。以前の私ならふてくされていたいた。今は違う。ハゲを逆手に取っている。時間があれば、お寺さんになりきって数珠をとり出して、一人一芸を披露する。だから数珠は必需品となった。お経を披露するのだ。これがみんなに受けるのだ。みんなが喜んでくれると私もうれしい。ニンジンゴボウ筑前煮ガンモや玉子はおでんにせい寒い冬にはブリ大根暑い夏には生ビール飲みすぎ食べ過ぎ即キャベジン精力減退養命酒疲労困憊アリナミン法事はたびたび開けお布施はたくさん包め寺への寄付を忘れるな寺の総代引き受けろチーン (ここで鐘の音を鳴らす)家 内 安 全火 の 用 心夫 婦 円 満交 通 安 全一同 合掌 礼拝 (おもむろに頭をさげる)私が頭を垂れると、多くの人が思わず礼拝するのが見てて面白い。これですっかり場が和むのだ。これはハゲという個性を活かしたパフォーマンスである。ハゲはこのように活かせば、世のため人のためになる。ハゲを隠そうと悩むよりそれを活かしていく道もあるということだ。猿から人間への脱毛の歴史や髪の手入れ無用の効用などを説明すると、髪のふさふさの人が自分もハゲになってみたいなどと不謹慎なことをいう。奇特にも、女性の中には私はハゲは全然気にならないという人もいる。今ではピカピカに磨いてツヤを出したいと思っている。よいワックスがあれば紹介してもらいたいものだ。ただしハゲになると帽子をかぶらないで、太陽の光を直に当てると気分が悪くなる。皮膚がんになるかもしれない。その点に十分に注意して日光に当たろう。これは太っていることに劣等感を持っている人も同じことが言える。自分ではうまくごまかして隠しているつもりでも、周りの人はすべて分かっているのだ。そうなら、太っていることを正々堂々と認めて公開して、それをネタにしてみんなを喜ばすことを考えてみてはどうだろうか。そのほうが自分周りに人は近づいてくるはずだ。それは他人を寄せ付けないバリアを取り払ったからであると思う。それが精神衛生の上でも大いに役立っているのである。
2019.12.05
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2019年10月5日から6日に森田療法学会で、室蘭工業大学の田所重紀先生が、学会奨励賞講演をされた。その内容が生活の発見誌12月号に紹介されている。「日本の森田療法から世界の自然人間学へ」というタイトルだったそうだ。田所先生は、かねてから森田療法の最終目的は、神経症の治療ではなく神経質の陶冶、つまり人間の再教育であるとして、森田正馬の心の健康についての洞察を理論化し普遍的なメンタルヘルスの基礎理論を作ることを目標に研究を重ねてこられた。森田正馬の洞察を国や時代を超えて活かし続けるには、森田独自の用語を排し、全ての人に理解可能な表現を用いて、最終的には森田正馬という名前を消すことを目指しているということでした。田所先生が考案した森田療法に変わる名称というのが「自然人間学」です。徹底した自然論に基づき、「健康な心の有り様とその実現方法や人間の生き方を実践的な理論に仕立て上げようというものです。神経症の治療だけでなく、治療後の生涯学習に取り組んでいる生活の発見会は、この研究に協力できる素地があるのではないかと思いました。この考え方は私がかねてからこのブログで訴えていることで、同じようなことを考えている人がおられていたことに驚くとともに、将来のひとすじの光を見た思いがした。今後の活躍を注視していきたいと思う。私は森田理論に関心の強い精神科医、カウンセラーによる神経症治療としての森田療法は、今後も残っていくだろうと考えている。特に神経症軽快後の認識の誤りの是正にまで踏み込んだ治療法に、他の精神療法にはない独自性があると考える。人生観の確立にまで踏み込んで神経症の克服を目指している精神療法は森田療法以外には存在しない。ただし他の精神療法の拡大、薬物療法の発展、脳科学の解明などによって、森田療法の存在意義は相対的にまだまだ縮小を余儀なくされていくだろうと思う。現在日本での森田療法は風前の灯火であり、その拠点は中国に移っている感がある。ですから、神経症治療としての森田療法を声高に訴えることは犬の遠吠えのようなものだ。さて、森田理論学習を30年以上も続けていると、その内容には驚くほど深いものがあると思う。生の欲望の発揮を目指す考え方、欲望と不安の調和を意識しながらの生活、不即不離の人間関係、言葉、観念、理想を最優先させた思考方法を事実に基づいた思考や行動に転換する考え方などである。この分野は人生観の確立のみにとどまるものではない。本来の人間の生き方、人間関係、子育て、教育問題、国と国の関係、戦争や紛争、世界の平和、強欲資本主義の弊害、環境破壊の問題を解決するための基礎理論になるものである。森田先生がもし現代に生きておられたならば、当然そういう方向に足を踏み入れられているに違いないと思う。時代の大きな要請に伴い、神経症治療から、その方面の活動に軸足を移されているかもしれない。森田療法が今後大きな発展を遂げるとすれば、その方面の活動が全世界で認知されて、森田理論の研究がさらに深められていくに違いない。田所先生の言われる森田の特殊用語の廃止、森田正馬という個人名を出さないという事までは考えていなかった。言われてみれば、特殊用語を使わなくても、真意が伝わるように変更することが必要なのかもしれない。またいつまでも森田先生を教祖のように崇め奉ることは森田先生の望むところではないと思う。田所先生の提唱されている、「自然人間学」という言葉は、私たちからするとその真意はすぐに分かる。特に「人間学」という言葉はピッタリだと思う。ただし、「自然」という言葉は、いかようにも拡大解釈できる言葉であると思う。もう一工夫の余地があるのではないか。以前から、森田療法、自然療法、家庭療法、自覚療法、自然治癒力、特殊療法などいろいろと提案されてきたがいづれも適当ではない。私もいろいろと考えてみた。「生き生き人間学」「あるがまま人間学」「精神健康人間学」「生きづらさ解消人間学」「生きがい人間学」「精神解放人間学」・・・。これは多くの人の提案をいただいて、森田療法学会、メンタルヘルス岡本記念財団、生活の発見会あたりで共通の言葉を改めて提案していただきたいと思う。そして、新しい森田を求めて羽ばたいていこうではありませんか。
2019.12.04
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少年野球の守備練習を見た。先入観としては、例えばショートゴロが飛んできた時、ショートが確実に捕球して、正確なスローイングでファーストでアウトにする練習かと思っていた。そんな簡単なものではなかった。当然それぞれのポジションの守備練習には時間をかけていた。しかしそれが終わると全員による守備練習を行っていた。これが素晴らしいと思った。ショートゴロ一つで全員がそれぞれの役割に従って、スムーズに動いているかどうかの練習をしていた。ショートゴロが飛んでくると、捕手とライトは一塁方向にカバーに走る。ショートの暴投に備えているのだ。セカンドは二塁に走る。センターとレフトは二塁ベースの後方に走る。サードはショートのカバーからすぐに三塁ベースに戻る。レフトはその後三塁のカバーができる位置に戻る。ピッチャーも三塁ベースの横あたりに移動する。そうすれば万が一の暴投に備えて失点を未然に防ぐことができるというのだ。あるいは失点しても最少失点でくい止めることができる。これがランナーなしの場合、一塁にランナーがいる場合、二塁にランナーがいる場合などを想定してどう動くのかを確認していた。少しでも動きをゆるめる選手にはすぐに指導が入っていた。暴投というリスクに備えて、全員で最悪の事態を想定して練習に取り組んでいたのだ。まさに全員野球だ。打球方向とは関係のないところにいる選手でも、次の事態に備えた行動が求められているのである。そして習慣になるまで反復しているのだろう。私は少年野球の練習を見ていて次のように感じた。森田理論は目の前の出来事は絶えず変化消長していくという。森田先生は、ことさら「変化流転」「諸行無常」を説明されている。「万物の変化流転・世の中の定めのないことは、これを生死盛衰の法則で、けっしてこれを不変常住にすることはできないものである」(森田全集第五巻 710ページ)これは宇宙の法則であり、人間の意志の力でコントロールすることはできない。不安や恐怖も例外ではない。嫌なものだが、「変化流転」「諸行無常」に身を任せることだ。私たちができることは、その流れに乗って前に進むことだけである。その際、少年野球の守備練習のように、不安が教えてくれたリスクに対して事前に対策を立てて準備をすることはできる。できるだけ不安に学んで、これから想定されるリスクや事態に対して事前に手を打っていく。そうして致命的な事件や災害を回避して命を守っていくことが、生きるということではなかろうか。現状に満足して緊張感とは無縁な生活だけは避けたいものだ。
2019.12.03
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私はこのブログで愛着障害がその人の対人関係に大きな影響を与えていることを紹介してきました。その他、親が子供の成長過程の中に「敏感期」があるということを学習していると、子育てがスムーズになり、楽しくなることが分かりました。これはモンテッソーリの子育てのなかで紹介されています。子供や孫を持っている人はぜひ参考にしてください。「敏感期」は、その時期がくれば、どんな子供にも自然発動してくるものです。あらかじめ子供にプログラムされているものなのです。その時期をとらえて、親や保育者が環境を整えて援助してあげると、子供たちは発達段階をスムーズに通過することができる。「敏感期」にはいろいろなものがあり、また時期があります。それらを整理して、時期を外さないように見守っていくことが極めて重要になります。反対に親や保育者がその発達過程を無視すると、子供は十分に育つことができなくなる。それどころか大人になったときに問題がでてくる。生きづらさを抱えることにつながりやすい。早速紹介しましょう。言語・・・胎生7か月から5歳半。胎児の段階から母親の声を聴いています。2か国語を聴いていると、2つの言語を使うことができるようになります。離乳・・・5か月ぐらいから始まり1年ぐらいで終わります。秩序・・・1歳半から2歳半が特に強くなります。順番、場所、やり方、位置などにとてもこだわる時期があるのです。例えば食卓なども家族の座る椅子などにこだわります。いつも決められたとおりに行われるということが安心感につながるのです。小さいもの・・・1歳の後半から2歳半の時期です。小さな生き物や大人が気に求めないような小さな変化に、敏感に気づく時期です。感覚・・・感覚は0歳から3歳半。触覚は2歳から3歳まで。見る、聞く、匂う、味わう、触れるなどの五感が精錬される時期があるのです。書くこと・・・3歳半から4歳半。書くことに夢中になる時期です。この時期までに、目と手の共同作業をたっぷりしていると、書くことが楽にできます。読むこと・・・4歳半から5歳半。他人のしぐさや言動から相手の気持ちを読むことができるようになる時期があるのです。数・・・4歳から6歳。置く場所、順序、多い、少ないなど、日常生活の中の数的な要素に敏感になる時期です。挨拶・礼儀・・・3歳半から6歳。「ただいま」「おかえり」「おはよう」「こんにちは」というあいさつが身につく時期です。季節や年中行事の挨拶にも興味が出てくる時期です。運動・・・多様な動きを獲得する時期は生後6か月から1歳半。獲得した運動をさらに調整・洗練するのは6か月から4歳半。自分の意志で動かせるからだをつくる。頭から、指先までよく動かせる環境が大切になります。文化の習得・集団・モラル・・・6歳以降。発達の第二段階へと入っていきます。興味や関心が家族から友達との関係へと変化してきます。家族よりも友達やグループで何かをすることが好きになり、モラルや道徳が働きます。モンテッソーリの子育ては、子供の「敏感期」を意識して行われます。好奇心を刺激するための様々なツールを開発して、触れさせるようにされています。これによって身体の成長、しつけ、好奇心、勇気、積極性の豊かな子供に成長していくのです。親が子供の側にいて、このような意識で見守ることで、お互いの信頼関係が深まっていくのです。(0~6歳のいまをたのしむモンテッソーリの子育て クレヨンハウス 40ページより引用)
2019.12.02
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最近カラオケでちょっとしたうれしい出来事があった。三山ひろしの「あやめ雨情」を毎日練習していたがどうしてもうまくいかない。こんな曲だ。夢で逢いたい 抱かれたいそれを未練と 云うのでしょうか濡れてむらさき あやめの花を見ればなおさら あなたが欲しい雨よ・・・雨・・雨 降らないであの日の思い出 消さないでどこが難しいかというと、「あやめの花を」「見ればなおさら」の部分だ。高音で歌うところですが、声が上ずるのです。毎日何回もyou tubeのカラオケに合わせて練習していたのですが上手に歌えない。どうして高音部分の声が出ないのか。結論として、この曲は自分には合わないので、持ち歌にするのをすっぱりとあきらめようと思っていた。それをカラオケ仲間に話した。するとこんなアドバイスをしてくれた。高音部の声がつまるのは、その歌詞の部分にあるのではないというのだ。その前の部分の歌詞に力を入れすぎている。つまりそこで高音のマックスの状態で歌っている。つぎにさらに高音で歌おうとしているので声が詰まってしまうのだ。本来は「あやめの花を」「見ればなおさら」が高音マックスにしなければいけないのに、ふんずまりになっているというのだ。ではどう歌えばいいというのだ。自分では皆目見当がつかない。するとyou tubeで三山ひろしのその部分の歌い方をよく聴いたらいいという。気になるので、家に帰って録音機に録音して、リピート機能を使って該当部分を何回も聴いた。何回も聴いているうちにやっと分かったのだ。急にうれしくなった。言葉にして説明することは大変難しいところですが、「あやめの花を」ところは「花を」がポイントだった。ここで思い切り声を張り上げるのではない。「はあなあを」の2つの「あ」に若干力を入れるようにして抑揚をつけることだった。すると「見ればなおさら」という部分の高音が格段に出ることが分かった。「降らないで」の部分も思い切って声を張り上げるのではなかった。「ふらなあいいで」と「いい」に若干意識を持っていく。すると「あの日の 思い出」という高音部分がスムーズに歌える。自分の歌い方と三山ひろしの歌い方の違いがはじめて理解できたのです。観察しているようでも、実際には観察不足だったのだ。後日仲間の前で歌うと別人が歌っているようだと言われた。「どうして早く教えてくれなかったのか」聞いてみた。you tubeで毎日練習しているので、そのうち自分で気がつくだろうと思っていたそうだ。「この曲は持ち歌から外す」と言ったので、気づいたところをアドバイスしたのだそうだ。森田理論に、「砕啄同時」(さいたくどうじ、そつたくどうじ)という言葉がある。鳥のヒナが卵の殻を破って生まれ出るとき、中からヒナが殻をつつくのと親が外から殻をつつくのが同時でないと、ヒナはうまく殻を破って生まれ出ることはできないということだ。アドバイスも早すぎると、その人自身がこのコツを掴むのを取り上げてしまうことになる。つまり過干渉に陥り、その人の自立や発見の喜びを取り上げてしまうことになる。反対に勝手にしろと見放してしまうと、放任状態で、信頼感の養成ができなくなってしまう。貴重な教育の機会を逃してしまうのである。カラオケ仲間は、森田理論とは縁のない人であるが、私たち以上に森田理論の神髄を理解していることに驚いた。
2019.12.01
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