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米国人の神学者で牧師として知られるラインホルド・二―バー次のようにいう。神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。この言葉は、私たちが問題にしている「不安、恐怖、違和感、不快感」への対応方法について大きなヒントを与えてくれている。熱心に森田理論学習を続けていると、どんな不安や恐怖の感情が湧き起こってきても、あるがままに受け入れることが暗黙の了解のような気持ちになる。ガンジーの無抵抗主義のような考え方をするようになる。これに対してラインホルド・二―バー氏は、不安が湧き起こってきた場合、不安が現実とならないように早急に対策を講じなければならないものがあるという。例えば、火山の噴火、地震、台風、土砂災害、寒波、熱波などの自然災害。治安の問題、生命の危険、健康不安、認知症、経済の悪化、生活不安、子育て、人間関係、自然破壊などの社会問題もある。これらに気がついた場合は、最悪の事態を回避するために、早急に対策を立てて予防しなければならないのだ。しかし一方で不安や恐怖を取り除こうとして対応すればするほど、事態が悪化する場合がある。神経症的な不安である。あるいは生まれ育った環境、境遇、運命などもそうである。森田理論では、不安を取り除こうと格闘すればするほど、精神交互作用で不安は強まる。最終的には神経症というアリ地獄に陥ってしまう。観念上の悪循環と生活上の悪循環で、生活の停滞を招いてしまう。そういう不安は欲望と裏腹の関係で湧き起こってきているものです。欲望の暴走が起きないように、車でいえばブレーキが効いているようなものです。この場合、アクセルを踏み込んで車を前進させることが大切です。それが前提です。神経症に陥る人は、アクセルを踏みながらも、それ以上の力を加えてブレーキを踏み込んでいるようなものです。そんなことをすれば車は前進できません。さらに車がが壊れてしまうことは容易に想像ができます。不安は横において、生の欲望の発揮に力を入れることが肝心です。
2019.06.30
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今日は3月に植えたジャガイモの収穫をしました。10個の種イモからこれだけの収穫がありうれしい限りです。水をかけて土を落とした状態です。注意して鍬で掘り起こしたのですが、多少傷がつきました。ポテトサラダ、カレーの具などにしたいと思います。9月にはまた秋ジャガを植えます。現在はトマト、ナス、サトイモ、生姜、サツマイモ、トウモロコシ、カボチャなどを植えています。それにひまわり、アジサイなどの季節の花が満開です。特に清楚なアジサイには癒されますね。家庭菜園は趣味と実益を兼ねて、森田実践には最適ですね。これからも園芸には力を入れたいと思っています。もっと田舎でゆっくりしたかったのですが、夜は飲み会兼カラオケ大会が待っていますので、早々に引き上げてきました。
2019.06.29
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相手の話を「きく」ということに3種類あるという。自然に耳に入ってくる「聞く」、相手に問う「訊く」、そして相手の心に寄り添いながら、相手の言葉に耳を傾ける「聴く」である。カウンセリングや森田理論学習の場では、「聴く」という態度が欠かせない。集談会での体験交流の場では、盛んに「傾聴」を意識するようにと言われる。これはカウンセリングの技法の一つである。そのためには、相手にどんどんしゃべってもらうようにする。人と会話するときに50%対50%の割合でしゃべっていると、相手からすると、「今日は相手ばかりしゃべっていた」と感じるという。不満やストレスを感じるようになるのだ。これを70%相手にしゃべらせて、自分は30%に抑えるように意識する。すると、相手は今日は自分の話をよく聴いてもらえたと満足する。あるいは、「今日はお互いによく語り合った」と納得するのだ。会話するときに気を付けたいことは、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けないことだ。断定的、指示、命令な発言は避けることだ。自分の場合はこうだったと体験を話してあげる。また相手の話を、安易に是非善悪の価値判断をしないで聴くということだ。裁判官のように自分のことを裁かれるのは、自分が否定されるように感じることがある。相手の考え方、現実や現状を正確に把握するという気持ちで聴くようにするよいと思う。事実を正しく分かろうとすることに意識を集中することだ。相手の長所や能力を見つけて誉める、評価することよりも、まずは事実を認めて受け入れることに注力する方がよいと思う。それを一貫して持ち続けるようにする。そういう姿勢を相手は敏感に感じる。信頼関係が徐々に形成されると相手に安心感が生まれる。心の安全基地ができるようなものである。そこを起点にして、少しずつ人間的な交流の輪を広げていく。そして世話活動などにも参加していく。そんな人間関係の中で、無理しないで森田理論学習や森田実践を積み重ねていきたいものです。
2019.06.29
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私は現在ホームページ作成の勉強をしている。目的の一つは、老人ホーム慰問の仲間を増やすことだ。チンドン屋、一人一芸に興味のある人を近郊に住んでいる人に紹介して、一人でも二人でも仲間を増やしたいのだ。とにかくやってみたいと思わせるような素晴らしいホームページを作りたい。そうすれば私が引退した後も続いていく。もう一つ目的がある。この「森田理論学習のすすめ」というブログは生涯にわたって取り組みたいと思っている。これは普段の生活で気づいたことを、森田的な観点からランダムに日記風に書いている。これ以外に「森田理論学習のすすめ方」というホームページを作りたいという気持ちが強くなった。その中身としては、まず森田神経症の適応診断をつけたい。その他、神経症とは何か、学習して森田実践をした時の将来像、森田理論学習のすすめ方と取り組み方、参考図書、DVDなどの紹介、専門医、臨床心理士、自助組織、森田療法学会、メンタルヘルス岡本記念財団、生活の発見会などのお役立ち情報や公開講演会などの紹介、その他森田関連の優れたブログやYOU TUBEの紹介。私の作成したテキストの紹介や質問コーナーも作ってみたい。そのために商工会議所主催のホームページ作成講座を受けているのだ。今のところ大まかなことは分かった。細かいことは今から本格的に学習する。基本的なところでは、ホームページを作成するソフトが必要であることが分かった。授業ではホームページ・ビルダー18を使っていたので早速私も買った。今はバージョン21だった。テンプレートもたくさん用意されており、難しいHTMLという特殊言語を理解しなくても、ワードのような感覚で作成できることが分かった。写真や地図の挿入、リンクを張るのも簡単だ。私のブログとのリンクを張ることもできる。次にホームページを公開するためのサーバーをレンタルする必要があることが分かった。これには無料サーバーがいろいろとあることが分かった。Yahooのジオシティーズが有名だったが、2019年1月サービスを中止したのは残念だ。授業ではFC2の無料サーバーを利用していた。私もこれを利用させてもらっている。最後にいよいよホームページを公開するのだ。これも専用ソフトが必要なのだが、ホームページ・ビルダーには、公開するためのソフトが備わっているので、悩むことはない。修正も自由自在にできる。追伸 この記事は1か月前に作成したものですが、ホームページ自体は6月14日に無事に立ち上げることができました。今後少しずつ改良していくつもりです。ただ、立ち上げたばかりなので「森田理論学習のすすめ方」の検索ではまだ出てこない。URLを打ち込めば何とか出てくる状態だ。今はホームページを作りたいという人の相談にもある程度は対応している。将来は、チンドン屋や一人一芸のサイト、家庭菜園、自給生活、加工食品作りのサイトも立ち上げたい。うまくいけば、これはまだまだ先になると思うが、ファイナンシャルプランナーの資格を活かしたサイトも手掛けてみたい。楽しみはどんどん拡がっていく。
2019.06.28
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児玉光雄氏によると、人生を成功に導く人間とそうでない人間の違いは「才能」ではない。「うまくいかないときの原因をどこに求めるか?」の違いにあると言われる。これに関して、心理学者のB・ワイナーは、人間が失敗したとき、原因をどこに求めるかについて研究を積み重ね、「原因帰属理論」を唱え、注目された。この理論を構成する要素は、「努力」「目標レベル」「運」「素質」の4つである。ワイナーによると、勝者は失敗の原因を「努力不足」と「目標レベルのまずさ」に求め、敗者はその原因を「運のなさ」と「素質のなさ」に求めるという。「運」や「素質のなさ」は、自分では、もはやほとんどコントロールできない。だから、うまくいかないことを運や素質のせいにしてはいけない。そのことが「言い訳」というよくない要素を増殖させ、モチュベーションを低下させている。一方、努力や目標レベルは自分でほぼ100%コントロールできる。失敗の原因を「努力不足」と「目標レベルのまずさ」に求め、目標を改良したうえで努力を重ねれば必ず成功に導ける。(イチロー哲学 児玉光雄 東邦出版 4ページより引用)ここでいう「運が悪い」というのは、自分の理想として頭の中で思い描いていたような展開にならなかったということである。「最悪だ」という言葉をよく口にする人がいる。同じようなものだ。いつも上から下目線で現実を批判、否定している人である。現実、現状、事実を認めることができない人は、今までもこれからも不幸を自ら引き寄せてしまう人だ。こんな人生は歩みたくないものだ。そのためには、森田理論が教えてくれているように、事実に立脚し、事実にこだわる生き方を押し通すようにしたらよいと思う。「素質がない」というのは、自分には成し遂げる能力が備わっていないということだろう。しかしよほどの天才でない限り、最初から次から次へと困難を乗り越えて成功をつかむための能力を備えている人はいない。能力は自分で獲得していくものだと思う。そういう能力を獲得するために、成功した人は、それ相当の努力をしているはずだ。イチロー選手は努力の人と言われているが、生活のすべての面にわたって、毎年200本以上のヒットを打つことを目標にして試行錯誤の連続の生活を送っておられた。成功の裏には、私たちが考えも及ばないほどの、失敗を経験してこられた。それでもへこたれずに果敢に挑戦してこられたからこそ、自信や能力が身についたのだと思う。自信や能力は降って湧いたように、突然身につくものではないはずだ。私たちはどんなに小さくてもよいので、自分が取り組むべき問題や課題を常に持ち続けていくことが大切だと思う。そのためには、大きな夢や目標などは持てない人でも、日々の日常茶飯事だけは手を抜かないで真剣に取り組んでいくことをお勧めしたい。これが抜け落ちると、「私は何のために生きているのだろう」と悲観的なことばかり考えるようになると思う。
2019.06.27
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スポーツ選手で、試合で最高の成績を上げるために練習をするのだという人がいる。この考え方だと、本番で成功を勝ち取るために、練習をすることになる。本番が主力で、練習は従になる。練習はつらくてイヤだけれども、やらなければいけないものになる。叱咤激励して「かくあるべし」で自分を追い込んでいくのである。これではモチュベーションが上がりにくい。練習しないで大きな成果を上げたいという気持ちを持ちながら練習しているので、改善点や課題に気づきにくい。発見や工夫もあまり湧いてこない。本音と行動(練習)が一体化していないので、心身共に苦しいものになる。元大リーガーのイチロー選手の考え方は、これとは全く異なっている。練習が主力で、本番は従という考え方なのだ。課題や目標を明確にして、練習に真剣に向き合っているのだ。練習でできるようになると、高い確率で試合でもできるようになる。感覚としては、練習で体に覚え込ませたものを、本番で問題ないかどうか確認するという気持ちなのだ。練習段階で、問題点や改善点をつぶして試合に臨んでいる。練習では100パーセント以上に仕上げているのだ。これだと、プレッシャーに押しつぶされることが少なくなる。本番でミスや失敗をしても、また次の練習の課題にしてしまうのだ。そのための練習だから、気づきや発見・工夫が次から次へと湧き上がってくる。モチュベーションが上がるのだ。私はこれの考えを楽器の演奏に取り入れている。老人ホームの慰問活動で、アルトサックスを吹いているのだ。お年寄りががよく知っている昔の歌謡曲だ。それだけに間違えるとすぐに分かってしまう。だから本番前には相当のプレッシャがかかるのだ。失敗してみんなに笑われたくない。そう思えば思うほど、不安が増してくる。手の動きが悪くなる。そこで、練習は本番1週間前から30回から50回ぐらい丁寧に繰り返すことにした。また新しい曲に取り組むときは、200回にしている。何回も練習している曲は、もう指が勝手に動くので、意識していないと練習に熱が入らないのである。そして5回から6回の練習だけで本番に臨んでしまうことがある。これが命取りになるのだ。普段間違えたこともないようなところで間違えたりする。また、練習の裏付けがないので不安で苦しむのだ。このやり方は完全ではないが、プレッシャを少なくしてくれている。
2019.06.26
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元大リーガーのイチロー選手は、20代のころは「自分にも厳しく、他人にも厳しく」というのが口癖だったという。毎年200本以上のヒットを打つことを目標に掲げて、そのために過酷な練習を積み重ねていった。普段の生活もその目標達成のために、気を緩めるということは考えられなかった。規則正しい生活、自分の野球道具を大切に扱う。ルーティンを大切にされていた。他人に対しても、自分と同じような姿勢でストイックに野球道に取り組んでいる人以外は受け入れることができなかった。ちゃらんぽらんな気持ちの人を軽蔑されていたという。ところが30代に入るとその考え方は、「自分には厳しく、他人には寛容に」と変貌を遂げていったという。「他人の失敗が許せない」から「他人の失敗は見過ごす」に変わっていったという。自分に対しては、目標に向かって努力精進する気持ちは変わらなかったが、たとえミスや失敗をしても許せるようになったという。そのミスや失敗を糧にして、さらにモチュベーションを高めることができるようになった。(イチロー哲学 児玉光男 東邦出版 59ページより要旨引用)これは「かくあるべし」で自分や他人を上から下目線で眺めて、批判や否定していた態度がなくなったといわれているのだと思う。いかに理想とは程遠い事実、現実、現状であっても、それらを素直に認めて受け入れることができるように変貌を遂げたといわれているのです。「かくあるべし」で自分や他人を批判、否定する態度は、対立を生んで、事態はますます悪化する。現実や現状にしっかりと寄り添い、小さな日々の課題を淡々とこなしていくことに価値を見出した。他人に対しても、たとえ思うような成績をあげることができていなくても、そういう姿勢で努力精進している人を温かく見守り、励ましてあげることができるようになった。そうすると精神的な葛藤がなくなり、他人と対立することがなくなったといわれているのだと思います。自己嫌悪、自己否定、他人否定することがなくなり、余計なことで時間をつぶすことがなくなった。目の前の課題に向かって集中的にエネルギーを投入することができるようになったのです。これは「かくあるべし」の生活態度の弊害が理解できても、なかなか事実本位の生活態度が身につかない我々にとってとても驚くべきことです。私たちは森田理論学習によって、曲がりなりにも「かくあるべし」の弊害はよく理解できた。あとは森田理論が教えくれたいくつかの手法を生活面に応用して、少しづつその方向に近づいていくようにしたい。これは一人で習得することは難しいと思うので、自助グルーブの仲間と切磋琢磨し、励まし合って、ある程度の時間をかけてものにしてゆきたいものです。
2019.06.25
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昨日の続きです。精神拮抗作用という元々人間に備わった能力を、子供の生育過程で順調に身に着けさせて上げることが親の務めとなります。そうしないと欲望が暴走して大変なことが起きるからです。そのためには、これから親になろうとする人、子育て真っ最中の人、孫がいる人は、子供の発達過程や育て方について学習する必要があると思います。そのための先人の知恵は数多く蓄積されています。現在は核家族の家が多く、子育てについて相談する人もいない。子育ては知識もなく、自己流で惰性に流されて取り組むような簡単なものではないと思います。親になれば誰でも、自己主張できる子、自発性のある子、好奇心旺盛な子、困難に果敢に挑戦する子、自立して自分一人で生きていける子、思いやりのある子に育ってほしいと願います。ところが、子育ては毎日ひやひやハラハラすることの連続です。課題や問題だらけの子育てが待ち構えているのです。第一反抗期、中間反抗期、第2反抗期では、あからさまに親に歯向かってきます。そんななか、しつけと称して、過保護、過干渉、放任の子育てが横行してくるのだと思われます。これが自己統制能力の獲得を困難にしているのは、昨日の投稿で指摘した通りです。親が子育ての基本を学習するという姿勢を持っことが欠かせないと思います。母親だけではなく、父親も参加する必要があると思います。親の心構えが分かった人だけに、子供を持つことを許可するぐらいの気持ちで取り組むことが大切なのではないかと思います。そうすることで、子供たちはやっと欲望の暴走を自ら制御できる人間へと成長してくるものと思います。こういう親業の学習をしている人が多くは見当たらないというのは、子供たちにとっては大変不幸なことです。不幸にして、欲望の制御能力を獲得することなく大人になった場合はどうすればよいのでしょうか。これは残念ながら、大人になって一人でその能力を獲得することは、極めて難しいと思います。アルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症などで苦しんでいる人たちは、そり呪縛からなかなか逃れることができない。一旦克服したかに見えても、ちょっとしたきっかけで元の木阿弥に陥ってしまうケースが後を絶ちません。そういう人たちは、自分一人では克服することはできないと覚悟することが大切だと思われます。そして欲望が暴走する場には近づかない。禁断症状が出てきてもなんとか耐え抜くことが大切です。次に自助グループに参加して、学習や情報の共有、励まし合いながら生活することです。幸いすべての分野にわたって依存症に関係している人はほとんどおられません。アルコールならアルコール。薬物なら薬物。ギャンブルならギャンブルに限って欲望の制御力が効かなくなっている場合がほとんどです。自分がどの分野で欲望の制御がきかないかというのは自覚できると思いますので、それには絶対に近づかない、二度と手を出さないという強い気持ちで生活することが大切です。私も40代ぐらいの時にパチンコ依存症になりかけました。湯水のように、たくさんのお金を使ったことがあります。意を決して止めようと思っても、自然に足がパチンコ屋に向いてしまうのです。やめた当時はとても苦しかったのですが、このままでは家計が火の車になって、家族は崩壊してしまうということで断腸の思いでやめました。やめてから何年も経ちますが、現在はパチンコをしたいという欲望は全くなくなりました。でも軽い気持ちで、パチンコ屋に足を踏み入れると、またギャンブル依存がぶり返すかもしれないと思っています。制御能力が欠けていることは、ブレーキの壊れた車に乗って、坂道でアクセルを踏み込んでいるようなものです。大変危険です。二度と近づかないという強い意志が必要だと思います。
2019.06.24
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欲望を暴走させないように制御する能力を身に着けることは大変重要である。森田理論によると、「精神拮抗作用」によって調整されるものといわれている。これは、精神現象にはある意向が起きれば、必ずこれに対抗する反対の観念が起こって、我々の意志の行動が制御されているという考えである。例えば時間が経てば腹がへり、ご馳走を見れば食べたくなる。その時最近は胃腸の調子がよくないので、食べ過ぎないように注意しようと抑制力が働くようになっているのだ。この能力は人間には元々生まれながらに備わっているものであるという。そのために欲望の暴走は理知の力によって調整されて、問題行動して表面化しないというものである。それなら次のような疑問が湧いてくる。アルコール依存、ギャンブル依存、ネットゲーム依存、薬物依存、風俗依存、買い物依存、グルメ三昧などはどうして発生するのだろうか。精神拮抗作用が元々人間に備わっているのならば、すぐに理知による制御力が発動して欲望が暴走することはないように思える。しかし実際には欲望が暴走して健康を害し、経済的に破たんを招き、社会から糾弾される人が後を絶たない。またその予備軍も含めると、多くの人が欲望の暴走に振り回されているのが実情だ。その手がかりを求めて、私の考えをまとめてみた。元々人間は精神拮抗作用を身に着けて生まれてくるのだと考えています。しかし、生まれてからの両親、祖父母、周囲の人間関係や育てられ方によって、制御能力が失われて、欲望の暴走が引き起こされているのではないかと思うのです。それが顕著に現れるのは、過保護、過干渉、放任やネグレクトなどの環境で成長した子供の場合です。この3つは、よほど注意しないと、どこの家庭でも陥りやい傾向があります。両親や祖父母によって、欲しいといえば何でも与えられた子供は、欲望はどんどんとエスカレートしていきます。また子供ができることを両親や祖父母が、子供になり替わって済ましてしまうと、子供は依存することが当たり前になってしまいます。そうなると、両親や祖父母がやってくれないことがあると、我慢できなくなります。家庭内暴力や家のお金を盗むようになります。この世界は自分を中心に回っているかのように錯覚し、思い通りにならないことは受け入れられなくなります。過保護で育てられた子供は、抑止力が働かなくなり、欲望が暴走することになるのです。過干渉は、子供のやることに両親がいちいち口に出して、叱ったり、命令したり、体罰を加えたりすることです。「かくあるべし」を子供に押し付けるような子育てです。子供は親の言動に不安や恐怖を覚えるようになります。次第に自分の気持ちや意志を封印して、親に服従するようになります。本来の子供らしい自由な行動ができなくなってくるのです。精神拮抗作用というのは、自分の自由な言動が保障されているときに発動してくるものです。ここが大切なところです。子供に自由行動を促して、口を出さない、手を出さない子育てをしていると、責任感が育ち、自己制御能力も鍛えられるのです。自由がなく抑圧された状態の中では、自分を防御することで精いっぱいになり、他人を思いやるという面は希薄になってきます。抑圧された感情は、どこかにはけ口を求めてさまようことになります。とても行き過ぎた欲望を制御するという精神状態にはならないと思われます。放任やネグレクトの場合は、両親が育児放棄して、ほったらかしにしている場合です。子供は愛着障害を抱えて精神的に不安定になります。他人を信頼できなくなり、怯えるようになります。心の安全基地がないので、心の安定を求めて刹那的な快楽を追い求めるようになります。それは次第にエスカレートして暴走を繰り返すようになるのです。欲望の制御能力の発動は蚊帳の外となってしまいます。またもう一方では、見守っている親がいないので自己中心で、身勝手な行動で、他人に迷惑をかける子供になってしまいます。反社会的な行動をするようになると、抑止力の発揮どころではなくなります。このように見てくると、精神拮抗作用は生まれてからの子育ての過程で、順調に育まれている人が存在する反面、機能しなくなっている人がいると思われます。ではそういう人はどうすればよいのかを明日考えてみたいと思います。
2019.06.23
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啓心会を始められた水谷啓二先生は、熊本の第5高等学校在学中に神経症で苦しんでおられた。適当な療法を求めて上京し、森田先生の診断を受けられた。強迫神経症であると診断された。そこで休学して、強迫神経症の苦しみを治してもらってから、学校に戻りたいと伝えた。森田先生は「苦しくても復学しなさい」と言って、入院の許可は出されなかった。仕方なく復学して、翌年にどうにか卒業することができた。再び森田先生にお目にかかり、「森田療法によって強迫観念を治していただいてから、来年東京帝大を受験することにしたい」とお願いした。すると先生は、「それがいけない。ことし試験を受け給え、もし受けないなら、入院は断る」といわれた。水谷氏はやむを得ず受験の手続きをして、20日ばかりやけくその勉強をして試験に臨んだ。もちろん合格するはずはないとないと思っていた。受験したことでやっと森田療法を受けることを許されたといわれている。(生活の発見誌2019年5月号より要旨引用)普通は強い神経症で苦しんでいるときは、仕事や勉強や家事が手につかないないわけです。そんな時はすぐに入院し、治療に専念して早く治してもらいたいと思うものです。そうしないと神経症はどんどん悪化してしまうと考えがちです。入院を許可しないとは、なんと無慈悲な医者だろうと思ってしまいます。森田先生は、どんなに神経症で苦しくても、自分の本分を全うしなさいといわれているのです。神経症でどんなに苦しくても、学校を休んだり退学してはいけない。勉強を中断したり、受験を取りやめるようなことではいけない。また仕事をさぼる。安易に仕事を休んだり退職してはいけない。神経症で苦しくても家事をすべて放り投げてはいけない。などといわれているのだと思います。休めばその瞬間だけは精神的に少しだけ楽になります。しかし、その後は精神交互作用が働き、どんどんと症状は悪化していきます。ではその他にどんなよい方法があるのか。森田では、神経症の不安や苦しみは持ち堪えたままにして生活することを勧めています。不安と格闘することを一時棚上げにするとよいのです。そして目の前のなすべきことに目を向けてボツボツとこなしていくのです。神経症的な不安は、欲望があるから発生したものです。不安と欲望はコインの裏と表の関係にあります。神経症の葛藤や苦悩は、生の欲望を無視して、不安の方ばかりにエネルギーを投入した結果として発生したものととらえているのです。不安の裏側には、欲望があるという認識を持って、第一優先順位として、「生の欲望の発揮」にエネルギーを投入するようになると神経症は治っていくものなのです。このことを森田理論学習で理解し、実行すればアリ地獄から地上に這い出ることができるのです。
2019.06.22
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平井信義さんは、子供を育てるにあたって一番大事なことは、できるだけ自由を与えて、自発性を育てることだといわれている。私はこの話を聞いて、森田理論の「生の欲望の発揮」のことを連想した。興味や関心、好奇心のあることは、自由に何でも挑戦させる。子供はもともと誰でも旺盛な好奇心、やる気や意欲を持っている。それをそのまま伸ばしてやれば、行動的、挑戦的、自立的、創造性の豊かな人間へと成長していく。次第に親から離れて、自分一人で生きていけるようになる。親は子供の近くにいて、子供のやっていることを見るだけでよい。近くにいて見守っているというのがポイントである。未熟な子供は、やることなすことがもたもたとして遅い、きちんとできない。失敗を繰り返す。また大人が困るようないたずらをする。おどけたりふざけた言動をとる。親に反抗する。兄弟や友達と喧嘩を繰り返す。そのようにイライラするときでも、口を出さない、手を貸さないことを心がけることだ。口を出す場合は、生命の危険が差し迫っていること、自分や他人を傷つける。等最小限にとどめる。その場合でも、私メッセージを使って、「お母さんはこうしてくれるとうれしいんだけどね」という言い方にする。どうするかの主導権は子供に持たせる。体罰や強制や命令や叱責は避けるべきである。子供の自発性を育てるためにやってはいけないことが3つある。過保護、過干渉、放任することだ。過保護 親や祖父母が、子供のやるべきことを子供になり替わってやってしまうとわがままな子供になる。何でも他人に依存して、自分では決断も実行もしなくなる。過干渉 子どもがやっていることを、いちいち指示命令したり、叱責や否定をしていると、親の顔色ばかりを気にするようになる。自分の気持ちや意志を抑圧するようになる。神経症発症のの温床となる。自由放任 親が近くにいないで子供が一人で寂しく過ごしている状態だ。心の安全基地がないので、不安で一杯である。他人が信頼できなくなり、自己防衛一辺倒に陥る。正しいことと間違っていることの区別がつかなくなり、行動の抑制力がつかなくなる。子供を育てるにあたっては、「子育ての基礎」を学ぶ必要があると思う。誰でもどのように子供を育てたらよいのかは、教えてもらわないと分からない部分がある。学習しないで、自己流の子育てはほぼ失敗する。それは理想通りの子育てをしている親はいないからだ。自分が親から間違った子育てをされていると、そのやり方を自分の子供に押し付けてしまうからである。子育てを学習しないと、世代間を超えて間違った子育てがどんどんと伝播していくのだ。その結果まず子供や孫が苦しむ。それが天に唾するようなもので親にも跳ね返ってくる。親の子育て次第で子供の生き方の大半が決まってしまうということは、十分に意識する必要がある。平井信義さんの参考図書を紹介しておきたい。「子どもを叱る前に読む本」「子どもの能力の見つけ方・伸ばし方」いずれもPHP文庫である。
2019.06.21
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先日テレビを見ていると、ある水泳のコーチが、クロールのできない人を1時間足らずで普通に泳げるように指導されていた。まずクローができない人に、川のような流水プールのようなところで、自由に泳いでもらう。それを横からビデオで撮っていた。それを本人に見てもらう。そのビデオを見ると、素人は「これが本当に自分なのか」と信じられないような表情を見せる。特に泳げば泳ぐほど下半身が沈み込んでいく。泳ぐというより、おぼれないように水と格闘しているように見える。自分の状態を外から客観的に見ることはとても役に立つ。そういう実態が分かったうえで、指導を開始されていた。ポイントは4つあった。1、体が水の中で浮いてくるという感覚を身に着ける。力を入れなければ浮力で人間の身体は浮いてくる。浮いてくる感覚が分かれば、疲れたら休める。顔を上に向ければ、おぼれる心配はなくなる。手を伸ばして顔を水の中につけて浮いてくるという感覚を養う。2、次に足の動きだが、ひざから下をバタバタと動かすのは間違いだそうだ。太ももから足全体を使ってキックするように変更する。足をシュノケリングのヒレのように使うのだ。3、手の入水だが、直線的に遠くの水をつかむというよりも、角度をつけて斜め下の水をつかむように切り替える。この方が体が浮いてくる。4、息継ぎは体全体をひねって横向きになって行う。体全体をひねらずに頭だけをあげて行うのは間違いだそうだ。そうすると下半身から沈み込んでいく。早速市営プールに行って真偽のほどを確かめてみた。ゴーグル、キャップ、補助板は必須だ。プールに入る時は、水が少々冷たかったがすぐに慣れた。1は確かに脱力すれば体は浮いてくる。顔を上に向けていると安心感がある。ただ顔を下に向けると少し感覚が違うが、手をまっすぐに伸ばして浮いてくる感じはつかめた。2は手で補助板を持って足の動きに集中する。これは認識の間違いをしていたことが分かった。上手な人は、足先の水しぶきが少しだけ立っているので、足先だけを動かしているものだと勘違いしていたのだ。ももから足全体を動かすのは初めて知った。最初は力が入り、とても疲れる。練習して脱力しながら、足全体を動かすようにしたい。3も自分の勝手な思い込みがあった。とにかくできるだけ遠くの水をキャッチして、長く水を掻くことにとらわれすぎていた。気持ち少し入水角度をつけて手を斜めにいれるようにしてみた。この時足の間には、補助板をつけて手の動きに集中した。4は体が浮く感じをつかめていると、比較的体全体をひねることができる。ただこれは1回でも誤って水を飲みこんで肺に入れると大変だ。のどが詰まり死ぬ思いで苦しむことになる。私は以前トライアスロンをやっていた。水泳が一番苦手だった。クロールより平泳ぎ、横泳ぎのほうが多かった。平泳ぎでは思い切りキックして、足を使うので、後のバイクやランにダメージを与えていた。今思えば、専門のコーチについて、クロールで無理なく泳げるようにすることが大事であった。自分で本などを読んで、一人で解決しようと思ったことが間違いだった。自分のことは、人に聞かなくても何でも分かっているというのは傲慢だ。基本や型は他人から教えてもらったり、盗まないと型なしになってしまう。客観的に他人の目で判断して、指導してもらうことが、早く上達のコツであることが分かった。これは森田理論学習も同じだと思う。これはと思う人について学ぶと驚くほど上達する。クロールは25mは難なく泳げるので、ムリなくいくらでも泳げるようになりたいものだ。
2019.06.20
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落合博満さんは、野球の指導者は、選手の置かれている状況を踏まえて指導することが大切だといわれる。まず1年目の選手。安易に「否定」の言葉を使ってはいけない。アマチュアでの実力が認められてドラフトで指名された選手たちだ。プライドも意地も持っている。そんな選手に指導者が「お前のやり方は違う。こうやらなくてはいけない」と一方的に否定してしまうと混乱する。そこで1年間だけは、自主性に任せて、選手の方からアドバイスを求めてきた場合に、その選手の実力を評価しながら指導する。その時大切なのは「褒める」「評価」してあげることだ。とにかくいいところを見つけ出して褒める。「ここがいけない」というのではなく、「ここがすばらしいね。それならここも同じようにしてみたらどうか」という言い方をする。次に、2年から3年に入っても結果が出ていない選手。ある程度練習を積み重ねているのに結果が出ていないというのは、どこかに原因があるということだ。その原因を指導者は事前によく分析しておく。本人もいろいろと打開策を考えているはずだから、それを尊重しながら、指導者として正しい練習法を教えてやらなければならない。こうした選手には、自信をつけさせることも必要だ。密にコミュニケーションをとって「俺は指導者から見放されてはいない」と感じさせることも必要だ。さて、指導者の力量が最も求められるのは、中堅クラス、6年7年と経験を積んでも目が出てこない選手に対してだろう。このままでは先がない選手だ。こういう選手には指導者主導でいく。完璧に洗脳させていくしかない。指導者のノウハウを徹底的に叩き込むしかない。(コーチング 落合博満 ダイヤモンド社 24ページより要旨引用)私はこれを参考にして、森田理論を学習し身につけるための援助について考えてみた。先輩会員は、初心者の神経症についてどんな状態なのかを把握することに専念する。注意すべきことは、相手の話を真剣に聞かないで、すぐに森田的なアドバイスを始めることだ。相手との信頼関係ができていないうちに、持論を展開することは百害あって一利なしだと思う。相手の話を否定しないで、しっかりと聞いてあげることが何よりも大切だ。今までそんな経験はあまりなかったわけですから、これだけでも精神的に落ちつくことができる。集談会に初めてやってくる人は、なんとか神経症を治したいという気持ちが強い。そのために今までどんなことに取り組んできたのか聞いてみる。薬物療法、カウンセリング、認知行動療法などの精神療法か。あるいは他の方法か。その結果はどうだったのか。森田療法を知ったきっかけは何か。森田についてどの程度の知識を持っているのか。うつなどの精神疾患がある場合は生活の発見会の協力医の紹介をする。その上で森田療法適応者かどうかの自己診断テストを受けてもらう。これを初参加者に渡すことが大切である。その結果を教えてもらう。森田適応者の場合は、集談会に継続して参加することを勧める。できれば半年から1年は続けて参加してほしいものだ。1回か2回ですぐに見切りをつけてしまうのは実にもったいないことなのだ。そして会員になって「生活の発見」誌をよく読むことが神経症の克服に結びつくことを伝える。そういう段階を通過して、初めて森田学習の出発点に立つことができる。それから本格的に森田理論学習に取り組んでいくのだ。森田理論は分かりやすく理論化されている。安心して先輩会員からその神髄について学んでいかれるとよいと思う。そうすれば、神経症は自助組織の中で乗り越えることができる。また神経質者としての人生観も合わせて獲得できると思う。
2019.06.19
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今日は、自己肯定感を高めるためのノウハウを紹介してくださっている本を紹介しておきます。この本は、森田理論の「かくあるべし」を減らして、「あるがまま」「事実本位」の生活態度になるための道筋が示されています。著者は精神科医の藤井英雄さん。出版社は廣済堂書店です。今回はこの本の中から、私が感銘を受けた言葉を紹介します。1、あるがままの自分を愛せる人は、他人に肯定してもらう必要がなくなる。2、あるがままの自分を愛せるようになると、難題が課題に変わり、大いなる存在に感謝をささげることができるようになります。私の感想を書いてみます。1は、自己信頼感、自己肯定感が持てる人は、他人が自分のことを非難、否定しても、ひどく動揺しなくなるということです。イヤなことだけれども、それにとらわれ続けることはなくなります。反対に、自分を自己嫌悪、自己否定している人は、無理をして他人の承認や賞賛を得ようとします。自分の気持ちや、意志を抑圧して、他人の気持ちや意志に従おうとするのです。他人の人生を生きているわけですから、生きることがつらくなってくるのです。自己肯定感、自己肯定感を獲得するためには、「かくあるべし」を減らして、事実や現状を素直に認めて受け入れ、「事実本位」の生活態度に切り替えていくことが必要となります。これは森田理論学習で勉強している通りです。2は、問題が発生した場合、上から下目線で自分の解決能力のなさを嘆き悲しんだり、他人に責任転嫁しているようなものです。批判や否定することから何も生まれることはありません。あるがままの自分を愛せる人は、問題の発生を「課題を与えられた」と捉えることができるようになるのです。問題の発生は身近な自分の周辺で起こっていることがほとんどです。その問題を素直に認めて受け入れるということができる人は、そこを出発点にして、問題解決に取り組むことができる人なのです。森田理論に「努力即幸福」という言葉がありますが、その路線を着実に歩んでいくことができるのです。
2019.06.18
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野球評論家の落合博満さんは「慣れ」について次のように言われている。野球のシーズンが終わると、2月のキャンプインまで4か月ぐらいある。その間は主に体のメンテナンスをする。ピッチャーと直接勝負することはない。またシーズン中と同じような140キロのボールに向き合うことはない。するとどんなことが起きるか。たった4ヶ月離れただけなのにバッターボックスに立つことが怖くなる。恐怖心が出てくるのだ。その恐怖心をなくするためには、バッティングマシンなどで徐々に慣らしていかないといけない。そうしないとバッティングフォームが崩れてしまう。またこんなことも言われている。野球には「練習は嘘をつかない」という言葉もある。正しく理に適った練習を、頭を使って繰り返す。頭を使い、身体に覚えさせるという練習を人の3倍も4倍もやって、ようやく現場に慣れていく。(コーチング 落合博満 ダイヤモンド社 190ページから192ページより引用)落合さんの言われている「慣れる」ということは、私たちにも参考になると思う。私たちが神経症に陥ったとき、目の前の日常茶飯事や仕事に注意をむけて真剣に取り組んでいるとはいいがたい。神経症の苦しさに耐えきれず、なんとかこの苦しみから逃れたいと悪戦苦闘している。森田理論を学習すると、そんなやり方だと、精神交互作用で神経症はどんどん悪化して、最後には固着してしまうことが分かる。観念上の悪循環、行動上の悪循環がますます自分を苦しめていくのだ。そのようなスパイラルに陥らないためには、症状には手を付けないで、日常生活や仕事のほうに目を向けていくことだ。神経症という苦しみを持ったまま、規則正しい生活を続けていくことだ。そんな生活に「慣れていく」ことがとても大事なのだ。普通はそんなことでこの苦しみが解消するわけがないと考える人が多い。しかしこれも観念で考えて予想していることなのだ。考えているだけでは、事態はさらに悪化する。だが同じ時間に同じ行動をするということに取り組んでみると事態は急展開する。苦しみはあっても、生活が流れ始める。そうすると、頭の中に澱のように張り付いていた苦しみが少しずつ取れていくのだ。これは一度でも経験した人は、実感として分かるのではないかと思う。決まった時間に決まったことをするという習慣作りに愚直に取り組むことは、神経症の改善に役立つのだ。この段階を通過すると、アリ地獄から地上にはい出したことになる。しかし残念ながら、この段階では、神経症の苦しみは依然として残る。いいところまで来ているので、悲観して、元の木阿弥に陥ることは避けたいものだ。肝心なことは、この段階を経ないと次の段階には進むことができないということなのだ。この段階をクリアした人が、良好な対人関係作り、生きづらさの解消へと舵を切っていくことができるのだということをしっかりと認識していただきたいと思う。森田理論の中には、次の段階として、それらの解消法もきちんと用意されていることを付け加えておきたい。ステップアップして取り組めば、神経質性格者としての素晴らしい人生観を手にすることができる。これはいくらお金を積んでも買うことはできない。でも森田理論を学習して、実践すれば比較的簡単に手に入れることができるのだ。悔いのない人生を全うしたい人は、ぜひともそこまで振み込んで、ぜひ自分のものにしていただきたいと思う。そのための応援はできるだけさせていただきたいと思う。
2019.06.17
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落合博満さんは、コーチングとは、経験や実績を兼ね備えた元名選手の指導者が、いかに選手を教育するかという一方通行的なものではないといわれている。愛情をもって選手を育てようとする指導者と必死になって学んで成長しようとする意欲に満ち溢れた選手とのハーモーニーであるといわれている。現実はコーチが自分の存在感を示すために、選手の気持ちがわからないまま、一方的に自分の野球理論を押し付けている場合が多い。また、選手のほうは、必死で努力精進していない、あるいはするつもりがない選手が、コーチに手っ取り早くテクニックだけを教えてくれという傾向の人もいる。こういう関係では90パーセントの選手は、早晩プロの世界から去っていく。(コーチング 落合博満 ダイヤモンド社 24ページより要旨引用)落合さんは鋭いことを言いますね。これは森田理論学習に取り組む場合も同じことが言えます。私たちの森田理論を学ぶ自助組織「生活の発見会」には、先輩会員と初心者が混在している。この人たちがどのように交流して、お互いに成長していけばよいのか、落合さんはそのヒントを提示してくれている。「何とか神経症を克服したい。この生きづらさを森田理論学習によって解消したい」これは初めて生活の発見会の集談会に参加した人の共通の願いだと思う。それに対して私たち先輩会員は、神経症を森田理論の学習によってある程度は克服した。また神経質性格の活かし方や、この先どういう姿勢で生きていけばよいのかという指針も得ることができた。ここまで来れば、退会して自由に生きていく道もあったのだが、さらに森田理論を掘り下げて学習したい。また発見会で知り合った人たちと温かい交流を継続したい。また神経症に苦しんでいる人たちの手助けになるのならばと思って継続して参加している。そんな状況の中で、先輩会員は初心者に対してどのようなスタンスで接触したらよいのであろうか。私が一番心がけているのは、最初から森田理論を相手に押しつけないことである。最初から森田の核心部分を説明することは差し控える。安心感や信頼関係を築くことを第一に考えている。そこで、最初は自己紹介や体験交流などで相手にいろいろと自由に話をしてもらう。受容と共感の気持ちで包み込んであげる。傾聴に徹してただひたすら相手の話を受け止めることである。会の仕組みや活動指針、集談会のプログラムや内容、他の参加者の状況、集談会に参加するときの事前の準備などはよく説明している。そんな気持ちで受け入れているが、続けて参加される人は本当に少ない。残念だがこれが事実だ。どうしてこんなことになるのか。それは自分の症状や悩みを解決するために、森田療法が自分に合うのか、数多くの選択肢のうちから判断された結果だと思う。つまり様子見で参加される人が多いということだ。現在神経症の克服には薬物療法、カウンセリング、認知行動療法、森田療法、その他精神療法などさまざまな解決策がある。森田よりも他の療法がよい。あるいは森田療法にはあまり期待が持てないと判断されたのだと思う。その中からどの療法を選択するのかは相手の自由である。しかし他の療法は、症状が和らぎ、なんとか社会復帰できるようになると治療は終了となる。いわゆる対症療法が主力である。そのため容易に神経症が再発する。また社会適応、人間関係、生きづらさは依然として解消されない。薬物療法や多くの精神療法では、神経質性格者の人生観の確立までは責任を負ってはくれない。森田理論学習は、まさにそこまで踏み込んだ精神療法である。そのことは、よく伝えるようにしている。生きづらさを解消したい、人間関係を基本を学びたいというのであれば、森田理論が一番役に立つと思いますと伝える。それらを解決したいと思われたとき、いつでも私たちは、万全の体制で受け入れますよ。今日の出会いを大切にして、森田療法のことは頭の片隅に入れておくと後で役に立ちますよと伝えている。その後は機が熟するまで、いつまでもじっと待っている。すると、たまにまた戻ってくる人がいる。落合さんが言われるような、先輩会員と初心者のハーモニーは、再度森田療法に目を向けられた時に、はじめて可能になるのだと思う。その時は森田の核心部分について、説明していくことになる。そういう人が、もっともっと増えてくることを念願している。それまではこのブログや「森田理論学習のすすめ方」というホームページで情報の発信を継続していきたいと考えている。
2019.06.16
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「思考が感情を導く」という言葉がある。何のことか分からないと思う。説明してみよう。例えば、友達と旅行に行く計画を立てていたとする。航空券や宿泊ホテルも手配済みである。ところが、友達が3日前になって突然ドタキャンしてきた。普通の人なら、「この場に及んでなんで。どういう神経をしているの」と腹が立つだろう。ましてや何か月も前から、いろいろと調べたり、打ち合わせを繰り返し、楽しみにしていた旅行である。勢いあまって、怒りの感情を友達に向かって爆発させる人もいるかもしれない。もう絶交だと思う人もいるかもしれない。実はこの怒りの感情は、思考が生みだしたものであるということなのである。ドタキャンという出来事に対して、怒りの感情がダイレクトに生まれるのではない。出来事をどのように解釈したか、つまりどのように思考したかによって、感情はポジティブにもなるし、ネガティブにもなるということです。感情の発生にあたっては、思考が間に入っているのだ。では、この時の思考は何か。友達との約束は絶対に守らなければならないという考えを持っているということだ。約束したことを簡単に破ると、人間関係がぎくしゃくする。だから自分も一旦約束したことは、万難を排して遂行している。約束した時間に遅れないようにいつも気を使っている。そんなことが許されるのなら、交通法規なんか守らなくてもいい。赤信号でも、無視していいということになる。税金逃れをしてもよい。借金しても返さなくてもいいということになるじゃないですか。そんな考え方で、頭がいっぱいになり、つい感情的になって、そのうっぷんを晴らそうとするのです。森田でいうと「かくあるべし」が強くて、それを友達にぶっつけているのです。これはネガティブな思考です。ネガティブな思考からは、当然ネガティブな感情をおびき寄せてしまいます。ネガティブな感情は、自己嫌悪、自己否定、他人否定を招き、反発と対立の悪循環に陥ってしまいます。これに対して、ポジティブな思考もあります。まず友達のドタキャンの事実を認めて受け入れることです。受け入れがたい出来事ですが、まずは受け入れることです。ドタキャンがよいとか悪いとか評価をしてはいけません。その上で、相手の立場に立ってみることです。友達も楽しみにしていたのに、ドタキャンしなければならない事情が発生したのかもしれないと考えてみることです。それを相手に聞いてみることです。・気分的に行く気がしなくなった。・急に風邪を引いた。インフルエンザに罹った。・体調が悪くなった。・お金の都合が付かない。・飛行機に乗るのが怖ろしい。・体力的に自信が持てない。・今回の旅行先は何度も行ったことがあり、魅力を感じない。・配偶者が許可してくれない。・いびきがひどく、何回も夜トイレに行くので迷惑をかけるのではないか。・旅行中迷惑をかけるのではないか心配で仕方がない。・父や母が入院していて、最近急に具合が悪くなった。・犬や猫を飼っているが世話をしてくれる人がいなくなった。・子供の受験や発表会があり、旅行に行くことに後ろめたさを感じている。その他いろいろと理由をあげてくるだろう。その事情が自分が納得できるものであれば、残念ではあるが、同情することもできるだろう。ショックだが今回は中止し、別の日程に延期しようと納得することができる。すぐにキャンセルして被害を最小限に抑えるべく行動することもできる。相手と犬猿の仲にならない。相手と言い合いの喧嘩をするのとはえらい違いだ。また自分が協力して、何とかなることなら、その方法を考え合うこともできる。ポジティブ思考というのは、予想外の出来事をまずは価値批判しないで認めて受け入れる。そして相手の立場に立って、肯定的に理解してみようとする態度のことである。相手の置かれた状況が理解できれば、ネガティブ感情は湧き起こらなくなる。ポジティブ思考をすることで、ポジティブ感情が養成されるのである。そうすれば、自分肯定、他者肯定、存在肯定、協力的、思いやりが出てきて、友情をはぐくみ、共存共栄の人間関係を築くことができる。生きることが楽になる。生きることが楽しくなる。これは森田理論でいうと、「かくあるべし」を少なくして、「あるがまま」「事実本位」の生き方をしている状態なのです。
2019.06.15
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森田先生のところに入院していた人は、朝起きた時と夜寝る前に、 5分間くらいずつ「古事記」を音読する習わしになっていた。内容は分からなくても、ただ棒読みすればよいと言うことであった。水谷啓二先生は次のように言われている。それならば論語とか、お経とか、聖書とか言うもの読ませないで、なぜ「古事記」を読まされるのか。これが私にとってのひとつの疑問でありました。仕方なく、訳はわからないままに「古事記」を音読しておりました。ところが森田療法を終わって、その後だいぶ年月が経ってから、私には「古事記」を読まされた訳が、ふとわかってきました。「古事記」にいうところの神々とは、いわゆる多神論的な神々というのではなくて、純なる人間、かねて先生の言われる「真人間」のことである、と全身心を持って納得することができたのであります。先生は、その晩年の著書である「神経質療法への道」第1巻の初めに、次のように書かれておられます。「神経質は、自ら劣等感に駆られ、或いは種々の強迫観念に苦しんで、我と我が身をかこつのは、暗に劣等感のために自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩であるのである」この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、「古事記」に言うところの神々でありました。森田先生が入院生に朝晩5分間「古事記」を読ませていたのはそういう理由だったのか。「かくあるべし」で現実の自分や他人を、裁判官のように厳格に判定して、ルール、規範、しきたり、法律、理想、観念、完全、完璧、目標に無理やり従わせようとしている人間。観念や理想が主導権を握って、現実、現状、事実を軽視・否定しまくっている状態が、人間に大きな葛藤や苦悩をもたらしている。その手法は間違いですよ。人間の再教育をしていかないと、苦悩だらけの人生を歩むことになる。また、長い目で見ると、早晩人類は絶滅の方向に向かっていますよ。現実、現状、事実が主導権を取り戻して、しっかりと事実に立脚した人間として生きていくことが大切なのですよ。それを森田先生は「真人間」という本来の人間に立ち返ることなのだといわれているのだと思います。理性が高度に発達した人間は、理性が暴走して、そのような当たり前のことは考えもしなくなっている。この考え方は森田先生の生きておられた時代よりも、現代人のより大きな課題となって目の前に立ちはだかっている。あるいは制御不能な状態に足を踏み入れているのかもしれない。欲望の暴走と「かくあるべし」の肥大化は、すべての人間に課されている近々に解決すべき問題となっている。森田を十分に学習して理解し、森田理論を存分に生活に活かしている人は、この2つの問題をできるだけ多くの人に向かって警鐘を鳴らしてほしいものである。森田先生がもし現代に生きておられたら、その方面の活動を積極的に進められているだろうと推察している。
2019.06.14
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私は「純な心」は、「かくあるべし」を少なくして、事実本位の生活態度を獲得していくための一つの手段だと思っている。「純な心」を身につけると、自分や他人に「かくあるべし」を押し付けることが少なくなるのだ。いつも事実に立脚して、事実とともに前進していけるので葛藤や苦悩がなくなる。純な心について森田先生に次のような説明がある。「あやまって皿を落として砕いたときに、思わずこれを取りあげて、つなぎ合わせてみることがある。これは惜しいことをしたという純な心である。つなぎ合わせたとて、こわれたあとではもとのようになるはずもない。バカげたことである、というのは悪智である。純な心そのままであったときには、他日再び皿などの壊れやすいものを取り扱う場合に、そのもの置き方、取り扱い方に対する適切な工夫ができるようになる」この文章の私の解釈は次の通りである。「あやまって皿を落として砕いたときに、思わずこれを取りあげて、つなぎ合わせてみることがある。これは惜しいことをしたという純な心である」これは自分のミスや失敗に接して、まず最初に湧き上がってくる感情です。初一念というものです。誰でも大なり小なり初一念は湧き上がってきているものと考えています。これがないと次に進むことはできません。ところがこの初一念という素直な感情は、キャッチしようと意識しないと忘却の彼方に飛んでいく特徴があるのです。その後に「つなぎ合わせたとて、壊れたあとではもとのようになるはずもない。バカげたことである」という感情が引き続いて湧き起こってくるようになっているのです。これは森田先生が初二念といわれているようなものです。「純な心」学習していない人は、機械的にこの初二念に基づいて、対応策を試行錯誤してしまうのです。この初二念は、多分に「かくあるべし」を含むものなのです。「こんなところに無造作に皿を置いている人が悪い。自分に非はない」「先生に叱られるかもしれない。見つかる前に捨ててしまおう」「幸い先生に見つかっていないので、瞬間接着剤でつなぎ合わせて、ごまかしてしまおう」「自分は何をしてもおっちょこちょいで情けない」と自己嫌悪する。こういうことをしていては、事実を正直に認めて、受け入れるという生活態度の養成には向かないのです。「かくあるべし」の弊害は学習によって分かっているのですが、肝心の生活態度が「かくあるべし」なので葛藤や苦悩は益々強化されてしまうのです。初一念から出発した場合は、森田先生に自分が不注意で皿を割ってしまいましたと謝る。そしてすぐに注意深く割れた皿をかたずけて掃除する。森田先生に「代わりのものを買ってこようと思っていますが、それでよろしいでしょうか」と相談する。対応方法が物事本位になっているのです。責任転嫁、言い訳、ごまかし、自己嫌悪は起きていません。また以後は、失敗の経験に学んで、皿の置き場所などに注意して、適切に取り扱うようになるのです。初二念で対応する習慣の人は、自分の罪を免れることに注意を向けているので、同じような過ちを繰り返すことになります。初二念は否定、言い訳、ごまかし、叱責などの気持ちになりますので、そんな時、「ちっと待て。初一念の感情は何?」と自分に問いかける言葉を発することができるかどうかが分かれ目になります。
2019.06.13
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比嘉千賀先生の、できることとできないことについて考えてみたい。(2018年生活の発見誌4月号より)まず、できないこと・自分の感情をコントロールすること・現実に起こる出来事を思い通りにすること・他の人の気持ちを思い通りにすることできること・自分のできることと、できないことを見極めること・不快な感情も仕方なく見極めること・目の前の現実の中で必要なことをしていくこと私は神経症で苦しんでいたころ、対人恐怖の予期不安から逃げてばかりでした。その結果、会社で一人で孤立し、寂しみ思いをしました。一人では何とか生命だけは維持していくことはできるが、人間らしい生き方はできない。精神交互作用で蟻地獄に落ちたような状態になると、考えることはネガティブなことばかり。日常生活はどんどん後退していきました。他人が自分の思い通りに動いてくれないと、すぐに不平不満をぶっつけていました。その結果、自分に好意的だった人も自分から離れていきました。話し相手が家族ぐらいしかいなくなりました。その家族に対しても、わがままのし放題で、険悪の状態でした。両親、妻、子供にも申し訳ない気持ちで後悔しています。それを救ってくれたのが森田理論学習とそれを応用した実践でした。私は比嘉先生と反対のことばかりやっていたようです。つまり、日常茶飯事や仕事などのやるべきことを軽視して手を抜いていました。そして対人不安をなくするために、薬物療法、ギャンブル、酒、趣味などに取り組んでいた。対人恐怖症をなくすることを目的とした行動は、症状を益々強めてしまうということは、後の森田学習の中で学びました。不安と欲望の単元の学習はまさに目から鱗でした。不安はそれだけで発生しているのではない。不安は欲望があるから生まれるものです。対人不安は、人と仲良くして仲間に受け入れられたい、他人からよい評価を受けたいという欲望の裏返しだということがよく分かりました。そして不安には欲望が暴走しないための制御の働きを持っていることも分かりました。自動車で例えれば欲望はアクセル、不安はブレーキ。どちらもなくてはならない大切なものということがよく分かりました。対人不安はそれを持ったままでよいので、生の欲望に向かって舵を切りなおしていくこと。そして不安と欲望がつり合いがとれるまで回復して来れば、神経症は格段に良くなりますという言葉に救われました。最初は日常茶飯事や仕事を丁寧にすることが、どうして対人恐怖の克服と関係があるのだと反発ばかりしていたのです。このからくりが分かってから、私は変身しました。雑事、雑仕事に丁寧に取り組むようになったのです。職場でも丁寧な仕事ぶりが評価され、家族にも喜ばれました。もっとも最初はなんか頭がおかしくなったと心配されていましたが・・・。今まで根暗で、わがままいっぱいの人間が変化したのですから、周りは敏感に気づいたのです。行動面ではまともになり、着々と成果が出てきましたが、対人関係は苦しいままでした。これは、「かくあるべし」を自分にも他の人へも押し付けているのが原因だということを学びました。これを本気で認識し始めたのは20年ぐらいたってからでした。それまでは素通りしていました。いわゆる耳学問で、その必要性を全く理解できなかったのです。「かくあるべし」の押しつけを徐々に少なくしていって、現実、現状、事実を素直に認めて受け入れるという実践は大変難しい面がありました。学習の中でその方法は幾つも用意されていることに気づきました。純な心、私メッセージ、両面観、事実の観察、感謝探しなどです。このブログで再三ご紹介している通りです。不安と欲望のバランスをとりながら生活する。「かくあるべし」を減らして、事実にしっかりと足をついた生活をしていくこと。この二つは、森田理論学習の中で私がつかんだ人生の宝物です。森田で掴んだこの2つの指針を携えて、有終の美を飾るべく人生をかけぬけてゆきたいと考えています。
2019.06.12
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松下幸之助さんは幸せには3つあるといわれているそうだ。もらう幸せ。できる幸せ。与える幸せ。この中で与える幸せが一番質が高いと言っている。もらう幸せとは、給料をもらって自立できる幸せのことだろうか。そのお金で家族を養い、生活をどんどん豊かにすることができる。その給料で自分のできないこと、欲しいものを他人に肩代わりしてもらい手にすることもできる。できる幸せとは、問題点や課題を乗り越えたり、夢や目標に挑戦することだと思う。仮に乗り越えられなくても、目標を達成できなくても、努力精進した経験は貴重なものです。そのためには、絶えず自己内省しているよりは、外向きに物事本位の態度に重点を置いたほうがよいと思う。神経症に苦しんでいるときは気持ちが内へ内へと向かってしまう。しかも事実を軽視して、先入観や決めつけによってネガティブ、悲観的、マイナス志向に陥りやすい。これでは精神交互作用によって、容易に神経症に陥ってしまう。そうならないためには、価値判断しないで、目の前の出来事をよく観察することだ。見つめていると何らかの感情が湧いてくる。その感情を高めていくと、気づき、発見、工夫、アイデアなどが生まれてくる。意欲的になり、一心不乱に取り組んでいると、時の立つのも忘れるようになる。やりがいや生きがいはこのような過程を経て作り上げられるようなものだと思う。森田理論では、このことを「生の欲望の発揮」という。与える幸せとは、日ごろから人の役に立つことを見つけて、人のためになることをする気持ちが大切だと思う。他人から与えてもらうばかりで、与えることがない場合はバランスが悪くなる。それに加えて、人間関係の面では、他人に「かくあるべし」を押し付けないという姿勢をつらぬいたほうがよいと思う。「かくあるべし」を押し付けていると、他人の存在自体を否定し、対立的となる。どんなに理不尽なことをされても、その事実を価値判断しないで正確に把握する態度が大切である。そして一旦は受け入れる。その上で、自分の気持ちや意志と乖離がある場合は、その溝を埋めるべき話し合いをする。そういう姿勢を堅持することが大事である。「かくあるべし」を他人に押し付けている人は、自分自身にも理想や完全を押し付けている人である。二重の意味で葛藤を抱えているので、生きることが苦悩の連続となる。他人に「かくあるべし」を押し付けないというのは、最高の与える幸せにつながると思う。
2019.06.11
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慢性的なうつ状態という人がいる。大うつ病ほどではないが、軽い抑うつ状態が続いている人である。これは気分変調性障害といわれている。薬物療法だけではなかなか改善できない。どうすればこの抑うつ状態は軽減できるのだろうか。「うつヌケ」(田中圭一 角川書店)が探ってみた。慢性うつ状態の人は、考え方、行動のパターンが悪循環を招いている場合があります。考え方、思考のパターン、行動のパターンを見直すことが大切です。そのためのヒントを上げてみましょう。1、うつ状態の人は、自分のことが嫌いなのだという。自分が好きになる努力をすることが大切です。自分のことが好きになるには、まずありのままの自分を認める。森田でいう「かくあるべし」を捨てる。ネガティブな言葉はやめて、自分のことを評価する。これはことばでは分かりますが、ハードルは高い。でもそれに近づくための方法があります。森田療法理論や認知療法の学習をすることです。私は、自分の存在、容姿、性格、能力が人と比べて劣っていて、イヤで仕方がありませんでした。森田理論では、「かくあるべし」を少なくして、事実、現状に立脚した生活態度を身に着けることだということを教えてもらいました。今では学習のおかげで、あるがままの自分に寄り添うことができるようになりました。2、森田療法は、不安はあるがままに捨て置いて、今なすべきことをすることを勧めている。うつ状態をなくそうとすると、抑うつ状態は軽くなるどころか、どんどん悪化する。うつ状態という人を見ると、頭でっかちで、手足が動いていない。考えることは、自分の欠点や弱点を責めることに集中している。3、人から必要とされる人間だと感じられるようになると、うつ状態は楽になる。人の役に立つことを、見つけてコツコツと実行に移すことが大切です。それが習慣化し、弾みがついてくれば、うつ状態は消えていきます。4、自分を客観化し、助言してくれる人を味方につける。先入観、決めつけで悲観的な考え方ばかりしているので、配偶者や友達などの意見を参考にする。反発するのではなく、「そういう見方や考え方もあるのか」と素直になることが大切です。5、客観的事実と主観的な事実をノートに書き留めておいて、1か月後に振り返ってみる。例えば、準備不足で商談に失敗した。これは客観的事実です。実際の出来事です。その時、「自分はもうこの会社にはいられない」と感じたのは、主観的感情の事実です。それを記録しておいて、1か月後に振り返ってみると、客観的事実はどうすることもできませんが、主観的な事実は変化していることが多いと思います。「どうしてそのような極端な気持ちになったのだろう」とあっけにとられるかもしれません。6、没頭できる趣味を持つ。趣味には、強制も、責任も、プレッシャもない。趣味ややりがいを持つことは、うつ状態になる予防薬になります。7、うつ状態になりやすい人は、まじめ、心配性だが前向き、責任感が強い。そういう人は、気持ちの方は休みたいのに、鞭打って働いている。「社畜」という言葉があります。ブラック企業などにいて、気力、体力、生命力などすべての力を会社に捧げながら、最終的に部品のように使い捨てられるロボットのような人のことを言います。こんな人生を送っては自分がかわいそうです。このような場合、限界を超えてしまう前に、対処しないと、最悪過労死へと突っ走ってしまいます。体調異変を感じたら病院にいくことです。神経質性格者は、身近な人に自分の状態を監視してもらうことが大切です。
2019.06.10
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神経症に陥る過程では、精神交互作用が絡んでいます。注意と感覚の相互作用によって、不安、恐怖、違和感、不快感はどんどんと大きくなっていきます。頭の中ではそれ以外のことを考えたり、行動することができなくなってしまう。例えば、友達と旅行に行って、雑魚寝をすると人のいびきが気になります。人のいびきを気にしないようにしようと思えば思うほど、ますます気になって朝方まで寝つかれないことになってしまいます。精神交互作用とは注意と感覚の悪循環のことです。対人恐怖の人は、他人に非難されたことを根に持って、相手の言動にとらわれるようになります。相手の存在、やることなすこと、すべてにわたって批判的な目で見るようになります。仕事や食事をしていても、頭の中は恨みや怒りでいっぱいになります。注意と感覚の悪循環が相互に影響し合っているのです。最後には挨拶もしない。その人を避けるようになる。他の人にことさらその人の悪口を言うようになる。この状態は、精神交互作用に加えて、行動の悪循環が起きているのです。仕事や日常茶飯事、子供の面倒を見ることはほったらかしになります。こうなると周囲の人もあの二人は犬猿の仲だと気づくようになります。お互いから四六時中愚痴を聞かされることになりうんざりします。周囲の人は、腫物を触るようにとても気を使うようになります。何かあったときは、席を離すようにする。とにかく二人を近づけないように気を配るようになります。二人の人間関係を中心にして、組織の中がピリピリしてきます。周囲の人たちとの悪循環を招いているのです。最後に考え方の悪循環が起きています。認知、認識の間違いといわれているものです。1、考えることが無茶で大げさ、論理的にあまりにも飛躍している。2、マイナス思考、ネガティブ思考に陥っている。3、事実を無視して、先入観や決めつけに偏りすぎている。4、完全主義、理想主義などの「かくあるべし」が強すぎる。考え方の悪循環は自分では気づくことはできないでしょう。こういう人は、考え方の誤りを自覚するために、学習する必要があります。私は不安、恐怖、違和感、不快感の裏には欲望が存在していると学びました。そして、不安などは取り除こうとするのではなく、欲望の方に視線を移していくことを学びました。今では、いかに不安と欲望のバランスを整えていくのかに注力することで、素晴らしい人生が待っていることに気づきました。まさに森田療法理論のおかげです。イメージとしては「ヤジロベイ」「サーカスの綱渡り」を思い出すようにしています。
2019.06.09
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先日森田理論を応用した貴重な経験をした。妻と一緒に大衆食堂に行った。自動券売機で先に支払いを済ます店だった。妻が一万円を投入して料理を頼んだ。そこまでは何ら問題はなかった。ところがお釣りを受け取らず案内された席についた。2分ぐらいすると、ウエイトレスがやってきて、「お客さんお釣りを受け取りましたか」という。妻はそういわれるまで、全く気がつかなかったのである。親切なウエイトレスだから、お釣りは戻ってきたが、もしものことを考えるとぞっとした。二人で1500円程度の食事代が1万円もかかってしまうことになるのだ。森田を学習する前だったら、いつものように妻の不手際を責めただろう。気丈夫な妻もすぐに応戦し、食事どころではなくなり、しばらくは犬猿の仲になったに違いない。私は相手のミスや失敗、不手際を非難して叱責して、その後の人間関係が悪化するという経験を数多く積み重ねてきた。完全主義を相手に押し付けて、相手を否定して最悪の結果を招いていた。そのうち弾みがついて、過去の不祥事を持ちだす。相手の人格否定をすることになると手が付けられなくなる。そういう苦い経験をしているにもかかわらず、凝りもせず同じ誤りを繰り返していたのだ。「かくあるべし」が強すぎるのだ。その弊害は森田理論の学習で嫌というほどわかっていた。今回はとっさにNHKのアナウンサーになりきって実況中継をしてみようと思った。ご存知のようにニュースのアナウンサーは、事実を淡々と説明するだけだ。それがよいとか悪いとかの評価はしない。是非善悪の価値評価はしないのだ。これは応用してみる価値がある。アナウンサーの○○です。現在現場に来ております。先ほど妻の△△が券売機に1万円を投入して二人分の料理を注文しました。ところがお釣りの8500円余りを受け取らずに案内された席につきました。差し出させたお冷を飲んでいました。すると女性店員があわててやって来ました。「お客様、お釣りはお受け取りになられましたか」妻の△△は恐縮して照れ笑いを見せております。お釣りを受け取らなかったことにたった今気づいた模様であります。間一髪でお釣りは戻ってきました。最悪の結果は避けることでできた模様であります。旦那の○○も、「お前は悪運の強い奴だな」と冷やかしております。以上現場からの中継を終わります。これは事実を詳細に再現しようとしているので、非難や叱責の言葉が入り込む余地がないのです。よい悪いの是非善悪の価値評価をしないというのがポイントです。「かくあるべし」少なくして、事実に寄り添うというのは、こういうやり方が有効なのだなと気づきました。これからはこの手法をどんどんと応用してゆきたいと思いました。次にもう一つ。私の過去の経験で妻と同じようなミスをしたことはなかったか考えてみました。するとありました。銀行のキャッシュコーナーでカードと支払明細書は受け取ったのですが、肝心の現金は受け取らずにその場を離れようとしていたのです。友達が「現金は受け取ったのか」と言ってくれたので、はじめて気づいたのです。同じようなミスをしていた自分を棚の上にあげて、妻の不祥事にことさら目くじらをたてて非難する資格はあるのか。そういうことを思い出せば、相手のミスを許してあげることができるのではないか。相手のミスや失敗を詰問しないで、許してあげるというのは包容力のある人なんですね。そういう人の周りに自然と人の輪が広がってくるのですね。たかが1万円程度の損失よりは、その後の気まずい思いを引きずることの方が高くつくような気がする。相手を批判、否定、叱責しそうになったときは、過去に自分も同じようなミスや失敗はなかったか振り返ることが大切です。大体同じようなミスをしているのが普通の人間です。「かくあるべし」を少なくして、事実本位の態度を身に着けるということは、実はそんな高尚なことではなく、ちょっとしたコツを掴むことだと思います。皆さんも気にいったら応用してみてください。
2019.06.08
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森田先生がよくお話をされている正岡子規について調べてみました。正岡子規は1867年に生まれ、1902年に没しています。34歳の若さでした。肺結核になり最初に喀血をしたのは1889年22歳の時でした。当時の肺結核は不治の病で、事実病状はどんどん悪化していきました。結核菌が脊椎に転移して、脊椎カリエスを発症してから、極度の痛みで歩くことさえままならなくなりました。やがて臀部や背中に穴があき膿が流れ出るようになりました。自力で寝返りもできなくなり、身体に巻き付けた紐を柱に通して、その紐を引っ張ることでなんとか寝返りをうっていたという。普通の人は、激しい痛みと精神的な絶望感で何もできなくなってしまうのではないでしょうか。どうして自分だけがこんな目に合って苦しまなければいけないのか。腹立たしさと無念さで悲観的になり自暴自棄になっても不思議ではありません。どうして正岡子規はそれに打ち勝ち、創作活動に情熱を傾けることができたのか。森田理論学習を続けている私たちに語り掛けているものは何かを見てみましょう。病状が分かったとき、東大を中退して好きなことに存分に挑戦して楽しんで生きようと決意します。喀血した自分をホトトギスになぞらえて子規とします。子規という号は肺結核を意味していたのです。そういう意味では、肺結核とともに残された人生を生きていくという決意の表れでもあったのです。私は子規の人生の中で次の2点に注目しています。一つは創作意欲です。「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」に代表される俳句は2万首。その他短歌も数多く作っている。また新聞などに記事を書いている。「病牀六尺」「墨汁一滴」「仰臥漫録」などの本を書いている。痛みを抱えながら、自分の好きな文芸の道に最後まで挑戦し続けたことは、実に感動的であります。私たちから見ると、これこそが森田実践そのものなのです。不安や恐怖、違和感や不快感があっても、そのことに振り回されたりしない。苦しみ悶えながらも、それを抱きかかえて、生の欲望の発揮に邁進する態度こそ私たちが学ばなければならない点だと思います。もう一点は最後まで周囲の人たちと温かい交流を続けていたということです。痛みと苦悩で人を寄せ付けず孤立した人ではないということです。これがどんなにか精神的な安定に寄与していたかと想像しています。夏目漱石が松山に赴任したときは、親友の夏目漱石の下宿で静養していた。弟子には高浜虚子、河東碧梧桐、伊藤佐千夫、長塚節などがいる。いずれもその後文壇で活躍していた人たちだ。その人たちが、病床の子規を見舞いながら、なおかつ俳句や短歌の指導をうけていた。河東碧梧桐は暑さに耐えかねている子規のために手動の扇風機を作ってあげた。寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながらも指導や交流を続けていたのだ。私たちも神経症や難病を理由にして孤立することは避けたいものです。幅広い人脈を築いて、温かい人間関係を維持して広げてゆきたいものです。晩年は子規の面倒は妹の律が見ていた。実に献身的であった。それでも介護してもらっている子規には、妹律の対応に不平や不満が溜まっていく。それは「抑臥漫録」という本に残されている。律は理屈詰めだ。強情だ。冷淡だ。木石だ。などと罵詈雑言を書いている。書くことでイヤな感情をため込まないで吐き出すようにしていたのだろう。注目すべきは、愚痴や怒りの言葉なのに、出版を意識したかのように、丁寧な筆跡で書かれていることだ。多分不満や怒りを客観化して、眺めていたのだろうと思う。決して律に対して不満や怒りを口にするようなことは滅多になかったという。腹が立ったとき、売り言葉に買い言葉で、相手のことを非難したり否定していては双方ともみじめになるだけだ。その不快な感情を素直に認める。そして最終的には受け入れることができていたのではないか。森田的にみれば優れた対人折衝能力を身につけていたということです。そして不平不満の感情が過ぎ去ったとき、律に対する感謝や思いやりの気持ちが自然に湧き起こってきていたのではないかと思うのである。この点も学ぶ必要があります。いずれにしても、正岡子規の人生は、森田理論を絵に描いたような見事な作品に仕上がっていることは間違いないようである。
2019.06.07
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関根勤さんも尿路結石をやったそうだ。私とおんなじだ。明け方下腹が急に痛みだす。痛いということで済まされるようなものではない。脂汗だらだら、「俺はこのまま死んでしまうかもしれない」という痛さなのだ。この痛みが続くなら死んだほうがましだと思うほどの痛みなのだ。これは実際に耐えがたい痛みがあるのだが、それに輪をかけて、死を連想させる精神的不安の発生がパニックを引き起こしているのである。痛みを必要以上に増悪させている状態である。その証拠に、救急車で病院に運ばれると少し落ち着く。さらにレントゲンをとって、「ここに大きな石がありますね。尿路結石です」などと説明されると、死を連想させていた不安は途端になくなる。痛いのを抱えて、「なんだ。尿路結石だったのか。結石のやつめ。チクチクと尿管を針の棒で刺していたのか。けしからんやつだ」などと苦笑いをする。あとは座薬などをもらって、しばらく様子をみることになる。数日経つとおしっこと一緒に黒い結石が出てきて一件落着となる。この経験は大切なことを教えてくれた。不安や恐怖のその原因が特定できないと、疑心暗鬼になり、実際の葛藤、苦しみ、痛みとともに、不安や恐怖が相乗効果をもたらしてパニックに至るということである。実際の痛みを1とすると、相乗効果により痛みは2倍になる。ガンになった。慢性疼痛がある。慢性皮膚病がある。神経症になった。などいう痛みや苦しさを抱えている場合、その原因を知り、不安や恐怖を軽減することでその苦しみは小さくなるのである。半減するかもしれない。ネガティブな不安や恐怖を野放しにして、痛みを倍増させないことが肝心なのである。森田先生の言葉に「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。幽霊だと勝手に先入観で決めつけないで、不安や恐怖の原因をよく観察しなさい。その恐怖の原因が風に揺れていた枯れ尾花ということが分かれば気が動転することはなくなる。それでは神経症の発症の原因は何か。これは森田理論を学習した人はよく分かっておられることだろう。一つは誰にでもある不安を目の仇にして、神経を不安を取り除くことばかりに集中した結果、精神交互作用によってアリ地獄に陥ったのである。さらに不安の発生の裏に欲望が隠れていることが分からなかった。不安があっても、それを抱えたまま生の欲望の発揮に目を向けて生活していればよいということが分からなかったということだ。もう一つは、強力な「かくあるべし」を持って、現実の自分や他人を批判、否定してきた。理想と現実の溝はなかなか埋めることができないで、葛藤や苦悩ばかりが増大してきた。それが神経症の苦しみを生みだしてきたのだ。森田理論学習によって、「何だ自分が神経症の苦しみで、今までのたうち回っていたのはそういうことだったのか」に気がついたのは大きかった。神経症発症の原因が特定できれば、精神的には随分楽になった。そして将来取り組むべき目標や課題が明らかになった。つまり、一つには不安を活用しながら生の欲望の発揮に邁進していくこと。かくあるべしを排除して、事実にしっかりと寄り添って、一歩目線を上に向けて努力していくこと。そういう方向に舵をきって生活していると、神経症に生まれてきてよかったな。人間に生まれてきてよかったな。持てるものを最大限に活かして、精一杯人生を楽しみたいなと思うようになってきた。今神経症で苦しんでいる人は、森田理論学習でそのあたりをよく学んでほしい。
2019.06.06
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「ものを頼むときは忙しい人に頼め」という言葉があります。少々高くても、法律問題は行列のできる法律事務所に頼む。資格試験の学校を選ぶときは、過去一番多くの合格者を出しているところを選ぶ。少し待っことはあっても、行列のできるラーメン屋さんに行く。すぐには引き受けてくれなくても、仕事を頼むときは仕事をいっぱい抱えている人に頼む。自助グループでもあの人は忙しすぎて、世話役にはならないだろうという人に依頼する。家でぶらぶらしている人だから、時間は十分あるだろうというような人には依頼しないことだ。時間が有り余っている人に頼んでも、思っているほどの成果を期待することは無理だと思う。森田理論を学習した人は、「なるほどその通りだ」と思われる人が多いのではないでしょうか。普通に考えると、忙しい人は頼みごとを雑に扱うので、やることなすことが雑でスキだらけになると考えがちです。忙しい人よりは、時間がたっぷりあって余裕やゆとりのある人がある人のほうが、丁寧に取り組んで期待以上の立派な仕事をしてくれるに違いないと思いがちです。それは私の経験では間違いだと思います。考えていることと実際があべこべになるのです。森田でいう「思想の矛盾」でがっかりすることになると思います。これは精神の活動レベルの違いから起きる現象です。忙しい人は、精神が昼間活動しているときは緊張状態にあります。暇な人は精神が弛緩状態にあるのです。この差は見逃すことはできません。森田理論に「無所住心」という言葉があります。精神状態が四方八方に張りめぐらされて、昆虫の触覚がピリピリとアンテナを広げているような状態です。こういう状態にあると、気づきや発見が泉のようにこんこんと湧き出ているのです。工夫や新しいアイデアが次から次へと浮かんでくるのです。すると物事に取り組む意欲が高まり、行動的になります。失敗することがあっても、失敗を糧にして、さらに創造力が高まっていきます。それらの経験がどんどん蓄積されていくわけです。精神が弛緩状態にある人と比較すると、どんどん差が拡がってくるということになります。ですから「行列のできる・・・」に頼みごとをすると早い、出来栄えがよいという結果ができやすいのです。これは森田的な実践をしていく中で、検証できた事実です。これを体験して会得すると、行動実践はより活動的になると思います。森田理論に「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」という言葉があります。昼間活動しているときは、ぼんやりしている時間を少なくして、次から次へと物事本位で家事や仕事を片付けていく習慣を作れば、誰でも精神緊張状態を作り上げることができます。そういう人のほうが、人の役に立つ人間になれるのだということを意識したほうがよいと思います。
2019.06.05
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樹木希林さんの「一切なりゆき」いう本がある。この本は樹木さんの、語録を集めた本である。文藝春秋から出版されている。昨年12月20日発売されてすでに100万部を超えている。この本には森田療法理論に通じるところがたくさんあった。この本の中に「われわれは、互いが互いにとって堤婆達多(だいばだつた)なんです」という話がある。堤婆達多は、お釈迦様の従兄弟で、最初は同じ教団内で活躍していたものの、やがて反逆し、お釈迦様を殺害しようとまでした人物です。しかしお釈迦様は、堤婆達多がいたからこそ、見えてきたものがあるとおっしゃっています。自分にとって不都合なもの、邪魔になる物を全て悪としてしまったら、病気を悪と決めつけるのと同じで、そこに何も生まれてこなくなる。物事の良い面と悪い面は表裏一体、それをすべて認めることによって、生き方がすごく柔らかくなるんじゃないか。つまり私は夫という堤婆達多がいたからこそ、今、こうして穏やかに生きていられるのかもしれません。皆様もご存じの通り、夫は、俺の神はロックだと言うような人で思い込んだら一筋。そのため、何かと騒ぎを起こしてきました。傍からは、私がちゃんとしていて、あの人はめちゃくちゃというふうに見られるかも知れませんし、まあ、実際その通りでもあるのですが、私の方にも、あの人と一緒になってから、自分が、どれほどいさかい好きな女であることが分かったという面もあります。肋骨が折れるほどの大喧嘩をした日さえありました。よくもまあ、あれほど激しくやり合えたものですが、自分の中にも、何かどうにもならない混沌とした部分があって、それが、内田さんという常にカッカしている人とぶつかり合うことで浄化される。そういう部分もあったのではないかと、今は思うのです。誰もが自分にとっての堤婆達多を持っているし、それと同時に、自分も誰かにとっての堤婆達多になりうる。われわれは、違いは互いにとっての堤婆達多なんです。だから、人に何を言われても別れないんでしょうね。(「全身がん、自分を使い切って死にたい」 2014年5月)夫の内田裕也さんは、皆さんご存知のようにとても破天荒な人です。別居しながらも生涯夫婦として生きてこられたのは、お互いに言いたいことをいうという自己主張をつらぬいてこられたからだと思います。二人とも、不平や不満を無理に押さえつけないで、ストレートに相手にぶつけ合うという態度であったのだろうと思います。でもこれだけだと、すぐに性格不一致で離婚してしまいます。離婚に至らなかったのは、樹木希林さんの方に、どんなに激しく論争をしても、心の底では和解を目指す気持ちを持ち合せておられたということだと思います。和解や調和を目指すという気持ちが、引用した文章によく現れていると思います。そうでなかったら、内田裕也さんが勝手に離婚届を出していたにもかかわらず、裁判に持ち込んで、無効を勝ち取ることもなかったと思います。それがのちに、内田裕也さんに「あの時離婚しないでよかった」と言わせたのだと思います。夫婦の人間関係は、いざこざが絶えない状況の中で、いかに歩み寄りを見せて妥協を目指す道を探っていくかにあるような気がします。その能力は森田理論の「かくあるべし」を減らして、事実本位の生活に立脚することで獲得できるものと考えています。
2019.06.04
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森田理論は詳しいのに、「かくあるべし」の呪縛から解放されない人がいる。そういう人を見ていると、普段の生活の中で、自分や他人を非難、否定することが常態化しているようだ。無理もない。生まれてからずっと「かくあるべし」教育を受けてきて、骨の髄まで貫徹されているのだ。その人の自己責任だとばかりは言えない面がある。また多かれ少なかれ、ついうっかり生活をしていると「かくあるべし」が表に出てしまうというのが実情なのだ。そういう態度を前面に押し出していると、自己嫌悪、自己否定、他人否定で苦しむことが頭の中で分かっていても、どうすることもできないのだ。分かっていてもできないというジレンマを抱えているのだ。自分が苦しむだけなら、自業自得だが、他人も巻き込んで険悪な雰囲気を作りだしてしまうのだから始末に負えない。この呪縛から逃れるための手法は、森田理論を学習している人は幾つも持っておられることだと思う。それを生活面に応用して、「かくあるべし」が出てきたら、どれだけ基本に立ち戻れるかが大事なところだと思う。「かくあるべし」が常態化している人も、「ああしまった。またやってしまった」と後悔して眠れない日を過ごしているのだと思う。だから非難するよりも、相手の身になって許してあげることだ。目くじらを立ててすぐに倍返しで仕返しするような人は、それこそ、その人以上に強力な「かくあるべし」を抱えているのだと思う。相手を非難、否定することからは、明るい将来を見通すことはできないのだ。今日はその中から一つだけ提案しておきたい。相手の言動に対して、腹の立つことはたくさんあると思う。その時に機械的に批判、否定したくなると思う。そんな時、自分は今相手を否定したがっているという気持ちに気づくことは可能だ。相手を否定する感情は、ネガティブでマイナス感情だから、意識しているとその感情には気づくことができるのだ。普通はその感情を基にして、売り言葉に買い言葉で対応するのだ。これは考えものだ。軽率な行動は取り消すことができなくなり、禍根を残すからだ。ここで「そのマイナス感情、ちょっと待て!!」という言葉を自分に発するのだ。このキーワードを机の前に貼り付けておく。目につけば意識付けできるようになる。原点回帰ができるのだ。そんなの無理だと思う人がいるかもしれない。確かに難しい。でも10個のうち1個や2個はできるかもしれない。ここがその後の展開を大きく左右するのだ。そして相手の理不尽極まる言動を事実のままに再現するのだ。相手は自分の行動を馬鹿にしている。あるいは無視した。批判した。肝心なことは、それがいいとか悪いとか判定するのではない。事実を忠実に再現していくだけだ。事実をありのままに認めていくのだ。そして事実を受け入れていくことができればよいのだ。受け入れていけなくても、事実に価値判断なしに寄り添っていけることになれば十分です。そういう態度の養成が「かくあるべし」を減らして、事実本位の態度に転換できる一つの方法となるのです。葛藤や苦悩は減ってきますので、ぜひ試してみてください。
2019.06.03
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このDVDは「心の健康セミナー」で行われた講話を紹介したものです。「心の健康セミナー」は主に一般市民向けなので、その内容はとても分かりやすい。また森田理論に詳しい講師の方々が講話をされています。一つ一つの講話はそんなに長くないので、学習ツールとして使いやすい。このDVDは2枚1セットで2000円です。(税金と送料は別途)内容の割にはとても安価です。私はNPO法人生活の発見会から入手しました。森田療法の基礎的な内容を知りたい人にはとても役に立つと思いましたのでご紹介します。以下にその講話内容、講師、時間配分を紹介しますので、個人、あるいは集談会などで学習する場合の参考にしてください。企画制作は、公益財団法人メンタルヘルス岡本記念財団です。Disk11-1 森田療法入門講座 35分 中村敬先生1-2 森田正馬の神経質概念とは 26分 岩木久満子先生1-3 入院森田療法について 22分 中村敬先生1-4 外来森田療法について 29分 岩木久満子先生1-5 強迫性障害に対する森田療法について 40分 久保田幹子先生Disk22-1 社交不安障害(対人恐怖症)の森田療法 39分 中村敬先生2-2 森田療法の社会不安症への治療法 9分 星野良一先生2-3 不安・うつから回復する手立てとは 20分 中村敬先生2-4 うつに対する森田療法 9分 館野歩先生2-5 パニックに対する森田療法 8分 館野歩先生2-6 不安・こだわりに縛られた生活から自由な生き方へ 46分 久保田幹子先生この中で、集談会の理論学習として最適と思われるものは、1-1、1-2、2-6です。これらは森田理論の基礎的な部分を丁寧に分かりやすく説明されている。事前に幹事や世話人の人が視聴して、レジメなどを用意するほうがよいでしょう。その後、疑問点や感想を出し合って学習してください。その他は、入院・外来森田療法に関心のある方、強迫行為、社会不安障害、うつ病、パニック障害などを抱えておられる方が個別に視聴されることをお勧めいたします。
2019.06.02
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いよいよ梅酒づくりの季節がやってきた。田舎の梅の木はあまり実がつかなかったので、今年は買うことにした。青梅1K、氷砂糖500グラムから1K、ホワイトリカー1.8Lの割合だ。最近はホワイトリカーの代わりに、ブランデイを使う人もいる。我が家ではすでに仕込みが終わった。知人から梅をもらったので2回目の仕込みを行うことにした。3か月経つと飲めるようになるはずだ。自分で作ったものは美味しい。冷暗所に保存して今か今かと待っている。梅酒を飲んだ後の熟成梅が酒のつまみに最適だ。それから今年はラッキョウも漬けた。これはらっきょう1Kに対して、らっきょう酢700ml、それに赤唐辛子少々だ。らっきょうはよく洗ったあと熱湯をかけて消毒してから付け込むのがコツだ。これは3週間ほどで食べれるようになる。神経症でつらい人は、とりあえず梅酒、らっきょう漬、梅干し作り、ジャム作りなどに取り組んでみたらどうでしょうか。今がちょうどよい時期ですよ。弾みがついたらたこ焼きやお好み焼きつくりにも挑戦してみたら楽しいですよ。これはオタフクのホームページが役に立ちます。さらに弾みがついたら、家庭菜園などに挑戦してみるのも面白いですよ。市民菜園が引っ張りだこですね。悩みは空き待ちですね。私のところでは使用料が年間で1坪3000円程度ですね。同好の人たちとの交流も拡がって楽しいですよ。難しければせめてベランダで挑戦してみることをお勧めします。我が家のベランダはいつも賑やかです。水やりを兼ねて毎日手入れしています。田舎の畑では今はジャガイモがどんどん大きくなっています。6月は収穫です。ミニトマト、キュウリ、ナス、ピーマン、オクラは今から大きくなります。サツマイモは今が植える時期です。その近くに季節の花を植えておくと目の保養になります。作り方は図解入りの家庭菜園の本が1冊があれば何でも分かります。我が家にはミニ耕運機(管理機)があって、畑を耕すのに重宝しています。これを運転して畝を立てるのが楽しい。定期的に田舎に帰り、田んぼの畔の草刈り、花や野菜の管理をしたり、植木の手入れをします。果樹は柿と梅の木、山椒、お茶の木があります。これにいずれ栗、いちじく、ブルーベリ―、梨、ブドウなどを植えたいと思っています。田舎でのバーベキューは最高ですね。こういう楽しみがあると、神経症でつらくても、何とか生きていけると感じています。考えれば楽しいことが身の周りにいくらでも転がっているのですね。それを見つけるのが上手な人とそうでない人がいるのだと思います。
2019.06.01
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