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私たちは他人を自分の価値観でさばいていることはないだろうか。一旦、自分の価値観に合わないと判断すると、以後毛嫌いして相手のやることなすこと先入観で否定したり軽蔑するようになる。決して相手との関係性を元に戻したり、見直そうとしない。例えば、自分に対して気に障るようなことを言った。馬鹿にするようなことを言った。みんなの前で自分のミスや失敗を笑いものにした。からかった。叱責や非難をした。存在を否定した。無視した。自分に暴言を吐いた。暴力を振るった。相手は悪気がなくても、自分はとても腹立たしい。それが精神交互作用で、どんどん増悪して、アリ地獄に落ちた状態になる。仕返しにもう一切口を聞かない。没交渉をつらぬこうと決心してしまうのだ。そうなると注意や意識は、目の前の仕事や日常茶飯事の方には向かなくなる。寝ても覚めても、相手の一挙手一投足に注意が向いてしまう。一発触発状態になると、神経が過敏になり、とてもしんどい。意地を張っているというか、融通が利かないというか傍から見ているとどうしてそこまでという感じに発展することもある。周りのものも腫れ物に触るようにとても気を使うようになる。しばらくは意地の張り合いが続くが、最後には、どちらかが退職して決着するということになりがちだ。そんな二人も最初から犬猿の仲だったわけではない。ちょっとしたことをきっかけにして、双方が自分の「かくあるべし」を相手にぶっつけた結果生じたことである。そこには、お互いに相手をののしり合い、否定し合うことしかない。人間は本来長所と短所は同じ数だけ持っているものだが、一旦いがみ合うようになると、相手の短所、弱み、存在自体にばかり目が奪われて、相手と張り合って勝つことが目的になってしまう。どうしてこんなことになるのか。腹が立つけれども、とりあえず相手の言動を受け入れるという態度を全く持ち合わせていないことに原因があると思う。理不尽な事実を受け入れるという包容力が欠けているのが問題だ。森田でいう事実を受け入れるという能力を身に着けていると対応方法は全く異なってくる。その時はとても憤慨する。なんとか仕返しをしてすっきりしたいと思うだろう。その感情を否定しないが、そうかといって軽率な態度に出ることもない。
2019.03.31
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鳥取大学の准教授の大谷直史さんの専門は教育学です。鳥取市内の自宅1階を開放して、不登校やひきこもりの若者が集まれる「みんなの居場所ぽっと」を主宰されている。そこで積極的に取り入れられているのが「ボードゲーム」といわれるものです。ボードゲームとはどんなものか。これは将棋、囲碁、オセロ、トランプ、人生ゲームのようなものだそうだ。デジタルではなく、カードや駒などを使って、相手と一緒に遊ぶゲーム全般のことを言います。オンラインゲームではなく、どこかに集まり、相手と一緒に楽しむゲームなのです。中でも今人気があるものは、相手の手を読み、戦略を考える心理戦の要素を持ったものです。「カタン」「ドミニオン」といった世界中で広まっているゲームがあるそうです。ボードゲームの利点は、コミュニケーションへの欲望を満たしてくれるツールだということです。不登校やひきこもりの子供たちの場合、誰かとコミュニケーションをとりたいけれども難しい。しかし、直接相手と向かって話することはとてもハードルが高くてできない。そんな人にボードゲームはうってつけだといわれています。デジタルゲームでは目の前に相手がいるわけではないので、コミュニケーションは取れません。ボードゲームはゲーム中のほか、終了後も結果を巡って話します。コミュニケーションが弾むのです。ゲームとは一つの仮想世界を作って遊ぶものです。相手につっこんだり、攻撃したり、現実社会ではできない人も、仮想世界なら気楽できます。その上、ボードゲームなら相手のリアクションが分かります。これはネットゲームでは分かりません。ゲームの中では自己実現も可能です。努力すれば実り、仲間から認められて報われもします。不登校やひきこもりの若者も、人それぞれですが、最初は話せなかった子が次第につっこみ合うようになり、表情も和らぎます。「友達関係がしんどい」という子にもコミュニケーション力が育まれるようです。これは勝ち負けは実はどうでもよいのです。ボードゲームは、相手の考えや意外な一面を知ることを楽しむのです。大谷さんが考案されたゲームにこんなものがあります。このゲームは数名で行います。お題からイメージする色を一人一人が決めます。色が全員一致すると成功でうれしい。一人でも違う色だと失敗ですが、なぜ違う色を思ったのか、ゲーム後に語り合う。自分と違う考えや視点が分かり面白いです。(中国新聞 2019年1月23日朝刊より引用)これは大変ユニークな活動だと思います。不登校やひきこもりの若者に気楽に集まることのできる場所を提供されています。コミュニケーション力をつけるために、理論学習や、説得療法ではなく、「ボードゲーム」を取り入れている。ゲームに興じるうちに自然とコミュニケーション能力がついてくるというものです。私の場合でも、カラオケ、テニス、スキー、釣り、トライアスロン、資格試験などにみんなと一緒に取り組んでいくうちに、気の合う友達もできて、コミュニケ―ション能力がついてきたという経験があります。集談会などでも、一部取り入れると有効かもしれません。実際に、「生き生きワークショップ」などでは積極的にゲームは取り入れられています。また以前は、一泊学習会、一日学習会、野外学習会、テニスやスキー、カラオケ、懇親会などでの交流も多かったのです。このような付き合い方の中で、助け合いながら人間関係の在り方を再学習してきたのです。
2019.03.30
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せっかく森田理論を学習したのですから、コミュニケーションで取り組んでみたいことがあります。1、事実は具体的・赤裸々に取り扱う。2、事実の一般化をしない。3、事実をごまかさない、隠さない、人のせいにしない、ということです。1ですが、抽象的であいまいな言い方はしない。できるだけその時の状況を具体的にありありと表現するように心がける。いつもいつもは面倒ですが、そのほうが相手には正確に伝わるという言う認識は持っていたほうがよいと思います。例えば、「あそこのスーパーは安い」というよりも、「白菜が別のスーパーよりも50円も安い」と表現するほうが言いたいことがより正確に伝わります。2ですが、「客はみんなわがままなものだ」「みんながそういっています」「いつも失敗する」「自分には一つも長所がない」「あの人はいつも自分のことを馬鹿にする」という言い方は、一つの事象、一人の言動を、軽率にもすべてに拡大して、先入観や決めつけが起きているのです。これはほとんど間違っています。嘘です。事実をごまかそうとしているのです。「みんながそういっている」というのを、誰がそういっているのか確かめてみると、実は一人の人がそういっているだけだったということもあります。一人の人がそう思っているのなら、きっとほかの人もそうに違いないと決めつけているのです。「いつも」「絶対に」「みんな」「すべて」「一度も」という言葉を安易に使うことは要注意です。一般化を止めて、個別案件として取り扱うことが、事実本位に近づいていきます。3ですが、自分が責任を取らされる、自分のことを批判、軽蔑されるようなことが予想されると、事実をごまかしてしまう。隠ぺいしようとすることが起こります。あるいは責任転嫁をします。交通事故が起きたとき自分は交通違反をしていない。落ち度はないと主張する人がいます。ところが相手のドライブレコーダーの画像を見ると、そのように主張していた人が、交通違反をして、人や物を傷つけていたという場合があります。その事実が判明した時点で、その人自身は信頼できない人間だとみなされてしまいます。そしてテレビで一部始終を報道されて、社会から糾弾されてしまいます。髪が薄い人でかつらをつけている人もいます。本人はうまくごまかしているように思っていますが、隠せば隠すほど周囲の人は気づいています。本人も注意や意識がかつらの方にばかり向いて、目の前の事がおろそかになります。周囲の人も腫物を扱うようにとても気を使います。事実をごまかしたり、隠して、どこかにほころびが出てくると、それを正当化するためにまた別の嘘をつくことになります。そうなりますと、その人の人間性や人格に問題ありとみなされるようになります。自分も相手もイヤな思いをすることになります。百害あって一利なしだと思います。正直に事実を認めて、包み隠さないで公表していく方が精神的に楽な生き方ができると思います。そのほうが、かえって周囲の人との人間関係がうまくいくのではないでしょうか。
2019.03.29
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今日は私メッセージについて考えてみたいと思います。私メッセージは、自分の「かくあるべし」を相手に押し付けることを回避できます。「 〇〇さん。タバコは(あなたの)体に良くないよ。(あなたは)やめた方がいいよ。心臓にも悪いし、ガンになる確率も上がるらしいよ。(あなたは)すぐやめた方がいいよ」と言ったとしたら、相手はどんな気持ちになるでしょう。おそらく「(そんなこと100も承知だよ)ほっといてくれよ」と思って気分を害するでしょう。これが「あなたメッセージ」です。今度はこういう言い方をしたらどうでしょう。「 〇〇さん。実は私ね、タバコの煙は苦手なんですよ。できれば外で吸ってもらうと、(私は)ありがたいのですが」「 〇〇さん、私、煙草苦手なんです。外で吸ってもらえると(私は)嬉しい」伝えたい結論は「タバコやめてください」ということなのですが、言い方1つで受けとられ方が全く違います。母親が子供に、 「こんな寒い部屋にいたら体に毒ですよ。エアコンの温度を上げなさい」と話すとします。反抗期の子供は「あなた、寒いでしょう」と言われると「いや、僕は寒くないよ」と言いたくなります。さらに「あなたのためを思って言っているのよ」とほのめかされると、余計にカチンときます。これがあなたメッセージです。その代わり、 「 〇〇くん。お母さん、ちょっと寒いわ 」と言われたら「いや、お母さん、寒くないでしょう」とは言えません。これが、 「私メッセージ」です。「私メッセージ」とするには、目の前の出来事、私の気持ち、その理由の3つを言うことがコツです。理由というのは、私がどうしてそのように感じたのかを説明することです。 「なぜなら」 「だから」という言葉が続きます。「 〇〇くんは納期を守ってくれると、私は非常に助かる。なぜなら、お客様の信頼も高まるしね」「私はタバコは苦手なんです。煙を吸うと、ちょっと辛くて・ ・ ・ 。だから外で吸ってもらうと助かる」(五感で磨くコミュニケーション 平本相武 日本経済新聞出版社 165頁より要旨引用)私メッセージの伝え方は、訓練次第で誰でも身に着けることができます。これが身につくと、事実本位の生き方に近づいているのです。
2019.03.28
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以前、 テレビ等で活躍されていた島田紳助さんは、一時代前に一世を風靡した漫才コンビ、 B&Bの島田洋七、洋八さんのところに弟子入りしました。島田紳助さんは、師匠であるB&Bの出演番組のビデオを何十回、何百回も見ながら、テンポ、間、声の強弱、構成、最後のオチに至るまでを分析して、あるパターンがあることに気づいたと言います。それで、そのパターンを踏襲しながら、自分のネタで漫才を始めたら、師匠のB&Bより大ヒットするようになったそうです。(五感で磨くコミュニケーション 平本相武 日本経済新聞社 51頁より引用)これは森田療法理論を自分の生活の中に取り入れていくために、大変参考になる話です。私は、森田理論を生活に活かすという点では次のようなことが思い浮かびます。1、実行力、行動力をアップさせる。2、無所住心の緊張感のある生活態度を身につける。3、日常茶飯事を大切にして、規則正しい生活習慣を身につける。4、バランス感覚、調和や両面観を身につける。5、変化対応力を身につける。6、生の欲望に沿った生活に変えていく。7、自分、他人、物、時間、お金の能力を引き出して最大限に活用していく。8、「純な心」「私メッセージ」の生活態度を身につける。9、「事実本位」の生活を身につける。これ以外にたくさんあると思いますが、私の場合で上げてみるとこういうことです。目標に向かって、どのような方法があるのか、最初は雲をつかむようなものだと思います。しかし私たちは集談会や支部研修会で出合う素晴らしい仲間がいます。この出会いを最大源に活用してゆきたいものです。その人たちの生活態度をよく観察して、これはと思った人のまねをしていけばよいのです。私は参加していた集談会で、「ものそのものになりきる」「物の性を尽くす」ということに真剣に取り組んでいる先輩を見つけました。集談会ではその人の側に近づいて具体的な話をよく聞きました。特に集談会が終わった後の懇親会の場で詳しく教えてもらいました。ビールを美味しく飲む方法。カラオケを上手に歌う方法。盆栽の手入れの仕方。台所で出た生ごみの活用。路傍の草花を楽しむ方法。日記の書き方。夫婦円満の秘訣。公共施設の利用の仕方。物が欲しくなったらそれに変わるものがないか家の中のものの棚卸をしてみること。運動の仕方・考え方。相撲や野球の楽しみ方。魚のあら炊きの上手な作り方。良好な人間関係の築き方などその人から学んだことは限りなくあった。実にきめ細かく、森田的な生活をされていた。そこに自分の人生をかけているというオーラが漂っていた。私はそれらを真似して、自分でも生活の中に取り入れていったのです。劇的に生活の変化が起きたことはいうまでもありません。森田の奥深さ、素晴らしさに気づいたのは物まねから始まったと思っています。こういう気持ちで集談会に参加していれば、きっと師匠に当たる人が見つかると思う。たとえ集談会での出会いがなくても、支部単位で見るとそんな人材は数多くおられる。せっかく集談会に参加されているのでしたら、是非そういう視点を持って参加されたらどうでしょうか。また集談会のプログラムに「生活森田・応用森田」のコーナーを設けることも必要なのかもしれません。
2019.03.27
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私は心の健康セミナーを企画・実施して、思っていた以上の参加者を集めることができた。振り返って考えてみると、この1年間の準備期間中は、なすべきことが泉のようにこんこんと湧き出て、実施日まで途切れることがなかった。この気づきやアイデアを忘れないようにメモして、一つずつ丁寧に処理していったことが成功の要因だったと思う。このことに関連して、森田先生は次のように指摘されている。走っているときは、足も手も緊張して素早く動かしている。精神状態も走っているときのように、緊張状態にあるときは、あれもこれもと気づきやアイデアが芋づる式に湧いてくるようになっている。決して雑念をなくして、精神を弛緩状態にして、誰も思いつかないような気づきやアイデアを得ようとしても無理がある。そんなことを考えていると思想の矛盾に陥る。騒然した町中よりも、温泉地などでのんびりとしている中で素晴らしいアイデアが生まれてくるように勘違いしやすいがそれは間違いである。あれもこれも気になるというような、精神が緊張状態にあるときにこそ、誰も思いつかないような気づきやアイデアが生まれてくる。独創的な創作活動にしても、精神が緊張状態にあり、四方八方に精神活動が拡がっているときに素晴らしい作品が生まれてくるのである。ですから、イベントなどの催し物を行うとき、目の前の問題を何とか解決したいと思うような時は、精神を弛緩状態から緊張状態に転換することが欠かせない。そのためには、目の前の仕事、勉強、日常茶飯事に丁寧に取り組むことだ。歩いている状態から走る状態へと行動力をつけていくことが有効になる。それに伴って、精神は弛緩状態から緊張状態へと徐々に切り替わっていく。よく素晴らしい発想力があって、次々と新しいアイデア、作品を生みだしている人を見て、あの人の頭の中はどうなっているのだろうという人がいる。例えばスティーブ・ジョブズ氏のような人だ。そういう人は活動量を増やすことで、精神状態を緊張状態に押し上げて、気づきやアイデアが生まれやすい環境を整備している人たちなのだと感じている。
2019.03.26
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私は最近商工会議所主催のパソコン教室に通い始めた。理由は、パワーポイントがもっと使えるようになりたいということだった。商工会議所のパソコン教室は入学金0円。50分の学習で授業料1000円。パソコン使用料が200円。その他1か月に1回教室維持費が1200円だった。ちなみに関東から南の各地の商工会議所で行われている。授業といってもDVDのようなものに収録されたものを一人で学んでいく。分からないところを先生に聞いて解決するやり方だった。自分のレベルに合わせて、分かっている部分は飛ばしていける。だからパワーポイントをすぐに学べるわけではない。私の場合はレベルチェックを受けて、フォルダーの作成から取り組むことになった。その後ワード入門に進んだ。レベルチェックを受けると、入力は難なくできるが、文字の加工や表の挿入、写真の取り込み、写真と文字入力の関係、図形の利用の仕方、罫線の作り方、ペイジレイアウトなどができていないことが分かった。そのために、このワード入門の学習に6時間費やした。この学習に取り組んで気がついたことを投稿してみたい。自分ではもう20年来もワードを使って文書作成をしており、ワードは何でも分かっていると勝手に思っていた。ところがどっこい、それは文字を難なく入力できるというだけのことだった。実際には知らないことだらけであった。そしてワードの内容は奥深いものがあると初めて気がついた。これはパソコン教室に参加して初めて分かったことだ。私たちに人間には、好奇心や知識欲というものがあり、新しいことを学ぶ、理解できるようになることはとても大きな喜びを感じるようにできているのだろう。この講座を受けたおかげで、例えば、「日時、会場、服装など、その他」という文字数の違うものの均等割り付けが簡単にできるようになった。表の挿入とその取扱い方もよく分かり、縦横無尽に使いこなせるようになった。それから文章の間にイラストや写真を自由に挿入できるようになった。これはワードの図ツールの文字の折り返し、前面や内部機能を使うものだが、学習するまで知らなかった。できるようになって自信がついて、うれしくなった。その他にも図形機能を使ってコップを作ったり、花びらを作ることもできるようになった。罫線の様々な加工やページレイアウトも面白かった。幾つになっても学習して理解できて、実際の生活の中に応用できるようになることはうれしい。それは新しい能力を獲得して、自分を成長させてくれるものだからだろう。次にエクセル入門のレベルチェックを受けた。表の作成と折れ線グラフと棒グラフの作成だった。これは15分の制限時間内でなんとかできた。すると先生が、「完全にできていますね。エクセル入門は飛ばしましょう。次回から早速パワーポイント入門に入りましょう」と言ってくれた。思わず「やった」と思った。次回からやっとお目当てのパワーポイントの授業が受けられる。これが終わると、「ホームページ作成講座」に進む予定である。その他興味があるものとしては、スカイプ活用講座、デジカメ活用講座、パソコントラブル解消講座などがある。この3つはまだやるかどうかは未定である。ともかく貴重な学習をさせていただいて、とても感謝し感激している。
2019.03.25
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現代人は、親から経済的にも精神的にも自立して、自分の力で暮らしていきたいという気持ちは希薄なようである。少子化であるので、いずれは親の家が自分のものになる。親の不動産や財産を引き継ぐことになる。自分一人ぐらいなら一生食いはぐれはない。だから、あえて正社員になって、気の進まない仕事をしようという気にならない。残業時間のない、バイトやフリーターのような仕事のほうが気が楽だ。できればデイトレーダーのように「手っ取り早く稼げる」ような仕事を見つけたい。責任感のある仕事、人間関係に翻弄されるような定職につくことはまっぴらごめんだ。結婚して子供を育てることは面倒だ。結婚して相手の言動に気を使うよりも自分一人で暮らす方が楽だ。自分を犠牲にして苦労を背負い込むより、刺激はあまりないが現状に甘んじるほうがよい。めんどう、煩わしい、しんどい、時間がかかることは最初からしり込みしているのだ。また、失敗するかもわからないことにあえて挑戦することはリスクが大きいし怖ろしい。行動しなければ失敗はないのだから、極力手を出さないことが習慣化している。しかし何もしないで生活することは大変苦痛である。暇を持て余すようになる。いつも自分を適度に刺激して、虚無感、イライラ感を取り除くために、テレビのバラエティ番組を見て笑う。スポーツ観戦、映画、観劇、カラオケ、グルメ、外食、お酒、ギャンブル、旅行などで息抜きを心がけている。何らかのはけ口がないと身が持たないのだ。「さて何をしようか今日も土日祝」という川柳があったが、こういう気持ちは要注意だ。こうなると、日常茶飯事に真剣に向き合うことはばかばかしいと思うようになる。日々の生活に真剣に向き合うことがなくなり、目先の刹那的刺激ばかりを求めるようになる。そういう生活をしていると、感情はどんどん衰退して鈍感になってくる。感性が衰えてくるのだ。その弊害は大きい。日常の小さな出来事に喜びや楽しみを見つけることはできなくなる。気づきや発見、工夫する楽しみはどんどんと無くなっていくのだ。いくら頑張ろうとしても、意欲ややる気が出てこなくなるのだ。より刺激の強いものにしか反応しなくなる。次第に失感情、無感動、無関心、無気力な状態に陥っていく。この状態は、思考力、発想力、想像力、創造力、判断力、分析力を担っている前頭前野が休眠状態にあるということだ。大脳の前頭前野は、絶えず活用していないと、廃用性萎縮現象を起こしてしまう。一旦脳細胞が衰えてしまうと、再生は極めて困難となる。これはまずいと思っても切り替えができなくなる。最後には早期認知症の発症へとつき進んでいく。森田理論では、仕事や勉強、日常茶飯事に丁寧に取り組むことをお勧めしている。東北大学の川島隆太教授は、大脳が廃用性萎縮を起こさないための脳の体操を勧めておられる。これらに真剣に取り組めば、大脳が鍛えられてあふれんばかりの感情が湧いてくる。大脳の前頭前野がフル回転して、次々と気づきや発見、工夫を思いつくようになる。次第に感情が高まり、意欲ややる気がでてくる。弾みがついてくるのである。それに沿って行動を起こせば、人生はどんどん活性化していく。その路線を目指すことが、心身共に健康な人生を送るということではなかろうか。
2019.03.24
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精神医学で離人症と呼ぶ現象がある。離人症の特徴は、現実感の喪失と疎隔感であり、 「自分が自分でなくなった」 「何をしても自分でしているという感じがしない」などと訴えることが多い。当然、生き生きした感情も湧いてこなくなる。そういう人は想像力が決定的に欠如している。自分の言動によって相手がどんな反応をするのか、どう行動するのか想像できない。また、他人の痛みに共感することもできない。こういう状態を精神医学では「 「アレキシサイミヤ(失感情症) 」と呼ぶ。アレキシサイミヤは、想像力が乏しく、自分の感情を認識することも、表現することも難しい状態であり、心身症やうつ状態で時々出現する。つまり、アレキシサイミヤとは、自分の感情ときちんと向き合えない状態なのだが、 一種の防衛メカニズムという見方もできる。困難な状況に直面すると、ネガティブな感情がワーッと出てきて、どう対処すればいいのかわからなくなるので、すべての感情を否認したままフリーズするわけである。アレキシサイミヤには、しばしば成育歴が影響している。子供の頃、自分の感情を出しても、親にきちんと受け止めてもらえない子、 「怒っちゃダメ」 「泣く子は悪い子」などと、ネガティブな感情を出すことを押さえつけられているうちに感情を出せなくなる。やがて、そうした感情すら認識できなくなる。そういう人ほど、アキレシサイミヤに陥りやすい。(すぐ感情的になる人 片田珠美 PHP新書 46頁より要旨引用)アレキシサイミヤ(失感情症)は、親が子供に対して素直な感情を抑圧しながら育てていると、子供はそのうちまともな感情が湧いてこなくなるというものだ。ついに感情が枯渇してしまう。様々な感情が湧いてこないとまともな人間には育たない。森田には「見つめよ」という言葉がある。物事や出来事をよく観察していると、自然にいろんな感情が湧いてくる。気づきや発見がある。様々に前頭前野で考えるようになる。そして次第に感情が高まっていく。するとやる気や意欲が湧いてくる。実際に手足を出していくようになる。行動は生産的、創造的に発展していく。しかしアレキシサイミヤ(失感情症)の人は、身体は人間であるが、自然な感情が湧いてこなくなる。離人症のような感覚に襲われる。次第に想像力、判断力、創造性などを司る前頭前野が機能しなくなる。そして廃用性萎縮が起きてくる。アレキシサイミヤ(失感情症)になることは、とても恐ろしいことだ。こうなると認知症などの脳の機能障害が起きやすい。やる気も意欲もない、無気力、無関心、無感動な人間として、ただ生命を生きながらえているだけになってします。現代の子供たちにときどきみられる現象である。これは、家庭で親が子供たちに過干渉、過保護、放任の接し方をしていることに原因があるという。こういう点に留意しながら子育てに取り組むことが必要である。私たち神経質者は、不安、恐怖、違和感、不快な感情に対して、受け入れることをしないで、排除すべきものとして対立関係にある。そこに注意や意識やエネルギーを投入しているうちに、抜き差しならない蟻地獄のようなところに落ち込んでいく。それはそれで大きな問題なのだが、小さな感情を十分に感じることができるということは、高く評価したい。生の欲望の強い人が多いということは、あふれんばかりの感情がこんこんと泉のように湧き出る人間であるという証明である。
2019.03.23
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私は以前はカラオケが苦手でいつも逃げ回っていた。音痴でその方面の能力はもともと備わっていないと勝手に判断していた。ところが最近それが一変してカラオケ大好き人間に変身した。歌うことが楽しい。カラオケを趣味の一つに付け加えることができた。月2回はカラオケの好きな仲間と歌いまくっている。好きな歌は20曲ほどある。その人は歌唱力のある人で、ときどき指導もしてくれる。人数は2人の時が多い。そのほか3人になったり、4人になったりする。それぞれ得意の曲が違うので、とても楽しい。カラオケに行く習慣のある人は、ほとんどの人が歌がうまい。そうでない場合でも、歌い方に味わいがある。その他、集談会の仲間とも自然発生的にカラオケ同好会のようなものができた。その人たちが、私のことを急に上手になったと言ってくれるようになった。私もカラオケを歌えば無条件で楽しい。なぜ上達したのかを振り返ってみた。まず歌えそうな曲を決めた。君がすべてさ、星影のワルツ、夕焼雲、還暦祝い唄、あこがれのハワイ航路、夢追い酒、夫婦春秋、ああ上野駅、足手まとい、博多時雨、祝い船、宗衛門町ブルース、夜桜、昔の名前で出ています、赤いハンカチ、北の旅人、女の道、東京の灯よいつまでも、などである。歌手が歌っているのをよく聞いて、リズムや音程を紙に書いて真似をするようにした。それをカラオケで歌って、録音して後で聴いてみた。これならなんとかものになりそうだというのを選んだのがこれらの曲である。次に毎日パソコンのyou tubeを立ち上げて、夕食後30分は練習している。仲間に聞いてみると、この方法で練習している人がとても多いことに驚いた。課題曲は20曲あるので、全部1番だけを流している。毎日練習するというのがとても大切だと思っている。時には録音機に録音して後で聴いてみるようにしている。毎日声帯をストレッチしていると高音部が出るようになったと感じている。技術的な面では、腹式呼吸の要領が分かった。それから本を読んで、声帯で作った歌声のもとを口や鼻の中で共鳴させて膨らませることを学んだ。特に伸びる部分は、口よりも鼻の中で共鳴させることが大切だということが分かった。頭のてっぺんから声が出るような感覚だ。これで歌声が詰まることが大幅に減った。好きな曲は歌詞も覚えているので、マンションの管理人の仕事の合間でも口ずさんでいる。歌を唄っていると、その瞬間は神経症的な悩みはなくなる。今は三山ひろしの「四万十川」に取り組んでいる。you tubeに楽譜もあったのでこれで音程とリズムを確認している。いまは大河の 四万十だけどもとは 山から 湧いた水人も出合いを 大事にしたい沢が 集まり 川になる深い 情けの 淀みもあれば清い 浅瀬の あいもあるこのように1か月に1つぐらいは新しい曲にチャレンジして変化を求めている。
2019.03.22
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今日は「ひな祭り」に呼ばれてチンドン興業でした。共演者は三味線部隊、七瀬カオリさんの歌と仮装パフォーマンス、東京からプロの三橋とらさんの紙芝居でした。11時に始まって終わったのは2時でした。七瀬カオリさんの芸には驚きました。you tubeにもアップされています。三橋とらさんもブログがあります。写真はとらさんです。以前は上野動物園に勤めておられたらしい。語りは、素晴らしく、プロの紙芝居師というのがよく分かりました。今日もよい一日になりました。ところで、この前の日曜日は、田舎の畑にジャガイモをたくさん植えました。たくさん収穫できることを、今から楽しみにしています。
2019.03.21
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アメリカでは、結婚する前に「プリナップ」と呼ばれる婚前契約を交わしてはじめて結婚するのが普通だそうだ。2019年2月16日の中国新聞によると、歌手のSILVAさん(43)は、 2015年に現在の夫である男性会社員と結婚した。そのときに34項目の婚前契約書を作成し、公正証書にしたという。 2人ともいちど離婚した経験がある。「しっかりと決め事をせず、前の離婚のときにはもめてしまった。せっかく再婚するなら、失敗したくないという思いが強かった」そうだ。これによると、仕事、家事・育児の分担から、ギャンブルや浮気・借金の禁止、離婚時の親権や養育費まで多岐にわたる。その一部を見てみると、次のようなものがある。子供の学校行事は2人で出席する。趣味に2万円以上の支出をする場合は事前に相談する。外での飲酒は週2回までとする。暴力、不貞行為での離婚は、慰謝料を支払う。その場合親権は放棄する。毎年元日には契約内容をお互いに確認する。「帰宅時間を毎日連絡し、速やかに返信する」という項目は、災害時のことを考えた相手の要望で盛り込んだ。共働きであることを考慮し、義理の親の介護は「自発的に行い、強要はしない」ことにした。この契約書は一緒に作ったので、 「言った、言わない」の喧嘩にはならない。お互いに責任を持ち、尊重しあえる夫婦になれたそうだ。このように、事前に2人で結婚前に、納得が行くまで話し合い、それを文章にして残しておく事は、とても意味があることだと思う。結婚するまではお互いに見ず知らずの他人である。育ってきた環境や境遇も違う。性別も違うし、性格も異なる。その2人が結婚して、 1つ屋根の下で協力し合いながら一生涯生活を共にするのだ。考え方や行動様式が全く異なる。そんな2人が子供を設けて、自立するまで育て上げるという共同作業も待っている。事前にお互いの違いをすり合わせることなく、いきなり結婚するというのは無謀というほかない。私の経験からすると、最も重要なことは、お互いの考え方が衝突したときにどのように対応するのかはしっかりと取り決めをしておく必要があると思う。お互い違う人格を持った人間であるから、毎日のように衝突するきっかけは無数にある。その時に、お互いに自分の気持ちや意志をしっかりと伝え合う。そして、 2人の間にあい埋められない溝があった場合は、どのような対応をとるのか、 2人で取り決めをしておくことが大切である。そのやり取りを子供たちもしっかりと見ているのだ。それが子供たちの将来につながっていることを忘れないことだ。一方が相手を無理矢理コントロールするようなことがあってはならない。どんな些細な事でも、お互いの関係は平等であるべきだ。ののしり合いや暴力で解決するのではなく、話し合いによって妥協案を探るという約束をとり交わしておく必要がある。夫婦の関係は毎日ぎりぎりの攻防の連続だと覚悟したほうがよい。
2019.03.21
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2006年の第一回WBCにおいて日本代表チームに招集された時の話です。練習中のイチロー選手と松坂大輔投手の会話がニュース映像で残っています。そこでイチロー選手は松坂投手に「お前、深いところで野球をなめているのだろう」と言っているのです。冗談めかした言い方ではありましたが、もしかしたらイチロー選手の本心からのアドバイスだったかもしれません。その頃の松坂投手といえば、メジャー移籍直後で最高の成績を挙げていましたが、イチロー選手にはその野球への取り組み方が歯がゆく見えたのでしょうか。「そんなに才能があるのにもったいない」と。イチロー選手は自分の野球に対する姿勢と松坂選手の姿勢に対して直感的に違和感を感じたのかもしれません。それとなく注意をしたのかもしれません。松坂選手がそれに気づいて、イチロー選手の取り組みに注意を払うことができていたならば、その後の展開は随分変わっていたのではないかと思われます。その後、松坂投手はケガに悩まされて、思うような結果を出せていません。怪我さえなければ、現在大リーグで押しも押されぬ大投手になっていた可能性の高い選手です。潜在能力の高い選手だけに、ファンとしてはとても残念なことです。反対に、イチロー選手は、最近年齢による出場回数は少なくなってきましたが、大きな怪我をすることもなく、 40歳を大きく超えても野球を続けています。そして50歳まで現役で野球を続けたいという目標を掲げているようです。生き残りをかけた厳しいプロの世界で今なお生き残っているということは、前例がないだけに、大変な驚きです。そしてその言動は多くの人に感動と勇気を与え続けています。イチロー選手は、プロ野球の世界で、最高のパフォーマンスを観客に提供するにはどうしたらよいのかを常に考えています。そのために、日常生活、生活のリズム、食生活、体のケア、筋肉の鍛え方、休息のとり方、物の見方考え方など生活のすべてにわたって、ベストのものを求めて努力しています。求道者になりきっているのです。森田でいえば、森田理論を学んで、生活に応用していくことだと思います。普段の日常生活をおろそかにしないで、常に真剣に向き合うということだと思います。常に課題、問題点、目的、目標、夢を持って努力精進していくことだと思います。私たちは一人の人間として、どう生きていくべきなのかをイチロー選手から学ぶ必要があるのではないでしょうか。そんな生き方ができれば、たとえ失敗続きでも、後で後悔するということは少なくなると思います。
2019.03.20
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片田珠美さんによると、他人の思惑に振り回される人は次のような特徴がある。1 、愛情欲求が強く、相手を喜ばせたい、気にいられたいという願望が強い。2 、承認欲求が強く、常に周囲から認められたいと望んでいる。3 、依存欲求が強く、事実上の不安を抱いている。4 、不和や葛藤への恐怖が強く、対決や、直面をできるだけ避けようとする。5 、自分に自信がなく、なかなか断われない。6 、いつも他人に合わせてしまうので、自分の意見を言うのは苦手である。7 、自分が決めて責任を負うようなことになるよりも、他の誰かに決めてほしい。この7つのなかで、もし4つ以上が当てはまるなら、その傾向はかなり強い。3つ以上当てはまれば、要注意である。2つあれば、もっと自分をしっかり持つよう、自分自身に言い聞かせたほうがいいだろう。(他人を攻撃せずにはいられない人 片田珠美 PHP新書 161頁より引用 ) こういう傾向のある人は、次のような悪循環に陥っているという。1 、他の人が自分についてどういっているかを気にすればするほど、自分自身の判断に自信を持てなくなる。2 、自分自身の判断に自信がなくなればなくなるほど、自分自身の価値について不安になるので、他人から愛されたいとか、認められたいという欲求が強くなる。3 、他の人に愛されたい、認められたいという欲求が強くなればなるほど、気に入られるようにしようとするので、他人の評価をますます気にするようになる。その結果、他人の評価に依存してしまう事態になることさえある。(同書 101ページ )他人から押し付けられる「かくあるべし」をまともに受け止めて対応している人は、苦しいことばかりが次から次へと繰り返される。自分の人生を生きていると言うよりは、他人に奉仕するばかりの人生を送っているので、そのような結果になるのである。他人から「かくあるべし」を押し付けられる事は日常茶飯事である。それに対して、自分も相手に対して「かくあるべし」を押し付けていては、問題が解決することはない。どんどん対立関係に陥っていく。そのような悪循環に陥りらないために、 2つのことを指摘しておきたい。1つは、経済的にも精神的にも依存体質から抜けだして、人間的に自立していくことである。まず衣食住に関しては、親に頼らず自分でまかなっていくことだ。日々の基本的生活を大切にして、自立して生きていくという姿勢が大切である。平凡で淡々とした日常生活は、時にはしんどいこともあるが、生きるという面では絶対に外すことができないことである。2つ目は、自分中心の生き方を目指していくことである。自分の容姿、性格、境遇、運命などはあるがままに受け入れていく。沸き起こってくるどんな感情でもそのまま受け入れる。五感や身体感覚もよく味わうようにする。自分の気持ちや意志を尊重して、自己表現していく。その能力を獲得するために、森田療法理論の事実本位、あるがままの考え方をよく学習する。
2019.03.19
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齊藤孝さんの著書に、 「まねる力 模倣こそが創造である」という本がある。憧れの人を見つけてまねるという見出しで、次のように書いておられる。ソクラテスは、魅力的であれば、ソクラテスのように対話をしたい、ソクラテスのように自分の頭できちんと考えるようになりたいというような、 「まねしたいという欲望」を青年たちに巻き起こすことができます。大事なのは、この人のマネをしたいと思わせることです。まねをしたいと思わせる力自体が教育者には必要なものになる。そうすると、だんだん技のレベルがアップしてくるということですね。まねだけで終わってしまうのではないかと心配する必要はありません。というのは、技術的なものは、学んだ側の体に入ってくると、変換を起こして、その人なりのものになってしまうからです。体の癖、あるいは気質と言ってもよいのですが、誰でもその人なりの体質や体格、考え方の癖があります。まねによって技を取り込んでみれば、自然にアレンジされるのです。スポーツなどの教室では、グループ全体が同じようなスタイルを学んでいるのに、みんな少しずつ違ってきます。逆に言えば自分に合った人のまねをしていく方が、上達が早い。これを森田理論学習に当てはめて考えてみましょう。私は森田先生の「鶯の綱渡り」と言う宴会芸に刺激されて、一人一芸の習得に励んできました。鶯の綱渡りという宴会芸は、畳の縁を電線に見立てて、鶯がよちよちと歩く様を面白おかしく演じるものです。森田先生は、形外会が終わった後、様々な余興をして楽しまれています。私はそこに目をつけて、いろいろな宴会芸を習得することにしたのです。私が取り組んだのは、楽器の演奏、獅子舞、どじょうすくい、浪曲奇術、腹話術などです。これらの練習をしているときは、神経症の事は忘れています。老人ホームやイベントでの発表という目標があるので、とてもやりがいがあります。また、利害関係のない薄くて幅広い人間関係を築くことができました。私は森田理論学習を一通り終えた後は、生活に森田理論を応用して活用している人見つけることが有効だと思います。そのためには集談会のプログラムの中に、 「生活森田・応用森田」を付け加えること提案いたします。1人15分ぐらいずつ時間をとって、自分の普段の生活ぶりや趣味や現在取り組んでいる目標などを語ってもらうのです。これは、毎回1人ずつ行っていくのもいいですし、まとめて5人ぐらいに行ってもらうのもよいと思います。一例を挙げますと、家庭菜園の話、料理の話、ペットとの付き合いの話、親戚付き合いの話、家計簿のつけかた、終活の話、掃除の話、楽器演奏の話、旅行の思い出、魚釣りの話、音楽の話、映画の話、健康の話、川柳やユーモア小話の話などです。とにかく、自分が実際に生活の中に取り入れて実行していること、発表し合うのです。これに刺激を受けて、他の人が自分も生活の中に取り入れてみよう、挑戦してみようという気持ちが湧いてくればよいと思うのです。つまり真似をするということです。1つでもそういうものが見つかれば、自分の生活の幅が広がってきます。そのうち森田的な生活が習慣になっているような「森田の達人」というような人が見つかることがあります。私は集談会の中にそういう人を見つけました。その人の生活ぶりをよく聞いて、自分の生活の中にもどんどん取り入れていきました。目の前のことに真剣に取り組んでいく。新しいものが欲しくなったら、今自分が持っているもので代用できないかを考えてみる。等はその人から教わったことです。まねをすることで、自分の生活も森田的にずいぶん変化してきたように思います。森田先生の弟子の井上常七さんは、終いには森田先生の猫背まで真似をしていたと言われましたが、それぐらいの気迫で取り組めば自分のものになると思います。
2019.03.18
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宇宙の法則を見ていると、2つのことに気が付きます。一つは、静止してじっとしているということはなく、常に動き回っているということです。常に流動変化しているというのが宇宙の法則の1番目です。すべての物質は原子と電子からできていますが、電子は原子の周りを絶えず回っているのが事実です。もう一つは、他者とのバランスのとれた関係の中で、はじめて自分という生命体が存在できているということです。地球という天体が単独で宇宙の中に存在しているわけではないのです。月や太陽、他の天体とのバランスの上に地球という惑星が存在できているという事実があるのです。月は地球の周りを常に移動しています。地球は1年かけて太陽の周りを1周しています。その太陽は銀河の中心にあるといわれている、ブラックホールの周りを秒速300kmというスピードで、2億年かけて1周している。私たちの住んでいる銀河系から200万光年先にはアンドロメダ星雲があり、お互いの重力でもって秒速275kmという猛スピードで近づきつつあるという。将来は私たちの住んでいる銀河系とアンドロメダ星雲は、合体して一つの銀河になるそうです。この2つの宇宙の法則は精神世界にも貫徹されているものと考えています。どんな悩み、葛藤、不安、恐怖も、時が経てば、流動変化の流れの中に飲み込まれていくということです。それに抵抗するということは、川の流れに逆らって泳いでいくようなものです。どんなにエネルギーのある人でも、すぐに精根尽き果てて無残な敗北を味わうことになることでしょう。川ではそのような愚かなことをする人はいないでしょう。しかし精神世界の問題となると、その流れに合わせて生きていくという方法をとらない人が多いのです。神経症になって、不安、恐怖、違和感、不快感などがあると取り除こうとしたり、逃避してしまうのです。これは自然の法則に立てついて反逆を企てているようなものです。自然の法則に反対する人は、その存在さえも許されないのだということを宇宙の法則から学ぶ必要があるものと考えます。次に、自分と他者の関係についてみてみましょう。宇宙の法則でいえば、お互いの引き合う力と遠心力のつり合いがとれた場合のみ、お互いにその存在が許されているということです。そのバランスが崩れると、力の大きい天体に力の弱い天体が飲み込まれてしまいます。この法則は人間関係の中にも貫徹されているものと考えます。体力や経済力、機転の利く人がそうでない人を服従させるということは、短期間で見れば可能かもしれません。しかしその反動は必ず起きてきます。それが自然の法則だからです。まず人間関係は、自分の素直な感情、気持ち、意志を相手に向かって明確に打ち出すことが前提になります。ただ相手は他者に対して自分の素直な感情、気持ち、意志をぶっつけてきます。そこには絶えず言い争いのもとになる見解や意志の相違が生じてきます。その違いをまずお互いが十分に認識することが大切になります。次に話し合いや、交渉によって、溝を埋めていく作業に二人して取り組むことが欠かせません。それを怠り支配、被支配の関係になってしまうと、自然の法則からは大きく逸脱してしまうのです。生きるということは、絶えず相手との緊張感の中で、いかにバランスや調和を目指して努力していくかという一点にかかっているものと考えます。自然の流れに沿って生きていくことができれば、また人間に生まれ変わってみたいという気持ちになると思います。
2019.03.17
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社会一般の人に「森田療法」というのは残念ながら見向きもされていない。心の問題を抱えている人はどんどんと増えているのだが、薬物療法が主流だ。薬で簡単に回復を目指すことが主流だ。しかしこれではまた再発する。生きづらさは解消されることは、まずないだろう。失意のうちに人生は終わってしまうだろう。仮に精神療法を受けるとしても、認知行動療法が主流で「森田療法」を選択されることは少ない。このままでは「森田療法」の中心は中国に移ってしまうかもしれない。そして、日本人は、中国や世界各地で普及して、初めて「森田療法」「森田療法理論」素晴らしさに気づくのかもしれない。森田先生は人間の気質を7種類に分類されて、その中の一つに「神経質気質」を持った人間があるといわれている。日本の人口は1億2000万だから、どんなに少なく見積もっても、神経質性格を持った人は、1000万人は下らないだろうと思っている。そういう人が、森田療法という精神療法の存在を知り、学習のきっかけをつかむことは大変に意義が深いことだと考えている。森田療法理論を少しでも学習すれば、その後の人生が輝いてくるのだ。そんな宝の山を見逃してしまうのは、とてももったいないと考えているのだ。私は森田の魅力をあらゆる機会を見つけ、あらゆる広報媒体を使って、広く一般心の人に広報する必要があると感じている。そこで私が目をつけていることがある。私は神経症で苦しんだ時に、長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」で森田理論との出会いがあった。そして森田理論を学ぶ自助組織に参加することができた。そうしたきっかけ作りを多くの一般市民に提供してあげることである。その場合、「心の健康セミナー」「出前森田」などの開催は役に立つだろうと思う。森田療法を知るきっかけ作りになるはずだ。その時にいきなり森田を前面に出してもみんなの関心を引くこともできないし、かえってしり込みされるだろう。しかしそういう人でも、心の関係する悩みはたくさん抱えているのだ。例えば考えられることを上げてみよう。ガンや難病で苦しんでいる人。不登校・ひきこもり・出社拒否、家族の人間関係、会社での人間関係、いじめ、子供の虐待、介護、愛着障害、発達障害、うつ病、全般性不安障害、多くの精神疾患、慢性疼痛、慢性皮膚病、慢性的に生きづらさを抱えている人。さらには強欲資本主義で最低限の生活を強いられてストレスを感じている人たち。そういう人たちは薬物療法、精神療法、カウンセリングなどを受けられていると思う。森田療法の立場から言えば、そういう人達に薬物療法などとともに森田療法を組み合わせることで立ち直りのきっかけが生まれているという事実を伝えていくのだ。私は、心の健康セミナーを何回も受けているうちに、森田の新たな展開に入っていると感じている。例えば、伊丹仁朗先生はガンや難病に森田療法を応用して、生存率を格段に向上されている。慢性皮膚病に森田療法を応用されている皮膚科の先生も大きな成果を上げておられる。慢性疼痛、気分変調性障害、慢性のうつ病などにも森田療法を応用されている医者もおられる。摂食障害やリストカットなどに森田療法を応用して、子供たちの心の問題に対応しておられる臨床心理士の先生もおられる。私たちは、あまりにも神経症と森田療法の結びつきが自明の理のような感覚にとらわれている。森田はそのような井の中の蛙のような世界でのみ有効なのではない。心と身体の関係は、心身一如である。ターゲットを絞って、森田に理解のある専門家とタイアップして、そういう改善例を粘り強く、心の問題を抱えている人に訴えかけている活動が、森田に今求められている課題だと感じている。
2019.03.16
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人が死ぬときに何を後悔するかということについての研究によると、総じて「もっと冒険しておけばよかった」と思う人が多いのだそうです。結婚しておけばよかった、夢を諦めなければよかった、子供を育ててみればよかった、愛する人に感謝を伝えればよかった・ ・ ・ 。そんな勇気を持てなかった数々の事柄が思い出されるのだそうだ。また同じことを海外で調査した結果の中には、 「自分の美しさに気付かなかったこと」を後悔しているという項目が挙げられていました。どの国でも、多くの人が自分に厳しすぎる批評家なのですね。容姿、心、存在そのものの美しさに、他でもない自分がきちんと気付いていたら、違った展開があったかもしれない。「ずっとやってみたかったことを自分にさせてあげたい」と思うのならそうしましょう!自分には不似合いだ、ふさわしくないなんて決めつけないで、諦めずに堂々と。何をやるにも、いまは最適の時です。(ダメな自分の魅力の見つけ方 矢尾こと葉 きこ書房 109ページより引用)これは挑戦したいと思っていた夢や目標を経済的な理由や精神的な理由で諦めてしまうと、人生の最終章を迎えた時に後悔をするというものです。アドラーは、「人間は目標に向かって生きる動物」であると言いました。森田理論では「生の欲望の発揮」をとりわけ大事にしています。やるべき仕事や課題のない生活はつらいものです。夢や目標の持てない人生は寂しいものです。こんなに苦しいことはありません。逆に言えば、夢や目標に向かって努力する過程が人生の醍醐味であるともいえます。神経質性格を持った人は、感受性が強く、好奇心が旺盛で、あらゆる方面に興味や関心を抱きます。その素顔な気持ちに従って、経済的に許す範囲で挑戦してみるという態度が大切なのだと思われます。しかし、いきなり夢や目標を持って、意欲的に生活をしなさいといっても、神経症で苦しんでいるときはとてもそんな気持ちにはなりません。そういう時は、日常茶飯事の中で小さな目標を見つけることから始めることが大切だと思います。森田理論では、感じを高めるという事を大切にしています。ものそのものになりきるって日常茶飯事に取り組んでいれば、気づきや発見が出てきます。そうすれば感じが高まり、意欲的、挑戦的になります。それが小さな火種となって、もう少し大きな夢や目標へと膨らんでいくのです。煩わしい日常茶飯事を丁寧に行うこと、雑仕事を丁寧に行うことから、道は開けてくるのです。「自分の美しさに気付かなかったこと」を後悔するということですが、自分という1人の人間の存在、自分に備わっている能力、自分に管理を任されている様々な物などの価値を十分に認識していないのだと思います。それらはあって当たり前、そして自分にないものを際限なく追い求めることにエネルギーを消費しているのです。やたらにそれらを追い求めるのではなく、今現在自分に備わっているものを磨いて活用していくことに注意や意識を切り替えていくことが必要なのではないでしょうか。ないものねだりをするのではなく、今あるものを最大限に大切にして、活かしていく生き方を森田理論は教えてくれています。それが自他ともに平和で共存共栄できる方向だと思います。
2019.03.15
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心屋仁之助さんが、「かくあるべし」の弊害についてわかりやすく説明されています。「自分を認める」 「そのままの自分を認める」口では言えるけど、頭ではわかるけど、なかなか出来ない事の1つだと思います。自分のこういうところが嫌い、こういうところが認められない、ああダメだと思う。そして「だから、変えたい」 「何とかしたい」と願う。これは自分と戦っている状態です。(筆者注。これは自分という1人の人間の中に、二人の人間が住みこんでいて、反目し合っている状態です。「かくあるべし」の強い人はそうなっています。)この「自分の中にいる対戦相手」が、自分の苦手な人です。自分の内側の仮想敵が、目の前に「苦手な相手」として現れるから否定したくなるのです。戦いたくなるのです。だって認めていないのですから。「お前は間違っている」 「お前は、もっとこうなれ」と、 「変えよう」とします。(筆者注。観念主義、理想主義。完全主義、完璧主義。目標達成第一主義。コントロール欲求の強い人が陥りやすいことです。現実の自分を否定して、性格改造、精神改造、肉体改造に精力をつぎ込んでいるのです。この道はいずれ行き詰まります。)目の前の相手を変えようとしている時は、相手を「否定」しています。相手を否定する、ということは「自分は正しい」 「自分の方がマシ」と考えているからです。「あなたは間違っている」でも「私は正しい」「私は正しい」でも「あなたは間違っている」この考え方が、問題を引き起こしているのです。宗教戦争も、このようにして起こり始めます。(筆者注。「かくあるべし」の強い人は、自分だけではなく、他人も観念主義、理想主義。完全主義、完璧主義。目標達成第一主義の立場から是非善悪の価値判定をしています。少しでも理想から離れていれば批判、否定するのです。相手といがみ合うようになります。)要するに「考え方」 「ものの見方」の違いです。では、どうすればいいのかというと、 「認める」ことが解決のカギになります。自分の中の「ダメな部分」 「弱い部分」は、できればなくなってほしい、消えてほしいことでしょう。つまり「見たくない」 「聞きたくない」 「触れられたくない」と否定しています。そんなとき、 「ダメな部分」 「弱い部分」を、 「ああ、弱い自分、ダメな自分、怖がっている自分がそこにいるんだな」と思うことです。 「肯定しなくていい」 「好きにならなくていい」 「変えようとしなくていい」 「ただ、そこに、いる」と、存在を確認する。無視をしない。実は、それだけでも「認める」ことになるのです。(筆者注。これが森田理論でいう事実本位、事実唯真の立場です。自分の立ち位置を、しっかりと事実、現実、現状に置いておくことです。 「こうであったらよいのに」と思う事は構いません。しかし理想の立場に自分を置いて、事実、現実、現状を上から見下ろして非難、否定することだけはなんとしても止めなければなりません。そうしないと自分も他人も自然も、その存在を否定されて、不幸になるばかりだと思います。これが森田理論が訴えたいことなのです)(人間関係が「しんどい」と思ったら読む本 心屋仁之助 中経出版 164ページ参照)
2019.03.14
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私はこのたび、「心の健康セミナー」の主催者として、新聞社、市役所、県の精神衛生センター、市の精神福祉施設などに直接出向いて広報をしました。区民文化センター、市立図書館、公民館などで森田療法のことはまともに取り扱ってもらえませんでした。それは仕方がない面もありますが、心の問題を扱う健康福祉局、精神衛生センター、保健所などでも、「森田療法ってなに」 「新興宗教とは関係ないですよね」「講演の題名に森田療法と入れたものにご協力はできない」などと言われて、受付ですぐに追い返される場合が多々ありました。特に期待をかけていた県の精神衛生センター、市の精神福祉センターでまともに対応してもらえなかった事はとてもショックでした。話を聞いてもらえない。入り口でチラシを渡すのが精一杯でした。すぐに捨てられているのでしょう。というのは、申し込み者の中で、そういうところでチラシを見た人は一人もいなかったのです。ポスターなどは掲示はできませんと断られる始末です。他のポスターはいろいろと掲示しているのにとても残念な思いでした。曲がりなりにも心の問題を扱う部署で、森田療法が眼中にないということがよくわかりました。あっても、近づいてはならない、効果は期待できないので無視するという態度が露骨なのです。全国的に見ると私の住んでいる県や市が特殊なケースなのかもしれません。地元新聞社は後援してくれました。 後援にあたっては生活の発見会の定款や役員の名簿の提出を求められました。当然、新聞紙上でも取り上げてくれるものと思っておりましたが、他のセミナーの掲載を優先するということで断られました。他のセミナーの内容と私たちのセミナーの内容を比較しているのです。特に「森田」というネーミングに敏感なのです。そして私たちのセミナーは取り上げてもらえなかったのです。食い下がると、森田療法は、特定の療法に偏っており、普遍性が少ないなどと説明されるのです。途中からは、森田療法のことは前面に出さずに、森田療法理論を応用して開発された「生きがい療法」の言葉を前面に出すように変更しました。この言葉は、森田療法を1とすれば、 3倍ぐらいは世間に知れ渡っています。以前に新聞で取り上げられた記事などをファイルして見せれば、非常にインパクトが強いのです。これは過去に掲載された記事が数多くあります。これを前面に出すことで、多くの参加者を勧誘することができました。 80人定員のところ95人も集めることが出来たのです。今回の「心の健康セミナー」では、一般市民の方が数多く参加されます。多分森田療法そのものよりは、「ガンと生きがい療法」の話を聞きたいのだろうと思っています。私はこの機会をとらえて、森田療法の言葉を広く知ってもらうことに力を入れたいと思います。理想としては、心の問題を抱えた人に、その解決策の1つとして、森田療法のことがすぐに頭に浮かぶような状況を作り上げたいと思っております。まずは一般市民の人に森田療法というすぐれた精神療法があるという事を広めることが、今、 1番に取り組むべき課題だと考えています。2月号の生活の発見誌にYouTube (無料の動画共有サイト)で発見会のチャンネルを作り、そこで定期的に短い動画を配信して森田療法の普及活動を行うという提案がありました。これは会を上げて取り組めば効果があると思います。どなたか取り組む人はいないでしょうか。私は文章を書くのが好きなので、このブログで森田療法の普及に努めております。毎日600人から1,000人ぐらいの人がアクセスしてこられます。こういう活動を地道に続けていれば、いつの日か、森田療法に関心を持つ人が出てくるのではないかと思っております。最初のうちは一日20人ぐらいのアクセス数しかありませんでした。それがいつの間にか、30倍から50倍に拡大したのです。粘り強く継続していって、いつか世の中を変えていきたいと思っているところです。メンタルヘルス記念財団を作られた岡本常男さんは、「森田療法という日本で生まれた優れた精神療法は、海外で評価されて、逆輸入される形で日本で普及するのではないか」といわれていました。岡本さんは何回も中国に足を運んで森田療法の普及に努められました。中国では大学病院をはじめとして、日本を凌駕する勢いで森田療法が拡大しています。その他、オーストラリア、カナダ、アメリカ、ドイツなどにも拡大して、国際森田療法学会も開かれるようになりました。その日は着実に近づいているのだと思っております。
2019.03.13
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2月号の生活の発見誌に不潔恐怖の人の話がある。強迫観念とは、非常に嫌な感情です。ですから、この嫌な感情を、なくそうとか排斥しようとか、ねじ伏せようとして強迫行為をしてしまうのですが、強迫行為をすればするほど、いやな感情は精神交互作用で大きくなり、完全に負け戦です。強迫観念と事実は違うということをしっかり認識して事実に基づいた生活を実践することが大切です。「もしかしたら閉め忘れたところがあるのでは」 「もしかしたらきれいに拭けていないのでは」 「もしかしたらきれいに洗えていないのでは」みな強迫観念です。この強迫観念に従ってする行動は強迫行為となってしまい、追い込まれてしまうのです。「もしかしたら」に振り回されてしまうのです。戸締まりなど、確実にしまっているという確信はもてないけれど、 「確認した」という事実にすがる、食器などきれいに洗えたという確信は持てないけど、 「一生懸命に洗った」という事実にすがる、 「一生懸命に拭いた」という事実にすがる。後ろ髪を引かれる思いでやるしかありません。強迫行為を続ける人は、見る、聞く、匂う、味わう、触れるという五感、そして直感を信頼することができないのだと思います。いったん五感で確認しても、思索、判断力などを司っている大脳の前頭前野がしゃしゃり出てきてしまうのです。そして、常に主導権を前頭前野が握っており、五感や直感は軽視されてしまうのです。ですから強迫行為は動物にはありません。人間にだけあるものです。精神拮抗作用で、五感や直感が否定されるのが普通の状態になっているのです。強迫行為をしている人は、強迫行為や自分が嫌で嫌で仕方がないのです。強迫行為をする人は、幼児のころ、母親とのスキンシップが欠けており、そもそも他人を無条件に信頼するという経験が乏しかったという人もいます。暖かい人間同士の触れ合いが持てないことで、五感や直感への信頼感にも影響を与えているのかもしれません。この方は、行動したという事実は歴然とあるわけですから、その事実だけはきちんと認めていく。そして耐えがたいことではあるが、強迫行為から決別するという方法をとられているようです。理屈としてはその通りなのですが、それが出来ないから強迫行為を止められないという側面もあります。また別のある方は、強迫行為は精神拮抗作用が原因となって発生している。戸締まりをした、ガスの元栓をきちんと締めた、手をきれいに洗ったという事実があっても、その反対観念がどうしても出てくる。その反対観念が出てくるというのは、人間の宿命である。そういうことが自覚できれば、強迫行為の成り立ちが分かる。成り立ちがわかれば、自分を許せたり、強迫行為から逃れることができるのではないか、と言われている。これは森田理論の中で、森田先生が教えてくれた重要な視点であると思う。私はそれに加えて、五感や直感力を強化することにも取り組んだ方がよいと思う。五感はネガティブで否定的なものだけではなく、うれしい、楽しい、清々しい、気持ちがよいなどというポジティブで肯定的な面もある。おいしいもの食べること、体を動かすこと、芸術や文芸作品を味わう事、スポーツをすることによって、五感はどんどん鋭くなっていくものである。そういう改善への道もありだと思う。それから、強迫行為をする人は、他者への信頼感も希薄な面があるので、広く浅く人間関係を広げることによって、 「心の安全基地」という人間同士の基本的信頼関係を再構築して行く方向で努力していく。これは直接強迫行為の改善には結びつかないかもしれないが、強迫行為を続ける人の、自分の人生を楽にしてくれる。このように、総合的に取り組んでいた方がよいのではないかと考えています。
2019.03.12
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2月号の生活の発見誌よりの引用です。対人恐怖にとらわれてしまったら、いきなり一般社会で人間関係を常にうまくやろうとする試みを、ちょっと棚上げしてほしい。普段の対人関係の改善を、焦ってしまうと、たいてい失敗し、さらに「自分はなんとだめな人間」と、劣等感を強める結果を招く。また、仲間が集う集談会などに参会し、わずかでも自己防衛のヨロイを外していられる居場所を確保することも大切。これは、神経症で苦しんでいる人は、一刻も早く心の苦しみを取り去って楽になりたいという気持ちが強いということです。しかし、対人恐怖症のような強迫神経症は、気になる不安を取り去ろうとして性急になればなるほど、蟻地獄の底に落ちてしまうようなことになります。森田理論学習で、対人恐怖症の成り立ちがわかったからといっても、たちまち改善できるわけではありません。不安神経症の場合、短期間のうちに神経症を克服するというケースはありますが、強迫神経症の場合は、時間をかけて玉ねぎの薄皮を剥いでいくような態度でいることが必要です。対人関係のことで頭の中で考えることが100%占められていた状態から、 90% 、 80% ・ ・ ・という風に、時間をかけて注意や意識が遠のいていくようになるのです。たとえ10%でも改善が図られれば、それだけで生きる勇気が湧いてきます。そういうことの繰り返しで、最終的には対人恐怖症はあるにはあるが、それに振り回されることが少なくなっていくのです。生活本位、物事本位に変化していくのです。私も対人恐怖症で、苦しみましたが20年ぐらいで急に楽になった経験を持っています。対人恐怖症があるということは、自分にとっては人生の中で克服すべき課題を、常に持っているというふうにも考えることができます。それが一挙に解決してしまうと、その時点で、取り組むべき課題がなくなってしまいます。目標や課題、ストレスが全くない人生ほどつまらないものはありません。対人恐怖症の成り立ちや問題点を試行錯誤しながら、「自分はどう生きるべきなのか、人生とは何なのか」を深く洞察するきっかけにしたいものです。そのようなことを思索することは、人生の醍醐味ともいえるものです。対人恐怖症の真っ只中はとても苦しいものですが、それを乗り越えていった人は晩年になると、 「神経症になってよかった。人間に生まれてきてよかった」と、自分の人生をいとおしむことができるようになるのです。「雨降って地固まる」という格言がありますが、まさにその通りです。これは一人で実行することはとても難しいかもしれません。しかし私たちには、仲間で助け合って乗り越えていくという自助組織を持っています。集談会に参加しながら、お互いに刺激を与え合いながら、対人恐怖症と末永くつきあっていきたいものです。対人恐怖症で苦しんだ経験があると、今まさに対人恐怖症で苦しんでいる人の気持ちは手に取るようにわかります。そして、何とかしてその人に克服してもらいたいと思うようになります。その人のそばにいて、何かあったときには、援助してあげたい、相談に乗ってあげたいと思うようになるのです。こんな気持ちになるのも、自分が長らく対人恐怖症で苦しんでいた経験があるからこそです。こうしてみると、自分の人生の中で心ならずも出会った苦しいこと、辛いことすべてに大きな意味があったということだと思います。
2019.03.11
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2019年2月号の発見誌に、次のような記事があった。神経症から回復する3つの視点である。1 、神経質という性格を自覚する。2 、とらわれが拡大・固着する過程、つまり精神交互作用を理解する。3、不可能の努力を招く思い込み、つまり思想の矛盾を理解する。この3つは、神経症に陥った人が、神経症から解放されるために、必ず通らなければならない関所のようなものです。まず1番目だが、神経質者は発揚性気質の性格の持ち主と比較して劣等感を持ちやすい。そして、心身を鍛えて神経質性格の改造に乗り出す人もいる。私は神経質性格は基本的には変えることはできないと思っている。それよりは、神経質性格のプラスの面に焦点を当てて磨いていくことが大切であると思う。感受性が鋭いということは、鋭いレーダーを標準装備しているようなものだ。これを活かせば、芸術や文化を楽しみ、人間の心理なども細かく分かるようになる。また、好奇心が強く、責任感があり、真面目である。観察力が鋭く、物事や人間を詳細に分析する力がある。半面、リーダーシップを発揮したり、その場を盛り上げたりする力はあまりない。肝心なことは、無いものを求めるよりも、あるものに磨きをかけて、さらに伸ばしていくほうに力を入れた方が良いと思う。2番目であるが、神経症は固着する過程は、自分の気になる1点に注意を集中して、精神交互作用で悪循環を繰り返すことである。精神交互作用を打破して、生の欲望の発揮に注意や意識を向けていくことが大切である。森田理論学習で盛んに言われていることで、誰でも知っていることである。これは不安と欲望のバランスを意識した生き方のことである。実際に生活の場面に応用していくことが肝心である。3番目だが、「思想の矛盾」の打破は、森田理論学習をした人は誰でも知っていると思う。しかし、実際にはどうしたら「思想の矛盾」が打破できるのか、分からない人も多いと思う。これは、 「かくあるべし」を少なくして、現実や事実に即した生き方をすることである。そのためには、先入観で決めつけるようなことがあってはならない。事実を事実としてよく観察する態度が必要である。現地に出向いて、実際に自分の目で確かめる態度が欠かせない。事実を口にする時は、赤裸々で具体的に話す必要がある。他人と比較して、安易な是非善悪の価値判断は極力抑える。森田理論では、最初に感じた素直な感情、つまり「純な心」の習得を大事にしている。最初に感じた素直な気持ちを思い出して、いつも原点回帰できるような癖をつけることだ。そして、その感情を相手に伝える時は、 「私メッセージ」を活用することだ。これだけを心がけて、生活していけば、思想の矛盾で苦しむことが格段に減少すると思う。ぜひ取り組んでいただきたい。
2019.03.10
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昨日に引き続き、長谷川洋三先生のお話です。お母さん方の中には、子供が忘れ物をして学校に出かけた場合、慌てて忘れ物を学校に持って行き、こっそり子供を呼んで手渡してやるようなことがあります。忘れ物をしたら、自分がどんなに困るか、どんなに恥ずかしい思いをすることになるか、子供の貴重な体験の機会を奪ってしまうのです。子供はこういう体験をすると、今度は自分で忘れ物しないように気をつけるようになり、工夫もします。ところが、お母さんが届けたばかりに、こういう体験もできなければ、自分で気を付け、工夫するということにもなりません。忘れ物を繰り返すということになるでしょう。幼い子供が柱にぶつかって、わーっと泣き出すと、おばあちゃんが「よし、よし、かわいそうに、泣くんじゃない。悪い柱だね。めっ! 」と、柱をぶつまねをする。よくある風景ですが、これなど、失敗すると自分の事は棚に上げて他人のせいにする態度を養うようなものです。これはお母さんやおばあちゃんが、子供を甘やかせて過保護に育てているのだと思います。過保護は子供を必要以上に溺愛しているだけで、子供の将来には害になります。このようなことが度重なると子供は体験不足になります。そして観念主義に陥ります。また依存心のみが肥大化して自立心が育ちません。子供にとっては不幸なことです。人に依存して生きていくばかりで、困難をはねのけて、挑戦する態度を養うことができません。日常茶飯事も親や他人に頼るばかりで、他人の援助がなければ、自分では何もできません。他人に依存する人生は、意欲ややりがいが持てなくなり、無気力、無関心、無感動な人生を送ることになります。依存するばかりの人生は、自分の気持ちや意志を大事にすることができなくなります。常に他人の言動が気になるようになります。他人の言動に振り回されるようになるのです。このようにして、対人恐怖症が生まれてくるのです。そして、容易に他人に支配されるような人間になってしまいます。こうなりますと、生きていくことに何の意味も見いだせなくなります。生きる事は苦役を強いられているようなものです。残念な人生で終わってしまいます。私たちが参加している集談会でも、森田理論の理解が不足している人に、性急に森田理論の真髄をしゃべってしまうことがあります。これは、親切なようで聞いている人にとってはとても迷惑な話です。小さな親切大きなお世話です。本来は自分が学習して、つかむ楽しみを最初から取り上げられてしまうからです。森田理論は、自分で理論を学習して、それを実際の生活の中に取り入れて、二歩前進一歩後退の試行錯誤の中でだんだんと自分のものにしていくものです。人から先に答えを教えてもらうやり方はうまくいきません。周囲の人は、その成長の過程を温かく見守っていくという態度が必要なのです。性急に森田理論の真髄を教えてあげるという態度になると、しゃべっている人の自己満足で終わってしまいます。もどかしさを感じても、手出し不要です。相手に森田理論を説明することに力を入れるよりも、自分のつかんだ森田道を愚直に実践しているほうが相手に与えるインパクトは非常に高いものがあります。相手はその後ろ姿にこそ、大きな影響を受けるのです。
2019.03.09
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生活の発見誌2月号に長谷川洋三氏に次のような記事がある。言葉というものは、不都合なものであります。「自分は初めての人に会うと胸がドキドキしてものが言えないことがある」と言えば、ある条件下のある状態のことでありますが、 「自分は対人恐怖だ」と言えば、自分イコール対人恐怖ということで、全人格的なレッテルとなります。しかし、事実はどちらかと言えば、当然前者、ある条件下のある状態であります。そして、この事実は全く自然なことで、少しも異常ではないのであります。だから、私はあまり簡単に「私は対人恐怖だ」とか「私は不眠恐怖だ」とか「私は雑念恐怖だ」とか、レッテルを貼るような言葉を自分で言わない方がよいと思います。言うときには、もっと事実を具体的に言った方がよいと思うのです。知らず知らず、言葉の魔術に引っかかってしまうからです。これは集談会の自己紹介の時によく見かける光景である。「私は対人恐怖症です」「私は不安障害です」「私は疾病恐怖」ですと一言で自分の症状を紹介する人がいる。自分のことを「対人恐怖症者」などとレッテルを貼っているのだ。これでは初めて参加した人にとって、全く理解不能である。参考にならない。そのように自己紹介している人にとっても、神経症の克服には結びつかないのではないか。自分をそのように決めつけていては、いつまでも人間関係に振り回されて、生きづらさは解消できないのではないでしょうか。レッテル貼りの弊害はあらゆるところに及ぶ。例えば仕事でミスをすると、「自分は何をやってもダメだ」「自分の人生はもう終わったようなものだ」「会社を辞めてしまいたい」などと極端に飛躍して悲観的に考える。誰もがしている小さなミスが、自分の人生を左右するような大きな問題になるのだ。楽器の演奏を間違えたとき、スポーツで負けたとき、カラオケがうまく歌えなかったときも、自分の全人格がダメだと決めつけてしまう。実際にはその一部分がダメなだけであって、全人格に波及するようなものではない。10の弱みや欠点があれば、10の強みや長所があってつり合いがとれているのが人間なのだ。だから対人恐怖症の人は、どんな場面で、どんな相手から、どのようなことを言われて、不安になったとかイライラしたという風に、事実を具体的に赤裸々に紹介する必要がある。そうすれば、相手にもよくわかるし、自分にとっても、対人恐怖症の改善に結びつく可能性が出てくる。レッテル貼りをする人は、自分の弱みや欠点が相手に知られることを恐れていて、できるだけ隠そうとしているのかもしれない。だから抽象的であいまいなままにごまかしているのかもしれない。しかし事実に真剣に向き合うことを避けているので、ますます「かくあるべし」が強化されて思想の矛盾で苦しむようになるのである。そういう態度では、神経症を克服して、生きづらさを解消することはどだい無理な話である。事実は、隠したり逃げたりしないで、具体的、赤裸々にを心がけるだけで事態は好転する。
2019.03.08
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2019年2月号の「生活の発見」誌に市川光洋先生の興味深い記事があった。これによると高良興生院で、退院する患者さんに「入院中に何が変わりましたか」という質問に対して、3つの答えがあった。1、症状がよくなりました。2、症状があっても行動できるようになりました。3、なんだか知らないが心境が変わって治りました。その後追跡調査をしたところ、一番よく治っていたのは3番目の人だったという。私が思うには3番目の人は人生観が変わったから治っていったのだと思う。1番目の人は、入院して言われる通りにしていたら、入院前の不安や恐怖はだいぶ楽になりましたと言っているのだ。これでは薬物療法や不安を取り除く精神療法と何ら変わりはない。喜んで退院してもすぐに再発する。また生きづらさは依然として継続する。そしてまたすぐに落ち込んでいくと思う。かわいそうな人だ。2番目ですが、ほとんどの人はこの段階を森田療法の最終地点と勘違いしている。精神交互作用を打破して、生の欲望にのっとった生活が定着してくると、神経症は確かに治る。しかしそこで満足してしまっては、生きづらさは解消できない。これは第一段階の関門を通過したという治り方であって、ここで森田から離れては実にもったいないのである。この段階は神経症を克服するための必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。それでは3番目の人生観が変わるとはどういうことか。それは今まで不条理で観念的な「かくあるべし」を、自分や他人に押し付けていた態度の誤りに気が付いて、あらゆる事実を認めて受け入れるという態度の必要性が理解できて、実践できるようになることである。観念で考えたことを絶対視しなくなり、事実、現状、現実にしっかりと根を張った生き方ができるようになった人である。それを「事実本位」の生き方を身に着けた人と呼ぶ。そのためには、事実には4つの事実があるが、その4つの事実の洞察を深める。これについて知りたい方は、検索して過去の投稿記事をご参照ください。次にどこまでも事実をよく観察していく態度を身に着ける。口にするときは、事実に沿ってできるだけ赤裸々に具体的に話す。抽象的な話し方を改善していく。物事は両面的、多面的に見るようにする。安易に是非善悪の価値判断を口にしない。「純な心」を理解して、いつも素直な気持ちで対応する。自己主張するにあたっては「私メッセージ」応用する。それぞれに難しい面はあるが、その方向を目指していくことが大切である。幸い集談会という学習の場かあるのだから、みんなで目指してゆきたい。これらは「事実本位」の生活を心がけて、観念は参考程度に活用するということだ。これが逆転し、「かくあるべし」が、事実、現状、現実を批判、否定するようでは本当の意味で、神経症を克服することはできないのである。これでは人生の苦しみから逃れることはできない。
2019.03.07
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佐賀県唐津市に農民作家山下壮一さんがいる。この方は農作業の傍ら、小説やルポを書き始め、海外に実際に足を運んで現地を視察している。現在はどの国行っても、農地を大資本に牛耳られ、土地を持たない貧農とスラム街が増えていると言われている。強欲資本主義の社会が、一部の富裕層をより豊かにして、多くの人民を生きるのがギリギリの生活におとしいれているのだと指摘されている。貧富の差は、今や生存権をかけた戦いとなっている。10%の超富裕層と90%の貧困者に二極分解しつつあるのだ。今は大丈夫だと思っていても、全世界がその方向に向かって突き進んでいることを忘れてはならない。お隣の韓国については、次のように指摘されている。1997年11月21日、韓国は経済破綻を起こし、 IMFに対し緊急融資を申請した。12月3日に、証券担保に合意して、総額928億ドルの融資を受けてIMFの監視下に入った。IMFの融資は、経済破たんした国を経済的に助けてくれるかのような印象があるが、実際はそうではない。むしろ韓国に援助を差し伸べると言うよりは、あらゆる規制を緩和し、外資に市場を明け渡すことを意味する。韓国経済を破滅に追いやるものなのだ。IMFの緊急融資は、外資やグローバル企業から見れば、宝の山なのである。韓国の国民の生活を破壊し、規制を撤廃し、外資が最大限の利益を上げるための、地ならしをしてくれるためのものだ。事実韓国も、賃金カット、リストラ、不良企業の整理を要求された。仕事がなくなる。会社がつぶれていく。低賃金の仕事しかない。国民の生活はますます悪化した。それなのに、さらに規制を緩和し、外資の参入を認めさせ、完全な自由化を迫られた。現在、韓国の銀行や企業は、その多くの株式を外資に握られている。つまり、国民を最低ギリギリの生活で縛り付けながら、収益は全て国外に持ち去るという仕組みが出来上がっているのだ。韓国には誰でも知っているような巨大企業があるが、そこで上げた利益は国外に持ち去られているのである。IMF融資によって、農業分野では、ウルグアイ・ラウンド対策費の削減、牛肉、乳牛生産の3割カットなどを求められた。国による農業保護、農業振興政策は撤廃された。それまで、韓国政府はウルグアイラウンド対策費として420兆ウォンを組み、畜産の規模拡大と施設園芸の近代化に重点的に投入してきた。ウォンの下落で飼料、燃料資材は3割以上も値上がりし、逆に生産物は不況で2割下落した。多くの借金を抱えた農家の破たんが相次いだ。農民の生活は破たんしたのである。融資を受け入れて、国を外資に明け渡し、国民の生活を不幸のどん底に追いやったのだ。日本も他人ごとではない。アメリカは貿易の不均衡を理由に、農産物の関税撤廃の交渉に入るという。この路線を受け入れると、日本の農業と農家はいずれ破綻してしまう。国民の生活は破壊されてしまう。また食料の自給を放棄して、外国に頼っていると、日本という国はアメリカや中国に従属することでしか生き延びていくことはできなくなるだろう。支配と被支配の関係が出来上がってしまうのである。山下壮一さんは「農業の時代がやってきた」という本の中で、中国のイグサ事情、 NAFTAを受け入れたメキシコの農民、カンボジアの農民、フィリピンのネグロス島の農民、ベトナムやタイの農民の悲惨な状況も詳しく報告されている。欲望が欲望を際限なく生み出すという強欲資本主義のなれの果てを訴えられているのである。そういう視点から、今の農業を見てみると、問題点や矛盾点が次々と明らかになるといわれる。そうしないと、世界の1割の富裕層が、全世界の富の8割を所有し、多くの人民に不幸な生活を押し付けていくという構図から抜け出る事は出来ないのだ。生存権すら平気で踏みにじられるということがよく分かる。これからは事実をきちんと把握していくという態度が、私たち国民の生活を守る上で欠かせない時代となっているのだ。森田理論学習で、事実をしっかりとつかみ、事実本位の生活態度を身に着けた人は、強欲資本主義の実態にも目を向けてもらいたい。そのための資料として、堤未果さんの本を1冊でも読むことをお勧めしたい。
2019.03.06
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帚木蓬生さんの本職は、精神科医である。小説家としても有名だがそれは朝4時から6時までの2時間だけで行っておられる。 30分で原稿を1枚書くそうだ。だから、 2時間あれば4枚です。アイディアがあろうとなかろうと、何かを書いていると30分で1枚になる。そうすると1ヶ月で100枚になる。 1年で1000枚になる。ともかく、コツコツとやる。才能のない作家というのはそれしかない。「よい習慣は才能を超える」という言葉があります。帚木蓬生さんは、朝の2時間の執筆活動を、 30年間続けておられるそうだ。これが24時間作家よりも作品が多いという結果になっている。世の中には「 1万時間の法則」というのがあります。これはアメリカの若い研究者が、どの分野でどういう人が傑出した仕事をしたかと調べて行って、「 1万時間の法則」と言うの見出したそうだ。それは1週間にその分野の同じ事を21時間、これを10年続けると1万時間になるというものです。そうすると、サッカー選手ならサッカー選手、書道家なら書道家、 野球なら野球、水泳なら水泳で、画家なら画家、詩人なら詩人と言う風に、その道の大家になっていた。 1週間に21時間ですから、 1日に3時間、それに打ち込む。例えば、英語だったら1日3時間打ち込んでいけば、 10年後には同時通訳くらいになれる。帚木蓬生さんは日に2時間ですが、 10年じゃなくて30年もやっています。 十分それに相当します。(森田正馬没後80年記念講演会より要旨抜粋)神経症で悩んでいる人は早速真似をしてもらいたいものだ。そうすれば、神経症は治りますよ。というのは神経症以外のことを考える時間が格段に増えますからね。そして、その習慣は少しずつ弾みがついてきます。目標や課題を持った生活は、心身共によい影響をもたらします。そして自然に緊張感を持った生活に変わっていくのです。すると感じや気づきやアイデアが、泉のように頭の中に浮かんでくるようになるのです。「よい習慣が才能を超える」というのはこのことです。小説家専業の人は、三年から四年に一冊ぐらいしか本が生まれないそうです。帚木蓬生さんが専業作家よりも速いスピードで本を出して、しかも吉川栄治文学賞、柴田錬三郎賞、山本周五郎賞などを受賞されているのはこのようなからくりがあるのです。私もこのブログを続けるために、おおむね一日二時間から三時間、本を読んだり原稿にまとめたりしている。10年をひとくくりと考えていたが、それでは1万時間にならない。もう少し伸ばしてゆきたい。一番よいのは死の寸前まで、この習慣を継続することだと決意を新たにしました。
2019.03.05
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今日はクラシック音楽を使った音楽療法の話です。アルトシューラーという人が、 「同質の原理」ということを言っています。これは、精神的にある感情が偏った不安定な状態のとき、同質の感情をさらに外部から加えて過剰にしてやると、カタルシス(浄化作用)が起こって感情が逆転するというのです。例えば、うつ状態にある時、くよくよするな、陽気になれと言われても、ますます憂鬱になってしまいます。逆に憂鬱な感情をさらに一歩刺激してやると、カタルシスとなって、憂鬱の気分から離れ朗らかになる心理が生まれてくるのです。これが、愉快な気分になるコツです。最初から勇ましくって元気の出る音楽を聴くのではなく、憂鬱な感情を受け入れて、やさしく寄り添っていくということです。これをクラシック音楽に応用すると、不安や恐怖に襲われてイライラしているときには、その感情や気持ちを癒す音楽が有効であるということです。不安定な感情を包み込んで癒してくれるようなクラシック音楽です。例えば、モーツアルトの交響曲第40番、ピアノ協奏曲第20番、弦楽五重奏第5番、ベートーベンの田園、シューベルトの未完成、スメタナのモルダウ、マーラーの巨人、バッハのブランデンブルク協奏曲、ラベルのボレロ、ハイドンの交響曲第94番「驚愕」など自分の不安定な心の状態に寄り添ってくれるようなクラシック音楽を聴いてみる。聴いているうちに、精神の浄化作用が起こって、不安や恐怖が少なくなってくるのです。そのうち、不安定な精神状態が癒されてくると、徐々に穏やかな気持ちになる音楽に切り替えていくのです。例えばメンデルスゾーンの交響曲第4番イタリア、ヘンデルの組曲「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」 、ブラームスのバイオリン協奏曲、グリーブの組曲「ペール・ギュント」、ヴィヴァルディの四季、モーツアルトの「アイネクライネナハトムジーク」、ヨハンシュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」 、グノーの「アベ・マリヤ」など。さらに元気になって士気を高めたいときは、ベートーベンの「運命」や「第九」、ビゼーの「カルメン」 、 ムソルグスキーの「展覧会の絵」、エルガーの行進曲「威風堂々 」、ヨハンシュトラウスの行進曲などがあります。これらは一例ですから、皆さんの状況に応じては違うかもしれません。そんな時は、自分なりにいろんなクラシック音楽を聴いて、自分のそのときの感情や気持ちにぴったりと合った楽曲を見つけておくことが有効です。ある人は、目覚めのときに聴く曲、車の運転中に聴く曲、通勤中に聴く曲、くつろいでいるときに聴く曲、仕事をしているときに聴く曲、寝る前に聴く曲などをあらかじめ分けて録音して再生して聴いている人もいます。これらは別にクラシック音楽でなくても、自分の気持ちが安らいだり、士気が高まるような音楽ならどんなものでも構わないと思われます。要は自分で工夫して生活の中に音楽を取り入れることが肝心だと思います。最近はユーチューブでいくらでも聴けます。また安い高性能の録音機もありますので、その気になればすぐにできます。
2019.03.04
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職場で上司や同僚の言動に振り回されてつらい。こんなにつらい思いをするのなら、いっそのこと退職したい。どうすれば楽になるのか、アドバイスをしてほしいという人がいます。こういう方は頭の中で考えることの大半は、他人が自分のことをどのように取り扱ったのかということだと思います。80%から90%は寝ても覚めてもそのことばかり考えているのです。自分ではアリ地獄の底に落ちたような状態で、他人に救いを求めているのです。しかし他人にもおいそれと右から左へと対症療法的な妙案があるわけではありません。私は、まず10%でも頭の中を軽くする方法をとったほうがよいと思います。それだけで気持ちの上では随分楽になります。そうなれば、生きづらさ、苦しさが減ってきて、生きがいや楽しさが増えてくるはずです。最終的には、20%、30%・・・と減らして50%ぐらいになればもう大丈夫だと考えています。最終的には対人不安というコアの部分はなくなりませんし、なくしてはならないという立場です。完全になくなると、神経質の良さが失われて、人格崩壊を起こしてしまうのです。そんな方法があるのかと疑心暗鬼になっておられる方も多いでしょう。森田療法理論が教えてくれたことを実行に移すだけで、目的は達成されます。森田療法理論は4つの方法を生活の中に取り入れることを教えてくれています。一つだけでは不十分です。4つの方法を駆使して、頭の中を軽くしていくのです。1、生の欲望の発揮に注意を向けていくこと。2、不安と欲望の関係をよく理解していくこと。3、自分の持っている「かくあるべし」とその弊害に気づいていくこと。認識や認知の誤りを学習していくこと。4、事実を無条件に受け入れていくこと。他人中心の生き方から自分中心の生き方を目指していくこと。1は森田学習をしている人は誰でも知っています。しかし真剣に実行しているのかと問われれば、疑問な人が多いのが現実です。基本は日常生活や仕事に丁寧に取り組んでいくことです。高良武久先生は、一つのことに10年ぐらいまじめに取り組んでいくと、対人恐怖症は問題にならなくなるといわれています。2ですが、不安は欲望とコインの裏と表の関係にあると学びました。私たちは欲望を忘れて、不安ばかりにとりつかれて神経症になったのです。人生は不安と欲望のバランスを維持していくところにあります。これを身に染みて理解した人は、不安ばかりにとりつかれることがあるでしょうか。少なくとも不安を排斥することはなくなります。欲望の暴走を制御する不安の役割を認識して、不安を活用するようになるでしょう。そして、いかにバランスをとっていくかという点に、エネルギーを投入していくことになると思われます。3ですが、自分はすべての人に受け入れられて、一目置かれるような人間にならなくてはいけないという「かくあるべし」が強すぎるのではないでしょうか。そのような揺るがない信念が、現実との間で葛藤を起こしているのです。そういう目標を打ち立てて、努力精進する生き方は尊いことですが、観念や理想の立場から現実を否定しているから墓穴を掘っているのです。4は3の弊害が理解できた人が、取り組んでいくべき課題となります。相手は自分が自由にコントロールできる存在ではありません。自分のことは、自分でコントロールできます。湧き上がってきた感情を受け入れていくこと、自分の気持ちや意志を尊重していくこと、五感や身体感覚を味わっていくこと。などです。現実、現状を受け入れて、そこに根を張って一歩目線を上げて前進していく態度を維持していくことです。それは見方を変えれば、自分中心の生き方を目指していくことにつながるのです。以上の4つの課題に取り組んでいくと、頭の中で人の思惑のことを考える割合が少なくなっていくとは思われませんか。対人関係を改善していく方法は身近な森田理論の中にあったのです。いっぺんに改善しようとするのではなく、まず10%の改善を目指すとよいでしょう。要はそれを生活の中に取り入れて活用しているかどうかという問題なのです。
2019.03.03
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道元禅師は座禅をするときの注意点について次のように述べています。 精神を訓練して度胸をつけよう。健康になろう。特別な問題を取り上げて思索しよう。智恵をつけよう。無念無想の状態になろう。精神統一をはかろう。瞑想して特殊な心境になろう。こういう目的や思惑を持って座禅をしてはならない。 悟りを求めて座禅をすると打算になるといわれています。つまり永遠に悟りには到達することができない。 この点、森田も同じです。症状をとろうとして行動・実践していると、症状はまったくなくならない。注意や意識がますます症状に向いてくる。つまり症状を強化してしまう。かえって症状が泥沼化してくるといわれています。ですから、行動は、症状のことは横において、行動そのものに一心不乱になることが大切だといいます。つまり「ものそのものになる」瞬間をたくさん作ることです。 でも現実問題として座禅をしていると、次から次へと雑念が浮かぶようにできています。雑念は自然現象ですからどうしようもないものです。これについてはどう考えたらよいのでしょうか。 道元禅師は、当然無念無想という事はあり得ない。次々に雑念が浮かぶのは仕方がない。雑念を思わないようにする。雑念を考えないようにするという事ではない。雑念は、そのままの状態にしておく。思い浮かんだことにとらわれないようにする。雑念は浮かぶがままにしておく。この態度が大切であるといわれています。これがポイントでといわれています。 普通は気になることに注意や意識を集中してしまいます。つまりこだわってしまいます。その結果自然な感情の変化流転は妨げられてしまいます。それが不安や不快感だったらどうでしょうか。取り除いたりはからったりしてスッキリとしようとします。流すことを忘れて、一つのことにこだわってしまいます。注意と感覚が相互に作用してどんどん増悪してしまいます。そして神経症に陥ってしまうのです。 道元禅師は、一つの雑念にこだわらず、次々に湧き起ってくる雑念にそのまま乗っかっていく態度の養成を求めているのだと思います。瞬間的に次々に湧き起こる雑念に対し、次々にこだわれば、現実には何にもこだわっていない状態となります。これは私たちが日常いつも経験している事です。たとえば飛行機にのる。新幹線にのる。高速エレベーターに乗って高速移動している。これを意識化すれば恐ろしくて居ても立っても居られない状態になります。そうならないのは高速移動の状態を自然に疑いもなく受け入れている。ものそのものになりきって一体化しているから混乱に陥らないのです。森田でいえば、「かくあるべし」的思考から離れて、自然を受け入れて自然に服従した生き方になっているのです。こだわりのない生き方は葛藤や苦悩が無くなるのでとても自然な生き方となります。この生き方を勧めているのだと思います。
2019.03.02
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本来他人と交流することは、人生の楽しみの1つだと思います。自分ひとりで生きていく事は出来ませんし、多くの人と助け合いながら毎日楽しく過ごしていきたいものです。ところが、現実には人間関係で葛藤や苦悩を抱えてのたうちまわっている人が後をたちません。その大きな原因は、他人が自分に対して「かくあるべし」を押し付けてきたとき、自分も相手に対して「かくあるべし」で対応しているために、いつも2人の関係性が戦闘モードに入っているためではないかと思います。相手の仕草や言動、自分に対する仕打ち、他人の思惑や意志などに振り回されて、相手のペースに巻き込まれているために、自ら苦しい人生を選択していると言わざるをえません。これを解決するヒントは森田療法理論の中にあります。森田理論は「かくあるべし」を少なくして、現実、現状、事実に基づいて生きていく態度を養成することをお勧めしています。これを人間関係に応用していけばよいのです。もう少し詳しく見ていきましょう。森田理論では、自然に湧き上がってきた感情や気持は全て素直に受け入れましょうと言っています。不安や恐怖などの感情もやりくりしないでそのまま自然の流れに任せましょうと言っています。腹が立つことや怒りや恨みの感情も同様です。対人関係で苦しんでいる人は、腹が立つような感情は、表面に現れないように抑圧しています。我慢し耐えていることが多いのです。しかし、心の中では憎み続けているのです。心の中と外面が大きくかい離しているのです。それらが積み重なると、無意識の心の中では恨みの感情はどんどん増悪していきます。最初は小さな怒りだったものが、とてつもなく大きくなり、最後には自分の力ではどうすることもできなくなってしまいます。それが親子関係、夫婦関係、学校や職場での人間関係でも同様の対応をしているために、すべての人間関係が油の切れた歯車を回すようにギクシャクしているのです。森田理論では、まず自分の素直な感情に気づくことが大切であると言います。これは森田でいうと「純な心」に当ります。第一に起こってきた感情、最初に起こってきた感情のことです。それに引き続いて沸き起こってくる「かくあるべし」を含んだ感情のことではありません。これに気づくことはとても大事です。最初のうちは意識しないとすぐに逃げてしまいます。他人の言動に接すると、好き嫌い、快不快といった感情が湧き起こってきます。どんな感情が自分の中で沸き起こり、今自分がどんな気持ちになっているのかに気付きましょう。そこに意識を持っていかないと、すぐに売り言葉に買い言葉で相手のペースに巻き込まれて、 「かくあるべし」の対応になってしまうのです。自分の中でわき起こった感情に気づくと、次に自分の気持ちや意志を明確にする必要があります。自分は何がしたいのか、何をしたくないのかという欲求に気づく必要があります。次に、そんな気持ちや意志を相手にしっかりと伝えていくという作業に入ります。自分の欲求に基づいて、断りたいのなら、しっかりと断る。やってみたいのならば、勇気を出して取り組んでみる。伝え方の技術というものはあります。例えば「私メッセージ」の方法があります。それはおいおい身につけていけばよいものです。自分の気持ちや意志を大事にする人は、相手の思惑に振り回されることはかなり少なくなるでしょう。そういう人は自分が楽になる方法を見つけようとします。自分が自分の最大の味方であると思っています。自分は愛しい存在であり、自分こそ真っ先に大事にしなければならない存在だと思っています。そうしなければ、結局相手の存在も大事にすることはできないと思っています。考えてみれば、自分という存在は神様からレンタルしているようなものです。粗末に扱うことは許されません。「かくあるべし」を少なくして、自分の素直な感情に気づき、自分の気持ちや意志を前面に押し出していく。その方向が、人間関係の葛藤や苦悩から抜け出す唯一の道だと考えます。よく森田の学習会などで、「自分の症状は人の思惑にとらわれることです」という自己紹介をされる方がいますが、自分を感情、気持ちや意志を大切にする生き方を目指してほしいものだと思います。
2019.03.01
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