わたしのこだわりブログ(仮)

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2025年09月28日
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カテゴリ: 歴史の旅
原因不明の悲劇号泣楽天の入力フォーマットが変わったのかな?
今回は内戦から共和制に至るピューリタン革命と王政復古でいったん切りました。名誉革命まではすでに書いてはいたのですが、フォームが崩れて書き直しに収拾がつけられないからです。


「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回。
イングランド、スコットランド、アイルランドには同じ王が支配していたにもかかわらず、それぞれに議会があり、宗教が異なり、一つの国家になるのにはたくさんの困難があった 事。目次程度の歴史認識では正しく理解できない。​
現在のイングランドと言う国が形成されるに至る重要な時代の話し です。全3回の2回目ですスマイル


今回はピューリタン革命を中心にする内容なのでまずはオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の経歴から探りました。なんて事でしょう。びっくり
知るごとにどんどん嫌悪が増してきました。彼はイングランドにおいて誇れる人物なのか? 私には汚点にしか観て取れない。
そもそも、ピューリタン革命と言う名称も実情にあっていない気がする。
からだ。
​​※ ピューリタン(Puritan)は改革派、カルヴァン派の総称。

カルバン派による国教会乗っ取り? 王を殺して議会が樹立した共和制を持って 3国統一を力で行ったが失敗。イングランドは元の王政に戻る事になるからだ。

彼は自分の目的の為にたくさんの人を殺している。とにかく残虐だった。
英雄に扱われた彼も権力に付くと力で統治。反対派は処罰。危ない因子も抹消。国教会主教を処刑しただけでなく、さらに国王をも処刑。
王を殺して自分がその椅子に座わった。ウエストミンスターでの儀式はまるで戴冠式のようだったらしい。
また、次代に何の力もない息子を後継に選び世襲を行おうとするなど何を勘違いした?どこが宗教革命?

王殺しの罪で、死後に墓から引きずり出され処刑され、その首は数十年とウエストミンスター・ホールの屋根にさらされた 。 ​ 英雄とされた男の末路である
国政はカリスマ性だけで行えるものではない。責務も必要。また、その能力は人格にも及ぶのだとつくづく思う。

★彼の死後、共和制を市民は否定し、イングランドは元の王政に戻った。共和制時代の事は、後々市民のトラウマになったとも言う。
また、現在も続くアイルランド紛争。その遺恨はこの時にさかのぼる 。すべてクロムウェルが要因だ。

一連を鑑(かんが)みると、「ピューリタン革命」と言うより「ピューリタンの暴走による3国内乱とオリバー・クロムウェルの王国」と、タイトルした方が解り易い。
何よりも、オリバー・クロムウェルの悪影響は今も尾を引いていると言う点ではイングランドの黒歴史だろう。


イングランド国教会と三王国の統合 2  ピューリタン革命から王政復古 ​

国王と宗教カラー(​チャールズ1世まで)
イングランド国教会が求めた祈祷書と監督制
​ 監督制(episcopacy)
祈祷書(Book of Common Prayer)
スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)の祈祷書​
セント・ジャイルズ大聖堂(St Giles' Cathedral)
宗教から見るイングランド内戦(English Civil War)
混乱の始まり​
​主教戦争からのイングランド内戦
​内戦史
議員だったオリバー・クロムウェル
内戦で活躍したオリーバー・クロムウェル
​
指揮官としての成功
​ クロムウェルの戦い方
国王軍 vs 議会派 (和平派 vs 徹底抗戦派)​
ピューリタン革命(Puritan Revolution)​​
国王の至上権
改革派(ピューリタン)の勝利
なぜ独裁が可能に?
王政復古 の功労者
チャールズ2世(Charles II)
妻の持参金
オリバー・クロムウェルの死後処刑


国王と宗教カラー(​チャールズ1世まで)
前回のおさらいを兼ねて当時の歴代国王と国教会のカラーなど再確認。前回と被る部分もあります。

1534年、カトリックから離脱せざる終えなくなったイングランドは独自のイングランド国教会(Church of England)を樹立した。
それは王を頂点とするキリスト教会派で始まったが、 大陸で発生したプロテスタントの波が遅ればせながらイングランドにも到達すると他国のようにキリスト教徒とプロテスタント教徒の対立が始まる 。​
議会、特に庶民院 (House of Commons)のプロテスタント化? が進むと? 
イングランド国教会も徐々にプロテスタントの影響を受けて変化を見せる。

​ ​1. ​​ヘンリー8世(Henry VIII)​​(1491年~1547年)(在位:1509年~1547年)​​ 
 イングランド王(在位:1509年~1547年)
 アイルランド卿
 アイルランド王(在位:1541年~1547年)

​​​  1534年にイギリス国教会を樹立させた本人。王を頂点とする完全なキリスト教会派としてスタート。
 ​​王の本音はカトリックに戻りたかった。だから変革は嫌ったと言う。

​​ ​2. エドワード6世(Edward VI) (1537年~1553年)(在位:1547年~1553年)

 プロテスタント化を進める。本人でなく側近が・・。
★1548年、イングランドの最初の共通祈祷書発行。
​
​  ジェーン・グレイ(Jane Grey)(1537年~1554年) は含んでいない。​
※ノーサンバランド公の陰謀で即位宣言するも在位9日間でメアリー1世により廃位され大逆罪で処刑されている。

​​3. メアリー1世(Mary I of England)(1516年~1558年)(在位:1553年~1558年)​​​
​​スコットランド女王メアリーの息子としてエディンバラ城で誕生したのがジェームズ6世。​
彼は1 歳でスコットランド王に即位(在位:1567年~1625年)。 1579年の成人後、再びエディンバラ城に居住している。

★1603年、イングランドのエリザベス1世が崩御するとイングランド・アイルランド王も兼任。イングランド王としてはジェームズ1世(在位:1603年~1625年)として即位。
それからはイングランど暮らし?

次代王となる息子チャールズ1世はイングランド暮らしでほとんどスコットランドに縁が無かった事もあり? チャールズ1世のスコットランド即位式から騒動になり主教戦争に発展する。​​
ある意味縁の地である。
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​
カールトン・ヒル(Calton Hill)からの眺め(クローヒル方面)


内戦史
そもそもはチャールズ1世の即位式から問題が始まった。

1639年 ​第1次主教戦争(First Bishops' War)​
1640年 第2次主教戦争(Second Bishops' War)​​​​​
※ 主教戦争はスコットランドで起きた王との対立。​​

1642年~1646年 ​第1次イングランド内戦(First English Civil War)
1648年~1649年 第2次イングランド内戦(Second English Civil War)
※ ​イングランド国内での議会派と王党派の対立紛争
※ 清教徒革命(ピューリタン革命・Puritan Revolution)とはこの期間をさしているらしい。

1649年 ピューリタンによる国王チャールズ1世の処刑。
1649年 王の処刑を受けてチャールズ1世の子息、チャールズ2世Charles II(1630年~1685年)がスコットランドで即位。

1649年~1651年 第3次イングランド内戦(Third English Civil War)勃発。
※  チャールズ2世によるイングランド奪還の戦争 であるがチャールズ2世敗退して一時撤退。


星1649年~1660年ピューリタンによるイングランド共和国(Commonwealth of England)樹立。
​ ※ オリバー・クロムウェルが国家元首として振舞ったので​護国卿(Lord Protector)時代とも呼ばれる。

1658年 オリバー・クロムウェルが死去し、議会は内紛勃発。
1660年 チャールズ2世はブレダ宣言(Declaration of Breda)をイングランドに向けて発表。
※ 宗教上の意見の相違を許し、信仰の自由を保証する事。また、今までの狼藉に対する恩赦などが盛り込まれている。

星1660年 チャールズ2世イングランドで即位。王政復古。
★イングランド共和国は消滅。New Model Army(ニューモデル陸軍)は解散。


議員だったオリバー・クロムウェル
​オリバー・ロムウェル亡くなる2年前、護国卿(Lord Protector)時代の1656年の肖像画。​
​​​
​ オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)(1599年~1658年)​​

それほど裕福ではなかったが、かろうじて紳士(gentry)に属する地主階級の家に生まれている。
ケンブリッジ大学シドニー・サセックス・カレッジ(Sidney Sussex College)に進学している時に父が亡くなった? 学位を取らずに1617年に退学。

1620年にエリザベス・ボーチャー(Elizabeth Bourchier)(1598年~1665年)と結婚(21歳)。
エセックスに広大な土地を所有する義父はロンドンの皮革商人で、そこからオリバー・クロムウェルはロンドンの商人社会の有力者たちと繋がり交流が広がって行ったらしい
。
クロムウェルの軍事的、政治的キャリア、また有力な支援者はこれらの関係の中で始まり築かれて行ったと思われる。
​

1628年、ハンティンドンシャー州のハンティンドンから国会議員に選出された が翌1629年にはハンティンドンのジェントリの間で起こった町の新たな勅許状をめぐる論争に巻き込まれ枢密院に召喚され負債をおっている。
ハンティンドンの所有地の大半を売却し経済的ダメージと共に精神的ダメージも追っている。どうもこの時期に強い信仰心が芽生えたらしい。

何より収入の激減は社会的地位の低下である。転落時は細々と農業をしていたが 母方の叔父からイーリー大聖堂(Ely Cathedral)の十分の一税徴収官の職と財産を相続し収入は年間300~400ポンド程度にまで増加。1630年代末までに公認ジェントリの地位に戻している 。​​同時にこの頃は熱心なピューリタンになっていたらしい。

1628年~1629年の議会においてハンティンドン選出の国会議員となった がチャールズ1世はその議会を解散してその後11年間開かれていない。
1640年 、チャールズ1世が議会を再開したを時に ケンブリッジ選出議員としてこの議会に臨んでいる 。
しかしこの議会も3週間で解散。(1640年後半に第二回議会は長期議会となっている。) クロムウェルは再びケンブリッジ選挙区の議員に選出されている。

これらクロムウェルの議員としての活動は、どうも強力な後援者がいたからのようだ
。
ハンティンドンの時はヒンチングブルック・ハウスのモンタギュー家(Montagu family)がいた。
長期議会の最初の2年間にクロムウロェルは大きな人脈を築いて行く。
貴族院および庶民院議員の敬虔な貴族グループ、エセックス伯(Earls of Essex)、ウォリック伯(Earls ofWarwick) 、ベッドフォード伯(Earls ofBedford )、オリバー・セント・ジョン(Oliver St John)、セイ子爵(Viscount Saye)とセレ子爵(Viscount Sele)らと結びついていた 。

クロムウェルはこのグループの政治的策略を実行に移す一員として議員活動をしていたのかもしれない。共和制時代に彼を護国卿(Lord Protector)に推し、支えたのは彼らであるのは間違いない。​​​​​​
​


​​​
★オリバー・クロムウェル率いる議会の擁立した軍隊(New Model Army・ニューモデル陸軍)との数度の交戦で国王軍は敗退。
1649年、 国王は議会に捉えられ処刑され王制が絶たれた。

イングランド王家が排除され ​イングランド議会による共和制が開始。​
イングランド憲法において国家元首(Lords Protector)となったのが先のオリバー・クロムウェルである。​
※ Lords Protectorを日本では護国卿と訳されている。

実質、この共和国時代はクロムウェル共和国(Cromwellian Commonwealth)と呼ばれる。
また、イングランド史においては、 ​この共和国時代は王制の空位の期間であり、この期間の国家元首の称号としてLords Protecto(護国卿)が使用された。​
※ 本来は統治できない君主に代わって王国摂政会議の役を担う王子や貴族ら摂政者に使われた呼称であるが・・。


指揮官としての成功
そもそも彼は一介の議員だった。なぜ彼は国家元首にまで上り詰められたのか?

彼の成功の1つは軍の指揮官としての活躍から始まっている 。​それにしても兵隊経験は全くなかったオリバー・クロムウェルがなぜ軍の指揮官になったのか?

オリバー・クロムウェルは新しい軍の結成に尽力している。
New Model Army(ニューモデル陸軍)はイングランド内戦期、議会が国王の軍隊と戦う為に創設した議会派員の所属部隊である 。

将校は貴族院または庶民院の議席を持つ者の中からピューリタンの宗教的信念のある議員が選抜されている。しかも​​​​​​ この新しい軍は地域を問わず全国展開できると言う点で画期的 であった。
※ 兵隊は思想を同じくする退役軍人や一般人の徴集兵が集められている。
​​​​​​​​※ 初戦は1645年4月。
※ 1660年、王制復古(スチュアート朝の復古)で解散。

クロムウェルは正式な軍事戦術の訓練を受けてはいなかったが戦場では騎兵中将兼副司令官として才能を発揮する。戦術の才能があったようだ。

1645年 Battle of Naseby(ネーズビーの戦い)

サー・トーマス・フェアファックス(Sir Thomas Fairfax)とオリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)率いる議会派ニューモデル軍(New Model Army)が、ルパート王子(Prince Rupert)率いる王党派軍(Royalist army)に勝利した ネーズビーの戦い(Battle of Naseby)はイングランド内戦(English Civil War)のターニングポイントになった。


クロムウェルの戦い方​
​ 古来からあるClose order formation(密集隊形)を騎馬戦に応用。
close-order cavalry formations(騎兵隊の密集隊形)は当時のイングランドにおいては革新的な戦法
でこれが成功する。​​​

因みに、絵画で見るに、ワーテルローの戦線の時はどこの部隊もこの形態をとっていた。ナポレオンはこのフォーメーションを崩す秘策として胸甲騎兵と大砲を活用していた。
銃器や大砲の改良と進化で兵隊の危険度が増し19世紀末には無くなった戦法らしい。
また、他の部隊と違い、クロムウェルは身分に関係無く強い闘志のある者を採用していたと言う。

話を戻し、 クロムウェルの戦法は、War of annihilation(絶滅戦争)。敵を戦場から追い出すのではなく、部隊を密集させてまとめてを殲滅(せんめつ)する戦い方 。​

つまり、 絶滅戦争は、大量虐殺または生計の破壊を通じて国家、民族、または少数民族を完全に絶滅させることを目標とする戦い方 なのである。​

クロムウェルにつきまとう大量虐殺。
報告書の改ざんなども普通におこなっていたと思われる。現実の事象と異なるからだ。
本人は弁明しているが、 自分の宗教に従わない者の殲滅が目的であったのは間違いない。

カトリックの典礼も否定し、他の宗教は一切認めない。言っている事とやっている事が違いすぎる。
スコットランドは支配されてもそれほどひどくは無かったが、 カトリック教徒が多勢のアイルランドの場合は虐殺された者が非常に多い 。​
そもそもクロムウェルのアイルランド進行は反核分子の抑制と言うよりは、カトリックの殲滅にあったと思われる。
そこには土地の強制奪取の目的もあった?

​​クロムウェルがカトリック教徒を消すためにしかけた戦闘のせいで 1641年のアイルランド総人口140万人のうち60万人が亡くなったと推定されている 。​​
アイルランド人が今に至る300年、Curse of Cromwell (クロムウェルの呪い)」と、憎悪している理由だ。
イングランドとアイルランド紛争はここから始まっている。 ​

​星はっきり言っておかねばならないのは、アイルランド問題は、オリバー・クロムウェルが共和国時代にやらかした悪行であり、イングランド王家が造った植民地問題ではない。と言う事だ。


​ 国王軍 vs 議会派 (和平派 vs 徹底抗戦派)​​
議会派は内戦が進むにつれ内部分裂を見せる。
​​​​​ 議会派内部に和平派(長老派)vs徹底抗戦派(独立派)が形成されつつあった。

和平派(長老派)は上院(貴族院)とスコットランド議会が占め、彼らは徹底抗戦派のクロムウェルの排除を求めマンチェスター伯を押した。
一方、下院(庶民院)は徹底抗戦派が集まりクロムウェル支持を表明。
俗に改革派ピューリタンは下院(庶民院)に多かったと言う事だ。​​

つまり議会も 上院と下院で分烈していたが、そんな中、彼らの寄せ集め即席の軍隊「ニューモデル軍(New Model Army)」は国王軍騎兵隊に勝利した のだ。
そのニューモデル軍の中核にいたのがクロムウェル率いる騎兵隊。 結果を出した下院のピューリタンが優位に立ち、和平派の長老派は排除される事となった 。

この頃、すでに騎兵隊(騎馬)同士の戦いが勝利に関係していたようだ。
国王軍騎兵隊、特にチャールズ1世の甥のカンバーランド公ルパートの騎兵隊は強かったみたいだけどね。
ニューモデル軍の勝利は新たな戦術の考案だったのかも。
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​​ ピューリタン革命(Puritan Revolution) ​​​​​​​​​​​​​​​
冒頭も書きましたが、そもそも「清教徒革命(ピューリタン革命・Puritan Revolution)」と言うワードは適当でない気がするのですが、日本では教科書に書かれているのでとりあえず・・。

国王の至上権
​ 初期の段階では、両陣営の大多数が君主制を支持していたらしい。

​議会の反乱の目的は何か? 簡単に言えば国王主導の宗教の否定 である。
​つまり、イングランド国教会の否定であり、それは在り方の否定ともなった。
最も、自分らが天下を取り共和国を造ると自分らの主導による国教会を作りそれを全ての国民に強いているのに・・。

話しを戻し、
★本来はイングランド国教会が樹立された時、国王をイングランド国教会の唯一最高の首長とする事が決められ宣誓されている。
​これにより​公職や教会の役職に就く者に対して国教会の最高統治者である君主に忠誠を誓うことが義務付けられていた 。​この法律はエリザベス1世の時に再発布もされている。

つまり、 イングランド国教会が国王を頂点とするキリスト教会派として法的にも明確化されている。
また当然そこには、国王による教会の人事や教会領の管理統制の権限も付随する。

それ故、 ​王党派は、議会とイングランド国教会は共に国王に従属すると主張したが、議会派でも強硬の改革派(ビューリタン)はそれを否定。
★
国王の至上権は宗教には及ばないと議会派は主張した。​

それはイングランド国教会を根底から否定する事になる。議会派でも、長老派の議員らはそこまでは考えていなかったはずだ。
長老派の主導するスコットランドやカトリック多勢のアイルランドでは国王に従属しながら、自らの穏やかな信仰を望んでいただけ。


改革派(ピューリタン)の勝利
星なぜ王が処刑され共和制が樹立されたか? と言えば、 強硬の改革派(ビューリタン)が国王の軍を倒して戦争に勝利してしまったから だ。​
もともと彼らの言い分は不条理であったのに・・。

星まさに「勝てば官軍負ければ賊軍」の言われのごとく道理や正義がどうあれ、勝ち方が正しく負け方が間違っていると言う論法だ。結果、議会は調子に乗って暴走した。

国王斬首と言う信じられない暴挙までして議会はイングランド王家を閉じた。
彼ら議会は国王の至上権を奪い、イングランド共和国を造ったから彼らは本当に改革派(ピューリタン)となった 。

しかし、その イングランド共和国(Commonwealth of England)も、オリバー・クロムウェルによる独裁政治の時代となった 。
ステュアート朝に代わりイングランド・スコットランド・アイルランドを事実上統治する最高権力者となったクロムウェルは護国卿(Lord Protector)と呼ばれたから護国卿時代(プロテクトレート・Protectorate)とも呼ばれている。
※ ウエストミンスターで戴冠式のような事をしています。


なぜ独裁が可能に?
終身任期の護国卿となり3国​を議会と共同統治。そこには立法も司法も含まれる。

もともと彼の出身であった 中産階級層は護国卿の支持層 だったらしいが、 王党派や平等派など他の派閥は反対派にまわったので1648年、議会の長老派(穏健派)らの反分子はクロムウェルにより追放された 。

★自分に属する残留の改革派のみで議会を編成。ランプ議会(Rump Parliament)を作り独裁を固めている。また、議会の権限そのものを弱く規定して自らの権限を拡大。独裁を可能にした。

1649年のアイルランド征服、1650年のスコットランド征服は共に反国教会の者らによる反革命運動を抑える口実での進行であったが征服に代わる。

冒頭ですでにふれたが、彼の死後、オリバー・クロムウェルによる共和制を市民は否定し、イングランドは元の王政に戻っている事からも、イングランド共和国はろくなものでは無かった。と結論できる。

実際、力でねじ伏せるオリバー・クロムウェルのやり方は政治とは程遠い。特に オリバー・クロムウェルによるアイルランド征服は最低の所業。​​​​改宗しないカトリック教徒には容赦しなかった。降伏を試みた者も惨殺され葬られているからね。​​

星イングランド史において、一連は、​ ピューリタン革命(Puritan Revolution)と言うよりは、ピューリタンの暴走(Puritan Rebellion)による負の時代 となった。それ故、英国内乱(British Civil Wars)が正しい。
フランス革命と違い、元の王政に戻っているし・・。ピューリタン暴走(Puritan Rampage)でも良い。
清教徒革命と言う漢字だけは使ってほしくない。彼らが正義だったような印象を受けるからね 。


​ 王政復古の功労者
スコットランド代表として共和国の政権にいたジョージ・マンク(George Monck) はクロムウェル亡き後の争乱を収めるべく、チャールズ1世の息子で亡命中のチャールズ2世を呼び戻すべく尽力。​
​​​
共和政に不満を持ち王政復古を望む国民の支持もあった。
星クロムウェルに解散させられた長期議会を召集し、共和政から排除された長老派を含む議員を復帰させ大陸に亡命中の王党派と連絡を取りチャールズ2世を向いいれるべく手配。
艦隊司令官エドワード・モンタギューの艦船でチャールズ2世を帰国させ王政復古を実現させた。

王政復古の成功はジョージ・マンクの功労のおかげ。
チャールズ2世は非常に感謝。彼らに叙勲と年金など多額の恩賞を与えている。

​ 軍人ジョージ・マンク(George Monck)(1608年~1670年)。​

​
※ 初代アルベマール公爵( 1st Duke of Albemarle)(1696年)
※ 軍最高司令官・寝室係侍従・アイルランド総督・主馬頭・ガーター騎士叙任。
※ アルベマール公爵・トリントン伯爵・マンク男爵・ビーチャム男爵に叙爵。

​ ​艦隊司令官エドワード・モンタギュー(Edward Montagu) (1625年~1672年)​

​
※ 初代サンドウィッチ伯爵(1st Earl of Sandwich)1660年叙爵。

マンクに協力した秘書サミュエル・ピープス(Samuel Pepys)(1633年~1703年)​
※ 一平民からイングランド海軍の官僚に出世。

チャールズ1世の妃。チャールズ2世の母。
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス(Henrietta Maria of France)(1609年~1669年)
夫の戦いの為の資金集めに尽力し危険なイングランド内にも戻って夫の支援をしている。
カトリックだったから国民人気は無かったらしいが、 非常に夫婦中は良かった から9人の子女を出産している。(死産2人) 夫の処刑はショックであったろう。

​​​​内戦中にできた末娘ヘンリエッタ・アン(1644年~1670年)の出産時には戦況は悪化。出産の為に 分かれてから夫婦は再会する事は無かった。チャールズ2世は1649年に処刑されている。ヘンリエッタ・アンは父を見ていないだろう。
王政復古後も子女の嫁ぎ先など尽力し、イングランドにとっては強みとなるネーデルランドやフランス王家に嫁がせている 。
政略結婚ではあったが、フランス王家の姫は肝も据わっていた。姫には姫の覚悟もあるのだと改めて思う。

因みに、彼女の亡骸はウエストミンスター寺院ではなく、歴代フランス国王らの墓地であるフランスのサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)に埋葬されている。

ところで、これも余談ですが、チャールズ皇太子亡命時、1652年、ジェントルマン階級のロイヤリスト80名により騎馬護衛隊(Royal Mounted Bodyguard)が編成され皇太子を守っていたと言う。
そこにマンクの騎馬護衛隊(Monck's Life Guards)が加わり編成され現在に繋がる近衛騎兵連隊ライフガーズ(Life Guards)が誕生している。​​​​​


​​​​​ チャールズ2世(Charles II)
7. チャールズ2世(Charles II)(1630年~1685年)(在位:1660年~1685年)
王政復古後にイングランド、スコットランド、アイルランドの王(在位:1660年~1685年)として即位。 ​幼少のチャールズはプロテスタントのドーセット伯爵夫人(Countess of Dorset)の元で育てられたらしい。

父王チャールズ1世はフランス王との約束を無視?
妃はカトリック教徒のままであったが、やはり 将来の国王候補の二人の息子はイングランド国教会の元で育てられていた。最も、弟ジェームズは1668年頃カトリックに改宗。チャールズ2世も1685年、死の床でカトリック教徒に改宗している 。

1630年、彼の生誕の洗礼を行ったのが当時ロンドン主教であったウィリアム・ロード(William Laud)(1573年~1645年)である。
チャールズ1世に取り立てられたロードは3年後の1633年にイングランド国教会トップのカンタベリー大主教(Archbishop of Canterbury)に就任している。ウィリアム・ロードもまた、クロムウェルにより処刑されている。

星王政復古でチャールズ2世はイングランド・スコットランド・アイルランド王に即位。ステュアート朝を再興 させた。
​即位に先立ち、チャールズ2世はブレダ宣言(Declaration of Breda)で信仰の自由を保証する事を約束していた。おそらく本人は望んでいたと思うのだが実際はできなかった。​​​​​


​​​​​​​​​ 妻の持参金
1661年、結婚。 妻はポルトガル王ジョアン4世の王女カタリナ。カトリックの姫 である。
やはり、イングランド国教会の儀式には一切出席していない。

英名 キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza)(1638年~1705年)。

ポルトガル王ジョアン4世の次女カタリナの結婚は誕生と共に画策され1640年2歳の時に婚約。
父王はスペインとポルトガルの戦いにおいて強力な同盟国が欲しかったらしい。
しかしイングランドの内乱など一連の事情で2人の結婚は王政復古(1660年)するまで棚上げとなっていた。1662年に2人はポーツマスで結婚。(カタリナ24歳。チャールズ2世は8歳年上。)

強い カトリック教徒であるカタリナはイングランド国教会の典礼による戴冠式を拒否して問題になっている。また二人には子供ができなかった のである。

夫チャールズ2世は王妃のことは大切にしたらしいが、愛人がたくさんいたし庶子もいた。
チャールズが偉かったのは、庶子を正当な相続者とみなさず、後継は弟ジェームズに決めた事だ。
※ 庶子の一人が王位を要求してクーデターを起こしている。

星ところで、 カタリナは持参金にインドのボンベイと北アフリカのタンジールを持って来たのでこれらはイングランド領となりイングランドのボンベイ進出に繋がった のである。​
また、 彼女の莫大な持参金はイングランドが抱える負債の問題も解決されたほどの額 だったらしい。

財源としては、他にクロムウェルが導入した 消費税や関税が王室収入に 宛てられることになったし、 フランス王ルイ14世からの資金援助もあった ので歴代王の中では裕福だったはず。
その為に議会を開かないで政治をする事が可能でもあった。
※ チャールズ2世とルイ14世は従兄弟関係。​母の代よりブルボン家はいろんな形で彼らを援助している。​​


オリバー・クロムウェルの死後処刑
ところで、 1661年4月ウェストミンスターで戴冠式が行われた同日先駆けて、オリバー・クロムウェル墓が暴かれ遺骸から首は落とされた。その首はウエストミンスター・ホールの屋根に四半世紀もさらされた のだ。

と言う事実。ウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)の名を聞くたびに思い出す。
なのにその ウエストミンスター・ホール の正面に彼の銅像が立っていた。これはちょっと驚く。


ウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)
後ろの建物がウエストミンスター・ホール(Westminster Hall)で、ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)の一部です。
前にオリバー・クロムウェルの銅像が置かれていますが正規に置かれたものではないようです。

ウエストミンスター・ホールはヨーロッパで最も古いホールの1つ。14世紀には広範囲に渡って再建された。ここは古くは王らのアパートであり、法廷としても利用され 、1649年チャールズ1世の死刑判決などの重要な判決もここで言い渡されている。 それだけにここは王家にとっても恨みの場所 。
当てつけに? クロムウェルの首をさらした場所でもあるのにその前に銅像を建てるのはどちらにとってもまずくないか? と思ったのは私だけ?


オリバー・クロムウェルの銅像
この写真はウィキメディアから借りました。

反対されたので、銅像は個人の資金で鋳造されたらしい。

オリバー・クロムウェルの名を商品のネーミングにいろいろと使いたがる者がいるらしいが、本当の所イングランド王家は嫌らしい。それ故、ウエストミンスター・ホール前の銅像も、未だ撤去もせず残しているのはイングランド王家に失礼な気がする。アイルランドも嫌悪を示めしているし・・。

彼の存在と行為は、現在に至り議会のみならず、国民の意見も賛否両論評価が分かれてもめている 。
​​

書き込み上のトラブルがあり今回はここまでとし、次回「名誉革命」です。
結局3部作になってしまいました。しょんぼり
書式形態が崩れるのでちょっと特殊な書き方をしました。誤字修正などの更新でくずれないか心配です。


「アジアと欧州を結ぶ交易路」のスピンオフ(spin-off) 回としてBack numberも入れておきます。
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編) ​

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リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは) ​
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権 ​
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リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス ​
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リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞) ​
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Last updated  2026年03月06日 04時34分32秒
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