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転生を繰り返す中で男性に生まれ変わる確率が高い方が今世で女性になられていることが時々あります。見目麗しい女性に多いように思われますが、これは私自身の偏見かもしれません。 男っぽいさっぱりとした性格の女性というのが大体このタイプの方のようです。「男ばかり経験せずに、たまには女性になって生き方を勉強しなさい。」ということなのかもしれないなぁとご本人とお話したりします。 逆のケースはあるかというと、あまり無いようです。男性の場合は男女生まれ変わり率は半々くらいの方が多いようで、何故か「女性での生」というのは霊的に特別なのかもしれないと思ってしまいます。 女性として生きるというのは魂にとって何か補給期間というか、霊的に多くのものを吸収できる期間を現世で過ごすことになるのかもしれません。 逆に男性として生きるということは霊的にではなく、現世への波及効果のある技術を習得することを学ぶ期間なのかもしれません。あくまでも推測ですが・・・。
2012年09月30日
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子供のころから霊的なことには興味があったのですが、そういう類いのものを見ることもなく感じることもなく育ってきました。他の人が「そこにいるよ・・」という時でも私には全く見えず感じずで、何故なんだろうと思ったものです。 まだ弟氏のほうがそういう能力があるようで、不思議な夢やら何かを感じている雰囲気やらを語っておりました。 だからきっと私には強い守護霊様が就いておられてそういうものから守ってくださっているんだと思うようにしていました。 「氣の経絡指圧」を修行し始めたときもそういう霊的なものなどとは無縁の東洋医学の真髄に近づきたくて勉強していたものです。そこから図らずも「氣」から「霊的な世界の端緒」へと続く道があり、いつの間にかそういう世界を感じ視ることが出来るようになっていました。 自分から入っていける世界ではなく、導かれて 手を引かれて入っていく分野なのだなと何となく悟ったような気がしています。 自分の霊的な背景が解ると、自分自身の理解が深まり、自分が深く愛せるようになります。他の人との「ご縁」というものの仕組みが解るとそれもまた愛せるようになります。自分や他人との一体感というのはなかなか得られるものではありませんが、霊的なカラクリというかシステムというかそういうものが解ってくると段々人は執着から離れて博愛と自由を得るような気がしています。 良いことばかりではありませんが、「覚悟」というものを得ることによって生きる気力が湧くようになることもあるようです。
2012年09月29日
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学生時代、神奈川県の厚木付近に出没していました。大学が厚木にあったので・・。 太平洋側に生まれて初めて住んで驚いたこと。地震が多い。そして気候です。乾燥している大気のせいかほこりっぽいのが普通のせいか鼻毛が急に伸び始めて驚きました。 そして冬の晴天の日の寒さ。北陸では冬の晴天は温かいのですが、こちらでは何しろ寒くて錯覚して薄着で外出したら、また戻って着替えをしなくてはならないほどでした。 基本的に空気が乾燥していることが多くて、梅雨の時期でも何だか雨が降っていても快適だったような記憶があります。北陸の梅雨は何しろジメジメムシムシで鬱陶しいことこの上なしです。 日本海側と太平洋側では間にアルプス系の山脈が介在して気候を分断しています。気候というのは人の体調や性癖までも影響を与えるもの。県民性の違いや風俗の変化というのは多分この気候の差異が生み出している部分もあるのだろうと思ったものです。
2012年09月28日
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時事問題はなるべく書かないようにしています。それは書かないようにするように指示があったというか、本能的に避けるように勘が働いたというか。 時々書いてしまうこともあるのですが、何か空しさのようなものが残ってしまいます。日々の現実については考えなくてはいけないことはたくさんあるし、それを考えていくのが「現実の生活」というものなのでしょうが、そういう目に見えるものにばかり心を捉えられていると時代の流れに巻き込まれてしまって、本当の自分というものを見失ってしまうような気がします。 だからと言ってこんな妄想的なことを毎日考えていると非現実的になってしまうのかもしれませんが、私の場合は身体の不調の原因を突き詰めていくという施療行為の一部なので、現実問題からそれほど乖離しているわけでもないように思います。 現実の社会の問題も「人」が起こしている問題であるならば、それは人の心の変容が原因だったり人間社会の組織的変化が細部に波及していることが原因だったりします。 本質というのは細部に宿ったり、マクロ的な視野の中で見えたりする場合があります。人の霊性を語っていることが現実社会の病変に関わっていくことにもなっているのかもしれないなどと思っています。
2012年09月27日
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変なタイトルですよね。ある方を氣視したらその方の母方のご実家をずっと守って来られた「家霊」というか「座敷童」というかそういう妖怪のような守り神のような存在のお名前がわかったのですが、この名前はその方のご家族しか知ってはいけないものなので、私は紙に書いてそっとその方に渡しました。 私も初めて聴いた名称だったし、水木さんの妖怪辞典にも載っていないから多分その家系に特別の妖怪なのだろうと思いました。 おかしいのはサツマイモの蒸かしたのが好物らしく、時々ご仏壇にでも供えてほしいとのメツセージが添えられていたこと。この方ご本人にも必要な食物でもあったので無理なく答えられそうです。 何かそういう特別なモノに守られていると知ることは心の励みになるようです。
2012年09月26日
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電気もガスも水道も無い場所で自給自足で生活している人であっても、自分自身の身体の中で心臓は一秒も休むことなく血液を循環させているし、呼吸している大気は地球が意思を持って作り出して浄化して循環させているものだと言えるだろうし、何の手助けもなく生きている命というのはこの世に一つとしてないと言えるのだろうと思います。 感謝。そう全ての物に感謝しなくては生きていけないのが命の在り方なのかもしれません。何故生かされているのだろうか?と時々思います。何がしかの永遠に残るものをこの世に残すわけでもなく、ただ時の流れの中に揺蕩うように存在して消えていく・・・人としての生に何かの価値があるのでしょうか。 生きているということは何かの波動をこの宇宙のピースの一つとして残していることだと思います。そのピースはその瞬間になくてはならないものなのだと思います。命の波動のピースはこの世界全てのパズルを一瞬ごとに完成させていっているものなのだと思います。 この世は不思議で満ちています。それは命のどの一つを取っても生かされているということが表している真実だと思います。何だか訳の分からないことを書いてしまいました。誰かからのメッセージなのかな。
2012年09月25日
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私は霊能者ではなくて、施療の一環として「氣」を読んだり調整したりすることを生業とするうちに「氣の情報」を読めるようになったものです。 霊能者の方達は霊体やら霊道やらを視ることが出来るわけですが、それなら「霊」というものと「氣」というものの相違というのはどんなものなのだろうと考えてみます。 これは全く私の個人的な意見なので間違っているかもしれませんが、氣の大きな流れというのは常に世界に遍く流れて存在しているのですが、その中から「泡」のように浮かび上がってくるものが「霊」もしくは「霊気」というもののように感じられます。本当の泡沫のように消え去ってしまうものでは無くて、フワフワと浮かび流れて合体したり分散したりもしますし、ある意味「意思」のようなものを持っている場合もあるのかもしれません。 「氣の流れ」というのは「生命エネルギー」そのものなので「タオ」とも呼ばれている大きな存在です。自然が持つエネルギーわ支配しているものなのかもしれません。人も自然も森羅万象全てがこの「氣の流れ」に含まれていると私は思っています。 霊気というのはその中で「人」もしくは「魂」に近いものなのかもしれません。まだまだ研究していく余地が限りなくある分野のように思います。
2012年09月24日
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小さな男の子の施療をしつつ氣視してみたら、古武士のような老武士が座っていました。まるで有名な武将の柴田勝家のような雰囲気の方でした。 彼の前世の方なのでしょうか。頑固一徹という言葉がそのまま姿を得たような雰囲気の方で、それでも長い戦歴を生き抜いてきた逞しさがあったので彼もきっと身体丈夫に長生きされるだろうと安心しました。 こういう珍客を視るのは楽しいです。古武士というのも私の好きな生き方の部類に入りますし、名もない方ですが、きっと充実した生き様だったのだろうと思います。
2012年09月23日
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人の執着心というのはやっかいなものです。「物・金・名誉・人の愛情・人の関心・・・・」様々な事柄に対して人は執着を持ちます。 そしてその事から様々な問題が派生していくわけです。 執着を捨てよ とはよく聞かれる戒めの言葉ですが、これほど効力がない割に数多く聞かれる言葉もないかもしれません。 私にしても電化製品で新製品が出れば欲しくなりますし、人に嫌われるよりは好かれているほうが楽しく感じます。人に無視されるよりは興味を持ってくれた方が嬉しいものです。 出来るだけ物やお金に対する執着心を捨てたいとは思います。ただし、大切にするということと執着するという事には大きな隔たりがあるのだろうとは思っています。大事に思って大切にしていくことが必要な事柄も数多くあります。それによって人として恥ずかしいことやしてはならないことをしないようにすることが、執着から離れることなのだろうと思っています。 執着心と大切に思う心・・・この間に人としての大切なものが存在しているのかもしれません。
2012年09月22日
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弧狗狸というのはキツネ、イヌ、タヌキの略で山神様系の神々の眷属だったり、使い神だったりするものなのですが、どちらにしても人に対してあまり良いことをするという印象がないものです。 特に最近警戒されるのが狗神系です。集団を形成して吠え立てて人を精神障害に追い込んだり、一匹でも大きな呪声を発して人の心を引き裂いたりすることもあります。 天敵は蛇神様系らしく、ご縁がある私の近くにはあまり寄ってこないようです。石川県は元々蛇神とのご縁が深い土地なので狗神は跋扈できなかったはずなのですが、最近少し様子が変わってきつつあります。 最近のペットブームも何かおかしなものを感じています。あまりにも犬猫を飼う人が増えすぎているようで、悪いことではないのですが、超少子化と伴っているのが何がしかの因果関係があるのではないかと疑ってしまいます。 古い神々は大切にしていきたいものです。弧狗狸がはびこらないような平和な霊的世界を構築していきたいものです。
2012年09月21日
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子供のころ母の実家へ泊りに行くと、暗い茶の間の柱に古い掛け時計がかかっていて静かにカチコチと時を刻んでいました。そして正時になるとボーンと音が鳴り・・・それが何とも言えず心を静めてくれて心の中に静寂と安らぎの記憶を刻みこみました。 それから時々自分でもおかしくなるくらい掛け時計の鳴る音が好きで、そういう時計わ必ず身近に置いています。今は偶然手に入ったぜんまい巻きの古い掛け時計を自室に掛けています。 「ボーン ボーン」という音を聞くと祖母の家の暗い土間の匂いと静寂が心の隅から湧き立ってきます。子供のころのの記憶というのは音や匂いにつれて残っているものですね。
2012年09月20日
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守護霊というのはどんな方にも就いておられるのですが、指導霊となる魂はその人の前世の「魂の記憶」になるように思っています。 どの人も何度か転生を繰り返しておられるのですが、その転生の中で「他の人の為に尽くした方」というのがおられます。我が身を犠牲にして他者を救った人でも、多くの人の幸せの為に尽力した人でも、数多くの生徒を育て上げた人でも、その形はいろいろありますが、言うところの「功徳を積んだ人」という「魂の記憶」が強く残って現世のその人を導く指導霊となるのが、その仕組みだと思われます。 何人もそういう前世の記憶体を持っておられる方もおられますし、一人だけという方もたまにはおられます。転生の中には普通の人生を送られた回もあるのですが、そういう魂の記憶は残らないようです。 最初の氣視を始めたころ、何故こんなに僧侶やら教師やら修行者やらが前世で多いのだろうと思っていました。それは前述のような魂の記憶からのメッセージやヴィジョンが多かったからだったようです。 指導霊の方だけではなく守護神や守護仏からのメッセージが強く伝わってくる方もおられます。緊急性が強い大切なメッセージが来ることがそういう場合は多いようです。 何にしろ私達は様々な「目に見えない存在」に守られているのだということは間違いないようです。そういう方達からのメツセージを聞き逃さないように心を清らかに保っていたいものです。
2012年09月19日
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風の言葉、雲の声、お日さんの語りかけが聞こえるのは心が自由な時くらいですね。 心が自由だと、いろんなものが何を言っているのかがわかるような気がします。 海の風が昨日吹いていた風に混ざっていたのはわかったし、あの雲が遠くの山をかすめてやってきたのにも気づいていました。 猛暑のお日さんは「人よ 驕るな」と言っているのがわかるし、今朝の雨は世界のいろんなところでお金が無くて苦しんでいる人達の涙なんたなと気づいたりしました。 自然の様々な身動きは様々な出来事とつながっているし、人が心を自由にしていると何がしかの物が伝わってくるような気がします。 単なる私の妄想。でも、心の中に何もかもを受け入れる自由さを持っていたいと強く願います。
2012年09月18日
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氣視の中に時々、この病気の大流行の最中の光景が視えることがあります。14世紀のヨーロッパの光景です。最盛期には2000万人以上の人が罹患して亡くなったそうですが、この当時の医学では治療不可能な病に対して懸命に治療や隔離に携わった人達を前世に持つ方達が日本に少なからずおられるようです。 その時代の全人口の何割かが亡くなった大流行ですから、それを阻止しようと頑張った方達も数多くおられるのだろうと思います。 絶望と悲惨な光景が渦巻く中で、闇を見つめつつも光の中に人々を少しでも導こうと頑張り、自らも同じ病に倒れていった人達の姿は、私には人は決して絶望に囚われきることはない存在なのだと知らしめてくれているように思います。
2012年09月17日
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今日は旧暦の八朔。 八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のこと。 この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。(ウィキペディア) 日頃からお世話になっている人というのが私の場合にはあまりおられません。東京の永井先生や京都の遠藤先生などがそういう方にあたるのですが、元々面倒くさがりな性分なのでご挨拶に伺う事さえ不精を決め込んでしまっています。 賃貸や借金の保証人なんかが必要になったらどうするのだろうと自分ながら隠遁生活のような暮らしぶりにあきれています。 自分の大きな欠点は人間関係の薄さにあるのかもしれません。その割に友人には恵まれていて長野や東京の友人たち、中学の同級生たちなんかには今でも顔を合わせれば笑顔で迎えてくれる方達がいてくれます。 人は好きなのですが、自分が何かをすることでいつかその人に嫌われるのではないかと心の底で不安がっているのかもしれません。 そういう意味で今日の八朔は大切な儀式なのかもしれません。昨日の日記と矛盾しているかな?していないか・・・。
2012年09月16日
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独りで歩く機会というのは結婚した後は少なくなりました。山へ登るときは気の置けない友人と二人で登ったり、娘を連れて登ったりしたものです。 でも一人で歩くのは好きです。自分のペースで歩けるし、周りの景色もゆっくりと楽しめるし、余裕があれば寄り道も出来ます。若いうちは歩くことに一生懸命で脇目も振らずに歩いていましたが、年を重ねてくると歩きながらいろんな所に目線が行って、様々な場所の空気の匂いが解るようになりました。 人生という道も一人で歩いているようなものですが、時々道の先が気になったり、歩んできた道の様子が気になったりするものです。それでも人は一人で歩いていつかは見えない世界へ歩み行っていくことになるようです。 パートナーや両親や子供たちという共に歩んでいるように思える人達とも本質的には別々のルートを歩んでいるわけで、足の裏が感じている孤独というのは誰にでも平等に感じられるものなのだろうと思います。 楽しく明るく別の道の上の人達ともともに語り合いながらこの道を一人歩いていくことになるのでしょう。
2012年09月15日
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ジャズは好きなジャンルの音楽なのですが、コルトレーンという人のものしか聴きません。こういうのを偏食というのかもしれないなぁと思いつつ、彼の「黄昏にて」というアルバムを初めて聴いた時の衝撃は今も忘れられないものです。 夕日が少し差し込んでいるどこかアメリカの大都会のうらぶれたアパートの一室で、ボロボロのソファに身を委ねて、ウィスキーをちびりちびりと飲みつつ聴いている・・・そんな気怠い心象風景に浸ってしまった衝撃がありました。 心地よい気怠さが漂ってくるのがジャズの良さだと思っているのですが、その放漫な時間の中に心の緊張が隠されていて、私の好きな時間が流れている感じがします。
2012年09月14日
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時々メールで依頼されて遠隔で間接的に氣視をさせていただくことがあります。さすがに霊的な疲労が普段の施療時よりも倍くらいあるようです。 氣の世界では距離や時間というのは関係ないのですが、それほど氣の力自体が私の場合強くないので感度を相当高くしないと遠隔では精度が落ちてしまいます。 しかし遠隔で依頼されてくる方の場合は悩みや苦しみも普通ではないことが多いので、そういう場合は共感する度合いが強くなり受信感度が勝手に高くなるようです。 こういう場合に不思議とポイントになるのが「名」というものですね。匿名の場合が多いのですが、それでも名前を正確に教えていただけると氣視の精度が少し上がります。「名」というのはその人の個人的な情報が知らないうちに詰まっているもののようです。
2012年09月13日
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当院で不妊施療をして妊娠に成功した女性の友人の方から電話があり、つわりがひどくて外出することもできないとの事。 早速、手立てを考慮してみてホメオパシーのレメディを飲んでいただくことに決定。ナックスボミカとシィピァというマチンシという植物の成分とイカの墨の成分のものを用意して友人の方に取りに来ていただいて彼女にお送りしました。 翌日ご本人から連絡があり、二種類を一種類ずつ昨晩、今朝と飲んだところ随分とつわりが楽になり外出する意欲も出てきたとのこと。実際にレメディが効いたのか、暗示効果によるものなのかは不明ですが、どちらにしてもすぐに効果があったのはよかったと安堵しました。初産なので不安なこともいっぱいあるのだろうと思います。辛いでしょうが、頑張ってほしいものです。
2012年09月12日
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九頭竜川の女神様を氣視の中で拝見しました。これだけの大河となると女神様も厳かで、人にわかるようなメッセージは伝えてきません。 何だか漫画のようですが、「ズゴゴォォ」というような訳の分からない言葉というか音というかそういうものが伝わってきて、「解らなくても構わない」という雰囲気でさすが神様という感じでした。 でも映像から解釈できたメッセージがあったので、その女性にはお伝えできました。
2012年09月11日
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掃除というのはどんな意味でも大切な作業です。清掃によって心の中も整理されるし、現実的にも住居の中に溜まっている「邪気」を掃き出す効果もあります。 毎日院内の掃除機による清掃と部分部分のほこりや汚れの取り除きはしているのですが、階段の清掃を少し怠っていたら「邪気」が溜まってしまって院内にトラブルが持ち込まれやすくなっていました。 それで先日の土曜の休日に階段の清掃をし、その他の住居のメンテナンスもいっしょに行いました。 掃除は心や霊的な意味でも大切な作法なのだと改めて実感しております。
2012年09月10日
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夏に登山で白山に登ったりすると、大群の赤とんぼに囲まれることが良くありました。トンボたちは夏の間は高度の高い山の上で群れを成して生活していて、秋になると里まで下りてくるらしいです。 赤とんぼは秋の風物詩だと思っていましたが、秋に生まれるわけではなくて夏の間も涼しい高地で生活をしていたわけです。 人というのは自分の目の届く範囲だけを世界の全てと捉えてしまったりすることがあります。確かに人の生活範囲というのは限られていますから、そこだけが世界の全体と捉えていてもあながち間違いではないのですが、政治家の人達にしても東北の被災地以外に住んでおられる人達でがれきの受け入れ拒否をしている方達も世界というのは上にも下にも横方向にもずぅっと広がっていることを認識してほしいものです。
2012年09月09日
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中国の神話では黄河に住む川の神様のことらしいですが、先日氣視した女性に就いていたのは近くの小さな川の神様でした。 日本では川の神様は河童をお使い者として使うようですが、彼女はこの川の神様に仕える巫女か神主をしていたようです。 小さな川なので神格としてはそんなに上位の神様ではないようです。それでも彼女をしっかり守ってくださっているようでした。お話ししながら聞いているとすぐ近くに神社があるとのことでしたので、そちらにお参りに行かれるように薦めました。 日本は水の国。龍神様がやたらと多くおられる国です。水の神様とのお付き合いは古くから続いているようですね。
2012年09月08日
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ある若い男性の氣視をしたら、雄猫が一匹何かを訴えて憑いていました。祟られているというほどの強さでもないのですが、善意の取り憑き方ではありませんでした。 施療後一緒に来られた友人の方の前で「動物霊に憑かれていますよ・・」というと友人の方が「やっぱり・・・ネコだよ。」と一言。 どうもこの方は近くにたむろしていた野良猫の子猫たちを複数匹保護したのだそうです。もちろん彼は善意で保護したようなのですが、姿を見せずに面倒を見ていたその地域のボス猫にすると子猫たちを強奪されたことになるので恨んでしまっているようで・・・。 女性だとそういう親子関係とかにすぐ意識が行くので、そういう強引な保護はしないのですが、独身の若い男性は感情の赴くまま独断で動いてしまうようです。 一応お祓いをして、彼には保護した場所へ行き、藪に向かって子猫たちは責任を持って里親を探していますと伝えてくるようにとお話ししました。 猫もボス猫クラスになると人の言葉くらいはわかるようです。
2012年09月07日
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時々院内で柏手を打ちます。音が綺麗に響けば邪悪なものが院内にいないと判断しています。邪気が侵入すると柏手の響きが悪くなり、氣が乱れているのがわかります。 何かで教えてもらった「場」の診断です。簡単ですが、実効性はあるように思います。邪気があると判断した場合は不動明王の真言と印を結び唱えます。何回か唱えると柏手は綺麗な音として響き、場が浄化されたと判断します。 外からの邪気の侵入は結界が自然と張られているので無いのですが、私が怪奇映像なんかをテレビで観たりすると中から生じてくる邪気があることがあります。自分で招いてしまっているのかもしれません。怪奇映像も全てが作り物では無くてほんの少しは本物が混ざっているのかもしれません。反省です。
2012年09月06日
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私の父もパーキンソン病になり、亡くなる数年前から病院での療養に入り、国立病院機構の病院で最新の治療を受けている間は症状も改善し人間らしい生活を認知症になりつつも送っていました。しかし病院というのは何か月かを過ぎると退院しなくてはならない決まりがあり、ホソピスのような病院に転院したとたんに病状が悪化して亡くなりました。 先日もお客様のお父さんが訪問看護の人が訪れた直後に娘さんであるお客さんの女性が訪ねて行ったら、熱中症で倒れていたという事件がありました。 独居老人が増えていたりします。家族で身内を介護していくという認識が薄れ、何よりも介護されるお年寄り達が子供への介護による負担を申し訳なく思って、独居をしたり人里離れた老人ホームのような施設に入居するケースが多いようです。 こんな事を今の時代に言っても仕様がないのは解っているのですが、昔はお年寄りは自宅で介護されて生きていたものです。お年寄りのおられる家に行くと奥の座敷で寝ておられるお年寄りが必ずいたもので、時々調子が良いと居間などにちょこんと座っていたりしたものです。 介護保険制度が出来て、私の母なども週に二回ほどディサービス施設に通所しています。そこは温泉もあって料理も美味しいところなのでとても満足しているようです。 母も自分が寝たきりになったら病院へ入れてほしいと日頃から言っています。 「介護にかかわる闇」それは家族関係というものが変質していくことによって社会全体に浸透しつつある暗い部分のような気がします。介護を社会が負担しつつあるという現実が、親子関係・家族関係というものに冷たい楔を打ち込んでいるようにも思います。 私は微々たる抵抗になるかもしれませんが、母の面倒は自宅で出来る限り看ていけたらと願っています。
2012年09月05日
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現在のNHK大河ドラマにも出てくる平安時代の有名な天皇です。この方を前世に持つ女性を視ました。ヴィジョンの中では法衣のようなものをまとって立ち、指一本を天に向けてスッと伸ばしていました。 テレビで描かれているような優男ではなくて、随分と男っぽい性格だったようでまるで武士のような風貌でした。京都の三十三間堂を建立したことで何か御仏をも従えているような・・・後の織田信長とも重なるような異端児だったように思えました。 さすがに転生したこの女性も独断専行が過ぎるいわゆる「英雄タイプ」の方で私のあまり得手ではない方面の人でした。 こういうどこにいても中心に居座ってしまうような人にはあまり近づきたくはないものです。
2012年09月04日
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時々、過去の「恥ずかしい」記憶が蘇って襲ってくることってありますよね。昨晩は夢の中で大学時代の恥の記憶が蘇って再度恥ずかしい思いに浸りまくってしまいました。 後悔というものをしない人はいないと思うのですが、そういう記憶というのは本当に消し去ってしまいたいのですが、必ず時々蘇ってくるものですね。どうしてなんでしょうか?反省も学習も済んでいるはずだし、二度とそんな事は繰り返すはずはないつもりなのですが、二度あることは三度あるということなのでしょうか。 いや、本当に昔の私は世間知らずの甘ちゃんでした・・・。周りの状況というものの正確な把握ということが全くできなかったようです。普通に一人前の人間になれたのはもしかしたら40歳過ぎてからかもしれません。今もまだ自分が正しいのかどうか迷うことが多々あります。
2012年09月03日
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言わずと知れた有名人です。島原の乱を起こしたキリシタンのリーダーで美少年だったことで知られています。この方を前世としてお持ちの方と言えば美輪明宏さんが有名ですが、この方くらいになるともちろん「分霊(わけみたま)」となり様々な人に転生されているようです。 他人の為に尽くすことがその生涯の全てだったと言っても過言ではないでしょう。それだけにこの方と縁を持たれた方は現世でも他人の為に尽くすことになります。 しかし、他人に頼られるということは色々な「業」をも引き受けることになりかねません。熱心な宗教者でなければその様々な他人の「氣」を持っていく場所がないので、自身の中に取り込んでいくしかなくなり身体を壊してしまいます。 美輪さんのように自分教のように強い信念と霊界への理解を得た人なら何とでも仕様があるでしょうが、すべての人が美輪さんのように出来るわけがありません。 過度の博愛というのは人にとって「病気」に近いものです。治療して少しずつ自分流の他者への奉仕の方法を考えていくしかないのかもしれません。 凡俗の宗教者だった前世を持つ私はある意味幸せだったのかもしれません。
2012年09月02日
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幸せの基準というのは人それぞれですね。何でそんな状態で満足しているの?と思うような状況でもご本人は幸せということがあります。 人の心の状態というのは、その人でなければわからない部分があるようです。それを「人として間違っている」とか「それは充実した人生にならない」なんて言って批判したり、矯正しようとするなんていうのは間違った行為なのだろうと思います。 しかし、世の中にはそれを「善意」とか「思いやり」とか飾って思い込み成し遂げようとする「お節介な方達」がおられます。大体身内に多いんですがね。心理学的に言うと「パーソナル・スペース」というものが人にはあるらしく、物理的な距離で言うと自分の一メートル以内くらいがそういう範囲らしいです。 純粋に「心」の部分にも「パーソナル・スペース」というのが成人ならは許されて、あるのだと思います。たとえ親子であってもご夫婦であっても、こういう心の距離というのはお互いに尊重しあって生きていく方がいいのではないかと一人勝手に思っています。 幸せの基準というのは心が安全にバランスよく保たれていることこそ大切なのではないかと思っています。
2012年09月01日
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