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シーン 14 「憧憬・はじめての東京」 林家の長女綾子は、弟が残した三人の子と悲哀追放にがんばる真沙を東京に呼んだ。 緑が残る武蔵野の大地は、多希子が仰天した東京の真ん中とは違い、東京タワーも、ビルディングも自動車の行列もなかった。 寄り添った家々の隙間には、遠慮がちに路地があり、石蹴りや剣玉、メンコで遊ぶ子等がいた。 綾子の家は洋風で、風にゆれるレースのカーテンやハイカラな絨緞に、多希子は目を丸くした。絨緞の上には丸いテーブルと椅子があり、テーブルにかかる白い布には、淡い小花の刺しゅうと贅沢なレースがついていた。 多希子は何度もそれに触れた。 「タッコはシンデレラのような気がする」 「シンデレラ? タッコの表現はすてきねえ」「今日はこのベッドで寝ていいわよ」 「ふんと?タッコが寝とる布団は、ちょっと重いんな。 だからタッコはふわふわのベッドで寝てみたい」「田舎にはベッドがないけどね、お家やお庭は広いでしょう? 川や山もあるしね」「うん! 星もいっぱい見えるに。 だけどタッコは東京が好きになった」 夕方になると、路地で聞こえていた子供達の声が散った。愛香は揚げ物の匂いがする台所へ向かった。黒髪で色白の愛香の口元は、サクランボのようで、いつも優しい顔をつくっている。「ねえ、多希子のことだけど・・・」 綾子はコロッケを山盛りのキャベツの皿にのせた後、静かにふりかえった。 「お母さん、多希子を家でひきとれないの? 一緒に暮らせないの?」 三角巾を外した綾子の髪は、パーマネントで波を描いている。 綾子は、しゃがんで愛香の肩に両手を置いた。「愛香・・・うちでひきとったら真沙おばさんに疑いを持つでしょう。 多希子は本当の母親が死んだって知らないの。 お父さんが死んだばかりなのに・・・もし、その事を知ったらかわいそうでしょう?」「それは・・・それはそうだけど」 数日滞在した真沙は、亜由美と亨を連れて伊那へ帰った。 多希子はさんざん駄々をこねたあげく、一週間東京に残ることになり、三人に元気に手を振った。 運命の色が違う少女達は、太陽が奏でる希望を浴びて奔放だった。 photo by kitakitunejijiさん 次回「母との別れ」
2007/10/30
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シーン 13「長女の自覚」 雪が消え去った通りで、子供達が元気に遊ぶ。 世間は不幸の頭上を、雲のように通り過ぎる。 多希子の足音に耳を立てたシロが、小屋から出てきて尻尾を振った。 しばらくして亜由美が泣きながら帰ってきた。 膝が血で滲んでいる。真沙は亨を背負いながら亜由美の足を拭き、赤チンを塗った。多希子はオルガンの傍にランドセルを置き、亜由美の泣き顔を見て目をつり上げた。 「亜由美、あいつ等にいじめられたの?」 最近母の中に起きている「何か辛いこと」に多希子は気づいていた。 白い冷蔵庫だけが目立つ台所で、時折母親がすすり泣く姿を、柱の影から見ていた。「せめて妹を守らなければ!」その自覚に立った時、たおやかな少女は変身する。 いつも亜由美をいじめる子とは、さっきすれ違ったばかりだ。素手で立ち向かう相手は三人。 多希子はすぐさま家を出て、通学路を走りはじめた。多希子に気づいた彼等は尻を向け、舌を出して逃げようとした。「許さんぞ! 亜由美をいじめたな!」「ばーか! 捕まるもんか」「弱い者いじめは弱い人がするんだに! 」 学校帰りの友子が多希子に声を掛けた。 「タッコちゃー!どうしたの?」 友子の声が遠くになった頃、多希子はついに彼等の一人を捕まえた。「何だよ、放せ!」「また亜由美を泣かしたな!男らしくないに!」「あいつ、黒いからだよー。 頭もちりちりで」 多希子は力いっぱい少年の腕を掴んだ。 すると少年の唇がみるみる船底のようになった。「よしな、和男!その子は気の毒な子だでね・・・」 垣根の脇から少年を呼んだ母親は、能面のような顔で多希子を見た。 ふたりは垣根の向こうへ消えた。 取り残された多希子は、風のように走って来た道を頭を垂らして戻りはじめた。 「おばさーん! 気の毒なのは亜由美だでね!」 小石を蹴りながら、人が消えた道で多希子は叫んだ。 photo by kitakitune jijiさん 次回 「憧憬・はじめての東京」
2007/10/29
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シーン 12「揺れる時」 脈打つ時間は、アルプスを薄紫から純白へ変えていった。多希子はオルガンの下に入り込み、せっせと折り紙を折っている。 亜由美は多希子のお下がりのセーターを着て、こたつでみかんを食べていた。「亜由美、そんなに食べると手が黄色くなるでね!」「ならんよ、お姉ちゃん!」 一歳半になった亨は、振り子時計やテレビに目を輝かせ、茶の間を歩きまわる。 茂夫がそんな光景を、笑みを浮かべて眺めているようだった。 夏休みにラジオ体操をした会社の広場には、薄っすらと白い絨毯が敷かれ、シロの足跡が犬小屋の辺りで消えていた。 真沙は窓辺に寄りかかり、ぼんやり外を見ていた。「林さん所の上の娘は、前妻の子」 「三人の子と会社を残して、あの家は気の毒になあ」 町の噂は真沙を悩ませた。多希子が真実を知るには、相応しい時期があり、それを告げるのは自分であると決めていた。 そんな時、親身になってくれた友子の母の言葉が、真沙の心に光を残した。 「東京はいいに。 人の噂も遠いでね・・・自由に暮らす人の集まりだっちゅうでね」「どうした?姉さん・・・」 残務を終えた幸之が、帰って行く数人の社員に手を振った後、渡り廊下を歩いて来た。 「窓なんか開けとったら、風邪ひくよ」 音も色もない夜に、儚げな横顔が揺らめいていた。 「良幸さん・・・すぐというわけじゃないけれど、東京へ出ようと思う。 その時は会社を頼むで」 次回 「長女の自覚」
2007/10/27
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シーン 11 「父の消息」 多希子が長い入院生活から戻ると、父は黒い額縁の中にいた。「お父さんは?」「タッコが入院中、仕事で遠く行ったでね」「遠くは何処?良幸おじちゃん知らん?一緒に仕事しとったね」「海のずっと向こうだで・・・」「タッコは海を知らん!」 多希子は傍にあるトランジスターラジオを持った。 「お父さんはこの箱が好きだったに。 これを置いて仕事へは行かんよ」 居合わせた者は、言葉を失った。 その夜、亜由美と亨が寝静まったのを見届けた真沙は、多希子に添い寝をしようと、そっと布団を捲った。 多希子は茂夫が買ったダッコちゃんを抱きしめ、真沙に背を向けていた。「お父ちゃんは、もう帰らんのだね?」 真沙は込み上げる思いをぎゅっと閉ざし、小さい頭を撫でた。 柔らかな前髪が指に触れると、多希子の瞳から、鈴蘭のような涙の滴がポロリと落ちた。 枕に滴が広がると、唇を噛みしめた多希子がはじめて真沙の顔を見上げた。 自分が腹を痛めて生んだ亜由美は、声をあげて泣くことで早い立ち直りを見せたが、多希子は違った。 自分を母と信じる多希子を、今はただ抱きしめるしかなかった。「高遠原の桜の天井で、肩車してくれたんだに。 お父さんは桜の木の枝に届く位大きかったで」 闇夜に光る桜の花びらは、朝の訪れを拒むように舞っていた。 見上げればアルプス、見下ろせば天竜川という絶景に、茂夫の墓があった。やがて両家は、四年前に逝った令子を茂夫の墓にうつした。ふたりはこうして同じ墓の下で、永遠の眠りについた。 林 茂夫 三十二歳 永眠 林 令子 二十四歳 永眠【ふたりは本当に離れなかったね。 ずっとここで眠るのね。 聞こえる? 天竜川の流れ・・・あれは私の永遠のオルゴール】
2007/10/26
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シーン 10 元気になった多希子は、病室に近づく足音を聞き分けることができた。短くなったクレパスの前には、明日誕生日を迎える多希子のバースデーケーキが描かれており、明日はきっと真沙や茂夫が来てくれると信じていた。 一方、茂夫の病室への出入りは日に日に忙しくなっていた。雨は窓ガラスを叩き、滝のように流れ落ちた。亜由美と亨の手を握った真沙や、林家の皆が、息絶え絶えになった茂夫を囲んでいた。 「タッコに会いたいなあ・・・」 雨の音が儚く消えた。七月十五日、茂夫は静かに息をひきとった。 【ねえ、お父さん。 会いたかったね。 運命のシナリオを一行だけ書きなおせるなら・・・】 photo by poohさん 次回 「父の消息」
2007/10/24
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シーン 9 その日、真沙は亨を抱いて茂夫の病院へ向かった。もうじき一歳になろうとしている長男を見るなり、茂夫はうれしそうに両手を出した。「さーて、亨が歩くようになるのが早いかな? 俺の病気が治るのが早いかな?」「そりゃー、お父さんが早く治らんとね」 「そうだに。 おまえが野球を教えにゃあ」「そうだな・・・待っとれよ、亨」 茂夫は多希子の様態を気にしながら、白いカーテンに囲まれて治療を続けた。 「奇跡が起きたら!」 そんな周囲の思いとは裏腹に、病魔はのさばり、血流にのって充満した。 梅雨が明け、既に頭髪がなくなった茂夫が、白い顔で公男を見上げた。 辺りに絶ちこめる悲哀は、原爆の凄まじさを語っていた。「公男兄さん・・・無花果(いちじく)が食べたいなあ」 力の無い茂夫の声に、公男はすぐさま街へ出た。 あちらこちらを歩き回り、やっと無花果(いちじく)を買うことができた。「美味いよ、兄さん・・・」 誰の目にもそうは映らなかった。 茂夫の言葉は「生」への点火を促し、懸命に生きようとしているように見えた。 雨上がり、窓からはわずかな光が差込み、志津の背中にあたっていた。 茂夫は大きな目で天井を見つめていた。 志津がだらりと垂れた茂夫の手を取ると、茂夫はまるで三人の子供を託すように、志津の手をぎゅっとにぎった。「姉さん・・・」 心の奥底から発した声は、茂夫の命のひだに触れた。 「大丈夫だに!」 photo by kitakitunejijiさん
2007/10/22
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シーン 8 空から氷の板が落ちてきたような、寒い日のことだった。 沖へ去った放射能が、波に乗ってやってきた。 「おーい、おーい・・・」 その声は、気のせいかと思うほど力のない声だった。 真沙は縫いかけの雑巾と針箱を仕舞い、声を辿って行った。 すると便所の前の廊下で、顔色を無くした茂夫が倒れていた。 「おとうさん!」 真沙は茂夫の姿に仰天し、大声で良幸を呼んだ。 茂夫は直ぐに病院に担ぎ込まれた。 真沙は、鼻血も下血も止まらない茂夫の背後で、悪魔の影を見る思いがした。 そしてこの事が、多希子の入院を更に伸ばした。 茂夫が広島沖合いの駆逐艦で被爆してから、およそ十年が過ぎていた。 白血病と診断が下されると「 広島の惨事 」を甦らせた林家の姉妹もかけつけた。茂夫の被爆を証明するには、身内以外三名の証人の署名が必要とされるが、既に駆逐艦に乗り合わせた仲間は、同じ後遺症で亡くなっており、その証明は不可能だった。 降り続く雨は空も山々も灰色に落とし、色のない街に病院だけが、のっしりと聳えていた。会社と病院を目まぐるしく行き来する良幸と、幼い亨と亜由美の世話をする悦子。真沙から知らせを受けた大谷家でも、進二夫婦が、ようやく訪れた平穏に安堵する母冴に、この事をどう知らせるのか・・・躊躇っていた。緊迫した事態は取りまく人の平穏を奪い、生きていた放射能に脅えた。 多希子は長い退屈に慣らされ、真沙が一日置きにしか来なくなった訳を訊ねた。 「タッコ、ごめんね。お父さんも病気で入院したで」 「お父さんも腎臓病? お父さんもこのお部屋でタッコと一緒に泊まればいいに」 「お、お父さんは、直に治るで・・・」 photo by yuu yuuさん
2007/10/19
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シーン 7 「悪魔の潜伏期間」1 日本に高度経済成長の兆しが見えはじめると、人々の暮らしにも変化が現れ、テレビ、冷蔵庫、洗濯機は多くの家庭に入り込んだ。元気になろうとしている日本の気流に、茂夫の会社もなんとか乗った。 その日も、真沙は多希子の入院先の病院へ向かった。 多希子の病名は急性腎不全だった。お遊戯会も出られないまま、即行入院になった多希子は、安静と言われ、天井の木目模様を見ながら過ごしていた。 真沙は持ってきた折り紙と塗り絵をバックから出した。「これは、お父さんからだに」 「わー、金色と銀色の折り紙がたくさん入っとるに!」 すでに折られた鶴は、様々な形で多希子の寝床で戯れていた。 真沙は、トンネルのようになった蒲団の脇にある一枚の絵を手にとった。 「これはタッコの傑作だに。 看護婦さんが壁に貼ってくれるんな」「タッコ? ここにいるのはお父さんと・・・」「チンドン屋を追いかけて迷子になった時に、タッコを家に連れてきてくれた魚屋のおじさんな。 長い前掛けをしとるら? 」「ああ! あの時の・・・」「お父さんが、ありがとうのお辞儀をしとるんな」 クレヨンで丁寧に塗られた絵には、父親の後ろで泣きべそをかいている少女が、小さく描かれていた。 「そろそろ蒲団に入らんと、注射の時間。 ペニシリンは針が長くて痛いし、お尻にするで、タッコは恥ずかしいんな。 ブドウ糖はお父さんの親指より太いに」 注射の名前を覚えた多希子の頬を撫でながら、真沙は多希子の着替えを袋に詰めた。 「明日はお父さんが来るでね。 この絵を見せにゃあ」 日没が早い冬の病室で、注射を終えて眠った多希子を確認した真沙は、静かに部屋を出て行った。多希子は足音が消えた頃、そっと目を開け左右に寝返りを打った。
2007/10/18
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シーン 6 「黒いおしっこ」 木の葉が少しずつ色づきはじめた。 お遊戯会の練習に勤しむ多希子は、しょんぼりしながら中庭にやってきた。 シロは置き去りにされたフラフープを噛んでいる。「シロ、お父さんはお仕事。 お母さんも忙しいで、お遊戯会は誰も見れん」 そんな多希子を見ていた悦子が、事務所の窓から顔を出してた。「タッコちゃ、今日はお銭湯へ行かん?」 小石が散らばる小道を行くと、どこからともなくいい匂いがしてきた。 「秋刀魚を焼いとるね」 日が沈みかけると、多希子が通う幼稚園の屋根が山間から頭を出した。「悦子姉さんがお遊戯会に行くでね」 多希子は目を細めながら、優しく笑う悦子が好きだった。 「来てくれるの? 空を向いて威張っとる白い屋根・・・あれがタッコの幼稚園だに」 悦子は洗面器を膝の上に置き、にっこり笑って小指を出した。多希子もうれしそうに小指を絡めた。 やがてふたりは「えびすや」の暖簾を潜った。番台の愛想のいいおばさんに小銭を渡し、悦子が持ってきた大きな籠に、脱いだ服を次々と入れた。潔く裸になった多希子は、大きな鏡の前でいきなり弾けた。 「わあ! 裸がいっぱいおるに」 木枠のガラス戸をガラガラと開けると、温かい湯気の中で裸とやまびこが戯れていた。 石鹸の匂い、木桶の音、タイルの感触、背中を流し合う人。 そして多希子は、湯船の壁に描かれた、大きな山に目を留めた。「山の王様だ!」 悦子に呼ばれた多希子は、かけ湯をして湯船に入った。 「大きい山の下を走っとる人がおる。 松の木の下で、休んどる人もおるに・・・」 「この山は富士山。 日本で一番高い山だでね」 悦子は、白くて大福のような乳房を、湯に隠しながら言った。「ここにおる人のお乳も、富士山のようだ」 悦子は、母乳を知らない多希子の仕草を、いとおしく思った。 昆布のような長い髪を洗った悦子は、多希子の背中を流し、あとは自分で洗うようにと手拭いを渡した。 浮かれ顔の多希子が、鏡の中にいた。 「さあ、もういっぺん温まっていかにゃあね」 帰り道、駄菓子屋の前に差し掛かった頃、ずっと何かを考えていた多希子が言った。「さっき、お便所で、黒いおしっこが出た」「く、黒かったの?」「お醤油の色だったに」 次回 「悪魔の潜伏期間」 photo by しっぽ2さん
2007/10/17
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シーン 5 「最後の夏」 昭和三十五年六月、念願だった長男が誕生した。丸い顔にどんぐり目、口は頬に埋もれ、鼻は顔の真ん中で小さな山を描いていた。 茂夫が亨を抱くと、目じりがゆるゆると下がった。 「おまえに野球を教えるでな!楽しみだ」 梅雨が明け、山脈が澄んだ青空に佇んでいた。 盆地は陽を浴びた緑に包まれ、川の水面は小さな光の山が、幾重にも揺らいでいた。 大通りに向かう途中に友子の家がある。 垣根の向こうで手拭いかぶった祖母が、水うちをしている。 多希子が植え込みの隙間から覗くと、洗濯板と大きな盥(たらい)が干してあり、それを指さした亜由美が言った。 「あれ、亜由美の家にもあるね、お姉ちゃん?」 「お母さんが、亨のおしめを洗っとるら?」 ふたりはお揃いの麦藁帽子をかぶり、路地を曲がって表通りに出た。 多希子の服のポケットには「ホームラン」と書かれたアイスクリームの当り棒が入っている。 通りでは史上最少のパレード,チンドン屋のラッパや鐘の音が聞こえていた。 ふたりは顔を見合わせ、小走りでお菓子屋に向かった。 「ちょうだいな!おばちゃん」 「はいよ!」 チンドン屋が通る日曜日は、通りがにぎわいで明るい夏色に染まる。 多希子は商店の中で一番元気なおじさんがいる八百屋の前に立って、チンドン屋を眺めていた。 亜由美は溶けたアイスと格闘している。 「タッコちゃ!すっかりお姉ちゃんになったなあ」 「おじちゃん、また野菜のくずを踏んどるに」 「タッコちゃは、よーく見とるなあ」 その夜、林家から届いた桃や、とうもろこし、真沙が拵えた海苔巻等が卓袱台に並んだ。仕事を終えた茂夫が亨を膝の上に乗せて「いい夜だな・・・」と言った。 「そう!今日はタッコの五歳の誕生日。 亨と亜由美の元気のお祝いだに」 真沙は白い前掛けをはずし、茂夫のコップにビールを注いだ。 「亜由美は泡泡のサイダー! お姉ちゃんはケーキのロウソクを消さんとね?」 和やかな晩だった。 月にかかる薄雲は慎ましやかに重なった後、ふうっと夜風にさらわれた。 次回 「黒いおしっこ」 photo by kitakitune jijiさん
2007/10/16
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シーン 4 映画館を出ると、外はすっかり暗くなっていた。 多希子は不思議な時間の経過に戸惑った。「わあ、町に電気がいっぱい点いとる」 「お腹すいたら?美味しい物を食べようね」 真沙は多希子の手を引き、裏通りの寿司屋ののれんをくぐった。 カウンターにちょこんと顎を乗せた多希子に、頭に手ぬぐいを巻いた板前が、「よっ!お嬢ちゃん」と声をかけた。 令子の通夜に来てくれた馴染みの寿司屋だった。 やがて多希子の前に寿司が置かれた。 そして小皿に並んだ海苔巻の行列に、卵があるのを多希子はとても喜んだ。「おいしい?」「お、し、す、・・・おいしい!」「おすしだに」「お母さん、お、し、す、好き?」 板前と真沙がにっこり笑った。 「おじさん、タッコはおへそで回す輪っかを買って貰うんだに」 「ああ、フラフープか。 もうちっと大きくならんと、まわせんな」 拗ねて口を尖らせる多希子の前に、輪切りにしたバナナが置かれた。「ただいまー」 茂夫が多希子の元気な声を聞きつけ、茶の間にやってきた。「チャンバラ観た」「お母さん孝行したな、タッコは」 真沙は苦笑いをしながら、水玉のネッカチーフとハンドバックを丸い卓袱台に置いた。「タッコは、お、し、すを食べてきたに」「そうかそうか!タッコはお寿司を食べてきたのか」 多希子の笑みは、久しぶりに母をひとり占めできた歓びに満ちていた。 そしてオルガンの脇に置かれたフラフープを、柱のダッコちゃんが呆れ顔で見つめていた。 次回 「最後の夏」
2007/10/14
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シーン3 「ご褒美はフラフープ」 1 暑い盛りに入った頃、息抜きの機会を得た真沙は、水玉のブラウスを着て長い髪をきれいに整えた。 多希子は、おめかしした真沙を見て、自分もお気に入りの靴を履いた。 赤い靴のベルトの部分には、大きなリボン付いる。「お出かけ、お出かけ!」 はしゃぐ多希子の手を引いて、通りに出てくると、フラフープを回す若者達に出会った。「あの丸い輪っかをまわすと偉くなる?」「ならんよ。 目がまわるだけだに」「れんげの畑には、もう行かんで、あの輪っかが欲しい・・・」 多希子には、彼等がとても楽しそうに見えた。 真沙は立ち止まる多希子を上手に騙して歩きはじめた。 自動車が流れる大通りに出ると、大きな宣伝画が付いた映画館が見えてきた。 チケット売り場には行列が出来ており、退屈しのぎに、真沙がハンドバックから甘露飴を出すと、多希子の頬は右に左に膨らんだ。 やがて重い扉を開けて暗闇に入った多希子は、真沙の手をぎゅっと握った。「映画は暗いの?お化けは出ん?」「大丈夫だに。 おりこうに出来る?」「うん、おりこうにするで、ご褒美はあの輪っかだでね」 多希子が「ご褒美の契約」を済ませると、辺りはもっと暗くなり、ブザーがなった。 真沙も大勢の人と同じように気持ちと整えた。多希子の眼差しは時代のヒーローを追った。 刀を抜くお侍、綺麗な着物のお姫様。 けれど多希子の好奇心は次第に衰え、足をフラフラさせながら、退屈を励ました。 ハンカチで涙を拭く真沙の耳元で、多希子は両手を膨らませて囁いた。「チャンバラは悲しいでね・・・もう見ん方がいいに」 photo by しっぽ2さんさん
2007/10/13
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シーン 2 「タッコの見張り番」 昭和三十四年、幼稚園に通い始めた多希子の部屋に、オルガンが置かれた。 柱には黒んぼのダッコちゃんがしがみ付き、大きな目で始終多希子を見張っている。 「タッコ、おやつだにー」 真沙は箸の先に練り状の飴をくるくる巻いて、多希子に渡した。 水飴を貰った多希子は、茂夫の工場と繋がる渡り廊下にやってきた。 「ちゃんと座って食べるんだに・・・」 真沙の声が遠くで聞こえた。 中庭に出ると、シロが尻尾を振りながら小屋から出てきた。 シロは僅かに首を傾げ、箸の先に付いた琥珀色の水飴を狙っている。「シロ、覚えとる? これはタッコのエサだでね」 しばらくすると、シロはクーンと泣いて、多希子の前にお行儀よく座った。 「シロ、タッコがれんげ畑に行く時は、ワンワン吠えちゃいかんに」 多希子がしゃがみ込んで、水飴をシロの口元に近づけると、シロは箸ごと奪い取り、速やかに小屋に逃げ込んだ。「ああー! タッコのエサを返せ!」 「タッコ・・・裸足のまんまでどうした?」 多希子が振り向くと、顔の所々に黒い油を付けた茂夫が、工場の窓から顔を出していた。 茂夫は時々、膝の上で甘える多希子に長嶋選手や力道山の話をしながら、新聞紙で大小様々な箱を作って、多希子を喜ばせた。 「タッコはここに、ビー球を入れるに!」 その笑顔は、死んだ令子を思い出させた。 次回 「ご褒美はフラフープ」
2007/10/12
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シーン1 「れんげ草」 茂夫は、将来性が薄くなった製糸会社に見切りをつけた。 時代は、真空管からトランジスターに移行しており、そこに目を向けた茂夫は、ラジオ、テレビの電子部品をつくる会社を立ち上げた。 こうして飛躍の一歩を出した茂夫と、亡き令子の後、青春を多希子に捧げた「勇敢な母」真沙との暮らしがはじまっていた。 やがて茂夫と真沙の間に女の子ができ、真沙は育児に明け暮れていた。 家の横に広がる桃色の絨毯は、可憐なれんげが隙間なく咲き誇り、微風に靡く。 そこは三歳を過ぎた多希子のお気に入りの遊び場だった。「あそこへは入っちゃ駄目だに!」 真沙が口癖のように言い聞かす。元気に返事をした後、妹の世話をする母親の目を盗み、多希子はそっと裏木戸を開け、一目散に走り出しす。 れんげはいつも、うららかな顔で多希子を待っていた。 れんげを器用に編み込んで拵えた花輪を、友子が多希子の頭にのせる。 三つ編みにした髪をリボンで結んだ友子は、近所の酒屋の娘で、多希子より四つお姉さんだった。 「はい、お花の冠」「わーい!タッコはお姫様のよう?」 おかっぱ頭に大きな瞳。 はしゃぐ多希子のスカートは、風で落下傘のように膨らんでいる。「タッコちゃ! 蜂が飛んどるに!」「ひぇー!隠れろ」 ふたりは慌ててれんげに埋もれ、そのままごろごろ転がると、頬に触れるれんげの蜜を吸った。「蜜蜂のおやつは甘いに」 遠くから豆腐屋のラッパが聞こえてくると、真沙が赤毛の亜由美を負ぶって、家から出てきた。「タッコー!いつまで遊んどるの?日が暮れるにー」 ふたりはくすくす笑いはじめた。「シー!・・・友ちゃ、顔を出しちゃ駄目だに」 次回 「タッコの見張り番」 photo by きいちのぬり絵
2007/10/11
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シーン 6 「決断」 その日大谷家の座敷では、多希子を抱いた長女の幸(さち)と進二夫婦が、冴と静かに話していた。縁側の窓を数枚開け、吹き込む風で涼を取った。 「それがこの子の為だでね」「茂夫さだって直ぐには再婚せん。 どいれ辛くておるで」 令子の亡き後、忘れ形見となった多希子を誰が育てるかという現実が待っていた。多希子は、ぼんやり見える叔母の顔に口元を歪ませている。 「真沙が多希子の母親になるしかないと思う」 進二が大きな溜息の後、呟いた。「他人(継母)にこの子を育てさせるなんてできんでね」 幸が、ふっくらとした腕の中で眠る多希子を見つめながら言った。 その時、突然襖が開いた。 白いブラウスの衿の所まで、お下げの髪を垂らした真沙が立っていた。「義兄の所に嫁ぐなんてできん!」 「お、おまえの気持ちも、わからんわけじゃない。ただ・・・」 幸は澱んだ空気の中、冴に目を移した。 娘の死に目に立ち会えなかった小さい母の姿が痛々しい。 そして幸は進二に同意を求めるように話を続けた。「母さんが心労で倒れたらどうする? 頼むで真沙!」「母さんが・・・」 真沙は言葉を失った。 その時大きな声に反応したのか、眠っていた多希子が突然泣き出した。 「この子を守らんと令子が悲しがるに」「真沙、わしの具合が良くなるまででいいに。 わしは元気になるで!」 冴の息づかいは、魂から発する息吹に満ち、心に合わないことを突きつけられた真沙を揺さぶった。 真沙はしばらく立ったまま俯いていたが、ふいに背を向け、部屋を出て行った。暑い日差しを溜め込んだ石垣に寄りかかった真沙は、停滞を許されない太陽から言い知れぬ攻撃を浴びた。 やがてゆっくり空に向かった真沙の瞳は、沈黙を破ったように潤みはじめた。 photo by kitakitune07さん 次回 「永遠に」 第二章 シーン1 「れんげ畑」 しばし、昭和の懐かしい風景をお楽しみください。 めぐみ かおと
2007/10/09
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「令子は・・・妹は治るんだねえ?」 「今、ご主人にもお伝えしましたが・・・厳しい状態です。 黄疸が出ています」 長い板張りの廊下にひっそりと置かれた長椅子。 そこに茂夫は暫く垂れていたが、ふいに立ち上がり、新生児室へ歩き出した。 長身の茂夫の姿に気づいた看護婦も彼のうしろを歩いていった。多希子は純白の衣に包まれて静かに眠っている。 「よくミルクを飲むんですよ、この子」「俺に似とると思ったが、こうして見るとやっぱり妻だな」 ぐっと握られた茂夫の手から、看護婦は目を背けた。 茂夫が見た令子の笑顔は、日ごと闇に吸い込まれていった。 大谷家では娘を案じて床に伏せる冴が、進二の帰りを待っていた。 「令子はちょっと産後の肥立ちが良くないだけだでね」 そんな言葉がいつまで通用するのか・・・女学校を出たばかりの妹の真沙が、大きな瞳で進二を見上げた。 病室の扉は、開けられる度に重く鈍い音で鳴いた。令子は枕元でいつも優しい眼差しを持つ進二の姿を確かめると、か細い声で言った。「兄さん・・・桃の実は付いた?」 「へえ付いたに。 甘く熟しとるで」 「赤ちゃんに・・・桃の汁を飲ませてやってくれん?」 桃の汁・・・自分のお乳を飲ませる事ができない切なさ。 令子は果たして正気なのか? 進二は胸が張り裂けそうになった。 けれど進二はすぐに令子の白い耳元に顔を近づけた。 「わかったで。 桃の汁をたんと(たくさん)やるでね」 真夏の夕立が盆地に鳴り響き、稲妻は容赦なく空を割った。周囲の者は、繭(まゆ)のような白い令子の肌が、日に日に黄色くなっていくのを辛そうに見ていた。 看護婦に抱かれた多希子が純白の衣に包まれてやってきた。 天井を見つめるだけになった令子の頬を、茂夫が大きな両手でそっと撫で「多希子が来たよ」と言った。すると令子の瞳から一筋の涙がこぼれた。 その涙は黄色かった。茂夫は令子の手を握り締めた。 「おまえによく似とるぞ、ほら・・・」 皆は顔を背け、進二は唇を堅く結んだ。 令子はその日、治療の甲斐もなく静かに息をひきとった。暗がりの扉から真っ白な天使がすうーっと消えた。 昭和三十年八月九日 大谷令子 永眠。 二十四歳。 photo by kitakitune jijiさんさん 次回 「決断」
2007/10/08
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シーン 5 「暗がりの扉」 桃の実が熟し、収穫に追われる果樹園には、公男の父や良幸の両親、そして近所の人の姿もあった。 「ほい!今年は良い実が付いとるな。 多希子のほっぺたのようだな・・・」 「赤が生まれて、茂夫さが会社におらんで、良幸はてんてこ舞いだっちゅうでね」 「そりゃあ、良幸さを頼りにしとるし、安心して赤に会いに行けるでね」 「茂夫は、スッとした鼻の辺りが自分に似とるっちゅうし、令ちゃの家族は、大きい目は令子そっくりだっちゅうしな」 「そんなもんなあ」 取りまく自然は夏の活気に満ちていた。 セミは短い寿命に声帯を尖らせ、木陰に逃げ込む子等は、虫かごを囲んではしゃぎ、傍を通る村人が声をかけている。 それは、迫る山の谷間に吹き込む風が、あたりの木々を騒がせる夕暮れのことだった。 「夕立がくるな」 家に戻った公男は、良子の慌てふためく姿に驚いた。 「ほい!茂夫から、病院へ来とくんなっちゅう知らせだに!」 日焼けした公男の顔は不安の色に染まった。 ふたりは両親と共に早速病院へ向かった。 多希子が生まれて十日が経っていた。 元気な多希子と裏腹に、令子の産後が思わしくないと聞いて、駆けつけた家族は、医師からこう告げられた。 「急性肝臓萎縮症です」 その声は平らで重く、無色で固く・・・言い渡された病名はいっそう周囲に緊迫をもたらした。
2007/10/06
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シーン 4 「多希子」 昭和三十年、純白だった嶺々が薄紫色に輝いていた。 自然が奏でる音色は、しずしずと変わりゆく季節に、淡い衣を着せて寄り添う。 やがて桃の実が色づきはじめた。 梅雨明け間もない七月十六日、令子は無事女の子を出産した。 大きな産声をあげた女の子は「多希子」と名づけられ、林家でも大谷家でも多希子の誕生に歓びの声をあげていた。 果樹園に囲まれた小道の先にある林家。 牛小屋と井戸の間の石段を下ると、良幸が住む別家があった。 石段の脇には大きな池があり、水面に雲を映しながら、たくさんの鯉がくねくねと泳いでいる。 両家の前にでんと居座る山の上からは、日に何度か通る飯田線の音が聞こえてきた。 「ガターン、ゴトーン、ガターン、ゴトーン」 「今、電車が行ったで、じき八時だな・・・」 朝のひと仕事を終えた別家の衆(皆)は、石段を弾む足取りで上がって来た。 「ほい、めでたいなあ!」 次男を負ぶった志津が台所から顔を出し、「さあ、上がってくんな」と微笑んだ。皆の顔が揃うと、公男は一升瓶に入れた山羊の乳を湯飲み茶碗に注いだ。 「搾りたてだで」 「茂夫さ、どいれ(とても)喜んどるらー」 「お陰でね。元気な女の子だでえ!」 「へえ(もう)、あれから十年経ったなあ・・・感謝せにゃ、いかんな」 公男は遠くに視線を移してそう言った後、手にした湯のみ茶わんを囲炉裏の淵に静かに置いた。 次回 「暗がりの扉」
2007/10/05
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令子の実家、大谷家の長男進二と妻の良子は、高血圧に悩む母の冴(さえ)の身を案じていた。ところが令子の妊娠を知ってから、冴の血圧は安定し、隣町からの往診も減っていた。 冴は大谷家で一番見晴らしがいい十畳の和室に床を移した。 縁側に沿った掃き出し窓を開けると、さわさわと流れを止めない天竜川が見える。 緑の風は戯れ、村人の声が冴の耳に心地よく入ってくる。 底流に母の思いがあるとすれば、その法則に逆らう総てのものに、母はきっと立ち向う。 「令子の赤ん坊は、桃の季節に生まれるなあ」 「そうだに。今年はきっと良い実が付くら・・・」 春が過ぎ、しなやかに膨れた令子のお腹を、茂夫が白い割烹着の上から優しく撫でた。令子は大きな手の上に、自分の手を重ねて言った。「もうじきだでねー」 令子は結婚と共に、会社を切り盛りする夫を支える暮らしに変わり、時折不調で寝込むこともあったが、茂夫の労わりと、お腹の子が令子を元気づけてくれた。 林家でも大谷家でも生まれてくる子を、それは楽しみに待っていた。 次回 「多希子」
2007/10/04
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昭和二十八年、ふたりはめでたく結婚した。 四季折々の盆地の自然と触れあいながら、山間をまったり走る飯田線。 ふたりは沿線でも比較的栄えた伊那町で暮らしはじめた。 やがて養蚕が盛んなこの町で、茂夫は製糸会社を立ち上げた。 茂夫の従兄弟にあたる良幸は、番頭と共に茂夫の片腕となって会社の発展に努め、努力と大胆な行動が常だった茂夫の気質は、会社を時代の波に素早く乗せた。 茂夫の愛情を浴びて暮らす令子も、なかなかの働き者だった。里が若葉色に染まり、辺りにやわらかな陽が遊ぶ田植えの季節を迎えると、令子はさっそく林家に向かった。 そんな令子を林家では「よい嫁がきた」と顔をほころばせた。 令子は長男公男の妻、志津を立てながら、慣れぬ手つきで田植えに精を出した。 土にぬかった令子の足は繭のように白い。 日除けの麦藁帽子の後ろには、令子が付けた桃色の布がひらひらと風に舞っている。 ある時、仕事を終え土間に戻った令子に、公男が声をかけた。「令ちゃ、こっちへおいな・・・」 暫くすると大きなお腹の志津が、木箱からヨードチンキを出してきた。 「荒治療だに。これを塗っときゃあ直に治るで」 「すみません・・・」 令子はその時、自分の足にできた豆にはじめて気づいた。
2007/10/03
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シーン 3 「紬」 つむぎ 原爆の惨事から八年が過ぎた。 日本の屋根と言われる長野県。 諏訪湖から流れる天竜川に沿って伊那盆地が開ける。 南アルプス、中央アルプスの気高き父に見守られ、小さな町や村が慎ましやかに佇んでいる。山間から吹く風は季節の訪れを告げ、色づく木々を通り抜ける幸の風だった。 茂夫は原爆の後遺症に診回れることもなく、農園を経営する家で家族と共に暮らしていた。 けれどこの時すでに、駆逐艦で被爆した仲間全員が、後遺症で亡くなっていた。茂夫は時々、兄の公男につぶやいた。 「俺は運がいいのかな? それとも・・・」 ある時、寺の大黒様(僧の妻)を通して、茂夫に見合いの話がやってきた。「いい娘がおるで、どうかな?」 家族のすすめもあって、茂夫はその娘と会うことにした。 隣村の大谷令子は、小柄で色白の娘だった。 零れる笑みからは、畦道に咲く小花を見つけて、にっこり微笑む可憐さが滲み出ていた。 茂夫はそんな令子に一目惚れをした。 令子が住む村は、天竜川に沿うように民家が点在しており、高台にある大谷家からは眼前に広がる嶺々を背景に、堂々たる天竜川を眺めることができた。当時の大谷家は土と向かい合う傍ら、蚕(かいこ)を育てていた。 蚕はやがて繭になり、繭は紡がれて糸になる。 糸で織られた布は繊細であたたかく・・・時に儚い。 茂夫は自分が求めていた女性が、目の前に凛と存在する事に喜び、まっすぐに気持ちを伝えた。 一方令子は、あまりに茂夫が眩しくて、果たして自分にふさわしいのかと、俯くばかりだった。けれど、二度、三度、茂夫の包み込まれるような眼差しを浴びる度に、令子の頬は赤く染まった。 胸の高鳴りを悟られまいとする健気と裏腹に、乙女心は綿のようにふわふわと膨らんだ。 「そんなにじっと、見つめんでね」 紡がれたふたりは、展開される風景を幸せ以外の言葉で感じることはできなかった。令子は日増しに美しく咲いた。
2007/10/01
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