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今、小中学生の間でもブログをやる子が結構増えているようだが、一部ではそれが問題になっているとも言う。先日、とあるPTAの会合に出席した私の妻から、そんな話を聞かされた。例えば、学校のイヤな先生のことを、名指し(もちろん実名)で批判したり、明らかな個人情報ともいえる個人の住所や電話番号をブログ上で交換したり、そういったことがこのところ続いて、ちょっとした問題になったそうだ。私もブロガーの1人として、ちょっと残念な気持ちだ。私が日々いろんな方のブログを拝見する中では、小中学生のブログにお目に掛かることはあまり無い。しかしそんな数少ない少年少女ブロガーのみなさんは、皆きわめてまともにやってみえるから、私もそんなにブログ自体が荒れてるという感触は、実感としてあまり感じてなかったのだが、私の目につかない部分では相当ひどい状況になっているのかもしれない。まあネット社会というのがすべてが「モラル」に委ねられている環境だから、その「モラル」が喪失したらどうなるかは、今のモラルなき実社会を見れば容易に想像はつく。ではどうしたらいいのか?小中学生がブログをやるのを禁止せよ、という声も聞かれている。ただ、「問題が有るから何でも禁止」というだけでは、根本的な解決にならないと思う。青少年のバイク事故が増えたからといって、バイクに乗ることを禁ずるよりも、「正しいバイクの乗り方」を教える方が、よっぽど建設的だ。それと同じように、ブログ、ひいてはインターネットとどのように付き合えばよいのか、そのあたりを今一度、教育現場で教えていかなければいけなくなってきているような気がする。とにかく、「ブログ」が社会悪のように見られることだけは、どうしても避けたいと思うから。
2007年02月28日
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昨日、知人にお祝いの品を贈るべく、近所の百貨店へ行った。あれやこれや品定めをした後、結果的に5,000円(税抜き)の商品を贈ることにした。さて、宅配便による発送の手続きをしようとしたところ、店員さんが言うには、「5,000円“以下”は送料が掛かりますが、よろしいでしょうか?」一瞬アレッ、と思ったが、店内をよく見てみると確かに、「“5,001円”以上のお買い上げは、無料配送いたします」という内容の掲示があった。しかしなんだか釈然としない。だいたい普通、こういう場合は「“5,000円”以上、無料配送」だろうが。そう思っていぶかる私の心中を察したのか、件の店員は、「例えばこのギフトの中に、別の小物を付け足すという方法もあります」という妙な提案をした。つまり、買い上げ額を5,001円以上にすることで、送料を省こうということだ。ただそうは言っても、見回したところそんな安価な物は無い。今回の送料が400円だから、それを上回る物を買っては何もならない。(なら、そんな無意味な提案をするなよ)、私は心の中でツッコミを入れた。いっそのこと「本来5,000円のところを1円余計に払いますから、送料は無しにしてください」と言おうかと思ったが、それはあまりにも私のプライドが許さず、結局送料を払うということで5,000円の商品に決めた。まだまだここの百貨店は「殿様商売」してるな、と思った。
2007年02月26日
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以前から調子の悪かったレコードプレーヤーを修理してもらうべく、家電品店へ持っていった。スタートボタンを押してもウンともスンとも言わない状態が続いていたのだが、最近レコード自体あまり聴かなくなっていたということもあり、ずっと延び延びになっていたのだ。まず最初に足を運んだのは、このプレーヤーを購入した『Y』。そう、私がこのブログで対応の悪さを何度と無くこき下ろしている家電量販店だ。修理カウンターへ行き、症状を話して、とりあえずメーカーに見積りだけしてもらうように依頼した。見積り額があまりに高ければ、新品を購入するほうがいいからだ。特に今のこのプレーヤーは、「展示品処分価格」で格安で購入したものだから、なおさら修理にあまりカネを掛けたくないのだ。ところがである。いざ見積り申込書を書こうとしたら、係員が「お見積り料として2,000円頂戴いたします。」とのたまうのである。「へぇー、そうなの。でも修理をしなけりゃ戻ってくるんでしょ?」と問うと、「戻ってこない」とのこと。要するに修理をすれば前金として処理されるのだが、修理しなければそのまま「見積り料」として徴収されるということだ。えー、いつからそんなシステムになったんだろう?こんなんじゃ、見積りだけして修理をしなかったらバカみたいじゃないか。そう思った私は、ちょっとついでもあったことだし、別の家電量販店『Ks』に行って、同じように訊いてみた。何も知らない振りして訊いてみたら、やっぱり見積り料を前金として取られるということだったが、ここの店では「3,500円」という金額が提示された。なんだ、それならまだ『Y』の方がマシだな、ということで再度『Y』に持ち込もうとしたのだが、帰り道沿いにまた別の家電店『Kj』があるのを思い出し、ダメモトで寄ってみることにした。先の2店と同じように訊いてみると、「じゃあ、メーカーから見積りがきたらご連絡いたします」と言うだけで、見積り料の話は一切出なかった。ラッキー!結局店によって見積り料の有無とその金額に大きな違いがあったということは、メーカーからの請求ということではなく、家電店サイドでの請求ということなんだな。この3番目の店『Kj』にしても、最終的には見積り額が高すぎて修理は断念したのだが、プレーヤーを返してもらうときに見積り料を請求されるのではないかな、という心配もあったが、そのときも何も言われずじまいだった。こういう費用って、結構各社横並びになったりすることが多そうな気がしていたが、案外と店によって開きがあるものだ。また余談だが、3番目の店『Kj』からプレーヤーが返ってきた旨の報告の電話があったとき、「もし不要でしたら、こちらで処分いたしましょうか?」という申し出があった。実は先の2店で、修理しなかった場合にこのプレーヤーを引き取ってもらえるか、という話になったとき、『Y』は1,000円、『Ks』は500円の引き取り料が掛かると言われていたのだ。そう考えるとこの点でも、『Kj』は他の2店に勝る対応をしてくれたといえる。ただそうなると、今度は新しいレコードプレーヤーを買わなくてはいけない。しかし今回廻った3店には、いずれもチンケなプレーヤーが1~2台しか置かれていなかったから、購入はいずれよく考えた上で改めて、ということになる。どこに行ったらそこそこマトモな物を売ってるだろうか?
2007年02月25日
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昔は巷に“「配達」する仕事”がいろいろあったが、今ではめっきり減ってきたように思う。もちろん現在でも、宅配ピザなどそういった類の配達はあるが、ここで言うところの「配達」とは、ああいうある種システム化されたいわゆる「デリバリー」とはちょっとニュアンスの異なる、昔ながらの「配達」のことだ。その筆頭がおそらく「酒屋」ではないだろうか。つまり「酒屋」というのはある意味、「昔ながらの配達」を体現している代表格といってもいいかもしれない。それはそれで誇らしいと思えることではあるが、逆に窮屈に思えてしまうときもある。酒屋の配達は、当然の如く昔から「無料」だ。どんなにわずかな量でも、「無料」で配達してきた。そしてそういった感覚は、完全に顧客の頭の中に刷り込まれてしまっている。しかし昔と今では、我々の得られる「利益」にかなり差が有る。昔はどこの酒屋も「定価」で配達するのが「常識」だった。しかし現在、酒類の価格が悉く値崩れしている中では、「定価」での配達などでは、顧客はまず納得してはくれない。かといって、量販店などで売られているのと同じような価格で配達などしようものなら、完全に足が出てしまって、全く商売にならなくなってしまう。つまり「酒屋の配達」というものは、昔のように適正な利益を取れていた時代だからこそ出来た「サービス」なのだ。それが現在は、それだけの利益を取ることが出来ない。しかし顧客にとっては、「酒屋は配達するのが当たり前」という感覚だけが残ってしまっている。何年か前から我々の業界では、「酒屋の配達も『配達料』をとる時代に来ているのではないか」ということが議論され始めている。なるほど、満足な利益が取れない中で配達というサービスを行うのは、どこの店もきびしいと感じているのは確かだ。しかしいざ顧客のシビアな反応を想像すると、誰も「配達有料化」に踏み出せないでいる。しかしながらここのところその数を増やしつつある新業態の店―――――具体的に言うと、量販店やコンビニなど―――――、こういった中にも、宅配を行うような所が時々見受けられるが、それらは「配達料」を取っているケースが多いようだ(もちろん○○円以上は無料、というような措置をとっているが)。で、お客の方も、こういった新業態だと何故か、「配達料」というものに抵抗感が薄いようなのだ。ちなみに先日、関東の方から引っ越してこられたというあるお宅から、新規で配達の注文を頂いたのだが、伺っていざ清算の段になったとき、「えっ、配達は無料なんですか!?」と、ビックリされたことがある。どうもこの方は前に住んでいたところでは、配達料を取られていたようだ。同じような商品を配達するのに、店舗形態が違うというだけで、片や「配達料」を当たり前のように払い、片や「配達料」などとんでもないという感覚で受け取られるこのギャップ、何とかならないだろうか。
2007年02月23日
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実は昨年の10月から、「EXCEL」で『一行日記』を付けている。何言ってんの、お前ブログをやってるじゃない、と言われそうだが、私のブログは日記というよりも、コラムやエッセイに近い感覚で書いているので、日日の出来事を記録するのには今まで『楽天秘密日記』を使っていた。『楽天秘密日記』とは、楽天ブログをやっている方以外には説明が必要かもしれない。どういうものかと言えば、日日のブログの更新時に、本文とは別に『秘密日記』のところに書き込んだ文章が一緒にアップされるのだが、これは自分がアクセスしたときにしか見られない、つまり他人に見られることの無い仕組みになっている、そういうものだ。ただこれにはデメリットがあって、「○○したのはいつだったかなー」という具合に、何かの出来事を検索したいときには、一日づつわざわざ日記を開いて見ていかなければいけない。つまり『秘密日記』だけを一括して見ることが出来ないのだ。面倒臭いし、第一これでは記録としては使えない。そこで昨年10月から『楽天秘密日記』を使うのを止めて、その代わりに「EXCEL」で自前で作った表を、日記として使っている。で、これがなかなかいいのだ。まず書き込んだ分がズバッと一目で見渡せるので、何とも言えぬ達成感がある。そして一覧になっていることで時間軸が明確になっているから、過去のひとつひとつの出来事がどの程度前のことだったかが、感覚的に掴めるのだ。そして1年分が、元日から大晦日まで連続して記入できるようにしている(つまり、月ごとに分かれていない)ので、先の予定もちょっと書き込んでおくと、その予定までの時間的感覚も明確に認識できるのだ。つまり例えて言うならば、現在を中心とした「今まで」と「これから」を、あたかも鳥が空の上から見るかのように、俯瞰的に捉えることが出来るのである。これは今まで、常に週単位・月単位で区切られているスケジュール帳を見慣れた目には、非常に新鮮に映る。ふとした思い付きで始めた「EXCEL」の一行日記だが、意外な効用に気付くことが出来た。
2007年02月22日
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ウチの店のすぐ近くを走っている国道の、とある橋の橋脚部分で手抜き工事が発覚した。といっても五十数年前に造られたものなのだが、橋梁の架け替え工事をしていたところ、橋脚の中がごっそり空洞になっていたのが分かったというのだ。よくも今まで無事だったものだ.........。もちろん即日通行止めとなり、補修工事に入るようだが、1ヶ月位掛かるという話もある。さあ、大変だ!というのも、その現場はウチの店からはちょっと離れているものの、この道は市内でも有数の渋滞路線だからだ。ただでさえ渋滞するこの路線なのに、今後1ヶ月かそこら迂回だの何だのでクルマが右往左往するようだと、周辺の道も含めて更に大きな混乱をきたすのは必至だ。当然ウチの仕事にも支障は出るだろう。まあこれが12月のような繁忙期でなく、1年でももっともヒマな時期だったことが、不幸中の幸いではあるが...........。それにしても、一体誰が責任を取ってくれるというのだろう?
2007年02月21日
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先日、ある旧友ご夫妻に初めてのお子さんが誕生し、今日は有志でそのお祝いの席が設けられた。私も仕事の合間を見て顔を出した。ここのご夫婦とも長い付き合いになるが、私と同じくらいの時期に結婚して以来、ずっと子宝に恵まれないでいた。その間ずっと悩んでいたようだった。自分の子供を虐待したりというような事件が報道されると、「何でそんなことをするのか..........理解できない」と顔を曇らせたりしていた。そういう苦悩を見てきているから、今回の朗報はまるで我が事のように嬉しかった。本当におめでとう!
2007年02月19日
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久し振りに散髪に行った。ところでこの時期散髪に行くと、ちょっと厄介なことがある。私は根っからの鼻炎持ちなのだが、これは散髪してもらっている間、おとなしくしてくれているという様な都合のいい鼻炎ではない。散髪の間であろうが何であろうが、容赦無しに襲ってくる。床屋さんの方もよく分かってくれているので、私が来店すると、すかさずボックスティッシュが出てくる。そして散髪の間中、私はボックスティッシュを抱えながら、髪を切ってもらうこととなる。使用済みティッシュはさすがにゴミ箱まで棄てに行けないが、床に落としておくとそこの奥さんが切った髪と一緒に箒で掃いてくれる。よほど顔など剃ってもらってる時にクシャミの発作が起きて、その拍子にカミソリで顔面をスパッと.........などということを心配したりもするが、今のところはそのような凄惨なシーンは体験しないで済んでいる。
2007年02月18日
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昨日のニュースで、米投資ファンドの『スティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンド』が、サッポロビールの持ち株会社であるサッポロホールディングスの買収を同社取締役会に提案したことが報じられたと思ったら、今日は今日で、アサヒビールがサッポロホールディングスに対し、経営統合を提案していることが報じられた。ちなみにアサヒでは、これを否定する旨のコメントを出している。コトの真偽は今のところまだ解からないので何とも言えないが、スティール・パートナーズが以前明星食品に仕掛けたときのことを考えると、あの時は結果的に日清食品が“ホワイトナイト”となって明星を傘下に収め、スティール・パートナーズは日清に売った株の差益を得ることができた。今回のケースにそっくり当てはめるのが適切かどうかは解からないが、アサヒが“ホワイトナイト”として登場し、サッポロを傘下に収めることがひょっとして既定路線なのではないか、と勘ぐりたくもなってくる。もしそうだとすると、ここで一気に業界再編に加速がついてしまう。実際、サッポロも自助努力だけでこの先乗り切っていけるほど甘くはない、そういう状況に変わりはないだろうし。まあもしアサヒがサッポロを傘下に収めるようなことになっても、ブランドとしてはそのまま残るだろうし、商品群もしばらくは手付かずで残るだろう。何といってもこの両社、元々は『大日本麦酒』という同じ会社だったわけだから、言ってみれば元の鞘に納まるようなものかもしれない。しかし「アサヒ」と「サッポロ」に分かれてからの長い年月の間に、それぞれ固有のDNAが育まれながら、現在に至っている。「企業体質」と言ってもいいだろうが、これは決して軽視できないものだ。サッポロの場合で言うと、「製造面」と「営業面」の両方にそれがある。「営業面」ではさすがに私も、このところの営業戦力には首を傾げたくなるような点が多々あったが、こと「製造面」のDNAには素晴らしいものが残っている。「原料へのこだわり」がそれだ。近年ビール各社は、それぞれこだわりを前面に押し出している部分はある。例えばアサヒなら「鮮度」、サントリーなら「水」といった具合だ。ただ揚げ足を取るつもりはないが、「水」を重視するのはビールメーカーならこれはもう大前提ともいえることだし、「鮮度」を重視して商品管理に気を使っても、小売店・飲食店レベルでそれが徹底されないと「画に描いた餅」になってしまう。そこへいくとサッポロの推し進める「原料へのこだわり」というのは、他社とは一線を画するものだと評価できる。ただそのあたりのアピールの仕方が上手くないからか、そういったこだわりがなかなかシェアに結びつかないのもまた事実だ。今後サッポロビールがどのような道を辿ることになるのか、今はまだまったく分からないが、少なくとも長い間かけて培ってきた「製造面でのDNA」をおざなりにすることの無い様に願いたいと思う。
2007年02月16日
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昨日はバレンタインデー。私も「心優しい」妻から貰ったのは、昨年と同じ、ずっしりと重いものだった。しかし私などからすれば、最早バレンタインデーなどどうでもいい日になった。ちょっと前までは、納入先のスナックのママさんあたりから、義理チョコをいくつか(どうせ彼女らが店のお客に配る分の余りものだが)貰ったりもしたが、最近ではそういうこともすっかり無くなった。まあ私としてはその方が、ホワイトでーのお返しに気を使わなくて済むからいいんだけどね。ただ相変わらずソワソワとこの日を迎えているヤツが約1名。ウチの長男だ。以前の記事にも書いたが、こいつは未だにバレンタインのチョコというものを貰ったことがない。まあ親がこんなことで気を揉むなんてのも非常にバカバカしいのだが、ちょっと気になった妻が、帰宅した息子にそれとなく訊いたそうだ。妻「今日、どうだった?」子「何が?」妻「バレンタインのチョコ!」子「さあね(ぶっきらぼうに)」コイツは父に似て非常に照れ屋だから、「貰った」だの「貰わなかった」だの、そういうことは決して言いたがらない、私にはよく分かる。しかし妻はまだ執拗に食い下がる。妻「ちゃんと言わないんなら、お返しはキチンと自分で用意しなよ!」子「構へんっ(ぶっきらぼうに)」バカだなー、最後のひとことでバレバレじゃないかー(もし貰ってないのなら、そんな風に言わないだろうし)。まあそれはともかく、今年は貰えたんだ。案外「配りチョコ」か何か、その辺は分からないけど.......。
2007年02月15日
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店に陳列している商品に説明を加えるための「ショーカード」、これにはいろいろな形態がある。ただ陳列場所に余裕のあるところはともかくとして、棚に“きちきち”に並んでいる商品には、この「ショーカード」がちょっと付けづらい。で、いろいろ考えた末、ボトルからペンダントのように吊り下げる方式を思いついた。一升瓶の酒なんかだと、こういうのが見易いし、無理がない。そこで先日「ショーカード」用の紙を購入してきたが、吊るすための紐をどうしようか、という段になってはたと考え込んでしまった。文具店には黒い閉じ紐のようなものしかなく、これではいかにも事務的だ。その足で包装資材の専門店に行ってみたが、ここにはリボン状のものしかない。ホームセンターなら何かしらこれに見合うものがあるに違いない、そう思って後日出掛けてみたが、ここには梱包用の麻ひもやビニール紐の類しかなく、これでは見栄えが悪いことこの上ない。なかなか理想に適うものが無く、半分諦めかけていたところ、「手芸品店に行かれたらどうですか」とホームセンターのサービスカウンターの店員さん。ほーなるほど、そういう考えもあるか、と思い、さほど期待せずに近所の手芸品店を覗いてみたら.........あった、あった、ありました、材質といい柔らかさといいちょうど手ごろな紐が!1メートル50円という値段も思っていたよりは安いし、ホント意外なところに意外な物が有ったもんだ。ホームセンターの店員さん、ありがとう!
2007年02月14日
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長男が以前、こんな本を購入して読んでいた。内容としては単なる、「あの昨年の甲子園決勝戦再試合」のドキュメントというものではなく、このふたりにまつわる周辺の人達の物語をアトランダムに描いたものだ。私も読むとはなしにパラパラと手に取っていたところ、冒頭のある一文に懐かしい名前を見つけた。 「小沢章一」熱心な高校野球ファンでなくとも、ご記憶の方は多いかもしれない。あの荒木大輔が甲子園を沸かせていた頃、彼と共に1年生の時からレギュラーとして都合5回甲子園に出場、3年生時にはキャプテンも努めた、早稲田実業の名二塁手・小沢君だ。早稲田実業卒業後は早稲田大学に進学したものの、結局荒木の待つプロに行くことは無く、卒業後は千葉英和高校という学校の野球部の監督を務めていた。このことは、実はかつて『荒木フリーク』だったという私の妻から聞かされて、私も知っていた。ただその彼の辿って来た道のりが、全く平坦なものではなかったということを、この本を読むまで知らなかった。荒木君も小沢君も高校球界のスターだったが、それぞれのその後の進路が結局明暗を分けることになった。荒木君はプロ野球・ヤクルトスワローズへ、小沢君は早稲田大学に進んだ。荒木君もプロ野球では思うように結果が残せなかったが、それでも「プロ野球選手」というだけでリスペクトの対象になる(罵声を浴びることも多いが)。しかし早稲田大学に進んだ小沢君の場合、高校での輝かしい球歴が、かえってアダになってしまった。監督や先輩などから、執拗なまでのジェラシーがあったようだ。そして1年生途中で退部してしまうことになるのだが、表向きは「肩を壊して」ということになっているものの、実際のところ他に原因があったということは充分に推察される。そして彼が千葉英和高校の野球部監督に就任してからも、同僚たちのジェラシーに悩まされることになる。もともと根が真面目で神経質だったという彼は、それが原因で「パニック障害」を引き起こし、休職する羽目になってしまう。そして休職中にガンを発症し、それが完治すること無く昨年1月、ついに帰らぬ人となってしまった。実はこのことは、私の妻でさえも、この本を読むまでまったく知らなかったという。それだけスポーツマスコミにも取り上げられるような素材ではなかったということなのだろう。小沢夫人は昨年、自分の夫の後輩たちが昨年夏の甲子園を制したことを、素直に喜んだ。ただ、あの斉藤君を見て「大丈夫かな?」と思わずにはいられないという。かつて自分の夫が通ってきたのと同じ道を辿らなければいいのだが、と。
2007年02月12日
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映画『幸せのちから』を観てきた。事業に失敗して、妻にも愛想をつかされ、住む家も追われ、路上生活者同然の境遇から、幼い一人息子と手に手を携えながら、株取引の仲買人見習いから末は億万長者にまで登りつめた男の、実話に基づく物語だ。何せ実話に基づいているだけに結末は分かっているから、どうしてもストーリーを後追いするような形で観てしまい、そういう意味ではドキドキ感としてはちょっと物足りないものがあった。しかし崖っぷちに追い詰められた人間の必死さ、それは十二分に伝わってきた。クルマにぶつかっても「仕事があるから」と平然と走り去っていくそのタフさ、ああいうシーンを見ると、オレの努力なんてまだまだ大したことないなあと思わされる。言ってみれば「アメリカンドリーム」を体現したような内容だが、「アメリカンドリーム」とは誰にでも実現可能なものではなく、この主人公のような努力、忍耐、情熱なしには決して得られないものである、ということも同時に思い知らされる(たとえ「チャンス」はあっても、ね)。因みにこの映画の原題は『The Pursuit of Happyness』、つまり直訳すると『幸福の追求』だ。トマス・ジェファーソンの記した、アメリカ合衆国独立宣言の中にある文句なのだそうだが、結局「幸せ」なんてものは、アグレッシブに掴みに行かないと得られないものなのだな、そう思わせられるいい映画だった。余談だが、この映画の重要なアイテムのひとつとして、「ルービック・キューブ」が登場する。物語の時代設定が1981年と、ちょうどそれが大流行した時期なだけに、まったく自然な演出であるが、今日本でルービック・キューブが再び脚光を浴びつつある現実を考えると、何か因縁めいたものを感じないでもない。
2007年02月11日
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以前からこのブログでも、「近々日本酒、それも“お燗”が再び脚光を浴びるようになる」という、半ば予言めいたことを書いたりしてきたが(2006年5月29日、2006年11月9日、参照)、何となく次第に現実味を帯びだしているようにも感じられる。純米酒などの「特定名称酒」のお燗をウリにしている居酒屋などもボツボツ出てきているようだし、各蔵元から最近リリースされている商品の中にも、そういう流れを意識したような造りのものが増えているような感がある。それに最近では、「お燗して美味しい酒」の代名詞としても有名な、福島県の『大七 生もと純米』が品薄になり、問屋レベルで割り当てになっているという話を聞いたが、これなども昨今の「お燗人気」を裏付けるものといえるだろう。こういった一連の動きは、私にとってもうれしい。私も1~2年前あたりから、お燗酒の旨さを提案をしてきたものの、お客の意識がついていっていないからどうしても話が進まないでいた。ここでブームがお客の意識のベクトルを少しでも変えてくれたら、私としてもうんと話がし易くなるだろう。ただこれがこのまま「ブーム」となっていくのが良いかというと、それはまた別だ。私が心配するのは、ブームが過剰に盛り上がったときのことだ。焼酎ブームの時のことを思い返してみるといい。さまざまなメディアが市場を煽るように焼酎を取り上げたが、話題はどうしても「少量生産」の「こだわりの品」に集中してしまう。その結果当然のことながら、そういった蔵元の商品は需要が供給をはるかに上回り、たちまち「幻」化してしまい、プレミアがついたとんでもない価格で取引されることになる。そして何も知らない消費者の方たちが、その値段が普通の価格だと思い込んでしまう。またそれ以外の、普通に流通している商品の中に、非常に良質なものがあっても、それをお客に勧めてみたところで、名前が知られてなければなかなか関心を持ってもらえない。かくしてブームとはいえ、現実にはそういったいびつな流通状況が続いていったのだ。今後私の予測どおりに清酒が再び脚光を浴びるときが来ても、こういった焼酎ブームのときと同じ状況になる可能性は高い。いや、もう以前から一部の銘柄では、実際にそういう現象が出始めている。まあもっとも、清酒というのは焼酎に比べて品質管理が格段に厄介だから、焼酎の時ほど過剰な在庫を抱える業者は少ないかとは思うが。とにかく実体が伴っていなくともメディアで騒がれる物、希少価値の物に、大枚はたいてでも飛びついてしまう日本人気質、これがいち早く改善されることを願わずにはいられない。
2007年02月09日
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先日店のパソコンが壊れて、購入した大手家電量販店に修理に出したことを書いた。その量販店の「修理センター」なるところから電話があったのは、先週の金曜日。曰く、「故障の原因が分かった。部品を調達するのだが、その部品の入荷日が分かるのが週明けになるので、来週月曜日に再度電話する。」とのこと。ところが週が明けて、月曜日どころか水曜日になっても何の連絡もない。一刻も早く直して欲しい私としては、たまりかねてその修理センターに電話して訊いてみた。そうするとまず、連絡が遅れた旨のお詫びがあって、例の部品はすでに入っており、修理も明日には完了するので、それから発送したとして、今週末には受付店の方に到着する見込みだとの回答を得た。ふむふむ、そうか。そうすると到着次第すぐに、受付店から私宛に連絡が来るのだな、と思って聞いていたら、修理センターの係員氏は続けてこんなことをのたまうのである。「ただ到着するのが3連休に当たるので、おそらく受付店の方もごった返していて、お客様への連絡が漏れてしまうかもしれませんので、お客様の方から催促の電話をしていただいた方がよろしいかと.....」「.....(゜o゜).....」開いた口がふさがらなかった。お客からわざわざ電話を掛けさせる、という態度も問題だが、自社のミスをあらかじめ織り込んだ上での受け答えを平然とする、ということに非常に憤慨した。私が急いでいるのは分かっているはずだから、「受付店のほうには、到着後すぐにお客様へ確実に連絡を入れるように、私からも申し添えておきます。」くらいのことは言えないのだろうか?ここはあえて何も言わずに電話を切ったが、やっぱり次に買い換えるときはは別の店で買おう、改めてそう思った。
2007年02月08日
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来月の9日、つまりあとひと月ちょっとで、私がこのブログを始めてちょうど丸3年になる。個人的にこの日に何か花を添えたいな、と思っていたところ、現在このブログが通算978回であることに気が付いた。こちらも「1000回」の区切りまであと22回だ。うまくいけば「3周年」と「1000回目」をダブルで迎えることが出来るかもしれない。そう思って、早速計算してみた。1000回を3月9日に合わせるには、あと残り31日間に22回書かなければいけない。昔と違って、今は相当間引きながら書いているが、このペースだったらまあ実現は可能だろう。というわけで、そうすることに決めた。もし私の怠慢でこれが実現できなかったら、どうかパソコンの前で笑ってやって下さい。
2007年02月06日
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以前にも取り上げた、柳沢・厚生労働相の「生む機械」発言が、先日投開票が行われた自治体首長の選挙、ひいてはこの後に控える統一地方選、あるいは参院選に及ぼす影響について、メディアは盛んに検証を行っている。だが考えてみれば、国政選挙である参院選はともかくとしても、自治体の選挙にどうしてそういうものが影響するのか、ちょっと疑問が残る。閣僚の発言に端を発することなら、それはあくまでも国会で論議されるべきことであり、自治体選挙の争点がそういうものに擦り替えられてるとしたら、それは「場違い」というものだろう。確かに立候補者が政党の推薦を受けている以上、不穏当発言を糾弾する側にある野党の推薦候補としては、これ以上ない武器になるだろう。また当該自治体の有権者にとっても、政党というものが候補者を選別する大きな材料になっている限り、あの発言についてどう思うかが投票行動に結びつくのも仕方のないことだろう。しかしやっぱり、あくまでも「国政」と「地方自治」は違う。全然別物だ。これをごっちゃにしてはならないと思う。自治体の首長や議員は、推薦を受けている政党色というよりは、むしろ人物・政策・実績本位で選ばれるべきだ。そう考えると党幹部の応援演説なども、はっきり言って大きなお世話だ。彼らも彼らで、目の前の自治体選挙の勝利を、その後の国政選挙に結びつけることしか考えておらず、その地域の人達のことをどれだけ考えてしゃべっているか、甚だ疑問だ。またそこへ持ってきて、注目度の高い選挙となるとマスコミがしゃしゃり出て、あれやこれやと国政に絡めた論調で、視聴者の関心を煽る。これによって投票率が上がるとしたら、それはそれで良いことかもしれないが、ただでさえ影響力が大きいマスコミのことだから、やっぱりそこはキチンと、「国政」と「地方自治」の線引きを遵守して、必要以上に世論を煽らないでもらいたいものだ。そもそも自治体選挙など、本来全国ニュースで大々的に取り上げるものじゃないだろう。地方自治はそこに住む人の為のものであって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
2007年02月05日
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今日は家族で伊勢神宮へ行った。もともと今日は、以前から行き先未定のまま、とにかく何処かへ行こうということになっていたのだが、先日たまたまテレビで伊勢神宮が取り上げられていたのを子供たちが見て、とても興味を示していたのがキッカケだ。もちろん子供たちは今まで一度も行ったことがないわけだが、三重県に住んでいながら伊勢神宮へ行ったことが無いというのもいかがなものかと思い、急遽行くことにしたのだ。実は私もわりと近くに住んでいながら(ウチからだと80キロ程度)、あまり訪れる機会がなく、最後に行ったのはもう何時だか思い出せないほどだ(妻も同様)。しかし私はかつて学生時代、8年間に渡って毎年、伊勢に年越し参りに行っていたことがある。年越し参りといっても、家を出るのは除夜の鐘も鳴り終わった深夜の2時ごろで、数人の友人と合流したあと、近鉄電車に乗って一路伊勢へと向かう。大晦日から元日に掛けては、近鉄はオールナイトで運行しているのだ。そして外宮・内宮と参拝を済ませた後、伊勢と鳥羽のちょうど中間にある『朝熊山』という小高い山の山頂付近にある展望台にバスで向かい、ここで初日の出を拝むのだ。これが毎回おきまりのパターンとなっていた。そしていつも内宮の参拝を済ませて、朝熊山行きのバスに乗り込むまでの間、少々時間が空いてしまうのだが、内宮から程近いところにある『赤福』の本店で赤福餅を食べながら、暖を取るのがこれまた恒例となっていた。ここには五十鈴川にせり出した座敷があり、なかなか雰囲気の良いところだ。赤福餅が3個ほど載ったものを一人2皿ずつ食べ、熱いお茶を飲み、冷え切った体を解凍する。火鉢があるのをいいことに、赤福2皿で延々と粘ったりしていたから、今思えばずいぶんと迷惑な客だったに違いない。今日伊勢神宮の参道を歩きながら、そんなことを断片的に思い出したりしていた。当時一緒に行っていた友人たちとは、今はもうほとんど会わなくなってしまった。
2007年02月04日
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写真は私が仕事で使っているクルマだが、これはリアドアが開閉しようとする瞬間を捉えたものではない。リアドアを支える油圧バーの不良で、目一杯開いてもここまで落ちてきてしまうのだ。うっかりしていると頭をぶつけてしまって、痛いことこの上無い。ただ写真を撮った時点ではまだ真ん中あたりで持ち堪えていたが、次第に根性が無くなり、この数時間後にはとうとう力尽きて、留まることが出来なくなってしまった。荷物の積み下ろしをするにも、片手で重いドアを支えながら、もう片方の手で荷物を捌くという、非常に過酷な作業を強いられるようになった。早速カーディーラーに連絡して部品を取り寄せてもらうよう手配したが、すぐには入らないから、しばらくの間は我慢して使うしかないな。
2007年02月02日
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柳沢厚生労働相の「女性は子供を生む“装置”」発言が波紋を呼んでいる。確かに女性を機械になぞらえる物言いは、一大臣としてあまりに品位に欠ける言い方だ。野党もその言葉尻を捉えて猛抗議をしているが、ただその顛末を見ていてちょっと思うところがあった。まず柳沢氏は、少子化の根本的な原因について何も分かっていないのではないか。野党の言うように、女性が働きながら育児を続けられるような法的な整備、あるいはより手厚い育児手当、これらが充実していないことが、少子化の最大の要因になっているのも事実だろうが、それがすべてでもないだろう。現役の小中学生の親として今痛切に感じるのは、『ゆとり教育』が及ぼす弊害だ。過熱する受験競争を抑制するために、一連の『ゆとり教育』の施策が講じられてきたと記憶している。これによって、学校での授業内容は大幅に削られ、教員の数も削減され、土曜日が完全な休みになった。その結果どうなったかというと、中高の公立校と私立校の間の、決定的な学力差が生まれている。大都市圏では以前から中高の私立志向は強かったかと思うが、このあたりのような田舎でも、最近は中学から私立を受験する子が増え始めた。そのほとんどは中高一貫教育の進学校だ。要するに、公立校のレベルの低い授業内容では大学受験を優位に戦えない、という危機感を抱いた親たちが、こぞって子供を私立に通わせているのだ。もちろんそのために、小学校のうちから塾へ通わせるのも、今や必須事項だ。ただもちろんすべての家庭で、このような選択ができるかといえば、決してそういうわけではない。塾に行かせるのも私立に進学させるのも、とかくカネの掛かることだから、それだけの金銭的余裕のある家庭に限られてしまうだろう。そうなると結果的には、「高学歴を望むならカネを掛けないといけない」、そういう風潮にになりつつあると感じる。『ゆとり教育』によって学習内容は減っても、それにつれて大学入試問題の難易度が易しくならなければ、何にもならない。結局、『ゆとり教育』によって損なわれた分は、カネを出して教わらなければいけなくなる。ちょっと極端な見方をすれば、政府は教育に掛かる予算を削って、その分を経済的余裕のある家庭に負担させている、という考え方も出来なくも無い。これでは今ある格差はますます開いていくばかりだ。このような状況で、特に「勝ち組」に属さないような普通の家庭が、どんどん子供を生み育てていく気になるだろうか?柳沢氏は、その「不適切」な発言に対する懲罰的な意味で辞任を求められるよりも、少子化問題に対する認識の甘さで露呈した「不適格」な資質により、罷免される方が妥当だと思う。
2007年02月01日
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