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チリを襲った大地震の影響による津波が、日本にも押し寄せた。現時点では北海道で1メートル強という観測だが、もちろん油断は出来ない。何せ50年前のチリ地震のときには、最高で6メートルぐらいの地域もあったそうだから。それにしても今日は昼前から、テレビは津波関連の報道特番でレギュラー番組は軒並み変更されるし、鉄道の運休も広範囲に広がった。まさかここまで大事になるとは思ってもみなかったので、やっぱり津波恐るべし、である。本当にバカに出来ない、と本気で思わされたのが、そんな報道特番の中で流されていた津波の実験映像だ。人工的な津波を作って、人間や物がそれに耐えられるかというものだった。ちなみに30センチメートルぐらいでも、普通に立っている人間は、完全に足を取られてしまう。今まで地震のたびにオマケのようについてくる津波報道で、「どこそこは○○センチメートル」と聞いても、そんな膝下程度のかわいいのなんて津波などと言わないだろう、と高をくくっていたが、何のことは無い、そのうねりのパワーたるや相当なものなのだ。ちなみにその実験で数メートル級のものになると、コンクリートの壁に穴を開けてしまうのだ。さすがにこの模様には度肝を抜かれてしまった。私のムスメなども、「津波に飲み込まれてもその中を泳いで逃げればいいじゃん」などと能天気なことを言っていたが、その実験映像を見たら黙りこんでしまった。実際に起こってみないことには、その凄さが分からない、というのは、何事においても同じようなのだ。とにかく今は、被害が出ないことを祈るばかりだ。
2010年02月28日
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『草食系チューハイ』なる新語があるようだ。チューハイの中でも、アルコール度数が低く、甘めの果汁を利かせた優しい味わいのものを、このように呼ぶのだそうだ。もともと私は「草食系男子」という言葉が嫌いなので、この『草食系チューハイ』という言葉についても、半ば斜に構えるように受け取っている。しかしこの言葉の生まれた背景を突き詰めていくと、昨今の飲酒事情が透けて見えてくる。私たちの世代が酒を飲み出す頃といったら、その入口にあったのはたいていがビールかウィスキーのどちらかだったように思う。しかし今この時代、若い人たちが好むのは圧倒的にライトなお酒で、その代表格がこれらのチューハイやカクテルだ。時々未成年飲酒の事件の報道をみると、その時飲んでいるのは決まってチューハイやサワーだったりする。もちろんこれらの商品を好むことが悪いというわけではない。ただ、皆が皆とは言わないまでも、その味わいの中に安住してしまいそうでならないのだ。昔の話題ばかり出して恐縮だが、私たちの頃は飲酒の経験値が上がるにつれて、あるいは可処分所得が上がるにつれて、もっといろんな酒を試してみたい、という欲求が大きくなっていったものだが、今はそうでもないようだ。以前ブログに書いた気もするが、今の若い層は酒にカネを掛けたがらなくなってきているし、酒そのものに執着心を持っている人も減ってきている。だから人生の入口で飲んだチューハイやカクテルの味から抜け出せずにいるのだろう。なったって「ビールなんてあんな苦いの飲みたくない」などと言っている子たちが結構いるそうだから。これは実に勿体無い、というか、リカーマン的には「危機的状況」だ。もっと若い人たちにもいろいろなお酒を試してもらいたいところだが、その下地が出来て無い状況では、かえって逆効果になりかねない。確かに嗜好品だから、人の好みを云々することも出来ないが、日本酒でもワインでも焼酎でもビールでも、どちらかといえばコクのある、重めのものを好む私としては、この現状を思うと寂しくてたまらない。
2010年02月25日
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『チェンジリング』や『グラン・トリノ』で心を鷲掴みにされたクリント・イーストウッド監督と、私の大好きな名優モーガン・フリーマン、この二人のタッグの映画と聞けば黙ってはいられない、ということで早速観てきた。ただこの映画のテーマともなっている「人種問題」というものは、かなり奥の深い問題でもあるから、2時間程度の映画で描くのにはちょっと無理があるんじゃないか、という一抹の不安は事前にあった。しかしそこはさすがにイーストウッド、そこにはウソ臭さはさほど感じられないし、出来栄えも薄っぺらなものにはなっていなかった。前半が淡々と描かれていく分、後半の、特に決勝戦のシーンで一気にグワーッと持っていくあたりはさすがで、私もそのあたりでは思わず涙してしまった。しかし話のキモはやはり「人種問題」そのものではなく、ネルソン・マンデラからラグビーチームのキャプテンに受け継がれた「インビクタス(不屈の魂)」なのだ。この二人の思いが通じ合ってこそ奇跡は起きた、と言っても過言ではない。やはりイーストウッドは、期待を裏切らない。今回も非常にクォリティの高い作品を残してくれた。
2010年02月21日
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服装問題で物議を醸した、スノーボードの国母選手のオリンピックが終わった。結果はあまり芳しくなかったが、最後はリスクを犯してまでも大技に果敢にチャレンジしたりと、まあよく頑張ったと思う。最初のうちは結構叩かれていたが、そのうちに彼の知られざる一面の様のなものも報道されたりして、最後にはメディアも丸く収めた格好だ。しかし私が気になるのは、公式スーツの着崩しの是非の問題が、いつの間にか国母選手自身の資質の問題にすり替わっていたことだ。ちなみに私自身は今でも、あのスーツの着崩し自体はとんでもない、という感覚を持っている。国際的にも、自国民に対しても、著しく敬意を欠くと思うからだ。しかしその一方で、若い人を中心に「問題ない」という意見も多い。本来それが議論の焦点にならなければいけないのに、マスコミの手によって国母選手の「態度は確かにふてぶてしいけど、ホントはいいヤツなんだ」という評価が固まると同時に、うやむやになってしまった感がある。要は彼が良いのか悪いのか、ではなく、着崩し自体がどうなのか、それが本質的な問題なのだ。また同じようなことが起こった場合、今回の反省が生かされずに対応が後手後手に回ってしまいそうだが、そういうことだけは避けて欲しいと思う。付け加えさせていただくと、今回の一件に関連して一部では、スノーボードという競技の成り立ちだとか特殊性を鑑みて、あの着崩しを「仕方ない」とみる考え方が、一部の識者の間にもあったが、それは明らかにおかしいと思う。どんな競技のどんな選手であっても、いいものはいい、ダメなものはダメ、これは絶対に共通の基準でなければいけないはずだ。
2010年02月19日
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先日のブログで、旧友のお母様の告別式に出たことを書いたが、その会場となった葬儀場は、かつて私が個人情報の入力を巡ってイヤな思いをさせられた、あの葬儀場だ。あの時は受付機のタッチパネルに表示されている「(個人情報を入力することに)同意する」の表示を、私に確認すること無く係員がサッサと押してしまったことに、大いに憤慨したものだった。今回は果たしてどうかな、と思いながらいそいそと葬儀場に足を運んだ。エレベーターを降りると目の前に受付機があり、傍らに係員が立っている。何とかあの係員よりも先に「同意しません」を押すのだ、と心に決めて足早に機械に向かって突進したが、やはり機械のすぐ横に居る者には敵わない、サッサと係員に「同意する」を押されてしまった。またまた憤慨した私は、よっぽど「“同意する”なんて言ってないぞ!」と食って掛かろうかと思ったが、さすがに故人の面前でコトを荒立てるわけにはいかないと、その場はおとなしく従った。しかしどうにも腹の虫が治まらないので、数日後、当の葬儀場に電話を入れた。匿名で「先日そちらに参列した者ですが」と言って、責任者を呼んでくれと告げた。そうしたら電話に出た人がたまたま支配人だったようなので、「実は先日そちらに伺ったときに、ちょっと気になったことがあったので」と、コトの次第を話した。ひととおり話した後、「参列者の同意を求める前に係員が勝手にボタンを押すのは、そうせよとの本社からの指示なのか?」と少々嫌味な質問をした。当然ながら支配人氏は「いいえ違います。」と答え、「こちらでは必ずご来場者様に伺ってからボタンを押すように指導をしていますが、指導が行き届かなかった面があったのかもしれません。」と平身低頭(見えてないが)の様子だった。そういうことならそれ以上何も言うまい、「では今後は徹底してくださいね」と言って受話器を置いた。我ながら小心者の大人しいクレーマー振りだった。おそらくこの葬儀場には、いずれまた行く機会があるだろう。しかしもし、その時また同じことが繰り返されるようなら、今度こそは本社に直接電話を入れてやらなければなるまい。
2010年02月17日
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昨日は結婚20周年の記念(本当の記念日は10日前だったが)ということで、私の友人がオーナーシェフを務めるフレンチレストランへ出かけた。妻と2人きりでディナーなどというのは、もういつ以来か分からない。10周年のときも何かしようかと思っていたのだが、当時は子供たちだけ放ってもおけなかったので、結局何もせずじまいだった。コース料理をオーダーしたが、その終盤、メインディッシュを平らげた頃、デザートが運ばれてきたが、そのデザートの盛られた皿を見てビックリ。シェフは我々の結婚記念日のことを知っていたのだが、なんとも心憎い演出で、とても暖かい気分で家路に着いたのだった。P.S. 妻へ今までいろいろとありがとう。そしてこれからもよろしく。.......って言ったところで、このブログは見てないんだよね(だからこそ言えるのかな?)
2010年02月15日
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現在ウチの店の倉庫を潰して、駐車場にすべく工事を進めているのだが、その際にちょっとしたハプニングがあった。まず倉庫の建物を撤去し、続いて地面のコンクリートを剥いでいったのだが、その間の振動がハンパでなく、都市ガスが一時的に止まってしまったのだ。ご存知のように都市ガスというものは、地震対策の一環として、ある程度以上の振動を感知すると自動的に止まる仕組みになっており、工事の振動がそのレベルに達していたのだろう。何度も復旧を試みたが、なかなか元通りにならない。それが工事が終わってからも復旧しないものだから、さすがにおかしいということで、ガス会社に電話して、診に来てもらった。ほどなくしてやって来た係員が調べたところ、何とあろうことか、ガス管が途中で切断されていたのだ。どうも工事中にコンクリートを切る際に、誤ってガス管まで切ってしまったようだ。振動が原因かと思っていたこと自体、違っていたわけだ。さあ困った、時はまさに夕食の時間だし、我が家はガスファンヒーターを使っているので暖もとれない。ガス会社の係員の懸命の努力の甲斐あって、何とか当日中にガスが使えるように応急処置をして頂いたが、この間約4時間ほどガスが全く使えなかった。結局夕食が作れずに、急遽ホカ弁を買ってくる羽目になったが、とりあえず実害はそれだけで済んだ。しかしもし翌日まで直らなければ、一家揃って凍えていたところだった。
2010年02月12日
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と言ったかどうか知らないが、経営統合を断念したキリンとサントリー。サントリーが今までずっと非上場を貫き通して守ってきたものを考えれば、ただ単に「勝者連合」という動機だけで他とくっ付くはずは無い、と思っていたが、案の定やっぱりまとまらなかった。だいたい我々現場の人間は、この両社のカラー、対応、セールスの資質などの落差を肌で感じているから、これで合併できるなら天地がひっくり返っても不思議ではない、などと思っていたものだ。確かにこの2社がくっつけば、カタチの上ではグローバルな競争の中で、他のライバルに比肩し得る規模にはなるだろうが、会社の合併というのはそれだけの要素で計れるものでも無いだろう。そこには将来的にどんな会社にしたいのか、しかもそれが顧客の立場からどのように見られたいのか、といった根本的なビジョンが全く感じられなかった。今回のことは後になって振り返ったとき、あの時拙速に合併を推し進めなくて良かった、ということになりそうな気がする、当事者にとっても消費者にとっても。
2010年02月09日
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先日、中学校時代の同級生(仮に「A君」)のお母様が亡くなったという知らせを聞いた。私自身、彼のお母様には結構可愛がって頂いてたので、告別式に行った。ところでこういった訃報というのは、受け取ったらまた別の関係先に知らせるということを繰り返しながら、多くの人の耳に入るわけだが、では果たして自分が誰に知らせるべきか、というところで、ちょっと考えてしまうような微妙なケースもある。実は私も、他の誰かから訃報を知らされたところで、実は故人もしくはご遺族とあまりお付き合いがなかった、ということもあったりするが、知らせを受けて式に行かないのはちょっと気まずいようなケースもあり、対応に苦慮することもままあった。私も今回この訃報を受け取ったとき、ふっとある別の友人(仮に「B君」)の顔が浮かんだ。B君に知らせるべきかどうか、考えた。しかし私の知る限り、このB君はA君とそれほど深い付き合いではなかったように記憶していたので、「まぁ、いいか」と思ってあえて知らせなかった。そして式が終わったあとでたまたまこのB君に会う機会があり、その際、「A君のお母さんが亡くなったよ」と告げると、こちらの予想に反してB君は「えぇーーーーっ!!!」というものすごい驚きよう。そして私が告別式に出たことを告げると、大変な落胆振りだった。私には何も言わなかったが、その顔からは「何で知らせてくれなかったんだよ!」という表情が見て取れた。聞けばB君は、亡くなったA君のお母様ともそれなりのお付き合いがあったようだが、それは私の知るところではなかった。B君には本当に悪いことをした。故人とのお別れは一度きりのことだから、チャンスを逃せばあとあと後悔することになる。そう考えると訃報連絡は躊躇するべきでは無い、改めてそう思った。結果的に不必要であったとしても、それで大して迷惑になるということは無いからね。
2010年02月07日
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引退を決めた朝青龍が泥酔して暴行を働いた一件で、一部の報道によると、朝青龍が「頑張ってください」と声を掛けられたことに対して、「オレに向かって頑張れとは何事か!」と激昂したことが引き金となった、と報じられている。別に彼を擁護するつもりはサラサラ無いが、それでもこの場合の「頑張ってください」という文句が、必ずしも適切だったかというと、そうとも言い切れない。そういえばここ最近、「頑張ってください」とか「頑張れ」と声を掛けることに関して、否定的な声が多くなっているように思う。例えば病気を患っている人に「頑張って」と言うことは、とても酷なことだ、とか、精神的に病んでいる子供に「頑張れ」と言い過ぎて、かえって追い詰めてしまう、とか、昔なら普通に「頑張れ」と言っていたケースでも、タブーとして見られることが多くなってきたように思う。そもそも「頑張れ」と言うということは、ともすればその人が「頑張っていない」ことが前提であると感じさせる。あるプロ野球球団のオーナーが、新外国人選手に対し「頑張ってくれよ」と言ったところ、「オレはいつも頑張ってんだ!」とひどく怒らせてしまった、という話も聞いたことがある(もっともその時通訳氏は「Do your best」と訳してしまったらしいから、それじゃ怒るのも無理はないかもしれないが)。そしてちょっと“上から目線”的なニュアンスも感じる。いかに丁寧な言葉遣いで「頑張ってください」と言われたところで、目下の者に言われるのはなんだか違和感を感じる。私自身も、言われてカチンと来たこともあったし、自分からは出来るだけ使わないように気を遣ってきたつもりだ。しかし知らず知らずのうちに、「頑張って」とつい口にしてしまうものだ。それに今のところ、それに替わる適当な言葉が無い、というのも事実だ。「頑張れ」という言い方が、一体いつ頃から使われ始めたのか知る由もないが、もうすでに日本人の頭脳の中に、根深くプログラミングされているかのようだ。代替案を自分なりに考えてみるが、目上の人やスポーツ選手に投げかける言葉としては、「ご活躍(ご健闘)をお祈りしています」というところだろうか?これにしてもちょっとまどろっこしい言い方だ。目下の者へは「しっかり!」というところが無難かな?不適切だと分かっているのに、代わりが見つからないというのも、実に歯がゆいものだね。
2010年02月05日
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民主党が高速道路無料化の第一歩として、今年6月をメドに全国37路線50区間を無料化すると報じられた。しかしザッとその区間の一覧を見てみると、本当にこれで効果があるのか、あるいはその意図するところは何か、そのあたりがサッパリ解らない。そもそも高速道路無料化の話が浮上するたびに、いつも考えさせられてしまう。いったいそんな必要があるのだろうか?今までの「1,000円高速」政策で既に実証されていることだが、不要不急の使用が増えて渋滞はより激しくなるし、競合する他の交通機関には少なからず影響が出る。フトコロの寂しい一般庶民にとっては、とりあえず安くなれば助かるのは事実だが、それだけのことですべて良しとできるほど世の中甘くないのは、デフレスパイラルの論理とも共通するだろう。いっそのことすべてのクルマを無料にするのではなく、「大型トラックなどの物流車だけ無料」にするというのはどうだろう?無料であれ割引であれ一般車を対象とすると、クルマを持つ者と持たない者との間に不公平が生じるが、物流車がタダになれば全体的な物流コストが下がり、その結果物価も下がって、すべての人が等しくその恩恵に浴することが出来るのではないか。メリットはまだまだある。現状では高速道路と併走する一般道を走っているトラックも多いと聞くが、それが一般道の渋滞を引き起こし、場合によっては重大な事故につながる可能性もある。そんなトラックがみんな高速道路を走れば、一般道が生活道路としてもっと使いやすくなるだろうし、トラックも一定速度で走ることによって、燃費の向上につながるだろう。そして一般車は、これまでどおり有料で走る。もっとも今の高速料金は高すぎるとの批判もあることだし、もう少々低めの設定にする必要があるかもしれないが、ドライブ需要を喚起するまでに引き下げる必要は無い。高速道路というものは、あくまでも必要が生じたときにそれなりのコストをかけて利便性を享受する、それ以上でもそれ以下でもない、そんな存在であってもらいたいものだ。景気対策などの政策の道具にするのは、ちょっと筋違いではないかと考える。以上、所詮は素人の机上論に過ぎないが、ぜひ政府には一考していただければと思う。
2010年02月03日
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