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またまた今年もドラフトが物議を醸している。事実上“ジャイアンツ逆指名”の東海大・菅野投手を、日本ハムが昨年に続いて強行指名することはさすがに無かったが、今年はメジャーリーグ挑戦を表明している花巻東・大谷投手を強行指名した。大谷投手はこれを蹴ってメジャーリーグに行こうが行くまいが、それは彼自身が決めることだからどうでもいいと思うが、もしメジャーに行った場合は、帰国後3年はドラフトに掛けられない=日本球界に入ることができない、ということになる。いわゆる「田沢ルール」という申し合わせだ。ところがここへ来て、その申し合わせ自体を見直してはどうか、という意見が出てきているらしい(→詳しくはコチラ)。大谷君のような逸材を、メジャーで大成しなかったからといって3年間も遊ばせといていいのか、ということなのだろうが、それじゃ一体ルールなんて何のためにあるのか?私としては開いた口がふさがらない。以前にも何度か書いたことがあるが、私はドラフト指名を拒否した選手には、すべからく3年程度の「指名停止」期間を設けるべきだと思っている。それは例えば菅野投手のようなワガママを許さないためのルールだが、それがなければドラフト制度の意義というものが損なわれるからだ。大谷投手のようなケースはちょっと事情が違うかもしれないが、当然例外としてはならないだろう。ただ断っておくが、私は彼がNPBを経ずしてメジャーに行くことを批判しているのではない。彼の判断には、大いに拍手を送りたいと思う。要は手順が間違っている、というだけのことなのだ。彼は一度は「プロ野球志望届け」をNPBに提出している。もしメジャーに挑戦したいのであれば、それを出さなければよかっただけのことだ。まあ彼本人もそのあたりのことは重々承知の上で決断したんだろうから、今さら周りの大人があれこれ気を回してやる必要など、さらさら無いと考える。それをただのご都合主義でやたらと制度をいじくり回すというのは、いかがなものかと思う。もうひとつついでに言うと、今回の件で大谷投手がメジャーを目指すこと自体に異論を唱えるプロ野球関係者が少なくないことには、非常に違和感を覚える。彼らは一様に、「NPBの空洞化」だとか、「メジャーリーグのファーム化」といった文句で、日本プロ野球の人気が低下することを危惧して、選手が海外へ流出するのを力ずくで阻止することを考えている。しかし野茂投手が海を渡ってから十数年が経過するが、はたしてその間にプロ野球人気は低下したのか?私の知る限り、確かにテレビ中継の視聴率は落ちてきているが、人気自体が落ちたとは思えない。逆に地方に散っていった球団などは、地道な努力の甲斐もあって、コアなファンの獲得に成功しているではないか。要は選手のメジャー流出と日本プロ野球の人気との間に、相関関係は無いのである。目の前に高い目標があれば、それに挑戦したくなるのは必然であって、何ら悪いことではない。ましてやサッカー界など、どんどんと有望な選手が海外へ出て行って、活躍しているではないか。野球だけがまるで「鎖国」のような状態を志向することは、時代錯誤も甚だしいのではないか。今後は今以上に「入り易く、出易い」両国関係になれば、なお良いのではないかと個人的には思っている。若くしてメジャー入りした選手は、彼の地で働き口が無くなっても、まだまだ現役バリバリの内に日本に戻って来られる。かつての新庄選手がそうだったように、そんな選手の存在は日本球界にとって、必ずやプラスになるものと思うのだ。
2012年10月28日
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先日3枚組のベストアルバムをリリースした、山下達郎のインタビューを聴く機会があったが、その時にふっと思ったことがあった。彼は、彼の集大成ともいえるベスト盤を、今このタイミングで出したことについて、「おそらく近いうちに、パッケージソフトとしてのCDは無くなるだろうから、それがカタチとして残っているうちに出したかった」というようなことを語っていた。なるほど確かに今日びは、ネットによる楽曲のダウンロードが主流になりつつあって、みんなそれを携帯音楽プレーヤーに入れて楽しんでいる。そういう現状はよく解っているつもりだったが、いざ大御所の口から「CDが無くなる」などということを聞かされても、にわかには信じられない。でも現実はおそらく、我々の想像もつかないようなスピードでやってくることだろう。CDというものが世に出てきたのは、確か1980年くらいだったかと思う。ただしその普及には、やや時間がかかったように記憶している。レコード店やレンタルレコード店において、CDがそのシェアでレコードを凌いだのが、確か80年代の終り頃ではなかっただろうか?ちなみに私は80年代に入ってから、それまでと音楽の嗜好がガラリと変わり、アメリカの古い黒人音楽を好むようになっていた。マイナーなジャンルだけに、世間がレコードからCDに替わり始めていた頃も、「さすがにこんなマイナーな音楽は、CD化の洗礼を受けることはないだろう」と、すっかり高をくくって(?)いた。しかし世間のCD化の流れにさほど遅れることもなく、これらのジャンルも悉くCDに替わっていき、私は自分の見込み以上に現実がもの凄いスピードで移り変わっているということを、身を持って思い知らされた。この例に倣えば、これから何年かの内に、全てのジャンルの音楽が「ノンパッケージ」化していく可能性は否定できない(中古市場は別として)。ただそれがどんな世界なのか、今の段階ではなかなか想像がつかない。例えば、ジャケットはあるのか、ライナーノーツはあるのか、歌詞はどうやって見るのか、などなど。特にジャケットなんて、ある意味そのアルバムを象徴する存在だから、それが無くなるなんてことはまったく考えられない。それともうひとつ、これはアナログレコードからCDに替わっていく時に感じたことだが、音楽が“軽く”なったということ。音質的な点とか、ディスクの大きさという点だけではない。例えばそれを購入する時のワクワク感も違うし、聴く前に盤のホコリを取ったりする儀式、曲が自在に飛ばせない不自由さ、などという細かな点までひっくるめて、そう感じてしまうのだ。CDに替わるだけでこれだから、これがまったく物体の無い「ダウンロード楽曲」のみの世界になったら、もっともっと軽くなってしまうかもしれない。だいたいレコードにしてもCDにしても、手元に物体があるからこそ、それを“所有”していると言えたわけだが......いや、音楽を“所有”するという概念自体が崩れ去ってしまいつつあるのかな。まあ所詮はアナログ世代のノスタルジアにしか過ぎないのかもしれないが、やっぱりどうにも想像がつかないのだ。
2012年10月21日
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最近、といってもここ数年のことだが、私の体に深刻な変化が生じてきている。昔ほど食べられなくなったのだ。いや、正確に言うと、食べられるが後の苦しさが以前とはケタ違いだ、ということだ。若い頃から私は、体のスタイルに比べて比較的大食漢であった。ランチにいけば「ライス大盛り」はもはや条件反射で、自宅での食事でもひとりだけドンブリで食べていたものだ。もっとも若い頃の食欲がついこの間まで続いていたわけではないが、それでも同年代の男性の平均よりはよく食べていたと思う。それが最近では、トンとダメなのである。ただ、食欲が無いということではない。食欲自体はあるし、食べている間は食が細くなったことなど気にならない。しかしこれが逆にいけないのだろう。要は満腹中枢が脳に至る頃にはすっかり食べ過ぎているわけで、その前に自制をかけなければいけない。それを意識しながら食べないと、後が大変なのだ。具体的には食べてから2~3時間後、急激に疲れが出て、体の節々が言い様のない脱力感に襲われ、そして猛烈な眠気が襲ってくるのだ。食べた後に眠くなるというのは、ある意味自然の摂理なのだが、最近の私の眠気はちょっと度を越していると思う。もうホントに仕事なんかしてる場合じゃない、というくらい眠くなるのだ。まあそれだけ、食べ物を消化する為に余計にエネルギーが必要になってきている、ということなのだろう。自分で意識していなくても、こういうところで歳をとってきたことを実感させられるのだ。もっともこうやって体から黄信号のサインが出ているだけ、まだ良しとしなければいけないのだろうが。
2012年10月07日
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