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「反原発」と「原発推進」、相変わらずいろんな立場からいろんな意見が飛び交っている。私自身はといえば、理念としては「反原発」なのだが、だからといって全原発を停止した場合の、今後のエネルギー供給に関する混乱を考えると、確かに現実的ではないかもしれない、という危惧はある。現時点で世論は、「原発推進」か「反原発」かでスパッと割れてるようなフシもあるが、ここはもうちょっと柔軟に、「減・原発」という選択肢もアリかと思う。社会・経済情勢への影響を見極めた上で、少しずつ電力需要を減らしていって、最終的なゴール地点を「原発ゼロ」に据える、というような。ただそのためには、数字的な判断材料が不可欠だ。実際に今、「反原発」派も「原発推進」派も、自陣の主張を正当化するべく、いろんなデータを提示している。私も「反原発」と「原発推進」、双方の意見をデータと共にいろいろと見聞きしたが、この場合厄介なのが、双方の共通軸が無いということだ。データというのは、本来は客観性の高い物のはずだが、視点を替えることで意味合いが変わったり、あえて「隠す」ことで何らかの意味合いを持たせたりもできる。要するに双方が、それぞれのバイアスの掛かったデータを振りかざしているのだから、こんなことではかみ合った議論など出来るはずはない。今日本に最も必要なのは、どちらの利害からも独立した、第三者的な行司役だと思う。そしてそれが無ければ、永久に結論など出ないと思われる。
2012年05月25日
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大河ドラマ『平清盛』が、俄然面白くなってきた。特に昨日の回は、非常に見応えがあった。舞台は「保元の乱」に差し掛かろうというところだ。ところで「保元の乱」といえば、よくその後の「平治の乱」と一緒くたに扱われることが多い。しかし平治の乱というのは、ある意味“源平の争い”という、はっきりとした対立軸があったが、保元の乱においては、源氏も平家もそれぞれが両陣営に分裂し、“身内同士の争い”を繰りひろげた。今までの教科書レベルでの理解では、それがとても分かりにくかった。何故に身内同士が殺し合わなければならなかったのか?昨日までの何週かにわたって、その伏線が描かれてはいたが、いよいよここに来てその内実が明らかになってきた。もっともあくまで「ドラマ」というフィクションの世界のことなので、史実とは異なる部分は多いかもしれない。しかしこの「保元の乱」という出来事を、教科書の字面だけの説明を超えて、生身の人間が躍動する「人間ドラマ」として体感するのは、おそらくそう滅多にないことではないかと思う。生死を分けるギリギリの判断と、そこに至るまでの様々な葛藤・苦悩........その辺りの描き方には否応なしに惹き込まれた。現代から遥か遠い時代の話だけに、なかなか容易にはイメージしにくいが、こうやって(ドラマとはいえ)ビジュアルで見せられると、やはり捉え方も違ってくる。当時の人々と今の私たちとの間に、感覚の違いはあっても、根底に流れるものは時代を超えて息づいているのだ、ということを思い知らされる。これからますます面白くなっていきそうだ。
2012年05月21日
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ドラゴンズの誇るリリ-フ陣が、今シーズンはパッとしない。言わずと知れた、「セットアッパー・浅尾」と「守護神・岩瀬」の2人だ。岩瀬の方は一応14セーブと、リーグトップの成績は上げているものの、見ていてまったく安定感がなく、すんなりと3人で退けることの方が珍しいくらいだ。浅尾にいたっては、交流戦開幕を前に、ファーム落ちしてしまった。ちなみにドラゴンズは交流戦が始まるまでの38試合で、「20勝12敗6分け」という成績を上げているが、12の負けのうちの3つと、6つの引き分けのうちの3つ、合計6試合は、勝ってる試合で登板した浅尾・岩瀬がリリーフに失敗したものだ。厳密に言うと20の勝ちの中にも、浅尾がリリーフ失敗後の再逆転というのも1試合あるから、浅尾・岩瀬のリリーフ失敗は合計7試合だ。38試合で7試合の失敗.....昨年1シーズンを通してみても、2人のリリーフ失敗を足してせいぜい10試合くらいだった(と思う)ことを考えると、今年の不振ぶりは際立っている。よく絶対的なストッパーに対して監督が、「○○と心中する」という表現をすることがある。それだけ強い信頼感を持っているということの例えだが、個人的にはあまり好きではない。監督たるもの、その場その場での最善を求めて、やれるだけの手を打つ必要はあるだろう。例えば過去には、星野仙一氏がその時々に活きの良い若手を抑えに大抜擢して、成功したことがある。もっともその時の無理がたたってか、皆押しなべて短命に終わった、という結果と表裏一体ではあったが。浅尾・岩瀬とも、言うなれば落合前監督の遺産である。今季からドラゴンズの監督に就任した高木監督が、彼らをどのように扱うかが非常に見ものだ。ある意味、これが彼の手腕を計る試金石になるかもしれない。
2012年05月18日
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テレビを見ていて何がイヤになるかといえば、傷害・殺人などの事件や、過失による重大な事故などに関する報道だ。連日こういったことが立て続けに起こり、それに関する報道も否が応にも過熱している。ただそういった事件・事故の痛ましさがイヤ、というのではなく、その「伝え方」がたまらなく不快なのである。いかにも「犯人憎し」という感情を、これでもか、これでもかと煽り立てるような、過剰なまでの演出、出演者たちの過激な物言い.....。つとめて冷静に、事実だけを伝えてくれれば、それでいい。その後の感情をどう持つかは、受け手に任せるべきなのだ。確かに悪いヤツは悪い、しかしそれを寄ってたかって部外者が叩きまくるのは、はっきり言ってみっともないことこの上ない。人間なんて、いつ何時、どんな拍子に「向こう側」の人間になってしまうのか、わかったものではない。だからといってかばい立てするわけではないが、今のところたまたま、自分が真っ当に生きているからといって、犯罪者をまるで虫けらの如く扱ったりする心の中に、いくらかの「驕り」は無いだろうか?「こんなことするヤツは人間じゃない!」と言われるヤツもいるが、紛れもなく人間なのである。ひょっとすると、自分の身内がそう言われるようなことも、あるかもしれないのだよ。
2012年05月14日
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先日、アカデミー賞受賞で一躍話題作となった『アーティスト』を観てきた。「サイレント映画」という部分がどうしても先行しがちだが、もちろんそれだけのものでもない。まず、ごくシンプルなストーリー。いまどきの映画で、これほどシンプルで仕掛けの無いストーリーのモノを作れば、きっと「面白くない」の大合唱を浴びることだろう。しかし不思議と素直にそれを受け入れてしまう。そして(詳しくは書けないが)その結末も含め、これぞ「旧き良き時代の映画の王道」というくらいの、徹底したアナクロニズム。しかし観賞後の、この満たされた感覚は何なんだろう?やっぱりあらゆるモノには「原点」というものがあって、時々はそこに立ち返って見つめ直さないといけないよ、という「神の啓示」のようなものなのかもしれない。最近の映画は、やれ3Dだの、やれCGだのと、ゴテゴテと作っていくうちに、映像や音声の「情報量」が脳の許容量を超えかかっているのかもしれない。だから見終わった後は放心状態のようになっても、後になってみると「何だったんだろう、アレ?」という気分になることも少なくない。また昨今は特に、テレビのバラエティなどでも必要以上に字幕が溢れ、ただでさえ「情報過多」の世界に身を置いている私達である。それだけに、このような「情報過少」な世界で、五感を研ぎ澄ませながら「行間」ならぬ「表情を読む」という行為が、かえって楽しくて良い。ハリウッドは時々はこんな映画を作り、世に問うて欲しい。そういう意味でも、今回のアカデミー賞受賞はタイムリーだったと思う。
2012年05月08日
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GW初日に関越道で起きた夜行バスの事故は、あまりに痛ましかった。しかし同じ長距離バスの運転手たちがテレビのインタビューに答えて、「いずれこういうことが起こると思っていた」と語っているのを見ると、こんな人達に命を預けていたのか、という、なんともやるせない気持ちがこみ上げてくる。またこのツアーバスの主催会社の社長に至っては、「(一人乗務は)法律で認められている範囲内」ということを強調しているが、責任逃れの口上以外の何物でもない。しかしながらここで、ツアーバスの運転手の実情のひどさとか、ツアーバスの存在そのものに対して、批判的なことばかり言っていても仕方が無い。根源はもっと深いところにある、と思うからだ。突き詰めていけば、今回の事故でもっとも責任の重いのは誰だろう? 事故を起こした当事者である運転手? その運転手に無理な労働を強いたバス会社? そのバス会社に有無を言わせず無理なツアーを組んだ主催会社? ツアーバスのこういったリスクを知りながら放置していた国土交通省? そもそも規制緩和でツアーバスにお墨付きを与えて価格競争を促した当時の自民党政権?どれも正解だと思う。ただそれ以前に、「安価であることを最優先する価値観」がはびこる現在の社会そのもの、それが最も罪深いと思う。そしてその中には当然、私たちも含まれる。ツアー会社もバス会社も、この資本主義の世の中で、生き残っていかなくてはいけない。そのためには様々な選択肢があるが、「価格競争」というファクターが最も有効だ。とにかくデフレ真っ盛りの、今の日本。インパクトのある激安価格を提示するだけでお客は飛びつくし、メディアも取り上げてくれる。というより今のご時世、よっぽどの付加価値が無い限り、他所より高いということは「悪」でしかない、そんなプレッシャーもある。しかしながら法令なり業界の自主基準で定められた枠内では、なかなかそういった掟破りの価格は出せない。それならちょっとぐらいはそのルールから逸脱しても仕方ないか....あるいはルールを侵さないまでも、常識の範囲を逸脱してやりくりするのも手か........そういう考え方に陥るのも、会社を存続させるためには無理からぬことなのかもしれない。高速バスなどの輸送の分野に限らず、モノやサービスの価格を下げるためには、誰かがどこかで無理をしなくてはいけない。経営者自らが身を切るならいざ知らず、時には納入業者や下請け業者にそれを強いることも少なくない。つまり乱暴に言えば、私たちが普段、「やっぱり安いに越したことはないよね~」などと言っている陰で、誰かが確実に無理を強いられているとも言える。それを知らないだけなのだ。でも気づいてみれば、日本中がみんな無理をしていた....そんな状況に陥っているのかもしれない。こんな社会で良いわけはないと思う。一方的に激安を謳う業者を非難するのはさすがに気が引けるが、とりあえずはマスコミなどがそういったトレンドを礼賛している今の現状は、絶対に改めるべきだ。マスコミとしては「消費者ニーズを追い求めた結果」と言い訳するだろうが、それはまやかしだ。確かに視聴率が伴えば「支持されている」という錯覚も覚えようが、芸能人の離婚ネタと同じで、誰も詳しく知りたがっていないのに無理やりニーズを仕立て上げる感覚で報道すると、いつの間にか話題になっていた、そんな世界ではないだろうか?いまひとつは我々消費者が、あまりに極端な安値に接した場合、すぐに手放しで喜ぶのではなく、多少は訝ってみるということも必要かと思う。極端な安値を実現させるためには、コスト削減が欠かせないわけだが、そのウラには必ず何かよからぬことがある、ということを、私達はしばらく前の「雪印などの賞味期限偽装事件」、「中国産ギョーザ毒物混入事件」、「事故米流通事件」などで痛いと言うほど身に沁みて分かっているはずだ。そしてそんな中で、安全なものを口にしようと思ったら、少々高くてもそれを「安全のためのコスト」と思わなきゃいけない、ということも、以前のブログに書いた。今回のバス事故の場合も同じことだと思う。確かに格安ツアーバスがこれまで、消費者の利益に大きく寄与してきたことは、それはそれで認めなければいけないだろう。しかしその一方で、「安全」とか「安心」を最優先するならば、それなりの料金を支払わなければいけないということも、改めて認識しないといけない。そして私たちが普段の生活の中で、あまりにも安値を尊び過ぎていないか、今一度振り返りたい。
2012年05月02日
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