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2月28日 「ビスケットの日」全国ビスケット協会がビスケットの日として制定。「1855年(安政2)」2月28日パン製法を学ぶ為に長崎に留学していた水戸藩の柴田方庵が、同藩の萩信之助にパン・ビスケットの製法をかいた「パン・ビスコイト製法書」を送りました。これが、ビスケットの製法を記した日本初の文書とされています。ビスケットとは、フランス語で「2度焼く」という意味をもじり、「に(2)どや(8)く」の語呂合わせの意味もあります。ビスケットには、二種類あります。表面に穴があるサクサクした「ハードビスケット」と、穴のない柔らかい「ソフトビスケット」があります。この二つには、明らかな違いとして材料面では、ハードは中力小麦粉を使っており、ソフトは薄力小麦粉を使用しています。ハードは、生地に粘りが有り脂肪分が少なく、堅く仕上がります。その上、ハードは穴を開けずに焼くと、生地の中にガスがたまって表面が盛り上がり、平形に出来上がりません。その為、焼く前に表面に細かい穴を開けておく必要があります。よく似たものとして、クッキーがあります。日本国内では、ビスケットは「小麦粉・糖類・油脂を主原料にして焼いた物」クッキーは「手作り風外観で、糖分・脂肪分の合計が全体の40%以上」と定義づけられています。驚く事に、この製造基準は日本国内だけの区別であり、海外ではまったく関係なく呼ばれているようです。ヨーロッパから日本に小麦粉を焼いたお菓子が紹介された時には、「ビスケット」アメリカから日本に小麦粉を焼いたお菓子が紹介された時には、「クッキー」と呼ばれていたようです。この事がきっかけとして、2つの名前が誕生。調査資料、社団法人 全国ビスケット協会(Japan Biscuit Association)に飛びます。 【海外おみやげ】フランス編<フランスの逸品>プラーおばさんの缶入りビスケット2缶セット 【世界おみやげ】ベルキー編ロータスカラメルビスケット4缶セット スペインビスケット3箱セット (海外お土産・おみやげ)0225アップ祭10 イギリスヴィレッジベーカリービスケット 3箱セット パンフォルテクッキー 3箱セット スウェーデンアンナビスケット 12箱セット画像見ただけで、そのまま食パンを口に入れた様な、水分を奪われる感触がします。携行食として、主食にも値しますね。
2006年02月28日
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八重山の民話「津波を報せた人魚」『釣りの最中、釣られた魚の方から糸をたぐる様に感じる手応えがある時、人魚であるかも知れないから、すぐに糸を切り、舟を港に返さないと怖い事が起こる』と、波照間島には、こんな言い伝えがあります。そのいきさつはこうです。昔々、三人の漁師が遠く離れた沖で舟釣りをしていました。この舟釣りは、釣り竿を使わず、糸に仕掛けを付け手繰り寄せる漁法です。しばらくして、一人の釣糸に手応えがありました。しかし、いつもと違う感覚を覚えました。通常、魚は逃げようと暴れ回ります。が、逃げようと引き回すのではなく、逆に糸を手繰って上がって来る様でした。しかし漁師達は、「今までに無い大物だ。」と、かかった歓びが大きく、いつもと違う感触である事に気が付きませんでした。糸を手繰り寄せると、海上に何やらふわっと髪の毛のような物が浮かんできました。漁師達は、「うわぁ これは大変だ。水死人を釣り上げてしまった」そう思い、糸を手放しました。全体が浮き上がると長い髪の女の姿をしています。良く見るとそれは人魚でした。人魚は、三人の漁師に、こう言いました。「どうか どうか私を舟に引きあげて下さい。お願いします」と、舟べりに手をかけて言いました。漁師達は、怖いやら、驚いたやら、迷っていると、人魚は泣きながら「舟に乗せてください」と懇願しました。あまりに熱心に人魚が頼むので舟に引き上げました。その人魚の姿とは、上半身がまぶしいほど美しい女の姿でしたが、胴体から下は魚のウロコで覆われています。しかも、人間と同じ様な足が二本あり、足先には尾ヒレがあります。立ち上がる事も、歩く事もできるようです。「迷惑を掛けるつもりはありません。ただ、あなた達の住む島に連れていって下さい」と人魚は、漁師達に言いました。それまでは不気味に感じていた漁師達も、人魚のきれいな顔を見ているうちに、だんだん慣れて親しみを感じ、島に連れて行く事にしました。しばらくして、人魚を乗せた舟は島に着きました。人魚は、始めてみる島の景色に驚きながらも、あちらこちらを見て歩き廻り、その内に島の人達も人魚を見たさに集まって来ました。島中では、「人魚があがったぞ。美人な人魚だぞ」と、大騒ぎになりました。ちょうどその頃、丘の上にいた老人が沖の方を眺めていました。すると沖の方から低い不気味な海鳴りの音が聞こえ、遠くに大きい山のような波が見えてきました。老人は、叫びました。「大変だー 津波が来るぞ。おーい 津波が来るぞ」と、大声で島の人達に知らせましたが、人魚に夢中になっている島の人達は気付きません。どんなに叫んでも、一向に気付きませんでした。ようやく老人の知らせに気が付き、人々は慌てて島の一番高い所に先を争って逃げました。島人は、慌てふためいている最中、人魚だけは嬉しそうな顔で、おいでおいでと津波を手招きして、沖の方に向かって泳いで行きました。やがて、その姿は津波の中に消えていきました。大きな津波が島に押し寄せました。だが不思議な事が後でわかりました。津波が襲った地域は、人魚が歩き廻った所に限定されていたそうです。蛇足)琉球国から八重山に命令として、人魚(ジュゴン)を捕獲して献上する一種の「税」がありました。貢納品でした。現代の状況(基地問題)などを考えると、心境は複雑ですね。 持ち歩きに便利な個包装 沖縄波照間産さときび黒糖 泡波 30度 600ml 沖縄“七島”黒糖(与那国・波照間・粟国・西表・小浜・多良間・伊平屋)気軽にちょこっと食べ... 『在庫処分』沖縄波照間島産100%黒糖蜜650g 『17年産』厳選!【沖縄県黒砂糖工業会黒糖マーク】小浜島産(300g)口に含むと、甘く後味がハチ... 『17年産』厳選!【沖縄県黒砂糖工業会黒糖マーク】波照間島産口に入れると、硬めでジャリジャ... 琉球の7つの島で育ったサトウキビを贅沢に使った七島黒糖
2006年02月27日
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宮古島の民話「ムティアガラ」昔々、ムティアガラという貧しい男が、独りで海辺の岩屋に暮らし、近くにある荒れ地を開墾しては、沢山の粟を実らせていました。 ある日、村御主(ムラウシュ)〔村地主・村長〕の三人娘が、揃って遊び出て、偶然ムティアガラの畑にやって来ました。上の二人の娘は、「あの貧乏人ムティアガラが、こんな上等の粟を育てているさっ」と言って、わざと粟畑の真中を踏み荒らして通って言いました。 それを見た末の娘は、「アッカイー〔なんてことよ〕ムティアガラは、貧乏だけど苦労して粟をこんなによく育てているのに踏んで通るなんて」と言って、粟を踏まないように畑の端を歩きました。 二人の姉は、家へ帰るやいなや、末娘の事を御主父親に、こう告げ口しました。「末の妹は、ムティアガラを夫にしてるはずよ。こんなした子を家には置けないから、早く追い出してください。」それを聞いた父親は、末娘を呼びこう言いました。「ムティアガラのような貧乏人と一緒になっている者を家には置けない。とっとと出でゆけ。」と言いました。 末娘は、泣きながら家を出ますが、何処にいく当ても無く、ムティアガラの家に行きました。そしてムティアガラに、家から追い出された訳を話しました。ムティアガラは驚いて、「偉い御主の娘と僕のような者とは一緒になる事ができましょうか」と言いました。 末娘は涙声で、「私には、もう帰る家がありません。一緒に、ここに住まわせてください。」と頼みました。 そう言われてもムティアガラは困ってしまって、「あなたのような身分の高い人が、僕と一緒に居られましょうか。ナベ・釜・筵(むしろ)も、なんにもないこのような家に、とても住めないでしょう」と断るります。しかし末娘は、「私できます。急いで筵も鍋も探してきますから、大丈夫です。」と、言うので二人は一緒になりました。 ある日、その妻が薪を拾いに洞穴から浜へ出てみると、何か黒く光るものが沢山落ちていました。よく見るとそれはお金だったので、それを家に持って帰りました。 「あの浜に、こんな沢山お金が落ちてましたよ。これで筵も鍋も買いましょうね」と喜んで言いました。ムティアガラは、「こんな物なら沢山持ってるよ。だからこれをこう投げて、飛んでいる鳥を落したりしてたんだ」と、言いました。妻は、早速そのお金で筵や鍋を買ってきました。 二人は幸せに暮らしていました。 ところが父親の御主は、面白くありません。「あのような者といつまでも一緒にさせておくわけにはいかない。奴が我が家の婿では、私の面目が立たない。あの男を沖縄首里(ウチナーシュリ)に連れて行き苦しませながら、死んでもらおう」と考えました。御主は、ムティアガラに言いました。 「沖縄(ウチナー)に連れ行く、すぐ準備なさい。」 その時代は、ムティアガラのように身分が低い者は、御主に逆らう事など出来るはずありません。ムティアガラが沖縄に連れて行かれることを心配した妻は、小さな袋をムティアガラの首に掛けて、こう言いました。「父はアナタを沖縄に連れて行き、うんと苦しめた後、殺してしまおうと計画しているようです。木製の斧(金属刃の無いオノ)で、薪割りをさせるハズだからその時は、この袋の中の龍糞(りゅうふん)を少し斧の木刃に擦り付けてください。それからどんなに薪割りをさせられても、その龍糞を少しずつ舐めていると元気が出ますからね」と言いました。長い船旅の末、沖縄御主(琉球王)のところに連れてこられると、ムティアガラは着いたその日から七日七晩、一口も食事を与えられずに木オノで薪割りをさせられました。 ムティアガラが木オノに龍糞を擦り付けると、木斧なのに堅く太い木でも、面白いように割れました。また、七日七晩食べなくても龍糞を少し舐めるだけで、元気に過ごせて休まずに薪割りができました。「なんと、琉球王は恐ろしい方だ。だけど、この薪割りも面白い」と、踊る様に薪を割り続けました。沖縄御主は、宮古から来たムティアガラが七日七晩食事なしに、踊る様に楽しんで木斧の薪割りをしていると聞いたので「そんなして元気でやれる者など居ないハズ。一般人と違うのか。すぐに呼びなさい」と、家来に連れてこさせました。 沖縄御主は、ムティアガラを見て「お前は何も食べずとも、陽気に薪割りを続けている。何故にそんな事が出来るのか不思議だ。おや、お前の首に掛けてる物を見せなさい」と言いました。ムティアガラは、龍糞の入った袋を御主に渡して、こう言いました。「それは、妻が持たせてくれたモノです。それを木斧に擦り付け、それを舐めて私は過ごしていました」袋の中の物を見た沖縄御主は、「嗚呼、こんな大事物を持つ者を、企んで殺そうと連れてこさせたな。この宝を持つ者は、タダモノではないハズ。殺す事など出来ようか。」「お前には、義父よりも位の高い〔宮古と八重山の御主の役〕を与えて故郷に返すから、そのつもりで帰宅の準備をしなさい」「故郷宮古に帰るお前の船として、ムティアガラだとわかる飾り付けと宝物を積んだ船を詫びを兼ねて授けよう」と言いました。それから彼を連れて来た義父である宮古御主には、「この者は、タダモノではないハズだ。宮古へ帰るときは位が高い彼の船が先になり、お前の船は後になりなさい」と言いました。ムティアガラが沖縄に来る時は、ボロ着物を着て、荒縄を締めていました。それが、宮古に帰る時は、義父より位の高い「御主宮古」と「八重山の御主」を統括する長になり、絹着物を着て、沢山の宝物を積んだムティアガラ所有の船で胸を張って帰ってきました。宮古の張水港は、沖縄から帰ってくる船を待つ人でごった返していました。ムティアガラの妻は、「もう夫は、殺されて帰ってこない。」と思いながらも、ぼんやりと先頭の一番大きい船を眺めていました。「おーい、ムティアガラの船が入ったぞ」と言うので、その旗が上がっている船に近寄って見ると船の甲板にキリッと立つ人の姿を見つけました。 それは、御主になったムティアガラ本人でした。 それ以降、ムティアガラを憎んでいた義父も彼の事を、「あの男は一番だ!」と自慢するようになりました。 御主になったムティアガラは、妻と一緒に一生を幸せに暮らしたということです。 漢方製剤 ホエキンS〔補中益気湯エキス錠〕 540錠 【送料無料】(医薬品) 【マラソン※0211】肝臓水解物ビタミンB15配合新へパリーゼプラス 300錠 JPS-70 十全大補湯(じゅうぜんだいほとう)エキス錠 260錠(5個購入につき1個サービス!) 漢方薬!滋養・強壮・精力!海馬補腎丸 300錠 医薬品 【0225アップ祭10】救心製薬 霊鹿参(れいろくさん) 84カプセル 人参牛黄 4カプセル(医薬品)ここに紹介した漢方は、薬品ですのでご注意ください。
2006年02月25日
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沖縄民謡「白雲節(シラクムぶし)」(三下げ)白雲(シラクム)ぬ 如(グトゥ)に身(ミ)ゆる あぬ島(スィマ)に翔(トゥ)び 渡(ワタ)てぃ見(ミ)ぶしゃ羽(ハニぃ)ぬ 有(ア)とーてぃ〔白雲の様に見えるあの島に、飛び渡ってみたい、羽があったならば〕飛(トゥ)び鳥(トゥイ)ぬ 如(グトゥ)に自由(ジユ)に 翔(トゥ)ばりてれー毎夜(メーユル) 行(ん)じ 行逢(イチャ)てぃ語(カタ)れーすすぃが〔あの飛ぶ鳥の様に、自由に飛べたならば、毎晩飛び出ては、逢い語りたい〕我(ワ)が 思(ウムゥ)る里(ンゾ)や白雲(シラクム)ぬ 如(グトゥ)に見(ミ)ゆる あぬ島(スィマ)ぬなふぃん あがた〔私の愛しく思う貴女は、あそこに見える白雲の様な島の、さらに越えたその先の島〕我(ワ)がや 思(ウ)み尽(チク)すだきに思(ウム)ゆしが 渡海(トゥケ)ゆ 隔(フィジャ)みりば自由(ジユ)ねならん〔私が私の想いを尽くす限りの、この愛しさが、海の隔たりで自由にはなりません〕たとぅい 渡海(トゥケー)隔(フィジャ)み離(ワカ)りやいぅてぃん 白雲(シラクム)に 乗(ヌ)してぃ思(ウム)い 知(シ)らさ〔例え遠く海を隔てていようとも、離れ離れになっていようとも、あの小さな白雲に想いを乗せて、この想いを伝え知らせよう〕一人(フィチュイ)淋淋(サビサビ)とぅ眺(ナガ)む 見(ミ)る 雲(クム)ん里(ンゾ)姿(シガタ)なとてぃ忘(ワシ)りかにさ〔独り、さみざみしく見る雲も、貴女の姿に見えて、忘れる事が何でできましょうか〕
2006年02月24日
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今日は「風呂敷(ふろしき)の日」京都ふろしき会が、2(ツー)2(ツー)3(ミッツ)『包み』として、2月23日に制定しました。その歴史も長く、古くから繰り返し使える、環境保全に役立つエコロジーな便利グッズですね。その価値を広くアピールしようというわけですね。風呂敷は、風呂(銭湯)に持ち込む着替えやお風呂グッズを包む布でした。<雑記事>お風呂(バスタブ)の事を「湯船」とも呼びますね。湯をその中に張るのに、船なのですよね。これは江戸時代の銭湯の事情に関係している言葉のようですよ。昔々は、今の様に家湯(風呂場)が、各家庭にあったはずも無く、通常銭湯へ出かけていました。湯を張り、その中に浸るというスタイル(温泉・湯治場)の様に、一般的な銭湯で行われるようになったのは江戸時代後期でした。それ以前は、基本的には蒸し風呂が主流とされていました。そのような時代、銭湯の新しい形態として、港湾や川筋に移動銭湯が出現し話題になりました。「移動銭湯」とは、港や川に係留した船の中に浴槽を造り、湯を張り入浴するものでした。流れる湯を気にせず、ゆったりと浸かり、風呂の移動屋台とでも言いましょうか、これこそ「湯船」ですね。その後、通常の銭湯でもお湯を張った物が出現していきますが、従来の蒸し風呂と区別をつけるため、湯を張った風呂の事も「湯船」と呼ぶようになったそうです。 熨斗目 風呂敷 白山紬 別染め 三巾(みはば)風呂敷【送料無料】 沖縄にもありますよ紅露染うちくい 正絹ちりめん友仙ふろしき五山(二四巾) 光る海 古典的で今らしい。板谷なおみのちりめんの世界をお楽しみ下さい。【風呂敷】板谷なおみちりめ... 遊び心いっぱいの、「和」を主張したデザインです。ファッションにもインテリアにもどうぞ!【... 遊び心いっぱいの、「和」を主張したデザインです。ファッションにもインテリアにもどうぞ!【...
2006年02月23日
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「食糧管理法公布記念日」通称(食管法)1942(昭和17)年、2月21日「食糧管理法」(食管法)が公布されました。食糧管理法と食糧法(しょくりょうほう)のおもな違い『食糧管理法』とは、米の生産者から国が買い上げ、それを売っていくことを基本としていました。米流通に関して、たいへん厳しい決まりがあり、米の取扱いができるのは、国の指定や県の許可(きょか)を受けた一部の人に限定されていました。『食糧法』とは、食糧管理法に代わり、「平成7年」から制定された食糧法では、国が買い上げるのではなく、農家や米流通業者たちが、自由にお米を売ることができるようになりました。米の流通に関する取り決めも緩められ、誰でも一定の条件を満たせばお米を取り扱うことができるようになりました。
2006年02月21日
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今日は「旅券の日」「1878(明治11)年」2月20日『海外旅券規則』が外務省布達第1号として制定され、「旅券」という言葉が初めて法令上使われ、これを記念しています。海外旅行に必ずいる物としてパスポートがあります。パスポート(passport)という言葉は、海港(sea port)だけでなく、都市城壁の門(porte)を通過するために要求された中世の文書が起源と考えられています。その役割は大きく、日本政府が海外であなたが日本人であることの証明と、あなたの氏名・年齢などを証明する国際的身分証明書でもあります。また、万一何かが起こった時に、その国の政府に対してあなたに必要な保護と援助を与えるよう要請する重要な公文書でもあります。旅券は、一般に国家間で移動する場合に必要なものであり、査証(ビザ)は旅券に刻印か貼付されます。査証が渡航先の政府による出入国管理であるのに対し、旅券は渡航元政府による出入国管理の役割を果たしています。旅券に関する標準文書はICAOにおいて制定されている。国内では、一般的な身分証明書としても利用する事ができます。1920年代までは、パスポートは一枚の紙きれでした。現在の冊子形式のパスポートは、英国の市販製品を参考に、数年かけて英国政府が、このデザインをコピーしたものです。その作りは、入出国スタンプを捺す為の冊子が入り、パスポート用の小さなポケットを備えた革の小物入れでした。パスポートの語源となる中世ヨーロッパでは、かかる文書を、地方当局より誰にでも発給することができ、通常所有者に通過を許可した町や都市のリストが含まれていました。このシステムは、1860年代までフランスで続いていました。しかし、この時代は開かれた貿易地点であると考えられた海港への移動では、パスポートはあまり求められず、内陸の都市へと移動する際必要となった。〔ポートは港と解釈しない方が良いのかな〕初期(20世紀初頭頃)のパスポートは、多くの場合、所有者の身体に関する記述を写真とともに、記載していた。〔画像に問題ありの為か〕日本のパスポート(旅券)について公用旅券として日本では、旅券法及びその施行令・施行規則によってパスポートに関する事項が定められています。「(一般)旅券」「公用旅券」「外交旅券」3種類のパスポートがあります。「(一般)旅券」最も一般的なパスポートです。有効期間5年用の紺色有効期限10年用の赤色の2種類があります。成人者は、どちらにするか選択できるが、未成年者は5年用しか取得できません。現在は、期限内なら何度でも出帰国できる「数次旅券」が原則ですが、以前は1回渡航のみに使用できる「一次旅券」も自由に申請・取得できました。(法令上、一次旅券制度自体は残っているが例外的運用となっています「一次―」「数次―」の表記がありました)「公用旅券(OFFICIAL PASSPORT)」公務で外国へ行く者に交付されます。表紙に「OFFICIAL PASSPORT」と緑色の表記があります。主に、派遣地までの往復の一次旅券が原則です。しかし例外として、渡航が頻繁な者に限り数次公用旅券が発給され、またヨーロッパなどへの派遣の場合、申請によって渡航先を増やす事も出来ます。「外交旅券(DIPLOMATIC PASSPORT)」外交官や外交団、皇族・大臣等の政府高官に交付されます。表紙に「DIPLOMATIC PASSPORT」と濃茶色の表記があります。主に、一次旅券が原則ですが、渡航が頻繁な者(職業外交官など)に限って数次外交旅券が発給されます。どの旅券にも、日本の在外公館において事実上の国章として、菊花紋章(十六弁八重表菊紋)に似せた「十六弁一重表菊紋」が、表紙中央に印刷されています。この他に、渡航先で旅券を紛失して再発給を待つ時間がないなど理由がある人に交付される「帰国のための渡航書」や、帰りの航空機又は経由地の空港等でパスポートを紛失した場合等に交付される「帰国証明書」等があります。近年、世界規模の身元確認による安全性の向上として、パスポートにICカードを組み込み、生体認証情報を記録しようとする動きが起こり、今年、2006(平成18)年3月20日より、ICチップ内蔵型旅券の発給が決まり、現在受付が開始されています。この様なデザインICチップ内蔵型旅券です。飛ぶリンク先は、pdf形式ですので、多少扱いにくくなりますm〇m
2006年02月20日
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「万国郵便連合加盟記念日」「1877(明治10)年」2月19日日本が、郵便の国際機関である『万国郵便連合(UPU)』に加盟した日を記念しています。万国郵便連合とは、1874(明治7)年に発足され、日本は独立国として世界で23番目であり、アジアでは、いち早く最初に加盟しました。戦前に脱退し、1948(昭和23)年6月1日、再加盟しました。〔蛇足記事〕1968年7月1日郵便番号制度が始まりました。理由として、郵便局の発送地仕分け作業を円滑化する為に制度化されました。しかし実施当日の投函郵便物43万通の内、郵便番号がきちんと書かれていたのは17万通で全体の約4割でした。噂ですが、南極昭和基地は日本の所有地扱いなので、国内料金で葉書を送ることができるらしいです。書籍小包の封筒の切り欠けは、書籍以外のものを送っていないかどうかチェックするためのもの。 同じく、最近ではCDの発送も切り欠けをして郵便窓口に持って行くと割引されます。ちなみに昨日は、「エアメールの日」でした1911(明治44)年2月18日初の飛行機による郵便物運搬が開始されました。インドのアラハバードで開かれていた博覧会会場から、8km離れたナイニジャンクション駅まで、6000通の手紙が飛行機で運ばれました。これは博覧会のアトラクションとして行なわれたもので、ナイニジャンクション駅からは普通に列車で運ばれました。こんなギャグ「えぇ えぇ みんな私が悪いのよ。ポストが赤いのも私のせいよ。」なんてね。郵便ポストの色は、、、「赤」ですが、他国でも1番多い色は「赤」です。次いで「黄と橙」「青と緑」の順になっています。基本色は信号機の色と同じですね。実はこの3種類の色は光の波長が長く、遠くから識別しやすいと言う理由からきています。昔、黒いポストがあったそうな。当時、郵便差し入れ口から用を足す、つまり小便をする者がかなりの数でいたようです。公衆トイレは完備されておらず、用足し場と勘違い、郵「便箱」というわけで、便所と間違えたと言うが、定かではありません。最近の話しとしては、1996年秋ごろ、一部ですがイタリアの郵便ポストの投入口が1ミリ以上の物は入れることが出来ないタイプに変更されました。これは、ポストの中にゴミや煙草などを入れるケースが続出しているための処置です。日本でも、昨年暮れにポストに火種を入れて、年賀状を燃やす事件が数件ありましたね。eメールより「少し気持ちを込めた」リアルメール電報や手紙・葉書が、少しづつですが見直されていますね。
2006年02月19日
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「冥王星の日」「1930(昭和5)年」アメリカ・ローウェル天文台のクライド・トンボーが、1月23日と1月29日に撮影した双方の写真を比較研究し、太陽系第九惑星・冥王星を発見した。内側の天王星運行の乱れから、もう1つ太陽系の一番外側を運行する惑星の存在は、予言こそされていたが、予想を遥かに下回る15等星という暗さの為に発見が遅れた。その15等星という暗さ故、ギリシア神話に登場する冥府の神「Pluto」(プルート)と名附けられた。「1979年1月」冥王星の日心距離が海王星の日心距離より小さくなる。つまり冥王星の方が海王星より太陽に近い状態が続いていました。それ以来、約20年間は太陽水星金星地球火星木星土星天王星冥王星海王星しかし1989年9月より冥王星は、しだいに太陽から遠ざかりました。太陽水星金星地球火星木星土星天王星海王星冥王星いずれまた逆転もあるのね。
2006年02月18日
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沖縄の民話「魂(マブイ)」昔々、とても仲の良い夫婦がいました。妻は働き者で、いつも夜遅くまで機織りをしていました。しかし、夫は心配でなりません。それは、『夜に機織りをすると、「後生(グソウ)」〔意味:あの世〕の人に、魂(マブイ)を取られる』と、いう言い伝えを聞いていたので心配していました。ついに夫は、妻にこう言いました。「夜に機織りをすると、後生の人から魂を取られるらしいよ。だから、夜は機織りしないほうがいいよ。もし、機織りをするのなら、魂を取られないように『小刀(シーグン)』を口に咥えていなさい。」ある雨の降る日、夫は用事があり隣村まで出かけていました。日も暮れて自分の村の入り口にある村境の川は、急な大雨で水量が増えて渡れなくなっていました。夫は、川の水がひくのを仕方なく待つ事にしました。夜中になり、漸く川の水がひいたので、川を渡り始めました。その時、寡黙に歩く二人の男が突然現われ、夫と一緒に川を渡り始めました。ところが不思議です。この二人の男達は、川を渡る時、少しも水音を立てずに歩いていました。そればかりではありません。男達の着ている物は、死人が着る「後生衣装(グソウスガイ)」の様に見えました。よく見ると、二人の近くには幾つかの青い小さな火が、ゆらゆらチロチロと燃えていました。「これは、、、、、人間ではないな。 何者だ。」夫は、二人の男を見て気味が悪くて仕方がありません。ばしゃばしゃと、急いで川を渡ろうと足を早め急ぎました。すると、二人の男が、音も無く、 スッー と近づいて、こう言いました。「お ま え は み ず の お と が す る。 に ん げ ん か ?」地獄の底から響くような不気味な声でした。夫は、〔これは人間だと答えれば、殺されるかもしれない〕と思い、こう答えました。「私は、新後生(ミーグソウ)〔死んで直ぐのモノ〕ですよ。」と答えました。すると、その男は、「頭(チ ブ ル) に さ わ ら せ ろ 。」と言うので、夫は、クバ笠を被った頭を突き出しました。男がクバ笠を撫で回しこう言いました。「頭(チ ブ ル) は 後生(グ ソ ウ) の も の だ。足(ヒ サ) も み せ ろ 。」夫は、男達の方に杖を突き出しました。後生男達は、その杖を撫で回しました。「足(ヒ サ) も グ ソ ウ の 足 だ 。」二人の男は、夫を新後生(ミーグソウ)と信じました。夫は、後生者の仕事等を熱心に質問して歩きました。夫が質問していく内に、今回のこの二人の男達の目的は、自分の妻の魂を取る事だとわかりました。夫は、〔なんとか妻を助ける方法はないものか〕そこで二人の男に、こう頼みました。「どうか貴方達のお手伝いをさせてください。」後生の男達は、夫の熱心な質問などに関心して、了承しました。そして夫は、その後をついて行きました。暫く歩くと男達は、夫の家に着きました。直ぐに一人は家の上から、一人は家の下から家に スー と、入り込みました。すると、金欄(きんらん)の袋に、妻の魂(マブイ)を入れて出てきました。〔何とかしなければ、何とかしなければ〕夫は、後生の男達に言いました。「隣の家には、もっと美人がいますから、魂を取ってきてください。この魂は私があずかりましょう。」 すると二人の男は、取ってきた魂(マブイ)を夫に預けて、隣の家に入っていきました。夫は、物置に駆け込み、もう一つクバ笠を取り出し、屋根の上に登りました。やがて、二人の男が隣の家から怒って出てきました。「こ の い え に は お ん な が い な い 。う そ を つ い た な 。」 屋根の上に登った夫は、両手にクバ笠を持ち、バタバタとさせて鶏の羽ばたきの真似をしながら、「コケッケレー、コケッケレー コケッー」と、鳴き真似をしました。それを聞いた後生の男達は、「よ る が あ け る ぞ 。」と、慌てて逃げて逝きました。夫は急いで家に駆け込み、息絶えている妻の鼻先に、魂(マブイ)の入った金襴袋の口を開き、扇であおいで、鼻の穴から妻の魂を入れてやりました。すると、なんと言う事でしょう。それまで死んでいたはずの妻は、すぐに生き返りました。それ以降も、この夫婦は、長生きして 幸せに 暮らしました。
2006年02月17日
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旧暦で行われる沖縄の正月の締めくくり行事が、二十日(はちか)正月です。東風平町宜次(ぎし)地区では、旧暦1月20日に山開きが行われます。この時にノロ達が「くぇーな」(琉球の古謡の一種)「稲すり節(インすりぶし)」などを歌い1年の豊作を祈った事から、このような儀式が二十日(はちか)正月の起源ではないかといわれています。今では、その祭祀の原型をとどめている処は殆ど無く、ただ仏壇や火の神などに供え物をするだけの形式的簡略化されているようです。生活習慣や時間的観念の違いが、この正月行事を何時まで執り行うか。「とんど焼き・鏡開き・十六日祭」まででは・・・と思い込んでいるようにも思えますね。少なくとも戦前までは、庶民に身近な行事として新年を祝う為に年末に豚をつぶし、肉を甕(かめ)で塩漬け(スーチキ)にし、その肉も旧暦の1月20日で食べ尽くして甕(かめ)を洗ったので、「カーミアレー(甕洗い)正月」とも言われています。首里地域や久米地域では、この日に正月飾りを下ろし、ごちそうを仏壇や火の神に供えます。また、辻の遊郭(ゆうかく)では遊女たちの舞踊集団が道を練り歩く、「ジュリ馬行列」という行事も行われていたようです。「ジュリ馬行列」とは、美しい衣装の女性たちが馬の頭をかたどった板を帯の前で止め付け、そのたづなを握りながら踊ります。軽快なリズムに合わせて「ユイユイユイユイ」と囃子を入れる愛らしさは必見ですね。那覇大綱挽・那覇ハーリー・ジュリ馬行列は、那覇三大行事とされていましたが、資金難などで中断を繰り返し、1988年を最後にしばらく途絶えていました。2000年に再開されますが、婦人団体から「公娼制度のなごりだ」と反対運動も起きたくらいです。話しを戻して、二十日正月(はつかしょうがつ)は、正月の終りとなる節目の日をさします。かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日でもありました。この日をもって正月行事は終了を意味します。京阪神地方では、骨正月・頭(かしら)正月と呼ばれ、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから、そう言われています。ブリの鰤の字にある「師」とは、人の孝悌(こうてい)の道を教え、天下を治める道さえも知らしめるもの。成長に合わせて名前の変わる、出世する魚として縁起の良い魚であり、人も師の教によって心の徳が増すことを祝いますこれを最後の最後まで頂く日でもあります。団子を作って食べる習慣もあり、これを二十日団子といいます。また、赤小豆餅を食べ赤飯を蒸します。他の地方でも、石川県では、乞食正月(昔、乞食が家々を回って残り物を貰うという風習)群馬県では、棚探し(年神棚にも、ほんのしるしばかり粗末な供えもの)岐阜県では、布施(フセ)正月など、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があります。1日を男正月15日を女正月20日は奴正月(やっこしょうがつ)また、米以外の作物の豊作を祈る行事がある事から麦正月団子正月とろろ正月ともいわれます。
2006年02月16日
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「聖バレンタインデー(Saint Valentine's Day)」西暦270年頃、アイルランドのカトリック教徒バレンティヌスが、ローマ皇帝クラウディウスによりとらえられ処刑された日が2月14日。このバレンティヌスは、死後1400年後の17世紀に入り、カトリックの宗教会議において「聖人」の列に加えられ「聖(セント)バレンタイン」と呼ばれることになった。バレンティヌスの処刑理由、周辺諸国を武力征服した軍事国家ローマ帝国の法律違反が原因とされています。当時の皇帝クラウディウスは、若者が戦争へ行きたがらない風潮に手を焼いていた。その理由として、若者が家族や恋人、妻たちと離れるのが嫌だった事が原因。その解決法として、結婚禁止令を出す。しかし、帝国が決めた法律であっても、こと結婚となると話しは別。闇結婚を・・・という者も出てきます。当時帝国ローマは、キリスト教を禁教としていたが、神の前での結婚を願望する若者達は、挙ってキリスト教の司祭であったバレンティヌスの元へ集まり、闇結婚したい者たちの願いを叶えていた。これが発覚しバレンティヌスは棄教を迫られた。しかし、これを拒否し、処刑される。この日付が2月14日。バレンタインデーが「愛の告白の日」となったことに関しては、ローマでそれ以前からあった豊穣神の祭りの風習との融合と説明されている。この祭りは、2月14日に女性の名前を書いた籤(くじ)を作り、翌日その籤を引いた男性と、その女性が交際する「くじ見合い」という奇習があり、これが殉教者バレンティヌスの事跡と結びついて、愛の告白の日となったようですね。 今でも欧米ではバレンタインカードを贈る(花束や菓子などに添えて)習慣が残っています。
2006年02月14日
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「十六日祭(じゅうるくにちー)」旧暦1月16日、一般にこの日をグソー(後生、あの世、他界)の正月とする観念があり、墓に詣でたり、仏壇にお供えをして祖先をなぐさめる日です。この行事は、祖先を供養するものとして、ほぼ琉球列島全域に分布しています。一門の墓前に家族・親類が集まり、重箱、酒、線香、お花をお供えします。そこでご祖先様に、家族の健康を祈願しつつ、墓前でご馳走を頂きます。十六日祭が盛んな宮古・八重山地方では、役所や学校・一般の会社も午後からはお休みになる所が殆どですから、観光には向かない日ですね。本島に住む離島出身者も、この日に合わせて里帰りするので、航空会社は臨時便まで出します。しかしどれも満席という状態です。最近情報では、土日が十六日祭にあたらないと、半分くらいの参加らしいです。「紙銭(ウチンガビ)」を焚き、三線を奏で、子供達は「凧(ピキダー)」を揚げ十六日祭を祝います。
2006年02月13日
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第13回やまねこマラソン(西表島)が行われますが、西表島の干立村では、「種取り祝い(タナドリヨイ)」が行われます。「種取り祝い(タナドリヨイ)」とは、稲の種子を蒔き終わった旧暦1月の甲か乙の日に行なう行事です。今年は、今日2月11日にあたります。苗代に蒔いた種が成長することを願う儀式で、アヨー、ジラーといった古揺が謡われます。他の祭りと変わっているのは、この日は「楽器の音や大きな音をたててはならない。」と、言うことです。唄三線と言われる沖縄にありながら、太鼓も手拍子すら禁止するお祭です。稲作農家を中心とした一般公民館員は、夜に公民館に集まり「タナドリヨイ」を行ないます。楽器や太鼓・手拍子を禁じた「謡」のみの祭り。これはネズミや害虫を、眠りから起こさないようにする意味があるそうです。嘗ては、この禁止事項もっと厳しく、まつり祝いの一週間前から、日常生活においても、むやみに物音を立ててはいけなかったそうです。謡われるのは、「種子取口説」「稲が種子アヨー」「米神酒アヨー」「種子取ユングトゥ」「宇奈利崎ユングトゥ」「カーラヌパタサヌアブターマ」楽器は使わず、手拍子もしてはいけない。祭りと言えば人集めのためのイベントのようなものをイメージする人もいると思います。しかし、ここでは昔から変わることなく純粋にシマの繁栄を祈り願う「儀式」としての神行事神と祖先・村人の為に行なわれる祭りです。
2006年02月11日
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今日は「左利きの日」世界的に有名な「左利きの日」は、8月13日とされています。が、日本ではこの時期はお盆の為、何か行事やイベントには不適当であり、日本では別の日を制定。0210 ⇒レフトという語呂合わせです。但し、2月10日が左利きの日に制定は、ただの語呂合わせとは思えないようですね。日本国内における最初の左利きコミュニティである「左利き友の会」が結成されたのが「1971年2月」です。そして、その30年後の同じ月という区切りの日を、日本の左利きの日として制定することが宣言されました。この「左利き友の会」とは、ご自身は右利きである精神科医の箱崎総一さんが、『神経症と見られる子供たちの幾症例が、左利きを右利きに強制したことによるもの』に気づき、「右利き社会における無自覚な左利きの心理的・社会的抑圧を取り除き、左利きが自らの自由意志でのびのびと生活できる社会を目指して活動を始めた。」このコンセプトで、箱崎総一さんを中心的存在とする「左利き友の会」の結成されました。のべ会員1200人、月会費100円で機関紙「左利きニュース」を発行されていました。しかし、財政難・右利き社会の無理解によって約5年で廃刊に。今現在も会は存在しており、この日が制定されています。追記リンク頂いてる上等沖縄司会屋さんに飛びます。問題の法人は、NPO法人「琉球心開」『御嶽信仰の道を重んじ、文化財、史跡巡りを通して、ノイローゼや難病に悩む人達を精神的にサポートする団体』との事。ソース記事に飛びます。沖縄の御嶽(ウタキ)は、女性の神司(カミンチュ)や女性のみが許された聖域です。このNPO法人は、無断で御嶽〔日本本土では、神聖な神社に匹敵する地域〕の樹木を伐採。しかも、前歴もある曰く付きの法人です。人間の目では見えない、聖なる存在意識をも、妨害する行為は許せるものではないですね。
2006年02月10日
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服の日福の日ふく(河豚)日肉の日漫画の日風の日語呂合わせしやすい日なのね。フグ以外は、身近に感じられますね。
2006年02月09日
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「〒」マークの日「1887年(明治20)」2月8日、郵便事業を扱う逓信省のマークが定められました。この時発表されたマークは現在の「〒」ではなく「T」でした。ところが14日に突然「〒」の間違いと発表されました。幾つかの説があります。単純ミス説として、元々「逓信省(テイシンショウ)」の「テ」を図案化した「〒」で決めていたのに、発表用の文書を作る段階で「T」と誤記されてしまった。「T」という符号は、国際的に「料金不足」を表すマークとして使用されているとの指摘があり、慌てて1本線を足してしまった。逓信省(TEISHINSHO)の頭文字「T」という説。逓信省(逓)の字が難しく覚えにくいので、同じ発音上の「てい」と読む「甲乙丙丁」の「丁」にしたという説があります。江戸時代に一般的であった飛脚屋の場合、業者によってはかなり信用のおけないものもあるということで、国が保証する信書送付システムを作る計画があがる。明治4年4月20日、民部省内駅逓司が管理。「1885年(明治18)」12月22日、逓信省発足。「郵便」とは、古代中国において、宿場を「郵」と呼んでいた事に由来。宿場である「郵」を、繋ぐリレー方式の運び「便」が「郵便」となりました。逓信省の「逓」は、「リレーする(引継ぎ)」という意味があります。実は、電報信号を送るシステムの「電信」と言う伝達手段が、明治2年より始まっており、郵便より先に始まっていました。電話は、明治23年に始まっています。電信は、専用電信線を張り巡らさなければならないので、全国にまで普及するのが遅れたようです。電信電報の開設当初は、電報は拠点まで通信で伝達された後、郵便で各宛先まで配達されていました。現在では、電報局(NTT)が発受信、電報配達人が届けていますね。
2006年02月08日
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宮古の民話「ニチィ花」(伊良部町)むかし、とても貧しいニチィと言う男が居ました。山に薪を取る事で、なんとか家族を養っていました。その帰り道、一軒の大きな家の前を通りかかると、その家の中から賑やかな唄や三味線の音が聞こえてきました。ニチィは、あまりに賑やかで楽しそうなので、お祝いでもしているのかと思い、薪を背中から降ろすと恐る恐る庭に入り、家の中を覗いて見ました。すると突然、「誰だ、勝手に屋敷に入り込む奴は。」と、言う声と共に、屋敷の下人衆に取り囲まれました。「やゃ、あの薪はお前のものか。勝手に人の屋敷に入った罰として取りあげろ。」と言って、ニチィの薪を取り上げようとしました。ニチィの家には、妻と生まれて間もない男の子がいました。取り上げられれば生活に困るので、必死に抵抗しました。ニチィは撲殺され、死体は家の柱の下に埋められてしまいました。それから7~8年経った頃、ニチィを殺した大金持ちの家に、大変きれいな花が咲いて評判になりました。噂は広まり、遠くから大勢の人々が見物に来るようになりました。欲張りの金持ちの家では、この時を逃すなとばかりに、その花を見に来る人から沢山のお金を取っています。その噂は、ニチィの息子の耳にも入りました。「お母さん、向こうの家にきれいな花が咲いていると言うんで、見に行きたいなぁ。」と、言いました。が、その家で夫が殺されている事を知っている母親は、「あの家に花を見に行ってならないよ。」と、行く事を許しませんでした。殺された一件は、息子にはまだ一言も言っていません。息子も知りません。しかし、息子は胸騒ぎがしてなりません。ある日、「お父さんの名前は、何と言うの?」と、急に男の子が尋ねました。「お父さんは、ニチィと言う名前だよ。」と、母親は答えました。数日が経ったある日、息子はどうしても見たいと母親に強請り、お金を貰いその花を見に行きました。その家に着いて、主人に尋ねました。「このきれいな花の名前は、何と言うのですか?」「貧乏人が。まぁ、お金を持ってきたのだから教えてやろう。この花はニチィ花という花だ。」と、主人は答えました。男の子がそれを聞いて、「ああ、やっぱりお父さんの花だ。お父さん。」と、きれいな花に声をかけると、その大きな花はポロリと地面に落ちてしまいました。怒った主人は、男の子を殴り蹴り、大変な目を合わせました。しかし、それ以来その花は咲かなくなり、金持ちの家は急に貧乏になった。
2006年02月07日
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沖縄の民話「海神と陸神」太古の昔、陸神が、海岸線を見廻りしていました。季節は春。海は、波静かで浜辺は美しい白浜が広がっていました。「なんと美しい白浜だ。ここを私の領地にしたいものだ。」陸神は、白浜を眺めて思いました。そう、海岸の白浜は、海神の領地と決められていたのです。しかし、陸神は気持ちを抑える事ができません。考えた末に、名案を思いつきました。それは、白浜に沢山の浜昼顔を植えることでした。「これでよし。いづれここも私の領地になるだろう。」浜昼顔は、ツルをどんどん延ばし、白い砂浜に根を下ろして広がっていきました。陸神は、浜昼顔が広がり、あの美しい白浜が自分の領地になる事を楽しみにしていました。そして季節は夏。ある日、海神は太陽の光が眩しい白浜にやって来ました。最初に目に入ったのは、浜昼顔が波打ち際まで延びて、美しい花を咲かせている情景でした。「なんと美しい花。私の髪飾りにしよう。」と、海神は、その美しい浜昼顔の花を取ろうとしました。するとその瞬間を見つけた陸神が、慌てて駆け寄ります。「これは私の物だ。取ってはならん。」と、言って海神の手に掴みかかります。「無礼な。何をする。」と、海神が言いました。陸神は、海神の手をつかんだまま言いました。「この白浜を私に譲りなさい。そうすれば、手を放してやるぞ。」海神は、自分の領地である白浜を手放すわけもなく、陸神の手を振り払いました。二人の神は、白浜がどちらの領地とするか問答が始まり、互いに譲りませんでした。すると、海神は怒って大波を起こし、浜昼顔を白浜から陸に追い払おうとしました。しかし、浜昼顔は、根が強く大波でも引き抜けません。次の夏が来ました。陸神は、また白浜を自分の領地にする事を諦めていません。浜昼顔のツルは、目一杯広がらせて花を咲かせています。海神と陸神は、また問答喧嘩を始めました。こうして、陸神が浜昼顔を白浜に伸ばす夏毎に、海神は対抗して追い払う風を吹かせて、大波を浜辺に寄せます。今でもまだ、二人の喧嘩の決着はついていません。毎年、夏の浜昼顔が伸びる頃、二人の神様が喧嘩するので、浜辺には暴風が吹きます。
2006年02月06日
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沖縄の民話「八重山諸島小浜島の一番鳥」昔々、神様が人間の朝の時間を知らせる方法を思案していました。「やはり、鳥の鳴き声で知らせる方がよかろう」と、青鳩・鷹・鶏を呼んで鳴かせてみました。青鳩は、「コココ、ポータポーコ、ポーポー、ボォーボォー、ポーポーォォー、ポーォォー」と、鳴くと「嗚呼、これでは時間を告げる状態ではないな。」と、その目をつぶして青鳩は昼間は何も見えないようになってしまいました。鷹は、「クワッー」と、鳴きました。「うーん。この鳴き声は大変だ。これでは寝ている子供も起こしてしまう」と、言うと神様は、鷹の首をつかまえて引っ張って伸ばしてしまいました。それ以来、鷹は首も長く、口も足も長くなってしまいました。鶏は、「コケコッコー」と、良い声で鳴きました。神様は、「鶏よ。そなたに時間を知らせる仕事を与えよう。」と、鶏の鳴き声で人間に時間を知らせる事になりました。それからは、鶏は『午前三時に一番鳥』が鳴き、『午前四時に二番鳥』が鳴き、『午前五時に三番鳥』が鳴く事になりました。人間は、一番鳥が鳴くのを聞くと、「一番鳥が鳴いたなぁ。」と食事を作る人が起きます。二番鳥が鳴くまでには、皆が起きます。その後、お茶もご飯も済ませます。三番鳥が鳴けば、皆畑に行き仕事を始めます。
2006年02月04日
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スーパーには、一応豆まきの炒り大豆や、太巻きなども並んでいます。が、炒り大豆の横にはミックスナッツも並んでいます。豆を撒く節分の行事より、甘い蒸し餅(ムーチー)を歳の数だけ食べる鬼餅(ムーチー)の風習が、体の中から鬼を追い払う節分に近いのかもしれませんね。ムーチー記事に飛びます。
2006年02月03日
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沖縄の民話「ミルク神(弥勒)とサーカ神(釈迦)」ミルク神(弥勒)とサーカ神(釈迦)は、隣村同士に住んでいました。サーカ神は、「働いて難儀するより、働かないで人の物を取って食べた方がいい。」と、言っていました。ミルク神は大変な働き者で、「働けば働くほど幸せになる。働かないといけない。」と、村人に教えていました。ミルク神の住む村人は、皆働き者だったので村は大繁栄です。一方、サーカ神の村は栄える事が無く、サーカ神はミルク神を怨むようになりました。ある日、サーカ神はミルク神にこう言いました。「隣村同士に住んでいると、お互いに面白くない事もある。そこで相談だが、蓮華の花が先に咲いた方が、好きな土地を取ることにしようではないか。」と、言いました。「ああ、それでもいいよ。」と、ミルク神も答えたので、二人の神様は、蕾の蓮華を持って目を閉じて座りました。すると、徳の高いミルク神の花が先に咲きました。サーカ神は、薄目を開けて見ていたので、先に咲いたミルク神の蓮華と自分のまだ蕾の蓮華を取り替えると叫びました。「さあ、私の花が先に咲いた。ここに立って見える所はみんな私の土地だ。ミルク神は、ここから見えない所へ出て行け。」すると、ミルク神が言いました。「それはありがたい。ここから見えない土地は、私にくれるのか。」サーカ神が取った土地は、高い山続きの荒涼とした土地ばかりでした。作物も育たず、住人も殆ど居ませんでした。一方、ミルク神が取った土地は低地で、人が沢山住みつき、作物も良くできました。サーカ神は、益々ミルク神の村が栄えるので、いまいましくなりました。そこで、サーカ神の顔に似た細面のネズミを造り、ミルク神の土地に放しました。ネズミは、作物を食い荒らし、家の壁をかじり壊し、どんどん数を増やしました。やがて、赤ちゃんの鼻や手足まで、かじるようになりました。そこまでくるとミルク神も対抗します。ネズミを退治する為の猫を造り放しました。猫は、造り主のミルク神に似た丸顔です。その頃の猫は、今の様に大きくなく、壁の穴に隠れたネズミも捕って食べることができました。サーカ神は、自ら放したネズミが全滅しそうになると、ミルク神の所へ来てこう言いました。「ミルク神よ、お前は馬鹿な奴だ。その猫が、もっと大きければ沢山のネズミを退治できるのに。」そう言われたので、ミルク神は、猫を今の大きさにしました。するとネズミは猫に追われても狭い穴に逃げ込み、全滅する事はなくなりました。サーカ神は、ネズミ作戦は失敗に終わり、今度はイノシシを造り畑を荒らさせました。イノシシは、一度に広い畑を荒らす事ができるので、ミルク神の住む村の百姓は困ってしまいました。ミルク神は、対抗策としてイノシシを追い払う犬を造りました。「サーカの土地は、山の土地。サーカモノは、山に帰れ。」と、言って放しました。すると、犬はイノシシを山に追い払い、村には出てこなくなりました。サーカ神が造ったネズミとイノシシは、サーカに似て顔がとんがり、ミルク神が造った猫と犬は、ミルクに似て顔が丸いのです。その頃は、生き物全てが人と話ができました。ある日、サーカ神は、生き物達を集めると目隠しをさせ、火種を隠してしまいました。すると困った事に、人間は煮炊きができなくなります。そこでミルク神は、生き物を全部集めて言いました。「お前達、サーカ神が火を隠すのを見なかったか。」と、聞きました。殆どの生き物達は、「目隠しをされていたのでわかりませんでした。」と答えると、そこへ、バッタとセミがやって来て、こう言いました。「はい、私達は見ました。」セミとバッタは、目が顔の脇の方にあったので、目隠しされても見えていたのでした。ミルク神が、「どこに隠したのか。」と聞くと、「浜にあるアンチャクラの木と黒石に隠しています。」と教えてくれました。黒石を叩き擦り、火を出そうとしましたが、火花が散るだけで火は着きませんでした。そこで、木を使い「ヒヌクギ(擦り回し火を起こす道具)」を作ると火が出てきました。それ以降、人間はまた火を使い、物を煮て食べる事ができるようになりました。ミルク神は、こう思う様になりました。「ああ、ここに居れば、いずれサーカ神に殺されるかもしれない。」そう思うと怖くなり、船を造り始めました。向うに見える遠い島に、銭や米俵を船に乗せて渡りました。その島は、とても貧乏な島でしたが、ミルク神はその島の王様になりました。そして、島人にこう教えました。「人の物を一つ取ると十倍の損」その教訓を生かし、その島は立派に栄えるようになりました。一方、サーカ神の島では、「いくら作っても、どうせ人に取られてしまう。」と言い、何も作らないので栄えませんでした。「なぜ、ミルク神の島は、どんどん栄えるのに、自分たちの島は、どうして栄えないのだろう。」と言い、サーカ神の島人が不思議がり相談していました。「そうだ。栄えている理由を、ミルク島で習おう。」サーカ島人は、船でミルク島に渡りました。すると、船着き場の近くの畑で、二人の百姓が喧嘩のように言い争っていました。言い争いの内容は、畑の境界線が曲がっていたのか、真っ直ぐだったのかという争いでした。サーカ島人は、「ああ、ミルクの島でも争いをする人がいるのか。」と思っていると、言い争いの一人が、「ここは、元々貴方の土地だから取ることはできない。」と言い、するともう一人も、「貴方は頑固で困る。この畑はお前のだよ。」と、言い争っているのでした。サーカの島から来た人が、仲裁に入りました。「それなら、真ん中から分けるのはどうでしょうか」と言うと、「いやいや、私達のミルク様は他人の物を一坪取ると十坪の損、十坪取ると百坪の損と言います。人の物を取ると損をするから嫌です。」と言って互いに譲りませんでした。これを聞いたサーカの島人は、あきれて自分の島に帰っていきました。ミルク神は今でも「ミルク様」として、島で崇められいます。
2006年02月02日
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沖縄の民話「カラスと白鷺」昔々、鳥族の神様をお祝いする報せが届いた。鳥達は、お祝いの席に出席する為、自分達の着物を仕立てるのに忙しくなった。カラスは、染物屋で絵書きだったので、鳥達の注文どおりに着物の絵柄を描いていました。アカショウビンには、赤い染め着物。アオバトには、青い着物。鳥達の注文の多さに対応して、段々と時間が迫って来た。最後の染め仕事が残っていたのは、白鷺と自分だけとなっていました。そこで、白鷺には、「お前さんには申し訳ないが、時間がもう無くなった。」「間に合わないから、自分でやりなさい。できなければ、そのまま祝い式に出なさい。」と、言いました。カラス自身も間に合いそうにありません。そこで仕方なく、藍の入ったツボに入り、その後、墨ツボに頭から入りました。「これでよし」なんとか祝い式には間に合いました。それ以来、白鷺は、真っ白のまま、カラスは、真っ黒になっているということです。
2006年02月01日
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