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粟国観音由来記〔粟国島港近くにある観音様〕昔々、与那城筑登親雲上(よなしろチクドゥンペーチン)〔与那城は姓、筑登親雲上とは、島の役人などに与えられる士族の位〕という島出身の首里王府役人に後継ぎがいなくなり、先祖にあたる山内家一門の末吉と言う子供を、屋号ヒャークヤーという家から養子として迎えました。このヒャークヤーの末吉が八才の時、山内家で飼っている牛を、家人が朝に東海岸に連れて行き、自然に穴の空いた大石に牛を繋いでいました。朝繋いで夕方になると、このヒャークヤーの末吉がその牛を連れて帰る役目でした。ある日の夕方、このヒャークヤーの末吉が牛を連れ戻しに行くと、繋いである石の上に片足の無い猫が座っていた。この猫は、ヒャークヤーの末吉を睨んでいます。「この牛の縄を解きに行けば、この猫にやられる。牛を連れて帰らなければ、親に叱られる。どうしたらいいかね」と、迷いました。しかたがないので、草刈に使っていた鎌を持ちだし、無我夢中で牛を繋いでいた綱を切り、牛を逃がしてから自分も走って逃げました。どんどん走って逃げました。その道の途中でウフガリメンヤーの末吉の畑まで来た時、振り向けば、この猫は追い駆けてきます。もう、訳もわからず夢中に逃げました。昔、この村の入り口付近に、ヒンジャ屋のブリーと言う、石や土を積み上げた土塁のような森があった。そこまで来て振り向いたら、もうこの猫はいませんでした。その事があってから、このヒャークヤーの末吉は、痩せて病弱になりました。そこで親が、「これではダメだから、那覇に行ってお医者さんに診てもらおう」と、那覇行きの帆船に乗せて連れて行きました。那覇に到着し、両方が田んぼ道になっている一本道〔今の垣花地区〕を通ると、向こうから肥やし桶を担いだタンメー〔お爺さん〕と出会いました。タンメーは、「ハイ、アナタ方は何処から来たか、どこに行くか」という声かけ挨拶をしたので、父親はこう答えました。「私達は、粟国から来ました。この子がこんな痩せ衰えたから、お医者に診てもらう為に来ました」と答えると、タンメーは子の顔を眺めて、「うん、これは病気ではない。医者にかからなくてもいいよ。早く島へ帰って方角を当てて、そこに御願所を仕立てたらすぐ良くなるから帰りなさい」と言いました。父親は、「そうですか」と答えて、タンメーの住所を聞いて宿に帰りました。次の日、朝早く、「もう一回タンメーに会って、良く聞いてから帰ろう。タンメーの家に行こうね」と、まだ夜の明けない暗いうちだったが出かけました。タンメーは、寝起きのタバコをふかしていたようで、キセルを煙草盆にポンポンと叩く音が聞こえていました。門をくぐり、家に入って行き、あいさつをしました。「昨日、道でお会いした粟国の者ですが、本当に粟国に帰ってもいいですかね。お医者さんに行かなくていいですかね」と言うと、「ウン、医者にはかからなくてもいい。ちゃんと拝所を仕立てれば、この子は元気になるよ」と、詳しい話をしていただきました。その足で午前中の船便に乗り、粟国に帰って来ました。港から上がって来た、直ぐの場所が今の粟国観音になります。昔は、そこら一帯は、アダン木やゆうな木などの森と小高い山になっていました。すぐ、拝所を立てる方角を聞いて来たので、そこに上がって見て、「こちらへんが拝所を立てる場所か。自分たちの拝むところだな」と言って、そこで手を合わせて、家に帰りました。翌日、草刈鎌やノコを持って、アダンやゆうなの木を切り、場所を広げて、そこにアダン葉で家形の拝所を作りました。その出来上がった拝所に手を合わせて帰ると、子は元どおりの元気になりました。それからどんどん成長して、頑丈で立派な若者になったと言うことです。
2006年05月28日
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ハーリー(爬龍船競争)今月末31日は、旧暦の5月5日です。那覇ハーリーは、観光客誘致の為、新暦の連休中に行ないます。が、本来の海神様のお祭なので、旧暦行事ですね。海神様をお参りするアプローチとして、船を漕ぎ参拝します。ですから、漁師などの海で仕事をする者が中心ですね。農業などでは、農耕の神様林業や採掘では、山の神内地で神輿を担いだり、山車を引いたりする事となんら変わりないようです。由来には、それぞれありますが、どれが本当の由来かはわかりません。「由来其の壱」1730年、尚敬王時代に編集された琉球国旧記によれば、昔々、長浜大夫が、使者として大陸に渡る。そこで爬竜船を始めて目にし、感動して帰国。船大工に造らせて、旧5月5日に那覇港にて〔太平の御代を祝う目的で〕競争させた。と言われています。昔は、久米・那覇・若狭町・垣花・泉崎・上泊・下泊と複数隻でしたが、今は、那覇・久米・泊の3隻になってますね。「由来其の弐」1380年、琉球国王、南山王の弟である汪応祖が、大陸へ留学した際、爬竜船競争を見て帰ります。そこで、那覇の入り江に特別に造らせた爬竜船を浮かべ競争をさせた。その風景を見物するのに最適な場所に城を築いた。その城が豊見城。「由来其の参」当時の大陸に伝わる由来によれば、その昔、屈原(くつげん)という徳の高い人がいた。汚濁の世を悲しみ「世俗の塵に埋もれるよりも、魚の腹に葬られたい。これ我が世の完結」と旧5月5日碧羅の河に身を投げた。これを目撃した地元漁師が、「先生を助けろ」と、急ぎ舟を漕ぎだした。しかし、屈原を救う事は叶わなかった。屈原を慕う住民は、命日である5月5日を記念して爬竜船競争行なった。
2006年05月27日
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沖縄の民話「熊役人」昔々、琉球仕役人が国王命令で大陸へ行く途中、暴風に遭い船が難破してしまいました。役人は、船の板切れにしがみつき、辛うじて小島に辿り着く事ができました。この島は、地図にも載っていません。同じ難破した船員も他の役人もいません。皆、海の底のようです。役人は、浜辺で死を待つ、そんな状態でした。島には人間はいません。が、熊がいました。この島に人間が来る事は珍しく、群れから離れたメス熊が役人に近づいてきました。役人は、「この島に、鮫にも遭わず何とかたどり着いたが、熊に食べられるのか」と、観念しています。しかし、メス熊は、甲斐甲斐しく介抱しようとします。水をココナツ殻に入れて持ってきたり、木の実を持ってきて食べさせてくれました。役人は、少しづつ回復していきました。でも、難破した残骸も無く、その島から出る事ができません。風が強く、雨も降り、寒さで凍えそうにしていると、メス熊は、群れ熊の死に場所に行き、熊の皮を持ってきて、役人に掛けてくれました。そのうちに、役人は、この優しいメス熊と所帯を持つようになり、男の子が生まれました。男の子の名前は「くまー」といいます。くまーは、顔も手足も人間と同じでしたが、一つだけ違う事がありました。それは、全身に長い毛は生えていました。丁度、獅子舞の様な毛です。くま-が生まれて、3~4年が経った頃でしょうか、島の沖合いに船影を見つけました。役人は、高い崖に登り、大きく手を振りながら叫びました。「おーい、助けてくれー」その船は、琉球国の貿易船でした。船乗りは、島の崖先で手を振る姿を確認しました。船は、浜近くまで寄って着ました。小さな息子を抱えながら泳ぎ、船に飛び乗りました。母熊は、食料を取りに森に入ったきりでしたが、船乗りには言えませんでした。島に残したまま、父と子は、その船で琉球に帰ってきました。 母熊は、何も知らず、食料を集めて浜辺へ戻って着て見ると、誰もいません。高い崖へ駆け上り、悲しみのあまりアダン木の傍で、立ったまま身動きすらしませんでした。そのまま死んでしまいました。くまーは、琉球へ産まれて始めて上陸しました。それから数年が経ち、くまーは学校へ行きます。大変賢く、学問では誰よりも優れていました。ただ、他人に自分の体を見せない様にする為、人前で水浴びすらしませんでした。食事の時も、手の甲の長い毛を気にするあまり、素早く手掴みで食べる癖がありました。くまーが10歳を過ぎた頃、父親に聞きました。「私の母親は、誰ですか?」父親は「一番科(いちばんこう)〔琉球国の官史登用試験に最上位で合格する事〕になって、唐の国に留学出来るようになったら教えてやる」と言いました。 くまーは、「母親に会いたい」その思い一つに、懸命に勉強しました。数年が経ち、見事に一番科に合格です。先生も、くまーが唐の国に留学するので大変喜びです。「私が教え子が、唐に行くと言う事は名誉なことだ。今日は私がご馳走しよう」と言いました。 くまーは、家に帰り、父親に相談しました。「今日、先生の家でご馳走すると言われました。ですが、私は行きたくない」と言いました。 父親は、わかっていました。「お招きして、お祝いして下さるのだから、行くだけ行きなさい。食べなくてもいいから、行ってきなさい」 と言うので、先生の家へ行きました。招待席に座ると目の前に、たくさん御馳走が出されました。が、彼は食べようとしませんでした。 「どうして食べないのか。私の家の食事はまずいというのか」と言い、友人達も「先生の食事を食べないのは、無礼だよ。食べなさい」と言うので、仕方なく手で食べ始めました。これを見て、友人達は「こいつは野蛮人だ。彼を唐に行かせたら琉球の恥になる。これでは二番科の者を行かそうではないか」と、言う始末です。くまーは、泣きながら家に帰ってきました。父親は「そうか、今、お前にとって大切な事は、箸の使い方だな。始終練習をしなさい」と言ってなだめました。くまーは、寝る間も惜しみ、箸の使い方を練習しました。手の甲の長い毛など構う事も無くなり、箸を上手く使う事ができるようになりました。くまーは、もう一度先生の所に行き、「箸を上手に使えるようになりました。毛深い事も気にならなくなりました。どうか唐に行かせて下さい」と、頼みました。「うむ、よかろう。唐に留学しても良い」と許され、唐の国に留学しました。 数年の留学を終えて帰り、父親に尋ねました。「お父さん、私の母親はどこにいますか。教えてください」と言うと、「お前の母親は、熊だよ」「熊でも、熊でもいいから、一目会わせてください」と言うので、父親は船を頼みました。母熊のいる無人島に行きました。この島から離れて長い年月が経つのにも関らず、母熊はアダンの木につかまったまま、立っていました。くまーは、駆け寄り「お母さん」とすがりつくと、母熊の毛皮は滑り落ち、骨はサラサラと崩れ、風に流れていきました。「お母さん、私はこんなに立派になりましたよ」と、泣きながら、毛皮を大切に持ち帰り、弔いました。このくまーは、後に大変出世して、熊の様な体に優しい心根を持つ役人として、琉球国の偉い人になったということです。
2006年05月24日
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沖縄の民話「糸満の白銀堂」白銀堂とは、那覇から南へ12km、沖縄本島の南端に漁港の町で知られる糸満があります。車の往来の激しい国道331号沿いの糸満漁港へ差し掛かる手前に大きく構えたお堂です。約二百年前までは、この白銀堂の前は白い砂浜でした。埋め立てが進み、今では海から離れた場所になっていますね。白銀堂の鳥居をくぐり、ひっそりとした境内の南側に巨岩があります。それを『威部』といって祀っています。一大行事の綱引や爬龍船競争(ハーリー)など重要な神事には、この白銀堂で祈願が行なわれます。航海安全・家内安全・豊漁・豊作とありとあらゆる願いを叶えてくれるということです。糸満の男達は、サバニ(小船)で魚を釣ってくると、女達にセリをさせて売ります。糸満の女達は、男達から買った魚を頭に乗せた盥(たらい)に入れ那覇の町まで運びます。「魚(イヨー)、買って(コーンチュ)、(売りますヨ)ウーラニー」と、声高らかに売り歩きました。糸満漁師には、凄い話が残っています。この糸満の漁師達は小さなサバニで、遥かインド洋まで行ったともいわれています。また、エジプトへ遠征中のナポレオンが、地中海でサバニに乗って漁をしている者を発見し、調べて見ると東洋人だと分かったと言い、ナポレオン一行がイーストマンと言ったところ、それが訛り、イーストマンがイトマンになったという言い伝えもあります。まさか地中海まで遠征したとは思えませんが、こうした逸話が残るほど糸満の漁師は遠くまで航海操業を行っていた証明ですね。昔々、糸満村にマンクーという大変働き者の漁師がいました。ある時マンクーは、櫂(かい)を漕ぎ、『サバニで海を歩く(走らせていた)』ところ、突然大きな波が押し寄せサバニもろとも波に呑まれてしまいました。泳ぎの達者なマンクーは、なんとか岸まで泳ぎつくことができたものの、サバニに乗せていた大事な漁具をすべて失ってしまいました。港の戻り、困り果てていたマンクーを見かねて、薩摩武士の児玉左衛門が金を貸しました。マンクーは大変喜び、翌年の三月までには返す約束をして、薩摩へ帰る児玉左衛門を見送りました。懸命に働きましたが、時化(しけ)続きで食べていくのもやっとでした。月日が経ち、とうとう返済の日がやってきました。マンクーは、児玉左衛門に返済期限が過ぎても返す事ができなくなった事を深く詫び、次の年には必ず返すことを約束しました。しかし、次の年にもやはり返すことができず、また次の年までと願いました。そして、とうとうその日がまたやって来ました。マンクーは、返す事のできない自分を恥ずかしく思い、左衛門の姿をみつけると海の近くにある洞窟に身を隠してしまいました。それを見つけた左衛門は、「貴様、人を侮辱するか」と、刀を振り上げて迫りました。その恐ろしい剣幕に、マンクーは声を限りに言いました。「まっ、待ってください。もう少し待ってください。きっときっと払いますから。あなた様が、怒りにまかせて刀で私を切ったところでなんにもなりません。恩義あるあなた様から、借りたお金、この次はきっと払います。家の年寄りから聞いた言葉に『意地ぬ出じらぁ、手引け。手ぬ出じらぁ、意地引け。』というのがございます」「お前の今言った言葉はなんだ」「はい、沖縄の諺で『短気をおこしたら、手を出さないようにし、手が出ようとしたら、心をしずめよ』と戒めています」それを聞いた武士は「よろしい今度だけは勘弁しょう。きっと来年までにはお金を準備しておくように」と言い残し、児玉左衛門は薩摩へと再び帰って行きました。薩摩に着いた武士は、留守を守る母と妻の元へ、足早に向かいました。わが家へ着いたのは、とっぷりと夜もふけた時分でした。そこで、そっと家に入ると玄関に見た事もない男モノの履物がありました。心中穏やかならず、左衛門が部屋に入ると妻が男と寝ているではありませんか。左衛門は、怒り心頭、男を切り殺そうと刀を振り上げました。その時、左衛門は糸満のマンクーの言った 『意地ぬ出じらぁ手引け。手ぬ出じらぁ、意地引け。』という言葉を思い出し、心を静め男をよく見ました。すると、それは男物の着物を着た母親でした。左衛門はその場に力なく座り込み、しばらく言葉もでませんでした。母親は、「女ばかりでは何かと心配なので、男の姿をして妻と寝ていた」と言う事でした。「ああ恐ろしい。命が縮むとはこのことだ。マンクーの言葉を思いださなかったら、この手で妻と母親を殺していたところだった。」翌年、左衛門はまた琉球へと渡りました。早速、マンクーの元へ行きます。マンクーは、家で待っていました。「さぁ、メンソーリ。どうぞ、お茶も御馳走も準備してます。やっとお金をお返しすることができます。イッペー、ニヘーデェービル(たくさんの、感謝)」マンクーは、待ち侘びたかのように借りたお金を差し出しました。左衛門はこう答えました。「いや、この金は受け取るわけにはいかんでごわす。おいどんはいりもうさん」マンクーは何の事やらです。「左衛門様が貸してくださったお陰で、今こうして暮らすことができるのでございます。どうか、受け取ってください」「いや、命びろいしたのは、おいどんじゃ。あの言葉で、母親を殺さずにすんだんじゃ」左衛門は、薩摩での事を話しました。 ところが、それでもマンクーは、「いやこのお金は、貴方様の物でございます。ぜひお受け取りください。お願いします」「ならん。ぜったいならん」と押し問答は続き、互いに譲り合って受け取ろうとしませんでした。そこで、マンクーは考えました。その金を洞窟の中に埋め、その前にお堂を建て、糸満の男達の海上の平安と村の繁栄を祈る祈願所を造る事にしました。それには、左衛門も大賛成です。この話は、たちまち島中に広がり、人々はその洞窟を拝むようになりました。それからこの洞窟を白銀堂と呼ぶようになりました。追記)続けて調査した所、こんな記事がありました。児玉左衛門は実在の人物かもしれない。児玉が持ち帰ったとみられる堆錦技法の琉球漆器が、鹿児島県志布志町の山角家に伝えられていたことがわかりました。児玉左衛門は、実名・児玉伝左衛門実好。1743年(寛保3 )年生まれ81歳で他界。しかし、武士ではなかった。児玉家は、みそ、しょうゆなどの卸問屋で、薩摩=沖縄間の貿易を行っていた。残された琉球漆器は、取っ手付きの四段重ねの重箱。保存状態もよいようだ。地元紙の報道によると、持ち主の山角さんは、「祖母の話によれば、児玉左衛門さんが土産として持って帰ったという。祖母が子供の頃は、床の間に飾ってあった」とコメントしている。児玉左衛門が実在していたことから、「白銀堂由来記」も史実だったのでは…と郷土史研究家の間で話題になっている。もし史実だとすれば、薩摩商人が金貸しまでしていた可能性も出てきた。〔マンスリーオキナワvol.30 1998 年5 月10 日号コラムを参考〕
2006年05月23日
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沖縄民謡「かなさんどー」〔愛しいぞ〕(一・二揚げ、三下げ)作詞 作曲 前川守賢 他所(ユス)見恥(みはじ)かさ 云語(いかた)れ小(グヮー)久場(クバ)ぬ下(シチャ)や 待所(マチドゥクル)汝(ッヤー)が 云(イ)ちゃる 云言葉(イクトゥバ)や今(ナマ)ん 残(ヌク)とーさ 温々(ぬくぬく)とぅ〔恋語らいの場面を、他人に見られる事は、恥ずかしいこと。クバの下は、逢い引く所。お前が言った言葉は今でも温かく心に残っているよ〕忘(ワシ)んなよーやー忘(ワシ)んなよー 我(ワ)ね 思(ウム)とーんどーかなさんどー〔忘れるなよ、なあ 忘れるなよ。私はいつまでも想っているぞ、愛しいぞ〕親兄弟(ウヤチョーディー)にん打(う)ち明(あ)きてぃ夫婦(ミートゥ)になゆる約束小(ヤクスクグヮー)汝(ッヤー)と我(ワ)んとぅぬ語(カタ)れ小(グヮー)変(か)わんなよーやー何時(イチ)までぃん〔親兄弟にも打ち明けて、夫婦になる約束をした。お前と私の契りは変わる事無く、いつまでも〕忘(ワシ)んなよーやー忘(ワシ)んなよー 我(ワ)ね 思(ウム)とーんどーかなさんどー〔忘れるなよ、なあ 忘れるなよ。私はいつまでも想っているぞ、愛しいぞ〕男(イキガー)女(イナグ)にかかゆんどぅ 女(イナグー)男(イキガー)ぬゆいどぅやる他所(ユス)ぬ 知(シ)ゆみ二人(タイ)が仲(ナカ)手(テー)取(と)て渡(わた)らな くぬ浮世(ウチユ)〔男は女に頼るもの。女は男の故に在る。他人が知るまい二人の仲、手を取り渡る、この世の中〕忘(ワシ)んなよーやー忘(ワシ)んなよー 我(ワ)ね 思(ウム)とーんどーかなさんどー〔忘れるなよ、なあ 忘れるなよ。私はいつまでも想っているぞ、愛しいぞ〕派手喧嘩(オーヤーティーヤー)する時(トゥチ)ねー 妬(ニー)たさ小(グヮー)ん すなよーやー おーゆる仲(ナカ)どぅ かなさんでぃーぬ昔言葉(ンカシクトゥバ)ん あんどーやー〔派手な喧嘩をする時に、妬みはするなよ。喧嘩する仲こそ愛しいという昔言葉があるのだぞ〕忘(ワシ)んなよーやー忘(ワシ)んなよー 我(ワ)ね 思(ウム)とーんどーかなさんどー〔忘れるなよ、なあ 忘れるなよ。私はいつまでも想っているぞ、愛しいぞ〕美(チュら)さる花(はな)や散(ち)りるとぅん二人(タイ)し咲(さ)かす花(はな)でむぬ例(タトゥ)い 嵐(あらし)ぬ吹(ふ)ちやてぃんかなさし 行(い)かやー我(ワッ)たー二人(タイ)〔美しい花が散るとも二人で咲かせる花である。例え嵐が吹いても、我々二人で愛して行こう〕忘(ワシ)んなよーやー忘(ワシ)んなよー 我(ワ)ね 思(ウム)とーんどーかなさんどー〔忘れるなよ、なあ 忘れるなよ。私はいつまでも想っているぞ、愛しいぞ〕
2006年05月22日
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沖縄の民話「ウズラ親子と麦刈り」島で一番大きな麦畑にウズラの親子が巣を作り住んでいました。母ウズラは、毎日餌を探しに外出、子ウズラが独り留守番しています。 ある日、麦畑主が畑を見回りに来ました。主人は麦の穂を握りながら、こう言いました。「そろそろ刈り時だな。人を頼まないといけない」と、言いながら帰っていきました。留守番をしていた子ウズラは聞いていました。夕方になり、帰ってきた母ウズラに急いでこう言いました。「お母さん、大変だよ。この畑の主人が人を頼んで麦刈りに来ると言っていたよ。早く引っ越ししないと大変だよ」と、言いました。母ウズラは、「そう、そう言っていたのね。じゃあ、まだ移らなくても大丈夫さー」と、答えました。母ウズラはこう言いますが、子ウズラは心配でなりません。でも、次の日もまた次の日も麦刈りはありませんでした。数日経ち、また畑の主人が見回りに来ました。前回と同じく、麦の穂を握りながら、「あがやー、これはイカン。麦が実りすぎてしまった。人が集まるまで待っていられん。ワシ一人でも刈らなきゃならん」と言いながら帰っていった。夜になり、母ウズラが帰るな否や、子ウズラは言いました。「お母さん、今日主人が来ていたよ」と話しました。「なんと言ってたの?」と、母ウズラが聞くと、「あのね、人を待ってはいられない。一人でも刈らないとならん、って言ってたよ」と答えました。母ウズラは慌てて荷作りを始めながらこう言います。「そうね、支度しなさい。早く移らないと危ないねー」と言い、あっという間に麦畑から出て行きました。畑の主人は、翌日、早朝から一人で麦を刈りはじめました。
2006年05月20日
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沖縄八重山の民話「赤馬」昔々、石垣島・宮良(ミヤラ)村に、独り暮らしの馬乗り名人大城師番という人がいました。ある日、この大城師番が海辺を散歩中、遥か沖に小さな影を見つけました。「はて、何かな?」目を凝らしてみると、南の沖の波間に馬の頭が見えました。それは、こちらに向かって泳いで来るではありませんか。「この先は島など無い、よくそんな場所から泳いだものだ」大城師番は、感心しているうちに、馬は浜辺まで泳ぎきった。馬は、砂浜に水を滴らせ、体中から湯気を出しながら上がってきた。大きく見事な鹿毛(かげ)の馬でした。「こんな立派な馬は、この八重山にはいないはず。さあさあ、飼い主の所に帰りなさい」と言い、追い立てるようにすれども、師番の側を離れようとしなかった。むしろ、この馬は師番の飼い馬かと間違えるほど、おとなしく後をついて来ました。師番は、独り暮らしの馬乗り。その馬に乗ってみたいとも思いました。馬は、喜ぶ様な仕草をしながら、師番を背に乗せました。タテガミを握り、「ハイ!」すると、その速い事、空を飛ぶような速さでした。それからも師番は、飼い主を捜しましたが見つかりません。現れないので師番は、この馬を「赤馬」と名付けて自分の家で飼うことにしました。この名馬赤馬の話は、八重山中の評判になりました。やがて、その噂は首里の王にも届きました。琉球王府から「大城師番、赤馬を献上せよ」という命令がきました。師番は、赤馬を船に乗せ、幾日もかかり、はるばる石垣島から本島首里城に着きました。待ちかねていたのは、王でした。早速、馬をご覧になり、「評判通りの立派な馬だ。では、乗ってみよう」と、王は赤馬に跨りますが、かけ声をかけても、ムチで叩いても馬は前に進もうとしませんでした。そればかりか、急に暴れ出して王を振り落とそうとしました。怒った王は、「こんな暴れ馬は、殺してしまえ」と、家来達に命令しました。馬役人は驚いて師番を呼び、こう言います。「この馬は、こんな暴れ馬だとは思えない。試しにお前が乗ってみなさい」と言いました。師番が赤馬に近づくと、今まで暴れていた事が嘘のようにおとなしくなりました。「ハイ!」疾風のように走り出しました。これを見た王は、「この馬は、神様がお前に授けた馬のようだ。誰もこの馬をお前から取る事はできない」と言い、赤馬は師番の元に返されました。師番は赤馬を連れて帰ることができました。ところが、この事がまた噂になり、赤馬の評判はますます高まり、薩摩の殿様の耳にまで届きました。「大城師番、馬を献上せよ」薩摩の殿様から命令がきました。師番は「仕方ない。命令だからな。今度は一緒には行けないんだよ」師番は、石垣の港で赤馬を乗せた船を見送りました。その船は、石垣の港から出るや否や、急に嵐が起こり船は港に吹き戻されました。すると赤馬は、船に結わえ付けていた手綱を引き切り、人々が止めることができないうちに、船から飛び下りました。港を泳ぎ、船着きを駆け上り、まっしぐらに師番の家に駆け戻ります。すると、家の周りを三回廻り、ばたりと倒れました。師番は慌てて駆け寄り、抱きかかえます。赤馬は、師番に首を抱かれながら死んでしまいました。八重山民謡「赤馬節」(本調子) SP盤復元による沖縄音楽(うた)の精髄(下) 八重山謡 琉球の民謡 金井喜久子 著 (復刻版) 白百合 30°600ml
2006年05月19日
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沖縄の妖怪キジムナーには、大変おとなしい弟がいました。名前はアカナーです。兄キジムナーは活発で、時には仕返しをしたり結構悪さをしますね。でも弟のアカナーは、おとなしく大変相手を思いやる優しい存在です。アカナーも兄キジムナーと同じ位漁が得意でしたが、好物は目玉ではありませんでした。アカナーの好物はカニでした。月の中に住んで、この世に初めて生まれた人間が幼い時に、食べ物も無く餓死しそうになった時、月から餅を投げて助け養ったと言うエピソードを持つ妖怪です。沖縄の民話と童謡「月住みのアカナー」昔々、アカナーと猿が暮らしていた。ある年、二人が住む家の庭の桃が大変良く稔りました。猿は欲深く、その桃の実を独り占めにしようと考えました。そこで猿は、アカナーにこう言います。「アカナーよー。桃が熟したから、これを売りに行こうよ」「いいよ。そうしよう」と、アカナーは答えました。猿は、こうも言いました。「ただ売っても、つまらないな。だから売りっこ競争をしようよ」「いいよ。そうしよう」「ただ競争しても、つまらないから、勝った方が負けた方を殺す事にしよう」「いいよ。そうしよう」と、ついウッカリ答えてから、アカナーはビックリ。「い、今、なんて言った」と聞き返した。猿は、当然当たり前のように繰り返して答えた。アカナーは、「イヤだよ。そんな約束はしない」と言いながら地団駄を踏んだ。猿は平然と、「一度、いいよと言っただろう」猿はスルスルと木に登り、自分のカゴには赤い実をたくさん入れました。アカナーのカゴには、青い堅い桃を入れて、上の方だけ赤い実を並べた。猿の桃はすぐに売れました。アカナーは、「桃(ムム)買い めしょうれー」〔桃を買って下さい〕と、売り歩いても、買うものはいません。やがて、日が暮れてきました。家に帰れば猿に殺されると思うと、どうしていいかわからなくなり泣いていました。夕陽も沈み、月が昇っていました。アカナーは、「月様(チチさま)、月様(チチさま)、助けて給(たも)うれ。助けて給(たも)うれ」月は、アカナーを哀れに思い、カゴをスルスルと降ろしてこう言いました。「アカナーよ、私の処へおいで」アカナーは、カゴに乗り込みました。カゴは、天高く月まで引き上げられました。それ以来、アカナーは月の中で生活するようになりました。今でも、晴天の月夜に眺めてごらん。月の中でオケとヒシャクを持ったアカナーが見えるはずよ。沖縄の童謡「アカナー」アカナー アカナー 何処(マー)かい 行(い)ちゅが アカナー西(イリ)ぬ 海(ムミ)かい 蟹小(ガニグヮ)捕(トゥ)いが蟹小(ガニグヮ)捕(と)って 何(ヌー)すが我(ワー)思(ウム)やーになしゅん汝(イヤー)思(ウム)やーや 誰(ター)が十五夜(ジュウグヤ)う月夜(チチユー)〔アカナー アカナーどこ行くアカナー。西の海にカニ捕りに。カニを捕ってどうするの。ワタシを想ってもらえる様に、アナタが想う相手は誰です。十五夜月夜のお月様〕
2006年05月18日
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エイサー隊演技前の露払い役ちょんだらーによる演技「酒カタミヤー」で使う歌〔三升入りの酒がめを2人で担ぎ、家々から1合酒を頂き、夜を徹して踊り廻った〕事に由来します。私個人の趣味ですが、屋慶名さんの歌を紹介しますね。「東西南北(センスル節)」〔センスル節の曲調で歌います〕センスル センスル ヨーセンスルセンスル センスル ヨーセンスル東西南北(とざいなんぼく) ちちみそりー老(ウ)てぃん 若(ワカ)さん ちちみそりー今日(チユ)や此(ク)まぬゥ 殿内(ドンチ)んかい我々(ワワァ)屋慶名青年団(ヤケナァせいねんだん)諸共(ムルトゥム) 寄(ユ)しりてぃ ちゃあびたんー皆(ムィナ)さん 宜(ユタ)しく頼(タヌ)みます〔東西南北の皆さん、お聞きください。老若問わず聞いてください。今日はここのお屋敷へ、我々屋慶名(やけな)青年団が全員揃って参りました。皆さんよろしく頼みます〕センスル センスル ヨーセンスルセンスル センスル ヨーセンスル我(ワ)ったー諸共(ムルトゥム) 良(ユー)聞(チ)きよー予(かね)て 言(い)い付(チ)きたる事通(グゥトゥ)にてぃーちん忘(ワ)しゆな むる知りよー〈オー〉〔全隊員よ、よく聞きなさいよ。予てから教えたとおりに何一つ間違えるなよ、全部覚えろよ〕〈エイサー臣下全員の(ヘーシ)掛け声〉センスル センスル ヨーセンスルセンスル センスル ヨーセンスル習(ナ)てぃから 我(ワ)ったーが 忘(ワ)しゆるさくいシタリガ センスル ヨーセンスルセンスル センスル ヨーセンスルセンスル センスル ヨーセンスル〔習った技を我々が間違えるはずがない〕
2006年05月17日
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「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」と、詠み松尾芭蕉が江戸を出発します。1689年(元禄2)」旧3月27日この日を新暦換算すれば、閏1月がある為2ヶ月のズレがあり5月16日になります。これを1988年日本旅のペンクラブが採用し、制定しました。「松島や、ああ松島や、松島や」奥の細道の行程は江戸から奥州街道を北上、日光に寄ったあと那須・白河・二本松などを通って松島に出ます。「夏草や、つわもの共が、夢の跡」平泉まで北上して詠み裏日本へ回ります。が、その途中寄り道「閑かさや、岩にしみいる、蝉の声」霊山・立石寺に寄ります。「荒海や佐渡に横たふ天の川」越後。「一つ家に遊女も寝たり萩と月」越中。「無惨やな、甲の下の、きりぎりす」加賀。そして福井では永平寺に寄り、敦賀から種の浜まで行きます。琵琶湖の東側大垣に到着し最後の句は「蛤のふたみに分かれ行く秋ぞ」「奥の細道」が完成した年に芭蕉が亡くなっているので、旅の途中で芭蕉は亡くなったと思っていました。しかし芭蕉は、江戸に戻ってから「幻住庵記」や「猿蓑」を書いています。??そうなんです。「奥の細道」はこの東北・北陸の旅の後、5年がかりで旅を再構成して作られたものでした。「奥の細道」と言う物は、実際の旅をベースにしているとはいえフィクションであり、それは取材旅行記と小説の中間の様なモノではないかと思います。ですから、この作品の中には多くの作られたエピソードもあります。このことは曽良の随行日記と比較しながら読み進めると面白いですね。想像ですが、芭蕉は旅をしながら心の中で写真を撮り続け、多くの記録を残し、その素材を元に作品をゆっくりと作り上げたかと感じました。例えば初日の宿は、「早加といふ宿にたどり着きにけり」曽良日記では「廿七日夜、カスカベに泊る」越中市振の親不知子不知の難所を過ぎて、小さな町に一泊した。芭蕉は、同じ宿に新潟で出会った遊女が泊まっているのに気づきます。「一つ家に遊女も寝たり萩と月」出家の身である芭蕉と遊女との再会。萩のわが身と遊女の月。芭蕉は「曽良に語れば書き留めたる」でしたが、曽良日記には市振の遊女の話は全くありません。再会話そのものが空想であり、綺麗な月に見とれる余りのおとぎ話かと感じます。詩人・小説家は、あたかも行った様な事を書くのが商売。でも実際に行った事に、構成や脚色を加えた手法はその当時、流行ってたのかな?その物だけを読むと完全な旅行記にも思えます。逆に、芭蕉の体温を感じる事ができました。ものかたり(物語)は、読む人を引き付けるエッセンスが人為的にあるのも事実ですね。事実⇒原作者⇒構成作家⇒脚本家⇒舞台演技者⇒見る者芭蕉は一人で、この作業を行なったのかな。
2006年05月16日
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沖縄の民話「船渡り猫」昔々、那覇泊(とまり)の港と山原(やんばる)を結ぶ輸送船があった。この船の船頭は、通堂仲地(那覇市通堂町)に家を構える程の商売人で、那覇品を山原に運んでは売り、山原から藍を持って帰っては売ると言う、それこそ海運会社並の働きをしていた。この船頭の家には一匹の猫を飼っていた。この猫は、船頭の奥さんが嫁いでくる時に連れてきていたため、かれこれ20年になります。「もう、そうとう歳とってるはず。このまま自由にしてあげましょうね」ある日、いつも船の中で生活している船員の一人が、船頭の家に用事の為やって来た。ただあいにく船頭も奥さんも入れ違いの不在でした。船員は、船頭が帰ってくるまで、軒の縁側に腰掛けて待った。この時代は、電気も無く、ガスも無い。食べ物の保存は、取っ手の付いたフタ付きの竹籠を軒下に吊るし、痛まない様に風を通していた。その籠の中には、かまぼこ(たらし揚げ)や干し肉や蒸し芋を入れていた。ここの猫は、船員が見てる前で、この籠に飛びついた。そのままムシャムシャと中の物を食べてしまった。船員はビックリしたが、気をとりなおし、追い払おうとした。この猫は、主猫で大きく、素早い身のこなしで、サッといなくなった。間もなくして、船頭と奥さんは帰ってきた。船員は、この事を一部始終話した。船頭は、こう言いました。「猫、特に長生きした主猫は、主人に怒られる様な事を他人から告げ口されると、夜間その者に復讐の噛み付きをすると言う」「そこでだ。お前は船着きに帰り、そこで寝る」「船には、舫い綱で係留してるな」「この舫い綱を緩めて、中央を海水に浸すようにしなさい」「綱を張り詰めた状態にすると、猫はそこを渡ってくるぞ」船員は、船頭の言われるままに、綱を緩めて中央を海水に着けて寝た。何も起こらず過ごせたと言う。 オルボン米びつ・かご 大好きなかごを編む 宮城県 飯かご
2006年05月15日
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明日、5月15日は沖縄の本土復帰記念日です。太平洋戦争後アメリカに占領されていた沖縄は34年前の明日、1972年(昭和47)5月15日日本領土として復帰しました。1945年(昭和20)の4月1日~6月23日まで続いた米軍沖縄上陸作戦では軍人民間人あわせて20万人もの犠牲が出ます。これにより、アメリカの手に落ちて〔アメリカ世〕から27年ぶりの本土復帰〔ヤマト世〕です。国交交渉により戦争で取られた領土が戻ってくる事実は極めて稀であり、これを成功に導いた時の首相佐藤栄作はノーベル平和賞を受けます。但し、その引き換えには多くのリスクも負います。戦争終結後のアメリカは、奄美諸島「1953年復帰」小笠原諸島「1968年復帰」この各諸島と沖縄本島を日本から切り離して管理しました。沖縄に駐留する米軍基地。沖縄を拠点とした軍事行動。朝鮮ベトナム中東軍隊を派遣するための前線基地・中継基地として沖縄は使用されてきました。その間、米軍は沖縄の人々を従属国の人間として見下した扱いをし、その風潮は復帰後34年たった今も大きくは変わっていません。在日米軍とのトラブルも多く、不条理も存在しますね。当時本土復帰後もアメリカがこの地に基地を維持する事を認める『口約束』が、復帰交渉を成功させたとした事実が長い年月を経た今明らかになっています。沖縄県の範囲とは、『北』沖縄本島の少し北「伊平屋島(北緯27度)」『南』八重山諸島 有人島最南端「波照間島(北緯24度)」『西』八重山諸島 台湾のすぐ近く「与那国島(東経123度)」『東』太平洋上に浮かぶ「北大東島(東経131度)」沖縄県領域面積は、「約20万平方km」これは本州全体面積とほぼ同等の広さですね。でも、その殆どが海上であり陸地面積は、全ての島を合わせても合計「2千平方km」で、全国でも4番目に狭い県です。歴史のおさらい沖縄を示す最初の名前が登場するのは、7世紀頃『流求』と呼ばれていました。が、この名称は現在の沖縄と台湾を含む地域を指していました。その後、現在の沖縄を『大琉球』台湾を『小琉球』と呼ぶようになります。「1187年」〔いろは文字が導入され、これより歴史書が書かれるようになります。〕琉球国の最初の王として舜天が就任し、これより琉球王朝ができる。「1326年」中山・北山・南山の三山分立の時代が始まる。この頃、各島々の搾取作戦としたそれぞれの王族と島の豪族との争い、この混乱に乗じて多くの倭寇がこの地域を拠点とし、東シナ海一帯を荒らし回りました。「1429年」尚巴志が三山を次々に攻略し、琉球を統一。琉球尚王朝を築きます。尚氏琉球王朝は、貿易の拠点として繁栄を続けます。「1592年」日本統一を果たした豊臣秀吉は、琉球国にも賦役を求める。「1609年」薩摩藩島津氏が琉球国に出兵して占領する。琉球王朝を従属させ、奄美諸島を直轄地として奪い、そのうえ朝貢を要求しました。〔朝貢とは、強制的な貢物・国民は重税〕しかし、琉球国の王朝制度の存続が認められた為、鎖国をしていた江戸時代、事実上交易を許された琉球国という立場が成立しました。間接的に琉球国を介して、大陸との国交交易も引き続き維持します。また、その微妙な地位が薩摩藩に莫大な富をもたらし続けます。当然の事ながら、その資金源が明治維新の原動力の一つになります。「1853年」日本に来た黒船ペリーは、琉球にも寄航し『琉米修好条約』が結ばれます。しかし、日本国は、琉球を自国の領土であると強く主張し、同じく領有権を主張する清国(中国)も振り切り、「1879年(明治12)」事実上日本固有の領土とする『沖縄県』を制定する。日本国の既成事実としての策略であり、琉球尚王朝の廃止(琉球藩)と、『県』庁の制定。観光地やリゾート地として、たくさんの「お客さん」を呼ぶ為に、『長寿の国』や『美しいサンゴ礁』ではあります。海外のサイパン・グアムも同じ激戦があった場所。
2006年05月14日
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直ぐ近くでも勘違いした言葉「猫」を沖縄では「マヤー」と言います。沖縄民謡の「与那国ぬ猫小(マヤーグヮ)」などね。でも、伊江島言葉では「メー」と言うそうです。『わったー家(ヤー)やー メークヮーよーホーラー産なーちぇーん』〔我が家に居る猫が、子供を産んだんだよ〕と、伊江島出身者はこう答えました。『メークァー 産ちゃん???』〔米が子を産んだ???〕猫も米も『メー』話聞き流すと困ってしまう言葉でした。
2006年05月13日
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バルバドスチェリー(アセローラ)熱帯性の果物アセローラ沖縄は、この果実の露地栽培北限にあたります。4月~9月までに4回開花時期があります。レモンより36倍のビタミンCが含まれていますね。海外の収穫法の中には、果樹園の周囲に土手を作り、川水を流し込み水没させます。樹を揺すり落実後、川下で収穫するそうです。ほぼ3日しか鮮度が保てないと言うのも、この収穫法で納得できますね。沖縄では、手摘み収穫法です。生食用アセローラは、海外から輸入されてもその鮮度が保てず、販路が絶たれていますね。しかし、沖縄は空輸すれば、その日の内に食卓にのぼる事も可能です。そこで今日は〔アセローラの日〕「写真提供:熱帯果樹写真館」
2006年05月12日
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沖縄の民話「ハブの恩返し」沖縄の豆腐は『島豆腐』と言い、豆乳を凝固させる為に海水をそのまま使います。昔からの伝統的な作り方を今も伝えています。さあ昔々の事でした。百姓を生業の女が、豆腐作りの為に海岸に潮水を汲みに行きました。持ってきた手桶に潮水を入れ、それを頭に乗せて帰る途中で、何やら音が聞こえて来ました。「パチパチ、パチパチ」通り道のすぐ側のアダン林から聞こえて来ました。「何?」そう思いながら、恐る恐る音のする所を覗き込みました。見るとアダン林の奥で煙が上がり、その煙の下では勢い良くアダンの枯れ葉が激しく燃え上がっています。「火事だ。今、消さないと大事になる」女は、潮水を入れて重い手桶を持ったまま、燃え上がるアダン林に飛び込みました。アダンの葉は、パイナップルの葉の様に長く伸び、その縁にはアロエの様なトゲがあり、大変痛い茂みの中を必死に駆け込みました。すると燃え上がる炎の囲まれるように、逃げ遅れた大ハブがいました。女は、頭に乗せていた桶を下ろしながら、「さあ、助けてやるからね。噛み付いたりしたらダメだよ」と、潮水をかけて火を消しました。女が念の為と、もう一度海から潮水を汲んで戻ると、大ハブの姿はどこにもありませんでした。ある日、女が赤ん坊を連れて畑に行きました。農作物の芋を掘り仕事です。でも、作業の為に赤ん坊から離れていると、泣きだします。側まで行っては抱き上げると泣き止みます。また、離れて芋を掘り始めると泣き出しました。女は仕事が、はかどらないので困ってしまいました。仕方が無いので、赤ん坊が泣き出しても構わず芋を掘りに専念することにしました。赤ん坊は泣き続けます。ふと気がつくと、延々泣いていた赤ん坊の泣き声が聞こえません。それどころか、赤ん坊の笑い声が聞こえて来ました。「どうしたの?さっきまであんなに泣いていたのに、今度は一人で機嫌よく笑ったりして」そう言いながら、赤ん坊の側まで戻ってきました。「きゃー あきさみよー」赤ん坊の傍らには、大ハブが居ました。女は慌てて、その辺りにあるはずのハブ追い棒を探しますが見つかりません。でも、不思議な事に赤ん坊は声を出して笑っています。よく見ると、なんと赤ん坊は、大ハブの首根っこをギュッと掴んでいました。大ハブのシッポが目の前で揺れる度に、赤ん坊は声を上げて笑っていました。女は冷静に、そのハブを見てみました。「あっ あの火事に助けた大ハブ?」そうです。大ハブは、助けてもらった礼に赤ん坊のお守をしていたのでした。「はぁ びっくりしたさー」女の人が呆れかえって見てると、三度驚き、ハブがしゃべりだしました。「この前の御恩返しに、アナタにハブに噛まれないおまじないを教えてあげましょう」「ハブと会う危険性がある場所では、こう言いなさい」言葉を区切らず一息で、『潮汲みの子孫だよ。水汲みの子孫だよ。上の道を通ったら、下の道を通れ。下の道を通ったら上の道を通れ。ジュホー、ジュホー』と、三回くり返し言って下さい。「そう唱えれば、決して噛まれる事はありませんよ」そう、大ハブは言い残し、去って行きました。それ以来、女は、どんなにハブが多い場所でもハブに噛まれる事はありませんでした。ハブも、その時の赤ん坊に首根っこを掴まれて以来、細くくびれてしまいました。
2006年05月11日
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先日、某番組で「ゴーヤーの日」の放送がありました。その中で害虫、特に「ウリミバエ」が挙げられていました。このハエは、姿は土蜂に姿が似ており、農作物を巣とする大変厄介な害虫です。そもそも、沖縄県は沖縄本島・宮古島・西表島などの島々からなり、日本で唯一亜熱帯海洋性気候に属しています。年間の平均気温も22℃を越え温暖で病害虫も発生しやすい環境です。NHK総合TV 2001年11月13日放送されたプロジェクトX 挑戦者たち「8ミリの悪魔 VS 特命班」最強の敵・野菜が危ない にウリミバエの根絶の模様が紹介されていました。かつて沖縄で取れた農作物の加工品以外は県外持ち出し規制がありました。生野菜であるゴーヤー・果物なども禁止。紅芋に至っては、現在も禁止処置がとられていますね。沖縄に旅行されて、観光地や公園のベンチはどうでした?サクなどはどうでした?材木を使っているのは、殆ど見かけないと思います。コンクリート製のベンチやサクだったのでないでしょうか。これは、品の悪いデザイナー屋の仕業ではありません。沖縄のシロアリの対策です。これから移住計画を立てている方もこの問題は深刻ですよ。沖縄のシロアリは、最適な条件の元、繁殖しています。特に沖縄では、気温が10℃以下になる事は稀ですね。この亜熱帯気候で活動するのが、「ダイコクシロアリ」です。冬期間も家屋への加害活動を継続的に続けているのは、「イエシロアリ」「ヤマトシロアリ」などがいます。また日本国内で確認されている家屋に被害をあたえる全ての種類のシロアリが、この沖縄県に存在しています。四方を海で囲まれていて四季を通して高温・多湿であり、シロアリにとって、最も活動しやすく繁殖しやすい環境が整っています。この環境では、冬季休眠や活動を鈍くする必要が無く、年中活動しており、シロアリによる被害の発生件数も他府県に比べて多く、その被害額も甚大です。日本国内には、16種類のシロアリが住んでいます。特に家屋木材に被害を与えるのは、「ヤマトシロアリ」〔北海道北部を除いて全国〕「イエシロアリ」〔神奈川県以西〕「ダイコクシロアリ」〔奄美大島以西〕この3種類です。沖縄には、その3種類全てのシロアリが生息しています。通常は木材・紙製品・衣類等を食べる昆虫です。が、時として地下ケーブル・ポリバケツ・コンクリート及び金属製品など木材以外にも、直接間接的に被害を与える場合もあるようです。 平板 LY-30K 床材 LY-70
2006年05月10日
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沖縄民謡「うんじゅが情(ナサキ)どぅ頼(タヌ)まりる」作詞作曲 知名定男うんじゅが姿(シガタ)ぬ 忘(ワシ)ららん思(ウム)い焦(クガ)りてぃ やしはてぃてぃただくうてん小(グヮ)し ゆたさいびさ我(ワン)思(ウム)いん さっして呉(クィ)みそぅれーうんじゅが情(ナサキ)どぅ 頼(タヌ)まりる〔アナタの姿が忘れられない、思い焦がれて痩せ果てて、只ほんの少しで良いですから、私の想いを察してください(アナタの心情だけが頼りなの)〕我身(ワミ)ぬ思(ウム)いゆ 此(ク)ぬ文(ふみ)に我身(ワミ)ぬ志情(シナサキ) 書(か)ちあしが思里(ウミサトゥ)が袖(スディ)に すらともてぃ心配(シワ)し送(ウク)ららんうんじゅが情(ナサキ)どぅ 頼(タヌ)まりる〔私の想いをこの手紙に、私の心の行く末を書き込みました。でも想い焦がれるアナタ様に、(袖振られる)ムゲに扱われると思い、心穏やかならず送れません〕昨日(チヌウ)ん 今夜(チユウ)ん めんそぅらん酒(サキ)ん 飲(ヌ)みわど 暮(くら)さりる煙草(タバク)ん 吹(ふ)きわどぅ 忘(ワシ)らりる明日(アチュ)なぎや ぬんせるはじやしがうんじゅが情(ナサキ)どぅ 頼(タヌ)まりる察(さっ)してぃ 呉(クィ)みそり 此(ク)ぬ思(ウム)い〔昨日も今夜も来てくださらない。お酒も飲まなきゃすごせない。煙草も吸わなきゃ忘れられない。明日位は来られるはずなのに、ねえ察して下さいな この想いを〕 【送料無料】瑞泉 本場泡盛セット(0685-092)/父の日ギフト 泡盛 レトロボトル6本セット0127アップ祭5 沖縄まるごと飲み比べ泡盛セット (泡盛360ml x 10本:シークワサー入り四季柑 x 1本) レトロ 泡盛 30度 600ml 飲み比べ12本セット [沖縄県]
2006年05月09日
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語呂合わせは勿論ですが、この頃からゴーヤーが市場に出回る為「1997年」JA沖縄経済連園芸部が制定しました。ゴーヤー(ニガウリ・苦瓜)とは ゴーヤーは1年生のウリ科植物。中国からインドにかけて、熱帯アジアが原産地となっています。和名「ツルレイシ」と言い、本州・九州では独特の苦味から「苦瓜」と呼ばれています。特に九州では、昔から味噌漬けなどの調理法もありました。沖縄では「ゴーヤー」と呼ばれ、古くから郷土料理の食材として利用されています。 ゴーヤーは、栽培産地により、異なる品種・果実も大小さまざま、白緑色・黄緑色・濃緑色など様々な色、形状も表面が細くとがったものから滑らかで太いもの、多数のコブ状の突起があるものなどがあり、種類によって味も成分の含有量も異なります。九州産は細長くて苦みが強く、沖縄産は肉厚で太く苦みが少ないのが特徴です。炒め物・薄くスライス水晒しのサラダ・厚く切り豚と煮込む等々の食べ方の他に、果実を乾燥させてお茶としても飲まれています。ゴーヤー(レイシ・ニガウリ)の効果血糖値・血圧・血中脂肪の低下があります。ゴーヤーには、インシュリン類似物質(ペプチドP)が豊富に含まれて、血糖値の調節に役立つ事が最近の研究があり、「植物インシュリン(p-インシュリン)」という呼び方をしています。ゴーヤー・レイシの真骨頂、苦味成分は「チャランチン」と「モモルデシン」です。「チャランチン」とは、すい臓のランゲルハンスβ細胞に働きかけインスリンの分泌を促進します。「モモルデシン」とは、血糖値や血圧を下げる作用、食欲を増進する働きや整腸作用があります。最近は、種にも注目ゴーヤーの種の中に多く含まれる共役リノール酸が脂肪燃焼を促すため、ダイエット効果があるとされています。また、モモルデシン、チャランチンは血糖値だけでなくコレステロールも低下させる効果があります。コレステロールや中性脂肪などの血中脂肪の低下には「水溶性食物繊維」が効果的なので、特にゴーヤーにはそれが豊富に含まれています。ビタミンCは他の野菜や果物などに比べて2~5倍含んでいながら、加熱によるビタミン成分破壊が少ないのも特徴ですね。緑色ゴーヤーに含まれるカロチン・ビタミンCは、疲労回復に効果的で、これからの夏バテ防止に最適な食材ですね。 【全国送料無料】琉球の旬野菜セットシャキシャキっとした食感がたまらない!沖縄産(生)島ら... 【送料無料】栄養たっぷり!沖縄石垣島産ゴーヤ 2kg(5~7本) ゴーヤー 鹿児島県産 1ケース 10~15本入り 【お買い得商品】九州産 ゴーヤー(にがうり)約4キロ本物のゴーヤーは九州産です。 ゴーヤーチャンプルーセット(約4~5人前)沖縄産ゴーヤー(2~3本)、島とうふ120g×2個、ごー... 旬の野菜を詰め合わせ 採れたて新鮮無農薬ゴーヤー1kg 【やっぱり沖縄産!】 ゴーヤー 1kg チルド発送 野菜(ベジタブルチップス)ミックス! アルミパック チャック付!160g ゴーヤ-ピクルス 190g ゴーヤ-カレー(1食分) ゴーヤー丼 (1人前) 【沖縄特産】白ゴーヤ(1本) 沖縄県産有機栽培【ゴーヤ】1本(袋入り)
2006年05月08日
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沖縄の民話「金持ちの心得」昔々、とても仲の良い男達が隣り合わせに住んでいました。東の家に住む男は、とても裕福な生活をしていました。でも、西の家に住む男の方は、貧しく貧相でした。ある日、二人は「トゥクネヤー(占い師の家)」に行く事になりました。「トゥク(占い師)」は、始めに経の様な呪文を唱えると、東の男にこう言いました。「東の家は、たくさんの食べ物もあり、よい運命と出た。あなたは働かなくてもいい暮しができる運命だ」西の男にこう言いました「西の家は、いつも一生懸命働いているが、なかなか暮らしはよくならない。あなたの入れ物に問題がある。入口は大きく、出口も大きい。入口と出口をどのようにしたらよいか、考えてみることだ」と言いました。東家の男も西家の男も、占い師の言葉を心にとめて家に帰りました。西家の男は、あの言葉を考えて生活の立て直しを図りました。一生懸命働き、収入時期は気を使い、支出時は少なく、出きるだけ倹約する様にしました。すると次第に暮しはよくなりました。東家の男は、あの言葉を信じ働く事をしなくなりました。すると、みるみる蓄えた物は底をつき、暮しは次第に苦しくなっていきました。それでも、東家の男は働こうとしません。退屈に感じた男は、西の男の家に遊びに行きました。声をかけながら庭に入りましたが返事はありませんでした。東の男は「貧しい者はいつも忙しいようだね。家に帰っても仕事もなく暇だ。ここでゆっくり休んでいこう」と思い、縁側で横になっていました。しばらく時間が過ぎ、東家の男は西家の庭に、ミカンの木を見つけました。その枝には、今にも折れんばかりの実がたくさんなっていました。「起きて取るのも面倒」と、寝転んだまま足を伸ばしポンと木を蹴りました。すると五、六個の熟したミカンが落ちて来ました。東家の男はミカンを食べながら考えました。「そうか、足だけを動かしてもこれだけの物を食べることができる。もし、体の全部を動かしたら、もっとたくさんの物が手に入るぞ」と、東家の男も働く事の大切さを知り、また働くようになったということです。 【送料無料】 沖縄産シークヮーサー果汁100% 500ml×2本 【送料無料】沖縄産シークヮーサー顆粒サプリメント2箱 沖縄産 ぎゅっとシークワーサー500ml×2本セット 沖縄みかんの里・本部町いずみ産のタンカン果汁・果皮がたっぷり入った!タンカンの甘くさわや... シークヮーサーもろみ酢 900ml まーさっさーシークヮサーキャンディ
2006年05月07日
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今日、石垣市登野城で「草葉願(フシバニガイ・フサバニンガイ)」があります。種蒔き・苗植えも終わり、丈夫に育つ様に願います。この頃から夏の日差しの様になってきますね。『草葉物忌(フサバームヌン)』から『草葉願(フサバニンガイ)』へ祈願祭は移ります。
2006年05月06日
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沖縄の民話「黄金猫(クガニマヤー)」昔々、ある村にカミナリを大変怖がる母親と二人息子が住んでいました。ある日急に空が曇り、鋭い稲光と共に地響きのする雷が鳴り響きました。カミナリ嫌いの母親は、そのあまりにも大きな雷に驚き死んでしまいました。残された兄弟は、母親を「後生(グソウ)〔あの世〕」へ送った直後に、この前の様な物凄い雷が鳴り響きました。弟は、死んだ母親が気になりました。生前あれほど怖がりショック死するほどのカミナリが、今また鳴っています。そこで兄の家に急いで行き、こう言いました。「兄さん、こんな雷が鳴ると母さんは怖がって震えているよ。様子を見に墓まで行こうよ」と兄を誘いました。しかし、兄は「後生へ行った人が、雷を怖がるものか。お前一人で行ってきなさい」と言いました。仕方なく弟は一人で、激しく雨が降りカミナリの光と音に震えながらも、母を安置した墓まで走っていきました。沖縄の墓は、人が中に入れるほど大きな造りになっています。「母さん、今日もこの前のように雷の音が酷く鳴っています。驚いていませんか」と、墓の中に入っていきました。すると、墓の中に安置している棺箱(カンバコ)の上に猫が座っていました。弟は、その猫を見て、「この猫(マヤー)は、母さんの「マブイ〔魂(たましい)〕」に違いない。さあ、母さん一緒に家に帰りましょうね」と言い、その猫を家に連れて帰りました。弟は、この猫を大変可愛がり仕事の時も寝る時もいつも一緒でした。ある日の夜明け、弟は猫の低く唸る声で目を覚ましました。何事かと思い猫の方を見ると大変な事になっていました。猫が黄金(クガニ)を産み落としていました。それから毎朝、猫は黄金を産むようになり、弟は村でも評判の金持ちになりました。その評判を聞いてやって来た兄は、「お前は人の物を盗んで金持ちになったのか」と問い詰めました。弟は、お墓に行こうと兄さんを誘った日にお墓の中にいた猫を連れて帰ったら、その猫が黄金を産むようになったことを話しました。兄も黄金が欲しくなり、強引に猫を借りると、すぐに自分の家に猫を引っ張って帰っていきました。しかし、猫は兄の家では毎朝ウンチばかりしていました。腹を立てた兄は、猫を殺して庭に放り出しました。弟は、兄が猫を連れて行ってからも猫の事が心配でなりません。ある日、弟は胸騒ぎがするので、兄の家へ走って行ってみると、兄の家の庭に死んでしまった猫が捨てられていました。弟は、その猫の亡骸を持ち帰り、庭の隅に墓を作り、その上にシィークヮーサーの苗木を植えて弔いました。まもなくその木は大きく高くなり、毎年黄金色の実がたくさん実るようになりました。これが最高品種『クガニ』と呼ばれるシークヮーサーの始まりです。シィークヮーサーとは、カボスに似た沖縄の柑橘類の果物です。別名「ヒラミレモン」「クガニ」とも言います。大きさは金柑位で、沖縄産シィクヮーサーの種類として、勝山クガニ伊豆味クガニ大宜味クガニなどがあり、海外でも数種類あるようです。その中でも、クガニは「黄金(くがに)」の名を持つほど、最高品種と言われ、完熟すればそのまま蜜柑と同じ様に食べる事ができます。通常は、柑橘酢として早採り(青実)を絞り、液だけ使います。「シィクヮーサー」は沖縄言葉で、「シィ」は「酸」、「クヮーサー」には「食べさせられる」という意味があります。酸味の成分は低いのですが、香はツンとくる爽やかさを持っています。収穫時期が違いますがm〇m
2006年05月05日
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5月4日で「みんさーの日」。3・3じゃないかと思われますが、この日を「5・4(いつの世も)」と祈願して織った「みんさー織り」に由来します。石垣市の大浜長照市長が「石垣島の常夏をみんさーウエアを着用・愛用して乗り越えよう」と、市民に同ウエアの着用を呼びかけキャンペーンがあり、織物協同組合が制定。 伝統工芸品八重山ミンサー八寸名古屋帯 渋草色 沖縄みんさーと浴衣セット 八重山みんさー半巾帯 22
2006年05月04日
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今日、とある神社の奉納武道大会に参加します。吟道糸東流空手道(沖縄空手)鎖鎌術杖術柔術棒術居合術もちろん、露払い役(清め役)のエイサー演舞で始まります。画像できれば、後にアップしますね。
2006年05月03日
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「ボケない小唄」かぜをひかずに 転ばずに笑い忘れず よくしゃべり頭と足腰使う人絶対ボケませんトゥルルンテントゥンあんやさやスポーツ カラオケ 踊る人趣味のある人 味もある異性に関心持つ人は絶対ボケませんトゥルルンテントゥンあんやさや年をとっても 白髪でも頭はハゲても まだ若い童謡 民謡 歌う人は絶対ボケません トゥルルンテントゥンあんやさや沖縄の老人施設で使われている歌です。NHK介護の達人と言う番組で以前放映されていました。ttp://www.nhk.or.jp/fnet/arch/thu/30904.html内地のお座敷小唄ベースでは、こうなります。風邪もひかずに 転ばずに笑いわすれず よくしやべり頭と足腰 使う人元気ある人 ボケませんスポーツ・カラオケ・囲碁・俳句趣味のある人 味もある異性に関心 持ちながら色気のある人 ボケません年をとっても 白髪でも頭はげても まだ若い演歌歌って アンコール生きがいある人 ボケません
2006年05月02日
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メーデーの由来5月1日は、14世紀、イギリスに始まった『花祝祭』でした。日本より北に位置するイギリスでは、春の訪れを喜ぶ祭日として、『5月の女王、May Queen(メイクイーン)』祭日とされていました。ジャガイモに命名もここからです。メーデーとは、「労働者の権利を主張し、団結を測る為の集会」とするようになったのは、1886年アメリカでした。5月1日アメリカ・シカゴで35万人が参加し、8時間労働制を求めるストライキが行われたことに由来します。それから3年後の1889年、第2インターナショナル創立大会で、この日を『万国労働者団結の日』と定め、翌年の1890年に第1回メーデーが開始されました。日本でのメーデーは、1901年4月3日「二六新報」が、第1回日本労働者大懇親会を開催しています。これがメーデーの前身とされています。労働者組合主催としては、1920年(大正9年)上野公園で開催されたものが最初になります。しかし、この第1回メーデーは、まだ休日として認められていなかった為、多くの人が集合できるようにと日曜日だった5月2日に開催されました。1936年(昭和11年)から政府によりメーデーが禁止されました。戦時中は完全中断されていました。1947年(昭和21年)第二次世界大戦後に復活しました。戦後〔軍国主義から民主主義〕へと変わったシステムの変革を叫ぶ労働者の熱がたかまり、この頃のメーデーは激しいイデオロギーのぶつかりあう集会になりました。結果、1952年のメーデーでは、デモ隊6000人行進が、〔集会として使用禁止とされていた皇居前広場〕に集結し、警察隊と衝突をしました。2人射殺、1230人検挙、負傷者2300人という大惨事になってしまいました。現在では、世界中で『5月1日はメーデー』として祝われ、韓国でも『勤労者の日』、中国でも『五一国際労働節』として祝われています。但し、メーデーと言えば5月1日というのが常識になった現在ですが、メーデーの始まりになったアメリカでは、その祭典自体に共産色が強くなりすぎ、現在では9月の第1月曜日に『労働祭』というモノを設けています。変わったメーデーとして、終戦の翌年である、1946年5月19日、皇居前広場に25万人の都民が集結し『食糧メーデー』が開催され、飯米を要求した集会が行なわれました。北海道 小樽夢の街アイスクリームおためし6個セット
2006年05月01日
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