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先週土曜日から、射場に4日連続で行くことになる。今日は今年度最後の練習ということになる。昨日は例によってリカーブの的を一枚だけ貼って、そこに3射。全体として8点は1本だけだった。ただ、矢のグルーピングはまちまちで、3本がほとんど同じところに集まる時と、9点の中でもばらける時がある。まだはっきりと分かっていないのだが、リリースを楽にしようとすると、ばらけることは確かだ。今の射は、結局射ちにいくのではなく、射を待つスタイルで、そこでリリーサーの指の力の配分など、それこそ「小手先」の操作で切ろうとすると、ばらける。まあ、程度問題なのだが、それでもバックテンションで苦しくても頑張る方が集中する。今日は午前は妻を銀行に乗せていって、年金振込手続き。その間に近くのホームセンターで畑の土を購入。今週畝づくりを終えて、苗を植える予定だ。練習は午後からたっぷりと。
2020.03.31
日本では、1月1日よりも4月1日の方が、社会生活の起点として感じられている。「年」ではなく「年度」で社会生活は動いていく。さらに、日本人にとって4月は季節としても「春」の始まりでもある。「学校年度」と企業の「会計年度」が4月で一致するのは、世界的には多数派ではないのだが、日本社会のシステムは4月がスタートである。ウィルス問題で、明日からの「新年度」は変則的なスタートにならざるを得ない。首都圏の大学の多くは「入学式」を中止し、講義の開始を延期している。新入社員は「入社式」は中止、とりあえず自宅待機、新人研修はネット配信で、というような会社が多い。小中高に関しても、文科省は「再開」を指示しているが、首都圏ではどうなるか微妙な判断となるだろう。おそらく「分散登校」「授業短縮」「部活の当面中止」などの変則的対応となるだろう。さて、自分にとっても明日は新年度、職業生活のスタートである。職業生活といっても、定年後4年目、週20時間の再雇用ということで、明日は全体会議、教科会議などへの出席だけ。4年前の4月1日とは大違いだ。トップとしては、3月中にいろいろな人事を決め、年間予定、授業配当、時間割作成などの指示をして、何とか4月1日を迎えるという感じだった。4月最初の全体会議では、前年度の教育活動の総括、新年度の具体的目標を挙げ、組織の一体化を図ることが職務であった。もし今年もそういう立場なら、ウィルス問題への対応という新たな課題があっただろう。定年後は、そういうことには極力関与せず、関与しないために、3月はあまり出勤せず(出勤すると相談されてしまうので)、暇な月だった。週20時間といっても、いわば「見なし労働時間」で、裁量労働制に近い形なので、タイムカード管理もない。給与はそれなりのものでしかないが、年金と合わせれば、日常生活に支障はない。昨年の7月、65歳からは老齢基礎年金が加わって、貯金の取り崩しも基本的にはしなくてもいい。今年3月からは妻の基礎年金も加わり、倹約すれば多少貯蓄にも回せるのだが(現に給与の8割くらいは、利率が銀行に比べれば高い共済貯金に天引きしてもらている)、あまりそういう気はない。共済積み立ての分は、普通預金から補填している。息子の大学も新年度は入学式中止など、変則的な始まりで、いろいろと疲れると言っていたが、無事にスタートするようだ。娘のところは、新年度から孫の保育料が無料となり家計的にはかなり楽になる。なにしろ、マンションを去年買ったので、これは助かるだろう。ともあれ、家族が無事に新たなスタートを迎えることを願っている。
2020.03.31
コロナ問題は、感染防止から生活問題、さらに経済問題にその論点を移してきている。感染問題では、首都封鎖という可能性が浮上しているが、封鎖が与える経済的打撃を考えると、なかなかそこに踏み切れないというところだろう。この件に関する自分の意見は、昨日書いた通り、「高齢者の外出自粛にもっと本腰を入れて取り組む」ということにつきる。重症化しやすいとされている当の本人が、街中に出て、若者の不要不急の外出を非難するというのは理屈に合わない。団塊世代は、そのライフステージを通じて、生産の主役であり、今は消費の主役だ。「お客様は神様です」というフレーズは彼らに向けられている。消費という場面に限って言えば、若い世代ほどアマゾンなどの利用率が高く、店舗消費の主役は今や高齢者たちなのだ。もし、自治体のレベルで補助を出すとすれば、スーパーなどからの高齢者世帯への配達を無料にできるようなシステムに対して補助をすべきだと思う。PCやスマホなどを使えない人も多いから、チラシの配布、電話でのオーダー、配達などにかかる経費を補助する。そうすれば、この世代は巣籠りが十分可能なのだ。この世代の娯楽の中心は、依然としてテレビだ。家でテレビのワイドショーをみて、世の中に文句を言いながら暮らしている。たまの気晴らしを兼ねて生活必需品を買いに出るのは、当分「自粛」してもいいではないか。不要不急であっても、地方なら散歩に行っても決して「密集」にはならない。また、高齢者の多くは年金という安定収入があり、独居率も高い。つまり、彼らが自粛することがコロナウィルスによる死亡を増やさない最も直接的で効果のある方法なのだ。彼らが巣籠りを我慢してくれれば、比較的軽症か無症状のまま回復することの多い現役世代は、普通の生活はしやすい。ただし、高齢者相手の仕事、特養などの高齢者福祉や医療に従事している者は、まったく別だ。彼らが感染者の場合、仕事の場面で高齢者に感染させてしまう可能性が高い。だから、彼らにも家と仕事の往復に活動範囲を制限する「自粛」が必要だ。一方、小中高生の場合は、新年度からの学校生活を始めるべきである。「子どもたちの命を守る」といえば、聞こえはいいが、ほとんどの子どもたちは重症化しない。保育園、幼稚園、子ども園も同様だ。もちろん、すべての子どもが重症化しないなどという保証はどこにもないし、中には死亡に至る場合もあるだろう。それでもいいのか、という批判は成り立つ。しかし、その批判のどこかに潜んでいるのは、80歳を越えるような老人がコロナで死ぬのは歳が歳だし、仕方ないという考えだ。要はどちらの外出を制限した方が、全体としての死亡率を引き上げないことにつながるかという科学的根拠を持った政治判断なのだ。その際、人の命は等しく尊い、という原則は固持すべきである。子どもが一人コロナで死ぬくらいなら、年寄りが10人死んだ方がいいとは決して言えないだろう。さて、学校であるが、やはり平常通りの活動を全部というわけにはいかない。特に、学校の本来の機能ではなく、教師の本来の職務でもない部活動は、当面中止すべきである。また、授業も感染可能性の高い形式、グループ学習なども当面はすべきでない。自分は元来この二つについては、弊害が多いと考えているから、このままずっとやらなくてもいいと思う。部活動のない、一斉授業だけの学校を二カ月も続けてみれば、部活動こそ本来の教育であるとし授業を軽視するあり方、生徒の主体性を重んじるといいながら、実は教師の説明能力の不足をごまかしているだけのアクティブラーニング授業に憂き身をやつすやり方、との冷静な比較ができるのではないか。学校が果たす機能はもっとシンプルなものになり、教師のブラック労働問題、保護者の理不尽なクレームなど多くの問題は解決するのではないか。そして、アクティブラーニングは放課後の塾で、部活は市民スポーツや芸術で、その機能を引き継げばいいのだ。実際その方が、はるかに学校でやるよりも多くの実りがもたらされることになるだろう。
2020.03.30
昨日は1時前から2時間半ほど射場に。フルドローからアンカリング、そしてエイミングしてから、まっすぐの方向を確かめながらバックテンションでカチッと鳴らす。その後は、なるべく同心円が狂わないように、あるいは多少狂ったとしても気にせず、むしろ押し手がちゃんと残ることを意識して引き続け、リリース。一連の身体の動きを意識しつつ、射つ。最初に8点が出たが、次第にグルーピングがよくなり、射型が安定してきた。リカーブ10点をあまり外さなくなってくる。そこで、ちょっと点取りをしてみようという気になった。57-55-60-59-60-60=35118m20cm的の点数だが、ベストに近い射だと思う。もう十数年前にベガスシュートで出した同条件のベストは30射、293。今回は、5エンドまでなら291。ただし、矢はカーボン1で細い。50mなら多分340台に載るかどうかというところかもしれない。アウター10のラインカットなら、50mでは9点だ。まあ、実際のところは昨日は一番いい状態の時に、点取りだったわけで、点取り後、もう一度フォームチェックのため30射ほどしたが、グルーピングは明らかにばらけてきた。いわば、最大瞬間風速のグルーピングの時、点数化しただけである。今日も射場が午前だけ開くそうで、当然練習に。仕事始めは1日、明後日だが、実質的には7日からになりそうだ。コロナ次第というところ。
2020.03.30
昨日は、午後2時間半ほど射場に。カチッからリリースまで、いかにエイミングを保ち、バランスを維持するか。今の問題はそれにつきる。やることははっきりしているから、点取りなどで気持ちを乱さず、一心不乱に射つ。徐々によくなっているのが分かるいい練習だった。夕方は総会。マスターズ全国通信アーチェリー大会で、去年の自己ベスト653点が60歳クラスの6位だったそうで、賞状をもらった。フーン、という感じ。こんな点数なら吐いて捨てるほどいるだろうし、申請者がもともと少ないのだろう。まあ、それでも自分の努力の結果ではあるのだから、ありがたくいただいた。今年はあと10点ほどは上積みしたいし、できる方向に向かっていると思う。今日は午前中、練習予定。
2020.03.29
報道によると、当面はコロナのために著しく生活が困難になった人たちへの現金給付という考え方に、大筋の方向は固まったようだ。その対象をどう確定するかという問題はあるとしても、一律に10万円をというようなポピュリズム政策に走らなかったのはよかったと思う。与党の一部にもこういうおかしなことを平気で言う議員もいた。コロナの影響で、一方では仕事がなくなった人たちがいて、他方、公務員や年金生活者を中心に当面の収入は変わらないという人たちもいる。彼らにとっては、10万円は子どもがお年玉をたんまりもらったようなもので、どう使おうかとあれこれ考え、楽しめるお金だ。限られた財源から、お年玉をあげることはない。自分は後者だが、自分たちに10万円くれるくらいなら、必要な人に回すべきだと思う。ただし、10万円を給付するよりも失業補償の期間と補償額の上乗せというやり方の方が、よりいいのではないか。必ずしもコロナで失業したとは限らないが、定職を失った人が再就職するのはいずれにしても難しい時勢である。難しいのはコロナの影響も大きいだろうから、あながち無駄な給付とは言えない。また、失業したわけではないが、非正規雇用で明らかに労働時間が減らされ、減収となった人にも補償があるべきだ。感染が終息していく段階での、プレミアム商品券なども旅行・宿泊、外食、運輸などに充てるようなものを考えているというが、それ自体も間違っていない。ダメージを受けたところに救いの手を差し伸べるというのは、その雇用を守るということであり、分かりやすい。しかも、こういう商品券であれば、利用するのは比較的余裕のある層であり、社会的富の再分配という観点からみても望ましい。逆進性の強い消費税率を下げる、あるいはゼロにするという安直な政策が野党を中心に主張されているが、それは支持できない。確かに今回の消費税値上げで、生活が苦しくなった人たちもいるだろうが、そのこととコロナとは別の問題である。コロナに乗じてポピュリズム政党が躍進するのは、何だか嫌な感じだ。コロナに乗じて、自分にも何かお得なことをしてほしいと願うのはさもしい人間である。そのさもしさにつけ込んで、正義の味方を演じようとするポピュリストに騙されてはいけない。震災や気候災害なら、被災者や被災地と関係のないところにボランティアは集まらない。被災地にあれだけの数のボランティアが行ったのは、困窮が目に見える形でそこにあったからだ。コロナはボランティアではどうにもならないが、まずはっきりと分かる失業者等の被害者を救済し、次にダメージを蒙ったところを支援し復興させていくという点では、災害復旧と何も変わらないだろう。昨日も書いたが、感染爆発に至らないためには、まず重症化しやすい高齢者、持病のある人が少し我慢して「自粛」することだ。そして重症化しにくい若年の人たちが最も集まるのは、繁華街ではなく、学校である。感染者が爆発的に増えない限り、四月には、学校空間の衛生管理を徹底した上で、普通通り始業するのが最も望ましい。
2020.03.29
コロナウィルスは「重大な局面」だそうで、東京での感染爆発が心配されている。上野公園などは、花見のための歩道まで通行止めになり、人が集まることを極端に警戒している。渋谷の109は土日休業。スタバも一斉休業だそうだ。都知事の会見で、スーパーには人が押し寄せたが、予め仕入れを多くしていたので、品切れという事態は避けられた。新橋は、サラリーマンが、今日はまっすぐ家に帰ると、インタビューに応じていた。テレビの論調は、「無自覚な若い人たちが、自粛要請を無視して、花見などに出かけるのは困ったものだ」「若い人は無症状でも感染している場合があり、もっと社会人、国民としての自覚を持ってほしい」などという具合に、批判のターゲットを若者にした感がある。確かに若者が街に遊びに行くのは「不要不急」だろう。そして、スーパーに年配者が押し寄せるのは「不要不急」とはいえない。しかし「絶対に今日必要」というわけでもない。であれば都知事が要請した途端に行くこともない。必要な時に、土曜でも日曜でも行けばいいのだ。金曜日にスーパーに長い列を作った彼らも「密集」を作り出している。重症化しやすいのは高齢者や持病のある人だとすれば、その人たちが外出を特に「自粛」しなければならない。外に出ずに、家の換気を十分に行い、どうしても必要な場合にだけ買い物や病院に行けばいい。WBSで、ロサンゼルスのスーパーが朝7時から8時に開いていて、その時間帯は高齢者専用だというのを紹介していた。非常に合理的だと思う。日本は高齢化社会なのだから、そういう取り組みがあってしかるべきである。マスコミの論調が支持されるのは、さまざまな理由で家に閉じこもっていなくてはならない高齢者の不満が、「不要不急」なのに街に遊びに出かける若者への怨恨感情と結びつくからである。そもそも、高齢者の出かける先に若者はほとんどいない。逆に渋谷のカフェは結構混んでいて、「密集」「密室」「密接」の三条件を満たしていたが、そこに高齢者の姿は皆無だった。イタリアは今でも大家族社会で、週末になると一族が集まり、食事を楽しむ。そこでは三世代が密集し、親密な関係を作っている。死者数が突出して多いのは、そのためだという解説を現地に住んでいる日本人の漫画家がしていて、なるほどと思った。コロナウィルスがなければ、それはとてもいい社会である。それにたいして、日本では独居老人も多く、特養などに隔離されている高齢者も多い。彼らの多くは、子ども世代、孫世代と親密な関係を作っているとはいえないだろう。日本で感染爆発に至らないのは、高齢者と若い世代の断絶があり、高齢者が社会から孤立しているからだ。コロナウィルスがあってもなくても、それは寂しい「無縁社会」であるには違いない。自分たち高齢者を顧みることなく、浮かれ騒いでいる若者を不快に思う感情はウィルス以前から社会の底流に流れていた。ウィルスをきっかけにその感情が噴出したとしても不思議ではない。こうして日本社会はますます「不寛容社会」となっていくだろう。
2020.03.28
昨日は、週に一回の整形の日。朝6時半に妻と二人分の診察券を出しに行き、順番は15,16番。25分ころ着いたが、すでに列はなくなっていた。早い人は、5時ころから並び始めて一桁の順番をもらい、そのまま残っている。金曜日は、何もないので、そこまでする必要もなく、大体十番台くらいの順番をもらい、11時ころ行くことにしている。行くと、その場にいる人の中で順番が早い人から診察する。予約がネットで取れればいいのだが、これはこれで合理的な方法だと思う。二人とも腰の注射、自分は二週間に一回は膝も。特に症状がなくても、通院している。自分としては、予防的医療だという捉え方だ。朝、帰宅してから、どうも疲れがたまっている感じがして、今日はゴロゴロしていようと決めた。弓も車からおろして、一階の洋間に置きっぱなしだ。射つ気がしない。ベッドでウトウトしながら、朝からDVDを観て過ごした。10時ころ出て、市役所に寄ってから病院に。すぐに腰に電気を当てる順番になり、それから診察。スーパーに寄って帰宅すると12時だった。昼食後もまたウトウト。浅い眠りだが、日中5時間くらいは眠った。春眠暁を覚えずどころではない。季節の変わり目で、疲れがたまっていたのだろうか。歳を取ると、何もしなくても疲れる。今日は午前中に射場に。夕方は弓の総会、懇親会。車で行って飲まずに帰ってくることにした。「自粛」といえば「自粛」。
2020.03.28
昨日は、午前中銀行マンが二人来訪。とりあえずNISAの枠で、ダウ平均に連動する投信を契約。まあ、どうなるか分からないが、長い目で見れば、今は10年に1度の買い場だろう。その他に、ちょっと面白い金融商品を紹介されたが、こちらの方は要検討。どちらにしても、あくまで余裕資金での投資である。午後は射場に。2時間半、たっぷりと射つ。最後は6本ずつ。途中でやけに上に行くようになり、サイトの弛みに気づく。本番なら致命的だ。そこを除けば8点はほぼない状態で、射としてはまずまず。インナーの10-10-10もあった。最後は6射で、リカーブなら59、CPでも57という中り。もう少し体に覚えさせることが必要だが、完全に何を目指すかは分かっている。
2020.03.27
コロナウィルスは、いよいよ首都圏で感染爆発直前という様相を呈してきた。都知事は、「オーバーシュート」「ロックダウン」などの聞いたことはないが、何やらおどろおどろしい感じがする英語を並べて、「自粛」を強く要請した。デパート、レジャー施設、ファッションビル、映画館などが週末は閉館というニュースが流れている。その一方で、新年度に向けて学校は予定通り入学式、始業式から授業に入るようだ。これ以上、休んだら夏休みが大幅に短縮になるし、家庭で子どもたちもいつまでもおとなしくしていられない。母親も、そうそうは仕事を休めない。とはいえ、何だかちぐはぐな感じは否めない。こういう危機的状態になると、なぜか嬉しくなる人たちも結構いて、政府の対応を舌鋒鋭く批判したり、根拠のない情報を拡散させたりする。その主たる手段はSNSであり、そういう無数の「呟き」はまともに取り合っても仕方ないから、本稿同様、ほぼ黙殺される。リアルなコミュニケーションが希薄な人は、何とか注目されたいから、ますます、極端な意見を述べるようになる。そういう極端な意見に同調する人は必ずいて、「雇用の喪失→大恐慌→生活困難→治安の悪化→非常事態宣言による私権の大幅な制限→国家滅亡」という悲観論が支持されやすくなる。「専門家」と呼ばれる人たちが、ワイドショーで垂れ流すその場限りの発言が、悲観論を根拠づけるかのように受け取られる。一方で「自粛」に従わない主として「若者」などの映像が、デフォルメされて何度も繰り返し放映されることで、その道徳性の欠如が激しく非難される。公園にいた高齢者の女性二人がマスクもつけず、声高に話す若者たちを非難していたが、彼女たちも喜々としてインタビューに応じているのだから、五十歩百歩ではないか。この状況は、災害や戦争などの非常時にも繰り返されてきたことだ。東日本の時は、メルトダウンは起こっていないというデマを原子力村の「専門家」が口々に垂れ流し、その後「絆」ということがしきりに言われた。今年は3・11はコロナウィルスの陰に隠れてしまったようだが、他の災害も引き続き起こり、一時ブームのようになった「ボランティア」も少し下火になったように感じる。人との直接的交流が「無縁社会」の中で、失われていく状況で、ボランティアはまさに「絆」を作ったのである。そこに新たなコミュニティの創出という可能性もあったが、残念ながらそこまでには至らなかった。その代り現れたのが「不寛容社会」である。「自粛」している人は、外出する若者を攻撃し、そのアジテーションをSNSで垂れ流す。時々そこに、不安を煽るデマを混じらせ、自分の意見を正当化する。彼らが目指しているのは、リアルな社会で一向に認められない自己の、「いいね」による承認だ。それはどこまでいっても、顔の見える人間の肉声を伴わない承認だから、満たされることはない。自分としては、いろいろな情報に振り回されず、経済的人間としてはうまく立ち回り、近所や家族と顔の見えるコミュニケーションを保ち、仕事の社会的価値を大切にし、まあ、いつもどおり生活していくだけである。「自粛」が「緊急事態宣言」の下での「指示・命令」になれば、よほど理不尽だと考えない限りそれに従う。やたらに悲観したり、過度に楽観したりはしないように努めるということだけだ。
2020.03.27
昨日は三階で二回に分けて、計60射。一回目は、例の20mmのドットを畳の上、下のあちこちに貼って、フィールドの射ち上げ、射ち下ろしの模擬練習。階段のところからの極端な射ち上げもやってみた。射ち下しは切れやすく、射ち上げは切れにくいことを思い出す。途中からは、普通に横一列に貼ったドットを射つ。フルドローから、アンカリング。そこから的を狙い始めるのだが、肘を高くして、肩甲骨の動きを意識しながら真ん中で止める。というより、真ん中で止まる方向を探し、その方向で肩甲骨を使い出す。そうするとカチッと鳴るが、その後親指を離し、肩甲骨を使ってさらに引くと、ほぼ固定したまま発射する。20mmのドットに5mの距離で、10mmの矢を射って、ど真ん中に入る射が確実に増えてきた。このバックテンションの使い方が、自分の射の核心だという確信にやっとたどり着いた。スポーツに限らず、さまざまな技術には、ここが核心であるという地平がある。そこにたどり着くまでは、試行錯誤の連続であり、ほとんど失敗の連続だ。自分のつたない経験で言えば、肘を矯める射や、リリーサーの頻繁な変更はすべて失敗だった。昨日、たどり着いたと思ったことが、また今日になると失敗と思う可能性もないではないのだが、今までとは違う「これだ!」という強い確信がある。今日は、射場で確認予定。
2020.03.26
昨日は妻の誕生日。これで、名実ともに高齢者夫婦世帯となった。合わせて年金生活者の仲間入りである。朝、娘と孫から電話。「ハッピーバースデイ、ディア、ばあちゃん♪」と孫が歌ってくれる。まあ、いい一日の始まりだ。妻も自分も、ちょっと疲れが出ていたが、何とかディナーに出かけられるように、一日だらだら過ごす。自分も三階の練習を二回だけ。何か、うとうとしながらの一日で、後10年もすれば毎日がこうなのか、とふと考えた。夕方、元気が少し出たので、予定通りバースディディナーに。この前行ったロシア料理店。ワイン、オードブル、ピロシキ、ロシア風水餃子、きのこのパイ包みスープに、今回はステーキを追加。最後にシフォンケーキとロシアティー。先週のハンバーグに続いて、今月は二回目の外食だった。こういう区切りの時を家族でちゃんと祝うことは、とても大切なことだと思っている。
2020.03.26
オリンピックは、1年を目途にした延期ということに正式に決まった。1週間以上前から、誰もができるはずはないとは思っていただろう。コロナが1年で収まってくれるといいのだが、これはまだ何とも言えないようだ。自分はこの前書いた通り、2年後への延期の可能性はまだ大いにあり得ると考えている。コロナが収まることについて、新聞でもテレビでも「収束」、「終息」の二つの表現が使われている。辞書をみると、1.事態が収束する。2.インフレが終息する。という用例がみつかった。二つの違いを知ろうとするとき、さまざまな用例を作ってみるというのは、国語学の初歩である。3.事態を収束させる→○4.インフレを終息させる→△5.複雑な問題が絡み合った事態を収束させる→○6.複雑な問題が絡み合った事態が終息する→○7.複雑な問題が絡み合った事態を終息させる→△か×8.混乱した会議を収束させる→○9.混乱した会議を終息させる→×10.混乱した会議が収束する→○11.混乱した会議が終息する→×まず、「収束する」ことは人間が何らかの整理をしてまとまりをつけられることである。1.の「事態」はそういう事態だ。2.の「インフレ」もそうだと言えそうだから「インフレが収束する」という表現も可能である。しかし、もう手が付けられなくなって十分苦しんだ後、インフレがようやく終わった、というニュアンスなら「終息」である。だから、3.「収束させる」は人間の介入があるのだから当然言えるが、4.「終息させる」は少し奇異な感じがする。何だか息の根を止める感じだ。以下、11.まで並べていくと「収束」は人間が引き起こしたことを、人間の手で整理し、一段落させることで、一方「終息」は自然現象でも人間現象でも、もはや人間が力及ばなくなった事態が、自然に終わるというニュアンスである。11.「会議が終息する」というのは、参加者が全員息も絶え絶えになってしまったような印象だ。コロナウィルスも今、全世界で「収束」させようと努力しているが、その発生は人間がコントロールできないことだったのだから、あるいは「終息」するのを待つほかないことかもしれない。延期されたオリンピックでも、聖火リレーの出発地は福島のままだろうが、そこにある原発は、全力を挙げて「収束」しなければならないのに、政府は何らの対策も打たず、ただただ「終息」を待っているかのようだ。「福島は完全にコントロールされている」と嘯いた首相が、延期されたオリンピックの時には、すでに退陣していることを強く願う。
2020.03.25
昨日、久しぶりに職場に行き、次年度の授業配当を確認。担当教科クラスはすでに決まっているが、時間割はまだだ。ようやくコマが収まったところで、これから微調整に入るところだという。10年ほど前、自分が担当責任者として導入したソフトで組んでいる。これが来てから、格段に速くなった。4人でたっぷり10日かかったものが、1時間で組める。ただ、最後にCPができないところを補正するのはやはり人間だ。自分の放課後講習は火曜日で、これで週3日、火・水・木の勤務が確定した。金曜から月曜までの休みは、弓の試合、小旅行などに都合がいい。授業+講習で、去年と同じ約10時間。授業は、名目で年間245時間、実質は200時間弱。講習は夏期、冬期を含めて年間で実質110時間程度だろうか。時給計算すると、最低賃金の6倍くらいにはなるが、準備などの時間をカウントすれば、せいぜい4倍程度か。もちろん、バイトとしても悪くはないが、一応正規雇用なので、社会保険等の雇用者負担分を考えると、さらに条件はいい。医療の方は国保より安いし、年金もほとんどフル支給され、年々わずかだが積み上がっていく。有休は去年のを合わせて40日あるが、授業や講習に穴は空けるわけにはいかない。こちらは有名無実というところだ。授業は、去年まで担当していた「倫理」がなくなり、代わりに「古典」。久しぶりだが「現代文」よりはずっと教えやすい。知識さえあれば、後は定着の問題だ。「思考」ではない。その点は少し残念なのだが、多分来年度は「倫理」に戻ることになるだろう。ただ、昨日も少ししてきたのだが、新米管理職へのアドバイスも見えない仕事の一つではある。これは頼まれたら助言するだけで、ああしろ、こうしろとは決して言わない。いずれにしても、生活のためには夫婦の年金で大丈夫というところに、「週3日、夏期・冬期・春期の長期休暇あり」という仕事ができるというのは、ありがたい。しかも、今までと同じ気心の知れた同僚がいて、仕事内容は自分がしてきた中で、一番得意で好きなものだ。以前にも書いたが、自分のアイデンティティの重要な一部である。定年退職後、生活のために結構きつい仕事をしなければならない人も多い。そういう方に比べれば、本当に恵まれている。
2020.03.25
今日は、久しぶりの出勤。何やかやで結構時間がかかり、二時間半ほどで退勤。その後、射場に。二時間くらい練習。射は大分良くなっている。具体的には、矢が下がらず、外してもやや9点の上に。左右のバラつきはほとんどない。カチッからリリースまでが格段にスムースになった。8点は、4本あったが、普通だと、3射してリカーブの10点に2本は入る。今シーズンはしばらくぶりのいいシーズンになりそうな予感がする。アウトドアに向かって、どんどん射が良くなっていくのは。やはり気分がいい。明日は三階で近射予定。ちょっとフィールド向きの練習をしてみたい。
2020.03.24
昨日は、妻と二人で病院。妻はかかりつけ医。自分はこの前大腸検査をした結果を聞きに大病院。一緒に出て、妻を降ろし、10時の予約前に着く。ポリープの生検結果は、予想通り、異状なし。これで、大腸カメラは来年以降でいいという。次は6月の胃カメラ。こちらの方は、半年ごとがしばらく続く。時間がうまく合って、帰りに妻をバス停で拾った。帰宅後、昼食。昨日自分が作ったチャーハンの残り、烏賊のリングフライなど。夕食は鰈の煮付け、おひたし、豚肉ともやし炒め、味噌汁。こういうごく普通の食事がおいしい。大腸カメラは、ポリープ切除の手術になったので、昼食後、かねて送ってもらっていた請求用紙を書いて、投函。ついでにダウンを洗濯に出して、カシミアのセーターをもらってくる。昼は妻と居間でDVD。『グッドワイフ』というCBCの弁護士事務所のドラマ。弓は完全休日。こういう日がないと、徐々に射が狂ってくる。一日休むと筋肉はリセットするので、また今日から。左で初めて狙って射つ感覚が出来てきたので、今年は最良のシーズンにしたい。と、自分たちには何ということもない普通の一日だったが、世間はコロナで騒がしい。パンデミックは今ヨーロッパ、アメリカで大変だが、各国が水際対策で渡航制限をし、グローバリズムは冷水をかけられた格好だ。いざとなると自分が大切なのは当然で、自国民の感染を防ぐために、他国からの渡航を拒むのは、理由はどうあれ、ナショナリズムである。EUでさえ、各国がそうしている。結局、近代が作り上げたネーションステートの枠組みは、依然として屈強だ。オリンピックは、それは当然だろうと思っていたが、やはり延期になるようだ。世界を見れば、とてもできそうにない状況である。「中止」はしないということだが、延期日程の調整がつかなければ、中止もあり得ると思う。一番可能性の高いのは2年後だろう。世界経済は、大不況に近い状況になりそうだ。こういう時は、おそらくドルがやはり基軸通貨であり、普通に考えればドル高である。ただ、アメリカの感染拡大がどうなるかにもよる。時間軸から考えると、収束の兆しはヨーロッパより少し後になるだろう。今日、銀行が来るが、ドルコスト平均法でのSP500かダウ平均連動の投信を積み立てを、とりあえず申し込んでおこうかと思っている。まあ、たいした額ではない。もし、120円を超える円高になる局面があれば、外貨建ての生命保険も解約する予定。春だし、花見の小旅行にも出かけたい。緊急事態宣言が出て、「自粛」が「禁止命令」にならない限り、普通に暮らそうと思う。ただし、旅行は、当日ふらっと、ということにしたい。予約すると、いろいろ面倒だ。世界は大変なことになっているが、それを自分たちのようなただの普通の人間が、一日中ワイドショーをみて、ああだ、こうだと騒ぎ立てるのは愚かしい。ましてや、人の振る舞いの可否を論じるような愚かなまねはしたくないのだ。昨日のニュースでは、上野公園で、「自粛」を要請されているが、ビニールシートの上で、控えめの少人数での宴会をしていた若い人たちも映っていた。まあ、そういうのもいいじゃないかと思う。仲のいい人たちが、少しの時間集まって、談笑しているだけのことである。それに目くじらを立てる偏狭な老人にはなりたくない。
2020.03.24
大相撲は昨日が千秋楽。無観客で、力士に感染者が出たらその時点で中止、という妙な緊張感の中で始まったが、相撲は相撲であり、15日間、結構楽しめた。白鵬、鶴竜の横綱同士の落日決戦というのも、7年ぶりだったそうだが、こちらの方は興味がわかない。やはり、相撲の伝統と外国人力士とはどこか決定的なところで、何かがずれていて、応援する気にはなれない。朝乃山は横綱に勝てなかったが、結び前の一番で貴景勝に最後に勝って11勝。ぎりぎりで大関になるようだ。それはそれでよかったかと思う。炎鵬は上位にはね返されたが、それでも6勝目をあげ、よかった。もう一つの国民的スポーツであるプロ野球は、開幕が延期。「練習試合」という形で、開幕カードをこなしている。もともと好きではないスポーツなので、見る気がしない。いずれにしても、観客がいないと、その競技の外延が消失し、内実が見えてくる。それが面白いかどうかが、見る側の試金石だ。
2020.03.23
昨日は午前中に射場に。人が多くいたので、3射ずつ。エイミングが次第にできるようになっている。以前は、極端な時は7時7点くらいについていて、そこから射って10点というような射だったが、今は6時9点くらいにはつく。だから、射った後の姿勢が崩れない。そういうことを確認しながら、大体50射くらい。8点も数本あったが、あまり気にしない。今までと違い、8点は皆、上方向にいく。つまり、エイミングが次第にセンターに近づいているのだ。全部そうなれば、サイトを動かせばいいだけだが、今はそこまでにはなっていない。今週は、どこにつこうが押し手をきちんと残すことを一つの目標にしようかと思っている。今日は弓は完休日。週に一回は必要だ。
2020.03.23
いつもの年なら、まだ周囲に雪が残っているが、今年はまったくない。遠くに見える山は、まだ白い稜線を描いているが、空気は暖かい。何でも今年の桜は4月中旬には開花するそうで、いつもより半月くらい早い。近所では、庭の土いじりを始めている人が多い。昨日は午前中の練習後、昼に蕎麦を食べ、それから真似事のような畑起こしをした。といっても、二畝分、スコップで土を掘り返しただけだ。そこに去年買っていた野菜用の黒土を混ぜて、もう一度スコップで、畝にする。土が足りないので、今週中には買いに行くことにした。今年もミニトマト、サヤエンドウなどを植えるつもりだ。少し汗をかくくらいの暖かさだった。夜は鹿児島の孫から電話。よちよち歩きで、父親からボールをもらっては母親に「はい」と。そのたびに拍手で褒められるから、自分も盛大に拍手をする。といっても手と手がちゃんと合わさらない。息子は大学の付属の高校でも特別講座を頼まれて、まあ、ちょっとはいいバイトくらいになるとのこと。前にいたこちらの短大は、ここしばらく学生が集まらず、教員の定期昇給はストップ、賞与ゼロとなったそうだ。学会で先輩の教員に会った時聞いたそうで「オマエ、いい時にやめたな」と。遠いが、余裕のある生活が見て取れ、安心した。自分の職場も、自分が管理職を辞めてからの3年間は、入学者が1クラス分くらい減っている。以前もそういう危機的状況だったのだが、自分の3年間は比較的安定していた。今はそこからみると元に戻ってしまった。そういう中で、まだ必要とされているのはありがたいことである。元の職位に戻る気はまったくないが、できる範囲で助言はしていこうと考えている。「晴耕雨読」というのが、リタイア後の理想としてよく言われるが、自分なら「晴弓雨読」だろうか。もう数年は、どうもそうはなれないようだ。
2020.03.23
前回書いた通り、今、「格差社会」として問題となっているのは、正規と非正規の格差に象徴されるアッパーミドルと中流と下流の格差である。この格差はその差が目に見えて違うわけではないから、いっそう強く格差を感じるという構造を持つ。人は、自分が完全に手が届かない生活に憧れは抱いても、嫉妬は感じない。自分たちとあまりにも違いすぎる彼らは、別世界の人間なのだ。ところが、アッパーミドルと中流、中流と下流は見た目は同じような生活をしている。特に地方では、着るもの、乗る車、子どもの習い事など、皆が同じようなライフスタイルであるように見える。一つの分岐点は住居だろう。アッパーミドル層は、大体30代で持ち家となるが、中流は40代、下流だとずっと賃貸ということが多い。その結果は、50代、60代でより顕著に現れる。アッパーミドル層は、退職時にすでにローンは終わっているが、中流だと1000万前後の退職金で、ローンを清算することとなる。下流はそもそもローンで家を買うという選択肢はほとんどない。無理をして購入すると、不況でローン破産に陥ることも多い。自分が今住んでいるところは、典型的な中流層の大規模分譲地だ。低金利が来る前に家を建てた人が多く、周囲は高齢化し、地価は下がり続けているから、売却して新たなマンションにでもという考えは、自分たちもないでもなかったが、そうなると手持ちの資産が半減する。隣の家の人も同じような年代だが、やはり住み続けるようだ。自分たちが建てた15年くらい後に、10年定額制という金融公庫の詐欺まがいのローンに乗った人たちは、11年目で返済額が急上昇し、リーマンショックがそれに重なり、ローン破産した人が多い。すでにバブルがはじけ、サラリーマンの平均年収の減少が始まっていた。「ボーナスを充てれば、大丈夫だ」と思っていた人たちのボーナスも、仕事もなくなっていった。同じような家を建てて住んでいても、毎月できるだけ低い返済に抑え、繰り上げ返済で早めにローンを終える人と、目一杯の借金をして、支払いが回らなくなる人がいる。同じような車に乗っていても、それを72回のローンで買う人もいれば、キャッシュで買う人もいる。子どもの教育も、高校までと考える人と、大学を考える人では、40代、50代までの教育資金の積み立てがまったく違う。無理をして教育ローンと奨学金で大学にやっても、やはり老後資金を蓄えることはできなくなる。どうしてそうなるのか。それは、マスコミが伝える「ちょっといい暮らし」のモデルが首都圏のアッパーミドル層をモデルにしているからだ。今なら夫婦二人で1000万円以上の年収があり、35年くらいの住宅ローンを30代で組み、繰り上げ返済をしつつ、子どもの教育資金も貯めていく。過度な節約はせず、ブランドの服を着て、車を所有し、海外旅行にも行くし、時々は高級レストランで美味しいものを食べる。最低でも2000万を超える退職金は、夫婦で2倍は残り、老後2千万問題は彼らにとっては、ノープロブレムだ。これがテレビドラマや、グルメ番組が伝えてきたアッパーミドルの生活である。それを中流層が真似ようとすると、ブランド品を買うが、食生活は貧しい。車は大衆車ではない数百万のものを買うが、子どもの教育資金は貯まらない、という一点豪華主義的な消費にならざるを得ない。しかも、退職金は大企業のせいぜい半分であり、老後資金は決定的に貯まらない。下流層は真似ようもないのだが、真似ると生活が破綻する。なぜ、中流層、下流層が無理をしてまで、アッパーミドルを真似るのかといえば、自分の社会的クラスが定位されていないからだ。「一億総中流」という幻想が、まだ彼らを支配している。彼らは「消費」によってそのアイデンティティを維持するほかないのだ。何を買うかで、自分の社会的ステータスが決まるという逆倒した価値観に支配されていく。本当は、どういうステータスに属するかで、何を買うかは決まってくるのだ。かつては、カローラに乗る人間とクラウンに乗る人間は年収が一桁違い、外食に行く店も、子どもの習い事も、進学先も、すべて違っていた。ところが今は、どう見ても中流でしかない人間がレクサスに乗り、安いマンションの駐車場から牛丼屋に乗りつけるという、極めて滑稽で奇妙な光景が普通になっている。ヴィトンはフランスでは本当の金持ちしか買わないが、中国や日本ではフランス語の発音も知らない中流層がこれ見よがしに持ち歩いている。そこにあるのは、能力が違うのに、一つのクラスにいるから、みんな同じなのだという幻想を与える公立義務教育校の姿の延長である。その精神の未熟さのまま、社会に出てしまった人たちの姿だ。たとえ「正規」であっても大企業と中小は決定的に生涯賃金が違うし、「非正規」あるいは「非正規すれすれの正規」ではさらに違う。それを受け入れるだけの成熟は、自分の周囲の同年代の人たちにはある。というか、そういう人たちでなければ、つき合わないのだ。彼らは、自分のステータスの中で、それなりに努力し見栄を張らずそれを継続してきた。古い言葉だが「分際」を受け入れている。まあ、年齢がそうさせているのかもしれない。人生の残り時間がもうあまりないのに、今更ブランドや高級車で、虚飾することのバカらしさには十分気づいているのだ。アイデンティティを「豊かそうな消費」というところに得ようとした人々が、今、固定化されつつある格差社会の中で、アイデンティティを喪失しつつある。
2020.03.23
昨日は出かける前に3階で18射。射場で54射。合わせて50mの1試合分は射てた。射場は一人だったので、的を2枚貼り、6射ずつ。6射だとやはり失敗の射が1本は出てしまう。インドアの10-10-10もあるが、ばらけた9-9-8も、という感じだ。点数は取らず、射型に集中した。HBCは親指のフックは取り、親指を本体に置くようにして使っている。今までは親指を外してから、カチッを待ったが、親指を置いたまま、バックテンションでカチッを鳴らしてから外し、そのまま引き続ける形を試してみた。概ね、この方がリリースは早く、安定する。今日は午前中に行って、さらに確かめる予定。
2020.03.22
昨日は、天気も良かったし、いい加減家でゴロゴロしているのにも、辟易したから、妻と「どこかへ出かけよう」ということになった。車で40分くらいの国定公園に、鳥を見に行く。知事の「緊急事態解除」宣言を待っていたかのように、国道へと続く基幹道路は、結構車であふれかえっていた。誰も考えることは同じなのだろう。途中で道の駅に寄り、ワカサギの佃煮と、いつものアップルパイのホールを買う。大体、予定通り着き、いつもの時期なら白鳥のいる沼のほとりに。暖冬で今年は、北に飛んでいく姿を、近所でも見ていたので、もういないだろうと思っていたが、予想通り。いたのはマガモくらい。それでも、久しぶりの郊外は、空気が心地よかった。渡り遅れの白鳥が3羽、上空を飛んでいた。昼食は、昔から有名なハンバーグ・ステーキレストランに。ここは、いつもたっぷり待つ。開店直後に入ったが、席はもう満杯で、ウェイティングリストの3番目。オーダーを受けてから、ハンバーグは成形し始めるので、たっぷり30分は待つだろうと思った。実際に30分後くらいに席が空き、自分は照り焼きハンバーグ、妻はハンバーグと海老フライを。小ライスとコーヒー。150gくらいのハンバーグで、熱々の鉄板にジャガイモ一個半、人参、コーンなどと一緒に運ばれてくる。昔と変わらない味だが、少し濃いように感じたのは、自分たちが歳を取ったからかもしれない。ここはスキー場のそばで、子どもたちを連れてよく来た。そんな話をしながら、ほぼ完食。自分はジャガイモを、妻はハンバーグを少し残した。ライスは二人とも。帰りがけに、夕食用の鯉のアライを買った。ここも長年、国道を通ると寄る店だった。帰宅すると2時。これなら間に合うと思い、射場に。妻は昼寝。一向に腹が減らぬまま、夕食は鯉のアライとホタテの味噌汁。久々にいい一日だった。来月は花見にでも出ようかと思っている。
2020.03.22
昨日は久々に射場に。18mにリカーブ用の的を貼り、3射×12回で点取り。57-56-56-56-57-57=33910点はリカーブの10点とした。8点が5本出たが、あと数ミリくらいのところでの8点。まあ、いいかと思うが、実際の50mなら324というところだろう。今日も射場に。今日は点取りなどせず、今の射型のイメージをひたすら追う練習。
2020.03.21
最初に断わっておくが、自分は「学歴社会」について積極的に肯定するわけではない。ただ、自分の生きてきた日本社会は、間違いなく学歴社会であり、その傾向はここ30年ほどでかなり強まっている。自分も妻も高学歴であり、子どもたちもそうだ。そのことで、自分たちの人生も、ある程度豊かに暮らせたし、子どもたちも、どうやらそういう軌道に乗ってくれつつあることは、親として安心している。つまり、「学歴社会」を理想の社会とは決して思わないが、現実的にはそれに適応しないと、いつまでも不満を抱えて生きていくことになるだろうと思う。プラグマティストとしては、その社会に適合できるように、子育てをしてきたし、それはそこそこうまくいった。さて、現代の事実を整理しよう。高校進学率が98%となった現代において、高校に進学しない2%は、最初から「生きる力」のない者と見られやすい。事実、彼らは社会の底辺を生きる可能性が高い。労働したとしてもほとんど非正規であるし、不登校から引きこもりへの道をたどり、中高年となった者もいる。そうなれば、親の年金にパラサイトせざるを得ない。大学進学率が50%を超えた時点で、高卒という資格は、求人の最低資格になった。新聞や求人誌の最も多い学歴要件は「高卒上」である。高卒で、就職する場合、販売や、運輸業、サービス業などの「現場仕事」がほとんどである。彼らは正社員の場合もあるが、現在は「派遣」という形が多いだろう。だから、終身雇用とはいえず、年功序列的賃金体系でもない。大企業でも、その日本的雇用慣行は崩れつつあるのだから、多くの高卒者が就職する中小企業ならなおのことだ。それでも、自分たちの世代より少し上なら高校進学率は70%程度であり、彼らは概ね「一億総中流」の中で職業生活を送り、現在は年金生活者となっている。消防や警察、自衛官などの公務員もいるし、その場合は、終身雇用、年功賃金制の中で退職し、現在の支給率よりもいい年金で生活できている。ただし、勤務先の世界では管理的部門にはほぼいけない。現状でいえば、高卒者はうまくいけば正規、大体は非正規であり、社会クラスでいえば80%以上の者が下流に属する。それでは、大学に進学した者が、その資格だけをもって中流以上の社会クラスに属せるかといえば、現状はそうではない。私立大学の半数は恒常的定員割れに陥っており、極端に言えば名前を書けば、入学試験には受かる大学全入時代は20年ほど前にすでに始まっている。俗にいうFラン大学の出身者、女子に多い短大出身者は、結果として高卒と変わらない就職しか用意されていないことが多い。そういう大学から名の通った一部上場企業を目指す者もいるが、バブルの頃ならそれも可能ではあった。現在はエントリーシートをいくら書いても、企業も公式には決して認めていないが採用フィルタリングにかけられ、どこに出しても「残念ながら・・・」というメールを受け取ることとなる。企業側としては、それも無理のないことで、日本語の読み書き、英語力、計算・情報処理能力が最初から怪しい応募者を入社筆記試験の前に排除しておくのは、採用コストの問題から見ても合理的なのだ。だから大卒の場合、「学歴社会」ではなく「学校歴社会」となるのは必然なのだ。「学校歴」下位層の大半は、結果として高卒者と変わらない就職をする。が、中には何十回となく落ち続ける就活で心が折れ、引きこもりに陥っていく者もいる。大卒者のほぼ半数以上、つまり世代人口の25~30%はやはり社会階層的にいえば「下流」に落とし込まれる。さて、残る20~25%の者が、大学という呼称に何とか値するとされるが、その中で東大、京大、旧帝大、一橋、東工大、そして早慶などの一流私大の出身者は、世代人口の10%程度だ。実はこの割合は50年以上前からほぼ変わらない。この人たちがいわゆるエリート予備軍であり、大半の者は官僚、大企業の総合職に受かり、少数の者が、場合によっては大学院へと進み、大学教員などの研究職、医師などの専門職に就く。それ以外の地方国立大やある程度有名な私大出身者にもそういう道はあるが、大半は出身地の地方公務員や大企業の一般職などに就く。あるいは小中高の教員なども多い。地方に住もうとすると、そういう大学出身者の就職先は極端に少ない。地方の中小企業は高卒者が多い。公務員は地域の高校から大学進学をした者がUターンで帰ってくる。あとは教員くらいのものだ。いずれにしても、この人たちは社会クラス的には「中流」であり、その後の職業生活で能力を発揮すれば、会社役員、公務員のトップ、教員なら地方中核都市のトップ校校長、教育委員会のトップくらいにはなれ、生涯で2億5千万くらいの賃金を得、現在の老後2千万円問題にも無縁でいられる「アッパーミドルクラス」には入ることができる。しかし、いずれにしても「上流」ではない。「上流」は「出自」、つまりどういう家に生まれたかで決まる階級なのだ。「アッパーミドル」といっても、結局は庶民階級であり、その価値観は世俗的である。以上、長々と現代の学歴社会の「事実」を整理してきたが、それに基づいた「分析」をすると、学歴社会が生まれ、進化するのは経済成長の必然の産物であり、成長が止まればその世界は「固定化」した格差社会に変っていくということがいえる。現に、自分の子どもに自分以上の学歴をと望む親は、大学間の「学校歴」での下層大学出身者が多く、首都圏では中学受験に血眼になるが、地方の「高卒者」ではそう思わない者が多い。せいぜい考えるのは、資格を得て生涯食べられるようにということであり、専門学校という無視できない数の存在がその要望に応えている。つまり、「学歴社会」は、中流と下流間の世代を渡っての移動が極端に少ない「格差固定社会」へと移行する。それは、小中学校で「成績」という格差を目に見える形で受け取り続け、地方では高校入試という最初の学校選択で、自分はその地方で何番目の高校に入ったかということにより、知的レベルの違う帰属集団に属し、大学入試ではセンター試験得点や偏差値でさらに詳細に格差づけられた大学に分化されていった結果として決まる「社会階層」の中で人は、数世代に渡って生き続けるということである。つまり、それは「学校」という場所で生まれた「格差」が、そのまま「社会」へと持ち込まれていくということであり、ここでも「社会の学校化」というすぐれて「現代的」な構図が浮かび上がるのである。
2020.03.21
昨日は3階で6射ずつ。3射はエイミングして、3射は狙わない近射モードで。分かったことが一つあった。エイミングからリリースまでの「間」は多分1~2秒の「間」がある。右で射っていたころはこの「間」はほとんどなかった。「狙いを付けた瞬間に放す」というのが自分の射で、それができれば、フォロースルーがどうだろうが関係ないでしょ!というやり方だった。そのやり方で深刻なターゲットパニックを発症したので、今は、それができない。この「間」にどういう意識で対応するか。「間延び」はタイミングを逸するが、「間伸び」なら理想的だ、というのが昨日の結論。「間伸び」というのは、エイミングからリリースの「間」に、押し引きをさらに伸ばす、という意識である。こう書くと、「何だ、当たり前じゃないか」と言われそうだが、自分の場合は新発見だった。「伸び」は押し手から始まる。さらにセンターへのエイミング精度を上げつつ押す。次に引き手が連動する。押し手が一番動かない方向を探りつつ、さらに引く。後は、決して押し手でエイミングの修正をせずに、リリースを待つ。意識はフォロースルーに。今日は祝日なので射場は開くはず。昼くらいに行く予定だ。
2020.03.20
昨日は、午前中にメインバンクの外商の方が来訪。要件は、銀行経由で申し込んだ医療保険の新たな商品の紹介。自分も妻も、この銀行の紹介で、定年を機に、国内の大手から、外資系大手に保険を変えた。自分の場合は、がん保険と一般医療保険を同じ保険会社のものにしている。モルト型リンパ腫という胃癌が見つかり、その時点で保険料、年間15万くらいが終身支払免除となった。この保険からすでに100万近い治療費、通院費、入院費、手術費が支払われていて、実際に払った医療費を越えている。高額医療費の上限に達した月も2~3か月くらいあり、共済からの戻り金もあったから、優に癌発症までの保険料もカバーできている。この先、支払い免除だが、請求はできるわけで、前回の大腸検査も小さなポリープを一つ取ったので、手術費請求ができる。ただし、保険の変更はできない。妻の保険は、自分と同じ保障だが、女性の場合は保険料が男性より安く、概ね半分くらいだ。今回は、同じ保障に加えて欧米で承認されていて、日本ではまだ未承認の治療薬(主として抗がん剤)を使う場合を保障するという内容だ。当然、日本では自由診療となり、高ければ数百万ということになる。それで治るなら、そちら方に乗り換えようということになった。保険料は年間で6000円程度上がるだけだ。ただし、入ってから3か月は、保障しないので、今の保険と3か月重複する。といっても1万程度の持ち出しにすぎない。それで、保障が厚くなるなら何ら問題はない。民間の医療保険に関しては、荻原博子などは不要と言っているが、上限までは自己負担ということになるのだから、年に十万程度の支出で、いざという場合に持ち出しが実質ゼロ、あるいはプラスになるというのは、まさに自分が経験したことなので、変更に関してはまったく決定に迷いはなかった。この銀行で、退職金の一部を優遇金利で運用してもらった。期間は2年間で、例えば200万の原資を預けると、100万は5%の利回りで3か月満期となる。まあ、3か月で大体1万だ。残りの100万は、外貨での3か月定期の形を取り、例えば1ドル100円で預金すると、96円までなら、円で1%の利率がつく。こちらの方は、3か月で2000円程度。ただし、それ以上の円高の場合、円ではなくドル償還となる。大体2年間で、今の年金+給料の2~3か月分くらいの利子が稼げた。結構大きい。外貨が元本割れしたのは1回だけで、それも数か月後に損益分岐点を超え、円に換えた。その優遇金利がなくなってから、ほぼ1年経ったところで、このコロナショックである。一日に3円もドル円が動く相場では、まったく手が出ない。もちろん、FXなどの投機性の高いものはやらない。しかし、ここは10年に一度の買い場でもあるだろう。コロナが収まれば、下がった分は上がる。もし円安がさらに進めば、外貨建ての保険に1本入っているので、それを解約すれば、結構な利益が上がる。そこで、勧められたのはドルコスト平均法で、毎月一定額で投信を買うこと。今でも給与の7割くらいは共済の貯蓄に回しているが、これは利率がいいといっても0.25%程度。確かに銀行の1年定期よりはいいが、それでも1000万で税引き後は2万くらい。優遇金利5%とは比較にならない。これについては、手数料と投信の内容をじっくりみて決めようと思う。たいした資産ではないが、少しでも減らさないようには努力しようかと考えている。いずれにしても、運用するのはあくまでもごく一部だ。
2020.03.20
我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など自己教育力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称することとし、知、徳、体、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。(1996 中央教育審議会第一次答申) 学校教育に「生きる力」という奇妙な日本語が登場したのは、もう25年も前のこの答申が端緒であった。背景にあったのは重厚長大という工業化社会の脱工業化、情報化社会の到来などである。その限りで、この答申は時宜を得たものであり、教育が「自己教育」であるという思想は、自分の思想と合致する。 ただし、ここで全く触れられていないのは「生きる力」を獲得するために学ぶべき伝統的知という視点である。『我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を、[生きる力]と称する』という文面を見る限り(ついでに言えば「社会を、」の読点は不要であり、「社会を生きる力」と一続きでなければ意味が不明になる。こういう無神経な日本語を書くのは「生きる力」の一つであるコミュニケーション力の欠如ではないか)、「これからの時代は、変化が激しく、古い知恵や教養にしがみついていたら、生きていけない」という含意が見て取れる。 当時のキーワードは「情報」と「国際」であり、その名前を冠した大学、学部が各地に誕生し、一時的にではあったが人気を集めた。そして「人文学」という古くからある学問の総称は、総じて不人気学部の代表となった。この変化の激しい時代に「生きる力」を得るためには、「温故知新」など不要と、審議会は考えたようである。 学校現場では、いきなり週2~3時間の「総合的な学習の時間」が振り分けられ、その扱いに困り、各地で「そば打ち教室」などが展開された。「そば打ち」がどうして「生きる力」につながるのかは、少なくとも現場では問われることもなかった。 「生きる力」には同時に「健康や体力が不可欠」とされ、いろいろな面でそれが備わっていない人間は「特別支援」の対象となり、「変化の激しい社会」から隔離されていった。また、現在、教師のブラック労働の主たる原因である「部活動」は、何ら見直されることがなかったが、それもこの答申に遠因があると、自分は考えている。なにしろ「健康と体力」である。 それ以上に大きな問題は、学校が「生きる力」の獲得を教育の目標として掲げた以上、その評価を担うのもまた学校であるということである。正規の学校教育から外れてしまった不登校等の生徒・児童は「生きる力」がないと判断される。現に義務教育では、不登校の生徒を卒業はさせるが、各教科の評価は普通は「1」をつける。つまり、学校教育の最大目標である「生きる力」につながる小分野、つまり、教科分野がすべて「1」ということであり、それは「生きる力がない」という宣告に等しい。 さらに、この答申を受けた学習指導要領から、義務教育の教科評価は「相対評価」から「絶対評価」に変った。つまり「1」の者は、下位7%に該当するのではなく、「絶対的に」「1」なのである。「絶対的に生きる力がない」という宣告を、学校は15歳の不登校生徒にしていることになる。 そして、この学習指導要領以来、つまり21世紀に入ってから「引きこもり」の問題が顕在化してくる。NEETという人たちは、社会のカーストの最下位層として存在するが、その価値づけを作り出したのは「生きる力」を目指した学校教育だ。そして、皮肉なことに、「引きこもり」を可能にしたのは「変化の激しい時代」の産物である「情報化社会」だ。すでに中高年に達している初代の(?)引きこもりは、スマホやPCを通してバーチャルな世界とはつながっていて、その世界は歪んだ世界だ。「生きる力」を、社会のある人たちから奪ったのは「学校」という制度である。
2020.03.19
昨日は気温も高く、近所を少し長めに妻と散歩。ウォーキングではなく、あくまでも散歩である。たらたらと歩くのはいいが、100mを30秒でなどというのは嫌いだ。珍しい鳥がいて、しばし眺めたり、あれ、ここの家はもう代替わりしたんだっけ、とか言いながら歩く。たっぷり30分は歩いたが、歩数計では3000歩程度だった。今日は午前は銀行の渉外担当が来る。おなじみの人で、退職以来、世話になった。結構いい利率で貯金の一部を預けた。優遇金利期間が過ぎたので、今は特に付き合いはないのだが、なぜか我が家が好きらしく時々顔を出す。午後は明日が休日なので整形に。
2020.03.19
コロナウィルスで、人が動かなくなった。みんな「巣籠り」を強要されるか、自発的にやっている。社会全体がそういう雰囲気になると、お気楽なセミリタイア生活の我が家も、何となく閉塞感に覆われはじめる。どこにも行く気がしなくなり、マスクを作ったり、買い物の長い列に並んだり、居間で寝転がってDVDを見たり・・・昨日は久しぶりに職場に顔を出したのだが、それで自分はいくらか気分転換になってはいるが、妻はここのところずっと「巣籠り」だ。中断していた英会話でも復活したら?と提案したが、「う~~ん」と。心配なのは、この騒ぎが一段落しても、今度は自分たちに外に出ていく活力が残っていないということだ。歳を取れば、そうなる可能性は高い。一度入院生活を体験すると、退院後もなかなか活動的な生活には戻れないのと同じだ。こういう時は、ほんの少しの贅沢をして、縮こまった心を解放するというのも一つのやり方だ。今日は、妻と散歩に出る予定。
2020.03.18
狙って射つ、狙わず意識を身体に置いて射つ。本来の意味での近射とは、後者だ。昨日は射場で、後半は一人だったので、最初の3本は狙い、次の3本は狙わないという6本射ちを数回やって、1時間半で終了。狙った3射の欠点を、すぐ次の3射で点検する効果はあると思った。狙いすぎて切れなくなることが多いと気づく。それを次の狙う3射で補正する。PDCAサイクルだ。この方法は、自宅3階の方がやりやすい。射場で自分だけ6本射つわけにもいかない。今日、明日は、自宅3階。
2020.03.18
学校は小さな社会であり、そこで得る経験は民主主義社会の経験の雛型である、とその思想は問題解決学習など、日本の戦後教育に大きな影響を与えたジョン・デューイが考えたのは、もう70年前の話だ。生徒会という組織があり、その会長候補が所信を述べ、生徒が一票を投じ、選挙管理委員会が開票し、当選者を決める、というのは、その一例なのだが、現在はどの中学、高校も候補者が複数立つなどということはなく、生徒会顧問に説得された者が、しぶしぶ立候補し、そのまま信任されるか、信任投票で信任されるかのどちらかのパターンがほとんどだろう。そして、生徒会は実質的には学校行事の請負機関であり、学校運営について権限を持っていない。中高生もそのことをよくわかっているから、立候補者の演説など誰も真剣に聴いていない。しかし、そういう意味でも「学校」は「社会」の雛型である。総理大臣の言説を誰も真剣に聴かないし、国会議員選挙の投票率は50%すれすれであり、地方議会だと30%を割り込むことも珍しくない。誰も政治に期待していないという状況は、中高生の生徒会に対する態度と同じである。自分が中高生だった頃は、生徒会長は一目置かれる存在で、決して先生の言うことを聞くだけの「いい子」ではなかった。小学校の児童会の会長は「いい子」だったが。自分は中学校で生徒会長をしたが、確か500票くらいの辛うじて過半数を取ったくらいだった。もう忘れてしまったが、何かのことで先生方とやり合った記憶がある。高校は学生運動が下に広がっていて、自分の進んだ進学校の生徒会は解体していた。クラスの代表が集まり、いろいろなことを学校に「要求」した。先生方は、前年までの激しい学生運動に懲りており、大概は物わかりがよく、大半の要求は通った。一番覚えているのは、行事としてそれまで存在していなかった修学旅行を要求し、実現したことだ。それは、その後数十年、自分たちで計画を立て、業者と交渉する「クラス旅行」という行事の基となった。寮は「寮の自治」という言葉が普通に使われていたが、学校ほど過激ではなかった。やはり、初めて自宅を離れた寮生にとって、寮は家庭であり、そこではブラザーや寮母と甘えあう関係の中で、ちょっとした違反を繰り返しては小言を食らう、心地よい生活があった。翻って、現在の中高の生徒会をみていると、決められたことをただ受動的に、教師の指示に従って請け負っている。その姿は、現在の社会の雛型だ。母校の寮には寮母ではなく寮教諭が入り込み、寮生の学習を学校から引き続いて管理しようとしているが、最近の進学実績は目を覆うほどの凋落ぶりである。そんなことを考えていた折、紅野健介という人の『国語教育 混迷する改革』の後半の記述を読み、ああ、そういうことだったのか、と思い至ったことがある。彼が言うには、学校が社会化したのではなく、社会の方が学校化したのである。イリイチなどの思想における学校制度批判は、学校制度が社会に適合する人間を育てていく機能を担う、という意味であった。学校は社会の価値観を内面化させていくための訓育の場だ。そして、この機能が過度に働いた結果、逆に社会が学校化したのだという紅野の指摘は斬新である。彼は、この視点を大学入学共通テストや新学習指導要領の国語教育改革の問題を論ずる際に用いているのだが、この視点を敷衍すれば、現代社会のさまざまな問題を切り分けることができそうだ。以下、数回に分けて論じていく。
2020.03.18
自宅三階の近射場?は、普通は的を貼って、射っている。だから、純粋な意味での近射ではない。距離は5mくらいか。狙った場合、どの程度の範囲に入れば、50mでどうなるか。昨日の計算をさらにすると、5:X=50:16X=1.65:X=50:24X=2.4というわけで、直径1.6cm以内なら50mでは9点以上。直径2.4cm以内なら8点以上という計算。そこで、20mmのドットのシールを100斤で買ってきて、畳に貼った。これをしっかり食えば、9点以上と思っていい。もちろん、矢はインドア用なので、目安でしかないのだが。まあ、大体しっかりと食う。直径9mmの矢がすっぽりと入れば10点と思っていい。そういう練習を何本かして、待てよ、と考えた。近射本来の練習効果がこれではまるでないじゃないか。フォームを作るのが近射のそもそもの目的だ。リカーブのころは、射線に立つ前に近射10回、練習後にまた10回くらいはやっていた。狙う前のフォームの確認と、狙って多少とも崩れたフォームの修正のためだ。そう思って、今度は畳の何もないところを射つ。狙わなければ、引き手の背中、押し手の力を受ける手首などに意識がいく。その理想形を追って、しばらくやってみた。射線上にいるかのように近射練習をし、近射しているかのように射線上で射つ。究極はそういうことなのだが、なかなか難しい。今日は、久々に出勤。午前中で帰宅し、その後射場に。
2020.03.17
三日前の土曜日は、孫のために妻とトイザラスにギターを見に行った。ちょっと足を延ばして、アップルパイを買いに。ここのは、小さなホールが1000円以下で買える。しかも煮たリンゴがうまい。いつも6分の1ずつ食べるから、3日は楽しめる。檸檬、蜂蜜を入れた紅茶と一緒にいただく。さて、ギターの方は、店舗で見ると、送られてきた動画のより小さい。娘が仕事の合間にメールを寄こして、フリマアプリでいいのを見つけたと。「それ、買ってくれ、後で払うから」と返信して、当初の目的はなくなった。便利な時代である。帰ってから、娘と息子に来年度もハーフの常勤になった旨、しらせておいた。我が家としては、ちょっぴりだけど収入増だよ、ということも。実際は年金の職域加算分支給停止のマイナス、非常勤で勤めた場合の賃金から見たプラスを相殺すれば月3万程度の増で、社会保障の部分は国保に妻も自分も移行することからみると1万ほどの負担減、あとは妻の老齢基礎年金支給があるが、それも数か月給付された特別加算がなくなり、振替加算となることと相殺するとプラス4万程度。あれこれ足したり引いたりすると、確かに収入増なのだが、どう考えても現役時の3分の1にもならない。まあ、バイトでもすれば別だが、そういう気はあまりなくなった。どうやら、うまくいけば貯金は取り崩さなくても暮らしていける。月に入ってくる額は、余裕のある高齢者夫婦の月の支出額と同じくらいだ。年収は、もはや娘が週に3日ほどで稼ぐ一年間のバイト代よりも少ない。息子は去年、はるかに自分を越えて稼いでいる。来年度は准教授申請をするそうで、さらに年収は増えていく。まあ、これから子どものために教育資金を貯めたり、家のローンを払っていく娘家族、息子家族と、そういうことはまるでなく、年に何回か旅行をしてその分は貯金からだねといっている自分たち老夫婦家族とは、事情は相当違う。この年齢で、決して富裕層というわけではないが、生活の心配がないというのはありがたいことではある。
2020.03.17
18m先の的の直径4cmの円の中、つまりリカーブの10点に入るなら、4:18=X:50X=11.1・・・・つまり、50m先の直径8cmの9点以内にはすべて入る。まあ、10-10-10-9-9-9というところだ。それは、ちょっとさすがに無理なので、18m的直径8cm以内なら、50m先では22.2・・・cm、つまり24cmの8点以内には入る。この精度なら、10-10-9-9-8-8くらいの感じか。。50mで昨年やっと330を射てた自分の実力は、後者の方だろう。昨日はそんなことも意識しながら、とにかくゴールドを外すことがなく、かつその限りでバランスを取ることを優先して射った。意識としては、9点以内>バランス>10点という感じ。今までは10点>9点>バランスだった。そうすると逆に8点が出やすい。50m先の押し手の角度を考えると、18m先なら3連的の上よりも少し高い。つまり畳の一番高いところ。そこにインドア用の的を一枚だけ切って貼り、3射ずつ。ほとんど9点の中には収まる。バランスさえうまく取れれば、10-10-10(リカーブの)もある。さすがにコンパウンドの10-10-10はなかった。矢が弾かれる。9点以内に入れば、それ以上サイトを真ん中に固定せず、押し引きのバランスを射つという意識。具体的に言うと、一端エイミングが取れたら、後はズレを気にせず、引き続け、押し手も負けないようにしつつ、フォロースルー、特に押し手が残ることを意識し、リリースを待つという意識で射った。多分、330は出る射が出来てきたように思う。今日は自宅三階で、近射の予定。
2020.03.16
昨日は午前中、散歩を兼ねて近所のスーパーまで。今年はもう雪がほとんどなく、途中の道路脇で、ふきのとうが芽吹いていた。妻とちょっと回り道をして、採集。年金生活者らしく、3月はふきのとう、4月は行者大蒜、6月は桑の実を採集して、調理する。何しろ元手いらずだ。全部で50個ほども採ったろうか。帰ってから、妻がまず蕗味噌を作った。油味噌をまず作っておいて、そこにふきのとうを刻んだのを炒め、手早く混ぜる。酒の肴としては絶品だ。夕食は、ふきのとうの天麩羅。舞茸とチカも揚げた。こういう一日があると、休日だらけの3月も悪くない。
2020.03.16
このところ仕事も休みで暇を持て余している。行き着く先は、自分の場合は海外ドラマのDVDだ。本は読むが、根を詰めて読むのはしんどくなっている。最近は黒井千次の『老いの味わい』とかいう似たようなエッセイの新書を2冊、斉藤孝の『読書力』『新学力観』、紅野健介『国語教育 混迷する改革』しか買っていない。海外ドラマはGEOの株主優待で、常に半額で借りられる。旧作なら55円。安い娯楽だ。最近ハマったのは『GOOD FIGHT』。BSでやっていたのを妻が見たのをきっかけにシーズン2までもう見終った。CBCの制作で、あからさまなトランプ批判の毒を含んだ民主党系で黒人主体の弁護士事務所の人間像を描き出す一種の法廷ドラマだ。その前身の『GOOD WIFE』も自分はすべて見たが、また妻と茶の間のテレビで見ようかと思っている。こちらはやはり弁護士が主役だが、夫の知事選挙などが絡み、より複雑なサブストーリー構成になっている。自室で見ているのは『SCORPION』というシリーズ。こちらは完全な娯楽作品で、4人のIQが700という天才集団が、FBIの犯罪捜査を請け負うというもの。天才であるが故に、普通の人間が理解できない彼らの性格描写がステレオタイプだが、一種のコメディを作っている。テレビはコロナばかりだし、どこも同じ映像と同じコメントを垂れ流しているだけで、いい加減飽き飽きしている。好きな時間に自宅で好きな映画を観る、というのが十代のころ夢見ていたことだが、あっさりと実現してしまった。ただ、120分くらいの映画を観る気が段々しなくなっていて、妻と年に数回映画館に行くくらいだ。それも今はコロナのせいで、何だか気が向かない。今朝は4時に起き、一通り新聞を読み、サンドイッチを食べて、まだ6時前だから、もう一度ベッドに戻ってSCORPIONでも見ながらもう少しまどろむことに。
2020.03.15
3年前、レフティに転向したときに、弓も矢も競技用としては最低スペックの安いものにした。転向したのが62歳の4月。もはや、右の時のように全日を目指して、というようなことは無理だと思ったし、そのレベルでは性能の高い弓や矢は何の役にも立たないと分かっていたからである。昨日は、その矢をインドア用から換えたCARBON・ONEを持って射場に。細いので、どこに中ったかまったく見えない。それがかえって良かったのだろう。ただひたすらフォームに集中した。9点から外れることはまずなくて、狭い10点にも結構入る。的は三連的の一枚だけを切って、大体50mの角度ならこのくらいかとアタリをつけて、少し上に貼った。実際は30mの角度くらいだったかもしれない。1時間半くらい、射った。見えてきた課題は、セットアップの一定化と、エイミングを捨て、ただ引いて切れるのを待つ時間の一定化。今日も午後からの予定。
2020.03.15
昨日は、久しぶりに娘から、というより孫から電話。まだ三歳なので、さすがに自分からはかけられない。電話だと、何を言っているのかよく分からないことも多い。このコロナ騒ぎで、保育園も毎日は行かず、自宅で過ごすことも多いようだ。昨日は、キューバ人の旦那さんが静岡に仕事が決まって、もうすぐお別れすることになるフィン君の家に行ったそうだ。娘とアイルランド人の奥さんとは子どもが生まれる前からの友人で、孫とフィン君は「悪友」といってよい。日本人の中では大きい孫より、体は一回り以上大きい。フィン君は孫との別れが辛いらしく、「・・・is my best friend」と言って、わんわん泣いていたそうだが、孫はまだ事態がよく分かっていないのか、普通に遊んできたらしい。そんな話を娘と自分たちがしていると、孫が突然割り込む。まあ、いつものことである。「じいちゃんきてくれる?」最初はそういうふうに聞こえた。いいかげん外出自粛というのにもうんざりしていたので、「うんいいよ」と。自分は新年度までは、数回勤務先には顔を出せばいい。妻も予定していた茶会やお花の稽古が流れ、暇だった。ホテルはこのご時世だからがら空きでいつでも取れる。孫は「やったぁ!」と喜んでいる。こちらがすっかり行く気満々になったところで、娘も「わあ、じいちゃん来るって、よかったねえ」などと言い始める。ところが、段々娘と話しているうちに孫は「じいちゃん、ギター(買って)くれる?」と発音していたのだと分かる。後から送られてきた画像では孫は子どものおもちゃのような4弦のギターを手に持って、ポロン、ポロンと弾き、「オーケー!」とやっている。フィン君の家で撮ったようだ。しかし、孫は「じいちゃんがギターを買ってくれる」と思い込んでいるから、まあ、仕方がない。今日午前中に、リサイクルショップで探そうかと思っている。子どもたちを育てる時に、何かがほしいと言われたら、ダメな時はダメだと言い、また今度ね、と言ってごまかすことは絶対にしなかった。子どもが忘れてしまっても、必ず約束したことは実行した。しかし、ヴァイオリンなら聞いたこともあるが、ギターにも子供用があるのか、それとも4弦のウクレレがちょうどいいのか。見たところでは、完全なおもちゃなので、リサイクルショップで見つからなければ、おもちゃ屋、そうでなければ楽器店か通販と思っている。今、調べたらいろいろな商品がある。それを孫にあげるためだけの二泊くらいの小旅行も悪くない。
2020.03.14
自分たち夫婦は、多くの人間は許容できると思うが、中にはどうしても受け入れられない人間の類型があり、それはひと言で言えば「さもしい」人間だ。能力もなく、努力もせず、人の幸福をひがみ、ねたみ、そねむ。見栄を張り、自分を善人に見せかけ、人につけ込み、たかり続けてきた。その本当の正体を言い当てると黙り込む。自分ではなく、妻がそういう人間と関わりを持たざるを得ず、ここ1週間は大変だった。情けないほどわずかな金もなく、一生、親にたかり続けてきた人間だ。卑劣で、頭も性格も最悪の人間性である。顔も心もすべてが汚い。おまけに金にも汚い。たかだか100万円の金を得るのに、汚い真似を平気でする。そういう人間と関わりながら生きていくのは馬鹿らしい。そういう人間に自分の能力や言葉のかけらすら使うのも馬鹿らしい。他者から全く評価される要素がなく、たかった金で消費することで他者承認を期待し、当然だが何の承認も得られない人生と、こちらの家族や友人や職場の人間関係に恵まれた幸福な人生が交わることのないようにしておかなければならない。歳を取れば人生の残り時間をそういうくだらない人間との争いに使うのはバカバカしいのだ。自分としては妻を見守るほかなかったのだが、どうやらこれで終わったようだ。今後も劣等感の塊としか言いようのない人間とつきあうのは御免蒙りたい。
2020.03.14
歳を取ると、睡眠時間は短くなる、と二、三日前の新聞記事で読んだ。記事では、9時ころ寝ても夜中や、朝早すぎる時間に目が覚めてしまうのは高齢者には普通のことだから、就寝時間を調整して、朝は一定の時間に目が覚めるようにするなど、いろいろとアドバイスが書いてあったが、余計なお世話だと思った。自分の場合は、大体9時台から10時台に就寝し、3~4時台に目覚めるというのが普通だ。起きるのが早すぎるとは思わない。暇なので、ここに雑文を書くのが日課になっている。これが夏になると、風のない5時ころには射場に立っているのだ。管理職になってから、睡眠導入剤が欠かせなくなった。週刊誌などでは、「飲んではいけない薬」という特集が時々あり、睡眠剤も常連のようにやり玉に挙げられているのだが、これもあまり気にしない。かかりつけ医が出してくれる、ごく弱いもので、それに合わせてグリナという睡眠補助の医薬部外品を飲んでいる。その医者自身のやり方を教えてもらった。飲んで30分すると床に入り、ほぼ10分以内に寝る。海外ドラマを見ながら、というのがいつものことで、必ず一話分50分のオフタイマーにしておく。目をつぶり、リスニングしながら、そのうち眠る。後から改めてドラマを見ると、リスニングは支離滅裂で、全然違うストーリーを作っていることが多い。まあ、一種の夢なのだろう。そもそも、英文は何とか読めても、リスニング能力は格段に低いのだ。大体5時間くらいは眠り続け、その後にもう一眠りというのが普通のパターンで、寝不足感はほぼ毎日ある。できれば、あと1時間眠りたいが、その分は昼寝だな、と思うようになった。実際、昼寝も2日に1回くらいはする。昼寝というより、夕寝に近い。3時か4時くらいにエネルギーが切れる感じになり、ベッドに入るとすぐに眠る。30分から1時間くらい。ところで、昔、息子がミニウサギをペットにしていたことがあった。「ボクが一生面倒見るから」という約束だったが、その「ボク」はさっさと東京の大学に行ってしまい、後に残されたウサギの面倒は、結局自分たち夫婦が見ていた。レタスが主食だったラビ(安易な命名だ)は、一玉400円の時にも一日一玉きっちりと食べ、どこがミニなのか分からないくらい肥え太り、ウサギのくせに跳べなくなった。ドスン、ドスンと落下する。そのラビが段々老い衰えていく時に、一つ跳んでは、一眠りというふうになっていった。ふっと気づいて跳ぶ、というよりよたよた歩くのだが、またすぐ眠ってしまう。自分の睡眠も、段々それに近づいてきたような気もするが、それは仕方のないことなのだろう。
2020.03.13
昨日の練習は、もう一段長いドローレングスで。結局、午後の仕事が長引いたので、午前中しかできなかった。10-10-10が一回。10-10-9が数回と、まずまずの中りだが、射った感じはあまりよくはない。途中で自作のグリップを外すと、少しバランスがよくなった。考えてみると、インドアの試合はもうないので、そろそろ夏用の矢で射ってもいい。細い矢なら18m先でも、ノックの破損などを心配しなくてもよさそうだ。次の公認試合は4月末のフィールド。その後、5~7月にターゲットとなる。フィールドは、少しドローレングスを短くしないと、射ち上げや射ち下しの時に、引き切れないので、また一つ分くらいは短くすることになるだろうが、50mターゲットは今の長さがいいようにも思う。とりあえず、今の長さのまま射場練習では、TARGET・ONEを使い、三階ではインドア用の矢で、ということにした。三階は畳5枚を重ねているが、細い矢だと抜けてしまう。そろそろ今シーズンは畳の取り換えをせねば、と思うのだが、まあ、秋口の話だ。レスト調整などは、本格的にはアウトドア射場に出てから、ということになるだろう。
2020.03.13
妻と自分の間で最近よく話すのは、「金曜日があっという間に来る」ということだ。金曜日は整形に一緒に行く日で、一週間で唯一何をするかが明確に決まっている日である。その金曜日があっという間にやってくる。「これじゃ、旅行もちょっと行けないな」「そうだね」「まあ、家で何かやるかね」・・・そんなわけで、我が家としては少し贅沢な外食をしたり、雪解けが早いので家庭菜園の土づくりをしたり、ここしばらくは、そんなふうに日々を過ごすことにしている。今日は、久しぶりに出勤。1時半に会議がある。それまでの予定は朝の内に草むしり。雪解けの柔らかな土なので、草は楽に抜ける。それから、午前中に射場。帰宅して昼食。出勤。退勤途中に再び射場に、というところだ。一日の予定がこれだけ決まっているのは久しぶりのことだ。
2020.03.12
WHOは新型コロナウィルスをパンデミック(世界的大流行)と初めて宣言した。前日の「パンデミックが現実味を帯びてきた」という言い方から、一歩踏み込んだ形である。それを受けてNY株は一時1600ドルの下落。当然、きょうの日本株も大幅下落となるだろう。このウィルスについて、マスコミが垂れ流してきた情報は、当初は「人から人への感染は確認されていない」であり、最近は「クラスターが確認されているから、ここが正念場だ」であり、昨日は「経済的影響をどう最小限にするか」である。その間、一貫して「日本は感染者、死者ともに抑制されている」という情報もあった。一方で「PCR検査が必要な人に行われていない」と言い、他方で「軽症者はとにかく自宅で安静に」と言う。こういう一連の動きを見て、思い出すのは福島の原子力事故である。当初は「メルトダウンは起こっていない」であり、「放射線量は自然界にある量以上ではない」であり、しばらくたってからは「完全にコントロールされている」だった。受け止めきれない事態が起こった時の心理の第一段階は「否定」である。そして次は「怒り」だ。すでに、クルーズ船への対応批判や、一方的な学校閉鎖に対する批判は生じている。3・11の時も、首相が冷静さを失って周囲を怒鳴りつけている姿が後から暴露され、国民は怒り、民主党政権は一気に信頼を失った。問題は日本全体が、一つの方向に大衆心理が押し流されていくことだ。マスコミがそれに一役買っている。マスコミは、基本的に真実ではなく、大衆が真実と思いたいことを垂れ流す。丹念に取材すれば、あることを示す事実とあることを示さない事実が、つまり矛盾した二つの事実が見つかるはずだ。そのうち故意に大衆の意に沿わないことを切り捨てて報道するのがマスコミだ。マスコミは不安を煽り、その不安を否定し、不安を作り出した犯人を暴き、怒りへと扇動する。そして一番たちが悪いのは、大衆が飽きたらもう報道しないことだ。3・11をめぐる事実を検証する報道は、もうほとんどなされていない。報道のテーマは「復興」である。「災害住宅はでき、高台移転もできたが、地域コミュニティは依然として元の形を取り戻せていない」とNHKは報じていたが、一体日本の過疎に悩む地方のどこが「地域コミュニティ」を「復興」できているのか。それは被災地特有の問題ではないことも、同時に伝えなければ地域のコミュニティは復興しない。なぜなら、被災者の心に寄り添うというエモーショナルな手段では、社会システムの変容は解決しようがないからだ。おそらく、新型コロナの問題はやがて大不況という経済問題へと移行し、初動の対応の可否などは誰も問題にしなくなる日が遠からずやってくる。それならそれで、自分としては自分なりの対応をするだけである。
2020.03.12
今日は出勤もなく、射場も開いてないので、暇な一日。午前、午後の2回、3階射場で射った。途中で、あと一段階ドローレングスを延ばしてみる。HBCならこの長さかというところ。それから、自作のグリップをもう一度付けてみた。自作といっても、ドアストッパーの三角のものをグリップに太さを合わせたのを、ビニールテープで巻いたというだけのお粗末なものだ。下にいくほど厚くなるので、自然にローグリップができる。ドローレングスも少し短めになる。カムで延ばした分の半分くらいだろう。射った感触は悪くない。明日は射場が開くので、さっそく試してみたい。
2020.03.11
昨日は大腸カメラ。去年2月、この検査で少し大きいポリープがあり、切除入院。ついでにやった胃カメラで、念のため行った生検でモルト型リンパ腫、胃がんが見つかった。ごく初期だったので、7月には放射線治療で寛解。以来、胃カメラは半年に一回、大腸カメラは一年に一回という検査をすることになっている。1月の胃カメラは、異状なしという診断だった。途中で担当医が代わり、今は院長が診てくれている。前の担当医は、若いがモルト型リンパ腫の権威で、岡山に引っ張られたそうだ。院長の弟子で、かかりつけ医の弟子が院長だから、そこから見れば孫弟子。医療の世界はそういう師弟関係が強く残っている世界で、今日立ち読みした週刊誌によると、VIPはそれなりの紹介があって必ず名医に診てもらえるのだとか。自分はそんな身分ではないのだが、それなりの紹介をもらってから、前の担当医に診てもらった。これが大病院に紹介もなしにいくと、研修医に回されてひどい目に遭うこともなくはない。今回は何もないかと思っていたが、直腸に小さなポリープが一つあり、切除。入院の必要はない程度のものだった。生検には出したが、まあ、問題ないだろう。そういうわけで、無事帰宅したので、妻と鰻丼で軽くお祝い。どこかに出かけるようなご時世でもない。今朝、保険会社に電話して問い合わせたら、一般手術の保険対象になるそうで生検の結果を待って、申請をするつもり。妻の教え子が勤めているメインバンクから紹介された外資系の保険会社だが、対応が早くて適確。癌になった時点で、がん保険、一般医療保険の支払いは終身免除になったのだが、その後も非常に親切だ。今日、この半年くらいの癌通院の支払い通知が来ていた。今までの実際に払った医療費以上の額をカバーしてくれている。今回も、2万弱の支払いに対して、日帰り手術5万の支払いになる予定だ。いい保険に入った。年に2回の胃カメラ、1回の大腸カメラも考えてみれば、人間ドックを毎年受けているみたいなもので、それから見れば実費がかかっても安いものだ。しかも、保険でカバーできるのだから、ラッキーなことだと思っている。
2020.03.11
円が一気に一時101円台まで上昇し、株価は2万円割れ。そして、ニューヨークは一時2000ドルの下落。取引一時中止の措置もあった。先物原油価格は30ドルを下回る。街角景気調査は大幅な低下、特に感染者の多い北海道は過去最低。GDP改定値は年率換算で7%を超える低下。このままだと2020年はマイナス成長となりそうだ。一方、専門家委員会の見解では、何とかパンデミック(爆発的感染)に至らない地点にいるものの、このウィルスはインフルエンザウィルスとは違って、気温上昇では消滅せず、イベントなどの自粛は当面継続を要請するという。入国規制が強まり、インバウンドは大幅に低下するだろう。中国人、韓国人というインバウンドを支えてきた人たちはもう日本から姿を消している。オリンピックも怪しくなってきた。どうやら、事態の深刻さは増しているようだ。このまま「自粛」が続けば、地方の中小企業は倒産が打ち続くだろう。失業者は急増し、スタグフレーションという最悪のインフレが来るかもしれない。すなわち、賃金低下と物価上昇が同時に起こるようなインフレである。こうなると、自分の生活防衛に走るほかなく、いろいろな物資の買い占め、買いだめが起こる。需給のアンバランスが続き、ますます物価は上がる。生活困窮者が増加し、治安は悪化する。こういう状況下では、誰しも「自衛」が必要だ。まず、自分たち家族の生活防衛。家族とは自分たちの場合、三世代核家族のことであり、親族、姻族は含まない。幸いにして、子どもたちは何とかやっていけるだろう。家計の大黒柱がそれぞれ安定した仕事に就いている。娘の場合はいわばフリーランスだが、仕事がなくなることはない。息子の嫁は専業主婦で十分やっていけるようだ。自分たち夫婦の場合は、来年度は職域加算部分はカットされるが、それ以外の年金はフル支給となり、自分も短時間勤務でそれなりの賃金とはいえ正規雇用が続くので、それを合わせれば十分やっていける。もちろんストックもあるが、そこに手を付けずとも生活できる目途はついている。もともと家は去年改修し、車は2年前に買い替えている。今年は大きな買い物の予定はない。癌は寛解したし、自分も妻も病院には通っているが、体調はそう悪くない。自分の医療保険は、去年の癌診断で終身無料となった。この状況だと夫婦で長い旅行にはなかなか行けそうにない。住んでいるところで、楽しみを見つけていくほかないだろう。後は、孫の顔を見に行くくらいか。弓の遠征も、少し減らそうかとは思っているが、むしろ妻と一緒に行って、ちょっとした小旅行にするというのもいいかもしれない。幸い、試合は50m2回という形式なので、一日いっぱいではない。金曜日に出発し、どこかに一泊、土曜日に会場のある街に、日曜日の試合当日は午後の部は出場せず、観光にという手もある。もう一泊して月曜日にのんびり帰ってくる。あるいは、今まで行ったことのないところで射つのも楽しいかもしれない。「自衛」というと何か緊迫感があるが、今の生活を大きく変えず、地味に続けるということだ。
2020.03.10
大相撲春場所が始まり、昨日はテレビで結び前の五番ほどを見た。無観客の中、淡々と取組はすすみ、あっという間に結びの一番が終わった。上位陣は安泰で、「荒れる春場所」という印象はまったくない。解説の北の富士のとぼけた口調と、舞の海の遠慮がちな口調のミスマッチがいい味を出していた。予想通り、相撲の競技としての面白さは無観客でも変わらない。こういうのもたまにはいいな、という感想である。力士の四股の音、身体がぶつかり合う音、呼び出しや行事の声がはっきりと聞こえるのは、むしろよかったとさえ言える。一方、プロ野球のオープン戦はちらっと見ただけだが、観客がいない分、解説やアナウンサーが、やたらとしゃべり散らし、興醒めな放送だった。もともと野球というスポーツは面白くないと思う自分にとっては、それが増幅された感がある。あんなに退屈な進行だからこそ、応援団や観客や解説者がそれを補うという形で、やっと視聴者の興味を維持しているということがよくわかった。もちろん、極めて個人的な感想である。プロ野球ファンには申し訳ない。しばらく無観客の試合中継が続くだろう。同じ野球でも、甲子園だけはちょっと見たい。
2020.03.09
今週は、病院通いの一週間だ。まず、今日はかかりつけ医に薬をもらいに行く。明日は、大腸カメラ。今日の昼から食事制限。去年のようにポリープでも見つかると、一日入院になってしまう。去年は、それがきっかけで胃の方の癌が見つかった。金曜日は整形。先週が検査だったので、その結果を聞きに行く。病院ばかりの日々は、多少気がめいる。
2020.03.09
昨日、新たなトップと面談し、次年度の仕事の概要が決まった。いろいろな事情で、事態は急転し、授業7時間+放課後特講(3時間)で、その準備等を含めて週20時間のみなし労働、ということになった。つまりは、非常勤ではなく、専任である。週20時間は、従業員500人以上の会社などが正規雇用者として、社会保険等をつけて雇えるぎりぎりの時間だ。従業員が500人未満だと週30時間ということになる。だから、いわゆる社保つきであり、年金もわずかだが積み上げ続けることになる。こういう雇用形態は普通の会社ではあまり例がなく、65歳まではフルタイムで賃金は70%~50%というのが多い。公立教員には「ハーフ」と呼ばれる働き方がある。つまり、賃金は現役時代の35%程度。自分の場合は、給与の額だけで比べるとせいぜい20%くらいにしかならない。高卒の初任給、といったところだ。対して「労働時間」の実質は、現役時の15%というところだろうか。まあ、平仄は合っている。それも66歳以降はこの雇用形態はないというのが普通で、自分は例外的な扱いということにはなる。ただ、自分の場合は同じ身分で働く者はやらない多くの放課後個別指導をしており、入試問題作成などの業務もある。代わる人間がいない。そう考えると、安すぎる賃金だが、妻とは「たとえ3時間くらいの非常勤講師でもする方がいいね」と話している。それはそうなのだ。コミュニティとしての職場があり、趣味の弓の仲間がいるのだが、自分の場合はそのくらいのものだ。後は、卒業生たちが集まる時に呼ばれるくらい。そして家族。世間は狭いのだが、職場という環境の比重は大きい。これで、職場も弓もなくなれば、家族しかいなくなる。経済的には、自分も妻も年金収入があり、それに前年度と同じ給与。それやこれやを合わせると、雑誌等の特集で見る平均的な「余裕のある老後生活」の一か月の支出額くらいの収入額にはなる。しかし、これで本当に余裕があるのかな?という感じだ。いずれにしても、「労働」なら問題は「賃金」だけということになるのだろうが、「仕事」の本質は賃金ではない。「仕事」はうまく説明できないが、賃金に換算されない「手応え」のようなものがある。主観的といえばそれまでのことだが、主観的なのが決して悪いわけではない。安くても多少は生活の足しにはなる賃金を得て、しかもその仕事に手応えを感じているという日常は、なかなか得難い。「労働」は人間を疎外するが、「仕事」は人間を作ってくれる。
2020.03.08
新型コロナウィルスの影響は、ますます深刻化し、地域経済は前年度比で売上7割減などというところばかりだ。このままだと、当然もたない。夏以降は倒産続出ということになりかねない。そんな状況で、5年先などと悠長なことは考えていられないのかもしれないが、個人的生活と社会全体の動きはそうピタリと符牒が合うわけではない。セミリタイアの身ならなおのことだ。仕事は5年先には、週20時間の常勤から非常勤ということになっているだろう。70歳でもすっかりリタイアということはあまり考えていない。職業生活の集大成としての文章をなんらかの形にしておきたい。自分と妻の健康は、今の状態を維持していたい。毎日の散歩で足腰の衰えを防ぎ、旅を楽しみ、たまに孫と遊ぶくらいの健康を願っている。妻や子どもたちとはこれまで通り、仲良くやっていきたい。子どもたちももう一人前。こちらからああしろ、こうしろとは言わないし、ああしてくれ、こうしてくれと、もたれかかる気はまったくない。居住を変えるつもりもない。弓の方は、もちろん現役でいたい。マスターズ大会での全国優勝くらいの夢は持っていたい。遠征もあちこちに行きたい。まあ、そんなふうに考えているのだが、要は今の状態をできる限り長く続けていきたいというだけのことだ。生活の基本は衣食住というが、衣食住+人である。
2020.03.07
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