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昨日は、孫と一緒に風呂に入り、なかなか大変だった。もう、かわいい赤ちゃんではなく、口達者なガキである。これがどういう人間に成長していくのか、気楽な祖父母の身、楽しみはあっても、悩みはない。とはいえ、離れていても家族の一員ではあり、自分が祖父母に持っていた淡い愛情のような記憶は、コイツももってくれるのかな、とは思う。自分たちの子どもは祖父母、つまり自分の両親と二世帯住宅での同居だったから、たっぷりと可愛がってもらった記憶を持っている。息子は、こちらにいた4年前まで、出張のついでに毎年のように墓参りに行ってくれた。娘夫婦も一度、孫も連れて。前の記事もそうだが、ひょんなことから誕生したPart2に書いたつもりだった。まあ、いずれにしても、これで今年の駄文は本当にこれで最後。
2020.12.31
新聞によると、各市町村がコロナ患者や医療従事者に対する差別を禁止する条例を作り始めているようだ。コロナ患者が出た病院に勤務する看護師の子どもが保育園への登園を拒否されるなど、明らかな法令違反がまかり通っている。単なる「宣言」ではなく、そういう保育園には交付金を停止するなど、具体的な措置が必要だろうが、まだそこまではいかないようだ。そもそも、なぜそういうことが起こるのか。人間は「差別」から完全に自由になれない。「人と違う」ことは自らのアイデンティティの核となる。どんな些末なことでも、「人との違い」を見つけ出し、それを社会的に確かめようとするのが人間だ。だから、「差別感情」はコロナに限らず、いつでも、どこでも生まれていることだ。それ自体はなくならない。だから、度を過ぎた「差別的言動」こそが非難されるべきであり、「差別感情」自体は消し去ろうとしても無駄である。現在の日本では、「差別的制度」はすでにない。「差別感情」は、新自由主義経済の中の二極分化という状況下で、助長され、社会に充満している。そのはけ口が、コロナに対するものだ。特に、安定的収入を得ていて、しかも医師ほど高収入ではない看護師は、その昔は3Kと言われていたが、今や中流層に入る職業だ。それが、たまたまコロナで大変な目に遭い、医療従事者への支援などが公的に行われ始めると、それより下のソーシャルクラスの人間たちが、ルサンチマンのはけ口を求めるかのように、SNSなどで差別を始める。医師が看護師を差別することは考えにくい。あるいは、同じ看護師でも、コロナ病棟にいる者に対する差別的言動をするようになる。職場の中で、どの看護師がコロナ病棟に関わるかは病院経営の中枢で決められるが、いわゆる「仕事のできる看護師」がその任に就くことが多い。同僚間の仕事の意欲や能力の差が、顕在化する。仕事のできない看護師が、妬み半分で、コロナ病棟の看護師に露骨な差別的言動をとる。罰するべきはそういう言動の方だ。報道では、「医療従事者は年末年始もなく、頑張っています。そういう人たちに心ない言葉を」というが、その言葉自体が差別感情をなくすどころか、かえって増幅させていくことに気づいていない。やるべきことは、誹謗中傷としか思われない書き込みを特定すること。大勢の証人がいるようなところでの差別的言動は訴えること。どうやっても差別感情がなくならないのなら、差別的言動を裁く社会を作ることである。
2020.12.31
HBCで6射。カスケードで6射。もうすぐ、娘一家が到着。最後まで迷ったようだが、心配していた天候は、幸いそれほど荒れず、車で向こうを9時半ころ出発した。多分、途中のPAで孫を遊ばせたりして、4時か5時くらいに到着するだろう。2日まで滞在予定。まあ、今日は孫の相手で疲労困憊かな。今年はコロナという特殊な状況だった。にもかかわらず、夫婦二人の生活も、仕事も、弓も楽しいことは結構あった。娘一家、息子一家も、何とかやっているし、親としては何も言うことはない。そういう1年だったことに感謝し、12本を丁寧に射ってきた。いつまでも、こういう生活は続かないだろうが、できるだけ生きることを長く楽しみたい。数少ない読者の皆様にとっても、来年も、またよき1年でありますように。
2020.12.30
昨日、慣れない大掃除をしたからか、今朝は身体がガクガクである。あちこち痛い。朝も7時半まで起きられなかった。腰痛の方は改善しているが、これだけ身体がなまっているとは思わなかった。それとも歳なのか。布団が重いせいか、どうも夢見もよくない。やはり軽い布団に換えようかと思う。今年もあと3日。まあ、あまり無理せずやっていこう。
2020.12.29
昨日は、近所のスーパーに車で、妻と買い出しに。正月用品などをそろそろ。荷物は宅配を頼むつもりだったが、持てそうなので積んで帰った。着実に、腰がよくなっている。今朝は5時起きだったが、痛まない。それで、早めの朝食。昨日、三階に弓を移動し、30本くらい。まず、根本から考えてみた。押し手が下がるということは、始めから身体がまっすぐでないのではないか。それで、正面を向いて、引いてみると、弦は顎の中心までしか来ない。つまり、そのまま的方向を向けば、首を傾けないとピープが覗けない。それだけ、身体が前方に傾いていることになる。押し手が下がるのも当然だ。まず、ピープの位置を上げるところから始める。2cmくらい上げてちょうどいい感じだ。それで射ってみるが、ドローレングスが短いことがはっきりと分かった。ドローレングスも3cm程度伸ばしてみる。カムで調節可能なので、この辺はラクだ、というか自分でもできる。正面を向いたまま射っても、それほど左にずれないところが、とりあえずの目安。後は的方向を向いて、ピープを覗いて射つ。伸ばした分だけ、強くなって、ちょっと引くのが苦しいが、まずまず押し手が下がらず射てたように思う。今日は、少しポンドダウンして、また試してみる予定だ。
2020.12.28
ゆったり生活のお伴は、海外ドラマ。妻と一緒に見ているのは「SUITS」で、ニューヨークのファーム(法律事務所)のドラマ。妻共々、大分リスニング能力が上がった。以前は「GOOD WIFE」「GOOD FIGHT」という一連のシカゴのローファーム物だったが、シカゴの英語とニューヨークのでは、かなり違っていて、最初は聞きにくかった。自分がベッド脇のテレビで見ているのは「Mentalsit」。こちらはサンフランシスコが舞台のカリフォルニア英語。かなり聞きにくい。「SUITS」も「Mentalsit」も向こうではすごい人気ドラマで、日本でも、リメイク版と銘打って、民法が同名のドラマを制作したが、長続きしなかった。日本のドラマは情緒的人間関係に流れすぎて、うまくいかなかったのだと思う。感情よりも権力意志が優先し、命令服従関係が絶対の職場などは、そもそも日本では絵空事である。しかし、情緒が描かれないわけでは決してない。底流に流れるのは「家族」的人間関係を強く願う気持ちだが、それはいつも挫折していき、そのたびに社会的成功者である主人公たちは孤独に直面する。競争社会が最も激烈に現れる企業弁護士たちの姿を「SUITS」は描いているが、その勝者になるためには、大げさではなく24時間働いている。数十億の個人資産があるのに、朝や昼は紙コップのコーヒーを手にキッチンカーのベーグルですませ、たまにすごいレストランにも行くが、それはほとんど恋愛か仕事がらみだ。美味しいから、ではなく自分の力を誇示するための道具の一つだ。とてもじゃないが、ああいう世界では生きていけない。日本のノホホンとした職場で、ほどほど美味しい物を食べに出かけ、連休を待ち遠しく思い、訴えるとかいうことと無縁で生きてきてよかったな、と思う。とにかく彼我の違いを思い知らされるという意味で、海外ドラマは面白い。
2020.12.27
一昨日、やってしまってから3日目。昨日も、かかりつけ医に行く以外は、ほぼごろごろ。おかげで体重が2kgほど増えた。今日は、腰の具合はまあまあ。まだフツーの感じはしない。あまり重いモノを持ったりせず、少しは身体を動かして過ごすつもり。射場は今日が今年の最終日だが、行けない。重いモノの中に、当然弓は入る。年末だから、どこの整形も明日か明後日まで。とにかく再発しないように、そろりそろりとやっていくほかない。家庭用の電気マッサージも復活させて、毎日当てている。薬も、昨日は痛み止めの座薬も挿した。そろそろ家の片付けもできるところから。コロナもあるが、それよりも天候の関係で娘夫婦と孫は来ないようなので、かえってよかったかもしれない。なにしろこのままでは孫と遊んでギクッ!ということにもなりかねない。というわけで、今日もゆったりと。
2020.12.27
昨日はそういうわけでベッド脇のテレビで、海外ドラマを見たり、地上波をみたり。新旧の総理大臣の国会答弁や会見があったが、旧の方は相変わらずの冗舌。つまり、同じ話を無駄に何度も繰り返して、質問者の時間をどんどん奪っていく。これは、しかし作戦というわけでもなく、よくある自分の事情だけを一方的に語る、「自分語り」タイプのコミュニケーション障害だろう。それと見事な対照だが、新の方は訥弁の典型。「訥弁」は決して褒め言葉ではない。一応、説明不足だったことを認めたが、なぜそうなったのかがまたしても説明不足。結局、「男は黙って」というのが、この人の美学らしいのだが、それなら政治家などやらずに職人にでもなった方がよかったと思う。そのくせ、携帯料金が下がったとか、自分の功績?についてはちゃっかり、しかもよどみなくしゃべっている。追及する野党も記者クラブの記者も、この二人に見事にやられている。特に記者たちは、「お仲間」に対する型どおりの質問ばかりで、そもそも「追及」する気迫など微塵も感じられない。ヨーロッパの大学では、古くは「弁論学部」というものもあり、今でも「スピーチ」は必須教養だが、二人とも落第しそうな能力だ。政治の世界でまともに話せる人間がいないものか。
2020.12.26
昨日、朝、玄関のファンヒーターのカートリッジに灯油を入れ、終わった後で、ポリタンクを持ち上げようとした瞬間。ギクッと腰が入ってしまった。あ、まずいなという感覚はあったのだが、とりあえずポリタンクを元の位置(二階用の小さな玄関の三和土)に戻し、カートリッジをファンヒーターに入れた。まあ、軽度というべきだろうが、いわゆるぎっくり腰である。昨日は、何もせずに一日中ごろごろ過ごした。まったく動けないというわけでもなく、今朝も昨夜のチキンレッグの残り、クラッカー、コーヒー、みかんの朝食。これからヨーグルトでも。今日も少し痛いので、せいぜいかかりつけ医に薬をもらいに行くくらい。車の運転が大丈夫かどうか・・・ダメなら明後日に。
2020.12.26
デジタル教科書で危惧するのは、教師が「教える」ことの本質をますます見失うことだ。大多数を、偏差値が最低レベルにある地方教育大の出身者が占める義務教育校の教員は、「体系の中に知識を位置づける」能力が低い。低いからこそ、教育大くらいにしか入れなかったのだから、彼らの責任ではないのだが、そういう人間がモノを教える時に、一番陥りやすいのは「ノウハウ」を教えることがすべてだと信じて疑わないことだ。新しい教材に夢中になり、つまりは振り回され、その教材の使い方を教えることだけが彼らの関心になる。昔から「教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのだ」とはよく言われてきたのだが、「教科書を、しかも不十分にしか教えられない」というのが、彼らの平均的能力である。そこで、彼らが頼るのは、集団主義教育だ。小学生のころ、新学年で教科書をもらうと何が書いてあるのだろうと思って、初日でだいたい全部読んでしまっていた。「今は、そこじゃなくここだ!」とよく殴られたが、この教師の犯罪的なバカさ加減は、今ならよく分かる。一斉に同じページを開き、同じ箇所を読むことが何よりも「教える」ことにおいて大切だと信じて疑っていない。要は「オレの言うことを全員聞け!」ということだ。デジタルという新たな教材の使い方を、読めば分かる説明書を長々と解説する「教員研修」で一通りマスターした教師は、その「使い方」を教えることこそが「学習指導」だと信じて疑わない。これでは、ますます「デジタル教科書を教えることはおぼつかなくなり、その先にある教科書で何を教えるか」については思いも及ばなくなる。かくて公立校の義務教育のレベルはますます低下し、世界を構造として理解しようとする力は育てられず、その場その場の断片的情報に振り回されるだけの人間の人生が大量生産されることになる。例えば、連日のコロナの報道番組をみて、それが基本的人権への重大な介入であることも知らずに、外出は自粛しなければと思い込み、本人が家にいるだけなら、別に害はないからいいのだが、他の人がちょっとでも楽しそうに外出すると、目くじらを立ててヒステリックに「自粛」を強要するバカな「国民」である。まあ、その方が権力には扱いやすい「国民」なのかもしれないが。この項、終わり。
2020.12.25
昨夜は予定通り、ロシア料理の店に。「なんかいい魚ある?」「ソイがちょうど」。マスターは釣りが趣味で、昨日釣ったという黒ゾイ、真ゾイの刺身から。初めて2種類のソイを食べた。あとはロシア料理のお任せセット。前菜、水餃子、ピロシキ、パイ包みスープなど。相変わらずおいしかったが、客は自分たちしかいず、マスターの話では、9月くらいからさっぱりだという。ステーキを追加した。ここのシャシリックはちょっと苦手。最後にロシアティを頼むとシフォンケーキをサービスしてくれた。帰宅後、ラインを見ると子どもたち家族のクリスマス風景が入っていた。娘夫婦の孫は4歳、ローソクを点けたケーキを前に「ハッピーバースデイ」を歌おうとしている。相変わらずノーテンキな奴だ。1歳の息子夫婦の孫は、肩越しに猫が物欲しそうに覗いていても、クソ真面目な顔で、黙々と食べている。今ごろ、プレゼントの山に二人とも狂喜しているだろう。そういえば、息子は3歳くらいのころ「プレゼント」と言えず、「ツブレント」と言っていた。哲学じゃ食えないから、今は幼児教育「ことば」などを中心にやっているが、案外合っているかもしれない。昨日で今年の仕事も終わり、今日から18連休。娘一家が来るかどうかはまだ分からないのだが、一応来るという前提で年末の片付けをスタート。といっても、来ても来なくてもやることは変わらない。今日はまだクリスマス、というか本来の祝いは今日なので、ケーキとチキンレッグでも買ってくることにしている。妻に「家計」からの「現金給付」という「ツブレント」でも提案してみようかな。
2020.12.25
子どもたちがなかなか眠らず、夜遅く、物置に隠していた数々のプレゼントを居間に運び、カーテンの陰に隠しておく。テーブルの上にも置いておく。姉弟で喧嘩にならないよう、緑のリボンとピンクのリボンに分けられたプレゼントが全部で10個ほど。それから、妻とご苦労さんと声を掛け合い、やっと就寝。・・・30年ほど前のクリスマスイブはそんな感じだった。60年前は、亡くなった両親がそれを自分のためにしてくれていた。自分は、「早く寝ないとサンタさんは来ないよ」と言われ、それでも興奮しすぎてなかなか寝つけず、このまま眠れなかったらどうしようと案じながら、いつのまにか眠っていた。数多くのプレゼントには長靴とか、冬の生活用品もあった。まだまだ貧しい時代だった。二人の孫へのプレゼントはもう手配済み。その前に十勝広尾のサンタランドからの手紙が届いている。これは妻がやってくれている。娘夫婦の方の孫は、昨日電話で得意そうに見せてくれた。札幌と鹿児島で、どんなイブを迎えるのか。娘の方では我が家の伝統が受け継がれているようだ。息子の方は、まだ2歳にもなっていないので、クリスマスという物語の中を生きていないだろう。さて我が家はといえば、今夜は、妻と例のロシア料理の店に。午前中に講習。その間に一度帰り家で昼食。午後から教科会。今日は仕事納めでもある。予約は6時、車で。ノンアルコールだが、ドイツ産の赤ワインがおいしい。明日から冬休み。18連休だ。長いようだが、そうでもない。
2020.12.24
全員にタブレット端末を持たせて、教科書をすべてデジタル化するというのが文科省の中期的目標のようだが、これについてはどう考えていいか、迷うところはある。まず、いい点は写真や動画など紙の本では到底できない視覚的わかりやすさが実現できるだろう。また、資料の差し替えなども容易である。また、文章を読むという作業自体は、画面上でも、紙面上でも同じだとも言える。ランドセルに教科書を3冊も入れれば相当な重さになるから、低学年ではありがたいかもしれない。しかし、学力という面では確実に低下を招くと言えそうだ。というのは覚えた知識の再現性というのが学力の本質だが(この点については思考力、判断力重視という今の指導要領の理念にはまったく反対の立場だ)、それは現れて消えていく画面では著しく低下する。なぜなら、「どこに書いてあったか?」という問が立てられないからだ。昔、大学生のころ、非常に学力の低い小学生を教えたことがあった。「今、算数はどこやってるの?」と聞くと、彼は教科書を始めからめくっていき「う~ん、う~ん」と唸っている。そのまま見ていると、最後のページまでいってしまう。つまり、彼は今、何を習っているのかが定位できないのだ。指導はそこからだった。「今度、学校で習ったページに赤ペンで丸印つけておいで」と言ったら、数ページについている。「これ全部やったの?」「う~ん・・・」。で、ひと月くらいで、ここには足し算の繰り上がりの計算、ここでは引き算というふうに、大体教科書のどこに何が書かれているかを、彼は言えるようになった。それだけでも彼にとっては「パラダイムの転換」だったはずで、聞きもしないのに「先生。今日はここやった。かけ算!」と報告してくるようになった。ほとんど0点だったテストで、大体30点くらいは取れるようになってきた。教科書というのは、やさしいことから始まってだんだん難しくなっていくものだということが分かったのである。だから今やっていることが分かるためには、前のやさしいところからやり直すのがいいのだ、ということも。それで、「普通にできない」くらいにはなった。お母さんが、喜んでお礼に来た。その後、家庭教師は終わりになったのだが、彼は今ごろどうしているかな、と時々思う。デジタルではそれができない。知識が積み上がらないのだ。すべての内容が現れ、消えていき、その場その場では読めば分かるが、蓄積がなくなる。我々が、ネットで何かのことを調べるには便利この上ないが、それを調べようとする以前に、知識と思考の「蓄積」がある。それはもちろん生まれついて持っているわけもなく、主として義務教育の賜だ。この項続く。
2020.12.23
昨日は講習終了後、妻を歯医者に迎えに行き、昼食。2時ころ射場に。1人になったので、的を2枚貼って、6本射ち。6本に1本は8点が出る状態で、どうしようもなかった。矢を20-12に変えると、幾分マシだったが、ひどいことはひどい。これは、近射で射型を作るところから始めないとダメだ。年内は27日までなので、そこから三階でじっくりやってみる。射型の直す部分は、はっきりしていて、押し手がどうすれば下がらないか、である。いつも、サイトを覗いた時に下がるので、身体のどこかが下がる動きをしているのだ。普通に考えると、顔が前に突っ込むことだろうと思う。わかっていても長年の癖なので、直すには時間がかかる。ピープ位置も当然変わる。まあ、年末年始、娘夫婦も天候や道内外出自粛要請などで、来られない可能性が高いので、じっくりと取り組みたい。
2020.12.23
冬期講習もあと3日。予想通り、少しずつ遅れて、当初4回分で用意した教材を5回かけて、解説することになりそうだ。丁寧に解説することで、あらかじめ解いてきた生徒が「そうか、なるほど」と思えるかどうかが、教える側としては「勝負」だ。「そうか、なるほど」の体験が10回あると、大体自分でいいところまでは解けるようになる。昨日は小説問題をちょうど半分まで。評論と合わせて、二題を240分くらいかけて解説することになる。今日は、小説の後、古文。現代文と比べると古文、漢文がいかに簡単かが分かるのも、こういう機会だ。レベルの高い国立大二次試験を除いて、英語もそうだが、現代日本語になった時点で、もう分からないということはない。つまり、口語訳さえできれば、何も解答に困らないし、それができるようになるために必要な知識はわずかだ。ところが「現代文」はそこからのスタートであり、そもそも何を書いているのかを注意深く読み取る根気のいる作業だ。「テクスト読解の理論」というものがあり、「論理」を「分けて」「つなぐ」読み方をマスターしなければ、高校生には歯が立たない文章である。が、同時に「現代」という自分の生きる時代を単に「表層的」に「類型的」に知るにとどまるか、「多面的」に「深層的」に読み解きつつ生きるのかの分岐点でもある。自分はそういうつもりで「現代文」という科目を教えてきたし、これからも教え続けると思う。
2020.12.22
「冬至だよ」「ああ、それでこれか」昨日の昼は、近所の方からいただいたかぼちゃと、自分の故郷の友人からの小豆で、カボチャ善哉。「鍋、5回目くらい?」「いや、もっとだよ。鍋ラーメンだけで3回はやってるから、10回くらいじゃない」こんなことを妻と話しながら、夜は鱈の鍋。こちらは、群馬の弓友からいただいた下仁田ネギを使って、鱈と烏賊で土鍋。皆さんのおかげで、毎日「おいしい生活」である。・・・「おいしい生活」は、糸井重里が80年代の終わりか90年代に、パルコか西武かのために作ったキャッチコピーだ。コピーライターという職業を世に知らしめた傑作である。大量生産、消費から、人よりちょっと贅沢を、というバブル期の浮かれた気分を反映しているが、その後の日本社会がどうなったかは知っての通りだ。世の中の全員が「おいしい生活」ができるようになるはずもなく、それどころか「食べていくのがやっと」という年金生活者、非正規の若者など、夢を描けない人たちが大量に現れている。コロナで家庭の資産残高は過去最高に膨れ上がったそうだが、その資産の90%を20%ほどの人たちが持っている。一方で60代で預金ゼロという人たちが25%ほど。それでも元気で働ける人はいいが、そうもいかない事情の人も多い。
2020.12.22
昨日は講習後、妻とジャズのコンサートに。3組のうち、真ん中でやったサックスの子は、地元の公立トップ校の卒業で、バークリーに特待生入学が決まっていたのだが、コロナの影響でまだ行けていない。妻が中学生の時に聴いて、凄いと言っていた。確かにモノが違うという感じはした。後は、地元のアマチュアという感じ。最後のひと組のベースは高校の同級生で、あまり在学時は知らなかったが、確かホールの音響などをやっていた。上手くなっていた。出がけにこちらを見つけてくれて、「上手いよ、いい老後になりそうじゃん!」と激励。自分も一応JAZZ研には身を置いたのだが、モノにならなかった。彼のバンドのピアノは下手くそで、ちょっと練習すれば、とも思ったが、まあ、実現しないだろうなぁ。それでもちょっとずつ練習している。
2020.12.21
今日から5日間、90分の冬期講習で今年の仕事は本当におしまい。90分、問題文の読解、設問文の読解、解答設計など、入試現代文の基礎をゆっくり教える。「国語、特に現代文はセンスだ」という数学系のバカは相変わらず多いが、そんなことはない。まあ、センスはある程度必要だが、それよりも問題を解く「作法」が重要だ。むしろ数学の方がセンスが必要だが、大学入試程度の数学などたかがしれている。なにしろ300年も前に解決済みの問題だ。「現代文」はせいぜいここ30年くらいの社会学、哲学、心理学、歴史学、文学など、評論なら素材は多岐にわたり、「現代」という時代を自分の中に定置しようとするために必要な教養である。「作法」とは、例えば、「漢字問題」は解答を文章の脇に書いておく。分からなければ書かないで、文章を読み進める。中途で設問に答えることは一切しない。空欄があっても埋めない。「あ、ここは逆接っぽいな」くらいの感覚が働けばそれでいい。とにかく最後まで読み切ることが肝心で、そうしてこそ文章全体を「俯瞰」する視点が得られる。例の学術会議問題で「俯瞰的、総合的」という決まり文句を首相は繰り返したが、彼に時代を「俯瞰」できる能力などない。それが証拠に、あれほど固執したGoToトラベルを支持率が大きく低下しただけで停止するという、場当たり的な対応に終始しているではないか。どう見ても、文章も読み切らないで、ちょこちょこと解ける問題を解いて、全体を見ないと解けない問題は必ず間違う、あるいは記述だったら書けない、不合格答案の作成者のアタマだ。話を入試国語に戻すと、その上で、どう読むかが問題なのだが、それは一言で言えば「分けて、つなぐ」読み方だ。まあ、これは別の項で書いておこう。評論、小説、古文、漢文の入試レベル問題を4日間でじっくりと。最後の一日はまだ決めていない。おそらくテストゼミ、つまりその場で解いて、その場で解答解説という形式になる。それだと古文、漢文しか90分の枠に収まらない。その5日間で課題小論文の採点も終える予定。後は、年末に向けての家事手伝い。孫が来るとしたら、いろいろ触ると危ないものを引き上げておかないとならない。今日は講習後、妻とジャズのコンサートに。クリスマスディナーは24日か25日に延期した。例のロシア料理の店に。
2020.12.20
昨日は、鼻水もすっかり泊まったから、11時半ころ射場に。弓は車にケースに入れずに積みっぱなしだから、着くとすぐ射てる。それでHBC、STANなどで6,70本。久しぶりなのでスパスパ切れる。のはいいんだが、狙う前に切れてしまうこともあり、赤も結構射った。少し射つにつれ、切れなくなり、押し手が堪えられず、また赤に。どうもこのあたりの一定性でいつも悩まされる。それにしても、久々の射場はやはりいい。次は火曜日。講習の後で。
2020.12.20
ちょっと前からの鼻水はまだ止まらない。少し頻度は減ったのだが、今日も午前の射場はやめにしておいた。家で、やることはたくさんある。まず、年賀状。それから明日からの講習の予習。大体は終わっているが、「自分が解く」のと「教え方を考える」ことはかなり次元が違う。解くだけなら、昨日の病院の待ち時間でも解ける。孫が来るかどうか分からないが、片付け。これも年末にでもやらないと、ということの一つだ。午後、調子がよかったら、久々に射場に行くが、そうでなければ近射。近射しながら三階の片付けも。そっちの方がいいかな。
2020.12.19
一昨日で今年の授業は終了。3時間目は2年現代文。西谷修の「いのちのかたち」という文章を読了したので、この文章を読んでの課題小論文「孤独死はなぜ防がなくてはいけないのか、『いのちのかたち』を踏まえ800字以内で論ぜよ」を1時間で書かせる。あらかじめ予告し、時間が足りないと思う人は、下書きを作っておいてかまわないと言ってあるが、1時間目一杯使ってという者が多い。掲載文と小論文課題はテーマが違うのだが、共通の土台部分の思想が読めるかどうか。4時間目、2年古典。大和物語「姥捨山」。「わがこころ慰めかねつ更級や姥捨山に照る月を見て」という歌が最後にくる歌物語。「姨捨」は各地にある伝承で、大和物語はそのうちの一つを物語に仕立てたものと思われる。現代的主題にも通じるのだが、やや急ぎ足で最後まで読み切ったところで終了。まだ2年なので、とにかく基本古語の原義や文法などの説明が必要な段階。5時間目、3年現代文。夏目漱石「私の個人主義」。すでに文豪であった漱石が学習院の学生相手にした講演。思想としての「個人主義」を素朴だが、率直に語った名文である。話し言葉で、少し注解が必要だが、わかりやすい日本語の見本のような文章だ。「個人主義」はいまだに「利己主義」と混同され、日本では理解されているとは言いがたい思想だが、漱石はその点を明快に説明している。「権利」「義務」「責任」がキーワードだ。最後まで読了。4時間かかった。最後に「個人主義」という思想の限界について、生徒たちにも話しておく。自分は紛れもなく「個人主義者」だが、現代の「個人主義」は、自己決定に責任を持つという側面ばかりが強調され、はじめから、選択の幅が極めて少ない者が「自己決定論」に落とし込まれることに手を貸している。個人主義はもう一度、「個人の尊厳」の土台を取り戻す社会運動として語られなければならないだろう。「自分は右を向く。その時君は左を向いたってかまわない、というのが私の個人主義なのですから、これはもう立派な主義なのだと思うのです」という漱石の言葉は儒教道徳を否定するに十分な力を備えていたが、格差社会で下層に落とし込まれた人たちの救いにはならない。
2020.12.19
今日は、朝食抜き。9:30に胃カメラの予定なので、8時に家を出る。8時半ころ着いて、9時くらいに採血。予定通り9:30ちょっと前に、内視鏡室で胃カメラ。右の鼻からだったが、今日はちょっとしんどかった。30分弱で終了。問題なし。次回予約を6月に入れて、ここは終了。10時過ぎ、今度は泌尿器科。今年の定期検診で、ごく僅かだが、PSA値が基準より高かったのだが、専門医に診てもらったときは基準値内。念のため、こちらの病院で、経過観察になった。また、さらに0.1下がっていた。一応、基準値内だが、半年後の胃カメラの時に合わせてまた受診することに。10:30放射線科に。ここは医師との面談で。特に異状もないので、終了。ここで30分ほど予定より早い。10:50会計終了。薬局に。ここが、激混みだった。1時間ほどかかると言われ、朝食も抜いたので早めの昼飯に。回転寿司。寿司10貫ほどと、天ぷらそば。12時過ぎ帰宅。それから、ちょっと昼寝をした。どうやら胃がんは完治と言ってもいい感じだが、この歳になるといろいろ出てくる。「一病息災」とよく言うが、あと2年ほど胃カメラは飲み続け、大腸カメラも来年はある。PSA値も半年に一回。整形はちょっとお休みになるが、かかりつけ医には2週間に一回、顔を出す。病院代も結構なものだが、これも高齢コストの一つだろう。
2020.12.18
文科省が法改正の上、現行の40学級を小学校ではすべて35人学級にするという。現場の声の反映というが、自分の経験では、どんな仕事でも雇われる方は少しでも楽な方に、楽な方にもっていこうとする。成績をつけたり、テストを採点したりするなら、それは教員にとって40人より35人がラクだ。「子どもたちに目が行き届く」。少人数学級を主張する人は必ずこう言うが、「目が行き届くこと」はそんなにいいことではない。自分は50人学級で育ってきたが、小3まで完全な劣等生だった。なにしろ先生の言うことを、まったく聞かない子どもだったから、成績はオールC(最低評価)で、「特殊学級に移れ」とまで言われていた。4年生になって、学校でどう振る舞えば殴られなくてすむかが分かり、それから成績はほぼオールAになった。担任の教師は、自分の力だと思ったようだが、冗談じゃない。教師のバカさ加減に自分を合わせる術を身につけただけである。それでも3年まで何とかやってこれたのは、教師の「目が行き届なかった」からである。自分のような生徒はほかにも結構いて、そちらはそちらで大変だったようだ。50人というクラスの人数の中に、身を隠す場所はいくらでもあった。家庭もそうだが、「過干渉」「過保護」が常態となっている。せめて学校くらい、干渉から逃れて、自由にしていたいのに、それを「目が届く」ように少人数にするという。別項で論ずる予定だが、街もあちこちに監視カメラがいつのまにか増え、「目が届く」ようになってきた。こちらの方は「目」だけで、「口」は滅多なことでは出さないからまだいいが、家や学校では隠れる場所もなく、いつでも「見られ」、「口を出される」。今の教員は「見て見ぬふり」などできない。こんなふうにして育ってきた人間が、大人になってから、周りの目を気にせず、自分の意志で主体的に自由を行使することなどできるわけがない。ひょっとしてそういう人間を国家権力は意図的に育てたいのかと勘ぐりたくもなるのだが、コロナ渦の中「今晩は、ガースーです」とふざけ、ひとに自粛を求めておいて、自分は「会食」にいそしむ国のトップには、そういう悪知恵すらないのだろう。
2020.12.17
昨夜から鼻水が止まらない。就寝中は大丈夫だったが、朝になるとふたたび。それでも昨夜よりはましだ。体温は36.4度。完全に平熱。咳もないから、風邪の初期症状だ。こういう時は、暖かくして、食べて、寝るに限るのだが、そうもいかない。これから整形に診察券。今年最後で、21日から休業。ひと月分の薬が出るから、今日行かないわけにはいかない。10時くらいに出勤で3時間の授業。今年最後の授業で、それぞれきりのいいところで終わる予定。退勤後、整形に。まあ、その後の弓はやめておくとしても、何とか今日一日もたせて、明日は胃カメラだ。
2020.12.17
今、母校は長年の凋落傾向に歯止めがかからず、昔は3年制高校としては全国でも屈指の進学校だったのだが、今や地域内でもトップかどうか怪しい。かといって地域の公立校が頑張っているわけでもなく、地方都市の元気のなさがこんなところにも現れている。その母校が、何を狂ったのか「特進コース」を来年度作るそうな。バカじゃないかと思う。もともと「進学校」だったのが、それが怪しくなってきたから「特進」を作るのだという。自分の勤務先は、かなり早く「特進」を作り、それで自分もいろいろな苦労を重ねてきたが、母校が「特進」などとは夢にも思わなかった。自分のころは、別に自慢というわけでもなく、成績中位でも旧帝大のどこかには入っていた。それが、今や地元の公立校に完敗状態。勝っているのはラグビーとか。まったく情けない話で嫌になってしまう。大学進学がすべてとは言わないが、それはそれなりの大学に進学させて初めて言えることで、そうでない学校がそんなことを言うのは、ただの負け惜しみである。自分がいたころの母校はまさに「大学進学」がすべてではなかった。それしか眼中にないガリ勉は軽蔑されていた。まあ、ガリ勉でも東大ならいいか、という感じだった。それよりもいろいろ遊んで上位10%くらいの成績は取るというのが、かっこいい高校生活だったし、そうでなくても音楽や映画、演劇を目指すのもよかった。そんな友人も何人かいた。それがどうしてしまったのか・・・
2020.12.16
昨日、今日、明日と射場練習はできない。明日は退勤後整形に寄るが、多分混むだろうから、ちょっと無理そうだ。明後日は胃カメラ。なかなか忙しい。一昨日の練習では、とうとうHBCまで取り出した。肩甲骨で切るという感触が左では初めてはっきりと感じられた。どうやら、カスケードは一時の気の迷いで終わるようだ。多分、この堂々巡りを数年繰り返して、徐々に射つ力が衰えていくのだろうか。まあ、それでもいいのだが、できればそろそろ悟りを得たい。面壁九年どころではないんだし。こうやって射てるだけでも幸せなのは十分わかっているのだが、できればスカッと中てたいと思うのは、強欲というものか。いや、弓はいいから久々に買った年末ジャンボの方を、と思うのはさらに欲深いなぁ。
2020.12.16
今朝はうっすらと積雪。ちょっと雪かきが必要かもしれない。さて、二学期も今週で終わり。いつも通り、火・水・木で7時間の授業と、授業換算で三時間の特講をこなして、終業式となる。日曜日から5日間、90分の講習。だから24日で本当の「仕事納め」となる。今週は木曜日に今年最後の整形。院長が手術を受けるため、1月中は休みとなるから、薬を一月分くらい出してもらう。2月に再開できるかどうかは、ちょっと分からない。できなければ、新たなところを探さないと。ここの先生とかかりつけ医の先生は、医局の同期で同い年。自分より5歳上だ。二人とも、いつまでやってくれるかな、とは思っている。今年の仕事も来週までだが、自分の年齢では来年はどうなっているかは分からない。一応、来年もという話にはなっているが、確定ではない。まあ、どちらにしても、丁寧に今年の仕事は終えよう。
2020.12.15
昨夜になって、あれだけ固執したGoToトラベルは年末年始の二週間は停止だそうだ。支持率が40%くらいに下落したのが原因だ。今回の決定の本当の理由はそれで、決して感染対策ではない。GoToトラベルの停止は、旅行推奨のための割引措置の停止であって、「移動の自由」の制限ではないのだが、同調圧力の強い日本社会では、容易に「みんな我慢して、静かなお正月を送るべきだ」というメッセージにすり替わる。毎年、温泉地で正月を迎える家族が同じことをやろうとするだけで、非難の的になり、元日に他地域ナンバーの車が停まっていたりすると、あそこの家は自粛もしていないで、となる。そのメンタリティが、戦時中の「欲しがりません、勝つまでは」と何も変わらないことを、誰も指摘しない。町内でちょっとでもいい暮らしをしている家を見つけては、「ぜいたくは敵だ!」といって町内会の人が乗り込んでくるような厚かましさが正当化される。当時、ぜいたくができる人が少しぜいたくをしたからといって、戦争に負けることには変わりはなかったろう。今は、乗り込む代わりにネットでコロナ感染者や、医療従事者を晒し、根拠のない非難をするが、そんな非難をしても、感染は食い止められない。いろいろな年末年始のイベントは中止になるが、それでもいつも通りの正月を迎えようというのが、我が家の方針だ。
2020.12.15
政府は、とうとう世論に負けて、GoToトラベルの停止地域に東京、名古屋を加えることになるようだ。相変わらずの後手後手の政策決定だが、マスコミは政府が何をやっても例のアクセル・ブレーキ論で喧しい。フランスのコロナ対策についての報道を見たが、第1波の時に、政府がマスクを義務化しようとしたとき、それは「移動の自由」の不当な侵害だという訴訟が起きたという。マスクをしての外出は「やりにくい」というのが、原告の主張だった。それが当たり前だと自分は考える。基本的人権について、それがわずかでも侵されそうになった時、全力で抵抗するという市民的伝統が、西欧にはある。トランプはマスクをせず、大規模集会を開催し続けた。あれは非難されて当然だが、あれだけ死者数の多いアメリカでも「集会の自由」自体を否定しようという論調はない。密になろうがなるまいが「集会」は自由なのだ。それに比べると、「5人以上の宴会は自粛」、「高齢者はGoTo自粛」等々、政府は基本的人権を侵しそうな「要請」を次々に出している。「自粛」を「禁止」と書き換えれば、すべて憲法違反であるが、日本人の同調性を計算に入れてのことだから、少なくとも憲法に抵触はしそうな「要請」だ。ところが、そのメッセージを受け取る国民の方が「GoTo」というアクセルと「自粛」というブレーキの間で右往左往しで、「どうしていいかわからない」、「どうすればいいかはっきりしてくれ」という情けないことこの上ない状況に陥っている。「移動」するかどうか、「自粛」するかどうかは、国や県が決めることではなく、個人がその主体性において決定すればそれでいい、という市民的「常識」のかけらも見られないことの方が、最大の問題だと自分は考える。
2020.12.14
我々の世代が、その成長の過程で「反体制的」であることを血肉化してきたのと対照的に、今の40代くらいまでの世代は「体制的」というよりは、政治的無関心か、政治を一種のエンターテインメントとみる態度が普通のことになってきている。ほぼ、生まれ落ちたときから、家庭がどの程度教育にお金をかけられるかによって「分断」されていて、大学進学するかどうかで、上位・下位に本格的に二極化し、どういう大学かによってさらに上位25%くらいが昔で言えば中流層を形成していく、というのが現在の日本社会のあり方だろう。テレビ、新聞などの旧メディアは彼らの日常の中には希薄にしか存在しない。ネットは極端な右翼思想が、そのわかりやすさ故に優勢である。もちろん、それは「嫌韓」「嫌中」という、よりわかりやすいメッセージとして流れる。そこに賛同するのは、実は日本社会の中で、「最初から」差別されてきた非正規の若者たちだ。自らの被抑圧的人生を、抑圧対象をみつけることでバランスしようとする。その点で威勢のいい現政権のような新自由主義が彼らの支持を集める。そしてその「自己責任論」を自ら引き受ける。中流以上の若い世代はまだ新聞のネット購読をしている層だが、「日経」などの経済色・保守色の濃いメディアを好む。彼らはもちろん分断された社会の中で、その上位にいるという自覚はあるから、この立ち位置が維持される政権を望む。それは現状維持ということだ。ただし、以上のことは彼らの「思想」ではなく、「気分」のレベルの話であり、だから国政選挙の投票などには行かない。「無関心」の度合いはますますひどくなっている。彼らは「政治」以前に、「社会」に無関心である。封建社会で、カーストの下位層であればあるほど「社会」の構造に対する関心を持たず、自らの階層内で上位を示してくれるような「象徴」に夢を託す。現代で言えば、例えば「車」「ファッション」などに夢中になるのは、それと同じかもしれない。「世の中を変える」ことよりも、仲間内の差違の記号を得ることに「生きがい」を感じる。あるいは、自分たちよりもさらに下位の者を苛めることが、不満の解消の手段となる。自分たちのような高齢者も、人口ボリュームは多いが、社会保障を維持してほしいから、次第に体制的になっていく。今や、反体制的気分を持ちつつ生きる高齢者は、明らかに少数派だ。かくして、老若男女総じて、1億総保守化というおかしな世の中が到来している。
2020.12.14
262-278=540前半はM1本。後半、もういいや、という気分で「切る射」にしたら、10点が13,4本出る。しかもど真ん中が多い。さて、迷宮はますます深くなりにけり・・・
2020.12.13
地区協会の試合だが、試合は試合。やはり、練習で射場に行くのとはわけがちがう。結局、青のカスケードで「切れる射」で通そうと思う。矢は23-12のトライアンフ。ひょっとすると260台まで点数は落ちるかもしれないが、一度そういう試合をきちんとする方がいいだろう。何が悪いのかがはっきりする。一応目標は550。
2020.12.13
テレビは、暇でなければ積極的には見ないのだが、それでもテレビっ子と呼ばれた世代なので、ちょっとでも興味が引かれるな、と思うとつい見てしまう。最近、ちょっと面白い言説に出会った。一つはタイトル通り。世論調査の政権支持率は実は20代が一番高い。そして高齢者になるほど低い。政治学の専門家は、若い人は成長とともに、次第に社会が悪くなっている。これ以上悪くなるくらいなら、現状維持を望むから、保守的なのだと言う。そうなのか、と思った。普通は、若い世代ほど現状に不満で改革したいと願い、老い先短い我々の方が、現状維持を望むのではないかと思うだろう。自分の考えはちょっと違う。団塊の世代を含めて、自分たちの世代は反体制であることが、ある意味で血肉化している世代なのではないか。全共闘世代と呼ばれるのは、自分より5歳くらい上だが、体制の中にいることのある種のかっこ悪さを、いろいろな面で経験してきた。それは、ファッションとか食べ物に至るまで、結構深く浸透している感覚である。もう一つは、今の若い人たちは正規雇用の勝ち組と、非正規の負け組に分断されているが、自分たちは若いときは総じて貧しかった。社会の出たら出たで、年功序列の最下位に置かれるわけで、明らかに自分たちより劣る知性しかない人間の理不尽な命令を聞かないわけにはいかなかった。その象徴が政権中枢だった。訳の分からないことをごり押しする国会、内閣。そういう体制への批判をいつも公然と述べていたし、少なくとも気分として持ち続けていた。それでも、社会の中流にいられたのが、自分たちの世代である。もちろん、そうでない人もいただろうが。だから、この年代は一貫して反体制的であることがアイデンティティだったのだ。ただし、自分たちの世代も40歳、50歳と歳を重ねてくるに従って、中流が痩せ細っていき、年功序列は崩れ、社会の下層に追いやられる人たちも出てくる。その恨みは、自己責任論が蔓延り、もはや晴らしようもなくなる。まあ、少ない年金でおとなしく生きていようか、という人も多い。では、若い世代はどうなのか?次回、論じてみたい。
2020.12.12
昨日は、整形の前にスーパーに立ち寄り、みかん5kg箱購入、通帳記入など。整形後はデパート、息子のところに送る正月用品をいろいろと。来られない分、少しは正月らしい気分になれば、と思う。その後、20日のジャズライブのチケットを買いに行くと、もう12時をかなり回っていて、腹も空いてきた。以前行って、旨かった天丼の店に。チェーンではないが、安い。天丼セット730円。妻も同じものを。店は昨日の話ではないが、十字路の裏にある小さな商店街の一角。場所もよくないし、客は二組だけ。味はいいのだが、大丈夫かな?という感じだ。整形の後のランチは秋までは恒例だったのだが、最近はあまり行っていなかった。まあ、GoToであちこち出かけたから、少しは財布のひもを締めないと、というのもあるし、そもそも時間がうまく昼に合わなかったのもある。今日は午前中は練習。午後からは、明日から冷え込むというので、畑の始末。
2020.12.12
今朝の新聞ややけに分厚いな、と思ったら、広告がいっぱい。本誌一面は「雪まつり中止」。まあ、仕方がないところだろう。去年、習近平の国賓来日で、決断が遅れる前に、すでに雪まつりで中国からのウイルスが入り込んでいた。インバウンドが落とす金に拘泥しすぎた結果だ。広告の中で、10ページくらいの市内商店街特集。よくみると、「GoTo商店街」の企画だった。政府が金を出して、地域の商店街を盛り上げようということだが、何だか不出来なパンフである。広報誌のようで、ちっとも出かけようかという気にならない。一方で「不要不急の外出自粛」と言い、一方でいろいろなGoTo。アベノマスク以来、やってることがすべてちぐはぐで、間抜けだ。自衛隊の派遣も、地元の病院はとっくに頼んでいたのに、やっと今になってである。その旭川は、GoToトラベル地域制限の対象外だという。意味が分からない。コロナについては、マスコミの過剰報道もどうかと思う。「我慢の3週間」とか「緩み」とか、まったく余計なお世話である。普通の人はすでに「手洗い」「うがい」「マスク」は日常的にしているし、外食もそこそこ控えているだろう。それでも「緩み」などと無神経に言うから、自粛警察みたいなことがまた起こるのだ。今は報道番組が自粛警察を煽っているとしか思えない。
2020.12.11
昨日は退勤後、まっすぐ射場に。2時間。カスケードで「切れる射」、274、8点3本。「切る射」は点取りはしないが、10点は多く、8点も多い。多分同じくらいの点数になるだろう。最後に、整理運動代わりにトリガーレス。これが、一番中った。18射で10点6射、赤なし。まあ、こうなるともう、どのリリーサーでも同じような275というアベレージになりそうだ。どうせなら、明日、もう一度トリガーレスを試してみるか・・・
2020.12.11
昨日、朝に久々に娘から妻に電話。LINEは音声が途切れがちなので、通常の電話に。車を買ったときに、貸したお金のボーナス返済の話だったが、子どもの頃から、「あげるお金」と「貸すお金」については、厳しく分けていた。妻が特にそれをやってくれたので、娘も息子も無理なローンなどは組まないし、手取り収入の中で何とかやっているようだ。今回は50万は支援金、100万が貸金。返すつもりのない借金を繰り返して、虚栄の生活を送り、皇室と縁戚を結ぼうとするどこかの家族とは違う。あの一家がバッシングされるのは、金持ちだからではない。金持ちでないのに、上流のふりをしているからだ。娘夫婦と孫は、密を避けるつもりか、その車で帰省するという。7人乗りだから、どこかにみんな乗っていける。2,3泊らしいが、それでもまた孫と遊べるのは楽しみだ。だんだん大きくなるし、何を準備しておこうかと思う。孫のアレルギー対応お節は注文済み。いつも頼むオードブルも昨日頼んだ。あとは、すき焼きにでもして年越しを。
2020.12.11
自分にとっての週末は木曜日。火曜日に午後2時間の授業と8時までの特講。昨日は2時間の授業と会議。そして今日は3時間の授業。これで今週の仕事はおしまい。まあ、毎週が飛ぶように過ぎるのだが、弓の方は昨日は休んだが、週5日くらい。今度の日曜日が今年最後の試合だ。点数の期待はできないが、何とか納得できる射を続けたい。今日は、退勤後まっすぐ射場に。2時間はたっぷりと練習できる。
2020.12.10
今年の冬休みは12月20日から1月11日の23日間。ただし、自分は12月20日から5日間の冬期講習があるから、実質18日間だ。この仕事をしてよかったと思えるのは、長期休みが実質的な休日となることである。専任の時は、それでも何だかんだと出なければならなかったし、管理職の時はなおさらそうだったが、今は18連休ということになる。それでも365連休のフルリタイアとは比べようもないが、「毎日が日曜日」というのは、あまりにも退屈だろうし、年金にちょっとだけでもプラスされる収入があるというのも悪くはない。これがないと、我が家の家計は毎月の赤字幅がさらに大きくなるから、少しは緊縮財政をということになるだろう。それよりも何よりも、仕事は自分の得意なこと、好きなことだけ、つまり「教える」ことだけが仕事なので、少しも苦痛でない。それなりの準備も必要だが、時間はたっぷりとある。その他に、生徒の小論文指導など、他の教員はしていない仕事もあり、考えてみると、その分だけ時間あたり収入は少ないということになる。まったくいるだけマイナスにしかならない教師というのも、再雇用規定のおかげで65歳までは仕事にありついているが、彼らと同じ給与しかない。自分の仕事を時給換算するようなやり方は、脱工業化時代の考え方ではないだろう。が、もし「成果」で報酬を得る仕組みなら、今の3倍もらってもまだ安い。しかし、「仕事」とは「お金」がすべてではない。一時間一時間の授業でも「うまく教えられた」という小さな達成感はある。ずっと指導してきた生徒が小論文の腕前が上がり、高倍率の推薦入試を突破するというのは、より達成感が大きい。何のために働くのか、という問題はこの歳にになると、若い頃とはまったく違う意味で「切実な」問題だ。子どもにまだまだお金がかかる時期、自分なら57歳くらいだったろうか、なにしろ二人合わせて16年も大学、大学院に行ったのだから、普通の4倍くらいの教育費だ。その時までは、働かないという選択肢はなかった。そこから、定年直前にやりたくもない管理職を4年ほどやって、定年延長。やっと今の身になって、もう4年だ。とっくに辞めていてもおかしくない4年間だった。今は、65歳までの再雇用が世間の「ふつう」らしいが、そこももう過ぎた。最近は70歳とか、「働けるうちは」とか、政権は、生産年齢人口の減少を何とか高齢者と女性の非正規増大で補うのに懸命だが、まあ、その流れに乗っても、別に悪くない。何しろ、まだこれといって大きな病気もしていない。胃がんになったが、寛解している。あとは座骨神経痛がちょっと、というくらいである。まあ、弓を射てるのだから、どうということはないのだ。最近は年末になると、さて、来年度はどうしようかな、ということ考え始める。今は准専任という微妙な立場を、規定の例外措置で65歳を過ぎても続けているが、来年度は、今の8割くらいの仕事で、非常勤というのがいいかな。授業だけにはどうせならないとは思うのだが・・・
2020.12.10
戦後民主主義という近代から現代に至る時間の中で、急速に見失われていったものの一つは「義務」意識だ。親は子どもに教育を受けさせる義務がある。「義務教育」の「義務」とは第一義的にそのことを指す。子どもには「義務」ではない。なぜなら、子どもはいかなる「権利」もまだ持っていないからだ。「義務教育」は広く親の「養育義務」の中の一つである。だから、親は有無を言わさず、子どもを小学校と中学校に通わせなければならない。そして、それを義務と定めた国は、義務教育に関しては無償化しなければ、すべ手の親に義務を履行させられない。ただし、学校に行かなくても生じる昼食代金については、親が給食費等を支払わなければならない。ところが、「給食費未払い」が急速に増加していった頃から、この「義務」の観念が希薄化し、「権利」意識とすり替わっていく。子どもを学校に行かせるのは親の権利であり、自分の子どもを教育するのは学校、そして国の義務であるという、完全なすり替えの論理がまかり通るようになる。学校に課される「義務」は、初等中等教育をきちんと行うことだ。だから、教員免許状を持つ者しか、教えられない。そして、1学級30人だろうが、40人だろうが、集団教育であることには変わりがないのだから、授業に規律が必要なのは当然である。「義務」を果たすために、教師は授業の規律を保つ権利を有する。教える側のこの「義務ー権利」意識は、現在ではほとんど空洞化している。これは「個性重視」教育あたりからのことだ。「集団教育」で一人一人の個性を伸ばすことが、原理的に不可能であることくらい、誰でも分かる。あるいは、「個性」はそのような「集団」のセンターから外れているからこそ「個性」なのであって、「学校」が育てた「個性」などというものは、脆い幻想に過ぎない。勘違いしてもらうと困るが、一人一人の個性をある程度まで尊重することと、個性を育むことは根本的に違う。「ある程度まで」というのは、授業の進行が妨げられることがない、という程度まで、ということだ。また、別項で論じることになるが、例えばADHDと呼ばれる「障害」は、それが授業の正常な進行を妨げるのであれば、そこから「除外」されるべきだと思う。それは「特別支援教育」の領域である。あるいは「医療」の領域だ。こういうことを言うと、すぐ「差別」と声高に叫ぶ人たちがいるが、一人のADHDのために、基礎教育が数年に渡って十分に受けられなかった他の30人に対して果たすべき学校の「義務」はどうでもいいのか、と問いたい。簡単な計算や、読み書きができない30人はどうすればいいのか。「障害」は「個性」であるとしても、授業の規律を乱す個性は、学校教育では容認されない。さて、こうして整理すると、すぐに気づくのは、「学校」と「保護者および生徒」の関係は片務的だということだ。「義務」は保護者の側にあり、「権利」は学校にある。内田は、それがまったく逆転して、「教育サービス」の提供を受ける権利は「生徒」にあり、提供する義務は「学校」にあるのが現状だというが、その指摘は正しい。しかし、それは子どもが「消費者」として自己形成をしたからではなく、そういう片務的な「義務ー権利」関係を経験してこなかったからだ。子どもにはいかなる義務も権利もない。義務を有するのは保護者と国であり、その義務を遂行するために親は子どもを叱らなければならないし、教師も子どもを叱らなければならない。そして、学校という場では、教師の職業的判断が保護者の判断よりも優先される。「叱られる」経験を通して、子どもは片務的な「義務ー権利」関係を血肉化していく。就職すれば、上司との間にその関係は再び現れるし、組織内である程度の地位に就けば、今度は自分が部下にその関係を押しつけなければならない。片務的「義務ー権利」関係は、換言すれば「命令ー服従」関係だ。海外ドラマではよく上司が部下に「You work for me!」と怒鳴っているが、意訳すれば「俺の言うことを聞け!」だ。重要なのは、「民主社会」であっても、「社会」である限りは、そのような「命令ー服従」関係がなければ、社会が機能不全に陥るということだ。ただし、「責任」という観点でいうと、「命令」する側にほとんどの責任がある。その「命令」が妥当なものであったかどうかは、絶えず検証されなければならないし、不適切な「命令」の結果として生じた損害に対しては、「命令」される側ではなく、「命令」する側が補償しなくてはならない。だから、職務を命ずること自体が、例えば「パワハラ」なのではない。労働契約に反するような非常識な職務を、拒否できないように高圧的に命ずることがパワハラである。それが、どこかの時点で、完全に勘違いされてしまっている。社員の自主性を重んじると言いながら、責任回避するために、上司は一切命令しないような会社は潰れる。上司が不合理な命令を部下に強要する会社が潰れるのと同じことだ。まして、教師が生徒にいかなる命令もできないような授業は、教育として機能しない。そのような場で、育ってきた若者が、せっかく決まった会社を半年で辞めるのは当然だろう。
2020.12.09
枕元にツムラ68番は、いつも置いてある。仕事でも、弓でも、出かけるときも、ズボンのポケットにはいつも入れておく。あちこちのズボンや上着のポケットに入れたままにしているから、この前夏物を整理していたら、全部で5,6包も出てきた。いわゆる「こむら返り」には、68番が一番だ。漢方なのに、ものすごく即効性がある。整形で処方してもらう。今朝も4時頃、ベッドで体を伸ばしたら、その拍子に右足脹脛が吊った。慌てて、枕元の68番を探し、飲む、というよりジャリジャリしている粉をかみ砕く。そうしているうちに、もう痛みは、かなり収まってきている。ベッド脇のペットボトルの水を飲む頃には、完全になくなっている。それから、固くなった脹脛をマッサージし始める。最後は、モーラステープを貼ると、もう心配ない。効能は血流改善なのだが、口に含んだ途端に血流がいきなりドバッとよくなるのだろうか。その辺はよく分からないのだが、なにしろこのごろは手放せない薬だ。
2020.12.09
今年の正月は、おそらく夫婦二人でということになりそうだ。この状況では、まあ、それも仕方ない。いっそ、Gotoでも使って行きたいところに、とも思ったが、やめにした。別に同調圧力に負けたわけではないが、そう肩肘張って我を通すほどのことでもないな、と思っただけのことである。自分たちの旅行の楽しみ方は、一応観光巡りはするが、前もってのスケジュールは立てない。行き当たりばったりである。ホテル自体を楽しむという発想もあまりない。本当に美味しいものは、街の中にあるということは、観光都市といわれる地方都市に住んでみれば、分かることだ。だから、正月に有名温泉地の旅館で、年越しをというのは性に合わない。一度だけやったが、それはスキーが主目的だった。そういうわけで、おせちももう頼んであるし、オードブルもそろそろいつものところに、と思う。あとは今年は久しぶりに「蟹すき」もいいかな。孫がアレルギーなので、普通はすき焼きなのだ。
2020.12.08
昨日、学校から電話が入り、小論文などを教えてきた生徒が、医療系の公立大学に合格とのこと。公募制で、3倍くらい倍率もあり、まあ、よく頑張ったなと思う。普通の試験だと、合格を手にするのは不可能だった。そこを目指す、ということで担任に頼まれ、教え始めたのが2年の最後の方だったから、もう10ヶ月くらいになる。最初は、無理だろうな、と思ったが、ガッツのある生徒で、毎週ほぼ3本くらいの小論文課題をこなしてきた。途中、定期試験や、現代文読解対策も挟んだので、合計本数は6、70本になるだろうか。今までの生徒でおそらく最多である。だいたい平均的には2,30本だ。小論文は、最初の3本くらいで、何とかなるレベルか、そうでないかが分かる。文章というのは、ちょっと音楽と似ていて、音痴が治らないと同じく、悪文はなかなか治すのが難しい。教師の書く文章でも、随分とひどいのがあって、直してあげたいのだが、それはさすがにできない。しかも悪いことに、ひどい文章を書く人間ほど、その自覚がない。そういう実例は今でも身近にいる。この生徒は、そうひどい文章ではなかったが、合格するところまで持っていけないだろうと思った。それが、10本目くらいから急速によくなっていった。こちらの指摘が、次の課題でちゃんとクリアされている。最後の10本くらいは、ほとんど直すところもなく、いわゆる「引き出し」の数を増やせば、というつもりだった。小論文で、指導者を含めて大きく勘違いしているのは、「どう書くか」が問題だと思っていることだ。まったく違う。「どう書くか」は簡単で、一文をできる限り簡潔に書き、文を文章に、すなわち論理構造へと組み立てるだけである。あらゆる小論文は「~~~についてーーーと考える。なぜなら、・・・・だからだ」という構造さえあれば、小論文になる。後は、その構造の妥当性が問われるだけだ。問題は「どう書くか」ではなく、「何を書くか」なのだ。知らないことは書けない。多くの教師は、知らないことをごまかしながら授業をしているから、いつまでたっても知っていることの数が増えない。そういう教師に小論文の指導を頼むと最悪である。まず、指導するには自分が調べて「知っていること」を増やす必要があるが、その努力をまったくしない。いくつかのことを知り、それが書けるようになると、その知識は部分的に次の課題で使えるようになる。前述の「引き出し」の数とは、そういうことだ。この生徒は医療系志望だったので、医療問題の基礎的知識はもちろん書きながら身につけていった。ただ、医療系小論文には、別の要素もあって、それは職業的適性を見るという視点である。いくら論理的に完璧でも、それだけでは足りない。職業的自覚が、文章のどこかに表現されていなくてはならない。それも、彼女はうまく書けるようになった。その上で、まだ合格するかどうかは半々だな、と思ってはいた。理由は大学側の合否選考の妥当性が、今ひとつ信頼できないからだ。これが私立大学になると、なおのことで、結局のところ情実入試の隠れ蓑としての推薦試験が普通にあちこちである。今回は公立大学だから、それはないが、面接教官がおかしな奴でなければ、大丈夫だという確信はあった。しかし、国公立でも、残念ながらおかしな面接官はそう少ないというわけでもない。しかし、まあ、こうやって自分の仕事の成果が1年しないうちに形として現れるのは、やはり嬉しいものである。この仕事をもう少しやりたいという大きな理由だ。
2020.12.08
「不即不離」・・・「つかず離れず」というと少し俗っぽくなるが、ほぼ同義だ。一昨日、昨日と二日連続で午前、午後の練習。合計で250本くらいは射った。例の「切れる」「切る」問題は、曖昧なところで決着した。それが「不即不離」。まず、フルドローからさらに引き、「切れる射」を目指すが、限界に来ても、切れないときは「切る」。限界点では、時々「切れた」のか「切った」のかが判然としなくなる。その「不即不離」の射が最高である。エイミングも同じ。中心を目指して、最初は押し手、次は引き手でエイミングしていくが、限界点に来ると、もうこれ以上真ん中につけられなくなる。真ん中についているのか、いないのか判然としない。これも「不即不離」である。目指すべきところは、分かったが、その方法は分からない。やはり射ちこむほかないのだろう。
2020.12.07
「はやぶさ」が無事帰還したそうで、それはよかった。そういう科学的な事柄にはあまり興味はないのだが、世間ではパブリックビューイングのようなこともしていたようだ。インタビューでは、「頑張って、無事に帰ってきてくれて、ありがとう」というようなことを、涙ながらに、声を詰まらせて話していた人がいた。別に研究関係者ではない。まったくの一般人である。何なのだろう、と思う。「はやぶさ」という鳥の名がついているが、結局のところ「機械」である。その「機械」が稼働することを「頑張って」と言い、計算通りに大気圏に突入しオーストラリアの砂漠に落下するとこを「無事に帰ってきてくれて」と言う。さらに、それを開発した人たちにではなく、「機械」に「ありがとう」である。これをニュースとして放映するNHKは、少なくとも奇妙な態度とは思わず、人々の一般的反応とみているのだろう。自分は「過剰な擬人化」だと思う。もちろん、長年親しんできた愛車などなら「ありがとう」という擬人化された感情を持つことはある。娘夫婦にあげた車は16年使ったことになるが、やはりそういう気分はあった。しかし、それにしてもなぁ。
2020.12.06
先ほど、採点がやっと終わった。火曜日から始めたから、5日間。1日1時間半くらいは採点していたから、7時間。認めたくはないが、やはり年齢とともに作業効率は落ちてくる。今日は、妻の茶会の送迎があり、弓はできても10~11時の1時間。まあ、後はゆっくりと過ごす。
2020.12.06
昨日の段階で、採点はほぼ8割方終わった。古典は問題数も多く、時間がかかる。それでも目処はついたので、今日は午前、午後の2回、じっくりと射場に行くことにした。明日、妻が茶会なのでその送迎があり、できたとしてもせいぜい1時間程度だからだ。まず、これから採点を続行して、10時くらいに射場に。弓を置きっぱなしにして、昼食を家で。それから再び射場。まあ、3,4時間練習したい。昨日は3階で近射36本。「引きながら切る」練習。時々「引きながら切れる」射が混じるが、それはそれでいい。エイミングしてセンターからズレないことを主眼としているからだ。一週間後に今年最後の試合。
2020.12.05
「義務・権利意識の欠如」の前に、少し書いておきたい。内田も指摘しているが、私が学級崩壊や格差の問題を巡って本質だと思うのは、「文化教養資産と格差」の方だ。文化教養資産といっても、それほどたいした話ではない。例えば、家の中に世界文学全集があって、それを子どもの頃から読んでいた、などという子どもは現在、ほぼ皆無だろう。一つは、テレビだ。新聞のテレビ番組表を見て、今日はこれを見ようかなと思い、時々は忘れるから一応HDDに予約をしておいて、というのが今の我が家の流儀である。しかし、テレビはつけっぱなしという家がある。番組表はその時、その時の「今、何を見るか」を確認するために使う。だから、新聞のテレビ欄すら見ない。次は新聞だ。我が家は現在一紙しか取っていないが、それすら取らず、ネットニュースで事足りるとする家庭は多い。別に新聞の肩を持つわけではない。昨日の夕刊の一面の見出しは「ワクチン開発、一周遅れ」で、日本のワクチン開発がヨーロッパ、アメリカと比較して非常に遅いことに「批判めいた」論調の記事だった。しかし、よく考えれば、コロナは高齢者や基礎疾患がある人を除けば、ほとんど無症状であり、今のところ日本ではインフルエンザよりも死者数は少ない。また、これまでの死者のうち平均寿命を越える人の数を除けば、驚くほど少ないのだ(新聞は決して書かない)。そういうことまで考えると、単に西欧より遅いと言うだけの批判は間違っているのではないか?しかも、治験での安全性の担保が怪しいスピードであることも、この見出しからは読み取れない。ちょっと話がそれた。どちらにしても社会的出来事を一度、「固定」して論評する。もっと簡単なことでもいい。「冬型の気圧配置が続くから、いよいよ冬だ」と父親が言い、それを聞いた小学生の子どもが「キアツハイチって?」という疑問を抱く。そういう朝の一場面の積み重ねがあるかどうか。とりあえずテレビをつけっぱなしにしておき、そのために何の会話も実質的になく学校へ送り出すことしかない家庭との、文化教養資産において、大きな格差を生むことは間違いないだろう。そのことが、中学、高校での学力格差として現れるのは当然だ。また、両親とも高学歴(この語の意味の厳密な定義はおくが、少なくとも単に大卒というだけではない)であれば、そのことが理由で彼らは社会生活上、有形無形の恩恵を受けている。自分の子どもにも、そういう恩恵を受けさせたいと思うのは親の願いとして自然だ。だから、「学級崩壊」の少ない私立の小学校に子どもを通わせる選択をする。その点については、内田は間違いのない指摘をしている。高学歴であるということは、社会に出た後も、そのような集団特性をもった人たちとともに働くことになる。そこは「自己責任」の世界ではなく、お互いがお互いの「リスクをヘッジする」世界だ。アンテナさえちゃんと張っていれば、リスクを回避するための有力な情報は入ってくる。アンテナとは、同業者との会食やゴルフ等々である。大卒の二代目、三代目の会社はそう簡単に潰れない、というデータもある。他方、地方都市に多いが、学歴のないたたき上げ経営者は、アンテナがない。彼は同学歴の中では抜きん出た経営手腕を持っているし、反骨精神も強い。すべてを自分で切り開いてきたという自負があるから、子どもたちにもそれを要求する。「リスクを取って」己の地位を築き上げてきたのだから、その責任は100%負わなければならないと考える。つまり「リスクヘッジ」ができない。なぜなら「リスクヘッジ」とは「リスクの分散」に他ならないからだ。すべてが自己責任であれば、リスクが分散されることは、原理的に不可能である。このことの原点は、家庭の文化教養資産の格差であり、それは目に見えない分、徐々にその後の人生に効いてくる。
2020.12.05
内田は、幼い頃から「消費主体」としてのみ育てられ、「労働主体」としての経験がないまま成長した小学生たちが授業崩壊を引き起こし、就職半年でやめてしまうような事態を引き起こしているのだ、とするが、さすがにその論には無理があるだろう。まず、消費主体が「無時間的」であるという彼の論理の根幹に無理がある。金を払ったらすぐ品物を受け取る、というのが「無時間的」の原型だが、現代は「品物が先、支払いは後」というクレジットカード消費や、「支払いが先、品物は翌日以降」という通販などの「消費」があり、還元されたポイントで消費するなど、「消費」自体が多様化している。また、「嫌消費世代」とも言われるロスジェネの世代もいるし、GoToで浮かれて消費する高齢者たちもいる(自分たちもそうだ)。さらに購入するサービスに対して「値踏み」するというのが消費者の基本的態度だというが、それは中東のバザールの話であり、日本文化にはそのような消費態度はない。だから、小学生が教師に対して「お前の教育サービスはどの程度なのか」と「値踏み」して、それを受ける対価として「最小限の関心しか払わない」のだという彼の論理は成立しない。自分の経験で言えば、学級崩壊が起こるのは、究極的には、それを起こす生徒を強制的に授業から締め出すことがないからだ。もちろん、そこに至るまでの教師の力量の問題はある。しかし、集団教育である限り、ある種の統制的規律は必要であり、それは有無を言わさず身につけさせるべきものだ。小学1年生が先生に「座れ!」と怒鳴られて可哀想だという理屈は成り立たない。学校とはそうしたところなのだから、イヤなら家庭で、親の責任と監督において基礎教育を受けたらいい。それを義務教育終了と認定する試験に合格できればそれでいいではないか。おそらく、社会性のない大人に成長するだろうが、それこそ家庭の「自己責任」なのだ。学校は子どもの人権にもちろん配慮しなければならないが、それは他の人権と同じく「公共の秩序を乱さない」限りにおいて、尊重されるべきものだ。教室内で立って騒ぐなど「公共の秩序を乱す」とんでもない行動だ、ということを教えるのが教育なのだ。自分の授業で学級崩壊などは起こらない。まあ、高校生だし、比較的出来る生徒たちだから、ということもある。とにかく、「授業を壊す行為は、断じて許さない」ということを最初に、強く宣言しておくことが必要だと思う。しかし、最近はそんなことは不要なほど、生徒は規律正しい。授業が退屈なものでなく、学問的関心を惹起するようなものなら、何も問題はない。言いたくはないが、何年もやってきた同僚の中には、学級崩壊に近い授業をする教師もいる。「つまらない」「話しても注意もしない」というのが生徒の言い分で、そりゃもっともだろう、と思う。生徒の側に規律をもって授業を受けることを強要するなら、教師もそれなりの努力をするのは当然なのだが、十年一日のごとく指導書丸写しの授業を、これ以上つまらなくは教えられないというくらい、淡々と行い、騒ぐ生徒を直視せず黒板しか見ないで授業をするような教師に、何の職業的処分もないのはおかしい。どんなことをしても規律を守らない生徒に出席停止を命じる権限はある。同じく、どんな時でも授業が壊れるような授業しか出来ない教師にも、謹慎、研修を強制する権限は学校設置者にある。自分は学級崩壊や早すぎる中途退社の原因は「消費者」として生徒が学校に相対するからでもなく、「労働者」としての自己を家庭内労働において形成しなかったからでもない。「権利ー義務」意識の基本的欠如がそれを招いている。
2020.12.04
しばらくの間、というかこの先ずっと、ということにもなりそうだが、カスケードを使った「切る射」を追求することに、方針を定めた。理由の第一は「切れる射」では、エイミングがどうしても左下方向にズレてしまう、ということだ。これだと「真ん中を狙って射抜く」というアーチェリー本来の快感が得られなく、苦しいばかりである。理由の第二は年齢からくる衰えである。最近は30本を越すと、引けなくなるというわけではないが(上半身はまだ筋力は相当ある)、座骨神経痛の方が病んでくる。今のところ鈍痛だが、長引く痛みだ。「切る射」だと、射つ分は楽だからか、足が痛いということはあまりない。いずれにしても競技者として楽しめるのは、あとせいぜい7,8年。75歳が一応の目標だ。そこまでやるには、あまり身体をいじめないですむ「ラクな射」をマスターする方がいい。昨日は「切る射」でほぼ2時間。最初の30分で3本の8点。次の30分は1本だけ。まずまずの感じだ。後半はエイミングをしっかりつけることを主眼にしたので、中りは気にせず射つ。とにかく、真ん中にサイトをつけ、そのまま身体の張りを維持し、引く方向を定めると同時に、実際に引きつつ放す。大分、サイトが上がる。つまり上に矢が着弾するようになった。今まではやはり少し下に狙いがついていた。グリップはベタ押しでドローした後、ちょっと弓を傾けると理想の位置になると分かった。その傾きを、ドローイングで修正していく。真ん中についたところでボタンを押し、さらに引きながら解除する。できるだけ押し手のトルクが出ないように、弓を開放する。今、やっているのは以上のような射だ。押し引きのバランスが射ごとに違わないようにすることが最大の留意点だ。そうでないと9点の端から端まで左右にバラつき、それが高ずると8点だ。今日は整形。テスト採点もあり、弓はお休みか三階近射を30本くらい。
2020.12.04
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