全20件 (20件中 1-20件目)
1

なまなましい話しから離れて、今日は先日も書いた、和泉式部と為尊親王との恋愛関係の一部始終のつづき。ある時、宮は、どうやら式部のもとに通う男が自分以外にもいるらしいと誤解し、しばらく式部のもとに通うことをやめていた。一方式部は、美しい月を眺めながら、しばらく顔をみせぬ宮を恋しく思い、一首詠んで宮に届けた。月を見てあれたるやどに ながむとは見に来ぬまでも 誰に告げよと・月を見ながら、この荒れた宿(住処のことを宿といったのです。宿なら泊まりに行くのもさもありなん)で物思いに沈んでおりますことを、宮様以外の誰に告げたらよろしいのでしょうか。見に来ないまでも、せめてお便りだけでもくださればいいのに。宮はさっそく式部の「宿」をおとずれたが、すぐに帰らなくてはならないという。そこで式部はこころみに、 雨もふらなん やどすぎて空行く月の かげやとまると・ためしに雨が降ってほしいものです。宿を過ぎていく月のようなあなたが、雨宿りして泊まっていただけるかどうか。 宮はそんな式部をとてもかわいい人と思ったが、やはり帰らなければならず、やがて、あぢきなく 雲ゐの月に さそはれて かげこそ出づれ 心やはゆく・いやいやながら私は空を行く月に誘われて邸に帰りますが、体は離れても心はあなたの側にありますよ。 と詠んで帰るのだった。しかしこの後も、式部のもとに様々な男が通っているという噂が宮の耳に入り、悩ませ続けるのだった。おそらく、宮の浮気を心配した正妻の近習が式部のことをあることないこと流していたのであろう。いろいろな誤解や葛藤を経ながらもお互いを忘れることができず、月に思いを託して文のやりとりをする。見るや君 さ夜うちふけて 山のはに くまなくすめる 秋の月・あなたもごらんになっておられますか。夜が更けて山の端に澄み渡っている秋の月を ふけぬらんと 思う物から ねられねど なかなか 月はしも見ず・夜が更けたのであろうと思いますのに、どうしたことか眠られません。でも月を見ると宮様のことが想われて、かえって眠れなくなるので、月は見ないことにしています。 なんてコノコノというような、甘い交流があって、ついに宮は式部を邸に引き取ることを決意し、月の夜に彼女を迎えに来る。こんな夫の態度に、宮の正妻は気の毒にも翌年に家を出てしまう。側室をもつことがあたりまえ、妻は夫にかしずくことが美徳とされていた戦国大名の時代とちがって、平安時代のほうが自立した女性が多かったようにも…。しかし、この頃は慰謝料ってあったのだろうか。だって生活が…。もっとも、和泉式部も最初の夫橘通貞と結婚したのだが、夫に愛人ができたためにその家を出てきたのだから、この時代は男女の出入りが激しかったということであろう。やはりある程度の生活力がなければ、出入りはなりますまいな。こんな月夜の晩、ふらふらとおでかけになりませんか。僕は生活があってままなりませぬが…。励ましのクリックを
2009.07.31
コメント(3)

都会の子どもたちとしっかりお付き合いをすることになったここ数日。みんな挨拶も礼儀正しいし、思ったより素直で勉強もよくやる。しかし、なにかが足りない。今日の午前は元信大教授が山荘付近の昆虫や植物などのレクチャー。特別にカブトムシなどが棲むシロも案内して、自由に採取させた。ところが、虫に触りたがらない。また、この花がもう絶滅するかも知れないタガソデソウだよなどと教えても、ピンとこない顔をしています。それもしかたがないでしょう。今来ている子どもたちは東京・新宿周辺の子どもたち。観葉植物など栽培されたものを見ていて、自生する山野草や虫たちとふれあう機会はあまりないでしょうから…。トウモロコシに虫がついていたといって大騒ぎする子どもたちですから、無理もないでしょうが、今日になるとあまり気にしなくなっています。雨つづきの信州でしたが、東京にいるときとちがって勉強する時間が少なくて良かったといいます。休めるのは学校にいる数時間だけだとか。つまり、学校の環境が彼らにとっては休憩時間。放課後からは、塾、塾という時間割だということ。親にとっては信州での数日は、ちょっともったいない時間だったかも知れません。勉強に後れがでたかも知れません。しかし、都会にいては学べない大切なものを少しは身につけてくれたのではないかと思っております。明日は半日森の散歩をして、都会の家に戻ります。励ましのクリックを
2009.07.30
コメント(5)

民主党党首の鳩山郁夫が当市に来たので、見に行ってきた。もちろん民主党に特別な思い入れがあるわけではない。次期政権党になろうという勢いがどれほどのものかという興味があった。この地区から出馬を予定しているKという新人とは数回同席し、話しを聞いたことがある。この彼は、自分の意見をしっかりもっているなかなかの好男子である。思想的スタンスとしては田中康夫に近いと感じた。すべてに共感はできないが好感はもっている。当初は誰もがここは無風区と思っていたが、今の民主党への追い風をみるとあるいはとも感じさせる状況になってきた。対する与党候補は若さが取り得の典型的な二世議員で、いいとこのお坊ちゃんという風情。父親から受け継いだ厚い地盤と熱狂的な支援者に支えられているが、それがどれほどもっているのかちょっと見ものだ。共産党と社民党からも1人ずつ出ているが、この選挙では旧来の票以上は出ないだろう。しかし、比例票はある程度を獲得するだろう。個人的には、共産党と新党日本も伸びて欲しいと思っているのだが…。と、ごく一般論はここまで…。鳩山演説を聴いて感じたのは、民主党は二大政党をつよく望んでいるということである。まあ、政権に近い政党としては当然であろう。しかし、僕はこの二大政党の実現に強い不安を抱いている。この選挙にむけて、自民・民主両党ともに大きなバラマキ公約をたてている。すでに、その恩恵(?)に預かっているものも幾つかある。たとえば、高速道路が1000円で乗り放題だ、無料だ、と競われている。それを使う人はそのときはいい、それで都会からわが山荘に遊びに来てくれる人もいれば、ありがたいとは思う。しかし、そのため減益になった収入、それであてるべき補修などは誰が負担するのか。結局税金ではないか。エコ減税なども、車や家電業界はずいぶん助かるだろう。それを当て込んで、新車に乗り換えたり、大型テレビを買った人は嬉しかったかも知れない。それも結局税金で負担だから、買わない人は負担だけを強いられているわけだ。直接懐から出すわけではないが、福祉的予算や社会資本へのしわ寄せされていくから似たようなものだ。自民党は、消費税を公約に盛り込むという。御用学者やメディアによって、マスメディアでその下地づくりは進んでいるという判断だろう。そして、民主党政権が4年の間に行き詰まるのをみて、「やっぱり自民党でなくては、消費税をあげなくては…」という魂胆であろう。しかし、本当に消費税しかないほど行財政改革がなされたるであろうか。否である。自民党の弱体化で官界はますます力をつけて、既得権益の確保はすすんでいる。天下りも、いまだ収まらない。自民党から民主党に政権が代わる。とりあえずの一歩としてはいいだろう。しかし、二大政党のたらいまわしが常態化して、現在の官僚制度がそのまま居座ることになったら、本当にそれが日本にとって好ましい状態といえるだろうか。選挙に行かない人たちの口癖が「私ひとりが棄権したってなにも変わらない」というものだ。責任放棄の屁理屈だとは思うが、二大政党と現官僚制度がそのまま定着したら、屁理屈ではなくその言葉に現実味を与えることになる。現在の選挙制度はデジタル的というより、二者択一で黒か白を選ぶオセロのようなものだ。この白黒は本質的には大差ないが、その範囲での目新しさのイメージはあるだろう。一応、緑や青、赤なども並べてはみるが、死票となることを考えると全体としては不満でも、一点でも好みのところのある政党を選ぶしかない。のこるのは、組織票のみこめる宗教政党くらいか。性格は悪いけれど顔がきれいだとか、頭は悪そうだが胸が大きいとか、そんな感じで伴侶をきめるしかないのか。せめて、体は小さくてもしっかりものだとか、胸はペチャンコだけれど足は速いなどという議員も生まれるような選挙制度に見直すべきだと、強くおもう。励ましのクリックを
2009.07.30
コメント(4)

長雨はうっとおしいが、田舎の景色をより濃くする。それにしても、すっきりとした空が恋しい日々よ。わがごとく おもひは出ずや 山のはの 月にかけつつ嘆く心を ・わたしのようにあなたも先日の夜のことを思い出していますか。山に入る月を惜しむふりをして、あなたのことを想っているのですよ。一夜見し 月ぞと思えば ながむれど 心もゆかず 目はそらにして ・あの夜見た月だと思うと、眺めていても心が晴れません。ただぼんやりと空を見つめているばかりです。ひとつの月を別々の場所から眺めて詠んだ一対の歌。先の歌は敦道親王で、後は和泉式部の歌とされている。平安時代の貴族たちは、かくも赤裸々と恋文を交わしていたのだろうか。たしか和泉式部は、最初の夫と別れたあと妻子ある敦道と恋に落ちる。ひらたくいえば不倫・浮気なのだが、こういう歌を交わすくらいになると、不倫とはいわれない。ということで、お熱をあげた敦道親王は和泉式部を家に迎えいれる。すると、元々の妻は邸を出て行ってしまう。というような顛末を書いてあるのが「和泉式部日記」。おなじ男女間の不倫関係を書いてあるにも文体が美しいと、「恋愛」日記となり、即物的だと「恋愛」ならぬ変態日記になってしまうような…。Wくんの赤裸々はどちらかな。励ましのクリックを
2009.07.29
コメント(6)

写真のセミは、先日「子ども自然教室」講師の建石信大元教授の車に飛び込んできたクロイワニイニイというセミ。飛び込んできたのは伊那市郊外だが、飛んで火ならぬ専門家の車に飛び込むとはなんという大胆不敵。実はこのセミは、沖縄本島から奄美大島付近にしか生息しないといわれているハズのセミなのだが、本州ほぼ中央にある信州くんだりまで飛来したことになる。もっとも、たまたま昆虫の専門家のところに飛び込んだから気がついたのだが、素人だったら見過ごしていたことだろう。エルニーニョの影響で梅雨がとんでもなくつづいているが、こんなできごとにも地球の環境異変を心配してしまう。いま山荘に、都会から子どもたちがきていろいろな体験をしてもらっている。雨でだいぶ予定変更を余儀なくされたが、賑やかにあちらこちらと動き回っている。少し気づいたこと。今度来ている子どもたちは、比較的裕福な家庭の子ということなのかも知れないが、きちんと挨拶ができたり、学力も高そうだ。塾の宿題などももちこんでいるが、1学年上のテキストをつかったりしている。しかし、昆虫類にはかなりつよい拒否反応。明け方飛び込んできたカブトムシにもだれも手を出そうとしない。虫の食ったトモウロコシも残してあった。といいながらもやっぱり子ども。夜中に懐中電灯をとりだして、数人で建物のなかを探検したようだ。僕も寝ているところをサーチライトで照らされて、起こされてしまった。ときに夜中の2時。今日は、スケジュールをこなしながら眠くてたまらない。子どもはオモシロイが、つかれる。励ましのクリックを
2009.07.28
コメント(3)

梅雨の合間の日食にひとときの話題が集まったが、過ぎてしまえば潮の引くごときかな。一昨日の夜は、ひさしぶりに星空の美しい夜となった。お泊まりのご家族が夕食がすんだ後、蛍の小径を案内すると、なごり惜しむかのように蛍たちが夜影でランデブーをしている姿がチラホラとあった。満天の星と愛を交わす蛍たち、燦々たる太陽の輝きより、この小さな輝きに感情移入してしまう。月は新月に近いのかほとんど見えなかった。月も気をきかせて、小さな光を輝かせる暗闇を演出しているのだろう。月といえば、それにまつわる様々な伝説がある。月には理想世界があり、月宮という華麗な宮殿があり、そこには大きな桂の木が生えていて、霊水が湧いているという。高遠には、これから名付けた桂泉院というわが生家の菩提寺があり、ここには寿命があるかぎり生きるという泉が湧いている。不死の霊水が月にあるという話は、日本でも早い時期から定着した伝説で、竹取物語のラストシーンに登場する。はるか昔、先代の住職がこんな話しをしてくれたことがある。かぐや姫は、月から天人たちが持ってきた不死の薬を置いて、月の都へと帰っていった。かぐや姫に恋していた帝はたいそう嘆いて、天にいちばん近い山はどこだろうと、次の歌とかぐや姫が残した薬を勅使にもたせた。逢ことも 涙にうかぶ 我身には 死なぬ薬も 何にかはせむ・あなたに逢うこともできなくて泣いてばかりいる私に、不死の薬がなんの役にたつでしょう。勅使は帝の命にしたがって、その山の頂でこの歌を書いた手紙と不死の薬の壷をならべて火をつけて燃やした。その山こそが不死、つまり富士の山である、とな。もうすぐ、山荘で「子ども自然教室」が始まるので、こんな話しもしようかと思うが、いかが…。励ましのクリックを
2009.07.25
コメント(6)

先日は皆既日食とやらで、当地方は薄曇りながらなんとか見えた。要するに、太陽と地球の間に月が入ったというだけのことだから、長生きさえすればこれからも見ることができるそうだが、前回は46年前だったそうな。そういえばうっすらと記憶にのこっている。ガラスをろうそくのススで黒くしてのぞいた。この次は26年後、はたして生きているか…。近くで数人の若者が、ボンヤリした雲を眺めながら歓声をあげている。この若者達はちゃんと見ることができるだろう、たぶん。僕は日食のことより、この若者たちの言葉が面白くて聞き耳をたてていた。どことなく子どもっぽい「丸文字」的な言葉。「○○でエ、××のオ」という言い方、「……みたいな」「……だなんて」「……というか」という語尾のない言い方など、オジサンたちからすれば、顔面にケリを入れたくなるような(この足が届けばだが…)言葉遣い。いやいや「最近の若い者」はなにも最近始まったことではなく、プラトンが「最近の若い者は口のきき方や、礼儀を知らない」と文句をつけているし、もっと前には、前四十五世紀のクロマニヨン人の長老が「最近の若い者は動物の声の真似や咬みつき方がなってない」と嘆いていた(……ようだ)。もっとも、「最近の若い者」と言いはじめたらもう老境だとする説があって、みなこの説を知っているせいか何も文句を言わず、社会全体が若者に媚びおもねる体制に変わってきた。若者たちも甘やかされることやチヤホヤされることにスッカリ慣れてきている。これはこの社会が腰くだけになっているからであって、つねにおとなは「最近の若い者は」と文句を言い続けねばならないのだ。これが文化の継承である。また若者はこれに反発しなければならない。これが文化の活性化である。これは人類史上の大切な伝統であり、これこそがすぐれた文化を形成してきた原動力なのだ。おとなと若者のなれ合いのぬるま湯社会などロクなもんじやない。と、十分に話がそれた。といいながら実は、最近は若者言葉にある感覚語には、なかなかツボを心得たものが多いとも感じている。「うるうるしちゃった」、「じとーっ」なども、目が「うるむ」「うるおい」とか、「じとじと」「じっとり」などを上手に表現していると思う。書き言葉でもパワーアップしている。「元気している(^_^)v? この間は逢えてうれしかった(~o~)ルンルン。帰ってきてから(T_T)です。また逢えるね(^_^)/ バイバイ(^_^)/~」絵文字など入れてより親しみを感じる。こんな調子ならラブレターも簡単に書けてしまいそうだ。もっとも、最近はいい大人が、ケイタイメールでこんな調子にあそんでいる人もいる。いい歳をしてメールばっかり気にしているなんて、なんかそぐわないなー。え~と、なんの話しだったっけ。そうそう、日食。日食って、ようするに太陽と月と地球が重なったときにおきる現象。重なるなら、人間同士がいいなー、なんて…。ということで、あいにくのすっきりしない空。ぼんやりしか見えなかったけれど、こうなったら26年後にもういちど挑戦するしかないか。おつきあいしてくれますか?今日から、大勢のお客さんがお泊まり。ということで、忙しくて更新がとどこおるかも…。励ましのクリックで、書けるかな。
2009.07.23
コメント(14)

いつもながら梅雨の最後っ屁のような集中豪雨、被災地のみなさまにお見舞いもうしあげます。自分でいうまでもなく、僕はかなり曖昧でいい加減な男なので、「曖昧」という言葉はわりあいと好きな方だ。字も曖昧だし(昧が味とまぎらわしい所がまた曖昧だ)、「あいまい」という音も何とも曖昧でかわいらしい。上等な和菓子のように口の中でとろけるような音だ。それに川端康成の「美しい日本の私」につづき、大江健三郎の「曖昧な日本の私」がノーベル賞受賞講演になった以上、「曖昧」は「美しい」と並んだわけで、この言葉はとても出世したのだ。講演は英語だったらしいが、「曖昧な私」というのは「アイ・マイ・ミー」というのだろうか……。とにかくわれらニッポン人の曖昧な笑い、曖昧な表情、曖昧な言葉、曖昧な表現こそは日本文化の粋、社会全体をマッタリとした上等のクズ湯のように、不通明に味わい深くしている元兇なのだから…。ところがこの曖昧という味は、外国人や精神的外国人からみればキモチ悪くイライラする民族性なのだろう。これは、夕闇のススキをみてお化けと勝手に思い込んでしまうように、直感的に確認ができないものに薄気味悪さ感じるからであろう。ナニこちらからみれば単刀直入・直截・直接的・直線的なのはあまりいい感じではない。とにかく「直」がつくものはだいたい下品だ。むろん例外もあるのだが…。その昔のいい方で「曖昧屋」というのがあった。これは「曖昧」を売っているのか、その曖昧は一個いくらで何色なのだろうかと思う人もいるかも知れないが、いわゆる逢引きの男女がソレ用に使う所で、「曖昧宿」などもソレで、このなんとも曖昧な言葉の使い方が、なんともソノ日本文化そのもので……、などとあまり曖昧なことを言っているとそっぽを剥かれるのでこれで打ち切るが、曖昧こそが日本文化の味わいなのである。励ましのクリックを
2009.07.21
コメント(15)

今さらだが、仮にWクンとしておこう。いや、本人は実名でもいっこうに構わないというと思うのだが、僕のほうに含羞があって本名では書けない。そのWクンが一昨日から来ていて、2泊していった。先日も書いたが、彼が山に登るというので一緒に登るつもりでいた。しかし、目標は3000メートル級の山で悪天。前日には北海道で大量遭難があったばかりなので、1800メートルほどにある信州大学の小屋まで行って引き返してきた。大学の、しらべ小屋と名がついているくらいだから、小さいながらなかなかの居住性。もちろん電気がないから文明の利器といえるのは缶詰くらい。上空を舞っている雲が、一気に下がってくればたちまちうすくら闇になるような清冽なあたりだが、Wクンと一緒だと、ここに彼女と来たらどうなるかといった話題。僕の山荘付近が、標高約850メートルだから1000メートルも上がってきたことになるが、そういう軽いノリで登山なんてしていいのか。そうして下山。途中で気付いたのだが、僕のカメラが壊れている。フードもどこかに消えている。雨のぬるかみを上り下りするのは意外に神経をつかう。片手にカメラ、背中にリックという格好なのだが、滑ると手はバランスをとるために自然と大きなフリになっているようだ。そうしたアクションのうちにカメラをどこかにぶっつけてしまったようだ。先日はすっかり空いたので、木曽まで行ったのだが、カメラをもたない行程というものがこんなに心許ないものかと心細い。たぶん、明治維新で廃刀した武士が丸腰で歩いた時がこんな感じてはなかったろうか。Wクンはそんなことはおかまいなしにパチパチ撮影している。僕の撮影は、あまり相手に意識させずに撮ることをむねとしている。しかし、彼は大胆不敵。ちょっと不自然な中年カップルの姿をみかけると、前から横から、さあ撮りますよという格好でパチパチ撮っている。面白そうな人をみつけると、立ちふさがるように撮影している。タレントが、フライデー(ってまだ発行していたっけ)に撮られるときって、あんな感じなんだろうか。僕には盗 撮スタイルの撮影しかできないのに…。そのマナーはともかく、カメラをもたない僕は撮影する彼の姿を観察しているしかないが、そこでハタと気付いた。そうだ、これが俳人あるいは川柳人の眼だ。なんでこんなものに…、というものに眼をとめてパチパチやっている。とにかく彼のデジカメのモニターを覗くと、ゲテモノのオンパレード。いや、ゲテモノとは、悪い意味ではない。なんでこんなところを撮るのか、ヤギのフグリばかり撮ってどうする。突かれながらダチョウの首ばかり狙ってどうする。犬の尻ばかり撮ってどうする。と、手持ちぶさたの僕としては思いながら、結局僕もカメラをもつと彼と同じような行動をしているんだなと、ハタと思った。「人のフグリみてわがフリ直せ」いや、勉強になった二日間だった。ああねむい。励ましのクリックを
2009.07.20
コメント(2)

政治がらみでもうひとつ。しかし、最近は政治家が「私の生きざま」という言葉をつかっていることに、僕は少なからず違和感をもつ。中川某という人も反主流派の頭目らしきということでテレビにでて、首相批判をしているが、いうなれば、彼が幹事長をしていたときの尻ぬぐいをアソウ氏がやっているのではないか。それはいい、なぜ違和感をもつのか。その1、なにか、その人の「生きかたこそが正義」であるかのように使っているらしいこと。その2、この言葉の持つ語感に全く鈍感らしいことである。「生き方」ではない「生きざま」である。この「ざま」は何だ? 「このざまは何だ」の「ざま」だ。「ざまを見ろ」の「ざま」だ。そして何よりも「生きざま」に対応するのは「死にざま」ではないか。畳の上で皆に惜しまれながらの大往生などは「死にざま」などとはいわない。満身に刃を浴び血ヘドを吐いてとか、放浪の果ての野垂れ死に、などにこそこの言葉にふさわしい。しかし、政治をそんなヤクザまがいの危ないやり方で動かしてはいけない。福祉までふくめて、市場原理にまかせればうまくいくというような幻想を振りまいてきた結果が、小泉政権の「生きざま」ではなかったか。本来、「死にざま」のイメージの延長上に「生きざま」はある。だから田畑を耕やして平穏に一生を終えたとか、大過なく勤め上げて停年を迎えた、などには「生きざま」はぴったりこない。しかし、国民が平穏に一生をすごすことのできるような政治を行ってくれることが、退屈でもいい政治だと思う。それはそれとして「役所つとめ20年ひと筋賞罰なし、これが私の生きざまでして」などは全然ぴったりこない。やはり「なりふりかまわず」とか「破れかぶれ」、「世間の裏街道」、「修羅場に生きる」といった類にこそ、この言葉はぴったりくるのである。この言葉にはどこか汚らしく恥さらしで、アウトロー的な響きがあり、そこがどことなく受けるから、言っているのだろう。平凡な生き方がいやだと思っている人が「生きざま」に憧れるのは無理もないが、いい年、いい暮らしをして、つまはじきになりそうだからといって「生きざま」とは気恥しくないか。しかししかしだ、この「生きざま」を政治家が軽々しくつかうときは妙に浮いて聞こえたが、案外ヤクザがらみ金まみれの背景を物語る適切な使われ方だったのかも知れない。なぜ普通にサラリと「生き方」といえなくなったのか。特に自らの人生を自分で「生きざま」というとき、そこには観客を意識したような開き直りが感じられ、また何やらスゴミをきかせたつもりだろうが、どうにもうっとおしい。人々の「生き方」が「生きざま」に変わる時、それはどう生きたかの結果を客観的に周囲の者がみて判断すべきもので、自分の口でいうべきものではない。「生きざま」を口にするなら、そのまえに「いい死にざま」見せてから言ってくれ。励ましのクリックを
2009.07.19
コメント(2)

宮崎県の東国原知事の一連の騒動も結局は治まるべきところに治まったということだろう。地方分権が必要ということでは、対官僚ということではわかるが、では、完全に地方分権にしてしまったらどうなるか。それは世界をみればおおよその見当がつく。地域の力の強弱(実際には、強弱というものではなく企業で言ったら本社のある場所か否か)によって格差が格段に開くことは間違いない。ではどのように地方分権を実現するべきかというと、地域の実情にあわせながらきめ細かく、しかも明確なビジョンがなかったら収拾のつかないことになりかねない。世界は経済原則の成り行きにまかせるべきというネオコン、あるいは、跡は野となれ…の小泉改革の地方分権版となりかねない。いたずらに地方分権だけが正しいのではないことは押さえておかねばならない。しかし、では現在のままがいいわけではない。税金と国債のつかいみちが、どれだけぶんどりができるかが「政治」力だとしてきた既成政治の仕組みと、財布を預かっていることをいいことに、国全体の台所より、省益、天下り先確保と、既得権益の保全ばかりに頭を働かせてきた官僚たちの仕組みを根底から洗い正さなければならないことは当然だ。東国原氏が国政に出るか出ないかなどという、どうでもいいことにマスコミは振り回されてきたが、今度の選挙の本当の争点は、長いあいだ放置されてきた既得権益者たちのつくりあげてきた政治システムを構築し直すことができるかどうかが、問われなくてはならないだろう。自民党はこの際、解党的分裂再編をするべきだろうが、受け皿になるであろう民主党も「政権交代」だけが口癖のようになって、政権交代したらどのような国の仕組みにつくり変えるのか、変えないのかが見えてこない。長い間の保守層が現在考えているストーリーは、もはや現在の自民党ではどうにもならないから、一旦民主党にバトンタッチして、その間に再編をして体制を整える。その間に、寄せ木ブロックを積み上げたような民主党は、ボロが噴出して行き詰まるだろうから、あらためて引き継げばいい。そのために、今回は民主党に入れる。という本音がチラホラとみえる。結局、大きな2つの政党以外に生き残りにくい小選挙区政治が、このような安易で見え見えな筋書きを許している。では、どうすればいいか。人口に比例した中選挙区か、1県1選挙区くらいの大選挙区にして、選挙制度も戸別訪問やインターネットの解禁など緩やかにすればいい。選挙への無関心の一番大きな理由は、どうせ自分が投票しようとしまいと大勢は変わらないだろうと思わせてしまった、選挙制度にある。自分の一票で、政治が動くとなれば選挙民はおのずと動き出す。この際、すべての体勢をみ直すくらいのことが、今回の総選挙の目玉になって欲しいものだ。励ましのクリックを
2009.07.19
コメント(2)

文芸仲間が山に行くということで、一緒に登ってきました。昨日の北海道での集団遭難の件もありますから、頂上アタックはあきらめて、3時間1800メートルほどの信大の調査小屋までのトレッキング登山です。しかし、昨日からの雨で登山道が濡れていますから滑る。行きはともかく、帰りには何度か足をとられてズボンをだいぶ汚しました。例年ならお花畑が満開の時期なのに、高山植物が少ない。たぶん、鹿などによる食害が広がっているということなのでしょうか。下山途中の道でカモシカと出会いました。人間と出会う予定がなかったのか、慌てて逃げ去ってしまいました。最近は登山の衣類もだいぶ進歩して、汗をかいてもすぐに吸収、すぐに乾燥してしまうようなものがありますね。近くのホームセンターに買いに行ったときのことです。会計の列に並んでいたら、いかにもヤクザ屋さんといった人が買い物をしていたのですが、偶然にも会計が893円だったので、ひとりニンマリ笑ってしまいました。そしたらそのヤクザ屋さんが千円札と三円玉を出したようなのです。お釣りを表示するレジを見ていたら110円とでて、おもわず吹いてしまいました。そのヤクザ屋さんは、一瞬むっとした顔をして振り返ったのですが、ナニゴトもおきずにそのまま立ち去りました。僕はどことなくすぐに店を出るのを躊躇しました。しかし、僕がなぜ笑ったのかヤクザ屋さんはわかっていたのでしょうか。励ましのクリックを
2009.07.18
コメント(12)

今朝のこと。梅雨明けカンカン照りのなか、友人のまんが家の家を訪れたら奥方が庭先の植物に水を与えていた。主人公がでてきて、取れたてのキュウリをもたせてくれたのだが、本当に人格高潔な人である。その地元では知らぬ人のないまんが家、僕より7歳ほど先輩だが、その人が主催する「満月の会」に入っている。「満月」とは、頭が満月のように世間を明るく照らすという意味、ようするに毛がないという意味だ。といっても、女性もいるし、ふさふさの人もいて、僕も当初はその資格はなかったのだが、いずれそうなる可能性があればいいという、おおらかな規約なので入れてもらったのだが、最近どことなく風の通りが良くなってきた。有資格者に近づいているのかなと、鏡を見るたびにうっすらと感じている。まあ、いまさらヘアがどうのこうのといっても、それなりの歳だしとは思いながらも、鏡に向かって「カガミよカガミ、きのうより後退するなかれ…」などと呪文をかけている往生際のワルさ。ところで、「ヘア・スタイル」というのは、最近は上のほうばかりでなく、あの、「ヘア」の、「スタイル」もあるのだそうで、雑誌によると「流行のヘア」などもあるという。あんなものただ生えてるだけだと思っていたが、流行があったとは…。「ヘア・サロン」って、みんなで「ヘア」を見せ合うサロンでもあるのだろうか。「ウェーブ・ヘア」は日本語でいったらちぢれっ毛、「ヘア・カット」、「ヘア・デザイナー」などもいるのだろうか。少しニヤニヤしてこんなことを書くと、高潔をもって知られた僕の人格が(だれに?)疑われてしまうかな。とにかくいつの間にか「ヘア」が「ヘア」だけでなく、「ヘア」の意味を持つことになってしまった。ひところから週刊誌も「ヘア・ヌード」があたり前になって、ものめずらしくて買っていたのだが、むしろ「ヘア」があることがあたり前になって今ではそんなものでは売れなくなったそうだ。むかし若き頃、僕は写真が趣味だったから、浅草のヌード劇場での撮影会(芸術的な場だった、ホントだってば!)では、いかにしてヘアを写さず、ギリギリ影のなかに溶け込ませるかが腕のみせどころであった。もうそんな技術はぜんぜん必要がなくなってしまった。今になって考えてみればヘア解禁など当然の話だ。昔のお上は、自然にあるものを無理にかくすことで一層ワイセツ感が増すことに、なぜ気付かなかったのだろうか。「秘すれば花」でかくすことは目立たせることなのだ。かの日々、映像や写真の修整を見つけると、ホラここだここだ、強調しているようでいやにコウフンとたものだ。昔は、成人の女性の写真や映像、絵画にもあまり「ヘア」がなかった。少女と同じだ。この無差別に加えて、「ヘア」がないのをいいことに、幼い少女のヌード集までがまかり通る無法時代だった。この状況は明らかに「ロリコン」などというゆがんだ心情を増殖させていた。成熟の目印である第二次性徴の存在を、表現から抹殺しているのだから、その中で育った人間の中に、女とみれば子どもも無差別に同一視というおかしな奴が出てきたのは当然だろう。余計な規制が宮崎某などという罪人を生み出したのである。だから堂々としたヘア・ヌード集などは、青少年の健全な育成に資するくらいのものだが、といって、普通に使っていた「ヘア」の語をそのまま下の方だけに持って行かれては困る。せめて「アンダーヘア」とか「Pヘア」といった呼び方に工夫すべきではないだろうか。(少しの例外はあろうが)大人なら誰もが普通にもっているものを、下にあるというだけで差別するのはいかがなものかと思う。ところで、頭の話題がいつのまにか下のほうにいってしまった。モノゴトが低いほうに流れるのは万物の法則。たまたまこんなことを書いたからって、僕のことを品性卑しい奴と決めつけないでもらいたい。いつもは、上下の毛じめだけはキチンとしているつもりだから…。励ましのクリックを
2009.07.16
コメント(12)

「Iターン」という言葉があり、僕の周辺にもこの手の人たちが少なからずいる。最近もIターンでこの地方に住み着いた女性グループ(亭主たちも家にはいるんだが…)が地域密着のあかぬけた雑誌を発行して僕も少しお手伝いをしている。魅力的な風を運んでくれるのは土着民よりこうしたIターン族に多い。『きっと』という雑誌名を付近でみかけたら買って欲しい。と、この人たちもブログを読んでいるようなのでリップサービスのNターン。思うにIターンもその語源となるおおもとは「Uターン」であろう。この視覚的な言葉は日本全土に普及した。道路上ばかりでなく、これからの盆休みの帰省の時の民族移動の様子とか、もっと長期的に見て、都会に出て住み働いていた人々が故郷へ帰ることまでを「Uターン現象」として表わす言葉となった。「Jターン」というのもある。「Uターン」になりそうに戻って行って、途中下車した状態。例えば長野から東京に出てもとに帰れば「Uターン」、途中の山梨あたりで再就職したり住みついたりすれば「Jターン」だ。しからば「Iターン」は?この字は直線でどこも曲がっていない。行きっぱなしで帰ってこない。実際に都市から地方に行ったまま帰らないことを指すようだ。ここで微妙なのは、例えば信州から東京へ出てそのまま帰らないことは「Iターン」ではないらしい。日本語化した「ターン」という語感には中央から地方へというふくみがいつの間にかできているらしい。いわば「都落ち」なのだが、地方に新天地を求めるというより、積極的な意味を持たせているようだ。「ターン」というからには「回る」という意味があり、それと直線は矛盾するので「Iターン」というのは本当は変だ。どこかの地方自治体がいい出したらしいが、こんな妙な言葉が今後も現代語の一角を占められるのだろうか。これはその先でタッチ(住んだり、滞在する)ことからなりたつ言葉であろう。もっとも「Uターン」、「Jターン」と共に三つ揃いのワンセットになるから生き残る可能性は大だ。それに、信州にはこのIターンで住み着く人たちがことのほか多い。この「Iターン」が一極集中・大都市指向を緩和し、地方分散を示すキーワードになるかも知れない。「アイ・シャル・リターン」とマッカーサーは宣言したが、「アイ・シャル・Iターン」と呟やく都会人がますます増えるのだろうか。この言葉はいろいろあてはまりそうだ。企業の支店を転々としてきた友人などは「XYZターン」だし、酔っぱらってあちこちはしごして帰るのは「Wターン」か。僕が家まで帰るのは「Sターン」、途中でふらっと寄っていく道草があるからだ。このアイコンをクリックするのはVターン!?
2009.07.15
コメント(5)

なんだかナー。麻生投げやり解散の空模様になってきた。個人的感覚からいわせてもらうと、自民党よりかならずしも民主党がいいとは思わない。顔ぶれをみても継ぎはぎ寄せ集めだらけで、何が入っているかわからない闇鍋のような政党だと思う。しかし、今の自民党よりすこしはマシだろうかと思う。つまり、モテたいがためになりふりかまわず散財をする遊び人より、田んぼのカカシのほうが害毒になっていないだけマシという程度のことでだ…。今の選挙制度が、大きいものふたつのどちらから選びなさいという形になっているからダメなんで、結局小政党は埋没していくしかないのかな。「新党日本」は生き残っていけのかなヤッつぁん。社民党は絶滅危惧種、共産党もレッドリスト入り…。これ以上政治ネタを書くとまた嫌われてしまいそうなので控えておこう。それにしても毎日、タレントのように政治家がTVにでて、評論家のようにニッポンのことを喋っているが、日本の政治はジャリタレのレベルになってしまったのだろうか。懐古趣味ではないが、含蓄のある深みのある話しをする政治家が少なくなってしまった。過去には、保守革新を問わず奥の深い味のある政治家がいたように思う、なんて遠い目をしてどうする…。そのわりに「奥が深い」というような言葉はTVなどでもよく使われている。ひとつにはこれが便利な言葉だからだろう。「奥が深い」と言ってしまえば、その奥のことはもう触れなくてもいいし、なんとなく余韻も残る。政治にかぎらず、味、料理また手づくりの工芸品や昔の暮らしといった伝統文化や、特に専門的な分野に話が及んだ時にひんぱんにこれが飛び出す。これは結局、社会全体の「奥」が浅くなってしまったからではないか。だからちょっと深いものがあると、えらく深く見えるのではないか。レポーターのお姉さんやあんちやんから見れば、以前はどの主婦も普通にやっていた煮ものや漬け物も「奥が深く」見えるのではないか。たとえば、遊びひとつとっても、以前は勉強ができなくてもケン玉が神技のように上手な奴がいた。メンコやビー玉のオニといわれた奴がいた。Yクン、今は老いぼれているあんたのことだよ。また竹トンボの削り方が神技に達している奴がいて、彼のは必ず校舎の二階の庇まで上がった。その味が忘れられず、いい歳をこいて郵便局を辞めて竹トンボつくりを商売にしているSクンあんたのことだよ。あちこちに「奥」があり、それがつねに試され、そして「深い所」に達している奴はみなに認められていた。いくら勉強がダメでもである。今はどうなんだろうか。こどもはTVゲームのボタンの早押しで「奥の深さ」を仲間に誇れるのだろうか。いや、仲間どころか彼らはほとんどひとりでやっているではないか。自己満足だけが仲間なのか。おとなはどうか。漬け物をみごとに作る人を知っているが、彼の特技は会社には知られていないし彼も言わない。こどもは学力、おとなは仕事の能力だけが問われていて、他の分野での評価は無きに等しい。狭い一分野による全人評価である。この方式の評価は、多彩な有り様を排除し、異なるものを警戒し、あるいは下に見る傾向を生む。同一で均質でなければならないという意識こそ、差別の格好の培養液となるのだ。僕なども、運動会や盆踊りに出ないからといって、村社会と協調性がないカゲキ派あつかいだ。こっちは生きていくための仕事があるってえの…。というのは、余談だったか。僕は、とにかく自分のよくわからない分野に精通している人は尊敬することにしている。その分野においてその人がどのくらいのものかこちらは評価できないからだ。すごい人かもしれないし低レベルの人かもしれないが、とにかく初めから疑ってかかったら話も聞けないではないか。そういえばある女タラシにかけては名人というのがいて、このタイプの女はこの手でオチる、などと蘊蓄を披瀝するので尊敬して聞いていたのだが、オチられてはこちらがかなわんという相手だったり、実際はほとんどがフラれてばかりだと他から聞いた。ま、そういうこともある。えっ、ダレだって? そんな名前言ってしまったらどんな目にあうか…。励ましのクリックを
2009.07.14
コメント(12)

しばらく雑事にかまけていたら、日も更新していないことに気づいた。人間は低い方にながれるものである。そう、書くより書かないほうがラクだ。つい、今日は疲れたからまた明日と先送りしていたら、1週間でも過ぎてしまう。目の前にPCがあるのに、更新すべきブログも幾つかあるのに放置する気分は、そうだ小学生の頃、夏休み帳を放置したまま川遊びやキャンプに明け暮れていた頃のあの気分だ。日々楽しくはやっているのだが、心のどこかで引っかかるものがある。白いページのままでいる宿題帳のことが気になっているのだ。しかたなく机に向かうと、その上には読みかけの本がある。モーパッサンの『女の一生』か…。そういえば、面白そうなところからページを開いて(まあ、ご想像どおりの、主人公が結婚してのあの場面でしょう)伏せてある。その後が気になって、ダラダラと読み終えて、この女の人は、なんて主体性のない人生を送ったんだろう、なんてことに興味が行ってしまうから、もう宿題どころではない。夏休み終了近くになって、マンガなどもおみやげにもって、近くに住む優等生の女の子の家にいく。「一緒に勉強しよう」などといいながら、なんのことはないその子の宿題帳を写させてもらうためだって。まあ、先生にすればすっかり同じ解答がしてある宿題帳をみればお見通しだったことだろう。そんなこんなで、学業にたいしていい加減な小学生だったが、同世代の子どもたちより本はたくさん読んだような気がする。自然のなかでの遊び方も身につけた。野に生えている野草の名前は知らなくても、食べられるかどうか、味はどんなかなども、近くの川のどの淵には大きなウナギがいるなどということも知っていた。いや、今年から始めようとしている「信州子ども自然学校」で、こんなダメに子にするためではない。自然の中で雑草のようなたくましさと知恵を…、それに僕の子ども時代とちがって、宿題だってちゃんと教えるための先生もいる。などと、書き出せばグダグダ書いてしまう。しばらくは、こんな駄文がつづくことになると思うが、いいんだろうか。励ましのクリックを
2009.07.13
コメント(10)

このところブログの更新が滞り気味。夏休みシーズンに入るための山荘のメンテナンスに追われていて、ここ3日ほどは竹を切り出してきて、流しそうめんのセットを組み立てていた。いちおう商売でやる以上、あまりチャチな仕掛けではおもしろくない。なるべく小綺麗にしかも野趣あふれる仕掛けをつくろうと息子とともに汗を流している。いや、息子を手伝わせているから、先にひきあげてしまうわけにいかず、ズルズルと9時ころまで働いてくるわけだ。肉体労働の後は、ビールがうまい。そしてPCの前に座ると眠くなる。という悪循環で、更新が遅れているという次第。ところで、タイトルに使わせてもらったのは鈴木真砂女さんの俳句。3年ほど前から山荘付近の森の小川の整備をすすめてきて、昨年秋にカワニナを放した。先日は源氏ホタルを発見したが、今夜訪れてみたら様変わりして、小さめな平家ホタルがキラキラ光っていた。自然はおもしろい。このように少し手をかけるとちゃんと応えてくれる。流しそうめんもホタルも今年の夏おとずれる子どもたちが楽しんでもらえると思う。つまり夢がかなうとはこういうことなんだろうと思う。自分が汗を流したことが実になって、いろいろな人に喜んでもらえる。これでもう少し収入にもつながってゆけば万々歳なのだが、まあ、二兎を追うものは…。子ども自然教室のほうも、先週末に各学校に案内を出したのだが、申込みが入り出している。ワクワク…。追伸 この間にもさまざまな方から冊子の贈呈をうけていますが、ご返事が書けていません。読んでからご返事をするというのが僕のパターンなのですが、夏期のあいだはご勘弁させていただくことになるかも…。あしからず、お詫び致します。励ましのクリックを
2009.07.07
コメント(17)

自分でいつも言っていることなのでいまさら隠し立てをしないけれど、僕は数字に弱い。ちゃんと把握できる数字は指の数ほど…。ということで、数字で足し算や引き算をやるとなかなかわかりにくいけれど、言葉の足し算や引き算はいろいろと…。夫婦ゲンカのとき、妻に「バカモノ!」と言うのを、間違って、「バケモノ!」と怒鳴ってしまい、ケンカをさらにエスカレートさせることなども…。死んだ母親も僕の息子がイギリスに留学するときに、近所の人に「うちの孫はイギリスでホームレスにやるんですよ」とホームスティを間違えたくらいだから、この親ありて…。そういえば、キャッシュカードの裏に、忘れるといけないからと、マジックで暗証番号を書いてあったのには笑ったけれど、その母も死んもう何年たったのかは僕も忘れた…。 妻もヒョウキンな間違いをときどき犯します。スーパーで味噌を買うとき「田舎味噌をください」といって、店員さんが「田舎はどちらですか?」と聞いたら、とっさに「はい、山形です」と答えたんです。田舎味噌の品名を聞いたんだよね。 テレビを見ていて美人のアナウンサーを見て「こんな人が嫁に来てくれるといいね」とつぶやいたけれど、息子は二人とも結婚して、ウチには独身の男はいないのに、いったい誰の嫁がほしいかったんだろう、ワクワク…。そして最後、電話の104で電話番号を調べてもらったとき、「どういうカンジ(漢字)の人ですか?」と聞かれたので、思わず「おもしろくて明るいカンジ(感じ)の人です」とこたえ、電話局のお姉さんを1分間笑わせてしまったのは、僕がやったイタズラ。励ましのクリックを
2009.07.04
コメント(14)

準備を進めてきた「信州子ども自然学校」の募集がスタートします。講師や顧問には、森本尚武(信州大学元学長・農学部名誉教授、子供自然教室主宰)建石繁明(信州大学元教授、松本大学地域総合研究センター研究員)という昆虫や動植物の専門家の博士たちが入ってくれることになりました。そのほか、アウトドアの専門家、ミュージシャン系塾講師など、不詳私も青空や焚き火のしたで、子どもたちが自作詩の朗読をしてもらうコーナーの指導をさせていただきます。参加した子どもたちは、現地でチームをつくり、青年リーダーたちが密着サポートします。当初の「冒険学校」では、刺激的すぎて親が出してくれないだろうというアドバイスもあり、「信州子ども自然学校」という名前に決まりました。でも、カリキュラムはかわりません。カヌー体験教室や軽登山なども入っていますから、この夏休みにきっとたくましくなってくれると思います。「信州少年自然学校」のお申し込み・お問い合わせはこちらから
2009.07.02
コメント(16)

こんどは鳩山民主党代表が、虚偽記載というニュースが話題に…。そのこととは別に、一般論としては、かつてある政治家が「政治家に徳目を求めるのは、八百屋で魚をくれというのに等しい」と発言したが、政治家は嘘や利権のうまみがつきまとい、清廉潔白とは仕事の出来ない政治家のことだというような印象は、哀しいことながら誰もの常識になってしまっている。政治がきれい事だけでつとまらないのはあるだろう。しかし、可能な限りクリーンで公正でなければならないことも、憲法で戦争放棄を謳っているのと同じくらいの常識だ。では、どのようにすればいいか。それには情報公開がもっとも効力を発揮する。たとえば、「子ども特捜部」を設置して、社会全体の監視にあたらせるなどはどうだろう。子どもというものは、大人が思っている以上にシビアにものを見ているし、余計な計算が働かないぶん率直な視点がある。それを、大人がすべて受け入れる必要はないが、どのような視点でものを見てどう判断したか、をすべて公開してみたらいかがだろう。まず法律で、子どもが質問にきたら、政治家、企業はそれなりにきちんと答える義務があるとする。納税の義務と同じで、答えなかったら強い罰則がある。そう、一種の情報公開。必ず、パンフレットなり資料を用意しておいて、必要なら本人なり係員が答える。「なぜ、献金が少ないと恥ずかしいのですか。個人献金が故人献金になってバレたらもっと恥ずかしいんじゃないですか」などと。子どもにとってはそのパンフレットなりが教科書、参考書、あるいは図鑑の代わりになってしまうぐらいに充実したものがいい。必然的に係員などは先生の立場となる。政治家だけでなく、スーパーも自動車会社も電気メーカーも、もちろん製薬会社も軍事産業も、娯楽業も風俗も、法人はすべからくその義務を負うというのがベスト。おせんべい屋さんも佃煮屋さんも答える用意をしておかなくてはいけない。「おせんべいの原料」とか「おせんべいの歴史」についてきちっと書いておく。なぜ中国産なのか、日本産なのになぜこんなに安くできるのか、事故米を使って胸が痛まなかったかも…。もちろん、ウソはいけない。握造もいけないし、隠匿はもっといけない。そのあたりのチェックはオンブズマン制にする。それができるかどうかは、まさに大人の度胸、器量、そして正義の問題。そしてなによりも答えるだけのものをもっているように大人自身が勉強しなくてはならない。そして、子どもたちが感じた感想や疑問はありのまま、新聞などに公開される。テレビもつまらないお笑い番組より、その公開を優先する。なんて、日本版「紅衛兵」みたいだって採用されないかな。励ましのクリックを
2009.07.01
コメント(5)
全20件 (20件中 1-20件目)
1


![]()