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僕がなぜ色平哲郎医師の講演の後、夢にまで出てくるほどの魅力をもったのか書こうと思うのだが、思うように書けない。講演内容はなかなかシニカルで核心をついた内容なのに、ユーモアあふれる話し方で講演中笑いが絶え間なかった。それも、笑いをとろうとする馬鹿笑いではなく、思わず笑みがこぼれてしまうようなしっとりとした笑いといえよう。話しのなかに大切なエピソードや、患者さんが語ったことで心にとまっていることなどがつぎつぎと披露されるが、そのネタ帳というノートをときおり拡げて読んでいる。そのノートを懇親会の折りに見せて貰った。秘密ごとというものがないのか、ポケットからとりだすと無造作に僕に手渡してくれた。開いてみると、ぎっしりと、文字通り真っ黒になるまで書き込まれたノートは、何重にも文字が重なり、何を書いてあるのか僕にはかいもく読めなかった。まるで、CDに記録されている情報をとりだすように、彼はノートに書かれたペン痕から必要な情報をとりだしていたのだ。講演中、色平氏は自分のことを、いまだに反抗期の抜けきらない子供だとして、妻のかすみさんあっての自分ということを強調していた。かすみさんとはどんな人だろうかと調べてみたら、1995年に「私の夫は医者」という文章がでてきたので、引用して紹介したい。 私の夫は医者 医師 色平哲郎の妻 かすみ 私達が結婚したころ、結婚するなら“三高”の人という言葉がはやりました。私達の場合“三高”どころか、背が低い、学歴なし、収入なしの“三低”(学生結婚だったので)おまけに、短気、単純、短足の“三短”にもかからわず、うまくだまされ、結婚届に印を捺してしまいました。夫は東男、私は京女とことわざになるような夫婦なのですが、家庭での彼は、夫として、父としての自覚がまったくなく、子どものために食べやすく作ったおかずを食べるし、いじわるを言って子どもを泣かせるし、子どもに焼きもちをやくしと35歳の頭のはげた万年反抗期の子どもなのです。(注:この文章は12年前に書かれたものですので、その時は35歳でした。)オーブンレンジの使い方、留守番電話の聞き方、自分の衣類の場所も何も判からない本当に手のかかる夫で、5歳の息子が彼の世話をしている事があるくらいです。彼の楽しみは、やっぱり旅行でしょうか。普段あまり家にいないので家族団欒といえば、病院を替わる時に行く長期の旅行なのです。行き先を決めず、こっちの国、あっちの国と親子3人でふらふら!今度は今年2月に生まれた娘も一緒に親子4人で息子がお気に入りのタイで象に乗りたいものです。彼が学生時代「色平さんを知る会」という学生サークルがあって、本人は「知る必要がない」と言っていましたが、私に講師依頼がありました。とにかく不思議な人に見えるようですが、私は100年に1人の奇人変人と思っています。彼に、ごく普通の家庭があるというのは、妻の私が言うのは変だけれど、本当に不思議なことです。でもこの人に家庭がなかったら、今よりもっと変わり者で普通のことが判からなかったと思います。夫は「かすみは、世の中の人のために僕と結婚してボランティアをしている」と言っています。「僕より先に死ぬな。老後は頼む」と私に言うので、「私は哲郎君よりも長生きしても、夫婦を続けているとは限らない」と言い返すこのごろです。彼がちゃんと医者をしているか一度、診療参観をしてみたいものです。たぶんこれは、「診療所たより」のようなものへの寄稿文なのでこのようにくだけた内容になっているのだろう。しかし彼を知る何人かと話しをしたが、みんな一様に色平氏のきさくなつきあいの良さを指摘している。僕は、色平氏の医師としての信条を思い出した。「人を診るためには、その人の住む風土や本当の暮らしを知らなければならない。患者の家庭までふくめた環境をしらずにヤブの僕には的確な処方はできない」という。村の草刈りなど共同作業に加わり、酒を酌み交わし、往診先で出された夕食を一緒に食べ、深夜でも往診する。患者がどのような生活をし、どんな食べ物を食べているか、味付けなどもさりげなくチェックする。そのようにしても、五千人からの人を殺してきたダメ医者だと自問する。どのように死へと橋渡ししてあげるかが、究極の老人医療ということなのだろう。このような勤務をつづけていれば、家庭が唯一バカになれ、子どもに戻り、すべてを解き放たれリラックスできる場でなくて、どこにそれがあろう。この妻ありて、この夫があるのだ。励ましのクリックを
2009.11.30
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(以下は、色平哲郎さんをルポした『風と土のカルテ』の一部です)講堂は、一瞬、水を打ったように静かになった。2001年、秋、東京・日暮里「開成学園」。 毎年、東京大学へ170人以上もの合格者を送り込むエリート進学校の講堂に集まった人々は、心臓をわしづかみにされたような沈黙に陥った。なだらかな傾斜がついた客席には、学生服姿の生徒と、地味なブランド物のスーツを着こなした母親、スーツ姿の父親ら6百人ちかくが、ぎっしり詰まっていた。「ようこそ、先輩」の幕がかかった演壇には、ワイシャツの袖をまくった坊主頭の男が、立っていた。南相木村国保直営診療所長・色平哲郎、41歳(当時)。昭和53年卒。色平は、スクリーンに映し出された『医の道は村の心に通ず』と題されたフィルムの解説をしていて、突然、言葉に詰まってしまった。NHK長野支局が制作した色平の活動を追ったドキュメンタリーであった。「高校時代、私は、周囲の医者は、なんて高慢で、嫌な人間だろう。医者にだけはなりたくないと思っていました」と、客席を挑発するかの台詞で始まった彼の講演は、聴衆の反応が、それまでに登壇した物理学者や高級官僚になった先輩たちのときとは明らかに違っていた。「えっ?」と戸惑いながらも、意表をつかれ、聞き耳を立てたのは生徒たち。「フフフっ」失笑に紛らせ、若造が何を言うかという気配が、父親席からは漂ってきた。医療関係者が来場しているのだろう。予定調和的な静けさとはかけ離れた雰囲気である。「変わった人だわ。うちの子にこんな話を聴かせていいのかしら」母親たちには、戸惑いの表情がありありと浮かんだ。客席は波立ち、エリート教育への自負と期待にあふれる聴衆の心はかき乱された。ところが、映像を見上げ、声は低いが、自信に満ちて語っていた色平が、いきなり、喉の奥に大きな塊がせりあがってでもきたのか、話を中断した。そして―「すみません……、僕が、看取った方が、元気に過ごされていたころの姿が……出てきて……」 と、言ったきり、マイクの前で、嗚咽を始めた。「ングッ、グッ、グッ」と激しく、しゃくりあげる泣き方であった。こらえきれない悲しみが、がっちりとした全身から流れ出した。講堂の空気が瞬時に張りつめ、静寂が客席を覆った。色平哲郎はひとつの鏡であった。シニカルな笑いを浮かべていた者は、そこに映った己の顔に色を失い、黙り込んだ。筆者は、鳥肌が立った。欧州、アジアを放浪、東京大学を中退し、一年ちかく家族と音信を絶ち、場末のキャバレーで働いて自活しながら己の道を見出そうと、もがき苦しんだ青年。京都大学医学部に入学後もアジアを歩きつづけ、「地域医療」と廻りあった。研修医時代、鉄のような意志で、周囲の反発をものともせず、外国人HIV感染者を勤務する長野県厚生連・佐久総合病院に受け入れた。外国人労働者女性支援のNGO活動を立ち上げ、タイ国政府から日本人ドクターとして初めて表彰された。 村医者の日常を生きながら、田中康夫長野県知事に請われ、県の保健医療計画・策定委員会の最年少委員として県庁職員をふるえあがらせている台風の目。NGOやマスメディア関係者の間では「医療の将来は色平に訊け」とまで評されている論客であり、エッセイスト、文化人類学的な踏査研究者……そうした彼のおもてのイメージからは想像もつかない涙だった。一人のセンチメンタルな医師が目の前にいる喜びを、感じた。作家の深沢七郎は、若月俊一・元佐久病院長(現名誉総長)との対談『たったそれだけの人生』でこう語っている。「ほかの商売にはうまい汁を吸わせておいて、お医者さんばかりになんで仁術をしろって押し付けるのか、わたしは意味がわからない。だけど若月さんは(略)、わたしに『おセンチです』っていいましたね(略)。ハハァ、お医者さんからセンチメンタルを抜いちゃうと、あとは高い薬と欲だけだと(笑)」「自分の体をセンチメンタルな気持ちで診て下さる先生がいて、その先生を信用していりゃ、死んだってもうわたしはいいです」この清澄なセンチメンタリズムが、若月医師から清水茂文・現佐久病院長を経て、色平に受け継がれているのを知ったのは、それからしばらくしてからだった。「情」がすなわち「理」を成し、「理」がすなわち「情」を形づくる。演壇の色平は咽びながら、語る。「あの桜の木は、誰がどういう気持ちで植えたのか、さまざまな、語りが村にあります。生涯、家族にも話せなかった物語を私に打ち明け、亡くなっていかれた方がいます。私は、もちろん、その秘密を自分の胸に押しとどめ、お見送りしました。村は、65歳以上の高齢者が35パーセントを超え、半世紀先の日本を先取りしています。この村で、人間として人間をお世話する。その姿勢を貫きたい。大学時代、アジアの国々を回り、医療に生きる決心をしました。カンボジアやビルマ(現ミャンマー)には、内戦時代に残された地雷がたくさん埋まっています。地雷には三種類あります。子どもが手を出しそうなオモチャの形をしたもの。触ると手を吹き飛ばされます。これは失明させる目的でつくられました。踏むと足が飛ばされるもの、胸の高さに飛び上がって爆発するものもあります。地雷は、ひどい兵器です……。皆さんのまわりには、きつい現場がありません。日本の若者は『貧困』を学ぶべきです。きみたちのおじいさん、おばあさんたちが貧しいなか、どうやって平和な日本をつくってきたか。話を聞いてみてください。アジアの村も見てきてほしい。『国民皆保険』というかけがえのない制度で、日本人の健康が守られていることが実感できるでしょう。受験は、みなさんの前にそびえています。しかし、受験を突破するのは、大学に入り、どういう人間として生きるかの準備でしかありません。話や書いたものには、誇張もあれば、誤解もある。しかし、生き方はごまかせません。エリートと呼ばれる人たちの狭い社会ではなく、広い世間の人々とつきあって、幾つもの目で物事をとらえるようになってください。海外の友人たちと21世紀を一緒につくっていく日本の若者が、大勢、出てくることを期待しています」 「風と土のカルテ」色平哲郎の世界へ励ましのクリックを
2009.11.29
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所属している読書会「いななき学舎」で、色平哲郎氏(50歳)の講演会を行った。色平氏の経歴と人を紹介するはとても難しい。あまりにも引き出しが多すぎて、経歴や人柄を語るだけで長文ができてしまいそうになる。とにかく魅力的な人物だ。講演会の後、懇親会で12時近くまで語り合ったが、その熱さと内容にすっかり魅了されてしまった。帰宅して寝てからも、彼の語った数々が夢の中に現れた。これまでにも大勢の魅力的な人に出会ってきたが、講演にこれほど引きこまれたのは始めての体験だった。しかし、ネットで調べても僕の受け止めたように講演内容を語っているブログはない。なぜだろう。語る懐が深すぎて、伝えきれないのではないだろうか。色平氏は、若き日東大を中退しキャバレーのボーイをして貯めた金で世界を放浪、貧しい国の人々からの啓示を受けて、京都大学医学部に入り直して、医師になった人。ごくごく省略して紹介すると、僻地医療を志し、佐久総合病院の地域ケア科の医師らを経て、南相木村の初代診療所長をつとめ、現在は京都大学医学部の非常勤講師などをしている。南相木村には、彼を慕って年間200人以上、のべ数千人の医学生が訪れて、彼や村人から学んでいる。村人から学ぶというのは、医者は患者からしか学べないというのが、彼の信条だからだ。昨晩の講演のテーマは「社会を読み解く力」として「メディアリテラシーとメディカルリティラシー」。実は、昨晩の講演会の様子を『信毎』NHKなども取材に来ていた。その講演の最初に、以前にNHKが制作した、色平氏の活動の様子のドキュメンタリー番組のDVDを最初に放映した。感動的な内容で、はじめは戸惑ったり無関心だった学生達が色平氏と行動をともにする4日間ほどのうちに、ヒューマンな感覚が目覚めてゆくという内容だった。色平氏は、その放映中は室外にでていた。番組のなかにでてくる老人達の何人かは、すでに亡くなっていて観るとつらくなるからだという。ドキュメンタリーを見終わったところで切り出した。これは、HHKの取材カメラも回るなかでの彼の言葉だ。「これがメディアの怖さです。すばらしいでしょ、(色平が)いい人に見えるでしょ。そして、学生たちが成長してゆく姿が感動的でしょ。わたしはこの番組を観てのけぞりました。事実をつぎはぎしたつくりごとです。20時間以上にもわたった取材のなかから、部分部分だけつまみ出し、30分ほどにする。編集技術とシナリオでどのようにもつくられる。これでは、まるで無能の学生達が私に感化されて成長したようではありませんか。学生達に失礼だと思いません? わずか3日で変われますか、人はそんなに簡単に変われません。このようにメディアは自分達の欲しい形につくり直し、皆さんを欺くことができるのです」NHKのカメラマンも苦笑いを浮かべながら撮影していた。それを取材していた同社の若い記者も懇親会に加わり、一緒に報道の裏側を語ってくれて面白かった。(内緒)彼は、講演会の内容を苦労して、数分の記事にまとめデスクに送ったが、デスク段階では当然のようにスポイルした平面的な内容にされてしまったという。かくして、今朝のニュースでは、色平という「地域医療に精魂を傾けている医師が講演をした」という事実関係のみが放送されるという。これも色平氏のいう「メディアリテラシー」である。そして、懇親会での『信毎』伊那支社長の「新聞の未来はあると思いますか?」という質問にも、「〈我々が発信している〉という思い上がりでいる以上、無いでしょう。」とキッパリといい切り、その理由を詳細に述べたのだが、あらゆる方向に、確かな思考が張り巡らされているのを感じた。正しく聴き取れなかった部分もあるが、会話の断片を羅列してみたい。「私は名医でも何でもありません。だって今までに5千人も人を殺してきたんですから…、医者というより坊さんのほうが近いと思うのですョ」聴講にきた医療事務員にむかって「医者なんて誰でもなれるんです。私なんか99もロクに言えなくてなっているんですよ。医師不足を嘆くより皆さんが医者になりましょう。」ウチの村に来て欲しいって言ってきた村長に「そんなに医者が欲しかったらあなたがなったらどうです。(医師試験の)コツは教えますから」(マスコミが)「名医などとスーパーマンを勝手につくってはいけません。普通の医者にかかった患者さんたちに失望をあたえるじゃないですか。(名医に治療をしてもらえずに)ソンをしたような錯覚を与えてしまう」等々、一つひとつが胸におちる話しだったが、あまりにも内容が多岐にわたったのでここでの記事にはまとめられない。以後、力不足ながら少しずつ魅力を紹介してゆこうと思う。励ましのクリックを
2009.11.29
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この街の商店街も閑散として、週末というのにシャッターを閉じている店があり、人通りもまばらだ。そんななか、濃い付けマツゲとケバイ化粧をした中学生くらいの女の子が、ケータイを耳にあて歩いている。都会と地方都市の経済格差は歴然とながら、こういう光景は日本のいずこに行っても同じなんだろうなぁという思いをあらためて噛みしめる。しかし、その“同じ”ということが、単に風俗が同じということにとどまらず、その風俗が内包する子どもの精神様式が同じであるということであれば、それはちょっと深刻な光景なのかも知れない、とケータイで喋りまくっている子の顔を眺める。ふと、この少女の醸し出す雰囲気、はいつかテレビで見た同じ年頃の少女とそっくりだなと思う。ある時、テレビのスイッチをつけたら、中学生の女の子の顔がアップに映っていて、ツケマツゲを二つ重ねでつけているところだった。埼玉県の団地に住むその少女はこれから東京は渋谷のセンター街に行くのだという。彼女は自分の素顔がなくなるくらいべタベ夕に化粧をし、まるで少女向けコミック雑誌の中から抜け出したような奇抜な格好をしている。彼女の目的が何であるのか。少女は街を徘徊しながら、ストリート雑誌のカメラマンから声がかかるのをただひたすら待っているというのだ。雑誌に載ると、モデルなどへの可能性が開ける(かも)というのだ。こういった雑誌に載る少女たちは既成のブランドものを身に付けているわけでなく、自分が思いつくままに、時には自分のまわりのあり合わせの材料をかき集め、ただ「目立つ」ことを目的に衣装を作り、原宿や渋谷の街を闊歩する。僕の目から見て、はっきりいって彼女らのコーディネイトやメイクは「超」ダサイ。時には笑いさえ誘発する。だが、この「超」のつくダサさがくせ者である。世の中にはファッションデザイナーがごまんといて、彼らは他のブランドと差別化をはかるために、いかに奇抜な衣装を作ろうとしているが、決して「超」のつくダサイものを作ることはない。ましてや一見してその場で笑ってしまう服なぞ逆立ちしても作らない。いや作れない。しかし、この少女のように埼玉県の団地に住むごく普通の(?)女の子が、ある意味でプロの誰もが踏み込めなかったこの領域に、いとも簡単に踏み込んでいるわけだ。こういった不可思議なニッポン文化に目をつけたのがイタリアのファッションブランド「ベネトン」。めざとく彼女らを自社の広告戦略に利用したという。しかし彼女らをめぐる「事件」のいくつかはそれ以上に興味深い。二人の満艦飾少女がある時連れだってディズニーランドに行った。しかしなぜか少女たちはディズニーランドの入口で入場を断られたのだ。彼女たちはこのハレの日にいつものように、せいいっぱい着飾ってディズニーランドに出かけたのだろう。しかし入れてもらえなかった。ディズニーランドでは着飾ってはいけないという規則があるのだろうか? 彼女たちは、?マークのまま失意の思いで帰りの京葉線に乗ったのであろう。だがこの謎を解くカギは、その非日常性にある。ディズニーランドとは、娑婆の日常に暮らす人々がひとときの夢と空想に浸るための、巨大な現実逃避装置である。つまり日常に住む人々にとって、その装置は非日常でありバーチャルであらねばならない。白雪姫と七人の小人がいたり、ミッキーマウスがいたりするわけだが、原宿満艦飾少女は、アメリカ人たちが創意を凝らして作り上げた非日常を、軽々と日常化してしまうほど、非日常的だったわけである。つまり彼女らはディズニーランドにとって非常に迷惑な存在だったのだ。そのようなディズニーランドさえ日常化してしまう、非日常が日本の街の隅々で日常的に見られるようになったこの不思議な日本。励ましのクリックを
2009.11.28
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「いまの若い奴は……」という年上が年下を非難するときの常套句がある。もちろん僕も、すでに十分にこの言葉を口にできるトシだと思うが、使ったことはない。若い奴のご機嫌をとるつもりなど、さらさらないが、この言葉は年よりの捨て台詞のようなもので、使ったときにはすでに若者に負けている。知りあいの男に、20代はめいっぱい遊び、物質的に親にたかり、複数の女性を同時に手玉に取り、どう客観的に見ても「いいかげん」としか言えない日々をすごしてきた奴がいる。それでも、たまたま親から受け継いだ仕事が時流にのり、アコギに役所にとりいり、メタボになりながらも温々と暮らしている。その彼が、ある若い男性のささいな言動に対して、舌打ちしながら「まったく、いまの若いヤツは…」と言ったとき、腹の中が煮えたぎった。「あんたの20代を思い出してごらんよ。よくもそんな言葉が平気で口にでるものだ。それとも自分に都合の悪いことは、すべて痴呆のかなたにいってしまったのか?」と、言おうと思ったがそんな言葉こそ大人げないと思って飲み込んだ。年齢が上だというだけで、年下の人々の言動にいちいち目くじらを立て、いちゃもんをつけ、そうすることで自分は立派な大人だと思いたい心理。そんなふうに若いひとびとを裁くことによって、自分を肯定できるかと思う心のからくり。他人を非難しなければ、おのれを肯定できないとは、あまりに貧困なプライドではないだろうか。「いまの若いひとは」「若いやつらは…」そう苦々しく吐きすてる僕の同年代、もしくは年長者の方々に、個別に質問したくなる。「あなたがあの年齢の頃、どんなことをし、何を考え、どんな立派な大人たりえたのだろうか。自分かってに生き、いくつもの失敗をかさねて、見えない悪事を重ねてきたのではないだろうか」自分の10代、20代を、公平かつ冷静に記憶しているひとは「いまの若いひとは」という一般的なくくり方はしないと思う。思えば20代、30代の僕はじつに困った人間だった。口下手で無口、仲間との協調性にとぼしく、意地っぱりで、仕事を立ち上げたものの、営業会話はまるでニガテだった。どうすればいいのか、つねに途方にくれていた。それにくらべると、いまの若いひとびとは、なんとしっかりしているのだろう。ときどき息子の友人たちが山荘に集まり、飲みながら語り遊んで行くが、僕の若い頃よりずっと大人だ。礼儀正しいし、自分達がお金を払って飲み食いするのに、料理を一緒に並べたり、食べた後の食器の後片付けを手伝いはじめる。ときには調理場の洗い物までして帰ってゆくことがある。こんな若い世代に、なりふり構わぬ道楽時代を狂騒し、バブル経済のツケを後生までのこして背負わせようとしているのが、「今どきの年より世代」ではないだろうか。後生にツケを残すという自覚もないまま、赤字国債を発行し、税金を浪費しつづけて、浮かれつづけてきた老人たちではないだろうか。もちろん、かくいう僕自身も、その片隅でふがいない人生を送ってしまった自責の気持ちがある。だから、若者たちにむかって、「若いやつらは」などといえる口をもたないのである。だから、当時の僕と比較すると、あなたたち若者は格段に大人で、仕事もきちんとこなしている。自信を持ちなさい。今、思うように仕事に就けないのも、将来が不透明なのも、あなたたちがダメなのではない。老人世代、大人世代が放漫に未来を食いつぶしてきたツケを担わせているからなのだ。申しわけないと思う。幸いにして、僕はまだもう少し働ける時間が残されているようだ。せめてわずかにでも、未来に希望というものを残してから、人生の仕舞いを迎えたいと思っている。それまで、一緒に力を貸してはくれないか。励ましのクリックを
2009.11.26
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僕は今年いく人かの大切な人を失った。そのひとりHさんのことを話してみたい。Hさんは小さな町工場から身を起こして、当市の優良企業のひとつとして知られる金属加工の会社の社長だった。貧しい家庭に育ち、若い頃の政治活動で知り合った女性と結婚した。その女性の父親のやっていた町工場で働いたが、間もなく独立して東京に出て腕を磨き、当地に戻って会社を興した。それから約40数年、中小企業ながら特異な技術力で、これまでは不況時にも仕事が切れることがないという企業に押し上げた。僕が始めて知り合ったのは30年ほど前、囲碁を通してであった。すでに地元経済人として一目置かれる存在になっていたHさんではあったが、体制に与せず、いつも弱い側に立つ度量の大きい人で、親会社などの理不尽な都合で経営危機に陥った人を何度も救ったのを目のあたりにした。それをひけらかすこともしなかった。一度雇った従業員は、会社の都合で首を切ったことはなく、Hさんの周囲には優秀な人が集まった。地元銀行からも、Hさんが後押しする人には無条件に融資をするほどの信頼を得ていた。そんなHさんであったが、住まいは若い頃建てたままの、けして立派とはいえない古屋に住んでいた。大きな敷地に立派な本社、幾つかもの工場をもつ社長の家とはとても思えないものだったが、「汚れても目立たないし、俺にはちょうど良い広さだ」と気にとめる様子はなかった。会社は順調だったが、自分の個人資産はかなり人助けに費し、「家にはゆとりのあるお金はあったためしがないのよ」とは、奥さんから聞いた。それでもカラッとしていた。そのHさんの楽しみは食道楽だった。時間がとれると町を徘徊し、美味しい料理をつくる馴染みの店も何件かもっていて、時には僕もお供をしてご馳走になった。昨年の暮れ、Hさんに肝臓癌が見つかり、すでに手のほどこしようがないと宣告された。そのHさんに誘われて、とある馴染みの店に寄った。そのとき、すでに癌の高じたHさんの胃はいかなる食材も受けつけなかった。鰯のつみれの突きだし、活きタコの酢の物、ネギのぬた和え、ヒラメの刺身、キンキの煮付け、アサリの酒蒸し。次々とさりげなくHさんの胃を試すように置かれた皿に、それを目で追うばかりで箸をつけることはなかった。30年来のつきあいである店の奥さんは、いつものように笑顔でカウンターに皿を運びながら、Hさんの食が一向に進んでいないことに気づき、無言のまま目頭を熱くしているのが僕の目に入っていた。僕は黒板に書かれている今日の出し物を目で追いながらも、もうHさんの胃が受けつけるものはないだろうと思いはじめたとき「イカ刺し」の四文字が目に入った。なかばあきらめの境地でそれを注文した。出てきたのはイカ刺しというより、イカソーメンに近い感じにやさしく調理されたものだった。カウンターの向こうの主人が無言のまま食べやすいように工夫を凝らしたらしい。Hさんはそれに箸をもっていき、ほんの一切れ口にした。それからまた箸が出た。それからまたまた箸が出た。そしてとうとう、一盛りのイカ刺しの全部を食べたのだ。僕はこの時はほんとうにイカに、そして調理人に感謝した。それからイカという魚を見直した。鯛やマグロのように卓上の主役を張る食材ではない。その味にも大げさな自己主張はなく、卓上の隙間に出てくるような脇役である。しかし、その慎ましやかな脇役は、あのギリギリの味覚の人の前において、いかなる他の料理より「食べられる」という役割を果たしたのだ。この春、Hさんは亡くなった。それからしばらくたって、僕はその店のカウンターでイカ刺しを所望した。「これ、Hさんが食べたもんなんだよね」女主人が皿をカウンターに置いた時、ふと漏らした。「そうでしたよねぇ。あの時は何もお口にお合いにならなくて、でもこれだけは全部お食べになりました」彼女は笑顔をつくりながら、わずかに目を潤ませた。いつも忙しく立ち回る中で、彼女はそのことを気にかけ、それをずっと覚えていることが嬉しかった。店を出ると、外は春の嵐が吹き荒れていた。街の灯に照らされた桜がなびき、花々は八分咲きくらいなのに、舞い散ろうとしていた。その花びらの飛び行くJRの線路の方に、ふと彼岸に似た闇がつづいているような気がした。そしてこの暮れ、Hさんの会社にも景気の冷え込みは例外なく押し寄せてきているようだ。しかし、残った従業員は残された会社を守ろうと力をあわせて頑張っていると聞く。励ましのクリックを
2009.11.24
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ブログという公開日記を誰でも書くようになって、さまざまな私生活を見聞できるようになった。文学的題材を求めるにも大変ありがたい時代といえる。どこまで事実で、どこからがフィクションなのかという境界は確かめようもないが、身元を明かさないで語れるという条件があって、身近な人は話せないという事柄まで語り合えて面白い。あるプライベートサイト(管理者に身分を明かした特定の会員以外は読めないサイト)にも参加し、読んでいるが、そこでは不倫という言葉が湿ったイメージではなく、あっけらかんとある種の市民権さえ獲得している。男女関係のあり方も少しずつ変化してきているようだ。そこで見聞きするなかでも、従来の価値観や道徳観にとらわれていては、おそらく理解できないであろう事柄と出会った。熱烈な恋愛結婚をしたカップルが1年とたたずに離婚。憎みあって別れたのではなく、一緒に生活してみたら、どうも勝手が違った。それで泥沼化する前に、ふたりとも晴ればれと結婚を解消したという。無責任な第三者としては「それがいい、それがいい」と言える。また、やはり恋愛結婚した女性が2年目にして、ほかの男を好きになってしまった。相手は以前に交際していた人。彼は彼女への想いがたち切れず、彼女の後を追って、早い話、よりがもどってしまった。夫ある身ながら、すでに肉体関係も復活し、「どうしたらいいのか」と…。30代の初婚の男。40代の子供(ひとり)のいる女性とめでたく結婚。男性のほうが熱心に彼女をかき口説き、迷い、ためらう女性の心を、ようやくその気にさせたという。やはり30歳代の二児の父である男が、12歳も上の独身女性と恋愛し、女性はこのままの関係でいいと言い張るのに、男は「このひとしかいない」と、その年上の女性に、ようやく理想像を見いだし、ついに妻との別居を決意したとか…。ごくごく一部のなかでもこういう事態があるのだから、日本全国には、かなりさまざまなパターンがあるのだろう。こういう傾向を憂慮すべきか、歓迎すべきかはわからない。ただ、今までのように結婚という関係が、死ぬまで添い遂げるべきものというモラルから少しずつ分離しつつあるのだろう。つい数十年ほど前の日本では、職に就くということは、終身をその仕事に捧げるかもしれないという気負いがあった。しかし、現在ではそんな気持ちは、時代の流れとやらが簡単に吹き飛ばしてしまう流動的な社会になった。男女関係というメンタルなものにも、そんな風に流れてきているのだろう。かつて離婚した人に向かって、「わがままだったんだろう」「我慢がたりない」と頭からそうきめつける風潮もあり、当事者は傷つき、心のなかで世間のきめつけを嫌悪したりしながら、ひっそりと生きるという人も少なくなかったことだろう。しかし現在、離婚女性をこんなふうに糾弾する風潮は薄れてきたと思う。地方によっては、いわゆる「でもどり」女性に居心地のよくない状態もあるらしいが(あえて、当某僻地とはいわないけれど)。また、かつては結婚適齢期なるものも、その年齢をすぎた独身男女は肩身のせまい思いをしただろう。「望みが高すぎるのだろう?」「別れた彼氏(彼女)が忘れられないのか?」「そのうち後添えのくちしかなくなるぞ」独身男にしても「ホモ」だとか「肉体的に欠陥があるらしい」と心ないからかわれかたもした。こうした偏見もなりをひそめてきた。うかつな発言をすれば、反対にとっちめられるし、やり玉にあげられたりする。ただ僕が耳にした範囲では、伝統や風習を重んじる地域では、まだまだ多くの偏見がはびこっていて、男女関係における自由さは、思うほどではないらしい。「生れ育った故郷には帰りたくない。考えただけでもうんざりする」と、そういう地域出身者たちは言う。地方の過疎化の原因のひとつには、こういった閉鎖性(該当地区の住民はほとんど気づいていないだろうが)もあるに違いない、とひそかに考えている。そういういびつな風潮が、40代50代の未婚独身者を増産している。みんな好きなように生きればいいのだ。だからといって、不倫や離婚を奨励するわけではない。そんなことをしても、そこには完璧な自由はなく、それぞれにまつわりついてくる泥沼の不自由さは必ずあるのだから。僕も、世間体というしがらみは捨てて、可能な範囲で自由に生きよう、とは思う。ついでに、つけたすと“どうせ人間はそのうちに死んでしまうのだから”ある男が嘆いていた。彼の妻は、夫あてにきた手紙を無断で開封してしまうのだそうだ。ダイレクト・メールでも何でもだ。彼はそういう家庭に育たなかったため、妻をたしなめた。すると妻はきょとんとして「どうして、いけないの?」。まったく理解できないらしい。夫婦であるからには一心同体、夫あてのものは自分あてと同様という発想。夫婦であろうと、その根本は他人、ひとりの人格だ、とは考えつかないらしい。これは言い方を変えれば、愛情ではなく誤った支配欲だ。僕は、余所から妻にきた手紙は絶対に開封しない。たとえ自分の知らない男名であったとしてもだ。妻も、昔はしなかったが、今は僕からのぞんでしてもらっている。銀行やら、クレジット会社やら、役所やら、わずらわしいものばかりだし、秘密にしなければならないものはない(今のところ…)。現代のような流動的な男女関係時代においては、きちんとした「個人主義」を持たないひとは、どんどん傷つき、どんどんみじめになり、やがて、だれからも相手にされなくなり、取り残されていってしまうのではあるまいか。流動的な男女関係において、いちばん大切にされるのは、言うまでもなく打算や損得ではなく、おたがいの愛情と信頼。支配欲と愛情を混同するひとは、いつまでたっても「個人主義」は確立できない。などと蘊蓄をたれながら、けっこう楽しんでいるのではあるが…。励ましのクリックを
2009.11.23
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11月19日はボジョレヌーボーの解禁日ということですが、日本にもおいしいワインがあるのに、なぜわざわざフランスくんだりからワインを輸入しなければいれないんだ、と少しヘソを曲げていたんです。ところが、息子が樽で発注してしまったもので、やむおえずワインパーティーを行いました。いや、飲んでみると意外においしい。ぐびぐび飲みましたから、今日は少し体内に残り気味。しかし若者を中心にしても10数人では18リットルのワインは飲みきれません。まだ半分ほど残っています、何ヶ月も置けるものではないのでこの暮れはワイン浸りの日々になりそうです。ほとんどのメンバーはそのまま泊まり、今日の昼近くまでゆっくりして、現在は宴の後のしずけさ。それでも、ぽつりぽつりと訪ねてくる人がいました。そのなかに、年に数回夫婦で食事に来ていた団塊世代の知人がいました。定年を迎え、これからは旅行でもしながら悠々自適に過ごすよと話していた矢先に奥さんが脳梗塞で病院に運び込まれたのが、半年ほど前です。その後、ご主人が一人だけで来たので、奥さんの様子を聞いたら、もうあまり病院に見舞いにも行ってないといいました。驚いて理由を聞いたら、「だって家内は植物人間です。私のことなど、まったくわからんのですから…」と言うのでした。僕はちょっと衝撃を受けました。思わず強い口調で、「奥さんは生きているんですよ。ながい夢を見ているはずですよ。子供のころのことや、あなたとの出会いのころのこと、そして子供さんのことなど、手を握って話しかけてみませんか。奥さんがよく口ずさんでいた歌などもあるでしょう。耳元で歌ってあげてみてください」松本サリン事件の河野実さんの、妻への献身的な介護のことが頭にあったので、そのようなことを話しました。これは河野さん夫婦の人生とくらべてもあまりにもむなしく感じて、とっさにでた一言でした。そして今日のことでした。彼は僕をみるなり、前に立ち止まり、深々と頭を下げたのです。そして、「家内が、家内が……」と、言って次の言葉が出ないのです。顔を見ると目を赤くはらして涙を溜めていました。やがて喉からしぼり出すような声で、「先ほどまで病院にいたんです。私が手を握り、話しかけますと、かすかにうなずいてくれました。植物人間じゃなくなったんです」僕も胸が熱くなり、彼の手をしっかり握ってしまいました。男同士が手を握り合っているようすを、犬と山羊が不思議そうにみつめていました。励ましのクリックを
2009.11.22
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公園につづく道は仄暗く、家路に向かう親子の後ろ姿が妙に心に残った。僕はさきほどから、公園入り口のベンチに腰かけ、道行く人々の姿をぼんやりと追っている。学校からの帰りであろう鞄を背負って帰って行く生徒たちの話し声を、きくともなしにぼんやりときいていた。何を話しているのかわからないが、いつもはすこし騒々しく感じる彼女たちの声も仕草も、ひどくあどけなく、公園の暮景となじみ、しずかに夕闇にきえていくようだった。何処かで生徒たちにまじって子供たちの声もきこえる。 町々はさやぎてありぬ 子等の声もつれてありぬ僕は中原中也の詩の一節を思い出していた。それは幼き日、熱が出たかなにかで学校を早退して寝ていた夕暮時、遠くから聞こえてきた豆腐売りのおじさんのラッパの音にも、また、母が夕飯の用意に台所でトントンと野菜を切っていたあのなつかしい音にも、どこか似ているようだった。どうして今、この時間がこんなにも心の安らぎを感じるのだろう。人が家路につく夕暮時だからだろうか。この街の佇まいがそうさせるのだろうか。そのとき、ふと見上げると薄墨を流し始めた空にうる月の存在に気づいた。そうだ、こうして約束されたように繰り返し繰り返し訪れる二度とこない景色。その一つひとつが記憶のなかにうっすらと蓄積され、更新されてきた温もりなのだ。月も景色も母親の温もりに似て、薄暗闇ごと僕をつつみこんでくれる。この移りゆく時間そのものが、母の胎内の記憶であるのかも知れないと…。励ましのクリックを
2009.11.21
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このブログのコメントをとりあげた記事へのコメント、そしてメールなどで反応をいただきました。「《代わり映えのしない》今日という日は実は《代わりのない》特別の日なのです。」そう、《代わりのない》今日という一日一日を大切に生きてゆきたい。そういった意味で僕らは、命と真摯に向き合うことのできる人たちに、遠くおよばない日々を過ごしているのでしょうね。スピリチュアルという言葉があります。「物質的な」あるいは「肉体的な、官能的な」に対し、「霊的な、精神的な、神聖な」、あるいは「霊的な」と言う意味だそうです。科学万能の時代、コンピュータが驚くほど進化したデジタル社会となって、一層そうした傾向が強まっているようにも思います。テレビなどで、どこか怪しげな霊能者という人が、ごくあたり前の言葉を述べていて、それに涙を流して応えている有名人という図式です。しかし、そうしたスピリチュアルという流行もむべなるかなと思うほど、この世にはまだまだ人間の科学や知識だけでは説明のつかないことがたくさんあります。宇宙飛行士が、大気圏外から帰ってくると神の存在や宗教に目覚めるというのもそうしたひとつでしょうし、人の身体の問題でも科学では解明できない不可思議もある。むしろこの世のすべてを人間が解明できると思うほうが不遜なことなのでしょう。前世、来世、臨死体験、オカルト的なものに、ただの遊びとして面白がる人も、真剣にうちこんでいる人もいます。これをくだらぬ世迷いごととか、「時代の病理」というあいまいな言葉で片付けることはできない、とも思います。昔から「信じる者は救われる」と言われます。何を信じるか、何を信じたらいいのか、というのは人によってそれぞれでしょうが、何であれ心のよりどころをもっている人は幸せであるのでしょう。われわれの心の問題の多くは「何も信じられない」というところに発しているのではないかとも思われますから。「信じる」という行為は、人にとってはきわめて重要なことで、それは、「ものごとの意味を問う」という問題と密接に関係しています。「信じる」といっても、宗教ではなく「自分を信じる」ということも真理としてあるでしょう。しかし、わが身を振り返って考えると、自分ほどあやふやな存在はないともいえます。これはあえていうなら、「自分の判断を信じる」、「自分の判断について責任をもつ」ということが「自分を信じる」ことなのでしょう。宗教であれ、スピリチュアルなものであれ、自分にとって思わしくない結果がでたときには、恨みに似た気持ちがのこりますが、自分を信じた結果が思わしくなかったとしても、それは自分の責に帰すことで誰のせいにすることもできません。結果について納得しやすいでしょう。常に自分を信じてけれん味のない生き方をしてきた人は、判断力が磨かれ、結果として間違いの少ない人生を悔いなく送ることができるでしょう。そういいながら残念ながら僕は、いまだに自分の判断力に迷いばかりがのこります。ここで生意気なことを書きながら、返されるコメントに教えられたり覚醒させられたり、そして励まされることが多いのです。この度のように、無言で読んでくださる人のなかに、コメントのなかに、文章を通じて心が交わせてくださることを感謝します。ありがとうございました。と、真面目に書くこともありますが、日頃はいいかげんなワタクシメでございまして、その落差についてはお許しください。励ましのクリックを
2009.11.20
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私は今、病院にいます。病院の許可を得てパソコンを持ち込んでいます。病気は不治の病いではないけれど、それに近い状態になってしまう病気にとりつかれてしまいました。私に出来るのは家族に電話を元気よくする事。そして私の大切な家族に、私の子供達に、私の叫びを聞いてもらいたい。 一つはいつも夢を大きくもちつづける事。 二つめはいつまでもみんなを見守っていく事。 三つめはとても大きな愛を私がもらった事。そんな感じで生涯を閉じようとします。まだお会いしたことのない人にこんなコメントをお送りするのは失礼かと思いましたが、ブログをずっと拝読しているうちに、押さえられなくなりました。所詮、人間は、いくつものことはできないけれど、その人の運命は、自然と決定されていると思います。どうか最後の最後まで生きる事を忘れない時を持ちたいのです。「ひまじんさろん」をときどき読んでいます。書いてないときがあるとどうしたのかな、何かあったのかなと心配になります。病室にいて人のことを心配しているのは変ですね。これからも更新されるのを楽しみにしています。* お便りといっていいのか、とても重いコメントありがとう。難しい病気を抱えておられるのですね。不治の病でないとしたら、きっと治ることを信じて、最善を尽くしておられるであろう主治医を信じて、病とおつきあいされることだと思います。あなたの健康に戻ろうという強い意志が、きっとあなたから病気を遠ざけてくれると信じています。でも、病気になったおかげで自分を見つめなおすことができ、ご家族にあなたの想いを語ることのできたことは素晴らしく立派なことだと敬服します。最近の「ひまじんさろん」が、あなたの励ましになっていないとしたらお詫びします。どうやら、どんよりと垂れ込めたような心境を見抜かれてしまったようですね。今年は大切な人、尊敬していた先輩を幾人か失いました。つい先日も、仕事のうえで何かと可愛がってくれた人が事故で亡くなりました。明日は葬儀です。このように、突然人とのつながりを断ち切られると、気持ちのなかの喪失感が大きく、人と話をするのも嫌になります。また、身辺に片付けなければならないことが幾つかあり、そのために気持ちが落ち着かないということもあります。そのようなことで、しばらくはブログの更新も不規則になるかも知れません、ご承知おきください。ただ、このようなことを書いたからといって、へこたれたわけではありません。自分なりに整理し、立ち直り、またあなたにも元気になって貰えるように記事を書きたいと決意しております。あなたが回復するのと、僕の気持ちが回復するのとどちらが早いか、競争ではありませんが、そう思って努力します。あなたも日々を前向きにお過ごしください。ともかくも心配してくれてありがとう。お元気に!励ましのクリックを
2009.11.17
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「愛を読む人」より 私は、初めて、志乃を抱いた。志乃のからだは、思ったよりも豊かであった。ふだん、和服ばかり着ていて、着やせして見えるのである。乳房は、にぎると、手のひらにあまった。肉はかたくひきしまっていたが、そのくせ、押せば、どこでも沈んでいきそうな不安があった。皮膚は薄く、胸をあわせていると、志乃の血のたぎりが刻々とわかった。そうして、志乃のからだの襞という襞がうちがわから火にあぶられているようにあつく、私たちの全身はたちまちのうちに汗ばんだ。上記の文章は、三浦哲郎の芥川賞受賞作品『忍ぶ川』の一節、初夜のシーンです。兄姉は自殺・失踪し、暗い血の流れにおののきながらも、しいてたくましく生き抜こうとする大学生の“私”が、小料理屋につとめる哀しい宿命の娘志乃にめぐり遭い、いたましい過去をいたわりあって結ばれる純愛物語です。雪国の習慣に従い、二人が裸で寝る初夜の場面です。発表当時、この初夜の描写は大変な評判を呼びました。しかし、こうして今読みかえしてみると、純真無垢な女の身体が象徴的に表現されているものの、エロチックな雰囲気はあまり感じられません。男女の性愛を書いていながら、純真なふたりの姿が薄暗闇にぼんやりと浮かび上がってくるような感じさえするではありませんか。いま、自分の文芸誌に男女のひとつの愛の姿を書こうと思っているのですが、このように清純さを漂わせた描写をしたいと思いながら、てこずっているところです。励ましのクリックを
2009.11.15
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森の若葉 金子光晴なつめにしまっておきたいほどいたいけな孫むすめがうまれた新緑のころにうまれてきたので「わかば」という 名をつけたへたにさわったらこわれそうだ神も 悪魔も手がつけようない小さなあくびと 小さなくさめそれに小さなしやっくりもする君が 年ごろといわれる頃にはも少しいい日本だったらいいがなにしろいまの日本といったらあんぽんたんとくるまばかりだしょうひちりきで泣きわめいてそれから 小さなおならもする森の若葉よ 小さなまごむすめ生れたからはのびずばなるまいなつめといえば小さな木の実ですが、その中にしまっておきたいほどというからナツメ貝のことだろうか。そんなかわいい孫むすめが生まれたといいます。初孫への愛を存分に傾けた一冊の詩集『若葉のうた』は、昭和42年に発行されています。「森の若葉」はその巻頭にあります。ちなみに「森」は戸籍上の姓、森家に芽生えた小さないのち、というふくみもある題名でしょう。それからン十年、孫娘はもうすっかり大人の女性になっていることでしょう。では金子さんが案じた未来、つまり現在の日本は少しよくなっているでしょうか…。考えてみれば、戦中・戦後の、どのへんを切り取ってみても、これで安心という日の何という乏しさ。生まれてこなければよかった、と思うこともありました。しかし、図書館でふと開いたページでこの詩にめぐりあって、人生の応援歌のように聞こえてきました。最後の一行。―生れたからはのびずばなるまい―胸の奥の方から沸いて出る、歓声ならぬ静かな言葉の波長。年老いて先立って行く者が、後に残す思いの深さ、切なさが伝わってくるようにも感じました。実は次男夫婦が懐妊したとのことで、先日は帯祝いというのをやってきました。予定では来年の4月に初孫が生まれるらしいのです。僕のことをなんと呼ばせようか、いまから考えているのです。だって、ジイチャンなんてよばれる顔じゃないもの。励ましのクリックを
2009.11.14
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市内のある寺の隅にある公園に「平和祈念の塔」がある。中央上部には「原爆の火」が灯って20余年になるが、こころない人によって何度か火が消されようとしたり賽銭箱ごと盗まれたりしたが、その都度再生され、最近はすっかり落ち着き平穏になった。そこにときおり市民が訪れて手をあわせる姿をみかける。八月のある日、僕が訪れた日に若い親子連れがいた。小学校2年か3年生くらいの男の子だろうか、お母さんとならんでじっと手をあわせていた。この塔は宗教施設ではないので、そこには神さまも仏さまもいない。金属でつくられた千羽鶴の募金箱が据えられているだけだ。この母子は何を願って手をあわせているのだろう。母親は、純粋に「世界や日本が平和であるように」と願ったのかも知れない。しかし、この男の子はもっと純粋に、つまり無のまま手をあわせているのではないかとカメラを向けながらふと思った。僕は目の前の男の子に、何かに畏怖の念さえ感じた。この男の子の無心でなお全感覚で目の前の世界を感じているであろう祈りに、一体いかなる大人の祈りが対抗しうるだろうか、そう思えたのだ。このような幼い子供たちの祈りに較べ、僕らはたとえ「平和」であれ「家族の健康」であれ、何らかの御利益を求めている。これは卑俗な祈りではないだろうか。僕はこの時「祈り」と「願い」をセットとして考える祈りというもののあり方を捨ててみたらどうだろうか、と考えた。 なにも願わない。 そしてただ無心に手を合わせる。この祈りの姿こそが「祈り」というものの本来あるべき姿ではないか。あるいは何らかの宗教によらずとも、我々の祖先は自然の諸々のものに無心に手を合わせてきたのではないだろうか。僕は自分の気持ちにこの言葉を刻み込み、何らかで手をあわせなければならないときに実践に移してみた。しかしこれがなかなか手強い。ひと筋なわにはいかない。人が手を合わせたとき、そこに願いというものがあれば人の心はそれに満たされ、他の雑念に囚われる余地がなくなるわけだが、願わないとなると、その空白の心の中にさまざまな雑念が押し寄せてくる。手を合わせるたった十秒の間でさえ、人は「無心」の心の状態を維侍することは難しいのだ。多分それはいわば“ミニ瞑想”のようなものだからだろう。瞑想は場所を整え、心を整えた上で、ときには数時間という時間をかけ、徐々に無心を目指すわけである。ところがさまざまな祈りの場面というのは、その前後は粗雑な日常時間であり、その日常時間をとつぜん断ち切り、一瞬のうちに無心の境地に入らねばならない。もしそのようなことがいともたやすく出来る人がいるとするなら、それは瞑想の達人以外のなにものでもないだろう。僕にはそのような“祈りの達人”になるような境地にはほど遠いのである。何も入り込まない無の境地、それは生きているうちに叶えられるものであろうか。励ましのクリックを
2009.11.13
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「自分の心に忠実に生きてゆきたいと思います」とか「自分に忠実に」というフレーズがある。スポーツのドキュメンタリーなどでも「自分の心に忠実な男の生きざまがそこにあった」などとナレーターがいう。「彼は純粋で自分の心に忠実なのよね、そこがもうたまんないの」ファンがいう。以前は「忠実」、「忠」という心のもち方は必ずその行き先があった。天皇、お殿さま、主人、上官、社長、上司、もしなければ「国」というのがあり、行き場のない「忠」を受けとめていた。思うに「忠」というのは信仰者の宗教や正義漢の正義などと同じく、その場その場での判断を要しない、精神の安住地でもあったのだろう。戦後、特に最近は「忠」のもって行き場がなくなってしまった。ましてや「国への忠」などもまったくはやらない。ところが、この「忠」は最近行き場を見つけ出したらしい。「自分の心」がそれである。さて、「自分の心に忠実に生きる」とは、いかにもカッコいい。確立した自我、自立精神、などイチローなどを思いえがくではないか。僕だって一度ぐらいは言ってみたい。しかし、どこかあやしい。まずこの語句の裏には「他人の心は気にしない」「自己チュー」が同じ大きさでベッタリ貼り付いているような気がする。それに普通「自分の心」ってそんなに立派なものなのか。忠実に仕えるほどエライのか。誰しもがこんなに「自分の心」に自信をもってしまっていいものだろうか。極端には、先日逮捕された整形男の容疑だって、“自分の心に忠実”なあまり犯してしまったものではないだろうか。あの疑惑のデブ・ブス女も“自分の心に忠実”な生活をもとめて何人もの男たちを手玉にとっていたのではないか。自分の欲望に忠実な奴が、若い女性を誘拐して惨殺したりするのではないか。僕も“自分の心に忠実”にあえて言う。ことに最近エラソーなことを言ったりやったりしている親の子育てがなってないぞ。暴力はいけないが、子供の尻ぐらいバチンと叩けよ。ファミレスなど公共の場で“自分の心に忠実”に走り回るガキに注意一つしないバカわかい母親。食事の皿にいっぱい残っているのに投げ出してジュースなど飲んでいるガキ、魚の背中しか箸をつけないガキ、これは親もだ。未開の原始人ならいざ知らず、少くとも文明とか社会とかに属するということは「自分の心を抑える」ということが基本のひとつではないのか。野放し状態で過してきた幼児への教育も、まずはこれが最初にくるべきではないか。そういう育て方をするから、“自分の心に忠実”なモンスターが跋扈するようになったのではないだろうか。本来自己中心的である人間を、社会的な存在にするにはまず親がせずに誰がする。学校では遅すぎることだってあるぞ。これが未熟なまま青年期に至って、皆が「自分の心に忠実」にふるまっていたら社会というものは成立たなくなってしまうのではないのか。このカッコいいフレーズも、言い方にによってはただの「わがまま」ということではないか。いや、妻に言わせれば、僕も結構わがままではあるようだが…スミマセン。励ましのクリックを
2009.11.12
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この夏にはブログ友だちのDr.悠々さんが四国・徳島から訪ねてくれたが、いざ行こうと考えるといささかの距離を感じる。職場を退職をしたのを機にその四国八十八ヵ所の旅をしてきたという知人が最近訪ねてきて話しをした。そこで、巡礼中につれあいに死なれながら、ふたたび巡礼の貫徹をめざしている人とであい、信仰の力を感じたといった話しをした。八十八ヵ所巡りはすなわち祈りの旅であり、その祈りの内にはそれぞれの個人的な思いが込められている。それは自分や家族の健康祈願であり、または病気治癒の祈念であったり、あるいは息子や孫の受験合格の願いであり、時には自らの罪の贖罪の祈願であることもある。あるいはまた、子宝に恵まれない人の祈りであろうし、またある人にとっては死者の供養の祈祷であることもある。いつか何かの本で、恨みを抱いた人を呪い殺すために寺の柱に藁人形を釘で打ち付け、祈って回ったという恐ろしい話も読んだことがある。この札所巡りという信仰の形は、四国だけでなくさまざまな形で各地にある。このような人の祈りの姿を思うことは、祈りというものはさまざまな様相を呈しながらも、おおむね自己救済を目指しているということである。仮にそれが死者の供養のための祈りであれ、近しい者の死の供養には、愛する者の死によって波立つおのれ自身の魂の鎮魂も暗黙のうちに含まれるから、それもまた広義の自己救済の一つであろう。あえて問われれば僕は無宗教であるが、思い立って寺社を訪ねることはよくある。木曽のある山中の古寺を訪ねようとしたときに、道を訊ねるために駄菓子などを置いてある店に入ったとき、そこには赤ちゃんを抱いたお婆さんがいた。その薄暗い中にほんのりと浮かぶ赤ちゃんの顔を見たとき、なぜか不意に身の引き締まる感覚を覚えた。水子地蔵を思わせるその生き仏のような澄みきった瞳が、じっと食い入るように僕の目を見つめていたのである。これまでにも、そのように赤子から見つめられるというような経験はある。生まれたわが子を抱くときにも、澄んだ瞳を感じなかったわけではない。しかし、そのときの赤子の視線には、思わずたじろぐような光を感じた。その赤子の無垢の視線に、僕のこころの底にある原罪が射貫かれたのではないかと思った。これは巡礼のなかの出来事とはちがうが、寺を訪ねるという行動を思い立ったときに、無意識に何らかの宗教的な心のありように囚われているのかも知れないとおもった。励ましのクリックを
2009.11.11
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山荘の小径も裸木が多くなり、日もよく通りいくぶん明るく広々と見える。毎日の日課となった犬のハナとヤギのメー子を連れての散歩も落ち葉を踏んでのことになる。先日はよく晴れた小春日和であった。いつものように山道を散歩していると、いつか日は西に傾き、ふと気付くと、影法師がくっきりと長く伸びていた。あっ、影法師だと思った。飛び上がると、影法師も飛び上がり、影法師はやっぱり後からついてくる方がよいと思って、夕陽に向かって歩き出すと、影法師も後ろからついてくる。急に走り出すと、気づいていそいで追いかけて来る。ハナとメー、そして僕の三人(?)で童心にかえったように夢中で影法師と歩いた。帰り道僕たちは、残照の散歩道をさくさくと落葉を踏んで歩いた。樹々は行儀よく並び、影たちもまたその日最後の夕日をうけて、東に向かって長く伸びている。じっと眺めていると、心までがそのまま西日に赤く染まっていくようであった。こんな静けさを持てたことが、何だかとても嬉しかった。このところ心の中にさまざまなさざ波があって、携帯もカメラも持たずに森深く彷徨っていることが多い。木々と語らいながら、波の静まるのを待っている。影法師と遊んだことで少し落ち着いた気がした。励ましのクリックを
2009.11.10
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親しい友人たちと雑談サロンのような会をつくってもう20年ほどになる。過去には、ときのボスたちに逆らって街造りに注文をつけたり、仲間内から議員を出したりしたこともありアブナイ集団と誤解されたこともあるが、結成当時は生意気盛りの青年だったメンバーたちも今はすっかり好好爺的になって、それとともに影も薄くなってきた。話すことといったら、ときの話題やそれぞれの得意分野を披露することになる。というわけで、現政権の勤務評価のあとは突然話題が軟化して、ファッション関係の仕事をしている人を中心に、人間として確実に5歳は若くみえる方法について語り合ってみたのでご披露。まず第一にしゃべり方、これはいたく人間を若くも老けてもみせる。若いしゃべり方というのはテンポである。しっかりと相手の目を見て話を聞き、答える。横目、伏し目は老けてみえる。さらに押しつけがましく、一方通行ではないこと。つまりピンポンをしている要領。二つ目は服装。絶対いけないことは「若づくり」つまり服装で若作りをすると、さもしさが表れて逆効果になる。若づくりと若くみえることは違うのである。全体に疲れて気持ちが落ち込んでいる日や雨の日は、明るい白とか水色とかべージュなど。反対に自信のある日は黒とか、紺とか思いきった柄物を着る。全体をさりげなく地味めに抑えて、ネクタイとか、ベストで一個所うんと飛んでポイントにするのがコツ。狙いめは靴。履きものには人生と本音が出る。靴下なども気をつけて。(おい、僕の足元を見ながらダメだしをするように言ったぞ)食物。食べ物を人間が追いかけるのではなく、食べ物に追いかけられる状態こそ望ましい。つまり腹が減りきってから食べる。昼食一食くらいはりんご一個を買ってかじって歩くくらいの柔軟性が必要である。好きなものをつくる。何か一つ、狂信的に打ち込んでそれのオーソリティーになる。山歩きよし、釣りよし、歌よし、野球でもプロレスでもよし、もちろん「恋」おおいによし。そこから生まれる仲間や会話は年齢、立場関係なくいつも自分を新入生にしてくれる。恋の話が出たついでにSEX(本当はこれを言いたかったようだ)。これはメイクラブを大切に行う方がよろしい。つまり機会や回数が少なくても、なるべく惚れた相手と寝ること。ホルモンの分泌の向上、自然なヨガ状態が、精神と肉体の合致した解放感と若さを連れてきてくれる。(惚れた相手がいない場合、多すぎる場合で大激論になったのだが、それはおく)健康。健康への自信は若さの自信。年に一度の定期チェックで自分は健康だ、どこも悪くないと信じ込む気持ちが大切。他にも、若い男の読む情報誌を面白がって読むこととか、いろいろあったが、総じていうと、自分の年齢を知ることは必要だが、意識しすぎないことがいちばん大切なのであるということ(ということ自体、十分に意識しているのだが……)。ところで、例の周辺の男達が不審死している疑惑の彼女等、そのままの写真を見たが、こんなのに群がるほど惚れるかねー。まあ、蓼食う虫も、とはいうけれど。 励ましのクリックを
2009.11.09
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昔、あるところに自らをひまじんと名乗る潔癖症の世捨て人がいました。飲むのは少々のアルコールの入った水にだけ、食べるのは米とわずかな漬け物だけ。甘いものといえばごくたまに庭に生えている柿か、林檎を一口二口。もちろん女性にも決して近づきません。ある日のこと、この男の友だちが訪ねてきて言いました。「そうやってさ、知りもしないでものごとを否定するのはどうかと思うなあ。ぼくだって決して放蕩生活を送っているわけじゃない。でも、たまにはおいしい食事を楽しんだり、女性のいる酒場でハメをハズしたりするぜ」こう言われた世捨て人は考えこんでしまいました。たしかに友だちの言うことも一理あるな、と思えたからです。悪を退けるには、少なくともその悪を知らなければなりません。でなければ、そもそも敵がなんたるか知らずに戦いようがないではありませんか。そこで、さっそくその日から、世捨て人はこの世のありとあらゆる快楽を体験してみようと心がけました。宴会に誘われれば断らずに顔を出し、おおいに酔っぱらい、たくさんの美人ともお付き合いして過ごしたのです。それまでいまわしいと退けていたものにどっぷりとつかってみたのでした。やがてある日、また友だちがやってきてこう聞きました。「どうだい。新しい生活は気に入ったかい?」世捨て人はとっくりと考えたすえに、「いいや」と答えました。思いつくかぎりの快楽のかぎりをつくしてみたものの、やはり幸せだとは思えなかったからです。それどころか、はめをはずした翌日などは、二日酔いがひどいし、自分の顔を見るとげんなりしてしまうほどはれぼったくふやけているし…。こうして、世捨て人はまた質素で清らかな生活に戻りました。そしてすっかり元のペースを取りもどし、数ヶ月後にはニコニコしながら友だちのもとを訪ねました。「見てくれよ。僕はすっかり穏やかな毎日を取りもどしたよ」「そうかい。前のように酒もまったく飲まず、宴会にも出ないのかい? 女性ともつきあわないのかい?」「いや、そんなことはない。たまにはね……」「おやそうかい」と友だちき言いました。「じゃあ、世間一般の人が自然にやっていることに、君はやっと近づけたんだね」シャンジャン!もちろんこれはフィクションです。誰も、好んで清貧の生活をしているわけではありません。自分のリズムがなんたって一番心地よいと言いたいだけなのです。励ましのクリックを
2009.11.08
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誰もが健康でありたいと思うのは当然であるが、ブームとなると首をひねる。さまざまな健康雑誌が出版されていて、○○を飲めば足腰がピンシャンとなる! △△で視力が劇的に回復! ××で男が甦る! □□で白髪が黒くフサフサに!また身体を動かすほうも、ヨガ、ジョギングから始まって、テニス、サウナ・ジム、はては鍼灸、カイロプラクティックなどなど右を向いても左をみても、世の中健康に関するモノばかりである。なかでも幅をきかせているのが健康食品。かえりみれば、このはしりとして記憶のかなたに九竜虫という虫があった。何だかアリくらいの小さな昆虫で、これを生きたまま飲むと、虫は胃酸に遭遇したとたんに死ぬが、その際に強い精力剤を出すと信じられていた。これについては思い出話があって、その昔、流行っていた頃ある知人がこれを服用していた。ある日小さな箱の中にこの幼虫を大事に持っているのを見せてくれた。増やすのだという。幼虫というより種虫といった方があたっている。その種虫は凄いいきおいで増えはじめ、知人はそれを一日に5、6匹飲み下しては悦に入っていた。どう効く? と尋ねると、うーむそうだなあ、効くような気もするし……効かないような感じもある。良かったら飲んでみる? という。好奇心の強い僕ではあるか、それは丁寧にお断りした。どう見てもあれは本物の九竜虫だったのか、はたまた単なるゴキブリの小型種だったのか、思い出しても首を傾げる。ちなみに、その知人はひと一倍健康食品に通じていたが、その後腎臓に不調をきたした。病院に行ったら医師から「飲んでいるサプリメントをすべてやめなさい」といわれ、その通りにしたら回復した。ま、健康食品の多くは、結局そんな程度のことではないかな、という気もしている。その後ブームになったのはコンフリー。これはわが山荘付近にも自生している。ロシアのコーカサス地方原産とか。一時は凄いブームで「コンフリーそば」「コンフリー天ぷら」なども出現したが、間もなく自然消滅。最近では多量に食べると健康に悪いとまでいわれている。怪しげなものでは、紅茶キノコなどというのもあった。知人宅でみせてもらったが、何やら乳白色のカタマリがふわりと浮いてうす気味わるく、これはただのカビの親玉としか思えなかった。そのほかにも、クコ茶、アロエ、ゲルマニウム、卵油、すっぽん、しじみ、牡嘱などが今でも続いている。それなりに良いものもあるのだろうが、僕の実体験としては肉食を控えめにして、旬の食べ物をまんべんなく腹八分目に食べているのが、どんな健康食品にも勝るのではないかと思っている。こういう健康ブーム(?)をみるにつけ、「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語があるが、「たかが人生、そんなに健康になってどこさ行く」と言ってみたくなる。励ましのクリックを
2009.11.07
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このところ好天というより日本晴れの天気で「小春びより」がつづいている。「小春びより」という言葉を春先に使う人がいるが、それは間違いだ。ちょうど今頃、晩秋から初冬にかけての11月ごろ、肌寒い日が続くなかで、ときに春のような暖かい日が訪れる、これが「小春びより」という。ちょっと春に似ているから「小春」なのだ。「ニョウボのコハル」は坂田三吉の奥方のこと。こうした気候のことをロシアでは、「女の夏」といい、アメリカでは、「インディアンサマー」というようだが、これがなぜそういうのかは僕は知らない。そして、「日本」という言葉、最近ある歴史書を読んだら、「ニッポン」という言葉が、江戸時代は流行語のひとつだったという。意味は、ごりっぱだ、最上だ、ということで、こりゃあ、ニッポンだ、ニッポンだ! という風にいったという。つまり、日本一(ニッポンイチ)の略語だと考えられる。「日本晴れ」とは、したがって、“極上の晴天”ということで、本日は信州もニッポン晴れであった。もっとも、信州は南と北、東と西ではまったく気候が異なることがあるので、他地域が快晴かどいかはわからない。ところで、この初秋にわが山荘にお越しくださったブログ友だち(さて、誰でしょう)のウェブサイトでわが山荘をご紹介くださっている。彼女はAURA(株)アウラというホームページ制作会社のボス、平たくいえば社長さんである。スタッフの皆さんと2泊3日されていったのだが、いつの間にかこのように絵にされている。会社やお店の“垢抜けた”HPを立ち上げたいと思っている人は、相談してみたらいかがだろう。僕から紹介されたといえば、安くしてくれるかどうかはわからないけれど、誠心誠意応えてくれるハズ。そういえば、この人たちが見えたときもニッポン晴れだった。励ましのクリックを
2009.11.06
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精神的に追いつめられたり、経済的に破綻をきたしたりしたとき、身近な人や親友に「お願い、助けて!」と言えるだろうか?「助けて!」と素直に言えるようになるのは、とても勇気がいることだ。なぜなら、一番近い人にボロボロになった自分をさらけださなければならないから。大切な人を、自分の不始末に巻き込むという肩身の狭い思いをしなければならないから。これは簡単そうで、なかなかできない。とくに男の場合、自分の弱さを他人に見せることが苦手の人が多いから、つい、ふみとどまってしまいがちになる。これは僕にも思いあたることがあったからよくわかる。その「助けて!」が言えなかったばっかりに、自分で自分を追いつめ、命を断ってしまうこともまれではない。10年ほど前、仕事の得意先で、親しくしていた人が自分で命を絶った。50歳にまだ届かない働き盛りだった。熱心なクリスチャンで、訪ねてくると真面目に宗教の話しをしてくれるので辟易するところがよくあったが、信頼していた。そんな彼だから宗教に支えられていると思っていたので死んだと聞いたときには驚いた。その3日ほど前に、溜まっていた未払い金を払いに来てくれたばかりだった。親企業の破綻に巻き込まれての連鎖倒産。大きな負債を苦にしての自殺だった。「あなた、ずるいわよ。二人で頑張れば、なんとかできたのに」と、枕元で彼の遺体にすがった奥さんの悲痛な言葉が耳底に残って消えない。その言葉には、夫がなぜ「助けてくれ」と言ってくれなかったのかという疑問がふくまれていた。それから10年間、明るい性格だった奥さんは弁当屋からコンビニのパートなど、幾つもの仕事を掛け持ちで働きながら3人の子供を育てた。鬼子母神のようであった。そして最近は小さな店ももった。成長した子供のひとりが店を手伝いながら、店の改装をしたり、すっかり立ち直ったように見える。彼が死んだことで、言葉に尽くせない苦労をしてきたであろう。しかし、彼が生きていたらこれほどまで劇的に建て直すことができただろうか。よく「火事場の○○力」というが、いざとなったときの女ははかり知れないエネルギーをもっている。男ほど簡単には折れない。今となってみると彼女の枕辺での言葉は嘘ではなかった。どんなにみっともなく惨めでも、生きていればなんとかなる、そういう楽観を彼女から教えられたような気がしている。励ましのクリックを
2009.11.05
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誰かに告白されたことがありますか?まあ、女性ならかなりの人は何らかの形であるのだろう、だって男の僕でさえその昔はあったのだから。(笑うでない。ほら、トラさんだって、カバさんだってあるではないか)しかし、そんな奇特な人にかぎってその人が好きでも嫌いでもない。だが、よほどのイイ女か男でないかぎり自分に告白してくれるなんてことは一生に数回あればいいほうだ。そこで、「ゴメンナサイ」と言うべきだが、そのことを正直に言うと相手が傷つくと思い、なんとなく思わせぶりな態度をとってしまう。すると当然、相手は期待を抱く。期待はどんどん膨らんでいく。だんだんつらくなっていく。そこで、なんとかこちらの気持ちを伝えようとして、相手と自分の性格の違いなどを強調してみせたりする。デートに誘われても、それらしい理由を作って断る。ああ、これは僕の経験談を言っているのではない(少しはあるけど…)。その人物は、あなたが自分のことを好きなのか嫌いなのかわからず、葛藤にさいなまれるようになる。そうして、あなたの一挙手一役足に過敏に反応する相手を見ているといらいらが高じ、つい無意識のうちに相手を傷つけるような言葉を口にしたり、態度を見せたりしてしまうんだな、これが(やっぱり、経験があるってことか)。実はこうしたことは恋愛に限ったことではない。どんな人間関係でもよく起こることだ。(これを言いたかったのダ)人を傷つけまいと配慮して、本心とは裏腹なことをついつい口にしたりすることがある。別に意識してそうするわけではない。そうすることが習慣として身についてしまっているのだ。しかし今ならわかる(遅いって!)、そうしたコミュニケーションは、事実を隠そうとすることで、逆にその事実を必要以上に意識させてしまう働きをしていたってことが…。実際に胸が大きいことを気にしている人に、「ほっそりとしてキュートですね」などと言ってみればわかるだろう。どれほど、その言葉に傷ついてしまうことか。正直な言葉は、ある種の軽さを持っているから、けっこう、聞きながすことができるのではないだろうか。こうしたブログの世界でも感じることは、人は千差万別。これは告白ではないが、まるで神様になったかのように正義感あふれる日記を書いている人に、コメントを書いたらマイフレ申請を戴いた。しかし毎日懺悔しなくてはいけないとなると辛いから「あなたは僕のタイプではありません」と正直にご返事したら、すっかり嫌われてしまったようだ。それでいいのだ、サビシクないのだ、いいんだもん。ねっ、ご同輩。励ましのクリックを
2009.11.04
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高校最後の夏休みに友人と二人で奥の細道を辿って東北地方を無銭旅行に近い旅をした。東京発の周遊券を買って、現地では飛び込んだ寺や学校の宿直室に泊めてもらい、農家からトマトなどを貰って10日間ほどの旅を1万円足らず使っただけであった。行く先々で現地の人々が温かく受け入れてくれたことが忘れられず、社会人になっていた23歳頃にも東北路をたどって歩いた。そこで忘れられない出来事があった。それは仙台から山形に抜ける仙山線の作並温泉を過ぎ、広瀬川支流の新川流域に入り、奥羽山脈の山岳風景の田舎でのことである。高瀬付近はスタジオジブリの映画『おもひでぽろぽろ』の舞台ともなったが、昔もそれとほぼ変わらぬ牧歌的な風景が広がっていた。ナップザックを背負っいズック靴を履き、猛暑の中、ある農家に水を貰いに入った時だった。古い大きなその家の門の前に、小さなおばあちゃんが立っていた。「すみません、水をいただけますか」といった僕の顔を、おばあちゃんはしばらくジーっとまじまじと覗き見ていたが、驚いた表情で、突然、大声をあげた。おばあちゃんは「息子が帰って来た、息子が帰って来た」と言いながら家の方へ駆けて行ったのである。家の中から、おばあちゃんのただならぬ様子に家族たちが出て来て僕に応対したが、おばあちゃんは、「よく帰った、早く早く」と僕の腕を引っぱって、離そうとしない。僕も何が何だか分らず戸惑って立ちすくんでいると、暫く様子を見ていたその家の家長らしい男性も「おばあちゃんが、ああ言っているから」と言うので、促されるように家の中へと入った。お茶などすすめられ、仏間に通された。仏壇の中の写真を見ると、その写真の主は幼な顔ではあったが軍服を着て、少し骨張った感じではあったが、目鼻立ちは通り(当時のこと)僕に似ていると思った。このおばあちゃんの息子さんは第二次世界大戦の末期に学徒動員された。そして、特別攻撃隊に配属されて戦死したという。といっても、戦死という通知のみで、遺骨は帰ってはこなかったという。おばあちゃんにとって、それから30年近い歳月が流れていたが、生きていれば50才近くになっていたはずの息子は、出陣したときのまま歳をとらなかったのであろう。僕がザックを背負って訪ねたとき、息子が出征した歳のまま帰ってきたと思ったのであろうか。僕は戦後の生まれであるから、息子さんが戦死した頃にはまだ生まれてもいなかった。家の人に、おばあちゃんがあんなに喜んでいるのだから、今日一日だけでいいから泊まって欲しいと頼まれた。どうしようと悩んだが、一日だけ、その家の人となることにした。それから僕は座敷の床の間を背に座らされ、家中の人が帰って来た息子のお祝いだといって、おばあちゃんやお嫁さんの手料理が次々とテーブルに出された。息子さんの子供時代から成長するアルバムの写真を見せられ、おばあちゃんの話に耳かたむけ、精一杯の笑顔でおばあちゃんの息子を演じるうちに、本当の息子になったような気になった。家長であり、写真の人の弟となる人に酒を勧められ、酌み交わすうち酔いもまわり、いつしか宴も終りに近づいた。そうして家長は「おばあちゃん、明日もあるしもう休みましょう」と言って寝かしつけた。翌朝仏間に寝た僕は、まだ薄暗いうちに家長に揺り起こされた。そうして、おばあちゃんを起こさないようにそっと外に出て、見送りに出てくれた家人に挨拶をしてその家を後にした。家長は「おばあちゃんが起きたら、あれは夢だったんだよ、と言っておくから、本当にありがとう」といって、涙ぐみながら僕の手を握り送り出されたのであった。きっと、誰もが本当であってほしいと望んだ息子や兄弟の生還、家人一人ひとりが30年前の年齢に戻って食べた料理、酌み交わした酒…。普通は年寄りの朝は早い。もしかしたらおばあちゃんは、布団の中で息子となった僕が出てゆく音を息をこらして堪えていたのかもしれない。そのときの出来事は、僕のなかで薄ぼんやりと夢のなかのできごとのように記憶に貼り付いている。いつかもう一度その家を訪れて見たいと思いながら、東北を一緒に旅した友人に話したら「もしかしたらお前は、その息子の生まれ変わりかもしれない。行ったら、今ここに居ることが夢だったということになるかも知れないぞ…」と呟いた。励ましのクリックを
2009.11.03
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昨年も今頃に紹介した信州・長谷村の「中尾歌舞伎」。これは大鹿村の「大鹿歌舞伎」とともに、後藤俊夫監督の映画『Beauty―うつくしいもの』のモチーフとなり、信州の山里に伝承されてきた地芝居が見直されるきっかけともなりました。その『中尾歌舞伎』が昨日、長谷・中尾地区でありました。わがふるさとにも芝居の上手な若者が増え、古き伝承をイキイキと継承してくれていることには、ただただうれしく敬服のかぎりです。演技中に「○○~!」という合いの手がないのは残念です。では自分でやればいいではないかといわれそうですが、かけ声はあうんの呼吸が必要です。それには何度も芝居をみて、声のかけ処を心得ていなければなりません。もうひとつ、芝居が完全に終わらないうちに席を立ち始めた人たち。これには大不満!普通、途中で立つのは「お前たちの演技はとても見ていられないゾ!」という意思表示で、役者にとっては屈辱的な仕打ちのはず。しかし、立ち始めた人たちはそういう意図ではなく、単に狭い村道に車を早く出したいだけの様子がありあり…。これから大円団というときにゾロゾロ立ち上がるのは役者はもちろん、芝居の雰囲気を楽しんでいる他の観客にも大迷惑な話。こういう人たちは会場に足を運んで欲しくない。と、これは僕の個人的意見です。と、それはともかくとして、伝承された文化がきちんと育ってきて、どこに出しても恥ずかしくない文化がふるさとで脈々と息づいていることに、拍手と敬意の感謝を捧げたいのです。『Beauty―うつくしいもの』の予告編を観ることができますが、やはり現場で本物を観て欲しい、そうでなければ臨場感は伝わらないと思います。励ましのクリックを
2009.11.02
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