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僕は『旬感』という文芸季刊誌を出している。20人足らずの会員から寄せられる川柳、そして俳句、詩、エッセイ、小説などカオスな小冊子だが、自分で言うのもなんだが毎回粒ぞろいの作品が揃って、質はともかく面白さでは、下手な商業誌に負けない内容だと自負している。ブログ仲間にも数人参加していただいているが、そのなかのひとりが、天地わたるだ。彼は俳句、エッセイ、小説と書いているのだが、俳句の落ち着いた端正さとくらべ小説のきわどさ、そして仲間の作品への、思い込みの強い歯に衣せぬ評論にはいつもハラハラさせられる。まあ、それはある面僕も望んでいることではあるが…、だ。小説が官能仕立ての男女間の諸々がテーマということもあるが、僕の知っている事実関係と何かとっても近い、もしかしたらノンフィクションの私小説ではないかと思う内容だ。編集の内容で彼の家に電話をすることもあるのだが、奥方が出るとつい用件をはぐらかせてしまう。いや、僕が意識する必要はないのだと思うのだが、小説とはいえ亭主が書いているナマナマしいものを奥方が目にしたらどう思うだろうかと、つい僕のほうが気を回してしまう。だって、中年過ぎてあんなこと、こんなこと、イヤハヤ…。ところが、彼と来たら電話であっけらからんと話している。こちらが思わず声をひそめてしまっていて、あとから苦笑するといった具合だ。性格も文芸観も思想もことごとく違うふたりであるが、自分に率直で正直であるというところに互いに信頼感があって、長いつきあいになっている。その天地わたるが先週土曜日のNHK-BSの「俳句王国」という番組に「鷹俳句会」を代表して出演し、馬子にも衣装というところか青シャツ姿も凛々しく、メガネを外して、堂々たる発言でも他の出演者を圧していた。彼はファッション系の某大手(?)出版社の編集者を長くやっていて、有名作家とのやり取りもしてきているので、度胸だけはあるのだろう。定年近くなって、最近は広告担当に左遷(笑)されたようだが、それを幸いに、窓際でシコシコ原稿を書いてはメールで送ってくる。それには、また別の女性のことが…、嗚呼。彼をずっとどこかで見たことがあるとひっかかっていたのだが、最近ハタと思い出した。マンガの「釣りバカ日誌」に出てくる「浜崎伝助」である。もちろん、建設会社と出版社で、女に淡泊な伝助とわたるではまったくちがうのだが、奥方のかわいいところと、あのずうずうしくも憎めないアッケラカンさがそっくりなのだ。ところで子供たちのネット上での悪影響の弊害を嘆きながらも、自分ではネットでの恩恵をずいぶん受けていると思う。最近の、いい友人となっているほとんどがネットという世界での出会いだ。この出会い系にはつくづく感謝している。身近のしがらみなどでできた人間関係は、あまり選択の余地はない。ときには嫌なヤツともつきあわなければならない。しかし、ネットのなかではそのへんはかなり割り切った選択ができる。ヤなやつと無理につきあう必要もなければ、これぞと思う人とは気兼ねなく人生までも語れる。人生の友人や、師や、恋人や、兄弟までもこのモニターの向こうにいる気分なのだ。いやホントだってば!励ましのクリックを『旬感』読みたい人は私書箱へ
2009.06.29
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昨日は午前から文芸友達のブログ仲間ご夫婦が、山荘の看板犬ハナに逢いにこられて泊まっていった。昨晩はご一緒に文芸話などを交わしながら、痛飲。本日は木曽の宿場町などをご一緒して、ご帰宅。と同時に、釣り客などが三々五々と見えられて、すっかり山荘のあるじをしておりました。こん晩は、二つの会合をかけもち。ということで、ブログの更新はもうしわけないけれど明日かな。といっても、待っている人もいないとは思うけれど…。といいつつ、これだけは置いておく(-_-;)
2009.06.28
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昨日から、山口、広島、島根、岡山といった西国にある洋菓子店の社長さんたち十数名が山荘にお泊まりになった。というと場違いな感じを受けるかも知れないが、巴里雀さんをまじえる若手経営者の方々。心意気の通い合う同業者たちで毎年ここぞという目的地を決めて研修旅行をしているという。これまで外国が多かったが、今回は少し近い信州ということになって、北信のほうの菓子店の視察、そして菓子業界では有名だという伊那の企業と洋菓子店への視察ということで、やはりきちんとした経営をされている人たちは学習意欲もすごい。ところで、その視察先となった伊那食品工業はわが山荘から10分程度の場所にあり、菓匠しみずの前店舗はわが事務所の隣という奇遇ぶり。伊那食品のガーデン工場は有名で、毎日何台もの観光バスが乗り付けられている。その企業の現在への指針となったきっかけを以前にも書いたので、興味のある人は読んでもらいたい。ところで、今朝はそのご一行と一緒に菓匠しみずの朝礼に参加してきた。その朝礼で、隣同士ながら方や伊那地方で一番の洋菓子屋に成長し、こちらはいまだに青息吐息の企業なのかがはっきりわかった。それほどすばらしい朝礼だった。(言葉ではなく、従業員のモチベーションを高めるやり方)詳しく書くには、内容が濃すぎてムリ。いずれ、その一旦くらいは紹介できるかも知れない。端的なたとえだが、磁力にはプラスとマイナスがある。隣同士でも、片方の磁界がプラスであればその一方はかならずマイナスになる。簡単なことだが、それを逆転するのは容易なことではない。なんて、へこたれてどうする。やるしかない! フレーフレーこちら!巴里雀さん、いろいろありがとう励ましのクリックを
2009.06.25
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行きつけの喫茶店でよく行き会うA君、40歳近くなりますが、最近ようやく結婚したそうです。結婚前には「オレは結婚などという、たがいに縛り合う契約制度に頼るほど不自由してない」などと大口を叩いていましたが、やっぱりなにかに不自由していたということでしょう。僕も社交辞令というものがありますから、「嫁さん美人だっていうじゃないか、どうだい縛り合ってみた味は(笑)?」などとかましてみました。すると、「まあ、結婚すると親が安心するし、喜ぶ顔が見たかったから…」などと不思議なことをいいます。「おいおい、あんたは親のために結婚したのかい。それで、自分はどうだったんだ」とたたみかけると、「そりゃ(新婚生活は)悪くはないし、いい人だと思うけど…、相手のことはあまりよくはわからなかったんです」なんて、とぼけたことを言っています。親が喜べばなんでもよかったのか。だったら、ペットショップから犬の子でも買ってくれば面倒なことはなくていいじゃんか。親分の喜ぶ顔が見たくて鉄砲玉になったというチンピラのほうが、同じバカでもまだ被害が少ないと思うのです。では親を喜ばせるために嫁さんにされた人は、今後親が年老いて亡くなったら、いったいどんな扱いをうけるんだ。もう用がないから、実家にお帰りくださいとでも、というんでしょうか?などと、喉のあたりまで出かかっていたのですが、「そうかいそうかい、そう思えるのも今のうちだよ。そのうちに親の喜ぶ顔を見たいから孫をつくって、家族の喜ぶ顔を見たかったらしっかり稼いで生命保険にも入って、嫁さんに喜ぶ顔をさせてあげるために早く未亡人にしてあげるといいよ、たいした犠牲的精神だ、見上げたもんだよ」と言ったら、キョトンと腑に落ちない顔をしていましたが、ちょっと過激発言だったかしらん。励ましのクリックを
2009.06.23
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昨日は娘から、希望通りのシャツが届いて、今日は息子夫婦がプレゼントをもって訪ねてきたので、昼は一緒に肉を焼いて食べたのだが、こういう行事って日本中でやったてるんだろうか。いつも言うが、僕の子どもたちへのプレゼントといえば、元気で働くことだと思っているから…。それにしても世間様の親からしたらずいぶん放任主義で育てたのに、小さな心づかいができるようになったのはそれぞれの伴侶がいいということだろう。と話が変わるが、小学校の国語教師をしている友人の話。市販のテスト問題を使って、生徒に感想文を書かせたといいます。「学校にいるときに雨が降り出して、お母さんたちが次々に傘を届けにきてくれる。でも、うちの母さんはパートで働いているから来られない。母さんは働いているのだから私も頑張ろうと思って、友だちの傘に入れてもらって帰りました」というものの感想を50字以内で述べなさい、というのです。その解答欄に「べつに」と書いた子がいました。いや、僕も同感です。だって、たかが雨が降って、傘があったりなかったりで、そんなときにはまさに「べつに」は妥当な線です。五十字以内すぎるキライはあるけれど。その教師の友だちはまあ出来るやつだから、「これ、参っちやうよ、いい点数つけるしかないんですよね」って。その市販のテストについている教師用の模範解答が、まことに気持ち悪いものです。女の子がお母さんの気持ちを考えて、さみしいのを我慢したことに感動しましたとか、傘に人れてくれた友だちの優しさに感動したとか。人間の精神活動の一つの手段としての言語とか文章とか、かなり重要なものを背負っているはずの国語、言語の学習というフィールドを、まったくサボって設定している。そこで学習するのは何かといえば、期待される「サボるための答え」を覚えるという以外あり得ません。ずっと昔、ぼくの子どもが小学校の時のテストにも似たような問題がありました。「雨が○○のように降ってきた」「雪が○○のように降ってきた」という問題文で、○○のところに後ろの選択肢から言葉を選んで入れなさいというやつ。選択肢は三つあって、「真綿」と「絹糸」と、なぜか「座布団」。ユーモアのセンスを問う問題かと思ったら、どうもそうじゃなくて、「絹糸のような雨」と「真綿のような雪」が正解。いわゆる慣用句というやつです。わが子は「座布団のように雪が降る」とやって、×でした。「だって、普通に降ったんじゃオモシロクないじゃん」というので、その時だけは、エライその通りだ! と褒めておいた。実際に雪が降っていて、ああ「真綿のような雪」ってこんな雪のことを言うんだなとか、背景が暗い場所で、雨に光が当たって、なるほど「絹糸のような雨」っていうのがぴったりだなと思うことはあります。こういう言い回しを最初に言った人は「おー、なかなかえらいね、たいしたものだ」とは思います。でも、試験にはなじみません。とくに、あてはめ問題には向きません。僕らが詩や川柳を書くときに、こういう慣用句しか使って書けてない作品をみると、ちょっとバカにされます。言葉は、自分の感じ方を大切にすべきで、慣用句だけ使って過ごすのは手抜きの言葉使いだと思うのです。だいぶ、脱線しましたが今日は一日肉体労働をしてちょっとつかれました。励ましのクリックを
2009.06.21
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人間の裸が美しいと認識されたのはいつ頃からだろうか。西欧ではミロのヴィーナスに代表それる女性像、ミケランジェロのダヴィデ像などの男性像など美しい肉体が彫刻として残されている。教科書に載っていたそれらの写真をちょっと眩しい思いで眺めたものだが、肉体の美しさ・セクシーなもの、という感情は明治以降の西欧的道徳観の由来する共同幻想である。日本の縄文時代の理想の姿(?)の埴輪は、西欧の彫刻などと違ってとても個性的である。『日本書紀』によれば、埴輪が造られるようになったのは、天皇など身分の高い人が亡くなったときには、殉葬として近習の者たちが生きたまま墳墓の周りに埋められていた。しかし、垂仁天皇がそれは痛ましくて見るにしのびないとして禁令を出し、自分の皇后の葬礼に際しはその代替物として「埴輪」が身代わりとして立てられることになったということだ。女性の形をした埴輪も多く出土しているが、ふっくらした腹部とふくよかな胸、臀部といかにも妊娠中の女性の形が多いのは、妊婦がことのほか大切に大事にされたからでもあろう。埴輪の女性たちが、西欧の彫刻とくらべ特異な形をしているのはモデルの違いにもよるのだろうが、この頃は、妊婦が美の象徴だったのではないだろうか。今はそれなりとみられている人も、縄文時代なら美女としてあがめられたかも知れないな。ウチのカミサンだって……。西欧の道徳観が入る明治以前の日本では、裸体をセクシー・美の対象とみる習慣はなかったのだろうか。浮世絵などにも春画や行水姿はあるが、ヌードを意識したような絵はみたことがない。たしか銭湯なども男女混浴だったようだし、家の脇で行水する女性の姿もあったようだ。この頃は男性も女性の裸にそれほど興味を示さなかったのだろうか。僕の子どもの頃は、女性が乳児に乳を与えるときには人前でも平気で胸をはだけていた。最近は、こういう光景はほとんど見られなくなった。女性の乳房をことさらセクシーで美しいものとする西欧的にな共同幻想に毒されていきたのだろうか。それとも日常的に見ることが少なくなったから、より見たいという感情が高くなったのだろうか。江戸時代の男は好きな女(当時は、好きな人=寝たい人だった)以外の胸を見たいとか触れたいとか思わなかったのだろうか。共同幻想の象徴としては愛国心がある。国のために命を捧げても惜しくないという人があらわれるのも、そういう愛国者は立派な人だと思わせる育て方をする共同幻想があったからだ。江戸時代以前は、身近な肉親とか好きな人とか、主君のために命を投げ出すことはあっても、国のためだけに命を投げ出すということは殆どなかったと思う。しかし、明治以降になって外国と交わるようになると国のために命を投げ出すことが「愛国心」というような教育がなされた。しかし国家とは、いうなれば「私」という個が集まってできた集合体をいう。私たちが共存するに便利なルールが法律であって、若干息苦しくても互いに守り合うことで安心して暮らすことができる。小鳥と鳥籠と例えれば、国家とは鳥籠のようなものかも知れない。無いほうが自由かも知れないが、自由すぎる空には小鳥を殺す猫や猛禽類もいる。では鳥籠を守るために身を投げ出して鳥たちが戦って死んでも、小鳥のいなくなった鳥籠はただのガラクタでしかない。しかし、それでも鳥籠が大事という人もいることだろう。それはそれでありがたいことだから、大いに鳥籠を守っていただきたいものだ。ただ、自らの身を安全な場所に置いて、「突撃!」などと命令するのはもってのほかだが…。父の日のプレゼントありがとう励ましのクリックを
2009.06.20
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優しさってなんだろう。古いかたちの日本人男性は、形にあらわれる愛情表現は苦手のようだったが、最近のブログ仲間の記事をみるとそうでもなくなっているようだ。慶賀に堪えない。僕の友人で若くして妻を亡くした男がいる。その妻が生きていた頃、口の聞き方もぞんざいで何をするにも自分で決めて、勝手に行動するという亭主関白ぶりだった。ふたりに子どもは居なかったが、妻も控えめな人で言われるままに彼の面倒をみていた。ところが、その妻が重い病にかかり、彼をおいて亡くなってしまった。失ってはじめて、こんなことならもっと優しくしておけば良かったと、僕と飲んだときに男泣きに懺悔した。それから数年して、20歳も若い女性が彼の伴侶として家に入ることになった。うらやましくないと言えばウソになるが、息切れしないかと彼への同情心も少しあった。彼女と彼は交際中から僕のところに遊びにきた。女は僕の前でも彼に甘え、自分の食べかけのものを彼の口に入れたり、幼児言葉で話しかけたりする。彼の方もまんざらでもなさげに彼女に応えている。僕は目の前でいちゃつく彼らを、ムズ痒くなる気分で舌打ちをしながら見ていた。けして妬いていたわけではない。僕には、いくら仲の良し夫婦でも人前でベタベタいちゃつく行為はマナー違反だと思っているし、その景色に馴染めない。あるとき彼に問いただしたことがある。「おい、人前では少し自重しなよ。分別盛りの男がイチャツクのは見栄えがよくないぞ。歳を考えろよ…。」とたしなめた。すると、彼はこう答えた。「言っていることはわかるよ。俺は亡くした前の妻のことをどうしても忘れられないんだ。心のなかでは大切に思っていたのに、何一ついい思いをさせてあげられなかった。だから、亡くなった妻へのお詫びの気持ちもあって、今のを精一杯可愛がってあげたいんだ。いつまで大事にしてあげられるかわからんから…。」ちょっと勝手な言い分だが、気持ちがわからないもない。僕もそんな立場になったら同じようになるかもしれない。最近はブログのなかでの夫婦関係をみても、めいっぱい妻に優しく、家事までもきちんと分担できている人が増えている。僕の長男はイギリスに留学していた経験もあるので、結婚した妻に、労りや感謝の気持ちをごく自然に口にするし、時間のあるときには台所も手伝っているようだ。「お父さんは良いお手本となっているよ、反面教師として…」などと親に悪態をつくくせに、「○○(妻)は本当に良くやってくれている、僕が仕事に専念できるのも彼女がいるからだよ」と、サラっとのろける。僕は、妻にやさしい言葉をかけたことはほとんど無いそうだ。自分ではそれなりに気づかいしているつもりだが、こころとうらはらの態度にでてしまうことは自覚している。一言「ありがとう」と言えばよいのに、「うん、それでいい」とか「ああ、わかった」で済ませてしまう。熟年離婚は、だいたい妻が夫に三行半をつきつけるというのがパターンのようだ。夫婦は阿吽の呼吸、(愛情を)口にせずともわかっているはずだ。という旧来の日本的亭主は通用しなくなっているようだ。僕も、理屈ではわかっているけれど……。それでも、人前でイチャイチャするのには馴染めない。励ましのクリックを
2009.06.18
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最近、新聞の訃報覧をみてある出来事を思い出した。僕が以前つきあっていた知人の父親らしき人だった。だいぶ前にも書いたことがあるが、この街に住んでいた女性人形作家のことである。知る人ぞ知る人なので、事実関係は適当にぼかしてある。その女性はすでに亡くなっていて、この世の人ではない。その彼女がつくる人形は、ちょっと目にはよくある日本人形であったが、いやに生々しいつくりで、ことに顔の表情はどこか若き日の玉三郎をおもわせるエロスをたたえていた。薦められてウイーンで行われた「ヨーロッパ国際創作人形展」に出品し、優秀賞を受けるなど、この地域では天才的ともてはやされたこともある。腕は良かったが寡作であったため、人形で生活できるほどではなかった。また金銭感覚には疎く、男出入りが少なくなかった。生涯独身であったが子どもが一人あり(僕より年上)、その子どももある分野では天才肌の芸術家だった。ひょんなことから僕と親しくなったこともあり、母親のことをよく聞いた。「俺の親には近づかんほうがいい」と、あらかさまにもいった。ことに、彼の母親が亡くなった年の初盆の晩に聴いた話しは衝撃的で、忘れられない。彼によると、自分はある料亭の旦那とのあいだの子どもで、認知こそされていなかったが、成人するまでの養育費はその旦那から貰っていたということである。しかも、ほかにも自分が父親だと思っている人物が2人ほどおり、それぞれが地域では大店の主であった。自分も実際に誰の子であるのか、正確なところはわからないが、その父親(?)たちも認知しない子どもとして、密かに認められていたという。3人の戸籍の繋がらない父親がいることになる。今ならDNA鑑定とか、もう少し甘くて血液型でもある程度特定できるだろうが、困ったことに3人とも自分と同じ血液型だという。彼女が人形に使う衣装は、西陣や友禅の職人に注文して生地を織らせるほど徹底しており、人形一体の生地代がときには数十万もかかることがあったという。そうした材料代や、金銭感覚のない浪費癖のために、ときどきまとまったお金を父親にあたる人たち(?)に無心していた。母親のその姿が、子どもの頃いやでたまらなかったそうだ。親子の住まいは古びた借家で、僕が覗いたときにはゴミ屋敷の体だった。しかし8畳間ほどの母親の部屋は小綺麗にかたづいており、不釣り合いなほど大きな三面鏡が据えられていた。年に数回、母親のもとに「父親」が訪ねてくる日には、彼は母親に小遣いをもらって家をでて、夕方に「父親」が帰ったころに戻った。家に帰ると、母親は一心にスケッチをしているのが常だったそうだ。母親は息子には描いた絵を見せなかったが、ある日、母親のタンスにしまわれていたスケッチブックを盗みみて、仰天したそうである。目や口、指や足というように、人間のパーツのスケッチとともに、春画に見まごうようなスケッチが様々な角度で描かれていて、そのからまった身体つきは母親と「父親」そのものであった。そして、その表情はいままで見たこともないような恍惚をたたえており、子どもごころに興奮と嫌悪感が入り混じり、その一晩は眠られなかったという。それいらい彼は母親を成人するまで心の中で軽蔑してきたということだ。母親が死んで、彼はその絵すべても骸とともに棺に納め、火葬に処したという。残された人形が十数体ほどあったが、それもだんだんと彼の生活費に換えられていった。のちになって彼はいう。「振り返ってみると、俺の母はあのスケッチをもとに人形を作っていたように思う。あの人形たちは、俺の〈きょうだい〉たちだったのかも知れない。」彼の母親が亡くなってしばらくしてから僕に、形見の三面鏡をいらないかともちかけたことがある。やはり生活費に換えたかったようだ。僕は、そんな大事な物を貰うわけにいかないから大切にしなさいと固持した。しかし、彼はそれもどこかに処分してしまった。勝手な想像ではあるが、あるいは彼は三面鏡のなかにあのスケッチブックの姿を見てしまったのではないだろうか。手元に置くかぎり、その姿が鏡のなかにスケッチの絵が潜んでいるような感情にとらわれていたのかも知れない。その後、彼は借家を出て越していった。いくつもの病気を抱えていたため、生活保護の申請をすすめた。何故か僕は母親の葬式の手配などの面倒をみて、そのうえ彼の借金の保証をした銀行に肩代わりをするハメになった。それまで芸術肌の彼からずいぶん学んていたこともあり、彼の頼みを断れなかった。その肩代わりのための費用の幾分かをまた親しい友人の世話になるはめにもなった。それを機に彼との交際は絶った。彼はその後も才能を買ってくれる人たちに少しずつ迷惑をかけながら細々暮らしていると風のたよりに聞いている。こころならずも絵のモデルになったかも知れない老人の名前を訃報欄でみつけ、これであの出来事も思い出すこともなくなるのかな、という感慨にかられた。当時繁盛していた老人の店も大型店に押されて、今は寂れている。励ましのクリックを
2009.06.17
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昔から気に入らなかったことのひとつに3Hがある。3エッチではなく、3highいわゆる3高というやつだ。結婚相手の理想として女性が男にもとめる条件だ。もっとも人の身長の場合は「tall」を使うから、厳密には「high」は当てはまらないとは思うが…。その、背が高いというだけで、ほかの欠点が相当クリアーされてしまうものらしい。青春時代、僕が友だちとまったく初対面の女性と出会ったときに、僕に関心を示す人はまずいなかった。たいがい当時でも180センチ少々あった友達ほうにばかり視線がチラチラと向いていたものだ。そして、高学歴。いまは相当なおバカさんでも大学に行くから、昨今は実力主義で見直し気分もでてはきたが、当時は15パーセント程度で、女性も企業も高学歴信仰から抜け切れていなかった。そして高収入。もちろんお金はあるにこしたことはない。僕もカミサンには毎日のように稼ぎが悪いと尻を叩かれっぱなしである。しかし、プロ選手などはベツにしても、ケタ外れに稼ぐ奴はたいがい裏でアコギなことをやっているか、とんでもないケチだったりするものだ。これはもうヒガミ半分で言うが、一代で築いた大金持ちに、性格のいいヤツがいるはずがない。多少の例外はあるかも知れないけれど。とひがんでいたら、強力な助っ人があらわれた。もちろん女性である。「私はジャガイモのような人が好きよ。味のある顔なら裏オモテがあればよろしい。男はなんと言ってもハートよ、ハートの大きさ。愛情度、包容力、情熱、許容量。男のサイズの優劣なんて、その人の精神力で決まるものなのよ。Mさんの許容量は並以上はあるから胸を張っていていいわよ。」もちろん見え透いたお世辞とわかっていても嬉しいではないか。こう断言してくれた人は、ある文芸友だちの女性なのだが、女優さんのような気品がある人だ。いや、女優さんといっても大勢いる。似ている人でいったら北林谷栄さん。その人も、年齢は僕より10歳くらいも上であるのはちょっと残念だが、僕はなんといっても許容量が並以上あるから…。励ましのクリックを
2009.06.16
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先頃出たある宴席に信州の北側・戸隠からきた人がいたので、ずっと疑問に思っていた「北信流」のいわれについて聞いてみました。「北信流」とは宴席の途中で行う、いわゆる中締めという行事を謡いまでいれて長々とする儀式です。北信の人たちはなぜかそれをずっとやっているようなのです。そのいわれについては、江戸時代からつづいていたようですが、別の日に書いてみましょう。戸隠は北信濃にあった村ですが、現在では合併して長野市になってしまいました、つまらんな…。「戸隠」という地名はいろいろな意味で存在感がありました。僕は南信といって、信州でも南側に住んでいますから、北信州はあまり縁がないんです。それだけに、頭の中で空想する地域性というものがあります。思いつくまま戸隠のことを書いてみます。戸隠といえば、子どもの頃読んだ時代小説での戸隠流忍者を思い出します。伊賀流忍術を産み出したのは、たしか木曽義仲ゆかりの人だった聞きましたが、木曽と戸隠はそうとうの距離感があったと思いますが…。何と言っても有名なのは、戸隠そばですね。「霧下そば」と呼ばれてよく知られています。どこに行っても自称ソバ名人が蘊蓄を傾けてくれます。ソバは粉の鮮度、打ち方、経過時間など微妙なバランスで味が決まりますが、いろいろいっても最後には「つゆ」で決まると、「森樹そば」の亭主としては思っています。乱暴かな…。有名な戸隠神社がありますが、天照大神が岩戸に隠れたときにその岩戸を開けた男の神様(あやふやですが)をまつられたところです。その話を聞いたのははるか昔でしたが、岩戸をこじ開けるというところに、なにかちょっとエロチックな妄想をかきたてられた記憶がありますが、なんでたろう。伝統的因習でゴチゴチに固まった男社会の岩戸をこじ開けるには、女性の神様のほうがてきめんでしょうね。じっくりとあたたかい光を注ぎ、チラッと太ももか胸の谷間あたりをお見せすればたちどころに…、というのはゴウインかな。励ましのクリックを
2009.06.14
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昔、月には兎が住んでいると教えられてきた。兎は二匹いて、モチつきをしている。どちらかが雌で、どちらかが雄だ。だから地上にいる兎は、月をみるとぴょんぴょん跳ねる。うさぎうさぎなにみてはねる十五夜お月さんみてはねる「じゃ満月じゃないときはどうしてるの」子供のころそれが心配だった。あんな細い三日月のなかで二匹もいたら、さぞ窮屈で、落っこちてしまうんではないかと…。月に人類の足跡がつき、月の裏側まで見てしまい、地球のどこで誰が核爆弾を作っているかもわかる(らしい)、時代になって、誰もがうさぎが月にいることを忘れてしまった。子供達はいまはもう、月は太陽系の星の一つで、その月は太陽の光だという真実を知ってしまっている。月に兎が住んでいるなどというと、子供達からは馬鹿にされ笑われる。で、子供たちはもうあまり、月の話をしたがらない。そこで大人たちも、もう月の話を子供たちにできなくなった。つまり、世界が狭くなったのは、子供たちより大人のサイドなのだ。人類はどうしてそんなに知らなくてはならないのか、と、兎のいなくなった月をみながら、大人になりきれないオトナは思う。ところで、月にうさぎはいなくてもサンタさんはいるという子供は多い。「あれは架空の…」といいかれても、子供は「ぜったいいる!」といいはる。それで、ブショウヒゲが生えるほど大きくなった子供に、プレゼントを買うオトウサンオカアサンがいるんだよなー。ところで、「父の日」というものもあるんだな。え~と、いつだったけな。シャレたシャツがいいなー。なにか、こういうのを似たもの親子とでもいうのかな……。励ましのクリックを
2009.06.13
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僕は子どもの進路について必要以上に干渉しない。人生は「自分の意思」という責任感があいまいになるとロクなことはないと思うからだ。友人のひとりはすべての子どもに干渉し、子どもの頃から進路をひいてあげてきた。最近入院することになり、その娘さんのことで相談を受け、娘さんを交え遅くまで話し合った。娘さんの名前は仮にSさんとしておこう。Sさんは高校時代から医師志望で、国立大学の医学部を志望した。学校からは、T大でも合格できるかも知れないと言われるほど成績は良かったのだが、その医学部の受験に失敗し、滑り止めの歯学部と薬学部には合格した。友人は再挑戦を強くすすめ、Sさんも夢は絶ちがたかったのだろう、予備校に通い翌年も受験したが、またも医学部を失敗した。結局まったく畑違いの私立の文学部に入った。誰もが知っている有名大学だ。しかし、Sさんの挫折感は大きく、大学に通ううちに変調をきたしていった。それでもしばらくは通ったが、結局は大学をやめ家に戻った。統合失調症と診断された。それから約10年、ソフトウェアー関係の仕事にも就いたが長くはつづかなかった。それ以来、家に引きこもり、過食症気味になりスマートだった体型が70キロを超えた。その後、家庭のなかに深刻な問題もおこり、家族がSさんをサポートしてあげられる状態でなくなった。それが一大奮起するきっかけになったのかも知れない。Sさんは毎日15キロ以上も歩いて体調管理につとめ、体重も50キロ付近にまで下げ、スマートだった頃の体型に戻ってきた。それとともに家庭の深刻な問題も解決の方向にむかったのだが、そうすると揺り戻しのように、また元のように落ち込み気味となり心療内科に通うようにもなった。そうして、最近その友人にある癌がみつかり長期間の入院が必要となり、その間に何かあったら面倒をみてもらいたいというのだ。ちなみに父親はSさんをとても可愛がっていたから、心配でならなかったのだろう。それからほぼ1ヶ月、友人はちょっと離れた大学病院に入院している。Sさんは、自分が病気だったことを忘れたかのように、ひっきりなしに父親の病院まで電車で通って見舞っている。不思議なもので、父親が病気になってから、Sさんの症状がとても良くなってきたように感じるのだ。それまで、抗うつ剤などの薬によるものか、乱れていた言葉も明瞭になってきて、動きもかつての動きに近くなってきた。体調管理にもつとめているようだ。肉親への危機感が、自分をコントロールしようという気持ちにつながっているのだろうか。Sさんは僕に対して「アドバイスして貰ったのがとても力になった」といってくれるのだが、実のところ特別なことを言った覚えはなにもない。考えられるのは、友人が病気になったということだけだ。父親の病気という危機感が、自らへのマインドコントロールとして働いているのだろうか。友人が元気になったら、Sさんはまた元の症状に戻ってしまうのだろうか。だったら、そのまま入院しつづけたほうがいいということになる。まったくもって実際のところ、その人が立ち直れるかどうかは、他人がどうこうできるものではなく、自分のなかにある何かを揺り起こすしかないのかも知れないと思う今日この頃…。励ましのクリックを
2009.06.12
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中央アルプスを源流とする水が7、8キロを一気に駆け下りて街中を通って天竜川に流れ込んでいる川を小黒川という。その川沿いに僕の山荘がある。敷地は3千坪だが、森の小径や河川敷など含めて実際に使わせてもらっている面積は1万坪くらいになるのかも知れない。この上流域は市がキャンプ場と開発し、釣りや山野草の宝庫として、夜は星空が美しく、賑わっている。バンガローは風呂や台所も付いていて、8人くらいが泊まって小生活ができるようになっていることで、都会からの家族連れにも人気がある。ところで、そこの管理人が話してくれたのだが、毎年困った家族が幾組かあるようだ。その1、川の音がうるさくて寝られないからバンガローを替えてくれという。川の音は、せせらぎとも言う、何でここに来たんだいと思ってしまう。その2、近くにコンビニありませんか、と訪ねてくる。 4、5キロ下流にはあるけれど、コンビニが無くて困るのなら街のビジネスホテルにでも泊まったらどうかと思う。その3、付近に野生の猿がいるのだが、持ってきた食料をあげている人。キャンプの食べ物をきちんとかたづけずに、残り物をそのままにしてしまう人。この場所は、野生動物と共有地だということを忘れている。だいいち動物にヘンなマナーを植え付けてしまうから困る。こんな人は、アウトドアをする資格無し。その他、テレビが映らないという苦情。米のとぎ汁を川に流してしまう人。ゴミをそっくり残していく家族。もちろん、これらの人は少数派ではあるが、毎年何組かはいると嘆いていた。もっともそう言うキャンプ場付近にあった沼地も、整備してアヤメや桜を植えて、きれいな池にしてしまった。この植生は天然には自生できないはずのものだ。世の中のピントが自然の流れからずれだしているのだろうか、それともこんな些細なことが気になる僕のピントがずれているのだろうか―。そこで、子ども向けに「信州子ども自然学校」をつくり、楽しみながら自然とあたり前の共生ができる体験をしながら、逞しく育って貰おうかと、信州大学農学部のOBの先生や釣りやアウトドアのプロの方々にも協力をお願いしてプログラムを作っている。もちろん、先生たちには遊びのリーダーとして加わって貰う。そして僕も子どもたちと一緒に遊ぶ。近々、詳細をどこかに発表するつもりだが、果たして子どもを5日ほど預ける勇気のある親はいるのだろうか?励ましのクリックを
2009.06.11
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全盲のピアニスト辻井伸行さんが第13回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで見事、優勝を果たしたという明るいニュースは人々の心に潤いを与えたのではないだろうか。今朝の「信濃毎日新聞」には、保科清さんがギリシャで開かれるマラソン大会「スパルタスロン」に初めて挑戦すると出ていた。「スパルタスロン」とは、ギリシャのアテネからスパルタまで約246キロをコースとし、36時間以内で完走を目指す鉄人レースだ。実は、彼は僕の従兄弟で盲人だ。アテネパラリンピックでは全盲の部で5位に入賞しているが、今度の「スパルタスロン」では、視覚障害があり、伴走がついて完走した人はおそらくいないとのことだ。しかも彼はなんと62歳になる。当然、伴走者も脚力がなければならないし、ひとりではムリだ。そこで、伴走してくれる人を募集しているが、オイオイ、5人いたとしてもひとり50キロも走らなければならないことになるのだぞ、と人ごとながら心配してしまう。書きたいことは、そのことではない。「障害者」とひとことでいうが、たしか身体のどこかが他人とくらべて不自由なのは不便である。しかし、オリンピック選手等があの卓越した能力を発揮するのは、障害の裏返しのような鍛え方をしているからだ。ピアニスト辻井伸行さんは、生まれてまもなくにオモチャのピアノを弾きはじめたという。そして、ピアノ中毒と呼ばれるほどピアノ一筋の暮らしだったようだ。眼が見えないということは、それ以外の機能が肩代わりするために発達する。たぶん辻井くんの耳は、生まれてすぐに絶対音感を確保していたことだろう。指先は、眼に代わる触覚のような微妙なタッチを可能にするような指先に育っているのだろう。まだ少年時代に保科さんとデパートに入ったことがある。田舎少年の僕は、何階もある広い売り場のあいだを歩くうちに自分の位置情報がすっかり狂って、どこにいるのかも解らなくなり迷子状態になった。ところが、弱い影を感じることしかできない清さんはまったく迷うこともなく、自分の来た入り口にまっすぐに戻ることができた。ちなみに、彼の暗記能力も格段に優れている。清さんには視力を放棄したぶん別のさまざまな能力が伸びて、代わりを務めているんだなと思った。植物でもよくあることだ。上手に不要な枝をイジメル(切る)と、格段によい収穫が得られる。それにつけても、ほぼ五体満足に生まれながら、その能力を生かし切れなかった僕であるが、なに不自由なくもちすぎているということは、何かを得る力を失っていることと同じであると、つくづく思うのである。どんなによい素材をもっていても、それを引き出さなかったら永遠にわが身の不幸を嘆くだけで終わってしまう。甘ったれるな! 俺! そして君!励ましのクリックを
2009.06.10
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団塊の世代の特徴といっても、血液型で性格をいうようなもので科学的な根拠で語ることはできない。昭和20年8月、敗戦により中国大陸や南方戦線に展開されていた兵士たちは武装解除され、戦地から引き上げてきた。日本に戻ればただの父親であったり、ひとりの若者であったりしたわけだ。疲弊し荒廃した日本という国を建て直すというより、まずはひとときの平和を求めて妻や家族との生計の道を探ったり、銃後を支えていた乙女と結婚し、家庭をもったりすることが一番の関心事だったことだろう。戦地では、野営があたりまえ、敵を憎み、殺し合うことにあけくれていた若者たちが飢えていたのは、温かい家庭であり女たちの肌の温もりであり愛情であったことだろう。そうして、必然の結果として子供が授かり、爆発的に産まれた。昭和22年から24、25年のことである。「団塊の世代」と名づけたのは堺屋太一であるが、そうでなくてもこの時代の突出ぶりは特別であり、今後はまず起こりえないであろう。社会で学校で、いつも競争にさらされ、良くいえば逞しく、悪くいえば小ずるく、ギラギラと生きてきたのかも知れない。団塊の世代は日本の戦後史に併走するため、様々な戦後日本の事象に当てはめられる。1960年代後半における大学生や一部の高校生らによる学生運動の隆盛に団塊世代が関連した事実は否定できない。しかし、当時の青年の多数派は高卒・中卒として学業より労働に従事していたし、また、大学生もノンポリとして学生運動から距離を置いていた者の方が多かったし、体育会系などを主体に体制側に立つ者もいたし、むしろ総じて保守、ないし無党派傾向が強いと思う。その世代が、どうやら高齢化社会日本のガンとも、お荷物ともみなされる時代になってゆくとの予測もあるが、そう簡単にくたばるはずもないとその一人としては思う。これからも、この社会に若干の害毒をまきつつ、いささかな貢献もしてゆくのがわれわれ団塊の世代の役割で、もう二十年くらいはセレモニーセンターもお寺も、安泰……なのかな。励ましのクリックを
2009.06.09
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フォークソング界の草分けの一人で、7月に還暦を迎えるシンガー豊田勇造さんが京都・円山公園音楽堂で「60歳6時間60曲フリーコンサート」を開き、参加してきた。同じ時代を生きた団塊の世代の歌手の歌声に、胸震える感動的で贅沢な6時間を過ごした。豊田勇造といっても知らない人のほうが多いかも知れない。実は数年前まで僕も知らなかった。ブログ友達のDr.悠々さんも「人生で一番幸せだった日」という記事でこのコンサートのことを書いているが、この悠々さんのお薦めで山荘でミニコンサートを開いたのをきっかけに、この歌手を知ることになり、もう3年続けてやっている。この歳まで歌い続けてきたわけだから、歌が上手いというのはあたり前だが、歌を聴くというより、このシンガーの魂に触れるという感じだろうか、とにかく聴いているうちに勇気づけられてくる。じんわりと熱くなってくる。車はわが息子に運転させて、妻と嫁、勇造さんの追っかけをしているフォークシンガーのなおぞうさん、高校時代からずっとファンだという諏訪のゆみちゃんの6人。混むかなと、朝5時に信州は伊那を出発した。ところが高速道路は下り、つまり信州へ向かう車のほうが3倍くらい多く、8時半にはラクラク京都に着いてしまった。京都では、滋賀在住の文芸の同志T氏と落ち合い、一緒に聴くことになった。T氏の弟しさんもプロのミュージシャンとして活動していたことがあり、ご子息は映画監督であり脚本家という芸術一家なので、音にもちょっとうるさい人だ。コンサートはほぼ定刻に始まった。聴衆とした集まるのはせいぜい500人くらいだろうと予想していたが、その時点で7、800人ほどになっていただろうか。ちなみにいつも言うが、僕は自慢したくなるほどの音痴、理数系はニガテだから音楽にも弱い。だから理屈ではない、ただ、感じるままに音と向かい合うだけだ。ピント外れな感想になるかも知れない。始まりはソフルフルなブルース調の曲が主体だった。ポカリスェットではないが、音楽が身体に染みてくる感じといおうか、語りかけるように切々と歌いこんでくる。いったい何十曲という歌の歌詞をどうやって覚えているのだろうと思うのだが、どれも長い詞で、派手ないいまわしはない。たとえば「大好きなライブハウス」という曲がある。 俺が大好きなライブハウスは 古い土蔵 もとは酒蔵 七人の男たちが夢合わせて作った 男たちの名前が今も床に埋められているこんな調子に始まって、8番までつづく。これなどまだ短いほうで、「ある朝高野の交差点近くをうさぎが飛んだ」などという長いタイトルの曲は、詞が20字×65行ほどあるから、ひとつ短編物語のようなものだ。それらを60曲も、どうやってと…、まあ、こんなバカにことを考えているのは僕くらいかも知れないが…。天気が心配されたが、太陽が差し込んできて観衆の熱気とともに熱い!たぶんそこに集まっている9割以上は純粋の勇造ファンなのだろう。中年というより、熟年風の方々も多い。しかし、不思議に若い女性も目につく。椅子に座ったまま身体をくねらせて思い思いに踊っている。それにしても、印象としては“濃い”風貌の人が目につく。僕のなかに青春時代の、新宿駅付近の光景がフラッシュバックしてきた。新宿駅近くは不思議な世界だった。少し前には東京オリンピックが終わり、日本はエコノミックな化け物への孵化が始まっていた。東京など巨大都市はいつもスモッグが漂い、空は白く濁っていた。日本は今度は経済的侵略者となり、海外から二束三文で原料を買い付け工業製品をつくり世界に売りつけた。野放図な企業活動による公害病もあちらこちらに噴出し、金にあかせて土地は高騰をつづけ、東京の土地代でアメリカが買えるといわれるような異常な時代だった。僕らの20歳前後、全国の大学に学園紛争が吹き荒れ、いわゆる「全共闘世代」とも呼ばれる誰もが政治を語り閉塞感を憂うていた。一方、政治とは別の次元で若者たちは文化でも革命をつづけていた。「天井桟敷」の寺山修司、「早稲田小劇場」、「黒テント」、「状況劇場」の唐十郎等が跋扈し、ヒッピー族というルンペン風の小汚い若者たちがシンナーを吸いながら、芸術を音楽を語り、ラリってあちらこちらに転がっていた。岡林信康の『くそくらえ節』や『山谷ブルース』、高田渡の『自衛隊に入ろう』(アンチテーゼとしての)などが、支持を受けていた。その頃、新宿西口にはフォークゲリラと呼ばれるシンガーたちが、神出鬼没の行動で体制批判的な歌集会を開いてギターをかき鳴らし歌い、ときに機動隊と激突していた。はしだのりひことシューベルツの『風』やビリーバンバンの『白いブランコ』など甘いメロディーのフォークが口ずさまれる一方で、理不尽な差別や社会への批判を歌詞にした関西フォークは若者たちから支持を受けて、新宿駅西口広場の『フォーク・ゲリラ』による反戦集会には大勢のシンガー歌声をあげ、数千人数万ともいわれる人々が共鳴していた。そして、その体制批判に業を煮やした政府により機動隊が動員され、その群衆のなかに催涙弾が打ち込まれ、西口広場は西口「通路」と名前が変えられ、弾圧されていった。そのエネルギーは『中津川フォークジャンボリー』といったとてつもない音楽イベントとに流れていった。思えば、若き日の豊田勇造も西口広場で、マークされるシンガーとして渦のなかにいたという。そして、その頃のヒッピーや若者たちがそのままタイムスリップしたようなイメージのファンもチラホラとみかけた。当時の僕は、ビートルズでさえちょびっと不良と思っていたほどの、偽善的な少年だったから彼らとは一線を画していたのだが、今となってみると不思議な懐かしさを感じてしまうのだ。プログラムは、遅れ気味に夕方になってゆく。当初は、6時間などというコンサートだからきっと途中で時間がとれるだろうと、不謹慎にもある原稿のゲラと赤ペンを校正用にもちこんだのだが、とてもそんな気分にはなれない。ステージが、目を逸らせてくれない。白髪まじりの昔少年たちが、勇造の唄に呼応して西口広場の再現を楽しんでいるかのように思える。やがて、曲にロックを思わせる激しいものが少しずつ入ってくる。それとともに、客席から立ち上がり踊り出す。若い女性が、若くないオバチャンが、同じリズムで揺れている。僕らもじっと座って聴いているのが恥ずかしくなってくる気分だ。ラスト1時間ほど前から、もうステージと客席はまったく一体となって、ひとつの巨大な生き物のように動き出している。いつもひとりで、アコースティクにギターを奏で唄っている豊田勇造が今日はひとりではなかった。筒井ケイメイ、仲豊夫、山田晴三、永見潤、延谷旨俊、ユン・ツボタジ、羽栗唯明、続木徹という人たちがつぎつぎに音を紡ぎ出している。客席にいた、ばんばひろふみさんも立ち上がり応援の声をあげている。さっきまで客席にいたと思った若者が、ステージにあがって豊田勇造と一緒に、歌い演奏している。何かに憑かれたように踊っている人もいる。しかし、不思議な統一がとれていて不自然ではない。これはなんだ!フィナーレ近く、『大文字』の「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん 火の消える前に~」、「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」と唄い、客席からも」、「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」と唄い返すあたりでは、涙で頬を濡らすひともいたりして、高揚感が音楽堂をゆさぶる。そうだ、この「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」これこそが、豊田勇造が伝えたかったことではないのか。勇造の若き日、ガス弾で蹴散らかされ、ときには聴衆からヤジられ、その怒りを悔しさを身体の奥底に沈め、しかし60歳という歳まで歌い続けてきた男。歌は熟成を重ね、芳醇な古酒のように香を放ち、心に身体に染みわたり人々の魂を元気づける。毎年、100回以上ものコンサートを重ね、溶岩のような魂を穏やかな笑顔でオブラートし、「負けへんで」「みんなも負けたらいけへんで!」と唄いつづける。その男が、「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」と、みんなに呼びかける。客席が「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」と、豊田勇造に応える。われわれは、そう簡単に負けへん!こうして、何度でも生きて呼びかける。 「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」 「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」勇造さん、すごいステージをありがとう。みなさん、ありがとう! 「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」 「♪さあ、もういっぺん さあ、もういっぺん」 ありがとう~!!励ましのクリックを忘れずに!
2009.06.07
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女性はスタイルだとか、男はがっちりした体格だとか、少年のような中性タイプだとか、好みはいろいろあっても、結局はほれた男であれば、ジャガイモであろうがアンパンであろうが、つきあっているうちにだんだんと良くみえてくるものではないだろうか。自分たちはどう思っているかはともかく、美男美女というより、花とカメムシのようなカップルは存外に多いような気がする。師匠の時実新子に、「手が好きでやがてすべてが好きになる」という句があるが、ある女性は、「男は手よ、きれいで細っりしたゆびさきに魅力を感じるの。そんな指で首筋に触られたら、もう……」などと言う。僕の指はゴツゴツと短くて、ときには印刷インキでしっかり汚れていたりする、もう救いようがないのである。足もとだという女性もいる。太ももからスネ、ふくらはぎからカカトまで全体が含まれるが、重点的には足首と靴だという。「靴や足もとに気をつかわない男はプレイボーイとしては失格」と断言する。プレイボーイに目をつけられるタイプとは思えない人がいうのではあるが…。僕の足もとをみたら靴下がたるんでいた。そしてつづける。さりげなく組んだ足もと、ぴたりと足首にはりついている靴下、きちんと磨かれている靴、こんなところに女はぞくぞくとするのよ、ともうひとりがいう。そうだよこんな田舎だし、山荘の小径の整備をしてくれば、靴にもドロがつくさ…。「私は首すじね、息を吹きかけられたらもう…」という女性もいる。僕が、「ふっ」と吹いてみたら「ピシャリ」と叩かれた。このえり足が男らしくて汗っぽいか、こざっぱりと清潔かで男の値打ちは決まるという。目線、笑い方、髪、腕、手指……とつぎつぎと出てくる。もういい、もういいから、僕のようなタイプはどう。皆さんのおっしゃることにことごとく外れているような気がするけれど…。「あら、Mさんはいい人だから今さら色気なんて必要ないでしょう。ここでモテなくてもなんの不自由もないでしょ。」ときた。そう、いつだってそうなのである。どこにいっても、どこかではモテているに違いないと仲間はずれにされてしまう。こういうソンな役回りはけっしてモテるとはいわない。今日はこれから京都の円山野外音楽堂までコンサートを聴きにいく。きっと、若い女の子がいっぱいいるにちがいない。えっ、平均年齢が50歳? もっと上!?いいじゃないか、死ぬ前にひと花…。励ましのクリックを
2009.06.05
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空を見上げるとツバメが飛び交っています。巣作りの季節、軒下を点検して巣のかけられそうな場所を探していますが、僕の事務所は昨年は何者かに巣を壊されているので、立ち寄ってくれません。ところで、年下の恋人のことを“若いツバメ”といいますが、その由来をご存じですか。このことばの由来は、女性解放運動の草分けだった平塚雷鳥の恋愛事件です。平塚雷鳥は、明治四四年に青鞜社を結成し、女性解放、婦人参政権要求などの運動の中心となった人です。ところが、彼女が年下の洋画家奥村博史と恋におちたため、彼女らのグループは大さわざとなりました。奥村は、「静かな池で水鳥たちが仲よく遊んでいるところへ、一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」という手紙を残して身を引きました。ところで、婦人解放運動というとついコワモテのオバサンたちを連想してしまいますが、「青鞜」結成当時、平塚雷鳥(26歳)、保持研子(25歳)、中野初子(25歳)、木内錠子(25歳)、物集和子(24歳)でしたから、当時は若くして自立した女性が多かったわけですね。平塚が著した創刊の辞「元始、女性は太陽であつた」という言葉は、日本における婦人解放の宣言として注目され、社会に影響を及ぼしました。ここから、年下の恋人のことを「若いツバメ」というようになりました。ところが、青鞜社にかかわった女性たちもツバメのように、あちらこちらと飛び交っていのした。その代表といえば、伊藤野枝が思いおこされます。「青鞜」で活躍し、現代的自我の精神を50年以上先取りした女性です。不倫を堂々と行ない、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤を捨てて大杉栄の妻、愛人と四角関係を演じました。それと同時に、女性の自立のための運動に力を発揮しました。関東大震災から間もなく、大杉栄、大杉の甥・橘宗一とともに憲兵に連れ去られ、その日のうちに憲兵構内で扼殺されて古井戸に投げ捨てられています(甘粕事件)。享年28でした。殺したのは、憲兵大尉・甘粕正彦とされていますが、最近では甘粕は、軍上層部のために罪をひとりかぶった免罪ではないかといわれています。雨ですね…。明日は京都です。励ましのクリックを
2009.06.05
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裁判員制度がここにきて不安が広がってきているが、足利事件の菅家利和さんのように裁判段階で数々の証拠を示され、DNAも合っているとされたら、そのとき自分は裁判の一員としてどのような判断を下すだろうか。もし死刑にでもなった後から、実はDNAが違っていたからと言われたら、その判断がどうであっても一生、心の傷をおうように思う。かといって、重犯罪の被告を、わずかな疑義でみんな無実にしたら被害者の立場としてはやってられない。いずれにしても、素人がこんな役割を担わされるのはたまらないなぁ。というような話題は置いて…。山荘にやってきた、子ヤギと愛犬のハナがすっかり仲良しになりました。ハナは雌、ヤギは牡。肉食系のメスと草食系のオスが仲良しになるなんて、人間界のできごとみたいでちょっと複雑。今はまいにち一緒に散歩してきます。自分がヤギだと自覚していないのかなーこんな場所がことのほかお気に入りのようです。どうだ、ここにはついてこれないだろう。と、川に飛び込んでみせます。やぎのヤタロは、そんなことはお構いなしに高いところに登って、ながめています。ヤギと犬の混血が生まれたらどうしようかと悩んでいるパパです。ンなわけないよ。こんな動物たちも仲良くくらすのに、なんで人間どもは…。励ましのクリックを
2009.06.04
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男の胸に顔を填めてゐるとかなしさがキリキリ目頭に集った。男の肩幅は浜防風のゆれてゐる頑畳な岩のやうだった。七月の夕陽を受けた障子の桟には唐桐の花の影が濃く揺れてゐた絶え間ない遠い潮騒……食事の後まだ片付けない七輪の火が白く濁った灰をかぶって湯がしんしんと音を立てて沸ってゐるあの湯をのどへ注ぎたくなった。じっと天井をみっめて皮肉に口を結んでゐる男私は一日一日目立ってふくらんでゆくお腹をそっと撫でた男、――それは女にとって時にはなれがたい仇敵であるまず、この詩を書いた女性をイメージしてみましょう。森三千代という人で、作家の金子光晴の妻、この詩を書いた頃は恋人といっていい時代です。そして、東京女高師在学中に光晴と出会っていますから、まだ20歳前後です。二人は新婚旅行気取りで、青森の碇ケ関に道び、その途中、松島に泊まります。「男の胸に顔を填めてゐると/かなしさがキリく目頭に集った。」新婚旅行としてもまだ小娘の年代、すでにこのような感覚の詩を書くとは女とは恐るべし(笑)。これからたどろう長い旅程に思いをこらしているのか。あるいはこの事態を招いた自身を嘲笑っているのか。ただそれとなく絶え間ない潮騒が遠く届いているばかり…。三千代は大正期の女性解放思想の体現者でした。むろんのことこのとき知るべくもありませんが、このあと自分が若い学生に狂い出奔します。そしてその関係の清算のために長い放浪の旅をします。かたわらの「男」はなおさら思いもしなかったことでしょう。それからまた年を経て相手に若い愛人が出来ようとは…。さらにときを同じく自分が病魔で半臥の身になるとも…。そんな遍歴を経ながら、光晴と三千代の二人は、半世紀無二の『相棒』として、その生涯を送っています。三千代は光晴の死に際して語っています。「(男のところへ)行きたければ私は行きますよ、行きましたよ。でまた帰りたければ帰ってきました。……金子はまた私が帰ってくれば自由に受け人れるような人でした。そういう風な間柄でした」この時代の、男と女。ことに自覚的女性の芯は強かった、ということでしょうか。励ましのクリックを
2009.06.03
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湯上がりの耳元からほのかに香るコロンに、軽い目まいのようなものを覚えた……。などという少々アブナイ匂いの経験は誰もが一度や二度は、…あるのかないのか。香りはほのかがいいのであって、強い香水を嗅ぐと、この人は風呂に入っていないのだろうかなどとヘンな勘ぐりをしてしまう。ある黒人の人と食卓を囲みながら話をしたことがある。話自体は興味深くおもしろいのだが、たまらないのは強い香水の匂い。せっかくの食事がまったく味気なく、食欲が進まなかった。以前に、印刷の第二工場のすぐ隣にタイの女性が住んでいた。部屋を出てだいぶたってもまだ香水の匂いが残っていた。日本人にくらべて、外国の人たちのほうが強い香水をつかうことが多いと感じる。匂いは視覚、聴覚、味覚、触覚などとともに大切な感覚で、その使い分けはひとつの文化なのだろう。香りのセラピーなどもあり、この香りは癒されるとか、昂揚するとか、心的療法などにも活用されているようだ。しかし、人対人の関係性によってもその効用は違ってくるのではないだろうか。ある女性が、昔恋人だった男性と偶然居酒屋の客として再会した。酔った勢いで女性のアパート近くまで送ってもらったおり、久しぶりに唇を交わそうという雰囲気になった。男性の顔が近づいてきたとき、思わず顔を背けてしまったそうだ。男性はやっぱり嫌われたままかと、哀しげな表情をみせて帰ったという。ところが、女性には嫌いという感情はもう消えうせ、許してもいい気持ちになっていたというが、元彼の顔が近づいてきたとき、体臭を感じ、おもわず顔を背けてしまったという。元彼とは同棲までした間柄、その頃は彼の体臭はむしろ好ましい匂いだったはずだ。新しい恋人もいるが、そちらの匂いは好ましいと思っているはずである。男は、けんか別れした彼女であっても、日が経つにつれて良かった思い出のみが甦ってくるものだが、女性はどんなに燃えた過去があろうと別れた相手は異邦人になってしまうのだろうか。昔の女を懐かしむ男は「退屈している男」であり、昔の男を懐かしむ女は「現在深い孤独」にみまわれている女だと言った人もいるが…。「匂い」とは、摩訶不思議なものだ。励ましのクリックを
2009.06.02
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昨日の講演は、予想して用意した資料が一部も残らず無くなるというまずまずの盛会だった。どんな人が聴きにくるのだろうと、興味津々だったが始めてお会いする人たちが多く、そんなことも嬉しかった。終わった後、「おもわずウルルときました」と話しかけてくれる人もいたり、「ピッタリと1時間半に押さえてあるとはなかなかのもの」「今までの金子みすゞ像を見直すきっかけになった」。など、聴いてくださった皆さんはそれぞれに面白がってくれたようで、まずはほっとした。途中で眠っている人がいないか、話の途中ときどき会場内を見渡したが、一人もいかったから、退屈もしなかったのだろう。もっともところどころにTMさんが詩の朗読をいれるから、ほどよい眠気覚ましになったのかも知れない。スタッフたちも口々に良かった良かったといってくれたが、疑い深い僕としては、面白くなかった人はさっさと帰っただろうから、当然ながら僕の耳には不評の言葉は届かないのは当然だ、裸の王様かも知れない…などと。金子みすゞの詩の書き方で特に優れていると思うのは、自然界を描きながら人間関係のあり様を鋭く見つめている、いわゆる比喩的手法だ。たとえば「あさがは」では、理解不能な他者との関係をユーモラスに描き出す。 青いあさがほあつち向いて咲いた、 白いあさがほこつち向いて咲いた。 ひとつの蜂が、 ふたつの花に。 ひとつのお日が、 ふたつの花に。 青いあさがほあつち向いてしぼむ、 白いあさがほこつち向いてしぼむ。 それでおしまひ、 はい、さやうなら。と楽しげに書いているが、この頃のみすゞは、金子テルと夫の啓喜との凄まじくも悲惨な生活を送っている頃だ。そのことを思うと、夫婦が互いにあっちこっちを向いているのにお日さまは照らしてくれる。しかし、そっぽを向き合いながら(私たち)夫婦は別々にしぼみあっている。それでお終い、はい、さようなら…。と、自分の哀しみを作品中ではユーモア的に転換してしまっている作品だ。泣きながらつくっている笑顔である。というように、文芸をどのようにもこじつけて解釈してしまうところが面白くもあり、僕のいいかげんなところであるといえる。励ましのクリックを
2009.06.01
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