鮨萬(すし萬)は、承応二年(1653)に創業いたしました。
正確にはその頃魚の棚(現在横堀二丁目付近)で魚屋渡世をし、副業に雀鮨を作っておりましたが天明元年(1781)の頃、京都の宮廷へ献じるにあたり西宮沖の小鯛の二才物を用いて雀鮨を作りましたところ評判を得ましたため、雀鮨専門となりことさらに総本家小鯛雀鮨と称しました。
おそらく義太夫で名高い吉野(奈良県)の釣瓶鮓と共に、すし業のはしりではないかと思われます。
その頃大阪には摂州福島の雀鮨(毛吹草:1670年頃)が既に地方名産として挙げられていましたが当時は浪速江鮒(ボラの稚魚)が材料として使われ【魚の腹脹れて形雀に似たるを以て号之(摂陽郡談)】と記されているように、現在のものとは作り方がかなり異なるものでした。
初代河内屋長兵衛より十五代・三百六十年の間に禁裏御鮨師を世襲し、明治元年・五年には津村別院(北御堂)で明治天皇の御用命を蒙り、御膳所御用御包丁人の看板が下されております。
昭和十七年戦争による一時的な休業はございましたが、昭和二十五年四月組織を法人に改め関西圏以外の土地でもすし萬のおすしを広く皆々様に食して頂けるようになりました。
最近でも三笠宮 秋篠宮家はじめ宮内庁の御下命をいただき今日に至ります。
これからも、伝統を守りながら新しいものを取り入れ、皆様に愛される「すし萬のおすし」をお届けいたします。
昭和二十一年九月、京都東山の無隣庵での短歌会にふらりと現れた、汚れたカーキー色の兵隊服の復員兵。
四年ぶりの復員にも関わらず、まっすぐ大阪へ向かわず京都で下車した十四代石本萬助の気持ちは当時の主だった都市が焼け野原と化していた日本では多くの復員兵が感じる気持ちと似たものだったという。
一刻も早く故郷に帰らねばならない気持ちと、変わり果てたふるさとと直面するのを少しでも延ばしたい気持ちという矛盾する二つの気持ちを抱えて。焼け残った京都の古き良き日本を味わっていた復員兵たち。
そんな中に佇む十四代にとって、無隣庵でのひとときは気持ちを整理するためのものだった。
召集時は古き伝統と天明から続く店を自分の代で失うことに諦めににた心境でいた中、焦土と化した大阪に戻り土佐堀の住友ビルの角を曲がった途端運命的なものを感じることとなる。
瓦礫の原にバラック建ての家々という無残な姿の船場の中で、西横堀川に沿った東側のひと並びだけが、細長く焼け残っていたのである。横堀一丁目、すし萬の店はその中にあった。
焼けていたらもう鮨屋はやめるつもりだったという十四代・石本萬助。
浪花名物小鯛雀鮨の伝統はそのようにして蘇ったのである。
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