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【瀬尾まいこ/幸福な食卓】◆癒し系青春小説から学ぶ現代の家庭もう20年ぐらい経つのだろうか。松山市で坊っちゃん文学賞なる文学作品の募集が、2年に一度されるようになった。ジャンルとしては青春小説が主のようで、受賞作の著者プロフィールを閲覧すると、若い人が目立った。地方の主催する文学賞といえども、賞金は高額だし作品のレベルも高く、ちょっと侮れない空気感があった。『幸福な食卓』の著者である瀬尾まいこも、この坊っちゃん文学賞の受賞を足がかりとしてデビューを果たしている。正直なところ、いくらこのような大きな文学賞を受賞したところで、その一作っきりで、とんと名前を見かけなくなるのがほとんどのパターンである。そんな中、見事に生き残り、映画化されるまでに成長する作家が登場するのは、奇跡に等しい。瀬尾まいこのデビュー作は『卵の緒』で、坊っちゃん文学賞を受賞し、『幸福な食卓』で吉川英治文学新人賞を受賞している。作風としてはありがちな青春小説かもしれないし、最近流行の癒し系というジャンルに分類されるかもしれない。だが、この読み易さ、シンプルな物語の展開が、読者に安心感を与えるのだと思う。ストーリーはこうだ。主人公の中原佐和子は中学生。ある日突然、父親が「お父さんを辞める」と言い出した。元天才児である兄は反論もなく、すんなり受け入れるが、佐和子はワケも分からず成り行きを見守るしかない。佐和子の兄・直は、地元の有数の進学校に通っていたが、優秀な大学を出て会社で働くことの常識に納得がいかず、大学進学をすっぱり放棄し、無農薬野菜を作る農業団体で働いている。一方、母親は別居中にもかかわらず、家族のためにせっせと料理を届けに来るという生活。中3の佐和子は塾に通い始めることになったのだが、そこで知り合ったのは他の中学に通う大浦君という明るく陽気な少年で、いつのまにか二人は付き合うことになる。二人は念願の進学校に合格し、青春を謳歌するはずだったのだが、ある日それは無残にも打ち砕かれるのだった。作品は、不思議な家族のあり方と、個々のキャラクターのおもしろさが際立っている。 その家族の絆にリンクするようにして、主人公・佐和子と大浦君の恋愛や、兄・直とその彼女である小林ヨシコとの恋愛が静かに展開される。昭和なら、さしあたりホームドラマとしてほのぼのとした茶の間の風景が広がりそうなのだが、平成の世ではもっとさっぱりとしていて、家族といえども深入りしない距離を感じる。こういう小説の登場により、少しずつ新しい時代の幕開けを実感していくのだろう。昭和の小説を有難がって読んでいる自分が小さく見えた一冊であると言ってしまうと、過大評価になってしまうかもしれない。それでも、硬い殻を破るためにはこういう作風が現代を象徴する大衆文学であることをしっかりと受け留めねばなるまい。女子高生の丈の短いスカートとナマ足を見て、「時代は変わった」と感じるのではなく、こういう新鋭の作家の描く世界観から新しい風を感じたいものだ。『幸福な食卓』瀬尾まいこ・著〈吉川英治文学新人賞受賞作品〉☆次回(読書案内No.112)は道尾秀介の「光媒の花」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.02.08
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【吉田修一/横道世之介】◆大人の幻想を押し付けない青春小説文庫本の帯にある“青春小説の金字塔!”というキャッチコピーがやけに目を惹いた。 どれだけ優れた作品なのかと興味は持ったものの、時間を割いて読むほどのものなのか迷った。前回ご紹介した白石一文にしても初めて読んだ作家だったが、今回の吉田修一も初めてなので、海のものとも山のものとも知れない。とはいえ、『横道世之介』という作品で柴田錬三郎賞を受賞しており、さらには本屋大賞の3位にも選ばれている。これは読むしかないと、手に取ったわけだ。著者の吉田修一は法政大学経営学部卒で、もともとは純文学小説でデビューしているようだ。(『最後の息子』が芥川賞候補作となり、その後、『パーク・ライフ』で芥川賞を受賞)昨年の集英社文庫ナツイチ(夏の一冊)では、同著者の『初恋温泉』がエントリーされており、さらには『空の冒険』もエントリーされている。どうやら売れっ子作家のようで、それを知らなかった不勉強な自分が、今さらながら恥ずかしい、、、『横道世之介』は映画化もされており、昨年の2月に公開された話題作でもある。一読して思ったのは、大学進学のため上京する人、またはその親の立場である人にぜひともおすすめしたい一冊だということ。もちろん、主人公である横道世之介が大学進学のため長崎から上京したという設定なので、同じような境遇にある人が読んだ方が入り込めるのではと思ったのもある。だが、私としては、そういう息子、あるいは娘を持つ親御さんが読んでみるのも一興ではないかと思うわけだ。あらすじはこうだ。大学進学のために上京した横道世之介は、入学式の際、人懐っこくてマイペースな倉持一平と出会う。各サークルの新入生勧誘で賑わうキャンパスで、倉持がサンバサークルに入ることとなり、なりゆきで世之介も入ることになった。さらには、二人の傍に立っていた世之介のクラスメートである阿久津唯も入ることになった。その後、倉持と唯はひょんなことから付き合うこととなり、そのうち、サンバサークルには参加しなくなっていく。一方、世之介は友だちと表参道のカフェで話し込んでいると、ちょっと気の強そうな美人に一目惚れしてしまう。その美人は片瀬千春と言い、突然世之介に、男と別れるための小細工として「弟のふりをしてくれ」と頼む。結局、世之介は引き受けてしまうのだが、千春の魅力にどっぷりと浸かってしまうのだった。世之介は寝ても覚めても千春のことが忘れられず、誰かに話したくて仕方がない。たまたま教室で一人残っていた加藤に声をかけ、一緒に昼飯を食べることにした。そしてこの際だとばかりに、世之介は初対面の加藤に千春とのことをあれこれ打ち明ける。そんなことがきっかけで、無愛想だが根は悪くない加藤のクーラー付きのアパートに、世之介は入り浸ることになる。そんな折、倉持と唯は局面を迎えていた。なんと唯が妊娠し、二人とも大学を中退することになってしまったのだ。最近の小説の傾向としてよく見受けられるのは、場面があちこちに切り替わり、それはまるでドラマや映画などの手法にも似て、読者が退屈してしまうのを回避するというテクニックである。一昔前に流行したのは、主人公の回想によって話が進められていくタイプだったが、あの手法はもう時代遅れかもしれない。今や単調な場面の連続を極力避け、いくらか話が飛んでしまうのが気にはなるものの、スピード感のある場面の切り替えなのだ。そういういくつもの異なった物語が、やがて一つのドラマへと完結していくプロセスは、さながら映画でも見ているような錯覚さえする。『横道世之介』についても、楽しい大学生活の様々なエピソードが連続しているわけではなく、途中、世之介と関係のあった友人たちのその後の物語が挿入されている。それはすでに40歳となった友人たちが、日々の生活を送りながら、共に過ごした青春時代の思い出に、いつも明るく笑っている世之介を偲ぶ姿を映し出している。青春の苦悩とか、どうしようもない焦りや不安などは、意識的なのか描写せず、もっとフワリとした感覚的な世界観を描いているように思えた。この著者はいろんな意味でプロだ。読者の質とか、求めているテイストを充分に心得ているからだ。なので、この小説が評価され、売れに売れた理由が分かる。大人の幻想を押し付けることのない青春小説で、前のめりになって楽しめる一冊だった。 『横道世之介』吉田修一・著〈柴田錬三郎賞受賞作〉☆次回(読書案内No.111)は瀬尾まいこの「幸福な食卓」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.02.01
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【白石一文/私という運命について】◆流される人生と流れに身を任せる人生のどちらもが運命何となく本でも読もうかなと思った時、この作品は持って来いだ。新書タイプのハウ・ツー本にも飽き、かと言って小難しい純文学には触手が伸びないと言うあなた、『私という運命について』を騙されたと思って読んでみたらどうだろう?私が特に目を引いたのは、文庫本の背表紙にある作品の紹介文である。〈---女性にとって、恋愛、結婚、出産、家族、そして死とは? 一人の女性の29歳から40歳までの「揺れる10年」を描き、運命の不可思議を鮮やかに映し出す〉とのこと。これは読み応えがありそうだと期待を抱いて読み始めたところ、その予想は外れなかった。長編小説であるにもかかわらず、一気に読了!とにかく圧巻の筆致だ。著者の白石一文は、早大政経学部卒で、代表作に『一瞬の光』『この世の全部を敵に回して』などがある。白石一文の小説は初めて読んだが、クセがなく、まるでドラマを見ているように場面場面が鮮やかな印象を受ける。(解説によると、これまでの作品は「独特の思索的で哲学的な文章」とのことで、『私という運命について』に限っては、「らしくない」作品のようだ。)ストーリー展開はいくらかファンタジーっぽいキライは隠せないものの、ドラマチックな長編作品としては充分な仕上がりだと評価したい。本来ならここであらすじを紹介したいところなのだが、物語上、一人の女性の歴史を追っているような手法なので、年譜のようにして紹介したい。主人公は冬木亜紀。細川連立内閣が成立した1993年からスタートする。男女雇用機会均等法の成立により、亜紀は女性総合職として入社する。29歳---以前の婚約者である康が、亜紀の職場の後輩と結婚する。33歳---東京本社から福岡に転勤となる。そこで、年下の工業デザイナーの純平と出会う。34歳---亜紀の弟・雅人の妻である沙織が病死する。37歳---香港に滞在する康と再会する。康が肺癌を患って、その後、克服したもののすでに離婚していたことを知る。一読して思ったのは、人生にはどうしようもないことがあるものだ、ということである。 運命とは努力して掴み取るものであるとか、自身で選択するものだとか、いろんな考え方があるけれど、「決してあらがうことができない出来事が訪れる」ものだと描かれている。せっかちな読者のため、あらかじめ断っておくが、この小説のラストは一般的に言われるようなハッピーエンドではない。大どんでん返しの末に訪れる、一人の女性の決意、あるいは悟りみたいなものが行間から感じられる。自分の思うような未来ではなかったとしても、そういう人生を選択した自分を責めるのはよそうではないか。運命とは、そんなに単純なものではない。計画通りになんかいかない。どうしようもないことがいくつも壁となって、行く手を遮るのだ。流される人生が最良とは言わないけれど、流れに身を任せる人生も、それはそれで良いのではと思うわけだ。この作品はエンターテインメント性抜群の小説で、万人におすすめだ。『私という運命について』白石一文・著☆次回(読書案内No.110)は吉田修一の「横道世之介」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.01.25
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【谷崎潤一郎/麒麟】◆『論語』から材を取った格調高い短編小説中国の古典である『論語』から材を取ったこの短編小説は、私の大好きな谷崎作品のベスト3に入る。『麒麟』というのは、動物園などにいる、あの首の長い動物のことではなく、「聖人が生まれるときに現われるという想像上の動物」を指す。私がなぜ数ある谷崎の代表作よりも、このような初期の作品を好きなのかと言うと、キレイゴトを言ったって結局、人間は欲望の塊なのだとストレートに訴えているからだ。あれほど仁徳の人として名高い孔子ですら、美女の肉体的な魅力の前には手も足も出やしないのだから。この『麒麟』が、同じ『論語』から材を取った中島敦の『弟子』と対極にあるのは、人間の性とか業というものは「たとえ孔子のような聖人でも如何ともできない」ことを表現しながらも、一方は性欲、もう一方は命運という劇的な悲劇の有無にあるのかもしれない。私は中島敦の『弟子』も大好きで、何度となく読み直し、人間にとって「学」がいかに不可欠なものかを知った。破天荒で不良の子路が孔門の徒となり、見事な人間像を形成するプロセスは、何より孔子の教えをよく学び、勉学に努めたことを物語っている。だが、谷崎の『麒麟』も凄い。あらすじはこうだ。衛の君の霊公は、絶世の美女である南子夫人を寵愛していた。そんな折、孔子の一行が近くに来ていることを臣下から聞き、宮殿へ招くことにした。 霊公は、夫人を始め、一切の女を遠ざけ、口をそそぎ、身なりをきちんとして孔子を一室に招いた。そして、国を富まし、兵を強くし、天下に王となる道について伺った。ところが孔子は、兵法や税の徴収法については一言も答えず、何よりも貴いのは道徳であることを説いた。「公がまことに王者の徳を慕うならば、何よりもまず私の慾に打ち克ち給え」こうして霊公は孔子の言葉に目覚め、南子夫人の顔色を窺うこともなく、孔子の政の道を学んだ。無論、南子夫人の寝室を訪れることもなくなった。そんな霊公の態度が面白くないのは南子夫人である。南子夫人は魂をそそるような香水をふりかけ、美しい女体を持って霊公に近付いた。霊公はせっかく孔子の教えに従って努力しているにもかかわらず、忘れかけていた甘い肉欲の願望に押し潰されそうになる。やっとの思いで夫人の手を払い除け、顔を背けたところ、夫人は微笑みながら霊公に断言する。「わたしはすべての男の魂を奪う術を得ています。やがてあの孔丘(孔子)という聖人をも、わたしの虜にしてみせましょう」谷崎潤一郎が描くこの南子夫人の妖艶なことと言ったらこの上もなく、どれだけ男を弄び狂わせてしまう女なのか、興味が倍増する。さしあたり『痴人の愛』に登場するナオミを彷彿とさせ、中国の古典でありながら、すっかり谷崎ワールドにすり替わってしまうほどである。この悪魔的な「美」が、孔子の教える「徳」とどう対峙するのか、そこを上手く咀嚼、消化することで人間の核心に触れることが出来る。それにしても天下の『論語』を原典とし、聖人である前に一人の男である孔子を描いた谷崎潤一郎の着眼点はスゴイ。本物の文学とはこういうものだと、さりげなく見せつけられたような、見事な筆致だ。 『麒麟』谷崎潤一郎・著(〔谷崎潤一郎マゾヒズム小説集〕より)☆次回(読書案内No.109)は白石一文の「私という運命について」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.01.18
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【円地文子/女坂】◆明治初期の「家」における嫁の立ち位置を描く今や当然のように女性の地位が向上したとか、女性が強くなったとか言われているが、歴史をさかのぼってみると、そんなのつい最近やっと人格を持つ者として認められるようになったことが分かる。近代日本では、すでに一夫一婦制が導入されていたはずだった。だが、封建的な家制度に生きる嫁の立場は低く、哀れで、惨めなものだった。伝統に対して恨みごとを言うつもりはないけれど、女性が全てを犠牲にして家を守らねばならなかったというのは、なかなか酷なことに感じてしまう。女性たちの我慢、我慢の連続の延長線上に成立する封建的な家制度は、良くも悪くも男性中心主義にあった。「家」の崩壊は無秩序を引き起こしてしまうという、ある種の呪縛にとり憑かれていたに違いない。時代の移り変わりと西洋思想の流入により、伝統や風習にあまりにも固執するのはバカげているとのことから、日本の家制度も末期を迎えることとなった。それが女性を解放する一端を担ったことは確かだが、女性自身がそれを望んでいない場合もあったりして、事はむしろ複雑多様化しているように思える。『女坂』は、明治期を生きた女たちの「家」における立ち位置を描くものとして捉えてみると面白い。解説に引用されている著者・円地文子の言葉によれば、〈『女坂』は明治の女の言わば内緒話である。〉とのこと。どおりでパンチの効いた風俗史であるはずだ。あらすじはこうだ。地方の官吏として務める夫を持つ白川倫は、好色漢である夫のために妾を求めて上京した。女にかけては放埓な夫に複雑な思いを抱きながらも、白川家の恥とならないように、玄人筋ではない若くて器量の良い生娘を選ぶ必要があったのだ。結局、年は十五で、まだ月のものも始まっていない須賀という少女を、夫のために連れて帰ることになった。その後、さらに妾が一人増え、由美という生娘も抱え込むこととなった。一方、白川夫婦の長男・通雅のもとへ嫁いで来たのは、美夜という、一見、明るくおっとりとした気立ての良い娘であった。ところが通雅と美夜の夫婦関係は今一つで、あまり上手くいっていない。そんな折、通雅の父・行友(倫の夫)は、長男の嫁である美夜にまで手を伸ばし、深い関係となってしまう。倫は、その事実を知りながらも必死で息子に隠し通し、須賀や由美たちに口止めして何とか穏便に取り計ろうとする。倫は、家のことを取り仕切らねばならず、夜も昼もなく駆け回るのだった。『女坂』を読むと、「あまりにも女性の立場が低すぎる」と感じる箇所がいくつか登場する。なので、女性が読むのと男性が読むのとではかなり読後感に差が出る小説のように思われた。男性の専横がしごく当然の社会にあって、行友が好色の限りを尽くす様子など、おそらく男性読者は羨ましさを隠せないのではなかろうか?そうは言っても、ラストは主人公・倫が死を前にして意味深な言葉を夫に投げかけるところは、女性読者の溜飲を下げる。やはり、メンタル面では圧倒的に女性は強い!世の殿方よ、せいぜいご婦人方の扱いにはお気をつけなさいませ。(笑)『女坂』円地文子・著☆次回(読書案内No.108)は谷崎潤一郎の「麒麟」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.01.11
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【山本周五郎/青べか物語】◆浦粕町時代を懐かしむ「私」の回想記平成の今どきの小説は親しみやすく、身近なものに感じるが、やはり昭和の大作には作者の並々ならぬ緊迫感や切実感に溢れていて、時々はその深淵を覗いてみたくなる。大衆作家として知名度を誇る山本周五郎の作品は、どれも面白く読み易い。キャラクターにはそれぞれ存在感があり、背景には説得力がある。くさくさしてしている時に読めば、人間なんて皆、五十歩百歩であることを教えてもらえるし、ひと時のドラマに没入させてもらえる。とにかく、いついかなる時も読者を裏切らない。巧緻な文体である。生涯、次々とヒット作をたたき出した山本周五郎だが、直木賞を辞退している。代表作はありすぎて、どれも有名だが、中でも『樅ノ木は残った』が白眉だろう。『青べか物語』は、時代小説を多く手がけた山本周五郎の作品の中では珍しく現代小説である。しかも、ご本人の体験に基づいた小説のようだ。しかし、解説を読むと、私小説と捉えるべきではないとの助言もあるため、あくまでも“蒸気河岸の先生”の体験談として読む方が良いのかもしれない。とはいえ、年譜と照らし合わせても、著者の浦安時代とピッタリ重なるので、読者はどうしても著者自身の回想記と捉えてしまっても、致し方ないのではなかろうか。『青べか物語』は、浦粕町(架空の町名となっているが、おそらく浦安のこと)という猟師町が舞台となっている。「私」は町の人たちから“蒸気河岸の先生”と呼ばれ、3年あまりそこに住みつくことになる。住人は貧しいながらも、したたかで、狡猾である。無防備な「私」は、住人である老人から「いい舟だから買わないか」と騙され、“青べか”を買わされてしまうのだ。「私」は、釣舟宿の三男坊である小学三年生の「長」と仲良しで、その土地のあれやこれやを教わる。“青べか”がいかにぶっくれ舟であるかも、「私」に舟を買わせた老人が、そら耳を使う油断のならない人物であるかも教わった。一方、浦粕町の開放的な風俗にも「私」は驚かされる。というのも、この土地では「どこのかみさんが誰と寝た」などという話は、日常茶飯事のことだからだ。「浦粕では娘も女房も野放しだ」というのが、常識としてまかり通っていたのである。 『青べか物語』は、正統派の昭和の小説である。贅沢からは程遠いが、その日暮らしを楽しんでさえいる素朴な住人たちの息遣いさえ感じられる。あけすけで常識はずれでも、人肌のぬくもりを味わえるのだ。興味深いのは、最終章で〈三十年後〉の浦粕町を、著者が二人の同伴者を連れて訪れるくだりだ。懐かしさやら何やら、様々な想いが去来しつつも、著者は当時をしのび、都会化して変わり果てた浦粕町を見据える。戦後、国を復興させるためとはいえ、「日本人は自分の手で国土をぶち壊し、汚濁させ廃滅させている」のだと、著者は嘆く。失われた自然の景観を絶望的な眼差しで眺めている様子が、怒りに満ちた文体から伝わって来る。私たちは、常に進化していくテクノロジーと、情報化社会の波を流離っている。今さら昭和を懐かしむほどセンチメンタルにはならないが、少しは立ち止まってのんびりしたくもなる。そんな時、『青べか物語』は戦前の泥臭い日本の風土を、滑稽で方言たっぷりに描き出していて、その時代を知りもしないのに私にはとても心地良い。「ああ、私は日本人なんだ」と、改めて気付かされる瞬間でもある。昔、私が買った『青べか物語』の表紙は、安野光雄のイラストだったが、現在はどうなんだろうか?山本周五郎の世界観を、たかだか文庫本の表紙一つから表現する安野光雄の装画も、併せておすすめしたい一冊である。『青べか物語』山本周五郎・著☆次回(読書案内No.107)は円地文子の「女坂」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1弾はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2弾はコチラから
2014.01.04
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【林真理子/白蓮れんれん】◆大正の世を騒然とさせた一大スキャンダル“白蓮事件”私、このご本を読み終わりましたところ、もう昔のことではありますが、○○女学院の女学生でありましたことを誇りに思いました。と申しますのも、この作品の主人公であられる柳原○子様は、私の母校と関係のある東洋英和女学院をご卒業されたお方なのでございます。その○子様は、恐れ多くも、大正天皇のご従妹にあらせられるのでございます。そのような華族様のお立場にある高貴なお方が、何故、平成の現代においてこのような小説の主人公と成り得たのでしょうか?(無論、昭和の時代にも小説のモデルとなっておられますが)それは当時、旦那様のいらっしゃった○子様ですが、東京帝大卒の弁護士・宮崎龍介という平民の者と駆け落ちするという事件があったからなのでございます。世に名高い“白蓮事件”でございます。この禁断の恋は世間からずい分と非難を浴び、それはもう一大事でございました。太平洋戦争後、象徴天皇というお立場になられました陛下ですが、それまでは慶事の際などに天皇と皇后のお写真を拝謁するにしても、取り扱う方はフロックコートを着て、白い手袋をはめて、それで漸くお写真に触れるのでございます。○子様は、それほどまでに神々しい偉大なる帝のご親戚でいらっしゃったのです。銀座の街をそぞろ歩き、白牡丹やゑり久、御木本装具店(ミキモト)をご覧あそばされた後、千疋屋でお茶を召し上がるのでございます。私のような下々の者とは、住む世界が違うのでございます。格好つけて最高の尊敬語を駆使して言葉を尽くしてみたものの、思いのほか疲れた。しんどい。著者の林真理子は、これまで不倫小説やらコメディタッチの軽妙なエッセイなど、ポップな作品を多く手掛けて来た作家なので、よもや大正天皇の従妹に当たる柳原○子(柳原白蓮)について、大まじめに執筆するとは思わなかった。解説によれば、『ミカドの淑女』『白蓮れんれん』『女文士』は、女性伝記の三部作となっているようだ。ところが『女文士』以来、「このジャンルからは遠ざかっている」とのこと。それはそうだろう。頭の中でチョイチョイっとこしらえた作り話とはワケが違うのだから。だとすると林真理子は本当に根気強く資料集めに始まって、時代考証、方言研究、現場取材等、実に見事な仕事ぶりだったと思う。(あくまでも想像だが)その証拠に、とてもおもしろかった!良い意味で林真理子らしい毒の効いた表現方法が、見事に花開いた感じがした。評価したいのは、華族出身のやんごとなき女性を主人公としながらも、遠慮がちにペンを執らず、大胆にも女クサイいやらしさを全面に押し出した点である。ややもすれば惚れたはれたの人情噺に成り下がってしまいがちなゴシップを、ものの見事に恋に生きた一人の女性の歩んだ道として、伝記小説にまで持ち上げたのだから!「大正の世を騒然とさせた」一大スキャンダルであったこの“白蓮事件”は、最近流行のコイバナ小説なんて子供騙しにしか思えないほどのインパクトを与える。(どだい比較に値するものではないけれど)「門外不出とされてきた七百余通の恋文を史料に得」た、林真理子の渾身の逸作と言っても過言ではない。おすすめだ。『白蓮れんれん』林真理子・著〈柴田錬三郎賞受賞作〉☆次回(読書案内No.106)は山本周五郎の「青べか物語」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.28
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【岸田秀/ものぐさ精神分析】◆初心者にやさしい、心理学入門に最適のテキストいつごろだったか、たぶん20年ぐらい前になるだろうか? 血液型心理学占いなるものが、爆発的に流行った時がある。雑誌の特集などで扱われていたりすると、私も人並みにいそいそと買い込んで、「おお、当たってる!」などと喜んで読んでいた。あのころはまだウブだった。ところが年月というものは残酷である。今ではそんなものが単なるまやかしでしかないことが分かってしまった。第一、心理学(自然科学や社会科学でないもの)という非科学的な学問と、占いというオカルトをコラボさせたものなんて、どう考えたって信憑性がないのに、若いころは“無垢”というベールが知覚を遮っていたに違いない。さて、『ものぐさ精神分析』は、早大文学部(心理学)の院卒である岸田秀が、専門家としての立場から考察したものであり、それはもう興味深い精神分析の世界を説いてくれたものである。最初に学術誌などで発表されたのは70年代で、その後書籍化され、ベストセラーとなり、それ以後も版を重ねている。今は亡き伊丹十三もかなり影響を受けたらしく、巻末には長文の解説を寄せている。私はこの本を何度となく読んで、「人間は本質的に神経症」であることを知り得た。べつにだからどうというわけではないが、自分も含めて誰一人まっとうな人間などいないのだと思ったら、人間のやることなすこと、全て五十歩百歩なのだとあきらめもつく。興味深く読んだのは、〈日本近代を精神分析する〉である。日本国民(集団)を一つの単体(個人)として捉え、精神分裂病であると診断を下す考察だ。その原因はやはり、1853年のペリー来航事件であるというのだ。これは作家の村上龍も意見を同じくしているが、日本は「有史以来、一度として外国の侵略や支配を受けたことのない、言わば甘やかされた子どもであった」ところ、突如としてペリー率いる東インド艦隊によって開国を強制された。司馬遼太郎はこれを、「日本はアメリカに強かんされた」と表現するが、要するに、無理やり「また(港)を開かされた」状況なのだ。岸田秀が比喩として「苦労知らずのぼっちゃんが、いやな他人たちとつき合わなければ生きてゆけない状況に突然投げこまれた」と述べているが、これは長きに渡って鎖国していた日本が、開国を無理強いされた状況を実に上手く例えている。ところがそれは「日本にとって耐えがたい屈辱であった」。つまり、このペリー・ショックが日本を精神ぶんれつ病にしたというのだ。「開国は日本の軍事的無力の自覚、アメリカをはじめとする強大な諸外国への適応の必要性にもとづいていた」が、これまでの日本の文化、伝統の中断でもあった。急激な欧米化が実行され、「卑屈な鹿鳴館外交が展開」されたのだ。こうして日本は不安定な内的自己を支える砦がどうしても必要となる。(伝統的日本を失った内的自己は、自己同一性の喪失の危機にさらされてしまったからだ)そこで、その恐怖からの逃避に好都合だったのが、天皇制である。要するに、天皇=アイデンティティー=大日本帝国となるわけだ。ほとんど宗教らしい宗教を持たない民族にとっての、万世一系の神となる必要性が生じたのだ。この時代、不平等条約の改定を目指して合理化された、和魂洋才(外面と内面を使い分けること)というスローガンが、何より日本の精神分裂を物語っている、という考察である。この歴史を踏まえた精神分析は、なるほどと頷けるものがある。ざっとでも近代からの歴史認識をある程度持ち合わせていないと、後の同化政策など中国や朝鮮との現在に至るまでの関係を理解するのは難しい。他にも『ものぐさ精神分析』では、〈吉田松陰と日本近代〉〈国家論〉〈せいよく論〉〈恋愛論〉〈自己嫌悪の効用~太宰治「人間失格」について~〉などなど興味深い考察が満載である。何より、人間は皆神経症なのだとほとんど明言されていて、それは何も異常なことではないと、やんわり諭されてしまう。素直な私は、よって「正常な自我なぞというものはない」のだから、自分さがしの必要なしーーーという結論に至った。(これはあくまでも個人的な見解だが)とにかく、この一冊が初心者向けの親切な案内書となっていることは間違いない。『ものぐさ精神分析』は、心理学入門に最適なテキストである。『ものぐさ精神分析』岸田秀・著☆次回(読書案内No.105)は林真理子の「白蓮れんれん」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.21
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【佐川光晴/生活の設計】◆現代における真性のプロレタリア文学この小説を読んだ時、友人のことを思い出した。友人は本命の立命館大学に落ちて、関西大学の法学部へと進み、卒業後は有名企業に就職した。ところが様々な事情が重なって四十代で会社を辞めた。その後、再就職に選んだ先は、なんと、某牛丼屋だったのだ。にわかには信じられなかったのだが、決して嘘ではなかった。牛丼屋の仕事を下に見ているわけではない。これは誓って私の本心である。ただ、その友人の前職を知っているだけに、一体何がどういう理由で再就職先に牛丼屋を選んだのか見当もつかず、私は混乱した。結局、友人は牛丼屋を辞めた。生活のためだけに就職した自分を恥じ、ろくな戦力になれなかったことを悔やみ、引き止めてくれた若い年下の店長にペコペコと頭を下げ、牛丼屋を去ったのだ。『生活の設計』における主人公もまた、国立大を卒業した後、出版社から食肉処理場の作業員に転職している。これは著者自身の自伝でもあるので、実際の経験に基づくものだ。著者である佐川光晴は、北大の法学部を卒業後、いったんは出版社に勤務している。ところが勤務先の社長が突然亡くなったことで、会社が倒産してしまう。本当は再就職先の出版社も決まっていたのに、あえて、そこを蹴ってしまう。結果、就職したのは、食肉処理場だったのだ。食肉処理場というと聞こえは良いが、ストレートに言ってしまえば屠殺場のことである。 職業を差別してはならないと、理屈では分かっていながらも、なかなか妻の両親には胸を張って言える仕事ではなかったようだ。(ちなみに著者の妻は教師をやっている)食肉処理業は重労働ということもあり、勤務時間は午前中のみ。したがって著者が主夫となり、炊事、洗濯、買い物なども兼ね、子どもの保育園までの送迎すら請負っていた。この小説は、そんな忙しい中、時間を作り出し、つらつらと書き綴っていたようだ。私は、この著者がとても正直に自らの思いを吐露していることに好感を持った。いくら思い通りにいかぬ世の中とはいえ、よりによって食肉処理業という職種を選んだ深い理由など、実はなかったのである。「わたしがなにをどのように考えた結果、そのような選択をするに至ったかについてもわたしは説明することができない」と述べていることからも分かる。私などはすぐに、北大の法学部まで出た人が、一体どうして屠殺場で働いているのかと、好奇心の方が先に立ってしまうところだ。友人が牛丼屋で働いていることを知った時も、驚きの余り、世の中のバランスを疑ってしまったほどである。だが、そんなことはどうでも良い。本人の体質に適合しているのなら、それでかまわないじゃないか。周囲が余計なことをとやかく言う筋合いはないのだ。それにしても、普通に生きることが困難な時代ではある。自分も含めて世間というものは、想像以上にめんどうくさいものだ。佐川光晴のスゴイのは、キレイゴトではなしに、労働者のありのままを写実的に表現していることだ。だがそれは決して己の生活環境を呪うものではない。もちろん、このような生活が良いとも言ってはいない。そんな中、「現時点におけるわたしの唯一の職業」だと言って憚らない著者の姿勢に、ある種の神々しさを感じる。「全世界のプロレタリアよ、団結せよ!」と結んでいる最後の一行に、胸のすく思いがした。『生活の設計』は、『虹を追いかける男』というタイトルの文庫に収められている。口先だけで思想を扇動するインテリ層とは違い、正しく、本物を感じる一冊である。『生活の設計』佐川光晴・著〔新潮新人賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.104)は岸田秀の「ものぐさ精神分析」を予定しています。余談ながら、この作品は30年以上も前に出版されたものがずっと版を重ねられて、ロングセラーを誇るものです。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.14
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【俵万智/トリアングル】◆結婚はしなくてもいいから好きな男の「子」が欲しいと望む女『サラダ記念日』というとびっきり現代的な歌集が売れに売れたのは、すでに20年以上も前のことになってしまった。あのころは、正にバブル全盛期時代。ちょっと軽薄なぐらいのオシャレな感覚がもてはやされたものだ。そんな中、ストレートなだけじゃなく、ちょっと可愛らしく、ちょっとオシャレに恋を歌ったのが俵万智だった。現代若手歌人の代表格と言っても過言ではない。(すでに若手ではないかもしれないが) 俵万智は早大文学部卒で、高校の教員として働いていたのだが、『サラダ記念日』が大ベストセラーとなったことで教員を辞める。代表作に『サラダ記念日』の他に『チョコレート革命』などがある。これまで主に歌集やエッセイを手掛けて来た俵万智が、初めて書いた小説。しかも半自伝的な『トリアングル』は、彼女にとって節目となる一作だったと思われる。あらすじはこうだ。33歳フリーライターの薫里は、ひょんなことから意気投合した7歳年下の圭ちゃんと付き合うことになった。圭ちゃんはバイトしながらバンド活動を続けているビンボーなミュージシャン志望者なのだ。一方、薫里は青山にマンションがあり、そこそこライターとして記事を書きながら何不自由なく暮らしているシングルである。とはいえ、薫里には一回りも年上のMという恋人がいた。Mはカメラマンで、しかも妻子持ちである。そのMとの不倫関係を続けながらも、圭ちゃんという年下のBFにも恵まれ、薫里には何の問題もないはずだった。ところが年下の圭ちゃんが本気で結婚を考え始めていることが、段々と重くなって来た。 薫里は、結婚には興味がなかったのだ。むしろMという愛する男性との間に子どもを儲けたいという願望を持ち始めたのだ。『トリアングル』が文庫化されて、とりあえず買ったのが2006年ごろだったと思う。一読して本棚にしまいっぱなしになっていたところ、今回再読してみた。うん、あのころと感想は全く違う。2006年に読んだ時は、主人公・薫里を取り巻く三角関係への羨ましさとか、「勝手にやってくれー」とか「モテ女の自慢か?」などと思ったものだ。ところが今はどうだ? 思いっきり現代風に、オシャレに苦悩する強がりな女性像となって浮かんで来る。恋愛の対象である男が、イコール結婚の対象としての男とはならず、しかしながらその男の「子」を儲けたいという切実な女性の苦悩として結ばれている、、、ように今の私は感じられるのだ。ものすごく真面目な悩みなのに、なぜか軽薄に思われてしまうのは致し方ない。昭和の不倫小説ならともかく、平成の今、俵万智ほどの著名な作家が書くとなれば、このラインがギリギリのところだと思うからだ。「黒パンとバターと、エシャロットのみじん切り。このエシャロットが牡蠣を食べるときの合いの手として、とてもいい。赤ワインビネガーにひたされていて、ほんのり桜色をしている」「ホワイトアスパラの他には、生ハムとロックフォールチーズのサラダを頼んだぐらいだ」「ラ・メゾン・ド・ショコラというその店では、チョコレートが宝石のように、ショーケースに並べられていた。注文をすると、白い手袋をした店員が、これ以上大切なものはこの世にはない、、、といった手つきで箱に詰めてくれる」この手のバブリーな描写が容赦なく襲い掛かって来るから、読者によっては嫌悪する方や、あるいはしみったれた小説なんか読みたくないという方は、反って好感を持つかもしれない。いずれにしても、今現在、俵万智が結婚することなしに子どもを育てているという、シングル・マザーの立場であることを念頭に置き、この小説を手に取ってはもらえまいか?『サラダ記念日』が音を立てて崩れ(?)、『トリアングル』ではそこに一人の生々しい女の性を見つけることになるだろう。これは、俵万智ファンに突きつけられた踏み絵となる一冊かもしれない。『トリアングル』俵万智・著☆次回(読書案内No.103)は佐川光晴の「生活の設計」を予定しています。なお、この作品は『虹を追いかける男』という文庫本に収められている短編です。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.12.08
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【萩原葉子/蕁麻の家】◆萩原朔太郎を父に持つ子の波乱の人生ゴシップ好きの私はこれまでにあまたの私小説を愛読して来た。誰もがそうだと思うが、リアリティーを感じた時、その小説に深い共鳴を覚えるからだ。 主人公と共に泣き、共に考え、共に笑う。それほどどっぷりと浸かった読書が、果たしてまっとうなものなのかは自分だと判断できないが、少なくともそこから得られたカタルシスは上質なものであると信じている。『蕁麻の家』についての感想を言う前に、この私小説の背景をざっと紹介しておきたい。 主人公の「私」は、著名な詩人である萩原朔太郎の長女である。物語は、その父を洋之介という名前で話をすすめる。母は、子どもたちを置き去りにし、若い男と駆け落ちしてしまった。「私」には、知的障害者の妹が一人と、虐待をくり返す祖母・勝がいた。この背景を知っただけで、私などはすでに救いようのない憂鬱さを感じてしまった。一般的に孫の存在というものは、息子・娘より可愛く、手放しで甘やかしてしまうというのはよく聞く。ところが「私」の祖母は、孫に対する虐待は日常茶飯事で、それを知っているはずの父・洋之介も知らんぷりなのだ。もちろん娘をかばうことなど一切しない。とにかく「私」に対して無関心なのだ。もしかしたら執筆に余念がなく、我が子を顧みる間もなかったのかもしれない。それにしても、、、それにしても父親としての意味、存在意義があまりにも希薄ではないか。そんな背景をふまえつつ、あらすじも紹介しよう。「私」はいつも孤独を感じ、話相手のいない寂しさを抱えていた。家では祖母に虐待され、知的障害を持った妹とは意思の疎通がかみ合わず、度々やって来る麗子(叔母)から悪口や厭味を言われ、日々は暗澹として暮れてゆく。そんな時、氏素性の知れない年の離れた岡という男に声をかけられ、初めて人間らしい会話を交わしてもらえたことで、「私」は体を許してしまう。その後、「私」は岡の子を妊娠。ところが「私」の一族は岡との結婚はもちろん、出産には猛反対。(この時、父・洋之介の反応はない。無関心である。)岡は、どこで知り得たのか「私」の父が著名人であることをかぎつけ、脅迫して来る。(岡は博打で、年中、金に不自由していたらしい)「私」は祖母たちから堕胎を迫られるものの、産婆によるとすでにその時期を過ぎているため、堕ろせないとのこと。「私」は覚悟して出産に望むのだが、結局、死産であった。いろんな私小説があるけれど、これほどまでに凄惨な展開の自伝があっただろうか?とにかく救いようのない少女時代である。どんなにうがった見方をしても、脚色したものとは思えず、全て著者の冷静で客観的な視点から語られたものとしか捉えようがない。苦悩、苦悩そしてまた苦悩。この小説に感じるのは暗く、憂鬱な青春期と、家族に対する不信感である。それなのに最後の数ページで「私」は初めて父の存在により救われる。始終、凄絶な苦闘のくり返しなのかと思いきや、最後の最後に来て一条の光が射し込むのを見る。考えてみれば、父・洋之介も不幸な人である。詩人としては成功したけれども、私生活では、、、まず、妻が若い男と駆け落ち同然で逃げてしまう。さらには、長男でありながら母親に頭が上がらず、やりたいほうだい勝手ほうだいをさせていた。(一家の実権は、完全に洋之介の母が握っていた)二人いる娘のうち下の娘は知的障害者で、当時としてはどうにも手の施しようがなく、成り行きを見守るしかない。そうかと思えば今度は上の娘がどこの馬の骨とも知れないゴロツキの子を宿し、しまいにはその男から金の無心までされてしまう。これまで無関心を装って来たさすがの洋之介もこれにはホトホト参ってしまい、体調を崩し、死の淵を彷徨う。「見よ! 人生は過失なり」(萩原朔太郎『新年』より)さすがは詩人。己の絶望でさえ詩に託すのだから。それはともかく、萩原葉子の硬質でメリハリの利いた文章に、やはり父親のDNAを感じないではいられない。涙なしには読了できないほどに、過酷な人生の記録である。『蕁麻の家』萩原葉子・著☆次回(読書案内No.102)は俵万智の「トリアングル」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』 第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』 第2段はコチラから
2013.11.30
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【呉智英/現代人の論語】◆忙しい現代人必見!論語のアンチョコ本私は物事の概略を捉えることが先決だと考える派である。だから、旧約聖書や新約聖書などは聖書物語を読んで大筋を捉えれば良いと思う。中国の古典である『三国志』も、正史なんか読んだらチンプンカンプンだし、飽きてしまうので、岩波少年文庫から出ている『三国志』で充分楽しめると思うわけだ。何でもそうだが、物事はいきなり本質を見抜けるものではない。まずは外堀を埋めてから徐々に本丸へ乗り込むのが戦法というものであろう。つまり、概略を掴むことから始まるのだ。そこで、日本で最も親しまれている『論語』も、とくに面白いというか、興味深いところをダイジェストに扱った入門で、おおよそのところを捉えていれば良いのではなかろうか?本格的に学問として追究するというならいざ知らず、まずは案内書として呉智英の『現代人の論語』を一読することをお勧めしたい。もし、この入門を読了して益々興味を持ったという方には、吉川幸次郎、宮崎市定、貝塚茂樹らの訳した論語全編を攻めていくというのはどうだろうか? 呉智英によれば、学者によって微妙に解釈が違っていたりするので、その辺は自分の好みで好きな訳者の論語を読めば良いのでは?私が呉智英を知ったのは15年ぐらい前になるだろうか? 宮崎学の『突破者』を読んでいたら、登場した人物なのだ。呉智英は宮崎学と同じ早大法学部であり、マルクス主義の洗礼を受け、それは他に類のない博識だったとのこと。しかも「堂々たる美男子だった」と。呉智英の見事な発想と爽やかな弁舌に、かの宮崎学も一目置いているような節に、とても興味を持った。私は、そんな呉智英の著書を何冊か読んでみた。驚いたのはその読み易さと面白さだ。 今まで遠ざかっていたジャンルの読書が、格段に広がった。スゴイぞ呉智英、、、みたいな感覚である。呉智英は、今やマルクス主義ではない。孔子主義である。そしてその解釈は、私のような凡人にも噛んで含むように分かり易いものだ。そもそも論語というものは、「しばしば体制変革期にその拠りどころとなった」とのこと。つまり、クーデターを起こす際のバイブルとなったものなのだ。これは論語を知ることで、憑き物が落ちたように納得できることである。また、孔子は現世利益に関してとても合理的に考える。「もしもあなたが豊かで地位が高かったとしても、べつに恥じることではない」と言う。これが仏教だったらどうだ。「世俗の価値などみな空虚でとるに足らないものだ」と言うし、キリスト教なら「地上に宝を貯えてはならない」と言う。これらを比較してみると、一目瞭然。いかに孔子の思想が現実主義であるかが分かると、著者は言う。孔子の教えが一番、素直に受け入れられる生き方のスタイルではないか、と日本人ならほとんどの方々が思うに違いない。かの親鸞でさえ、論語からの思想を自分なりに解釈して民衆に教え、広めているのだから。余談だが、孔子の弟子の中に子路という人物がいるのだが、私はこの人物が大好きだ。 中島敦の『弟子』に登場するあれだ。この子路は内乱に巻き込まれて結局、非業の死を遂げるのだが、最期のセリフがカッコイイ。「見よ! 君子は、冠を、正しうして、死ぬものだぞ!」その後、子路の屍は塩漬けにされた。これを伝え聞いた孔子は、家じゅうの塩漬け肉の一切合切を捨てさせた、、、というくだりに、師の並々ならぬ悲哀と憤りを感じる。とにかく、呉智英の『現代人の論語』には知っておきたい論語の中のあれやこれやがギュッと凝縮されていて、ありがたい。この一冊を決して侮るなかれ! 知識と教養の宝庫なのだ。『現代人の論語』呉智英・著☆次回(読書案内No.101)は萩原葉子の「蕁麻の家」を予定しています。★吟遊映人『読書案内』第1段はコチラから★吟遊映人『読書案内』第2段はコチラから
2013.11.23
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【落合恵子/母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~】◆親一人子一人の環境が直面する介護記録これからますます高齢化社会に拍車をかける世の中へと突入していくわけだが、その中で“介護”という問題は切実な課題として人々の肩に重くのしかかっていくのは間違いない。皆が皆、元気で長生き、臨終はポックリ、、、という具合ならまだしも、そんなのはほんの、ほんの一握りだ。大多数のお年寄りが何らかの病気を患い、医療機関の世話になり、そのうち寝たきりになって要介護者となる。そして、本人が望んでも望まなくても長く生命を維持され、やっとあの世からお迎えが来た時には、介護生活に疲労困憊の家族らが安堵の胸を撫でおろすという始末なのだ。巷には壮絶な介護体験記や、ご本人による闘病記などが五万と出版されている。そんな中、人権問題、ジェンダー問題に取り組んで来たフェミの論客である落合恵子のエッセイは、ひときわ優れていることに気付いた。私の周囲を見回した時、高齢の片親とシングルの子という図が意外に多いのだ。つまり、“親一人子一人”という形態である。兄弟姉妹がいないから、たった一人きりの子に全ての責任がのしかかる計算になる。その子が結婚していたら、また状況が違うかもしれない。あるいは、子がおらず、天涯孤独の身だったらまた違うだろう。問題は、片親とたった一人きりの結婚していない子の環境である。落合恵子はシングルである。しかも一人っ子である。そんな彼女がたった一人で背負った介護ドキュメントを、興味本位だとしても覗いてみる価値はあるのではなかろうか?多発性脳梗塞、パーキンソン病、一方の腎臓の機能不全、、、その後、サード・オピニオンを別の病院で求めたことで、アルツハイマー病であることが発覚したという経緯。3年間もパーキンソン病だと思って通院、入院をして来たことで、アルツハイマー病の治療を遅らせてしまったのだ。(周知の通り、アルツハイマー病は、手遅れになると薬剤が全く効かない)この時の落合恵子の憤りやら無念さを想像すると、胸が痛くてたまらない。また、我々が認識しているはずの「医療はサービス業である」ということについても、医師は「そのことを忘れている、あるいは覚えている風を装いながら権威にしがみついている」と、落合恵子は糾弾する。そのとおり!母親が二度目に入院した時、担当したのは研修医だったとのこと。おそらく、この時のセカンド・オピニオンに納得がいかなかったのであろう。ふんまんやるかたないと言った感情の矛先が、文章に表れている。その中の一部を引用しておく。〔彼の言うことをただ黙って聞いているときは機嫌よく、極めて饒舌で穏やかな口調だが、少しでも質問をすると(自分が嫌になるほど、そんなときのわたしの口調は卑屈になっている)、彼は反射的に身構え、攻撃に転じ、びっくりするほど怒り出す。〕※ここでの「彼」は、研修医のことをさす。私はこの文章を読んだ時、思わずこの研修医に対して激しい憎悪を覚えた。患者を人質に取られ、思うことの半分も言えないでいる家族の立場を考えたことがあるのか?!医者という立場にあぐらをかいて、ストレス解消の弱い者いじめに過ぎないではないか!無論、世の中には立派なドクターはたくさんいると思う。だが、そうは言っても中にはこんな権威主義の研修医が現実には医師となって一人立ちしていくのだから、手に負えない。もうどうしようもない絶望的な気持ちになる。落合恵子は、読者に問うている。医療と向かい合った時、そこに不安や不信や疑問を見つけてしまった時、皆はどのように乗り越えていくのかと。「ほどほど」であきらめるしかないのだろうか?落合恵子だからこそ発信することのできる医療の実状、介護の現場をこのエッセイから読み取ることができるのは、大変ありがたい。苦悩を抱える多くの人々を代弁し、根本的な国の福祉の見直しと、医療のありかたの検証を呼びかけるところで結ばれている。さすがは落合恵子。お涙ちょうだいでは終わらない。介護者、必読の書である。『母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~』落合恵子・著☆次回(読書案内No.100)は呉智英の「現代人の論語」を予定しています。コチラ
2013.11.16
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【夏樹静子/蒸発】◆時刻表を穴の開くほど凝視せよ!鉄道系サスペンスの先駆け「“蒸発”って言葉はもう死語だよね?」という友人の意見を検証しようと、試しに高校生の息子に訊いてみた。「蒸発って知ってる?」「知ってるよ。水とかが気体になることじゃん」「うん、そういう意味の他にもう一つあるんだけど」「知らん」そうなのだ。もう平成世代には“蒸発”が通じないのである。人知れずこつ然と姿を消すことを“蒸発する”というのだと説明して、やっと納得してもらえる始末なのだ。驚くほどのことではないかもしれないが、こうやって言葉はいにしえの(?)言語となっていくのかと痛感した。そう言えば、職場で「○○さんまだシングルなんだって」という噂話になった時のこと。すかさず「独身貴族ですね」と話に加わったらゲラゲラ笑われてしまった。もちろん笑ったのは私より年上の先輩ばかりで、若い子はノーリアクション。“独身貴族”という言葉も、いまや死語である。話が逸れてしまい、恐縮。さて、夏樹静子の『蒸発』について。この作品はかなり古い。40年ぐらい前に発表されたものだ。今読むと、ある意味ノスタルジーで昭和を感じる。時代性は否めないが、その分、一人一人の熱っぽさ、つまり人間味をたっぷりと感じさせてくれる小説なのだ。言うまでもなくミステリー小説だが、半分は不倫小説だ。単なる浮気などではなく、本気の不倫だから読者もついつい主人公に肩入れしたくなってしまう。とはいえ、くどいようだが不倫は不倫だ。話はこうだ。ある日、札幌行きの飛行機で不思議なことが起こった。東京を出発する時は間違いなく満席だったはずなのに、12-C席だけ乗客がいなくなっているのだ。そこには確かに女性が乗っていた。スチュワーデスらは慌ててあちこちを探し回るが、結局、トイレにも入っておらず、現代の怪談として片付けられてしまった。一方、ジャーナリストの冬木は、妻子のいる身でありながら朝岡美那子と不倫関係にあった。美那子も、銀行に勤務する夫と6歳になる息子のいる立場だった。ところが冬木は仕事でベトナムへ行くこととなり、前線での取材中、銃撃を受けて重傷を負った。情報の錯綜する中、日本には冬木がほぼ絶望的なように報じられた。その後、奇跡的に回復した冬木は野戦病院を退院し、自分の生還を伝える一報を東京へと打電した。東京で妻子との再会を果たす冬木だったが、心のひだに刻み込まれたのは美那子の面影だった。そこで自分の本当の気持ちに気付くと、どんなことがあっても美那子と一緒になりたいと思うのだった。ところが美那子は、どこへ消えてしまったのか冬木の前から蒸発してしまった。美那子の夫も息子の手を引きあちこち探し回るものの、何の手がかりもなく時だけが過ぎてゆく。そして美那子の蒸発は、いよいよ事件へと発展していく。ミステリー小説としてのおもしろさを味わえるのは、何と言っても列車のトリックであろう。時刻表などを熟読する方々にはワクワクするようなアリバイ崩しの瞬間ではなかろうか?現在では、鉄道系サスペンスを得意とする西村京太郎に持って行かれた感があるけれど、40年前は斬新なトリックだったのだ。さらには、おいそれとハッピーエンドでは終わらないラストにも好感が持てる。著者である夏樹静子が、当時の社会風潮としてのウーマンリブを皮肉った点も同感。『「母性離脱」を叫んでいたシュプレヒコールが、なぜかもの悲しい響きを伴って、彼の耳底に蘇った』という一文にグッと来た。こういう推理小説を書ける人が、最近はあまりいないような気がするので、よけいに勧めたくなってしまう。1970年代を知る風俗史的な役割も担っている、社会派推理小説である。『蒸発』夏樹静子・著☆次回(読書案内No.99)は落合恵子の「母に歌う子守唄~わたしの介護日誌~」を予定しています。コチラ
2013.11.09
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【酒井順子/負け犬の遠吠え】◆高学歴・高収入・独身女性の抱える苦悩と開き直り“負け犬”という流行語まで生み出した話題の本を、今ごろになって読んでみた。この本がベストセラーになったのはすでに10年も前のことである。今さらだがここで言う“負け犬”の定義とは、「30代以上・未婚・子ナシ」の女性のことだ。(オスの負け犬についての記述もあり)心当たりのある方は、居心地の悪い思いをされるかもしれない。でも大丈夫。この本はそういう方々を非難するものではなく、「負け犬ですけど、何か?」と、むしろ開き直ってみせるエッセイなのだ。『負け犬の遠吠え』の著者が視野に入れている“負け犬”というのは、高学歴・高収入で、しかも見た目もなかなかという女性である。実際、都会に行けば行くほどそういうインテリ美人は多いはずだ。私のようなド素人がちょっと考えただけでも「それは難しいなー」と思うのは、自分の力で生活できて、異性に対する依存から解放されている女性がわざわざ結婚というイバラの道を選ぶわけがないと思うからだ。(イバラの道というのはちょっとオーバーな言い回しだが)「私は結婚なんてしないわ」という何らかの思想とか信念によるものではなく、結婚したいと思う相手が見つからないからたまたましないだけでいる負け犬の方々に、「理想が高すぎるせい」だとか「完璧主義だから」だなどと決め付けるのは余りに酷な話だと思うわけだ。だから、著者の発信する一つ一つの事柄や事象に、素直に肯かずにはいられない。例えば、「“私は貧乏な主婦だけど、でもとりあえず現時点で結婚はしている。負け犬ではないのだ”ってところを心の拠り所にして、頑張っている」という記述があったが、これはそのものズバリだと思った。考えてみると私の周囲にいる負け犬の友人は、とても真面目で真摯に生きている。決して贅沢な暮らしはしていないが、知的だし、質の高い自分磨きに余念がない。反って、自営業のカレと結婚して二児の母親となった友人の方が、姑との関係悪化と子育ての悩みなどを抱えていて、何やら切実に思えてしまう。まぁ、実際のところそれぞれに良い面、悪い面があって、甲乙つけがたいけれど、それでも30代以上・未婚・子ナシの友人を“負け犬”と呼ぶのは抵抗があるぐらい充実した生活ぶりだ。著者・酒井順子の言うように、そんな負け犬は現代日本において、家庭を持たないことはまだまだ罪悪なのだ。だから結婚もせず、子どもを産み育てていないような女性はずっと自分で自分を正当化しつつ生きていかなくてはならないらしい。実際は、お金も時間も自分の自由にできる負け犬らは、どこかで勝ち犬らに遠慮し、気を使いながら、「すみませんねぇ、私、負け犬なんで」と、あくまで下でに出て、相手を立てることを忘れない。先々のことを考えると、やっぱり寂しい独身女は同情される対象になりやすいようだが、いくら結婚していても老後になって嫁にいびり倒され、孤独で虚しい晩年を過ごす勝ち犬(?)も少なくはないことを知ると、「どっちもどっちだなー」とつくづく思ってしまう。大切なのは、どちらの生き方もお互いに尊重し合うということだろうか?読み易い文体と現代社会に即した内容は、読者を選ばないので、とりあえずの一読をすすめたいエッセイである。『負け犬の遠吠え』酒井順子・著☆次回(読書案内No.98)は夏樹静子の「蒸発」を予定しています。コチラ
2013.11.02
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【村上龍/インザ・ミソスープ】◆唯一絶対の神が不要の国つい最近のことだが、テレビを点けたらお見合い番組のようなものをやっていた。嫁不足の地域に全国から募った独身女性がやって来て、その村の男性と集団お見合いをするという内容だ。驚いたのは、その村に在留する青い目をした外国人青年に群がる独身女性の多さだ!外国人がお見合いに参加するのは全く問題はない。気になったのは、他にたくさん日本人男性がいるにもかかわらず、あえて外国人青年と懇意にしたいと希望する日本人女性がうじゃうじゃいたことだ。メスという種族は、本能的に種の保存をインプットされた動物であるから、優れたオスを求める傾向にあることは当然知っていた。それにしてもだ、これほどまで西欧人へのあこがれが強いというのは、島国日本ならではのことかもしれない。日本人というのは、自分で意識する以上にコンプレックスの塊を抱えている民族かもしれない。それは遺伝子レベルのもので、ふだんはそれほど感じていない。でも、ついこないだまでちょん髷を結い、お歯黒を塗ったりしていた歴史を持ち、幕末になって「これじゃいかん」ということで、死に物狂いで西欧文化を取り入れ、物凄いスピードで近代化に成功した他に例を見ない国家なのだ。言わば、これまでの武家社会を断ち切り、伝統を中断してしまった背景を持つことで、底知れぬ劣等感を背負ったと言っても過言ではない。それをひた隠しに隠し、必死に生きて来た民族、それが日本人なのではなかろうか。だから、それが子々孫々まで青い目をした異人に対する憧憬の念と、嫉妬と、いろんなものがない交ぜになって現在に至るのかもしれない。前置きが長くなった。『インザ・ミソスープ』では、うだつのあがらない二十歳の青年ケンジが、外国人相手に性風俗のガイドをする中で、事件に巻き込まれて行く。ストーリーはこうだ。ケンジはそれほど得意とはいえない語学の知識を利用し、外国人相手に性風俗の案内通訳を生業としていた。ある日、フランクと名乗るアメリカ人から依頼を受け、12月29日~大晦日までの三日間を性風俗の店をあちこち案内して回ることになった。フランクは、とにかく驚きを隠せないでいた。というのも、日本という国が、ありとあらゆる手段で性的欲求に対処している国だったからだ。ケンジは、フランクをさっそく新宿歌舞伎町に連れて行くことにした。その際、ケンジが気づいたのは、フランクが何らかの事情で嘘をついていること、そして得体の知れない奇妙な男であることに、いつになく違和感を覚えた。こういうビジネスを続けていると、様々な個性とか特徴を持った外国人と関わるものだが、このフランクはこれまでにないタイプで、一抹の不安を感じた。それでもケンジは、ビジネスに穴は空けられないので、フランクをランジェリーパブに連れて行ったり、覗き部屋にも連れて行った。女が舞台の床に横になって、全裸で足を広げ、目を閉じて、小さく呻き声を洩らすのをひたすら見るのだ。だがフランクは、氷のような冷たい視線を送るだけで、さほど楽しんでいるようには見えない。帰り道では、様々な日本における不可思議なことをケンジに質問してくる。アジアの貧しい国でもない豊かな日本の女子高生が、なぜ売春をするのか?日本のビジネスマンは過労死するまでどうして働く必要があるのか?家族の幸せのために働くのに、どうして単身赴任というシステムがあるのか?それに対し、どうして誰も異議を唱えないのか?だがケンジは、何一つまともに答えることは出来なかった。その後、歌舞伎町では女性のバラバラ死体が発見された。この数日のうち、すでに二件目である。死体は乱暴された痕跡があり、胴体から首、両手、両足が切断され、ビニール袋に入れ、捨てられていた。ケンジは、その記事を新聞で読むやいなや、もしかしたら犯人はフランクかもしれないと、疑惑を持つのだった。この作品は、ホラー小説というカテゴリに分類されるものだが、何がスゴイかと言えば、フランクという青い目をした外国人が次々と無抵抗の日本人を殺害していくという内容だ。無論、これは象徴的なものであり、このアメリカ人青年は強力な破壊力を持った外国勢力を暗示するものであり、優しい日本人を食い物にすることへの警鐘だ。外国人に対し、むやみやたらとヘラヘラ笑って愛想をふりまく日本人の大半に、危機感はない。相手を察することに長けた日本人は、言葉少ない空間を読むことに抵抗はない。だから必要以上の言葉を嫌がるし、反って多くを話すことは面倒に思いがちだ。だがグローバル社会において、それは負の作用しか生み出さない。自分の意志をはっきりと伝えることのできない人間は、世界を生きていくことはできないのだ。“NOと言えない日本人”と言われる所以でもある。この小説が上梓されたのは、すでに15年以上も前のことだが、現状はほとんど変わっていない。当時マスコミなどで騒がれた“援交”とか“オヤジ狩り”などの言葉は余り聞かれなくなったが、実際のところはどうなんだろう?日本は、他国にはない思いやりや優しさを持ち、気配りのできる国である。これは世界に誇れる日本人の気質だ。しかしながら、それは裏を返せば他者に対する緊張感とか危機感がないことのあらわれでもある。歴史的なものを少しだけ考えてみよう。この日本という国は、幸いにも他民族による大虐殺を受けたり、国を追われて難民になったり、独立国家を目指すためにクーデターを起こしたりなど、まるでない。目の前に敵が現われ、肉親を殺され、婦女子が犯され、あるいは異なる言語を強要されたりすることも一切なかった。こんなに恵まれた国家は、この地球上において日本以外にあるだろうか?他の国々は、それはもう侵略と混血の歴史を繰り返し、神にすがって生きるしか他に術がないところまで辛酸と苦杯を嘗め尽くしているのだ。だからこそキリストやマホメットの存在がある。これが宗教なのだ。その点、日本には唯一絶対の神の必要性はなく、森の大木でも山の岩でも先祖の霊でも何でも神に成り得た。これは西欧人がイメージする神とは全く異質のもので、もっと漠然とした対象である。 我々が強い日本を目指す時、まずは根本的な宗教観からして変えなくてはならない。というのも、強い神を背景に持った時、初めて日本人はぬるま湯から脱却し、捨て身の覚悟で世界と対等な立場に挑む度胸が生まれるかもしれないからだ。侵略と混血の歴史を持たない日本は、国際的な理解の基本に弱い。外交に弱い所以だ。 そんな日本人がこの先出来ること。それは、『インザ・ミソスープ』にもあるように、NOと言える強さを持つこと。そして自国の弱点をちゃんと認識することから始まる。つまり、歴史を知ることだ。とにもかくにも歴史をひもとこうではないか。歴史を知らなくては、世界における日本の立ち位置すら見誤ってしまう。『インザ・ミソスープ』は、世界から見た日本のありのままをホラー仕立てに表現した作品だ。この小説を読み、今後の日本のあり方を考えてみるきっかけになればと思う。『インザ・ミソスープ』村上龍・著『限りなく透明に近いブルー』~70年代の若者の、無謀で刺激的な風俗描写~コチラから☆次回(読書案内No.97)は酒井順子の「負け犬の遠吠え」を予定しています。コチラ
2013.10.26
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【百田尚樹/夢を売る男】◆金さえ出せば、あなたも立派な作家の仲間入り!?プロの作家、つまり読者を喜ばせるテクニックを持つ物書きは、意外と少ないかもしれない。もともと小説や演劇などは、抑圧された自己の解放とか思想的な表現手段みたいな傾向が強いので、誰かを楽しませるというよりは自己満足の域を出ないことが多々ある。主義主張が明確なのは結構なことだが、一部の評論家とかインテリな方々を別にしたら、大多数の人々が小説を娯楽として読んでいるはずだ。つまり、カタルシスを感じることで本を読むことの楽しさを実感するわけだ。こういう読者サイドの心理をちゃんとわきまえて、おもしろい話を披露してくれるのが、百田尚樹である。私の周囲の友人、知人らが「今、来てるよね? 百田尚樹」と、それぞれに絶賛するので私も読まないではいられなかった。百田尚樹が小説家として名前が売られるようになる前から知っている友人が教えてくれたのだが、なんともともとこの作家は、さるラジオ番組のハガキ職人(?)だったようだ。せっせとハガキにおもしろいことを書いては投稿し、採用されることが病みつきになり、結果として「こいつはおもしろい」というので放送作家としてデビューしたという経歴を持つらしいのだ。(友人Sさんのうんちくより)そんなわけで今日の百田尚樹が存在するのだが、代表作に『永遠の0』や『海賊とよばれた男』などがあり、後者は本屋大賞を受賞している。(ウィキペディア参照)さて、『夢を売る男』の話はこうだ。世の中には五万と作家を夢見る人々がいる。ある若者は、スティーブ・ジョブズにあこがれてビッグな男になりたいと思っている。フリーターをやっているが、いずれは自由気ままにアメリカを旅して自分さがしをしてみようと思っていた。そんな中、本物の自由人である自分のことを理解してくれた(?)丸栄社の編集者・牛河原から「小説を書いてみないか?」と勧められる。ジョブズのようになるための努力もせず(それは努力というものに自由を奪われるので、あえて無駄な努力はしないという自分なりの理由がある)、かといって具体的な目標があるわけでもないのに、渡米して自分さがしをしようとする若者。あえてフリーな立場でいるのは、人生の大きなチャンスの時に身動き取れない状態ではマズイという信念のため。そんな若者を、牛河原はおだて、持ち上げ、その気にさせ、出版契約にこぎつける。また、ある団塊世代の男は、丸の内の一流企業で働いていたという経歴の持ち主で、これまでの自分史を出版したいと、契約する。さらにある主婦は、子どもに英語の早期教育を受けさせ、都内の難関私立小学校を受験させようとしていた。そして、これまでのプロセスをつらつらと綴っていた。タイトルは『賢いママ、おバカなママ』である。小学校合格と同時に出版するのを目標にし、丸栄社の教育賞に応募した。このような、世間にありがちな、金と名声の欲望にとり憑かれた作家志望者と、牛河原はカリスマ的な話術で出版契約を結ぶ。それは、ジョイント・プレス方式と言い、出版社と契約者が折半して(?)本を出すというやり方だった。この小説は、見事に作家志望者の現実をあらわにしてくれた。なるほど、と肯かずにはいられない赤裸々なものを感じた。決してノンフィクションではないのに、まるで見て来たように記述されている文章の端々に、真実を見たような気がした。ライターを目指している方々、騙されたと思って読んでいただきたい。一攫千金をねらっているなら、宝くじを買った方がよっぽど可能性が高いことが分かる。 小説を書いて、村上春樹みたいになろうと思ったら、とんだ思い上がりもいいところだとダメだしされる。自分の活字が本になるだけで良いのなら、町の印刷屋さんに行くか、出版社を訪ねて自費出版するのが一番早い!!お金さえあれば、本だって出すことが出来るのだから、地道に働いてお金を貯めて、それから出版社の門を叩くのが良いでしょう(?)あれ? 目的は本を出すことだったのか、それともお金持ちになることだったのか?おもしろおかしく人間の醜い欲望を突きつけられるから、実はシリアスな内容なのに、ラストはほんわかしてる。嗚呼、やっぱり百田尚樹はプロだな! これは正真正銘、本物の小説です。『夢を売る男』百田尚樹・著☆次回(読書案内No.96)は村上龍の「インザ・ミソスープ」を予定しています。コチラ
2013.10.19
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【原田宗典/『優しくって少しばか』より「雑司ヶ谷へ」】◆恋愛サスペンスの先駆けはこれだ!この短編は『優しくって少しばか』と題された短編作品集に収められた一つなのだが、原田宗典の持ち味をギュッと濃縮した小説に仕上げられていると思う。ある意味、サスペンスなのだ。主人公の男も頼りなくてひどく曖昧だが、女もどういうわけか余り魅力的には描かれていない。むしろ、イラッとする。ところが、巷に転がっている恋愛ドラマは、この手の不気味さを伴うものの方がリアリティを増すから不思議だ。恋人が妊娠を告げた時、素直に喜べる男がどれほどいるだろうか?強がってはいても、中絶を回避したい女はどこまでも男に食い下がる。一方、男の方では醜いまでに無関心を装う。既成事実を自分のこととしては受け入れ難く、まるで他人事のように曖昧にぼかしてしまうのだ。この一連のプロセスを、短編小説の技巧を駆使して表現した原田宗典は、間違いなく名手である。妊娠という事実を、サスペンス風にアレンジしてしまうのだから。原田宗典は早大文学部卒で、『おまえとは暮らせない』がすばる文学賞に入選。バブル期には一躍脚光を浴びた。最近ではエッセイストとしても注目を集め、『十七歳だった!』というエッセイが集英社文庫のナツイチ(夏の一冊)として選ばれている。代表作に『平成トム・ソーヤー』などがある。『雑司ヶ谷へ』のストーリーはこうだ。主人公の「ぼく」は、二週間前に、恋人の比呂美に中絶をさせていた。二人の関係はギクシャクしながらも、いまだに続いている。そんな中、比呂美は「雑司ヶ谷へ行きたい」と言う。マンションの窓辺に立ち、目白から池袋にかけての街並みを見渡しつつ、比呂美が見当違いな方向を指して、「あそこが雑司ヶ谷ね?」と言うので「ぼく」は違うよと言いかけて、思わず全く別の寺院を教えそうになってしまった。東池袋にあるその寺院は、「ぼく」と比呂美の子どもが眠っていたのだ。中絶した子の埋葬先など普通なら知らなくて当然なのだが、当日、病院の受付で比呂美が尋ねていたのを偶然耳にしてしまい、池袋のM寺であることを知ってしまった。「ぼく」はほんの気まぐれで散歩がてらM寺を訪れていた。もちろん一人でだ。なかなかM寺を見つけられずにウロウロしていたところ、誰かに聞くのが一番手っ取り早いとは思ったが、「M寺? ああ、あの水子のね」と後ろ指さされた気分を味わいたくはなかったので、自力で探し当てたのだった。そんなことがつい最近あって、今日は比呂美が一緒に雑司ヶ谷へ行きたいと言う。一体何をしに行こうと言うのか、皆目見当のつかない「ぼく」だった。この作品に、幽霊などは決して登場しないけれど、ある種の不気味さを感じるのは何故だろう?女の怨念みたいなものが、そこかしこから漂っているのだ。恋愛のラストが再生を祈る爽やかな男女の別れとして表現されていないのは、作者の意識的な作為を感じてしまう。平成版の怪談としても、充分に読み応えのある短編集である。表題作である『優しくって少しばか』以外は、全てサスペンスだ。バブル期の華やかさと、気だるいムードの根底に音もなく流れている血生臭い汚物の悪臭が放たれている。嘘っぽい恋愛ドラマに飽きた人は、この短編集を読んで、恋愛に決して答えなど見つからないことを知って欲しい。余談だが、作者である原田宗典は、本年9月に覚醒剤取締法違反で、現行犯逮捕されている。一読者として残念でならない。『優しくって少しばか』原田宗典・著より収録作品「雑司ヶ谷へ」☆次回(読書案内No.95)は百田尚樹の「夢を売る男」を予定しています。コチラ
2013.10.12
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【伏見つかさ/俺の妹がこんなに可愛いわけがない】◆オタク文化を理解するための入門書これからますます純文学が先細りとなっていく中、ほぼ安定した読者層を維持しているジャンルがある。それが“ライトノベル”と言われる、軽いタッチの読み物である。純文学と明らかに異なるのは、やけに長ったらしい風景描写や、取って付けたような比喩が使われておらず、会話など日常の話し言葉そのままをセリフにしている点だろうか。内容も現代の世相を反映しているのがほとんどで、サブカルチャーについてざっくり知りたい時などは、今の時点で一番売れているライトノベルを読めば、概ね理解できる、かもしれない。数年前からずっと気になっていた小説、それがこの『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』のシリーズである。(略して『俺妹』おれいも)「とにかく売れに売れまくっているではないか。一体何なんだ?」漠然とした感想だが、最初はそんな感じだった。好奇心だけは人一倍旺盛の私は、友人にその話をしてみると、「あ、それなら持ってる」とのこと。さすがはサブカルチャーの最大与党であるオタク文化を知り尽くした友人である(笑) さっそくお借りして読んでみることにしたわけだ。ライトノベルの有りがたいのは、とりわけ考えさせられる深い意味合いもなく、さくさくと読める点だ。『俺妹』についても、表紙のイラストからイメージされるような、もえもえした内容ではなく、青春小説に代表されるようなギラギラした熱血漢を削除した、口当たりスッキリ爽やかな今どきの若者をモデルにした読み物となっていた。あらましはこうだ。主人公の高坂京介は、17歳。ごく平凡な高校生である。妹・桐乃は14歳の中学生。地味でフツーの兄に対し、妹の方は中学生に見えないぐらいの大人びた雰囲気、人目を惹く端正な顔立ち、茶髪にピアス、マニキュアを塗った、イケてる女子中学生だ。とはいえ、学業は優秀で申し分のない優等生である。ところがある時、京介は家の玄関の片隅で、桐乃が落としたらしいDVDを拾う。そのDVDはR-18で、しかも「妹と恋しよっ♪」と題されたアニメパッケージであった。頑固で堅物な父親に見つかったら大変なことになると、とりあえず京介が拾っておくことにした。ほとんどこれまで兄妹で口をきくこともなかったのだが、このことがきっかけで桐乃は、誰にも言えなかった秘密を打ち明ける。それはなんと、正真正銘のオタクで、コレクションしているDVDはぼう大な量だったのだ。しかも、男の京介が面食らってしまうような、半裸の女の子が身体を抱いて恥らっているといういかがわしいパッケージのものが、押入れの中にぎっしり詰め込まれていたのだ。聞けば桐乃は、学校ではファッション・リーダー的存在で、オタクなんかこれっぽっちも興味のない体裁を取っている。だから大好きなアニメについて思う存分話し合える友だちが一人もいないという悩みを抱えていた。そこで兄として、どんなアドバイスをしてやったら良いものか、京介はあれこれ提案してやるのだった。この小説のポイントはやはり、オタク文化への理解を促すものであろう。とても単純なことのようだけれど、実際問題、アニメというのはピンキリで、ジブリの描くような世界的にも評価の高いものからいかがわしい成人向けアニメ、あるいはゲームアニメまで様々だ。だから十把一からげに「アニメだなんて、キモイ」と、低俗に見てしまうのはとても危険である。今や日本のアニメから世界のアニメとしてクール・ジャパンの代名詞ともなっている文化。このサブカルチャーをざっくりと理解する上でも、一読する意味はあるかもしれない。 漠然とした感想で恐縮だが、あえて言わせてもらうなら、純文学にはなかった明るく前向きな世界観を、万人に広めてくれる役割を担うものに違いない。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』伏見つかさ・著☆次回(読書案内No.94)は原田宗典の「優しくって少しばか」を予定しています。コチラ
2013.10.05
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【司馬遼太郎/『国盗り物語』第四巻 織田信長 後編】◆比叡山を焼き尽くす男、織田信長『国盗り物語』全四巻を読み終えて感じたのは、厳しく辛らつな戦国時代の凄まじさである。日本の歴史において、これほどまで改革が徹底的に進められたのは、この戦国期以外では明治維新の時ぐらいだろう。元来ブランド好きの日本人は、人物の持つ才能や人柄よりも血統を重んじて来た。いわゆる身分社会である。ところが戦国の世の中に突入したところで、ブランドの持つ脆さ、浅はかさがあらわにされ、才能とカリスマ性を持つ人物らによって打って変わるのである。これは、現代社会に置き換えるなら、バブル期の崩壊にも似ている。それまで多くのブランド商品が高価な値で売り買いされて来たところ、ある日を境にその価値を失ってしまう。そして人々は、大切なのは機能性に優れていること、自分が本当に欲しているものなのかをじっくりと吟味するようになったのだ。商品の持つ知名度に、易々とは引っ掛からなくなったわけだ。日本人はそのような歴史をくり返して今日に至る。戦国時代は、新しい日の本の国を建設する上で、どうしても必要だった改革の時代である。結果として伝統の破壊が遂行されてしまったが、これも致し方ない。「あの時、あんなことなどしていなければ・・・」と、後世どれだけの人々が悔やんだところで、時間は取り戻せない。ならばせめて、先人の犯した過ちを二度とはくり返さないよう肝に銘じて、歴史の点となって邁進してゆきたいものだ。第四巻での話はこうだ。駿府の今川義元が大軍をあげて上洛を果たそうとしていた。尾張の織田信長の率いる小国は、木っ端微塵に踏み潰されるのは、目に見えていた。しかし天は信長に味方した。桶狭間の戦いにおいて、激戦の末、今川義元の大軍を撃破するのである。こうして天下にその名を轟かせた織田信長は、いよいよ進撃を開始する。一方、古典主義の明智光秀は、失墜していた足利将軍家を再興し、幕府の権限を立て直すべく奔走した。すでに名ばかりの将軍後継者・足利義秋を打ち立てて、討死を覚悟して戦術の限りを尽くした。義秋の側近は、血統の良さだけがとりえのボンボンばかりで、実戦の経験はなく、皆怖気づいていた。その中でたった一人だけ、冷静かつ沈着に指揮する者がいた。細川藤孝(後の幽斎)であった。義秋は後に義昭と改め、光秀や藤孝の尽力、さらには信長の介添えによって、漸く将軍に任ぜられる。ところがこのころから光秀は、信長との政治上の乖離に悩まされる。元来、信長は中世的な古典主義の打破を目的とし、新しい統一国家を目指していた。将軍とはあくまで名ばかりで、その血統を利用したに過ぎない。信長は政治上の変革だけでなく、経済、宗教上の変革までを視野に入れていたからだ。 翻って光秀といえば、室町幕府の復興であった。中世的な統治機構を再現することに情熱を傾けていた。とはいえ、聡明な光秀は、義昭に残されたものはその血筋の良さだけで、天下をおさめる才覚もなければ権力も持たないことを知りすぎるほど心得ていた。信長は言う。「敵は叡山である」日本国にあって、千年、歴代の天子は叡山を敬い続けて来た。その叡山の歴史、伝統、権威を倒すというのだ。「木や金属でつくったものを仏なりと世をうそぶき騙したやつがまず第一等の悪人よ」 こうして信長は、比叡山延暦寺の焼き討ちを断行する。司馬遼太郎の作品の中で、これだけ鮮やかな改革のシーンが描かれた小説は他にない。 唯物論者である信長にしか出来なかった破壊行為を正当化もせず、かといって否定もせず、日本の歴史上類を見ない天子も恐れる三千の仏が鎮座するという寺を、火あぶりにしたのだから。最近、歴女と呼ばれる歴史好きの女子たちが静かな話題を呼んでいる。彼女たちが圧倒的に支持するのは、やはり信長らしい。神仏などをよりどころとせず、自らの信念を貫いた男らしさに惹かれるのであろうか? それともゲームの中の信長が、余りにイケメンに描かれているせいなのか?いずれにしても、残忍な手法と言えども運命に挑戦してその名を後世に残した信長は見事である。その信長、さらには斎藤道三を生き生きと鮮やかに描いた『国盗り物語』は、歴史ファンにとってのバイブルであろう。万人におすすめの全四巻であった。『国盗り物語』第四巻 織田信長(後編) 司馬遼太郎・著☆次回(読書案内No.93)は伏見つかさの「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を予定しています。コチラ
2013.09.28
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【司馬遼太郎/『国盗り物語』第三巻 織田信長 前編】◆美濃の蝮と呼ばれた男の最期飛ぶ鳥を落とす勢いのあった斎藤道三も、寄る年波には勝てない。いよいよ世代交代の時期が到来する。道三は老いたりと言えども、世の中の動きを的確に判断するのに少しのズレもない。次世代を担う武将が誰なのかを見極める能力は、ズバ抜けたものがある。世間では尾張の織田信長を「うつけどの」と呼んだ。とにもかくにもやることなすこと奇妙奇天烈で、常人には理解の及ばない変わり者だったせいだ。現代ならそれも一つの個性と見なされ、玄人なら「前衛的」とでも評するのであろうが、戦国の世ではそうはいかない。信長は単なる狂人でしかない。だがその信長を誰よりも畏れた人物がいた。それが斎藤道三なのだ。道三は、「これからは信長の天下になる」と予想し、考えた末ではあったが、愛娘である濃姫を信長へと輿入れさせる。第三巻では、この織田信長について大きくクローズアップされ、一方、斎藤道三は我が子・義竜によって滅ぼされてしまう。(諸説あるようだが、司馬遼太郎はこの義竜は道三の実子ではないという設定にしている)話はこうだ。斎藤道三は、愛娘の濃姫を尾張へと嫁がせることに決めた。だが濃姫は、従兄であり名族の子である明智光秀のことが気になっていた。道三も、聡明な光秀なら親として申し分はない。側室との間に生まれた娘ならば、問題なく嫁がせた。しかし、正室の小見の方との間に生まれた濃姫は、どうあっても一国一城の大名でなければならない。それを誰よりも承知している濃姫は、光秀のことが過ぎりながらも、織田家へと嫁ぐ。 その後、道三は息子の義竜に稲葉山城主としての家督を譲り、自分は鷺山の隠居の身となる。ところがささいなことをきっかけに、義竜は自分が道三の実の子ではないことを知ってしまう。これで義竜の腹は決まった。それは、父・道三を討つことであった。美濃の異変を知った信長は、すぐさま道三の援軍に駆けつける手配を整えたのだが、道三からの密使によれば、援軍は不要との返事。「わざわざ婿殿の手を煩わせる必要もない」というものだった。信長にはそれが道三の覚悟の上での戦であることを知った。斎藤道三は、勝ち目のない戦に、娘婿を引きずり込んで共倒れすることに、男の美学が許さなかったのだ。こうして斎藤道三は、家督を譲り一国を任せた我が子によって討ち取られてしまう。歴史小説のおもしろいのは、この時、道三が討たれていなかったらどうなっていただろう?と、あれこれ想像を巡らせることだ。信長と道三は天下取りとしての気質が似ており、相性が良いため、二大勢力を結集したら、あるいは京の都へ上ることも夢ではなかったかもしれない、などと考えてしまうのだ。だがそれはあくまで想像上のこと。事実は道三が討たれてしまったということだ。その後、信長は、血統の良さと教養人で名の通った東海随一の名族、駿府(静岡)の今川義元を桶狭間の戦いにおいて討ち取ってしまう。こうして名家の武将は次々と倒され、織田家や名もなき秀吉のような身分の低い者たちによる下克上の世の中が幕を開けることになる。『人間五十年、化転のうちに較ぶれば、夢まぼろしのごとくなり、一度生をうけ、滅せぬもののあるべしや』信長のやり方が極悪非道だと、その型破りな手法を批難する方々もたくさんおられるに違いない。だが、物事は全て、キレイゴトでは済まされないことの方が多い。所詮、変革と現状維持は相容れないものである。変革には破滅が付きものだが、その先には必ず再生がある。信長による破壊と、秀吉による修正、そして家康による維持が、開国までの日本を形成してゆくことになる。ストーリーはいよいよ、信長が天下を目指して動き出す!『国盗り物語』第三巻 織田信長(前編) 司馬遼太郎・著☆次回(読書案内No.92)は司馬遼太郎の「『国盗り物語』第四巻 織田信長 後編」を予定しています。コチラ
2013.09.21
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【司馬遼太郎/『国盗り物語』第二巻 斎藤道三 後編】◆ビジネスマン必須の書、天下の取り方を学ぶ二巻に入ると、斎藤道三は着々と心願を成就させていく。無論、物事は一筋縄では運ばないことも多々あるので、手間のかかることもある。だが、接近した土岐頼芸に女をあてがい、骨抜きにしてしまうところなど、なかなかの策士である。さすがは斎藤道三、抜かりはないのだ。要するに、上に立つ者などお飾りに過ぎない。実質上の権力をいかにして掌握するかが問題なのだ。美濃の神経中枢を司ることさえできれば、自ずから実力者としての印象が濃厚になる。まずは美濃一国の政治と経済を動かすだけの実権を握る必要がある。それには道三が「城代」という資格を取り、名前だけの守護職ではあるが、あくまで主人は土岐頼芸として置いておくわけだ。もしもこのようなゆゆしき動きがあった際に、主人をこんこんと諫めるだけの参謀がいたならば、よもやどこの馬の骨とも知れぬ斎藤道三ごときにその地位を脅かされることなどなかったであろう。また、頼芸自身が信頼のできる部下の助言をきちんと聞き入れる度量があったならば、この戦乱の世の中も、土岐家は盤石に持ちこたえることができたかもしれない。だが、頼芸にはその二つのうちどちらもが欠けていた。二巻の話はこうだ。土岐頼芸に近付いた斎藤道三は、何とか美濃の国主を頼芸につかせる必要があった。というのも、土岐家の相続争いの際、頼芸は兄の政頼に破れ、勢力を負われていた。道三は、あの手この手を使い、漸く弟の頼芸に守護職を継がせることに成功し、また、頼芸から絶大な信用も得ることになった。頼芸は色欲に溺れ、徐々に行政は道三任せになっていく。その後、道三は美濃の名族である明智家より那々姫を正室として迎えることとなる。この那々姫は、「小見の方」と呼ばれ、やがて女児を生む。この姫君が濃姫であり、織田信長の正室に入るのだ。無能な頼芸も、いよいよ道三の勢力に押されぎみとなり、ここへ来て己の馬鹿さ加減を知る。反道三派を結成し、越前の朝倉や近江の六角に声をかけ、打倒斎藤道三の意志を固めた。 結局、聡明にして戦術に長けた道三に勝てるはずもなく、頼芸はその地位を負われ、尾張の織田を頼るまでに落ちてしまった。こうして斎藤道三は長い年月をかけ、一歩一歩足場を踏み固めて、ついに美濃の「国盗り」に成功したのだ。斎藤道三が美濃一国の主となるまでを振り返った時、そこから学べるものは多い。それは、現代に置き換えるなら、何か事業を起こす時、やはり運転資金は多ければ多いほど良いという明快なプランである。つまり、道三が京で油問屋に婿入りしてばく大なる財産を相続し、元手となる資金を築き上げたことは、将来、いかなる場合にも対応できる、いわばスペアキーを作ったにも等しい。この金が錬金術のように、益々の財を生み出してゆくのだから、金のあるところへ金が吸い寄せられていくしくみも納得できる。さらには、人脈だ。この交友関係が最終的には兵器となるから侮れない。人との付き合いが苦手だなどと言う輩は、所詮、人の上には立てない。人の持つ魅力を知り、時には毒を呑まされながらも人と人との狭間を上手に縫って行かねばなるまい。好きな人とばかり付き合うのは交友ではない。苦手な人からも多大な利を得る交友こそが、人脈へとつながるのだ。しかし、そうは言っても、金があろうと人脈があろうと、これがなければ意味はない。 そう、「情熱」である。何かを成し遂げたいと強く願う情熱こそが、歴史を動かすに違いない。もしも「この仕事で(商売で)成功したい」と思うのならば、斎藤道三のように、自分は成功してどうしたいのか明確なビジョンがなければ達成できまい。天下取りのノウハウをもっと具体的に知りたいと思う方は、ぜひとも『国盗り物語』のご一読を。きっと自己実現への手がかりとなるに違いない。『国盗り物語』(二) 斎藤道三(後編) 司馬遼太郎・著☆次回(読書案内No.91)は司馬遼太郎の「『国盗り物語』第三巻 織田信長 前編」を予定しています。コチラ
2013.09.14
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【司馬遼太郎/『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 前編】◆時代の変革、歴史の動く瞬間を垣間見る!これまで数々の歴史小説を手に取り、そのつど胸をときめかせて来たものだけれど、『国盗り物語』以上に夢中になったものがあっただろうか?もちろん、吉川英治の『三国志』も子母沢寛の『勝海舟』もおもしろかった。だが、いかんせん長い。『国盗り物語』は全四巻となっていて、一・二巻は斎藤道三、三・四巻は織田信長を取り巻く物語となっている。歴史上の人物のあらましを知るには適切な長さとなっていて、読者を飽きさせない。さらには、時代の変革に伴うエネルギーがそこかしこから感じられるのだ。主要人物たちを突き動かす変革への情熱がほとばしり、歴史の動く瞬間を垣間見るような錯覚さえする。驚いたのは、著者である司馬遼太郎がこの小説を書いた時の年齢だ。何と、今の私と同じ42歳とな?!42歳にしてこれだけの表現力、洞察力を持ち合わせ、緻密な調査を繰り返し大作を書き上げた司馬遼太郎という人は、あるいは超人ではなかろうかと、度肝を抜いてしまった。様々な作家が戦国武将の武勇伝をおもしろおかしく書きつらねているけれど、司馬遼太郎の斎藤道三ほど人間臭く、それでいて生き生きと情熱的に描かれたものはないだろう。それはもうとびっきりのキャラクターに仕上げられていて、読んだそばから斎藤道三のファンになってしまうほどだ。その魅力あふれる斎藤道三が、娘婿となる織田信長と出会い、やがてはその意志を信長によって引き継がれていくまでが一・二巻で描かれている。話はこうだ。後の斎藤道三である松波庄九郎は、妙覚寺本山の僧だったが、還俗して今は乞食も同様だった。だが大志を抱いていたから、転んでもタダでは起きない。まずは経済的基盤を固めるために、油問屋の奈良屋へ婿入りを果たす。奈良屋の身代であるお万阿は、庄九郎にとことん惚れ抜いていることもあり、また物分りの良い女であるから、庄九郎の大胆不敵な天下取りの野望に大いに賛同する。その後、奈良屋は山崎屋と名を変え、これまで以上に大繁盛する。経済的な基盤が出来上がると、次に庄九郎はどの国を制するかについて考えた。庄九郎が着眼したのは、美濃である。美濃は名家であるはずの土岐家が腐敗しきっていることで、庄九郎のつけ入る隙を与えた。また、「美濃を制する者は、天下を制する」とも思っていた。そうと決めると庄九郎の行動力は素早い。まず山崎屋の商売を全てお万阿に一任し、自身は身一つで美濃に下った。美濃には常在寺という大寺があり、そこの住職は庄九郎にとって妙覚寺時代の学友であったのだ。庄九郎は美濃についてもっと詳細を知りたいし、名族や豪族を紹介してもらうのに都合が良い。日護上人にしても、京での噂話や、修行時代の思い出話も語り合いたい。何より、上人は大の世話好きであったから、それに甘えて庄九郎は常在寺に長期滞在を決め込んだ。その後、日護上人の兄である長井利隆の紹介を経て、本丸でもある土岐頼芸に接近するのだった。このように、『国盗り物語』のおもしろいのは、ムサいホームレス上がりの男が、それまでに培った知識、教養、交友、経済力の全てをフル活用し、着実にステップ・アップしていくところだ。これほどまでに生きることに貪欲だと、呆れるというより、むしろ圧倒されてしまうのだから不思議だ。斎藤道三の子孫は、どうやらその血統を恥じて、美濃から遠州・浜松へと流れたそうである。だが、後世、この『国盗り物語』の斎藤道三と出合うことでどれだけ救われたことか。斎藤道三は、乱世を生き抜く知恵と勇気を持った人物として、第一巻ではしめくくられている。嗚呼、ページをめくる指先がもどかしい。斎藤道三の豪傑ぶりは、二巻へとつづく。『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 前編☆次回(読書案内No.90)は司馬遼太郎の「『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 後編」を予定しています。コチラ
2013.09.07
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織田作之助が熱いという。毎日新聞の余禄を読んで、何だかとても嬉しくなった(^^)残念ながらNHKのドラマは見ていないが、NHKもなかなかオツではないか。吟遊映人では、かつて「夫婦善哉」 について書いたのだが、毎日新聞のコラム掲載を記念して、コチラも「夫婦善哉」を再アップさせていただく(^^)vまずは毎日新聞のコラムを、そして吟遊映人の「夫婦善哉」のご覧あれ♪~~~~~~~~【毎日新聞 余禄】「二流」というとマイナスのイメージで受け取るのが普通だろう。劣った感じ、負けた印象、ひねくれた雰囲気さえ漂う。しかし、「二流」を自称し、「二流」を掲げた小説家がいた。今年、生誕100年になる織田作之助(おだ・さくのすけ)だ。 戦中戦後を突っ走るように生き急ぎ、33歳で死去した無頼派作家。太宰治(だざい・おさむ)や坂口安吾(さかぐち・あんご)と並称されることも多いが、「織田」や「作之助」ではなく、「オダサク」と呼ばれる。大阪を舞台に無名の男女のさまよう姿を描き続けた作家には、この気楽で身近な呼び方がピッタリなのだ。 「二流」とは権威を嫌ったオダサクならではのいい方だろう。高みに立たないとか、庶民として生きるとか、背伸びしないとか、反逆的だとか、そんな意味も込められている。 出世作「夫婦善哉(めおとぜんざい)」には化粧品問屋の若だんな・柳吉(りゅうきち)と売れっ子芸者・蝶子(ちょうこ)が駆け落ちし、流転の人生を歩むさまが描かれる。最初からごはんとルーを混ぜたカレー、関東煮(かんとだき=おでん)など、大阪のB級グルメが続々と出てくる。オダサクは料理も一流嫌いだった。 この小説がNHKのドラマになり、今夜から放送される(全4回)。演技派の俳優がそろい、人々の喜怒哀楽がどんなふうに新しく演出されるのか楽しみだ。実は2007年に見つかった続編があり、今回はこちらも映像化される。二人が流れていくのは大分県の別府だ。 現代はどうしてこんなに生きづらいのかという声をよく聞く。オダサクなら、ケケッと笑い、「そら、二流になれへんからや」と答えただろうか。「一流」の内実を問い、そのつまらなさを見据えれば、少しは生きやすくなるだろうか。(8月24日付)~~~~~~~~~吟遊映人 読書案内~【織田作之助/夫婦善哉】◆大阪を舞台にした男と女の人情話この作品の著者である織田作之助のスゴイところは、作風が戦後の混沌とした世の中を生きる力強い庶民の姿を描いているように錯覚してしまうのだが、実は戦前に執筆したものだということだ。つまり、戦前の小説にありがちな主義・主張に囚われた、プロレタリア的なニオイが微塵も感じられず、至って健全な純文学なのだ。この理由は、文庫本の巻末の解説によって納得できる。「敗戦による、それまでの“聖戦”が“侵略戦争”と塗り替えられる時代の到来によって、戸惑わねばならない知識人が多かったなかで、作之助は、自分を変える必要が、いささかもなかったのだ」大阪人特有の商売気質と、底知れぬ生活力を表現するというのは、当時の文壇にあって、どんなスタンスだったのか? 革命とか変革を口にするインテリからは、黙殺されていたのではなかろうか?そんな中、作之助の『夫婦善哉』には、やたら金額の記述が目につく。“弁当自弁の月給二十五円”“朋輩へ二円、三円と小銭を貸す”“月謝五円で弟子入り”・・・一体ここまで明記するのはなぜか? それは、「あいまいな思想や信ずるに足りない体系に代るものとして、これだけは信ずるに足る具体性」とのこと。さすがである。一銭の天ぷらを揚げて商売している種吉夫婦はずいぶんと貧乏だったので、娘の蝶子を女中奉公に出すが、その後、本人の意思で芸者にさせる。その蝶子に入れあげたのは、すでに妻子持ちの化粧品問屋の息子・柳吉。この蝶子と柳吉のドタバタ転職生活を綴っている。短編小説なので、何度となく読み返してみたが、なんでこんなボンクラ亭主がいいんだろうか?と、つくづく首を傾げてしまう。だが、世の中こういうカップルは多い。美女と野獣、インテリと無知、そんな凸凹コンピがわりと上手くいったりする例はよく聞く。惚れたはれたの世界は、それほど簡単に割り切れるものではなく、最後のところは情によるものだろう。その男と女の互いに対する情を表現した作品、それが『夫婦善哉』ともいえる。正義だけを前面に押し出した文学に、鼻白む思いをするのはよくあることだが、幸い、織田作品にそれは見受けられない。『夫婦善哉』は、大阪をこよなく愛する大阪人による、伝統的な人情小説といって差し支えないだろう。『夫婦善哉』織田作之助・著《追記》 2012/11/29時節柄でもあり、作者の豊かな情感から出る繊細な一面が表れていると思い、以下に書き加える。「秋という字の下に心をつけて、愁と読ませるのは、誰がそうしたのか、いみじくも考えたと思う」(「秋の暈」から)~~~~~~~~今日から九月、日中はまだまだ一筋縄ではいかないだろうが、それでも夜になれば本を手にしようという気候になろう。オダサクは初秋にピッタリだ。今だオダサクを手にされたことのない方は是非ご一読されることをオススメする。コチラ
2013.09.01
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【佐伯一麦/『鉄塔家族』上・下】◆虚構をまじえない写実的な小説佐伯一麦の小説は大好きで、初期の『木を接ぐ』や『ショート・サーキット』などからずっと愛読している。佐伯一麦の書くものはほとんどが事実で、いわゆる私小説というカテゴリに入るものだ。だから私のように初期のころからずっと“追っかけ”ている読者は、著者のプライベートな日常生活まで覗き見ている錯覚さえして、他人事とは思えない。なんだか身内の近況をあれこれ報告してもらっているような心地になるのだから不思議だ。というのも、著者は若くして結婚し、次々と子どもが生まれ3人の子持ちとなったのだが、作家となる前までは電気工として働き、生活の糧を得ていた。作中(初期の作品)、奥さんという存在はごく普通に登場するし、佐伯の筆致に何ら悪意は感じないけれど、一読者として言わせてもらえるなら「早く別れた方がいい」と、ずっと思っていた。ところがこの『鉄塔家族』や『ノルゲ』を読むと、その妻とは戸籍上でも別れ、新しい妻を迎えて平凡な幸せを手にしたことが分かる。というのも、最初の結婚はあまりに妻がエキセントリック過ぎた。あれでは男の方で心の安らぎが得られまい。来る日も来る日も働き蜂のように工事現場に出向くのみで、喘息の発作に見舞われても体を休めることが出来ないのだ。病院に行きたくても、「これしきのことで」と納得しない鬼のような嫁だ。一方、再婚した新しい妻は、染色家として工房を持ち、細々と個展などを開いて生計を立てている。佐伯にとっても自然の草木を相手に取り組んでいる、素朴で屈託のない妻が、心のよりどころとなっているのがよく分かる。話はこうだ。東北のとある山村に住む斎木は、近くに新しいテレビ塔が建設されることを耳にした。 斎木は5階建ての分譲の集合住宅に、妻の奈穂と二人で住んでいるのだが、その工事の風景がことさらよく見えた。学生用ワンルームマンションの一階に、四季亭という小さな食堂があるのだが、付近にコンビニやラーメン屋などがないことで、工事現場の作業員がこぞって利用した。自販機は補充が追いつかないほどで、売店のおねえさんはくるくると働いた。時折、現場監督の威勢の良い声が斎木のところや売店のおねえさんのところまで聴こえて来た。斎木は今でこそ平凡だがささやかな幸せを手に入れた。染色家の妻・奈穂と共に四季折々の草花や野鳥に親しみ、自身も精力的に執筆活動を続けている。だが別れた妻と住む子ども3人の養育費と、彼女たちの住む家のローンもいまだに払い続けているため、経済的にはかなり奈穂にも負担をかけていた。実は、斎木は、奈穂と結婚する前に自殺騒動を起こしていたのだ。というより、本人も酩酊していたため、どこまで本気だったかは分からない。だが独り住んでいたアパートで、大量の睡眠薬を飲み散らかし、別れた妻と子どもたち、それに奈穂宛の遺書を書き残したのだ。来る日も来る日も自分が住むでもない、妻子に残して来た家のローンと養育費に追われる日々に嫌気がさしていた。もう身も心もくたくたに疲れきっていた。そんな時、深夜斎木からかかって来た一本の電話に不審を抱いた奈穂が、ムシの知らせで山一つ越えて、斎木のアパートにまで駆けつけたのだ。こうして斎木は発見者の奈穂の通報により、一命を取り留めた・・・という複雑な経緯の末に結ばれ、現在ののどかな田舎暮らしに落ち着いた斎木であった。『鉄塔家族』は、テレビ塔の建設と同時進行しながら、主人公・斎木や斎木を取り巻く周囲の人々の苦悩や背景を、それはそれは丁寧な筆致で綴っている。ドラマチックなストーリー展開や大きなクライマックスもない代わりに、ほのぼのとした優しさや明るさが感じられ、とても好感が持てる。唯一、読者に激しい衝撃を与えるところがあるのは、やはり、主人公・斎木が幼児期に受けた性的暴行の告白シーンではなかろうか。無論、フィクションではない。佐伯一麦自身の年譜に、「幼児期に未成年者に性的暴行を受ける」とあるように、事実である。一切の虚構をまじえず、写実的に描かれた著者の赤裸々な小説は、ほとんど芸術の域にまで達している。また、作家になる前まではずっと電気工事士として働いていた経験の持ち主でもあるため、労働者に対する眼差しが優しい。私は、真摯で対象に中立な佐伯一麦の私小説が大好きだ。今後も持病の喘息と上手に付き合いながら、実相をさらけ出した作品を発表していただきたい。『鉄塔家族』上・下 佐伯一麦・著 〔大佛次郎賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.89)は司馬遼太郎の「『国盗り物語』第一巻 斎藤道三 前編」を予定しています。コチラ
2013.08.31
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【枡野浩一/結婚失格】◆ある日突然、離婚を突きつけられた夫の心境を激白著者本人が「書評小説」というカテゴリを生み出し、小説でありながら実在する本の書評がくみ込まれているのは、斬新な発想だと思った。さらに内容はほとんど私小説に近く、かろうじて登場人物の職業などを変えることにより、「これはあくまでも作り事」であるかのように見せかけている。枡野浩一は、現代短歌の歌人であり、それこそが本業であるにもかかわらず、小説家としても見事な自己暴露を果たして成功している。そこには自己防衛や虚飾などは微塵も感じられず、あるがままのネガティヴ思考をきちんと肯定し受け入れているから、かえって潔く感じてしまう。この作品は正しくタイトル通り、結婚そのものに向いていなかった、あるいは不適格者扱いを受けた自身を、自虐的に、だが決して納得はしていない男性の視点で率直に語った話である。ある日突然、理由も分からず妻から離婚を突きつけられた夫の気持ち。とりあえずお互いを冷静に見つめ直すために別居してみたところ、妻への連絡は全て弁護士経由となってしまった現実に唖然。空腹なのに何も食べたくないから、みるみるうちに夫は痩せ細っていき、184cmという長身にもかかわらず、ピーク時には54kgまで体重が落ちてしまうというしまつ。妻の雇った女性弁護士は、身に覚えのない非難を書きつらねたFAXを、人の出入りの激しい夫の仕事場へ平気で送りつけて来るという無神経さ。愛する子どもたちとの面会も拒否され、夫側は事態をよく把握できないまま暗澹たる気持ちになる。結局、夫は鬱の症状が出始め、精神のバランスを崩してしまう・・・。著者がいくつか本の紹介をする中で、私も興味を持った一冊があった。それは松久淳の『ヤング晩年』というたぶんエッセイのようなものだと思うのだが、その抜粋に目を留めた。〔たとえば演劇やってる友人、というものほど困ったものはないですけど、友だちだったら我慢してお金払ってその芝居を観に行って、あぜんとするほどつまらなくても「面白かったよ」と言ってあげるものです。それを「つまんねーよ」と正直に言ってあげることが愛情だなんてことを言う人がいますけど、当人にしてみれば友だち「にまで」そんなことは言われたくないに決まってるじゃありませんか。〕これを引いて著者はハッキリと明確に、その考えは「ない」と答えている。そこには、嘘なんかつけないと自分を肯定している自己愛が見え隠れするのだ。おそらく著者は、漫画家である妻(作中では脚本家という設定になっている)に対して、おもしろいものとつまらないものを正しく伝えて来たに違いない。それが果たして正解だったかどうかは分からない。(結果、離婚にまで発展してしまったのだから、やはり嘘でも妻をおだててやるべきだったのだろう)作品そのものはおもしろかったのに、一つだけ気になることがあった。それは巻末にある解説が、徹底的に著者を非難する、驚くべき悪意に満ちたものだったことだ。本来、解説は中立な立場で作者紹介をすべきであるのに・・・。こんな解説を掲載するのをあえて了承した枡野浩一の自虐ぶりにも驚きだが、それ以上に気分の悪くなる解説(というより批判)だった。この本は、漠然と別れたがっている女性の皆さんにおすすめの一冊かもしれない。離婚したい理由を相手にちゃんと伝えられないのは、もしかしたら単なる女性のワガママかもしれないのだから。『結婚失格』枡野浩一・著☆次回(読書案内No.88)は佐伯一麦の『鉄塔家族』を予定しています。コチラ
2013.08.24
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【大塚ひかり/『源氏物語』第六巻 宿木~夢浮橋】◆男たちが何一つ変わらない中、女は変わるこれだけの長編古典文学を再読してみて、改めて感じるのは、作者とされる紫式部の類稀なる感性と、冷静で客観的な物の見方である。千年も前に“リベラル”なんて横文字は当然知る由もないが、訳者・大塚ひかりの解説によれば、帝であろうが皇女であろうが召人であろうが皆同じ人間、「私だって同じ人間ではないか!」と紫式部は要所要所で叫んでいるとのこと。身分や地位が全てだと思われがちな平安期にあって、一人の聡明な女性は物語を通して強烈な人生観を表現し得たのだ。それもそのはず、紫式部は由緒正しき血筋の女性でありながら、祖父の代には落ちぶれてしまい、藤原道長の娘・彰子中宮に出仕することになる。とはいえ、一族は有名歌人や学者が多く、上流階級とのつながりは深かった。だから紫式部の能力が買われて「家庭教師的なこともしながら『源氏物語』を書いた」らしいのだ。また、“関白道長妾”という記述も残されていることから、紫式部は道長のいわば愛人であり、決して妻の座に着くことのない性愛の召人であったとされている。そんなことからも紫式部は、作中において、貴人には容赦のない視線を浴びせている。 さて、第六巻での目次は次のとおり。宿木→東屋→浮舟→蜻蛉→手習→夢浮橋 となっている。最終巻にもなると、すでに光源氏の孫世代が主要人物として登場し、様々な問題が発生する。第五巻で登場した八の宮がシングル・ファザーとして二人の姫君を育てて来たまでは良かったのだが、実は八の宮には、認知していない妾腹の子がもう一人いたのだ。それは、浮舟というそれは美しい姫君だった。一方、八の宮が手塩にかけて育てた二人の姫君のうち、上の姫は拒食症であえなく亡くなってしまうのだが、その姫を薫はなかなか忘れられないでいた。そんな心の隙を埋めるが如く、浮舟の存在を知った薫はさっそく囲い者にする。亡くなった上の姫には体を重ねることなど出来なかったが、浮舟はしょせん認知されていない姫君。その立場を軽く見た薫は、手ごめ同然に我が物としてしまうのだった。さらに、薫の良きライバルでもあり、光源氏の正統な孫でもある匂宮は、薫の囲った浮舟の噂を聞きつけ、自分もまた興味を抱き、やはり浮舟と関係してしまう。こうして、薫と匂宮、二人からおもちゃのように扱われた浮舟は、生きているのが辛くてたまらず、自死を考える。結局、二人の身勝手な男たちの前から姿を消した浮舟は死にきれず、記憶喪失となりながらも出家を果たす。不謹慎で恐縮だが、私はこの浮舟が自死を選んで男たちの前から姿を消した後の、薫や匂宮の反応が興味深かった。二人の男たちはそれなりに嘆き悲しむのだが、それもつかの間。一人のか弱い姫君がいなくなっても全く何も変わりないのだ。普通に日常が過ぎていくのだ。紫式部の凄いところは、こういう描写も余すことなく書き綴っていることだ。男たちは相変わらず自分の利益を優先し、本音を隠し、ほとぼりが冷めると身近なところで代わりの女を見つけて、また恋の歌を詠う。これが現実なのだと、紫式部は浮舟の行為に同情さえ寄せることはないのだ。だが、ここへ来て浮舟は変わった。男たちが何一つ変わらない中、浮舟は自分で物を考え、実行する勇気を持ったのだ。今まで言いなりになるしか術のなかったか弱い女が、徐々に自立していくというプロセスは、何やら20世紀になってやっと形になって来た男女平等思想のハシリにも見受けられ、フェミニストの先鋒でもある紫式部がまぶしく感じられる。『源氏物語』のラストは、起承転結のはっきりした現代文学では考えられないような尻切れトンボで終わっている。だがそれで良い。浮舟のその後は、個々が千年昔に思いを馳せて、あれこれ想像を巡らせるのも一興だと思う。雅な先人たちは、“恋”や“美”を最高の財産として重んじて来た価値観が、音を立てて崩れ始めたことに気づいたのだろうか?そう、“美”よりも“金”、“恋”より“力”を優先する武士の時代に突入しようとしていた。文化、芸術、学問が栄えた平安期の後、日本はいよいよ長きに渡って武家社会の世の中となる。それは実に、江戸幕府の終焉まで続くのだ。だからと言って我々が文学の上で西欧に遅れを取ったなどと思う必要などない。いや、事実はそうかもしれない、だが、紫式部という才媛によって描かれた『源氏物語』が存在することにより、日本は最高にして優れた古典文学を有する国となったのだ。“サムライ日本”などとスポーツの世界では囃し立てているが、それ以前に『源氏物語』を生んだ日の本の国であることを、決して、決して忘れてはならない。日本国民として必須読書の筆頭にあげたい、名著である。『源氏物語』第六巻 宿木~夢浮橋 大塚ひかり・全訳※ご参考大塚ひかりの『源氏物語』★第一巻/桐壺~賢木★第二巻/花散里~少女★第三巻/玉鬘~藤裏葉★第四巻/若菜上~夕霧★第五巻/御法~早蕨☆次回(読書案内No.87)は枡野浩一の『結婚失格』を予定しています。コチラ
2013.08.18
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【大塚ひかり/『源氏物語』第五巻 御法~早蕨】◆光源氏の最愛の人、逝去。その時、源氏は・・・?『源氏物語』もとうとう第五巻まで来てしまった。時間の過ぎるのも忘れ、ただひたすらにページをめくってしまう自分に気づいた時、千年前の書物好きの人々は、どれほど夢中になったことかと想像をめぐらしてしまうのだ。第五巻での目次は次のとおり。御法→幻→雲隠→匂宮→紅梅→竹河→橋姫→椎本→総角→早蕨 となっている。“幻”の後に来る“雲隠”だが、「古来、巻名だけあって本文がない」とのこと。なのでちくま文庫の第五巻の“雲隠”でも忠実にタイトルのみで、本文はない状態となっている。大塚ひかりの解説によると、この“雲隠”は紫式部ではなく、中世の人が置いたという説もあるらしい。また、“匂宮”“紅梅”“竹河”は他人の作、もしくは他人の手が入っているという説が根強いとのこと。訳者も「紫式部の作ではないのでは?」と思っているらしく、このくだりになると急にトーンが下がって単調になる。ところが“橋姫”になると、訳者もモチベーションが復活し、解説も俄然力が入るのか、「“宇治十帖”と呼ばれる十巻の初め橋姫の幕開けです」というウキウキした(?)ナビゲーションが挿入されている。こんな具合に、訳者と読者が同じ舞台で楽しめるのがありがたい。第五巻での山場は、何と言っても光源氏の最愛の人、紫の上の死であろう。紫の上は幼いころ、源氏に拉致同然に連れ去られ、源氏のもとで純粋培養された姫君である。もともとは養女として育てられたのだが、初潮が訪れた後、正式に妻となったわけだ。その高貴な美しさと言ったら他の姫君らを圧倒し、並ぶ者のない絶対的な美を誇っていた紫の上である。美しさで匹敵する明石の方は、なにぶん身分が低い。そういう意味で紫の上は、出自も申し分なく雅なお方の姫君でパーフェクトなわけだ。源氏もそんな紫の上が大のお気に入り。何をおいても紫の上より優れたお相手など見つからなかった。しかし、運命とは皮肉だ。源氏の愛を半ば独占して来た紫の上にも思いがけない出来事が起きる。それが原因かどうか、ストレス性のものから体調を崩し、病に伏す。そして天に帰る。この“御法”を読んだ時、私は吉川英治の『三国志』を思い浮かべた。それは、名軍師・諸葛孔明が亡くなるシーンにも似ている。天地が寂として静まりかえり、月は輝きを失い、孔明は忽然とこの世を去る・・・。主要人物が亡くなる時、この世に精彩がなくなるかのような、モノトーンの世界が広がる。『源氏物語』における、この上なく美しい紫の上が亡くなる時、そばにいる女房らに誰一人冷静な者はいない。源氏その人も普通ではいられず、セリフの語尾は「だが」の連続。この動揺はあまりに辛く、哀しみを誘う。消え果る紫の上を前に、源氏のセリフは「一言一言かみしめるように、重苦しく発音されている」のだ。その死を知らぬ僧たちの加持祈祷を唱える声が、辺りに虚しく響き渡ることで臨場感を覚える。私は思わず泣かずにはいられなかった。それぐらい紫の上の死を身近に感じてしまったのだ。『源氏物語』は、主要人物である紫の上と、主人公である光源氏が亡くなった後もドラマが展開する。それが宇治十帖と呼ばれる、紫式部の筆がまたとなく際立つ渾身の巻である。その最初が“橋姫”であるが、ここでは光源氏の異母弟である八の宮が登場する。八の宮は源氏と同じ桐壺帝を父に持つのだが、源氏ほどの美しさや才能にも恵まれず、さらには母親の身分がそれほど高くはなかったことで、完全に負け組のレッテルを貼られてしまった宮である。そんなこんなで京の都から宇治の草深い山に引っ込んで暮らしている、ビンボー宮なのだ。しかも姫君を二人育てていて、現代で言うならシングル・ファザーというやつだ。その父と娘たちの絆がつらつらと語られつつ、そこに源氏の孫にあたる匂宮や、源氏と女三の宮との間に生まれたとされる薫(実父は柏木だが、明らかにされていない)などが絡んで来て、また一段とおもしろい。さらには、その八の宮の娘のうち長女の方が拒食症になって亡くなるくだりは、つくづく現代に限った病なのではないということを思い知らされる。数多いる人の数だけ悩みはあり、千年昔にも現代に通ずる病気は同じように当時の人々を蝕んだのだ。そう考えると、我々はこれだけ文明が発達し、便利になり、物質面ではさほどの不自由も感じなくなったにもかかわらず、苦悩は苦悩として今も昔も変わらないという事実を突きつけられる。これが人間の業なのだとしたら、ムリに抗わず、それも含めて人間であることをそっと受け入れていこうではないか。この巻では、人の死、負け組、シングル・ファザー、拒食症など盛りだくさんのテーマで現代を生きる私たちに語りかけて来る。それらの息苦しいまでの苦悩こそが、不思議にも私たちの生きる支えにもなるのだから、『源氏物語』はこの上ない自己啓発書でもある。『源氏物語』第五巻 御法~早蕨 大塚ひかり・全訳※ご参考大塚ひかりの『源氏物語』★第一巻/桐壺~賢木★第二巻/花散里~少女★第三巻/玉鬘~藤裏葉★第四巻/若菜上~夕霧☆次回(読書案内No.86)は大塚ひかりの『源氏物語 第六巻』を予定しています。コチラ
2013.08.10
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【大塚ひかり/『源氏物語』第三巻 若菜上~夕霧】◆宗教観、死生観満載のクライマックス『源氏物語』も“若菜上・下”巻に至ると、いよいよ大詰めだ。個人的にはこの若菜巻が一番好きだ。“ひきこもり”というのは、現代を生きる若者が、何らかの理由で社会に適応できずに家にこもりっきりになることを指すのだが、現代社会が抱える苦悩だと思っていたら、大間違いだった。現代どころか千年も前から“ひきこもり”は存在したのだ。第四巻では、光源氏の正妻・女三の宮を犯してしまった柏木が、事がバレた後になってそら恐ろしくなり、食べ物も喉を通らず、みるみるうちに衰弱して結局、絶命してしまうというくだりがある。この時のひきこもり状態の描写は素晴らしい。気位ばかり高く、親のすねをかじって生きて来た若き柏木は、これまで挫折を味わったことがなかった。そんな柏木が抱える苦悩は、現代で言うなら、東大卒のエリート官僚が色恋沙汰で失脚するとか、いじめにあって登社拒否をするなどの図にも似ている。第四巻の目次は次のとおりだ。若菜上→若菜下→柏木→横笛→鈴虫→夕霧 となっている。この『源氏物語』を理解する上で必要不可欠なのが、光源氏を取り巻く関係図であろう。私は自分なりに分かりやすく光源氏の愛人、妻、親、兄弟を図にしながら読み進めてみた。だが、そんな面倒くさいことをしなくても、最近の現代語訳やマンガ版などを見ると、とても丁寧な関係図が付録として掲載されているのでぜひとも参考にしてもらいたい。『源氏物語』のユニークな親子関係に、源氏とその息子・夕霧の存在がある。この二人の対極的な性格、性質は非常に興味深い。容姿は似ているのだが、女性に対しての扱いとか思いやりとか、“色”に関することでは全く似ていないのだ。源氏はどんな女性に対しても手厚く、義理は果たすし、もちろん情けもかける。歯の浮くような艶っぽい歌を送って女性の心をときめかすのも忘れない。対する息子・夕霧は真面目で律儀。危険な恋にはあまりのめり込まないようにしている節もある。幼なじみでもある正妻・雲居雁だけを一筋に、結婚生活を送って来た堅物だ。ところがここへ来て恋に目覚めてしまうのだ。真面目な男が恋をすると、真面目に浮気もするのでコワイ。相手は光源氏(父)の正妻・女三の宮の異母姉・女二の宮である。※夕霧の母は出産後に亡くなってしまった正妻・葵の上。(こういうところを理解するのに関係図が必須になる)結局、夕霧はこの女二の宮と結婚することになるのだが(当時は一夫多妻なので問題ない)、そこまでのドタバタ感がなんとも滑稽で、源氏とお相手の姫君のような艶っぽい関係には及ばない。親子といえども全くの別人格であることがよく分かるくだりだ。さらに紫式部はこの巻に、宗教観さえ反映させている。当時、仏教がブーム(?)で、何かとすぐ出家するのが流行だった。そんな中、紫式部は、仏を学んでいる僧侶たちを下種の極みのように悪役に仕立てている。人が病に伏して出家し、仏に延命を乞うたところで、命に限りがあることには変わらない。そこで紫式部は、「いくら僧侶にお金を積んだところでどうにもならない。仏の力など頼みにはならないのだ」という宗教観を漂わせている。これは「そのとおり!」と同感。紫式部という人物は、一体どれだけ聡明なのか?!(もちろん、仏教という教えに対する否定ではなく、それに胡坐をかいている僧侶たちへの非難である)大塚ひかりの解説にもあるように、『源氏物語』を読むと、「人はなぜ悩むのか、何のために生きるのか、人の一生とは何なのか、といった根源的な問いにぶち当たります。そして、これこそが文学なのでは・・・」私も全く同じ感想を持ってしまった。『源氏物語』は、哲学という学問のなかった当時、限りなく哲学的概念を兼ね備えた崇高な古典文学なのである。『源氏物語』 第四巻 若菜上~夕霧 大塚ひかり全訳※ご参考大塚ひかりの『源氏物語』★第一巻/桐壺~賢木★第二巻/花散里~少女★第三巻/玉鬘~藤裏葉☆次回(読書案内No.85)は大塚ひかりの『源氏物語 第五巻』を予定しています。コチラ
2013.08.03
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【大塚ひかり/『源氏物語』第三巻 玉鬘~藤裏葉】◆光源氏のセリフを借りて紫式部が語る「物語論」私はこれまで『源氏物語』を、それはもう高貴で雅な宮中における恋愛絵巻だと思っていた。だがそれだけではなかった。読み進めて行くうちに、紫式部という一人の女流作家が声をあげて言いたかったことが見えて来る。それは、身分制社会へのどうしようもない嘆き、経済力こそが物を言う世間の厳しさを、物語のそこかしこに散りばめているのだ。(決して、ハッキリとは批判などしない。はんなりとした行間から感じられる。)そのテーマに気づいた時、改めてリベラルでぶれない紫式部の聡明さに驚かされる。第三巻の目次は次のとおりだ。玉鬘→初音→胡蝶→蛍→常夏→篝火→野分→行幸→藤袴→真木柱→梅枝→藤裏葉 となっている。この巻で注目したいのは、作家・紫式部が主人公である光源氏のセリフを借りて、「物語とは何ぞや」を展開するシーンである。現代語訳では次のとおりだ。「良いことでも悪いことでも、この世に生きる人の有様の、見ても見飽きず、聞くにも余る出来事を、後の世にも語り伝えさせたい節々を、心にしまっておけなくて書き残したのが、物語の始まりなんだ」有名な紫式部の「物語論」である。他にもこんなことが語られている。「“方便”ということがあって、悟りなき者は、そこかしこに矛盾を見つけて疑いを抱きそうな箇所が経典の中には多いけれど、せんじつめれば趣旨は一つで、経典の“菩提”と“煩悩”との隔たりは、物語の人の善悪と同じていどの違いなんだ。良く言えば、すべて何ごとも無駄なことはなくなってしまう」大塚ひかりの解説によれば、すなわち、「物語にこそ真実が描かれている」「極端な善悪の設定も、人の真実を描くための方便であって、仏教でいう菩提と煩悩が極端に違っているのと同じこと。共に一つの趣旨を表現するための手段」なのだという文学論である。千年も昔を生きた人が、これだけの創作に関する方法論まで語ってしまうのは、スゴすぎるだろう! おそるべし、紫式部である・・・。第三巻においては、徐々に世代交代が進んでいくのだが、それでも相変わらず若々しく、いつまでも艶っぽいのが光源氏。源氏がまだ18歳ぐらいのイケイケの時、夕顔というコケティッシュでチャーミングな姫君と情事に耽った。イメージし易いように現代のタレントに例えるなら、壇密みたいな女性だと思ってくれたら良い。だがこの姫君、なにぶん身分が低い。しかも、源氏のマブダチでもある頭中将の囲われ者だった。半分は興味本位もあったかもしれない。だが、この夕顔の魅力にとりつかれ、源氏は夕顔が絶命するまで体を重ねたのだ。この時、夕顔は六条御息所の生き霊に呪い殺されてしまうのだが、源氏はこの夕顔のことがずっと忘れられないでいた。ところがこの夕顔には、頭中将との間に儲けた一人娘がいた。第三巻ではこの一人娘の存在を知った源氏が、亡き夕顔の忘れ形見だと思い、自らが引き取って養女にしようとするストーリーが展開する。(皮肉なことに、実父である頭中将は生き別れた娘がその後どうしているのか全く知らないでいた)その姫君こそ玉鬘と言い、それは美しく可憐で、母である夕顔に勝るとも劣らない容姿の持ち主なのである。源氏は表向きは良き父親面しているのだが、その実、血のつながりはない。喉から手が出るほど玉鬘を我が物としたいところなのだが、こんな源氏でも世間体が気になり、せいぜい添い寝するのが精一杯という始末。実父である頭中将は、玉鬘が、よもや我が子であるとは思いもしないでいたのだが、結局、源氏が時を見計らって打ち明けるのだ。このあたりのストーリー展開は、ぐいぐいと惹き込まれるものがあって、玉鬘のシンデレラ・ストーリーを心ときめかせながら読み進むことができる。また、後に玉鬘が結婚する相手も登場するのだが、この男がなんというかパッとしない、無骨者で、“美女と野獣”さながらのカップルとなるのだ。そんなこんなで前半はこの玉鬘一色の物語となっている。これまでキラキラと輝いて、お話の中心となっていた光源氏は、少しずつ脇の方へと追いやられていくようだ。そしてそこがまた『源氏物語』のこの上ないおもしろさでもある。『源氏物語』第三巻 玉鬘~藤裏葉 大塚ひかり現代語訳※ご参考大塚ひかりの『源氏物語』★第一巻/桐壺~賢木★第二巻/花散里~少女☆次回(読書案内No.84)は大塚ひかりの『源氏物語 第四巻』を予定しています。コチラ
2013.07.27
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【大塚ひかり/『源氏物語』第二巻 花散里~少女】◆源氏、初めての挫折。須磨での謹慎が吉と出るか凶と出るか?!第一巻は光源氏の青春期とも言うべき、右かた上がりの輝かしい恋愛絵巻であった。全てが若々しく、瑞々しく、悲哀なことさえドラマチックで神々しく感じた。それがどうだ、二巻に突入すると、グッと色合いが渋みを増す。あの絶頂期の源氏の君にも、やや影が差し込み始めるのだ。これまでの青春恋愛ドラマから、渡鬼的(「渡る世間は鬼ばかり」のような)ホームドラマの要素が加わるのだからおもしろい(?)。やっぱり紫式部という女流作家はタダモノじゃない。第二巻の目次はこうだ。花散里→須磨→明石→澪標→蓬生→関屋→絵合→松風→薄雲→朝顔→少女 という具合になっている。ポイントとなるのは、光源氏が色恋で初めての失敗を犯し、政治的に干されてしまうというくだりだ。一巻の終わりぐらいに登場する、朧月夜尚侍の君という朱雀帝の寵姫に手を出してしまった源氏の君。このことで反省の意味をこめ、京の都を去り、須磨にて謹慎の身となってしまう。これが源氏にとって吉と出るか凶と出るかは、物語を読んでみれば明白だが、ここでの某姫君との出会いが、源氏のその後を大きく揺るがすこととなる。ちなみに光源氏をこんな立場に追い込んでしまった朧月夜という姫君は、現代で言うならギャル風の小悪魔的魅力たっぷりのお嬢様である。何かの本で読んだのだが、全国の女子(無差別)にアンケートをとったら、源氏物語に登場する姫君で一番人気が、この朧月夜尚侍の君とのことだ。さて、須磨では心細い思いをしつつも、源氏の君に新しい恋が芽生える。明石の上との出会いである。この姫君は身分こそ低いけれど、教養があり、琴の演奏に秀で、率直で優雅な歌を詠む貴婦人である。しかも美人この上もなく、源氏が放っておくわけがない。後に、この明石の上が懐妊し、姫君を出産することで都へ上ることになるのだが、第二巻はこの明石の上とのあれやこれやが物語の大きなウェイトを占めている。日本は平安時代が終わると、長らく武家社会が幅をきかせ、恋だ愛だというフワフワした感情は「見苦しいもの」とされて来た。ところが平安期におけるモテ男は、イタリア人のような、それはもう歯の浮くセリフで女たちを酔わせていたのだ。つまり、女をくどくのは平安貴族の男たちにとって挨拶代わり(?)だったわけだ。だから男たちは無粋な歌を詠めないし、笛の一つも吹けなければ女子たちからは当然のごとく相手にされなかった。要するに、当時の男たちに必要だったのは、ムキムキの肉体美とか寡黙な誠実さなどではなく、朗々と詠う声の良さや、笛や琴、絵などをたしなむアートなセンスだったわけだ。現代でも使われている“大和魂”という語は、なんと『源氏物語』が初出とのこと。主人公である光源氏が、息子である夕霧に対する教育論を展開する際に出て来る言葉である。大塚ひかりの解説によれば、「学問を基礎としてこそ“大和魂”も発揮されるといういわゆる『和魂漢才』論」を、源氏が主張する場面で使われているらしい。第一巻では、さんざん青春を謳歌した光源氏も、二巻ではすでにエロオヤジに成り下がる場面もあり、人の栄華が永遠のものではないことを克明に教えてくれる。また、早くも世代交代で源氏の息子や娘(実子だけでなく養女も兼ねて)たちが登場。親子の確執などにも注目だ。『源氏物語』第二巻 花散里~少女※ご参考大塚ひかりの『源氏物語』★第一巻/桐壺~賢木☆次回(読書案内No.83)は大塚ひかりの『源氏物語 第三巻』を予定しています。コチラ
2013.07.20
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【大塚ひかり/『源氏物語』第一巻 桐壺~賢木】◆超イケてる男・光源氏のクールな美学とは?!日本最古にして最高の文学と言えば、『源氏物語』である。これまでにも何度となく“源氏ブーム”みたいなものが来て、そのつど騒がれたけれど、日本人として一度は読んでおきたい名著である。圧倒的に支持されるのは瀬戸内寂聴の『源氏物語』だが、私はあえてちくま文庫から出版されている『源氏物語』を読んでみた。早大文学部卒の大塚ひかりが現代語訳を付けていて、懇切丁寧な解説も有難い。まず第一巻の目次だが、桐壺→帚木→空蝉→夕顔→若紫→末摘花→紅葉賀→花の宴→葵→賢木となっている。どれもおもしろいのだが、おさえておきたいのは、夕顔、末摘花、そして葵の章だろう。 『源氏物語』のスゴイのは、現代的に言うなら、略奪愛あり、オカルトあり、青春あり、死生観ありと、ジャンルに囚われない壮大なスケールで語り尽くされる素晴らしさにある。紫式部が現代を生きていたら、ハッキリ言って、村上春樹を軽くしのいでノーベル文学賞を受賞していたに違いない。主人公の光源氏が超イケメンでプレイボーイなのは周知のとおり。だが彼が生涯に渡って求めていたのは、母親に似た面影を持つ女性だったのはご存知だろうか?母親と言っても、天皇であり父でもある桐壺帝の後妻なので、光源氏にとっては継母だが、よりによって天皇のお后を寝取ってしまうのだからスゴイ。この継母・藤壺の中宮というのだが、光源氏の愛を受け入れ、その後、源氏の子を身ごもってしまう。(だがその罪の重さに耐え切れず、出家する)光源氏という人はそこらじゅうに色恋の相手がいて、まめに手紙を書き、贈り物をした。自分が一度でも契った女性に対しては、決して粗末には扱わないところが頼もしい。末摘花というとても残念な(?)容姿の姫君が登場するのだが、その人にさえ着物を仕立ててやり、食料を送り届け、家屋までリフォームしてやるのだ。いくらお義理でもここまで念入りなのは、光源氏という完璧なまでの恋のハンターならではという気がする。さらに、光源氏には葵の上という高貴な血筋の正妻がありながら、なかなか夫婦としては打ち解けられず、やっと心が通い合ったのは葵の上が病に伏してからだ。病というのもそれは恐ろしく、源氏に恋焦がれるばかりに生き霊となって憎い葵の上にとり憑いてしまう、六条御息所という源氏の愛人の仕業だったのだ。結果、葵の上は若くして亡くなってしまう。しかも生き霊のせいでだ。現代ならホラーとかオカルトとか呼ばれるカテゴリだ。このように第一巻を読むだけでも、いかに源氏がイケメンでモテるかが、これでもかとばかりに綴られている。そこには、残酷なまでに男のズルさも赤裸々にあぶり出している。また、平安朝の雅な色彩が目に浮かぶような描写も見逃せない。この巻を読んで私なりに感じたのは、男女問わず、知性のない者は相手にされないという残酷な現実だ。容姿がさほどではなくとも、美しく流麗な歌で相手を酔わせることができれば、それだけで一目置かれるのだ。知性と教養は、美の表現方法だったわけだ。その一方で、現代人はあまりにも見かけにこだわり過ぎてはいないか? 無論、それも一つの表現方法ではあるが。大切なのは内面的な美しさであることを『源氏物語』は改めて教えてくれる。『源氏物語』第一巻 桐壺~賢木 大塚ひかり全訳☆次回(読書案内No.82)は大塚ひかりの『源氏物語 第二巻』を予定しています。コチラ
2013.07.13
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【梅原猛/隠された十字架~法隆寺論~】◆法隆寺に隠された謎を解き明かすこの本との出合いは、実に25年も前になる。私が高校生のころ、担任だった現代文の先生がおもしろおかしく解説してくれたのだった。修学旅行が、京都・奈良方面だったので、少しでも生徒たちの興味を引き出すことができればと思ったに違いない。それにしても私は夢中になって読んだものだ。それまでの法隆寺のイメージと言ったら、日本最古の木造建造物であるとか、聖徳太子ゆかりの人々が太子の徳を讃えるために建てた寺であるとか、中学校の社会で習う程度の知識しかなかったのである。ところが梅原猛は真っ向からそんな常識をくつがえしてくれた。それはどういうことかと言うと、法隆寺は、聖徳太子の祟りを回避するための、いわば鎮魂の寺だと言うのだ。いや驚いたのなんのって! 法隆寺がそんな血生臭い背景を持っているなんて、訊いたことがない。それがどうだ、現在分かっているだけの歴史的事象を辿ってみると、聖徳太子の子孫は皆、無残な死を遂げている。太子の子、山背大兄皇子とその一族25名は、何の罪もなく、女・子どもに至るまで惨殺されているのだ。皆殺しというやつだ。それはもう生地獄である。加害者は、蘇我入鹿とされている。理由は、政治的な権力を握る上で、山背大兄皇子はけむたい存在だったからだ。こうして太子の子孫は絶滅した。だがここで祟りとしての条件は全て揃う。罪なくして一族が殺され、その無念さゆえに、時の権力者を祟るのだ。それはたとえば病気であり、天災であり、飢饉などである。時の権力者はあわてふためき、その祟りを鎮めるために、また政権を安泰にするために、立派な寺院を造り、手厚く祀るのだ。なるほど、梅原理論は筋道が通っていて実に分かり易い。この後、蘇我入鹿は横暴を極め、皇位を軽んじる行為が多くなる。そして、これに対する反感を強く抱いた中臣鎌足は、中大兄皇子と組んで入鹿討伐に乗り出すわけだ。そう、あの歴史的クーデター大化の改新の始まりだ。これがいわゆる『日本書記』に書かれているあらましである。だがここでも梅原は異を唱える。そもそも太古の歴史は時の権力者に有利に書かれているものなのだと。だから『日本書記』だって、鎌足の子である不比等の統制のもとに書かれたとしたら、藤原氏にとって都合の良い筋書きに変えてしまうではないかと言うものだ。つまり、「中臣鎌足によって行われたクーデターを合理化する論理」を、果たしてそのまま信じても良いのだろうか、と疑問を投げかけているのだ。ここまで来ると、歴史好きの方なら何を言おうとしているのか見当がつくに違いない。 つまり、聖徳太子の子孫を絶滅に追いやったのは、また、全ての黒幕は、この氏素性の知れない中臣鎌足その人ではなかったか、という説である。なぜそういう推論を立てたかは、この『隠された十字架』を読んで、どっぷりと梅原論考を熟考して頂きたい。大胆な仮説と、古代史への飽くなき情熱に、息を呑む思いだ。法隆寺中門の真ん中にある柱。それはまるで何者かを閉じ込めて外へ出すまいとする行為にも思える。あるいは、門の大きさが四間という偶数であること。本来なら奇数にすることで、正面を造り出すものなのに、何故?また、この四間の四は、「死」も意味している。このような門は他に存在しない。さらには、1200年もの間、秘仏とされて来た救世観音の謎。とにかくページをめくる手が止まらなくなる。歴女の方はもちろん、古代史に興味のある方にもおすすめだ。『隠された十字架~法隆寺論~』梅原猛・著☆次回(読書案内No.81)は大塚ひかりの『源氏物語』を予定しています。(なにぶん長編なので一巻ずつの掲載を考えております。)コチラ
2013.07.06
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【花村萬月/ゴッド・ブレイス物語】◆バブル期の恋愛小説はやっぱりオシャレ?!この作品が発表された80年代は、正にバブル全盛期。ちょっと擦れた19歳の女子がロックバンドを率いて、なんやかんやと頑張ってしまう物語は、ある意味オシャレだ。恋人だったバンドのメンバーの男が自殺しているというのも80年代的だし、なかなか一人の男に的をしぼれず、いろんな男を渡り歩く19歳のヒロインという設定も、こだわりのなさが現代的で共感を呼んだに違いない。花村萬月の初期作品ということでかなり期待して読み始めてみたのだが、思いのほか芥川賞作家というハードルの高さは感じられない。つまり、この小説に限って言えば、純文学ではないことは確かだ。80年代に売れた作家に原田宗典がいるけれど、花村と同様オシャレな恋愛小説をいくつかヒットさせている。主人公のちょっとけだるい語り口調がウケたのだった。だが今となっては時代性を感じないわけにはいかない。一方、花村は90年代に入ってメキメキと頭角を現し、純文学の登竜門である芥川賞を受賞した。2013年となった最近も、書店でその著書をちらほらと見かけるので、よくぞ生き残ってくれたと拍手を送りたいぐらいだ。これは皮肉でも何でもなく、とにかく80年代の売れっ子作家のその後は、明暗がハッキリしていて驚くほどだ。そんな中、花村は過酷なサバイバルに打ち克ったわけで、賞賛に値すると思うのだ。『ゴッド・ブレイス物語』は、端的に言ってしまえば青春恋愛小説だろう。話はこうだ。 朝子は19歳でバンドを率いるロックシンガーだ。メンバーは朝子以外は男なのだが、ギターを担当するヨシタケは同性愛者だ。それを知っていながら興味本位で体を重ねた。だが、最後までは上手くいかずに終わる。その一方で朝子はドラム担当のカワサキとも付き合っている。カワサキはバツイチ子持ちで、健という息子は児童福祉施設に入所している。そんなカワサキは、どういうわけか、朝子のさり気ない誘いを巧みにかわし、一線を越えることはなかった。ある時、プロダクションの社長である原田が、ワリのいい仕事を取って来た。朝子はギャラの良さに目がくらみ、二つ返事で了承する。だがこれは全てデタラメで、ギャラは前金で先方から原田の口座に振り込まれた後、原田は失踪。朝子たちメンバーは、タダ働きをするハメになってしまった。ストーリーはこの後もドラマチックに展開していくが、京都の高級クラブの社長と朝子が、なりゆきなのか必然的なのか、吸い付くように体を重ねる。これでもかこれでもかと男を渡り歩く姿は、ロックシンガーだから許されても、一般人なら単なる淫乱に過ぎない。男女が惚れたはれたの恋模様がテーマではないことは間違いない。あえて言うなら、生々しい性の露出を、青春という名のもとに表現した物語だ。恋愛の伴わない性の描き方にもいろいろあると思うが、この作品からは不誠実な印象を受けた。無論、あえてそれを80年代の悪ノリとするなら、それはそれで納得できるが。この小説は読者層を10代~20代前半に的をしぼって書かれたものかもしれない。あるいは、漠然とした不安を抱える若者への応援歌かもしれない。いずれにしても、バブル期の小説に見られる特徴を色濃く持つ作品なので、ジャンルを問わず読書好きの方におすすめしたい一冊だ。『ゴッド・ブレイス物語』花村萬月・著☆次回(読書案内No.80)は梅原猛の『隠された十字架~法隆寺論~』を予定しています。コチラ
2013.06.29
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【宮崎学/突破者】◆グリコ・森永事件でキツネ目の男と間違われた男の自伝まずはタイトルにある『突破者』とは何か? 著書によれば、「無茶者、突っ張り者のこと」であるそうな。私は関西出身ではないため知らなかったのだが、土建業の親方に多いタイプらしく、「思い込んだら一途でがむしゃら」に突っ張って職人を守る(喧嘩などいざこざがあった時など)・・・みたいな人を『突破者』と言って持ち上げるらしい。正に、そういう意味では著者の宮崎学は突破者にふさわしく、京都は伏見区の解体屋寺村組の次男坊として生まれた。この上下2巻に渡る宮崎学の自伝によれば、戦後の裏社会を駆け抜けて来た男の度胸みたいなものが、そこかしこからプンプン臭って来る。たとえそれがヤクザという、社会から大きく逸脱した集団であろうとも、その中にあってこそのやり方で筋を通し、ブレずにやって来たという誇りさえ感じる。教養や知識などさほどなく、社会の底辺を生きるという括りでヤクザを描いているが、少なくとも宮崎学とその兄は、決して無学・無教養ではない。兄は立命館大学を中退、宮崎学その人は早稲田大学を中退で、卒業こそしていないが、学力レベルは人並み以上のものを持ち合わせている。だからこそ、この自伝のような読み応えのある半生を、淀みなく綴る能力が備わっていたのだと言えよう。無論、宮崎学の過去がどうあれ、今やれっきとした文化人である。内容は、幼い頃の身辺環境から中学校では喧嘩に明け暮れた毎日のこと。さらに、京大を目指したものの不合格となり、縁があって早大法学部に入学。そこでは左翼思想に目覚め、共産党の青年ゲバルト部隊を率いて大活躍したことなどが赤裸々に語られている。興味深かったのは、グリコ・森永事件で犯人の似顔絵が公開されたのだが、そのキツネ目の男が宮崎学にそっくりで、「重要参考人・M」とされていたことの顛末が詳細に書かれていた。これは面白い。この事件当時、私はまだ小学生だったが、テレビの報道を見ては両親がああでもないこうでもないと、話題に事欠かなかったのが印象的だ。我々一般市民にとっては、裏社会のことなどあれこれ想像をめぐらすのが精一杯で、実際のところは何も分からない。そんな中、こうしてヤクザの世界の一端なりとも、その道にどっぷりと浸かっていた人物が披露してくれたことは本当に嬉しいし、有難い。高倉健や菅原文太の出演する任侠の世界が全てだと思い込んでいるわけではないけれど、もっとエグイ、グロテスクなものを内包して存在するのを、改めて思い知らされる機会を与えられた。ヤクザという、いわば社会のうしろめたい側にいる集団が、なぜ存在するのかというところにメスを入れている点を、大いに評価したい。また、中学生の学級会みたいな潔癖な正論が、マスメディアを経由して一気に世論と化す現代社会に警鐘を鳴らしているようにも思えた。多数派こそが正義であり、少数派は全て切り捨てられていく現実・・・それは対ヤクザ社会に限ったことではないことを痛感する。私は思う。男女問わず、綺麗に脱毛し、デオドラント効果バツグンの制汗剤を振り撒き、情報に遅れを取らないようスマホを駆使する合理的な人々が、当然の多数派となっている。私はほんの数年前までケータイなど持っていなかった。だが持つことにした。友人の中には、いまだ持っていない少数派に属する人もいる。私はその友人を奇異には思わない。こういう少数派が存在するからこそ、民主主義を謳歌できるのだ。『突破者』は、様々な主義、思想、いやもっと漠然とした何かを持つ人々が右往左往しながら必死に生き抜いた、戦後の50年を描いている。それはもう目からウロコの、仰天自叙伝である。おすすめの傑作だ。『突破者~戦後史の陰を駆け抜けた50年~』上・下 宮崎学・著☆次回(読書案内No.79)は花村萬月の『ゴッド・ブレイス物語』を予定しています。コチラ
2013.06.22
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【藤枝静男/欣求浄土】◆彼岸での一家団欒こそ至福の時白樺派の文学に傾倒した藤枝静男は、志賀直哉の虜となる。だから作品はどれも白樺派の流れを汲み、己を冷静で客観的な視点から捉え、私的な事柄を赤裸々に、だが格調高く表現することに成功している。プロフィールによれば、藤枝静男は現在の静岡県藤枝市出身なので、おそらくペンネームもそのあたりから拝借したのかもしれない。作品は静岡県中部、西部地方が多く舞台となっており、作中の登場人物のセリフが方言丸出しで、かえって好感が持てる。気取っていなくて、それでいて硬質な文体という優れものだ。私が思わず涙したのは、『欣求浄土』という連作の中の一つ、〔一家団欒〕である。これは究極のファンタジー小説と言っても過言ではない。それなのにリアリティに溢れ、読み手が物語にすっと入り込んでしまうのだから不思議だ。これは主人公・寺沢章がこの世の生を終えて、親・兄弟の眠る墓地へ出向くところから始まる。そこに妻の存在はない。妻は明らかに外部の者であり、章(藤枝静男)にとって彼岸の向こうでは、いわば、他人なのだ。話はこうだ。寺沢章は、美しい茶畑に囲まれた菩提寺を訪れた。そして両親と兄弟らが眠る墓石の下にもぐって行った。「章が来たによ」と父が出迎えてくれると、続いて姉が「あれまぁ」と懐かしい声を響かせる。姉は18歳で亡くなっているので、その年齢のままの姿なのだ。章は亡くなったとき59歳なので、姉よりもずっと老けていて、頭も禿げている。しかも死亡時に臓器提供しているため、父が心配して「章、交通事故にでもあったかえ」と訊いた。「そうじゃあない。内臓をみんな向こうへ寄附してきたで、眼玉もくり抜いて来ただよ」 「お前も相変わらず思い切ったことをするのう」章は、父を前にすると、急に胸が迫ってきて涙がこみあげて来た。「父ちゃん、僕は父ちゃんに悪いことばかりして、悪かったやぁ」「ええに、ええに。お前はええ子だっけによ」そう言って父は、章を一切責めることなく、慰めるのであった。ここでの章という人物は、正しく藤枝静男自身のことであり、あの世での肉親との再会は切実な願望に違いない。本職が眼科医であった藤枝は、医療に携わる傍ら、私小説を書き続けた人である。そこには、過酷なまでに自分を見据えた、拷問のような眼差しを注いでいる。全編に自虐的な、甘やかしのないメスで切り刻んでいく鋭さが感じられるのだから、さすがは医師である。常に両親に対する侘びの気持ちが溢れていて、過去を赦せない自分を持て余しているようにも思える。だが〔一家団欒〕では、全てが報われ、癒され、救われている。家族そろってお祭りに出かける場面は、何とも言えない郷愁を誘う。この作品を読むと、生を全うした後、必ずや訪れる死の影も、まんざら悪くはないと思わせる不思議な優しさを感じるのだ。藤枝静男は、知る人ぞ知る作家ではあるけれど、一読するとやみつきになってしまう独特の世界観に覆われている。『欣求浄土』の他に『悲しいだけ』という作品もあるが、これも併せてお勧めしたい傑作だ。『欣求浄土』藤枝静男・著コチラ
2013.06.15
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【辺見庸/もの食う人びと】◆食うことへの執念が生きる執念でもある己が幸か不幸かは自分が決めることだが、他人様の幸か不幸かを決めるのはおこがましいことかもしれない。とはいえ、自分を基準に考えた時、明らかに他人様をめぐる劣悪な環境を知った時、改めて己の幸せを感じる。それはとても残酷なことではある。生まれた瞬間から生じる不平等の始まりだ。こればっかりはどうすることもできない。肌の色が白か黒か。男か女か。紛争地帯に生まれたか否か。自分では選択することのできない様々な問題に関して言えば、私はこの日本に生まれ、今は亡き両親の子として育てられたことを誇りに思うし、幸せだ。家庭が貧しくても清潔であたたかな食事を普通に与えられた。畑でもぎ取ったトウモロコシを、茹でただけのあの味は、甘く、瑞々しく、夏の夕飯のご馳走だった。キーンと冷やしたトマトを輪切りにして、塩をふりかけただけのサラダ、あれも美味しかった。我々の生きる根源でもある“食”は、所が変わればその事情も大きく変わる。『もの食う人びと』は、ジャーナリストである辺見庸が命懸けで世界を巡り、“食”についての取材を記事にしたルポルタージュである。衝撃的な記事はいくつもあるが、とりわけ凄まじい“食”に関する記事を紹介しておこう。〔ミンダナオ島の食の悲劇〕は、戦時中、日本兵が現地人を殺害し、その人肉を食べたという記事である。その場所には、野生の豚や鹿はもちろん、自生のサトイモなどがそこらじゅうに生えていたというのに、当時の日本兵はあえて現地人を数十人も食べて生きながらえていたのだ。辺見庸の記事によると、から発した行為だったとのこと。つまり、正気の沙汰ではなかったのかもしれない。〔バナナ畑に星が降る〕は、アフリカのマサカという農村地帯で、村民がエイズによってバタバタと亡くなっているというもの。知識の欠如から、いまだに何かの祟りと信じる者が多いらしい。エイズ患者には、バナナより(※)キャッサバの方が栄養があると言って、茹でただけのそれを食べるのだ。(※)キャッサバ・・・トウダイグサ科の熱帯低木さらに、病院代わりに“魔法使い”のところへ出向き、エイズに効くという得体の知れない煎じ薬をもらって口にする。もうこのあたりの現実に触れると、食べること飲むことの意味も、虚しく感じてしまう。 私は今さらのように、「ありがたい、ありがたい」と思わずにはいられない。見知らぬ人が食べ残したものをあさって食べるわけでなく、チェルノブイリのような高い数値の放射能汚染された食材を口にすることもなく、この素晴らしい環境に感謝の気持ちでいっぱいだ。マックのハンバーガーや、スガキヤのラーメンを鼻で笑う人たちに言ってやりたい。「バングラディシュの街角で、残飯をなけなしの金で買う人々を見ろ!」「ソマリア紛争地帯で、食べる物がなくて枯れ枝のようになっている子どもたちを見ろ!」と。この本は、グルメを気取る人も、そうでない人にも読んでもらいたい一冊だ。『もの食う人びと』辺見庸・著コチラ
2013.06.12
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【島崎藤村/新生】◆実の姪を妊娠させて傷心の渡仏、帰国後再び関係を持つ男私もこれまで女性週刊誌のゴシップ記事やらタレントの暴露本まで、ありとあらゆる私的で低俗な小説を嬉々として読んで来た。だが、島崎藤村の『新生』を越える私小説には、まだ出合っていない。お断りしておきたいのは、島崎藤村が、『ダディ』を書いた郷ひろみや、『ふたり』を書いた唐沢寿明のようなタレントではなく、れっきとした文士であることから、いくらジャンル的には同じ私小説とはいえ文学性において当然差はある。それにしても島崎藤村の思い切った告白には、何とも言いようのない、不愉快極まりないものを感じてしまう。というのも、藤村はあろうことか、実の姪と関係を持ってしまい、妊娠までさせているのだ。その辺の経緯をつらつらと語っているのだが、どう読んでも自己弁護を超えるものではない。そこから贖罪の気持ちなど微塵も感じられないのだから、読者はますます憂鬱にさせられる。このようなタブーをあえて公にすることに、どれだけの意味があったのだろうか?とはいえ、後世の我々が、ああだこうだと野次を飛ばしながらも読まずにはいられないほどの吸引力があるのだから、充分に意味のある作品なのだが・・・。話はこうだ。作家で、男やもめの岸本は、幼い子どもたちの世話や家事を、姪の節子に頼っていた。妻はすでに病死していたのだ。最初は節子の姉・輝子と二人に面倒を見てもらっていたのだが、じきに姉の方は嫁ぐことになり、節子のみになった。岸本は、毎日顔を合わせているうちに、己の寂しさやら欲望から節子と関係を持ってしまう。その後、節子が妊娠してしまう。岸本は、実兄(節子の父)に合わせる顔がなく、フランスへの留学を決める。面と向かって真実を話すこともできず、結局、渡航中に手紙を書いて、節子のことを詫びた。数年後、ほとぼりが冷めたころ帰国。しばらくは兄の宅へ居候の身となるものの、何かと節子が不機嫌なのが気にかかる。ある時、思い余って岸本は節子に接吻を与えてしまい、再び二人のヨリは戻ってしまうのだった。『新生』は、当時の朝日新聞に掲載された連載小説なのだが、藤村の子どもらがそれらを目にして受けたショックなどを考えると、胸が痛む。まさか自分たちの母親代わりになってくれていた、従姉の“お節ちゃん”が、父親(藤村)と近親そうかんだったなんて!しかも自分たちとは母親の異なる弟までいるとは!藤村は、自分の実子らがこの先どれほどの苦悩を抱えるかなんて、さほど考えもしなかったのであろうか?貧しい一族の中で、ただ一人、作家として成功した藤村にのしかかる負担は大きかったかもしれない。経済的な面で、一族がどれだけ藤村一人を頼ったことか知れない。だが、それを慮ってみたとしても、道徳上のタブーは決して犯してはならないはずだ。 『新生』を読んだ芥川龍之介は、次のように述べている。「『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた」様々な見解があるだろうが、やはり私も芥川に同感だ。この作品は、私小説に偏見を持たない方におすすめかもしれない。『新生』島崎藤村・著☆次回(読書案内No.76)は辺見庸の『もの食う人びと』を予定しています。コチラ
2013.06.08
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【志賀直哉/和解】◆著者自身の親子の不和と子の出生を題材とするまずお断りしておくことがある。このブログは2人の筆者がいて、各々が好きなことを感じたままに書いている。1人は画像やレイアウトなどを考え、興味深い時事ネタの抜粋などを紹介している。ある時はそこにちょっとした感想も添えたりする。また、俳句や詩歌なども季節に合わせて掲載している。そこに筆者の様々な思惑が潜んでいることもあるかもしれない。(本人に確認したわけではないが・・・)もう1人(私)は、専ら映画と読書の感想だ。そんなわけで、ある記事には「私の両親はすでに亡くなっていて・・・」と書いてあるそばから他方で、「我が老父は・・・」と近況を綴っているのは至極当然のことで、これは記事を書いている筆者が違うという事情があったのだ。この場をお借りして、矛盾点を明らかにさせて頂きます。今後とも吟遊映人の記事を、変わらずご覧頂ければ幸いです。さて、志賀直哉。この作家の小説は一生に一度は読む機会に恵まれるのではなかろうか? 最近はどうか知らないが、私の世代は高校の現代文で『城の崎にて』を勉強した。『城の崎にて』は随筆ながら、普遍的な哲学を思わせるし、透明感のある清々しさを感じさせるものだった。『和解』は、志賀直哉自身の身の上を題材に取ったもので、父との不和からやがて和解にたどり着くまでのプロセスを綴ったものだ。一般的に言うなら、他人様の親子喧嘩なんて、むしろみっともなくて見られたものではない。だがそれは小説の神様、ドラマチックな父子の和解が成立するのだから、それはもう感動的だ。しかも、そんな個人的な親子間の問題を一つのテーマとして掲げ、決して自己の正当化を図ったものではない作風は、お見事としか言いようがない。話はこうだ。順吉は、父とのギクシャクした関係を、もう何年も続けていた。実家に用事がある時などは、なるべく父の不在を見計らって訪ねるようにしていた。そんな中、順吉の妻に子ができた。父にとっては初孫である。経済力の乏しい順吉は、結局、お産の費用を父に全額頼ってしまう。順吉にとっても可愛い娘になるはずの赤子は、ある晩、体調を崩す。順吉は血相を変えて赤子を抱き、裸足で町医者の所まで走る。我孫子のような田舎の医師では限界があると思った順吉は、さらに東京の医者にも電報を打つ。だがそんな手厚い処置も虚しく、赤子はかえらぬ人となってしまう。順吉は泣いた。皆が我が子を、自分と父との関係に利用したが為に、死んでしまったのだと思い込んだ。そして全ては、実家との不徹底がこの不幸を呼び込んでしまったのだと。それから暫くして順吉の苦悩が癒えぬ間に、再び妻が懐妊した。夫婦は素直に喜んだ。 順吉は今度こそ死なせてなるものかと、臆病になり過ぎるほどの注意を払うのだった。 このように『和解』は、主人公・順吉とその妻の間に生まれる子どもの存在も大きなキーワードとなる。実家の手を借りず、経済的な援助もなく乗り切ることができたなら、この話の結末は違っていたかもしれない。だが実際には、父に頼り、その支えあってこそ順吉夫婦とその子の幸が保障されるものであることを、否が応でも認めざるを得ないのだ。また、さんざん反抗した父という存在を前に、子の出生によって今度は自分が父という立場になるという因果。順吉は初めて、親と子の絆を見たような気がしたのかもしれない。志賀直哉が題材に取った親子の不和と子の出生は、相反するものでありながら、間違いなく一本の道筋となってつながっている。類稀なる人間描写に思わず脱帽。ぐいぐいと惹き込まれ、やがて自分も当事者に同化してしまうような錯覚すら覚える。 この神業とも思える見事な作風にどっぷりと浸かり、文学の香りを味わって欲しい。『和解』志賀直哉・著☆次回(読書案内No.75)は島崎藤村の『新生』を予定しています。コチラ
2013.06.05
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【藤原伊織/テロリストのパラソル】◆しがない飲み屋のバーテンだが、東大中退のワケあり中年男私がいつも利用している駐輪場でのこと。夕方4時ごろだったと思う。私の自転車の右側にとめてあったスクーターや自転車が、ドミノ倒しになっていた。かろうじて私の自転車は倒れていなかったが、すぐ隣のスクーターが寄りかかっていて、出すに出せない。困ったなぁと思いながら、ガタガタ引っ張ってみたり、スクーターを持ち上げようとしてみたところ、全く思うようにならない。するとどこからともなく一人の男性が背後から近付いて来た。「やりましょう」と一言。その男性は年齢40代後半~50代前半。無精髭を生やした長身で、しかも細身。またたくまにドミノ倒しになっていた自転車を直してくれて、私の自転車に寄りかかっていたスクーターも立て直した。「どうもありがとうございました」私は深々と頭を下げたが、男性は無言のまま、くわえタバコで歩き去ってしまった。その背中を見送りながら、私は思った。「ハードボイルドだなぁ・・・」そんな中、私は『テロリストのパラソル』を読了した。この小説はかなりハードボイルドな作風だ。確かテレビドラマ化もされていて、ショーケンが主役で出演していた記憶があるが、定かではない。でもドラマの方はあまり印象に残らなかったのは事実だ。これはやっぱり原作が良すぎる。抑えぎみなトーンとか、場末の飲み屋のバーテンが、実は東大中退のワケあり中年男という設定がおもしろい。とにかくドラマチックな展開に、時間の経つのも忘れて読み耽ってしまったのだから。 話の展開はこんな感じだ。40代後半でアル中の菊池(またの名を島村)は、いつものようにウィスキーを持って公園に出かけた。震える手でちびちび飲んでいると、幼い女の子からしゃべりかけられる。話し相手になってると、そのうち女の子の父親が迎えに来る。その後、今度は宗教の押し売りのような若い男から、「神様について話しましょう」と声をかけられる。それを体良く追い払ってしばらくすると、いきなり爆音が響き渡る。何かが爆発した。 昼下がりののどかな公園は、悲鳴の嵐となって辺りは騒然となる。周囲には死者と、その破片が無造作に散らばっている。血の臭いをかぎながら、菊池はつい今しがた会話を交わした女の子の安否を確かめに行く。徐々にパトカーのサイレンがうるさくなるにしたがい、菊池はそこから逃れるように立ち去る。この爆発騒ぎには何も関与していないのだが、20年前の東大全共闘運動の際、菊池は武闘派として名を連ねており、公安からマークされていたのだ。菊池は、あちこち寄り道しながら時間を潰し、結局、夕方には自分の店に行き、営業を始めた。いつの世でも無頼というのはカッコイイ。無頼の周囲にいる者たちにとって、それははた迷惑な存在に映るかもしれない。だが東大を中退し、ボクシングに汗を流し、職を転々とした後、飲み屋のバーテンでホットドックだけをメニューに、店を営んでいるというこの風変わりな経歴は、それだけでドラマになる。さらに、もう一人の人物、元警官のヤクザというのも味がある。根っからのワルになりきれない、奇妙なヤクザだ。ストーリーを引っ張って行くキャラクターが、どれもしっかりと味付けされていて、ぼんやりしていない。豊かな想像力と、絶妙なセリフ回しは実にお見事。最後は少しだけ切なく、胸にぽっかりと穴の開いたような空虚感に襲われる。きっとこういう作品こそが正統派のハードボイルドと呼ばれるべきものなのだろう。著者の藤原伊織にはもっとこの手の無頼を描いて欲しかったが、惜しい哉、すでに亡くなられている。だが作家には代表作が一つでもあれば、その名は永遠のものだ。たとえば、『風と共に去りぬ』を一作だけ世に残して亡くなったマーガレット・ミッチェルのように。藤原伊織にとっては、この『テロリストのパラソル』がそれに当たるだろう。『テロリストのパラソル』藤原伊織・著☆次回(読書案内No.74)は志賀直哉の渾身の逸作『和解』を予定しています。コチラ
2013.06.01
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【阿刀田高/楽しい古事記】◆堅苦しい古典を現代的にわかりやすくした入門書友人から聞いたところによると、最近、『古事記』が静かなブームを呼んでいるらしい。 私は小・中学校時代、岩波少年文庫を愛読していたので、それなら『古事記物語』が読み易いだろうと思いついた。なにしろ古典文学は、現代人が楽しむには労力が必要で、だが原文を古語辞典を引きながらだと読む気も失せる。それにしたって若年者向けの『古事記物語』だと今一つ物足りなさもある。そんな中、阿刀田高の著書を思い出した。この作家は、有名な古典文学を分かりやすい現代的な言葉に直してくれて、古典を親しみやすいものにしてくれた人だ。『楽しい古事記』の他にも、『新約聖書を知っていますか』や『やさしいダンテ』『新トロイア物語』などがあり、どれも入門には最適の著書である。『古事記』というのは簡単に言ってしまえば、日本の神話であり、古い伝説と捉えてしまって問題ないと思う。その国造りのプロセスが、舌を噛みそうな長々しい神さまの名前とともに語られている。阿刀田高の著書が有難いのは、『古事記』の中でも読んでいて退屈な箇所は端折っていて、有名な場面をわかりやすく解説してくれることだ。これは入門者にとっては本当に助かる。作中、興味深いところは様々あるが、物語として面白いのは、“悲劇の人・・・ヤマトタケル伝説”の章だろう。話はこうだ。ヤマトタケルはとにかく荒っぽい。若いころ、父である景行天皇から、「お前の兄さんはなんで食事時にいっしょに食べないのか? お前が行って説教して来い」と言われたので、すぐに実行した。だがそのやり方が乱暴だ。ヤマトタケルは、兄がトイレに入っている時、捕まえて手足を折り、こもに包んで投げ捨ててしまったのだ。それを聞いた天皇は驚愕を隠せない。「危険人物」と見なしてしまう。その後、天皇はことあるごとにヤマトタケルを西へ東へと征伐に行かせる。それもそのはず、とにかく戦には強く、片っ端から征服してしまったのだ。だがそんなヤマトタケルも薄々気がつき始める。「父上は私に死ねと言うのだな」と。 つまり、戦に行って戦死してしまえば、危険人物を難なく抹殺できるという天皇の魂胆に気づいてしまったわけだ。とまぁ原文で読んだらさぞかし時間もかかるであろう古典文学を、阿刀田高のくだけた現代語訳で、おもしろおかしく読むことができる。文庫本の巻末の解説にもあるように、『古事記』は殺して、歌って、まぐわる、人間臭さにまみれた神さまのお話である。時の権力者によって、かなり都合の良いお話に変えられてしまってもいるだろうが、古代日本に武士道的倫理などなく、だまし討ちや裏切り行為は日常茶飯事だったのだ。そしてそれがれっきとした我々の先祖の辿った道でもある。それを踏まえた上で『楽しい古事記』を読むことは、ある意味、大和民族としてのルーツを知るのにとても重要なことなのではと思った。『楽しい古事記』阿刀田高・著☆次回(読書案内No.73)は藤原伊織の『テロリストのパラソル』を予定しています。コチラ
2013.05.29
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【Ali/十五】◆十五歳の思春期を思い出し、ケータイ小説に綴った作品本屋で買うつもりもなくぶらぶらしていると、今どきらしくヨコガキの本を見つけた。帯のコピーには“もしも今、あなたに逢えたら「ありがとう」と言いたい”とある。これは絶対、誰かが病気で死んじゃう話だなと見当をつけながらも、私は手に取ってみた。ケータイ小説で話題を呼び、講談社から出版にまでこぎつけた作品というものが、どの程度のレベルなのか知りたかったこともあった。いや驚いた。最初の数ページを読んだら止まらなくなってしまい、結局、購入してしまったのだから。これは実話系ストーリーだ。名前はさすがに変えられているが、読んでいくうちに、あの俳優がモデルになっているなぁと見当がつく。そう、これは松田優作との馴れ初めを包み隠さず描写した私小説である。著者はAliというペンネームを使用しているが、本当は元女優で作家の前川麻子だ。代表作に『鞄屋の娘』などがあり、小説新潮(長編部門)新人賞を受賞し、作家としてデビューを果たしている。しかし、それより前に『センチメンタル・アマレット・ポジティブ』という戯曲も手掛けているので、女優業のかたわら、書くことを続けていたのかもしれない。破天荒な思春期の体験がある人物と言えば、柳美里あたりを思い浮かべるところだが、この前川麻子もなかなかどうして負けてはいない。「おそるべし十五歳」と言った衝撃の体験談である。話はこうだ。私立中学3年になる中川有(アリ)は、広告代理店に勤務する業界人の父と、専業主婦である母との間に生まれた一人娘。マンションは2つ分を改装工事でくっつけた広さで、玄関も2つあり、両親とアリがそれぞれに使用している。なのでアリの部屋に年頃の男子が遊びに来ていても、親は気づかない。なるべくしてアリは自分の部屋で、ゲーセンで知り合った少年に、処女を奪われた。学校の宿題で、親の職場見学をするというものが出された。アリは、父親のスケジュールに合わせ、スタジオRにつれて行ってもらうことにする。そこで偶然にも出逢ったのが有名俳優の岸田多喜雄(タキオ)だった。タキオは、アリの父親がプロデュースした広告のナレーションを担当していたのだ。タキオはアリに、「電話番号、教えろよ」と言い、そこから二人の関係が始まるのだった。タキオはすでに妻帯者だったが、時折、アリの部屋に来ては、たっぷり時間をかけてアリを愛撫した。一方、アリはバーでアルバイトを始める。そこで知り合った大学生の信ちゃんと仲良くなる。ある日、信ちゃんが風邪をひき、下宿先に見舞いに出向くのだが、その夜、二人は関係を持つ。信ちゃんの方は静岡出身の田舎者で童貞だったため、初めての男女の営みに感激をする。その後、何度か関係を持つのだが、アリは避妊していなかったため妊娠。信ちゃんは「結婚しよう」というが、アリは拒否。そして中絶。それは十五歳の出来事だった。作中、登場する岸田多喜雄という俳優が松田優作である。ここに出て来る松田優作は格好良いが、その分、好色でもある。十五歳の少女と交わりながら男の欲望を満たしていたのかと思うと、複雑な気持ちにもなる。だが著者は、十五歳でありながらも女としての悦びを得ていたようだ。それは、ギブ&テイクでこそあれ、一方的なものではなかったと。飲み会の席で、松田優作が「おしっこ、出ないんだよ・・・」と言って何度か中座する場面が出て来るのだが、このくだりを読むと切なくなる。すでにこの頃から体調に変化があったのかと思うと、やはり俳優業という過密で多忙なスケジュールを恨まずにはいられない。この小説はいろんな意味で衝撃的だ。発信したのは昭和世代なのに、読者はケータイ世代(平成の若者)で、ヨコガキ小説として出版もされた。十五歳の少女の体験を赤裸々に綴ることで、平成のティーンから多くの共感を得たのだ。さすがは天下の松田優作が目をかけた少女ではある。早熟の少女も、今や四十代。これから益々執筆に余念がないことだろう。ケータイ小説を侮る、頭のカタイ大人に、一石を投じる作品だ。『十五』Ali・著☆次回(読書案内No.72)は阿刀田高の『楽しい古事記』を予定しています。コチラ
2013.05.25
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【大岡昇平/花影】◆三十代独身、子なし、囲われ者として生きる女の生涯今までいろんな純文学に触れて来たが、『花影』はまた独特なオーラを放つ作品である。 現代では、三十代後半の女性と言ったらまだまだ瑞々しく、年齢のことを気にするような世代とは言えないが、戦後のまだ貧しかった社会を生きる女の三十代後半というのは、何となく心寂しいものがあった。とくに、家庭を持たない独身女性の境遇は、現代とは比べものにならないほどの暗いイメージがつきまとった。(無論、明るくたくましく暮らしている方々もいたと思うが)この小説は、そんな三十代後半の女性が、愛人であることを解消した後から自殺するまでのプロセスを追うものだ。とはいえ、そんな俗っぽいことが話の中心になっているにもかかわらず、色恋にまつわるエロスからは程遠く、主人公の女の、月日とともに衰えゆく容姿や、酒で孤独を紛らす心寂しさに作品全体が覆われている。おそらく、著者である大岡昇平のカラーがこの作風に大きく影響しているのであろう。代表作である『レイテ戦記』に見られるような歴史小説としての筆致が見られ、しがない女の歴史の点みたいな晩年を淡々と綴っている。しかもこの主人公の女は実在しており、著者・大岡昇平の愛人がモデルとなっている。(文庫本巻末の解説に記述あり)あらすじを紹介しておこう。葉子は、大学の教師・松崎に囲われの身となり3年が経つ。ところが最近、松崎がどうやら自分とは別れたがっているような素振りに勘付く。小児麻痺かもしれない娘のことをつらつらと話したりして、同情を引こうとする様子が見受けられるからだ。結局、別れ話をはっきりと言い出せないでいる松崎に代わり、自分の方から別れを告げ、生活費が入らなくなることから古巣の銀座のバーに再び戻ることにした。だが、もともと松崎とは嫌いで別れたわけではないので、いつも葉子の胸にしこりのようにわだかまっていた。とはいえ、ホステスとしての宿命なのか、酒と色と金に彩られた夜の世界を渡っていくには、自分に寄せられる男の欲望を利用せずにはいられなかった。次から次へと男に抱かれ、虚しい色恋を繰り返す他なかったのだ。今でこそシングル・ライフを楽しむアラフォー世代がもてはやされるところだが、『花影』を読むと、何やら複雑な心境でいっぱいになる。40歳を目前にした女性が結婚もしておらず、もちろん子どももいない。手に職がなく、頼るものは男の懐のみ、という境遇に陥った時、一体どんな心境なのだろう? 想像を絶する。人生の目的が結婚ではないと頭では理解できても、それに代わるやりがいのある仕事とか、研究とか、何か生きがいが見つからないと、空恐ろしい末路が脳裏を過ぎるのも致し方ない。独身女性の方も、既婚女性の方も、『花影』を読んで、己の女性としての生き様に今一度目を向けてみてはいかがであろうか?私自身、主人公・葉子の孤独に、涙せずにはいられなかった。『花影』大岡昇平・著☆次回(読書案内No.71)はAliの『十五』を予定しています。コチラ
2013.05.22
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【宮部みゆき/理由】◆分相応な生活の奨励と物質至上主義への警鐘本格ルポルタージュ、ノンフィクション小説と言えば、佐野眞一の『東電OL殺人事件』であり、沢木耕太郎の『テロルの決算』である。宮部みゆきの『理由』という作品があくまでフィクションにもかかわらず、作品のそこかしこから重厚なリアリズムを感じるのはなぜか?あれこれ考えたのだが、この、ルポ形式を取っている作風が成功したのではなかろうか? 著者がその事件を追うルポライターとしての役目を担い、事件の一部始終を語り尽くすのだ。『理由』はあくまでもフィクションであり、宮部みゆきの創作ミステリーであるはずなのに、これほどまでに読者を惹きつけて止まない魅力に溢れているとは、やっぱりスゴイ。著者のプロフィールなどを読むと、法律事務所に勤務していた経験もあるとのこと。特殊な事情を抱えたクライアントの悩みを小耳に挟むうちに、めくるめく創作意欲が湧いたのかもしれない。作中の事件が決してウソっぽくなく、リアリティーに溢れていることから言っても、宮部みゆきの作家としての技巧的な能力以上に、事実から着想を得た(かもしれない)ことは有利に働いていると思われる。『理由』は、ルポライターが「荒川の一家四人殺し」の真相に迫るために、当事者やそれにまつわる親族らに取材し、事件の一部始終を記事にした、という形式を取っている。事件は雨の晩に起きる。荒川区にある高層マンションのヴァンダール千住北ニューシティ・二〇二五号室で、3人の惨殺死体とベランダから転落した1人を合わせ4人の遺体が発見された。二〇二五号室の入居者は、小糸信治とその妻、それに小学生の息子であるはずなのだが、捜査の結果、殺された4人は小糸一家ではないことが判明。小糸一家はマンションのローンが支払えず、部屋は競売にかけられており、すでに夜逃げ同然に他へ引っ越していた。では、殺された4人は一体どこの誰なのか?事件の真相を追っていくうちに、意外なことが次々と明らかになっていくのだった。私はこれまで、都会の高層マンション(億ション)と言えば、富裕層に与えられた特権的な象徴のように捉えていた。だが、世の中には身の丈以上の物へのあこがれからか、低所得者でも何十年ものローンを組んで購入しようとする人がいることを知った。さらに、その行為によって自らの首を絞めることとなり、ローン返済も頓挫し、いかがわしい不動産屋との共謀で犯罪にまで手を染めてしまう例もあるようだ。そこからは、物質至上主義がいかに虚しいものであるかが窺える。著者はこの作品を通して、大切なのは「分相応」であることなのだと言おうとしているに違いない。その一方で、低所得者に対する同情的な眼差しを向けているのも否めない。お金がないということは、ここまで人間を荒んだ生きものにしてしまうのだという警鐘にも思えるし、そんな低所得者を生み出したのは、この歪んだ社会なのだと痛罵しているようにも捉えられる。ところで、この小説のタイトルにもなっている「理由」だが、殺人を犯したその理由は一体何だったのだろう?とはいえ、読後はいかなる理由があろうとも、殺人など犯してはならないのだと痛感する。ベストセラー小説の名に相応しい一冊である。『理由』宮部みゆき・著 〔直木賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.70)は大岡昇平の『花影』を予定しています。コチラ
2013.05.18
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【西村京太郎/天使の傷痕】◆初期の作品にして本格推理小説の形式を取る十津川警部シリーズでおなじみの西村京太郎だが、この作家の息の長いことと言ったらどうだ。私が幼いころから土曜ワイド劇場やら火曜サスペンスなどで、必ずやエンディングタイトルにその名を見つけた記憶がある。西村京太郎と言えば、鉄道ミステリーに定評のある作家のせいか、鉄道ファンがこぞって入会したのではと思える(?)西村京太郎ファンクラブというのがあるらしい。また、西村京太郎記念館というものが湯河原にあるので、時間とお金に余裕ができたら、ぜひとも行ってみたいものだ。とにかく安定した人気を誇る作家の書く小説にまずハズレはなく、安心して楽しめること請け合いだ。特に私が高評価するのは初期の作品なのだが、『天使の傷痕』である。これは鉄道モノではないが、本格推理小説の形式を取っている。読者は、読んでいるうちにおおよその犯人に目星をつけるのだが、この作品に限っては、良い意味で裏切られるのだ。さらに、思いもつかないトリックに新鮮味とか意外性を味わうことができる。だが何と言ってもこの作品が社会派の域にまで達するほどの仕上がりを見せたのは、日本の根強い家制度、つまり封建主義的な村社会にメスを入れたことかもしれない。もちろん、この小説の舞台となっているのは1970年代なので、2013年現在読むには時代性を感じてしまうのも否めない。それでも尚、本格推理小説として充分に読み応えのある作品となっている。あらすじはあえて言うまい。物語のきっかけとなる出来事だけ紹介しよう。日東新聞社会部の記者である田島は、休日を取って山崎昌子と三角山にハイキングに出かけた。ところが途中、男の悲鳴が聞こえ、その後、田島と昌子の行く手を塞ぐように男が飛び出して来た。男の顔は苦痛に歪み、胸には短剣のようなものが突き刺さっている。そして、力尽きたように、山道の崖を転がり落ちてしまった。田島にしがみつく昌子をかばいながら、まずは警察に届けることを思案し、二人は登って来た道を引き返し、駐在所へ急ぐことにした。こうして、田島はデートの最中ではあったが、新聞記者としてのプロ根性が猛然と漲るのだった。この小説のキーワードとなるのは、殺された男が虫の息で発した「テン・・・」という最後の言葉にある。それを聞き届けた田島が、あれこれ推理するところから、やがてこれが天使の「テン」であることに気づく。一体天使とは何を示すものなのか?こういう謎解きがミステリー小説の醍醐味でもあるから、あれこれ想像を膨らませながら読み進めていくのが楽しい。ラストでは、アルドリン睡眠薬を服用した妊婦から生まれた奇形児についての記述がある。これは当時、社会問題ともなったサリドマイド事件から着想を得たのかもしれない。次から次へと消耗品のように出版されては消えていく業界の現状で、この『天使の傷痕』はどれだけ版を重ねたことだろう?西村京太郎というネーミングにだまされたと思って(?)読んでいただきたい。時の経つのも忘れて読了してしまうに違いない。『天使の傷痕』西村京太郎・著 〔江戸川乱歩賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.69)は宮部みゆきの『理由』を予定しています。コチラ
2013.05.15
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【藤原てい/旅路】◆敗戦下、飢えと寒さの極限を生き抜く母子の旅路この小説を手に取って一読し、胸を熱くさせたPさんが、私の友人であるSさんに勧めた。「この本を読んでとても感動したので、ぜひどうぞ」と。Sさんは多忙だったこともあるのだろう、最後までは通読できずじまいだったようだ。その後、Sさんが「良かったら読んでみて」と、私に貸してくれたという経緯。これが私にとってはとても不思議な因縁に思えて仕方がない。私は、少なくとも同じ感性を持つPさんと、ある意味においてつながっていると思ったのだ。過酷な試練の連続なんて、それほどあるものではないが、藤原ていの敗戦下の辛い体験は、辛酸を嘗め尽くしたものだ。その記録を目の当たりにした時、常人なら涙なしには読めない半生記なのだから。私はPさんとは面識がなく、直接には知らない方だが、Sさんを通じて聞いた話によると、Pさんは読書の習慣がなく、活字には疎いとのこと。また、学歴にコンプレックスを抱えているようで、大卒のSさんを羨んだこともあったそうだ。そんなPさんが、仕事の合間を縫ってページをめくり、たどたどしく活字を追い、やがて読了し、思わず誰かに勧めたくなってしまうほどの名著が、つまらないわけがない。前置きが長くなってしまい恐縮だが、そういう経緯でこの著書に出合えた喜びは、私にとってこの上もない。この小説には、敗戦下の苦難に耐える人々の血と汗と涙が凝縮されており、今を生きる人々への熱いメッセージにも感じられる。話はこうだ。県立諏訪高女に通う“てい”は、家が貧しく、いじめられっ子だった。封建主義的な父親から、女子には教育など必要がないと、卒業間近となりながらも授業料を納めてもらえなくなるという不幸に見舞われる。その後、気の弱い母親の勧めで、28歳の気象庁に勤める役人とお見合い結婚をする。(この人物が後の新田次郎である)二人の間に子どもも恵まれ、万事、順風満帆かと思いきや、日本はアメリカと戦争を始めることとなった。昭和16年12月8日の朝、ラジオから、開戦を伝える勇ましいアナウンスが流れた。それからしばらくして、夫に満州の観象台へ長期出張の辞令が降りた。満州に渡ってから、二人目、三人目と子どもにも恵まれたが、少しずつ食糧事情が悪くなりつつあった。そして、来るべき時が来てしまった。日本の敗戦宣告。それまで日本人街で働く中国人労働者たちは、誰もが親切で、日本語を流暢に話したものだが、日本の敗戦が知れ渡るやいなや日本人に石を投げつけ、軽蔑とからかいの意味を込めて罵倒した。夫婦と子どもたちは日本に帰国しようと必死で南下する汽車に乗ろうとするが、結局、朝鮮の収容所に押し込められ、夫はソ連兵に連れ去られてしまうのだった。ていは、心細さから何度もくじけそうになるが、まだ乳飲み子を含めた三人の我が子を、女手一つで守り抜くことを決意する。藤原ていという一人の女性の旅路は、とても長い道のりだ。飢えと寒さの極限の最中を、物乞いまでして何とか命をつないで来た。奇跡的に朝鮮から脱出したものの、その体は心身ともにボロボロで、日本に帰国してからも後遺症に悩まされた。(今でいうPTSDであろう)軍国主義を貫いた一部の軍人たちの先導によって、第二次世界大戦は始まった。それは日本にとって、世界に類を見ないほどの大きな痛手となり、手足を?がれ、徹底的な挫折を味わうものとなった。しかし、それで目が覚めた。戦争を放棄した日本は、全精力を経済の立て直しに向けることでこれほどの経済大国となったのだ。平成を生きる我々は、もはや“戦後の生まれ”とは言わない。だが先人たちの苦痛と苦闘から得たこの平和を、必ず死守しなければならない。この著書は、暗黒の戦時下を決して美化することのないよう、全ての国民の皆様に一読をおすすめしたい、名著なのです。『旅路』藤原てい・著☆次回(読書案内No.68)は西村京太郎の『天使の傷痕』を予定しています。コチラ
2013.05.11
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【夏目漱石/坊っちゃん】◆今や絶滅危惧種の坊ちゃん気質日本人なら誰もが知っている定番中の定番の読み物と言ったらこれ、『坊っちゃん』だ。 発表されたのが明治なので、すでに古典の域にある近代小説だが、平成の世にあってもいまだ愛され続けるのには訳がある。それは、やんちゃで真直ぐの江戸っ子気質を持つ主人公“坊っちゃん”が、四国の中学校教師に赴任してわずかな期間に様々な体験をするお話だ。しかも、坊っちゃんに対して嫌がらせをした赤シャツや野だに仕返しをしてやるのだから痛快と言ったらない。また、幼い頃より坊っちゃんを溺愛する女中の清の存在も忘れてはならない。両親から厄介者扱いされていた坊っちゃんに、こっそり小遣いを与えたり菓子を与えたりして、まるで我が子のように可愛がる様子が微笑ましい。この二人の関係は、まるで『しろばんば』の主人公・洪作と、その洪作を溺愛してやまないおぬい婆さんにも似ている。誰よりも洪作を愛し、洪作を守り抜くおぬい婆さんの姿が、坊っちゃんにピタリと寄り添う清にも重なって、何とも言えない郷愁すら覚える。さて、『坊っちゃん』の話はこうだ。幼い頃からやんちゃで利かん気の強い坊っちゃんは、両親から厄介者扱いされ、坊っちゃんの兄ばかりが贔屓された。家族には爪弾きにされていた坊っちゃんだが、女中の清だけはいつも味方になってくれた。しかも「あなたは真っ直ぐでよい御気性だ」と褒めてさえくれる。病気で母親が亡くなってからは、ますます坊っちゃんを可愛がり、菓子や小遣いまで与えた。その後、父親も亡くなり、屋敷を売り払った金を兄と折半すると、兄は商業学校を卒業後、九州の会社へ、坊っちゃんは東京の物理学校で学問をすることにした。女中の清はどこまでも坊っちゃんについて行く気でいたが、坊っちゃんが一人前になって屋敷を持つまでは、甥の厄介になることに決めた。こうして坊っちゃんは物理学校に行き、卒業後は数学の教師として四国へ赴任することになった。私は考えたのだが、もしもこの平成の世に坊っちゃんが存在したら、単なる融通の利かない強情張りではなかったかと。今は、その場の空気を読めなかったりすると“KY”だと悪口を言われ、臨機応変に適応できなければ“使えない奴”だと見下されてしまう。現代人もそんな世知辛い時世を知っているから、尚更坊っちゃんのような真っ直ぐな気性を愛おしく思う。すでに絶滅危惧種のような坊っちゃんタイプは、小説の中でこそ生き生きと存在感を示し、読者を楽しませる。不正に対し、猛然と立ち向かう姿はいまや見られなくなってしまった。無気力、無関心がまかり通る現代こそ、『坊っちゃん』を愛読する方が一人でも増えてくれたら嬉しい。まだまだ世の中捨てた物ではないと思えるように、『坊っちゃん』が永遠のベストセラーであり続けることを願ってやまない。『坊っちゃん』夏目漱石・著☆次回(読書案内No.67)は藤原ていの『旅路』を予定しています。コチラ
2013.05.08
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【山崎豊子/花のれん】◆成功の秘訣はたゆまぬ努力となりふり構わぬ商売根性この小説を読むきっかけとなったのは、私がもともと大阪のお笑いが好きで、吉本興業の創業者である吉本せいがモデルとなっているのを知り、興味を持ったわけだ。モデル小説なので完全なフィクションとは違い、ところどころ実在の人物や本当にあったエピソードなどに驚かされる。それにしても大阪の女性はスゴイ。転んでもタダでは起きないというのは、大阪で生まれた言葉なのではとさえ思った。たくましい女の生涯を小説にすると、下手をしたら男性社会への批判とか、弱者擁護の主義主張の強い作風になってしまう。ところが『花のれん』にはそういう社会風刺的な要素はなく、純粋に一人の女性が女手一つで商売を成功させるまでの紆余曲折を描いている。それを、なりふり構わぬ金儲けと捉えるか、大阪商人のど根性と捉えるかは読者の自由だが、少なくともその生き様には脱帽だ。私も様々な伝記やエッセイなど目にして来たが、どれも共通して言えるのは、成功者のたゆまぬ努力と、やはり目標を一つにしぼることがポイントとなっているようだ。「二兎追う者は一兎も得ず」とは言ったもので、『花のれん』における主人公・河島多加は、夫を早くに亡くしてからというもの商売一筋に生きた人である。だから、可愛いはずの長男の育児も、女としての恋愛も、潔くあきらめた。とにかく、片時も商売のことを忘れないのだ。逆を言えば、そのぐらいでなければビジネスで成功などできるものではないというお手本でもある。話はこうだ。大阪の船場の商家町に嫁いだ多加は、師走の支払いの時期だというのに、金庫には金がなかった。夫の吉三郎はどこかへ雲隠れしてしまい、取引先には夫に代わって多加がひたすら謝るしかない。吉三郎の父・吉太が始めた河島屋呉服店は、父の代では繁盛したが、吉三郎の代となってすっかり落ちぶれてしまい、今は借金ばかりが重なった。そんな状況にもかかわらず、吉三郎は花街に入り浸り、商売を省みなかった。吉三郎の体たらくを見かねた多加が提案したのは、吉三郎が三度の飯より好きな落語や芸事を、飽きるほど見ることのできる寄席を開くことであった。そうと決まると話は早く、それまでの呉服屋を引き払い、その資金を元手に小さな寄席を買い取った。最初こそ客入りは悪かったが、なりふり構わぬ多加の采配により寄席は段々と軌道に乗っていく。一方、吉三郎に商売の才はなく、寄席は多加に全て任せきりにして、自分は妾を囲って小料理屋を持たせていた。そのことが多加にバレてからは、反って居直るようになり、度々家を空けることが多くなるのだった。多加の生涯はそれこそ苦労の連続で、女としての幸せは放棄し、ひたすら商売に没頭した印象さえ残る。一人息子の面倒も女中に任せ、夫の女遊びにも片目をつむり、来る日も来る日も銭勘定に明け暮れる。それはきっと、二度とどん底生活を味わいたくないという切なる思いと、自分には商売しかないという自己実現への限りない欲求と願望に違いない。ラストは、激動の生涯を送った女に相応しい、宿命的な孤独を感じさせるものだ。直木賞受賞作に恥じない、名著である。『花のれん』山崎豊子・著☆次回(読書案内No.66)は夏目漱石の『坊っちゃん』を予定しています。コチラ
2013.05.04
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【松浦理英子/ナチュラル・ウーマン】◆生殖行為から解放された進化形の恋愛これまでボーイズ・ラブ的な小説は何冊か読んで来た。映画(イギリス映画)においても、フォースター原作の『モーリス』など、それはもう耽美的で、うっとりしてしまったものだ。だが年齢とともに、そういう同性愛のお話には限界を感じて来た。自分なりにあれこれ考えてみたのだが、やはり友情としての域を超えてしまった時点で、それは異空間のお話になるのだ。人は、作中の登場人物に何らかのシンパシーを感じないと、なかなかその作品に入って行くことができない。つまり、私に同性愛嗜好がない限り、その小説は私にとっての恋愛小説とはなり得ず、ファンタジーかオカルト的な作品に思えてしまうわけだ。なぜそれが若いうちには受け入れられたのかは、今ならなんとなく分かる。おそらく女性としての性からの逃避ではなかっただろうか?もちろん、興味本位もあったことは確かだが。そんな中、『ナチュラル・ウーマン』を読んでみた。これはボーイズ・ラブとは対極にある、女性の同性愛を扱った小説である。いや、これには驚いた。自分がいかにその方面(?)に疎いか、思い知らされた。女性が女性のまま女性を愛するプロセスを小説にしたものだが、友情とはベクトルの向きが全く違うのだ。つまり、正真正銘の恋愛なのだ。だが私は、つまらない疑問を抱いてしまった。そもそも女性同士が愛し合う(?)ことって、あり得るのだろうかと。心配無用。その疑問は、読了後にすっかり払拭された(笑)話はこうだ。22歳の容子は、サークルで知り合った花世に夢中だ。ある時、容子は花世のアパートに一緒に帰ることになった。そしてそこで、二人は官能的な愉しみを覚えることになった。花世はクールで知的で誰にもたやすく心を明け渡すことのない、誇り高い女性だ。そんな花世を好きになる男は多く、何人か交際したが、長続きしなかった。一方、容子もそれなりに男から声をかけられ、一応付き合ってみたものの、余りの退屈さにうんざりしてしまった。友人たちの恋愛話を聞いても、羨ましさを感じることはなく、おそらく自分は一生恋愛しないに違いないと思い込んでいた。ところがサークルに入会し、花世と出逢ったことで、恋愛の対象が同性である花世であることに気付いてしまったのだ。この作品は官能小説ではなく、性愛小説だ。ものすごく実験的なものを感じるし、男女間では感じにくい、耽美的で、しかし貪欲な性の愉しみを垣間見ることができる。また作中、男性の登場人物は皆無で、ほとんどが女性だ。生殖を伴わない、生殖行為からの解放は、女性解放にもつながる。何やら私は物凄く進化形の恋愛を見たような気がするのだが、みなさんはこの異色の作品をどう捉えるでしょうか?『ナチュラル・ウーマン』・松浦理英子著☆次回(読書案内No.65)は山崎豊子の『花のれん』を予定しています。コチラ
2013.05.01
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【山田太一/異人たちとの夏】◆すでに鬼籍に入った両親が、孤独な息子を癒す物語今では付き合いの途絶えてしまったMという友人が、不思議な話をしてくれたのを思い出す。当時Mは父親を亡くして間もなかった。心筋梗塞か何かで、とにかく急死だったようだ。Mが盆休みに、日ごろの疲れが溜まっていたせいで、居間で大の字になって昼寝をしていた時のこと。エアコン嫌いなので、窓を全開にしてお腹を出してゴロンとしていたら、庭の砂利をゆっくり踏みしめる音が聞こえた。その歩き方が亡父そのもので、懐かしささえ感じた。その足音が徐々に自分の方に近付いて来て、ゆっくりと立ち止まると、「おい、風邪をひくから布団をかけて休んだらどうだ?」と言った。Mは、「はーい」と答えておいて、すぐに自分の発した声に驚いて目が覚めたと。それが夢だと分かった後も、なぜかMは涙が止まらなかったらしい。父親が死んでも尚、自分のことを心配してくれているのかと思うと、すまない気持ちで胸がいっぱいになってしまったのだろう。それはMにとって、亡父の初盆の出来事だった。私はその話を聞いた時、とても他人事とは思えず、何とも言えないしんみりとした気持ちに見舞われた。前置きが長くなって恐縮だが、『異人たちとの夏』を読んだ時、真っ先に思い浮かべたのが、このMから聞いた不思議な話のことだった。『異人たちとの夏』においても、幼いころ死別したはずの主人公の両親が、孤独な息子を案じて登場するのだが、何とも言えない熱い感情がこみ上げて来るのだ。それは決して不気味なものではなく、むしろ心安らぐ都会の一夏なのだ。あらすじを紹介しよう。47歳の原田は脚本家で、そこそこ売れているが、最近離婚して独身になった。自宅は妻子のために与えてしまったため、今は事務所として使っていたマンションの一室が居住空間となっている。ある時、信頼のできる友人であり、局のプロデューサーでもある間宮が訪ねて来たので、仕事の話かと思うとそうではなく、原田の元妻と交際したいという申し出だった。原田にとってはすでに別れた妻なので、何も言う資格などないのだが、それまで友人だと思っていた間宮に対して、一気に不信感が芽生え、寂しい気持ちになる。そんなやりきれない気持ちでいるその晩、10時過ぎにチャイムが鳴った。ドアを開けてみると、同じマンションに住む女だった。用件を聞くと、一緒に飲みたいと言う。7階建てのマンションには様々な会社のオフィスが入っているが、夜になると誰もいなくなり、寝泊りしているのは女と原田だけなのだと言う。あまりの寂しさゆえ、灯りの点いている原田を訪ねてしまったとのこと。だが、今夜の原田には寛容さなど微塵もなく、早く一人になりたかった。女を追い返してしまった後、多少の罪悪感を覚えながらも、うとうとと眠ってしまった。その数日後、原田は誕生日だった。最悪の精神状態の中、浅草にやって来た。浅草は原田にとっての出生地だ。気がつくと浅草演芸ホールにいて、そこで亡くなった父親とそっくりの人物に出くわすのだった。この作品を読んだ後は、とにかく今までにないような茫漠とした寂寥感に襲われた。単なるホラー小説なら、これほどまではっきりとした喪失感など感じやしない。この世のものではない異人たちの愛によって、主人公が現実社会に帰って来るお話なのだが、私は泣いた。この孤独は誰もが抱えていく生涯の荷物なのだろうか?生きることに少々お疲れモードの方々におすすめしたい。名脚本家である山田太一が綴る、現代の怪談話だ。『異人たちとの夏』山田太一・著 〔山本周五郎賞受賞作品〕☆次回(読書案内No.64)は松浦理英子の『ナチュラル・ウーマン』を予定しています。コチラ
2013.04.27
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